中欧見聞録(後編)

はじめに

「中欧見聞録」前編では、ポーランドのワルシャワ、クラクフ、ザコパネ及びハンガリーのデブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウベントなどを旅した記録をご紹介した。

今回の後編では、北イタリアのトリエステ、スロヴェニアの首都リュブリアーナおよびチェコスロヴァキアのブラティスラヴァ、プラハ、カルロヴィ・ヴァリについて、ご紹介することにする。

北イタリアのトリエステ

アドリア海北東部のトリエステ及びリュブリアーナ

8月21日: 5日間にわたるブダペスト滞在を終え、東駅からオーストリアのク ラーゲンフルトを経て、イタリア北東部のトリエステへ向かう。列車の都合でクラーゲンフルトに一泊した後、ユーロシティに乗り、オーストリア国境の町フィラッハからイタリアへと入る。途中列車はアルプスの折り重なる山並みの間の狭い土地を縫うようにして南下していく。時に道路と並行し、時に清流を横切り、また短いトンネルを十数回にわたってくぐりながら、列車は次第に下降していく。左手には切り立った峨峨たる山頂も見えたが、やがてアルプスを最終的に潜り抜けたかと思うと、もうそこは北イタリアの平野であった。

ウディネで列車をローカル線に乗り換え、ようやく目的地のトリエステに到着した。ここはアドリア海の北岸に面し、ユーゴのスロヴェニア共和国との国境の町である。ここを訪れた目的は、トリエステがかつてオーストリア・ハンガリー帝国の海への玄関口だったので、現在どの程度その痕跡が残っているものか、知りたいことにあった。

午後4時近く中央駅に降り立つと、強烈な日差しが照り付け、朝方セーターが必要だったクラーゲンフルトとは大違い。ベルリンの旅行社で予約したホテルの名前を告げてタクシーに乗り込んだが、着いた所は駅から西へ20キロも離れたドゥイノという海べりの小さな町のホテルであった。駅で100マルクを両替えして74,000リラを受け取ったが、タクシー代に37,000リラ(50マルク)、そして薄っぺらな市街地図に8,000リラ(9.3マルク)取られ、イタリアの物価高にびっくりする。おまけにトリエステ見物に不便極まりない所へ連れていかれ、一時は途方に暮れたが、結局二泊の予定を一泊にちじめ、トリエステ見物は翌日の午前中だけにする。そして一時はあきらめていたスロヴェニア共和国の首都リュブリアーナへ、午後から行くことに決心する。

8月23日: トリエステは数時間かけて、海を一望のもとに望む丘の上の城や港の周辺一帯を見て回った。しかしそこにはハプスブルク時代の面影を残すものは、これといって何一つなかった。しかし『中欧の復活』にも書かれている通り、ウィーン風カフェーハウスの老舗「サンマルコ」の再開、トリエステとリュブリアーナを結ぶ運河を建設するプロジェクト、アルペン・アドリア同盟など、最近ではイタリアも中欧諸国との結びつきを強めつつあるので、今後の成り行きではこのトリエステの町がどのような役割を果たすことになるのか、興味深いところではある。またこの港がアドリア海を通って、ユーゴのクロアチア共和国の海岸諸地域とも結ばれていることを、港周辺の散歩で確認した。その意味でイタリアは今後、オーストリアやドイツと協力して、スロヴェニアやクロアチアの西側への組み込みに積極的な姿勢を示すことが予想される。

そのスロヴェニアの首都リュブリアーナ行きを決心させたのは、ドゥイノのモーテルのフロントの女性だった。幸いこの女性はドイツ語を話し、いろいろ親切に教えてくれたので、ついでにスロヴェニア情勢について尋ねたところ、もう戦争は終わり、今では平和なので旅行は問題ない、との返事が戻ってきた。こうして午後1時40分の列車でトリエステ中央駅を出発して、リュブリアーナへ向かう。

スロヴェニアの首都リュブリアーナ

列車はアドリア海の真夏の太陽が照り付けるトリエステから、次第にカルスト台地の石灰岩がごろごろしている山地へと入り、やがてかなり広々とした盆地につく。そこにリュブリアーナがあったのだが、わずか3時間の行程であった。しかし気候風土はアドリア海岸一帯とはまるで違い、もうそこはアルプスの国なのだ。現にこの国では「アルプスの南側にある国」として、バルカンのセルビアその他と違って、中欧に属することを売り込んでいるのだ。

スロヴェニアは1991年6月末から7月初めにかけて、セルビア軍と戦ったが、この戦争は幸い短期間で終わり、戦火は隣のクロアチアに移ったわけである。リュブリアーナの町を散歩中、本屋のショーウインドーで、『スロヴェニアを巡る戦争、1991年6月26日~7月8日』という写真入りのドキュメントを見かけた。本屋に入り、この本をぱらぱらめくってみたが、分厚い立派な体裁の書物で、戦況その他が詳しく叙述されていた。スロヴェニア語、独語、英語の3種類が出ていたが、独立を宣言したスロヴェニアがそのことを、ヨーロッパや世界に向けてアピールした本なのである。

さて時間は前後するが、中央駅で降りてから案内書に書いてあった代表的なホテルの中で一番駅に近いコンパス・ホテルに入り、空き室を訪ねたところ、一人部屋が簡単に取れた。普段ならドイツ,オーストリアをはじめ、西ヨーロッパ諸国から大量に観光客が押し寄せる時期なのだが、戦争の終了を知らないために、ぐっと減っているのだ。

ホテルで一休みしてから、夕暮れのリュブリアーナの町へ散歩に出る。街並みは一見してオーストリアの町とそっくりであることに気づく。市域は狭いので、見てまわるのに時間がかからない。オペラハウス、博物館、美術館が集まっている地区を歩いてから、旧市街との境をなす川のほとりに着く。すでに日はとっぷりと暮れて、旧市街の中心を占める丘の上にある城の時計台が照明されて、美しく浮かび上がって見える。そして川辺のレストランは、夏の宵を楽しむ人々で賑わっている。私もそうしたレストランの野外テラスで食事をとる。

たっぷり飲み食いし酔い心地の中で、請求書を見てその安さにびっくりする。イタリアの物価高に逃げ出してきたばかりのことでもあり、なおさらのことであったのだ。ちなみにユーゴでは近年ものすごいインフレで、桁数のやたらと多い紙幣を発行してきたが、少し前にデノミを実施して、桁数の少ない新紙幣に切り替えた。しかし古い紙幣もまだ出回っている。

現に私もホテルでマルクをユーゴ通貨のディナールに交換したが、新旧の紙幣を混ぜて渡されたので、一瞬頭が混乱した。その時の説明では、桁数の多い紙幣例えば
100,000ディナールは、0を4つ取って10ディナールに読み替えよ、というのであった。その後スロヴェニアでは独自の通貨を発行したと伝えられているが、新旧のディナール札はどうなったのであろうか。

スロヴェニア、オーストリア、チェコ・スロヴァキアあたりの地図

チェコスロヴァキアのブラティスラヴァ

僅か一泊とはいえ大変印象深かったリュブリアーナ滞在を終え、昼過ぎに出発して、こんどは南から北へとオーストリアのウィーンに向かう。途中、マリボルやグラーツを経由しての路線だが、クラーゲンフルト~フィラハ~ウディーネの路線ほど険しい山中を走るというものではなかった。地図を見ると、マリボル辺りでアルプスの東端が終わって、ハンガリーに続く平原が始まろうとしている。列車はオーストリア東部を北上して、6時間半かかってウィーンに到着した。この町には二泊したが、ここでの体験は省略して、チェコスロヴァキアのブラティスラヴァへと進むことにする。

8月26日:このスロヴァキアの大都会はドナウ川に面した町なので、ウィーンからドナウ汽船を利用することにした。午前8時45分高速の遊覧船は大きな橋の傍らの発着所を出発し、ドナウ川を東へと向かう。もうこの辺りは平地で、両岸は緑の生い茂る所ばかりで少々退屈したが、わずか1時間でブラスティラヴァに到着した。船着き場の建物の中で旅券の検査。ビザは必要だったが、通貨の強制交換制度はなくなったと見えて、何の指示もなかった。しかしチェコの通貨コルナは必要なので、5日分としてとりあえず200マルクを交換する。

1981年にプラハを訪れた時に比べて係の人の態度が柔らかく、愛想がよくなっている。直ちにタクシーをつかまえて、予約しておいたホテル・フォーラムへ向かった。そこは旧市街の北の端に位置し、ブラスティラヴァで最高級のホテル。ひときわ目立つ所に建っている。一泊87ドル=148マルクとさすがに高いが、設備はよい。

一休みしてから旧市街見物に出かける。今まで幾つとなく見てきた旧市街と比べると、格段に見劣りする。泊まったホテルの豪華さと釣り合いが、取れていない。かつては素晴らしかったと思われる古い建物が老朽化して薄汚れ、観光用に目玉となるいくつかの記念建造物を除いては、ひどい状態にある。各所で工事中の足場が組まれ、空き家や崩れかかった家もある。案内書に書かれているような「落ち着いた雰囲気」どころではなく、はなはだすさんだ感じだ。

次いで旧市街の端にある丘の上の城へ登ってみる。この城も修築中で、中に入れない。長く放置されたままになってきた旧市街の由緒ある建物や城など、今ようやく改修工事に手が付けられたといったところだ。ただ丘の上からの眺望だけは文句なしに素晴らしい。ドナウ川の向こうには高層の住宅団地がたくさん立ち並び、市街地のかなたには工場の煙突群が林立しているのが見える。ハンガリーのエステルゴムの大聖堂横から対岸のスロヴァキアを眺めた時も、工場施設が目に付いた。しかも両者ともかなり旧式な重工業施設のようである。ここはチェコではなくて、スロヴァキアなのだ。最近になってチェコ(プラハ)の中央政府に対するスロヴァキア側の不平不満の声が時に報道されているが、この辺りの実情を見た者には、こうした不満の声(分離独立ないし大幅な自治の要求)もよく理解できる。

8月27日:翌日ホテルでの朝食時、日本人のビジネスマンと同席し、いろいろ話す。日本企業のドイツ支社に勤務していて、東欧諸国へは仕事で出張するとのこと。この日も朝9時からドナウ川の船上で、ビジネスの会合があるとのこと。チェコスロヴァキアへの日本企業の参入は、これからのようだ。

この人と別れて、朝食後大急ぎでタクシーに乗り、ブラスティラヴァの中央駅に駆けつける。ちょうど朝のラッシュ時に当たり、駅構内は大混乱。中央駅といっても、小さく粗末な建物で、しかも工事中のためここも荒れていて、終戦後の上野駅といった感じだ。

チェコのプラハ

午前9時過ぎ列車は西へ400キロ離れたプラハへ向け発車。この日は朝からどんより曇っていて、憂鬱な気分。車窓の景色もハンガリーに比べると、やや自然が荒れた感じだ。この区間は特に工業地帯はないらしいが、建物が老朽化した印象をあたえる。ようやくのことで3時過ぎに列車はプラハ本駅に到着した。

空腹を感じたので構内レストランへ入る。室内は堂々たるホールで、柱にはユーゲントシュティル風の女性像が描かれているが、テーブルや椅子などの調度品が粗末きわまわりなく、安食堂の感じだ。かつては豪華だったホールを、大衆用の食堂として長年使ってきたのであろう。もちろん党役員などはこんな所を利用しなかったであろう。後に述べるようにブルタバ(ドイツ語でモルダウ)河畔や旧市街の広場に立ち並ぶ優雅な建造物は、きちんとした改造が施され、以前にもまして光り輝いている。観光客が集まる所だから当然の措置であろうが、その他の建物は取り残されているのだ。さて駅の構内食堂では、粗末な身なりの人々が、ほとんどすべてビールの大ジョッキを傾けている。私もビールと簡単な肉料理を注文した。出てきたビールは、さすがピルゼンなど本場も近いだけあって、大変うまい。ただしナイフやフォークなどは、日本でも終戦直後には見られた安手のアルマイト製だった。

食後表に出てタクシーに乗り、予約したトランジット・ホテルへ行くように告げる。旅行社のリストには住所と1泊100マルク程度と書いてあるが、返事が届いていないので、とにかくホテルに行くよう指示されていたのだ。しかしホテルは本駅からかなり離れた郊外にあり、しかもホテルというよりは粗末きわまりない木賃宿といった所であった。だまされたように感じながらも、確かに予約だけは通じている。部屋には粗末なベッドと洗面台に壊れかかった衣装戸棚があるだけで、一泊の値段も朝食なしで1,700円とめちゃくちゃに安い。それだけに水回りの設備から、壁紙、ドアの取っ手に至るまで、粗末極まりない。ブラスティラヴァのホテルが最高級であっただけに、天国から地獄へ堕ちた思いがした。

プラハはもともとホテルが少ないところへ、改革以来トゥーリストが殺到して市内にホテルをとるのは難しいとは聞いていたが、その通りなのだ。つまりチェコの庶民が利用する宿屋を紹介されたというわけだ。しかし私にとっては、チェコスロヴァキアの庶民の生活水準の一端を知るうえで、大変貴重な経験ができた点、ありがたいと思っている。

さて宿にいても仕方がないので、教えてもらったバスと地下鉄を乗り継いで、30分ぐらいで都心部に出る。地下鉄の駅を上がると、ベルベット革命のときに大集会が開かれた目抜きのバーツラフ大通りへ出る。さすがにこの辺りは観光客でいっぱいだ。そこから古い石畳の道を幾つも通って、ブルタバ河畔に着く。そこには「5月1日橋」という名前の、川中島をはさんで架かった、とても趣のある優雅な橋があった。

斜め向かいの丘には王城が聳え、隣には有名なカレル橋が見える。橋を渡ってから、川に沿ってカレル橋まで歩いていく。あたりの川岸には、柳の木が並んでブルタバの川面にその姿を映していて、とてもロマンティックな景色だ。カレル橋に着くと、案内書の説明通りに、周囲の風景を描いた絵を自分で売っている人、土産物売り、あるいは橋の欄干に寝そべっている若者たちの姿が見え、その間を縫うようにして大勢の観光客が往来している。

橋の欄干には一定の間隔を置いて、それぞれ15の彫像が立っている。これは映画やテレビなどで幾度となく紹介されてきたプラハの代表的な風景なのだが、近づいてよく見ると、これらの彫像には鳩の糞やクモの巣が付いていて、かなりすすけた印象を与える。写真やフィルムに撮るときは、離れた所からシルエットにして浮かび上がらせれば、こうした汚れは隠されてしまうのだ。

ともかく夏も終わりの午後7時半、落日に映えるカレル橋とブルタバ川そしてその背後に控えた丘の上の城の眺めは、やはり一級品の名画だ。しかしブダペストのドナウ河畔の眺めが、スケールも大きく、あくまで華やかにきらきらと輝いているのに対して、ここプラハのブルタバ河畔は、もう少し抑制のきいた、渋くしっとりとした、いぶし銀の美しさといえよう。

8月28日:翌朝くだんの安宿の食堂に出向く。ここは朝食が別料金で、しかもバター、チーズ、ハム、ソーセージ、ジャム、卵、コーヒー、ジュースなどに、一つ一つ値段がついている。メニューに載ったこれらの品を全部注文しても、たいした値段にはならない。こうした節約した質素なやり方は、今回の旅行でももちろんこのプラハの安宿でしか経験していない。

二日目もバスと地下鉄を利用して旧市街に出て、昨日見なかった地域を中心に探索を続ける。そして夜になって旧市街の一角の大きなアーケードの中にあるLucerna
Bar を訪れる。Barといっても日本流の小さな店ではなくて、キャバレーかナイトクラブといった感じだ。ここで「ボヘミアン・ファンタジー」というディナーつきのショーを見る。もちろん外国人観光客用の催し物で、英・独・仏・伊・スペイン語を自由自在に操る男性が司会をして、ボヘミアの民族色を強く打ち出した歌や踊りを見せるものだ。ブダペストの初老のバスガイドの女性といい、ここプラハの男性司会者といい、小国には時として舌を巻くような語学の達人がいるものだ。

地下三階の大きなホールの平土間にテーブルが並び、食事をしながらショーを見る仕組みになっている。私が同席した相手はカナダ人の父子で、父親はカナダ西部のヴィクトリア近くに住む海洋学者で、北海道大学、東北大学、京都大学の同僚を訪ねるために、すでに何度も日本へ行ったことがあるという。偶然とはいえ、とても良い同席者を得たことと、チェコ産のシャンパンに快い酔いが回って、話に弾みがつく。

チェコ西部のカルロヴィ・ヴァリ

 

プラハ、カルロヴィヴァリ周辺

8月29日:翌日はチェコスロヴァキア最後の滞在地であるカルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語ではKarlsbad カールスバート)へ向かう。ここは言うまでもなく西ボヘミア(チェコ西部)にある世界的に名の通った温泉保養地で、ゲーテ、シラー、ベートーベン、ゴーゴリ、ショパンなどが訪れ、またメッテルニヒ主導の反動的なカールスバート決議がなされた場所としても知られている。18世紀以来ハプスブルク帝国支配下の高級温泉保養地として、ヨーロッパ中の王侯貴族や有名人を集めてきたこの場所が、現在どうなっているのか知りたくて、カルロヴィ・ヴァリへ向かったわけである。

朝9時半、プラハのターミナルから出発したバスは、全席指定で、満席だった。バスはボヘミアのゆるやかな丘陵地帯を快調に飛ばし、二時間ほどで目的地に到着した。バスターミナルで市内バスに乗り換え、美しい森の中を通って目指すグランドホテル・プップにたどり着く。このホテルは当温泉でも歴史が古く、最高級のレベル。昨日のプラハの安宿とは雲泥の差だ。地獄から再び天国に昇った感がある。

5階の部屋に入り、窓から外を眺めると、眼下には清流が流れ、この川に沿って両側に色とりどりのファサードを持った建物がずっと並んでいる。川のそばには湯が出る所もあり、見たところ日本の山間の温泉街に地形的には似た点もある。しかし両側に立ち並ぶ優雅で堂々とした建造物などのため、全く違った雰囲気を醸し出している。それはかつて王侯貴族が訪れた時代をしのばせるもので、ここばかりはほとんどの建物が修復を終えていて、鮮やかな色彩を見せている。

天気が悪くやや肌寒い感じもするが、ホテルにいてもつまらないので、川に沿って町の方角へ降りるようにして散歩する。やがて案内書にもある湯元の建物に着く。ヨーロッパには温泉の湯を飲む治療法があるが、そうした飲料用の温泉がそれぞれ温度を変えて、5本ほど湧き出ている。これらは建物の中のホールのような所にあり、温度は50度から70度のものまである。近くで飲むためのコップを数種類売っていたが、私はその中から陶器製の花模様の取っ手付きのコップを買って、みなと同じように飲んでみる。これは周辺のカルロヴィ・ヴァリ山塊に源を持つ鉱泉で、飲用のほかにももちろん浴用にも用いられ、そのための立派なKurhaus(クーアハウス)もある。

こうしたクーアハウスは、以前ドイツ西部のBaden Baden(バーデン・バーデン)で十分堪能したことがあるので、今回は入らず、代わりに温水の水泳プールに入る。プールは坂道を上がった高台の上にあり、そこからは対岸の家々や眼下の川の流れがよく見える。カルロヴィ・ヴァリの主なホテルや施設、公園、クーアハウス、土産物店などは、たいていこの川の両側にある。

日暮れが近づき、再び川に沿ってゆっくりホテルに戻る。そして今回の中欧の旅の最後を飾る夜の食事は、グランドホテル・プップの豪華なレストランでとることにする。食事といいピルゼンのビールといい、申し分のないものであった。

食後は部屋に戻り、テレビのスイッチをつけると、ドイツ語の放送が2~3局みられる。そこで久しぶりにZDF(ドイツ第二テレビ)のニュース番組”Heute”を見る。ここはもうドイツとの国境も近く、チェコの中でも最もドイツ的な所であることを、改めて確認する。やはりKarlsbad(カールスバート)なのだ。ホテルをはじめ土産物屋からさまざまな施設に至るまで、たいていの所でドイツ語が通用した。

8月30日:カルロヴィ・ヴァリの最高級ホテルで二度にわたり食事をし、ゆったりとした温泉気分を満喫して、翌朝はすっきりした気分で、この温泉保養地をあとにすることができた。バスは再び低い丘がうち続くボヘミアの緑野を疾走して、プラハのターミナルに到着した。そこから地下鉄に乗り換えて、鉄道の本駅へ向かう。こうして三週間にわたるわが中欧の旅に終わりをつげ、列車はいよいよ隣国ドイツのドレスデンへ向けて発車した。

最後にチェコスロヴァキアについて、感想を一言述べるとすると、チェコ地域とスロヴァキア地域の間の大きな格差、並びに観光への重点的な力の投入と庶民の生活水準の予想外の低さ、ということになろうか。(完)

中欧見聞録(前編)

はじめに

1991年8月から9月にかけて2か月間、中欧諸都市とドイツを旅行した。このうち中欧領域の旅は3週間であったが、この地域とドイツ・オーストリア地域との関係が現在どうなているのかこの目で確かめてみたい、というのが旅の目的であった。かつて広い意味でのドイツ(ハプスブルクのオーストリアを含めての)の影響圏にあったこの中欧に対しては、加藤雅彦氏の『中欧の復活』などによって私自身強く啓発され、深い関心を寄せるようになった。

この中欧という概念は1989年の「東欧」の大崩壊以降、日本でも一般に紹介されるようになったが、まだわが国では定着していない。また「中欧」自体が復活したばかりであり、今後徐々に定着していくことが期待されるが、はげしく揺れ動く現在のヨーロッパ情勢の中では、いまだはっきりとした実体として把握することは困難である。

しかし長い目で見れば今後少しづつ「中欧」は固まってくるように思われる。つまり従来東へ向かわされていた「中欧」地域の姿勢は、今やかなり明白にロシア離れをして、西へ向かっていることは間違いなく、その際もっとも近いドイツ・オーストリア地域との関係が少しづつ深まってきている点も疑いを入れない。しかしそれはなお政府レベルないし「上」のレベルの動きであって、日常のレベルや文化面でどんなつながりが生じているのかは明らかではない。

こうした点を少しでも自分の目で確認してみたいというのが、前述した通り、私の今回の旅の目的であった。ただし僅か3週間という短い旅ではあり、以下の印象記も時間的。空間的に極めて限られた個人的な体験記に過ぎないことを、あらかじめお断りしておく。そしてその目的がどれほど達成されたかもよくわからないが、何かの参考にはなるのではないかと思い、できるだけ具体的に多少の感想を交えてつづった次第である。

「中欧見聞録」を掲載した『ドイツ研究』(日本ドイツ学会機関誌)第13号
1992年1月10日発行

旅を始める前に

今回私は加藤氏の助言などを受けて、中欧諸都市を鉄道で旅行したが、その範囲は『中欧の復活』(NHKブックス594)で述べられている小中欧に相当する地域にほぼ見合っている。同書によれば小中欧とは、旧ハプスブルク帝国の領域つまりオーストリア、ポーランド南部、ソ連ウクライナの一部、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアの北西部、イタリアの東北部を指すものとされている。

当初の計画ではこれらの地域に含まれる中心的都市を鉄道でくまなく回るつもりであった。しかし現在の政治情勢や各国鉄道事情、ホテル事情などの制約を受けて、三週間ていどでこれら地域をすべて回ることは不可能であることが明らかとなった。そのため今回はソ連ウクライナの一部、ルーマニア北西部そしてユーゴ北部のザグレブは割愛せざるを得なかった。

この結果私が実際に旅した諸都市は次のような所である。まずベルリンを出発点としてポーランドの首都ワルシャワに向かい、そこから本来の小中欧に属する地域へと移った。以下訪れた都市名と国名を時間的推移に従って列挙しよう。クラクフ(ポーランド南部)、ザコパネ(ポーランド南部)、デブレツェン(ハンガリー東部)、ブダペスト(ハンガリー西部)、クラーゲンフルト(オーストリア南部)、トリエステ(イタリア東北部)、リュブリャーナ(ユーゴスラヴィア北部)、ウイーン(オーストリア東部)、ブラティスラヴァ(チェコスロヴァキア東部)、プラハ(チェコスロヴァキア西部)、カルロビヴァリ(チェコスロヴァキア西部)。

今回の中欧旅行に先立ち、各都市のホテル予約をベルリンのAlexsanderplatz(アレキサンダー広場)にあるEuropaische  Reiseburo Gmbh(ヨーロッパ旅行社)に手紙で依頼した。ここは旧東独時代の国営旅行社で、旧東欧地域への旅行には最適と聞いていたのであるが、いつまでたっても返事が来ず、ベルリン在住の東京新聞特派員辻通男氏(学会員)を通じて調べてもらったところ、同旅行社では現在東欧地域のホテル斡旋はしていないという。やむなく辻氏を通じて、やはりベルリンにある別の旅行社に依頼して、ようやく予定目的地の大部分の宿泊所を予約してもらった次第である。

また通貨もドイツ・マルクを携帯して、それぞれの国で必要に応じて交換していった。実際に泊まった所は各国の一流ホテルが多く、こうした所や買い物に当たっても大きな店では、クレジット・カードが通用した。、また旧社会主義国に属するポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアではなおビザが必要であったが、各国通貨への一定額の強制交換制度は、すでに撤廃されていた。さらに従来西ヨーロッパ地域でのみ通用していた鉄道のユーレイルパスが、近年になってハンガリー、そして1991年1月から旧東独地域にも適用されるようになったので、今回の旅行に当たっても、ハンガリー、オーストリア、イタリア、旧東独地域などに対しては、このユーレイルパスを活用した。

中部ヨーロッパ地域の地図(昭文社の世界地図帳、2013年2版)

ポーランド(ワルシャワ、クラクフ、ザコパネ

8月8日:さて前置きが長くなったが、わが中欧の旅はベルリン中央駅を出発点とした。かつて東ベルリンの OSTBAHNHOF(東駅)と呼ばれていたこの駅は、今や大ベルリンの  HAUPTBAHNHOF(中央駅)に衣替えして、東西ヨーロッパを結ぶ要衝の駅へと脱皮しつつある。しかし現状においてはなお首都の表玄関というには、その実体は淋しすぎる。ともあれ列車は北ドイツからポーランドへかけての大平原を一路東へ向かって進行。どこまで行っても平らな土地で、森と林と畑が延々と続き、時折小さな町が現れては消えていく単調な景観。しかも手入れの良く行き届いた西ドイツの美しい風景とは比べようもない、どこかうら淋しい景色だ。国境での40分ほどの停車時間のほか、途中思わぬ場所での徐行、停車があり、結局ベルリンからワルシャワまで9時間かかって、ようやく到着。

ワルシャワ中央駅のホームは地下にあり、下車した途端に大変な混雑に巻き込まれ、盗難の心配などで思わず緊張。構内の両替所で100DM=620,000ズオティ(ZT) を交換。この数字を見てもお分かりの通り、ポーランドは大変なインフレなのだ。しかしマルクから交換すれば、大変使いでがある。すぐに駅前のタクシーに乗り込んで、予約したGRAND  HOTEL に入る。都心部にある四つ星のホテルで、人々の目に付くフロントや諸設備は立派だが、全体として古くなっており、風呂場の水回りも古くさく、貧弱。それでも長旅の疲れをいやすべく、まずは風呂につかって汗を流す。

さっぱりしたところで5時過ぎ、ホテルを出て町を散歩。中央駅前にそそり立つスターリンの遺産として評判の悪い豪華けんらんたる「文化科学宮殿」の中のレストランに入る。メニューはポーランド語とロシア語で書かれていて、ウェイトレスとは何とか英語で話が通じた。ドイツ語はワルシャワではまだ通用していないようだ。しかし料理の方はグラーシュスープ、シャシュリック料理、チェコ産ビール、コーヒーで 82,000ZT つまり1,000円ほどで、かなり安いといえる。

8月9日:ワルシャワは二泊なので翌日は朝早くから一日中、旧市街を中心に見て回る。まずホテルから地図を頼りに旧市街へと向かったが、途中コペルニクスとヴィシンスキー枢機卿の立像が目に入る。旧市街の入り口のザムコピイ広場には、首都をクラクフからワルシャワへと移したジギスムント三世王の、塔のように高い記念像が立っている。普通、観光客が見て回る所は、ワルシャワ市全体から見ればごく一部の旧市街の一角が中心になっている。広場から一歩入ると右手にワルシャワで最も古いといわれる聖ヨハネ教会があり、中に入ってみる。教会に入る時ポーランドの人は素早く十字を切り、また中に入ってから中央祭壇に向かって片膝を地面につけて礼をする人が多い。また子供の一群も入ってきたが、皆しつけが良く、小さな女の子が膝を軽く折って十字を切る様子はなんとも愛らしい。さらに祭壇に向かって熱心に祈りを捧げている人もいた。カトリック国といわれるポーランドだけあって、教会にくる人々の姿勢が真剣なのには、心打たれれる。最近のドイツではあまり見かけない風景ではなかろか?

