ドイツ近代出版史【6】1914~1933

第一章 第一次世界大戦と書籍取引

戦時書籍販売の特徴

大戦勃発直以前の1914年6月にライプツィッヒで開かれた、書籍とグラフィックの大規模な国際見本市ブルガは、ドイツの出版界にとって極めて重要な国際的な催しであった。しかしその数週間後に戦争がはじまると、ドイツの出版界と外国の出版界との結びつきは、様々な分野で途切れることになった。そしてまた閉ざされた国内市場の中で、書物の滞貨が次第に進行していった。それは一つには、書物が緊急時には必要のないぜいたく品と見なされたことにも原因があった。戦争が始まって数週間後に、雑誌『鉄道図書販売』の冒頭記事に、「一般庶民は戦時中はぜいたく品は買わないものだ」という内容の文章が載せられた。それが書物を指すものであることは、明らかであった。しかし書物の販売や購読が禁止されたわけではなく、戦場や野戦病院にいる兵士のために、書物が寄贈されたりした。そして占領地にいるドイツ人兵士に対して、鉄道で本を送る「鉄道図書販売」が、この動きに追随した。さらに1916年には、「戦地書店」というものが誕生した。

ここで紹介しておきたいのが、1870年の普仏戦争の時に見られた一つの動きである。家庭向けの人気雑誌『ディ・ガルテンラウベ(あずまや)』の発行人E・カイルはこの時戦地を訪れ、従軍兵士に対して、その予約購読を募ったのである。カイルはこれに関連して次のように書いている。「毎月戦地から『ディ・ガルテンラウベ』に対する注文が山のようにやってくる。戦地で注文する人は軍隊のあらゆる野戦郵便網を使え、しかも予約購読なので、一回ごとに金を送る手間も省ける。一方われわれとしては、戦地を訪れる親類や友人のためにも、注文された雑誌を毎週きちんとメッツやパリへ発送する準備ができているのだ。

戦地書店

これと似たようなことが第一次大戦中にもみられたわけである。つまり1914年レクラム出版社は、その百科文庫を100冊づつまとめて、ひと箱にした「携帯用野戦文庫」なるものを作り出し、戦場、野戦病院、捕虜収容所などへ送ったのであった。そして「ご希望とあれば、寄贈者のお名前を箱の上に印刷して差し上げます」との広告文もつけた。一箱あたりの値段は20マルクであった。一冊当たりにすると20ペニッヒということになるが、この安い値段は19世紀の後半からずっと据え置かれていたのである。ついでに言うと、レクラム百科文庫の人気を逆用して、フランス軍はドイツ軍の指導部やドイツ政府を批判する文章を、レクラム百科文庫の表紙に書いて、ドイツ軍の陣地に投下したという。

携帯用野戦文庫(レクラム)

こうした動きの後1916年になって、「戦地書店」が作られたわけであるが、その許可はたいていは大規模な書店に与えられた。そこで販売された出版物の多くは、やはり戦争に関連したものであった。例えばベルリンのG・ジルケ出版社が長期的に売れ続けるものとして推薦したのは、『三国同盟の刊行物に見る世界大戦の勃発』(30ペニッヒ)であるが、これは10か月で2万6千部売り上げた。また月刊誌の『写真で見る世界大戦』(1冊50ペニッヒ)は1号あたり6万8千部であった。

こうした戦記ものの過剰出版に対しては、すでに大戦勃発直後にも、これを嘆く声が聞かれた。先に「百部刷り」という選ばれた読者向けの豪華本の発行者として紹介したH・v・ヴェーバーは、自分で発行していた雑誌『ごちゃまぜ活字』の中で、そうした書物の内容や質について、手厳しく批判しているのだ。その際彼は一部出版社や書店の金儲け主義を激しく攻撃し、「そうした書店は人々が捜し求めている良質な本を戦地に送るべきなのである」としている。1916年2月のある前線報告にも、「内省的な書物への読書傾向は著しく減っている」と書かれている。

戦争中の書籍販売の実態をもっとなまなましい形で暴露的に紹介したのが、ダダイストのヴァルター・メーリングであった。彼は第一次大戦中の回想録『失われた文庫、一つの文化的自伝』の中で、次のように書いている。「“神われらとともに”とクルップ製の大砲には刻み込まれていた。そして“本を前線に送ろう!”と古典の帯紙に肉太活字で書かれていた。これらの本は、ウールのソックス、救急医療品、戦時チョコレートと一緒に、“野戦郵便-愛の小包”として、わが”勇敢なる若者”のもとに送られたのだ。どの新刊書にも、石炭酸と膿の混じった野戦病院のにおいがしみ込んでいた。そして大本営が戦死者のリストを張り出すように、大出版社は“われらの戦死した作家たちのアンソロジー”を陳列した」

その反面、戦争という特殊な状況の下でかえって人々が読書に目を向けるようになった、という側面があったことも忘れてはならない。このことを実証するいくつかの証言を次に紹介しよう。「戦時中という神経を逆なでするような時期だからこそ、人々は書物の力を借りて、より良きより静かな世界に引きこもる必要性を感じているのだ」、「戦時中、たくさんの兵士だけでなく、一般の人々も読書をすることを知った」、「多くの人々は苦難と危機の時代になって初めて、精神的な道具の価値について目を開いた」、「もし私が自分の本棚の中に1920年代を代表する書物を探すとなると、それは私が第一次大戦中に塹壕の中で過ごした青年時代に読んだ本を取り出すことになろう」、「陣地戦は数多くの新しい読者を生み出した。そして戦争の終わりごろには、いくつかの出版社の倉庫は空っぽになっていた」

