水の豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~後編

ドイツ旅行5日目 4月5日(金)晴れのち曇り

朝食後8時半ホテルを出て、地下鉄U5号線に乗る。そしてウンターデンリンデン駅でU6号線に乗り換え、シュヴァルツコップシュトラーセ駅で下車。近くのフランス人共同墓地に入る。そこにユグノーの子孫テオドール・フォンターネ及びその妻の墓地がある。

テオドール・フォンターネとその妻の墓

フォンターネ(1819-1898)は、フランス人の新教徒(ユグノー)の末裔の薬剤師ルイ・アンリ・フォンターネの息子として、ベルリンの北西部ノイルッピンに生まれ、のちにベルリンに出て、作家として活躍した人物である。その生まれ故郷の町には、明日日帰りで訪れる予定だ。
ユグノーというのは、17世紀の末、フランスのルイ十四世によって迫害を受け、国外に逃れた新教徒のことを言う。当時ドイツ北部ブランデンブルク地方の領主、大選帝侯はそれらのユグノーを積極的に受け入れたわけである。西洋史の教科書にも出てくるが、フランスでは16世紀末に「ナントの勅令」というものを時の国王が発令して、カトリック教徒と新教徒の間の宗教戦争を収めた。以後百年間ほど、新教徒(ユグノー)は、フランス国内で社会・経済的な発展に大いに貢献してきたのであった。彼らは進取の気性に富み、職人や技術者、知識人などを職業としていて、遅れたブランデンブルク地方にとっては、国土の発展に大いに役立つことが期待されたわけである。

さて広々とした敷地の奥まったところにフォンターネの生涯と業績を紹介する建物があった。この作家は墓地に埋葬されている人の中でも、最も有名な人物であるため、こうした施設があるわけだ。

フォンターネの生涯と業績を紹介する建物

それほど広くない建物の中には、極めて詳しい展示が所せましとなされていた。その奥の方には、フォンターネの大きな立像も見えた。

フォンターネの立像

血の気の多い若き日には、彼はベルリンで起きた3月革命に、革命派として暴動に参加して闘った。翌1849年には、それまで従事していた薬剤師としての仕事を完全にやめて、自由な文筆家として活動し続けようと決意した。まず民主主義急進派の「ドレスデン新聞」に政治的文章がいくつか発表され、最初の書籍も出版された。1850年クマーと結婚し、ベルリンのアパートに二人暮らしを始めた。翌年には政府の情報局本部に採用され、情報局特派員としてロンドンに行き、1855年から59年までそこで暮らした。この時期フォンターネは『イギリス通信』という特派員報告を書き、ラファエル前派という芸術運動をドイツの幅広い読者層に初めて紹介することになった。

やがて特派員としての任務を終えて帰国したが、編集者としての職は見つからず、紀行文学に専念した。19世紀の中頃、まだごくわずかな人間しか旅行できなかったため、旅行記はまさにブームだった。これら紀行文に歴史や様々な物語が追加されて、『ルッピン伯爵領』という小品が出版され、翌年の第二版では、『マルク・ブランデンブルク周遊記』という風に改題された。フォンターネはこの周遊記をどんどん追加していって、最終的には5巻にも及ぶ大作となった。この『周遊記』の仕事が、のちの彼の叙事文学の創作活動の素地を形作った。

詳細な展示を見た後、人気のほとんどない静かな墓地の中のベンチに長男と一緒に座って、しばらく休みをとった。

その後フリードリヒシュトラーセ駅で、Sバーン(電車)に乗り換え、ポツダムへ向かう。日本人には、「ポツダム宣言」で知られているが、ベルリン市のすぐ西隣に位置していて、そのあたりには湖が入り組んでいる。ブランデンブルク州の州都であるが、18世紀にプロイセン国王のフリードリヒ大王が作らせた「サンスーシー公園」が町の西側に広がっている。ポツダム宣言は第二次大戦末期1945年7月17日~8月2日、米・英・ソ連の首脳が開いたポツダム会談で発せられたもので、日本に降伏を促したものだ。その時の会談の場所が、「ツェツィーリエンホーフ宮殿」で、会談が開かれた部屋は当時のままに保存され、見学できる。私も20年ほど前にこの部屋を訪れたことがある。もともとはホーエンツォレルン家の最後の皇太子ヴィルヘルムが家族とともに住んでいたところだ。

さてSバーンのサンスーシー公園駅で下車。バスに乗り一つ目で下車。新宮殿に入るための切符を購入する。

サンスーシー公園内の新宮殿

その向かい側にも、とても立派な宮殿風の建物が建っているが、今はポツダム大学の所有になっているという。新宮殿に入るには、ガイドの案内が必要である。そこでドイツ語ガイドのグループに参加申し込みをする。参加客は30人ほどだ。中年女性がガイドであったが、12時から13時までの案内だ。見学客が通る通路には厚手のジュータンが敷かれている。20年ほど以前に入ったサンスーシー宮殿( 1745~1747)では、ジュータンは敷かれていず、見学客は靴を履いたまま、その上に大きなスリッパを履くことになっていた。ちなみに「サンスーシー」とは、フランス語で「憂いなし」という意味で、日本語では「無憂宮」と呼ばれている。18世紀のプロイセン王国の王侯や貴族たちはフランス語で会話していたという。この最初の宮殿はロココ様式の華麗な宮殿で大王自ら設計に加わったという。