教会からさらに進むと旧市街の中心地MARKTPLATZ(市場の立つ広場)がある。その広場の一角にある歴史博物館に入り、第二次大戦時における ワルシャワ市への爆撃と戦後の復興の様子を描いたドキュメンタリーフィルムを見る。ワルシャワはナチスドイツ軍によってほぼ完全に破壊し尽くされたが、中世の面影を残す美しい旧市街の街並みを、戦後、市民が一致協力して汗水たらして再建した様子が同フィルムに描かれていて、心打たれる。旧西ドイツにも戦災で破壊された街並みを昔通りに復興した町は数多くあるが、ヨーロッパに共通する市民精神なのであろうか? またこのフィルムは事実を淡々とした調子で伝えていて、ドイツを非難するような感じは、そこにはなかった。

ワルシャワの旧市街は小高い丘の上にあり、やや離れた所にビスワ川の光った川面が見える。中世さながらの童話の国のような旧市街から坂道を降りていくと、そこはもう大型トラックがブンブン走り過ぎていく現実の大都会だ。川は増水していて茶色に濁り、今にもあふれんばかり。

しかしワルシャワの市内も、他のヨーロッパの都会と同様に緑は多く、公園もかなり数多くある。なかでも市の南方にあるワジェンキ公園は、18世紀後半にポーランド王によって作られたものと言われ、緑の小道が縦横に走り、横に細長い池ではボートでのんびり遊ぶ人の姿も見られる。かつての王侯貴族の離宮の庭が、今では市民の憩いの場になっているのだ。真夏のためか女性の着ているものが薄く、肉感的で着こなしも洒落ている。若い男女の生態は自由奔放の感がある。もちろん中央駅前広場の青空市では、独特の形をした開閉式の屋台が無数ともいえるほど立ち並び、むんむんとした生活の熱気にあふれる光景が展開されていたことも、付け加えておかねばなるまい。

8月10日:2日間のワルシャワ滞在が終わり、列車で南部の古都クラクフへ向かう。途中、平原から次第に低い丘陵地帯へと入り、周囲の景色が立体的に変化の富んだものへと変わっていく。この路線はポーランドでも幹線の一つで、座席の作り方はベルリン–ワルシャワ間より良いが、ドイツの二等車並み。3時間ほどで着いたクラクフの中央駅はワルシャワに比べればずっと小さく、駅前も雑然としていて、バスターミナルやタクシーの列、それに人々の雑踏などで、その周辺では、とても古都のたたずまいを感じることはできない。

ポーランド第三の都市だけあって、現在の市域はかなり広く、周囲には工業施設も見られる。ここでもやはり観光名所は全体のごく一部なのだ。そのため予約してもらったホテルは旧市街はおろか新市街からもかなり離れた郊外にあった。ホテル自体は最新式の設備で気持ち良いのだが、旧市街見物にはバスやタクシーを使わねばならない。

ホテルで一休みしてから、それでもバスに乗って旧市街へと向かう。やがてそこの中央にあるMARKTPLATZ(市場の立つ広場)にたどり着く。広場の真ん中に横に長い織物会館の建物があるが、広場自体は旧市街のものよりずっと広い。しかし周囲の建物はあまり装飾的なものはなく、全般に平凡といえる。また織物会館の一部に工事用の足場が付いていたり、反対側の角近くに木製の仮設舞台が組み立てられていたりして、案内書の記述とは違って、雑ぱくで、ほこりっぽいという第一印象を受けた。道路にも各所に水溜まりができたり、石畳が土に埋まっていたりで、ベルギーはブリュッセルのグランプラス(建物に囲まれた大きな広場)やブルージュの壮麗な広場に比べれば、ずっと見劣りする。

この町は戦災に会わなかったと聞くが、古い建物や施設の保守整備が立ち遅れているようだ。この点は首都ワルシャワの方がずっと進んでいる。さて織物会館の1階はアーケードになっていて、土産物屋が軒を連ねているが、並んでいる商品は全体として安っぽく、買う気になれない。広場の一角にあるマリア教会に入ると、折りしも結婚式の最中で、前方の席には司祭と新郎新婦のほかに関係者が陣取り、その後方には敬虔なカトリック信者らしい一般の人々や、筆者のような観光客が見物している。こうした風景はその後ハンガリーでも目撃したが、このような開かれた結婚式は格式張らないで、とても好ましく思えた。

8月11日:翌日はチェコ国境に近いポーランド人の休暇保養地ザコパネへの日帰り旅行をする。全般として広大な平原の国ポーランドにあって、ベスギデイサン山脈の麓一帯は夏なお涼しい避暑地なのだ。クラクフ駅前のバスタ-ミナルを出発し、周囲の工場地帯を抜けるとやがてあたりは田園地帯となり、ゆるやかな丘陵地帯を上がったり下がったり、景色はバイエルン南部やオーストリアに似てくる。ベルリンからワルシャワへ向かう時の平坦な土地柄とはずいぶん違う。ザコパネはポーランドで最も南に位置した高原の町で、背後には2000メートル級の山並みが見えている。

南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンあたりに雰囲気が似ている。途中、別荘風の家々が点々としている。鉄道の駅前にあるバスターミナルで下車。折りしも列車が到着して、駅の出口からは人々がどっと吐き出されてくる。駅前からは広々とした並木道が四方八方に通じていて、いかにも高原の保養地といった感じ。少し町を歩くと外に開かれた形の教会堂で日曜の昼のミサが行われており、中に入り切れない人々が外で立ったままミサに参列していた。

そのまま歩いて見て回ろうとしたが、思い直して駅前に戻ると観光用の馬車がいたので、話しかけると御者のじいさんがドイツ語で返事をしてきたので、たちまち話はまとまり1時間かけて町を一周回ってもらうことにする。ちょうど日曜日のせいか子供連れの家族や若者のグループ、中年夫婦に老人たちといったふうに、様々な年齢層の人々が歩いている。昨今の軽井沢や清里のように若者たちに占領されているといったことは決してない。ポーランドはなお生活水準が低く、経済は低迷していると言われているが、人々の暮らしはのんびりしていて、生活を楽しんでいる様子がうかがえる。

8月12日:クラクフ三日目は夜行列車でハンガリーのデブレツェンへ向かうので、ホテルをチェックアウトした後中央駅に荷物を預けて、もう一日旧市街を見物する。まず旧市街入り口の外側に立つ大きな彫像が目にとまったが、その台座にGrunwaldという文字が見えた。案内書によればこれはドイツ語のTannenbergのことで、1410年ポーランド軍がドイツ騎士団を破った所として史上名高い地名だ。つまりこの彫像はこの戦いで戦功をあげた祖国の英雄というわけだ。

ついで小雨の降る中を旧市街の端の丘の上に立つWawel 城へと向かう。下から見上げる城郭はなかなか立派なもの。坂を上って城の構内に入ると、眼下にビスワ川が蛇行している風景が目に入る。城の前庭や中庭は大勢の観光客でいっぱいだが、ポーランド王が1683年ウィーン郊外のトルコ軍陣営から奪ってきたという天幕や略奪品を飾った宝物館ともなっている城の内部への扉は堅く閉まっていて、あかない。ヨーロッパでは博物館や城の内部を見学しようという時、よくこういう目にあうものだ。

やむなく旧市街に戻ったが、そこの一軒の祭礼用具専門店で、清楚な顔立ちのマリアの石膏像をみやげに買う。その店でローマ法王の顔が入った小旗が飛ぶように売れているので、理由を英語で尋ねたところ、若い女性が、明日法王ヨハネ・パウロ二世がやってくるからだと答えてくれた。中央広場に建てられた仮設舞台や数多くの鉄柵は、法王歓迎用のものだったのだ。ちなみに法王はこの町の近くの出身だし、クラクフのヤギェウォ大学を出ている。法王にはまた数日後にハンガリーですれ違うことになる。

僅か5日という短いポーランド滞在であったが、初めての訪問という事もあって筆者にとっては、新鮮で強烈な印象が残った。小中欧も北の端に位置し、かつてハプスブルク王朝下にあったクラクフではあるが、今日その跡を具体的に見つけ出すことは難しい。14世紀から300年にわたってポーランド王国の首都であり、18世紀末からオーストリア支配下に入ったとはいえ、1866年の普墺戦争でオーストリアが敗れてからは、生活のあらゆる分野においてポーランド化が認められた所であるから、それは当然のことであろう。

それよりはむしろつい最近社会主義を脱却したばかりのこの国で見た、人々の宗教との結びつきの方に深い感銘を受けた。日常生活における強い消費生活への欲求と伝統回帰の姿こそ、ポーランドをはじめ、のちに訪れるハンガリー、チェコスロヴァキアでも感じた最も強い筆者の印象であった。

ハンガリー(デブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウクニー)

8月13日: さてクラクフを夜行列車で出発した筆者は、スロヴァキア東部を通って翌朝ハンガリー東部の町デブレツェンに到着した。直ちに案内書に載っている、この町第一のホテル Aranybika (黄金の牛)に赴き、空き室を尋ねたところ、幸いにも空いた部屋があり、セセッション様式の優雅なホテルで三泊することができることとなった。ホテルに荷物を預けて早速市内見物に出かける。

まずホテルのすぐ近くにあるカルヴィニスト大教会へ。ドイツ語の説明書によれば、St.Andreas Kirche(聖アンドレアス教会) とあり、新教の教会と書かれている。萌黄色の外壁に二本の塔が聳え、落ち着いた重厚な感じを与える建物だ。教会前の広場には反ハプスブルク闘争の指導者コシュート(Kossuth  Lajos) の立像が立っている。1849年5月、ハプスブルク支配からの解放闘争の最中に、この教会の中でハンガリー議会が開かれたという。そしてここで独立宣言のテキストが起草され、コシュートによって読み上げられたという。教会内部は座席がタテの方向だけでなく両翼にもついており、これなら議会場としても使えたことが、十分納得できる。ポーランドでカトリック教会の装飾過多ともいえる、きらびやかな内装をいやというほど見せつけられた後だけに、この新教教会の純白の内装は、誠に清楚な感じを人に与える。もう一度1944年のソ連軍による解放の時の計2回、ハンガリーの臨時政府が置かれたことが案内書に書かれている。

教会を離れ、市電の通る大通りをどこまでも真っすぐ進んでいくと、やがて広大な市民の森にたどり着いた。ウイークデーだというのに、池でボートを漕ぐ者、ベンチでお喋りしたり散歩したりする者、そして近くのプールにやってくる者などさまざま。森の中にはドイツの Kurhaus のような建物も見られた。ハンガリーは16世紀の前半から150年間、オスマン・トルコの支配を受けたため、国中の各所にトルコ風の温泉やプールがあるのだ。

夜はホテルの裏手のナイトクラブを訪れる。2時間ほどバンドの演奏とミラーボールのきらめく光の中で、アルコールを傾けた後、12時ごろからショーが始まった。期待にたがわず素晴らしく可愛らしく、同時になかなか妖艶な女の子たちが、きびきびとまた雰囲気たっぷりに踊ってみせる。かなり官能的で、しかもくどくはない。おまけに料金が、おそらく東京やパリでは考えられないくらいに安いのだ。

8月14日:翌日ハンガリーの大平原 Puszta  の中心地ホルトバジー へと汽車に乗って向かう。駅から7,8分すると賑やかな所に出て、ドイツ語の表示からそこが観光の基地であることを知る。観光客も大勢おり、みやげ物屋も立ち並ぶ中で、「Pusztaを2時間、馬車で見て回りませんか?」というドイツ語の宣伝文句が目に入る。英語やフランス語はなくて、ドイツ語だけなのだ。その理由は明らかで、ここを訪れる観光客の中心が、ドイツ人かオーストリア人だからだ。他の観光客にならってドイツ語でこの遊覧馬車を申し込む。ただ馬車の乗り場はそこから2キロ離れた所にあるという。一瞬ずいぶん遠い所だと思ったが、他の観光客のほとんどはマイカーでそこまで飛ばしている。こちらはタクシーに乗るにもタクシーの姿は見えず、仕方なく田舎道を歩いて乗り場まで行く。

そこには大きな駐車場があり、観光客でごった返している。近くにはホテルや民宿も点々としている。午後2時、二十台ぐらいの馬車に皆が乗り始め、次々と出発していく。一台の馬車には20人ぐらい乗っている。ハンガリーの大平原は地域的にかなりの広がりをを持っているが、そこには現在なお羊・馬の放牧にしか使えない荒地 Puszta が、あちこちに点在している。そうしたものの一つが現在筆者がいるホルトバジーにあるのだ。疾走する馬を追う牧童、水飲み場で馬に水をやっている風景、羊のいる大きな小屋そして水牛の大群などを見ながら、馬車は荒地のデコボコ道をガタガタ揺れながら、進んでいく。その揺れ方はものすごく、身体が跳び上がらんばかりになることもある。御者のほかにガイドも馬車に乗っているが、使う言葉はもちろんドイツ語である。筆者の馬車にはフランス人の家族もいたが、父親はドイツ語ができるので、奥さんや子供たちに通訳していた。

やがて Puszta 観光のハイライトがやってくる。カウボーイならぬ馬追いの牧童が正装して現れ、観光客にいろいろサービスするのだ。あるいはスナップ写真の対象としてポーズをとったり、あるいは馬車の回りを20頭ばかりの馬を追って疾走して見せたり、はたまた馬を地面の上に横たえさせて、そのうえでバーン、バーンとピストルのような音をたてながら、鞭を振り回したりする。

こうして2時間足らずの馬車観光は終わり、こちらは2キロの田舎道を元の方向へと戻る。そこには博物館があり、この大草原での人々の昔からの暮らしぶりが展示されていて、興味深かった。ハンガリー語とドイツ語の説明がついていた。その博物館の向かいに Tscharda (チャルダ)と呼ばれる茶屋があり、そこの屋外テラスで一休みする。こうしたチャルダでは、日暮れともなればジプシー音楽の哀愁に満ちたメロディーが聞かれる所なのだ。

建物の壁には、ハンガリーの国民的詩人で1848/49年の革命の際に活躍したSandor  Petoefi  (サンドル・ペテフィ)の肖像がはめ込まれている。博物館で買ったドイツ語の説明付きの Puszta 写真集には、その詩人の美しい詩がドイツ語訳で掲載されていた。デブレツェンへ戻る車中でこの写真集を読んで過ごしたが、そこには Puszta の四季折々の自然の豊かさが描写されていた。そして「Pusztaは文明化した社会の真っただなかに浮かぶ陸の大きな孤島だ」とも書かれていた。

8月16日:ハンガリー東部の町デブレツェンで三日間過ごした後、列車で首都のブダペストへと向かう。この時からユーレイルパスを使い始めたのだが、デブレツェンの駅の窓口の女性はこのパスのことを知らず、しかもハンガリー語しか話せないので、仕方なく身振りとドイツ語を交えて日付とスタンプのことを説明して、むりやりスタンプを押してもらう。3時間足らずでブダペスト西駅へ到着。首都だけあってさすがに賑やかだ。駅の構内は極めて広く、奥行きが深い。また鉄枠とガラスでできた正面ファサードはなかなか洒落ている。

ただ駅前大通りは車が多く、大変な渋滞ぶり。この大通りはブダペスト目抜き通りの一つで、以前はレーニン通りと呼ばれていたものが、改革以来Erzsebet(エルゼベート)通りと変わっている。古い赤枠の道路表示の上に、黒枠で新しい通りの名前が書いてある。町の第一印象は、混沌とした活気と華やかさという事だ。夏のこととて道行く女性が肌をあらわにしており、大変肉感的な感じ。ミニスカートも多く、色とりどりにユニークで、しかも魅力的。着こなしの大胆さには、ついこちらの目も平静さを失いかねない。

午後1時ころ、先の大通りに面した Grand Hotel Royalに入り、一休みしてから町の見物に出る。ブダペストへは1984年にドイツから車で入ったことがあるが、その時と比べても町は格段に賑やかになっている。まずホテルを起点にペスト側の繁華街を、Erzebet通りからAndrassy通りへと曲がる。このAndrassyは19世紀ハンガリーの著名な政治家の名前で、彼はハンガリーの繁栄はオーストリアとの結合が良いと主張した現実主義者だという。

周知のとおりハンガリーは1867年にオーストリアとの間に、オーストリア=ハンガリー二重帝国を作り、以来かなりの独立性を獲得したのと同時に、オーストリアとも強い友好関係に立った。Andrassyはこの時代に活躍したしたわけだが、現在のブダペストの美しい街並みや建造物は、19世紀後半から世紀転換期にかけて作られたものと言う。さてブダペスト随一の美しいAndrassy通りに面した国立オペラ劇場は、ウィーンのStaatsoper(国立オペラ)に比べても遜色のない堂々たる建物で、1884年の建造だ。

またそこからほど遠からぬ所に立つセント・イシュトバーン大聖堂は工事中であったが、中に入ってみる。これもウィーンのStephans Dom(シュテファン大聖堂)に負けない壮麗な建築物で、やはり19世紀後半に建てられたという。この大聖堂の鐘は昨年ドイツからの寄付で新しく設置されたことが、写真入りで説明してある。また1989年夏から秋にかけて国外移住を希望する東独市民に通行許可を与えたハンガリー政府の措置が、最終的にドイツ統一へと結びついたことに感謝する旧西ドイツのコール首相の言葉もそこには掲示されていた。

大聖堂を出てからしばらく歩くとやがてドナウ川の川岸に着く。対岸にはブダの丘が聳え、右手には名高い鎖橋が見える。このあたりに来るとさすがに観光客であふれかえっている。鎖橋の所まで来ると、警官が立ちはだかって、そこから先は通行禁止だという。言葉が通じなかったのでよくわからなかったが、どうも法王の来訪に備えてのものらしい。このことは後に別の筋から確認された。

ドナウの川岸から一歩裏通りに入ると、歩行者天国もあり、一帯に華やかな商店やレストランが立ち並んでいる。ここもトゥーリストでいっぱいだ。さらに歩いて、やがて筆者の泊まっているホテルのあるErzsebet大通りへと戻る。そこで偶然以前から一度入ってみたいと思っていた有名な”Cafe-Restaurant Hungaria”を見つける。

ちょうど外装工事中で足場が組まれ、外側は混乱した印象を与えているが、一歩内部に入ると別世界。思っていた通りの華麗で重厚な室内装飾に満足して、中央の階段を下りて昔から”Tiefwasser”(水底)と呼ばれていたレストランにたどり着く。1894年に建てられ、当時は New York と呼んでいて、当時の著名人が大勢集まったという因縁のある店なのだ。食前酒にトカイワイン、次いでスープ、サラダ、コイのフライ、食後にコーヒーというコースで、ざっと三千円程度なのだから、割安といえよう。もちろん味の方も大満足であった。

また数年前西ドイツに住んでいた時、西ドイツのテレビ番組でこの”Hungaria”からの中継を放送していたのを思い出す。詳しい内容は忘れたが、西ドイツとハンガリーとの関係について、ドイツ側のインタビュアーがハンガリー市民にいろいろ尋ねていたことを覚えている。

8月17日:翌日はドナウベント一日トゥアーに参加する。ドナウベントとは日本の案内書に書いてある表記で、ハンガリー語では Dunaukanyar,ドイツ語ではDonauknieという。ベントは英語のBend(湾曲)のことなのだ。つまりブダペストの北方でドナウ川が東西から南北の方向へと大きく湾曲している一帯のことを指すわけだ。石灰岩の低い山々がドナウ川に迫る景勝の地でもあり、9~10世紀にハンガリー建国の舞台となった所だという。

ドナウ川が東西から南北方向へ曲がっているドナウベント周辺

さて朝の9時から夕方6時までの日帰り トゥアーのバスは、市内の有名ホテルから集まった外国人を乗せて、ブダペストの都心部から出発。ガイドは感じの良い初老のハンガリー女性だが、独語、英語、イタリア語が堪能で、同じことをこの三か国語でいちいち繰り返し説明してくれる。その手際の良さと内容の濃い話ぶりには、全く舌を巻くばかりだ。現在のハンガリーの社会情勢や政治情勢まで説明してくれたのだから。

バスはまずブダペストから20キロ離れたセンテンドレ(Szentendre)に到着。この町はドナウ川の岸辺から丘の中腹にかけて発達しており、坂道を上るとたちまち中世風の美しい街並みにぶつかる。ここは17世紀後半にオスマントルコによってバルカン半島から追われてきたセルビア人によって築かれた町で、小さな地域にセルビア正教の教会4,カトリック教会2,新教会1が立っている。風光明媚な土地柄に魅かれて集まってきたのか、この町は今では若き芸術家が大勢住む所となっている。

コヴァーチ・マルギット(Kovacs  Margit) 陶芸美術館に入ってみたが、宗教的題材のものも含めて、ヒューマンな暖かい眼差しで作られた作品が多かった。またこの町には華やかで女性好みの人形や刺繡、民族衣装を売っている土産物店も多く、家々の壁も含めて、全体としてカラーフルで色彩豊かな町だ。

次いでバスは60キロ離れたエステルゴム(Esztergom) の町に着く。ここでの見ものは何といってもハンガリー最大といわれる大聖堂(Basilika)だ。丘の上に高く聳えたち、その堂々たる姿は周囲を圧倒している。この大聖堂は初代ハンガリー王イシュトヴァーン一世の創建になるものと言われ、以後ハンガリー・キリスト教の総本山となっている所だ。

聞けば昨日ローマ法王がこの大聖堂を訪れた後、ヘリコプターでヴィシェグラードまで飛び、そこから船でブダペストへ向かったという。昨日ドナウ岸辺で見た交通規制は、法王来訪に備えてのものであったのだ。クラクフに次いで二度目の法王とのすれ違いだ。現在の大聖堂は1825年に建設が始まり、ベートーベンがその落成を祝して鎮魂ミサ曲の指揮を申し出たが、工事が遅れ落成したのはその没後の1856年。このため落成祝いには際しては、ハンガリー人のリストのエステルゴム・ミサ曲が演奏されたという。聖堂内部の宝物館には、金細工や法衣、織物などのコレクションがあった。

大聖堂見物後、丘の下のレストランで昼食をとったが、その時そのトゥアーに参加した人々が、ドイツ人、オーストリア人、イタリア人、イギリス人、フランス人、それに日本人(筆者1人)と、国際色豊かな顔ぶれであることを、あらためて確認する。現在アメリカ人はヨーロッパにはあまり来ていないようだ。

エステルゴムのあたりでドナウ川はハンガリーとチェコスロヴァキアの国境となっているが、大聖堂横手から対岸のスロヴァキアが見える。工場の煙突が林立し、ごみごみした灰色の建造物が密集しているさまは、ゆるやかな丘の斜面に別荘風の家々が点々としているハンガリー側の牧歌的な風景と対照的だ。後に訪れたスロヴァキアの首都 ブラティスラヴァの郊外も工業地帯となっていたが、これらは遅れた重厚長大産業の典型のように思えた。

ドナウベント第三の訪問地はドナウ川を眼下に望む 丘の上の廃墟の古城だ。ここはヴィシェグラードといい、先のセンテンドレとエステルゴムの中間に位置している。この辺りでドナウ川は東西から南北へと大きく湾曲している。16,17世紀にトルコ軍がウィーンに迫ったとき、この城でも攻防戦が行われたという。しかし1683年トルコ軍の最終的なウィーン攻略が失敗して退却してからは、この城も役割を終え、以後廃墟になったという。現在この城は廃墟とはいえ、石壁や石の床などが残っている。そしてここからは大きく屈曲するドナウ川の雄大な眺めが、手に取るように見て取れる。

8月19日:次の日は雨が降ったので、ホテルにこもって原稿書きに専念する。そして翌々日は再び快晴となり、ブダペストの観光名所の一つである英雄広場を訪れる。中央に高さ36mの天使像が聳え、その足元にマジャール部族の首長だったアールバートと6人の部族長の騎馬像がある。そして周囲には、ハンガリーに貢献した歴代の王や英雄の像が半円形に並んでいる。建国一千年を記念して1896年に作り始め、1929年に完成したといわれるが、バチカンのサンピエトロ寺院前の広場と同じぐらい広々とした壮大な広場だ。

この広場に続いて市民公園があり、そこには温泉、動物園、植物園、遊園地があって、市民の憩いの場となっている。この日はハンガリーの祭日に当たっていたらしく、市民公園は大変な賑わいを見せていた。そして広場の一角にはまたもや仮設舞台が作られ、広場からその周辺一帯は鉄柵で仕切られていたが、法王歓迎用であることは言うまでもない。

公園の一角にあるトルコ風呂セーチェニ温泉に入ろうとしたが、その日は女性専用だというので、川向こうのルダシュ温泉へ向かう。オスマントルコ支配150年の影響でハンガリーにトルコ風呂が多いことは先にも書いた通り。ブダペストにも数多くあるが、ルダシュ温泉は400年の歴史を誇る由緒正しい所という。建物の中央が丸屋根になっていて、外観内装とも以前訪れたイスタンブールのトルコ風呂と同じ感じだ。

温度の異なるいくつかの蒸し風呂に入ってから、八角形の大きな湯舟を中心に周囲に小さな4つの湯舟がある。中央ドームの下の風呂場に入る。中央のは36度、周囲のは28度から42度まである。こうして蒸し風呂と湯風呂を何度か往復した後、屈強な男が石鹸で体をごしごしこすりつけるマッサージを受ける。

8月20日:ブダペスト最後の日、まず国立博物館を訪れる。ハンガリーの歴史にまつわる展示が実に多岐にわたっていて、興味深いものがあったが、中でも見ものは有名な聖イシュトヴァーン一世の王冠であった。改革後ハンガリーでは、それまでの赤い星、ハンマー、麦の穂をあしらった社会主義リアリズム風の紋章から、この王冠をあしらった国家紋章へと、国民投票によって変更した。社会主義離れと伝統回帰を示す象徴的出来事といえよう。

ついで川向こうのブダの丘の上にある歴史博物館へと向かう。ここは沢山ある博物館群の一つだが、天候にも恵まれた丘の上は、観光客で賑わっている。ここからは対岸のペストの街並みが一望のもとに見渡せる。博物館群から王宮、漁夫の砦、マーチャーシ教会にかけての一帯は、トゥーリストが最も多く集まるブダペスト観光のメッカだ。屋外の仮設舞台では弦楽四重奏団が、ハンガリーの歌も交えて、民族音楽をたっぷり聴かせてくれる。さらに別の場所では民族舞踊が披露され、人垣でいっぱい。その少し先の丘の端の門に差しかかった時、道路わきに人垣ができ、警官の姿が見えたが、しばらくして法王を乗せた黒い車が通り過ぎていった。

人垣が崩れてからタクシーに乗り、ドナウ川に浮かぶ川中島のマルガレータ島へ行く。この島は古代ローマ時代から人々の保養の地となってきたという。島全体が緑に覆われ、車もシャットアウトされているのだ。広々とした「リゾートセンター」になっているわけである。太陽がさんさんと降り注ぐ真夏の午後のこと、公園の一角にある広々としたプールに入り、暑さをしのぐ。ポーランドでもそうであったが、ここハンガリーではなお一層のんびりとした時を過ごす人の姿を多く見かける。西欧や日本に比べて、経済や生活水準は低いのかもしれないが、日本などよりはよほど生活を楽しんでいるように見受けられる。

夜になってドナウ河畔の最も華やかなプロムナードに面した劇場へ行き、オペレッタコンサートを聴く。対岸のブダの丘や鎖橋が夜空に赤々と浮かび上がり、やはり心を浮き立たせる美しさだ。開演は8時半。隣席には可愛らしい中国人の女性。向こうから英語で話しかけてきたので尋ねると、外国貿易の仕事をするために北京からブダペストにやってきたところだという。コンサートはレハール、カルマン、ヨハン・シュトラウスの曲がびっしり組まれ、楽団のほかに女性歌手3人、男性歌手2人。皆ハンガリー人。歌と踊りを交えてのウィーン風オペレッタの雰囲気がそのまま再現されていて、実に楽しい。オーストリア・ハンガリー帝国時代へのノスタルジーがひしひしと感じられ、聴衆の方も年輩のひとから中年にかけて、多くの人が陶然として聴きいっていた。

しかし途中で楽しいハプニングが起きた。対岸の丘から9時-9時半にかけて花火が打ち上げられるので、コンサートをその間中止して、劇場の廊下の窓から見物してくださいとの粋な計らいがあったのだ。一同大喜び。見れば劇場前の広場や川岸のプロムナードは見物客でぎっしり埋まっている。こちらはいわば特等席を与えらたわけだが、ブダの丘やゲレルトの丘が夜間照明の上にさらに花火の光で、煌々と夜空に浮かび上がり、華麗なる陶酔の30分間ではあった。筆者にとってはブダペスト最後の夜への楽しい贈り物であった。

かなり以前から始まっているハンガリーの市場経済化へのさまざまな試みが、最近では必ずしもうまくいってない事など、マスコミの報道で知ってはいたが、首都ブダペストをはじめとする各地での外国人観光客誘致の動きは、以前にもまして活発になっている。ご多分に漏れず日本人観光客の姿もブダペストではずいぶん大勢見かけたが、なおビザが必要とはいえ、ユーレイルパスが有効なことなど、西側体制への組み込みは、ますます拍車がかかっていくことであろう。オーストリアやドイツとの交流は、すでに日常茶飯事化している。こうした交流を通じて中欧の中でもハンガリーが一番早く、西側に組み込まれていくことと思われる。(前編の終わり)

後編では、イタリア東北部のトリエステ、ユーゴ北部のリュブリアーナ、スロヴァキアのブラティスラヴァ、チェコの首都パラハそしてチェコ西部のカルロヴィ・ヴァリを旅します。

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その3

啓蒙主義出版業者としてのニコライ

1 ニコライ、書籍出版販売業を引き継ぐ

「ニコライ書店」の引継ぎ

それまで父親のあとを継いで書店経営を担当していた長兄が1758年10月に突然死去した。そのため書店見習いなどの経験を通じて出版や書籍販売の実務にも明るかった弟のフリードリヒが、25歳で「ニコライ書店」を引き継ぐことになった。

一度は書店の実務から離れ、好きな文芸評論や著作の仕事に専念していたためか、「全く不承不承ニコライは商売の継承を決意した」という。とはいえ父親譲りの実務能力を十分備えていたニコライは、書籍出版販売業を引き継いでからは、自らのやり方で、父親の書店を大きく発展させることに成功するのである。

ニコライはその活動を開始するや、学校時代から愛読し、崇拝していた古代ギリシアの「文芸の父」ホメロスの胸像を自分の書店の入り口の上に掲げた。そして初期の出版物のたいていの表紙に、やはりホメロスの胸像を<出版社標章>として印刷させたのである。

初期出版物のホメロス胸像付き表紙

十八世紀ドイツの出版界

ニコライが成人に達した十八世紀半ばごろ、ドイツの出版界は先進的な北部・東部地域と、後進的な南部・西部地域に分裂していた。北部・東部のプロテスタント地域の書籍出版活動は、古くからの見本市都市で、すでにドイツ随一の出版のメッカになっていたライプツィヒを中心に動いていた。この都市があるザクセン地方では、世紀の前半から道徳週刊誌やポピュラー哲学から文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場には新しい時代の息吹が感じられた。そして書籍取引の方法としては、古くからの交換取引制度が廃止され、新たに現金取引による正価販売が導入されていた。ここではドイツ出版界の合理化、近代化への第一歩が記されていた。

しかし遅れた南部・西部地域では、なお古い交換取引制度が残り、先進地域で出版された書籍の翻刻版(いわゆる海賊版)が花盛り、といった状況も見られた。こうした過渡的な状態はかなり長い間続き、ドイツに統一的な書籍市場が生まれ、出版界が全体として近代化したのは、ようやくナポレオン戦争後の1825年にライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」が誕生したときであった。

ベルリンに生まれ育ったニコライが活躍したのは、この十八世紀後半から十九世紀初頭にかけてのことであった。この時期にベルリンは、ドイツ北部ブランデンブルク・プロイセン地方の中心都市として、ライプツィヒに次ぐドイツ第二の出版都市へと成長していったのである。ドイツ出版史の古典といわれる『ドイツ書籍出版史』の中で著者のゴルトフリードリヒは、「北部ドイツの出版界で全面的に進行した最も重要な変化の一つは、ベルリンの輝かしい興隆であった。それはおよそ七年戦争の終結とともに始まった」と書いている。

この時プロイセンには、のちに大王と呼ばれるようになった国王フリードリヒ二世が関与した七年戦争(1756ー1763年)の終結によって、平和な時代が訪れていて、次のナポレオンによる占領までの四十年間、各方面での発展がみられたのであった。ベルリン出版業界の興隆もその一環とみることができるが、その原動力になったのが、わがニコライその人だったのである。

