16~17世紀の出版業の諸相

その04 フランクフルト書籍見本市の繁栄

<大市(おおいち)の伝統>

書籍市の町としてはリヨンよりやや遅れて発達したが、やがてこれを追いこしたのが、ドイツのフランクフルトであった。今日のドイツにおいて、フランクフルト(アム・マイン)は、ドイツの最大の金融都市としてドイツ連邦銀行の所在地になっている。そればかりではなく、EUヨーロッパ連合の金融機関である欧州中央銀行の所在地でもあるのだ。そして株に関心のある方にとっては、フランクフルト証券取引所の名前はよく知られていよう。

このフランクフルトは、実は中世の昔から商業都市として、重要な存在だったのだ。その証(あかし)が、これからご紹介するフランクフルトの大市(おおいち)なのだ。印刷術の発明よりはるか昔に、すでにフランクフルトでは、毎年春と秋に大市が開かれていた。そしてここへはドイツ全土はおろか、ヨーロッパ各地から商人たちが集まってきていたのだ。

交易のための制度としての市(いち)は、キリスト教の影響が強かった中世にあっては、教会行事と結びついて発生した。そして毎日あるいは毎週開かれていた普通の市とは別に、年に二回、大市が教会の大きな祭礼の時期を中心に開催されていたのだ。

大勢の群衆があつまる祭式や祈禱が終わった後に、社交と取引のための時間がやってきた。ちなみに大市ないし見本市を表すドイツ語のメッセという言葉は、キリスト教のミサからきているという。このメッセつまり見本市は、現代のドイツにおいても取引の手段として、様々な産業の分野に分かれて、各地で盛んにおこなわれている。その影響を受けて、今日の日本においても、このメッセという言葉は「幕張メッセ」といった具合に使われているのだ。

ところでフランクフルトの大市に対して、1240年皇帝フリードリヒ二世によって特権が与えられた。つまり大市に集まるすべての商人、旅行者、訪問者に対してドイツ帝国が特別の保護を与えたわけである。その後のフランクフルトの発展は目覚ましく、とりわけ15世紀半ば以降、ケルンに次いでライン川流域で最も重要な商業都市になった。

その理由としては、まず第一にフランクフルトが交通の要衝にあったことがあげられる。同市はライン川との合流点からほんのわずかさかのぼったマイン河畔に位置している。そのため東西南北あらゆる方面と結ばれていたのだ。西側へはライン川を下って、フランス、フランドル地方、オランダと、東へはボヘミア(現在のチェコ)やオーストリアと、南へはライン川をさかのぼってスイス、さらにアルプスを越えてイタリアと、そして北ドイツ方面とは、優れた郵便サービス網で結ばれていたのだ。

当時フランクフルトは、その市の規模の大きさのために、「ドイツ人の市場」とか、「ドイツの七不思議のひとつ」とか呼ばれていた。そこで取引されていた商品も多種多様で、まさに国際的な雰囲気をかもし出していた。ここでは英国とネーデルラントのラシャ商人が出会い、東洋産の香料や南ヨーロッパ産のワインやドイツ諸都市の加工品が売られていた。

さらにバルト海沿岸都市を中心としたハンザ同盟都市の魚類、馬、ホップ、金属、ボヘミアのガラス製品、シュタイアーマルク地方の鋼鉄、銀、錫、テューリンゲン地方の銅、ウルム地方の亜麻、アルザス地方のワイン、シュトラースブルクのラシャ、金銀細工品、イタリアのワインや油など。そしてヨーロッパ以外の産品の売買の取り決めも行われていた。

<書籍市の発達>

やがて活字版印刷術が発明されて、初期の印刷・出版業者は、自分たちの製品である書物を売るために、フランクフルトにやってきた。また先に述べたように、マインツからはフストやシェッファーが訪れたし、1478年からはバーゼルのヴェンスラーやアマーバッハもしばしば訪れて、イタリアの書籍商と出会ったりしていた。

