ギリシア・ローマ時代の書籍文化

その01 ギリシア・ローマにおける文字の誕生とその活用

私が<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>の研究を始めた動機

私はこの30年ほど、ドイツおよびヨーロッパの書物ないし出版の歴史を研究してきた。そしてその過程で、数冊の研究書を著した。ドイツの出版史の通史ともいうべき『ドイツ出版の社会史』(1992年)から始まって、19、20世紀のドイツ出版文化史の一側面としての『レクラム百科文庫』(1995年)、15世紀半ばに活版印刷術を発明したグーテンベルクの生涯と業績について書いた『グーテンベルク』(清水書院「人と思想シリーズ」、1997年)、そして15世紀から18世紀までを扱った『ヨーロッパの出版文化史』(朗文堂、2004年)などである。この最後の著作において、いわば導入部としてグーテンベルク以前のヨーロッパ中世の書物(写本)の世界について、一般的状況を述べた。

その後私の関心は、中世以前つまり古代ギリシア・ローマ時代の書籍とそれをめぐる状況は、いったいどんなものだったのか、という事に向かった。そうしたときに出会ったのが、“Das Buch in der Antike”(ギリシア・ローマ時代の書物)というドイツ語の本であった。この著作をざっと読んでいくと、本書こそ私が求めていた研究内容の要諦を十二分に満たしてくれるものであることが分かった。そこで私は、本書を日本語に翻訳して、広く日本の読者に提供することにした。翻訳が終わった段階で、ギリシア・ローマ史の専門家に読んでもらった。その際古代ギリシア・ローマ時代の人名、地名、官職名、建築物の名称その他もろもろの表記法ならびに西洋古代史の知識一般について、ご教示いただいた。

こうして刊行されたのが、『ギリシア・ローマ時代の書物』(朝文社、2007年10月)であった。このブログでは、本書に基づいて、<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>一般について、わかりやすく紹介していくことにしたい。

ギリシア人はフェニキア人から文字を借用

今日の日本では、時代も空間も遠く離れた古代ギリシアに発するもろもろの事柄が、驚くほど豊富に浸透している。それはなぜであろうか? 日本は長い事、中国文化圏の辺境にあって、その影響を強く受けてきた。そして実に長い間、中国以西の事柄については、シルクロードを通じてもたらされた正倉院御物などの文物や、遣隋使、遣唐使などによる事物や知識の受け入れによって知ってきたに過ぎない。

遠く離れた西洋の事情について日本人が本格的に知るようになったのは、端的に言って、今から170年ほど前の幕末維新の文明開化の時代からのことであった。
その後、その西洋文明の基盤を作ってきたギリシア・ローマ文明についても、少しずつ日本に伝わるようになってきた。現在、日本でも、ギリシア神話やローマ神話に関する一般的な書物、ギリシア悲劇の上演、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどのギリシアの哲学者たち、古代ギリシアのオリンピアで発祥したオリンピック・ゲーム、ギリシア文字のアルファベット(アルファ、ベータ、ガンマ・・・)、アテネのパルテノン神殿、ローマのコロッセウムや各地に残る水道橋などなど、様々なことが一般の日本人の間に知られている。

いっぽう<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>となると、日本ではほとんど知られていないと言えよう。いうまでもなく、書籍は文字によって書かれたものであるが、例えば古代ギリシア時代に、書かれていた文字はいったいどのようなものであったのだろうか?

その前に古代のギリシア人とはいったいどのような人々であったのか、ざっと紹介しておくことにする。この民族はインド・ヨーロッパ系で、紀元前20世紀以降、バルカン半島北部からギリシアに南下、定着した。方言により、東方方言群(イオニア・アイオリス人)と西方方言群(ドーリア人)に分かれる。このうち、イオニア人は半島東部や小アジア西岸に定着したが、アテネが代表である。

これらのギリシア人は、前8世紀ごろ、有力者(貴族)が中心となって軍事的・経済的要地へ移住し、周辺の村々を統合した。それらがポリスと呼ばれる都市国家であったが、城壁で囲まれた中心市と、周囲の田園地帯とからなっていた。それぞれ政治的に独立しており、1000以上のポリスが存在していたという。

いっぽうギリシア人たちは、航海が得意で、これらのポリスを離れて、エーゲ海沿岸やさらに地中海沿岸、イタリア半島沿岸などに、植民市を作っていた。これらのギリシア人たちはギリシア語の方言を話していたが、はじめは、文字を持っていなかった。そのため現在のレバノン海岸に多くの都市国家を建設し、地中海貿易を独占していたフェニキア人の文字を、ギリシア人は前8世紀に借用した。その場所は、フェニキア沿岸のギリシア(イオニア人)の在外公館だったといわれている。

フェニキア・アルファベットの借用と改良

フェニキア人は、セム系の民族であったが、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を基に自分たちの文字を作った。それは22の子音からなる表音文字であった。ヘブライ文字やアラビア文字と共通しているといわれる。いっぽうギリシア人は、インド・ヨーロッパ系で、言語系統は異なっていた。そのためフェニキア文字を借用する際に、根本的な修正を加えた。ごく大ざっぱにいって、ギリシア語には表れない子音価を持つ5つのフェニキア文字を、母音aeiou,を表す文字としたのだ。たとえて言うと、古代の日本で、中国の文字(漢字)の発音だけを借用して、万葉仮名を作ったのと事情は似ているといえよう。

ところでドイツ人の文献学者キルヒホッフは、初期ギリシアのアルファベットを東部ギリシアと西部ギリシアに色分けした地図を作製した。それによってそれぞれのアルファベットの普及図を、東部は青色、西部は赤色という具合に色分けしたのだ。前750年ごろから導入されたアルファベットは、前5世紀初めには、全ギリシア語圏に定着したという。ただ東部と西部という具合に大きく区分けされただけではなく、個々の都市国家や地方で、アルファベットの無数のヴァリエーションも生まれていた。

地域文字の統合へ

ギリシア・アルファベットはその後、「地域文字」を統合する方向に向かった。それはすでに廃れてしまった記号を廃棄することによっても示された。これに関連して、極めて重要で、しかも後世に影響するところの大きかった出来事が、前403年に、アテナイの首席執政官エウクレイデスの時代に起こった。それは住民投票によって、ミレトス市のアルファベットを借用するとの決定が行われたことだった。その改革によってアテナイに、新たに4つの文字が導入されたのであった。そして時期の差はあれ、すべてのギリシアのポリスや地方で、このいわゆるエウクレイデスのアルファベットを事実上、習得するようになったのである。その結果ギリシア語のアルファベットは、最終的に24個になったのであった。

ところでギリシア文字で書かれた最も古い証拠物件の一つが、イタリア半島のナポリ近くに浮かぶイスキア島にあったイオニア人の植民市ピテクサイ出土の陶器である。これは前8世紀後半のものである。もう一つの証拠物件は、エーゲ海南部に浮かぶかなり大きなロードス島から持ち込まれた飲用容器である。そこにはある書くことの達者な人物が、宴会の場で上機嫌に一つの格言を書き込んでいるのだ。「ネストルの杯は飲むによし、されどこの盃により飲みし者は、直ちに美しき冠を付けしアフロディテの求めを受けることになるべし。」この盃が回し飲みされたところでは、人々がただホメロスを知っていたというだけではなくて、このような詩を作ることさえできたのだ。

ギリシア文字からエトルリア文字ができた

イタリア半島の中部トスカーナ地方を中心に、系統不明の民族エトルリア人が定住していた。その最盛期は紀元前7~前6世紀で、王政の12の都市国家が都市連合を形成していた。一部のエトルリア人は前7世紀末にローマを支配したが、前5世紀以降衰えて、前3世紀にローマに征服された。とはいえこのエトルリア人は、建築のアーチ・水道橋をはじめ、衣服、官制、習慣などで、ローマに大きな影響を与えたのであった。

さてこのエトルリア人は、イタリア半島中部にあったギリシア人の植民都市に居住していたイオニア人の使っていたギリシア文字を借用したのであった。それはギリシア人がフェニキア文字を借用してから数十年もたたない時期であった。エトルリア文字で書かれたもっとも古い銘文は、前700年ごろの陶土製の容器に刻まれたものであるが、それらは南エトルリアの中心地で発掘されたものであった。

当時エトルリア人は西南アジア及びギリシア世界と活発な商業活動を展開していたが、その過程で大規模な都市施設が作られ、また豊かさの上に貴族制度が生まれていた。貴族たちは物質的な財とともに、意識的にオリエント的、ギリシア的な生活様式も取り入れていた。この生活様式には、文字の知識とその習得も含まれていたわけである。

中部トスカーナ地方で発掘された「王侯貴族」の墓(前670年)に入れられていた副葬品の中から、象牙製の書き板が発見された。この書き板の平面には蝋が塗られ、その上に子供が尖筆で書いていたのだが、上部の縁には手本として26のアルファベット文字が書き込まれているのだ。これは児童用の文字の練習板だったのだ。

副葬品の中から発見された象牙製の書き板。上部の縁に手本用のアルファベットが書かれている。

とはいえエトルリア人はそうした模範的な26のアルファベットの文字すべてを使っていたわけではないようだ。ギリシア人がフェニキア人のアルファベットを借用したときにしたように、エトルリア人も借用したギリシアのアルファベットを、彼らの言語の音価に適合させねばならなかったからだ。そしてそうした作業を行ったうえで、エトルリアのアルファベット文字を作り上げたわけである。その際彼らは、横書きで右から左へと書いていたことが注目される。ギリシア人は横書きで、左から右へと書いていたのだが。

ローマ人(ラテン人)もギリシア人からアルファベットを借用した

この時期イタリア半島には、エトルリア人と並んで、インド・ヨーロッパ系のイタリア人が、北から南下して居住していた。その第1波(ウンブリア系)は、前16世紀ごろに、半島東南部の山岳地帯に、そして第2波(ラテン系)は前11世紀末ごろに半島中西部の丘陵地帯に定着した。
この第2波のイタリア人はラティウム地方に定住したため、ラテン人と呼ばれている。そしてラテン人が建設した都市国家の一つローマが、のちに大帝国に発展したのであった。このラテン人が使っていたラテン語が、その広大な領域で用いられるようになり、そこから後にロマンス語と呼ばれる諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語など)が生まれたわけである。

さてラテン人が都市ローマを含めて、その隣接する地域の大きな中心部において、エトルリア人とほぼ同じ時期にアルファベットを借用したことは、考古学的に立証できる。その際エトルリア人が仲介の役割を果たしたことは、大いにありうることである。ラテン人の言語においても、借用したアルファベットの中にいくつか不必要な文字が混じっていた。そのためそれらを削除して、21文字から構成されることになった。またラテン文字を書く方向は、横書きではあったが、初期にあっては一様ではなかった。しかし前6世紀の終わりごろから、左から右へ書くのが増えてきて、最終的にそれに定着した。

いっぽうギリシア人はその文字に対して、極めて響きの良い名称を与えていた。つまりアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ・・・といった風にである。同様にラテン人も簡明な音で文字を表した。つまり母音は(a, e, i, o, u) とし、子音に対しては母音を一つ加えて、発音しやすいようにした。(be, ce, de, ef, ha, kaなど)である。例外は後にアルファベットに加えられた、「純粋なローマ文字」ではないyとzである。それらに対してはギリシア語の名称ypsilonとzetが与えられた。

文字の活用(書くことと読むこと)

フェニキア文字がそれ相応の改良を加えられて、前8世紀にギリシア人によって借用されたとき、この新しい成果はしばらくの間、住民のごく限られた層の間で、なじまれていたにすぎない。そのおよそ百年後にアルファベットの借用が行われたエトルリア及び隣接したラティウムでは、発掘状況ならびに最古の碑文を記した証拠物件の種類から見て、文字の「所有」が初めは富裕な上層貴族に限られていたことは明らかである。アッテイカの最古の碑文であるアテネ出土の水差しに刻まれた六歩格の詩は、踊りや宴会との関連から見て、上流層の生活様式を示すものである。

しかしギリシアでは前7世紀以降になると、文字は公衆の間でも読まれるようになった。公衆向けに書かれた最古の碑文は、前7世紀のものである。最初それは法律文書や墓碑銘の類いであったが、その数はやがて数千に及んだはずである。そしてそれらはかなりの数の人々によって読まれ、理解されたものと思われる。前7世紀には既に、壺に書かれた碑文の中に、絵画に添えて画家の署名もみられるのだ。アテネのアゴラ(広場)から発掘されたものの中には、落書きが書かれた陶器の破片がたくさんあるが、その中にはごく普段の日常生活で書かれた手紙なども含まれている。

人々はいったいどのようにして書くことを覚えたのであろうか? その際、書くことに対して、人から人へと何らかの教授があったことが推測されるのである。とはいえ前7世紀や前6世紀のギリシアで、読み書きを教える学校が存在したかどうか、我々は知るところではない。しかし個人的な家庭教師や子供の親による授業があったことは、考えられる。ただ前5世紀になると、初等学校の存在を示す確かな証拠があるのだ。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは次のように書いているのだ。「ラデ島近くの海戦を前にしたイオニア・ギリシア人の蜂起(前494年)の最中、キオス島にある学校の建物の屋根が崩落して、そこで文字を習っていた子供たち119人が死亡した」 ヘロドトスにとっては、学校の存在自体はもはや当たり前のことになっていて、そこで起きた大事故について伝えているのだ。

ドゥリスの壺絵に描かれた授業風景。ベルリン国立博物館所蔵

また前5世紀初めのものとして、学校生活をテーマにした現存する最古の壺絵が存在する。この種のものとしてもっとも有名なものが、ベルリンにあるドゥリスの壺絵である。そこには3つの授業科目の様子が描かれている。それはまずグランマタ(読み書きの授業)、ついで散文や詩の講義と暗唱の時間、そしてムシケ(音楽と踊り)とギュムナスティケ(体育)の時間である。上の壺絵を見ると、椅子の上にひげを生やした教師が竪琴をもって、座っている。その前には、同じ楽器の弦をつま弾いている少年が座っている。もう一方の絵柄は、ひげを生やした男が背もたれのついた椅子に座って、巻物を開いている様子を描いている。その巻物の中に、壺絵の作者は詩句を書き込んでいる(壺絵を見る人が読めるように横の方向に)。下の壺絵を見ると、一人の少年に対して二重の笛を吹いて聞かせている若い男の様子を描いている。その横の絵柄は、椅子に座っている男から暗唱の試問を受けている少年を描いたものだ。その横に椅子に座って、後ろを振り返っている男の姿がある。

アテナイの民主主義と文字の習得

上に述べたドゥリスの壺絵は、初期アテナイの民主主義において、文字の習得とその使用が、市民にとって重要な事柄になってきた、という事を示している。同時代に書かれた文学もそのことを反映しているのだ。たとえば有名な悲劇詩人アイスキュロス(前525~前456)の場合、正義の女神ディケが主神ゼウスの書き板の上に人間の犯罪行為を書き記す場面がある。また別の悲劇詩人ソフォクレス(前496~406)が書いた作品の中では、アカイア人の王がトロイアへの進軍を前に、皆がその誓いに従っているかどうか、調べさせているのだ。さらに第三の悲劇詩人エウリピデス(前485~前406)では、その作品『テセウス』の舞台の上に一人の無教養な羊飼いが登場し、ある人物の名前のつづりを書く場面が出てくる。無教養とはいえ、その羊飼いはギリシア文字のアルファベットは書けるのだ。

こうした偉大な悲劇の場合より、むしろ喜劇の中でしばしば読み書きの習得が事実上当たり前のことになっていた事が示されている。例えばアテナイ最大の喜劇作家アリストファネス(前450~前385)の作品『騎士』の中では、神のお告げを読むことができる、小アジアのパフラゴニア出身のソーセージ売りと一人の男が登場している。また彼の別の作品『鳥』の中では、文字を読むことのできる重装備の装甲歩兵たちに対して、出征のあとで家に帰るときに掲示板の告知に注意するようにとの指示がなされている。同じ作品の別の個所では、占い師クレスモロゴスが巻物状の本(ビブロス)をもって舞台に登場し、それを読んでいる。

前5世紀のアテナイでの書籍販売人

同様にして喜劇の中で、前5世紀のアテナイでは書籍販売人が当たり前の職業として現れていることを確認できるのだ。例えば喜劇作家ニコフォンはその作品『手仕事で生活する人々』の中で、書籍販売人を、市場に販売スタンドを持っているというので、八百屋、魚屋、炭販売人、菓子屋などと一緒に扱っているのだ。また先に述べたアリストファネスは『鳥』の中で、朝早く書籍販売人の陳列品を眺めている人々の群れをあてこすっている。

いっぽう同じアリストファネスは、皆の前で朗読するのではなくて、一人で静かに本を読んでいる人の存在を立証する最も早い時期の文学を提供しているのだ。そこでは、最近船の上でエウリピデスの『アンドロメダ』を一人で読んでいたのは、人間ではなくてディオニュソス神であると、ユーモアたっぷりに書かれている(『蛙』)。この箇所は、一義的に舞台での上演用に書かれた戯曲作品を、人々が黙って読んでもいたことを、示している。

オネシモスの壺絵。中央の人が巻物を広げて読んでる。

「一人で読書する習慣」は、すでに前5世紀の80年代からアッティカの壺絵作者によって、画題としてとりあげられている。その際しばしば、人々の中で朗読したり、楽器の伴奏とともに本を読んでいる場面も描かれている。もし描かれた対象が若い女とか娘の場合は、詩歌・芸術をつかさどるムーサイの神が選ばれている。またそれはしばしばアテナイの「良家の子女」だったりするが、いずれにしてもムシケやグラマティケにふさわしいのは、男ではなくて女性であると考えられていたようだ。

陶片追放と文字

ペイシストラトスの僭主政治が力を失った後、アテナイの初期民主主義はいわゆる陶片追放という制度を導入した(前487年)。これは国家の中で一人の人間があまりに強くなることを防ぐものであった。この制度の実施が決められた時、すべての市民がアゴラ(広場)に集まった。そして権力乱用の疑いがもたれた政治家の名前を陶片に書いて、投票した。投票総数が6000票以上あったときは、最多得票の政治家は10年間、アテナイから追放されたのであった。この陶片追放の最初の犠牲者は、ペイシストラトスの後継者ヒッパルコスであった。

陶片追放の際に用いられた陶片は一万個以上発見されているが、それによるといくつかの名前が、ある同一人物によって書かれていることが明らかにされている。それは政治闘争の中で有力な世論形成者がやったことかもしれないし、あるいは文字を書ける人物が書けない人の代わりをしたのかもしれない。また文字を書けない田舎者が、アリステイデス本人だとは知らずに、近くにいた本人にアリステイデスの名前を書くように頼んだ、という笑い話もあるのだ。そうした文盲がいたにしても、アッティカ市民の大多数が、名前を読んだり書いたりできなかったとしたら、陶片追放の制度自体が成り立たなかったであろう。

アテナイ及びギリシア世界の他の中心地域においても、前5世紀初頭以降には、大部分の人々が読み書きできたのである。ただ前3世紀初頭以降、ギリシア人によって支配されるようになったエジプト地域では文盲の数が相対的に多かったといわれている。そこに住んでいたエジプトの住民は自国の言葉を話し、読み書きできていても、支配者だったギリシア人やローマ人から文盲とみなされていたようなのである。

児童の文字習得

ギリシアでは読み書き習得のために、子供が6歳か7歳になったとき授業が始まった。まずは文字の習得にあたって、児童たちはアルファベットを初めからも終わりからも言える必要があった。普通の家庭の子供たちには、木片や象牙に文字を刻んだものを与えて、遊びながらアルファベットを覚えさせた。それから子供たちは文字を書くことを学ばねばならなかった。ごくまれにパピルスが書くための材料として用いられたが、たいていの場合は、蝋を引いた木版の上に尖筆で文字を書いていた。ただアテナイでは、児童が使っていた石盤が発見されているが、一般的なものではなかったようだ。

最初の段階では、初等学校の教師は学童の手を取って教えた。まず教師が蝋を引いていない木版のうえに文字を書き、学童は自分の尖筆でもってその跡をなぞりながら、正しい形を覚えるまで書いていったのだ。その後これらの文字は、いろいろな綴りに結ばれていった。そうした後になってようやく、やさしいものから難しいものへと、言葉や名前を全体として書くことができたのだ。こうしたやり方については、数多く現存している学童の練習帳や宿題帳の類いによってみることができるばかりではなくて、古代の作家たちのコメントによっても分かるのである。

次の段階では教師が個々の文章(たいていは道徳的な文章)を韻文形式で書き記し、子供たちはそれを真似したのである。プラトンがプロタゴラスに口頭で伝えた比喩から我々は、教師が書き板の上に二本の線を引き、その線の間に学童が文字を書かねばならないことを知っているのだ。そのような書き板の上部に教師は正確にある格言を記したが、学童はその下に二度同じ格言を書き写している。下の写真は後2世紀のものだが、これを見れば初等教育のやり方というものは、何世紀たっても基本的には変わらないものであることが分かる。

学校での文字練習用の書き板

読むことの習得

読むことの習得は、書くことの習得と切り離すことはできないものである。つまり互いに不即不離の関係にあるのだ。したがって読むことの練習も、同じ方法で行われたのである。個々の文字の次には個々のつづりへ、そして個々の単語へと進んだ。そしてその単語も発音の易しいものから難しいものへと。また名詞や動詞の語形変化の練習も済まさねばならなかった。そして最後に書き取りや読むためや暗唱するために、かなりの分量のテキストが用意された。

それは短い物語であったり、有名な詩人や散文作家の作品からの抜粋であったりした。まずホメロスがきて、それから悲劇詩人のエウリピデスや喜劇作家のメナンドロス(前342~前292)、アッティカの雄弁家デモステネス、ヒュベレイデス、イソクラテスとなった。

前4世紀後半のアレクサンドロス大王の大遠征の後、エジプトや西南アジア一帯が政治的、文化的にギリシアに組み込まれた。ヘレニズム時代と呼ばれるその時代になると、その地域の都市にはいたる所にギュムナシオンと呼ばれる教育機関が生まれた。これは主として若者の身体教育を担う所であったのだが、上級学校の人文科学的科目の授業の場所としても用いられた。ここではグラマティコス(文法学者)が教えていた。授業の主たる教材としては、偉大な詩人や散文作家の作品がそのまま用いられた。生徒たちは今や積極的にこれらの作品に取り組み、考えたり、論じあったりしなければならなかった。さらに一連の課題が与えられたが、それについては我々はオリジナルな形で残っているものによって直接知ることができるのだ。