啓蒙主義の普及に果たした出版業者の役割

この時代のドイツ北部・東部地域は、啓蒙主義によって刻印されていたが、そこで果たした書籍出版や読書の役割には、極めて大きなものがあった。ちなみに研究者ラーベは『十八世紀の出版業者』という論文の中で、次のように述べている。「啓蒙主義は、1764年以降のドイツにおいて、文化的展開も見られたひとつの枠組みであった。増大する書籍出版量と読書への欲求の高まりの中で、同時代の人々が体験したこの変化は、平和的な<文化革命>と呼ばれた。そこでは社会的経済的諸関係が以前に比べて透明度を増し、人々は様々な要求を掲げるようになっていた。また文化的領域では、<シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)>に始まり、のちに<古典主義>へと流れ込んでいった、ひっとつの美的運動が勃発し、さらに啓蒙化された市民社会が生まれてきたのである」

そうした新しい市民社会の形成に向けての啓蒙活動に参加したのは、学識者、著作家、教育学者、経済学者、神学者そして都市及び宮廷で政治活動を行っていた官僚などであった。その際こうした広い意味での学識者の著作活動が大きな役割を果たしたのであったが、これらの著作者と読者の間の仲介という新しい役割を担ったのが出版業者なのであった。そして十八世紀末には、出版業者の存在が重要性を増し、彼らは啓蒙家となり、「国民の恩人」となったのである。

またE・ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、啓蒙主義にとっての出版業者の重要性について、次のように述べている。「ある都市が啓蒙主義の中心地になるかどうかは、経済的前提条件とともに、最終的には近代的な出版事業を効果的に起こすことができたかどうかにかかっていた。啓蒙思想の普及は、新しい文学や哲学を新しい形式ーつまり短い論述の形式(随筆、パンフレット、「道徳週刊誌」への寄稿文など)で引き受けることができた出版業者の存在とむすびついていた。」

当時の出版業の実態

十八世紀ドイツの出版業者は、身分としてはいわゆる第三身分の中の「商人」であった。そして世紀の最初の三分の二ぐらいまでの時期には、その顧客の大部分が学識者であった。出版業者はとりわけ学識者が書いたものを扱っていたが、よその出版業者の本の販売も取り扱い、それらを別の学識者に売っていた。

しかしこうした状況は十八世紀の最後の三分の一の時期に大きく変貌するようになった。翻刻版の普及と読者層の拡大、「物書き」の増加、出版量の増大など、一般に「読書革命」と呼ばれている状況が現出したのである。とはいえ書籍取引の面では、北部・東部と南部・西部とでは事情が異なり、なお長い過渡的な状態の中にあったといえる。

ニコライが出版業の道に入った1750年代には、まだ新しい動きは起こっていなかった。当時ドイツの出版業者は、長いこと変わることのなかった都市的秩序の中に組み込まれていた。とりわけ大学、アカデミー、上級学校が存在し、学識者の顧客が住んでいた都会で、彼らは活動していた。

この世紀の前半、ドイツの出版業者の数はわずか100軒から120軒ぐらいだったという。当時のドイツの総人口は二千万人ほどであったことを考えると、この数は極めて少ないといわざるをえない。出版業者という職業が当時いかに特権的なものであったか、ということがよくわかる。そしてこれに対応して、年間の出版点数も極めて少なく、1765年で1517点であった。この時ようやく1600年の水準に回復したのであった。三十年戦争(1618-1648年)後のドイツの経済的・社会的衰退、とりわけ書籍出版の分野における衰退というものは、にわかには信じられないくらいひどいものであったのだ。

それはともかく当時の出版業者は、薬剤師や外科医と同様、アカデミックな教育を受けたエリートであった。書籍の顧客の大部分が学識者であったから、出版業者としても取り扱う商品である書籍の内容によく通じていて、相談相手になったり、良書を推薦したりできなければならなかったからである。またたいていの書店は、代々受け継がれていく家族経営体であった。そうした書店の店内の様子について、ラーベは次のように、生き生きとしたタッチで描いている。

「書店主は、我々が当時の木版画や銅版画から想像できるような施設、出入りの自由な書店というものを経営している必要があった。そこには天井まで届くような本棚があり、印刷された紙を積み重ねた未製本の書物でいっぱい詰まっていた。一部には製本された書物も本棚には見られた。カウンターの後ろには、書店主が座っており、その店の主な書物に書き込みをしたり、お客と話し合ったりしていた。しばしば店の中には、製本業者が仕事をする場所もあり、お客が未製本のまま購入した本を、その場で製本していた。また書店の中では、店員や徒弟が働いており、お客のためにサービスしていた」

ニコライ書店の様子を描いたものは、残念ながら、残っていないが、おそらく今紹介したものに近いと思われる。ニコライが引き継いだ当時のベルリンには、13の書籍出版販売店が存在していた。その中でニコライ書店は3番目に大きな規模の店であった。また当時のベルリンにはフランス人がたくさん住んでいたので、フランス系書店が5軒あった。それが十八世紀の末になると、ベルリンには全部で30軒に増えていた。こうした出版業界の隆盛には、フリードリヒ・ニコライの活躍とその影響が、しっかり結びついていたのだ。

2 ニコライの初期出版活動

従来の経営方針の継承と新たな発展

ニコライは書店を引き継いだ1758年から1810年ごろまで、ほぼ50年にわたって、書籍出棺販売の経営に携わっていたわけだが、まずは父親の方針を継承することから始めた。例えば父親が行っていた教科書の出版販売は、安定した販路と再販という点で、経営的に利益と継続性をもたらすものであったから、継承することにした。これと関連して教育関係の出版にも極めて熱心に取り組んだが、その際父の時代からの著作者に加えて、新たに何人かの学校教師を獲得することができた。また父の時代からの神学関連の書物の出版も店にとって安定した財源となった。さらに数は少なかったが、歴史学や文献学関連の著作物の出版も続けた。

その一方、書店経営を引き継ぐ以前から著作活動に入っていたニコライは、自らの出版社の著作者としても、しばしば登場するようになった。それは初期には、名のある著作者を記念して発行した著作物の中での伝記的評価という形で現れた。その最初のものは、『春』の詩人作家E・v・クライストに捧げられた(1760年)。

また若き日のニコライの出版計画には英仏文学の紹介という仕事もあった。まず仏文学では、百科全書の編纂の仕事で名高いディドローの作品やマリヴォーの小説などが出版された。そしてヴォルテールの個々の著作物のジュネーヴ版を、委託で受け取り、しばしば自分の店のカタログに載せた。次いで英文学に関しては、A・ポープの作品10編とJ・トムソンの何編かの詩を刊行している。これらの著作物の選考には、啓蒙主義の普及という観点が反映しているのだ。

文芸批評活動と出版業

いっぽうニコライが早くから始めていた文芸批評活動も、ニコライ出版社の営業にプラスに作用した。ニコライは1753年、二十歳にして最初の著作『ジョン・ミルトンの失楽園について』を公刊した。またその二年後には論文「ドイツにおける文芸の現状に関する書簡」によって、1750年代のドイツの文芸批評界で名を成したのである。そしてこの論文がきっかけで知り合ったレッシングとメンデルスゾーンと共同で、ニコライは1757年、評論誌『文芸美術文庫』の編集に携わるようになった。有能な二人の友人の協力を得て、ニコライは文芸批評誌の編集発行という仕事でも、経験を積むことができたのである。

こうした経験を生かしてニコライは、こんどは自らの出版社から、新たな文芸批評誌を編集発行することになった。これが1759年に創刊された『最新文学に関する書簡』であったが、この雑誌は24巻にわたり、1765年まで発行が続けられた。「同時代文学の振興に重要な貢献を行っている出版社という名声」は、ニコライの出版活動にとってもプラスになったことは言うまでもない。

このように文芸批評誌の発行という仕事は、ニコライの出版活動や書店経営をも活気づけ、同社に繁栄をもたらしたのである。この時期ニコライはもう一つ別の評論誌を発行していた。それは『文芸美術振興のための様々な著作集(1759-1763)というものであるが、そこでは同時代の文学、美術及び音楽の批判的摂取を自己の課題としていたという。

このような評論活動の延長線上に生まれたのが、ニコライの主要業績の一つになっている『ドイツ百科叢書』である。これは1765年から1805年まで、実に40年間にわたって発行が続けられた書評誌であった。この書評誌については、書くべきことが山のようにあるので、独立した一章として扱うことにする。

3 本格的な出版活動

ベルリンにおけるニコライ出版社の位置づけ

ここではニコライ出版社がベルリンにおいてどのような位置を占めていたのか、考えてみたい。その際、代表的な出版社の出版量の比較によって、それを見ることにする。ただそれぞれの出版社が出していた全出版物に関する統計資料は、残念ながら見つからないので、ここでは書籍見本市カタログに掲載されていた数字によって、比較することにする。以下の表は、1764-1788年の期間について、ベルリンの十大出版社の出版点数を比べたものである。
出版社名                                 出版点数
1  ゴットロープ・アウグスト・ランゲ             524
2  ゲオルク・ヤーコプ・デッカー               464
3  フリードリヒ・ニコライ                  434
4  ハウデ・ウント・シュペナー                358
5  クリスティアン・フリードリヒ・フォス           342
6  アルノルト・ヴェーヴァー                 335
7  クリスティアン・フリードリヒ・ヒンブルク         267
8  アウグスト・ミューリス                  263
9  実科学校出版会                      240
10 ヨアヒム・パウリ                     239

この表からみて、一位のランゲ社及び当時宮廷書籍印刷所として知られていたデッカー社と並んで、ニコライ社がベルリンにおいて指導的な地位を占めていたことが分かる。

エカチェリーナ女帝との関係

ここでは、ニコライ出版社の著作家であると同時に、最も名の知られた重要な顧客でもあったロシア帝国の女帝エカチェリーナとの関係について、見ていくことにしたい。この女帝はニコライが支店を出していた北ドイツのシュテティンの領主の娘として生まれ、のちにロシアの首都ペテルブルクに赴き、やがてクーデタによって帝位についた女傑であった。

その反面彼女は、若いころから啓蒙思想家と文通し、教育と学芸を奨励し、自らもペンをとって、社会教化を狙いとした論文や作品を発表していた。こうした背景を知れば、この女帝がベルリンの有力な啓蒙出版人フリードリヒ・ニコライと関係を持っていたとしても、なんら不思議はない。女帝はニコライの小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』の愛読者の一人でもあった。また女帝のために営んでいた書店は、ニコライが経営していた全ての店の中で最も儲かっていたという。

これに関連してニコライの伝記作者ゲッキングは1820年に出した『フリードリヒ・ニコライとその文学的遺産』の中で、ニコライと女帝との間に起きた興味深いエピソードを伝えている。

「女帝はその孫たち、つまり現に統治している皇帝アレクサンドル及びコンスタンティン公のために、歴史関係の書物を集めようと思った。そして1783年5月、ニコライに、ドイツ語およびフランス語で出版されたあらゆる歴史関係の作品・・・年代記、年報、古文書の類いまで含めて、しかも世界の全ての国のもののリストを作成してくれるよう依頼した。この膨大な規模の仕事に対して、ニコライが要したのはわずか数か月であった。そして同年9月には、そのリストは女帝のもとに送り届けられた。それは手書きで、かなりびっしり書かれた二つ折り判のものであった。

ついでエカチェリーナ女帝は、これら歴史関係の書物を、すべての国で本当に購入して、彼女のもとに届けてくれるよう依頼した。ニコライはこの要請を受け入れ、その調達の仕事を数年間にわたって続けたのであった。

さらに女帝は1784年の末頃、死んだ言語も生きている言語も含めてあらゆる言語の比較辞典を編集発行しようとして、この大事業に必要な書物のリストを送るよう依頼した。ある学者の手助けによって、これも数か月後には完成して、彼女のもとに送付された。そのタイトルは「世界の全言語リスト、それぞれの言語の語源、起源およびつながりに関する各言語の主要辞書についてのカタログ付き」というものであった。これらの書物もニコライは出来る限り早急に調達しなければならなかった。この極めて膨大な規模の書物の送付は、1787年8月まで続いたが、ロシアとトルコの間に戦争が勃発したため、中断されることになった。

こうした仕事をできる限り完璧に遂行しようとしたニコライの尽力に対して、女帝は満足された。その一方彼女は若き大公殿下たちのために彼女が書いた物語のドイツ語訳の手書き原稿をニコライのもとに送り届けた。これらはニコライ出版社から全8巻の全集として出版された。これにはコドヴィエツキの銅版画が添えられ、美しい装飾的な書物に仕立て上げられた。そして『アレクサンドル及びコンスタンティン大公文庫』(1784-1788年)という表題をつけて刊行された。」

『アレキサンドル及びコンスタンティン大公文庫』

ニコライ出版社の経営と書物づくり

ここでニコライ出版社の経営に目を向けると、そこでは主として予約先払い制度が取られていた。出版物は、フリードリヒ大王をはじめとする高位の貴族や名士たちに献呈されていたが、これらの人々を含めて顧客は、出版に先立って支払いをしてくれていた。そのため出版社としては、事前に十分な出版計画を立てることができたのであった。その前払い人のリストを眺めると、ニコライ出版社の読者層のおよその実態が読み取れる。それは主として学識者を中心とした固定読者層であった。

いわゆる「読書革命」によって新たに生まれていた大衆的な読者層は、ニコライ出版社の場合には、対象外であった。ドイツの書籍取引方法が変わりつつあった過渡期の初めにニコライは位置していたのだが、彼自身は旧来の出版業者の、最大にしてもっとも代表的な一人なのであった。このことは、彼が自分の出版物には、書物の宣伝広告を一切載せないという事にも現れていた。当時他の出版社は本の宣伝広告をよくやっていたのだが、ニコライはこれをやらなかった。それにもかかわらず、ニコライ出版社の出版物はしばしば版を重ね、売れ行きは良かったという。

次にニコライ出版社から出されていた出版物の外形についてみておきたいそれらは十八世紀のたいていの書物と同様に、原則として飾り気がなく、たいていは素朴な灰色の紙に、フラクトゥーア体(いわゆるヒゲ文字)の活字で印刷されていた。そして判型としては、『ドイツ百科叢書』(当時のオリジナルが存在している)と同様の大型二つ折り判であった。

『ドイツ百科叢書』の外形

またニコライは同業者にならって、輸送費を節約するために、ベルリンからあまり遠くないライプツィヒ周辺で印刷させていた。つまりウィッテンベルクのデュル印刷所、ライプツィヒのゾルブリヒ印刷所そしてヘルムシュテットのフレックアイゼン印刷所などであった。

ただ十八世紀も末になると、ベルリン改革派印刷所J・F・ウンガーも、ニコライのために仕事をするようになった。そこで印刷されたものは他の印刷所のものより、はるかに良かった。美麗な判型に印刷されたエカチェリーナ女帝の作品などは、毎ページが枠の中に収められていた。そして作品の中に数枚の銅版画が添えられていた。これら銅版画は書物に品格を与えていたので、その画家としては、当時のベルリンで最も著名な人物であったダニエル・コドヴィエツキとJ・W・マイルが選ばれた。

銅版画家ダニエル・コドヴィエツキ

なかでもコドヴィエツキは、啓蒙主義時代のベルリンっ子であり、ニコライの友人でもあり、またその同志でもあった。そのためニコライ出版社の文学作品には多くの挿絵を描いているが、ニコライが書いたベストセラ-小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』には、15枚の銅版画の挿絵を描いている。

『ノートアンカー』の挿絵(コドヴィエツキー作)

文化史家マックス・フォン・ベーンはその著書『ドイツ十八世紀の文化と社会』の中で、コドヴィエツキについて次のように書いている。

「彼には注文が多くて、どんなに努力しても、それらの注文に応じられないほどの(売れっ子画家)であった。出版社は皆、出版する長編も短編も、年鑑やポケット本も、コドヴィエツキの描く挿絵か、せめてタイトルか扉絵を欲しがった。当時の全ての大衆文学は彼の手によって生命力を与えられていた。また彼は驚くべき現実感覚を持ち、鋭い目と暖かい心でもって現実を観察した。そして常に喜ばしい点を強調し、苦しいところでも一種のユーモアを引き出すすべを知っていた。彼は学者の仕事場にも親しくなかったわけでないが、妻と子供たちの世界である家庭にこそ、彼の心情が込められていたのである。」

ベーンが描くコドヴィエツキは、家庭を中心に据えた健全な良識を訴えてやまなかったフリードリヒ・ニコライとは、まさに肝胆相照らす仲だったのではなかろうか。ちなみに1999年秋にフランクフルトで開催された「ヨーロッパ啓蒙主義美術」に関する展覧会で、ベルリン啓蒙主義を代表する画家として、このコドヴィエツキの作品が十数点にわたって展示されていた。私もこの展覧会を見る機会を得たが、従来注目されることのなかった十八世紀後半の啓蒙主義美術について、ロンドン、パリ、ローマ、サンクト・ペテルブルクなどの主要都市で、新たな視点から光を投げかけたものである。

4 ニコライ出版社の分野別出版物

ジャンル別出版物とその規模

ここではニコライがその長い活動を通じて、どのような出版物をどれぐらいの規模で出版していたのか、見ていくことにしよう。その際長男ザムエルによって経営されていた1779年から1790年までの間も含めて、1759年から1811年までの52年間にわたるニコライ出版社の出版状況をしめす統計資料に基づいて、分析することにする。それは私がこれまでたびたび引用してきたP・ラーベの「出版者フリードリヒ・ニコライ」の中に掲載されているものである。

次の表は、ニコライ出版社のジャンル別出版物を、出版点数と出版巻数に分けて記したものである。これは1作品が1巻の場合は、点数と巻数が一致する。しかし小説などの長い作品の場合は、1点で2巻ないし数巻になる。

分 野                  出版点数     出版巻数
1  小説・詩・戯曲            77      167
2  神学                 68      100
3  教育関連               59       78
4  ブランデンブルク・プロイセン     52       98
5  数学・自然科学            39       57
6  医学                 39       53
7  哲学                 30       37
8  技術・経済              30       55
9  旅行記・地理・国家学         27       47
10 時事問題・論争書           26       34
11 歴史                 25       38
12 文芸学                24       96
13 古典文献学              19       26
14 一般                 16      198
15 言語学                 7        8
16 趣味                  5       25
合 計                  543     1117

各分野の主な著作物

総体としてニコライが出版した著作物には、知識を普及し、偏見を取り除くことを通じて、国民の啓蒙に貢献するという啓蒙主義者の意図が、それぞれの分野で見て取れる。つぎにニコライ出版社から刊行された数ある出版物の中から、分野をやや大きくまとめて、それぞれの主な著作物を取り上げてみることにしたい。

     A  小説・詩・戯曲

この分野は点数及び巻数の点で、彼の出版物の中でトップを占めていた。若いころ熱心に文芸批評活動に取り組んでいたニコライは、1760年代には英語やフランス語の主な文学作品を出版し続けていた。そして1770年代になって、自ら書き自分の出版社から刊行した小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』は、大いに人気を博し、ベストセラーになった。それによってニコライは作家兼出版者として、出版のメッカであったライプツィヒに進出することができた。さらにゲーテの『若きヴェルテルの悩み』のパロディーとしてニコライが書いた『若きヴェルテルの喜び』という短編小説も出版している。これは啓蒙主義者を喜ばせたが、ヴァイマルの文学者たちを怒らせ、以後ニコライへの風当たりが強くなった。

      B       神 学

二番目に多い神学書については、不寛容と盲目的な信仰に対する闘いといった観点から、刊行されている。その際彼が住んでいたベルリンないしプロイセンの牧師及び神学者の著作が優勢を占めている。それらはプロテスタント神学に関連したものであったが、一般に想像されるよりはるかに古めかしさのない、理性的な著作であった。

神学上の作品は100巻(68点)を数えたが、ニコライ家と親しい友人でもあったJ・S・ディートリヒの『イエスの教えによる至福への授業』やF・G・リュトケの『堅信礼の本』は、ニコライ出版社のベストセラーであった。さらにニコライの個人的な友人であったJ・A・エバーハルトやJ・A・ヘルメス、J・M・シュヴァーガー、G・F・トロイマン、R・ダップといった牧師の書いた説教集も出版された。

この分野での最後の作品は、友人で宮廷牧師のW・A・テラーの『プロイセン国における理性と理性的宗教の自由な発展』であった。これは著者が亡くなった後、追悼記念作品として出版されたものだが、刊行後数十年にわたってドイツ人に影響を与え続けた書物であったという。

       C       教育関連

言うまでもなく教育は国民啓蒙の重要な分野であり、ニコライ出版社にとっても欠かすことのできないジャンルであった。教科書は、父親の時代からニコライ出版社の重要出版物であった。毎年のように需要があり、しじゅう再販や改訂版が出されていたから、店の健全な財政基盤になっていたのだ。

その一方ニコライは、プロイセンの改革教育学の振興にも尽力した。こうした改革教育に熱心な人物にF・E・フォン・ロホウという大地主がいたが、この人物が書いた『子供と農民のための教科書の試み』という原稿が、1772年にニコライ出版社から刊行された。また新しい教授法のために尽力したF・G・レーゼヴィッツも、ニコライのもとで『公教育改革のための理念、提言及び要望』(1~5巻、1778-1786年)を刊行している。

     D    ブランデンブルク・プロイセン

このジャンルの著作物は98巻と、巻数の点で第3位を占めている。これに属するものとしては、ニコライ自身の作品『王都ベルリン及びポツダムについての記述』をまず挙げねばならないが、これは彼の重要業績の一つなので、独立の一章として扱うことにする。またニコライが崇拝していたフリードリヒ大王に関連した数多くの著作が編集発行されていた。彼自身もこの啓蒙専制君主に関するエピソードを集めて編集した作品を著わしているので、私も「歴史研究者ニコライ」の個所で論じている。次いで人文科学の分野では、ベルリンで最初の芸術家事典(1786年)が編集刊行されたほか、ブリューメックの『ベルリン演劇史草稿』およびマンガーの3巻本のポツダム建築史関する書物が出版されている。

目を法律や行政の分野に向けると、ニコライと縁戚関係にあったE・F・クラインの法律書が大きな部分を占めている。それらは絶対主義官僚国家プロイセンの官吏たちのための法律ハンドブックといったものであった。さらにプロイセン国家全体に適用される新しいプロイセン一般ラント法に関する教科書も刊行されている。

    E       数学・自然科学、技術・経済

数学・自然科学関連の著作物も、その刊行を通じて、広く知識を普及させ、偏見を取り除き、国民の啓蒙に貢献しようというニコライの尽力の一環に数えられよう。この分野の著作物も全体として、かなりの分量刊行されている。クリューゲルが編纂した四巻本の『百科事典』(1782-1784年)は三版を重ねたが、これは自然科学の領域を越えて、科学技術上の全ての重要な事実を伝えたもので、人々から大変愛読された実際的な事典であった。

またこの分野では、当時の先進国イギリス及びフランスの自然科学上の作品が、ドイツ語に翻訳されてニコライ出版社から刊行されていたことが注目される。

いっぽう技術と経済(ここでは産業というほどの意味)の分野では、およそ30点の著作物が発行されている。ここでの最も重要な作品は、J・K・ヤコブセンが編纂した『科学技術事典』であった。そこには機械技術、マニュファクチャー、工場、手工業に関連したすべての実用的な知識並びにそこに登場するあらゆる作業、施設、道具、専門用語についての記述がなされている。つまりこの実用的な事典は、前工業時代における技術についての極めて有益な参考書なのであった。

         F        医 学

医学の分野の著作物は53巻を数えるが、なかでもプロイセン王室外科医J・A・シュムッカーの作品が目に付く。また彼の同僚であったテーデン及びハーゲンが書いた『外科学及び外科薬品学のためのハンドブック』も注目された。そしてゼンフトが書いた『農民のための健康教理問答』は、健康と病気に関して農民を啓蒙するための典型的な著作であった。ここでも日常生活の改善に資する実用目的への配慮がうかがえる。

              G       旅行記、地理

この分野ではハンガリー、ロシア、東洋、セイロン、シベリア、スペイン、オランダ、イギリスなどの諸地域に関する旅行記や地理学上の論文、統計的著作が、オリジナルな報告または翻訳ものとして刊行されている。
いっぽうドイツ国内の地域事情に関する報告も出版されている。しかしドイツの地域事情については、ニコライ自身の『1781年におけるドイツ・スイス旅行記』が最も重要な作品であった。そのため私としては、『南ドイツ旅行記』という表題の下に、独立した一章として詳しく述べることにする。

    H     文芸学、古典文献学、言語学、哲学

若いころ文芸批評活動に熱心に取り組んでいたニコライは、友人の作家兼学者のエッシェンブルクに文芸学関連の著作をいろいろ書いてもらった。それが『文芸理論草稿』、『学問方法論教程』および9巻ものの選集『文芸理論への先例集』であった。

ついで古典文献学では、5版を重ねたエッシェンブルクの『古典文学ハンドブック』および『ギリシア・ローマ寓話史概観』そしてヘルマン著『神話学ハンドブック』が主な作品であった。

言語学の著作物では、数人の専門家による言語学史ならびに方言の歴史があげられる。

哲学については、数量的にはあまり多くないが、ユダヤ系のドイツ人でニコライの親友であったモーゼス・メンデルスゾーンが書いた『ファイドンまたは霊魂の不滅』が最も重要な作品である。オリジナル版はドイツ語で書かれ、4版を重ねている。またこれは英語、フランス語など九か国語に翻訳され、彼の名声はヨーロッパ中に広められた。

メンデルスゾーンの『ファンドンまたは霊魂の不滅』の見開き

       I      歴 史

この分野では、北獨オスナブリュック在住の注目すべき歴史家ユストゥス・メーザーのいくつかの主要作品がニコライ出版社から刊行されていることを、まず強調しておきたい。『祖国愛の幻想』(四巻、1775-1788)は、週刊誌『オスナブリュック・インテリゲンツブレッター』に連載されたものを、のちにまとめて刊行したものである。後世に大きな影響を与えた作品である。さらに彼の代表作『オスナブリュック史』(三巻、1780年、再版1824年)は、ドイツの社会経済史ないし歴史法学の先駆者の地位を彼に与えたものといわれるぐらい重要な作品であった。

 ユストゥス・メーザーの肖像

そのほかJ・C・マイヤー著『十字軍史の試み』、ハイネス著『トルコの戦術についての論考』、レーマー著『全世紀を通じての歴史世界の叙述』などの著作も出版されている。

なおニコライ自身、歴史には強い興味と関心を抱き続け、歴史関連著作を数冊刊行しているが、その詳しいことについては、独立した一章「歴史研究者ニコライ」の項目で述べることにする。

      J     時事問題・論争書

啓蒙主義者フリードリヒ・ニコライは、何事によらず、学問上、宗教上、倫理上の時事問題に強い関心を抱いていた。そしてこれらのテーマについて、自ら、あるいは他の執筆者が書いた文章を、自分の出版社の雑誌や小冊子に掲載していた。それらは十八世紀の後半になってもなお根強く残っていた迷信や秘密めいた習俗を打ち破って、理性と分別への道を切り開こうという努力のあかしだったわけである。当時自意識を持つようになってきた、精神的、知的問題に関心ある市民層は、これらの時事問題をめぐって、いろいろ議論するようになっていた。こうした背景のもとに、ニコライ出版社の雑誌や論争的小冊子も読まれたものと思われる。

その具体的なテーマをいくつか列挙すれば、「宗教的偽善やいかさまに対する闘い」、「悪名高いヘッセンの上級牧師シュタルクの秘密カトリシズムとの論争」、「薔薇十字団、テンプル騎士団、フリーメーソン及び啓明結社をめぐる論争」といったものであった。

またユダヤ人の啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの友人であったニコライにとっては、ドイツに住むユダヤ人の運命を、啓蒙主義運動の中で、改善していくことは、極めて切実な問題なのであった。この関連で出版された、軍事顧問菅C・W・ドーム著『ユダヤ人の市民的地位の向上について』は、ドイツにおいて最終的なユダヤ人解放へと導いた初期の文献に属する。

十八世紀後半の啓蒙主義の時代以降、二十世紀前半30年代のナチスによる迫害に至るまでの時期は、ドイツにおいてユダヤ人が各方面で活躍した時代なのであった。

5 啓蒙主義出版業者としての理念

出版業についての冷徹な考え

間違いなくニコライは成功を収めた書籍業者の一人であった。しかし同時にドイツ出版史を通じて、最も確かな理念を有していた出版業者でもあった。彼の全作品に散見される書籍出版業に対する理論的見解は、ドイツの出版に対する極めて貴重で、かち文化史的に見て最も重要な史料であるといえよう。それらはとりわけ彼の小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』、一種の自伝『私の勉学修業時代』そしてカントの『本屋稼業』への反論に中に見られるものである。

ニコライはしばしばレッシングやメンデルスゾーンと、自主出版の可能性について議論したり、海賊出版の搾取から著作家を保護することに関心を抱いたりした。その際彼は書籍出版業についての専門的知識の重要性を訴え、それの欠如は結局経済的な破綻につながることを指摘した。また「文学的に優れたものは買い手が付く」というレッシングの考えに反論するなど、リアリストの本領を発揮していた。この点についてニコライは次のように書いている。
「書籍業者という者は文学的な質の高いものによってではなく、多くの読み物が氾濫している都会の読者によって生活しているのである。またわが友レッシングなどついぞ見たこともないような愚か者や、彼の書いたものなど読もうともしない田舎者によっても生活しているのだ。」 優れた書物は大衆性を欠き、人気のある作品は質を欠いている、という古くて永遠に新しい命題について、ニコライは優れて現代的な仕方で対処していたわけである。

十八世後半のドイツには、「物書き」が急激に増え、また読者の数も同じく増大した。しかしこの人たちが読んでいたものの大部分は、後世に名を遺したような大作家の作品ではなかった。この点経験豊かな商売人でもあったニコライは、どんな種類の文学が一般読者の関心を引くかという点について、何らの幻想も抱いていなかった。つまり当時の読者の大部分は精神的な訓練を積んでいなかったために、すぐれた作品に無関心であることを十分知っていたのだ。そして文学的な野心におぼれてはならず、一般大衆の残念ながら極めて低い水準に合わせていくべき、との結論に達したのである。そうして築かれた安定的な基盤の上に立って初めて、ニコライが目指した啓蒙的出版販売も可能になったわけである。

啓蒙的出版の理念

当時プロイセン王国では、フリードリヒ大王の指示によって大規模な法典の編纂作業が着手されていた。ただその作業が軌道に乗り出したのは、ようやく1780年代になってからのことであった。これにはベルリン啓蒙主義を奉じていたニコライの仲間の学識者も多数関与していた。ニコライはこの「プロイセン一般国法典」の中の版権に関する部分を担当していた。そしてそれに関する鑑定書(1790年)の中で、社会一般に対する出版業者の文化的重要性について、再三再四強調している。