20年前のガイドで印象的だったのは、宮殿内部にふんだんに用いられている大理石が、遠くイタリアからはるばる船で運ばれてきたという話だ。当時はそのルートがよくわからなかったが、その後地図で調べたところ、イタリアから船で地中海を通り、ジブラルタル海峡を抜け、さらに英仏海峡を通り、ハンブルクからエルベ川に入り、その川をさかのぼり、支流のハーフェル川に入り、ポツダムに着いたという事だ。内陸にあるベルリンへは河川交通が有効だったのだ。

さて今回のガイドだが、フリードリヒ大王が1763年から1769年にかけ建てたロココ様式の大宮殿で、200以上も部屋がある。入り口近くの洞窟の間は貝殻細工の装飾が見事で、必見と案内書に書かれている。ただそこには奇妙奇天烈な蛇やトカゲや亀や竜などの動物が描かれていて、グロテスクだ。とはいえほかの部屋には見るべきものがたくさんあり、私の好きなチェス盤が中央に置かれた遊戯室もあった。

チェス盤が置かれた部屋

華麗な大部屋

新宮殿を見物した後、公園駅隣にあるビヤホールに入り、昼食をとる。次いでSバーンに乗り、二駅戻って、ポツダム中央駅で下車。駅は20年前に比べて、はるかに整備されていて、大勢の人で賑わっている。駅から離れ、長い橋を歩いて湖のほとりの船着き場を確認した。日曜にその船着場から遊覧船に乗る予定なのだ。

ただこの日はポツダム市内の見学はしないで、電車を乗り継いで、ホテルに戻った。

ドイツ旅行6日目 4月6日(土)快晴

午前6時ごろ目が覚め、着替えて机の前に座り、フォンターネの旅行記の中の  Havelland(ハーフェルラント)の部分を読む。その後7時のテレビニュースを見る。7時半、長男と一緒に朝食をとる。
次いでホテルを離れ、B5地下鉄に乗り、中央駅へ。そこでSバーン(電車)に乗り換え、シャルロッテンブルク駅で、地域急行に乗る。土曜のためか、自転車を電車に載せて旅行する人が多い。ドイツの電車には、そうした自転車を載せる空間があるのだ。ただ我々が座った席が、そうした車両だったので、いささか窮屈な感じはした。地域急行はベルリン環状線を離れ、北西の方向に向かって走っていく。およそ1時間で、ノイルッピン駅に到着した。

ノイルッピン駅のプラットフォームと人々の姿

自転車を載せた客たちもこの駅で下車した。そこからはサイクリングに切り替わるわけだ。その人たちとは別れて、町の中心地へ歩いていく。市域は狭く、碁盤目状に整然としている。 やがて中心広場の近くの場所に一軒の立派な薬局が見えたが、その店の入り口の上の方に、フォンターネの生家という文字が書かれている。かつて彼の父親が営業していた薬局で、フォンターネは7歳まで暮らした。しかし父親が借金のためにその薬局を売却して、別の土地に小さな薬局を開いたので、家族はノイルッピンを去ることになった。それでも後に作家として大成したため、この町は今では Fontanestadt(フォンターネの町)を称しているのだ。

フォンターネの生家(現在は獅子薬局が営業中)

次いで近くの広場へ行くと、その中に建築家のカール・フリードリヒ・シンケル(1781ー1841)の立像が建っていた。シンケルといえば19世紀ベルリンの代表的な建築家で、現在もベルリン中心部に立っているいくつかの建築物の設計者として名高い人物だ。19世紀のノイルッピンは、ドイツを代表する建築家と作家を輩出しているのだ。

公園の中に立つ建築家シンケルの立像

その後旧市街のはずれに近い場所にフォンターネの座像があった。帽子とショールと杖を脇において座っている姿で、片手にペンを握り、もう一つの手にはノートをつかんでいる。いつでも、どこでも、思いつけばそのノートに書きつけていたのであろう。

フォンターネの座像
(帽子とショールと杖を脇に置き、ペンとノートをつかんでいる)

それから旧市街の西側に立っているノイルッピン博物館に入る。この地域の郷土博物館だ。18世紀以来、この町にはプロイセン王国の軍隊の関連施設があった。そのため町の人々は軍隊と密接なつながりがあったという。

ノイルッピン博物館の外観

博物館の詳しい展示を見て歩いて、いささか疲れたので、博物館を出て、すぐ近くのレストランの野外テーブルに座って、昼食をとる。

元気を回復して、こんどはノイルッピンの中心街の東に広がっている湖に出て、湖畔のベンチに座る。湖の向かいには緑がいっぱい広がっている。また湖畔には船着き場があったが、その日は船の姿は見えない。フォンターネはこの湖の周りに沿って歩き回り、その景色などを『周遊記』に書いている。

