ギリシア・ローマ時代の書籍文化 その03 書物の普及と書籍取引

Ⅰ ギリシア世界における書物の普及

<ホメロス作品の文字化>

いったい、いつどこで書物がギリシア世界に登場したのだろうか? このことを明らかにする史料は、残念ながら存在していない。しかし古代ギリシアにおける最古の大英雄叙事詩といわれるホメロスの『イリアス』及び『オデュッセイア』の中身を書き留めるために書物が生まれた、と言われているのだ。これら二つの叙事詩は、ヨーロッパ文学の源泉と仰がれている。そのため日本でも1943年以来、いくつかの翻訳がある。また岩波文庫には松平千秋の邦訳があり、私もこれを所持している。

            岩波文庫版、ホメロス『オデュッセイア』(上)松平千秋訳

さて、これらの作品の作者または編者といわれているのがホメロスという盲目の詩人なのであるが、その実在には疑問があるとされている。それはさておき、『イリアス』及び『オデュッセイア』は、もともとはホメロスと呼ばれる詩人が、人々の前で語り聞かせたものだった。彼はいわば「語り部」だったわけである。『イリアス』はトロイア戦争での英雄たちの活躍を描いた叙事詩であり、『オデュッセイア』はこのトロイア戦争の英雄オデュッセウスの、トロイア攻略から帰国までの冒険を描いた叙事詩である。トロイア戦争というのは、ギリシアの英雄たちが、今日のトルコの小アジア西北岸にあったトロイアの地を攻め、10年間の包囲ののち陥落させたという伝説上の戦争である。

とはいえ、ホメロスの叙事詩を夢中になって読んで、この戦争があったことを信じて発掘調査した19世紀のドイツ人シュリーマンが、その実在を証明したのである。彼の著作『古代への情熱』は、私も愛読したものである。現在ではその発掘現場は観光地として人々が押しかけているが、私も1984年に家族と一緒にここを訪れている。有名な「トロイ(ア)の木馬」の巨大な模型が展示されていて、私の子供たちは大喜びしていたが、親日的なトルコ人から声をかけられたりした。そこの遺跡の9層のうち第7層が、古典古代のギリシアより古いミケーネ文明と同時期のトロイア文明にあたるとされている。ミケーネ文明というのは、前1600~前1200年頃に、ギリシア人の第一波のアカイア人が、ペロポネソス半島のミケーネ地方を中心に形成した青銅器文明であった。その中心地ミケーネの遺跡もシュリーマンが発掘しており、私も1985年のギリシア旅行の際に訪れている。

ミケーネ文明のことはその後、いろいろな考古学者などによって研究が進んでいて、さまざまなことが解明されているが、トロイア文明の実態については、あまり研究が進んでいないようだ。しかしミケーネ文明が滅びた前1200年ごろに、トロイア文明も滅んだらしい。そしてトロイア戦争はその末期の時代に行われた戦争らしい。ミケーネ文明が滅んだあと、ギリシアの地については、前8世紀までの400年間史料に乏しく、ほとんど不明であることから、暗黒の時代といわれている。ただこの地では、この間に青銅器時代から鉄器時代に移行し、前8世紀ごろからポリスを中心とした新たなギリシア文明の時代に入ったのである。

謎多き盲目の天才詩人ホメロスは、この新たなギリシア文明の時代のごく初期に位置していたらしい。そして400年ほど前に起きた戦争についての言い伝えを、叙事詩にして、人々の前で朗誦していたようだ。その後ホメロスのあとも、『イリアス』と『オデュッセイア』は、吟遊詩人たちによって、語り伝えられていった。これら初期の吟遊詩人たちは、本来のテキストにあまりとらわれずに、それぞれ自由に名人芸的に歌っていたようだ。そのため語り部である詩人によって、物語の中身に大きな差異が生じていた。

しかし前6世紀に、アテナイの女神アテナを祭る大祭が開かれ、ホメロスの叙事詩の朗読が行われることになった。その時、一人の吟遊詩人が詩の一つの章(歌)を朗誦したのだが、その詩人は自分の前の詩人が歌い終えた個所から歌い始めたといわれる。このことは、すでに信頼のできる統一的なテキストが書物の形で出来上がっていた証拠である、と見ることができるのである。つまり大勢の吟遊詩人たちはホメロス作品の手書き原稿ないし書物を旅行鞄の中に入れて、持ち歩いていたようなのだ。

これを要するに、前6世紀にはホメロス作品は文字化された、と見なすことができよう。同時に前700年ごろに活躍した叙事詩人ヘシオドスの『労働と日々』(怠け者の弟に与えた教訓詩の形をとって、農民の苦しさ、勤労の尊さを説いた作品)や『神統記』(天地創生以来の神々の系譜を語った叙事詩。特にゼウスをたたえた)、さらに前7世紀の抒情詩人たちの作品も文字化されて、ギリシア各地に普及していったわけである。

<ギリシアの僭主たちの文庫>

僭主というのは、民衆の不満を利用し、その支持を得て、非合法的に政権を握った独裁者のことを言う。前7~前6世紀の貴族政治から民主政治への過渡期に、この僭主政治が出現した。なかでもアテナイの僭主ペイシストラトス(前600年ごろ~前528年)は亡命貴族の土地財産を貧民に分配して、中小農民を保護・育成し、アテナイの美化や文化事業にも力を注いだ。この人物はサモスの僭主ポリュクラテスとともに、後200年ごろに活躍した著作家アテナイオスによって、その大規模な文庫のために有名だった人物に数えられている。ただしこれらの文庫は大規模といっても、書物が生まれて間もない頃だったので、のちのヘレニズム時代(前3世紀~前1世紀)の図書館に比べれば、小規模だったといわざるを得ない。なにしろ前5世紀以降の偉大なるギリシア文学の作品の数々はまだ生まれていなかったのだから。

ついでながら僭主ポリュクラテスはエジプト王アマシスと親密な関係にあったことが知られているので、パピルス巻子本を所有していた可能性がある。他方イオニアのギリシア人は、パピルスが知られる以前の時代には、ヤギや羊の革に書いていた。そうした革の上に、ミレトスのアナクシマンドロスなどのような初期イオニアの哲学者たちが、その著作を書き記していた可能性が十分あるのだ。

いっぽう当時すでに初歩段階の書籍取引が存在していたのかどうか、史料が不足していて明らかではない。とはいえ原則的にはその可能性を排除することはできない。ただこの時代にはまだ、ある特定の作品を所有しようとするときは、それを書き写すのが普通だったようだ。

<前5世紀のアテナイ市民と書物>

ギリシアにおける書物の存在と使用を明らかにした最も初期の同時代の証拠物件は、前にも紹介したことがある前500年ごろのアッテイカの壺絵である。これは下の写真に見られるように、巻子本を手にした人間を描いたものである。

        この壺絵の上部中央に、巻子本を手にしている人物が描かれている

当時一般に読み書きの知識がどの程度あったのか、という点に関していくつかの具体例が明らかにされている。またアッティカの三大悲劇詩人や古喜劇作家の著作などを通じて、前5世紀のアテナイ市民にとって書物がごく普通のものになっていたことも、知られているのだ。さらに書籍販売人の存在についても、彼らからしばしばその証拠を提供してもらっている。例えばかのソクラテス(前469頃~前399)の発言(プラトン『ソクラテスの弁明』26D)に注目することにしよう。「私は哲学者アナクサゴラスの本を、アテナイのアゴラ(広場)にあるオルケストラ(劇場の平土間のことで、その一角に書籍販売所があったのかもしれない)において、1ドラクマで買うことができた」 この値段をほかのものと比べてみると、例えば当時羊一頭の値段は12-17ドラクマであった。

<前5世紀末、書物はギリシア世界の辺境まで到達>

当時、前5世紀末ごろには、書籍取引はすでにアテナイを超えて行われていて、書物はギリシア世界の境界線地域にまで到達していた。このことは古代ギリシアの軍人で歴史家のクセノポン(前426頃ー前355頃)の著作『アナバシス』から明らかである。将軍クセノポンは1万人のギリシア人傭兵を率いての行軍の際に、小アジアを通ってトラキア(現在のブルガリア)の黒海沿岸にやってきた。その時彼は、そこに数隻の船が座礁していて、船から流れ出た家具や箱やその他のものと一緒にたくさんの書物を見たのであった。

また哲学者プラトン(前427-前347)の弟子ヘルモドロスは、師匠の著作を許可なしにシチリア在住のギリシア人に、大々的に売りさばいたという。前4世紀以降になると、書籍取引や書物の普及についての言及はもっと豊富になる。例えばハリカルナッソスのディオニュシオスは、次のように述べている。「当時書籍商は修辞家イソクラテス(前436-前338)の法廷弁論書をすべて携えて、各地を回っていた。このアッティカの修辞家にとっては、自分の弁論書がスパルタでも読めることは至極当然のことであった。

<前4世紀後半以降については、書物自体が発掘>

前4世紀の最後の数十年間は、古代の書物に関する我々の知識にとって、根本的な転換の時期を意味していた。これに関連した言及や証拠などは、これまでも極めて有益なものであったが、それらはいずれも二次史料であった。つまり我々の関心の元来の対象物である古代の書物自体を、我々は直接的には把握していなかったのである。

しかしそれ以降の時代になると我々はギリシア文学のテキストを、発掘物の形で手中にしているのだ。我々の持つギリシアの書物のもっとも古い断片は、マケドニア(ギリシアの北部に位置する)のデルヴェニ近くの墓の中から発見された、ある宇宙論作品への論評を記載したパピルス巻子本の切れ端である。この地域の湿度の高さにもかかわらずこれが残存できたのは、このパピルスが死者の副葬品の一部として、薪の山の中で燃やされ、炭化したおかげであった。

また1902年にドイツ人のエジプト学者ボルヒャルトはエジプトのアブシーアにおいて、木製の棺桶の中にミイラと並んで置いてあったティモテオス・パピルスを発見した。それは初めと終わりの部分が欠けたままの状態で、死者の副葬品として入れられていた巻子本で、デルヴェニのパピルス断片とほぼ同じころのものである。このパピルスの現存している部分(長さ1.11メートル)は、前5世紀の詩人ティモテオス作の詩『ペルシア人』の中の、音楽的朗誦の最後の三分の一の個所である。

このティモテオス・パピルス以降古代末期に至るまで、エジプトの乾いた気候のおかげで、つぎつぎと書物が、もちろん多かれ少なかれ断片の形で、発見されていくことになった。そしてこれらの発掘物のおかげで、研究者たちは、アレクサンドロス大王の遠征(前4世紀末)によってギリシア世界の辺境に組み込まれた、この地域において、当時の書物についての図像による表現や古代の作家たちの特別の言及を、一次史料によって立証することができるようになったという。

<書籍取引の枠外での書物の普及>

古代の全時期を通じて、書籍取引が書物を手に入れるための唯一の手段というわけではなかった。書籍取引が広く普及した後でも、書籍商のもとで買うやり方と並んで、自ら書物を作ることがしばしば見られたのである。当時の書物製作は、冊子本の登場以前には、パピルスの巻物の上にテキストを書いていく事によって成り立っていた。つまりオリジナルの書物を筆写することで、新しい書籍を作ることができたのである。

それにはいくつかのケースがあった。まず第一に、ある作品が書籍商のもとで見つからなかった場合。第二に、ごく限られた読者層のために書かれた専門科学や哲学分野の作品の場合。第三に、ほしいと思った書物の価格が高くて買えない場合などである。当時はまだ著作権や版権などというものは存在していなかったので、ほしいと思った書物をどこかで借りて、書き写したわけである。その際テキストを自ら筆写したか、あるいは筆写の仕事に経験がある奴隷に依頼したか、それとも謝礼を払って「書写工房」に任せたか、そのやり方はいろいろあった。