さらにニュルンベルクのコーベルガーは、1493年から1509年までこの町を訪れた。とりわけⅠ498-1500年にかけては、連続して春・秋6回の書籍市に参加している。1506年コーベルガーが泊まっていた宿屋の主人は、書物を並べたり保管できるようにと、彼のために常設の店を建てた。こうしてコーベルガーはフランクフルトに居ながらにして、バーゼルの書籍商たちと盛んに取引を行ったのであった。

このようにフランクフルトは書籍商の町として急速に発達したのだが、この町での印刷・出版業の始まりは、かなり遅かった。旅回りの活字製作者兼印刷者であったクリスティアン・エーゲノルフがこの町にやってきて、市参事会の支援を受けて、印刷所を開いた1530年が始まりであった。しかし、それ以後フランクフルトの印刷・出版業は順調に発達していったのである。

<ヨーロッパの書籍センター>

ドイツの二大出版都市フランクフルトとライプツィッヒを中心にした地域
(16~18世紀)

やがてフランクフルト書籍市に足を運ぶ書籍商たちの数は、年を追って増大していった。マールブルク、ライプツィッヒ、ヴィッテンベルク、テュービンゲン、ハイデルベルクなどのドイツの都市ばかりではなくて、近隣のヨーロッパ諸国からも書籍関係者が姿を見せるようになった。イタリア、スイス、オーストリア、フランス、イギリス、オランダ、フランドル、ハンガリーなどの諸国からである。

とりわけ大書籍業者アルドゥス・マヌティウスがいたヴェネツィアとの間には、いつも活発な取引があった。記録に現れるヴェネツィアとの最初の取引は1498年のことで、フランクフルトの教会参事会員ヨーハン・ローバッハは、その日記につぎのように書いている。
「1498年の秋市において、教皇の認可のもとに出版されたるゴットフリート著『製錬に関する監督実習』を、2フロ-リンにて購入。ヴェネツィアにて印刷されしマインツ市便覧一巻を、製本せしむ』

フランクフルト書籍市で扱われていたものは、なおラテン語の書物が中心だった。当時のラテン語はヨーロッパ諸国の学者・聖職者の共通語であったから、ラテン語の書物はそのまま各国に持ち帰られて、翻訳することなしにそのまま読まれたのである。

ヨーロッパの書籍センターとしてのフランクフルトの役割は、16世紀も半ばになると、ますます鮮明になっていった。1540年からはパリのジャック・デュ・ピュイ一世が、そして間もなくロベール・エティエンヌも毎回訪れるようになった。そして1557年の秋市には、書籍商がリヨンから2名、パリから4名、ジュネーヴから2名、アントウェルペンから5名、そのほかユトレヒト、アムステルダム、ルーヴァンからもやってきた。

1569年の秋市には、地元のフランクフルトから17名、ヴェネツィアから3名、リヨンから4名、ジュネーヴから5名といった具合に、合計87名の書籍商が集まってきている。彼らは当然のことながら、出かけてこられなかった同僚の要件も携えてきていた。現代の目から見ると、これらの数字はわずかなものに思われようが、当時の交通事情は、前にも述べたように、今日とは比較にならないぐらい悪かったことを考慮する必要がある。またこうした外国からの商売人にとって、フランス語やラテン語を知っている地元の人は大変重宝がられた。訪問者の多くはドイツ語を話せなかったからである。

フランクフルト書籍市には、書籍商だけではなくて、書籍に関係したあらゆる業種の人々が大勢やってきた。校正係、活字鋳造人、活字父型彫刻師、組み版工、木版工、製本工などであった。そのためそこに集まった同業者は、必要な場合には、かれらから印刷用資材を直接買うこともできた。さらに様々な国や地域から、多くの学者たちもやってきて、出版者にあったり、最新の書物を手に入れたりしていた。

つまりフランクフルト書籍市はこのころ、ヨーロッパの知的生活の一大中心地となっていたのだ。フランスからの有力な書籍商アンリ・エティエンヌは、1574年にこの書籍市を訪れたが、その後フランクフルト市の市長及び参事会にあてて、賛辞の言葉を送っている。彼はその中で、
「空に輝く綺羅星のごとく、そこにはきわめて多くの品物であふれています」と述べているのだ。そして「皆さんは、フランクフルトと呼ばれているドイツの都市にいるのではなくて、かつて全ギリシアで最も栄えた都、文芸活動の最も華やかであった都、つまりアテネにいるのだと思われることでしょう」と付け加えている。