雲が浮かぶ湖畔の遠景

この日は久しぶりに初夏のような陽気で、ノイルッピンの町を行く人々の姿も夏着が多い。一昨日のシュプレーヴァルトでは、冷たい雨に降り込められたが、4月のドイツの天候は、まさに「気まぐれ」なのだ。

帰り道は来た時と同じ経路で、午後6時前にホテルに戻る。

ドイツ旅行7日目 4月7日(日)快晴

午前6時ごろ起床。7時半朝食。8時半ホテルを出て、Sバーンに乗り再びポツダムへ向かう。中央駅で下車。駅前の長い橋を渡って、湖畔の船着き場に着く。城めぐり遊覧船11時発の切符を買う。1時間半の行程だ。出発まで時間があったので、船着き場のベンチに座って、周囲を観察する。強風で帽子を飛ばされる。

目の前に停泊している2隻の遊覧船

15分前に目の前に停泊している遊覧船に乗り込む。好天なので眺めの良い上の席に座る。そして1時間半の船旅を楽しむ。湖畔に沿って立っている城や建物を見ていくわけだ。

別の船着き場とユニークな建物

自分としてはハーフェル川(湖)をよく知るために長い4時間のコースを希望していたのだが、うまくいかずにやや平凡な城巡りコースで我慢せざるを得なかった。
12時半に船から降り、長男の案内で市電に乗り、オランダ人街へ向かう。赤褐色のレンガ造りの街並みは、見事に調和がとれている。20年前にここへ来たときは、長年放置されてきた街並みの整備が始まったばかりであったが、今回はそれが完成していたのだ。

オランダ人街の整然とした通り

オランダ人街と市電とブランデンブルク門

野外レストラン「さまよえるオランダ人」

このレストランで食事をしたかったのだが、この野外席は使われていず、室内の席はあいにく満員で空席が見当たらず、少し離れた所にあった別の店に入る。そこはミュンヘンの「アウグスティーナブロイ」というビヤホールであった。もちろんこの店のビールは本場ミュンヘンのビールであるから、もちろん味に不満はない。

緑色のドームが輝くニコライ教会

帰路緑色のドームが輝く大聖堂「ニコライ教会」に入る。しばらく席に座って、オルガンの練習音に耳を傾ける。ただ明日のことがあるので、長居はせずに、再びSバーンに乗ってベルリンのホテルに早めに戻る。

ドイツ旅行8日目 4月8日(月)曇り

午前6時、NHホテルで最後の朝食をとる。さすがに早い時刻なので、ほかの客の姿はない。7時チェックアウトして、ホテルを出る。U5番線の地下鉄中央駅へ。長男は後でこのベルリン中央駅からケルンへ列車で帰るので、ひとまず自分のトランクをロッカーにしまう。次いで私と一緒にベルリン・ブランデンブルク空港までSバーンに乗って移動する。この空港は冷戦時代、東ベルリンのシェーネフェルト空港として使われていたが、再統一後は首都ベルリンの新しい空港に生まれ変わるために、大々的な再開発工事をしてきたのだ。途中いろいろとトラブルがあって、なかなか工事は進まず、ようやくドイツの首都にふさわしい大型空港として完成し、開業したのはわずか数年前であった。

しかしベルリン中央駅からは電車で40分で、大変便利になった。ただし日本からの直行便がなく、私としてはフランクフルト空港へ飛んで、そこから東京・羽田へ行くわけだ。出発まで時間があったので、長男はしばらくロビーの座性に座って、私と最後の歓談をする。

ベルリン・ブランデンブルク空港内のロビー

やがて長男と別れて搭乗口へ。途中免税店で、残ったユーロを使って、土産物を買う。10:45分発の小型機は順調にフランクフルト空港まで飛ぶ。そこで羽田空港行きのルフトハンザ機に乗るわけだ。トランクはすでにベルリン空港で預けてあるので、フランクフルトでは、身軽に動くことができた。そして搭乗口から機内に入る。8割がたの込み具合で、日本人乗客の姿は少ない。今回も通路側に座ったが、窓際には女性が座り、その間の席は空席で、気が楽だ。
やがて出発したが、昨年5月の時と同様に、南周り。バルカン半島の上空から黒海上空そしてカスピ海上空と移動し、中央アジアの国々を通り、中国に入り、朝鮮半島を横断して日本列島上空へ。飛行時間12時間半だが、往路と同様に退屈しのぎに、コンピューター・チェスを楽しむ。7局指したが、2回勝つことができた。

ドイツ旅行9日目 4月9日(火)

そうこうするうちに午前10時過ぎ、ルフトハンザ機は無事羽田空港に着陸した。外は激しい雨が降っており、空港ビルのガラスに風雨がたたきつけていた。入国手続きは案外簡単に済み、すぐにタクシーに乗り込み、気持ちよく正午ごろ無事我が家に着いた。