そうした筆写の実例としては歴史に名をのこした人物の名前があげられる。前4世紀の政治家で雄弁家のデモステネスは、歴史家のトゥキュディデスの全作品を自らの手で8回も書き写したといわれる。その作業は、まだ無名の貧しかった時代に行われたものとみられるが、金銭上の理由以外にもあったようだ。次いでマケドニア国王カッサンドラは厚顔無恥の乱暴者であった反面、高度な教養を身に着けた人物でもあった。この人物はイリアスとオデュッセイアの大部分を暗誦することができたばかりでなく、この二つの叙事詩をすべて自ら筆写したといわれる。またマケドニア王朝の彼の後継者は、哲学者のゼノンに対して、書籍を筆写するための奴隷を、贈り物として与えたといわれているのだ。

ll ローマ時代における書籍取引

<作品の文字化~口述筆記~>

古代ローマの著作家は、自分の考えを文字化する場合、口述筆記のやり方をとる場合もあったようだ。これに関連して、優れた抒情詩人のホラティウス(前65-前8)は、詩人ルキリウスは1時間に200詩句も「乱造」していて、それらを口述筆記させていると嘲笑している。詩的作品とりわけ抒情詩の場合は、普通、詩人が自らの手で書いていたからであろう。
これに対して、分量の多い記録的な作品を書き残そうとする人は、自分の手で書いていくのは労力を要するので、口述筆記に頼っていたわけである。全37巻、項目数2万にのぼる膨大な百科全書『博物誌』を著した大プリニウス(後23-79)は、速記者に自分の考えを口述筆記させていた。この速記者は、寒い冬でもいつでも仕事ができるようにと、常に手袋を携行していたという。その叔父の仕事ぶりについて我々に伝えている小プリニウスも同様に、速記者に口述筆記させるのを、常としていた。彼の場合はとりわけ弁護士としての弁論を筆記させ、それを書物の形(巻子本)で刊行していたようだ。

ところがこの小プリニウスの師匠であったクインティリアヌスは、口述筆記よりも自分の手で書いてゆくほうを好んでいた。その理由として彼は、もし速記者の仕事がゆっくり過ぎるときには、自らの考えが滞ってしまうし、早すぎる速記者の場合には口述する自分が駆り立てられて好ましくない、と書いている。
その反対に「信じられないほどの生産性」を誇っていた神学者オリゲネス(後185-後253)は、男女からなる速記者・清書人工房を営んでいたために、その膨大な文筆上の生産実績を積むことができたといわれている。

<講演筆記>

口述者がそのテキストの文字化に責任を有する口述筆記とは違って、講演や演説の筆記の場合は、記述という仕事に興味をもった聴衆が、いわば速記者の代わりに書き写すことが行われた。講演者や演説者がきっちりとした原稿を用意していない時あるいは話が興に乗って脱線する回数が多かった時には、この聴衆の筆記したものが、書籍販売人によって刊行されるときに役に立ったという。

それに対する具体例として、哲学者エピクテトス(後50-後138)の講演を挙げることができる。ローマの政治家でギリシア語で書く作家でもあったアリアヌスが若いころ(後117-後120)ニコポリスで、このストア派の哲学者の学校をたびたび訪れて、その講義をすべて筆記した。そしてエピクテトスの死後、その講義ノートを編集し、刊行したが、そうすることによってはじめて、この哲学者の教えが文字化されて、後世に残ったのである。

<朗読会>

古代ローマにあっては、詩人ないし作家が自分の書いたものを刊行して、広めたいと思った時、発行人の関心を引き付けるために、一般公衆の前で朗読したりした。例えばローマで最初の公共図書館を創立した(たぶん前39年に)アシニウス・ポッリオは、自分の文学上の新作を、招待した公衆の前で朗読したといわれる。そして帝政時代に入ると、この朗読会は流行するようになった。それは多かれ少なかれ自分のことを多くの人々に知ってもらいたと思っている人の虚栄心を満足させるものでもあったのだ。
その反面、朗読を聞かされる聴衆たちは少なからず退屈し、ただ耳に届く響きの良さのために、その場に居合わせるという事もあったようだ。そうした朗読会の様子をまざまざと描いているのが、先に紹介した小プリニウス(後61-後113)であった。「今年は詩作の豊かな実りがもたらされた。四月いっぱい、誰も朗読しない日はほとんどなかった。詩作がそのように花開き、才能が示された。とは言え人々は不機嫌な顔をしてやってくるのだ。たいていの人は朗読する場所の隣の集会所にいて、おしゃべりをしてから、会場に入っていった。そして最後まで会場にいることができず、途中で退席してしまうのであった」

<巻子本の製作~著者原稿からの筆写~>

さて、いよいよプロの発行人が巻子本を製作する際の最初の仕事は、著者原稿を筆写する作業であった。その場合、目の前にある原稿を一人の人が筆写するやり方と、一人の口述者の声を聴きながら、複数の筆写人(筆写奴隷)が同時に書き写していくやり方とがあった。前者の場合は写し間違いが少なかったが、皆無ではなかったようだ。ただし一人の筆写人が一巻の巻子本を完成させる間に、口述筆記のほうは数巻の巻子本を完成させることができて、能率がよかった。しかしこの複数人による同時進行の筆写では、間違いがかなり多かったようだ。そのため時間はかかっても、一人の人が目の前の原稿を書き写していくやり方が、普通だったといわれている。
いずれにしても、15世紀に活版印刷術が発明されるまで、古代から中世ヨーロッパにかけて、この筆写という方法だけが書籍製作の唯一のやり方だったわけである。

さて筆写が終了すると、今度は校正の作業という段取りになった。書物の質はもちろん校正係の仕事の精密さ、厳密さにかかっていた。現存する写本を見ると、極めて厳密なものから全くいい加減なものまで、さまざまである。そのうえ未校正の書物も市場に出回っていたことを、帝政時代の初めの皇帝アウグストゥス帝時代の地誌家ストラボンは嘆いているのだ。

しかしその反面、職業上の名誉を尊重する書籍発行人もいた。その書籍商はローマの歴史家ファビウス・ピクトルの作品を刊行したとき、その本には全く誤りがないと胸を張って保証した。ところがある文法学者が、その本の中に一か所、綴りの誤りを発見した。現在でも、どんなに校正を重ねても、誤りを皆無にするのは困難であることを考えれば、ただ一か所の誤りは許されよう。
いっぽう著者と発行人との間の関係が緊密で、両者が良心的であった場合には、すでに写本が作られ、販売用に書籍商のもとに送られた作品でも、一つの誤りの削除が行われたこともあるのだ。

<書籍商用写本と私的写本>

あるパピルス巻子本が書籍販売用の写本なのか、それとも私的に作られた写本なのかを、現存している実物から、区別することは、ほとんど不可能である。ただ、もしその文学テキストが一度書かれたパピルス紙の裏側に記され、しかもあまり手慣れていない筆写の場合には、ある程度の確実さで、私的な写本だと判断することができる。しかしそれが再使用されたパピルス紙というだけでは、私的な筆写本だとする十分な根拠にはならないのだ。それが廉価な書籍販売用の本である可能性もあるからだ。

いっぽうその文学的テキストがパピルス紙の表側に記され、しかもその筆写がプロの手によるもののように見えれば、書籍販売用の写本である可能性が高い。とはいえその場合にも私的な写本である可能性を排除することはできない。金持ちの依頼主が筆写素材に金を惜しまず、プロの書き手に頼んだ場合も考えられるのだ。

<首都ローマの書籍商たち>

ここでは帝政時代の首都ローマで活躍した幾人かの書籍商たちを紹介することにしよう。まず抒情詩人ホラティウスの書簡集を刊行したことで知られているのがソシウス兄弟である。その名前が、エジプトで発見された、あるパピルス断片に記されていたのだ。それはアテナイの学者アポロニオスの書いた「イリアス第14書への文法上の諸問題」と題する巻子本の断片であるが、その巻末にソシウスという名前が書かれている。そのためこの人物が同書の発行人である可能性がきわめて高いのだ。ただソシウスの商売上のつながりが直接エジプトにまで伸びていたのか、それともこの本がその所有者によってエジプトまで運ばれたものなのか、いずれなのかはわからない。

次にストア哲学者のセネカ(後4-後65)の証言によれば、ドールスという書籍商がリヴィウス(前59-後17)の大部の歴史書を刊行して、販売したという。この書籍商はまた、政治家であり同時に散文家としても名高いキケロ(前106-前43)の著作の原本を、アッティクスの蔵書の中から獲得するのに成功したという。そうした「原本」はもちろん、のちに刊行された数々の版を考えた場合、特別な価値を持っていたわけである。

第3の書籍商はトリュフォンというが、修辞学者クィンティリアヌス(後35-95)に対して、大部な修辞学の手引書を書くよう再三再四促して、ついに刊行にこぎつけたという。トリュフォンが発行した書籍の数は、先のソシウスと同様に、かなりのものであったといわれている。さらに詩人マルティアリスの詩作品も引き受けている。そしてこの詩人からビブリオポラ(書籍販売人)と呼ばれているのだ。つまり書籍を発行し、同時に販売もしていたのだ。

いっぽう純粋な書籍販売人には、アトレクトゥス及びセクンドゥスという人物がいた。詩人のマルティアリスによれば、アトレクトゥスはローマ市内の中心部である
カエサル広場の向かい側に店舗(書店)を構え、詩人作家の作品を豊富に取り揃えて、販売していたという。そこでは5デナリウスで、詩作品を買うことができた。
セクンドゥスのほうは、平和神殿とネルヴァ広場の裏手にあった書店で、マルティリアスの詩作品を、小型の羊皮紙製冊子本という新機軸で売っていた。
そして第三の書籍販売人としてはヴァレリアヌスという人物の名前を挙げることができる。

          ローマの平和神殿。復元された平面図

そのほかローマには、書籍販売人がたくさん書店を構えて商売をしていた、神田の神保町のような地区があった。その場所は公共図書館付きの平和神殿からほど遠からぬ所にあるヴィクス・サンダラリウス地区である。同様にしてシギラリアという地区にも、たくさんの書籍商たちが店を構えていた。

<拡大していた書籍販売網>

ローマの随筆家にゲッリウス(後123-後169)という人物がいるが、この著作家の主著『アッティカの夜よ』の内容は百科万般に及び貴重な文献とされている。この人物は何度か上に挙げたローマの書店街について触れている。そして彼は、そうした書店がしばしば知識人たちの交流の場になっていたことを明らかにしている。そこに集まった詩人・作家の何人かは、自分たちの作品が帝国の辺境地域にまで普及して読まれていることを口にしていたのだ。

つまり紀元後1~2世紀のローマ帝国の最盛期には、書籍販売網が帝国の隅々にまで拡大していたわけである。先に紹介した大プリニウスもその著書『博物誌』の中で、ウァッロのイラスト入り人物事典が帝国の全領域に普及していたことを伝えている。さらに雄弁家で弁護士のレグルスの亡くなった息子への追悼の書が、千部といった単位で、イタリア及び属州のあらゆる地域に広まっていたという。

    ローマ帝国の支配領域(実教出版「世界史B 53頁)           

とりわけ南仏リヨンや南イタリアのブリンディシにおける書店の存在や、あるいは一連のキリスト教関連書籍の売れ行きが良かった古代末期には、ドイツ西部のトリーア、北アフリカのカルタゴ、アレクサンドリア、トルコのコンスタンティノープル、シリアのアンティオキアにおける書店が注目される。
南イタリアの港町ブリンディシについて、ゲッリウスは次のように伝えている。そこの港湾地区では、ギリシア語の書物が束になって売りに出されていたが、それらは古くなって保管が悪いため、みじめな状況にあった。とはいえ、その中には探していた昔の重要な書物も見つけることができた。ゲッリウスはその場で決断して、多くの書籍を大変安い値段で買ったという。
ついでに言えば、首都のローマで店ざらし品として買い手のつかなくなった本や、見本として汚れてしまった書物は地方に送られて、古本として処分されたようだ。

<古書商人>

こうした古本を扱う古本屋のほかに、質が高く、人々が探し求め、したがって値段が高い古書を扱う古書商人もいた。ゲッリウスによると、文法学者のオプタトゥスは、古代ローマ最大の詩人といわれるヴェルギリウスが書いた『アエネイス』の第二の書を、きわめて古い版で所有していたという。それは元来ヴェルギリウス自身が所持していたものだが、のちにこの学者がシギラリアの古書商人から金貨20枚で手に入れたものであった。

いっぽう書籍商が古くて高価な貴重書を、短期間、金と引き換えに貸し出すということも見られた。またしてもゲッリウスが語るところによると、雄弁家のユリアヌスは、こうしたやり方で文法家ランパディウスが入手した詩人エンニウスの古い版の作品を閲覧することができたという。ランパディウスは前2世紀の人物であったので、借り出したこの書物は約250年前のものだったわけである。

またこうした商売では、詐欺も見られた。例えばギリシアの雄弁家クリュソストモスは、後1世紀の末に、ある書籍商のやったことを次のように非難している。「古い本が求められているのは、丈夫で長持ちのするパピルス紙に書かれているからだという事を、あなたはご存じなのだ。それであなたは価値の低い現今の書物を穀粉の中に入れて、古い本と同じような色にして、古書として売っているのだ」と。