「出版者自身が一つのアイデアを持っていて、このアイデアに対して著作者をいわば道具として用いるような著作物が、世にはきわめて多く存在している。・・・私は例のベルリンにかんする記述に対して、最初のアイデアを抱いた。そして他の人々をそのための道具にした。私は彼らに手引きを与えて、コストを負担した。今や私は、私の収穫の果実(成果)を享受する時が来たのだ。出版業者というものは、一般に読者が求めているものを、著作者よりもよく知っている。公衆の利益になる多くの本が、そうした出版業者の発案によって生まれている、と断言できる。」

このような言葉から、公益の代表としての自信がうかがえるが、そうした立場から文学の大量生産化に反対すると同時にドイツ文学の特権化にも、彼は反対していた。それに関連して、「ドイツ人の著作家は、フランス人やイギリス人の著作家のように、大衆向けにわかりやすく書くことができない」という嘆きの言葉を、ニコライは繰り返し。用いている。

自分が書いた小説『ノートアンカー』の中でも、友人の書籍商ヒエロニムスが主人公の問いに答える形で、説明しているので、少し長くなるが引用することにする。

「ノートアンカー: イギリスやフランスの書籍商は、良書に大変恵まれていると聞いていますが。
ヒエロニムス: それはフランスやイギリスでは、作家の層が読者の層に対応しているからです。作家は、読者が必要とし、読むことができるものを書いているのです。
ノートアンカー: ドイツではそうではないのですか?
ヒエロニムス: そういうケースはとても稀ですね。ドイツでは作家の身分の者は、ほとんど自分自身のためか、あるいは学識者身分の人のために書いています。我々のところでは、学識者が文筆家であることはとても少ないのです。ドイツでは学識者というのは、神学者、法律家、医学者、哲学者、大学教授、マギステル、研究所長、学長、副学長、バチェラーなどです。そして彼らは自分の聴講生か従属している人たちのために書いているのです。およそ二万人を数える、こうした学識ある教師やが学生は、残りの二千万人のドイツ語を話す人々を、軽蔑しています。そして彼らのために書くという労をとろうとはしないのです。・・・二千万人の学識のない人々は、この二万人の学識者に対して、軽蔑と忘却の念をもって報いています。彼らは学識者がこの世にいることさえ、ほとんど知らないのですから。・・・学識者は一般向けに書くことを、怪しげな作家、説教集の書き手、あるいは道徳週刊誌の記者といった素人に任せているのですよ。」

ニコライは学識ある著作家に対して、何よりもまず学問性を損なうことなく、一般向けに分かりやすく書くことを要求したのであった。彼によれば、いかなる学問もそれ自身のためにあるのではなくて、他者のためになり、ひいては人間社会全体の公共性に寄与すべきものであったのだ。その意味で彼にとって理想的な出版物というのは、当時隣国フランスやイギリスで発刊されていた百科事典であった。ニコライはこれらを、「哲学的かつ人類愛的な意図から生まれ、様々な学問を同時に概観し、各人の意識を一般的な認識と同調させようとする試みである」として、高く評価していた。

結局ニコライが目指していたものは、まちがいなくまともな書物の読者階層を、それまでそこに属していなかった人々の範囲にまで拡大することであった。その際彼は、いわゆる読書革命によって増大した低俗な読み物の読者を考えていたわけではなかった。質を落としたり、短縮したりしたダイジェスト版の概説書によって、書籍の発行部数の増大を狙ったりはしなかった。
彼にとって大事なことは、あくまでも学問上の専門知識を、大衆化した形で普及させることであった。書物の数の増大だけではなくて、とりわけその内容に誰でも近づけるということが、大切なのであった。そこにこそ彼の言う書籍出版の公共性が存在し、そうしてこそ個々の学問が社会一般に向かって、開放されることになるわけである。

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その2

その青少年時代

1 生誕から書店見習い時代まで

父親クリストフ・ゴットリープ・ニコライ

わが主人公クリストフ・フリードリヒ・ニコライは、1733年3月18日、プロイセン王国の王都ベルリンで、書籍商クリストフ・ゴットリープ・ニコライの息子として生まれた。4人の男兄弟の末の男子であったが、このほか4人の姉妹も含めて何人かは、早死にしていた。ベルリンからあまり遠くないヴィッテンベルク市の市長を務めていた彼の祖父も、本業は書籍商であった。

この祖父の店で働いていたのが父親であったが、祖父の娘と結婚したとき、そのベルリンの支店を結婚持参金として与えられたのであった。この書店には国王から特権が付与されていたが、書店を受け継いだ父親は、やがてその書店にいくらかの名声を付け加えていった。当時プロイセン王国を統治していたのは軍人王と呼ばれているフリードリヒ・ヴィルヘルム一世であった。そしてその後継者となったフリードリヒ大王は、皇太子時代にこのニコライ書店をしばしば訪れていたことを、のちにわが主人公フリードリヒ・ニコライと会見したときに明らかにしている。

当時ドイツの書籍商は一般に書店経営と出版業を兼ねていたが、父親のゴットリープ・ニコライは、出版業の面で、時代の文学的要請に対して確かな勘と才覚を有していた、といわれる。つまり当時大きな発行部数を見込め、儲けも大きかったドイツ語・ドイツ文学関係の書物に目をつけていたのだ。これらと「当時評判の良かった学校の教科書は、彼の名声を高めるのと同時に、その経営基盤を改善した」わけである。

この父親の性格は、倹約、勤勉、厳格そして道徳心や宗教心の厚さ、といった言葉で表現できるものであった。そしてそれらはまたプロイセン王国に生きていた中流市民のプロテスタント的な生活信条そのものであった、といえよう。これはまたプロイセン王国を軍事官僚国家に仕立て上げた軍人王の統治方式に倣ったものともいわれる。

忠実な臣下であったニコライの父親は、時代とその身分に見合った形で、その家族と奉公人と商売を取り仕切っていた「家父長」だったのだ。

ニコライの幼少期

この父親の性格のいくつかを、いくぶん薄めた形で息子のニコライも受け継いでいる。ただ宗教に対しては息子はやがて父親とは大きく異なる立場をとるようになった。またニコライは原ベルリンっ子の典型として、仕事熱心さ、批判精神そして現実感覚の三つを併せ持っていた。これらの三つの要素がやがて彼の運命を大きく左右するのであるが、この点については徐々に明らかになっていくであろう。

権威主義的な父親の厳しさを和らげてくれたのが、母親であったが、この母親をニコライは5歳の時に失うなど、その幼少時代から彼は家庭の温かさには恵まれなかった。この家庭的な保護の欠如が、やがて彼の生涯に大きくかかわっていくのである。そしてその精神生活にも影響を与えたのであった。

中等教育期

幼少期を過ぎて、やがてニコライは教育熱心な父親によって、三つの中等教育機関に通うことになった。まず1746年、13歳でベルリンのヨアヒムスタール・ギムナジウムに1年間通ったのち、ハレにあった孤児院の学校に移り、さらに1748年にはベルリンの実科学校へと転校した。最初に通ったギムナジウムでは、上級生による新入生いじめが、やりたい放題に行われていた。新しく入ってきた生徒は、上級生から好き勝手に殴られたり、いじめられたりしていたが、それに対して教師はなすすべがなかった、という状況にあった。

この学校での息子の発展が望めないことが分かり、父親はハレにあったフランケ財団経営の孤児院の学校に息子を移した。この学校はもともと敬虔主義者のA・H・フランケによって17世紀末から、キリスト教の敬虔な精神の育成と有用な知識の獲得をその教育の最終目標に掲げて作られた一連の学校の一つであった。

しかしニコライがこの学校に移されたときには、フランケの創設から半世紀が過ぎていて、敬虔主義のうわべとかたくなな形式主義に支配されていた。これはニコライの父親の見込み違いであったのだ。敬虔主義を嫌っていたフリードリヒ大王に言わせれば、ただ「偽善的な坊主ども」と「プロテスタントのイエズス会士」を作っていたことになる。ニコライ自身は、のちにこの学校について次のように振り返っている。

「教育のやり方もまたその中身も、すべて伸びようとしている若者の精神の力を抑圧することに向けられていたようだ。魂の抜けた無為無策とうわべを取りつくろった態度が、信心深さなのであった。監督官や教師の下での奴隷的な服従と、信心深さだけが称賛されていたのだ」

ただニコライもシュタインというギリシア語の教師については良い印象を持っていて、彼がいたおかげでギリシア語を勉強したのだと、述べている。このシュタイン先生からニコライは、ギリシア語で書かれた新約聖書の一部を習い、さらにホメロスの『イリアス』から数節を教わったとき、ハレ大学で哲学を勉強していた兄のザムエルにこのホメロスがいったいどんな人物なのか、問い合わせている。それに対して「彼は私にホメロスが文学の頂点に立つ人物であることを教えてくれたが、当時15歳の少年だった私にとっては、ホメロスはまだ早すぎたようだ」と書いている。

とはいえホメロスの存在はその後もニコライの心に残り、のちに出版業を受け継いでから発行した、初期のたいていの出版物には、出版社の標章としてホメロスの肖像が印刷されていたのである。

初期出版物のホメロス胸像つき表紙

しかしシュタイン先生に代わって、細かなことにうるさい教師になってからは、この学校はニコライにとってますます息苦しいものになったようだ。

文学への開眼

学校の中の、こうした息苦しさから、ニコライは、もっと自由で開かれた世界にあこがれ、世俗的な文学を読みたいという欲求にかられるようになった。そんな時、兄のザムエルからニコライのもとに、一冊の文芸雑誌が送られてきた。この雑誌は『ブレーメン寄与』という名前であったが、そこには新しい啓蒙主義文学が紹介されていた。この雑誌を通じてニコライは初めてドイツ詩の概念を得たというが、それはまさに彼の「文学への開眼」であったのだ。

しかしニコライはこの雑誌を学校で自由に読めたわけではなかった。そのことについて彼は次のように書いている。

「敬虔主義に凝り固まったこの学校では、・・・世俗的な本、とりわけドイツ語の本は読むのを禁じられていた。それでも私は何人かの友達に、私の宝物ともいえる『ブレーメン寄与』を持っていることを打ち明けた。ところがそのことがやがて露見してしまった。当時は監督官に対しては、頭を垂れて密告するのが一番だと勧められていたのだ。そのため互いに信頼できる生徒は少なかった。もっとも信心深そうに見せかけていた者が、一番信頼できなかったのだ。私は自分の宝を、人の目につかないところ、つまりわら布団の中に隠したが、それでも見つかって、没収されてしまったのだ」

実科学校への転校

こうした状況を知った父親は息子を再び、ベルリンに新設されて間もない実科学校に転校させた。まさに中国の故事にみえる「孟母三遷の教え」を、地で行くものであったといえよう。

この学校はJ・J・ヘッカ-によって、1747年5月に設立されたものであった。「ヘッカーはハレの教育施設で教師としてフランケ流の教授法を徹底的に学び、1738年から説教者としてベルリンに招聘され、そこでも引き続き研究を行った人物である。・・・1747年ヘッカーはコッホ通りに、図工、幾何、技術、建築、手工芸、家政などを教える最初の小さな実科学校を開設し、翌年にはその学校の教師の数はすでに20名を数えるようになっていた」

この学校は「本来、職人養成学校として設立された学校であったが、しまいには神学、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、地理、歴史、正書法、実業書簡の書き方、数学、算術、音楽、植物学、解剖学、商学、鉱山学などが教えられるようになった。こんな状況だったので、口の悪い人からは、子供たちにこれだけのものを学ばせ、専門家の先生より利口にさせて、どうしようとするのだ、と非難された」

それはともかく、ニコライはこの実科学校に入学したのであったが、ここでの1年間に彼は、その前の二つの学校で得たものよりも、はるかに多くのものを得たという。その具体的な様子を、少し長くなるが、ニコライの自伝から引用することにする。

「私は実科学校に入学したが、そこは全く新しい世界であった。前に通った学校での授業が、わたしには全く面白くなく、無意味であったのに、この学校で学ぶことはすべて興味深く、変化に富んでいるように思われた。そのため最初の一か月、私は喜びのあまり我を忘れた。

植物学の授業では、春から秋にかけて、遠足が行われた。いろいろな雑草、花、木の葉を、家に持ち帰り、乾燥させ標本として、各自が保存することによって、植物の名前を覚えた。
解剖学は、骨格の模型と銅版画によって学んだ。冬になると数回、大学の解剖学教室に連れていかれ、死体を通じて内臓の位置や脳の構造などについて学んだ。
農業経済は、かつて実際に農場を経営していた人から教わった。この先生は私たちを外に連れ出して、農作業の実態を見せてくれた。
理化学では、まず一般的な知識が教えられ、また実験も行われた。理科学教室には、空気ポンプや気圧計、温度計、その他の物理の実験機材が置いてあった。さらに電気は当時まだ全く新しいものであったが、私たちは電気で動く機械のある場所に連れていかれ、当時としては最高級の実験を見せてもらった。
つぎに銅版画や石膏像を見ながら、人間の身体を描いた。最終段階では、一か月かかって、実物のモデルを使って人体をスケッチした。またあらゆる種類の建築学の製図の描き方を教わった。そしてかなり大きな実科学校の校舎を実測させられたし、建物の全体と個々の部分の平面図と立面図を素描し、仕上げをさせられた。
天文学は、ツィンマーマンの天体儀によって教えられた。冬の澄み切った大空にちりばめられた星がくっきり見える夜、戸外に出て星座を観察した。また何度か大学の天文台に連れていかれ、天文学の計測機器や天体観測に関する知識を習得した。

最高に面白かったのは、製作実習の時間だった。この時間には国王の法令に従って、当時ベルリンで親方になろうとする職人全ての資格審査合格作品が、生徒たちのために提示されねばならないことになっていた。クラスの全員が週に2回、ベルリンにあるマニュファクチャーや工場の見学に連れていかれた。そして各人が自分の目で見たものを記録しなければならなかったが、これは同時にわかりやすく明瞭な文章を書く練習にもなった。

必要な場合には、それに製図もつけられた。私がこの製作実習のクラスに出ていた年には、織物と羊毛製品の全工程について学習した。つまり羊毛の洗浄や紡績から布地の仕上げや羊毛製品の光沢仕上げに至るまでである。同様にして帽子や金銀などの貴金属の加工といった家内工業とか、針金製造やモールとか縁飾り加工に至るまでを学習した」

好奇心の目覚め

以上、実科学校の授業についてニコライの生き生きとした報告でお伝えしたが、さらに数学の授業では、機械的な訓練ではなくて、思考の訓練を学ぶことができたという。それはつまり知識の詰込みではなくて、物事の原因と結果について考えさせるという、やりかただったのだ。この原因と結果についての思考訓練は、のちにニコライが歴史の研究に携わったときに、大いに役立ったといわれる。

実科学校でのこのような教授法は、のちにスイスの有名な教育学者ペスタロッチによって形成された「観察こそあらゆる認識の基礎である」という理論を先取りしたものものであったといわれる。こうした状況の中で、少年ニコライの好奇心が、多くの分野で呼び覚まされた。

とりわけ数学の教師ベルトルトから大きな感化を受けた。この教師は生徒の中に、大きな感受性を見出して、数学以外でもニコライを手助けした。一緒になってヴェルギリウスやホラチウスといったローマの作家の古典作品を読んだり、ミルトンの『失楽園』のドイツ語訳を与えて、その語句の美しさにニコライの注意を向けさせたりした。後に彼がイギリス文学に傾倒するようになった、その基盤もこのあたりにあったようだ。

さらにその文章のスタイルを磨かせるために、ベルトルト先生は毎日ニコライ少年に対して、手紙を書かせもした。そして先の孤児院の学校で、宗教というものに懐疑心を抱くようになっていたニコライに、のちに村の牧師になったベルトルト先生は、真の宗教心を目覚めさせたのである。

ところが、おそらくニコライにとって「夢のようであったと思われる」勉学時代は、わずか一年で打ち切られることになった。厳しい父親の有無を言わせぬ命令によってニコライ少年は、現在はポーランドとの国境をなしているオーダー川に面した町フランクフルトの書店に送られることになったからである。今では、フランクフルトというと、国際空港があり、日本人の観光客やビジネスマンにもおなじみの商業都市フランクフルト(アム・マイン)のほうを考える日本人が大半ではないかと思われるが、オーダー川のほとりのこの町は、18世紀には大学もある、かなり重要な町であったのだ。

彼の一生に強い刻印を遺したこの実科学校、とりわけ素晴らしい恩師ベルトルト先生との別れを強制された少年ニコライの心は、「筆舌に尽くしがたい苦痛にみちていた」という。

書店での見習い時代

このフランクフルトの書店でニコライは、1749年から1752年まで、年齢にすると16歳から19歳までの3年間、見習いとして過ごしたのであった。この書店見習いとしての3年間に、ニコライは実科学校で身に着けた勉学の習慣を、さらに本格化させた。

しかしそれはまさに苦学生としての期間であった。父親としては、将来自分の書店を確実に継いでくれる後継者を養成するために、長男だけではなくて、末の弟のフリードリヒに対しても、修業を命じたのであった。その際厳しい家父長であったニコライの父親は、修業中の若者には小遣いを与えず、書店員としての仕事の習得に専念するよう指示した。そのためニコライにとって大学へ進む道は閉ざされたわけであるが、向学心に富んでいたニコライ青年は、まさに疲れを知らぬ熱意をもって、朝の早い時間や営業中の暇な時間を利用して、勉学に励んだのであった。そのころの様子をニコライは、晩年に記した自伝『私の勉学修業時代』の中で、次のように書いている。

「確かに私はそのころ、あらゆる苦労をなめた。冬には大変な寒さにさらされた。店の中も家の中も、部屋は暖房されてなく、夜も朝も明かりというものがなかった。しかし私はこうした苦労を克服することができた。・・・商売上のことには、昼間の三分の二の時間を費やすだけでよかった。そのため余った時間を利用して、あらゆる種類の知識を習得すべく務めた。

私が実行した最初の勉強は、英語の文法書と店の中で見つけた古ぼけた英語の本を頼りに、誰の指導も受けづに英語を学ぶことであった。かなり長い事私は朝食代その他を節約して、照明ランプ用の油を買っていた。それによって私は、冬でも寒い部屋で、朝も夜も勉強できるようになった。夏になってもその節約の習慣は続き、私はミルトンの作品に原文で取り組めるようになった」

勉学修業の継続

こうして彼は独学者の疲れを知らぬ熱意をもって、一歩一歩精神世界へと近づいていったのである。そして様々な領域にわたる彼の傑出した知識の基礎が徐々に形成されていった。新聞・雑誌や、あらゆる種類の書物を手当たり次第に読破していくことによって、のちの彼の博学の基盤が築かれたのだ。

その際かつての恩師ベルトルト先生によって切り開かれたギリシア・ローマの古典への関心は、作家エーヴァルトとの交友を通じて、さらに深まった。当時ニコライはフランクフルト大学の学生たちと知り合ったが、エーヴァルトはそうした学生の一人であった貴族青年の家庭教師をしていたのだ。ニコライは彼から与えられたホメロスのオリジナル版をはじめ、ギリシアの抒情詩人の作品を夢中になって読んでいった。この時以来ホメロスは、ニコライにとって切っても切れない存在になっていくのだ。

さらにニコライは、それまで近づきにくい存在だった哲学も、学生の講義ノートを通じて、瞥見することができた。当時、同大学で哲学を講義していたのは、A・G・バウムガルテンであった。彼は啓蒙哲学者クリスティアン・ヴォルフの弟子で、ドイツ美学の始祖として知られている人物である。独学者のニコライはその講義の一部を盗み聞きするために、教室の扉に忍び寄ったりしたという。そのいっぽう神学の学生パッケと知り合ったが、その講義ノートを通じて、バウムガルテンの論理学、形而上学及び美学を学んだのであった。

これらは全く新しい精神の領域へと彼を導いた。またペスラー教授や法律顧問のフォン・トルといった学識者も、この独学者を受け入れて、その図書室を利用させた。これらの勉学、とりわけバウムガルテンを通じて、習得したヴォルフの哲学から、ニコライは啓蒙思想の豊かな所産を手に入れていったわけである。

しかし学識に対するニコライの姿勢は、大学でのポストを得るために研究を続けている大学教員の細事拘泥主義とは根本的に異なっていて、「現実生活に役に立つか」とか「社会や公共の利益にかなうか」といった基準に基づいていたのだ。つまり彼にとっての学識の意味は、あくまでも社会性、公共性、実用性のはかりにかけられたものであった。こうした基本姿勢をニコライは、すでにこのフランクフルト時代から身に着け始めていたのだ。

これに関連して歴史家のホルスト・メラーは次のように述べている。「ニコライは早い時期から、実生活に即したあり方と実際活動の中での学識とを結び付けていた。彼は前者からは逃れられず、その一方後者なしでは済ますことができなかった。実現不可能な理論を考え出す学者の、誤ってそう思われていたり、あるいは実際に存在する世間知らずな態度こそは、(のちに)彼が哲学論争する時に、(相手を非難する言葉として)持ち出した決まり文句なのであった」

彼が後に信条とするようになったのは、「健全な良識」であったが、そのために彼が身に着けた知識は、あらゆる分野にわたる広範なものであった。それらは、学者・知識人に言わせれば、深く熟考されたものではなく、いわば知識の折衷主義だということになる。しかしそれは死んだ知識ではなくて、社会や公共の役に立つ生きた知識なのであった。その意味でニコライは「象牙の塔」に閉じこもった学識者ではなくて、「生きた社会」のために、その知識を生かそうとした「優れたジャーナリスト」であったのだ。

ニコライが世の中に提供しようとしていたものは、啓蒙の時代にふさわしく、まさに「百科全書的な」知識なのであった。このような姿勢はすでにフランクフルト時代にその萌芽がみられており、そのころ図書館にこもってニコライが考えていたことは、当時の重要な著作家とその作品をまとめて、ある種の事典を作ろうという構想だったのだ。

2 青年時代の活動

ベルリンの実家への帰還

父親の計画では、フリードリヒの書店見習い期間は、1752年の末までであったが、一つには体調を崩したために、もう一つには軍隊勤務から逃れるために、彼はその年の1月にベルリンへ戻り、父親の書店の手伝いをすることになった。ニコライはこの時19歳になっていた。

ところがその数週間後の2月22日に父親が死亡し、その書店は4人の息子たちが所有することになった。ただ書店経営は、長男のゴットフリート・ヴィルヘルムが受け継ぎ、書店見習いをして実務に通じるようになっていたフリードリヒは、全力で兄を助けていくことになった。

そのため彼には、それまでのように勉強していく時間が、ほとんどなくなってしまった。それにもかかわらず、彼は寸暇を惜しんで、勉学を続けたのであった。「朝の早い時間か、夜遅くにしか勉強の時間はなかった。その時間に私は、むさぼるように勉強を続けた。そしてやがて日中にも商売の支障にならないように気を付けながら、本を読んだ。店内の騒音などは気にせずに、読書をしたり、思索にふけったりする術を、身に着けたのである」

やがて父親の遺産をめぐって兄弟たちの間で争いが起こり、結局書店は長兄が単独で受け継ぐことになった。そのためフリードリヒは商売から手を引くことになったが、遺産の自分の取り分とその利子で、質素ながら暮らしていくのに十分な経済的な保証は得られたのであった。

自由の身になって

晴れて自由の身になったニコライは、この後しばらくの間、念願であった学問や文学の研究や、友人たちとの交際に専念できることになった。このころニコライは、ドイツの啓蒙期の最重要な合理主義哲学者といわれるクリスティアン・ヴォルフの教えに取り組むことになった。

「今や私はヴォルフのドイツ語の著作を勉強し始めた。そしてそれを数年間続けた。今や私は、彼の概念規定や彼のとった態度について考えることのできる年齢に達していた。」

ニコライはヴォルフ哲学だけでなく、それまで欠けていた教養を、体系的に身につけようとして、その全エネルギーを注ぐことになった。彼はギリシア語を勉強しなおすと同時に、ヴィンケルマンの著作から刺激を受けて、美術史の勉強にも励んだ。また音楽史の勉強でも、さらに磨きをかけた。以前から和声学を学んでいたが、ビオラ奏者としてもかなりの腕を示した。そのため後年家庭音楽会を開いた時には、ビオラのパートを受け持った。

その一方、この時期に彼は私設図書館の設立も始めている。啓蒙主義の時代は、まさに百科全書の時代でもあったので、ニコライの広範な分野にわたる書籍収集活動は、彼自身の生き方の現れであったのと同時に、時機に叶ったものでもあったのだ。

文芸評論活動の開始

こうした多方面にわたる勉学と並行して、ニコライはすでに執筆活動にも乗り出していた。その手始めとして彼は、学校時代に発見していたイギリスの作家ミルトンの『失楽園』に関する評論を、早くも1753年(20歳)に匿名で発表した。当時ミルトンは、ドイツ語圏の啓蒙の中心地であったライプツィッヒとチューリヒの文芸界で、論争の中心に位置していた作家であったため、この評論は注目を浴びたのである。

その中でニコライはライプツィッヒ在住で、当時ドイツ文学界で帝王と呼ばれていたゴットシェートを批判したのだが、それによってこの人物と対立関係にあったボードマーをはじめとする人々の拍手喝采を浴びたのであった。ともあれこの処女作が文芸界で一定の評価を受けたため、ニコライは自分の作品を公表することに、物おじしないようになった。この時彼は弱冠20歳であったから、書店員としての仕事の傍らに書いたものとしては、かなり早いデビューであったといえよう。

その後ニコライは、当時すでに名声を得るようになっていた作家のレッシングの作品から影響を受けるようになった。レッシングの文体の優雅さと気品が、彼に強い感銘を与えたのである。そしてその軽快な手紙の調子を取り入れて、ニコライは次の作品を1754年にものした。それが『ドイツにおける文芸の現状に関する書簡』で、これは翌1755年に出版された。ニコライの伝記を書いたグスタフ・ジヒェルシュミットによれば、この作品は前述した「ライプツィヒとチューリヒとの間の文学論争に最終的な決着をつけるうえで、少なからず貢献した」という。

ちなみに「18世紀最大の美学論争」といわれている、このミルトンをめぐる争いは、合理主義的かつ擬古典主義的な規範詩学の信奉者たち(ゴットシェート派)と、空想や感情の権利を重視する傾向のあった人々(ボードマー派)との間の典型的な争いであったのだ。またジヒェルシュミットは「この作品の出現によって、ドイツにおける文芸批評不在の時代に終止符が打たれた。ニコライのような、ものにとらわれない、自由な精神の持ち主だげが、名のある人々に対しても批判的に対峙する権利を有した。・・・彼は同時代の、なお地方的なドイツ文学に新たな可能性を切り開くために、両者に対して、容赦ないが、正当だと信じた批判を加えたのである。」とも書いている。

こうしてニコライは文芸評論家としての第一歩を記したのであるが、そこには後年論争家として、様々な論敵と闘っていく自信が、すでにみられるのである。

レッシング及びメンデルスゾーンとの出会い

レッシングの肖像

『ドつにおける文芸の現状に関する書簡』は、のちの大作家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729~1781)の注意を引き付けた。その内容に注目したレッシングは、ただちにその作者と知り合いになることを求めた。当時すでに成功した作家となっており、著名なジャーナリストとしても広く世間に影響を及ぼしていた人物が、緊密な精神的な結びつきを求めてきたことは、若きニコライの自尊心を著しく高めた。

彼は他人との精神面での接触や人間的な付き合いというものを常に大切にしていたので、この人物と親しく過ごしたその後の数年間というものは、まさに陶酔的な気分に満たされていたという。収穫の多かったこの時期を振り返って、ニコライは晩年に次のように記している。

「レッシング及び彼を通じて、モーゼス・メンデルスゾーンとも、1755年の初めに知り合った。そしてこの二人と私は親しい友情で結びつけられた。この友情は、これら偉大な男たちの死に至るまで続いた。・・・我々三人は、当時その花盛りの時にいた。真実への愛と熱意に満たされ、三人は何ものにもとらわれない自由な精神のもと、学問上のさまざまな想念を自らの中に育てること以外に、何の意図も持っていなかった。

二十年以上にわたる我々の親密な交際にあって、一度たりとも誤解が生じたことはなかった。我々の会合では、たいていの場合、活発な論争が起こった。しかし互いに何らかの独善的態度や教師面をとることなしに、多くのアイデアが生まれたのである」

レッシングは各地を転々とする定職のない生活を送っていた。しかしベルリンの滞在中には、これら三人の友人たちは、あるいはニコライ家の庭での朝の集いで、あるいはベルリンの有名なワイン酒場「バウマンスヘーレ」での夜の集まりで、親交を重ねていたのである。ニコライはこのころの三人の談話について、次のように書いている。

「レッシングはベルリン滞在中、しばしば我々の哲学談議に加わった。彼がいるとその談義は、一層盛り上がった。彼は議論をするとき、弱いほうに肩入れするか、誰かが賛成論をぶつと、ただちに独特の鋭い調子で、それに反論を加えたからだ。・・・とはいえレッシングのこの流儀は、ただ反論するのが好きだからだというのではなくて、それによって概念をより明瞭にさせようという意図によるのだ」

この時期ニコライは、傾倒していた寛容と自由の国イギリスへ移住して、みじめなドイツから永遠におさらばしようという思いに取りつかれたことがあった。しかしレッシングとメンデルスゾーンとの精神共同体を捨てたくなかったので、結局この考えをあきらめた。この二人と出会った1755年には、ニコライは22歳、レッシングとメンデルスゾーンは26歳であった。

この後三人はドイツの文芸界、思想界に新たな息吹を吹き込む具体的な活動に乗り出すが、彼らは新しい世代感情を代表していたともいえる。これら三人の啓蒙家が作り出した、実り豊かな精神共同体は、ドイツ文化史上これまで以上に高く評価されるべきであろう。

メンデルスゾーンとの交友

モーゼス・メンデルスゾーンの肖像

モーゼス・メンデルスゾーン(1729~1786)はユダヤ人で、1743年以来ベルリンに住んでいた。その息子は後に、銀行家として経済界で活躍することになり、また孫は日本でもよく知られた音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンである。

14歳の時、モーゼス・メンデルスゾーンは、その先生 D・フレンケルがベルリンに新設したタルムード研究のための高校に移るために、生まれ故郷の町デッサウを離れて、プロイセン王国の王都ベルリンにやってきたのだ。当時のプロイセン王は、啓蒙専制君主として知られているフリードリヒ大王(在位:1740~86)であった。この国王はフランスの名高い啓蒙主義者ヴォルテールを呼び寄せるなど、学芸の振興に努めていた。そしてユダヤ人に対しても寛容な態度をとっていたのだ。

さてメンデルスゾーンは生計のために、はじめヘブライ語のテキストを清書する仕事についた。ついで家庭教師をやり、1754年からは絹取引商 I・ベルンハルトの簿記係として働いていた。そして商売に熱心に打ち込み、やがてそこの共同経営者になった。

