水の豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~後編

ドイツ旅行5日目 4月5日(金)晴れのち曇り

朝食後8時半ホテルを出て、地下鉄U5号線に乗る。そしてウンターデンリンデン駅でU6号線に乗り換え、シュヴァルツコップシュトラーセ駅で下車。近くのフランス人共同墓地に入る。そこにユグノーの子孫テオドール・フォンターネ及びその妻の墓地がある。

テオドール・フォンターネとその妻の墓

フォンターネ(1819-1898)は、フランス人の新教徒(ユグノー)の末裔の薬剤師ルイ・アンリ・フォンターネの息子として、ベルリンの北西部ノイルッピンに生まれ、のちにベルリンに出て、作家として活躍した人物である。その生まれ故郷の町には、明日日帰りで訪れる予定だ。
ユグノーというのは、17世紀の末、フランスのルイ十四世によって迫害を受け、国外に逃れた新教徒のことを言う。当時ドイツ北部ブランデンブルク地方の領主、大選帝侯はそれらのユグノーを積極的に受け入れたわけである。西洋史の教科書にも出てくるが、フランスでは16世紀末に「ナントの勅令」というものを時の国王が発令して、カトリック教徒と新教徒の間の宗教戦争を収めた。以後百年間ほど、新教徒(ユグノー)は、フランス国内で社会・経済的な発展に大いに貢献してきたのであった。彼らは進取の気性に富み、職人や技術者、知識人などを職業としていて、遅れたブランデンブルク地方にとっては、国土の発展に大いに役立つことが期待されたわけである。

さて広々とした敷地の奥まったところにフォンターネの生涯と業績を紹介する建物があった。この作家は墓地に埋葬されている人の中でも、最も有名な人物であるため、こうした施設があるわけだ。

フォンターネの生涯と業績を紹介する建物

それほど広くない建物の中には、極めて詳しい展示が所せましとなされていた。その奥の方には、フォンターネの大きな立像も見えた。

フォンターネの立像

血の気の多い若き日には、彼はベルリンで起きた3月革命に、革命派として暴動に参加して闘った。翌1849年には、それまで従事していた薬剤師としての仕事を完全にやめて、自由な文筆家として活動し続けようと決意した。まず民主主義急進派の「ドレスデン新聞」に政治的文章がいくつか発表され、最初の書籍も出版された。1850年クマーと結婚し、ベルリンのアパートに二人暮らしを始めた。翌年には政府の情報局本部に採用され、情報局特派員としてロンドンに行き、1855年から59年までそこで暮らした。この時期フォンターネは『イギリス通信』という特派員報告を書き、ラファエル前派という芸術運動をドイツの幅広い読者層に初めて紹介することになった。

やがて特派員としての任務を終えて帰国したが、編集者としての職は見つからず、紀行文学に専念した。19世紀の中頃、まだごくわずかな人間しか旅行できなかったため、旅行記はまさにブームだった。これら紀行文に歴史や様々な物語が追加されて、『ルッピン伯爵領』という小品が出版され、翌年の第二版では、『マルク・ブランデンブルク周遊記』という風に改題された。フォンターネはこの周遊記をどんどん追加していって、最終的には5巻にも及ぶ大作となった。この『周遊記』の仕事が、のちの彼の叙事文学の創作活動の素地を形作った。

詳細な展示を見た後、人気のほとんどない静かな墓地の中のベンチに長男と一緒に座って、しばらく休みをとった。

その後フリードリヒシュトラーセ駅で、Sバーン(電車)に乗り換え、ポツダムへ向かう。日本人には、「ポツダム宣言」で知られているが、ベルリン市のすぐ西隣に位置していて、そのあたりには湖が入り組んでいる。ブランデンブルク州の州都であるが、18世紀にプロイセン国王のフリードリヒ大王が作らせた「サンスーシー公園」が町の西側に広がっている。ポツダム宣言は第二次大戦末期1945年7月17日~8月2日、米・英・ソ連の首脳が開いたポツダム会談で発せられたもので、日本に降伏を促したものだ。その時の会談の場所が、「ツェツィーリエンホーフ宮殿」で、会談が開かれた部屋は当時のままに保存され、見学できる。私も20年ほど前にこの部屋を訪れたことがある。もともとはホーエンツォレルン家の最後の皇太子ヴィルヘルムが家族とともに住んでいたところだ。

さてSバーンのサンスーシー公園駅で下車。バスに乗り一つ目で下車。新宮殿に入るための切符を購入する。

サンスーシー公園内の新宮殿

その向かい側にも、とても立派な宮殿風の建物が建っているが、今はポツダム大学の所有になっているという。新宮殿に入るには、ガイドの案内が必要である。そこでドイツ語ガイドのグループに参加申し込みをする。参加客は30人ほどだ。中年女性がガイドであったが、12時から13時までの案内だ。見学客が通る通路には厚手のジュータンが敷かれている。20年ほど以前に入ったサンスーシー宮殿( 1745~1747)では、ジュータンは敷かれていず、見学客は靴を履いたまま、その上に大きなスリッパを履くことになっていた。ちなみに「サンスーシー」とは、フランス語で「憂いなし」という意味で、日本語では「無憂宮」と呼ばれている。18世紀のプロイセン王国の王侯や貴族たちはフランス語で会話していたという。この最初の宮殿はロココ様式の華麗な宮殿で大王自ら設計に加わったという。