今や書くための材料としてはパピルスが用いられたのだが、真新しいものではなくて、すでに書かれたものの裏側を使うのである。ギュムナシオンの生徒に対する課題の一つに、本文を解釈する仕事があった。例えばホメロスの章句のわきの欄外に、詩人によって用いられた言葉の解釈を書き加えねばならないのだ。さらにある文学作品の一節を自分の言葉で言い直すという課題もあった。あるいは与えられたテーマに即して作文をするという作業もあった。それから音律に従った正しい朗誦を習うために、一語一語綴りや節に従ってアクセントをつけて唱える練習もあった。

ローマにおける読み書きの習得

前4世紀初頭、中部イタリアのファレーリの町に小学校の教師がいて、数多くの家庭の子供たちにギリシア風の授業を行なっていたことが伝えられている。またラティウムの都市トゥスクルムにも、この時代すでに学校があったという。そして前234年にローマで最初に報酬をとった学校が、ある解放奴隷によって開かれたことが、プルタルコスによって伝えられている。さらに前310年ごろ、エトルリア文学を学ばせるために、子息たちをカエレに送ったことも知られている。当時エトルリアの教育制度は相当高かったと言われる。

いっぽうエトルリアの美術には、モノを書く神々が表されているが、それはたいて死者の名前を書いた巻子本あるい二枚折の書き板を手に持った死の悪霊なのである。発掘されたエトルリアの石棺や骨壺はおびただしい数に上るが、それらの石棺の上には、書き板や巻子本を手にした人物の像が乗せられている。そしてそこにはしばしば死者の名前や年齢が記されているのだ。タルクィニアのラリス・プレスナ出土の巻子本には死者の簡単な経歴も記されている。それは文字や文学にかかわった一人の人物だったことが分かる。

出土した石棺の蓋の上に横たわる人物。ひろげた巻子本を手にしている

ローマ人がヘレニズム時代にギリシア世界の一部をその支配下におさめていったとき、彼ら、とりわけその上層の人々は、物質的な財のほかに、被支配者の文学、学問そして教育面での文化財などを、自分たちのものにしていったわけである。その一環としてギリシアの作品をラテン語に翻訳する作業もなされた。最初の翻訳者はリウィウス・アンドロニクスという人物であったが、彼は前3世紀の後半に『オデュッセイア』をラテン語に翻訳した。また前1世紀のローマの哲学者キケロが言っているように、ローマの教養人にとって二つの言語を話すことは、ますます自明のことになっていったのだ。

さらに都市ローマや他の中心的な都会では、紀元前1世紀の共和制末期から帝政時代にかけて、一般に書くことや読むことが多くの人々にとって当然の能力になっていったわけである。このことは壁に書かれたグラフィット(落書きの類い)や壺などの容器に書かれた銘文、あるいは公的・私的を問わず無数に存在した銘文などによって証明されるのだ。壁に書かれたグラフィットの多くには詩の引用が見られたりするが、こうしたものは必ずしも文学にかかわっていたわけではなかった。中には計算が上手にできることや、碑文を読めることを自慢しているものも少なくないからだ。さらに詩文を軽蔑した成り上がり者たちもいたのだ。

ローマにおける上級学校教育

ローマにおける上級学校教育の開始は、前3世紀から前2世紀への転換期のころのことである。最初のラテン語の教師は、先に紹介したリウィウス・アンドロニクスであった。彼はギリシアの伝説を材料にして、数多くの戯曲を作ったのだが、とりわけホメロスの『オデュッセイア』を大変正確にラテン語に翻訳した人物である。次いで前2世紀の前半には南イタリア出身のエンニウスが教師として活躍する傍ら、数多くの戯曲や風刺作品のほかに、ラテン語による最初の国民叙事詩を書いている。それはローマの歴史に題材をとった『年代記』であった。

   レリーフに描かれたアウグストゥス帝時代のラテン語授業の風景。

ラテン語文法の授業がしっかりした形をとるようになったのは、ようやく前1世紀終わりのアウグストゥス帝の時代のことであった。そのやり方はギリシアの上級学校を模倣したものであったが、唯一の違いはラテン語の詩文が使われたことであた。ローマ第一の詩人ウェルギリウスを初めとしてホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、スタティウスなどである。ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』は、その死後公刊され、授業にも直ちに取り入れられた。そして長らくこの作品は、授業での教材として第一位を占め続けた。もっとも重要な散文作家としては、政治家でもあったキケロ及び歴史家のサルティウスを挙げることができる。

ローマの教養層の間では、少なくとも前1世紀前半のキケロの時代以降は、二言語を用いるのが普通だったので、ラテン語の授業と並んでギリシア語の授業も重要であった。首都ローマ並びにローマ帝国のラテン語圏の都市では、ギリシア語学校の教師はほとんどがギリシア出身者、それもしばしば解放奴隷の身分のものであった。また上流階級の間では、文学的教養を身に着けた解放奴隷を、秘書や朗読者あるいは私設文庫の司書として雇う習慣があった。

雄弁術のための修辞学学校

前5世紀以降、古代ギリシア・ローマ時代を通じて、雄弁術というものが重要な意味を持っていた。明晰にそして説得的に、さらに人々の心をかき立てるように演説できることは、当時の政治家や弁護士や将軍たちにとって、必須の前提であった。
こうした伝統はその後ヨーロッパにも受け継がれて、現在においても欧米世界では、演説の重要性は公的世界で活躍するリーダーたちにとって、自明の理になっているわけである。この点は、以心伝心や忖度など、言葉によらない意思疎通がまかり通っている日本とは大きく事情を異にしているようだ。

さてギリシア・ローマにおいて、公の世界で指導的な役割を果たそうという者には、修辞学の勉強が不可欠であった。そのためアリストテレスやキケロなどの著名な人物は、雄弁術について数多くの手引書を書いている。また後1世紀に活躍した雄弁家のクインティリアヌスも、『弁論術教程』という著作をものしている。我々はそこから学校の低学年の授業における有用な助言をくみ取ることができる。著者によれば、雄弁家になるためには、すでに子供の時からの教育が大事だというのだ。

雄弁術の習得は、主として散文作品とりわけ著名な雄弁家が残した作品に基づいていた。とりわけゴルギアス、アンティフォン、イソクラテスといった雄弁家の著作が、授業で取り上げられていた。その最も重要な路線を定めたのは、バロック的な言葉の誇張を嫌った前4世紀アッティカの偉大な雄弁家たちであった。そのためデモステネスをはじめとするアッテイカの雄弁家たちのテキストが、パピルスなどに数多く残っているのも、何ら不思議ではない。そうしたパピルスの中には、学生が書き写したものも少なからずあるのだ。

声を出してする読書

今日われわれは、書物や新聞やその他のテキストを、通常声に出して読むことはしない。ところがこの読書の習慣は、古代ギリシア・ローマにあっては、逆転していたのだ。つまり少なくとも文学ないし詩に関するテキストは、一人でいるときも、声に出して読んでいたのだ。そしてこの習慣を破った場合には、奇妙なことをする人だと思われたようだ。古代にあっては、文学は読むときにも、音の響きとともに受容されていたわけである。そのため芸術的な内容の散文作品の場合にも、耳に心地よいように工夫がなされたのだ。文章はリズムに乗って流れるように書き、母音が連続することは避けていた。また富裕な人々の間では、詩や散文のテキストを、手慣れた家内奴隷に読ませることが、普通に行われていたという。

とはいえ古代の人々が全く黙読しなかった、とまでは主張することはできない。とりわけ記録文書や手紙などの場合は、黙読されていたことを証言する資料も若干ながら存在する。そしてまた、少なくともローマ時代には存在していた公共図書館の読書室において、すべての人が声に出して読書していた、などと想像することは難しい。他方、ヘレニズム時代の図書館には、利用者のために倉庫のような蔵書保管棚、広々とした柱廊広間あるいは遊歩廊が備わっていたので、これなら「声に出してする読書」に向いていたと言える。

読書する時の姿勢

次に人が読書する時の姿勢であるが、前5世紀初めのアッティカの壺絵に、読書する人間の姿が、初めて登場するのだ。そしてこのテーマは古代末期から、さらに後の時代にも引き続き好まれた。時として巻物状の本(巻子本)を手にして立っている人の姿も描かれている。とはいえ、もっと楽な姿勢で読書するのが普通だったようだ。つまり描かれたものを見ても、たいていは椅子に座って、両手でひろげて巻子本を読んでいるのだ。

巻子本を読んでいる人を描いた壺絵

いっぽう巻子本を読むときの動作と、そのさまざまな段階について調べた本が公刊されている。それによると、まず読み始めるとき、読む人の左手は巻物の初めの部分を開いている。いっぽうその右手はまだ沢山残っている膨らんだ部分を握っている。次いで巻物の中間部を読む姿が示され、最後には巻物の膨らんだ部分は左手が握っているのだ。また読書を中断したときの様子も描かれている。その時巻物は片方の手でつかまれ、その中間部は、巻き取られた最初の部分とまだ開かれていない終わりの部分の間で、たるんだ状態になっているのだ。次の図版をご覧になれば、このことはよく理解できよう。

         巻子本を読んでいる途中の姿を描いた墓石立像

この図版には、墓の中央に立ってその左手に巻子本を握っている一人の男の像がみられる。この立像の周辺に書かれた碑銘によって、帝政ローマ時代の後94年に、時の皇帝ドミティアヌスによって催された詩のコンクールで、立像に描かれた少年が詩を朗読して、優勝したことが分かる。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その09 後期作品の特徴

研究者による高い評価

カール・マイは「オリエント大旅行」のさなか、その内面にそれまで経験したことのないほどの大きな衝撃を受けたわけである。想像力の限りを尽くして営々と築きあげてきた自らの虚構の世界と、自分の目で見た現実の世界との間に、この時亀裂が生じたからである。そしてその頃外部から、前期作品の文学的な質を問う声も出てきたことも加わって、マイはその作風を大きく変えることになった。

こうして生まれた後期の作品は数こそ少ないのだが、その文学的な質は研究者の間で高く評価されているのだ。後期の作品には、「銀獅子の帝国 3・4」、「そして地上に平和を」、戯曲「バベルと聖書」、「アルディスタンとジニスタン 1・2」、「ヴィネトゥー 4」そして自叙伝「わが生涯と苦闘」などがある。

『そして地上に平和を』

これらの作品は、自叙伝は別として、現実の地理的背景を持たない象徴的な内容の物語になっている。とはいえ前期作品の主なジャンルであった世界冒険物語の基本的な性格は、依然として受け継がれている。つまり見知らぬ場所の風景や環境の描写を背景にして旅の冒険が展開されているわけである。しかし地球上のある地域から出発しながら、その舞台はいつの間にか作者が頭の中で作り出した架空の地域に変貌したり、あるいは初めから遠い星の世界で物語が展開されたりしている場合もある。そのため物語の世界が、神話の国のような幻想性と神秘的な雰囲気を漂わせているのだ。

象徴的な作品「アルディスタンとジニスタン 1・2」

ここでは1909年に刊行された後期を代表する最大の作品「アルディスタンとジニスタン1・2」の内容を詳しく紹介することを通じて、後期作品の特徴を明らかにしていきたい。この作品はそれまで読者の間で人気の高かった世界冒険物語に属する作品とは違って、文学的により高度な精神的レベルへと自分の創造力を転化させようとしたものである。そのため作家のアルノ・シュミットは、この作品及び「銀獅子の帝国3・4」を、<ドイツの高級文学>を豊かにするものとして大変高く評価しているのだ。同時に彼はこれらの作品を通じて、マイを「ドイツ最後の神秘主義者」と呼んでいる。またジェームズ・ジョイス作品のドイツ語訳者であり、「カール・マイ学会」の主要メンバーでもあるハンス・ヴォルシュレーガーも、後期作品において前面に出ている哲学的思考に注目する一方、それらは美的感覚に満ちた作品だと称賛しているのだ。

さてこの作品の舞台はこの地球の上ではなく、伝説の星「シタラ」に設定されている。そしてその星の上に、アルディスタン、メルディスタンそしてジニスタンという地域を作り出し、そこに作家の頭脳から自由自在に紡ぎだされた地理や風土や人々を登場させている。とはいえ主要な人物としては、前期作品の世界冒険物語に再三再四登場させてきた、読者におなじみの人物たちが、従来とは全く違った姿で現れているのだ。つまり「オリエント・シリーズ」の主役たち、カラ・ベン・ネムジ、ハジ・ハレフ・オマール、マラー・ドゥリメーそしてシャカラの四人である。

物語の素材をシュールレアリズム化させるにあたってマイは、偉大なる先人作家たちの作品から強い刺激を受けたものと思われる。すなわちダンテの「神曲」、トーマス・モアの「ユートピア」、バンヤンの寓意物語「天路歴程」、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」そしてニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などである。

物語のあらすじ

『アルディスタンとジニスタン』第一巻の表紙

宇宙船「誕生号」に乗って星の国「シタラ」に到着したカラ・ベン・ネムジとその従者ハレフの二人は、この「星の花の国」の年老いた伝説的な女帝マラー・ドゥリメーを訪れた。そして高台の上にある彼女の宮殿の客人となる。女帝の支配領域は、広々とした低湿地と荒野の国アルディスタン及び明るい高地にある、豊饒と美と清潔の国ジニスタンの二つである。アルディスタンは暴力人間の国であり、ジニスタンは高貴な人々の住む国である。その一方の国から他方の国へ行くには、その中間に横たわっているメルディスタンつまりほとんど道らしい道がなく、岩がごろごろしている地峡地帯を通過しなけれならない。ちなみにこれらの国の「スタン」という語尾は、中東イスラム圏のアフガニスタンとかパキスタンといった国々の名称をほうふつとさせるものがある。

それはともかくこの「メルディスタン」の中心に「クルブ」という心の森があり、その森の中に人の魂を鍛える「魂の鍛練場」がある。そこへ入った者はさまざまな拷問によって試練を受ける。この試練に耐えられなかった者は、深い奈落の底にある沼沢地へと突き落とされる。いっぽう耐え忍んだ者は、あらゆる悪の要素や低劣な要素を清められて、高貴で威厳のある存在として人間性の国であるジニスタンへ送り込まれる。

さて女帝マラー・ドゥリメーは、アルディスタンとジニスタンの間に戦争が勃発したとの知らせを受ける。すると彼女は和平への特使として、カラ・ベン・ネムジとハジ・ハレフを、アルディスタンの支配者のところへ派遣する。この専制君主はアラブの首長に倣ってエミールを称している。この人物はその国民を苦しめ、虐待し、人権などは全く認めない。そして人々が逃げ出さないように、軍隊によって国境を厳しく監視させている。カラ・ベン・ネムジの使命は、この暴君の良心に訴えて、講和を結ばせ、ジニスタンで行われているような社会的公正と善良さに基づいた統治へと導くことであった。

主人公とハレフはその旅の途上、じめしめとした低湿地に住む巨人族ウスールに出会うが、策略を用いて巨人たちを退治して、手なずけた。ついで隣接した砂漠の国チョバンを通って、アルディスタンの暴君が邸宅を構えているアルドの町へ向かった。そしてその暴君と会見した。ところがちょうどその滞在中に、その地で謀反が起こった。「パンター(豹)」という名前の王子が、日頃圧政に苦しんでいたイスラム教徒の民衆の力を利用して、クーデターを起こしたのである。その結果、それまで忠実な家来だと思っていたパンターによって暴君は誘拐され、荒野の真っただ中にある「死者の町」に閉じ込められてしまう。そしてそのあおりを受けて、主人公とハレフもその廃墟の要塞都市に幽閉されることになった。

そこに長い間囚われの身となり、苦痛のうちに過ごすことになったアルディスタンの暴君は、やがて自分が犯してきた誤りに気が付いて、悔い改める気持ちになっていった。しかし新しい支配者となったパンターはかつての主人に対して、なんら同情の念を示すことなく、厳しい監視の目を光らせていた。そしてジニスタン軍との戦いに備えて、軍備の増強を図っていた。

いっぽう奇妙なことに、かつての暴君も主人公主従も、この「死者の町」の地底の闇の中で、囚われの身ながら、それぞれ一定の行動の自由を得ていた。そのため両者は様々な対話を行い、暴君も過去の数々の悪行を深く反省していく。そして主人公及び暴君がそれぞれ頭の中で考えたことが、あるいは独白の形であるいは対話の形で、延々と展開されてもいる。とはいえ優れた物語作家としてのカール・マイは、この作品においてもやはり複雑極まりないストーリー展開を繰り広げている。

第一巻、第二巻あわせて1200ページを超す長編小説でもあり、この場でそれらについて詳しく紹介していく余裕はないので、その結末へと急ぐことにしよう。やがてカラ・ベン・ネムジはその強力な精神的な影響力を発揮して、暴君を新しい人間へと生まれ変わらせるのに成功した。つまりクルプの森の中にある「魂の鍛練場」で、暴君は鍛えられて再生したのである。そして巨人族のウスールやチョバンやキリスト教徒民衆の支援を受けたうえ、さらにジニスタンの支配者から送られてきた援軍の力を借りて、ついにパンターを撲滅して、再びそこの支配者に返り咲いたのであった。こうしてかつての暴力支配者はいまや威厳と公正さを身に着けた「平和の君主」となり、アルディスタンの幸せのために尽力することになった。

この結末をもって二巻にわたる長編のユートピア小説は終わりを迎えた。しかしその長さにかかわらず、この物語は内容的には未完の書になっている。その結びの言葉は次のようになっている。

「我々はさらに歩みを続け、深く山々に分け入っていく。そしてその道はジニスタ
ンへとつながっている。我々はさらに高い目標に向かって、歩みを続けていくの
である。」

『アルディスタンとジニスタン』第二巻の表紙

物語の中に秘められた寓意

ところでマイは作品を文学的に高度で、精神的なものへと高めようとして、冒険物語に、より深い意味と比喩性を与えようとした。そして意識的に新しいスタイル、つまり登場人物の行動や物語の舞台あるいは小道具の寓意化と暗号化を試みた。かつて主人公を自分自身と同一視して痛烈な批判を受けたため、作者はこの作品では主人公である「私」を、「人類の魂」とか「世界平和の理念」といったものへの寓意化に機能転化したのである。

『アルディスタンとジニスタン』は極めて複雑な内部構造をとっているため、そこに描写された外的行動や個々の登場人物あるいは様々に起こる出来事の中から、作者が用意した寓意を読み取るのは、一般の読者にとって容易ではない。またそうした寓意のために、ストーリーの持つ首尾一貫性や実際の行動が示す緊張感が損なわれているというマイナス面もある。そのため前期の世界冒険物語を夢中になって読んできた読者の多くが、後期の作品から離れていったのであった。

そのいっぽうで作者が仕掛けた寓意をめぐって、多くの研究者が様々な解釈を発表してきた。しかし物語に登場するいろいろな人物や出来事あるいは「天使の像」、各種の建築物、様々な風景などが持つ寓意を解き明かすことは容易ではないのだ。とはいえこの作品を覆いつくしている謎めいた神秘的な雰囲気こそが、詩的な魅力となっているわけである。先に挙げた研究者のヴォルシュレーガーによれば、この作品に含まれている解き明かすことのできない謎と非合理性は、作者が若いころに受けた、精神分析で言う、「精神的外傷」に基づいているという。

マイはまた、寓意の意味を解くカギを、別の作品「銀獅子の帝国3・4」や自伝の中に収められた「シタラの伝説」あるいは死の直前にウィーンで行った講演「高貴な人間の住む天空に向かって」などに隠しておいた。そうした暗示に従えば、この作品には、二つのテーマが隠されていることが分かる。一つは個々人の存在と生成の問題ならびに野蛮な暴力人間から高貴な人間への発展の問題である。もう一つは、いつか本格的な戦争が始まるかもしれないという不安を解消して、世界の恒久平和を確立することが重要である、という作者の強い願望の念である。これはこの作品が書かれた1909年という年が、第一次世界大戦勃発(1914年)前の局地的紛争や小競り合いに彩られた不安に満ちた時代であったことと関係があろう。

この作品に登場している人物は、生成発展する現実の出来事の中に積極的に関与し、行動し、政治的な動きも見せるのである。そうした中で、結局は、「精神」の具現者であるカラ・ベン・ネムジによって計画されてきた「世界平和の理念の確立」という目標に向かって、すべての人々が動いていったわけである。

神秘主義のヴェールに包まれた詩的な作品

とはいえ、そうした過程にあって、魔術めいて神秘的な地下の冥府の力が働いていた。主人公一行は、巨人族の住む低湿地帯から二つの海に挟まれた狭い地峡地帯を通り過ぎ、乾いた砂漠地帯へと入っていく。そしてそこにそそり立つ巨大な天使像の中に、大きな地下の泉を発見する。その後神秘的な「死者の町」に入った一行は、罠にはまって地下の奥深くに閉じ込められる。

その後も波乱万丈のストーリーが展開されていくのだが、一連のファンタジーに満ちた叙述を通して、作者マイは「夢見がちな」世界の光景を描き上げている。そうした叙述は、言語表現の上で極めて洗練された境地に達している。その意味で『アルディスタンとジニスタン』は、マイのポエジーつまり詩的な能力が頂点に達した作品だという事ができよう。1200ページを超えた長編の叙事詩でありながら、そこには抒情詩的な魅力もふんだんに含まれているのだ。

この遠い「星の花の国」シタラで展開される恍惚の物語を書いていたころ、マイは新聞・雑誌などによる非難攻撃の矢面に立たされ、また長くつらい裁判にも巻き込まれていた。この物語が、初め『ドイツ人の家宝』という雑誌に掲載されたとき、長年この雑誌を通じてマイ作品を愛読してきた一般読者の多くは、この作品に対して苦情を訴える手紙を寄せたのであった。つまり難解過ぎてついていけないというわけなのだが、そうした苦情は殺到して、ついには雑誌の予約購読を取り消す人も現れた。こうして『ドイツ人の家宝』の発行部数は減り、出版社はマイに対して、こうした難解な実験はやめるように警告した。とはいえこの作品の掲載は、最後まで続けられはした。