彼はニコライ同様、大学には行かずにいわば独学で、M・マイモニデス、キケロ、ユークリッド、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフなどの哲学を熱心に学んだ。と同時に数学も勉強し、さらに住んでいた国の言語ドイツ語のほかに、ラテン語、フランス語、英語も習得した。ユダヤ人であったメンデルスゾーンの母語は、西部イディッシュ語であった。

レッシング及びニコライと初めて会ったときは、著作活動を始めたばかりのころであった。後にレッシングはその劇詩『賢者ナータン』の中で、メンデルスゾーンの面影を描き、この人物の姿を後世に伝えている。しかしニコライとしては、同じ商人であり、同時に学識がある人物という共通性から、彼に親しみを感じたようである。この点についてニコライは次のように書いている。

「我々が知り合ったばかりのころ、対象を考察するその仕方において、私はM・メンデルスゾーンに近いものを感じた。なぜなら彼は、その知識の大部分を人から教えてもらったのではなくて、自らの努力を通じて獲得したからである。彼も、私同様に商人であった。そして我々二人は、様々な対象を、もっぱら大学教育を通じて習得した人とは違った観点から考察することを学んだのである」

ニコライとメンデルスゾーンの二人は、1755年、ベルリン在住のミュヒラー教授によって作られた「学識者のコーヒーの会」の会員となった。会員数は百人で、七年戦争(1756~63)の中ごろまで存続したという。そこでは4週に一度、数学、物理学、哲学などの分野の会員の論文が発表されたという。

またこの時期にニコライはレッシングの手引きで、「月曜クラブ」という会にも入っているが、この会については後述することにしよう。

『文芸美術文庫』の発行

休みを知らないニコライは、知識の吸収・習得に励むかたわら、まずは文芸の世界で世の中に働きかけることを始めた。先の文芸批評の中で、彼は「客観的批評ををすべきである」と主張したのであったが、いまやこのことを自ら雑誌を発行することを通じて、実現しようとしたのである。それがつまり1757年創刊の『文芸美術文庫』なのであるが、メンデルスゾーンやレッシングもこの雑誌の発行に賛成してくれた。そしてライプツィヒのデューク出版社が紹介された。

当時のドイツには、医学、法学、神学、歴史学などの専門的な学術雑誌や、人の役に立ち、道徳を奨励することを狙った、一般市民向けの道徳週刊誌などがあった。これらに加えて、1750年ごろのドイツに入ってきて、1780年代にその最盛期を迎えた文芸評論誌が、啓蒙主義のメディアとして、実にさまざまに発行されていた。ニコライのこの雑誌は、いわばそれらの先駆的存在だったのだ。

ニコライはこの文芸評論誌の編集を担当するとともに、その主要な寄稿者としても、まさに水を得た魚のような活躍を示した。彼はドイツ文学のあらゆる分野に目を光らせたばかりでなく、イギリス、フランス、イタリアにおける新刊書をも批評の対象にしようとして探し回った。またニコライはドイツ人の間に文学とよき趣味を育てることを目指して、絵画、銅版画、彫刻、建築、音楽、バレーなどを、考察の対象に含めた。

彼の本質に深くかかわっていた百科全書性が、すでにこの雑誌にも現れたというべきであろう。彼はこの雑誌を一つのフォーラムと考えていたが、その一例として、ドイツでそれまで長年にわたって続いてきた演劇改革に関する議論に対して、この評論誌を通じて決着をつけようと考えたことがあげられる。

そしてそのために第一号で、ドイツで最良の悲劇に対して、50ターラーを授与するという懸賞募集を行った。この募集を通じて、レッシングはその『エミリア・ガロッティ』の構想への刺激を受けたという。そしてそのほか数人の作家が悲劇作品をものしている。ニコライ自身は第一号に、「悲劇について」というエッセイを発表しているが、それに先立って、彼はレッシング宛の手紙の中で、新しい悲劇の在り方について、次のように書いている。

「・・・悲劇の目的は情熱を浄化し、道徳を形成することだという命題を、私は論破しようと思っています。・・・悲劇の目的は情熱を刺激することだと、私は考えます。もっともすぐれた悲劇は最も激しく情熱を揺さぶるものであって、情熱を浄化するものであってはならないのです」

いっぽうこの評論誌を支援していたレッシングは、1757年8月26日付けのニコライ宛の手紙の中で、友人としての率直な忠告を行っている。

「親愛なるニコライ。今回は少しだけにしておこう。私の考えが、いろいろと貴君の気に入ってくれて幸いです。貴君がそこから使えるものすべてを、役立ててください。ただその前に、われらの愛するモーゼスと一緒に考えてほしいのです。というのは、現在私が陥っている混乱した状況の中では、何か役に立つことを考えるのは、ほとんど不可能だからです。
・・・ただ愛するニコライ、誤植が多いのは自分の責任だと思いますか? これからは貴君の原稿は、もう少し読みやすくしてほしいものです。私がそちらにいないと、どんなおかしな誤植が忍び込むやら!・・・お元気で。たびたびお便りを下さい。貴君の真の友、レッシングより」

やがて歳を重ねるにしたがってニコライは、次第に市民的な健全な良識という事を、文学の在り方としても主張するようになっていくが、それは若き文芸評論家時代の考え方とは、著しく異なるものだといえよう。

それはともかく、この文芸評論誌を始めて二年足らずの1758年秋に長兄が亡くなり、ニコライは25歳で出版社の経営を引き受けざるを得なくなった。それを理由にニコライはこの雑誌の編集の仕事を退き、その仕事をヴァイセという人物に譲ることになった。この人物は雑誌の名称を、『新文芸美術文庫』と改めたが、これは1806年まで続いた。

『最新文学に関する書簡』

その後ニコライは商売のために以前にもまして多忙となったが、レッシングの強い勧めもあって、新しい雑誌を、今度は自らの出版社から発行することになった。これが『最新文学に関する書簡』(以下『文学書簡』と省略)で、1759年1月から1765年7月まで、毎週木曜に発行された。今回はレッシングの忠告に従って、ドイツのことだけを扱い、また内容的にも文学だけに集中することになった。「この賢明な自己抑制から、『文学書簡』は驚くべき魅力を発揮して、人の心に強く訴えることができた」という。

文芸批評誌であるのに、文学書簡という名称がついているのは、七年戦争で負傷した友人の詩人エーヴァルト・フォン・クライストに、最新の文学状況を知らせるという形式をとっているためである。プロイセン王国ににとって運命的であったともいえるこの七年戦争(1756~63年)中の高揚した雰囲気が、この『文学書簡』から今日なお伝わってくる。また書簡という形式はこの時代のごく一般的な文学形式でもあったのだ。

レッシングは初期のころはこの雑誌にたくさん寄稿したが、ブレスラウへ移ってからはそれも不可能になった。その代わりに、責任ある編集者としてニコライは、合計335編の書簡のうち64編、つまり五分の一を自ら書いていた。しかしメンデルスゾーンと二人だけでは、この仕事を長く続けられないと感じたニコライは、第8号から常勤の協力者としてトーマス・アプトという人物を迎えることになった。『祖国のために死ぬことについて』という著作によって文芸界にデビューしたアプトは、ニコライにとって頼もしい味方となったのである。

当時のベルリンの文学界の生きた証言になっていたこの『文学書簡』の中では、様々な文学問題が扱われていた。しかしその率直さが、例えば神学に関することでは、正統派神学者の強い反発を呼んだ。その結果この雑誌は一時ベルリンで、発禁処分を受けたりした。

当時すでにニコライは、正統信仰派や敬虔主義者から自由思想家ないし異端者と見なされるようになっていたのだ。そして彼や彼の仲間たちは、侮蔑的に「ニコライ派」と呼ばれていた。このころからニコライは終生、様々な文学上・思想上の敵と立ち向かうことになったわけである。

それはさておきジヒェルシュミットによれば、『文学書簡』は商業的にも成功をおさめ、「今日なおドイツ文学史上に確固たる地位を主張できる」という。そして「そこには文学上の啓蒙主義が高らかに宣言されている」とも彼は書いているのである。またH・メラーも、「・・・文学史的に見れば、(のちの『ドイツ百科叢書』よりも)実り多いものであり、レッシング、メンデルスゾーン、アプトの協力を得て、内容面でも、言語面でも、高い水準にあった」と述べている。

とはいえ、あらゆる困難や停滞にもめげずに、雑誌の発行という事業を推進したのは、ニコライなのであった。啓蒙主義の文学や思想を広く一般に普及させて、ドイツの一般的な文化風土を変革していくことこそ、ニコライがその後終生にわたって、目指したものであった。一般に啓蒙主義の普及に果たした出版業者の役割は大きかったが、出版業者で同時に雑誌編集者でもあったニコライの二重の役割は、格段に評価されてしかるべきであろう。

 

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その1

まえがき

私はこのブログにおいて、2020年3月以来、月に1回のペースで、自分の研究テーマの中核をなすヨーロッパの出版文化史についてずっと紹介してきた。まずヨーロッパの源流ともいえるギリシア・ローマ時代の書籍文化について詳しく紹介した。次いでヨーロッパ中世の書籍文化について簡単にふれた後、15世紀におけるグーテンベルクの活字版印刷術の発明とその伝播についてかなり詳細に書いてきた。この時以降、それまでの筆写による書籍文化から出版文化へと変わったわけである。そしてその出版文化の歩みを18世紀までたどり、前回2021年12月には、「18世紀ドイツ啓蒙主義と文学市場の誕生」について紹介した。

さて今回はその18世紀ドイツ啓蒙主義に関連した重要人物であるフリードリヒ・ニコライについて取り上げることにする。

フリードリヒ・ニコライの肖像

フリードリヒ・ニコライとは何者か?

おそらく皆様の中で、フリードリヒ・ニコライ(1733-1811)についてご存じの方は、きわめて少ないと思われる。この人物は18世紀ドイツの啓蒙知識人で、同時に大出版業者なのであるが、わが国では、これまでドイツ文学やドイツ思想の専門家がその名前を知っているぐらいであった。

しかし私はドイツの出版史を研究する過程で、この人物の存在を知ったわけである。つまり『ドイツ出版の社会史~グーテンベルクから現代まで』(三修社、1992年12月発行)の原稿を執筆している時であった。その第4章「18世紀半ばから1825年まで」を書く過程で、18世紀ドイツ書籍史研究家であるパウル・ラーベの研究に出会った。ラーベはニコライ書店の在庫目録に基づいて様々な角度から分析しているのだが、私はこの研究に依拠して、啓蒙主義時代のドイツの出版状況を記述したわけである。その時以来、ニコライという人物に強い関心を抱くようになった。

そして我が国においてニコライがどれぐらい一般的に紹介されているのか知るために、戦後発行された主な百科事典にあたってみた。しかし多くの百科事典にはニコライについての記述が見当たらなかった。ただ平凡社の「世界大百科事典」の場合、1981年の版にはまだないのに、1985年版からは、その名前を独立した項目として取り上げている。そしてそこには次のように記述されている。「ドイツの出版業者、著述家。ゲーテ、シラー、カント、フィヒテらを攻撃したため、頑迷な啓蒙主義者と見みられがちであるが、啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者、ベストセラー作家、批評家として、その多角的な活動は、ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM・メンデルスゾーンの助けを得て、ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し、文化の媒介者の役割を果たした。(岩村行雄)」

この短いが、要を得た記述によって、この人物の業績の概要は理解されよう。ニコライの名前が日本の百科事典にも取り上げられるようになったという事は、実は近年ドイツにおいてニコライに対する再評価の動きが盛んになってきたことの、まさに反映だといえるのである。

私のニコライ研究の経緯

さてニコライとの私の二回目の出会いは、以前勤めていた日本大学経済学部の図書館が、1995年に、ニコライが編集していた書評誌『ドイツ百科叢書』のオリジナル版全135巻を購入するにあたって、推薦状を書いたときであった。幸いこの雑誌は購入され、私としてはいつでも利用できる状況になった。

『ドイツ百科叢書』
(全135巻のうちの2巻。右側中央に描かれているのは、
古代ギリシアの詩人ホメロスの胸像)

これが契機となって、私はニコライについて論文を書こうという気持ちになり、関連の文献や資料の収集に全力を傾けることになった。とはいえニコライについて日本語で書かれた論文はわずかで、本格的な研究著作は皆無であった。しかしドイツにおけるニコライ研究はかなり進んでいて、その成果もどんどん刊行されていた。新しいものは国内の洋書輸入書店を通じて購入することができた。ただ十年・二十年以上前に発行された図書などは、このルートでは無理なので、以前からたびたび訪れていたフランクフルト・アム・マインの「ドイツ書籍出版会館」内の図書館に行き、必要な文献・資料をコピーした。

そしてまた当時ベルリンに「ニコライ出版社」が存在していることも分かった。そこで早速ベルリンに飛び、都心部にある同出版社を訪ねた。ニコライは子供たちに先立たれ、血のつながった後継者はいなかったのだが、ボイアーマン氏が社長をしていて、幸いなことにこの人物に会うことができた。同出版社では当時なお、ニコライ関連の図書も刊行していた。そのうえベルリン郊外にある社長の自宅には、ニコライ関連の初版本など貴重図書を含めた私設文庫があった。私はそれを利用することができ、貴重書はコピーを取らせていただいた。また一般的な性格の文献・資料は数点、譲り受けることができた。

さらにこのボイアーマン氏には、ニコライが熟年期から晩年にかけて住んでいた邸宅にも案内していただいた。そこは統一ベルリンの中心部(ウンターデンリンデン大通りのすぐ近くのブリューダー街)に位置していて、建物の外壁には「ニコライ・ハウス」という銘板が貼られていた。建物の内部は、東独時代には政府関係の事務所として使われていたというが、その時は空き家になっていた。

            ニコライ・ハウスの外観

こうしてある程度の準備ができた段階で、私は順次論文を書き始めた。ただ多方面な活躍を見せていたフリードリヒ・ニコライについて、はじめのうちはその全貌がつかめなかった。しかしそれまでドイツ出版史を研究していたところから、まず出版業者としての側面から入っていった。その結果、「出版業者としてのフリードリヒ・ニコライ」(1996年4月)と題する論文が出来上がった。これを書き終えた時、漠然とながらニコライの様々な業績を順次解明していこうという心構えが出来上がった。

そしてその後さらに、18世紀ドイツの社会文化史という大きな枠組みの中で、この啓蒙知識人がその時代において果たした役割、ならびに後のドイツ社会の変革に及ぼした影響について、明らかにしていこうと思うようになった。こうして先の論文を含めて7つの論文を、日本大学経済学研究会の『研究紀要』に発表していった。それらは

ー フリードリヒ・ニコライの『王都ベルリン及びポツダムについての記述』について。

ー フリードリヒ・ニコライの『ドイツ百科叢書』について

ー フリードリヒ・ニコライの生涯

ー フリードリヒ・ニコライとベルリン啓蒙主義

ー フリードリヒ・ニコライの『南ドイツ旅行記』について

ー 歴史研究者としてのフリードリヒ・ニコライ(2000年10月)

これらの論文が出来上がる前から私はこれらを素材にして、一冊の本を書きあげようと考えるようになった。その際各論文の間に重複していた部分は調整し、資料的な性格の部分は、巻末にまとめて資料編として掲載した。こうして完成した本が、『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(朝文社、2001年2月)である。

これから紹介していくブログの中身は、おおむねこの本に基づいているが、一般の読者向けに、やさしくかみ砕いて書くようにしている。

ニコライについての評価の変遷

<19世紀から第二次世界大戦までのニコライ評価>

19世紀の初めから第二次世界大戦ごろまで、ドイツの政治的、社会的傾向はおおむねナショナリズムに彩られてきたといえよう。そしてその一方文化的・精神的潮流としては、そうした政治や社会あるいは経済の動きから超然とした新人文主義や教養主義の流れの中で、文学、哲学、芸術、科学などの精神文化が花開いてきた。長い間ドイツは「詩人と哲学者の国」として、知られてきたわけである。

ニコライはゲーテ以下の作家や哲学者たちとその晩年に行った論争の結果、そうした人々から仮借ない非難を受けた。そしてその後いま述べたような時代状況が続く中で、そうした評価を受け継いだ文学史家や哲学史家によって、軽蔑と酷評のまなざしで眺められてきたのであった。つまりその間ニコライは、もっぱら文学史や哲学史の枠組みの中で、低い評価に甘んじなければならなかった。そうした状況の中では、ニコライの生涯や業績に客観的な立場から取り組むのが困難であったことは、容易に想像がつく。

しかし何事にも例外があり、19世紀の末にニコライないし啓蒙主義を高く評価する人物もいた。その一人がテュービンゲン大学の事務局長を務めていたグスタフ・リューメリンであった。彼はニコライの旅行記のシュヴァーベンに関する部分について1881年に論文を書いた。そしてその中で「ニコライは出版の自由、民衆教育の拡大と時代への適応、農業及び産業における規制撤廃、ドイツの学問の大衆化などのために闘った、実際的な思想家であった」と書いている。つまりそこでニコライの時代に先駆けた先進性を指摘しているわけである。

もう一人は著名なプロテスタント神学者のエルンスト・トレルチュであった。彼は啓蒙主義を高く評価した論文(1897年)の中で、ニコライの小説に言及し、またベルリン啓蒙主義の中心人物としてのニコライとその書評誌『ドイツ百科叢書』にも触れている。この神学者については、後でもう一度触れることにする。

次いで第一次世界大戦後になると、19世紀の精神潮流にも変化がみられ、ニコライ評価もかなりバランスの取れたものとなってきた。そのためこのころ書かれた18世紀ドイツの文化・思想に関する著作の中では、ニコライについて長所と短所の双方を取り上げて論じられている。例えば文化史家マックス・フォン・ベーンはその『ドイツ18世紀の文化と社会』の中で、次のように記している。「かわいそうにフリードリヒ・ニコライは<頑迷なるベルリン人>の原型にされてしまうという運命に甘んじなければならなかった。つまり、せかせかした落ち着きのなさ、味気ない考え方と尊大な饒舌に加えて、万事についての知ったかぶりの故にである。しかしこの<文明開化>の使徒は、その欠陥すべてを認めたうえで、なおかつ彼の時代に不可欠の人間であったという事ができよう。・・・啓蒙主義を勝利に導いたことがそもそも一つの功績であるとすれば、この名声のかなりの部分が、フリードリヒ・ニコライに帰せられてしかるべきである。彼は存命中にこの名誉を勝ち得たが、1811年に七十八歳で死んだときには、この名声はすでに過去のものとなってしまっていた。」

同じく文化史家エーゴン・フリーデルはその大著『近代文化史』の中で、ニコライに一項目を与えて、次のように評価している。「実直で知識豊かで、賢く才能のあるこの男は、有名な書店主の家柄に生まれ、商人と文士のあいの子のような人物であり、時代の思潮をくみ出して発表する才能にたけていた。だが、その一方では、彼自身の凡庸さとひとりよがりによって、送られてくる原稿を編集するために、たいそう露骨な結果をもたらした。そのうえ・・・偏狭な合理主義のために、高慢で浅薄な上げ足取り批評の、世にも名高い模範例となってしまった。・・・そうであるにもかかわらずニコライの名誉を回復してやりたいと思う。・・・ニコライは生粋のベルリン人であり、論理的で即物的であろうとする善意に満ち、月並みな文句や現実離れした空想や山師的な言行にはたいそう強い不信感を抱き、極めて堅実で、非常に勤勉で、すべての物事に関心を寄せ、常に諧謔的精神を働かせる人物であった。」

<第二次世界大戦後のニコライ再評価>

第二次世界大戦後になると、1949年、分割されたドイツの西側にできた西ドイツ(ドイツ連邦共和国)においてすべての状況が変わった。東側にはソ連の影響を強く受けた社会主義の東ドイツ(ドイツ民主共和国)が生まれたが、この国のことはこの際置いておく。さて西ドイツでは、精神文化の領域においては、1960年代に入って、新しい世代が活躍するようになった。そして19世紀初めから第二次世界大戦まで続いてきた精神文化の潮流を見直す動きが出てきた。その中でドイツ18世紀史の再評価の動きが生まれてきたのだ。

ニコライ再評価も、まさにこうした流れの中で起きてきたのであった。初めはなお文学史的な潮流に棹さす形でモレンハウアーが、ニコライの作品中に見られる諧謔や皮肉に目をつけて、『ニコライにおける諷刺』という著作をあらわした。ついで70年代の初めにジヒェルシュミットは、ニコライの生涯と業績について、まとまった作品を著した。これはニコライの生涯をかなり忠実に描くのと同時に、啓蒙主義者としての業績を、主にその文学的な面に即して評価・叙述している。そしてその出版活動についても、なお一般的な評価にとどまるとはいえ、肯定的にとらえている。

いっぽうニコライ再評価のうえで画期的な役割を果たしたのは、ドイツ近現代史の歴史家ホルスト・メラーであった。彼は1974年に600頁を超す大著『プロイセンにおける啓蒙主義~出版者、ジャーナリスト、歴史叙述者 フリードリヒ・ニコライ』を刊行した。ここでメラーはニコライという人物を通じて、プロイセン啓蒙主義の全貌を余すところなく、描いているわけである。そしてこの作品は歴史家によって書かれたニコライに関する本格的な研究書なのである。

つまり従来の文学史的な評価から離れて、ニコライのジャーナリスト(時事評論家)並びに歴史叙述者としての側面が強調されている。そしてベルリンないしドイツの啓蒙主義の仲介者として果たしたニコライの大きな役割が明らかにされているのである。そこには歴史家としてのメラーの鋭い批判的な見解が随所にみられる。とにかく本著作によってニコライという人物に対する評価が、従来の文学史的な狭い枠組みから解き放たれ、ドイツ18世紀の社会史ないし文化史という大きな流れの中で行われるようになったわけである。その意味で私としても、メラーの著作には一方ならず世話になっているのだ。

<ニコライ生誕250周年記念行事>

こうして1960年代から始まった新しい動きは70年代を通じてさらに促進され、ニコライ研究はその生誕250周年に当たる1983年に、ひとつの大きな画期を迎えることになった。まずこの年にニコライの生誕地ベルリンにあるニコライ出版社から、生誕250周年記念論文集が刊行されたのである。そこには研究者9人の論文が掲載されている。まず今紹介したばかりのホルスト・メラ-の「歴史家としてのフリードリヒ・ニコライ」に続いて、、これも著名な歴史家であるルドルフ・フィアハウスの「フリードリヒ・ニコライとベルリン社交クラブ」、さらにW.マルテンスの「旅する市民」、パウル・ラーベの「出版者フリードリヒ・ニコライ」そして編集者でもあるB・ファビアンの「ニコライとイギリス」など、ニコライの多様な側面を専門的に研究した、優れた論文が収められているのである。

ちなみに18・19世紀の書籍出版史の専門家であるラーベは、翌年自らの論文集を刊行している。そこには「啓蒙のプロイセン出版業者フリードリヒ・ニコライ」のほか、「18世紀の出版業者」や「啓蒙のメディアとしての雑誌」などが収められているが、これらは私も利用させてもらっている。

生誕250周年記念行事としては、もう一つ、生誕地ベルリン(当時は西ベルリン)で催されたニコライの生涯と業績に関する大規模な展示会を忘れることができない。これは1983年12月7日から1984年2月4日まで開かれた。そしてこれを記念して、展示した書籍や雑誌、手紙、肖像画その他ニコライに関連した様々なものを、図録や写真として収録した立派なカタログ『フリードリヒ・ニコライ~生涯と業績~生誕250周年記念展示』が発行された。これには展示物の中から選んだ図版や写真に対して、詳しい説明書きが添えられている。また冒頭にはニコライの生涯と業績について簡潔に記した序文も掲載されていて、一般の人々のニコライ理解を助けている。ともかくこの展示会は、それまで一般にはあまり知られていなかったの思われるニコライについて、初めて大規模な形で紹介したものだったといえよう。

そのご1988年に刊行された三巻本の文学事典『文学ブロックハウス』でも、ニコライの項目には比較的大きなスペースが与えられ、「後期啓蒙主義の学問・文芸の仲介者」としての側面が強調され、最新の学問上の成果が反映されている。

その一方、ニコライの全作品を学問的に批判・吟味して復刻する動きも始まった。その一環として1985年からゲオルク・オルムス社の『ニコライ全集二十巻』(復刻版)の刊行が開始され、15年の歳月を経て、1999年に完結している。これは当時用いられていたフラクトゥーア体(いわゆるヒゲ文字)で印刷されていて、専門研究者向けのものである。

これとは別にニコライの作品を広く一般の知識人や、世界の人々に向けて紹介する意図をもったのが、1991年以来ペーター・ラング社から刊行されている全集『フリードリヒ・ニコライ。全著作、手紙、記録』である。これは現代人のために現代のドイツ文字に直して印刷されているが、文章の表記は18世紀のニコライの時代のままになっている。その代わりに、現代人のために極めて詳しい註と解説が付けられている。「ベルリン版」と称されてはいるが、発行地としては、そのほかニューヨーク、パリ、ヴィーン、ベルン、フランクフルトの名前が記されている。そこにはニコライないしドイツ啓蒙主義を欧米全地域に認知させようとする編集者・出版社の意図が感じられる。

ドイツ18世紀史研究の活性化

ところでこれまで述べてきた近年におけるニコライ再評価の動きは、1960年代から徐々にみられるようになってきた「ドイツ18世紀史研究の活性化」と密接に結びついていることは、言うまでもない。このことを最もよく示しているのが、1976年に刊行された論文集『ドイツにおける啓蒙主義、絶対主義及び市民階級』である。

ここには12の論文が収録されているが、その編集にあたった人物は、ドイツ人社会史家フランクリン・コービッチュである。その刊行の意図は、編集者が書いた巻頭論文「研究課題としてのドイツ啓蒙主義の社会史」の中に、明瞭に示されている。その中で彼は「啓蒙主義は哲学や文学のみならず、あらゆる生の領域を包括した改革運動であったので、個々に孤立した視点からでは十分な分析が行えない。その研究には諸学問の協力が必要である」ことを訴えた。そして「こうした観点から、この論文集には、歴史家、ドイツ文学者、哲学者、神学者、教育学者などの論考を集めたわけである。」と、まず強調した。

そして1975年3月に、18世紀ドイツ啓蒙主義の代表者であるレッシングゆかりのヴォルフェンビュッテルに、「ドイツ18世紀研究会」が設立されたが、これによってその方面の学際的研究が推進されることを、コービッチュは切に願ったわけである。それから彼は先の巻頭論文の中で、啓蒙主義の担い手の階層、改革プログラム、そしてドイツ啓蒙主義の到達範囲などについての体系的な研究が必要なことも、述べている。
さらに彼は、ドイツ18世紀史研究に欠かせない様々な課題を列挙して、すでに達成された成果として、収録したほかの11の論文を、要約した形で紹介している。これら11の論文はそれぞれ興味深いものであるが、ここでは18世紀ないし啓蒙主義を総体として扱っている3つの論文を取り上げて、その内容をごく簡単に紹介することにしよう。

<トレルチュの先駆的業績>

まず第一に紹介するのは、19世紀末のプロテスタント神学者E・トレルチュの論文「啓蒙主義」である。最初にトレルチュは、啓蒙主義の特徴を、次の3点に絞って述べている。
(1) 啓蒙主義は、それまで支配的であった教会的・神学的文化と対立した、ヨーロッパの文化と歴史の本来的な近代の開始を告げる思想である。(2)しかし啓蒙主義は学問的・思想的な運動に限られたものではなく、あらゆる生の領域で起きた文化の総体的な変革運動なのである。(3)その傾向としては、普遍的に通用する認識手段を通じて、世界を内在的に説明することと、一般に通用する実際的目標のために、生を合理的に秩序づけることがあげられる。

次いでトレルチュはこうした視点に立って、ヨーロッパ全体を視野に収めて、啓蒙主義の具体的な特徴を、さまざまな分野に分けて述べている。そこではオランダ、イギリス、フランスとの比較において、ドイツの啓蒙主義の流れを、具体的に叙述している。その意味においてドイツ啓蒙主義に関する古典的な論考なのであるが、19世紀末から第二次世界大戦までの民族主義隆盛のドイツでは、ほとんど顧みられなかったのではなかろうか。

<フィアハウスの18世紀見直し論>

第二の論文は、ドイツの著名な歴史家ルドルフ・フィアハウスが1967年に著した「18世紀のドイツ。社会構造、政治制度及び精神運動」である。フィアハウスは、その冒頭でハンナ・アーレントが1960年にレッシング賞を受賞したときに述べた「レッシングと我々の間には、18世紀ではなくて、19世紀が横たわっている」という言葉を引用している。つまり彼は、これまでドイツで18世紀が注目されてこなかった理由を、19世紀が立ちはだかってきた点に求めているわけである。しばらくフィアハウスの言葉に耳を傾けることにしよう。

「ドイツにおいてはとりわけ18世紀と19世紀の継続性という事が、問題となる。政治的な革命や社会的な変革は起きなかったとしても、その頃神聖ローマ帝国が崩壊し、帝国教会領、帝国騎士領、ほとんどすべての帝国都市領が消滅した。その結果ドイツの地図が大幅に塗り替わったのだ。そしてそれらのことどもが、ドイツ人の心の中に、フランス革命(注:1789年)以前の世界の状況は取り返しのつかない地点へと沈んでしまった、との感情を呼び起こしたのだ。さらに重要なことは、1770年から1830年の間の数十年間に起きた文学上・哲学上の黄金時代が18世紀にとって代わって現れ、後世の観察者の前に、どっかと立ちふさがってしまったことである。そして古典主義(注:ゲーテ、シラーに代表される)、新人文主義(注:W。フンボルトなど)、理想主義、ロマン主義、歴史的思考の開始などが、啓蒙主義的合理主義や自然法思想への反撃ないし18世紀の克服として理解されて来たのである。

啓蒙主義は一方的に合理主義的で、抽象的で、非歴史的で、非宗教的であり、この時代の国家は魂のない機械であり、教会は硬直化し、文芸はただ教訓的なだけだ、という観念が長い間、学問の世界と教育界で、支配的であった。さらにヨーロッパ(注:イギリス、フランス)の啓蒙主義からの転換こそが、ドイツ精神界の特別の功績であると認識され、またドイツ人の民族意識が1800年ごろの文化的な展開から、最も強い刺激を受けたという事情が加わる。

しかし最近になってドイツにおいても、18世紀に対する新たな関心が生まれてきている。そこでは18世紀は緊張に満ちた時代、数多くの変化とりわけ人間の意識の根本的変革の時代、そして進歩と危機の時代として描かれている。・・・いわゆる近代世界の根本的命題はすでに18世紀に論じられてきたし、近代世界の基本構造はすでに当時、その兆候が認められる、と主張できるのだ。しかし18世紀が与えた解答は、19世紀のそれとは異なるものであった。そして今日、啓蒙主義の時代の思想や思考スタイルに対する新たな理解や、新たな要求が出てきているのだ。」