水が豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~前編

はじめに

2024年4月1日(月)から9日(火)まで、ドイツ旅行をしてきた。今回は目標を首都のベルリンとその周辺のブランデンブルク地方を見て回ることに定めた。
まずベルリンでは、この10年ほど会えなかったニコライ出版社の社長ディーター・ボイアーマン氏に再会することにした。彼は、20数年前私が『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』という著作を刊行するにあたって、大変お世話になった人物なのだ。
その後ブランデンブルク地方を少しばかり旅したのだが、そのきっかけは昨年5月のドイツ旅行の際、ふとしたことからベルリン北部のオラーニエンブルクという小さな町を訪れ、そこで手に入れた ”Die Mark BRANDENBURG”
(ブランデンブルク辺境地方)という雑誌数冊の記事に触発されたことであった。この雑誌はこの地域を対象に、その歴史、地理、文化、産業などを広く扱っているが、毎号テーマを決めて、豊富なカラー写真を取り入れて、非常に詳しく、しかも一般の人にも分かりやすく解説している。

その中の一冊に「誰がわれわれのためにdie Mark(辺境地方)を発見したのか。作家、芸術家、学者」というタイトルのものがあり、その第一に19世紀の著名な作家テオドール・フォンターネが取り上げられている。この作家は日本ではドイツ文学者によっていくつかの小説が翻訳されており、『新集。世界の文学 12
フォンターネ』で、その人物が紹介されているが、私が注目したのは『マルク・ブランデンブルク周遊記』である。そのドイツ語版は5巻にも及び、分厚いので研究者がまとめたドイツ語の縮刷版を、私は手にいれて読んできた。そしてその記述に基づいて私は今回二・三の地域を旅して歩いたわけである。

日本では一般にベルリン市の中央に立ち、テレビニュースなどでもよく出てくるブランデンブルク門とか、クラシック音楽のファンならば、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を通して、ブランデンブルクという名称を知っているぐらいだろう。

現在ブランデンブルクはドイツ連邦共和国の16の州のひとつであるが、その州都は首都ベルリンのすぐ西隣のポツダム市である。地理的には北ドイツ一帯に広がる広大な平野の一部で、おおざっぱに言って西はエルベ川、東はポーランドとの国境をなしているオーデル川にはさまれた地域である。それらの支流を含めて幾多の河川や運河が流れ、また大小無数の湖が点在するなど、豊富な水に恵まれた地方だといえよう。

     

ドイツ東部の地図
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24「ドイツ全図」
から)

今回の旅ではそのうちの二・三の地方を見て回っただけであるが、それらの地域のささやかな個人的な印象を以下に記すことにしたい。

第一日 4月1日(月)曇り
羽田からフランクフルトへ

次男が運転する車に私と見送りの家内も乗り、羽田空港に午前9時半ごろ到着。ルフトハンザ航空の受付けにトランクを預けてから、海外旅行保険を契約。その後しばらく次男と家内と歓談した後、搭乗口へ向かう。荷物検査は簡単だった。機内は満席で、両翼の上あたりの通路側の席に座る。予定より30分遅れて午前11時15分出発。飛行機は北東方向に飛ぶ。座席向かいの画面で、映画や音楽を視聴したり、コンピュウター相手にチェスの対局を楽しんだりする。相手は指し手が速く強いが、一局勝つことができた。やがてベーリング海峡を抜け、北極海上空に入ったが、グリーンランドの白い氷山の連なりが印象的。14時間の滞空時間はやはりものすごく長く、狭いエコノミークラスの座席に座っているのは、苦痛だ。
やがてノルウエー上空からデンマークを通り、ドイツに入ってフランクフルト空港に到着した。入国審査にかなり時間がかかったが、その後荷物はすぐに受け取り、出口に出る。そこでドイツ在住の長男哲也の出迎えを受け、一緒に迎えのマイクロバスでNH空港ホテルへ移動した。外はうすら寒く、まだ冬だ。ホテルに入りチェックインしたが、受付には復活祭のウサギのぬいぐるみが飾ってあった。ドイツでは先週金曜の受難日から本日月曜まで4日間、復活祭の祝日なのだ。また昨日の日曜(3月31日)から夏時間となり、日本との時差は7時間になった。
長男は今回の旅に同行するのだが、私のために往復の航空券やホテルの予約、鉄道の切符などの手配をすべてやってくれた。一息ついてから、長男が私の部屋に来て、今後の予定について相談した。

第二日 4月2日(火)曇り・小雨
フランクフルトからベルリンへ

ホテルで午前6時ごろ起床。昨日の長旅で疲れてはいたが、いつものように夜中に3,4回目が覚め、トイレへ。7時20分長男とともに、一階の朝食会場へ。セルフサービスだが、朝食中、窓から大きな飛行機がすれすれに飛行するのを目撃。8時15分チェックアウト。ホテルのバスで再び空港へ。そしてSバーン(電車)でフランクフルト中央駅へ移動する。時間があるので、構内ラウンジでゆったりドイツ語の新聞を読みながら、休憩。
そしてプラットフォームの先端の場所で10:13発のICE(特急)を待つ。かなり遅れて列車は到着したが、ドイツでは珍しくはない。指定席に座って、やがて列車は悠然と出発した。フルダを経由して、ドイツの「心臓部」と呼ばれるチューリンゲン地方を西から東へそして北東へと移動。つまりアイゼナハ、ゴータ、エアフルト、ワイマールからハレを通ってベルリンヘ向かうのだ。地図を広げて確かめながら、車窓の景色を楽しんだ。