いっぽう人々は古書を定価以外でも手に入れることができたし、本の競売も普通に見られた。それからエジプトの田舎を歩いて本を売っている書籍の行商人のことが知られているが、こうした商売をやっていたのは彼一人ではなかったはずだ。
また帝政ローマ時代には、飲食店の中にも書店があった。数階建ての建物の一階の道路ないしは中庭に面した居酒屋がそれであった。そうした店はとりわけ首都ローマの外港都市オスティアに今も残っていて、印象深いものがある。

そうした居酒屋内の書店では、巻物状の巻子本は、アルマリア(本箱)やニディと呼ばれた、仕切りのついた本棚に置かれていた。

         仕切りのついた本棚に置かれた巻子本

そこにはまた客に見せるための陳列用の机もあった。そして外の戸口の側柱には、書物の表題を書いたものが貼られていた。

<著作者への謝礼はなし>

今日、出版社が著作者に対して支払っている原稿料ないし謝礼というものは、古代にはなかったと思われる。それでも古代の著作者の多くは、ほかに経済的基盤を持った人たちだったようだ。たとえばギリシアの哲学者プラトン、アリストテレス、テオフラトスなどはアカデミーの長もしくは王子の教育係として収入が保証されていた。またローマ時代のキケロや両プリニウスやタキトゥスといった人たちは十分な資産を所持していた。そうした人たちにとって自分の著作を刊行することは、謝礼が目当てではなくて、自分の考えや思想を多くの人々に知らせる手段なのであった。

とはいえ、すべての著作者が財産や収入に恵まれていたわけではなかった。有力者の支援を必要としていた物書きは、裕福で影響力のある人物に自分の著作を献呈したり、朗読したりすることは、金銭的な利益をもたらすものであった。そして社会的な地位の上昇をも、もたらすきっかけになった。社交詩人であったマルティリアスは、時の皇帝たちをほめちぎる詩を書き連ね、ティトゥス帝とドミティアヌス帝によっ騎士階級にまで引き上げられたのであった。これらの文学者たちにとっては、彼らの作品が書籍商によって広く世の中に普及し、成功した作家というイメージが植えつけられることが、重要なのであった。

いっぽう書物の献呈という行為は、もっぱら受け取り手から利益を得ようとしてなされた、というわけでもなかった。地位の高い人への感謝の念から、行われたこともあったのだ。例えば前1世紀の建築家で建築理論家でもあったヴィトルヴィウスは、年を取って退職したときに、それまで受けた厚意への感謝のしるしに、建築に関する自分の著作を、アウグストゥス帝にささげたのである。ちなみに彼の主著『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築状況を知るうえで不可欠の史料といわれているのだ。

<贈り物としての書物>

古代ローマ社会では、書物を贈り物にする習慣があった。これまで何度も紹介してきた社交詩人のマルティアリスは、ローマで重要な役割を果たしていたサトゥルヌス祭の贈り物として、受け取り手がきっと喜ぶに違いない著者あるいは作品について、次のような名前を列挙している:
ホメロス、『蛙とネズミの戦争』、ヴェルギリウス、キケロ、メナンドロスの『タイス』、プロペルティウス、リヴィウス、サルティヌス、オヴィディウスの『転身物語』、ティブルス、ルカヌス及びカトゥルス。

また教育手段としての書物の贈与については、伝記作者のスエトニウスの言葉が残っている。それによれば、皇帝アウグストゥスの孫の家庭教師もしていた著名な文法学者のフラックスは、つねづね最優秀の生徒に対するご褒美として、古い貴重書を贈ることによって、生徒を勉強に駆り立てていたという。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 02

その02 古代における書物の形態など

古代における書写材料

今日、私たちは書物を印刷したり、手紙を書いたり、記録文書を作成したりするとき、一般に紙を用いるのが普通である。
しかし紙がまだ存在していなかった古代にあっては、人々は実に様々なものの上に、文字を書き記していたのだ。それらは驚くほど多様なものだったことが、考古学的な発掘調査を通じて知られている。文字が書き記される素材を、ここでは書写材料と呼ぶことにするが、便宜上、無機の書写材料と有機の書写材料とにわけて、その多様な姿を、これから紹介していく事にしよう。

無機書写材料

これをざっと列挙してみると、陶片(陶器のかけら)、化粧漆喰、そして青銅、鉛、錫、銅、銀、金などの金属である。
まず世界史の教科書を通じてよく知られている「陶片追放」の制度に使われていたのが、陶器のかけらであった。アテネの市民は、追放したい政治家の名前を陶器のかけらに書いて投票していたわけである。陶片はギリシア語でオストラコンと呼ばれるが、それらはとりわけエジプトで最もよく発見されている。ただそれらの陶片ををよく調べてみると、陶片追放に使われた以外にも、税金の領収書、各種証明書、手紙、学童の文字の練習用などに用いられていたのだ。
また陶片に似た原始的な書写材料は平らな石片で、とりわけエジプトで数多く発掘されているのが、石灰石のかけらである。

さらに家の壁に使われていた化粧漆喰も、書くための材料として使われていた。後1世紀に起きたヴェスヴィオス火山の噴火で埋もれたポンペイなどの諸都市からは、ある家族の家計簿や人間生活の様々な側面を描いた壁画や記録的な文章が発掘されているのだ。

いっぽう書写の重要な材料として、いろいろな金属を挙げることができる。碑文に対する材料としては、まず青銅が来るが、銅と錫の合金である青銅は、柔らかい尖筆では彫れないぐらい硬い素材であった。そのためもっと柔らかい鉛を用いることが多かった。たとえば、ある人に悪い結果をもたらそうとして、薄い鉛の板に呪いの言葉を書き記すという風習が、古代には広まっていたという。また神託をうかがう言葉がしばしば鉛の板に書かれていた。

さらに手紙を書く材料としても、鉛は用いられていた。そうした私信は数多く残っているが、その最も早いものが、南ロシアのクリミア半島近くのベレサン島で発見されたものである。イオニア・ギリシア人によって書かれた手紙だが、前6世紀というから、現存する最古のパピルス文書より以前のものである。その手紙が発見されたとき、それは書類の束のように巻き付けてあった。いっぽうパピルスがまだ使われていなかったローマの初期の時代には、鉛の巻物が公式の文書に用いられていたという。鉛の巻物はあまりしばしば巻いたり広げたりすると壊れてしまうので、主として保管用の文書に使われていたようだ。

また柔らかい錫も書写材料に適していた。そのため錫に書かれた呪いの板が残っているし、錫製の巻物もあった。前369年にテバイの将軍エバミノンダスがスパルタからメッセニアを解放したとき、青銅製の容器に入った錫製の巻物を人々の前に見せたという。次に銅製の巻物も発見されている。死海近くのクムランの洞窟内で発掘されたおびただしい数のユダヤの聖職者たちの神聖な文書の中には、大量の革製とパピルス製の巻物のほかに、二枚の銅製の巻物が見つかったのだ。

高価な貴金属である銀や金は、日常的な書写材料にはなっていなかった。ただ銀製の呪いの板やオルペウス教の金製の板を含む様々な金製の護符が出土している。加えてエトルリアの聖地ともいうべきカエレで発見された黄金の書き板が注目される。これは女神ウニへの奉献の言葉をエトルリア語と古代カルタゴ語で書いたもの(前500年ごろ)で、エトルリア研究にとっては戦後最も注目すべき発掘物であった。さらにギリシアのコリント地峡で開催された音楽と体育の競技会(イストミア祭)の詩の部門で、女流詩人アリストマケが優勝した後、奉納品としてささげた黄金の巻物も発掘されているのだ。

有機書写材料

A 木材、亜麻布など

植物性の有機書写材料の中では、木材が古代のどの時代を見ても、またどの場所でも、とりわけ短いテキストに用いられていた。その最も簡単な形が木製の板で、その上に直接インクで書かれていた。その際文字をはっきりと読みやすくするため、板の上に石灰や石膏を塗って、白くしていた。その発掘物が最も多かったのはエジプトであったが、乾燥した風土のために有機物質がどこよりも良い状態で保存されてきたからだ。そこに書かれた内容は、ミイラ運搬の際に必要な氏名、年齢、目的地を記したミイラ・ラベルのほかに、手紙や領収書の類いが多かった。そのほか文学的な内容の授業用書き板もあった。

その中でも最も注目されたのが、1988年にエジプトで発見された「木製の本」であった。それはたくさんの木の板の片側に穴をあけて、複数の木の板を紐で結びつけたものであった。縦25センチ、横10センチ、厚さ3ミリの板が9枚結び付けてあった。そこに書かれていたのは、ギリシアの雄弁家イソクラテスの演説を記したもので、紀元後4~5世紀に雄弁術を学んでいた学生が、自分用に写し取ったものであったのだ。

それとは別に、ローマ帝国の最北端にあったブリタニアのヴィンドランダの宿営地で、1970年代に行われた発掘調査の際に見つかった大量の木簡が大きな話題となった。そこのゴミ捨て場で、数百枚に上るシラカバとハンノキの断片が発見されたのだ。それは紀元後100年ごろそこに駐屯していたローマ軍に関する直接的な記録であった。当時パピルスが手に入らない北国では、書写材料として木簡が使用されていたことを示すものであった。その形状は、薄い木片を何枚も重ねて使われた「折り畳み式メモ帳」とでも呼ぶべきものであった。それを再現したものが、下のスケッチである。

イギリスのヴィンドランダで出土した木製の「折り畳み式メモ帳」

ヴィンドランダの発掘物の中には、上記の「メモ帳」のほかにも、長方形の書き板がたくさん見つかっている。その片面は平らで、他の面は縁の部分が盛り上がっていた。そして中の低くなったところに蝋が引かれていた。その部分に尖筆でもって文字を刻みこんでいったのだ。その蝋はたいてい暗い色または赤い色に染められていて、文字がより鮮明に読めるようにしてあった。そして蝋を引いた板2枚が紐または蝶番でつないであった。3枚折り、4枚折りのものもあったが、その数はせいぜい10枚が上限であった。下の写真がその実例である。

生徒が使用していた10枚重ねの書き板

これらの木製の書き板は、一枚のものであれ、数枚を結んだものであれ、ギリシア人、エトルリア人、ローマ人のいずれにおいても、最古の時代から用いられていて、その用途もさまざまであった。あるいは手紙やメモ帳として、あるいは文学的な文章の草稿ないし抜粋として、あるいは学校の授業用として使われていた。とりわけローマ地域では、勘定書きとしての用途が多く見られた。古代ローマの会計制度や経済制度を知るうえで重要な資料になっているのが、1959年にポンペイの町はずれにある銀行家一族の館から発掘された書き板である。

いっぽう通常の木製の二枚折り書き板のほかに、高価な材料として象牙製のものもあった。これは客への贈り物として使われたのだが、古代末期になると政府の高官とりわけ執政官が就任の際に、豪華な彫刻を施した象牙製の二枚折り書き板を、贈り物にする習慣ができていたという。それらは中世になると豪華本の装丁として再利用されたので、数多くの現物が今に残っているのだ。

後1世紀の帝政期ローマの著述家プリニウスによると、ローマでも古い時代には、棕櫚の葉や樹皮を使った本もあったという。ただしギリシア・ローマ世界に関しては、そのオリジナルも図版も発見されていないのだ。しかしインドや東アジアでは、近代にいたるまで棕櫚の葉や樹皮は書写材料として用いられている。スマトラ島のバタクの樹皮の本は、祭式に関するものだが、アコーデオンのような形に折り曲げられている。これは先のヴィンドランダの木製の手紙に似ているが、また古い時代のイタリアの亜麻布制の本にも似ているのだ。

前1世紀のローマの歴史家リヴィウスによれば、前293年のサムニウム戦争の最中、あるサムニウムの神官は、古い亜麻布製の本に書かれた典礼儀式にのっとり供物をささげたという。また皇帝マルクス・アウレリウスは若い時、古いラテン人の町で、いたるところにある神殿や聖域とは別に、亜麻布の本も見たという。そしてローマ時代の神託集も亜麻布製だった。総じて初期のイタリアでは、宗教的な内容のテキストや公式の官吏のリストは、亜麻布製の本に書かれるのが普通だったのだ。

