ギリシア・ローマ時代の書籍文化 04

その04 ギリシアにおける図書館

図書館(文庫)と文書保管所

古代において「図書館」という概念がどのように理解されていたか、という事について、帝政ローマ時代(後2世紀)のラテン語文法学者のフェストゥスは、その大型の辞書の中で、次のように述べている。「ギリシア人にとっても我々(ローマ人)にとっても、bibliothecae(ビブリオテカ)という言葉は、多数の書物という意味と、これらの書物を保管しておく場所という意味の両方を指していた」。この後のほうの意味は、今日の「図書館」に相当するといえようが、実際には立派な建造物ではなくても、単に専門文献を含む文学的著作物のコレクションの保管所といった意味合いのものも指していたようだ。つまり日本語の「文庫」に相当するものだったといえよう。

いっぽう国家・行政・商業に関連した記録文書を保管するための「文書保管所」というものも、すでに古代に存在していた。これらの記録文書は、神の保証を受けた聖域の中にあった神殿に保管されるか、もしくはそれぞれの機関の建物の中に保管されていた。こうした文書保管所のことをギリシア語でarcheion(アルケイオン)と呼んでいたが、この言葉から後に、ドイツ語のArchiv(アルヒーフ)や英語のarchive(アーカイブ)が生まれた。現在ではアルヒーフは、公文書館とか古文書館とか、さらにフィルム、ビデオ、テープなど様々な種類の記録集ないしその保管所まで指す言葉にもなっている。英語のアーカイブも、しばしば複数形のアーカイブズで、同様の用い方をされている。そしてコンピュータ用語として、インターネットなどで、データなどの長期保管場所の意味で使われているという。

僭主たちの図書コレクション

帝政ローマ時代の随筆家ゲッリウスによれば、ギリシアで最初の図書コレクション(文庫)を作ったのは、前6世紀の僭主ペイシストラトスだとされている。後にそれはアテナイ人によって拡張されたが、前480年にペルシア王クセルクセスによってアテナイが攻略されたとき、その図書コレクションは略奪された。しかし前300年ごろ、それはセレウコス朝のニカノル王によって取り戻されたという。

また帝政ローマ時代に活躍したギリシア人の著作家アテナイオスも、その著作『食卓の賢人たち』の中で、ペイシストラトスは、もう一人の僭主ポリュクラテスとともに、偉大なる書物収集家であると語っている。ただその規模は、後のヘレニズム時代(前3~1世紀)の図書館と比べれば、ずっと小さいものではあったが、その存在を疑うことはできないとされている。

その主要な作品についてみると、ホメロスの詩歌(『イリアス』、『オデュッセイア』)を初めとして、叙事詩人ヘシオドスの作品(『労働と日々』、『神統記』)、初期イオニアの哲学者たちの著作、そしてさらに当時花開いていた抒情詩などであったと思われる。ペイシストラトスの家族は後にアテナイから追放されたが、彼の書物コレクションは引き続き拡張されていった。その内容は主として公共の祝祭の際に歌われたり、演じられたりした詩歌や演劇を書物の形にまとめたものであったと思われる。

もう一人の僭主ポリュクラテスの輝ける王宮には、医学者のデモケデスや、アナクレオン、イビュコスなどの「モダンな」詩人たちが集まっていた。アリストテレスによって「詩神の友」と呼ばれたヒッパルコス(ペイシストラトスの息子)は、抒情詩人のラスコスやシモニデスそしてアナクレオンもアテナイへ呼び寄せた。その際それらの詩人たちは、君主たちに彼らの詩作を献呈したものと思われる。当時そうした抒情詩や叙事詩は朗読されていただけではなく、書物(巻子本)の形に編纂されて読まれていたことは、少し後の時代の壺絵に描かれていることから、わかるのである。

アテナイ市民の個人文庫

先にも述べたように、少なくともアテナイでは書籍取引が前5世紀の後半に確立していた。ここで書籍取引というのは、書物が買われることを意味する。かくしてアテナイ市民のかなりの家庭には、ちょっとした書物のコレクションが存在していたことが、十分考えられるのだ。そして家庭によっては書物の収集が熱を帯びていて、かなり大量の書物が集められ、その結果「個人文庫」と呼べるほどのものもあったと想像できる。

そうした実例として、ソクラテスの弟子エウテュデモスを挙げることができる。これに関連して、先生と弟子の間で交わされた会話に耳を傾けてみよう。
「エウテュデモスよ、お前は本当に賢人とみなされる人たちから、たくさんの書物を集めたのかね。それに対してエウテュデモスは、ゼウスに誓ってそうですと答えた。続いてソクラテスは、私もできる限りたくさんの書物を集め続けるつもりだ、と述べた」(クセノポン『ソクラテスの思い出』)

またアテナイの最高執政官として前403年にイオニア式アルファベットをアテナイに導入したエウクレイデスも、大規模な書籍の収集をしていたものと見られている。このことは、先のアテナイオスの著書『食卓の賢人たち』の中で述べられているのだが、そこには三大悲劇詩人のひとりエウリピデスの名前も挙げられている。この作家について、喜劇作家のアリストファネスは、「彼の悲劇にはあまりも多く書物の上での知識が盛り込まれている」、と皮肉っている。

プラトンの文庫

ソクラテスの弟子でアテナイの哲学者プラトンも膨大な文庫を所持していたことが、多くの証言から明らかである。この哲学者は、入手困難な珍しい書籍でも、必要とあれば大枚を払っても手に入れようとした、と言われている。彼がピュタゴラス学派のフィロラオスの著作を購入したことも、知られている。さらにその弟子ヘラクレイデスを通じて、イオニアの町コロポンからアンティマコスの詩作を手に入れようとした。それから演技の身振りに関する研究のために、それまでアテナイでは無視されていたソフロンの戯曲作品を、わざわざシチリアから取り寄せている。ついでに言えば、プラトンはソフロンの身振り・物まねをとても高く評価していて、これらの書物を死の床の枕の下にまでおいていた、という。

ちなみにこのプラトンは、真に実在するのは善や美という観念(イデア)で、現実世界はその観念がいろいろな形をとって現れたものにすぎないとする「イデア論」を唱えた。そしてアテナイ郊外にあった英雄アカデモスをまつる聖域に、「アカデメイア」という学園を建て、たくさんの弟子を養成した。ここから学術、文芸、美術の殿堂を意味するアカデミーという言葉が生まれたのだ。