前期の数々の冒険物語の愛読者が、後期作品を敬遠するという事情は、マイの生前の時代も現在も変わりない。そのいっぽうでマイ作品を研究している人々、とりわけ1969年に西ドイツで設立された「カール・マイ学会」に所属する研究者によって、マイの後期作品がいわば再発見されて、高く評価されるようになったわけである。この学会は、マイの全ての作品を取り上げて、批判的・学問的な研究の対象にしてるもので、けっして後期作品だけを扱っているわけであはない。

しかし先に挙げた現代作家アルノ・シュミットや、「カール・マイ学会」所属の評論家ヴォルシュレーガーなどの努力を通じて、今日、ドイツの読書界で、カール・マイの後期作品は、ドイツの高級文学の流れの中に置いていいもの、という評価が定着しいているのだ。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

カール・マイ研究

カール・マイ評価の逆転~非難攻撃から客観的評価へ~

カール・マイが著した作品を客観的に研究しようという動きは、その死後あまり時のたたない時期に始まった。その先駆となったのが、カール・マイ出版社の創立者であったオイヒャー・シュミットであった。マイの晩年に法律家としてその弁護にあたったシュミットは、マイの名声と名誉を復活させるために、「カール・マイを弁護する」という文章を著した。そしてそれを小冊子の形で、1918年に刊行した。そこで彼はマイへの変わらぬ信頼の念を表明するのと同時に、マスコミなどからの不当な罵詈雑言を排除し、世間の誤解を解くことに尽力した。

その直接のきっかけとなったのは、ウィーンの文学史家アントン・ベッテルハイムが、その前年に編集刊行した『死亡したドイツ人作家の略伝』であった。その中にカール・マイについても書かれていたが、そこには憎しみと非難攻撃の言葉が満ち満ちていた。つまりそれはドイツ文学史研究の信ぴょう性を疑わせるような調子に彩られていたのだ。それに対してシュミットは、別の出版社経営者のワルター・ド・グリュテアの協力を得て、事実関係に関する十分な証拠書類を取り揃えて、力強い反ぱくを加えたのであった。

もう一人、手ごわいマイの敵として、F・アヴェナリウスという雑誌発行人がいた。この人物は、マイの生前から激しいマイ攻撃を展開していたが、その死後も信じられないぐらいに事実関係を無視した非難中傷を、自分の雑誌を通じて続けていた。それらは度を越したものであったので、シュミットも反撃に立ち上がったのである。それが先に紹介した小冊子『カール・マイを弁護する』であったが、これが功を奏して、アヴェナリウス陣営は総崩れとなって、とどめを刺されたといわれる。その皮肉たっぷりの反撃の文章の一部を、次に引用することにする。

「アヴェナリウス氏は将来有名になるであろう。彼は第一に商売人であるが、第二に模倣的な(人まねの)批判の言葉を吐いている。しかしそれは決して創造的な才能を示すものではない。したがって彼は、死んでしまえば、すぐに忘れ去られてしまう類いのちっぽけな人物なのだ。しかるにその名前は後世に残るものと、私は信じている。つまり後世の人は、彼の名前を、カール・マイの思い出とともに、見出すことになるであろう。」

次いでマイ弁護に乗り出したのは、革新派の教育学者ルートヴィヒ・グルリットであった。彼は同僚の学者の反対を押し切って、1919年に『カール・マイに対して正当な評価を』と題する書物をものして、マイ擁護に一つの貢献をなしたのだ。

これらのマイ擁護運動のおかげで、大小数十にのぼる新聞雑誌を巻き込んでのカール・マイ騒動は、かなりの程度鎮静化し、反対派の言動にも、変化がみられるようになった。その一例としてベルリンで発行されていた代表的な日刊紙「ベルリーナー・ターゲブラット」の論調の変化を取り上げよう。この新聞ははじめ文学史家ベッテルハイムの側についていて、1918年5月16日の朝刊では、次のように書いていた。

「『死亡したドイツ人作家の略伝』のような学問的著作にあっては、事実がゆがめられているなどという事は、ありえないことである。この作家に対する訴訟は、もしそれが特別な文学的意義を持った作家に関するものならば、その生涯と業績についての供述が事実に基づいたものであり、しかも冷静な調子で語られて、はじめて、有罪かどうかの判定を下すことができるわけである」

これに対して、カール・マイ出版社のシュミット氏の要請で協力に乗り出したド・グリュテア氏は、同新聞社に必要で十分な資料を提出した。それに基づいて新聞社側は、『死亡したドイツ人作家の略伝』が含むものは、単に死んだカール・マイに対してだけではなくて、現在生きている人々にとっても侮辱を意味するものであることを理解した。そしてそれ以後、同新聞のマイに対する論調は、肯定的なものに変化したのであった。それから数週間後には、ドイツの出版界のみならず言論界にも大きな影響力を持っていたライプツィヒの『ドイツ書籍取引所会報』も、ド・グリュテア氏側についた。こうした動きを通じて、『死亡したドイツ人作家の略伝』は、権威を失い、その普及が阻止されたのであった。

バッタグリアによる批判的マイ評価

続いて登場したのが、ウィーンの歴史家で社会学者のオットー・フォルスト・バッタグリアである。彼は1931年、初めての本格的なマイ研究書ともいうべき『カール・マイ~ある人生、ある夢』を著した。これはノーベル文学賞を受賞した20世紀ドイツの代表的な作家トーマス・マンの称賛を勝ち得たほどのものであった。

この本の著者は、マイに対して限りない愛情を注ぎながらも、盲目的な礼賛に陥らずに、終始批判的・客観的な筆致を忘れていない。同書の中で著者は、カール・マイを「偉大なる夢の実現者」とみなし、この夢想家の生涯を描くのと並んで、その作品を批判的に詳細に論じている。さらにその筆は、マイの犯罪者の素質と作品との関係にも及んでいる。そして最後にマイの作品が社会に与えた影響と評価の問題にまで触れている。ちなみに本書は、第二次大戦後、社会情勢とマイを取り巻く状況の変化を考慮して、大幅に手が加えられ、1966年にあらたに『カール・マイ~ある人生の夢、ある夢想家の人生』という題名のもとに刊行されている。

哲学者ブロッホによる熱烈なマイ賛歌

      エルンスト・ブロッホ著『希望の原理第一巻』

同じころドイツの高名な哲学者エルンスト・ブロッホによる熱烈なカール・マイ賛歌が現れた。この哲学者は、その主著『希望の原理』(日本語版も刊行)などを通じて、日本の知識人の間にも知られている人物である。このブロッホは1929年3月31日(マイの命日の翌日)付けの日刊紙『フランクフルター・ツァイトゥング』紙上に、「夢の市場」なる一文を寄せた。そしてそこでマイに対する熱烈な賛歌をうたい上げたのである。そこでブロッホは次のように書いている。

「カール・マイはドイツの物語作家の中で最も優れた者の一人である。・・・この人物が作家になったなり方には先例がない。つまり彼は監獄の中ですでに書き始めていたのである。・・・彼が描いたのは、花のような夢ではなく、野生の夢つまり人の心をとらえて離さないメルヒェンなのであった。」

ちなみにブロッホは、この文章を書いた時より以前の学生時代に「カール・マイとヘーゲルがあるだけだ。その間にあるすべてのものは、みな不純な混ざりものだ!」と叫んだという(『希望の原理第一巻」(白水社、1982年4月、649ページ、「あとがきにかえて」)。

          エルンスト・ブロッホの肖像

さらに彼は処女論文集の表題を「砂漠への挑戦」としているし、生涯で全著作を読んだのはカール・マイだけだ、と語っているという。またブロッホは同じく『希望の原理第一巻』の第三部(移行)鏡の中の願望像(陳列品、童話、旅、映画、舞台)の二七「歳の市、サーカス、童話、民衆小説における、もっとましな空中楼閣」の冒頭に、カール・マイの自伝『わが生涯と苦闘』の中からの引用を掲げている。

「それから、私たちは寝に行きました。けれども私は眠らずに目を覚ましていました。どのようにして助けを求めようかと考えました。思案の末に私は決心しました。以前読んだ本の題名に『シエラ・モレナの盗賊窟あるいは困った人たちの天使』というのがありました。父が帰宅して眠ってしまうと、私はベッドを抜け出し、こっそり部屋を出て、服を着ました。それから一枚の紙片に、<血で手を汚すような事はしないでください。僕はスペインへ行って、助けを呼んできます>と書きました。私はこの紙片をテーブルの上に置くと、かちかちのパンを一切れポケットに突っ込み、九柱戯用の小遣い数グロッシェンをもって、階段を駆け下りました。そして扉を開き、もう一度誰にも聞こえないようにしくしく泣きながら、深く息を吸い込みました。それから足音を忍ばせて広場を下り、裏通りを抜けて、ルングヴィッツ通りへ出ました。この道がリヒテンシュタインやツヴィッカウを経て、苦難の救い主である高貴な盗賊の国スペインへ続いているのです」

このエピソードについて一言補足しておく。マイが14歳で国民学校を卒業する時、その後の進路決定について、貧しい両親が話し合っていた。父親は自分が身を粉にして働いて、師範学校の学費を稼ぐといって部屋を出ていった。そうした話し合いを、息子のマイは部屋の片隅で、スペインを舞台にした盗賊騎士の物語を読みながら聞いていたわけである。

ところで本筋に戻ると、ブロッホが新聞紙上に掲載した、先の決定的な一文によって、長い間マイを縛っていた呪縛が解かれ、再びマイの上昇が始まった。人々は再びマイについて、自由に語ることができるようになった。そして青少年や庶民の間だけではなくて、教養ある階層の中でも、マイを話題にすることが可能になったのである。

第二次大戦後、マイの本格的研究始まる

しかしただ一つドイツ文学史の中では、戦前には、まだマイの名前は取り上げられていなかったのである。マイの再評価のために尽力してきた文学研究者のハインツ・シュトルテは、それまでドイツで編纂されてきた文学史の本を子細に点検してきたが、「二三の例外を除いて、マイの名前を載せているものはない」と言っている。そして彼が1936年、カール・マイについて学位論文を書き、提出したとき、受けた反応は、肩をすぼめたり、眉をしかめたり、首を横に振ったりする、といった体のものだったという。そしてさらに「まさに人跡未踏の地に単身降り立った思いであった。カール・マイを博士論文にするなどとは、だいぶ頭がおかしいのではないか、と思われた」とも、告白しているぐらいである。

ところが時代が変わって、第二次大戦後になると、主として西ドイツで、マイを学位論文や国家試験のテーマにする学生が現れてきたのである。その際興味深いのは、文学研究者のみならず、社会学者や文学心理学者、とりわけ精神分析の専門家が、マイを格好の研究対象として取り上げていることである。

作家アルノ・シュミットの登場

作家で評論家のアルノ・シュミットは、1963年、『シタラ、そこに至る道~カール・マイの本質、作品および影響に関する研究』という大部の書物を著した。これは批判的文学分析の代表例とみなすことができるもので、その手法を通じてシュミットは、ドイツの一文学現象に光を当てたわけである。この研究において彼は、精密なテキスト解釈と精神分析的手法を援用して、カール・マイの世界ならびに登場人物が、非日常的規模のエロス抑圧の産物として理解されることを示した。

彼は意識下のマイを、ホモ・セクシャルであると断定し、またドイツ最後の神秘主義者(後期の作品に基づいて)である、とも決めつけている。シュミットはさらに彼一流の皮肉や嘲笑を盛んに飛ばしているが、そのため篤実なマイ研究者の反発を買ったりした。その反面、マイ作品にしばしば登場する誇張されたユーモアを楽しんでいる節もうかがえる。

しかしマイ作品の華やかな表面の裏に、実はそれまでほとんど誰も気が付かなかった、ある種の<魂の風景>が隠されていることを如実に示した点にこそ、彼の功績であるといえよう。アルノ・シュミットのこの研究書は、世に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。そこで彼が用いた批判的文学分析の手法は、その後マイ研究の有力な手段として一般化していった。この点は注目すべきことである。

カール・マイ学会」の誕生(1969年)

かくしてこのような機運に乗って、戦前では考えれれなかったほど活発に、各方面にわたって、マイ研究は進展してきた。そして1969年には、ハンブルクで、文学研究団体としての「カール・マイ学会(Karl May Gesellschaft)が誕生した。この学会は、様々な分野の学者ならびにマイ愛好者が集まって、情報と研究の交換を行う学際的な学会なのである。

マイの故郷エルンストタールで開かれたカール・マイ学会の総会に参加した会員達
(1999年)

年一回の『年報』と季刊の『報告』が発行され、総会シンポジウムが隔年に開かれている。場所はカール・マイゆかりの地が選ばれ、4日間ほどの日程で、かなり大規模な催しとなっている。私自身もこの学会の存在を知った1980年以降学会員になって、総会シンポジウムにも数回参加してきた。1990年のドイツ再統一以降は、東ドイツ地域にまで拡大された。この旧東独地域こそは、マイが生まれ育ち、作家として活動し続けた所だったのである。そのため再統一後には、もちろんマイが成功してから住み続けたラーデボイルのすぐ近くの大都会ドレスデンでも、生まれ故郷のエルンストタールでも、総会シンポジウムが開かれている。そして2012年3月には、マイ没後百年祭を記念して、ドレスデンでシンポジウムが開かれたが、これには私も参加した。

その学会活動は年を追って活発さを増し、そうした研究の一つの集大成として、1987年に、実に内容の濃い浩瀚な研究書が刊行された。それが『カール・マイ・ハンドブック』(Karl-May-Handbuch)である。小型版だが、751ページと分厚い本である。ドイツのクレーナー出版社(シュトゥットガルト)から発行されている。学会の主たる研究者をまさに総動員しての分担執筆で、カール・マイの全てを、余すところなく明らかにしている。私もマイ研究にあたり、この本に大いに世話になっているので、次にその目次を紹介することを通じて、大体の内容をお伝えすることにしよう。

     『カール・マイ・ハンドブック』の見返しとマイの肖像

『カール・マイ・ハンドブック』
発行者ゲルト・ユーディング 編集者ラインハルト・チャプケ
目 次
まえがき
序 言
時代背景と伝承
A 三月前期と第一次大戦の間
B 文学的伝統
C 一九世紀における文学市場
人物と人生を取り巻く事情
A 伝記研究の歴史
B マイの生涯
C 年表(誕生から逝去まで)
作 品
A テキスト
B 内容の展開と散文形式
C 個々の作品
1.世界冒険物語
2.青少年向け作品
3.分冊販売小説と初期長編物語
4.初期の作品
a   ユーモレスク
b 村の物語
c 旅行冒険物語
5.G・フェリーの作品の翻案
6.自伝的文章
7.論文、講演その他の記録
8.戯曲「バベルと聖書」
9.抒情詩
10.断片、草稿、習作
社会的影響と評価
A   カール・マイ批判とマイ受容
B 作品への加筆および改訂
C オーストリア、スイス、東ドイツにおけるカール・マイ
D 翻訳版
E 戯曲化
F 映画化
G 音楽化
H 商業的利用
I マンガ、絵物語
J 博物館、記念館、展示
K カール・マイ出版社
L カール・マイ研究機関とその展望

 

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その07 その社会的影響(カール・マイ現象)

 「社会現象」になったカール・マイ

カール・マイはその生涯に膨大な分量の作品を書きあげた作家であったが、その影響は、単なる文学的な次元を超えて、広く社会的な性質を帯びていた。

戦後の西ドイツを代表する高級週刊誌『シュピーゲル』(社会を反映する<鏡>という意味)は、1960年代に、マイに関して特集記事を組んだ。そこでは、カール・マイは単なる人気作家であるにとどまらず、社会全体に広範な影響を及ぼしてきた、ひとつの「社会現象」である、と指摘された。この週刊誌は、そのレベルが非常に高く、広く政治、経済、社会、文化にわたって、鋭い論調を展開してきた。その主な読者層は、広範なエリート層であるが、この特集記事は、社会批判的な立場から、カール・マイを高く評価するものであった。そのためマイの作品を読んだことのないインテリ層に対しても、改めてこの作家への関心を呼び起こしたのであった。
1990年のドイツ再統一後も、この雑誌は健在である。

       ドイツの高級週刊誌『シュピーゲル』の表紙
2012年3月19
日号(カール・マイ特集号ではない)

しかしこの『シュピーゲル』の特集記事に先立ち、「カール・マイが一つの社会現象である」と言い出したのは、マイの先駆的な研究者であるハインツ・シュトルテであった。このブログの「カール・マイの生涯」の中でも述べたように、マイがその成功の頂点にあったころ、熱狂的なファンの間で幾つもの愛好会が作られていた。彼らはインディアンやアラビアの酋長の格好をしてマイを取り囲んで楽しんでいた。

また戦後の西ドイツ(再統一後には東独)でも、子供たちはマイの西部ものの影響で、カーニヴァルの仮装にインディアンの衣装を好んで身に着けたりしている。さらに北独のバート・ゼーゲベルクやエルスペでは、マイの作品を基に、毎年野外劇が演じられている。私も1983年に、子供たちを連れてその野外劇を見に行ったものである。またマイ作品の映画化やテレビ化(ビデオやDVDでも)は、数えきれないほど。また耳で聞くドラマの形で、数多くのレコード(CD)も販売されている。物語の主人公やわき役などのフィギュアや関連グッヅも、本屋に置かれ、その大衆的人気にこたえている。

いっぽう本来の書物のほうも、ドイツでは広く国民の間に浸透していて、復活祭やクリスマスのプレゼントとして、子供たちに贈られているのだ。さらに青少年時代に読んだカール・マイ作品は、家庭の書棚に数多く並べられていて、大人になってから読み直されているという。つまりマイの作品は、聖書に次ぐほどの人気なのだ。

カール・マイ出版社から刊行されている「バンベルク版」全集は、私が入手した1970年代半ばには74巻であったが、2009年には93巻に達している。またマイ没後50年たった1963年以降は、その著作権が消滅したため、廉価なポケット・ブックの全集も、様々な出版社から発行されている。それらを合計すれば、総発行部数はいったいどれほどになるのであろうか。

他方、外国語への翻訳に目を向けると、すでにマイ生前の1883年にフランス語に翻訳されたが、その後英語、オランダ語、スペイン語、チェコ語、イタリア語、ロシア語など周辺のヨーロッパ諸国の言語にも、次々と翻訳されていった。そして遠く中国語やわが日本語(私および他の3人の翻訳者による)にも翻訳されている。2006年現在で、合計35か国語に翻訳・刊行されているのだ。

     中国語版のマイ作品(第6巻)の表紙(1999年発行)

19世紀の他の多くのドイツの大衆作家がいまや忘却の彼方に消え去っているのに比べて、マイが今日なお、生前にもまして広く世界で読み継がれているのは、まさに驚嘆すべきことであろう。こうした作品受容の広がりと、それに付随したもろもろの社会的現象を含めて、一口に「カール・マイ現象」と呼ばれているわけである。

 カール・マイへの評価(賛否両論)

以上述べてきた絶大な人気の傍ら、ドイツでは昔から、青少年に与える教育面での影響が、一般に問題とされてきた。この点に関しては、これまで肯定と否定、賛成と反対の意見が真っ向から対立してきたといえる。先に挙げたマイ研究者シュトルテは、1970年ごろに書いたものの中で、次のように述べている。
「この数十年間ドイツでは、評論家、ジャーナリスト、政治家、教育学者、教師、図書館司書など、ありとあらゆる人々が、マイをめぐって賛否両論を表明してきた。そして新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどを通じて、再三再四論争が繰り返されてきた。そこで反対陣営が強調しているのは、マイに夢中になって勉強をおろそかにすることへの心配である。彼らはマイとその作品から、まるで悪魔のように遠ざけようとしてきた。それにもかかわらず青少年は、あるいは教室の片隅で、あるいは家のどこかで、夢中になってマイ作品を読みふけったのである」

マイに対する評価は、青少年への教育的影響に限らず、その全般にわたって、賛否両論が対立してきた。それを図式化すると、次のようになる。ある人が「天分ある青少年向け作家」といえば、他の人は「青少年をだめにする人間だ」と答える。左派からは「帝国主義の産物」と批判されるかと思えば、右派からは「ドイツ魂の典型」と称えられる。また「真の長編作家」と呼ばれる反面、「生まれながらの犯罪者」と非難される。「労働者階級の敵」という声には、「時代の枠を抜け出したプロレタリア」という反論がなされる。「三文小説の文士」という人もいれば、「千夜一夜物語に匹敵する物語作家だ」とほめちぎる人もいる。そして「ナチス突撃隊の教師」という言葉には、「世界平和運動と平和主義の先駆者」という言葉が返される。「素朴な国民的作家」という軽蔑的な言葉が発せられると、「いやマイこそはドイツ文学最後の偉大な神秘主義者だ」という反論が出てくる、といった具合なのだ。

 「マイは現代のメルヒェン作家」

以上、マイに対する賛否両論を標語として列挙してきたが、ここでマイを偉大なる「現代のメルヒェン作家」と称揚している先駆的なマイ研究者ハインツ・シュトルテの肯定的評価をご紹介することにしよう。彼は「犯罪とファンタジー」について、次のように考察しているのだ。

「かつて放浪者として警察の追及を受けた教師の犯罪と、のちの作家の華麗な冒険の世界との間には、直接的な関係が存在するのだ。両者は同じ精神的源流から流れてくるものである。・・・生まれながらの詩人作家そして自分の抱いた夢のとりことなった人物は、しばしば犯罪の暗闇へと道を踏み誤ることがある。・・・天才的な空想力の持ち主である詩人は、市民社会や無味乾燥で制約の多い職業生活に適応する能力を欠いているため、しばしば打ちひしがれる。

そうした例は、かのホメロスに始まり、シェイクスピア、クライスト、ヘッベルからトーマス・マンにいたるまで、枚挙にいとまがない。・・・新しいフランス抒情詩の偉大なる開拓者であるフランソア・ヴィヨンは、一連の天才的犯罪者の先鞭をつけた人物でもあった。偉大なるセルヴァンテスは悲喜劇的な騎士ドン・キホーテに関するヴィジョンを、牢獄の中で手に入れた。カサノヴァはヴェネチアの獄舎に入れられた。マルキ・ド・サドはかの悪名高いバスチーユ監獄に、ドストエフスキーはシベリアの<死の家>にいたが、これらはいずれも世界文学の有名な一章に属することである。