フランクフルト書籍市はこうして16世紀後半から17世紀前半にかけて、ドイツ語の印刷物の普及の一大中心地であるのと同時に、ラテン語書籍の国際市場となっていたのである。この時期は、日本で言えば、戦国末期から江戸時代の初期に相当する時代であった。いっぽう目を現代に向けると、第二次大戦後の西ドイツで復活したフランクフルトの書籍市が、「フランクフルト国際書籍見本市」と呼ばれているように、当時の西ヨーロッパ世界での国際市場だったのだ。

あとで詳しく紹介するアントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタンは、そこで大規模な取引を行い、店舗も構えていた。そして書籍市が開かれるたびに、自ら出向くか、娘婿のヨハネス・モレトゥスをそこに差し向けていた。またイギリスの書籍商たちも姿を見せていた。彼らはそこで、自国で転売するために、大陸で印刷された書物を仕入れていたのだ。1617年には、書籍商ジョン・ビルがロンドンで、フランクフルト書籍市の書籍目録を定期的に復刻する事業を開始さえした。

<フランクフルトの本屋街>

フランクフルトの本屋街の近く。マイン川岸に横付けされた船から、
印刷した紙や製本された本を詰めた樽を積み下ろしているところ

ここでフランクフルトの神保町ともいうべき「本屋通り」をのぞいてみよう。この通りとそれに続く近辺、つまりマイン川とレオナルド教会の間の一帯が、書籍取引の中心地であった。ここに書籍商たちは仮小屋や、ときには常設の店舗を設け、その上に店主の名前を入れた看板を掲げていた。これらの仮小屋の中には、毎年賃貸しされるものもあれば、町の財産として公的に所有されているものもあった。

店の扉や窓には、新刊書を告げるポスターが貼られていたが、より組織的な商売は店や小屋の中で行われていた。また戸外の通りでは、呼び売り屋が新刊書のタイトルを大声で叫んで、通行人に売りつけようとしていた。また行商人が暦、版画、三文小説、新しい歌謡集そして時事問題を扱った小冊子などを売り歩いていた。

書籍商人たちは、春秋二回の書籍市の開催期間が、飛び切り忙しかった。まず第一に樽詰めで送られてきた未製本あるいは製本された本を樽の中から取り出さねばならなかった。それらは時にひどく傷んでいたり、しばしば落丁も見られた。これは発送の段階で、店員が倉庫で刷り紙を選んで一冊づつまとめる時に起こる手違いによるものである。

樽から取り出された本は書店の棚に並べられ、リストとつき合わされた。その際落丁があれば、不足ページを請求しなければならなかった。ついで書籍商は同業者が準備した新刊書のリストを急いで検討し、どの本を何部買うか決めた。そして製本されずに届けられた印刷紙の場合は、製本工に依頼して製本してもらわなければならなかった。

さらに旧刊本の交換を行ったり、返品を受けたり、また印刷中の近刊本の予告を準備したりした。そして出版者でもあった彼らは、最後に自分のところの書物を、よその出版者や一般の客に売らねばならなかったのである。

そのために書籍市で再会した出版者同士は、互いに最新の情報交換を行った。現在どんな本を印刷中なのかとか、これからどんな本を印刷する計画なのか、といったことを互いに話し合い、次回の書籍市のために注文したりしたわけである。

<書籍見本市の目録発行>

書物の目録そのものは、書写の時代から存在していた。しかし活字版印刷術が生まれて間もなくの1470年ころ、大出版業者の代理販売人は、提供できる書物の目録を、最初は手書きで、のちには印刷物として作成するようになった。そしてこれらの書籍目録は、フランクフルトの書籍見本市で、しばしば配布されていた。