20年前のガイドで印象的だったのは、宮殿内部にふんだんに用いられている大理石が、遠くイタリアからはるばる船で運ばれてきたという話だ。当時はそのルートがよくわからなかったが、その後地図で調べたところ、イタリアから船で地中海を通り、ジブラルタル海峡を抜け、さらに英仏海峡を通り、ハンブルクからエルベ川に入り、その川をさかのぼり、支流のハーフェル川に入り、ポツダムに着いたという事だ。内陸にあるベルリンへは河川交通が有効だったのだ。

さて今回のガイドだが、フリードリヒ大王が1763年から1769年にかけ建てたロココ様式の大宮殿で、200以上も部屋がある。入り口近くの洞窟の間は貝殻細工の装飾が見事で、必見と案内書に書かれている。ただそこには奇妙奇天烈な蛇やトカゲや亀や竜などの動物が描かれていて、グロテスクだ。とはいえほかの部屋には見るべきものがたくさんあり、私の好きなチェス盤が中央に置かれた遊戯室もあった。

チェス盤が置かれた部屋

華麗な大部屋

新宮殿を見物した後、公園駅隣にあるビヤホールに入り、昼食をとる。次いでSバーンに乗り、二駅戻って、ポツダム中央駅で下車。駅は20年前に比べて、はるかに整備されていて、大勢の人で賑わっている。駅から離れ、長い橋を歩いて湖のほとりの船着き場を確認した。日曜にその船着場から遊覧船に乗る予定なのだ。

ただこの日はポツダム市内の見学はしないで、電車を乗り継いで、ホテルに戻った。

ドイツ旅行6日目 4月6日(土)快晴

午前6時ごろ目が覚め、着替えて机の前に座り、フォンターネの旅行記の中の  Havelland(ハーフェルラント)の部分を読む。その後7時のテレビニュースを見る。7時半、長男と一緒に朝食をとる。
次いでホテルを離れ、B5地下鉄に乗り、中央駅へ。そこでSバーン(電車)に乗り換え、シャルロッテンブルク駅で、地域急行に乗る。土曜のためか、自転車を電車に載せて旅行する人が多い。ドイツの電車には、そうした自転車を載せる空間があるのだ。ただ我々が座った席が、そうした車両だったので、いささか窮屈な感じはした。地域急行はベルリン環状線を離れ、北西の方向に向かって走っていく。およそ1時間で、ノイルッピン駅に到着した。

ノイルッピン駅のプラットフォームと人々の姿

自転車を載せた客たちもこの駅で下車した。そこからはサイクリングに切り替わるわけだ。その人たちとは別れて、町の中心地へ歩いていく。市域は狭く、碁盤目状に整然としている。 やがて中心広場の近くの場所に一軒の立派な薬局が見えたが、その店の入り口の上の方に、フォンターネの生家という文字が書かれている。かつて彼の父親が営業していた薬局で、フォンターネは7歳まで暮らした。しかし父親が借金のためにその薬局を売却して、別の土地に小さな薬局を開いたので、家族はノイルッピンを去ることになった。それでも後に作家として大成したため、この町は今では Fontanestadt(フォンターネの町)を称しているのだ。

フォンターネの生家(現在は獅子薬局が営業中)

次いで近くの広場へ行くと、その中に建築家のカール・フリードリヒ・シンケル(1781ー1841)の立像が建っていた。シンケルといえば19世紀ベルリンの代表的な建築家で、現在もベルリン中心部に立っているいくつかの建築物の設計者として名高い人物だ。19世紀のノイルッピンは、ドイツを代表する建築家と作家を輩出しているのだ。

公園の中に立つ建築家シンケルの立像

その後旧市街のはずれに近い場所にフォンターネの座像があった。帽子とショールと杖を脇において座っている姿で、片手にペンを握り、もう一つの手にはノートをつかんでいる。いつでも、どこでも、思いつけばそのノートに書きつけていたのであろう。

フォンターネの座像
(帽子とショールと杖を脇に置き、ペンとノートをつかんでいる)

それから旧市街の西側に立っているノイルッピン博物館に入る。この地域の郷土博物館だ。18世紀以来、この町にはプロイセン王国の軍隊の関連施設があった。そのため町の人々は軍隊と密接なつながりがあったという。

ノイルッピン博物館の外観

博物館の詳しい展示を見て歩いて、いささか疲れたので、博物館を出て、すぐ近くのレストランの野外テーブルに座って、昼食をとる。

元気を回復して、こんどはノイルッピンの中心街の東に広がっている湖に出て、湖畔のベンチに座る。湖の向かいには緑がいっぱい広がっている。また湖畔には船着き場があったが、その日は船の姿は見えない。フォンターネはこの湖の周りに沿って歩き回り、その景色などを『周遊記』に書いている。