車中で地図を広げている私

途中風力発電用の風車や太陽光パネルをたくさん見る。そして列車は南からベルリン中央駅の地下フォームに15時15分に到着した。中央駅から、去年の旅でも利用したU5の地下鉄に乗り、マグダレーナ駅で下車。広々とした大通りを歩いて、
NHBerlinCityOstホテルに入る。中央駅から東へ向かい13の停留所で20分という便利さだ。NHホテルはドイツ全国にあるチェーン組織のホテルだが、ベルリン中心部にある店はやはり高く、割安のここのホテルを長男は予約したわけだ。去年の5月も今年もユーロに対して円安で、何かと節約しなければならないのだ。
チェックインして、一休みしてから隣のイタリア料理店で昼と夜の中間の食事をとる。その後近くのスーパーに入り、家内に頼まれたドイツの日常品や土産物を買う。
長い空の旅とその後の鉄道旅行で、やはり体は疲れていたので、明日の準備をしてから早めにベッドに入る。

第三日 4月3日(水)曇り・小雨
「ニコライ・ハウス」訪問

朝6時半起床。7時テレビニュースを見る。7時半長男と一緒に一階の食堂へ行き、朝食をとる。セルフサービスだが、席はゆったりとしていて、食事をしながら長男と8時過ぎまで歓談する。9時ホテルを出て、曇り空で寒々とした中、地下鉄に乗り、都心部の「博物館島駅」で下車。ウンター・デン・リンデン大通りを横切り、かつてのプロイセン王国のベルリン王宮の外観を再建したフンボルト・フォーラムの横を歩いて9時半過ぎ、「ニコライ・ハウス」に到着した。ニコライ出版社の社長ボイアーマン氏(Beuermann)と、ここで会う約束をしていたのだ。約束の時間よりやや早く着いたが、建物の中でしばらく待つ。

やがてボイアーマン氏が現れ、10年ぶりの再会を果たす。まずは館内で記念の写真を撮る。

ボイアーマン氏と私の二人の写真

次いで「ニコライ・ハウス」の館長をしている女性のショイアーマン((Scheuermann)さんが現れた。7,8年前に館長に就任したという彼女とは初めての出会いであったので、自己紹介を兼ねて、二十年ほど前に刊行した『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』を献呈した。それから日本からの土産として能の舞扇をプレゼントした。

舞扇を広げて見ているショイアーマンさん

ボイアーマン氏には同様の舞扇と観世流の能楽師の舞台写真のカレンダー及び能楽に関する英文の本を贈呈した。そして自分が趣味として能楽関連の謡曲を習っていることも説明した。

その後館長のショイアーマンさんが、「ニコライ・ハウス」の内部を案内してくれることになったが、その前に建物の正面に出て、ブリュダー街13番地のこの家がたどってきた歴史的経緯を説明してくれた。この建物にニコライの名前がついているのは、18世紀の成功した出版業者で作家のフリードリヒ・ニコライが1787年から死亡した1811年まで住んでいたことによるのだ。この場所は旧プロイセン王国のベルリン王宮のすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人々や馬車で大変賑わっていた。1730年に王国の大臣によって建てられた大邸宅をニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そして晩年の24年間を過ごしたこの邸宅は、当時ベルリンの精神的な中心の一つであり続けた。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたという。
ニコライ死亡の後には、この建物は別人のものになったが、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。第二次大戦では部分的に損傷を受けたが、大したことはなく、東独時代には党の事務所として使われていたという。

建物正面前での記念写真(ボイアーマン氏、ショイアーマンさんと私)

正面の壁に貼られたニコライ顕彰板。この家にはフリードリヒ・ニコライ(1733年3月18日-1811年1月8日)が、1787年からその死亡まで住んでいた。この作家、歴史家、批評家、出版業者は「ベルリン啓蒙主義」の代表的存在である。

実は私がこの建物を訪れたのは初めてのことではなく、1999年にボイアーマン氏が連れて行ってくれていたのだ。その時のことは私の研究書『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(2001年2月、朝文社)の中に書き込むことができた(190頁~192頁)。その時建物の内部もざっと見せてもらったが、かなり荒れた感じで、この時点ではまだ内部の整備が十分ではなかった、という印象を私は抱いていた。
その後2011年に「ドイツ文化財保護財団」が、「ニコライ・ハウス」の管理を引き受けたという事で、その頃から建物の外装や内装を修復する作業が急速に進んだようだ。

さてショイアーマン館長はその後、建物の中の案内をしてくれた。一階入り口から二階へ上がるときの木製階段はニコライが住んでいた時に使用していたものだが、その後部分的に損傷があったものの、今では立派に修復されている。

修復された見事な手すりつきの木製階段

その階段を上がって広々とした部屋に案内されたが、そこでは時折ニコライにちなんだコンサートや朗読会が開かれているという。例えば昨年2023年3月18日には、ニコライ生誕290周年を記念した講演会と音楽会が開かれている。このイベントはニコライ・ハウス友好協会の会長でもあるボイアーマン氏が主催しているのだ。私の本にも書いたことだが、ニコライは大の音楽好きで、その最良の歳月には自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身ヴィオラを演奏することもあったという。