同様にしてカール・マイも、夢想家で精神的な夢遊病者そして極めて創造力にとんだイマジネーションの持ち主であった。それは地獄への道を踏むべく運命づけられていた。しかしその天才的な夢見る力は、成熟するに及んで、文学創造という正しい道を見出すことができたのである。・・・マイの書いた物語の多くは、かつては素晴らしく驚きに満ちていたが、その後世界の変転と技術的進歩によって、はるかに追い抜かれてしまったかに見える。すでに人類は月にまで到達してしまった。それなのにマイの冒険談の中では、人々は自動車も電話も通信機も知らないのだ。人々は馬やラクダにまたがって、苦労して旅をした。連発式ヘンリー銃が魔法の兵器として、驚きをもって受け取られていた。それにもかかわらず、これら全ては決して古びてはいず、読者の空想力を十分かき立てるのに役立っているのである。この事はどのように説明されるべきであろうか。

カール・マイは、時の流れに流されないものを作り出すのに成功したのだ。それはまさしく<メルヒェン(童話)>と呼ぶことができよう。・・・かつて民衆向けの童話は、夕べの一家団欒の中心として、糸つむぎ部屋の中や村の菩提樹の下で、口から口へ、世代から世代へと読み継がれていった。しかしこうした世界は今や、はるか過去のものになった。技術や交通といった現代生活のあらゆる形式が、古き良き時代の共同体にとってかわった。そして民衆向け童話は語られなくなった。

しかし民衆向け童話が消えたところに、民衆(国民)文学が登場してきた。古典作家たちの高級な作品と昔の民衆向け童話のちょうど中間の領域に、民衆(国民)文学が現れたのだ。そこではかつてのメルヒェンが、新しい衣装をまとって存続することが許されたのだ。カール・マイの緑色版を眺めていると、すでにその表紙の絵から、そこに登場する世界が童話の世界であることが分かる。この文学ないし精神の中間領域において、カール・マイは<民衆(国民)作家>になったのである。彼において古い<童話の魂>は、今一度、その驚くべき性能を発揮したのである」

忘却の危機からマイ復活へ~カール・マイ出版社の歩み~

1912年3月、カール・マイが死んだとき、その大衆的人気は地に落ちていた。そしてそのままいけば、他の大衆作家と同じように、永遠に忘れ去られる運命にあったかもしれない。その運命を大きく変え、作品を永続化させる契機をつくったのが、若き法律家オイヒャー・シュミットであった。子供のころからの熱心なマイ愛読者であったシュミットは、新聞・雑誌などを通じて非難攻撃され、また裁判沙汰に巻き込まれていた晩年の作家を、何とかして救いたいと思っていた。

       オイヒャー・シュミット(1884-1951)

その意思を伝えるために彼はマイに手紙を出し、1910年の夏つまり作家の死の二年前に、ラーデボイルの屋敷を訪れた。そしてその翌年マイはクラーラ夫人と一緒に、シュトゥットガルトのシュミットの家に出向いた。その時作家は直々に「あなたに私の作品のすべてを出版してほしい」と頼んだ。この言葉がカール・マイ出版社誕生の契機だったと言えるのだ。そして同出版社のその後の尽力がなければ、今日の「カール・マイ・ルネッサンス」は考えられなかったかもしれない。

1910年、マイ作品の年間の総発行部数は7万7千部だったが、1911年には3万6千部に減り、1913年には1万4千部へと谷を下る勢いであった。当時マイ作品の多くは、フライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行されていたが、その有能な出版社主をもってしても、この退潮を食い止めることができなかった。

こうした状況の中で、夫の死後、未亡人のクラーラ・マイは、先にシュミットに向かって夫が語った言葉を思い出した。そしてその実現の手立てを相談した。その結果、フェーゼンフェルト、マイ未亡人そしてシュミットの三人で「カール・マイ出版社」が、1913年7月、ラーデボイルに設立された。その経営責任者としてシュミットが同社を切り盛りしていくことになったのである。

この若き経営者はその販売戦略として、拡大方針を打ち出した。それはフェーゼンフェルト社から刊行されていた緑色の装丁のフライブルク版『世界冒険物語』全33巻を基本にして、他のもろもろの作品や未発表原稿を、その中に取り入れて、新たにラーデボイル版の「カール・マイ全集」を作るというものであった。しかし翌年に始まった第一次大戦のため、印刷用の紙不足となり、全集刊行は困難な状況に陥った。それでもシュミットは新たな全集の第34巻として、マイが晩年に書いた自伝「わが生涯と苦闘」を、「私」というタイトルで1916年に刊行した。この自伝には、マイが当時陥っていた精神的苦境と時間不足のために、かなりの誤りが含まれていたため、それらを修正する作業が行われた。そして第35巻から第41巻までは、以前ウニオンドイツ出版社から出されていた「青少年向け作品」が収録された。その版権取得にあたっては、かなりの高額を支払ったという。

その後1920年代になって、カール・マイの人気は回復していった。そしてすでに高齢となっていたフェーゼンフェルトは、出版社から身を引き、それ以後はオイヒャー・シュミットが、名実ともに出版社を率いていくことになった。彼は同社の仕事を手伝っていたカタリーナ・バルテルと、1921年に結婚した。彼女は夫の死去まで忠実に出版社の業務を補佐していった。そしてこの結婚から生まれた4人の息子たちのうち3人は、それぞれ一定の年齢に達してからは、出版社の仕事に従事していったのである。1920年代は、インフレと経済危機の時代であったにもかかわらず、マイ作品の売れ行きは上昇傾向をたどった。そして新しい作品を全集の中に取り入れていく作業は、順調に進んでいった。

1933年1月にヒトラーが政権を握って、第三帝国の時代になった。ヒトラー自身熱烈なカール・マイの愛読者であったが、出版社にとってはこのことはかえって面倒なことだったようだ。それでも社主のオイヒャー・シュミットは、持ち前の巧みな才覚と外交的手腕を発揮して、ナチス側からほとんど邪魔されずに、同社を運営していくことができたという。そして第二次大戦が勃発した1939年には、全集は65巻に達したのであった。

しかし大戦末期の1943年には、マイ作品の製作(印刷や製本)を行っていた出版都市ライプツィヒへの連合国側の爆撃が激しさを増した。そして関連施設や書物を保管していた倉庫も著しい損傷を受けた。さらにカール・マイ出版社のあるラーデボイルに近い大都会ドレスデンも、1945年2月に大爆撃を受け、その町の倉庫に保管されていたマイ作品の多くは損なわれてしまった。

 第二次大戦後のカール・マイ出版社

それらの都市があったドイツ東部地方は、戦後ソ連によって占領されたが、カール・マイはソ連流の社会主義体制に合わない存在となった。カール・マイ出版社はマイ作品の発行を許可してくれるよう、あの手この手を尽くしたが、許可は得られなかった。

長男のヨアヒムは書籍販売の専門教育を受けていたが、1945年に出版社の幹部社員になった。彼は直ちにドイツ西部地区への移転を考え、父親オイヒャーの生まれ故郷バンベルクに、1947年7月、まずはカール・マイ出版社の支社を設立した。そしてそこで、伝統ある緑色の装丁の「カール・マイ全集」の発行を行うことになった。1951年7月、創立者のオイヒャー・シュミットが事故でなくなった。そのためヨアヒムが社長に就任した。

その後東ドイツの社会主義体制がずっと続く見通しになったので、ラーデボイルに残っていた出版社の機能を廃止し、カール・マイ出版社はバンベルクだけになった。そこでは戦前にラーデボイル版として発行されていた65巻のマイ作品が受け継がれた。そのうえで、いろいろな雑誌などに掲載されていた作品や未発表原稿などを基に、第66巻以降の刊行が続けられた。

その際文学的な才能に恵まれていた四男のローラントが、文章の修正作業に当たった。こうして第66巻から第70巻までが刊行された。いっぽう三男のロタールは、長男のヨアヒムを補佐する形で経営に参画した。そして販売や版権問題の面で、尽力した。

1960年には姉妹会社のウスタッド社が、カール・マイ出版社に合併された。さらにラーデボイルでマイがその晩年を過ごした邸宅「ヴィラ・シャターハンド」の総財産、とりわけ貴重なマイの図書室と書斎を、カール・マイ出版社が獲得した。そしてそれらはバンベルクの出版社のそばに建てられた「カール・マイ博物館」の中に、移築された。(これらはドイツ再統一後の1994年に再びラーデボイルの邸宅の中に戻された。

          バンベルクのカール・マイ博物館の外観

    博物館内に移築された図書室(書棚及びマイと妻クラーラの胸像)

1960年、ウィーンのカール・ユーバーロイター出版社が版権を得て、廉価なポケットブック版によって、「カール・マイ全集」と同じ内容の全集を出版し始めた。これによってマイ作品の普及はさらに進んだ。いっぽうカール・マイ出版社の伝統的な緑色の全集は、74巻に達した。私がカール・マイの存在を知って、書店から全巻を購入したのは、この74巻だったのだ。

さらに1970年代から80年代にかけて、「カール・マイ全集」のほかに、昔のウニオン出版社の青少年向け作品や、そのたの個別作品のリプリント版が刊行されていった。そしてフライブルク版全33巻のオリジナルテキストのリプリント版が、新たな校閲と解説をつけて、1982年から84年にかけて発行された。それらはマイ研究者や熱烈なマイ愛好者向けの豪華限定版であった。

ドイツ再統一の年1990年に四男ローラントが死去し、その後長男ヨアヒムが高齢のため経営から手を引いた。そして三男のロタールが社長になり、その息子のベルンハルトが補佐する形で、1993年に出版社に入った。この年から二人の共同作業によって、いろいろな雑誌に掲載されていた作品や未発表の原稿、そして幾多の関連資料や往復書簡などを編集して、「カール・マイ全集」の中に収録する作業が急ピッチで進められていった。

2003年7月、カール・マイ出版社の創立90周年を祝う祝賀行事が、バンベルクのホテルにおいて、大々的に行われた。そこでは記者会見、スライドやフィルムの上映、マイ作品のオークション、研究者によるシンポジウム、展示会のほか、大勢の招待客を集めて、盛大な祝賀パーティーが開かれた。その席で社長のロタール・シュミットは、90年にわたる同社の歴史を振り返って、挨拶を行った。その際父オイヒャーが苦難の渦中にあったマイを助け、弁護したことにより、作家の遺志を受け継ぐ形で出版社を設立したことを強調した。そしてロタールの息子ベルンハルトは、同社の未来への展望を語ったのである。

2010年の夏、私は全く久しぶりに、南ドイツの古都バンベルクに、カール・マイ出版社を訪れ、旧知のロタール及びベルンハルト・シュミット父子に再会して、旧交をあたためた。

 ロタール(右)及びベルンハルト(左)シュミット父子と私(中央)

その前年の2009年には、「カール・マイ全集」は93巻に達した。そしてカール・マイ没後百周年の記念行事が、2012年3月に盛大に行われた。これに私も参加したが、その時の様子について、ブログの01「没後百年祭に参加して」で、詳しく報告している。その少し前にロタール・シュミットはなくなった。そのためこの時は、息子のベルンハルトと再会した。そして彼の主催によって、2013年にカール・マイ出版社の創立百周年が大々的に祝われたのであった。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(06)

その06 全作品の概観

カール・マイはそのおよそ35年におよぶ作家活動(1875-1910)を通じて、実に膨大な作品を執筆した。そしてその多くを当時存在したあらゆる出版メディアに、次々と発表していった。その間に書いた作品は、その種類が多岐にわたっていたのと同時に、発表の仕方や発表の場もさまざまであった。それは、とりわけ19世紀ドイツにおける出版物の出版及び販売の方法と深くかかわりがあった。そして世紀半ばからの産業革命の進展や政治・社会体制の変革とも連動していたのだ。

ところでマイの場合、大衆作家としては珍しく、その死後も忘却のかなたに葬り去られることはなく、生前未発表・未整理の原稿を含めて、おおむね全ての作品が発刊されてきた。そのため現在我々は、ほぼすべての作品を概観できる状況にあるのだ。その際手掛かりになるのは、もっぱらマイの作品を刊行している「カール・マイ出版社」の全集及び同社が所有している膨大な資料、ならびに「カール・マイ学会」が刊行している定期的な小冊子や年報(学会誌)そしてその集大成ともいえる「カール・マイ・ハンドブック」などである。

そこで私としては、その膨大な作品を、出版メディアとのかかわりにおいて形態的に分類して、概観することにしたい。ただその前に、マイが手掛けた作品が、いったいどんなジャンルのものであったのか、一応分類して、一瞥することにする。

ジャンル別の作品の分類

1 世界冒険物語
a   波乱万丈の冒険物語
b   象徴主義的な後期の作品
2 青少年向け冒険物語
3 分冊販売長編小説及び初期長編小説
4 初期の小品と単独の物語
a 滑稽小説、ヨーロッパの歴史物語
b マイの故郷の村の物語
c  その他の冒険小説
5 戯曲、抒情詩、音楽作品
6 自伝的作品

出版メディア別ないし刊行形態別の分類

第1節 雑誌、民衆カレンダー、新聞

まずカール・マイが作家活動を開始したころのドイツの雑誌文化に目を向けてみよう。1848年の三月革命以降、ドイツでは交通手段が発達し、また法的な規制が緩む中で、数多くのポピュラーな娯楽雑誌が市場に出回るようになった。これらの非政治的な週刊の家庭向け雑誌は、読者に娯楽と教養を提供していたが、やがてその発行部数をぐんぐん伸ばしていった。それらの雑誌は、はじめ行商人によって配達されていたが、後にはこれは郵便に代わった。

そこにはポピュラー・サイエンスの記事、なぞなぞ、連載小説、読者からの便りなどが掲載され、イラストや写真がふんだんに盛り込まれていた。そして連載小説はこれらの雑誌の中核的存在に位置付けられ、宣伝価値のある有名な作家に執筆を依頼していた。当時の慣習として、家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、作家の評判を傷つけることにならなかった。そして作家に、経済的な利益をもたらすものであったのだ。

マイは社会的活動を始めた初期のころ、これらの雑誌の編集に携わっていたが、自らの作品もそこに掲載してもらっていた。『ドイツ家庭雑誌』に6編、『立坑と精錬所』に1編、『炉端での夕べのひと時』に3編そして『楽しいひと時』に12編の作品が掲載された。また雑誌編集者をやめてフリーの作家になってからは、作品の数は急速に増え、1880年までの3年間に46編も掲載された。

それらの作品の内容は、ジャンル別分類の4「初期の小品」に属するものである。そこのb「村の物語」というのは、マイの生まれ故郷である東部ドイツのエルツ山地の村を題材とした短編の物語である。それらは明るく、牧歌的な環境の中で展開されており、おおむね軽快でユーモアに満ちたものになっている。こうした要素は当然のことながら、滑稽小説の中心を占めているが、のちに執筆するようになった長編の冒険物語の中にも、波乱万丈の活劇や背景の情景描写などと程よいバランスで織り込まれている。

やがてマイにとって重要な位置を占めるようになったのが、南独レーゲンスブルクのプステット社から発行されていたカトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』であった。この雑誌は北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して、1874年に創刊されたものであった。
ここでドイツにおける宗教事情を一瞥すると、16世紀における宗教改革以降、幾多の騒乱を経て、おおむね南部・西部地域がカトリック、東部・北部地域がプロテスタントという風に、色分けされるようになった。マイは東部ドイツで生まれ、元来プロテスタントの家系であったが、やがてカトリックに傾いていったのである。

     カトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』

さて、それまでいくつかの雑誌を転々としてきたマイであったが、1879年に『ドイツ人の家宝』を発行していたプステット社との間に、永続的な契約を結んだ。そして1899年まで、マイはかねて計画していたジャンル「世界冒険物語」に属する作品を次々と発表していったのである。やがてそれらの物語は人気と評判を呼び、マイ及び雑誌の名前は宗派の垣根を越えてドイツ全国に知れ渡るようになった。
それらはジャンル別の作品分類では、1世界冒険物語のa波乱万丈の冒険物語に相当するものである。

いっぽう1890-1909年の間、マイは作品発表の場として、「民衆カレンダー」とか「マリア・カレンダー」とか呼ばれていた印刷物を利用していた。これは16世紀に起源をもつマリア信仰を基にした地方農民向けの出版物であった。日付を伝える本来の「暦」としての目的のほかに、読者の要望に応じて、薬の処方箋や農業上の助言、さらに歌謡、逸話、冒険物語などが掲載されていたのだ。プステット社からも、「マリア・カレンダー」が刊行されていて、マイはこれにも自分の作品を発表していた。

           マリア・カレンダーの表紙

一方、19世紀から20世紀への転換期のころから、マイの作品とその人物をめぐって盛んに論争が繰り広げられていたが、そうした渦中にあって日刊新聞や週刊新聞が、マイにとって重要な発言の場となった。彼は論争及び自己弁護の文章を、こうした新聞に発表したのである。またマイに好意的であった新聞には、晩年に書かれた「世界冒険物語」が掲載たりもした。その一つとして最晩年の作品「ヴィネトゥー4」が、「アウクスブルガー・ツァイトゥング」に連載されたのが注目される(1909-10年)。

第2節 分冊販売小説

マイはその創作活動の比較的初期の一時期(1882-87年)、ドレスデンのミュンヒマイヤー社から5巻に上る大長編小説を、分冊販売小説の形で発表した。(ペンネームまたは匿名で)。これはドイツ語で「コルポルタージュ・ロマーン」と呼ばれているもので、1冊が大八つ折判で平均24ページという薄い小冊子を、毎週連載小説の形で発行していくものである。そしてその連載は100回以上の分冊になって続いたため、それが完結すれば、1巻が全部で2400ページにのぼる大長編小説になったのである。

主として経済的な生活保障の観点からマイが大量生産した「コルポルタージュ・ロマーン」は、元来は行商人が村の奥までは配達して歩いていた娯楽本を指していた。そしてこの方式が19世紀に、フランスからドイツに入ってきて、マイがせっせと分冊販売小説を書いていた1880年代は、この書籍行商業の最盛期にあたっていたのである。ちなみに1860年から1903年の間に、ドイツ全土で、年間500編の分冊販売小説が出回っていたといわれる。

次にマイが書いた5巻の小説の題名、発行期間及び分冊の回数を記すと、以下のようになる。1『森のバラまたは地の果てまでの追跡』(1882-84年、109回)、2『放蕩息子または哀れな君主』(1883-85年、101回)、3『槍騎兵の恋』(1883-85年、108回)、4『ドイツの心、ドイツの英雄』(
1885-87年、109回)、5『幸運への道』(1886-87年、109回)。

第3節 青少年向け雑誌

これは雑誌の一種には違いないが、マイにとって特別な意味を持っていたので、ここに一項を設けて扱うことにする。具体的には青少年向けの絵入り雑誌『よき仲間』が、これに該当する。この雑誌はシュトゥットガルトのシュペーマン出版社から1887年1月に創刊されたものである。その編集方針として、青少年に健全な読み物を提供することが示されていた。そしてこの編集方針に沿って、当時人気上昇中の作家カール・マイに、この雑誌への連載が委嘱されたわけである。

             雑誌『よき仲間』の表紙

この時初めてマイは作家としての使命を自覚したという。つまり元教師であったこの作家は、青少年のために教育的で、しかも無味乾燥に陥らない作品を書くことが自分に課せられた使命ではないかと考えたのである。それ以後彼は、分冊販売書小説の執筆はやめ、これに全力を注いだのであった。こうして1887年から1897年までの間に、いくつかの短編作品のほかに合計8編に上る、いわゆる「青少年向け作品」が、雑誌『よき仲間』に掲載されたのであった。

この一連の作品は質的に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられるものである。これらの作品は外国を舞台とした旅行冒険物語であるが、主人公が三人称になっている点が、「世界冒険物語」とは異なっている。そのため研究者の間で、「青少年向け作品」というジャンルに分類されているものである。

それらの作品を列挙すると次のようになる。(1)『熊狩人の息子』、(2)『リヤノ・エスタカードの幽霊』、(3)『名誉をかけた誓い』、(4)『奴隷の隊商』、(5)『シルバー湖の宝』、(6)『インカの遺産』、(7)『石油王子』、(8)『黒いムスタング』。これらの作品は、内容もさることながら、挿絵画家ヴァイガントの描いた魅力的な挿絵によっても評判を呼んだ。

1890年、シュペーマン出版社は他の二つの出版社と合併して「ウニオン・ドイツ出版社」を設立した。同社は引き続き青少年向け雑誌『よき仲間』を発行し続けた。そしてマイ作品の評判が良かったため、先の青少年向け作品8編は、雑誌への連載が終わると順次書物の形で刊行されていったのである。これら8冊の本は、前述した挿絵と並んで、色彩豊かな表紙絵並びに赤色の総クロス装丁の美しい外観を呈していて、「ウニオン版」としてポピュラーになった。

第4節 個人全集の発行

 1 フライブルク版

1891年、作家マイにとって大きな転機が訪れた。それは個人全集の発行という大きな出来事であった。マイ49歳のことであった。それはフライブルクの出版社主フェーゼンフェルトとの出会いを契機としていた。この若き出版人は雑誌『ドイツ人の家宝』に連載されていた世界冒険物語の中の、とりわけ「オリエント・シリーズ」にいたく感激した。そしてこの雑誌を中心に、それまで各種雑誌にばらばらに発表されていた世界冒険物語を、個人全集『カール・マイ世界冒険物語』の形で発行していくことを決意した。そしてこの計画は翌1892年から実施に移された。

フェーゼンフェルトはこの全集を発行するにあたって、作家マイ及び自社の評判を高めるための用意周到な工夫を凝らした。なかでも造本には知恵を絞った。緑色のハード・カバーの背表紙に唐草模様をあしらい、金色の文字を付し、表紙には各巻の内容にふさわしい色彩豊かな絵を載せて、全体として上品な装丁に仕立てた。それは従来の読み捨ての娯楽読み物というよりは、むしろ高級文学のイメージを与えるものであった。そのため読者層も従来より広がり、マイの名声は大いに高まった。これがマイ最初の「フライブルク版個人全集」であるが、緑色の装丁のため、一般に「緑色の全集」と呼ばれている。