アリストテレスの文庫がたどった数奇な運命

アカデメイアでプラトンに学んだアリストテレス(前384-前322)も膨大な文庫を所持していたことは、間違いない。なぜなら彼の研究の仕方や学問上の著作物、そしてとりわけ彼によって創立された学園「リュケイオン」における教育・研究上の手法にとって、豊かな資料の収集が前提となっていたことは確かだからである。かくしてすでに何度も引用してきたアテナイオスの著作の中でも、アリストテレスは「偉大なる書籍収集家」と呼ばれているのだ。

<アリストテレス文庫の変転>

さてアリストテレスの死(前322年)の後、彼の弟子テオフラストスが「リュケイオン学園」運営の後継者となり、同時に「アリストテレス文庫」も引き継いだ。その後テオフラストスは彼の死後のことを、遺言の形で、次のようにするよう命じた。それはつまり庭園を含む学園の建物は、ストラトンおよびネレウスをはじめとした弟子の集団が受け継ぐこと。そしてのちに取得した書物やテオフラストス自身のコレクションを加えた「アリストテレス文庫」は、ネレウスが引き継ぐこと、というものであった。この遺言によって、ネレウスはストラトンではなくて自分がリュケイオンの学園長に選ばれたもの、と考えた。そして引き継いだ文庫とともに、小アジアのトロアスという町に移ってしまった。つまりこれによってアテナイのリュケイオン学園は、建物だけ残って、アリストテレスの原著作を含めた基本的な研究手段はなくなってしまったのだ。

いっぽうネレウスの死後、その文庫は故郷の町スケプシスの遺産相続人によって引き継がれた。しかしこの相続人は精神的な事柄に特別な関心を持たない人物であった。そのためそれらの書物は鍵をかけて建物の中に保管されることになった。そしてそれ以後アリストテレス文庫は顧みられることがなくなった。

ところがその地域を支配していたペルガモンの国王たちが、独自の図書館建設のために熱心に書物を探していることを、遺産相続人は知った。そして自分が管理している文庫が奪われることを心配して、文庫を地下の横穴の中に隠した。そしてそれらの書物は長い間、湿気と虫によって傷んだまま放置されていたのであった。

<アリストテレス文庫、再びアテナイへ。そして恣意的な改変>

その後時がたって、書誌学者のアペリコンという人物が、これらの書物を大量に買い取ることになった。そしてそれらの書物を再びアテナイに持ち帰り、写本を作らせることになった。その際彼は、巻子本の原本に生じていた傷んで判読できない部分を、まったく恣意的に埋め合わせていった。

先に述べた事情によって、「リュケイオン学園」に残ったアリストテレスの後継者の弟子たちは、彼らの先生の著作をわずかしか利用できなかったわけである。しかしそのあとの人々は、アペリコンが作った写本によって、確かに「彼らのアリストテレス」の全作品を利用することができたのであった。とはいえ、それらはひどく改変された内容のものであった。このアペリコンという人物は、(書物の内容に興味を示す)愛書家というよりも、書物を収集することに強い関心を持っていたコレクション・マニアともいうべき人物であったようだ。ついでに言えば、彼はまた、アテナイのメトロオンにあった文書館から、国家的決議に関するオリジナル文書を盗んだこともあるのだ。

<アリストテレス文庫、ローマへ。そして学問的な改訂>

さてこのアペリコンが死んだ直後に、ローマの将軍で政治家のスッラがアテナイの町を征服した。それは前86年のことであったが、アペリコンの文庫も戦利品として、スッラはローマへ持ち帰った。そしてやがてそれらの「アリストテレス文庫」は、文法学者のテュラニオンのもとに落ち着くことになった。
そしてこの文法学者は、この文庫に属していた書籍の中身をじっくり吟味して、学問的な改訂を加えていった。こうして一度は恣意的に改変された「アリストテレス文庫」は、内容的に元の形によみがえったのであった。そしてこれはのちにアリストテレスの作品目録を編纂する時に役に立った。アリストテレスは、哲学だけではなく諸学を集大成したことから「万学の祖」と呼ばれている。そして生前すでに弟子たちに多大な影響を与えていた大学者であったが、その作品はのちのイスラーム哲学や中世ヨーロッパの哲学・神学に大きな影響を与えた。その後さらに近代ヨーロッパにまでその学問。思想は脈々と受け継がれていったのだ。その意味で古典の継承という問題を考える場合、テキストをじっくり吟味していく文献学の存在が極めて大きいわけである。

ついでに言えば文法学者のテュラニオンは、小アジア出身のギリシア人地理学者ストラボン(前64-後21、その「地理誌」は、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジア・インドの、史実から伝説までを記した史料的地誌)の先生で、同時にローマの代表的な政治家キケロ、カエサル、文人アティックスといった人達の友人でもあった。

<「アリストテレスの書物」の意味するもの>

ここではひとつのエピソードをご紹介することにしよう。後200年ごろ活躍したギリシアの著作家(主著:「食卓の賢人たち」)アテナイオスが伝えるところでは、エジプトのプトレマイオス二世フィラデルフォスは、アリストテレス及び後継者テオフラストスの書物を、ネレウスから買い取り、アレクサンドリアへ運ばせたという。この時テオフラストスの後継ぎであったネレウスは、かなりの苦境に立たされていた。一方ではネレウスは、アリストテレスの著作をエジプト王に渡すつもりはなかった。しかし他方では強力なエジプト王の使者を、冷たくあしらうわけにはいかなかった。そこで彼はしぶしぶ「アリストテレスの書物」の全てもしくは大部分を、エジプト王に売ったのであった。とはいえここで言う「アリストテレスの書物」というのは、実はアリストテレスによって書かれた書物ではなくて、アリストテレス文庫に所属していた書物であったのだ。ネレウスは「アリストテレスの書物」という言葉が持つ二重の意味を巧みに利用して、その場を切り抜けたというわけである。

いずれにしてもアリストテレスが自ら執筆し、公にした初期の著作の数々は、とてもよく知られていたし、注目もされていた、という事を古代の文献は明らかにしているのだ。それに対してアリストテレス及びその弟子たちによってリュケイオン学園の授業用に編纂された研究者向けの作品は、前1世紀のローマの著作家で政治家のキケロの時代以後になって初めて評価され、利用もされるようになったのである。それらは文法学者テュラニオンが編纂した改訂版を通じて、あるいは哲学者のアンドロニコスの研究以降になって初めて、人々の手に入るようになったのである。