さらに二階には大きな会議室もあり、その隣にはニコライ関連の主な書籍を陳列した小型の図書館があった。その中央には彼の主要業績の一つであった『ドイツ百科叢書135巻』のオリジナル本が飾ってあった。またニコライの胸像も見えた。

ニコライ関連の展示品。『ドイツ百科叢書』とニコライの胸像

「ニコライ・ハウス」の中庭

そのほかニコライ関連で様々なものが、あるいは壁面に、あるいはガラス・ケースの中に展示されていた。例えばニコライが『南ドイツ旅行記』を書くための取材旅行で使用した馬車と距離測定器の細密画など、私の本の中でも使わせてもらったものが目に留まった。さらに二階のいくつかの部屋から部屋へと巡り歩いていた時に窓の外の中庭の景観が見えたが、後で階下に降りた時に実際に歩いて見た。

こうして「ニコライ・ハウス」の案内は終わった。この建物について書くことはまだまだたくさんあるが、きりがないのでこの辺にしておきたい。

その後ボイアーマン氏の案内で、ショイアーマンさん、私そして長男が、近くのフンボルト・フォーラムの中のレストランに招待され、昼食をとりながら、さらに歓談を続けた。そしてお二人には別れを告げ、ベルリン市内を遊覧船で見て回るために、長男と私は近くの船着き場に向かった。

ベルリン・ウンター・デン・リンデン周辺
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24。300頁)

この地図をご覧になっても分かるように、私たちがいた「ニコライ・ハウス」は、ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)のすぐ近くにある。そしてシュプレー川をはさんで反対側にあるニコライ地区はベルリン発祥の地域といわれ、東独時代の1980年代から注目されるようになった。そして1230年建造のニコライ教会を中心とした地域にはいくつかの由緒ある料理店やカフェが復活し、その流れは統一後に加速され、今では観光客もたくさん訪れる地区になっている。私はドイツ統一後の早い時期に、このニコライ地区に行き、有名なレストランで食事をしたことがある。

またベルリン王宮について一言付け加えると、この旧プロイセン王国の王宮は、18世紀初頭に建造された。そして第一次大戦後に王国が消滅した後も存続していたが、第二次大戦末期の空爆で被害を受け、戦後東独政府によって取り壊された。そしてその跡地に「共和国宮殿」と称するガラス張りの建物が作られた。その後ドイツが再統一された後は、空き家になっていた。ところがやがて昔の王宮を再建すべしという保守派の声が上がり、それに反対する革新勢力との間で議論が起こり、一般市民へのアンケートも行われた。その結果、妥協策として、王宮のファサードや中庭の一部が復元されたが、その内部は博物館ないしギャラリーとして使われることになった。そしてその名称も、19世紀前半に活躍した知識人フンボルト兄弟の名前にちなんで、「フンボルト・フォーラム」となったわけである。

いっぽう「ブランデンブルク」という名称は、12世紀に、東方植民を進める中で神聖ローマ皇帝が成立させた「ブランデンブルク辺境伯領」という領邦に起源がある。そして15世紀の1415年以降、元来南ドイツ出身のホーエンツォレルン家の領土になった。またドイツ騎士団の団長が新教(ルター派)に改宗し、領地を世俗化して「プロイセン公国」を作り、1618年、ブランデンブルク選帝侯国と合併して、同君連合を形成した。そして17世紀後半、実力者の大選帝侯のもとで、大いに実力をつけ、その息子が1701年プロイセン公国を王国に格上げした。やがてフリードリヒ2世(大王)の時、ヨーロッパの列強の一角を占める強国となった。その後19世紀の後半には宰相ビスマルクの時、ドイツを統一して、1871年プロイセン王国を中核にした「ドイツ帝国」ができあがったわけである。それ以来その首都のベルリンは、ヨーロッパ有数の大都市に成長したのであった。

シュプレー川遊覧船

歴史の話がやや長くなったが、長男の案内で私はニコライ地区の川べりにある遊覧船の乗り場に着いた。シュプレー川遊覧船は冬季には運休していたが、3月末の復活祭の祝日から運航を開始した。私たちはStern(シュテルン社)の船に乗ることになった。往復1時間半のコースで、値段は約22ユーロ(3630円)だ。

コースはベルリンのど真ん中(中心街)の北側に沿っている。これまで陸の側から見てきた建物をおおむね裏側から見るわけだ。出発点はベルリン発祥の地であるニコライ地区である。それでは往復1時間半の船旅で、私が注目した場所を写真で紹介していくことにしよう。最初の橋をくぐると左側にベルリン大聖堂が見えてくる。大聖堂を横から見たのが次の写真である。

ベルリン大聖堂のアップの写真

大聖堂を過ぎたあたりで、反対側を走る遊覧船が見えた。

反対側をすれ違った遊覧船

大聖堂の後、二本の川に挟まれた先端の地点に立つのがボーデ博物館だ。

ボーデ博物館
(博物館島の先端に立っている)