代々政府の高官を出していたローマの古い時代の家族には、私的な記録というものがあった。同様のことはエトルリアの貴族にも当てはまったが、こうした「家族の記録」も亜麻布で作られていた。エトルリアのカエレで出土した前4世紀の石棺の蓋には、遺体の頭の後ろのところに、平らな包みの形に丁寧にたたまれた布が置かれている。

エトルリアの石棺の一部の拡大図。折りたたまれた亜麻布製の本

これとは別に、エトルリアの亜麻布製の本のオリジナルが現存している。クロアチアのザグレブの博物館には、エジプトの少女のミイラが保存されているが、そのミイラが普通のやり方で亜麻布製の帯で巻かれているのだ。そしてその布には、エトルリア文字によって文章が書かれている。現存する5枚の帯はもともとは一枚の大きな布を切ったものであった。その一枚の長さは340センチ、もともとの幅は40センチである。エトルリアの習慣に倣って右から左へと書かれた文字は、黒いインクで、明らかに練達の書記によって丁寧に記されたものである。

エトルリア文字が書かれたミイラ保存用の布

文字が書かれたこの布地はイタリア半島で書かれ、エトルリアの移民によってエジプトへもたらされ、そこでミイラ製作者の手に渡ったものと思われる。およそ1200文字からなるこの文章は、大体の内容が解読されている。その結果それらは、数字、月の名前、神々の名前、容器の名称、祭式関連用語などであり、祭礼暦の形で記された礼拝用の本であることが明らかである。

B パピルス

古代における書写材料としてもっとも一般的なのが、パピルスである。これはヨシ科の宿根草であるパピルス草から加工して作られたものである。このパピルスを素材として作られた巻物状の本(巻子本 かんすぼん)をギリシア語で byblos という。 ドイツ語ではこの言葉から、外来語として、Bibliothek(図書館)、Bibliographie(書籍目録)、bibliophil(書籍を愛好する)そしてBibel(聖書)といった言葉が生まれている。

さてパピルス草は湿度と暖かさを好むため、古代においては、その産地はナイル河全域に及んでいた。とりわけナイル河下流のデルタ地域に繁茂していた。そこは古代エジプト王国の支配地域だったのだ。その地域では、パピルス草から、書写材料以外にもいろいろな製品が作られていた。まず澱粉を含んだ茎の部分は、安くて味の良い食品として食べられていた。またその繊維からは、籠、むしろ、綱、ランプの芯、衣服、サンダル、そして簡便なボートなどが作られていた。根の固い部分は燃料になり、また道具を作るときに用いられていた。そして花序の部分は花飾りとして編まれ、燃やした後の灰は薬として使われていた。

<書写材料としてのパピルスの作り方> 

私たちの関心の的である書写材料は、茎の下部にある髄から加工したものが用いられていた。パピルス製造について、明らかにしてくれたのが、シチリア島のシラクーザにあるパピルス博物館のコラド・バシレ館長である。ちなみに私は2001年のシチリア旅行の際、このシラクーザにも立ち寄り、同博物館の中でパピルス製造の実演を見たことがあるのだ。そしてそれに先立って、博物館の近くの池にびっしり繁茂していたパピルス草を見た。それは私にとってとても貴重な経験であった。

さてパピルス作りの大要は次のようである。まず茎は新鮮な状態で何本かに切られ、髄が現れるまで皮をむく。その後、その髄を、薄くてできる限り幅の広い帯に切り裂く。そしてそれらを、あらかじめ水で湿らせておいた板の上に、少しはみ出すぐらいに並べる。この第一の層の上に、第二の髄の層を、第一のとは垂直に交差するようにして並べる。

第一の層の上に交差するように並べられたパピルス草

それから平らで幅広の石で表面をたたいてゆく。その際、澱粉を含んだ髄の粘着性のおかげで、個々の部分は互いに密着していくのだ。こうしてできた葉は日に当てて乾かし、それから軽石または貝殻や象牙の棒で、滑らかにされる。その後、接着剤(澱粉および酢)を用いて、数枚の葉(通常は20枚だが、ときとして50枚も)を張り合わせて、巻物状にする。その際植物の繊維がつねに同じ方向に並ぶようにすることが肝要なのだ。
パピルスは常にそうした巻物の状態で取引されていた。短い文章で済む手紙のような場合は、この巻物から必要な分だけ切り取って売買していた。

<パピルスの品質と等級>

このようにして作られたパピルスは、明るいクリーム色をしており、しなやかな書写材料であった。そうしたしなやかな柔軟性は、しばしば開いたり閉じたりする巻物状の書物に、まさにぴったりのものであった。現存する古代のパピルスがたいていの場合茶色く見えるのは、長い歳月が経ったためである。もちろん様々な品質のパピルスが市場に出されていたのだが、それらは素材の良し悪しのほかに、巻物の幅によってもランク付けされていた。

後1世紀のローマの博物学者プリニウスはその著書『博物誌』の中で、パピルスについてもいろいろ書いている。そこでプリニウスは、パピルスの等級付けをしているのだ。最高の品質のものは24.3センチ幅のパピルスで、もともとcharta
hieraticaと呼ばれていた。これは主として祭礼用の文書に用いられていた。しかし後になると皇帝アウグストゥスをたたえるために、charta augustaと呼ばれることになった。そして第二の品質のものに対しては、その妻リヴィアの名前が付けられた。初めに挙げたhieraticaはこれら二つのものによって第三のランクに下げられ、20.3センチ幅のパピルスを指すようになった。

次いで時代が下って、皇帝クラウディウスの時代に、新たな品質のパピルスが導入された。このcharta claudia はaugustaより丈夫だったので、上回る第一位の評価を受けることになった。いっぽうhieraticaの下の16.6センチ幅のものは、
charta amphitheatricaと呼ばれた。これはその生産地アレクサンドリアの競技場
Amphitheaterの名前をとったものだが、ハンマーでたたいて滑らかにしたため、雑な品質になった。さらにその下には12.95-14.8センチ幅のパピルスが来るが、その生産地ナイル・デルタのSaisからcharta saiticaと呼ばれる。その下にcharta taeneoticaが来て、最下等にcharta emportica がランク付けされた。これはもはや書写材料には向かないので、包装紙として使われていた。

ローマ帝政時代の後半(紀元後3世紀以降)になると、パピルスの品質はどんどん下がっていった。そしてエジプトにおけるパピルスの生産は、後10世紀から11世紀にかけての時期に、終了したとみられている。

<パピルスの需要と供給>

ギリシア・ローマ時代を通じて、その支配下にあった地域全体、とりわけ行政管理機構を伴った大都会地域で、パピルスの需要と供給は大きかったはずである。そしてそれに見合ったパピルスの取引も盛んであったと思われる。すでに前408年にアテナイの行政機構がパピルスを用いていたことは、エレクテイオン建設に要した金額の支払いを記した勘定書きが現存していることから、実証される。

おそらくこれより一世代古いと思われるアッティカの詩人ヘルミボスの喜劇作品の断片には、当時の一連の輸入物資が列挙されている。そしてその中にはエジプトからの帆布とならんでパピルスも含まれているのだ。そしてエジプトのプトレマイオス朝(前304年~前30年)の役所でのパピルス消費量が莫大なものであったことは、前258年のパピルス文書が明らかにしている。それによると宰相アポロニオスの下にあった一部局が、33日間で434巻のパピルス文書を使ったとのことである。

C 革と羊皮紙

<動物の皮>

書物に対する書写材料としてパピルスにかなり匹敵する存在が動物の皮であった。動物の皮はその仕上げの方法の違いに応じて、二つの製品つまり革と羊皮紙に分けることができる。革は脱毛した動物の皮を、タンニン酸を含んだ植物性の布地でなめすことによって製品となる。羊皮紙の製造については、動物の皮をなめすのではなくて、石灰液で処理した後、強く張って乾燥させ、薄く削り取って滑らかにするのだ。

古代の文献には、書写材料としての皮のことが、しばしば述べられている。前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの証言によれば、イオニアのギリシア人たちは、パピルスをまだ使っていない古い時代には、ヤギや羊の皮の上に文字を書いていたという。ここではたぶん革のことを指していると思われる。同様にペルシア王国の公式の記録、とりわけ前5世紀のペルシアの地方長官の文書で革に書かれたものが、エジプトで発見されているのだ。

さらに死海近くのクムランで発掘された、かの有名な巻物状の文書が注目される。これはユダヤ人社会の宗教について記したものであるが、その大部分は革に書かれていて、互いに縫い合わせて書物にしてあるのだ。また蛇の皮に黄金のインクでイリアスとオデュッセイアを書いたものがイスタンブールの宝物館にあるが、これなどは珍品といえよう。

<羊皮紙>

ユダヤの神官エレアザ-ルがエジプト王プトレマイオス二世(在位前285-前246年)に贈ったといわれる書物状の法律文書は、間違いなく羊皮紙製であった。国王はその時、皮の薄さに驚いているからだ。現在羊皮紙は、一般にpergamena(ペルガメーナ)と呼ばれているが、この言葉は、比較的後の時代になって使われるようになったものだ。つまりこの言葉は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの後301年の価格勅令に初めて登場するものだ。その語源は当時の小アジア地方の都市ペルガモンの名前からきている。

この事については、プリニウスによって後世に伝えられたローマの学者ウァッロの報告が特に興味深い。すなわちエジプトのプトレマイオス二世(在位、前180-前145年)とペルガモン図書館の創立者エウメネス二世(在位、前197-前159年)の間に図書館をめぐって生まれた嫉妬から、プトレマイオスはパピルスのペルガモンへの輸出を禁止した。その結果ペルガモンでは羊皮紙を発明したというのだ。しかし考古学的に現在では、羊皮紙はそれ以前から存在していたことが分かっている。そのため次の説明のほうが説得的なのだ。

前170-168年にシリア王アンティオコスがエジプトに侵入したが、その時アレクサンドリアが包囲され、パピルスが輸出できなくなった。こうした状況の中で、ペルガモンでは図書館をさらに拡張していくために、昔から知られていた書写材料である羊皮紙に手を出したというものである。そしてのちに書物の新しい形態として「冊子本(さっしぼん)」が発明されてから、書写材料として羊皮紙は盛んに用いられるようになって、ついにはパピルスを駆逐したわけである。

古代における書物の主な形態:巻子本と冊子本

これまで私たちは古代における「書物」のいくつかの特殊な形態について、ご紹介してきた。それらは金属や木材や木の葉を材料にしたものから、古代のローマ人が用いていた亜麻布製のものまで、実に様々な材料を使った「書物」であった。ただそれらは文字が記してあるとはいえ、たいていは書物とは呼べないものであった。その中で、これまで何度となく触れてきた「巻子本(かんすぼん)=巻物」だけは、本格的な書物である。これに対して紀元後の帝政ローマ時代になって登場したのが、「冊子本(さっしぼん)」なのであった。そしてその後長い紆余曲折を経て、現在普通にみられる書物の形になったわけである。

ここでは古代ギリシア・ローマ時代をとおして最も重要な書物の形態であった巻子本について、まず詳しく見ていく事にしたい。

巻子本(かんすぼん)

この巻子本は、古典古代のギリシア時代いらい、数世紀にわたって、書物そのものを意味していた。巻物の形をした文書は、古代エジプトで発明され、のちにギリシア世界に入ってきた。その年代は史料が不足していて、定かではない。とはいえギリシアにおける巻子本の存在を示す資料があるのだ。それは前回のブログ「ギリシア・ローマ時代における文字の誕生とその活用」のなかでもその図像を紹介した「紀元前490年ごろのアッティカの画家オネシモスが描いた壺絵」である。

オネシモスが描いた壺絵。ベルリン国立博物館所蔵

その絵には、一人の若者が前かがみに腰かけに座り、両手に巻子本をもって読んでいる場面が描かれている。この壺絵を見るだけでは、巻子本がどんな材料からできているのかは断定しにくいが、多分その材料はパピルスだと思われる。書写材料としてのパピルスについて最初に言及しているアテナイの文字史料の時期が、この壺絵の時期とあまり隔たっていないからである。

<パピルス紙を張り合わせて作られた巻子本>

先にパピルスの項目で説明したが、通常パピルス紙は20葉(枚)またはもっと多くの葉を張り合わせて、巻物状にして、市場に出されていた。これら市場に出されたパピルス紙の巻物は、作成すべき書物の内容に応じて、短く切ったり、余分に張り合わせたりして売られていた。