アテナイにおける諸学園の文庫

前にも話したが、ネレウスがアリストテレス及びテオフラストスの文庫を携えて、引越しをしてしまった後、リュケイオン学園に書物のない状態が長く続いたわけではなかった。ストラトンがリュケイオン学園の学園長を引き継いだ後、再び書物が集められたからである。その次の学園長になったリュコンは、それらを引き継いだ。その際ストラトンは自分が書いた著作以外の作品をリュコンに遺贈することを、遺言に書いたのであった。

この事は後3世紀前半ごろのギリシアの科学史家ラエルティオスによって記録されているのだ。彼は多くの哲学者の伝記を著しているが、その中にそれぞれの哲学者が残した遺言の言葉を収録している。これは古代の書物や図書館のことを知るための重要な史料になっているのだ。

例えば快楽主義の哲学者エピクロス(前341-271)は、有名なkeposと呼ばれる庭園付きの邸宅の中に、哲学の学園を作っている。そしてその中に自分の文庫を作っているのだ。科学史家ラエルティオスはエピクロスについて、次のように書いている。「彼は第一級の多作家だ。彼によって著された巻子本の数は300巻に上るのだ。その著書の数の点では、すべての人を凌駕している。ちなみにエピクロス派の哲学である<快楽主義>というのは、瞬間的な肉体の快楽ではなくて、持続する精神的な快楽を得ることである」と。

プラトンの「アカデメイア学園」、アリストテレスの「リュケイオン学園」そしてエピクロスの学園など、アテナイにおける諸学園の文庫は、これらの機関が教育・研究のためにもっぱら必要とした書物のコレクションであった。決して公共的な性格を有していたわけではなかった。つまりそれらは国家的な施設ではなかったのである。

その組織のメンバーは私法上、一つの団体を形成していたのだが、その際そこの学園長は不動産の所有者であり、同時に文庫の所有者でもあった。ただしアリストテレスは、よそから来た在留外人として、土地の所有を許されていなかった。

そこで最大の価値が置かれていた授業や学問的な対話は、庭園の中や散歩の途上、あるいは柱廊を逍遥しながら行われた。そのためそこの文庫にとっては、まさに必要とされたときに手に取ることができる簡単な保管所があれば、十分なのであった。

アレクサンドリアの「ムセイオン」及び「付属図書館」

          古代アレクサンドリア市街図

    プトレマイオス一世ソテルの肖像がついたドラクマ銀貨

                 アレクサンドロス大王が東方遠征で獲得した地域

かのアレクサンドロス大王はその東方遠征の途上、前331年にナイル川のデルタ河口に一つの都市を作ろうとして、アレクサンドリアという名前を付けた。しかし大王は大帝国建設の途中、前323年に突然死亡したため、その武将プトレマイオス一世ソテルがアレクサンドリアを中心とするエジプト地域を引き継いだ。そしてそこを都として、プトレマイオス王朝を建国したのであった。                  その初代ソテルは、幼いころマケドニア王国のペラの宮廷でアレクサンドロスとともに、アリストテレスから直接指導を受けたといわれる。そのため長じてもなお、この国王は狭義のアリストテレス学派である逍遥学派への崇敬の念が強かった。そこへ逍遥学派の学徒であったファレロンのデメトリオスという人物が、その文化顧問として呼ばれたのであった。広い学識と多才ぶりが高く評価されてのことであった。

<ムセイオンの誕生>

デメトリオスは逍遥学派の理念を実現するものとして、「ムセイオン」と称する総合的な学術研究センター及びその付属の大図書館を、アレクサンドリアに建設することを提言し、それが承認されたわけである。この研究機関では、当時の学問全てが奨励された。それらは数学、博物学(動物学及び植物学)、天文学、物理学、医学そして文献学などであった。
ちなみに「ムセイオン(Museion)」という名称は、アテナイからの土産物であった。なぜならプラトンのアカデメイア学園やアリストテレスのリュケイオン学園の中心部には、文芸や学術をつかさどる女神たち「ムーサイ」の神殿が建っていたからだ。そしてこの言葉は、のちにミュージアム(博物館)の語源にもなったのだ。

前25年にアレクサンドリアを訪ねたストラボンによると、王宮のすぐ近くに建っていた「ムセイオン」には、リュケイオン学園において逍遥学派(ペリパトス学派)という名称のもとになった(逍遙する散歩道)が作られていた。そして談論風発の学者たちのために作られた、三方を柱廊によって囲まれた広場が続き、最後に会員達の食堂として使われていた大ホールがあったという。

ムセイオンの会員は、はじめプトレマイオス朝の王、のちにローマ皇帝によって任命された。この学術機関にはヘレニズム王朝の新しい時代精神がみなぎっていて、会員達には、最適な条件のもとに自由闊達な研究活動が許されていた。また、税の免除、住宅の貸与そして糧食及び固定給支給という形で、その身分が保証されていた。
同時にこれらの学者たちの緊密な共同体は、騒がしく、いらいらした雰囲気をあちこちにまき散らしていてもいた。そのため風刺詩人のティモンなどは彼らのことを、籠の中に閉じ込められて、餌を与えられるときに争ってばかりいる鳥にも似た「本の人々」などとからかっているのだ。

この学者共同体の長は国王によって任命された官僚であったが、同時に女神ムーサイ神殿の神官職もかねていた。またムセイオンの財政を担当していた財政官はtamiasと呼ばれていた。そして付属図書館の司書は極めて重要な役割を果たしていた。

<付属図書館の設立>

学術研究機関ムセイオンを設立したとき、初代プトレマイオス一世ソテルは、付属図書館も併設した。そして二代目のフィラデルフォスはこの図書館の拡張に多大な尽力を払った。その目標はすべての文献を一堂に集めるという野心的な試みであったのだ。それはあらゆる時代の、あらゆる民族の書物を集め、外国語の書籍はギリシア語に翻訳すべしというものであった。この翻訳活動の一つの実例が、いわゆる七十人訳聖書であったが、これはヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳する事業であった。