そこを過ぎ2本、橋をくぐったところにSバーン(電車)のフリードリヒ・シュトラーセ駅が鉄橋の上にかかるようにしてあるが、ちょうど電車が停車していた。この駅は冷戦中、ドイツ(ベルリン)が分断されていた時、東側にあり、西ベルリンから東ベルリン地区に観光客などが訪れる時、この駅の改札口に検問所があった。24時間滞在できるビザをその場で発行してもらって、私は二・三度東ベルリン地区に入ったことがある。検問所での検査は極めて厳しかった。西側の新聞雑誌や本などは持参できなかった。それはもう30年以上前のことなのだが。

フリードリヒ・シュトラーセ駅に停車している電車

その先1本橋をくぐると、左側にドイツ連邦議会議事堂が見えてくる。私はこの建物に去年5月に入ったが、その裏側から見るのは初めてだ。

ドイツ連邦議会議事堂を裏側から見たもの

それから2本橋をくぐると、右側にベルリン中央駅が見えてくる。川の側から見るのは初めてだ。

ベルリン中央駅をやや離れた地点から見たもの

中央駅の先、左側に広大なティアガルテンの公園が広がっている。その途中で船はUターンして元のニコライ地区の船着き場に戻った。あいにく曇りから小雨模様になってきたので、それ以上町中を見て歩くのはやめて、地下鉄に乗り、ホテルに戻って休息をとった。そして午後7時、長男が私の部屋にやってきて、サンドイッチをぱくつきながら、明日の行程の打ち合わせをした。

第四日 4月4日(木)晴後小雨
シュプレーヴァルトへの日帰りの旅

6時過ぎ起床。7時朝食。8時、ホテルを出て、最寄りのSバーン(電車)の駅まで歩く。そして一つ目のオストクロイツ(Ostkreuz)駅で、コットブス行きの列車に乗る。ちなみにベルリンには戦前から周辺を取り巻くようにして環状電車の路線ができていた。オストクロイツというのはその環状線の東側で、ほかの路線と交差する要衝の駅という意味である。同様にして南にはズュートクロイツ駅そして西にはヴェストクロイツ駅がある。ただ北のノルトクロイツ駅というものはない。

列車はベルリンから南東部に広がる湖沼地方のシュプレーヴァルト(Spree-wald)を通って、コットブスへ走っていった。この辺りはベルリン市内を蛇行しているシュプレー川の上流地域に当たっている。その中心の町リュッベナウ(
Luebbenau)を過ぎたあたりから駅名にドイツ語とヴェンド語が併記されているのに気づいた。ヴェンド語はこの辺り一帯にかなり昔から住んでいる西スラブ系の少数民族ヴェンド人の言葉なのだ。たとえばドイツ語のRadduschとヴェンド語のRadusが併記されているのだ。

コットブス駅のプラットフォーム

やがて終点の駅コットブス(Cottbus、ヴェンド語でChosebuz)に到着した。見た所、普通の東部ドイツの中都市の駅である。駅は市の南に位置しているが駅前に市電が走っていて、旧市街に通じている。早速その市電に乗り込み、10分ぐらいで旧市街の中央広場(Altmarkt)で降りる。そしてその一角にある聖ニコライ教会に入る。14世紀に建立された後期ゴシック様式のレンガ造りの教会だ。この辺りはニーダーラウジッツ地方と呼ばれているが、この地域最大の教会だそうだ。教会の塔は55メートルあり、塔の上からは緑豊かなコットブスの町が素晴らしい眺めだと、案内書には書いてあるが、歩いて石段を上るのは苦痛なので、やめておく。その代わりに教会の内部をゆっくり見て歩く。星形の丸天井、説教壇、雪花石膏をちりばめた主祭壇など、見事なつくりだ。

聖ニコライ教会の外観

教会を出てから旧市街の東側を流れるシュプレー川を捜して、町中を動き回る。地図を見ながら歩いたのだが、やがて川にたどり着いた。平らな土地をゆっくり流れているが、川幅は狭く、あまり見栄えはよくない。しかし、いたる所木々の緑に覆われていて、散歩するには向いていて、穏やかな気分になれた。

緑に覆われたシュプレー川

その後狭い石畳の道を歩いて、旧市街の中ほどにあるヴェンド博物館に入った。この狭い旧市街には、そのほか市立博物館、ブランデンブルク薬事博物館、シュプレー技術博物館などいろいろ案内書には書いてあるが、時間がないのでこのヴェンド博物館だけを見ることにする。

ヴェンド博物館の外観

入り口から入って受付で料金を払い、荷物をロッカーにしまう。するとすぐ近くの場所で動画が流れていて、席に座ってしばらく見ることにする。ヴェンド人の若者が激しく動いて伝統的な踊りを踊っている。それから美しい民族衣装に身を包んだ男女の若者が、互いに手を組んで歩いていく場面が続いた。女性は白く大きな帽子をかぶり、真っ白で透明な衣装に、赤、緑、黄色など鮮やかな色の帯を締めている。男の方は皆、黒いスーツに山高帽をかぶっている。