パピルス巻子本の実物。ベルリンのエジプト博物館所蔵

先に述べたように、ギリシア語でもラテン語でも、文章は横書きで、文字は左から右へと書いていった。その場合一行の文字数は決められていた。さもないと長い巻物の左端から右端まで書いていっては、その文章を読むときに巻物を右端まで広げねばならず、まったく実用的ではなかったからだ。具体的にそれがどのようなものであったのか、下記の図像をご覧になれば大体お分かりいただけよう。

巻子本を広げた図像。発見された実物を克明に模写したもの

古代の巻子本の大きさについてみると、巻物の上下の幅は、現存するパピルス文書から判断して、普通は19センチから25センチの間にあった。ただ例外的に上下の幅が37センチもある大型の巻物もあったし、上下の幅が12センチから15センチの間というものもあった。現在知られているもっとも小さな巻子本は、上下幅が8センチである。それはエロティックな警句詩を載せたものであるが、ある研究者はそれについて次のように書いている。「そうした小型本は、妙齢な淑女がひそかに衣服のふくらみの中に忍ばせて、こっそり読んでいたのであろう」

いっぽう巻物の長さのほうは、理論的には限度がなかった。パピルス紙を好きなだけ張り足していくことができたからである。しかし現実問題として、あまり長いものは、両手でひろげて持った時に、その取扱いが難しく、不便であった。現存する不完全な巻子本から類推して、長さが10メートルを超えるようなものはなかったと思われる。長さが6メートルの巻物は、巻き取るとその厚みは5~6センチとなるが、これなら読むときにその扱いが容易である。例えばプラトンの作品『饗宴』は、長さ7メートルの巻物1巻に収められている。

さて模写された巻子本の図像を眺めると、一行の文章が一定の文字数で左から右へ書かれ、次の行へ移っている。そして下端近くの最後の行に来ると次の右側の欄の第一行へと移っている。ここで一つの欄は、私たちの本(冊子本)の1ページに相当するものと考えればよい。また模写された図像を見ると、パピルス葉を張り合わせた個所が縦の線となって描かれている。この張り合わせ部分は滑らかになっていて、その部分を横切って文字を書いていくのに支障がなかったようだ。

ところで一つの作品としての巻子本の場合、巻物にすべてを書き終えると、最後の欄の右側に細い棒が取り付けられた。そしてその棒を軸にして、巻物は巻かれた。その巻物にはしばしば、その本の表題を書いた小さな標札が付けられた。この標札の取り付けは、おおむね巻子本の所有者がやる仕事だった。それとは別に作品の表題は、本文の初めの部分か、あるいは巻物の外側にも書かれることがあった。さらに巻子本は円筒形の筒に複数入れて保管されたりした。

<再利用されたパピルス文書>

古代においては書写材料は高価で、貴重なものであったので、節約して使わねばならなかった。そのため一巻のパピルス文書は、多くの場合その裏側も再利用された。こうした二度目の使用はほとんどの場合、商売用あるいはお役所の文書に対して行われた。そのような文書には、しばしば正確な日付が記されていたから、研究者にとっては、その表側に書かれた文学テキストの年代測定に対しても役に立っている。

パピルスは乾いた状態で保管されれば、極めて長持ちする材料である。帝政ローマ時代のギリシアの医学者ガレノスは、紀元後2世紀に、自分は300年前のパピルスの巻物を用いたと語っている。発掘された現物によって、そうしたパピルスの長命が証明されているのだ。

冊子本(さっしぼん)

冊子本というのは、現在私たちが本として認識している書物の形態である。ところが、先にも述べたように、紀元前の古代ギリシア時代から紀元後の帝政ローマ時代にかけての長い間、書物といえば「巻子本」のことを意味していた。

<ローマの詩人マルティアリス、最初の冊子本を刊行>

最初の冊子本として実証できるのは、紀元1世紀に帝政ローマ時代のエピグラム詩人のマルティアリスが刊行したものである。この詩人は最初に出した巻子本による詩集の中で、旅行の時に持ち歩くのに便利な小型の冊子本でも自分の詩は読むことができる、と書いている。そしてそれは書籍販売人のセクンドゥスを通じて買うことができる、とも宣伝しているのだ。
彼はまた、自分の作品だけではなくて、ホメロス、キケロ、ウェルギリウス、オヴィディウス、リヴィウスなど古典作家の質の高い作品も、冊子本で刊行し、それらには次のような宣伝文句もつけている。

<羊皮紙に書かれたホメロス、イリアス及びプリアモス王国の敵の運命、
オデュッセウスの運命が折り重なるようにして、この皮のなかに
入っている>
<羊皮紙に書かれたキケロ、もしあなたがこの羊皮紙の本を持ち歩くならば、
あなたはいつでもキケロと一緒に旅している、と考えてもいいのだ>

しかし詩人マルティアリスが書籍販売人セクンドゥスとともに行った新しい試みは、当初はわずかな成果を上げたにすぎなかったようだ。その理由としては、社会的地位の高い保守的な当時の読者は、冊子本を日常的な、過行くことどもを書き記す「ノート・ブック」の類いと考えていたことがあげられる。後2世紀から後3世紀にかけての時期に刊行された冊子本が12冊現存しているのだが、その中のわずか3冊だけがピンダロス、クセノポン、プラトンといった古典作家の作品を扱っていた。そして残りは、神託の詩句、学校生徒用のホメロスからの引用、技術・医学的なもの、大衆文学などであった。

このマルティアリスより数十年後に刊行された羊皮紙冊子本が、エジプトの砂漠の中から発見されているが、それはラテン語で書かれた歴史作品で、ローマ人の対マケドニア戦争を扱ったものである。次いで作られた冊子本は、後200年ごろのもので、遺産相続争いに絡んだ法律家ウルビアヌスの著作である。そのほか後2世紀末から後3世紀初めにかけての冊子本が、いくつか発見されている。そして後3世紀末から4世紀にはいると、発見された冊子本の数は増大している。

<キリスト教と冊子本>

一般に知られているように、キリスト教はローマ帝国の東方辺境に出現し、ペテロ・パウロなどの使徒の活動によってローマ帝国の下層民の間に広がった宗教である。そのため帝国の社会的地位の高い人々からは嫌われていた。このことと冊子本の普及との間には、密接な関係があるのだ。ローマ帝国では皇帝は神として崇拝されていたが、この皇帝崇拝をキリスト教徒は拒否したため、たびたび迫害の対象とされていた。

こうしたキリスト教徒下層民に対しては、帝国のエリート層は反発していた。そのため下層民のほうも上流層に対しては意識的に距離をとって、その行動も違ったものになっていた。そして初期のキリスト教徒は自分たちの信仰を広める手段として、上流層の間では常識になっていた巻子本ではなくて、冊子本を選んだといわれている。つまりキリスト教徒にとっては、当初から冊子本こそ自分たちが選んだ書物の形態だったのだ。そのことを端的に示しているのが、下の図像である。

本箱に入れてある4福音書(聖書)の冊子本。ラヴェンナの霊廟内に描かれた
モザイク画。紀元後5世紀前半のもの

紀元後2世紀末から3世紀にかけて作られたもっとも初期のパピルス冊子本は文学的な内容の標準的なパピルス巻子本に比べて、文字の美しさの点でずっと劣っている。それらは書物の外形的な側面よりも、むしろ書かれた内容のほうに強い関心を抱いていた当時の利用者(庶民であるキリスト教徒)のために書かれた、いわば実用的な文字だったのである。

実際の話、巻子本に対して冊子本は、実用面で明らかに大きな利点を持っていた。まず第一に冊子本の場合、紙の両面に書くことができたので、片面しか書けなかった巻子本より、はるかに多くの分量のテキストを収めることができた。第二に巻子本は手に取って読むときに、その扱いが面倒であった。第三に書写作業にかかる平均的な経費の点で、同じ分量のテキストに対して、パピルス冊子本のほうがパピルス巻子本よりも26%も安くなるという。第四に冊子本のもう一つの利点は、書物の本体と表紙がコンパクトなため、傷みに対して相対的に抵抗力があった。そして冊子本の最大の利点は、巻子本のように読み終わったときに巻き戻す必要がなく、極めて使いやすいことである。さらに冊子本では、必要な個所に栞(しおり)などを入れて、読み直したい部分をすぐに見つけられることも、大きな利点といえる。

とはいえギリシア・ローマ時代の長きにわたって、巻子本こそがまずもって書物だったわけである。冊子本は、上に挙げたような多くの利点を持っていたにもかかわらず、直ちに伝統的な巻子本にとってかわったわけではない。そのためにはローマ帝国の政治・経済・社会情勢の大きな変化が必要であった。ローマ帝国は、後2世紀末から後3世紀にかけて、さまざまな危機的な状況に陥った。属州反乱の頻発、ササン朝やゲルマン人との戦いなどが重なり、経済混乱も生じて社会不安に至った。また政治的にも軍人皇帝の時代という混乱期でもあった。

こうした経緯を経て、コンスタンティヌス帝によって、後313年、キリスト教が公認されることになった。それに伴って主としてキリスト教徒がかかわってきた冊子本が、従来からの巻子本にとって代わったわけである。およそ二百年にわたった巻子本と冊子本の競合状態に終止符が打たれた。そして古い古典古代の担い手の中から生まれた新たな形の書物(冊子本)が、それに続くヨーロッパの中世を経て、今日の私たちの書物の形態として定着したわけである。

<巻子本から冊子本への古典作品の写し替え>

数百年来使われてきた巻子本と並んで冊子本が登場し、最終的には巻子本を駆逐してしまったことは、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷術の発明と、それに続く写本に対する印刷本の勝利に匹敵するぐらい重要で、しかも後世に大きな影響を及ぼした出来事であった。

その最も大きな影響の一つが、古典古代の文献が、古代末期、中世を経て、さらに私たちの時代へと伝承されてきたことであった。とはいえローマ帝政末期に、私的な文庫を含めた当時の図書館の巻子本の蔵書を、新しい書物の形態である冊子本に移し始めた時、人々は文学上のその時代の嗜好と彼らの価値観に従って、古典古代の作品を取捨選択したのであった。
その結果、例えばアリストファネス(前450~前385)の44の喜劇作品のうち、わずか11作品だけが残ったのである。また以前には大変好まれたが、冊子本への移し替えの時代には、評価が下がっていたメナンドロスの作品も、わずかなものしか冊子本にならなかったのである。しかもこれらは今日には伝わっていない。そのため私たちが現在メナンドロスの作品について所有しているテキストは、いくつかの引用は別にして、エジプト出土のパピルス巻子本だけなのである。

また東西両ローマ帝国の貴族層およびコンスタンティウス二世統治下のコンスタンティノポリス図書館をはじめとする当時の大規模な図書館も、率先して古典古代の数々の作品を、パピルス巻子本から羊皮紙冊子本へと書き写す作業を奨励するようになった。これらはスポンサーの嗜好と財力を反映した豪華本であったが、少なからぬ数の豪華本が、多かれ少なかれ、完全な形で現存しているのだ。それらを列挙すると、次のようになる。

後4,5世紀の二冊のヴェルギリウス冊子本、 ミラノのアムブロアシアーナ図   書館所蔵の後5世紀末のイリアス、ウィーンのオーストリア図書館所蔵のディオスクリデスの植物標本(献呈の銘により後512年より前のもの)、大英博物館所蔵の後5世紀の創成期、紫の羊皮紙製の3冊の『ウィーン創成期』、ロッサリーノの福音書、パリ国立図書館所蔵の後6世紀の『シノペ福音書』、

これらはごく著名なものであるが、それらがよく知られているのは、イラストが豊富に入った冊子本という理由によるのだ。ただそうしたイラスト入り冊子本は、テキスト伝承の点でいうと、必ずしも良いわけではない。たとえば後4世紀に書かれたテレンツ冊子本は、文字の字面は美しいのだが、テキストの書写にあたって間違いが多いので、文献学者の間では評判が悪いのだ。

<冊子本の形態>

冊子本の形態については、下の図像に見られるように、二つの基本形を区別することができる。

冊子本の形態(右側ー基本形A、左側ー基本形B)

基本形Aは今日の学校で生徒が使っているノートのようなものである。つまりたくさんのパピルス紙葉を中央で折り曲げて、再び開いたものである。この一束の紙葉は、折り目の線に沿って、糸で縫い合わされた。この形に属するもので代表的なものは、紀元後300年ごろの「ボドマー・コーデックス」と呼ばれるものである。そこにはメナンドロスの喜劇『気難し屋』の全文および『サモス島から来た女』と『アスピス』の大部分が収められている。
ただこの冊子本には次のような欠点があった。そこに使用される全紙の数が増えれば増えるほど、本を閉じるときに緊張が加わる。その結果、本の背中の部分に裂け目ができるか、もしくは綴じ糸が全紙の内部に食い込むようになる。そのため、しばしば折り目の個所に羊皮紙または革の細い帯状のものを貼り付けて、保護していたのだ。