これらの証言でも分かるように、長い塹壕戦の続いた第一次大戦の前線で、兵士たちは読書をする時間が十分あったわけである。陸軍中尉として従軍していた出版主のH・ベックは、ある戦地書店でシュペングラーの『西洋の没落』を見つけてこれに注目し、戦後自分の出版社からこの本を出版して大成功を収めたという。

紙の管理統制

戦争は一般的に言って、物の生産に有無を言わせぬ影響を及ぼした。とりわけその影響は戦後になって恐ろしいまでに現れた。出版業界に対しては、紙の管理統制による生産減少が悪影響を及ぼした。製紙に関する統制は、大戦中の1916年6月20日に告示された。そして書物は1920年10月1日まで、新聞は1921年4月1日まで、統制経済の下に置かれた。こうした経済的困難の中で、出版社と書店との間の利害の対立があらわになってきた。そして書籍販売業者は自らの利益を護るために、独立した組織づくりを始めるようになった。こうしてベルリンの書籍商ニッチュマンのイニシアティブによって、1916年5月19日に、「書籍商ギルド」が結成された。これは1886年に設立された出版主協会に対抗する形で作られたものであった。しかしこうした動きにもかかわらず、出版界全体の組織である「ドイツ書籍商取引所組合」は存続した。

出版社と書籍商の間の紛争の主たる対象は、物価上昇に伴うものであった。販売業者としては利益を確保するために、各種の割引を廃止したいと考えた。こうして年間予算が1万マルク以下の図書館に対して、プロイセン文部省が1903年に許可した割引を放棄することに、「書籍商ギルド」は成功した。この措置はドイツの他の地域でも相次いで実行されることになった。

しかし戦争による一般的な物価上昇は、さらに出版業界全体に物価上昇割増金の導入をもたらした。つまり書籍の定価を一定率値上げしたのである。これは大戦末期の1918年春に開かれた「書籍商組合」の総会で決議されたもので、ドイツの書籍販売業界のあらゆる分野に拘束力をもって適用されることになった。ただしこの時はプロイセンの図書館及び官公庁は除いて、10%の割増金が決定された。そして1920年1月になって、この割増金は10%から20%に引き上げられた。ただし専門的な学術書の出版社はこの決定に従わずに、10%の割増率に固執した。このような混乱を経て、この割増率は1920年10月には再び10%に引き下げられた。

第二章 インフレの時代と1920年代

インフレーション

1918年11月に第一次大戦が終了した後も、敗戦国ドイツの物価はじりじりと上昇の一途をたどった。そして通貨暴落の速度は、1922年の後半に入るとどんどん上がっていった。やがて出版界としても書物の値段を、従来の物価上昇割増率では調整することができないほどに、貨幣価値の下落の速度は激しくなった。「書籍商組合」としては、出版物の基本価格を何倍にしたらよいかというキー数字を「取引所会報」に発表することによって、このインフレに対応した。その度合いがいかに激しいものであったか、次に見てみよう。1922年9月13日には、キー数字の倍率は従来の60倍になった。そして12月27日には600倍に、1923年6月21日には6300倍に、8月11日には30万倍に、9月7日には240万倍に、11月20日には6600億倍に、そして11月22日にはついに1兆1000億倍にも達した。この時点になってドルを基軸にしたレンテンマルクが導入されて、これによってこの気ちがいじみた狂乱インフレはようやく終息したのであった。

その2週間後の12月5日には、「書籍商組合」もキー数字による勘定を取りやめることにした。紙屑同然になった紙幣の山を大きなリュックサックに詰め混んで、買い出しに出かけたといわれるほど、ドイツ人の心に暗い影を落とした狂乱インフレではあった。今度はこれを本の値段で具体的に見てみることにしよう。例の人気ナンバーワンの「レクラム百科文庫」は、1867年の創刊以来1917年まで半世紀にわたって、1冊の値段が20ペニッヒに据え置かれていた。それから装丁などを改善して25ペニッヒとなり、この値段がしばらく続いた。ところがインフレの終末期には、その1冊の値段は何と3300億マルクにもなっていたのだ。

この狂乱インフレのあおりを受けて、古くから続いていた名の通った老舗の出版社が、数多く倒産した。またこのインフレのために条件販売取引や委託販売取引がなくなり、出版社との直接取引(しばしば前払いで)が主流となった。いっぽうドイツで出版された書物の外国への輸出は、戦争中はほとんど壊滅状態になっていたが、戦後になって徐々に回復し始めていた。ところがドイツの通貨大暴落によって、書物の輸出は今度は極端なまでに増進することになった。それはバナナのたたき売りよりはるかに悪い、本の投げ売りといった感を呈していた。これによってこの時期ドイツの貴重な書物が洪水のように外国に流出したといわれている。

この頃(1923年=大正12年)ドイツに留学していた日本人の学者や本好きのパトロンが、ドイツ語の貴重な文献資料や出版物の数々を、ごく安い値段で大量に日本へ持ち帰ったというエピソードがいくつも残っているぐらいなのだ。