図書館の蔵書の拡充に関する取り組みについては、先に述べたネレウスからの「アリストテレスの書物」の購入が、そのよい実例である。また今日の我々の目から見ればまさに過激だと思われるようなことまで行われたのだ。それはアレクサンドリア港に停泊していた船の中に積まれていた書物を、系統だって捜索したことである。書物が十分興味深いと思われた場合には、それは直ちに押収され、元の持ち主に対しては、大急ぎで写し取った写本のほうを返したのであった。そしてこのようにして図書館にもたらされた書物は、「船よりもたらされた(書物)」と書かれた特別な部屋に収められた。

もう一つの実例は、アテナイで前330年代に行われた国営写本を、15タラントンの補償金を払って借用したという話だ。それらは前5世紀の三大悲劇詩人の作品を政治家のリュクルクルゴスの命令によって公式に写し取られた写本であったが、国王フィラデルフォスによってアレクサンドリアの図書館のために借用された。そして写本が製作された後で、写本のほうが返却され、オリジナル作品はアレクサンドリアにとどめ置かれたという。

これが果たして真実なのか、あるいは競合相手のペルガモン図書館による悪意ある作り話なのか、分からない。しかしいずれにしてもこの話は、アレクサンドリア人のあまりに過度な収集熱を示す証言だといえよう。そしてこれらの書物が切望されたのは、そのテキストの内容によることもさることながら、その由来(ブランド)の持つ名声によるものでもあったのだ。またそうした状況は、偽造者によって悪用されたりしたこともあった。

<所蔵図書は49万巻>

初期ヘレニズム時代の史料に基づいて研究を行ったビザンツの学者ツェツェスから我々は、プトレマイオス二世フィラデルフォス時代の付属図書館の所蔵図書の数を知ることができる。それによれば1巻で完結している小規模な巻子本が9万巻、数巻に及ぶ大規模な巻子本が40万巻あった。合計して49万巻であるが、たとえばヘロドトスの『歴史』は9巻に及ぶ大規模なものであった。
この49万巻の巻子本は当時としては最大規模のものであった。しかしこの数字からは作品の数を知ることはできない。1巻の中にいくつもの作品が収録されている場合もあれば、一つの作品が数巻に及ぶものもあったからだ。また同じ本が2巻以上ある複本もかなりあった可能性もある。

<歴代の図書館長>

ビザンツのスーダ百科事典やパピルス文書などから、我々は歴代の図書館長の名前を知っている。それによれば、はじめの百数十年の間、著名な学者、作家、詩人が館長職を占めていた。それを列挙すると、初代がゼノドドス(前285-270)
二代目がアポロニオス・ロディオス(前270-245)、三代目がエラトステネス(前245-204)、四代目ビザンツのアリストファネス(前204-189
)、五代目アポロニオス・エイドグラフォス(前189-175)、そして六代目アリスタルコス(前175-145)と続いた。

しかしそのあとは一人の無名な軍人によって館長職が占められることになった。それは国王プトレマイオス・エウエルゲテス二世の反ギリシア的な政策によって、アリスタルコスをはじめとする学者たちがアレクサンドリアを追われることになったからである。その後、前120-80年の間は、再び一連の文法学者の名前がパピルス文書に挙げられているが、彼らは明瞭に図書館長とは記されていない。
いずれにしてもアリスタルコスがいなくなってからは、図書館長の地位の低下は紛れもないものとなった。

<蔵書の系統的な整理分類>

ムセイオンの付属図書館に課せられた課題は、できる限り完璧な形で書物を収集し、それらを系統立てて整理分類することであった。館長を初めとして多くの学者が総動員されて、分野別に著作者が分類され、その名前や作品がアルファベット順に並べられた。そして新たな写本が入ってきたときは、慎重に吟味して、適切な分類項目の中に仕分けされたのであった。

そうした分類作業に当たっては、文学についてはゼノドドスが叙事詩を、アレクサンドロス・アイトレウスが悲劇とサテュロス劇を、そしてリュコフロンが喜劇を担当するといった具合であった。それらの作業を総合してカリマコスが、その『ピナケス』(表札ないし看板)という120巻に及ぶ記念碑的作品の中で,全ギリシア文学の一覧表的な外観を作り上げたのであった。

この『ピナケス』は全体としては消失してしまっているが、のちの作家の引用に基づいて、そのある程度の姿かたちを知ることができる。それによれば、まずすべての文学は、叙事詩、抒情詩、雄弁術、戯曲などに分類された。そしてそれぞれの項目の中で、著作者がアルファベット順に並べられた。また個々の著作者には、簡単な経歴が添えられた。それからたぶんアルファベット順に並べられた作品が、その表題、書き出しの言葉、総行数をつけて並べられた。そうした作業によって、著作者の観点から言っても、その作品の観点からいっても、確固とした年代順の骨組みを利用できる点が重要であった。

これによって演劇の一般的な上演記録、とりわけアテナイの演劇の公式講演記録、そしてまた大オリュンピア競技会、イストミア競技会、ピュティア競技会などの優勝者のリストを知ることができたのである。それらはまた例えば、懸賞詩歌の年月日を特定する際にも重要であった。そうした詩歌はしばしば、スポーツ競技会の勝者のために書かれたからである。例えば抒情詩人のピンダロス(前518-446)の詩がよく知られている。さらに普通は地理学者ないし数学者として知られているエラトステネスの名前が、オリュンピア競技会の優勝者のリストに載せられていることが、わかるのだ。

このカリマコスの仕事の補足改訂に尽力したのが、アリストファネスであったが、この二人によって作られた『ピナケス』は、単にアレクサンドリア図書館の書物を探すためのカタログであるにとどまらず、ギリシア文学史の基盤を形成した偉大なる総合文献目録でもあったのだ。

<古典の改訂版の作成>

それに続いて次世代の学者たちが、次の段階へと一歩踏み出した。最初の段階では、文学テキストの筆写や伝承にあたって、正確な字句内容にはあまり価値が置かれなかった。そのせいで同じ作品でも、互いに食い違った内容のものや、語句の勝手な挿入や省略が行われたテキストが、世に出回ったりしていた。そのため、次世代の研究者たちは、著者のオリジナルな字句内容に立ち戻ることを、その課題としたのであった。
かくしてテキストの比較検討が行われ、古典の新しい版が作成されたのである。そしてレベルの高い読者のために本文批評や、とりわけ注釈をつけた版も作られたのだ。