華麗な衣装のヴェンド人男女による踊り

そのあとガラス・ケースの中や、壁に貼った展示物などを見て歩いたが、そこにはヴェンド人の風俗習慣や独特の歴史や文化などが、様々な形で紹介されている。その中にはヴェンド語で書かれた聖書もあった。それから19世紀、20世紀のヴェンド人の学者、作家、知識人も紹介されていた。それらの展示は詳しすぎるほどで、丁寧に読んでいくにはとても時間が足りない。ただ、ちょうど復活祭の時期だったので、それに関連して、色とりどりの卵を作っている写真や、実物の卵が売り物として置かれていたのが印象的であった。聞けばヴェンド人は昔から復活祭の卵作りに、熱心に取り組んでいるとのことだ。

彩りの美しい復活祭の卵

ここで案内書に従って、少しばかりコットブスの歴史を紐解くと、シュプレーの周辺には西スラブ系の民族が住んでいて、すでに8世紀には定住の集落があったという。そして1156年にはドイツのシュタウフェン朝によって、一人の城市の司令官が任命されたという文書が残っている。また13世紀にはシュプレー川の渡河地点に商人の集落がつくられた。1405/06年以降、織物業やリンネル織物業があったことが文書によって知られている。そして1701年にフランスから移ってきたユグノー(新教徒)によってもたらされた絹紡績業が、今日の繊維産業の基礎を築いた。
いっぽう17世紀前半の三十年戦争(1618-48年)による事態の急激な悪化は、世紀後半、大選帝侯の努力によってかなり埋め合わせがなされた。そして1726-30年に、新しい市街地が建設された。その後第二次大戦後の東独政権の下1952年に、コットブスはこの地域の中心都市となった。さらに再統一の1990年10月3日以降、ブランデンブルク州第二の都市になった。

なお入手した資料の中には、Wende(ヴェンド人)のほかに、Sorbe(ソルビア人)とも書かれていて、この二つの言葉は、西スラブ系の二つの少数民族のことが混同して用いられているようだ。

このヴェンド博物館にはもっと滞在したかったが、次の予定地のリュッベナウに移動するために時間がなく、やむなく博物館を後にする。そして近くのレストランで食事をしてから、再び市電に乗って鉄道のコットブス駅へ移動する。こうして元来た路線を戻るようにして、シュプレーヴァルトの中心の町リュッベナウ(Luebbenau)へ移動した。

駅前は閑散としていて、町の中心地まで小雨の中を歩いていく。うすら寒くなってきて、徒歩は快適ではない。やがて商店などが立ち並ぶ中心街にたどり着いたが、復活祭の過ぎたただの週日で、しかも雨ふりのせいか人々の姿があまり見当たらない。ここは水郷で観光地なのだが、今日は船着き場は雨のため閉鎖されていて、小舟は運航していない。

小舟の乗り場には運航停止の表示。船にはシートがかぶされている

代わりにシュプレーヴァルトの絵葉書によって、小舟に乗ってシュプレー川遊覧を楽しんでいる様子を、次に示しておく。

シュプレー川遊覧船で楽しむ観光客(絵葉書)

船に乗れなかったので、周辺を歩いていると、「シュプレー川の自然景観保存館」が目についたので、中に入ってみる。川や湖、森や林、そこに生息する動物や鳥たちや植物などを、いかに保護していくかという事が、様々な具体的な展示で説明されている。

この地方の女性の民族衣装

同時にこの地域の自然の、時代による移り変わりについても説明されている。

シュプレーヴァルトの自然の移り変わり

19世紀後半に活躍したドイツの作家テオドール・フォンターネは、前にも述べたように、マルク・ブランデンブルク地方を旅して歩き、「周遊記」を書いたわけだが、もちろんシュプレーヴァルト地方も訪れて、詳しい紀行文を書いている。その分量はかなりのものになるが、少数民族ヴェンド人についても詳しく触れている。フォンターネの時代にはまだ一般の人々が観光して歩く習慣がなかった。フォンターネはこの地域を動き回るにあたって、知り合いの有力者が雇った専用の小舟に、数人の仲間と一緒に乗っているのだ。そして詳しい紀行文を遺しているわけだが、「マルク・ブランデンブルク周遊記」は、ドイツ語版で5巻に及ぶ大著なので、その中身を簡単に紹介することはできない。自分としてはその縮刷版を読んで、旅の参考にしているわけである。

天気さえよかったら、このシュプレーヴァルトをゆっくり船で遊覧したかったのだが、それが叶わなかったので、日が暮れないうちにベルリンへ戻ることにした。

なおこのシュプレーヴァルト訪問をもって、今回の旅行記の前半は終わりにして、残りの4月5日以降の後半の予定を記しておく。5日(金)は、ベルリン市内のフォンターネの墓を訪ねた後、ポツダムのサン・スーシー公園内の新宮殿へ移動する。6日(土)には、ベルリン北西部にあるフォンターネの誕生の地ノイルッピンへの日帰り旅行をする。そして7日(日)には再びポツダムへ行き、ハーフェル(Havel)湖の遊覧船に乗ることにする。