その後の出版業界の動き

さしもの狂乱インフレも1923年末の「レンテンマルクの奇跡」によってぴたりと終息し、ドイツの社会も1929年末の世界大恐慌の発生まで、つかの間の安定期を迎えた。1922年ライプツィヒの出版主ローベルト・フォークトレンダーの提唱によって、書籍取引の根本的な合理化措置として、「書籍商精算協同組合」なるものが設立された。しかし発足早々に狂乱インフレの強烈な打撃を受けて、この組織もしばらくは開店休業の状態に陥った。とはいえ経済情勢の安定化に伴い、この協同組合は徐々に活動を再開し始めた。これは清算取引を中央に集中することによって、簡素化することを狙ったものであった。従来は数多くの出版社とその得意先の間で、個別的に勘定取引が行われていた。それを一つのセンターに集めて、請求業務と支払い業務を行い、同時に配分比によって受け取り手に渡すというものであった。このようにして数多くの帳簿記入をやめて、一回の帳簿記入で間に合うようになったのである。この「書籍商精算協同組合」は、1842年のフライシャーによる「ライプツィヒ注文センター」と同じ考えに基づくものであった。

いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」は1923年に、宣伝広告部門を作った。そしてその二年後の1925年には、組織内部の争いや経済的困難にもかかわらず、その創立100周年記念行事を大々的に祝うことができたのである。またG・メンツ博士によって、ライプツィヒ商科大学内に、書籍取引経営学講座が作られた。さらに狂乱インフレによって吹き飛んでいた書物の定価制度も、その後の安定期に再び採用されるようになっていった。そして1928年には、9000の書籍販売業者と1100を超す出版社の間の取り決めや「書籍商組合」の新しい規約の導入などによって、ドイツの出版業界は再び新たな基盤を獲得した。しかしそれは社会や文化の他の多くの分野と同様に、ドイツの出版業界にとっても、「つかの間の安定期」にすぎなかったのである。

1929年末の世界大恐慌の影響を受けて、売り上げ減少と資本不足、大幅な生産減退と支払い不能といったもろもろの事態に、ドイツの出版業界も陥った。こうした困難は、諸官庁の文化予算の大幅な削減措置によってもたらされた面も少なくない。「書籍商組合」はこうした措置に対して何度も抗議を行ったが、効果はなかった。

出版人養成機関

1920年代の初め、専門的な職業機関としての出版人の養成機関設立の動きが活発になった。これは当初、世紀転換期の代表的出版人の一人であるオイゲン・ディーデリヒスの働きかけによって動いた。その目的は将来の出版人を育てるための職業訓練を、出版界内部の独自の機関で行うというものであった。彼がこれを思いついたのは当時盛んとなっていた青年運動であったというが、何よりも戦後ドイツの出版界が陥っていた窮状が、ディーデリヒスを動かした原動力であった。

1923年、ディーデリヒスは「取引所会報」に一つのアピールを発表したが、それは『変わらねばならない。ドイツ出版界への挑戦状』というタイトルのものであった。これに対する具体的な反応として、ラウエンシュタインで第一回の会議が開かれた。その後の動きは順調で、やがて出版人の養成機関「ユング・ブーフハンデル」が設立された。その活動は多岐にわたっていたが、新人に対して集中的な職業訓練をまず施した。それは夏の合宿コースや職能向上のためのもろもろの研修などであった。今日のドイツではこうした職業訓練や研修は当たり前のことになっているが、当時としては新しい試みであったのである。そしてこうした職業訓練の法制化の考えが、1927年に「タウテンブルク決議」の形で採択されたのであった。しかしこの未来の出版人の養成所は、1933年ナチス政権の誕生とともに幕を閉じることになった。

ブッククラブ

ドイツでは第一次大戦後になって大きな社会変動が起こり、戦前の中流市民階層が没落し、貧窮化することになった。この市民階層こそは書物の潜在的な読者であったのだが、戦後はこの階層の人々にとっても書籍は高いものになった。こうした変化に応じて勢いを増してきたのが、「ブッククラブ」の制度であった。これは出版社が本の買い手を会員の形で確保し、その会員に一般の定価より安い値段で、選定した出版物を届けるという制度である。

この「ブッククラブ」は第一次大戦後に初めて現れたものではなく、その最も初期の形態は1872年に生まれている。この時はクラブの経営者は書籍販売業者と提携したが、出版社側からは激しく攻撃されたという。次いで1891年には、労働者の教育向上の観点(”知識は力なり”とか”書物を民衆に!”といった掛け声とともに)から、「書物の友の会」というものが作られた。その後出版社の中にも、ブッククラブに関心を示すものが出てきた。例えばフランク出版社は自然科学の知識を国民に普及させることを目的に、ブッククラブ「コスモス」を設立した。さらに1916年には「ドイツ店員同盟」が、「ハンザ出版協会」と提携して、「ドイツ国民文庫」を創設した。これらの組織はすべて、労働者や手工業者、店員といった一般民衆の成人教育を狙って作られたものであった。

ところが第一次大戦後に生まれたブッククラブの会員には、いま述べた下層の人々だけではなくて、戦争とインフレで貧乏になった市民階層も含まれるようになった。いっぽうでは戦前の古き良き時代の出版人であったS・フィッシャーのように、20年代の半ばに「書籍市場における異常な静けさ」(1926年)を口にする人もいた。フィッシャーはさらに次のようにも言っている。「人々はスポーツをしたり、ダンスをしたり、夕べともなればラジオを聴き、映画館に行く。仕事のほかに人々がすることは沢山あり、本を読む時間などありはしないのだ。」

たしかに第一次大戦後、ドイツは大衆社会化し、人々の生活行動も戦前に比べてはるかに多様化した。しかしだからといって人々が全く本を読まなくなったのではなくて、実際には読書の形態も書籍販売の形態も多様化したのであった。その一つがここで取り上げているブッククラブというわけである。1924年にライプツィヒに「本のギルド・グーテンベルク」が、ベルリンに「ドイツ書籍協会」の二つが設立された。前者は元来印刷工見習い組合が作ったものである。次いで1925年には「福音派ブッククラブ」と「ボロモイス協会ブッククラブ」が、1926年には社会主義的傾向の「ビュッヒャークライス」が、そして1927年には「ドイツ・ブッククラブ」が生まれたのである。ブッククラブは元来会員に対して、配給するすべての本について予約購読制をとっていた。しかし先の「ドイツ書籍協会」の場合は、提示した本の中から年間70~80点を選ぶことができた。また「福音派ブッククラブ」の場合は、会員以外にも、値段を高くして、一般書店を通じて提供していた。