この事については先に「書物の普及」の話の中で、ホメロスの詩歌を取り上げて、述べたことがある。その際前2世紀以降のパピルス文書が実際に発見された事によって、テキストの統一がアレクサンドリア図書館における文献学的な作業のたまものであったことも、述べている。
ローマ帝政時代の終わりに至るまで、文法的な問題の処理と並んで、注釈書の作成が、古代文献学の主要な課題であり続けた。エジプトにおけるパピルス文書の発掘物が、それに対する直接的な証拠となっているのだ。

<アレクサンドリアの図書館のその後の運命>

古代の他の図書館とは比べものにならないくらい、アレクサンドリアのムセイオン付属図書館は、現代においてもなお我々の気持ちを強く引き付けるものがある。この古代文献の巨大にして完璧なコレクションは、古代ローマの最大の人物であったユリウス・カエサルによって焼かれてしまった、と古来言われ続けてきた。

しかしこの昔からの言い伝えを、もう一度厳密に検証しなおしたカンフォーラは、カエサルの名誉を回復する形で、別の結論に達したという。カンフォーラが強調しているように、前48/47の冬に行われたアレクサンドリアの戦いで実際に炎上したのは、港湾地域にあった倉庫の建物であった。その中には当時穀物のほかに、(輸出用に指定されていた)4万巻の巻子本が置かれていた。しかし王宮内に設立されていた「ムセイオン」及び、その付属図書館は、この時燃やされることはなかったのだ。

古代アレクサンドリア市街図(モスタファ・エル=アバディ著『古代アレクサンドリアの図書館』P.19、中公新書) ここでブルケイオン地区内のムーゼイオンと記されているのが「ムセイオン」

上記の市街図をご覧になればお分かりいただけると思うが、倉庫と図書館及びムセイオンはかなり離れている。このアレクサンドリア戦争の少しあとエジプトを旅行したギリシア人地理学者のストラボンは、ムセイオンについてはわずかな記述しか残していない。しかも彼はこの施設が何らかの損傷を受けたとは、まったく書いていないのだ。

ところでローマ皇帝クラウディウスは学識のある人物で、ギリシア語とエトルリア語で、エトルリア人の歴史20巻とカルタゴの歴史8巻を著した。そして「アレクサンドリアには古い図書館とは別に、彼の名前の付いた新しい図書館も作られた。さらに毎年特定の日々に、エトルリアの歴史とカルタゴの歴史について図書館内のホールで朗読する催しが開かれた」(スエトニウス『クラウディウス伝』42)という。ただこの図書館のその後の運命については、何も分かっていない。

ただスエトニウスが伝えるところでは、ローマ帝政時代においてもなお、ムセイオンは依然として高い威信を維持していて、支配者の著作を受け入れ、その朗読が行われていたという。そしてまたムセイオンとその会員のことは、いろいろな著作やパピルス文書や碑文の中で、引き続き触れられていた。またハドリアヌス帝は彼の先生であるフェスティヌスをムセイオン館長ならびに付属図書館の館長に任命している。

先の研究者カンフォーラによれば、ムセイオン付属図書館の実際の終焉をもたらしたのは、紀元後3世紀に、パルミュラの女王ゼノピアとアウレリアヌス帝(在位:後270-275)との間に行われた戦争であったという。この時アレクサンドリアでは古い王宮のあったブルケイオン地区が破壊され、付属図書館も焼け落ちたのであった。しかし少し離れたところに位置していたムセイオンの施設は、このときも破壊をまぬかれたという。

ビザンツのスーダ百科事典に掲載されていたムセイオン最後の会員は、アレクサンドリアのテオンという人物であった。彼は著名な数学者で、後415年にキリスト教徒によって殺された学識ある女性ヒュパティアの父親であった。

<セラペイオン図書館>

上に述べたアウレリアヌス帝の時代に行われた付属図書館の破壊の後、アレクサンドリアの学者たちは、主としてセラペイオン図書館を利用していたようだ。その図書館は、上に掲げたアレクサンドリア市街図のなかの左側にあるラコティス・エジプト人地区の下のほうに書かれている「セラペウム」の中に建てられた。このセラペウムというのは、プトレマイオス三世エウエルゲテスによって開発された地区で、その中心に、エジプト人とその土地のギリシア人とを統合する意図のもとに国王によって建設された「セラペイオン神殿」があった。そしてその場所に作られたのが、「セラペイオン図書館」であった。

この図書館は、ムセイオン付属図書館がもっぱら研究者向けの学術図書館であったのとは違って、一般の人々にも公開されていた。そしてその蔵書は、42800巻の巻子本であった。49万巻を誇った「ムセイオン付属図書館」に比べれば、はるかに少なかったわけである。「セラペイオン図書館」は、一般に「娘(の施設)」と呼ばれていた。このアレクサンドリア第二の図書館に関しては、これぐらいのことしか、知られていない。

そして後391年、キリスト教徒の司教テオフィロス指揮下の熱狂的な集団が、異教の神が祭られているセラペイオン神殿を破壊したとき、その図書館も滅んだのであった。イギリスの歴史家エドワード・ギボンは、有名な『ローマ帝国衰亡史』の中で、この悲しい出来事について感動的に叙述している。

それはそれとして、「娘」は「母」よりも120年余り長生きしたわけである。ここで疑問になるのは、のちの時代になって、これらの図書館の元来の蔵書のうち、どれぐらいが残っていて、人々が利用できたのかという事である。それらが創立されて以来、すでに500年以上の歳月がたっていた。古代の文献については、時としてきわめて古い巻子本のことが伝えられることがある。しかしこれらの図書館のかなりの数の作品は、歳月の破壊力によって、損傷を受けたろう事は、容易に想像できる。その場合、系統的に新たなパピルスの上に写し直しが行われたものと思われるのだ。

ヘレニズム諸王朝の図書館

アレクサンドリアのムセイオン付属図書館は、プトレマイオス朝に大きな名声を与えた。そしてヘレニズム時代(前3~前1世紀)の他の王朝支配者たちにも、大きな刺激を与えたものと思われる。かくしてペルガモンにも、立派な図書館が建てられたわけである。そしてまたセレウコウス朝の首都アンティオキアにも図書館が建てられたが、そこは一般の人々にも公開されていたという。その館長には、アンティオコス王(在位:前223-前187)によって、カルキス出身の詩人エウフォリオンが任命された。