         緑色の装丁のフライブルク版個人全集

一方、それまで雑誌に発表されてきた作品をこの全集に収めるにあたって、一巻ごとの物語の長さが調整された。そして作品の題名も一巻ごとに新たに付け直された。またこの全集のためにマイが新たに書き下ろした作品もいくつかある。かくしてこの個人全集は、彼がオリエント大旅行に出かける1899年までに、27巻に達した。大旅行後はマイが外部との争いに巻き込まれたため、全集の刊行は休止した。しかし晩年の象徴主義的な内容の冒険物語6編を組み込んで、、マイが亡くなる2年前の1910年に、6巻が追加されて、フライブルク版個人全集は全33巻をもって完結した。

この33巻の題名を列挙すると、次のようになる。(カッコ内の数字は発行年)

(1)砂漠とハーレムを越えて(1892年)、(2)荒野のクルジスタン    (1892年)、(3)バグダードからイスタンブールへ(1892年)、(4)
バルカンの峡谷にて(1892年)、(5)スキペタール人の国を通って(1892年)、(6)ジュート(1892年)、(7)~(9)赤い紳士ヴィネトゥー1~3(1893年)、(10)オレンジとナツメヤシ(1893年)、(11)太平洋にて(1894年)、(12)ラプラタ河にて(1894年)、(13)アンデス山中にて(1894年)、(14)(15)(19)オールド・シュアーハンド1~3(1894-1896年)、(20)~(22)サタンとイシャリオット1~3(1896-1897年)、(23)見知らぬ道で(1897年)、(24)クリスマス(1897年)、(25)彼岸にて(1899年)、(26)~(29)銀獅子の帝国にて1~4(1898-1903年)、(30)そして地上に平和を(1904年)、(31)~(32)アルディスタンとジニスタン1~2(1905年)、(33)ヴィネトゥー4(1910年)

これとは別に、今日の我々から見て非常に魅力的なのは、その内容にふさわしく、ち密な出来栄えの挿絵が豊富に入った絵入り全集が、同じくフェーゼンフェルト社から、1907-1912年に発行されていることである。内容的には、先のフライブルク版の1~30巻を収めたものであるが、各巻の順番は部分的に異なっている。この全集は青色の表紙の装丁で、先の「緑色の全集」と区別している。

 2 ラーデボイル版

1912年にマイが死亡し、その翌年の1913年に「カール・マイ出版社」が、ラーデボイルに設立された。そして「フライブルク版」は、新しいシリーズのタイトル「カール・マイ全集」のもとに継続発行されていった。この全集はマイ未亡人の同意のうえで、同社の社主オイヒャー・シュミットが作家の遺志をついで、マイの全作品を個人全集の形にまとめたものである。そのためフライブルク版には収録されていなかった数多くのマイの作品が順次、収録・出版されていった。そして第二次世界大戦勃発の1939年には、「ラーデボイル版」全65巻になった。それはまずフライブルク版の1~33巻に相当する世界冒険物語を基本としていた。その上に、ウニオン版の青少年向け作品8巻、分冊販売小説15巻、初期の村の物語
や歴史小説7巻、そしてさらに自伝及び詩作品、戯曲の2巻が追加収録されたものである。

このラーデボイル版の発行にあたって、言語面及び内容面で、かなり大幅な編集の手が加えられたことが注目される。具体的には、外国語の引用の誤りの修正、過度に使用されていた外国語の削減、卑猥な表現の除去ならびに全作品の外面的な統一と規格化などである。こうした大幅な編集作業の狙いは、「マイの作品は低俗で汚辱に満ちた文学である」とする、晩年に行われた非難攻撃から作家マイを救うという点にあった。

こうした編集の度合いは、とりわけ分冊販売小説と晩年の作品に著しかったが、カール・マイ出版社は、このラーデボイル版をなお、オリジナル版と称し続けた。その理由として同社は、マイ未亡人クラーラが1930年に行った説明を引き合いに出している。それは「カール・マイ出版社が行っている編集作業は、作家マイが生前出来なかったことを代行してくれているもので、作家自身が行ったのと同じである」というものであった。

 3 バンベルク版

第二次大戦後ラーデボイルが東ドイツ領に組み込まれたため、カール・マイ出版社は西ドイツのバンベルクへ移転した。そしてその地で引き続き全集の補完作業を続けていった。2009年現在、それは93巻に達している。これがバンベルク版であるが、書物の体裁や編集方針は、戦前のラーデボイル版をそのまま引き継いでいる。そしてラーデボイル版、バンベルク版ともに、書物の装丁として、緑色のハード・カバーに唐草模様というフライブルク版の格調の高さをそのまま踏襲している。このバンベルク版が、現在ドイツの一般書店に並べられているカール・マイ全集の正統版である。

     バンベルク版個人全集の表紙(第1巻 砂漠を越えて)

このほかマイ生前のオリジナル版(カール・マイ出版社による編集の手が加えられていない)へのマイ研究者ないしマイ愛好家の熱心な要望に応えて今日、それらの再販やリプリント版が発行されている。各種雑誌に発表された作品や、様々な単行本が数多くリプリントされて、発行されているわけである。その中でもとりわけ注目されるのは、前に述べたフライブルク版全33巻の完全復刻版の刊行である(1982-84年)。これは内容、装丁ともに完璧なものと言え、マイ研究者や愛好家の期待に十分こたえたものと言える。

さらにマイの死後50年たった1962年以降は、その著作権が消滅したこともあって、廉価なポケット・ブック版のマイ全集も、各種発行されている。この中でパヴラク出版発行の全集74巻(1976-78年)は高い評価を得ているが、そのほかは、造本が粗雑であったり、ミスプリが目立ったりといった欠点が多い。

第5節 単行本

マイの青少年向け作品が雑誌『よき仲間』に発表された後、書物の形でも順次発行されていったことは、すでに述べた。このほかにもマイの作品は、全集ではなくて単行本の形でも、1879-1912年の間に、数おおく出版されている。

なかでも注目すべきは、マイの個人全集を最初に出したフライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行された単行本のことである。それらは内容的にみて、それまでマイが書いてきた小説や物語とは違ったものであった。マイの数少ない詩作品「アヴェ・マリア」と「忘れな草」に作者自身が曲をつけた楽譜入りの本が『厳かな響き』と題して、1896年に出版されたのである。

          楽譜入りの本『厳かな響き』の表紙

また1900年には、オリエント大旅行の文学的成果として生まれた、詩と警句を集めた詩集『天国の思想』が発行された。さらに同社からは、1902年に、論争の渦中にあったマイが自己弁護のために書いた『教育者としてのカール・マイ』及び『カール・マイの真相』が出された。
そして1906年には、マイ唯一の戯曲作品『バベルと聖書~アラビア幻想』が刊行されている。この二幕の戯曲は、当時ヨーロッパで展開されていた、バベルつまり古代バビロンとバイブル(聖書)との関連に関する論争に触発されて書かれたものである。

一方、1907年には、一連のエルツ地方の村の物語がまとめて単行本となり、また1910年にはマイの自伝『わが生涯と苦闘』が、フェーゼンフェルト社から出版されたのであった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(05)

その晩年(1900~1912)

 後期作品の執筆

後期作品の特徴は、すでにオリエント大旅行の直前に書いていた『彼岸にて』にもみられるように、隣人愛と平和主義という新しい理念に基づくものであった。もはや男性の英雄ではなくて、祖母の姿に似せて作られた人間精神の象徴ともいうべき女性マラー・ドゥリメーが、中心的存在になった神話的な作品群であった。
そして日常生活の面でも、カール・マイは、新しい生き方をするようになった。オールド・シャターハンドやカラ・ベン・ネムジといった英雄的主人公になりすますという生活態度は捨て去り、またそうした衣装も片づけられた。そしてその館「ヴィラ・シャターハンド」の中を飾り立てていた家具調度類も整理された。

帰国後の最初の作品であった『そして地上に平和を』(1901年5月~9月)は、オリエント大旅行の印象を生かしたものであった。そこには帝国主義及び植民地主義に対する強い反対ならびに人種主義的、宗教的優越意識への断固たる拒否の態度が貫かれている。そして世界の人々を結び付けている連帯の理念と平和主義の教義が延々と展開されているのだ。また当時中国の山東半島へドイツが進出し、キリスト教の布教を行っていたが、それに対する反感から武装蜂起した義和団の反乱というトピックも取り上げられている。そして反乱に対する八か国共同出兵とそれによる残酷な弾圧が厳しく批判されているのだ。

(左)小説『そして地上に平和を』
(右)ノーベル平和賞受賞者ベルタ・フォン・ズットナー女史

 ノーベル平和賞受賞者ズットナー女史との出会い

いっぽうこの作品は、のちの1905年にノーベル平和賞を受賞したベルタ・フォン・ズットナー女史(1843-1914年)とマイとを結びつけることになった。その年の10月、このウィーン出身の作家・ジャーナリストはドレスデンにおいて講演を行ったが、その時マイは彼女と知り合い、自著の『そして地上に平和を』を献呈した。それが縁となって彼女とはその後死ぬまで、いわば「平和主義思想」の同志として親交を重ねたのであった。ズットナー女史はのちにマイにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「あなたは平和の問題やその他のことで、私の思想上の同志です。”上へ向かって高く!”こそ、私たちに共通した合言葉です」

マイの平和主義思想はさらに、第一次大戦前のヨーロッパの平和主義運動とも接点を見出したのである。マイのこの著作を知った、フランスの平和主義を代表する雑誌『法を通じての平和』の編集者から、マイに対して1907年初め、独仏の接近への方策に関して質問状が寄せられた。それに対するマイの回答を短くまとめて、次に紹介しよう。
「1.フランスとドイツの接近の試みは願ってもないことです。・・・誤った道に導かれていないドイツ人はだれしも、フランス人を評価し、尊敬しています。2.フランスとドイツは、20世紀の入り口の門を支える二つの女神の柱にならなければなりません。3.それを達成する一つの試みとして、私は次のことを提案します。それは廉価な週刊誌を両国で発行することです。その雑誌のただ一つの目標は、フランスとドイツの住民を互いに心の内面で結びつけることです。そのために同じ内容の記事をフランス語とドイツ語で発行することです。」

またカール・マイの宗教的信条の面でも、この時期に大きな変化が見られた。北東ドイツのザクセン地方に住んでいたマイの先祖は代々プロテスタントであったが、彼自身はレッシングやヘルダーなどの影響を受けて、一種の啓蒙的キリスト教の立場に立っていた。ところがヴァルトハイム刑務所の教理教師コホタとの接触とそこでのカトリックの礼拝実践、そしてさらにカトリック系の雑誌『ドイツ人の家宝』への寄稿を通じて、やがてカトリックへと接近することになった。そのため「世界冒険物語」をせっせと執筆していたころは、マイはカトリックの作家とみなされていたのだ。

しかしオリエント大旅行の後に、事情は再び変わることになった。今や彼は超宗派で反教義の立場にたって、愛のキリスト教をを唱えるようになったのだ。それは狭い意味で信心に凝り固まる立場を、拒否するものであった。その一方で自分は確固たるキリスト者であると主張していた。しかし後期作品の中で展開されている宗教哲学は、オカルト的、神智学的、神秘主義的要素ならびに他の宗教からの影響をも示しているのだ。

 この時期のマイの私生活

ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。このころ妻エマとの結婚生活は、マイにとって大きな負担になっていたようだ。二人は精神面で結びつくところがほとんどなかった。エマはマイの作品を読もうとはせず、その思考世界にも関心を持とうとはしなかった。そのため読者やファンからの手紙への返事などで、多忙な夫の手伝いをしなかった。さらに彼女は、自分が交際していた女友達を家に連れてきたりしていたが、マイはそれが仕事の邪魔になると感じて、不愉快な思いをしていたという。

こうしたことが重なって、すでにオリエント旅行の途上でも、少なからず好意を感じていた友人の妻クラーラ・プレーンにマイは接近したりしていた。そしてその夫のリヒアルト・プレーンが1901年2月に腎臓病で床に臥せ、やがて死亡した。そのあとクラーラはマイの秘書として雇われることになった。彼女はエマ・マイの名前で、読者からの手紙に返事を書く仕事を任されたのである。そのためもあって、マイとエマとの関係はますます悪化し、しまいにはエマに殺されるのではないかという被害妄想に陥り、彼女が調理した食事を食べなくなった。

後期作品の傑作のひとつ『銀獅子の帝国にて、第3巻』が完成したのをチャンスととらえたマイは、1902年夏、はエマとクラーラという二人の女性を連れて、しばし転地療養の旅へと出かけた。その旅の途中、マイはエマに対して離婚の話を持ち出し、自分はクラーラと結婚すると伝えた。その条件として、年額3000マルクの金を毎年エマに支払うことが提示された。そしてそのことを裁判所に訴え、その訴えは裁判所によって認められた。その後カール・マイは1903年3月30日に、正式にクラーラと結婚することになったのである。

                                         結婚後のマイとクラーラ夫人

この結婚生活は、とても幸せなものだったという。クラーラも性格の上で難しい側面を持ってはいたが、マイを深く愛し、また尊敬もしていた。そして生活面でも精神面でも、カールを強く支えていた。彼女はマイの作品を理解していたため、そのあと起きた裁判でも彼を強力に支援し続けたのであった。とりわけ情緒面でマイをやさしく支えたが、それなしにはマイはその後の歳月を生き延びることはできなかったと思われる。

 マイに加えられた非難攻撃

カール・マイは晩年の10年間、様々な種類の非難攻撃にさらされた。初期のころ各種雑誌や分冊販売誌に発表していた作品が、ほじくり出されて、俗悪で青少年に悪い影響を与えてきた、という非難のキャンペーンを一斉に受けたのであった。それらは主として、彼が経済的な窮状を逃れるために、1880年代の前半から半ばにかけて執筆し、ミュンヒマイヤー社発行の分冊販売誌に匿名で発表した大量の物語に関するものである。それらは推敲する暇もないほど急がされて書いたため、内容的に冗長で、装飾過多で、ぞんざいな出来栄えのものであった。ただ報酬は大変よかったという。
これらは匿名で発表されたのだが、実名が明らかになれば、評判を落とすことは明らかであったので、マイはひた隠しにしていたのだ。

ところがミュンヒマイヤー社の経営をその後引き継いだアダルベルト・フィッシャーという人物が、いわば金儲け目的でそれらの長編小説を、今度はカール・マイという実名を出して、発行しようとしたのである。大人気作家マイの名前を出せば、大きな利益を得られることは間違いない、と踏んでのことであった。オリエント大旅行の最中にそのことを知ったマイは、旅先からフィッシャーに対して発行を差し止めるよう伝えた。しかしマイの前科を知っていたフィッシャーは、マイがそれ以上強くは反対しないだろうと考えて、発行を強行したのであった。

              『絵入りカール・マイ全集』の中の一つ「放蕩息子」の挿絵

こうして全五巻の分冊販売小説が、今度は二十五巻に分けられ、大々的な宣伝広告のもとに『絵入りカール・マイ全集』として刊行されたわけである。旅行から帰ったマイはフィッシャーと何度か話しあって、発行停止を申し出たが、無駄であった。そして弱気になったマイは、1903年2月に、自分の前科を世間に公表しないことを条件に、発行継続を認めてしまったのであった。

しかしその分冊販売長編小説がもとで、青少年に不道徳的な悪影響を与えた作家であるとの非難が、各方面から起こったのである。そのためマイは妥協を後悔して、1905年に再びフィッシャーに発行停止を申し入れた。これも無視されたが、この経営者が1907年に死亡したタイミングで、後継の経営者に対して訴訟を起こした。その結果、分冊販売小説には第三者によってかなり手が加えられたというマイの申し立てが1907年10月に認められて、それ以後それらの作品からマイの名前は削除されることになった。この成果を勝ち取るまでに、実に7年もの歳月がかかったのである。

次に各方面からの批判キャンペーンに目を向けることにしよう。これは彼のオリエント大旅行中に始まり、以後断続的にマイの最晩年に至るまで続いたのであった。
1890年代の成功の絶頂期には起らなかったことが、鳴り物入りの宣伝広告を通じて刊行された『絵入りカール・マイ全集』によって、たぶんに「ねたみ・そねみ」の気分に彩られて、批判・非難の嵐が巻き起こされたのである。それらの批判の基調は、「清らかな世界冒険物語のかたわら、不倫とも不道徳とも言えるような
俗悪小説を書いて、青少年に悪影響を与えてきた」というものであった。

すでにマイのオリエント大旅行中の1899年に『フランクフルター・ツァイトゥング』の文芸欄では、「世界をくまなく旅行してきた世界漫遊者である、とのマイの主張は欺瞞である」と書かれていた。その後、以前はマイのことを高く評価していたカトリック系のジャーナリストによって、「マイは敬虔なカトリック信者を装ってきたが、実はプロテスタント信者なのだ」と指摘された。そして「いっぽうでカトリック系の家庭雑誌ではカトリックの立場にたって、敬虔なタッチで冒険物語を書きながら、同時に性的な描写を含み、不倫や不道徳に満ちた長編小説をカール・マイはたくさん書いていたのだ」と非難された。つまりマイは道徳的・文学的二重人格の持ち主である、というのだ。

この非難の根拠になっている不倫や不道徳な描写については、マイ自身は、「ミュンヒマイヤー社側が、販売効果を狙って、第三者に書き加えさせたものだ」と主張している。1880年代にマイが書いて同社に渡したオリジナル原稿を、同社はその後も公表していないので、この点は明らかではない。しかし『絵入りカール・マイ全集』を読んでも、そうした問題の箇所は量的に少なく、現代の視点から見れば全く無害なものである。それにもかかわらず、非カトリック陣営に属する保守主義者や国家主義者からも、誹謗中傷はやまなかった。

こうした各方面からの攻撃に対してカール・マイは沈黙していたわけではなく、盛んに防戦に努めていた。それは新聞への寄稿、新聞・雑誌への広告、パンフレットの配布、裁判関連の文書、数多くの名誉棄損の訴えなどを通じて行われたものであった。そしてそれらは一定の成果を上げ、マイを支持する賛成派の人々も少なくなかったのだ。彼らは革新派の社会民主党員、数多くの反体制派の人々、前衛の作家・芸術家たち、そしてカトリック伝統派の人たちであった。彼ら支持者たちは、言論発表の機会をマイにいろいろと与え続け、講演会なども用意した。

 名誉回復(1907年)

                                              雑誌『ドイツ人の家宝』

そうしたこともあって1907年には、カール・マイは多くの新聞雑誌に対して、おおむねその名誉を回復することができた。そしてその年の9月には、例の雑誌『ドイツ人の家宝』も、昔の同社の人気作家に再び接近してきたのである。その結果、1907年11月から、マイ最後の大長編小説「アルディスタンとジニスタン」が、その雑誌に掲載され始めた。それはマイが渾身の力を振り絞って取り組んだ大長編の物語で、後期作品の中でも最も代表的な作品といえるものとなった。そのころ彼は健康面でも元気を取り戻していたため、この大作の執筆にあたることができたのであった。

       北米旅行へ向かう船中にて。(左)マイ(右)後列右から2人目がマイ

そうした執筆の合間をぬうようにして1908年の晩夏に、マイは妻クラーラとともに、かねてからの北米旅行に出たのであった。9月5日「ブレーマー・ロイド社」の汽船でドイツを出発し、16日にニュー・ヨークに到着した。そこに一週間滞在した後、アルバーニ、バッファローを経てナイアガラの滝を見物した。その後カナダ側のクリントン・ハウスに宿泊した。そこからタスカロラ・インディアンの住む地域へ向かい、さらに五大湖周辺をトロント、デトロイト、モントリオールという具合に移動した。

10月5日には、マサチューセッツ州のローレンスで金持ちになって住んでいた旧友のペッファーコルンに再会した。そしてその町のドイツ系アメリカ人を前にして、講演を行った。それは「人間に関する三つの問題~我々は何者か? 我々はどこから来たのか? 我々はどこへ行くのか?」と題する講演であったが、大好評を博した。そのあとはローレンスを基地にして各地へ赴いたが、それらは主として休養を兼ねたものであった。そして11月にはボストン、ニュー・ヨークを経て大西洋を渡ってイギリスへ移動した。そこでは主としてロンドンで二週間を過ごしてから、マイ夫妻は12月初めに故郷の家に戻ったのである。

この二回目の海外旅行はオリエント大旅行のような、人生の転機を画すといった性質のものではなかった。またそれは広大なアメリカ合衆国のごく一部を動いたものに過ぎず、マイの作品の舞台になっている大西部にも行かなかったのである。それはすでに老境に入った人物の、息抜きの観光旅行であったのだ。

旅から戻ったマイは仕事を再開して、翌年の1909年6月には、雑誌に連載していた「アルディスタンとジニスタン」の最終原稿を書きあげた。そしてその夏、推敲の手を加えて、同年のクリスマスにはその作品は書物の形で刊行された。この著作は、童話的に場所と時間の制約のないユートピア風にして、人類の歴史を暴力から平和への発展としてとらえて、描いたものである。

そして1909年12月10日には南ドイツのアウクスブルクで、この作品に関連して、「人類の魂の故郷 シタラ」と題する講演を行った。地元の新聞によれば、会場は感激した聴衆であふれかえる大盛況で、隣接したカフェーまで人の群れでいっぱいになったという。その中にマイ作品の熱心な読者で、のちの大作家のブレヒトもいたと思われる。

 最晩年

この時期マイは再び大きな不幸に見舞われた。彼の最晩年を苦しめたのは、ルドルフ・レビウスという執念深い、ある種の政治ジャーナリストであった。はじめは社会民主党に属していたが、のちに転向して反社会民主主義、反ユダヤ主義、国家社会主義の立場に立つようになった人物である。雑誌編集者であった1904年春、この男はマイに接近してきて、かなりの額の借金を請求し、その見返りに支援を申し出た。その要求をマイは拒絶したが、その後もレビウスは半ば脅迫をちらつかせながら、要求を繰り返した。それに対してマイは法的手段に訴えて、その要求を退けることができた。