学術図書館への財政援助

第一次大戦を通じてドイツは諸外国と各方面で交流を欠くことになったが、外国書の文献もこの間ドイツに流入しなくなった。そのためこうして生じた外国語文献の調達を図ることを目的として、F・S・オットーのイニシアティブによって、1920年に「ドイツ学術支援組織」なるものが創設された。その基本理念は「世界中で出版された学術図書の中の重要なものは、ドイツ国内のどの図書館にも少なくとも一冊は備えておくべきである」というものであった。つまりどんな地域に住んでいる人にも、そうした書籍文献に容易に接することができるように、という分散的収集の考え方なのであった。

と同時に図書館相互間の貸出交流の活性化も図られた。この考え方のモデルは、二十世紀の初めにアルトホフがプロイセン学術図書館のために実現したものであった。「ドイツ学術支援組織」は1920~1932年の間、各地の図書館の外国書収集のために、総額870万ライヒス・マルクを支払った。そしてその調達に当たっての実際の業務は、国立図書館交流機関と共同で行った。

ところが1929年の世界大恐慌のあおりを受けて、「ドイツ学術支援組織」の予算は削減され、やがて全面的に撤廃されることになった。その結果、例えばテュービンゲン大学では、1931年には一度に530種類の雑誌が削られ、その続きのものは当分の間調達されないことになったのである。一般に文化予算は経済危機の時代には真っ先に削られる傾向があるが、この時の措置もまさにこの原則が当てはまったのである。この経済危機の時代、ドイツでは出版社や書店の多くが倒産した。このことは『書籍取引所会報』に、出版社などの和議や破産申請が、再三再四にわたって、掲載されたことからも分かるのである。

水が豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~前編

はじめに

2024年4月1日(月)から9日(火)まで、ドイツ旅行をしてきた。今回は目標を首都のベルリンとその周辺のブランデンブルク地方を見て回ることに定めた。
まずベルリンでは、この10年ほど会えなかったニコライ出版社の社長ディーター・ボイアーマン氏に再会することにした。彼は、20数年前私が『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』という著作を刊行するにあたって、大変お世話になった人物なのだ。
その後ブランデンブルク地方を少しばかり旅したのだが、そのきっかけは昨年5月のドイツ旅行の際、ふとしたことからベルリン北部のオラーニエンブルクという小さな町を訪れ、そこで手に入れた ”Die Mark BRANDENBURG”
(ブランデンブルク辺境地方)という雑誌数冊の記事に触発されたことであった。この雑誌はこの地域を対象に、その歴史、地理、文化、産業などを広く扱っているが、毎号テーマを決めて、豊富なカラー写真を取り入れて、非常に詳しく、しかも一般の人にも分かりやすく解説している。

その中の一冊に「誰がわれわれのためにdie Mark(辺境地方)を発見したのか。作家、芸術家、学者」というタイトルのものがあり、その第一に19世紀の著名な作家テオドール・フォンターネが取り上げられている。この作家は日本ではドイツ文学者によっていくつかの小説が翻訳されており、『新集。世界の文学 12
フォンターネ』で、その人物が紹介されているが、私が注目したのは『マルク・ブランデンブルク周遊記』である。そのドイツ語版は5巻にも及び、分厚いので研究者がまとめたドイツ語の縮刷版を、私は手にいれて読んできた。そしてその記述に基づいて私は今回二・三の地域を旅して歩いたわけである。

日本では一般にベルリン市の中央に立ち、テレビニュースなどでもよく出てくるブランデンブルク門とか、クラシック音楽のファンならば、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を通して、ブランデンブルクという名称を知っているぐらいだろう。

現在ブランデンブルクはドイツ連邦共和国の16の州のひとつであるが、その州都は首都ベルリンのすぐ西隣のポツダム市である。地理的には北ドイツ一帯に広がる広大な平野の一部で、おおざっぱに言って西はエルベ川、東はポーランドとの国境をなしているオーデル川にはさまれた地域である。それらの支流を含めて幾多の河川や運河が流れ、また大小無数の湖が点在するなど、豊富な水に恵まれた地方だといえよう。

     

ドイツ東部の地図
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24「ドイツ全図」
から)