<セインの啓蒙主義再評価>

第三の論文は、アメリカ人のドイツ18世紀史研究者トーマス・P・セインが1974年に著した「啓蒙主義とは何か~ドイツ啓蒙主義との新たな取り組みについての文化史的考察」である。この論文の導入部分でセインは、まず「18世紀の啓蒙主義がドイツにとって近代の始まりを意味することは、全く疑いのないところである」と書いている。しかしその後「18世紀は、ルネサンス以後のドイツの文化史において、研究され、評価され、理解されることが最も少なかった時代である」と付け加えている。

その理由として彼は、ドイツの諸領邦国家が16世紀半ばから18世紀半ばまでの200年間、政治・経済から文化・科学の研究に至るまで、イギリス、フランス、オランダに比べて、決定的な遅れをとったことを挙げている。そして「三十年戦争による恐るべき荒廃と非合理的な宗教論争が18世紀まで続いたため、精神的エネルギーと物質的な余力の大半を使い果たしてしまったわけである。神聖ローマ帝国内の諸邦分立主義は、諸邦が物事を全体としてみることや互いに協力し合うことを阻害してきた。そして17世紀末から18世紀半ばまでの精神生活の状況は、とりわけ学芸に対する支援の欠如、古い大学の哀れな実情、学校制度のみじめさの中に現れている」と述べている。

ところがこうした立ち遅れは18世紀末にワイマル古典主義やロマン主義が現れるに及んで、一挙に取り戻されたと言われてきたわけである。そしてセインによれば、「ドイツ人がその<古典>文化を誇りにし始めた19世紀以来、<啓蒙主義>は一般に悪い評判をとるようになった。・・・人々はやれやれという安堵のため息をつき、もはやその<前史>には立ち入って取り組むことをしなくなったのである。」という。

こうした状況が長い事続いた後「数年ほど前からドイツ啓蒙主義に対する新たな関心の喜ばしい兆候が見られるようになったきた」と、セインは話を続け、あわせて18世紀研究への期待を表明している。そして従来なおざりにされてきたことだが、18世紀ドイツの文化的成果として、経験的および数学的・理論的自然科学、国民経済学の研究、絶対主義的ではない新しいドイツ文学、近代歴史叙述と文献学の開始、人類学や比較民族学の研究そして旅行に対する新たな関心などがあげられている。

このように、次の19世紀に見られたドイツ文化の開花は、実はすでに18世紀の間に準備されていたことが、そこでは強調されているのだ。そしてさらにこうした18世紀の文化の研究にあたって、「文学史、哲学史、科学史など(個々の分野)の視点から観察するのではなくて、広い意味での文化史の視点から考察するようになれば、まさにその時こそ、重要で実り多い新たな成果が期待できるであろう」と、セインは付け加えているのである。

ニコライに対する私の評価

以上述べてきたように、フリードリヒ・ニコライという人物は、ドイツ啓蒙主義ないし18世紀史の見直しの中で再評価されてきているわけである。そこで私としてはドイツ啓蒙主義にとって欠かすことのできないこの巨人の多方面にわたる業績を、その生涯の歩みの中で描き出していくことにする。

その前にニコライに対する私の評価について、一言述べておきたい。私の見るところニコライはまずもって、当時ヨーロッパの後進国であったドイツの近代化に向けて、全力を傾けた「文明開化の使徒」であった、という事である。その活動の時期は、18世紀後半のほぼ半世紀に及ぶが、この間古く因習的な宗教支配を打破し、社会の各方面の改革を推進すべく、休む暇なく言論・出版活動を続けた。活動の中心は、ドイツの中では先進的であったプロイセン王国の首都ベルリンであったが、自ら編集にあたった書評誌『ドイツ百科叢書』などを通じて、彼はドイツ全国に「知のネットワーク」を張り巡らしたのであった。その啓蒙活動は、ヨーロッパの当時の先進国であったイギリス、フランス、オランダに追いつくことを目指していた。

ニコライ自身は言論・出版活動を通じて、底辺の民衆教育の推進に力を入れていたが、民衆啓蒙が達成されるには、なおかなりの時間を要した。しかし社会の上層部を形成していた貴族や聖職者の一部は、ニコライなど中流市民や官僚・知識人の啓蒙活動に、身分の違いを越えて参加し、社会の近代化に尽くしたのであった。その結果、ニコライが晩年を迎えた19世紀の初頭のドイツの状況は、彼が活動を始めた18世紀中ごろとは、その様相をすっかり変えていた。

政治面では19世紀初めには領邦国家の数が大きく整理されたが、その体制はなお続き、ドイツの国家的統一は世紀の後半1871年の、ビスマルクによるドイツ帝国の建国にまでずれ込んだ。しかしその前半には、地域的な格差はなお見られたものの、社会の改革は進み、文化は一つの黄金時代を迎えたのであった。いっぽう経済面では1834年のプロイセン主導のドイツ関税同盟の発足によって、ドイツの経済的統一が進み、その後の政治的統一の前提ともなったわけである。また19世紀の前半に鉄道路線の建設が進み、産業革命の推進がみられたのだ。

これらの成果は、ニコライなどの啓蒙主義者たちが、長く続いてきた古い社会体制や宗教支配を打破し、新しい社会や文化が生まれる基盤を営々と築き上げたからこそ、達成できたものと言えよう。その意味でニコライたちの努力は十分報われた、といえるのではなかろうか。
とはいえニコライはそれだけではなくて、それ自体評価されるべき業績も数多く残している。その詳細について、これから順次紹介していくことにしよう。

次回のブログ「ドイツ啓蒙主義の巨人フリードリヒ・ニコライ その2」では、彼の青少年時代を取り上げることにする。

18世紀ドイツ啓蒙主義と文学市場の誕生

<啓蒙主義の影響>

ヨーロッパの十八世紀を特徴づける精神運動であった啓蒙主義は、ドイツにおいても、大きな影響を及ぼした。啓蒙主義はもともと社会に影響を及ぼすことに、その本質があった。そしてその目的を言葉や文字を通じて達成することができたのである。

その際できるだけ多数の人間に自分の考えを伝達することに、啓蒙主義者は強い関心を抱いていた。大学での講義、学問的サークルでの講演から、さらに広い層を対象とした報告と並んで、啓蒙的な内容の出版物の刊行を、そのための手段として彼らは利用した。しかしそれには一定の前提条件が必要であった。その際十七世紀から十八世紀にかけて、ドイツにおいて特徴的であった二つの読書形態が問題となる。

一つは宗教的なものと関連し、他の一つは一般的・世俗的なものと関連していた。そしてこの二つは、全く異なった機能を持っていたのだ。宗教的な書物、つまり聖書、祈祷書、説教書などを通じて、人は宗教的な感情が豊かになる。そのためにも人はこれらの書物を、繰り返し読む。ここでは集中的な読書法がみられる。それに対して世俗的な読書法は、情報の取得や娯楽の享受に仕えると同時に、非宗教的な感情を豊かにする。

啓蒙主義運動は、まさにこの第二の世俗的な読書形態の担い手を必要としていたのだ。啓蒙主義の初期つまり1720年ころまでは。世俗的な書物を読むことができる人は、ドイツではまだ極めて限られれていた。同時の代表的な読書階層は、学者ないし教養的職業人であった牧師、弁護士、医者、高級官僚などであった。それから大商人、中級・下級の官吏、宮廷貴族、将校などが続いた。これらの人々は、ドイツ全土に散らばっていたのではなく、主として政治、経済、文化の中心地、つまり宮廷都市、商業都市、大学都市などにかたまって住んでいたのだ。

初期啓蒙主義の時代の教養ある読書人の書斎

具体的には、主に北部及び東部のハンブルク、ライプツィヒ、ハレ、ベルリン、フランクフルト、ゲッティンゲン、ケーニヒスベルクなどであった。そのためこれらの都市を中心にして、啓蒙主義が広まったのであるが, その数はなお限られていた。それ以外の広範な地域にわたる農村地帯や、地方の小都市あるいは南部・西部の都市の住民、つまり農民や手工業者、小商人、賃労働者、あるいはカトリックの聖職者などは、本を読まないか、読んだとしてもほとんどが宗教書に限られていた。

<道徳週刊誌の普及>

ドイツにおいて啓蒙主義的な読書形態は、まず「道徳週刊誌」という形で現れた。これはイギリスにおいて1710年ごろに相次いで出された「ザ・タトラー」、「ザ・スペクテイター」、「ガーディアン」といった雑誌の影響を受けて、その直後から1770年ごろまで、ドイツ各地の都市で発行されたものである。

主として道徳的、教訓的な内容が盛り込まれていたためか、これらは「道徳週刊誌」という一般的な名称で導入されている。イギリスに近い北ドイツのハンブルクで、1713年に創刊されたものが皮切りになって、1746-50年の時期に頂点に達したが、その後は減少して、1770年ごろに本来の影響力を失った。個々の道徳週刊誌は短命で、局地的な読書層を対象としていた。しかしその数は、累計すると実に182点も発行されたのであった。

なかでも創刊号が、北ドイツのハンブルクで1724年1月に発行された『パトリオット』が、道徳週刊誌の代表的存在であった。

ハンブルクで発行されていた道徳週刊誌『パトリオット』の創刊号
(1724年1月)

 

道徳週刊誌の主な読者層は、大商人及び同じ階層の婦人であった。大商人は重商主義時代に自信を強めてきた大市民(ブルジョアジー)であった。彼らの精神や道徳を根底から支えていたのは、プロテスタントの労働倫理であった。そこでは節約の精神、勤勉、勤労観念、誠実さなどが、模範的な徳目として賞賛されていた。そのために収支計算、倹約、やりくり、商売繁盛などに関する記事が、当然のことのように道徳週刊誌をにぎわせていた。そしてその背後には、ドイツの初期啓蒙主義者ヴォルフの幸福の哲学などが底流として流れていた。

<啓蒙主義の第一世代>

啓蒙主義者が彼らの理念を印刷物を通じて広げていく過程で、世俗的な読書への関心を極めて明瞭な形で示していた読書階層が現れてきた。それは大学教養人の枠を越えて、大商人や官吏階級の人々にも及んでいた。たとえば1700年ごろのフランクフルトの大商人階級の書棚には、世俗的な書物としては、商業上の実用書、地理書、歴史書などが並び、さらに彼らの夫人や娘などが読んでいたと思われる料理の本、編み物の本、手紙の書き方、暦などの家庭で日常的に利用されていた書物もあった。このころのドイツの大商人や官吏階級ないしその婦女子は、もっぱら職業上ないし実用上の目的から書物を利用していたわけである。

ライプツィッヒで出版された料理の本(1745年)

ところがその後、道徳週刊誌などを通じて啓蒙主義者は、これらの人々に対して、商業道徳的な方面から、その教えを広めていった。つまり節約の精神や勤労観念に基づいた教えだったのだが、これらは商人階級の人々にとっても、容易に受け入れることができた。この階層は啓蒙主義の第一世代と名付けることができるが、その人々は大商人、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主そして彼らの妻や娘などから成っていた。

やがて1750年ごろになると、大商人の家庭の本棚には、日常的な家庭実用書や職業的な実用書の類いでは、とりわけ百科事典や商業上の文献が増えている。またそこに見られる歴史書は、個々の事件や編年史などへの興味が増大している。そして一連の歴史小説は新しいドイツ文学の前身として注目される。またあらゆる種類の地理関係の本や、旅行・冒険に関する著作が、このころのドイツの大商人の家庭で好んで読まれていたのである。つまりこのころになると、百科全書的な興味からさらに一歩進んで、哲学的・文学的内容の書物まで読むための地ならしが出来上がったわけである。

次に、そのことに触れる前に、どのようにして読書する婦女子が登場するようになったのか、見ることにしよう。

<読者としての婦女子の登場>

もともと経済合理主義の立場から発生した市民的な一般道徳観念は、同じ階層の婦女子に対しても、模範にすべきものとして推奨されていた。その際女性特有の関心領域に配慮して、幸福な結婚生活、子供に対する実際的で有意義な教育、召使との良好な関係、社交サークルでの交際の仕方、といったことも道徳週刊誌の記事になっていたのだ。

そこではたとえば、放らつで、わがままな妻、専制的で思慮の足りない母親、無分別で軽率な女性などは、その主人や子供たち、あるいは召使などに対して、ふさわしくないとして非難された。その反対に、つつましやかで、教養のある娘にこそ、良い結婚のチャンスがくる、などとされていた。

ところがそうした道徳的規範の背後には、心の内面や信心を重視するプロテスタントの一派である「敬虔主義」の流れも、重要な役割を果たしていた。そしてその影響によって、世俗的ないし娯楽的な読書というものが普及しにくい面もあった。

そのために道徳週刊誌では、市民的道徳観念を生の形で出さずに、オブラートに包んで間接的な形で伝えるという工夫がなされた。つまり婦女子向けには、私ないし私たちという形をとって、語り手が読者に語りかけるような形式が取られたのだ。信心に凝り固まったり、あるいは宗教的な硬い衣を身に着けている女性たちの心を和らげるためにも、道徳哲学的内容を、いわば文学化した形で提供するやり方が生まれたのである。

読書をする女性

その結果、教育を目的とした新しい文学が誕生することになったのである。すでに古代や中世にも、教育(教訓)的な内容の文学は、重要な役割を果たしていた。しかし啓蒙主義の時代にそれは頂点に達して、ここに寓話文学が発展する基盤が生まれたわけである。ドイツの初期啓蒙主義の代表者であったゴットシェートは、1730年に『批判的詩文学の試み』という文学理論を発表したが、その中で彼は、詩文学にきわめて明瞭な形で、社会的要請を託しているのである。

ドイツの初期啓蒙主義を代表する人物、ゴットシェートの肖像画(1744年)

<啓蒙主義の第二世代の登場と文学市場の誕生>

18世紀の後半に入ると、啓蒙主義の第一世代の後を受けて、第二世代の人々が登場してきた。彼らは職業から見ると、学生、行政機関の若い事務員そしてその友人の女性たちであった。これら第二世代の周囲には、すでにいくぶん開放的な文学的雰囲気が漂っていた。

当時、啓蒙思想は定期的に刊行される雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて、伝達されていた。またこの人たちは、ある程度娯楽的な読み物にも興味を示していた。かくしてこれらの第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀後半を通じて、世俗的書物や娯楽的書物を受け入れる主要グループを形成したわけである。

とはいえ、こうした新しい読書層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって行われたわけではない。その担い手となったメディアである出版物の生産、販売の領域における変化もまた、それに貢献したのである。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版及び販売の側面に影響を及ぼしたといえるのだ。つまりこれらの二つの側面の相互影響の中で、新しい文学的発展への基盤が生じたわけである。ことばを変えて言えば、読書層の拡大と文学市場の誕生という問題が生まれたのである。

18世紀における読書傾向の世俗化を示す一つの手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数を比較する方法が考えられる。書籍見本市カタログに掲載された書籍によって、ラテン語の書物が占める割合の時代的変化をみてみよう。1650年にはまだ71パーセントを占めていたが、1740年には27パーセントに減少し、さらに1770年には14パーセントになり、1800年にはわずか4パーセントにまでなっているのだ。この数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段に変わったことを如実に示しているのだ。

以上述べてきた読者層の著しい拡大と読書傾向の世俗化を指す言葉として、「読書革命」という事が、専門家の間で言われている。人々が広い階層にわたって読書するようになったことを示しているわけだが、この「読書革命」と並んで、「たくさん書くこと」も当時進行していた。つまり広い意味での「もの書き」(作家)の数が、このころドイツで著しく増大したのだ。1773-87年の15年間だけでも、その数は三千人から六千人にふえている。1790年にはドイツには平均して四千人に一人の割合で、著作者がいた計算になる。

ドイツにおける無名の読者大衆の成立については、当時の知識人からは一種の社会的事件として受け止められていたようだ。それは深く「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行を意味していた。

<読書クラブと貸出文庫>

次に世俗化され、量産されるようになった書物が、どのようにして読者のもとに届いていたのかを見てみることにしよう。書店で本を買う以外にも、行商人による個別販売など、古くから書籍の流通には、さまざまなやり方があった。ところが18世紀後半から19世紀にかけて目立つ存在になったのが、読書クラブと貸出文庫であった。

まず地方の名士や有力者に対する読書のための施設として、「読書クラブ」というものが18世紀後半になって現れた。これは元来フランスから来たもので、読書サロンといった高級な感じの施設であった。それでも同世紀の末にかけて、この読書クラブはドイツ全域で花開いた。そのうえこのクラブは単に書物を読むだけではなく、教養と財産がある人々が集まる一種の社交の場でもあった。人々はそこで新聞・雑誌や新刊書を読んでは、互いに意見を交換しあったりした。

そこでは啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になった。そしてさらにその場所は、「遊んだり、踊ったり、食事をしたりする所」としても利用されるようになった。こうした社交施設であったために、会費も見わめて高く、一般庶民にとっては高根の花であった。

これに対して広く国民各層が実際に本を読むのに利用したのが、貸出文庫であった。これは要するに、金をとって一定期間本を貸し出す貸本屋であった。18世紀前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。あのルソーも子供のころにジュネーヴの悪名高い貸本屋から、よい本、悪い本取りまぜて、店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすベて読んでしまったという。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィッヒのことであった。そして18世紀の末ころになると、この貸出文庫はドイツ全国に普及するようになった。このころになると、うまくいけば貸本業のほうが、書店で書物を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あったのが、5年後の1806年には4000冊にふえていた。また北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫はそれ以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その形態は都市の規模や性格により、またその所在地によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したために、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から、立派な建物の貸出図書館まで、いろいろあったわけである。その意味では貸出文庫は、最も民主的な図書貸出施設であったといえる。

貸出文庫を訪れたのは、「読書する大衆」だけではなくて、上層の人々もいた。しかしそこに共通していたのは、貸し出されていた書物の中身が、主として小説か戯曲だったという点である。それも古典として後世に残るような高級な文学作品ではなくて、今日ではほとんど忘れられているドイツの大衆小説であった。さらにウォルター・スコットやJ ・F ・クーパーなど英米の人気作家の翻訳ものも混じっていた点が注目される。

ドイツの初期大衆小説の代表ともいわれるのが、ミラー作『ジークヴァルト』(1776年)であった。この作品は「お涙ちょうだい」的な感傷主義の小説であった。

ミラー作『ジークヴァルト』の表紙

ともあれ18世紀後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってからさらに読書層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、18世紀後半からずっと大きな文学市場を形成してきたのである。

17~18世紀のドイツ出版業

その01 ライプツィヒ書籍見本市の興隆

<フランクフルトの衰退とライプツィヒの興隆>

フランクフルトとライプツィヒ、このドイツを代表する二つの書籍見本市の衰退と興隆は、とりもなおさずドイツ出版産業の地域的・構造的変化を如実に示すものである。フランクフルト・アム・マインが、ラテン語を軸とする国際的な書籍取引の中心であったのに対して、ライプツィヒは自国語であるドイツ語の出版物を軸とした国内取引の場であった。

両者の関係を見ると、15世紀後半から16世紀いっぱいは、フランクフルトを中心とする南が、ライプツィヒを中心とした北をはるかにしのいでいた。フランクフルトは中部ドイツのマイン河畔の都市として、その南にひろがるドイツ南部の各都市やオーストリア、スイス一帯と強く結びついていた。

ドイツの二大出版都市(フランクフルトとライプツィヒ)とその周辺都市
(16-18世紀)

ところが17世紀を通じて南北がほぼ等しくなり、18世紀にはいると北の生産は、南のそれをはるかに追い越すのである。プロテスタント神学書がカトリック神学書より増えたこと、ラテン語に比べて自国語であるドイツ語が、ますます多く用いられるようになったこと、国際的な取り引きの減少、そしてドイツにおける書籍生産が南から北に移ったこと、これらの全てが、フランクフルト出版産業の衰退の直接的な原因となったのである。

そしてこれに反比例するように、ライプツィヒを中心とする北ドイツの出版産業が、大きく発展していったわけである。市(いち)形式の商売は重要性を失い、高度に資本化し、中央集権化された近代的な書籍取引制度が18世紀後半のドイツで、とりわけ北部を中心に胎動したのであった。

<初期のライプツィヒ>

ライプツィヒ市の市街図(1615年)

ライプツィヒにおける書籍印刷業は、1479年に始まって、15世紀のおわりまでには、かなり広まっていた。しかしライプツィヒが当初重きをなしたのは、むしろ販売の方面であった。当時のライプツィヒの町は、北部及び東部ドイツの商業の中心地であった。商人たちは、北西部のハンブルクや南部のニュルンベルクのほか、現在はポーランド領のブレスラウ、ポーゼン、ダンチィッヒからも、そしてさらに東北のはずれのリトアニアに近いケーニヒスベルクからも、ライプツィッヒにやってきたのだ。

ちなみにケーニヒスベルクには、18世紀後半、かのドイツの哲学者カントが住み、その地の大学で教鞭をとっていたのだ。だが、この町は第二次大戦の末期にソ連によって占領され、それ以来その状態が続いている。そして町の名前はロシア語風にカリーニングラードへと変更された。私は1999年にロシアのモスクワおよびサンクトペテルブルクを見て回った後、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアをバスで移動して数日間の滞在をした。そしてさらに、現在はロシア連邦の飛び地となっているカリーニングラードへとバスで移動した。その町では、できたばかりのカント博物館に入った。そこの館長さんはロシア人のカント研究者で、長年にわたりカント研究をしてきたが、冷戦下のソ連体制の中では冷遇されていたという。冷戦が終わって、ドイツ側の資金によって、このカント博物館は出来上がったのだ。

現在のバルト三国、ベラルーシ、ロシア連邦西部地域。
西のはずれのロシア連邦の飛び地にカリーニングラードがある

さて先に挙げた町は、当時ドイツ文化が濃厚に浸透していたドイツ人の町だった。フランスやヴェネツィアとの取引もあるにはあったが、ライプツィッヒは本来、中東欧にまで広がっていたドイツ文化圏の中の取引の中心地であったわけである。これらの地域は、中世には、ドイツの西部や南部に比べて文化が遅れていた。しかしルターが活躍した16世紀前半頃から、次第に西部・南部ドイツを追いかけ、芸術・科学面において匹敵するようになっていた。

しかし短期的にみると、ライプツィッヒのあるザクセン王国の支配者ゲオルク侯は、ルターの宗教改革に反対して、ザクセン地方に流れ込んでいたルターの著作の出版・販売を禁止した。こうした弾圧政策のために、ライプツィヒの書籍販売は、1520代、30年代を通じて衰え、多くの書籍商はやむなく事業を廃止するまでになった。

ところが1539年にゲオルク侯が亡くなり、その跡をフリードリヒ侯が継ぐと、こんどはその逆に、ルターに反対するいかなる本も出版してはならぬ、という命令が出されたのだ。そして宗教改革を促進する出版物の刊行が奨励された。そのためライプツィヒの出版産業は再び息を吹き返し、それ以後次第に繁栄への道をたどることになった。フリードリヒ侯以後の歴代の君主は、プロテスタントを支援し、その商業活動の一環としての書籍出版業をバックアップしていったからである。

ライプツィヒ市中心部にある市場広場(1712年)

<ライプツィヒ書籍見本市の発展>

フランクフルトと同様に商業活動の中心地であったライプツィヒには、やはり早くから見本市が発達し、そこから書籍見本市も発展するようになっていた。16世紀の間はフランクフルトの影に隠れていたライプツィヒであったが、実はこの世紀の後半には、歴代君主の奨励策が実って、書籍市も主に中東欧方面を対象に着実に発展を見せていたのだ。同じく商業都市とはいえ帝国都市としてドイツ皇帝の束縛を受けていたフランクフルトとは違って、ライプツィヒは、前にも述べたように、ザクセン侯の保護の下に、自由な商業活動をすることができたのだ。

ザクセン地方に対するドイツ皇帝の検閲制度は1571年に導入されたが、ここではその検閲はフランクフルトにおけるほどには厳しく感じられていなかったようだ。検閲に対する皇帝の関心はもっぱらフランクフルト書籍見本市に向けられ、ライプツィヒのほうは、見逃されていたという事らしい。こうしてザクセン国王の保護下で、ライプツィヒ市当局は出版産業に対して、極めて好意的な態度で臨んでいたわけである。

ここでフランクフルト、ライプツィヒ両書籍見本市の勢力の消長を、その取扱い出版点数で比較してみよう。この点で見ると、1600年代の初めには早くもライプツィヒがフランクフルトを追い越していることが注目される。その後三十年戦争(1618-48年)の影響で、1620年代以降になると、両見本市の取り扱い点数はかなり減少する。そして1640年代から1660年代にかけて、ライプツィヒは一時フランクフルトを下回るが、1670年代には回復して1690年代には飛躍的な増大がみられる。それ以後のライプツィヒはフランクフルトを大きく引き離す。そしてさらに18世紀にはいると、ライプツィヒを中心とした北ドイツの出版産業は、科学の進歩、文化の発展、政治的文書のなどによって、その発展が一段と促進されるのである。

<プロテスタント書籍の出版>

次にフランクフルトとライプツィッヒという二つの書籍見本市のライバル関係を、カトリック対プロテスタントという宗教的な立場から見てみることにしよう。

まず15世紀から17世紀に かけて、ドイツ南部及び西部一帯を背後に抱え、さらに近隣のフランス、イタリアをはじめとするカトリック地域と取引のあったフランクフルトは、ラテン語によるカトリック図書の販売の中心地であった。いっぽう16世紀前半の宗教改革以降、プロテスタント系の出版社は、ライプツィヒを中心とした東部および北部ドイツ一帯で、神学的作品をはじめ、科学書などもどしどし刊行して販売していた。その際の言語としては、主として自国語であるドイツ語が用いられた。

次にカトリックとプロテスタントの宗教書に限って、その年間出版点数を比較してみよう。ここで宗教書というのは、聖書をはじめとする一般人向けの説教書や祈祷書から聖職者や学者向けの理論的な神学書までを含んでいる。こうした広い意味での宗教書について、フランクフルト、ライプツィヒ両書籍市で取引された書籍の出版点数を合計すると、16世紀半ば以降、プロテスタントの宗教書がカトリックの宗教書をうわまっている。とりわけカトリックとプロテスタント両宗派間の宗教戦争といわれている三十年戦争中の1632年以後には、その差は著しく離れていく。この年プロテスタント陣営に属するスウェーデン国王グスタフ・アドルフがこの戦争に介入して、勝利を占めたが、こうした動きと宗教書の出版との間に、相関関係がみられるのは興味深い事である。

ちなみにプロテスタントの宗教書の出版において、ライプツィヒはとりわけ重要な役割を果たしていた。17世紀末から18世紀初頭にかけては、全プロテスタントの宗教書のおよそ半分を出版しているのである。これに対してカトリックの宗教書の出版量は、ほぼ同じ時期に急速に減少しているが、これはフランクフルト書籍見本市の衰退と軌を一にするものだといえよう。

またライプツィヒの出版社は、宗教書以外に、科学書をはじめ、歴史、政治、地理、詩、美術など、様々な種類の学術書を出版していたが、これらの分野でも使用言語はラテン語からドイツ語へと重心を移してるのだ。精神文化の領域でのドイツ近代化への牽引力が、ライプツィヒ書籍見本市に集約される形で見られると、考えられよう。

ライプツィヒの市庁舎付属図書館の内部(1700年ごろ)

その02 近代的書籍出版販売への転換

<統一的書籍市場の崩壊~南北への分裂>

ドイツの書籍出版活動は、先述したように、長い間書籍見本市の二大都市フランクフルトとライプツィヒを中心に行われてきた。フランクフルトは中部ドイツのマイン河畔の都市として、その南に広がる南ドイツの各地方やオーストリア、スイス一帯を支配してきた。これら広い意味での南ドイツの書籍業界は、ドイツ皇帝の支配地域にあるという意味で、「帝国書籍業界」と呼ばれていた。この地域は大ざぱにいって、宗教的にはカトリック地域で、古い伝統や習慣が温存されていた。

書物についても聖書を初め説教書、祈祷書などの宗教書が中心であった。宗教書のほかには、学者や僧侶向けのラテン語の書物が出版され続け、新しい読者層が生まれる土壌はあまりなかったのである。

いっぽう北ドイツのザクセン地方の中心都市ライプツィヒは、17世紀の末頃から、書籍見本市都市としての重要性を次第に増しつつあった。北ドイツは一般にプロテスタント地域であるが、ドイツの啓蒙主義はまさにこの北ドイツの二つの地域、つまりザクセン地方とベルリンを中心とするブランデンブルク・プロイセン地方をその故郷としていたのだ。

これらの地方では、道徳週刊誌やポピュラー哲学から、文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場には、新しい時代の息吹が感じられた。ここでは古めかしいラテン語の知識がいっぱい詰まった大型本や信心の書には、新しい読者大衆は関心を向けなくなっていた。いっぽう北ドイツで出版された啓蒙書や国民文学に対して、南ドイツの書籍業者は関心を抱いていたが、交換取引制度のために、実際上その取得が困難であった。

こうした文化的要因のほかに経済的要因もあった。18世紀のザクセン地方は、経済的観点から見て、最も目覚ましい発展を遂げた地域であった。他のどの地方よりも、ザクセン地方で、工場制手工業が発達した。こうした中で、書籍出版産業はザクセン王国政府によって奨励されてもいたことは、すでに述べたところである。

<交換取引制度の廃止>

書籍を単に物品として量的にしか扱わなかった交換取引制度は、それが抱えていた大きな欠陥から、18世紀後半に入るころには、結局廃止されることになった。そのイニシアティブをとったのは、いうまでもなくライプツィッヒをはじめとするザクセン地方の書籍業者であった。彼らは北ドイツの読者には関心のない、宗教書やラテン語の専門書を発行していた南ドイツの書籍業者との取引を好まなくなっていた。その結果彼らは交換取引を、信頼のおける商売相手であった北ドイツの書籍業者だけに限ることにした。そしてその他の業者に対しては、現金取引を要求するようになった。交換取引を拒否して現金取引を採用した書籍業者は、「正価販売業者」と呼ばれた。

ライプツィヒの代表的な書籍業者
フィリップ・エラスムス・ライヒの肖像画(1774年)

こうした運動の先頭に立たのがライプツィヒの書籍業者フィリップ・エラスムス・ライヒであった。 彼は1760年代に、もはや欠陥だらけになっていた書籍の交換取引方式に反対して立ち上がったわけである。ライヒが導入した近代的な書籍取引の方法は、交換取引の拒否と短期クレジット方式ないし現金取引方式の採用であった。それと同時に書籍の返品を部分的ないし全面的に認めない措置、クレジットの割り引き率の低い設定、書籍価格の高い設定なども行われた。
こうしてライヒは1764年に、フランクフルト書籍見本市から最終的に撤退したのであった。

<帝国書籍業者の反応>

いま述べた一連のライヒの動きは、一般に「ライヒの改革」として知られているが、この改革は南ドイツの斜陽の帝国書籍業者にとっては、我慢のならない過酷な措置に映った。当時ドイツ全地域から書物が集まっていたライプツィヒ見本市で採用された正価販売方式は、そこに常設していた書籍業者にとって、著しく有利だったからである。