またローマの将軍パウルスが前168年にマケドニア王ペルセウスと戦って倒した時、戦利品としてそこにあった文庫本をローマに持ち帰った。そして文学好きの息子たちに分け与えたという。このことを伝えているプルタルコス(「対比列伝」アエミリウス編28)は、「国王の書物」という言い方をしているので、それらはペルセウス王の個人的な文庫であったかもしれない。これらの書物はすでにアンティゴノス・ゴナタス王(在位:前276-前239)の時代のさかのぼり、同王はその宮殿に詩人や学者たちを集めていた、という事を書いている現代の研究書もあるが、それはもちろん推測にすぎない。

もう一人のローマの将軍ルクルスは、黒海に臨む小アジアの国家ポントゥスの国王ミトラデス4世との戦いに勝ち、その戦利品としてこの国王の文庫をローマに持ち帰った。それは大きな箱に入った医学書で、最終的な勝者となったポンペイウスが自分のものにして、ラテン語に翻訳させたのであった(プリニウス『博物誌』)。しかしこうした文献によって推測できる実例よりはるかに数の多い「国王の文庫」が、実際には存在していたはずである。

こうした仮設の正しさへと我々を導くのは、例えばヘレニズム世界のはるか辺境に位置していたアフガニスタン北東部のギリシア植民都市アイ・ハヌムの宮殿にあった書物が発掘されたことにもよる。その建物は前2世紀に、ギリシア=バクトリア王エウクラティデス統治下に建てられたが、ほどなくして暴力的に破壊されたものであった。その破壊された層の泥の中から、パピルス製や羊皮紙製の巻物が発見されたが、それらのテキストは部分的には解読することができた。それらはギリシアの哲学的対話や戯曲の断片であるが、その文字形態は前3-前2世紀のエジプトのパピルス文書に極めて近いものである。

ローマの建築著作家ヴィトルヴィウス(「建築十書」)はギリシア人の住宅の構成要素として、図書館を考慮に入れている。その際彼はヘレニズム時代の王の宮殿を思い描いていたと思われる。そこから我々としては、そうした宮殿の中にたくさんの書物を入れることのできた、広々とした図書館があった、と想像できるのだ。

ペルガモン図書館

アレクサンドリアの図書館に次いでヘレニズム時代で最も注目すべき存在は、間違いなくペルガモン図書館であった。アレクサンドロス大王の死後、帝国はいくつかの地域に分かれて統治されたが、その一つが小アジアの西岸に作られたペルガモン王国であった。後継者の一人フィレタイロス(在位:前281-263)はペルガモン王国の最初の支配者として、王朝の基礎を固めた。その際巨額の銀を取得することによって、王国の財政的基盤を確立することができた。

かくして彼及びその後継者たちは、活発な文化政策を展開することができたのであった。その際彼らがライヴァルとみなしたのは、強大で財政力豊かなエジプトのプトレマイオス王朝であった。やがて後を継いだアッタロス家諸王(前241-前133)の文化政策は、その支配領域の内外に様々な建物を建てただけでなく、美術品の収集や図書館の建設にまで及んだのである。

ペルガモン図書館の基礎を作ったのは、アッタロス家の初代国王アッタロス一世(前241-前197)であった。図書館の建物は、女神アテナ・ポリアスの聖域にあった。次いで二代目の国王エウメネス二世は、その事業を継承し、さらに発展させていった。この点についてローマの建築史家ヴィトルヴィウスは、その「建築十書」の中で次のように書いている。「アッタロス家の王たちは文学の魅力に取りつかれて、それを享受するためにペルガモン図書館を建てたのだ」

この図書館は、「ムセイオン」の共同体のために作られたアレクサンドリア図書館とは違って、広く学問や文学に興味を抱いていた人々が利用できるように、という意図のもとに作られたものであった。いっぽう書物を集め、蔵書を増やすという熱意の点では、ペルガモンの支配者たちも、エジプトの先輩たちに負けてはいなかった。例えば「アリストテレスの書物」を彼らの図書館で所蔵しようとした時の事については、すでに述べた。またエジプトのパピルスがペルガモンに運ばれないという事態が発生したが、ペルガモンのエウメネス二世とエジプトのプトレマイオス六世との間の、図書館をめぐるライヴァル関係に、その原因を求めたローマの学者もいた。

とはいえ蔵書の分量に関しては。ペルガモン図書館はアレクサンドリア図書館に太刀打ちできなかったのだ。ペルガモン図書館は、なんといってもアレクサンドリア図書館のあとに建てられたわけであり、アッタロス三世(在位:前138-前133)の死後、ペルガモンはローマの属州にされてしまった。そのためその図書館は以前と同じような保護を受けることはできなくなったと思われる。

<ペルガモンにおける文献学的・学術的活動>

とはいえ、ペルガモンにおいても蔵書は豊富にあったため、熱心な文献学的活動が行われていた。アレクサンドリアでカリマコスがやったように、ペルガモン図書館の場合にも、「ピナケス」(標札ないし看板)の形で、批判的な書籍目録が作成された。その構成と形態において、このペルガモン図書館のピナケスは、あらゆる点で、カリマコスのものに対応したものであった。ただそれらは古代の文献史料には、常に匿名でしか引用されていないので、我々としてはこの重要な文献学的業績の編纂者の名前を挙げることができないのだ。

いっぽうペルガモンにおいても、偽の書物を除去し、古典の作家や雄弁家の本物の作品を確保しようとする努力がなされていた。そしてテキスト批判も行われていた。アレクサンドリアの文献学者たちは、アリストテレスの思考法に根差した合理的な方法に基づいて、もしある個所や言葉が同じ作家の他の部分に対応していなかったり、独自の慣習がみられなかったりした場合には、それらは真正なものではない、と断じられた。それに対してストア派の影響を受けていたペルガモンの人々は、まさに暗く、尋常ではない個所に隠された、比喩的な意味を探して、それらを真正なものとしたのである。しかしアレクサンドリアとペルガモンの間の文献学上の論争は、終わることがなかった。そうしたことは、古典の注釈の中で、今日なおみられることだが。