今回の旅ではそのうちの二・三の地方を見て回っただけであるが、それらの地域のささやかな個人的な印象を以下に記すことにしたい。

第一日 4月1日(月)曇り
羽田からフランクフルトへ

次男が運転する車に私と見送りの家内も乗り、羽田空港に午前9時半ごろ到着。ルフトハンザ航空の受付けにトランクを預けてから、海外旅行保険を契約。その後しばらく次男と家内と歓談した後、搭乗口へ向かう。荷物検査は簡単だった。機内は満席で、両翼の上あたりの通路側の席に座る。予定より30分遅れて午前11時15分出発。飛行機は北東方向に飛ぶ。座席向かいの画面で、映画や音楽を視聴したり、コンピュウター相手にチェスの対局を楽しんだりする。相手は指し手が速く強いが、一局勝つことができた。やがてベーリング海峡を抜け、北極海上空に入ったが、グリーンランドの白い氷山の連なりが印象的。14時間の滞空時間はやはりものすごく長く、狭いエコノミークラスの座席に座っているのは、苦痛だ。
やがてノルウエー上空からデンマークを通り、ドイツに入ってフランクフルト空港に到着した。入国審査にかなり時間がかかったが、その後荷物はすぐに受け取り、出口に出る。そこでドイツ在住の長男哲也の出迎えを受け、一緒に迎えのマイクロバスでNH空港ホテルへ移動した。外はうすら寒く、まだ冬だ。ホテルに入りチェックインしたが、受付には復活祭のウサギのぬいぐるみが飾ってあった。ドイツでは先週金曜の受難日から本日月曜まで4日間、復活祭の祝日なのだ。また昨日の日曜(3月31日)から夏時間となり、日本との時差は7時間になった。
長男は今回の旅に同行するのだが、私のために往復の航空券やホテルの予約、鉄道の切符などの手配をすべてやってくれた。一息ついてから、長男が私の部屋に来て、今後の予定について相談した。

第二日 4月2日(火)曇り・小雨
フランクフルトからベルリンへ

ホテルで午前6時ごろ起床。昨日の長旅で疲れてはいたが、いつものように夜中に3,4回目が覚め、トイレへ。7時20分長男とともに、一階の朝食会場へ。セルフサービスだが、朝食中、窓から大きな飛行機がすれすれに飛行するのを目撃。8時15分チェックアウト。ホテルのバスで再び空港へ。そしてSバーン(電車)でフランクフルト中央駅へ移動する。時間があるので、構内ラウンジでゆったりドイツ語の新聞を読みながら、休憩。
そしてプラットフォームの先端の場所で10:13発のICE(特急)を待つ。かなり遅れて列車は到着したが、ドイツでは珍しくはない。指定席に座って、やがて列車は悠然と出発した。フルダを経由して、ドイツの「心臓部」と呼ばれるチューリンゲン地方を西から東へそして北東へと移動。つまりアイゼナハ、ゴータ、エアフルト、ワイマールからハレを通ってベルリンヘ向かうのだ。地図を広げて確かめながら、車窓の景色を楽しんだ。

車中で地図を広げている私

途中風力発電用の風車や太陽光パネルをたくさん見る。そして列車は南からベルリン中央駅の地下フォームに15時15分に到着した。中央駅から、去年の旅でも利用したU5の地下鉄に乗り、マグダレーナ駅で下車。広々とした大通りを歩いて、
NHBerlinCityOstホテルに入る。中央駅から東へ向かい13の停留所で20分という便利さだ。NHホテルはドイツ全国にあるチェーン組織のホテルだが、ベルリン中心部にある店はやはり高く、割安のここのホテルを長男は予約したわけだ。去年の5月も今年もユーロに対して円安で、何かと節約しなければならないのだ。
チェックインして、一休みしてから隣のイタリア料理店で昼と夜の中間の食事をとる。その後近くのスーパーに入り、家内に頼まれたドイツの日常品や土産物を買う。
長い空の旅とその後の鉄道旅行で、やはり体は疲れていたので、明日の準備をしてから早めにベッドに入る。

第三日 4月3日(水)曇り・小雨
「ニコライ・ハウス」訪問

朝6時半起床。7時テレビニュースを見る。7時半長男と一緒に一階の食堂へ行き、朝食をとる。セルフサービスだが、席はゆったりとしていて、食事をしながら長男と8時過ぎまで歓談する。9時ホテルを出て、曇り空で寒々とした中、地下鉄に乗り、都心部の「博物館島駅」で下車。ウンター・デン・リンデン大通りを横切り、かつてのプロイセン王国のベルリン王宮の外観を再建したフンボルト・フォーラムの横を歩いて9時半過ぎ、「ニコライ・ハウス」に到着した。ニコライ出版社の社長ボイアーマン氏(Beuermann)と、ここで会う約束をしていたのだ。約束の時間よりやや早く着いたが、建物の中でしばらく待つ。

やがてボイアーマン氏が現れ、10年ぶりの再会を果たす。まずは館内で記念の写真を撮る。

ボイアーマン氏と私の二人の写真

次いで「ニコライ・ハウス」の館長をしている女性のショイアーマン((Scheuermann)さんが現れた。7,8年前に館長に就任したという彼女とは初めての出会いであったので、自己紹介を兼ねて、二十年ほど前に刊行した『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』を献呈した。それから日本からの土産として能の舞扇をプレゼントした。

舞扇を広げて見ているショイアーマンさん

ボイアーマン氏には同様の舞扇と観世流の能楽師の舞台写真のカレンダー及び能楽に関する英文の本を贈呈した。そして自分が趣味として能楽関連の謡曲を習っていることも説明した。

その後館長のショイアーマンさんが、「ニコライ・ハウス」の内部を案内してくれることになったが、その前に建物の正面に出て、ブリュダー街13番地のこの家がたどってきた歴史的経緯を説明してくれた。この建物にニコライの名前がついているのは、18世紀の成功した出版業者で作家のフリードリヒ・ニコライが1787年から死亡した1811年まで住んでいたことによるのだ。この場所は旧プロイセン王国のベルリン王宮のすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人々や馬車で大変賑わっていた。1730年に王国の大臣によって建てられた大邸宅をニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そして晩年の24年間を過ごしたこの邸宅は、当時ベルリンの精神的な中心の一つであり続けた。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたという。
ニコライ死亡の後には、この建物は別人のものになったが、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。第二次大戦では部分的に損傷を受けたが、大したことはなく、東独時代には党の事務所として使われていたという。