それに比べて南ドイツの書籍業者には、さまざまな困難が伴ったのである。つまり運搬用の樽を含むすべての輸送コストや旅行費用をはじめ、見本市会場での宿泊代やブースの借り上げ料、アルバイトに払う費用に至るまで、各種の見本市関連費用が重くのしかかっていたのだ。いっぽう地元の書籍業者にとっては、それらの負担はぐんと少なかったわけである。

そのために帝国書籍業者は、自分たちにとって割の合わないライプツィヒ見本市を回避する計画を立てた。そして当時めんめんと続いていた書物の翻刻出版(いわゆる海賊出版)に専念するとの脅しを、北の業者に向けてかけ始めた。それはやがて単なる脅しにとどまらず、大々的な翻刻出版の実施として現れた。フランクフルトのファレントラップやウィーンのトラットナーなどがその代表的な存在であった。その際彼らは翻刻出版はオリジナル作品の高値に対する防衛手段である、と自己弁護した。

こうして1765-85年の間には、「翻刻出版の黄金時代」が現出した。翻刻出版つまり海賊出版行為自体は、活版印刷術が発明された15世紀中ごろ以降、ずっと続けられてきたものである。著作権制度が確立するまでは、ドイツにかぎらずヨーロッパの他の国々でも、それはごく普通に行われてきた。しかし18世紀に入って、著作権に対して自覚する人が次第に現れるに及んで、この海賊出版を非難する声も高まってきた。とはいえ当時はまだ国や地域によって意識の格差が大きく、これがなくなるまでには、まだまだ長い時間を要したのである。

南ドイツの出版業界で現出した「翻刻出版の黄金時代」は、そうした過渡期における一つの目立った動きであったといえよう。そして近代的な書籍出版体制についていくことのできなかった遅れた地域において、安い価格で書物を普及させたという意味で、出版文化の側面から見れば、この翻刻出版はプラスに評価できるのである。

<翻刻出版への領邦国家の保護政策>

17,18世紀のドイツは、実質的には大小無数の領邦国家から成り立っていた。領邦国家というのは、日本における江戸時代以前に存在した藩のようなものと思えばよい。17世紀の初めに導入された書籍の交換取引制度にしても、そうした無数の国々が発行していた通貨がその内部でだけしか通用しなかったことからくるのである。

それらの領邦国家は当時、カメラリズムと呼ばれる経済政策をとっていた。それは自国の通貨をできる限り国の外に流出させないことによって、富国策を図ろうとした君主中心の考え方であった。ドイツの大小無数の領邦国家やハプスブルク家のオーストリアは、輸出入管理法及び関税の手段によって、それを可能にしていた。これはつまりドイツ内部の地域的な保護経済政策だったのだ。そして18世紀後半になってもなお、このカメラリズムがドイツの書籍出版販売に影響を及ぼしていたのである。

書籍の取引が領邦国家の境を越えて行われるとき、交換取引方式ならば自国の通貨が外部に流出しないので、カメラリズムの政策に支障がなかった。ところが18世紀の60年代になってライプツィヒの書籍業者が始めた現金取引方式が、領邦国家のカメラリズム的地域経済政策に障害を及ぼすことになったのである。とりわけ南ドイツやオーストリアの書籍業者がライプツィヒ見本市で取引しようとすると、それらの書籍業者が属する領邦国家の通貨を国外に流出させることになるからであった。こうした理由からそれら領邦国家の君主は、自国の通貨が流出することのない翻刻出版を支援するようになったわけである。

この翻刻出版に最も熱心であったのは、オーストリアであった。18世紀の半ば、オーストリアの書籍出版量は、極めて少なく、もっぱら北ドイツ方面から輸入せざるを得ない状況にあった。このために例えばザクセン地方のドレスデンの出版業者ヴァルターは、1765年の一年間に、オーストリアの書籍業者との取引で、4万グルデン以上の儲けを手にしたといわれる。そうした状況を放置しておけば、オーストリアの金はどんどん国外に流出する一方であったのだ。

そのためにオーストリア女帝マリア・テレジアは、書籍業者トラットナーに対して、経済合理性の立場から、熱心に翻刻出版を奨励したのである。同様の保護策を南ドイツのバーデン辺境伯も、その所領内の書籍業者シュミーダーに対してとっていた。

また北ドイツの啓蒙思想を南ドイツやオーストリアの僻遠の地に広めるのに、翻刻出版は願ってもない存在であった。啓蒙専制君主であったオーストリア皇帝ヨーゼフ二世にとっては、自分が抱いていた啓蒙主義思想の普及にたいして、翻刻版こそは不可欠の要素であったのだ。

<近代的書籍取引への転換>

以上述べてきたように、南ドイツ・オーストリア地域では翻刻出版の黄金時代が現出したのであったが、これも永遠には続かなかった。やがて帝国書籍業者の間から、ライプツィヒの現金取引と従来の交換取引の間の妥協案ともいうべき「条件取引制度」が生まれてきたのだ。

その仕組みはざっと次のようなものである。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内に(春と秋の二回)、その代金を精算する。その期間内に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については、店頭価格(定価)の33・3パーセントの割引価格で支払うというものであった。

帝国書籍業者は、以上のような条件取引の提案を行い、ライプツィヒの書籍業者も結局それを受け入れたのであった。このようにして生まれた「条件取引制度」は、やがてドイツ全体の書籍業界に、新たな確固たる基盤を築いたのであった。この新しい制度は18世紀から19世紀に変わるころに完成した。そしてそれは出版部門を持たない「純粋な書籍販売業者」の出現を促したのであった。

さらに条件取引制度の成立の結果として、書物の委託販売方式が生まれた。これは書籍見本市都市ライプツィヒにあった、書籍を保管する倉庫の管理業から出てきたものである。ライプツィヒ以外の書籍業者は、見本市に出品する書物の倉庫を、それぞれ持っていたのだが、条件取引制度の誕生によって、そうした倉庫業は必要ではなくなった。しかし個々の出版業者が自ら販売業務をやるのは、人手や経費・労力などの点で容易ではなかった。そこですべての販売業務を代行してくれる人が必要となったわけである。

こうして生まれたのが、それまで倉庫管理業をやっていた人たちを中心にした委託販売人であった。これらの委託販売業者は、従来からあった倉庫を、出版社から受け取った書物を、一時的に保管しておくための倉庫へと転用したわけである。

こうしてライプツィヒには、出版社と書店との間の取引を代行する書籍取次業が生まれたのである。そしてこれによって、交換取引の時代に結合していた出版業と書籍販売業とが、はっきり分離することになった。

正価販売方式の導入、委託販売方式の成立、そして純粋な書籍販売業者の出現によって、ドイツの出版業界は、資本主義的経済原理に基づいて、全面的に機能するようになったのである。それは19世紀の初めのことであった。

16~17世紀の出版業の諸相(06)

オランダ出版業の発展ほか

<オランダにおける出版業のはじまり>

16世紀の後半、現在のオランダ・ベルギーを中心としたネーデルラント地方を支配していたのが、スペイン・ハプスブルク家であった。その圧政に抵抗した北部7州の新教徒は1568年に独立戦争を開始し、1581年に独立を宣言。そして1609年の休戦条約で事実上独立を達成してスペイン=ハプスブルク家の支配を脱した。それに先立ち、比較的カトリック教徒が多かった南部10州(現在のベルギーに相当)はこの戦争から脱落し、その後もスペインの支配を受け続けた。

独立戦争の中心となって戦ったのが、北部7州の中で最も有力なホラント州であった。ちなみに戦国時代末期に日本にやってきたのが、この「ホラント州」の人々だったのだ。そのため当時の日本人はその人々を「オランダ人」と呼びならわし、ネーデルラントではなくて、オランダという呼び名が、日本では定着したわけである。ちなみに「ネーデルラント」というのは低地を意味している。

さて、スペインの支配を脱した北ネーデルラントつまりオランダでは、政治、経済、社会、文化なと、すべての面で、新興国家の勢いがみられた。印刷・出版業もその例にもれず、印刷工房の数が増え、ホラント州がプロテスタント系出版業の中心地となった。                                                                                                とりわけオランダ独立運動の指導者オラニエ公ウィレムが1575年に大学の設立を奨励したり、エルゼヴィール家が開業したりしたライデンにおいて、印刷・出版業がまず起こったのであった。

<エルゼヴィール家の開業>

エルゼヴィール家の開祖ルイス・エルゼヴィール(1542-1617)は、前にも述べたカトリック・ルネサンス時代の代表的な出版業者プランタンの印刷所に勤め、プランタン社の経営術を身に着けた人物であった。

生まれて間もないライデン大学では、神学と並んで文献学が君臨していた。そうした状況を反映して、エルゼヴィール家では、やがてヨーロッパのすべての教養人が探し求めていたギリシア・ローマの古典作家の書物を数多く出版するようになった。当時、同家は出版業、製本業、書籍販売業に従事していた。同家の最初の出版物は1583年に刊行されたが、本格的な出版部門の展開は1592年以降のことであった。創業者のルイスはまた、印刷されたカタログをもとにしてオークションを催したりした。

ルイスが亡くなった1617年、彼の事業所は二人の息子マッティースとボナヴェントゥラによって引き継がれた。そして1625年にマッティースは息子のアブラハムに、自分の株を売り渡した。またこの年にはルイスの孫のイサクが所有していた印刷所が吸収合併された。ボナヴェントゥラとアブラハムによる経営は1652年まで続いたが、この期間がエルゼヴィール家の黄金時代であったといえる。

同家の印刷物は一般に「エルゼヴィリアーナ」と呼ばれていたが、なかでも学生向けの小型本シリーズは大成功を収めた。そのほか『共和国』のシリーズや、コルネイユなどのフランス文学の出版を通じて、エルゼヴィール家の出版物は、ヨーロッパ中に知れ渡った。

エルゼヴィール家の出版物の表紙。ラテン語の書物。印刷社標章が付いている。(1662年)

こうしてライデンのエルゼヴィール家本店は、ライデン大学の公設印刷所に指定されたのであった(1620-1712)。この間、支店がオランダ国内のハーグ(1590-1665)及びアムステルダム(1638-81)に設立され、17世紀の後半にユトレヒト(1667-75)にも設けられた。そしてさらに国外の主要都市フランクフルト、ヴェネツィア、パリ、ロンドンに、その代理店が開設された。

これらの数多くの支店、代理店の中で、ライデン本店に次いで重要な地位を占めていたのが、アムステルダム店であった。ここではデカルト、コメニウス、ホッブズなど、同時代の代表的な思想家の著作を刊行したり、ギリシア・ローマの古典作品などを出版することによって、名声を得ていた。

いうまでもなくデカルト(1596-1650)の名前は、皆さんもよくご存知かと思われるが、「われ思う、ゆえにわれあり」は有名な『方法序説』の中の一節で、合理主義哲学の出発点となった、といわれている。私も若い時に『方法序説』は読んでみたが、正直言ってよくわからなかった。それはともかく、デカルトは、その研究活動の大部分をオランダで行っていたのだ。当時のフランスはこの思想家にとって束縛の多い住みにくい国だったようだ。これを裏返して言えば、当時のオランダは世界に向かって開かれた自由な国だった、という事であろう。

それからホッブズ(1588-1679)はイギリスの哲学者・社会思想家で、経験論や唯物論を説いた人だ。その名前は、日本の人文・社会学者の間では、よく知られている。もう一人のコメニウス(1592-1670)は、教育学者として日本でも、その名前だけは知られている人物だ。しかしどんな人物であるのかという点については、専門家以外には広がりがない、というのが実情であろう。今回調べてみると、当時のボヘミア王国(現在のチェコ)出身で、民衆の間に大きな勢力を持っていたボヘミア兄弟団の僧侶・長老という人物である。三十年戦争(1618-48)の渦中に、ハプスブルク家の圧迫を受けて、兄弟団の人々とともに国外に追放された。その後生涯をポーランドその他の地域で送り、祖国の解放を最大の念願として、国際的な平和運動を策した。そしてそのためには学校教育が重要との認識のもとに、学校教育の体系づくりに生涯をささげた人物だと言う。

コメニウスは、その際、あらゆる思想と学問とを調和的に統一した<パンソフィア>を学ぶべきとした。そして一般向けに易しく解説した絵入り教科書『世界図絵』が刊行され、これはそのご世界各地に普及したといわれる。

ライデンのエルゼヴィール本店の印刷物(『共和国』シリーズ)の表紙(1632年)

ライデンの本店は1652年以降、アブラハムの息子ダニエルによって、ついで1655年以降はボナベントゥラの息子ヤンによって引き継がれた。しかしこの時代にはもはや黄金時代の輝きは見られなくなった。ヤンはその事業の再編を行なったが、その結果書籍販売部門は売り渡され、印刷部門だけが残った。そしてその印刷所は、ヤンの息子アブラハム二世によって1712年まで営まれたのであった。

いっぽう17世紀の中ごろ、同家の活字父型彫刻師として活躍したのがクリストフェル・ヴァン・ダイク(1601-69)であった。彼は1647年ごろからアムステルダムに活字鋳造所を設立して、本格的な活動を開始した。このヴァン・ダイクは、質の高い活字父型を彫ることのできた彫刻師として、オランダが初めて自国に持つことのできた人物であった。このあとも優れた活字父型彫刻師として、アントン・ジャンソンやニコラス・キシュなどが続くが、オランダ活字はやがて海を渡って、イギリスの活字に大きな影響を与えていくことになるのだ。

<地図出版社ブロウ家>

      ウィレム・ヤンスゾーン・ブロウの肖像画

いっぽうアムステルダムでは、ウィレム・ヤンスゾーン・ブロウが、地図帳と大型地図を専門とする強大な印刷工房を開設した。大航海時代の海洋国家オランダに、いかにもふさわしい部門の印刷所であった。

ブロウ社から出版された地図帳の一部。アジアと日本も描かれている(アムステ ルダム 1650年)

この人物は出版業に乗り出す前に、天文学者のティコ・ブラーエの協力のもとに、様々な天文機械を作っていた。がんらい技術者であったブロウはやがて印刷機の製作にも手を染め、印刷機を頑丈にするための工夫をして、その大幅な改良に成功した。この「オランダ式」印刷機は、次第にネーデルラント全体に広がり、その性能の良さはたちまち評判になったという。そしてこの印刷機は、イギリスにまで普及していったのである。

こうして優れた性能の印刷機を備えることができたブロウ印刷工房は、ドイツのコーベルガー家、フランドル地方のプランタン家、パリ王立印刷所などと並ぶ、ヨーロッパ有数の規模を誇る印刷所となったのである。しかも16世紀後半から17世紀にかけて世界の海へと乗り出していったオランダの印刷・出版業者として、最もふさわしい、地図の製作・出版の分野で、ブロウ家は計り知れないほど大きな仕事を成し遂げたのであった。

<オランダ出版業発展の一般的状況>

ここではオランダ人の『黄金の世紀』である17世紀に栄えた出版業の、一般的な発展状況についてみていくことにしよう。
自由を愛し、技芸と精神の所産を尊重するこの国の商人にとって、書物の出版と取引ほど、ぴったりしたものはなかったのだ。小国ながらその地理的な位置の良さから、オランダの芸術家や文化人、科学者たちは、周辺の国々の知識人、教養人と絶えず交流を重ねていた。多かれ少なかれ、お互いに無視しあっていたイギリス、フランス、ドイツ三国の知識人たちとも、それぞれ関係があったことから、やがてオランダ人は彼らの間の仲介者として働くようになった。当時オランダで無数の新聞が出されていたことも、こうした動きと関係があったのだ。

ゲ・ド・バルザック、テオフィール・ド・ヴィヨンそして前述したデカルトのように、オランダに来て仕事をするフランス人も少なくなかった。オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッソウの宮廷では、フランス語が話され、ハーグの書店にはフランス書が大量におかれていた。

しかも国民の大半が新教徒であるカルヴァン派に属していたこの国には、迫害があるたびにカトリック国フランスから、同じカルヴァン派の信者が逃れてきた。特にルイ14世の時代に、それまで新教徒にも旧教徒とほぼ同じ権利を与えていた「ナントの勅令」が廃止された(1685年)。このときもカルヴァン派信者が大量に亡命したわけである。そしてデポルト、ユグタンといったフランス出身の大出版者は、オランダでフランス人作家と再会したのであった。こうして17世紀末からアムステルダムは、パリに次いでフランス語書籍の第二の中心地になっていったのである。

いっぽうロッテルダムのレールス家のようなオランダの大書籍商は、パリで出版されたフランスの最良の作家の作品を海賊版にした。そしてその見事に組織された取引網を利用して、西はロンドンから東はベルリンに至るヨーロッパ全土に売りさばいていたのであった。

この時代には著作権や版権というものがまだなかったので、どの国でもこうした海賊版は、大手をふるって通用していたわけである。この商売は18世紀になってフランス語が国際語になるにつれて、ますます発展した。そしてオランダの書籍商は、フランドルやスイスの出版業者とともに、当時のフランスのいわば反体制派ともいうべき「百科全書派」の最良の支援者になったのである。

<17世紀半ば以降のヨーロッパは、出版不況の時代に>

1640年から1660年にかけて、オランダを除いたヨーロッパの出版業界には、全体として大きな変化が訪れていた。それは一つにはカトリック・ルネサンスの偉大な時代の幕が下りたことによる。宗教書専門の富裕な出版業者は、以前のように容易には出版物を、さばけなくなった。そして教父の著作のような記念碑的な書物の売れ行きが、落ち込んだ。また宗教戦争の間に略奪にあった修道院に向けて復元された書物も、今や一通りそろってしまった。

その一方フランスでは、国家の栄光を称えるのと同時に、国家によってカトリック教を広めるための手段として、文芸を発展させるという措置が取られた。それはつまりルイ13世治下の1640年に、枢機卿リシュリューによって、パリのルーヴル宮殿内に、王立印刷局が設立されたことを指すのだ。

その反面、このころラテン語を知らない読者や女性の読者向けの世俗文学や通俗書が、フランス、スペイン、イギリスで流行し、やがてオランダでも同じことが起きた。またそれまでラテン語での出版が主流だった学術書が、各国語で印刷され始めた。そして最初の新聞も誕生している。ただこれらの動きは、出版業者にとっては、大規模な利益にはつながらなかったのだ。

こうして書籍市場が細分化の方向に向かう中で、出版業界の経営危機が広まったのである。たとえばかつてカトリック・ルネサンスの時代に大いに栄えたアントウェルペンの出版業が日ごとに衰えを増し、大出版者プランタンの後継者モレトゥスは、いつでも必ず売れる教会典礼用の書物だけを印刷し、販売していた。

またドイツのケルン、フランスのルーアンやリヨンの書籍商にとっては、生き延びるための手段として、もはや海賊版の出版しか残されていなかったのだ。そしてリヨンでは完全な集中化現象が起こった。つまりアニソン社がこの町で唯一の大出版業者となって、パリの同業者に仮借ない競争を挑んでいたわけである。

老舗の出版都市ヴェネツィアの出版業も衰え始めた。ドイツでも三十年戦争(1618-48)の影響で、1620年ころをピークに、出版業も低迷期に入った。フランクフルト書籍見本市での書物取扱量は、前にも述べたとおり、とりわけこの戦争の後半の時期(1631-45)に落ち込んでいる。戦争終了後はいくぶん活気を取り直したが、外国人にとってもドイツ人にとっても、この書籍市はもはや出会いの場ではなくなっていた。

フランスでは、1650年ころから数十年に及ぶ激しい商戦が始まった。そしてパリで印刷されて多少とも当たった書物の海賊版を系統的に作り、邪魔な相手を倒産に追い込む業者も出てきた。その犠牲者となったのが、例えばアントワーヌ・ベルチエだった。この人物はかつてリヨンに見切りをつけてパリで開業し、スペインの書籍商と活発に取引をしていたのだが、この時破産に追い込まれたのである。

そのほか狙われた書籍業者の中には、パリの最大手のクールベ、クラモワジー、デブレなどがいた。フランスではそれまで二百年間にわたって、印刷工房がどんどん増え続けてきただけに、この出版不況を乗り切るのは難しかった。どんな村にも印刷工房の一つくらいはあったのだが、その親方といえば、このころ公式文書、つづり字練習帳、初等教科書から、しばしば誹謗文書まで印刷して生き延びていたのであった。

パリでは1644年には印刷工房の数は75あった。そして印刷機は181台備え付けてあった。ところがこの出版不況の時代には、その半分は、断続的にしか動いていなかったのだ。こうした事態を打開するために、フランス当局は1666年にいくつかの印刷工房を閉鎖させた。そして新しい親方の任命と工房の新設を禁止した。それ以降も印刷工房の数は、1789年のフランス大革命まで、厳しく制限されたのである。

<この時代のドイツの書籍取引>

この時代にヨーロッパ各地で行われていた書籍取引のやり方は、「書物の交換と為替手形の利用」であった。この方式はドイツでは17世紀の初めから18世紀中ごろまで、用いられていた。この時代には宗教上の新旧両勢力の対立が激化する中で、ドイツが無数の領邦国家に分立する傾向が強まったことと、この取引方法の発展との間に密接な関係がみられた。

これらの領邦国家では、フランスに倣って、経済史で言う重商主義の一種「カメラリズム」が採用されていた。その経済政策によれば、金(きん)はできるだけ国内にとどめ置くべきだとされていた。そして外国製品に対して金を支出することが、極力抑えられていた。またそうした領邦国家では、ちょうど日本の江戸時代の藩札のように、自分の領内でしか通用しない通貨を発行していた。

そのために領邦国家の枠を越えた取り引きでの為替決済は、きわめて複雑だったと想像される。このために領邦の枠を越えた書籍卸売り業者間の取引には、直接現金を用いないで、書物や印刷物を交換し合う方法が、便利だったわけである。とはいえ、すべての場合に書物と書物の交換だけで済んだいたわけではなかった。当然差し引き勘定が生じたが、これはかなり長い期間をおいて、為替決済という形で処理された。

この交換取引の大きな利点は、経営資本に対する投資が、比較的少なくて済んだ点にもあった。そして「この時代のドイツの書籍取引は、いわばただ一つの巨大な協同組合的出版社とその支店網によって、運営されていた」とも言われるぐらいなのである。

そうした組織の中で、互いによく知り合った同業者仲間は、円滑な書籍取引ができたのである。そして当時のドイツは、一つの国家にまとまっていなかったが、ドイツ文化圏ないしはその影響が及んでいた地域は、今日のドイツの領域よりはるかに広かったのである。現在の国家で言えば、オーストリア、スイス、ハンガリー、チェコ、ポーランド、バルト三国から北欧に及んでいたことを忘れてはならない。

そのために当時はただこの方法を通じて、ドイツ文化圏内の全ての書物が滑らかに循環していた。そして細かに枝分かれした協同組合的な販売網を通じて、互いに遠く離れたドイツ東北部のケーニヒスベルクやスイスのバーゼル、あるいは北欧のデンマークや東南部のブダペストといった所にまで、書物が届けられたのであった。

このように幾多の領邦国家が分立していたドイツを中心とした地域において、書物を摩擦なく流通させることができたのが、交換取引制度なのであった。しかし時とともに人々は、この交換取引制度にも、様々な欠陥や不利な点があることに気づくようになった。つまり書物がその内容や造本などに関係なく、単にモノとして量的に取引されたことから生じたマイナス面にである。

17世紀後半、かの有名なドイツの哲学者ライプニッツは、これに関連して次のように書いている。
「ドイツで出版されている本は、しばしばその外観、内容ともに極めて劣悪である。ところが本がそのように劣悪でも、売れ行きのほうはよいのだ。なぜなら書籍販売業者が互いに結託して、交換取引しているからだ。経営規模が一定の水準に達していさえすれば、その出版社から発行された書物は、一定限度売れるものなのだ」

こうした状況の中で、ドイツのフランクフルト書籍見本市にも影響が現れた。この書籍見本市は15世紀半ばから16世紀を通じ、さらに17世紀前半ごろまで、ヨーロッパにおいて、書籍取引の中心的な役割を果たしていた。しかしその後発展目覚ましいオランダの出版界で真摯に、念入りに本づくりをしていた人々が、総じてお粗末なドイツの書籍との交換に大いなる不満を示した。そしてこの見本市から撤退してしまった。同様にフランスやイギリスなどの書籍業者も、フランクフルトから離れていったのだ。

しかしドイツの領邦国家体制に適合していたために、書物の交換取引制度は、なお18世紀半ば過ぎまで存続したのであった。

 

随想。タリバンのアフガン支配と「カール・マイ冒険物語」

<はじめに>

周知のとおり、2021年8月15日、アフガニスタンのガニ大統領が隣国に逃亡し、アフガニスタン政府は崩壊した。そしてイスラム主義勢力の「タリバン」が、実権を握った。その後9月1日、20年という最長の戦争を終えて、アメリカ軍は撤退した。タリバンは、「占領軍」を追い出したことに祝砲をあげ、「完全な独立」を宣言した。その前後の動きについては、日々の報道で詳しく伝えられている。

これらのニュースに私は大きな衝撃を受けている。というのは、私は、ドイツ史が専門であるが、このイスラム地域にも、年来強い関心を抱いて、その歴史や地理について、多少は勉強もしてきた。そしてまたライフワークとして、「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」というイスラム地域を舞台にした作品の翻訳も行った。

そんなわけで、今回はいつもとは違った随想という形で、この150年前の物語を紹介しながら、いろいろ思うことを、書いていくことにしたい。

<物語の時代背景>

はじめに、この物語をご存じない方のために、作品と作者そして何よりも物語の時代背景と舞台となっている地域について、説明しておこう。作者は19世紀後半に活躍したドイツ人の冒険作家カール・マイ(1842-1912)である。彼は生涯に膨大な作品を書き遺しているが、その主な作品群はイスラム圏のオスマン帝国を舞台としている。そのため、これらは後世の研究者によって「オリエント・シリーズ」と呼ばれている。私はこのシリーズに属する作品を12巻にまとめて翻訳・刊行したのだが、それについては、このブログの右上の「自己紹介・戸叶勝也」をクリックして、参照していただければ幸いである。

さて作者のカール・マイが活躍した時代は、19世紀後半で、まさに1871年に成立したドイツ帝国(いわゆるビスマルク帝国)の時代に重なっていた。このころは、大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国と並んで、宰相ビスマルクによって指導され、列強の一つに加わったドイツ帝国の動きが、際立っていたころである。

そして宰相ビスマルクを追い出す形で実権を握った皇帝ヴィルヘルム二世は、大変な野心家で、「太陽の当たる場所」を求めて帝国主義政策を推進した。それは北国のドイツから見れば、南に位置する諸地域への遅ればせながらの進出であった。ドイツはアフリカや南太平洋地域へ出て、植民地化した。皇帝はドイツ語ではカイザーであるが、明治時代の日本では「カイゼル」と呼ばれ、その威張りくさった髭(ひげ)は、新聞などで「カイゼルひげ」などと書かれていた。この皇帝は、さらにイスラム教のオスマン帝国とも交渉したりして、首都のベルリンからイスタンブールをへて南のバグダードへと到達する鉄道路線の計画を立てた。数年前に私がイスタンブールへ旅したとき、カイザーの訪問にちなんだ記念碑が、今なお町の中心に立っているのを見たものである。

ところでカール・マイが書いた「オリエント・シリーズ」の舞台は、19世紀半ばのオスマン帝国である。その舞台を示したのが、下記の地図である。

 

  19世紀半ばのオスマン帝国領(主人公カラ・ベン・ネムジの冒険行路)

<イスラム教とキリスト教の対立>

上の地図を見ていただければ、大体19世紀半ばのオスマン帝国領の範囲がおわかりになろう。しかしその前に、オスマン帝国の歴史をざっと振り返ってみよう。まずこの国は1300年ごろトルコ人のオスマンが作ったイスラム教の国である。そして最盛期(17世紀)にはその領土は上の地図に書かれた範囲より広く、西は北アフリカのアルジェリアが含まれ、また北はバルカン半島の北部、現在のハンガリーあたりにまで広がっていた。そしてその境界の先には、ハプスブルク家のオーストリア帝国があったが、この帝国はオスマン帝国と対峙して、キリスト教世界の守護役を演じ、16世紀以来、幾度となく戦争を繰り返してきた、

イスラム教のオスマン帝国は、西暦14世紀初めから、20世紀初めの第一次大戦時まで、およそ600年にわたり、キリスト教の西ヨーロッパと対峙してきたわけである。とはいえ互いに戦争ばかりしていたわけではなく、文化を含めて、様々な面で関係を保ち、東のオスマン側が西のヨーロッパに影響を与えてきた。例えば18世紀のモーツァルトのトルコ行進曲は、日本人にもなじみのものだろう。この曲は、太鼓をたたいて整然と進軍していく、オスマン軍の勇ましい姿を描写したものと思われる。またチューリップという名前は、その形がトルコ人がかぶっていたターバンに似ているというので、つけられたものだ。さらに真偽のほどはわからないが、16世紀あるいは17世紀に、オーストリア帝国の首都ウィーンをオスマン軍が包囲して、その後撤退したときに、陣営の中に残されたコーヒーがヨーロッパに初めて伝わったなどといわれている。

カール・マイ冒険物語の時代は、19世紀半ばの、帝国の末期に当たっていた。そしてその勢力は衰え、領土も減少していた。しかしその時点においてもオスマン帝国領には、発祥の地であるアナトリアと対岸の首都イスタンブールを中核として、なおバルカン半島南部地域並びにアラビア地域が属していた。これらの地域を含めて、オスマン帝国は、当時のヨーロッパ人から、自分たちのすぐ東にある地域という意味で「近東」と呼ばれたのだ。

<近東について>

これに関連して、カール・マイ冒険物語第6巻「バグダードからイスタンブールへ」の第5章(158頁)には、「近東」に関する興味深い話が、出てくるので、次に紹介したい。

今しも二人の男がイスタンブールの旅館「ドゥ・ペスト」の一室に座って、宿の  主人のついだ素晴らしい酒を飲みながら、思案気な顔つきでタバコをふかしていた。・・・・
「サー、近東問題をどう考えるね?」
「それは問題というよりは、感嘆符を伴った事柄ですな」
灰色の男は再び口を閉じ、眼を開け、”賢者の格言”を直ちに理解しなければならない、といった顔つきをした。この灰色の男はデービッド・リンゼイ卿で、褐色の男は私(注:物語の主人公カラ・ベン・ネムジ)だったのだ。私は一度たりとも真面目に政治に取り組んだことはなかった。そのためトルコ、バルカンなどを巡る政治上の問題は、私にとって恐怖と嫌悪の対象だったのだ。その概念を説明できる人は、この質問にも答えられるであろう。しかし近東問題だとか、いわゆる”病人”が持ち出されると、どんなにぎやかな社交の席でも、私は直ちに沈黙せざるを得なくなるのだ。私は政治医学を学んだわけではないので、この病人の症状についてとやかく言うことは出来ないのだ。しかしその地域を旅している私の素人考えでも、とても健康だとは呼べないことは確かだ。 (注:”ボスフォラス海峡の病人”と、かつて強大であったオスマン帝国も、19世紀にはヨーロッパの列強諸国から、馬鹿にされていたのだ)