しかし執念深いこの人物は、その後マイと離婚してヴァイマルに一人寂しく住んでいたエマ・ポルマーを訪ねて、マイとの結婚生活や離婚した時の事情を探り出した。そしてさらにマイの故郷エルンストタールにも行って、その若き日の犯罪行為を調べ上げた。そしてその結果が出版物として公表された。そこではマイは「生まれながらの犯罪者」と呼ばれていた。それに対してマイは再び法的手段をとって、レビウスを名誉棄損で訴えた。ところが1910年4月に行われたベルリン・シャルロッテンブルクの裁判所での公判では、レビウスに無罪判決が下された。これはマイを犯罪者として公的に認めたことになり、マイは破滅的な衝撃を受けることになったのである。レビウスがまき散らした害毒は広くマスコミや世間に浸透し、いまや再びマイに対するかつての誹謗中傷の炎が燃え上がった。そのため彼の本の売れ行きのほうも、激減することになった。

こうした世間からの非難攻撃に対する弁明と反撃そして自己反省と自戒の書としてマイは、自伝『わが生涯と苦闘』を、それこそ最後の力を振り絞って書きあげ、これが1910年10月に刊行された。しかしこのころには心身ともに疲れ果てていたことが、自伝の中でも述べられている。「一年前から夜になると眠れなくなった。・・・そして絶えず激しい神経の痛みをを感ずるようになっている。・・・できることなら死んでしまいたいものだ。」そして1910年のクリスマスに肺炎に襲われ、1911年には病気と心身の衰えで仕事をすることができない状態になった。そのため医師の強い勧告を受けて、5月から6月にかけて妻のクラーラに伴われて、ラディウム療養のためにカールスバートに出かけ、その後さらに南チロルのホテルでのんびり過ごした。こうした長期療養のおかげで、その健康状態は一時的に回復した。

その年の12月初めマイは先のベルリン・シャルロッテンブルクの判決に対する控訴審手続きのための文書147ページを書きあげた。そしてその控訴審裁判がベルリン・モアビットの裁判所で、1911年12月18日に開かれた。レビウス側の検事が、マイの生き方は常軌を逸した奇行に満ちていると非難したのに対して、エーレッケ裁判長は次のように述べた。「しかし犯罪というものは、一人の作家によって作り上げられた奇抜な事柄などではないのだ。私はマイ氏を作家だと思っている」 この時マイは、この理解に満ちた裁判長によって救われたのであった。先の判決は取り消され、レビウスに対しては重度の侮辱罪によって罰金100マルクが課せられた。

 ウィーンでの最後の講演

このようにしてマイはその最晩年において、その名誉を回復することができたのであった。そして世間の風向きもマイに対して暖かいものに変わった。1912年2月1日には、ウィーン在住の作家ローベルト・ミュラーによるマイ擁護のエッセイが公表された。ウィーン文学・音楽アカデミーの責任者でもあったこの作家は、さらにマイに対して、その70歳の誕生記念にウィーンで講演してくれるよう依頼した。この講演依頼の目的は、マイの個人的・文学的名声を再び世の人々の前で明白に回復することであった。当時マイの体調は思わしくなく、医者からは長旅をしないよう勧告されていたが、それを振り切って彼はウィーンに向かったのである。

                        ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」

1912年2月22日、ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」の二千人以上にのぼる聴衆を前にして、マイは二時間以上にわたって(途中脱力状態の発作で短時間中断したが)話をしたのであった。その演題は「高貴な人間の住む天空に向かって」というものであった。このテーマはジニスタンへ向かって上昇しようと懸命に努力してきたマイ自身のことを表している。平和主義運動の担い手ベルタ・フォン・ズットナー女史もやってきて、事前にホテルでマイに会ってから、講演を聴いたのである。彼女の願いを入れて、マイはその講演の中で、最新作『人間の高貴な思想』からの引用もしている。「高貴な人間」という概念も彼女から借りたものであった。そこでは平和の理念が語られたほか、自らの人生の告解も行われた。

この講演は彼の公的人生の最後の成功を画するものとなった。ウィーンの新聞はこのことを詳しく報じた。「彼は歓呼の声で迎えられた。そして最後に、ぎごちなく、頼りなげに、そして明らかに驚いた感じで、みなへの感謝の言葉を述べた。拍手は十倍に強まった。少年たちが席から立ちあがって、彼らにヴィネトゥーをプレゼントしてくれた人物にあいさつした。講演が終わると、拍手は鳴りやまず、退場しようとしたマイの周りを人々が取り囲んだ。」
そうした人々の暖かいまなざしの中で、マイは感極まって「いつまでも変わらぬ心で私のことを!」と叫んだのである。

 ウィーンのカール・マイとクラーラ夫人。生前最後の写真(1912年3月20日)

そのあと3月の冷雨の中、風邪をひいて熱を帯びた体で、彼はラーデボイルの家へ戻った。しかし病床に就くことはなく、クラーラとの結婚記念日である3月30日には再び元気を取り戻したかに見えた。しばらくの間彼は静かに時を過ごし、半ば眠ったようにして、自分が作り出した人物たちと話をしていたという。そして夜の8時ごろ、カール・マイはただ一人妻のクラーラに付き添われて、息を引き取った。
「勝利だ! 大勝利だ! バラが・・・赤いバラだ」
これがその最後の言葉だった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その3)

第3回(最終回)は、南ドイツの古都ニュルンベルク及び大都会ミュンヘンについてお伝えする。

ハンブルクからニュルンベルクへ

7月24日(水)晴れ

午前6時半、ハンブルクのホテルで朝食。7時半、チェックアウト。そしてホテルに隣接したアルトナ駅から地下鉄でハンブルク中央駅へ移動。今日は北ドイツから南ドイツまで、かなりの長距離の鉄道の旅となる。8時28分ハンブルク中央駅発の新幹線ICE1085に乗り込む。そして予約しておいた1等の指定席に3人は座る。
ドイツの鉄道は、日本の新幹線と同じ広軌だが、1等車の場合、片側が1座席、反対側が2座席になっている。2等車の場合は、両側が2座席だ。そのため日本の新幹線の座席のように窮屈ではなく、ゆったりしている。それから昔ながらのコンパートメント式の座席もあるが、私見では最近は、日本と同じ方式が多くなっているような気がする。

列車は、3日前に北上した時とは逆に南下して、フルダ経由で約5時間で、ニュルンベルク中央駅に、13時25分に到着した。そして大きなトランクを引っ張って、駅に近いインターシティ・ホテルへ移動した。14時、そのトランクをホテルにおいて、近くのレストラン”Schwaenlein(小白鳥)”に入って昼食をとる。ここではニュルンベルク名物の小ぶりの焼ソーセージ6本に大量のサラダなどの添え物が付いた料理を注文した。飲み物としては、地元産の黒ビールを頼んだ。
ドイツに限らす、ヨーロッパの普通のレストランでは、食事の際に、昼でも夜でも、飲み物を何にするか聞かれる。久しぶりに食べたニュルンベルクの焼ソーセージは、期待通りおいしかった。

デューラー・ハウス

昼食後、旧市街をぐるりと取り囲んでいる城壁の外側を走っている市電に乗って、城壁の北側に位置している「デューラー・ハウス」へ向かった。アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、ニュルンベルク出身であるが、ドイツ・ルネッサンス絵画の完成者と言われる画家・版画家である。

ニュルンベルクは、中世末期から近世(15,16世紀)にかけて、南ドイツ有数の商工業都市として、商人や職人の経済力を基にして、文化が花開いた所である。ちなみにワグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー(親方歌手)」は、この町の親方(マイスター)であるハンス・ザックスを主人公にしているが、当時の町の雰囲気を今によく伝えている。またこの町は当時は出版都市としても名高かった。15世紀の後半、大規模な出版社を経営していたアントン・コーベルガーがその代表的人物である。彼は印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業者であった。

私はこの「デューラー・ハウス」を、1970年代前半にも訪れているが、今回その内部展示は、以前に比べ一段と工夫が施されていて、実に見応えがあった。

皇帝の城(Kaiserburg)への入り口

そのあと隣接した高台の上にある「皇帝の城]へ行こうとしたが、家内の足が痛んで高台へは登れないというので、断念する。たしかにごつごつした石畳みの道は、大変歩きにくい。その上今日も強い日差しが照りつけた猛暑日で、やむおえないことではあった。条件が良ければ、さして広くはない旧市街を歩いてみて回るのは、特に困難なことではないのだが、今日も異常な暑さなので、仕方がない。

そのため「デューラー・ハウス」近くの停留所から市電に乗って、午後6時ごろホテルに戻った。そして部屋に入り、シャワーを浴び、ゆっくり休息をとってから、一室に三人が集まって、途中で買った大きなサンドイッチを食べて、夕食とした。長旅なので、とにかく無理をして病気になったり、怪我をしたりしては、元も子もない。そのためホテルの部屋の中で、書類を整理したり、テレビを見たりして、その晩はゆったり過ごした。

ニュルンベルク二日目(近郊の町への遠足)

7月25日(木)快晴

ニュルンベルクのホテルで朝食をとる。そして今日は、長男の提案で、近郊にある小さな町「バート・ヴィンツハイム(Bad Windsheim)」へ日帰り旅行をする。
9時5分、ニュルンベルク中央駅発のローカル列車に乗って、北西方向へ向かった。そしてノイシュタインで乗り換えて、目的地に9時58分に到着。1時間足らずの行程であった。

本来はそこからバスに乗って、郊外の野外博物館へ行く予定であった。しかしじりじり照り付ける日差しの中、野外に長時間滞在するのはつらいので、計画を変更。町中にあるユニークな博物館を訪れることにした。

バート・ヴィンツハイムの郷土博物館の入り口

そこは教会を改造した建物で、一種の郷土博物館になっていた。中を見て歩くと、教会の設備はそのまま残されていて、その間に様々な展示がなされていた。全体としてカトリック勢力が優勢なバイエルン州でも、この北部のフランケン地方は、宗派的にプロテスタント地域なのだ。そのためこうした斬新なやり方で、教会の設備を刷新して、地域の活性化を図っているようだ。

木造の教会の建物のすぐ横に、コンクリートの付属の建物がつけられ、エレベーターで二階と三階へ登れるようになっている。三階まで上がってみると、教会の屋根裏の木組みの部分を見ることができて、興味深かった。

バート・ヴィンツハイムの街角

次いでこの小さな町の曲がりくねった狭い道を、少し歩いた。その途中、この写真に見られる街角があった。道の中央には噴泉があったが、19世紀のロマン主義の歌に出てくるような牧歌的な風景だ。その少し先に「コウノトリ亭」と称する一軒のレストランがあったので、その店に入って昼食をとった。ここでもたっぷりとした郷土料理とフランケン地方の地ビールを堪能することができた。

食後は再び列車に乗って、ニュルンベルクへ戻った。そして中央駅の近くにある堂々たる鉄道博物館を訪れた。この町はドイツの鉄道の発祥の地ともいえる所で、1835年、隣町のフュルトとの間にドイツ最初の鉄道が開設されたのだ。イギリスにおける鉄道開設に遅れることわずか数年ということである。それ以来、ドイツ全国津々浦々に鉄道網が張りめぐらされていったのだが、その先駆けとなったのが、ここニュルンベルクなのである。

ドイツにおける産業革命は鉄道網の発達によって促進された面が強いが、そうした輝かしい歴史の第一歩を記したという光栄を、ニュルンベルクの町は担っているのだ。館内にはそうしたドイツにおける鉄道網発達の様子が手に取るように分かる展示がなされていた。中でも注目すべきは、入り口近くにあった堂々たる機関車である。それはニュルンベルク~フュルト間の最初の列車を引っ張っていった機関車「アドラー(鷲)号」で、まさにこの博物館を代表する目玉なのだ。

レクラム百科文庫の自動販売機

博物館を出ようとした時、偶然私にとっては忘れることができないものに遭遇した。それはドイツの文庫本の元祖ともいうべき『レクラム百科文庫』の自動販売機であった。私はドイツ書籍文化史の一環として、このレクラム百科文庫の歴史を研究し、その成果として『レクラム百科文庫~ドイツ近代文化史の一側面~』という本を刊行した(1995年12月、朝文社)。その269ページに「文庫自動販売機の設置」という項目を設けて、これについて説明している。自動販売機による文庫の販売は、1912年から開始されたのであった。そして1930年代の後半まで注目されたといわれている。

そのあと家内と長男はホテルへ戻ったが、私は一人でなおニュルンベルクの旧市街を見て歩くことにした。先にも述べたが、旧市街の周囲には、城(Burg)を守るようにして、ぐるりと城壁が張り巡らされている。ドイツの多くの都市では、中世以来、城を取り巻くかなり広い囲壁の内部に、商人や職人が住んでいた。そのため元来要塞を意味していたBurg(ブルク) が町を意味するようになり、そこに住む人々(市民)は、Buerger (ビュルガー)と呼ばれるようになった。これはフランス語のブルジョアに相当するものだ。日本では「ブルジョア」は単に「金持ち」といった意味合いで使われているが、ヨーロッパでは、中世以来、商工業の担い手として、やがて都市の実権を握るようになったのだ。

19世紀に入ってドイツ語圏の大都会では、旧市街を取り巻く囲壁は町の発達を妨げるものとして取り壊されていった。しかし南ドイツの中小都市では、ここニュルンベルをはじめとして、日本人観光客に人気のあるロマンチック街道沿いのローテンブルクなど、いまだに城壁が残っているのだ。

さて私は二人と別れてから、囲壁の所々に設けられている城門の一つを潜り抜けて、旧市街に入った。そしてまず、囲壁近くにその堂々たる威容を見せている「ゲルマン国立博物館」を訪れた。40年ほど前にも一度この博物館に入ったことがあるが、当時は煉瓦造りの重厚な建造物であった。その後建物全体がぐんと拡張されたようで、コンクリートとガラス張りの新館には驚かされた。
「ゲルマン」という名称がつけられているが、その実態は、さまざまな分野の展示物を所蔵・展示している総合的な大博物館なのだ。その展示があまりに多岐にわたっているので、短時間ではとても見切れない。そうこうしているうちに、午後6時となり、閉館の時刻となって、追い出された。

そのあとは旧市街を北上して、ローレンツ教会に入った。この辺りは旧市街の中心部に近く、人々の往来が激しくなっていた。教会の中にも見るべきものはあったが、午後7時にはホテルに帰ると二人に約束したので、そそくさと出てきて、大通りを急ぎ足で南下した。そして囲壁のすぐ手前にあるマーケットに立ち寄った。そこはかつての職人たちの生活の場だったところだが、狭い小路に立ち並ぶ店を短時間で見て回った。

そして家内と長男が待つホテルへと戻った。そのあと一休みしてから、三人で外に出て、夕食をとる場所を探した。ドイツ料理には飽きていたので、この時は中央駅近くのイタリア料理店に入って、パスタ料理とイタリアワインの食事を楽しんだ。

ニュルンベルクには玩具博物館があるが、昔から玩具の生産と販売が盛んであった。70年代にドイツの放送局に勤めていた時、私は玩具見本市を取材したことがある。また12月にはドイツで最も有名なクリスマス市が立ち、日本からも大勢の観光客が押し寄せている。さらにナチスの時代には、近郊で定期的に華々しく演出された党大会が開かれていた。その様子は、今でもテレビなどを通じて繰り返し、紹介されている。その広大な広場は、なお残っていて、私も一度見に行ったことがある。そのがらんとした空間は、私の目には、まさに「つわもの共の夢のあと」のように映った。

ミュンヘン一日目

7月26日(金)晴れ

午前8時、ニュルンベルクのホテルで朝食。9時20分、チェックアウト。ニュルンベルク中央駅9時55分発のICE503に乗り込み、11時にミュンヘン中央駅に到着した。この町はバイエルン州の州都で、南ドイツ随一の大都会だが、ここへはこれまで何度か来ている。しかし最近は足が遠のいていて、1993年以来、
26年ぶりのことだ。

中央駅構内は大変な雑踏で、その中をガラガラとトランクを引きずりながら移動し、ロッカーにそれらをしまう。そしてただちに地下鉄に乗り、中心部にあるマリーエン広場で下車。そして人々の間を潜り抜けるようにして、新市庁舎前の広場に上がっていく。

ミュンヘンの新市庁舎

この新市庁舎はネオゴッシック様式の建物で、1867年~1909年に建てられた。このマリーエン広場辺り一帯は、ミュンヘンの中でも、一番人気のあるところだ。三人はまずは人ごみを掻き分けるようにして、新市庁舎の中に入り、長い行列に並んでエレベーターに乗り込んだ。降りたところは高さ85mの展望塔の上部であった。この広場周辺は何度も来ているが、塔の上に上がったのは、初めてだ。大都会ミュンヘンのたたずまいを眺望するのに、ここは格好の場所なのだ。

仕掛け時計の人形

そのあとエレベーターで下へ降りて、再びマリーエン広場に出た。12時5分前だ。広場には、前にも増して大勢の人々が集まっている。人々は、新市庁舎正面に取り付けてある仕掛け時計と2階と3階の人形たちを、じっと見ているのだ。正午の時報が鳴り出すと、まず3階の騎士たちがぐるぐる回りながら、正面に出てきては背後に消えていった。次いで2階の町民たちが踊りながら回転して、背後に消えていった。今回はちょうどタイミングよく、この仕掛け時計と人形の踊りを見ることができた。

このイベントが終わると、人々は三々五々、広場を離れていった。我々三人も、すぐ近くの聖母教会の中に入っていった。この教会の2本の塔はミュンヘンのシンボルになっているが、内部はステンドグラス以外は質素だ。そのあと、ミュンヘンで最も古く、11世紀前半からあったペーター教会の中を見学した。この方は内部が大変装飾的で、数多くの人間の彫像が見事だ。

外に出ると、ヴィクトアーリエン市場にぶつかった。たくさんの屋台では、新鮮な野菜、果物、肉類その他の食品などが売られている。市場のそばの一軒のレストランに入り、昼食をとった。外は人々の雑踏でうるさいが、一歩店の中に入ると静かで、バイエルン風の肉料理と本場の地ビールを大ジョッキで堪能する。日本ではドイツビールと言えば、ミュンヘンのビールが最もよく知られているが、自分としてはドイツ各地の地ビールを味うことを楽しみにしている。

食後は、イーザル門を通り抜けて、イーザル川の畔に出た。ミュンヘン市内を流れているイーザル川の名前は、日本ではほとんど無名だが、大河ドナウの支流で、ドイツとオーストリアの国境付近で合流しているのだ。

イーザル川での水遊び

今日もまた、じりじりと太陽が照りつける猛暑の一日で、この暑さをしのぐためか、人々はさして幅の広くない川の中で、水遊びをしている。こちらもできることなら、一緒に川の中に入りたいぐらいだ。ただ、そうもいかないので、三人は近くの山岳博物館の中に入った。

ミュンヘンは南ドイツの中でもかなり南部にあって、町の南には大小の湖が点在している。そしてさらにその南には、オーストリアとの国境をなしているバイエルン・アルプスが、東西に横たわっている。その最高峰はツーク・シュピッツェと言い、ドイツで最も高い山で、高度は3千メートル弱だ。その山頂へは北麓の中腹から空中ケーブルが通じていて、一挙に到達できる。三十数年ほど前に、その空中ケーブルに乗ったことがある。山頂の反対側は、もうオーストリア領なのだ。

この山岳博物館自体はあまり見るべきものがなかった。それで長居はせずに、市電に乗ってミュンヘンの中心部を通り抜けて、中央駅にたどり着いた。そしてロッカーの中からトランクなどを取り出して、地下鉄で市内の西方にあるイビス・ホテルへ移動した。そして途中で買ったサンドイッチ、サラダ、飲み物を、ホテルの部屋で食べて、夕食にした。

ミュンヘン二日目(ローゼンハイムへ小旅行)

7月27日(土) 晴れ

今日は、ミュンヘンの東南部に位置している町ローゼンハイムへ日帰りの小旅行。
ホテルから地下鉄でミュンヘン中央駅へ移動し、ローカル列車に乗り込んだ。そしてほどなくローゼンハイム駅に到着した。駅の周辺はのどかな雰囲気で、ここまで来るともう、アルプスも近い。同時にオーストリア国境もまじかだ。駅前でタクシーを拾い、ただちに中心街から離れた所にある「イン博物館」へ向かった。

イン博物館の外観

そこはイン(Inn)川の畔にある郷土博物館だ。イン川を中心に、この地域で昔から営まれてきた産業や人々の生活について展示した博物館なのだ。館内には人影がなく、受付の老人も手持無沙汰の感じ。それだけにとても親切に、いろいろとこちらの質問に答えてくれた。

このイン川は、源をスイス・アルプスに発し、オーストリア領を通って、やがて南ドイツに入り、このローゼンハイムの町の中を流れているわけだ。そしてさらに北東方向へと向かい、パッサウで大河ドナウに合流している。全長517Kmで、途中にはスイスのサン・モリッツや、かつて冬期オリンピックが開かれたオーストリアのインスブルックなどがある。

展示を通じて知ったことだが、イン川はアルプス周辺のこの地方の人々にとって、昔から物資を運ぶ重要な交通路になっていた。そして素朴な木造の平底船によって、穀物、ワイン、食用油、岩塩、たばこその他が運搬されていたという。館内にはその平底船の等身大の精巧な模型が置かれていて、とても興味深かかった。

平底船の模型

川下への航行には労力を必要とせず楽だが、急流を通過するときは危険が伴った。いっぽう川上への航行は、動力を使わない時代には、人間や動物が川の両側で船を引っ張らねばならなかったという。有名な「ボルガの舟歌」を描いた絵画を思い出し、おもわずその歌の一節を口ずさんでみたくなった。ただし歌詞がうろ覚えだったので、歌うことはやめにした。

やがて19世紀の半ばに蒸気船が導入されると、この点はぐっと改善されたという。博物館で入手した蒸気船を描いた絵ハガキには、1854年という年号が書かれている。

イン川の畔

「イン博物館」を出てから、すぐ近くを流れているイン川の畔に沿って、しばらく散歩した。この辺りは、ローゼンハイム市の郊外にあって、なんとものどかな風景であった。時計を見るとすでに昼時になっていたので、町の中心までかなりの道のりを歩いて行って「木槌亭」という一軒のレストランに入った。ここでも外の席は満員であったが、室内に入ると客が少なく、テーブル席もたっぷり空いていた。しかも外の騒音もあまり聞こえず、落ち着いた雰囲気であった。ドイツ人は,日の長い夏の季節には、太陽の下で過ごすのが好きなようで、たいていの料理屋は、夏には室内ががらがらなのだ。