基本形Bは基本形Aの技術上の欠点を改善するために、考案されたものだといえよう。この基本形Bは一折の紙葉を複数重ねて、その束(これを帳と呼ぶ)ごとに、その背中を縫い合わせていったものである。このやり方が、中世から現代にいたるまで伝えられた。こうした製本上の技術については、冊子本をよく観察するとわかるが、普通は気が付かないものである。

古代の冊子本にあっては、そうした個々の帳は全紙4枚からなっていたが、その全紙4枚から8葉、ついで16ページとなるのだ。1帳が全紙4枚から構成されているもののほかに、全紙1枚のもの、全紙3枚のもの、全紙5枚のもの、さらには全紙9枚のものまであった。

<冊子本の大きさ>

冊子本の大きさについてみると、後2世紀及び後3世紀の現存するもっとも古い冊子本では、縦長の長方形で、厚さ300ページ以下となっている。パピルス冊子本と並んで、羊皮紙の冊子本が登場するようになった後4世紀以降になると、もっとサイズの大きな本が現れてきた。これまでに知られているものの中でもっとも大型のパピルス冊子本の一つに、後4~5世紀のコプト教の詩篇を収めた冊子本があるが、これは少なくとも638ページある。さらに聖書全編を収めた後4世紀の羊皮紙製冊子本は1600ページある。また本の縦横のサイズについては、縦40センチ、横34センチという巨大本もあった。

いっぽう小型本のほうは、縦45ミリ、横38ミリというものもあった。それでも厚さは192ページもあった。その製作年代は後4世紀から後5世紀にかけてのもので、内容はマニ教の開祖の生活を記したものである。これよりさらに小さな本としては、縦40ミリ、横26ミリであるが、パピルス冊子本とはいえ、折りたたんだ1紙葉のものである。これはおそらく魔よけのお守りとして使われていたものと思われる。教父ヨハネス・クリュソストモスも、「キリスト教徒は福音書のテキストをお守りにして、首からかけていた」と書いているのだから。

<冊子本の装丁>

巻物状の巻子本とは違って、冊子本にはしっかりした表紙がついていた。この点現在の書物と共通している。ただ古代の冊子本の装丁に関する私たちの知識は、長い事わずかであった。ところが1945年から46年にかけてエジプトのナグ・ハマディで発掘された後4世紀の13冊に及ぶコプト教のパピルス冊子本によって、私たちの知識は著しく豊かになった。この冊子本は、その製本が唯一の束(帳)からなっている基本形Aに相当するものである。下図のように、その装丁はとても良い状態に保たれている。

エジプト出土のパピルス冊子本とその表紙

13冊の冊子本の装丁は、それぞれわずかな違いがみられるものの、おおよそ次のようになっている。まずその表紙にはヤギまたは羊の革が使われている。その大きさは、その上部、下部そして右側が、製本された紙葉よりも数センチ広い。そして左側には、三角形の布切れが付いている。パピルス紙葉を重ねて作った厚手の表紙を革の内面に貼り付けた後、革のはみ出した部分は折り曲げて、表紙に貼り付けた。その後、製本された紙葉の折り目には、革の細い帯がくっつけられた。それから細い革紐で綴じ合わせることができるように、表紙の一部に穴があけられた。そして最後に、表紙の革は、本の背中のところで穴があけられ、本の紙葉を内側に置く。それから細い革紐をこれらの穴に通す。こうして製本された本を閉じると、表紙の上部に取り付けられた三角形の布切れを、その先端に着いた細紐で動かして、冊子本全体をしっかりと綴じることができるのである。

 

<冊子本の場合の筆写のやり方>

冊子本の場合、紙の上への書き込みの作業は、通常装丁を行う前になされた。書き手はまず書くべきテキストの中身を吟味して、パピルスにするか羊皮紙にするか、その書写材料を選択した。それからあらかじめ1帳(紙葉を束ねたもの)ごとの全紙の数を確定しておく必要があった。というのは書き始めてからでは、1帳のページ数を変更できなかったからである。

また書いている間、ページや帳の順番をきちんと把握しておかねばならなかった。そのための一番簡単なやり方は、事前の丁付け(ページ数をつけること)であった。冊子本の多くで、こうした丁付けが、たいていの場合、上端の中央部になされていた。この丁付けの作業は、本を製本した後で行われていた。それは読者がテキストの中の特定の個所を、いつでも速やかに見つけられるようにとの、配慮であった。これは巻子本の場合にはできないことであった。
この実利的な便利さという考えは、官庁や商売上の実務に伴って生じてきたものといえよう。

また羊皮紙冊子本の場合は、書く前に羊皮紙の上に尖筆によって罫線が引かれた。これによってページごとに書くための面積が同じになり、上下同じ間隔で書くことができたのである。また文字を収めるスペースがページごとに異なることがないようにするために、1帳ごとに紙葉を重ねて、1ページの中の各部分の四隅に穴を通して開け、文字を書く範囲を確定したのである。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 01

その01 ギリシア・ローマにおける文字の誕生とその活用

私が<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>の研究を始めた動機

私はこの30年ほど、ドイツおよびヨーロッパの書物ないし出版の歴史を研究してきた。そしてその過程で、数冊の研究書を著した。ドイツの出版史の通史ともいうべき『ドイツ出版の社会史』(1992年)から始まって、19、20世紀のドイツ出版文化史の一側面としての『レクラム百科文庫』(1995年)、15世紀半ばに活版印刷術を発明したグーテンベルクの生涯と業績について書いた『グーテンベルク』(清水書院「人と思想シリーズ」、1997年)、そして15世紀から18世紀までを扱った『ヨーロッパの出版文化史』(朗文堂、2004年)などである。この最後の著作において、いわば導入部としてグーテンベルク以前のヨーロッパ中世の書物(写本)の世界について、一般的状況を述べた。

その後私の関心は、中世以前つまり古代ギリシア・ローマ時代の書籍とそれをめぐる状況は、いったいどんなものだったのか、という事に向かった。そうしたときに出会ったのが、“Das Buch in der Antike”(ギリシア・ローマ時代の書物)というドイツ語の本であった。この著作をざっと読んでいくと、本書こそ私が求めていた研究内容の要諦を十二分に満たしてくれるものであることが分かった。そこで私は、本書を日本語に翻訳して、広く日本の読者に提供することにした。翻訳が終わった段階で、ギリシア・ローマ史の専門家に読んでもらった。その際古代ギリシア・ローマ時代の人名、地名、官職名、建築物の名称その他もろもろの表記法ならびに西洋古代史の知識一般について、ご教示いただいた。

こうして刊行されたのが、『ギリシア・ローマ時代の書物』(朝文社、2007年10月)であった。このブログでは、本書に基づいて、<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>一般について、わかりやすく紹介していくことにしたい。

ギリシア人はフェニキア人から文字を借用

今日の日本では、時代も空間も遠く離れた古代ギリシアに発するもろもろの事柄が、驚くほど豊富に浸透している。それはなぜであろうか? 日本は長い事、中国文化圏の辺境にあって、その影響を強く受けてきた。そして実に長い間、中国以西の事柄については、シルクロードを通じてもたらされた正倉院御物などの文物や、遣隋使、遣唐使などによる事物や知識の受け入れによって知ってきたに過ぎない。

遠く離れた西洋の事情について日本人が本格的に知るようになったのは、端的に言って、今から170年ほど前の幕末維新の文明開化の時代からのことであった。
その後、その西洋文明の基盤を作ってきたギリシア・ローマ文明についても、少しずつ日本に伝わるようになってきた。現在、日本でも、ギリシア神話やローマ神話に関する一般的な書物、ギリシア悲劇の上演、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどのギリシアの哲学者たち、古代ギリシアのオリンピアで発祥したオリンピック・ゲーム、ギリシア文字のアルファベット(アルファ、ベータ、ガンマ・・・)、アテネのパルテノン神殿、ローマのコロッセウムや各地に残る水道橋などなど、様々なことが一般の日本人の間に知られている。

いっぽう<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>となると、日本ではほとんど知られていないと言えよう。いうまでもなく、書籍は文字によって書かれたものであるが、例えば古代ギリシア時代に、書かれていた文字はいったいどのようなものであったのだろうか?

その前に古代のギリシア人とはいったいどのような人々であったのか、ざっと紹介しておくことにする。この民族はインド・ヨーロッパ系で、紀元前20世紀以降、バルカン半島北部からギリシアに南下、定着した。方言により、東方方言群(イオニア・アイオリス人)と西方方言群(ドーリア人)に分かれる。このうち、イオニア人は半島東部や小アジア西岸に定着したが、アテネが代表である。

これらのギリシア人は、前8世紀ごろ、有力者(貴族)が中心となって軍事的・経済的要地へ移住し、周辺の村々を統合した。それらがポリスと呼ばれる都市国家であったが、城壁で囲まれた中心市と、周囲の田園地帯とからなっていた。それぞれ政治的に独立しており、1000以上のポリスが存在していたという。

いっぽうギリシア人たちは、航海が得意で、これらのポリスを離れて、エーゲ海沿岸やさらに地中海沿岸、イタリア半島沿岸などに、植民市を作っていた。これらのギリシア人たちはギリシア語の方言を話していたが、はじめは、文字を持っていなかった。そのため現在のレバノン海岸に多くの都市国家を建設し、地中海貿易を独占していたフェニキア人の文字を、ギリシア人は前8世紀に借用した。その場所は、フェニキア沿岸のギリシア(イオニア人)の在外公館だったといわれている。

フェニキア・アルファベットの借用と改良

フェニキア人は、セム系の民族であったが、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を基に自分たちの文字を作った。それは22の子音からなる表音文字であった。ヘブライ文字やアラビア文字と共通しているといわれる。いっぽうギリシア人は、インド・ヨーロッパ系で、言語系統は異なっていた。そのためフェニキア文字を借用する際に、根本的な修正を加えた。ごく大ざっぱにいって、ギリシア語には表れない子音価を持つ5つのフェニキア文字を、母音aeiou,を表す文字としたのだ。たとえて言うと、古代の日本で、中国の文字(漢字)の発音だけを借用して、万葉仮名を作ったのと事情は似ているといえよう。

ところでドイツ人の文献学者キルヒホッフは、初期ギリシアのアルファベットを東部ギリシアと西部ギリシアに色分けした地図を作製した。それによってそれぞれのアルファベットの普及図を、東部は青色、西部は赤色という具合に色分けしたのだ。前750年ごろから導入されたアルファベットは、前5世紀初めには、全ギリシア語圏に定着したという。ただ東部と西部という具合に大きく区分けされただけではなく、個々の都市国家や地方で、アルファベットの無数のヴァリエーションも生まれていた。

地域文字の統合へ

ギリシア・アルファベットはその後、「地域文字」を統合する方向に向かった。それはすでに廃れてしまった記号を廃棄することによっても示された。これに関連して、極めて重要で、しかも後世に影響するところの大きかった出来事が、前403年に、アテナイの首席執政官エウクレイデスの時代に起こった。それは住民投票によって、ミレトス市のアルファベットを借用するとの決定が行われたことだった。その改革によってアテナイに、新たに4つの文字が導入されたのであった。そして時期の差はあれ、すべてのギリシアのポリスや地方で、このいわゆるエウクレイデスのアルファベットを事実上、習得するようになったのである。その結果ギリシア語のアルファベットは、最終的に24個になったのであった。

ところでギリシア文字で書かれた最も古い証拠物件の一つが、イタリア半島のナポリ近くに浮かぶイスキア島にあったイオニア人の植民市ピテクサイ出土の陶器である。これは前8世紀後半のものである。もう一つの証拠物件は、エーゲ海南部に浮かぶかなり大きなロードス島から持ち込まれた飲用容器である。そこにはある書くことの達者な人物が、宴会の場で上機嫌に一つの格言を書き込んでいるのだ。「ネストルの杯は飲むによし、されどこの盃により飲みし者は、直ちに美しき冠を付けしアフロディテの求めを受けることになるべし。」この盃が回し飲みされたところでは、人々がただホメロスを知っていたというだけではなくて、このような詩を作ることさえできたのだ。