建物正面前での記念写真(ボイアーマン氏、ショイアーマンさんと私)

正面の壁に貼られたニコライ顕彰板。この家にはフリードリヒ・ニコライ(1733年3月18日-1811年1月8日)が、1787年からその死亡まで住んでいた。この作家、歴史家、批評家、出版業者は「ベルリン啓蒙主義」の代表的存在である。

実は私がこの建物を訪れたのは初めてのことではなく、1999年にボイアーマン氏が連れて行ってくれていたのだ。その時のことは私の研究書『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(2001年2月、朝文社)の中に書き込むことができた(190頁~192頁)。その時建物の内部もざっと見せてもらったが、かなり荒れた感じで、この時点ではまだ内部の整備が十分ではなかった、という印象を私は抱いていた。
その後2011年に「ドイツ文化財保護財団」が、「ニコライ・ハウス」の管理を引き受けたという事で、その頃から建物の外装や内装を修復する作業が急速に進んだようだ。

さてショイアーマン館長はその後、建物の中の案内をしてくれた。一階入り口から二階へ上がるときの木製階段はニコライが住んでいた時に使用していたものだが、その後部分的に損傷があったものの、今では立派に修復されている。

修復された見事な手すりつきの木製階段

その階段を上がって広々とした部屋に案内されたが、そこでは時折ニコライにちなんだコンサートや朗読会が開かれているという。例えば昨年2023年3月18日には、ニコライ生誕290周年を記念した講演会と音楽会が開かれている。このイベントはニコライ・ハウス友好協会の会長でもあるボイアーマン氏が主催しているのだ。私の本にも書いたことだが、ニコライは大の音楽好きで、その最良の歳月には自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身ヴィオラを演奏することもあったという。

さらに二階には大きな会議室もあり、その隣にはニコライ関連の主な書籍を陳列した小型の図書館があった。その中央には彼の主要業績の一つであった『ドイツ百科叢書135巻』のオリジナル本が飾ってあった。またニコライの胸像も見えた。

ニコライ関連の展示品。『ドイツ百科叢書』とニコライの胸像

「ニコライ・ハウス」の中庭

そのほかニコライ関連で様々なものが、あるいは壁面に、あるいはガラス・ケースの中に展示されていた。例えばニコライが『南ドイツ旅行記』を書くための取材旅行で使用した馬車と距離測定器の細密画など、私の本の中でも使わせてもらったものが目に留まった。さらに二階のいくつかの部屋から部屋へと巡り歩いていた時に窓の外の中庭の景観が見えたが、後で階下に降りた時に実際に歩いて見た。

こうして「ニコライ・ハウス」の案内は終わった。この建物について書くことはまだまだたくさんあるが、きりがないのでこの辺にしておきたい。

その後ボイアーマン氏の案内で、ショイアーマンさん、私そして長男が、近くのフンボルト・フォーラムの中のレストランに招待され、昼食をとりながら、さらに歓談を続けた。そしてお二人には別れを告げ、ベルリン市内を遊覧船で見て回るために、長男と私は近くの船着き場に向かった。

ベルリン・ウンター・デン・リンデン周辺
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24。300頁)

この地図をご覧になっても分かるように、私たちがいた「ニコライ・ハウス」は、ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)のすぐ近くにある。そしてシュプレー川をはさんで反対側にあるニコライ地区はベルリン発祥の地域といわれ、東独時代の1980年代から注目されるようになった。そして1230年建造のニコライ教会を中心とした地域にはいくつかの由緒ある料理店やカフェが復活し、その流れは統一後に加速され、今では観光客もたくさん訪れる地区になっている。私はドイツ統一後の早い時期に、このニコライ地区に行き、有名なレストランで食事をしたことがある。

またベルリン王宮について一言付け加えると、この旧プロイセン王国の王宮は、18世紀初頭に建造された。そして第一次大戦後に王国が消滅した後も存続していたが、第二次大戦末期の空爆で被害を受け、戦後東独政府によって取り壊された。そしてその跡地に「共和国宮殿」と称するガラス張りの建物が作られた。その後ドイツが再統一された後は、空き家になっていた。ところがやがて昔の王宮を再建すべしという保守派の声が上がり、それに反対する革新勢力との間で議論が起こり、一般市民へのアンケートも行われた。その結果、妥協策として、王宮のファサードや中庭の一部が復元されたが、その内部は博物館ないしギャラリーとして使われることになった。そしてその名称も、19世紀前半に活躍した知識人フンボルト兄弟の名前にちなんで、「フンボルト・フォーラム」となったわけである。

いっぽう「ブランデンブルク」という名称は、12世紀に、東方植民を進める中で神聖ローマ皇帝が成立させた「ブランデンブルク辺境伯領」という領邦に起源がある。そして15世紀の1415年以降、元来南ドイツ出身のホーエンツォレルン家の領土になった。またドイツ騎士団の団長が新教(ルター派)に改宗し、領地を世俗化して「プロイセン公国」を作り、1618年、ブランデンブルク選帝侯国と合併して、同君連合を形成した。そして17世紀後半、実力者の大選帝侯のもとで、大いに実力をつけ、その息子が1701年プロイセン公国を王国に格上げした。やがてフリードリヒ2世(大王)の時、ヨーロッパの列強の一角を占める強国となった。その後19世紀の後半には宰相ビスマルクの時、ドイツを統一して、1871年プロイセン王国を中核にした「ドイツ帝国」ができあがったわけである。それ以来その首都のベルリンは、ヨーロッパ有数の大都市に成長したのであった。