ところで第一次世界大戦にオスマン帝国は敗北し、その領土は大幅に削減された。その中核地域は、トルコ共和国として生まれ変わった。しかし、その南部のアラビア地域にあった領土は、列強のイギリスとフランスによって、都合よく線引きされて、いくつもの国家が作られた。それが現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、パレスチナそしてサウディアラビアの一部などである。ペルシア湾岸のアラブ首長国連邦、クエートその他の小さな国々は、それより後になって生まれたのだ。そしてそれらの地域の中でも石油が出る地域や国は、エネルギーの供給地として脚光を浴びることになったわけである。

これらのアラビア地域はやがて「中東」と呼ばれるようになった。ヨーロッパから見て「近東」より遠いが、インド、中国そして日本など「極東」などと区別するために、その中間の東の国々という意味で「中東」と名付けられたのであろう。いずれにしても、19世紀以来のヨーロッパ中心の考えを反映した命名に違いない。

この近東と中東を合わせて、中近東とよばれることもある。第二次大戦後も、ある時期までは「中近東を行く」といった紀行文やテレビ番組があった。しかし最近ではこの言葉はあまり聞かれなくなった、と思われるが、どうであろうか。

<物語の概要>

次に「カール・マイ冒険物語」の概要について、簡単に紹介していこう。キリスト教徒であるドイツ人のカラ・ベン・ネムジはイスラム教徒のアラビア人召使ハジ・ハレフ・オマール(ハジはメッカ巡礼者に与えられる肩書)を従えて、広大なオスマン帝国の領域内を、馬にまたがって移動していく。そして行く先々で、冒険の数々が展開される。その行路は、先に示した地図をご覧になればお分かりいただけよう。

ドイツ人の主人公カラ・ベン・ネムジは、武力にも知力にも優れ、母語であるドイツ語のほかに、英語、フランス語などのヨーロッパの言語はもとより、現地の言葉であるアラビア語、トルコ語、ペルシア語から、クルド語までできるスーパーマンである。職業は一応「物書き」で、旅する地域の文化や風土を探求するために、その語学力を駆使して、現地の人々と積極的に交わっていく。単なる冒険家というのではなく、「異文化理解」をモットーとした文化人類学者の側面も発揮したりしている。

ただマイは流行作家であったため、自分の足で現地を訪ねて物語を書く時間的余裕はなかった。19世紀後半にあって、売れっ子の作家が遠い「オスマン帝国」の地を探訪することはできなかった。そのため自分の書斎に集めた膨大な書籍や百科事典、あるいは各種の精密な地図や探検家、学者の調査報告書などを基にして、書いている。その点、司馬遼太郎のやり方に、似ているといえる。また司馬と同様、ドイツではマイは「国民的作家」呼ばれているのだ。

さて主人公はオスマン帝国の各地を移動する際に、召使と二人だけの孤独な一匹オオカミというわけではなかった。実はうまく立ち回って、「オスマン帝国」の皇帝(スルタン)から、特別なビザが与えられている。水戸黄門ではないが、現地の悪党などとやりあうときには、そのスルタンのビザが「葵の御紋」として、ものをいうのだ。

<物語の発端>

まず北アフリカのアルジェを出発した主人公と召使は、チュニジアの塩砂漠での冒険の後、サハラ砂漠の北のはずれを通って、ナイル河に到達する。そこでは地元の有力者のハーレムにとらわれていた美女を救い出す。次いで紅海を船で渡って、対岸のアラビア半島にある港町ジッダに上陸する。そして主人公は、ヨーロッパ人にとっては禁断の、イスラム教の聖地メッカに入る。そこの中心施設カーバ神殿を見た後、異教徒であることが発覚し追跡されたが、ほうほうの体で逃げ延びる。

その後、舞台はメソポタミアのティグリス河へと移る。そこではアラビア人の部族争いで、一方の陣営の参謀に収まって、勝利に導く。そんなことができるのも、アラビア語が達者で、現地事情にも通じているからだ。「アラビアのロレンス」を思わせるものがある。主人公は さらにティグリス河をさかのぼって、上流の大都会モスルのトルコ人代官の屋敷に入り込む。このモスルは数年前、凶悪なイスラム過激派「イスラム国」によって、一時占領され、壊滅的な破壊を受けた所だ。その後アメリカ軍などによってイスラム国は滅ぼされたが、瓦礫となった町並みは依然として、無残な姿を見せている。

このモスルから主人公と召使は、クルディスタンの山岳地帯へと、分け入っていく。そこにはイェジディと呼ばれる少数民族が住んでいた。彼らはキリスト教の一宗派の信仰を守っていたので、同じくキリスト教徒の主人公カラ・ベン・ネムジは、大いに親近感を抱く。しかしかれらはその特異な宗教儀式を実践していたため、周囲のイスラム教徒から、「悪魔崇拝者」と呼ばれ、迫害されていた。思えばそうした迫害は現代でも行われたのだ。例の「イスラム国」はシリア、イラクにまたがる地域を一時支配したが、その時イェジディ(ヤジディ)の女性たちは「イスラム国」の兵士によってレイプされたり、残酷な被害を受けたりした。これはまだわずか数年前のことで、国際的な非難を浴びたものだ。

さて主人公が分け入った山岳地帯はクルディスタンと呼ばれているが、そこには主流の民族として、イスラム教徒のクルド人が住んでいた。この民族は現在なおトルコ、イラク、シリアそしてイランの広大な地域に、散在して居住しているのだ。その人口はざっと三千万人といわれる。そのため「国家を持たない最大の少数民族」として、話題になっている。

さらにその山岳地帯には、ネストリウス派のキリスト教徒も住んでいた。この一派は遠く中国でも布教を行ったが、そこでは景教と呼ばれている。このあたりの山岳地帯は、まさに民族と宗教のるつぼであった。そしてイスラム教徒のクルド人とキリスト教ネストリウス派の人々は、互いに抗争を繰り広げていた。そこでも主人公はその抗争に介入して、両者の代表と知り合って、和解と融和に努めている。

また物語の地の文章で、主人公は、当時この地域に入り込んでキリスト教の布教活動をしていたアメリカ人牧師のことを批判している。つまりその牧師は複雑な地域事情や宗教事情を知らないため、その布教に成功していないのだとしているわけだ。これは150年前の19世紀半ばのことだが、20,21世紀のアメリカは、「世界の警察官」を自任して、各地にアメリカ流の自由と民主主義を根付かせようとして失敗を繰り返してきているわけだ。今回のアフガニスタンからの軍事撤退も、しかりだと私は思っている。

<タリバンとイスラム法>

ところで現在アフガニスタンで国の統治を始めようとしているタリバンは、女性の権利について、「イスラム法の範囲内で尊重する」と主張している。そのイスラム法(シャリーア)については、物語の主人公はこう述べている。「自分が関与した裁判で、裁判官はシャリーアを、都合よく恣意的に使っているのだ」と。

この法律について、イスラム学者の松山洋平氏は最近の新聞のインタビュー記事で、次のように述べている(朝日新聞、21.8.27朝刊)

「人間の行為に関するイスラム教の決まり事のことだ。刑法や商法などにあたる規定のほか、礼拝の方法や巡礼の手順、衣服や排せつの決まり事といった日常の問題も扱われる。イスラム教初期の7世紀から存在する」。また同氏は「古典的な解釈において、男女の不平等や、(むち打ちなどの)身体刑が存在することが、国際的に問題視されている」とも述べている。

<クルディスタンからイスタンブールへ>

再び物語に戻ることにしよう。主人公と召使はクルディスタンを離れ、東側のペルシア(現在のイラン)との国境に連なっているザグロス山脈に沿って南下していく。その途中、偶然シーア派イスラム教徒のペルシア人亡命貴族と知り合う。この人物は、メソポタミア地域にあるシーア派の聖地(ナジャフ)へ向かう途中だったのだ。主人公はこの亡命貴族と意気投合して、バグダードまで同行する。

この辺りは、歴史的経緯からイスラム教のスンニ派とシーア派の両派が混在している地域で、現在はイラクである。独裁者サダム・フセインは政治的思惑からスンニ派を優遇していた。しかし2000年代初めのイラク戦争で、アメリカ軍によって殺された。その後できたイラク政権は、シーア派の隣国イランと関係が近く、シーア派優遇策をとるようになった。ただ一時は「イスラム国」の支配を受けたりして、このテロリスト集団の国が撲滅された後も、イラクの地はなお混乱を極めている。

このように現代においては、この地方はまったく精彩を欠いているが、古代にはシュメール文明やその後のバビロニア文明などが栄えていたのだ。そのため物語の中で、主人公は聖書に登場する「バベルの塔」があった古代バビロンの廃墟に立ち寄った。そしてはるかな古代に思いをはせた。しかしそれに先立ちシーア派教徒の巡礼の葬列を、好奇心から見物に行った主人公と召使は、この廃墟でペストを発症して瀕死の憂き目にあった。死者を運ぶ葬列からは、死臭が立ち込め、非衛生極まりないものと、描かれている。幸いユーフラテス河の支流の静かな場所で、ゆっくり静養して、やがて二人は元気を回復した。ただコロナ禍の現在、物語のこの部分を読み返すと、身につまされるものがある。

その後シリアの古都ダマスカスへ向かった主人公と召使は、途中で知り合った宝石商の屋敷に招かれる。それに先立って、次のような街並みの描写がつづいている。

「背後にはアンティレバノン山脈の絵のような山並みが天に向かってそそり立ち、前方にはイスラム教徒が誇りにしている天国のようなダマスカス平野が広がっている。その平野には果実をつけた樹々が茂り、花が咲き乱れ、その間を縫うようにして大小八本の川が流れている。そしてこの広々とした緑の園の背後には、荒野を旅して疲れ果てた巡礼者たちにとって、まるで蜃気楼のように、ダマスカスの街並みが浮かび上がってくるのだ。」
(第6巻「バグダードからイスタンブールへ」第3章ダマスカスにて。57頁)

実にロマンに満ち溢れた街並みの描写だが、これが19世紀半ばのシリアの古都の本当の姿かどうかはわからない。たぶん美化しすぎていることはないのであろう。しかし私が思うのは、2011年の「アラブの春」によって始まったシリアの内戦のことである。独裁的なアサド大統領の政権を倒そうとした反体制派は欧米の支援を受けて、はじめは優勢で一時はアサド大統領は追い詰められ、倒される寸前までいった。しかしシリアに基地をもつロシア軍の強力な軍事支援によって徐々に盛り返した。とはいえトルコなどの支えで、反体制派もすぐには容易に絶滅するまでには至っていない。いっぽう長引く戦火によって発生した数多くのシリア難民は、周辺の国々から果ては遠いヨーロッパにまで逃れ、その受け入れを巡ってEUの国々に大きな問題が生じたわけである。

ここでも小国の紛争にいくつかの大国が介入することによって、問題がこじれ、国土が荒廃し、普通の人々の犠牲が大きくなったのだ。シリア内戦の場合は、単純にイスラム教勢力とキリスト教勢力の戦いではなくて、もっと複雑に絡み合っているわけだ。

カール・マイが描く19世紀のダマスカスの美しい町並みは、今はもはや残っていないのだろうか。一度専門家の話を聞いてみたいものだ。あるいは古都ダマスカスをいつか訪れてみたいという私の夢は、幻想にすぎないのだろうか。

それはともかく、主人公と召使は、その後ダマスカスの宝石商とともに、宝石泥棒を追跡して、古代ローマのバールベク遺跡にたどり着く。そこでの活劇の後、再び逃亡した泥棒の後を追って、一行は地中海沿岸のベイルートから船に乗って、イスタンブールへ向かう。そして盗賊団追跡の過程で、当時「魔都」と呼ばれた大都会の暗黒面がさまざまに描かれ、その中での冒険活劇が犯罪小説的な色合いを帯びてくるのだ。

ここまでが長い長い物語の前半である。後半には主人公のカラ・ベン・ネムジと召使いのハジ・ハレフ・オマールは、悪党団の親分を追跡して、バルカン半島の南部を東から西へと移動していく。そしてその親分を打ちとった後、最後にアドリア海に到達して、物語は終局を迎える。

まだまだ書きたいことは山ほどあるが、きりがないので、今回の随想はこの辺で終わりにしたい。

 

 

 

 

16~17世紀の出版業の諸相

その05 カトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の出版業

<対抗宗教改革の動き>

16世紀の半ば頃、ヨーロッパのカトリック勢力は様々な側面で、プロテスタント勢力との対決姿勢を鮮明にして、対抗宗教改革の動きを活発化していた。カトリック国のスペインに、イエズス会が生まれ、世界中にその影響力を伸ばし始めていくのも、このころのことであった。

そのためにヨーロッパの各地で、カトリックとプロテスタントの抗争は激しさを増して、ついには宗教戦争に突入する地域も見られた。当時ヨーロッパを支配していた大勢力であったハプスブルク家のスペイン国王やオーストリア皇帝そしてフランス国王は、ともにカトリックの強力な支持者であったため、ヴァチカンの教皇と結託して、プロテスタント教徒を弾圧するのにあたって、あの手この手を用いていた。彼らはプロテスタント思想の普及を妨げるために、プロテスタント系の出版物に対する検閲を厳しくしたり、規制を強化したりしていた。

<教会及び国家による検閲と規制の強化>

教会と国家というヨーロッパ中世を支配していた二大勢力は、活字版印刷術の普及によって、危険で好ましくない思想が急速に広まることをいち早く察知した。そしてこれに対して、検閲という手段をもって対抗したのであった。

たとえば1479年に時の教皇は、ケルン大学に、異端書籍の印刷者、購入者、読者を起訴する権限を与えた。ついで1485年には、マインツ大司教が書籍の検閲に関する布告を発している。さらに1487年の教皇教書は、「カトリックの教えに反し、神に逆らうような」書物は、すべて焼き払うようにと書いていた。次いで1517年に宗教改革の火ぶたを切ったマルティン・ルターに対して、教皇は皇帝と力を合わせて弾圧に乗り出し、ルターの全ての著作の発行停止という措置にでた。

ルターの著書を燃やしているところ(16世紀の木版画)

しかしこうした検閲や規制の強化措置は、あまり効果を上げることができなかった。ルターによって書かれた小冊子やパンフレットが、広く人々の間に浸透していったことについては、すでに述べたとおりである。当時ドイツでは、おおざっぱに言って、国の半分の地域にルターの教えを支持する勢力が広がっていたからである。

それでも1547年に、プロテスタント側のシュマルカルデン同盟との戦争に、皇帝カール五世が大勝利を収めると、皇帝からの規制は再び強まった。その翌年「帝国警察規則」が布告され、印刷に対する完全な管理権を皇帝が握ることが明らかにされた。その後もこうした布告や規則は、繰り返し出されたが、期待したほどの効果は上げられなかったようである。

<帝国書籍委員会の専横>

この委員会は1524年に書籍検閲の控訴法廷として、皇帝のおひざ元のヴィーンの宮廷内に設置された。しかし初期のころはこの委員会は、さしたる活動をしていない。ところが1555年にそれがイエズス会に委任されてからは、うるさい存在となったのである。このイエズス会というのは、1534年にイグナチウス・ロヨラらによって創立された組織であったが、その後ローマ教皇によって認可され、対抗宗教改革で大きな役割を果たした戦闘的な集団であった。

たとえば1567年、皇帝に対する誹謗文書が出た時、イエズス会の差し金で、皇帝は印刷者に対して厳罰を下すよう、フランクフルト市参事会に命令した。その結果この不幸な男は鎖につながれて、ヴィーンに護送されたのである。同委員会はさらにその2年後には、市参事会に対して、市を訪れるすべての書籍商への出版許可の有無を検査し、かつ過去5年間に出版された書物を調査するよう命令した。そして書籍一点につき一冊を献本として提出するよう命じた。そしてこの調査がきっかけとなって、1579年には帝国書籍委員会は、フランクフルトに移ったのである。

この後イエズス会は同委員会を牛耳ることによって、これを対抗宗教改革運動の一部に組み込んだのである。その委員はフランクフルトの書店を訪ねては、下劣で扇動的な文書の流布を抑えた。そしてまた皇帝の出版許可を検査し、不法出版物を押収し、献本集めの監督を行った。そして先に述べた献本要求をエスカレートさせていった。

その献本は、三十年戦争中の1621年には3冊、1648年には4冊、そして1666年には、ついに6冊までになった。このような献本の要求はすべて書籍商の負担となっていた。とりわけ大型の高価な書物で何巻にもわたるような場合、6冊もの献本を無償で行うことは、書籍商にとってかなりの損失を意味していた。

フランクフルトの大市ないし書籍市は、たしかに皇帝の許可と保護によって発展してきた。そのためにこの町は帝国都市とも呼ばれてきた。しかし住民の宗派を見ると、プロテスタント2万人、カトリック5千人、ユダヤ人3千人という人口構成で、プロテスタントが優勢な都市であった。そのためにイエズス会側のこうした態度は、耐え難いものであった。

確かに献本要求に黙って応じた者もいたが、プロテスタントのザクセン地方の書籍商たちは、同地を支配していた選帝侯に苦情を申し入れた。しかし皇帝との和を乱したくない選帝侯からの支持は得られなかった。またヴェネツィアの書籍業者たちの反対の声を高かった。それにもかかわらず、皇帝はそうした声に耳を貸さず、書籍委員会の横暴ぶりは激しさを増すばかりであった。

こうした圧迫が17世紀の間に書籍業者たちの足を、フランクフルト書籍市から遠ざけさせる大きな原因となったのである。1625年以降は、フランス人がほとんど姿を現さなくなった。ヴェネツィアの書籍商も来なくなり、他の国からの書籍業者の訪問もなくなっていった。最後に残っていたオランダの書籍商たちも不当な献本要求に抗議したのち、1701年にはついにフランクフルト書籍市から撤退することになったのであった。

<出版業におけるカトリック・ルネッサンス>

いっぽう対抗宗教改革運動は、プロテスタント陣営を弾圧することにだけ情熱を燃やしていたわけではなかった。広く民衆の間に再びカトリック信仰をよみがえらせることにも力を入れていたのである。その手段としては、やはり出版業を通じて、カトリック・ルネッサンスを実現しようとしていたのである。

イエズス会はヨーロッパ中に多数のコレージュを開き、その近くに印刷工場の開設を促した。またヨーロッパのカトリック圏全域に、多くの修道院が出現して、書物集めに力を注ぐようになった。さらに民衆のカトリック信仰が復活し、それに伴って宗教文学というジャンルが生まれた。そしてこうしたことが相まって、宗教書の出版が発展を示すようになった。こうした変化は、カトリック・ルネッサンス運動の影響が表れ始めた1570年ごろから起こった。典礼書のテクストを統一し、それらをローマの慣習に合わせるために、改訂することがトリエント公会議で決定された。

これによってカトリック系の出版業の復興が促進された。そしてカトリック教会またはカトリック諸侯の支援を受けていた大出版業者は、これらの書物の独占出版権を手に入れて、事業を著しく発展させたのであった。その典型がプランタン・モレトゥス家であった。それについてはこの後、詳しく述べることにする。

当時のヨーロッパのカトリック圏の大中心地といえば、ことごとく宗教ルネサンスの中心地であった。すなわちドイツでの印刷業は南部諸都市と西部のケルンで、活況を取り戻した。またフランドル地方でも、スペインに再度征服されてから対抗宗教改革の砦となったアントウェルペンでは、プランタンの義理の息子モレトゥスが、おおいに商売を発展させた。つまりトリエント公会議の決定に従って改訂された教会用の書物を、彼は長期にわたって大量に出版して、それらを全ヨーロッパとアメリカに流布させていたのである。

フランスでは教会とイエズス会の庇護を受けて、クラモワジーとその共同事業者がパリの出版業界を牛耳っていた。そしてリヨンの出版業界も、やはりイエズス会のおかげで、1620年から幾分勢いを取り戻した。ヴェネツィアも同様で、またパオロ・マヌツィオが教皇庁の側で開業していたローマでも、カトリック関係の書物の印刷が中心になっていった。

<アントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタン(1520-89)>

カトリック・ルネッサンスの時代に、時代の流れを巧みに利用して、アントウェルペンで大出版業者として大々的な商売を展開したのが、クリストファー・プランタンとその義理の息子やヤン・モレトゥスであった。

アントウェルペンはフランドル地方(現在のベルギー)の商業都市として、15世紀後半から急速に発展していた。そして書籍・出版業も栄えていた。この町へフランス人のクリストファー・プランタンが移り住んだのは、1548年か49年のことであった。

クリストファー・プランタンの肖像画(1572年)

1550年にアントウェルペンの市民権を得たプランタンは、しばらくの間製本と皮細工を商売としていたが、その商売は大いに成功した。その後1555年に「愛の家」という宗派から資金援助を受けて、印刷業と出版業を開業した。そして2年後には、金のコンパスに「労働と不変」という言葉を添えた、有名な印刷者標章を定めた。以後それは同社のシンボル・マークとなった。

印刷者標章として採用されたシンボル・マーク(1557年)

印刷・出版業者として初めは苦労したプランタンであったが、1559年にカール五世の葬儀に関連して出版した立派な書物によって、その名声を確立した。ところが1562年に異端の書物が、彼の印刷所から発見されたことから、一時彼はパリに身を隠した。しかしその潔白が証明され、翌年にはアントウェルペンへ戻ることができた。

帰国後数年間は4人の共同経営者とともに、印刷・出版業を営んだ。この4人の協力関係は5年間続き、その間に実に260点もの作品が刊行されたのであった。これは年間およそ50点ということになるが、当時として驚異的な多さといえた。内容的には、それらは古典作品のポケット版、ヘブライ語聖書、祈祷書、豊富な図解入りの解剖学書などであった。

プランタン社のヘブライ語聖書(1566年)

<五か国語聖書の編纂及び刊行>

その後1567年には、共同経営を解散して、プランタンは再び一人で印刷・出版業を経営することになった。このころ彼は科学的で信頼できる大規模な聖書の編纂と出版を企画した。そのための資金は、当時フランドル地方を支配していたスペイン国王フェリペ二世からから得られることになった。この国王はカトリック信仰がとても厚く、この事業に強い関心を示した。そして偉大な古典研究家アリアス・モンタヌスを、その編集顧問としてプランタン社に送った。こうして詳細な付録が付いた五か国語による聖書が、1568年ら73年にかけて、全八巻で刊行された。

プランタン社の最高傑作、五か国語聖書(1568~73年)

この五か国語というのは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、シリア語そしてカルデア語またはアラミア語であった。そして付録というのは、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、ギリシア語の文法、語彙、それから古いヘブライの慣習を記したものであった。この五か国語聖書の出版こそ、後世にまで残るプランタン社の最高の業績であった。ともかくフェリペ二世からの信頼が厚く、1570年には「王室御用印刷者」という称号が与えられたのである。

さらにプランタンはスペイン国王から、スペイン及びその植民地において、祈祷書、ミサ典書、時祷書などを独占的に販売する権利を得た。そしてこれによって同社の富の基礎は築かれたのであった。プランタン社は、フェリペ二世のために、何千何万というミサ典書、日課祈祷書、日課書、交唱聖歌集などを出版し、国王はそれらをスペイン国内や海外の植民地へ向けて販売させていたのだ。

<黄金時代のプランタン社(1568-76)>

この時期プランタン社の印刷・出版事業は頂点に達していた。1574年には全部で16台もの印刷機が稼働し、そこでは70人ほどが働いていた。フランスのエティエンヌ家でさえ印刷機は4台だったことを考えると、プランタン社の規模の大きさが分かろうというものである。

プランタン社の出版物は、宗教書だけではなかった。彼はその時代のもっともすぐれた科学研究書の刊行にも力を入れた。その中にはドトネウス、クルシウス、ロベリウスによる植物学の本も含まれていた。さらに彼は自ら編纂した初めてのオランダ語の辞書も出版した。

ロベリウスによる植物学の本(1581年)

しかしオランダの独立運動に関連して、オランダの南部にあっフランドル地方も、やがて戦乱の影響を被ることになった。1567年アントウェルペンにスペイン軍がやってきた。プランタン社は略奪は免れたものの、その出版活動に悪い影響が出て、生産量はかなり落ちた。1577年には印刷機は、5台が働いていただけだった。その後この数は増えたが、二度と10台をこえることはなかった。

こうして出版物の量は最盛期に比べて落ちはしたが、その質は保たれていた。戦時にもかかわらず、極めて重要な作品が、依然としてプランタン社の印刷機から生まれていた。それらはアブラハム・オルテリウスの地図、ラ・ヘレのミサを含む楽譜、ギッチャルディンによるオランダの歴史及び地理の研究書、人文主義者ユストゥス・リプシウスの著作などである。

ラ・ヘレのミサを含む楽譜

<その後のプランタン>

スペインの侵略後、アントウェルペンは決定的に反逆者の立場をとらざるを得なくなった。そのためにプランタンも困難な状況に陥ることになった。かつての「王室御用印刷所」は、反逆勢力の指導者たちの訪問を受け、反スペイン側の文書を印刷していた。その一方スペイン側の公式文書も印刷していた。また宗教改革者ヘンドリク・ヤンセン・バーレフェルトとの友情も、このころから続いていた。この人物は、アントウェルペンに残って、その著作をプランタン社から匿名で出していたのだ。

その後も戦火は衰えず、プランタン社はアントウエルペンにとどまっているのが、困難になった。そんな時ライデン在住の人文主義者リプシウスからの誘いがあって、1583年にその地に新設された大学の印刷社として赴任することになった。自らは依然としてカトリック信者にとどまっていたが、カルヴァン派の人々からも、丁重に扱われた。

ライデンで印刷された最初の近代的海図帳の表紙(1585年)

ところがプランタンはライデンでは居心地の悪さを感じて、1585年8月、永久にオランダを捨てるつもりで、伝統的なカトリックの町であるドイツのケルンに移った。しかしちょうどその頃アントウェルペンがスペイン軍から解放されたことを知って、急遽彼はこの第二の故郷に戻った。そして1589年に亡くなるまで、そこで印刷・出版業を続けたのであった。

その34年間にわたる活動期間にクリストファー・プランタンは、実に2450点もの出版物(そのうち書籍は1850点)を刊行した。プランタンはカトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の最も重要で、最大規模の印刷・出版業者だったのである。

<プランタンの後継者ヤン・モレトゥス(1543-1610)>

プランタンは5人の娘を遺したが、そのうちの3人は彼の助手ないし協力者と結婚した。長女のマーガレットは、東洋語の専門家ラフェレンジウスと結婚したが、この人物は1585年にライデンのプランタン印刷所を引き継いだ。

そして次女のマルティーヌは、ヤン・モレトゥスと1570年に結婚した。彼は才能ある男で、1557年に14歳でプランタン印刷所に勤め始めていた。そしてその才能を見込まれたモレトゥスは、プランタンの右腕として働いたが、とりわけ事業経営の面で第一人者となった。

プランタンは遺言で、アントウェルペンの家と印刷所(オフィチナ・プランタニア)を、モレトゥスに残した。そして以後モレトゥス家の子孫が代々、プランタン・モレトゥス印刷所を引き継いでゆくことになったのである。

その初代のヤン・モレトゥスは、前任者に劣らない熱意とエネルギーで、印刷・出版事業を推進していった。彼はカトリック・ルネッサンスの出版者として、もっぱら祈祷書や宗教書を刊行していった。その反面、当時オランダ南部に台頭してきた人文主義の印刷・出版業者が、古典書や科学書を出版するようになったために、この方面からは撤退せざるを得なかった。

プランタンはまず本の内容に重きを置いたが、モレトゥスのほうはとりわけ書物の外観に注意を払った。そのために初代ヤン・モレトゥスのもとでは、プランタン印刷所は、その書物の外観の美しさと優雅さとで、国際的な名声を保ったのである。

ヤン・モレトゥスによって出版されたオランダ語聖書の表紙(1599年)

<モレトゥスの息子たちの活動とその後>

ヤン・モレトゥスは1610年に亡くなり、その二人の息子バルタザール一世(1574-1641年)とヤン二世(1576-1618)がその後を継いだ。しかし実質的には長男のバルタザール一世が主導権を握っていた。彼は非常に豊富な知識と知性を持っていて、すべての点でモレトゥス家の中で最も優れた人物であった。彼はその時代の主な芸術家や学者と交際があった。こうした環境の中で、プランタン・モレトゥス出版社は、再び文化の中心地になった。なかでも彼は画家のピーター・ルーベンスの親友であった。バルタザールはこの友人に、自分の印刷所で出版するものの押し絵や口絵のデザインを依頼した。巨匠ルーベンスはこの方面でもすぐれた作品を残しており、それがまたプランタン・モレトゥス出版社の評判を高めたのであった。バルタザール一世は独身のまま1641年に他界した。

その後を継いだのは、弟の息子バルタザール二世(1615-74年)であった。彼は依然として独占的な宗教書の出版に力を注ぎ、それによって一家の富の増大を図った。しかし彼の死後、同印刷所は不振となった。それでもその後継者は昔から与えられていた特権を利用して、スペイン及びその植民地向けにミサ典書や祈祷書の再発行を続けた。しかしこの特権も18世紀の半ばに消滅し、以後出版量は激減した。

バルタザール二世の息子バルタザール三世(1646-96年)は、1692年に貴族に列せられたが、モレトゥス家の人々にとって、印刷所はもはや生計のもとではなくなっていた。すでに十分金持ちになっていた彼らは、その資金を土地などに投資して、ますます増やしていた。18世紀後半からは、モレトゥス家は先祖を敬う意味で印刷所を保持していたにすぎない。

1867年、同印刷所はアントウェルペン市が買い取って、それ以後その建物は「プランタン・モレトゥス印刷博物館」となった。この博物館には、立派な印刷機をはじめとする印刷関係の器具類、活字箱にいっぱい詰まった各種の活字、その他印刷関連の資料などが、実に豊富に保管されていて、今なお一般に公開されているのだ。

この「プランタン・モレトゥス印刷博物館」を、私は2005年の夏に訪れた。これまで何度も繰り返し述べてきたアントウェルペン市は、日本ではこれまで普通、英語風にアントワープと呼ばれている。しかし私が所持している世界地図帳(昭文社、2002年)の74頁には、ベルギーの首都ブリュッセルの北部にある大都会として、はっきりアントウェルペンと記されている。そして赤字で大きくそのわきに「プランタン・モレトゥス印刷博物館」とも記されている。つまりこの博物館は現在、この都市を代表する存在になっているのだ。

「プランタン・モレトゥス印刷博物館」の内部。
印刷機と活字箱に詰まった活字

次回は「オランダ出版業の発展とその他の国の出版業の低迷」について、述べることにしたい。