ギリシア文字からエトルリア文字ができた

イタリア半島の中部トスカーナ地方を中心に、系統不明の民族エトルリア人が定住していた。その最盛期は紀元前7~前6世紀で、王政の12の都市国家が都市連合を形成していた。一部のエトルリア人は前7世紀末にローマを支配したが、前5世紀以降衰えて、前3世紀にローマに征服された。とはいえこのエトルリア人は、建築のアーチ・水道橋をはじめ、衣服、官制、習慣などで、ローマに大きな影響を与えたのであった。

さてこのエトルリア人は、イタリア半島中部にあったギリシア人の植民都市に居住していたイオニア人の使っていたギリシア文字を借用したのであった。それはギリシア人がフェニキア文字を借用してから数十年もたたない時期であった。エトルリア文字で書かれたもっとも古い銘文は、前700年ごろの陶土製の容器に刻まれたものであるが、それらは南エトルリアの中心地で発掘されたものであった。

当時エトルリア人は西南アジア及びギリシア世界と活発な商業活動を展開していたが、その過程で大規模な都市施設が作られ、また豊かさの上に貴族制度が生まれていた。貴族たちは物質的な財とともに、意識的にオリエント的、ギリシア的な生活様式も取り入れていた。この生活様式には、文字の知識とその習得も含まれていたわけである。

中部トスカーナ地方で発掘された「王侯貴族」の墓(前670年)に入れられていた副葬品の中から、象牙製の書き板が発見された。この書き板の平面には蝋が塗られ、その上に子供が尖筆で書いていたのだが、上部の縁には手本として26のアルファベット文字が書き込まれているのだ。これは児童用の文字の練習板だったのだ。

副葬品の中から発見された象牙製の書き板。上部の縁に手本用のアルファベットが書かれている。

とはいえエトルリア人はそうした模範的な26のアルファベットの文字すべてを使っていたわけではないようだ。ギリシア人がフェニキア人のアルファベットを借用したときにしたように、エトルリア人も借用したギリシアのアルファベットを、彼らの言語の音価に適合させねばならなかったからだ。そしてそうした作業を行ったうえで、エトルリアのアルファベット文字を作り上げたわけである。その際彼らは、横書きで右から左へと書いていたことが注目される。ギリシア人は横書きで、左から右へと書いていたのだが。

ローマ人(ラテン人)もギリシア人からアルファベットを借用した

この時期イタリア半島には、エトルリア人と並んで、インド・ヨーロッパ系のイタリア人が、北から南下して居住していた。その第1波(ウンブリア系)は、前16世紀ごろに、半島東南部の山岳地帯に、そして第2波(ラテン系)は前11世紀末ごろに半島中西部の丘陵地帯に定着した。
この第2波のイタリア人はラティウム地方に定住したため、ラテン人と呼ばれている。そしてラテン人が建設した都市国家の一つローマが、のちに大帝国に発展したのであった。このラテン人が使っていたラテン語が、その広大な領域で用いられるようになり、そこから後にロマンス語と呼ばれる諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語など)が生まれたわけである。

さてラテン人が都市ローマを含めて、その隣接する地域の大きな中心部において、エトルリア人とほぼ同じ時期にアルファベットを借用したことは、考古学的に立証できる。その際エトルリア人が仲介の役割を果たしたことは、大いにありうることである。ラテン人の言語においても、借用したアルファベットの中にいくつか不必要な文字が混じっていた。そのためそれらを削除して、21文字から構成されることになった。またラテン文字を書く方向は、横書きではあったが、初期にあっては一様ではなかった。しかし前6世紀の終わりごろから、左から右へ書くのが増えてきて、最終的にそれに定着した。

いっぽうギリシア人はその文字に対して、極めて響きの良い名称を与えていた。つまりアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ・・・といった風にである。同様にラテン人も簡明な音で文字を表した。つまり母音は(a, e, i, o, u) とし、子音に対しては母音を一つ加えて、発音しやすいようにした。(be, ce, de, ef, ha, kaなど)である。例外は後にアルファベットに加えられた、「純粋なローマ文字」ではないyとzである。それらに対してはギリシア語の名称ypsilonとzetが与えられた。

文字の活用(書くことと読むこと)

フェニキア文字がそれ相応の改良を加えられて、前8世紀にギリシア人によって借用されたとき、この新しい成果はしばらくの間、住民のごく限られた層の間で、なじまれていたにすぎない。そのおよそ百年後にアルファベットの借用が行われたエトルリア及び隣接したラティウムでは、発掘状況ならびに最古の碑文を記した証拠物件の種類から見て、文字の「所有」が初めは富裕な上層貴族に限られていたことは明らかである。アッテイカの最古の碑文であるアテネ出土の水差しに刻まれた六歩格の詩は、踊りや宴会との関連から見て、上流層の生活様式を示すものである。

しかしギリシアでは前7世紀以降になると、文字は公衆の間でも読まれるようになった。公衆向けに書かれた最古の碑文は、前7世紀のものである。最初それは法律文書や墓碑銘の類いであったが、その数はやがて数千に及んだはずである。そしてそれらはかなりの数の人々によって読まれ、理解されたものと思われる。前7世紀には既に、壺に書かれた碑文の中に、絵画に添えて画家の署名もみられるのだ。アテネのアゴラ(広場)から発掘されたものの中には、落書きが書かれた陶器の破片がたくさんあるが、その中にはごく普段の日常生活で書かれた手紙なども含まれている。

人々はいったいどのようにして書くことを覚えたのであろうか? その際、書くことに対して、人から人へと何らかの教授があったことが推測されるのである。とはいえ前7世紀や前6世紀のギリシアで、読み書きを教える学校が存在したかどうか、我々は知るところではない。しかし個人的な家庭教師や子供の親による授業があったことは、考えられる。ただ前5世紀になると、初等学校の存在を示す確かな証拠があるのだ。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは次のように書いているのだ。「ラデ島近くの海戦を前にしたイオニア・ギリシア人の蜂起(前494年)の最中、キオス島にある学校の建物の屋根が崩落して、そこで文字を習っていた子供たち119人が死亡した」 ヘロドトスにとっては、学校の存在自体はもはや当たり前のことになっていて、そこで起きた大事故について伝えているのだ。

ドゥリスの壺絵に描かれた授業風景。ベルリン国立博物館所蔵

また前5世紀初めのものとして、学校生活をテーマにした現存する最古の壺絵が存在する。この種のものとしてもっとも有名なものが、ベルリンにあるドゥリスの壺絵である。そこには3つの授業科目の様子が描かれている。それはまずグランマタ(読み書きの授業)、ついで散文や詩の講義と暗唱の時間、そしてムシケ(音楽と踊り)とギュムナスティケ(体育)の時間である。上の壺絵を見ると、椅子の上にひげを生やした教師が竪琴をもって、座っている。その前には、同じ楽器の弦をつま弾いている少年が座っている。もう一方の絵柄は、ひげを生やした男が背もたれのついた椅子に座って、巻物を開いている様子を描いている。その巻物の中に、壺絵の作者は詩句を書き込んでいる(壺絵を見る人が読めるように横の方向に)。下の壺絵を見ると、一人の少年に対して二重の笛を吹いて聞かせている若い男の様子を描いている。その横の絵柄は、椅子に座っている男から暗唱の試問を受けている少年を描いたものだ。その横に椅子に座って、後ろを振り返っている男の姿がある。

アテナイの民主主義と文字の習得

上に述べたドゥリスの壺絵は、初期アテナイの民主主義において、文字の習得とその使用が、市民にとって重要な事柄になってきた、という事を示している。同時代に書かれた文学もそのことを反映しているのだ。たとえば有名な悲劇詩人アイスキュロス(前525~前456)の場合、正義の女神ディケが主神ゼウスの書き板の上に人間の犯罪行為を書き記す場面がある。また別の悲劇詩人ソフォクレス(前496~406)が書いた作品の中では、アカイア人の王がトロイアへの進軍を前に、皆がその誓いに従っているかどうか、調べさせているのだ。さらに第三の悲劇詩人エウリピデス(前485~前406)では、その作品『テセウス』の舞台の上に一人の無教養な羊飼いが登場し、ある人物の名前のつづりを書く場面が出てくる。無教養とはいえ、その羊飼いはギリシア文字のアルファベットは書けるのだ。

こうした偉大な悲劇の場合より、むしろ喜劇の中でしばしば読み書きの習得が事実上当たり前のことになっていた事が示されている。例えばアテナイ最大の喜劇作家アリストファネス(前450~前385)の作品『騎士』の中では、神のお告げを読むことができる、小アジアのパフラゴニア出身のソーセージ売りと一人の男が登場している。また彼の別の作品『鳥』の中では、文字を読むことのできる重装備の装甲歩兵たちに対して、出征のあとで家に帰るときに掲示板の告知に注意するようにとの指示がなされている。同じ作品の別の個所では、占い師クレスモロゴスが巻物状の本(ビブロス)をもって舞台に登場し、それを読んでいる。

前5世紀のアテナイでの書籍販売人

同様にして喜劇の中で、前5世紀のアテナイでは書籍販売人が当たり前の職業として現れていることを確認できるのだ。例えば喜劇作家ニコフォンはその作品『手仕事で生活する人々』の中で、書籍販売人を、市場に販売スタンドを持っているというので、八百屋、魚屋、炭販売人、菓子屋などと一緒に扱っているのだ。また先に述べたアリストファネスは『鳥』の中で、朝早く書籍販売人の陳列品を眺めている人々の群れをあてこすっている。

いっぽう同じアリストファネスは、皆の前で朗読するのではなくて、一人で静かに本を読んでいる人の存在を立証する最も早い時期の文学を提供しているのだ。そこでは、最近船の上でエウリピデスの『アンドロメダ』を一人で読んでいたのは、人間ではなくてディオニュソス神であると、ユーモアたっぷりに書かれている(『蛙』)。この箇所は、一義的に舞台での上演用に書かれた戯曲作品を、人々が黙って読んでもいたことを、示している。

オネシモスの壺絵。中央の人が巻物を広げて読んでる。

「一人で読書する習慣」は、すでに前5世紀の80年代からアッティカの壺絵作者によって、画題としてとりあげられている。その際しばしば、人々の中で朗読したり、楽器の伴奏とともに本を読んでいる場面も描かれている。もし描かれた対象が若い女とか娘の場合は、詩歌・芸術をつかさどるムーサイの神が選ばれている。またそれはしばしばアテナイの「良家の子女」だったりするが、いずれにしてもムシケやグラマティケにふさわしいのは、男ではなくて女性であると考えられていたようだ。

陶片追放と文字

ペイシストラトスの僭主政治が力を失った後、アテナイの初期民主主義はいわゆる陶片追放という制度を導入した(前487年)。これは国家の中で一人の人間があまりに強くなることを防ぐものであった。この制度の実施が決められた時、すべての市民がアゴラ(広場)に集まった。そして権力乱用の疑いがもたれた政治家の名前を陶片に書いて、投票した。投票総数が6000票以上あったときは、最多得票の政治家は10年間、アテナイから追放されたのであった。この陶片追放の最初の犠牲者は、ペイシストラトスの後継者ヒッパルコスであった。

陶片追放の際に用いられた陶片は一万個以上発見されているが、それによるといくつかの名前が、ある同一人物によって書かれていることが明らかにされている。それは政治闘争の中で有力な世論形成者がやったことかもしれないし、あるいは文字を書ける人物が書けない人の代わりをしたのかもしれない。また文字を書けない田舎者が、アリステイデス本人だとは知らずに、近くにいた本人にアリステイデスの名前を書くように頼んだ、という笑い話もあるのだ。そうした文盲がいたにしても、アッティカ市民の大多数が、名前を読んだり書いたりできなかったとしたら、陶片追放の制度自体が成り立たなかったであろう。

アテナイ及びギリシア世界の他の中心地域においても、前5世紀初頭以降には、大部分の人々が読み書きできたのである。ただ前3世紀初頭以降、ギリシア人によって支配されるようになったエジプト地域では文盲の数が相対的に多かったといわれている。そこに住んでいたエジプトの住民は自国の言葉を話し、読み書きできていても、支配者だったギリシア人やローマ人から文盲とみなされていたようなのである。