雲が浮かぶ湖畔の遠景

この日は久しぶりに初夏のような陽気で、ノイルッピンの町を行く人々の姿も夏着が多い。一昨日のシュプレーヴァルトでは、冷たい雨に降り込められたが、4月のドイツの天候は、まさに「気まぐれ」なのだ。

帰り道は来た時と同じ経路で、午後6時前にホテルに戻る。

ドイツ旅行7日目 4月7日(日)快晴

午前6時ごろ起床。7時半朝食。8時半ホテルを出て、Sバーンに乗り再びポツダムへ向かう。中央駅で下車。駅前の長い橋を渡って、湖畔の船着き場に着く。城めぐり遊覧船11時発の切符を買う。1時間半の行程だ。出発まで時間があったので、船着き場のベンチに座って、周囲を観察する。強風で帽子を飛ばされる。

目の前に停泊している2隻の遊覧船

15分前に目の前に停泊している遊覧船に乗り込む。好天なので眺めの良い上の席に座る。そして1時間半の船旅を楽しむ。湖畔に沿って立っている城や建物を見ていくわけだ。

別の船着き場とユニークな建物

自分としてはハーフェル川(湖)をよく知るために長い4時間のコースを希望していたのだが、うまくいかずにやや平凡な城巡りコースで我慢せざるを得なかった。
12時半に船から降り、長男の案内で市電に乗り、オランダ人街へ向かう。赤褐色のレンガ造りの街並みは、見事に調和がとれている。20年前にここへ来たときは、長年放置されてきた街並みの整備が始まったばかりであったが、今回はそれが完成していたのだ。

オランダ人街の整然とした通り

オランダ人街と市電とブランデンブルク門

野外レストラン「さまよえるオランダ人」

このレストランで食事をしたかったのだが、この野外席は使われていず、室内の席はあいにく満員で空席が見当たらず、少し離れた所にあった別の店に入る。そこはミュンヘンの「アウグスティーナブロイ」というビヤホールであった。もちろんこの店のビールは本場ミュンヘンのビールであるから、もちろん味に不満はない。

緑色のドームが輝くニコライ教会

帰路緑色のドームが輝く大聖堂「ニコライ教会」に入る。しばらく席に座って、オルガンの練習音に耳を傾ける。ただ明日のことがあるので、長居はせずに、再びSバーンに乗ってベルリンのホテルに早めに戻る。

ドイツ旅行8日目 4月8日(月)曇り

午前6時、NHホテルで最後の朝食をとる。さすがに早い時刻なので、ほかの客の姿はない。7時チェックアウトして、ホテルを出る。U5番線の地下鉄中央駅へ。長男は後でこのベルリン中央駅からケルンへ列車で帰るので、ひとまず自分のトランクをロッカーにしまう。次いで私と一緒にベルリン・ブランデンブルク空港までSバーンに乗って移動する。この空港は冷戦時代、東ベルリンのシェーネフェルト空港として使われていたが、再統一後は首都ベルリンの新しい空港に生まれ変わるために、大々的な再開発工事をしてきたのだ。途中いろいろとトラブルがあって、なかなか工事は進まず、ようやくドイツの首都にふさわしい大型空港として完成し、開業したのはわずか数年前であった。

しかしベルリン中央駅からは電車で40分で、大変便利になった。ただし日本からの直行便がなく、私としてはフランクフルト空港へ飛んで、そこから東京・羽田へ行くわけだ。出発まで時間があったので、長男はしばらくロビーの座性に座って、私と最後の歓談をする。

ベルリン・ブランデンブルク空港内のロビー

やがて長男と別れて搭乗口へ。途中免税店で、残ったユーロを使って、土産物を買う。10:45分発の小型機は順調にフランクフルト空港まで飛ぶ。そこで羽田空港行きのルフトハンザ機に乗るわけだ。トランクはすでにベルリン空港で預けてあるので、フランクフルトでは、身軽に動くことができた。そして搭乗口から機内に入る。8割がたの込み具合で、日本人乗客の姿は少ない。今回も通路側に座ったが、窓際には女性が座り、その間の席は空席で、気が楽だ。
やがて出発したが、昨年5月の時と同様に、南周り。バルカン半島の上空から黒海上空そしてカスピ海上空と移動し、中央アジアの国々を通り、中国に入り、朝鮮半島を横断して日本列島上空へ。飛行時間12時間半だが、往路と同様に退屈しのぎに、コンピューター・チェスを楽しむ。7局指したが、2回勝つことができた。

ドイツ旅行9日目 4月9日(火)

そうこうするうちに午前10時過ぎ、ルフトハンザ機は無事羽田空港に着陸した。外は激しい雨が降っており、空港ビルのガラスに風雨がたたきつけていた。入国手続きは案外簡単に済み、すぐにタクシーに乗り込み、気持ちよく正午ごろ無事我が家に着いた。