しかしやがて書籍商たちは、書籍市に出展する書物の総目録を作成することが、商売上有益であることに気が付いた。そうした要請にこたえて、1564年アウクスブルクの書籍商ゲオルク・ヴィラーは、書籍市に出品される書物のリストを作り、フランクフルト書籍市目録として発行したのである。この書籍市目録は、1592年まで毎年、春市・秋市ごとに定期的に、四つ折り判で発行されていた。やがてヨハン・ザウアーも1567年から書籍市出品目録を発行するようになった。

さらにフランクフルト在住の出版業者ファイアーアーベントによっても、こうした書籍目録が作られ、さらに1590年にはペーター・シュミットが、フランクフルト書籍市に出品されるすべての書物の完全な目録を作成しようと試みた。しかしそれらはいずれも一書籍商の私的な企てであって、それぞれ貴重なものではあったが、完全無欠なものというわけではなかった。

実際、フラックフルト市当局が、1596ー97年の目録の中に、記載の間違いを発見したことがあった。そのために市当局はそれ以後私的に書籍市目録を作ることを禁止した。その代わりに翌年から市当局が自らの責任において、公式の書籍目録の発行を行うことになったのである。

フランクフルト書籍見本市の最初の公式書籍目録の表紙(1598年)。
ラテン語とドイツ語で書かれている。

こうして1598年に「総合書籍目録」となずけられたフランクフルト書籍見本市の秋市の最初の公式書籍目録が刊行されたわけである。そしてこれは書籍市が始まるときに、参加者に配布されたのである。

<フランクフルト書籍市での書籍取扱量の推移>

ここにフランクフルト書籍市で取り扱われていたドイツ語、ラテン語及びその他の外国語で書かれた書物の、1561年から1735年まで五年間の年平均発行点数の推移を示した統計表がある。これは書籍市目録にもとづくものであるが、当時発行されていた全ての書物を含むものではない。この書籍市に出品されなかった書物もあったからである。とはいえこの統計表からは、当時取り扱われていた書物の量のおおよその傾向を読み取ることはできる。

書物取り扱い量の推移
(出典:J.W.トンプソン著・箕輪成男訳『出版産業の起源と発達』出版同人
1974年。102-103頁)

この表からは、ラテン語の書物がピークを示すのが、1616-20年の時期であることが、まず読み取れる。この傾向は16世紀後半からこの時期までは着実に伸びを示していた。ところが次の1621-25年に入ると、減少に転じ、以後多少の伸縮はあるものの、ラテン語の書物はゆっくり衰退していくのが分かる。

17世紀の初めの20年間は、ドイツ語やその他の外国語の書物も増えている。総体としてドイツにおける書籍取引が頂点を示すのは、三十年戦争(1618-48年)直前のこの時期であったのだ。三十年戦争はドイツ社会の様々な面に、計り知れない損害をもたらしたが、ドイツの書籍産業もその被害をまともに受けたわけである。

三十年戦争中の1631年に出されたチラシ。
戦争による荒廃をなげいたもの

<フランクフルト書籍見本市の衰退>

この統計表によれば、フランクフルト書籍市での書籍取扱量は、とりわけ三十年戦争の後半の時期(1631-45年)に落ち込んでいる。戦争中の不安定期には、多くの書籍商がこの書籍市に来るのをやめていた。しかし戦争が終わってフランクフルト書籍市は、いくぶん活気を取り戻した。

とはいえフランクフルトとの取引を再開しようとしない書籍商も少なくなく、とりわけ外国人の書籍商は、めったに来なくなった。もはやここは書籍の国際市場ではなくなり、そればかりか、やがてドイツ人出版業者たちにとっても、重要な出会いの場ではなくなっていくのである。書籍市に出品される書物も一年一年少なくなり、その目録も年を追って薄くなっていった。

とはいえ、そこでの書籍取扱量は、そのごも一進一退を続け、急激に減少したわけではなかった。しかし総体として、三十年戦争の後遺症は重く、戦争直前のピークに戻ることはなかった。そして17世紀の後半には、その地位を、同じドイツのライプツィッヒ書籍見本市に譲ることになったのである。とりわけ1690年代にはライプツィッヒはフランクフルトを大きく引き離し、それ以後さらに大きく発展していくのである。
ライプツィッヒの発展の模様については、のちにまた詳しく述べることにする。