「木槌亭」の外のテーブル席

今日は土曜日のせいか、町の中心部は、人でいっぱいだ。大道芸人の周りには、人だかりがしていた。帰路、アイスクリームを食べながら、ローゼンハイム駅へと向かった。そして再びローカル線の列車に乗り、午後4時ごろミュンヘン中央駅に戻った。

家内は暑さのために疲れたといって、長男の付き添いでホテルへ戻っていった。こちらは、せっかくの機会で、まだ時間もあったので、中央駅北部の美術館へ向かった。しかし目指す古代美術館は、閉鎖中だったので、近くの近現代美術館に入った。そこではドイツ表現主義の一派「青騎士」グループのカンディンスキーやフランツ・マルクなどの絵画を見て回った。
そして中央駅から地下鉄に乗って、やや離れた所にあるイビス・ホテルに戻った。

ミュンヘンからケルンへ

7月28日(日)曇りのち雨

昨日までの猛暑から一転して、今日は曇天のやや涼しい気候になった。ミュンヘンのホテルで、朝食をとり、チェックアウト。タクシーで中央駅へ向かった。この駅は現在工事中で、外壁の装飾などは隠れていて、中央駅としてのたたずまいは感じられない。その構内を大勢の人々が、忙しそうに動き回っている。この点は、東京の新宿駅とか渋谷駅などとあまり変わりがない。

今日は長男が住むケルンまでの長旅だ。9時28分発のICE61号に乗ったが、列車は西北方面へ向かって走り出した。そしてアウクスブルク、ウルムといった南ドイツの都会を通って、西南ドイツの大都会シュトゥットガルトに着いた。さらに列車は西北へ進み、ライン川畔の町マンハイムに、12時28分に到着した。

この間、前方と斜め向かいの席には、ドイツ人の祖母、両親、姉一人、男児二人の大家族が陣取っていた。そして男の悪ガキ二人が、通路を走り回ったり、寝そべったり、大声を発したり、傍若無人の振る舞いを重ねていた。親も祖母も特に叱ったりする風もなく、周囲の人たちも知らん顔。こちらとしては、困惑はしていても、直接注意するわけにもいかず、迷惑千万であった。1970年代にはじめて西ドイツに赴任した時は、他人の子供であっても、迷惑行為に対しては厳しく叱責する大人がいて、感心したものだ。今回目撃したのが特別なケースなのかどうか知らないが、ドイツの列車の中で初めて体験したことであった。

ライン中流域の渓谷を走る

我々三人は、マンハイム駅でケルン行の特急に乗り換えたが、それによってようやくこの悪ガキ共と別れることができ、ほっとした。そして列車は少し先のマインツからは、ライン川中流域の風光明媚な渓谷の中を走ることになった。マインツからリューデスハイム、コブレンツそしてボン、ケルン辺りまでの間は、いわゆるライン川観光の遊覧船がゆっくり動いているのだが、汽車のほうは谷底の狭いところを川の両岸に沿って走っている。

その間、崖の上には中世以来の古城の数々が見え隠れしている。また岸辺からの斜面にはワイン畑が広がっている。それからまた、歌にもよまれ、日本人にもよく知られているローレライの断崖絶壁もある。このあたり、ラインの流れは曲がりくねっていて、しかも急流である。伝説によれば、このローレライの断崖の上に、一人の乙女が座って、歌を歌っていたが、流れを進んでいた船乗りがその美声に聞きほれるあまり、かじ取りを間違えて岩にぶつかり、命を落としたという。

私が長期滞在していた1970年代や80年代には、日本人へのサービスとして、断崖の下のところに、ドイツ語と並んで日本語のカタカナで「ローレライ」と書かれた看板が取り付けてあった。その後その看板は取り外され、”Lorelei”
というドイツ語の看板だけが残っている。

やがて列車は15時5分、ケルン中央駅に到着した。そして小雨降る中、ただちにタクシーに乗り込み、長男の自宅に戻った。ゆっくり休んでから、夜には長男手作りのスパゲッティとビールの食事をとった。

ケルン滞在(ドイツ最後の日)

昨夜はたっぷり寝て、今朝は午前7時に起床。8時過ぎ簡単な朝食。
11時過ぎ,133番のバスに乗って、旧市街のホイマルクトで下車する。そのあたりから中央駅や大聖堂までがケルンの中心街だ。近くの大型電気店「ザトゥルン」に入り、CD音楽カセットやパソコンなどを見て歩く。そのあと趣のあるレストランや居酒屋が集中しているアルターマルクト地区へ移動した。

そして我々三人が訪れたのは、その中の老舗の居酒屋”Brauhaus Sion(ブラウハウス・ジオン)であった。ここはケルン産のビール(Sion)を醸造している店の直営酒場(レストラン)なのだ。この店で我々は、私が昔務めていた放送局の同僚である吉田慎吾さんと鈴木陽子さんに会って、会食したわけである。もう一人ベルリン在住の同僚永井潤子さんが来る予定であったが、連日の猛暑のために体調を崩して、急きょキャンセルになった。

とはいえ店内は客が少なく、静かな環境の中で、五人は午後1時から5時ごろまで、さまざまな話題を巡ってお喋りを楽しんだ。この二人とは、これまで私がケルンを訪ねると必ずと言っていいほど、しばしば会ってきた仲で、一昨年2017年8月にも、別の居酒屋で会っている。この時は放送局の上司のドイツ人クラウス・アルテンドルフさん及び旧同僚の佐々木洋子さんとそのドイツ人のご主人も出席していて、賑やかであった。アルテンドルフさんは2014年4月に85歳を迎え、それを祝って放送局の旧同僚がおおぜい集まって祝賀会が開かれた。それから数えてもう5年が過ぎ、90歳の高齢で、今年の会食には出てこられなかったのだ。

ケルンの居酒屋での会食(2017年8月)

左から家内、長男、鈴木さん、吉田さん、アルテンドルフ氏

左からアルテンドルフ氏、ケーベルレ氏、佐々木さん、戸叶            

日本への帰国

本日はドイツ滞在の最終日だ。長男の家で午前7時半過ぎに起床。遅い朝食の後、帰国の準備を始めた。大きなトランクやリュックサックに荷物を詰めていく。いろいろ詰めなおしたりした後、結局私のトランクの重量は23キログラム、家内のは20キログラムで、航空機に預ける制限重量の中に納まった。

13時過ぎ、三人はタクシーでケルン中央駅へ向かった。そして14時55分発の列車ICE109号で、フランクフルト空港駅へ移動した。鉄道駅でも空港でも、最近はすべて自動化していて、機械操作を正しくすれば、いとも簡単に済んでしまう。ただ今回は幸い長男がすべて手続してくれたのでよかったが、そうでなかったら困難に陥ってしまったかもしれない。昔私が一人で旅行して回っていた時は、こうした自動化はまだなく、言葉によって問題は解決していたのだ。

それはともかく、そうした手続きを済ませた長男とは、フランクフルト空港駅で別れた。家内と私は二つのトランクをカウンターに預け、出国手続きをしてから、出発ロビー内の免税店などに立ち寄り、お土産を買い足し、搭乗口近くの待合場所についた。
そして18時10分発のルフトハンザ機に乗り込んだ。機内は日本人を中心にほぼ満席。私の隣の席の日本人S氏とすぐに話を始めたが、その人は大学と高校で数学を教えているという。そして今回は数学者の足跡をたどって、イタリアの各地を旅してきたという。私も自己紹介をして、これまでのヨーロッパ滞在中のことを、いろいろお喋りした。そのため機内でも退屈することなく、過ごすことができた。

11時間の長旅の後、翌31日(水)の正午過ぎ、無事羽田空港に到着した。日本を出発した7月16日(火)には日本はまだ梅雨のさなかで、羽田も雨だったが、本日は梅雨が終わり、猛暑の真夏になっていた。預けた荷物を受け取ってから、タクシーで世田谷の自宅に戻った。

 

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その2)

第2回は北ドイツの港町で、旧ハンザ同盟都市のリューベック及びハンブルクについてお伝えする。

フルダからリューベックへ

7月21日(日) 晴れ

朝食後、フルダのイビス・ホテルでチェックアウト。そしてタクシーでフルダ駅へ。9時4分発のICE886号に乗り、ドイツ中央部を北上する。はじめトンネルの多い中部山岳地帯を通り抜け、やがて北ドイツ平原に出る。そして見本市でよく知られた中都会ハノーファー(日本ではハノーバーと言われている)に到着。ニーダーザクセン州の州都だが、第一次大戦以前、ハノーファー王国の都だった。

この王朝からは、18世紀の初め、血縁者が、イギリス国王ジョージ一世として迎えられている。本人は英語ができず、ドイツ滞在が多かったため、その治世、王に代わって行政を担当する首相と内閣の制度が発達したといわれている。「王は君臨すれども統治せず」をモットーとしていた当時のイギリスの政治家にとっては、政治にくちばしを入れられなかったので、都合がよかったのだろう。『世界史用語集』によれば、ハノーヴァー朝(1714~1917)は、その後実に2世紀余りにわたって続いたのだ。

この間、この地域はイギリスと親しい関係になり、さまざまな分野で先進的なイギリス文化や制度が、導入されていったという。たとえば同王国のゲッティンゲン大学は、イギリスからの先端的な文化の導入や人事面での交流があって、当時のドイツの一流大学へと発展した。明治以降、日本からも多くの学生・研究者がゲッティンゲン大学へ留学しているのだ。

さて話は横道にそれたが、列車は12時半に大都会ハンブルクの中央駅に到着した。そして13時4分発のローカル列車に乗り換えて、その北東部にある港町リューベックへ向かった。そしてその中央駅に13時48分に着いた。港町と言っても、この町はバルト海のリューベック湾には直接面してはいず、トラーヴェ川を少し遡った所に位置している。

とはいえ中世後期には、バルト海を中心に北ドイツ、ポーランド、ロシア、スカンディナヴィア地域の諸都市から、さらにライン川をさかのぼった所にあるケルンそして北海に通じたハンブルクや、かなり西のロンドンなどの都市にまで広がって、国際交易のための「ハンザ同盟」の盟主だったのが、このリューベックなのだ。そのため「ハンザ都市リューベック」という称号を持ち、いまなおその伝統を誇りにしているわけである。

さてわれわれ三人は、中央駅のコインロッカーに大きな荷物をしまい、身軽になって、昼食をとるために旧市街へ向かった。そこは中央駅から歩いて行ける距離にあるが、四方を運河で取り囲まれた中の島の上に位置している。この点第1回でお話ししたストラスブールに似ているといえよう。その地域に入る少し手前に、リューベックの象徴としてよく知られ、紙幣の図柄にもなっている「ホルステン門」が見事な姿を見せていた。

ホルステン門

三人はこの門の傍らを通り過ぎて、運河にかかった橋を渡って島の中に入った。そして左折して運河に面した一軒の魚料理店に入った。店の名前は「Seewolf
(おおかみうお)」という。時刻は午後2時半で、店内に客の姿はなかった。しかし尋ねてみると、営業しているという。
三人は席について、まず地元の生ビールを注文。食事のほうはそれぞれ別の魚料理を頼んだ。私は衣つきのタラ料理だが、添え物は好物のジャーマンポテト。ビールにぴったりだ。空腹を十二分に満たしてくれた。店内にはいたるところに、海に関連した品々が置かれていた。また天井からはいろいろな漁具や船の模型などがつりさげられ、まさに港町の雰囲気を堪能できた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”の店の人は素朴で、親切。ドイツ語でこの辺りのことをいろいろ尋ねてみたが、北ドイツ人の特性と言えるのかどうか、静かな調子で淡々と答えてくれた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”

食後には、近くの比較的狭い通りを散歩する。そこは石畳を敷き詰めた道だが、風情はあるものの、でこぼこしていて歩きにくい。とはいえ道路の両側には、北ドイツ特有の茶色ないし黒色の煉瓦造りの数階建ての建物が立ち並んでいる。

煉瓦造りの数階建の建物

その一角にマリーエン教会があったので、中に入る。この教会の目玉は天文時計と立派なパイプオルガンだ。そのオルガンは何故か”Totentanzorgel(死者の舞踏オルガン)と呼ばれている。そして北ドイツ地域の代表的なオルガンだということを、事前に、オルガン奏者でもある家内の実兄の馬淵久夫さんから聞いていた。またバロック音楽の作曲家ブクステフーデが、この教会のオルガンを弾いていたという事も、聞いていた。そのため家内は教会内の売店で、ブクステフーデが演奏した作品を収録したCDを買い求めた。

マリーエン教会の天文時計

マリーエン教会を出ると、日曜の午後という事で、あたりは大勢の人で混雑していた。教会の隣には、見上げると空高くそびえ立つ建造物が建っていた。その建物にはいくつもの尖塔があり、その下に円形がくりぬかれている造形が、特徴と言えよう。大変印象的だ。それがリューベックの市庁舎なのだ。

リューベックの市庁舎

市庁舎前の広場も、人々でごったがえしていた。長男の提案で、その市庁舎の中には入らずに、二・三軒先にある聖ペトリ教会へと向かった。そして教会の塔を、エレベーターで上って行った。そこからの眺めは、旧市街全体を十分見下ろせるばかりでなくて、ホルステン門や遠くの市街地まで、まさに眺望絶佳であった。

そのあと旧市街を離れ、先ほどは傍らを通り過ぎたホルステン門に入っていった。
門の内部は博物館になっていて、昔の人々の暮らしに関連した品々が展示してあった。三階建になっていて、狭い石段を上って、それらの展示を一通り見て回った。

そのあとリューベック中央駅構内のロッカーにしまっておいた、大きなトランクを引き出して、タクシーで町はずれのイビス・ホテルに入った。夕食は、そとで買ったサンドイッチやサラダ、飲み物をホテルの部屋で取った。そして一日の疲れをいやすため、早めに就寝した。

リューベック二日目

7月22日(月)小雨 イビス・ホテルで8時半、朝食。9時半、ホテルを出て、タクシーで、島の一番北の旧市街はずれにある「ハンザ博物館」へ直行する。この博物館は、運河の北側と島の内部を結ぶ城門のすぐ近くにある元修道院の建物を改造して2015年に開設されたばかりだ。ハンザ同盟に関連した本格的な博物館である。中の展示は豊富で、いろいろと体験することができる「体験型の博物館」だ。

ハンザ同盟は、『世界史用語集』によれば、リューベックを盟主として、13世紀後半から発展したもので、ハンザは「商人の仲間」の意味。1358年に明確に都市同盟の形をとった。加盟都市は100を超え、共通の貨幣・度量衡・取引法を決め、陸海軍を維持し、国王や諸侯に対抗して北海・バルト海一帯を制圧した。しかし、主権国家体制が成立し始めた16世紀以降次第に衰え、17世紀初めには、ほぼ実体を失った。
展示を見終わって、博物館の中にあるレストランで昼食をとった。

博物館を出ると、小雨が降りだしてきた。今回の旅行で初めて雨傘を取り出して、石畳の狭い道を移動していった。そして「ヴィリー・ブラント・ハウス」に入った。この町出身のブラントは、1969年から1974年まで、社会民主党の党首として、自由民主党との連立政府で、西ドイツの首相を務めた人物である。
この「ハウス」では、ブラントの生涯と業績を詳しく説明した展示がなされていた。彼の最大の業績は、米ソの冷戦体制のはざまにあって、ソ連、ポーランド、東独、チェコスロヴァキアとの間に、それぞれ条約を結んで、東西間の融和と緊張緩和を図ったことである。その政策は新東方政策として歴史に名を残している。そしてその功績によって、ノーベル平和賞を受賞した。

私はブラントが西独の首相を務めていた時期にほぼ重なる1971年10月から1974年末までの三年間、NHKから派遣されてケルンのドイチェ・ヴェレ(ドイツ海外放送)の日本語番組を担当していた。その時、毎日のようにラジオのニュースや番組などで、ドイツを中心としてヨーロッパ全般の政治・経済・社会・文化などに関して、日本の聴取者に知らせていた。そんなこともあって、ブラントのことは三年間、常に私の関心の的であった。

1972年のことだったと思うが、西ドイツで総選挙が行われた時、ブラントは私が住んでいたケルン市の中心にある広場で、演説を行った。その時私は広場の聴衆の一人として、彼独特の ゆっくりとした、粘り気のある話ぶりに、すぐ近くで接したわけである。また新聞、テレビ、ラジオでは、毎日のようにブラントをめぐる話題に触れていたのだ。
私はその後1983年4月から1986年3月まで、三年間再び同じ放送局で仕事をした。その時は保守系のキリスト教民主同盟のコール首相の時代で、政治ばかりでなく、さまざまな面で、70年代とは違っていた。

さてブラント・ハウスを出てすぐ近くに、西ドイツの作家でノーベル賞を受賞したギュンター・グラスの家もあった。彼もリューベックの出身である。革新系の政治信条の持ち主かどうか、詳しいことは知らないが、ブラントの選挙を応援していたのだ。作品としては『ブリキの太鼓』が代表作と言われ、映画化もされていて、私もその映画を日本で見ている。しかし時間の関係で、その家はパスして、近くにある「ブッデンブローク・ハウス」に入った。                 この建物は「マン兄弟博物館」とも呼ばれているが、ドイツの有名な作家ハインリヒ・マンと弟のトーマス・マンの記念館なのだ。ノーベル賞作家のトーマス・マンは、名高い小説「ブッデンブローク家の人々」を書いているが、彼の親や祖父やさらに数代先の先祖も、リューベックの商人で、市の有力市民なのであった。その代々の家が「ブッデンブローク・ハウス」なのである。マン兄弟はこの祖父母の家を、しばしば訪れていたという。

ドイツを代表する知識人・作家の博物館だけあって、訪れる人は多く、その中には若者たちも少なくなかった。またその展示は実に豊富で、短時間ではとても見切れないものであった。

そこを出てしばらくすると、昨日も見た市庁舎の前の広場が現れた。晴れていたらトラーヴェ川の河口でバルト海に面しているトラーヴェミュンデまで遠出したいと思っていたが、あいにく小雨が降り続いていたので、残念ながらその計画は断念することにした。
そしてそれ以上石畳の狭い道を雨の中歩くのは、決して楽ではないので、早めにホテルに戻って休息した。

そのあと元気を回復したので、夕方の5時半ごろ再び外へ出て、歩いて中央駅周辺へ向かった。そして駅前のイタリアレストランに入って、今回初めてスパゲッティー料理を口にした。味も大変よく、分量もたっぷりしていて、十分満足した。そしてホテルに戻って、早めに就寝した。

ハンブルク見物

7月23日(火)晴れ

今日は再び天気が良くなった。7時起床。8時半ホテルをチェックアウトして、タクシーでリューベック中央駅へ。9時8分リューベック発のローカル列車に乗り、ハンブルク中央駅に9時51分着。そして近郊電車(S-Bahn)に乗り換えて、ハンブルク・アルトナ駅へ移動した。そして駅に隣接した所にある「インターシティ・ホテル」に入った。チェック・インして部屋に入り、荷物を置いて、身軽になって、ただちにハンブルク市内観光へ出掛ける。

ハンブルクはドイツ第二の人口の大都会。これまで何度も訪れたことがある。リューベックと同様に、中世以来の「ハンザ同盟都市」であることが、今でもこの町の誇りとなっている。ドイツ有数の大河であるエルベ川の河口近くの港町であるが、北海に面したその河口からは70キロほどさかのぼった地点に港としての機能が集まっている河川港である。

リューベックはユトランド半島の東側のバルト海に面していたため、16世紀の大航海時代の幕開けとともに大西洋に国際交易の重点が移り、次第に没落していった。それに反して同じハンザ同盟都市であったハンブルクは、大西洋に近い北海に面していたこともあって、その後もうまく立ち回って、貿易を中心に発展してゆき、ドイツ有数の大都会になって、今日に至っている。

私が初めてドイツを訪れたのは1971年秋であった。日本からの飛行機はアラスカのアンカレッジで一度乗り換え、北極上空を飛んでスカンディナヴィア半島を越えて、ハンブルクに到着した。飛行機が空港近くで高度を下げ始め、ハンブルク市が窓の外に見えてきたとき、緑あふれる森の中に赤褐色の屋根の住宅が見事にその色をそろえていた。日本のように建物の色彩がバラバラでなく、実に程よく調和していて、なんと美しいのだろうと感激したものである。

さて今回のハンブルク観光はわずか一日の行程であるため、目的地を港湾地区の見物に絞ることにした。我々三人はホテル近くの停留所からバスに乗って、その港湾地区へ向かった。最初に訪れたのは、エルベ川に面した所に立っている音楽ホール
「エルプ・フィルハーモニー」であった。2017年1月に開館したばかりで、昔の赤レンガ倉庫の上部に,波の形をイメージした総ガラス張りの構造物を載せた、大変ユニークな外観になっている。夏場のため、この時期は演奏会は開かれていないが、開館以来すでにハンブルクの新名所になっていて、この日も大勢の人々が建物を見物するために、押し寄せ、周辺からもうごった返していた。

エルプ・フィルハーモニーの外観

その人ごみに交じって、1階の入り口から長いエスカレーターに乗って、上階へ上った。そこは演奏会場の手前の広々としたロビーになっていて、ガラス張りのため、窓際に近づくと、外の景色への眺望がすばらしい。窓際に沿って移動していくと、ハンブルク市内の街並みがよく見え、また反対側に回ると、眼下に広々としたエルベ川の景観が目に入ってきた。

フィルハーモニーから見たエルベ川

あいにく演奏会場への扉は閉まっていたが、その音響設計には、日本人の豊田泰久氏が携わったという。本当はその音楽ホールも見たかったのだが、それはまたの機会にという事にして、ロビーの一角の土産物コーナーへ向かった。そして記念にブラームスの「交響曲3・4番」が収録されているCDなどを買い求めた。演奏は北ドイツ放送局管弦楽団。ブラームスはハンブルクの出身で、その音楽は北ドイツの重々しい風土を反映しているといえよう。私の大好きな作曲家だ。フランスの女流作家フランソワーズ・サガンに「ブラームスはお好き?」という作品があるが、フランス人の中にもブラームスが好きな人は、少なくないと見える。