精神的なセンターとしてのペルガモン図書館は、数多くの学者たちに豊かな活動の場を与えた。次にそうした人々の名前をいくつか列挙することにしよう。まずアッタロス二世がローマ駐在公使の役を委嘱したマロスのクラーテスは、偉大なるホメロス学者として名を成した。ついでカリストス出身のアンティゴノスは、哲学者及び芸術家の伝記を書いた。イリオン出身のポレモンは、各地の地誌を書いて有名になった。またペルゲ出身のアポロニオスは、著名な数学者兼天文学者であったし、ビトンは軍事技術の専門的著者であった。さいごにアテナイオス(「食卓の賢人たち)によれば、カッサンンドレイア出身のアルテモンは、図書館及び書籍収集の専門書を初めて書いたという事だが、残念ながらその著作は現存していないのだ。

ギュムナシオン付属図書館

ヘレニズム時代の支配者たちが彼らの宮廷に建てた大図書館の話はこれくらいにして、次に学校施設としてのギュムナシオン付属図書館についてみてゆくことにしよう。我々はすでに前4世紀の喜劇作家アレクシスの作品の断片の中で、教師用ないし学校用図書館というものの存在を知ったわけである。これらギュムナシオン付属図書館は国家の管理下にある図書館として、ヘレニズム時代になって初めて登場したものであった。

そうしたギュムナシオンの一つに、後2世紀の地理学者で旅行家のパウサニアスが言及しているアテナイのプトレマイオンがあった。パウサニアスの言葉によれば、この施設はエジプト王プトレマイオス六世(在位:前181ー前145)の寄付によって建てられたものであった。このプトレマイオンおよびその付属図書館については、前2世紀から前1世紀にかけて、数多くの碑文に記されている。それらによれば、市民の決議に基づいてエフェーボス(18歳から20歳の若者)たるものは、学校を卒業するときに、百巻の書物を寄付しなければならなかったのだ。こうした碑文の断片が明らかにしているところでは、このようにしてもたらされた書物の中には、エウリピデスの作品やホメロスのイリアスも含まれてたという。アクロポリスの北に建っていたというプトレマイオンの建物は、これまでのところその場所は確認されていない。

アテネの臨海地区ピレウスにおいて、前100頃の碑文の断片が発見されたが、それはある書籍目録の一部をなすものであった。ただそれは、図書館を建設するにあたっての寄付趣意書とそこに記された寄贈図書一覧なのではないかといわれている。そしてこれもあるギュムナシオンの付属図書館なのであった。またその碑文には、ホメロス、アッティカの悲劇作家、喜劇作家アンフィス、ニコマコス、メナンドロスなどの作品や、哲学者、雄弁家たちの著作も記されているのだ。

さらに数多くの碑文の断片に記された書籍目録が、ロードス島で発見されている。前2世紀ころのこの目録には、雄弁家や歴史家の作品の名前が記されているが、図書館建設のための寄付に関する市民の決議を記した碑文の断片もあった。これらの寄付を受け取ったのはギュムナシオンの幹部だった。また隣接するコス島でも、同様の図書館建設について伝える前2世紀の碑文が出てきている。

豪華船中の図書館

古代においても豪華船の中で人々が旅のよすがを過ごすための図書館があったのだ。それはイタリア半島の南にあるシチリア島のシュラクサイのヒエロン王(在位:前269-前215)が建造させた船であった。この「シュラコシア」と称する、古代にしては巨大な貨物船は、その上甲板に旅客を収容できるように設計された、豪華な貨客船だった。そこには船室のほかに、本物の植物を配した遊歩道、体育室、アフロディテ神殿、ならびに余暇のつれずれを過ごすための図書を備えた部屋まであった。

しかし西地中海海域にはこのような巨大な船を停泊させることができる港がなかったため、ヒエロン王はプトレマイオス三世エウエルゲテスへの贈り物として、その船をエジプトへと航行させたという。こうした話は、モシオンという人物が書いたものを、例のアテナイオスがその『食卓の賢人たち』の中で、長々と引用しているのだ。

ギリシアの成人用図書館

我々がこれまで、そのいくつかを知ることができた文献や碑文は、結局のところ偶然我々のところに届いた実例にすぎない。それでもヘレニズム時代のギリシアの都会では、どこにでも存在したものだったことが、そうした史料によって漠然と分かるのである。おおくの場合それらの図書館は、エフェーボス(18歳から20歳までの若者)用の図書館であった。

ロードスのような「大学都市」では、かなりの数のギュムナシオン付属図書館が、大学からの要請にも応えられる態勢を整えていた。たとえばニュサ出身のアリストデモスのような人物は、午前中は大学レベルの修辞学を教え、午後の遅くにはエフェーボス用に文法を教えるという風に、二種類の授業を受け持っていたのだ。ロードスの書籍目録には実際に古典の科目については、エフェーボス段階を超えるようなものも記載されている。

ところがヘレニズム時代の幾つかの都市においては、ギュムナシオンの授業のための図書館のほかに、広く文学や学問に関心のある一般教養人が利用できるような図書館も存在した。ストラボンがその『地理書』で記しているスミュルナの図書館がその一例である。これに関連して前2世紀の歴史家のポリュビオスは、年代記編集者のティマイオスとの論争の中で、次のように述べている。「書物から知識をくみ取るものは艱難辛苦に耐える必要もなく、危険からも離れていられる。ただたくさんの記録史料を備えている図書館を探せばいいのだ。そしてそこで静かに座って、知りたいと思っていることを、書物の中に求めればいいのだ。そして先人の過ちを静かに確認することもできるのだ。」

 

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 03

その03 書物の普及と書籍取引

Ⅰ ギリシア世界における書物の普及

<ホメロス作品の文字化>

いったい、いつどこで書物がギリシア世界に登場したのだろうか? このことを明らかにする史料は、残念ながら存在していない。しかし古代ギリシアにおける最古の大英雄叙事詩といわれるホメロスの『イリアス』及び『オデュッセイア』の中身を書き留めるために書物が生まれた、と言われているのだ。これら二つの叙事詩は、ヨーロッパ文学の源泉と仰がれている。そのため日本でも1943年以来、いくつかの翻訳がある。また岩波文庫には松平千秋の邦訳があり、私もこれを所持している。