シュプレー川遊覧船

歴史の話がやや長くなったが、長男の案内で私はニコライ地区の川べりにある遊覧船の乗り場に着いた。シュプレー川遊覧船は冬季には運休していたが、3月末の復活祭の祝日から運航を開始した。私たちはStern(シュテルン社)の船に乗ることになった。往復1時間半のコースで、値段は約22ユーロ(3630円)だ。

コースはベルリンのど真ん中(中心街)の北側に沿っている。これまで陸の側から見てきた建物をおおむね裏側から見るわけだ。出発点はベルリン発祥の地であるニコライ地区である。それでは往復1時間半の船旅で、私が注目した場所を写真で紹介していくことにしよう。最初の橋をくぐると左側にベルリン大聖堂が見えてくる。大聖堂を横から見たのが次の写真である。

ベルリン大聖堂のアップの写真

大聖堂を過ぎたあたりで、反対側を走る遊覧船が見えた。

反対側をすれ違った遊覧船

大聖堂の後、二本の川に挟まれた先端の地点に立つのがボーデ博物館だ。

ボーデ博物館
(博物館島の先端に立っている)

そこを過ぎ2本、橋をくぐったところにSバーン(電車)のフリードリヒ・シュトラーセ駅が鉄橋の上にかかるようにしてあるが、ちょうど電車が停車していた。この駅は冷戦中、ドイツ(ベルリン)が分断されていた時、東側にあり、西ベルリンから東ベルリン地区に観光客などが訪れる時、この駅の改札口に検問所があった。24時間滞在できるビザをその場で発行してもらって、私は二・三度東ベルリン地区に入ったことがある。検問所での検査は極めて厳しかった。西側の新聞雑誌や本などは持参できなかった。それはもう30年以上前のことなのだが。

フリードリヒ・シュトラーセ駅に停車している電車

その先1本橋をくぐると、左側にドイツ連邦議会議事堂が見えてくる。私はこの建物に去年5月に入ったが、その裏側から見るのは初めてだ。

ドイツ連邦議会議事堂を裏側から見たもの

それから2本橋をくぐると、右側にベルリン中央駅が見えてくる。川の側から見るのは初めてだ。

ベルリン中央駅をやや離れた地点から見たもの

中央駅の先、左側に広大なティアガルテンの公園が広がっている。その途中で船はUターンして元のニコライ地区の船着き場に戻った。あいにく曇りから小雨模様になってきたので、それ以上町中を見て歩くのはやめて、地下鉄に乗り、ホテルに戻って休息をとった。そして午後7時、長男が私の部屋にやってきて、サンドイッチをぱくつきながら、明日の行程の打ち合わせをした。

第四日 4月4日(木)晴後小雨
シュプレーヴァルトへの日帰りの旅

6時過ぎ起床。7時朝食。8時、ホテルを出て、最寄りのSバーン(電車)の駅まで歩く。そして一つ目のオストクロイツ(Ostkreuz)駅で、コットブス行きの列車に乗る。ちなみにベルリンには戦前から周辺を取り巻くようにして環状電車の路線ができていた。オストクロイツというのはその環状線の東側で、ほかの路線と交差する要衝の駅という意味である。同様にして南にはズュートクロイツ駅そして西にはヴェストクロイツ駅がある。ただ北のノルトクロイツ駅というものはない。

列車はベルリンから南東部に広がる湖沼地方のシュプレーヴァルト(Spree-wald)を通って、コットブスへ走っていった。この辺りはベルリン市内を蛇行しているシュプレー川の上流地域に当たっている。その中心の町リュッベナウ(
Luebbenau)を過ぎたあたりから駅名にドイツ語とヴェンド語が併記されているのに気づいた。ヴェンド語はこの辺り一帯にかなり昔から住んでいる西スラブ系の少数民族ヴェンド人の言葉なのだ。たとえばドイツ語のRadduschとヴェンド語のRadusが併記されているのだ。

コットブス駅のプラットフォーム

やがて終点の駅コットブス(Cottbus、ヴェンド語でChosebuz)に到着した。見た所、普通の東部ドイツの中都市の駅である。駅は市の南に位置しているが駅前に市電が走っていて、旧市街に通じている。早速その市電に乗り込み、10分ぐらいで旧市街の中央広場(Altmarkt)で降りる。そしてその一角にある聖ニコライ教会に入る。14世紀に建立された後期ゴシック様式のレンガ造りの教会だ。この辺りはニーダーラウジッツ地方と呼ばれているが、この地域最大の教会だそうだ。教会の塔は55メートルあり、塔の上からは緑豊かなコットブスの町が素晴らしい眺めだと、案内書には書いてあるが、歩いて石段を上るのは苦痛なので、やめておく。その代わりに教会の内部をゆっくり見て歩く。星形の丸天井、説教壇、雪花石膏をちりばめた主祭壇など、見事なつくりだ。

聖ニコライ教会の外観

教会を出てから旧市街の東側を流れるシュプレー川を捜して、町中を動き回る。地図を見ながら歩いたのだが、やがて川にたどり着いた。平らな土地をゆっくり流れているが、川幅は狭く、あまり見栄えはよくない。しかし、いたる所木々の緑に覆われていて、散歩するには向いていて、穏やかな気分になれた。

緑に覆われたシュプレー川

その後狭い石畳の道を歩いて、旧市街の中ほどにあるヴェンド博物館に入った。この狭い旧市街には、そのほか市立博物館、ブランデンブルク薬事博物館、シュプレー技術博物館などいろいろ案内書には書いてあるが、時間がないのでこのヴェンド博物館だけを見ることにする。