児童の文字習得

ギリシアでは読み書き習得のために、子供が6歳か7歳になったとき授業が始まった。まずは文字の習得にあたって、児童たちはアルファベットを初めからも終わりからも言える必要があった。普通の家庭の子供たちには、木片や象牙に文字を刻んだものを与えて、遊びながらアルファベットを覚えさせた。それから子供たちは文字を書くことを学ばねばならなかった。ごくまれにパピルスが書くための材料として用いられたが、たいていの場合は、蝋を引いた木版の上に尖筆で文字を書いていた。ただアテナイでは、児童が使っていた石盤が発見されているが、一般的なものではなかったようだ。

最初の段階では、初等学校の教師は学童の手を取って教えた。まず教師が蝋を引いていない木版のうえに文字を書き、学童は自分の尖筆でもってその跡をなぞりながら、正しい形を覚えるまで書いていったのだ。その後これらの文字は、いろいろな綴りに結ばれていった。そうした後になってようやく、やさしいものから難しいものへと、言葉や名前を全体として書くことができたのだ。こうしたやり方については、数多く現存している学童の練習帳や宿題帳の類いによってみることができるばかりではなくて、古代の作家たちのコメントによっても分かるのである。

次の段階では教師が個々の文章(たいていは道徳的な文章)を韻文形式で書き記し、子供たちはそれを真似したのである。プラトンがプロタゴラスに口頭で伝えた比喩から我々は、教師が書き板の上に二本の線を引き、その線の間に学童が文字を書かねばならないことを知っているのだ。そのような書き板の上部に教師は正確にある格言を記したが、学童はその下に二度同じ格言を書き写している。下の写真は後2世紀のものだが、これを見れば初等教育のやり方というものは、何世紀たっても基本的には変わらないものであることが分かる。

学校での文字練習用の書き板

読むことの習得

読むことの習得は、書くことの習得と切り離すことはできないものである。つまり互いに不即不離の関係にあるのだ。したがって読むことの練習も、同じ方法で行われたのである。個々の文字の次には個々のつづりへ、そして個々の単語へと進んだ。そしてその単語も発音の易しいものから難しいものへと。また名詞や動詞の語形変化の練習も済まさねばならなかった。そして最後に書き取りや読むためや暗唱するために、かなりの分量のテキストが用意された。

それは短い物語であったり、有名な詩人や散文作家の作品からの抜粋であったりした。まずホメロスがきて、それから悲劇詩人のエウリピデスや喜劇作家のメナンドロス(前342~前292)、アッティカの雄弁家デモステネス、ヒュベレイデス、イソクラテスとなった。

前4世紀後半のアレクサンドロス大王の大遠征の後、エジプトや西南アジア一帯が政治的、文化的にギリシアに組み込まれた。ヘレニズム時代と呼ばれるその時代になると、その地域の都市にはいたる所にギュムナシオンと呼ばれる教育機関が生まれた。これは主として若者の身体教育を担う所であったのだが、上級学校の人文科学的科目の授業の場所としても用いられた。ここではグラマティコス(文法学者)が教えていた。授業の主たる教材としては、偉大な詩人や散文作家の作品がそのまま用いられた。生徒たちは今や積極的にこれらの作品に取り組み、考えたり、論じあったりしなければならなかった。さらに一連の課題が与えられたが、それについては我々はオリジナルな形で残っているものによって直接知ることができるのだ。

今や書くための材料としてはパピルスが用いられたのだが、真新しいものではなくて、すでに書かれたものの裏側を使うのである。ギュムナシオンの生徒に対する課題の一つに、本文を解釈する仕事があった。例えばホメロスの章句のわきの欄外に、詩人によって用いられた言葉の解釈を書き加えねばならないのだ。さらにある文学作品の一節を自分の言葉で言い直すという課題もあった。あるいは与えられたテーマに即して作文をするという作業もあった。それから音律に従った正しい朗誦を習うために、一語一語綴りや節に従ってアクセントをつけて唱える練習もあった。

ローマにおける読み書きの習得

前4世紀初頭、中部イタリアのファレーリの町に小学校の教師がいて、数多くの家庭の子供たちにギリシア風の授業を行なっていたことが伝えられている。またラティウムの都市トゥスクルムにも、この時代すでに学校があったという。そして前234年にローマで最初に報酬をとった学校が、ある解放奴隷によって開かれたことが、プルタルコスによって伝えられている。さらに前310年ごろ、エトルリア文学を学ばせるために、子息たちをカエレに送ったことも知られている。当時エトルリアの教育制度は相当高かったと言われる。

いっぽうエトルリアの美術には、モノを書く神々が表されているが、それはたいて死者の名前を書いた巻子本あるい二枚折の書き板を手に持った死の悪霊なのである。発掘されたエトルリアの石棺や骨壺はおびただしい数に上るが、それらの石棺の上には、書き板や巻子本を手にした人物の像が乗せられている。そしてそこにはしばしば死者の名前や年齢が記されているのだ。タルクィニアのラリス・プレスナ出土の巻子本には死者の簡単な経歴も記されている。それは文字や文学にかかわった一人の人物だったことが分かる。

出土した石棺の蓋の上に横たわる人物。ひろげた巻子本を手にしている

ローマ人がヘレニズム時代にギリシア世界の一部をその支配下におさめていったとき、彼ら、とりわけその上層の人々は、物質的な財のほかに、被支配者の文学、学問そして教育面での文化財などを、自分たちのものにしていったわけである。その一環としてギリシアの作品をラテン語に翻訳する作業もなされた。最初の翻訳者はリウィウス・アンドロニクスという人物であったが、彼は前3世紀の後半に『オデュッセイア』をラテン語に翻訳した。また前1世紀のローマの哲学者キケロが言っているように、ローマの教養人にとって二つの言語を話すことは、ますます自明のことになっていったのだ。

さらに都市ローマや他の中心的な都会では、紀元前1世紀の共和制末期から帝政時代にかけて、一般に書くことや読むことが多くの人々にとって当然の能力になっていったわけである。このことは壁に書かれたグラフィット(落書きの類い)や壺などの容器に書かれた銘文、あるいは公的・私的を問わず無数に存在した銘文などによって証明されるのだ。壁に書かれたグラフィットの多くには詩の引用が見られたりするが、こうしたものは必ずしも文学にかかわっていたわけではなかった。中には計算が上手にできることや、碑文を読めることを自慢しているものも少なくないからだ。さらに詩文を軽蔑した成り上がり者たちもいたのだ。

ローマにおける上級学校教育

ローマにおける上級学校教育の開始は、前3世紀から前2世紀への転換期のころのことである。最初のラテン語の教師は、先に紹介したリウィウス・アンドロニクスであった。彼はギリシアの伝説を材料にして、数多くの戯曲を作ったのだが、とりわけホメロスの『オデュッセイア』を大変正確にラテン語に翻訳した人物である。次いで前2世紀の前半には南イタリア出身のエンニウスが教師として活躍する傍ら、数多くの戯曲や風刺作品のほかに、ラテン語による最初の国民叙事詩を書いている。それはローマの歴史に題材をとった『年代記』であった。

   レリーフに描かれたアウグストゥス帝時代のラテン語授業の風景。

ラテン語文法の授業がしっかりした形をとるようになったのは、ようやく前1世紀終わりのアウグストゥス帝の時代のことであった。そのやり方はギリシアの上級学校を模倣したものであったが、唯一の違いはラテン語の詩文が使われたことであた。ローマ第一の詩人ウェルギリウスを初めとしてホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、スタティウスなどである。ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』は、その死後公刊され、授業にも直ちに取り入れられた。そして長らくこの作品は、授業での教材として第一位を占め続けた。もっとも重要な散文作家としては、政治家でもあったキケロ及び歴史家のサルティウスを挙げることができる。

ローマの教養層の間では、少なくとも前1世紀前半のキケロの時代以降は、二言語を用いるのが普通だったので、ラテン語の授業と並んでギリシア語の授業も重要であった。首都ローマ並びにローマ帝国のラテン語圏の都市では、ギリシア語学校の教師はほとんどがギリシア出身者、それもしばしば解放奴隷の身分のものであった。また上流階級の間では、文学的教養を身に着けた解放奴隷を、秘書や朗読者あるいは私設文庫の司書として雇う習慣があった。

雄弁術のための修辞学学校

前5世紀以降、古代ギリシア・ローマ時代を通じて、雄弁術というものが重要な意味を持っていた。明晰にそして説得的に、さらに人々の心をかき立てるように演説できることは、当時の政治家や弁護士や将軍たちにとって、必須の前提であった。
こうした伝統はその後ヨーロッパにも受け継がれて、現在においても欧米世界では、演説の重要性は公的世界で活躍するリーダーたちにとって、自明の理になっているわけである。この点は、以心伝心や忖度など、言葉によらない意思疎通がまかり通っている日本とは大きく事情を異にしているようだ。

さてギリシア・ローマにおいて、公の世界で指導的な役割を果たそうという者には、修辞学の勉強が不可欠であった。そのためアリストテレスやキケロなどの著名な人物は、雄弁術について数多くの手引書を書いている。また後1世紀に活躍した雄弁家のクインティリアヌスも、『弁論術教程』という著作をものしている。我々はそこから学校の低学年の授業における有用な助言をくみ取ることができる。著者によれば、雄弁家になるためには、すでに子供の時からの教育が大事だというのだ。

雄弁術の習得は、主として散文作品とりわけ著名な雄弁家が残した作品に基づいていた。とりわけゴルギアス、アンティフォン、イソクラテスといった雄弁家の著作が、授業で取り上げられていた。その最も重要な路線を定めたのは、バロック的な言葉の誇張を嫌った前4世紀アッティカの偉大な雄弁家たちであった。そのためデモステネスをはじめとするアッテイカの雄弁家たちのテキストが、パピルスなどに数多く残っているのも、何ら不思議ではない。そうしたパピルスの中には、学生が書き写したものも少なからずあるのだ。

声を出してする読書

今日われわれは、書物や新聞やその他のテキストを、通常声に出して読むことはしない。ところがこの読書の習慣は、古代ギリシア・ローマにあっては、逆転していたのだ。つまり少なくとも文学ないし詩に関するテキストは、一人でいるときも、声に出して読んでいたのだ。そしてこの習慣を破った場合には、奇妙なことをする人だと思われたようだ。古代にあっては、文学は読むときにも、音の響きとともに受容されていたわけである。そのため芸術的な内容の散文作品の場合にも、耳に心地よいように工夫がなされたのだ。文章はリズムに乗って流れるように書き、母音が連続することは避けていた。また富裕な人々の間では、詩や散文のテキストを、手慣れた家内奴隷に読ませることが、普通に行われていたという。

とはいえ古代の人々が全く黙読しなかった、とまでは主張することはできない。とりわけ記録文書や手紙などの場合は、黙読されていたことを証言する資料も若干ながら存在する。そしてまた、少なくともローマ時代には存在していた公共図書館の読書室において、すべての人が声に出して読書していた、などと想像することは難しい。他方、ヘレニズム時代の図書館には、利用者のために倉庫のような蔵書保管棚、広々とした柱廊広間あるいは遊歩廊が備わっていたので、これなら「声に出してする読書」に向いていたと言える。

読書する時の姿勢

次に人が読書する時の姿勢であるが、前5世紀初めのアッティカの壺絵に、読書する人間の姿が、初めて登場するのだ。そしてこのテーマは古代末期から、さらに後の時代にも引き続き好まれた。時として巻物状の本(巻子本)を手にして立っている人の姿も描かれている。とはいえ、もっと楽な姿勢で読書するのが普通だったようだ。つまり描かれたものを見ても、たいていは椅子に座って、両手でひろげて巻子本を読んでいるのだ。

巻子本を読んでいる人を描いた壺絵

いっぽう巻子本を読むときの動作と、そのさまざまな段階について調べた本が公刊されている。それによると、まず読み始めるとき、読む人の左手は巻物の初めの部分を開いている。いっぽうその右手はまだ沢山残っている膨らんだ部分を握っている。次いで巻物の中間部を読む姿が示され、最後には巻物の膨らんだ部分は左手が握っているのだ。また読書を中断したときの様子も描かれている。その時巻物は片方の手でつかまれ、その中間部は、巻き取られた最初の部分とまだ開かれていない終わりの部分の間で、たるんだ状態になっているのだ。次の図版をご覧になれば、このことはよく理解できよう。

         巻子本を読んでいる途中の姿を描いた墓石立像

この図版には、墓の中央に立ってその左手に巻子本を握っている一人の男の像がみられる。この立像の周辺に書かれた碑銘によって、帝政ローマ時代の後94年に、時の皇帝ドミティアヌスによって催された詩のコンクールで、立像に描かれた少年が詩を朗読して、優勝したことが分かる。