「エルプ・フィルハーモニー」を出てから、歩いて港湾地区の一角に集まっているポルトガル料理店の中の一軒の店”Casa Madeira”に入る。どこの国でも港には世界各国の船乗りなどが立ち寄るものだが、この地区には昔からポルトガル人が集まって、一つのコロニーを形成しているらしい。先日ある新聞記事で、16世紀にスペイン・ポルトガルで、カットリック教徒以外のユダヤ人などが、迫害された時、このハンブルクにもかなりのユダヤ人(ポルトガル人)が逃げてきたという事を読んだ。その事と、このポルトガル人コロニーとどんな関係があるのか、調べてみたら面白いだろう、と思った。

この店では三人とも、イカのグリル料理とポルトガル産のビールを注文した。先にリューベックでも魚料理を食べたが、やはり港町にふさわしいものと言えよう。味も分量も満足のいくものであった。ただ一般に内陸部に住む多数派のドイツ人の庶民はあまり魚を食べないようだ。たとえば私が住んでいた内陸部のライン川の畔の都会ケルンで、1970年代、80年代に付き合っていたドイツ人の庶民の中には、魚を食べたことがないといった人も結構たくさんいた。                昼食の後は「エルプ・フィルハーモニー」近くの桟橋から無料の遊覧船に乗って、しばらくエルベ川の両岸の景色を楽しんだ。その船は5分ばかりで、別の桟橋に着いた。そこには、かなり大きな三本マストの帆船が停泊していた。

帆船”Rickmer Rickmers(リックマー・リックマース)号

その船は観光用の博物館になっていて、一人5ユーロ(625円)で、内部を詳しく見て歩くことができるようになっていた。その入場券には、”Museumsschiff   Rickmer Rickmers(博物館船リックマー・リックマース)”と書かれていて、さらに「ハンブルクの浮かぶ象徴」とも付け加えてあった。リックマーは、代々この帆船の持ち主だった一族の名前なのだ。内部の展示を見ていくと、リックマー家が、貿易商人として、19世紀から20世紀にかけて活動してきた様子が、つぶさに分かるようになっていた。

聖ミヒャエル教会

次いで我々は、「水上から見たハンブルクの目印」と言われている聖ミヒャエル教会に入った。北海からエルベ川をさかのぼって数十キロ進んだ地点に立っている、この教会を見た船乗りたちは、ハンブルクの港に着いたことを実感するのだそうだ。
そのあと三人は港湾地区から地下鉄に乗って、ハンブルク市の中心部へ移動した。市の中心には大小二つのアルスター湖があって、緑豊かな地域だが、湖の周辺には高級ホテルや高級レストランが立ち並んでいる。大都会のど真ん中に、これだけ広々とした湖がある風景は、ドイツの他の都市には見当たらない。

その一角に風格のある、壮麗な市庁舎(Rathaus)が建っている。ドイツでは昔からこの市庁舎は、どの町でも、国王や領主から独立した豊かな経済力を持った市民階級が、町の権力を象徴する建物として、誇りにしてきた建造物なのだ。
その近くの屋外カフェーに我々は席を占めた。そして暑さしのぎに、冷たい飲み物を飲みながら一息入れた。昨日リューベックでは小雨が降っていたためかやや涼しかったが、今日のハンブルクでは、再び晴天となり、暑さのほうもぶり返してきたのだ。その暑さをしのぐには、冷たい飲み物だけではなく日陰にいることが肝要だ。幸いわれわれのテーブル席は大きなパラソルによっておおわれていた。そして湖から吹いてくる涼しい風に当たりながら、堂々たる市庁舎を眺めることができた。

アルスター湖畔のカフェ、背後に市庁舎

市内見物はそれぐらいにして、我々はホテルに戻って、一休みした。そして午後7時15分、アルトナ駅近くのレストラン”Schweinske”に入り、夕食をとった。奇妙な名前の店だが、Schwein はドイツ語で豚のことだ。料理のメニューを見ると、やはりポーク料理が目に付いた。そのためこちらもその中の一つを注文し、生ビールをたっぷり飲みながら、ハンブルクの夜を過ごした。

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その1)

私は家内とドイツ在住の長男とともに、2019年7月16日から31日まで、ドイツ各地を鉄道で旅行した。以下3回に分けて旅の模様をお伝えする。第1回は、フランスのアルザス地方及び中部ドイツのフルダ。第2回は北ドイツの港町で旧ハンザ同盟都市のリューベックとハンブルク。そして第3回は南ドイツの古都ニュルンベルクと大都会ミュンヘンについてお話していく

東京からドイツのケルンへ

7月16日(火) この日東京は朝からどんよりとした梅雨空。午前9時、家内と私は迎えのタクシーに大きなトランク2つを載せ、世田谷の自宅を出て、羽田空港へ向かった。9時40分ごろ、国際線ターミナルに到着。ANAの受付に荷物を預け、海外旅行保険の手続きをした。そして構内をしばらく散歩してから、出国手続きをして、出発ロビーへ向かった。窓ガラスの外には、しきりと雨が降り続いていた。

やがて案内アナウンスに従って、ANA(NH223便)の機内に入る。中型機ながら、機内はすいていて、エコノミークラスの座席は半分ほどしか埋まっていなかった。それだけ快適だったのだが、7月16日(火)が、まだ学校の夏休みに入っていないためかと思った。
午前11時15分出発。それから12時間の空の旅だ。日本海を越え、ユーラシア大陸北方のロシア連邦の上空をひたすら西へと進んでいった。その間イヤホーンを耳に入れて、座席の前に設置された画面で、2時間ほどの映画を3本見たり、音楽を聞いたり、あるいは新聞雑誌を読んだりして過ごした。その間に2回の食事と飲み物のサービスを受けた。

途中特に問題もなく、同じ日の午後4時過ぎ、ドイツのフランクフルト空港に到着。入国手続きをし、預けた荷物を受け取ってから、空港内のロビーで長男の出迎えを受けた。今回はケルン大学で宇宙物理の研究員をしている長男の休暇に合わせて、以後2週間、主としてドイツ各地を鉄道に乗って、3人で旅をしたわけである。汽車の切符や宿泊するホテルの予約などは、すべて長男が手配してくれた。

18:09フランクフルト空港駅出発のICE104号(ドイツの新幹線)に乗車。19:05ケルン中央駅到着。ただちにタクシーでケルン市の西郊にある長男の家へ直行。夏時間ということもあって、夏のドイツはまだまだ明るく、日没は午後10時ごろだ。長男の手作りの夕食をとって、その日は彼の家に泊まる。

7月17日(水) この日はそのまま彼の家に滞在して、これからの2週間弱の旅の支度を整える。特に外出もせず。テレビを見たり、3人で雑談したりして、のんびりと休息を取る。3度の食事は長男が作ってくれる。

ストラスブール市内見物

7月18日(木)晴れ

朝食後3人は迎えのタクシーに乗り、ケルン中央駅へ向かう。汽車に乗ってフランスのストラスブールへ行くのだ。8時55分、ケルン中央駅からICE103号に乗り込み、南下してカールスルーエ駅に10時58分着。そこで乗り換えて、11時32分発のICE9574号(パリ行)で、ライン川の西側にあるストラスブールへ向かう。この新幹線はパリ行きだ。ちなみにパリはストラスブールの真西500キロほどの距離だという。

列車はライン川の東側の平地を、しばらく南下した。やがてある地点で西へと曲がり、すぐにライン川を渡ると、そこはもうフランス領のストラスブール(Strasbourg)である。ドイツ語ではシュトラースブルク(Strassburg)というが、フランス東部のアルザス地方の中心都市だ。車中では切符の検札はあるが、国境を越えるからと言って、旅券の検査はない。

ご存知の方もいらっしゃることと思われるが、このアルザスと隣のロレーヌ地方は、近世に入って、ドイツ領とフランス領の間を何度も行き来してきたところだ。中世には神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)領であったが、17世紀の後半太陽王ルイ14世の時代に、フランス王国領に組み込まれた。その後19世紀に入り、1871年ビスマルクがドイツを統一したとき、フランスのナポレオン三世を倒して、アルザス・ロレーヌ地方をドイツ第二帝国領に併合した。その後第一次世界大戦でドイツは敗北し、この地方は戦後のヴェルサイユ条約に従って、再びフランス領になった。しかしこの条約に対するドイツ人の恨みの気持ちは強く、ヒトラーが第二次世界大戦を起こすと、またもやこの地方は(フランスの他の地方とともに)ドイツ占領下におかれた。そしてドイツの敗北とともに、フランス領となって、今日に至っている。

説明が長くなってしまったが、そうこうするうちに列車は12時13分、ストラスブール中央駅に到着した。トランクを引きずりながら、駅前広場に出ると、真夏の太陽がさんさんと降り注いでいた。幸い長男が予約したIbisホテルは駅前にあり、すぐに冷房の良く効いたホテルの中に逃げ込むことができた。日本を出発する前から、フランスの猛暑のことはニュースを通じて知っていたが、その暑さがまだ続いていたのだ。チェックインをし、荷物を部屋の中に移し、一休みした。

ストラスブール旧市街の地図

しかし昼時だったので、部屋には長居せずに、外に食べに行くことにした。中央駅のすぐ近くに、運河にぐるっと取り囲まれるようにして旧市街がある。その運河はライン川に通じていて、中世以来交易のルートになってきたのだ。その旧市街の西南地域に、”Petite France” (小フランス)と呼ばれている一角がある。

我々3人はその地域へ向かって歩いて行ったが、やがて運河を渡ると趣のある地区が現れた。そこには小さな運河が張り巡らされ、優雅な建物が軒を連ねていた。そのあたり一帯には緑も多く、家々は美しい草花で飾られている。また運河には小さな遊覧船の姿が見えた。

その中の一軒のレストラン”Lami Schutz”(ラミ・シュッツ)に入ることにした。建物の周囲は緑に囲まれ、屋外にもテーブルと椅子が並べられていた。そこは小さな運河に面していた。午後1時ごろであったが。幸いその店は込み合っていなかった。運河の反対側の店などは、大勢の人でごった返していたが。3人が座ったテーブルには大きなパラソルが立ててあって、ちょうどうまい具合に強い日差しを遮ってくれていた。幸先の良いスタートだなと感じた。

(屋外レストランの食卓と料理)

3人はまず飲み物として、それぞれ白ワイン(Verre Riesling),四分の一Lを注文した。次いで食べ物として、この店の特別ランチのコース料理を頼んだ。はじめに出てきた野菜と肉を混ぜたサラダは美味で、分量もたっぷり。メインディッシュはカスラー(肉)料理だが、添え物としてドイツ料理でよく出てくる[酢漬のキャベツ(Sauerkraut)]がついていた。人によって好き嫌いはあろうが、私などはドイツ料理で、この添え物には慣れていて、すんなり口に入ってくるのだ。こんなところにもドイツとフランスの中間にあるアルザス地方独特の味があるといえよう。周りを見渡すと、人々は真夏の昼下がりを、のんびりとたっぷり楽しんでいる様子だ。

(グーテンベルクの立像)

食後には旧市街の雑踏の中を散歩して、やがてグーテンベルクの銅像が立っている広場に出た。この銅像を見るのは二度目のことだ。私はドイツの印刷出版の歴史を研究しており、今から20数年前にも、この活版印刷術の父の足跡を訪ねて、一人でストラスブールへ来ているのだ。

グーテンベルクは、西暦1400年ごろ、ドイツのライン川の畔の町マインツで生まれたのだが、若き日に金属加工の技術を習得するために、ライン川をさかのぼって、このストラスブールにやって来たのだ。そこで習得した金属加工の技術を基にして、鉛などの活字を作ったわけである。そして活版印刷術を発明し、その後のヨーロッパの文化や社会の革新・発展に大きく貢献したことは、高校の世界史の教科書にも書かれているところである。19世紀以降、活版印刷術の父としてのグーテンベルクの評価と名声は定まり、それに伴ってフランスでもこの人物は顕彰されるようになったのだ。

そのあとこの町の観光の目玉となっている大聖堂に入り、その中にある有名な天文時計を見る。次いでトラムに乗って、旧市街からやや離れたところにあるヨーロッパ議会を訪れた。ご存知のようにEU(ヨーロッパ連合)の主要機関はベルギーのブリュッセルにあるが、立法機関であるヨ-ロッパ議会の建物は、ベルギーからかなり離れたストラスブールに置かれたのだ。19世紀以来、ヨーロッパの覇権をかけてフランスとドイツは戦ってきた。しかし第二次世界大戦後には、独仏融和を目指しヨーロッパ共同体が生まれ、今日のEUへと発展したわけである。

そして独仏融和のいわばシンボルとして、両国の間を行ったり来たりしてきたアルザス地方のストラスブールにヨーロッパ議会が設置された。去る5月このヨーロッパ議会の議員の選挙が行われたばかりで、日本でもかなり大きく報道されたので、皆様も、ご存じのことと思われる。ちなみにEUの執行機関であるヨーロッパ委員会の新しい委員長として、ドイツの国防大臣フォン・デア・ライエン女史が、このヨーロッパ議会によって承認されたのが、一昨日(16日)の夕方であった。就任は今年の11月であるが、そのニュースをドイツ到着後に、長男の家のテレビで知ったばかりで、その意味でもヨーロッパ議会の建物を見られたことは、私としてはひとしお感慨深いものがある。ドイツの放送では、メルケル首相に次いでドイツの女性が国際機関のトップに選ばれたことを大きく報じていた。

(ヨーロッパ議会の建物)

アルザス欧州日本学研究所訪問

7月19日(金)晴れ

午前7時、ホテル・イビスで朝食。8時半、ストラスブール中央駅へ。8時51分発のバ-ゼル行の列車に乗り込み、9時21分コルマール(Colmar)で下車。駅では、旧知のレギーネ・マティアス女史が出迎えてくれる。このドイツ人女性は、ボーフム大学を三年前に定年退職した日本学研究者だ。私が日本大学経済学部に在職していた1998年、彼女と協力して、両大学間に留学生交換制度を作り上げた。毎年一年間、日本人とドイツ人の学生2~3人が、相手の大学へ留学するというもので、21年経った現在もなお、この制度は続いている。

さて我が家の3人はマティアス女史の運転する車で、アルザスの平原を走り、やがてキーンツハイムという小さな村にある元修道院の建物に到着した。この中に
CEEJA(アルザス欧州日本学研究所)があるのだ。同じく日本学研究者のご主人エーリヒ・パウアーさんとともに、長年収集した日本学関連の蔵書をこの研究所に譲渡し、日本人の同僚や研究者から寄贈された文献資料を加えて、研究所の一角に『日本図書館』を作ったわけである。元修道院の広い建物には、数年前まで成城学園の小・中学校があったという。

(アルザス欧州日本学研究所の建物

建物前で車から降りた3人は、久しぶりにパウアーさんの出迎えを受けた。私はその昔、マティアスさんとパウアーさんの結婚式に参列したことがあるが、それ以来の旧知の間柄なのだ。敷地内にはいくつか建物があり、その中のかなり広い場所をパウアー、マティアス両氏が使用して、『日本図書館』を作っているわけだ。膨大な文献資料はまだ未整理のものも多く、今なお現在進行形であり、二人の生涯の仕事だという。また研究所の中には、ほかの人々も仕事をしていた。

私たちは広大な敷地内を順次案内してもらった。そして目玉の『日本図書館』にも入った。まだ未完成だが、すでに欧州の日本学研究者を中心に、日本からも、我々3人のように、関心を抱いた関係者が視察に訪れているという。

未整理資料を我々に見せてくれるパウアー氏

一通り施設を見せてもらった後、眺めの良い二階の部屋でお茶とケーキで一服し、さまざまな話題を巡って話し合い、旧交をあたためた。さらにパウアー、マティアス両氏が住んでいる居間にも案内された。二人はドイツのマールブルク近郊に家を持っていて、今のところは随時、車で往復している。将来はアルザスに移住する予定だという。居間の一角にある本棚には、マティアスさんも大のファンだというドイツの冒険作家カール・マイ関連の本が並べてあり、その中には私が彼女に贈呈した日本語訳の「カール・マイ冒険物語」全12巻も置かれていた。

(パウアー、マティアス両氏の居間で、私と家内も

12時半、近くのレストランへ移動し、5人でテーブルを囲む。そこでもアルザス料理とアルザスの白ワインを堪能しながら、さらに歓談を続けた。その際最近のドイツ事情を、さまざまな側面にわたって聞かせてもらう。二人は日本語が上手で、時にドイツ語を交えて、主として互いに日本語で会話した。

この昼食の後、パウアー氏と別れ、マティアスさんの運転する車で、近くのカイザースベルクにある『アルベルト・シュヴァイツァー博物館』へ案内された。アフリカの聖者として日本でも知られている人物の生家を改造したものだ。オルガン奏者としても名高く、館内には彼が弾いていたオルガンも展示されていた。シュヴァイツアーは医者として長年アフリカで人々の命を救う活動をしていたが、人類の平和を祈願して、幅広い啓蒙活動にも従事していたという。

そのあとマティアスさんは、ヴォージュ山脈の前に続いている小高い丘の上へ連れて行ってくれた。丘の上から東のほうを眺めると、ぼーっとかすむようにして、ライン川の向こうの[黒い森」(Schwarzwald)が見えた。そこはもうドイツ領で、南北に長く続く丘陵地帯だ。モミの木が群生していて、遠くから見ると黒く見えるので「黒い森」と呼ばれているのだ。また我々が上った丘の上の斜面には、たくさんの墓が立ち並んでいた。十字架の形をしたものが多かったが、中には形の違うユダヤ人の墓とイスラム教徒の墓が混じっていた。第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ人に占領されていたこの地方で反抗する戦いが起こり、多くの人が死んだ、ユダヤ人やイスラム教徒の人たちは、フランス解放のためにフランスの植民地から駆り出されたのだという。

そのあとコルマール市に移動し、マティアスさんと別れた。そして市内の「ウンターリンデン博物館」に入った。見るべきものはいろいろあったが、なかでも中世ドイツのグリューネワルトの祭壇画に、圧倒的な印象を受けた。この博物館を最後にして、コルマールと別れ、再び列車に乗りストラスブールへと戻った。

フルダ大聖堂見学

7月20日(土)晴れ

午前7時。ストラスブール駅前のホテル・イビサで朝食。8時半、ホテルをチェック・アウト。そしてすでに日の照りつけている駅前広場を通りぬけて、ストラスブール中央駅に入る。古典様式の格式ある駅舎は、すっぽりガラス製の構造物によって、おおわれている。駅舎の壁面や柱には見事な装飾が施されているのだが、人々の往来や雑踏に紛れて、ゆっくり鑑賞している余裕がなかった。

9時11分発の列車に乗りこみ、ドイツのフランクフルト中央駅で乗り換え、12時10分には、中部ドイツの小さな町フルダの駅に到着した。この町は冷戦時代には東西の境界線近くに位置していた。しかし統一後は、東のライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンなどへ向かう鉄道の幹線に組み込まれるようになり、私は何度もこのフルダ駅を通過したことがあった。

今回はまだ訪れたことがないフルダ大聖堂を見たいと思って、この町に一泊することにしたのだ。時間を節約するために、駅構内のロッカーに大きな荷物を入れ、身軽になってフルダの町見物へと歩き出した。とはいえ今日も真夏の暑さで、強い日差しが照りつけている。駅前からゆるやかな下り坂になっているメインストリートを歩いて、人々の込み合う通りに面した一軒のレストランにまず入る。

”Schwarzer Hahn” (黒い雄鶏)と称する、この料理屋の店の奥まで入っていくと、外の雑踏や喧騒がまるで嘘のように、聞こえなくなった。広々とした店内にはちらほら客がいるのだが、快適そのものだ。肉料理を注文したのだが、出てきた料理の分量に多さに驚く。

腹ごしらえができたところで、いよいよお目当ての大聖堂へ向かう。西暦8世紀の初め、ライン川の東にはゲルマン民族が住んでいて、住民は古くからの自然崇拝の習慣を維持していた。そこへローマ法王の委託を受けた聖ボニファティウスがイングランドからキリスト教の布教にやって来た。そしてここフルダの近くで、神が宿っているとされ、住民の信仰の対象となっていた大きな樫(かし)の木を、聖ボニファティウスは斧で切り倒した。はじめ神の祟りがあるのではないかと住民は恐れおののいていたが、何事もなかったので、やがてキリスト教を信じるようになったという。そしてその地にドイツで最初のキリスト教の教会堂が建てられた。

十字架をかざす聖ボニファティウスの立像

我々は大聖堂に着くとまず隣接した所に立っている地味なミヒャエル教会を見て、この教会と大聖堂について詳しく説明してある小冊子を入手した。それから大聖堂に入ったのだが、現在立っている建物は、18世紀初めに建て直されたバロック様式の華麗な教会堂なのだ。地下には聖ボニファティウスをまつった堂々たる霊廟があった。黒大理石とアラバスター(雪花石膏)を用いたもので、その品格と威厳に圧倒された。ちなみにボニファティウスは、ここでの布教の後、北の北海岸のネーデルランドの地でも、布教活動を行っていた。しかし志半ばで、異教徒によって殺され、その遺骨はフルダの教会堂にほおむられた。そして以後、殉教者として崇拝されているわけである。

フルダ大聖堂の外観

これに関連してドイツ在住の日本人の友人で、敬虔なるカトリック教徒である吉田慎吾氏から、今回次のようなメールをいただいた。
「フルダにおいでになるなら、ドイツにキリスト教を布教して殺害された聖ボニファティウスの墓にお参りすることを、お勧めします。実はこの人の骨のほんの小さな一部(レリクエ)が東京・小岩のカトリック教会に安置されているのです。分骨の世話をしてくださったのは、当地(ケルン)の故マイスナー枢機卿で、私が帰国の時に持ち帰って、東京教区にお渡ししたものです」

この話を私は今回初めて知って、ドイツ旅行の最後にケルンで吉田さんに会った時、さらに詳しく聞くことができた。
フルダの町の別のところも見て回った後、午後の7時過ぎイビス・ホテルに入った。そして旅の疲れをいやした。