ヴェンド博物館の外観

入り口から入って受付で料金を払い、荷物をロッカーにしまう。するとすぐ近くの場所で動画が流れていて、席に座ってしばらく見ることにする。ヴェンド人の若者が激しく動いて伝統的な踊りを踊っている。それから美しい民族衣装に身を包んだ男女の若者が、互いに手を組んで歩いていく場面が続いた。女性は白く大きな帽子をかぶり、真っ白で透明な衣装に、赤、緑、黄色など鮮やかな色の帯を締めている。男の方は皆、黒いスーツに山高帽をかぶっている。

華麗な衣装のヴェンド人男女による踊り

そのあとガラス・ケースの中や、壁に貼った展示物などを見て歩いたが、そこにはヴェンド人の風俗習慣や独特の歴史や文化などが、様々な形で紹介されている。その中にはヴェンド語で書かれた聖書もあった。それから19世紀、20世紀のヴェンド人の学者、作家、知識人も紹介されていた。それらの展示は詳しすぎるほどで、丁寧に読んでいくにはとても時間が足りない。ただ、ちょうど復活祭の時期だったので、それに関連して、色とりどりの卵を作っている写真や、実物の卵が売り物として置かれていたのが印象的であった。聞けばヴェンド人は昔から復活祭の卵作りに、熱心に取り組んでいるとのことだ。

彩りの美しい復活祭の卵

ここで案内書に従って、少しばかりコットブスの歴史を紐解くと、シュプレーの周辺には西スラブ系の民族が住んでいて、すでに8世紀には定住の集落があったという。そして1156年にはドイツのシュタウフェン朝によって、一人の城市の司令官が任命されたという文書が残っている。また13世紀にはシュプレー川の渡河地点に商人の集落がつくられた。1405/06年以降、織物業やリンネル織物業があったことが文書によって知られている。そして1701年にフランスから移ってきたユグノー(新教徒)によってもたらされた絹紡績業が、今日の繊維産業の基礎を築いた。
いっぽう17世紀前半の三十年戦争(1618-48年)による事態の急激な悪化は、世紀後半、大選帝侯の努力によってかなり埋め合わせがなされた。そして1726-30年に、新しい市街地が建設された。その後第二次大戦後の東独政権の下1952年に、コットブスはこの地域の中心都市となった。さらに再統一の1990年10月3日以降、ブランデンブルク州第二の都市になった。

なお入手した資料の中には、Wende(ヴェンド人)のほかに、Sorbe(ソルビア人)とも書かれていて、この二つの言葉は、西スラブ系の二つの少数民族のことが混同して用いられているようだ。

このヴェンド博物館にはもっと滞在したかったが、次の予定地のリュッベナウに移動するために時間がなく、やむなく博物館を後にする。そして近くのレストランで食事をしてから、再び市電に乗って鉄道のコットブス駅へ移動する。こうして元来た路線を戻るようにして、シュプレーヴァルトの中心の町リュッベナウ(Luebbenau)へ移動した。

駅前は閑散としていて、町の中心地まで小雨の中を歩いていく。うすら寒くなってきて、徒歩は快適ではない。やがて商店などが立ち並ぶ中心街にたどり着いたが、復活祭の過ぎたただの週日で、しかも雨ふりのせいか人々の姿があまり見当たらない。ここは水郷で観光地なのだが、今日は船着き場は雨のため閉鎖されていて、小舟は運航していない。

小舟の乗り場には運航停止の表示。船にはシートがかぶされている

代わりにシュプレーヴァルトの絵葉書によって、小舟に乗ってシュプレー川遊覧を楽しんでいる様子を、次に示しておく。

シュプレー川遊覧船で楽しむ観光客(絵葉書)

船に乗れなかったので、周辺を歩いていると、「シュプレー川の自然景観保存館」が目についたので、中に入ってみる。川や湖、森や林、そこに生息する動物や鳥たちや植物などを、いかに保護していくかという事が、様々な具体的な展示で説明されている。

この地方の女性の民族衣装

同時にこの地域の自然の、時代による移り変わりについても説明されている。

シュプレーヴァルトの自然の移り変わり

19世紀後半に活躍したドイツの作家テオドール・フォンターネは、前にも述べたように、マルク・ブランデンブルク地方を旅して歩き、「周遊記」を書いたわけだが、もちろんシュプレーヴァルト地方も訪れて、詳しい紀行文を書いている。その分量はかなりのものになるが、少数民族ヴェンド人についても詳しく触れている。フォンターネの時代にはまだ一般の人々が観光して歩く習慣がなかった。フォンターネはこの地域を動き回るにあたって、知り合いの有力者が雇った専用の小舟に、数人の仲間と一緒に乗っているのだ。そして詳しい紀行文を遺しているわけだが、「マルク・ブランデンブルク周遊記」は、ドイツ語版で5巻に及ぶ大著なので、その中身を簡単に紹介することはできない。自分としてはその縮刷版を読んで、旅の参考にしているわけである。

天気さえよかったら、このシュプレーヴァルトをゆっくり船で遊覧したかったのだが、それが叶わなかったので、日が暮れないうちにベルリンへ戻ることにした。

なおこのシュプレーヴァルト訪問をもって、今回の旅行記の前半は終わりにして、残りの4月5日以降の後半の予定を記しておく。5日(金)は、ベルリン市内のフォンターネの墓を訪ねた後、ポツダムのサン・スーシー公園内の新宮殿へ移動する。6日(土)には、ベルリン北西部にあるフォンターネの誕生の地ノイルッピンへの日帰り旅行をする。そして7日(日)には再びポツダムへ行き、ハーフェル(Havel)湖の遊覧船に乗ることにする。