            岩波文庫版、ホメロス『オデュッセイア』(上)松平千秋訳

さて、これらの作品の作者または編者といわれているのがホメロスという盲目の詩人なのであるが、その実在には疑問があるとされている。それはさておき、『イリアス』及び『オデュッセイア』は、もともとはホメロスと呼ばれる詩人が、人々の前で語り聞かせたものだった。彼はいわば「語り部」だったわけである。『イリアス』はトロイア戦争での英雄たちの活躍を描いた叙事詩であり、『オデュッセイア』はこのトロイア戦争の英雄オデュッセウスの、トロイア攻略から帰国までの冒険を描いた叙事詩である。トロイア戦争というのは、ギリシアの英雄たちが、今日のトルコの小アジア西北岸にあったトロイアの地を攻め、10年間の包囲ののち陥落させたという伝説上の戦争である。

とはいえ、ホメロスの叙事詩を夢中になって読んで、この戦争があったことを信じて発掘調査した19世紀のドイツ人シュリーマンが、その実在を証明したのである。彼の著作『古代への情熱』は、私も愛読したものである。現在ではその発掘現場は観光地として人々が押しかけているが、私も1984年に家族と一緒にここを訪れている。有名な「トロイ(ア)の木馬」の巨大な模型が展示されていて、私の子供たちは大喜びしていたが、親日的なトルコ人から声をかけられたりした。そこの遺跡の9層のうち第7層が、古典古代のギリシアより古いミケーネ文明と同時期のトロイア文明にあたるとされている。ミケーネ文明というのは、前1600~前1200年頃に、ギリシア人の第一波のアカイア人が、ペロポネソス半島のミケーネ地方を中心に形成した青銅器文明であった。その中心地ミケーネの遺跡もシュリーマンが発掘しており、私も1985年のギリシア旅行の際に訪れている。

ミケーネ文明のことはその後、いろいろな考古学者などによって研究が進んでいて、さまざまなことが解明されているが、トロイア文明の実態については、あまり研究が進んでいないようだ。しかしミケーネ文明が滅びた前1200年ごろに、トロイア文明も滅んだらしい。そしてトロイア戦争はその末期の時代に行われた戦争らしい。ミケーネ文明が滅んだあと、ギリシアの地については、前8世紀までの400年間史料に乏しく、ほとんど不明であることから、暗黒の時代といわれている。ただこの地では、この間に青銅器時代から鉄器時代に移行し、前8世紀ごろからポリスを中心とした新たなギリシア文明の時代に入ったのである。

謎多き盲目の天才詩人ホメロスは、この新たなギリシア文明の時代のごく初期に位置していたらしい。そして400年ほど前に起きた戦争についての言い伝えを、叙事詩にして、人々の前で朗誦していたようだ。その後ホメロスのあとも、『イリアス』と『オデュッセイア』は、吟遊詩人たちによって、語り伝えられていった。これら初期の吟遊詩人たちは、本来のテキストにあまりとらわれずに、それぞれ自由に名人芸的に歌っていたようだ。そのため語り部である詩人によって、物語の中身に大きな差異が生じていた。

しかし前6世紀に、アテナイの女神アテナを祭る大祭が開かれ、ホメロスの叙事詩の朗読が行われることになった。その時、一人の吟遊詩人が詩の一つの章(歌)を朗誦したのだが、その詩人は自分の前の詩人が歌い終えた個所から歌い始めたといわれる。このことは、すでに信頼のできる統一的なテキストが書物の形で出来上がっていた証拠である、と見ることができるのである。つまり大勢の吟遊詩人たちはホメロス作品の手書き原稿ないし書物を旅行鞄の中に入れて、持ち歩いていたようなのだ。

これを要するに、前6世紀にはホメロス作品は文字化された、と見なすことができよう。同時に前700年ごろに活躍した叙事詩人ヘシオドスの『労働と日々』(怠け者の弟に与えた教訓詩の形をとって、農民の苦しさ、勤労の尊さを説いた作品)や『神統記』(天地創生以来の神々の系譜を語った叙事詩。特にゼウスをたたえた)、さらに前7世紀の抒情詩人たちの作品も文字化されて、ギリシア各地に普及していったわけである。

<ギリシアの僭主たちの文庫>

僭主というのは、民衆の不満を利用し、その支持を得て、非合法的に政権を握った独裁者のことを言う。前7~前6世紀の貴族政治から民主政治への過渡期に、この僭主政治が出現した。なかでもアテナイの僭主ペイシストラトス(前600年ごろ~前528年)は亡命貴族の土地財産を貧民に分配して、中小農民を保護・育成し、アテナイの美化や文化事業にも力を注いだ。この人物はサモスの僭主ポリュクラテスとともに、後200年ごろに活躍した著作家アテナイオスによって、その大規模な文庫のために有名だった人物に数えられている。ただしこれらの文庫は大規模といっても、書物が生まれて間もない頃だったので、のちのヘレニズム時代(前3世紀~前1世紀)の図書館に比べれば、小規模だったといわざるを得ない。なにしろ前5世紀以降の偉大なるギリシア文学の作品の数々はまだ生まれていなかったのだから。

ついでながら僭主ポリュクラテスはエジプト王アマシスと親密な関係にあったことが知られているので、パピルス巻子本を所有していた可能性がある。他方イオニアのギリシア人は、パピルスが知られる以前の時代には、ヤギや羊の革に書いていた。そうした革の上に、ミレトスのアナクシマンドロスなどのような初期イオニアの哲学者たちが、その著作を書き記していた可能性が十分あるのだ。

いっぽう当時すでに初歩段階の書籍取引が存在していたのかどうか、史料が不足していて明らかではない。とはいえ原則的にはその可能性を排除することはできない。ただこの時代にはまだ、ある特定の作品を所有しようとするときは、それを書き写すのが普通だったようだ。

<前5世紀のアテナイ市民と書物>

ギリシアにおける書物の存在と使用を明らかにした最も初期の同時代の証拠物件は、前にも紹介したことがある前500年ごろのアッテイカの壺絵である。これは下の写真に見られるように、巻子本を手にした人間を描いたものである。

        この壺絵の上部中央に、巻子本を手にしている人物が描かれている

当時一般に読み書きの知識がどの程度あったのか、という点に関していくつかの具体例が明らかにされている。またアッティカの三大悲劇詩人や古喜劇作家の著作などを通じて、前5世紀のアテナイ市民にとって書物がごく普通のものになっていたことも、知られているのだ。さらに書籍販売人の存在についても、彼らからしばしばその証拠を提供してもらっている。例えばかのソクラテス(前469頃~前399)の発言(プラトン『ソクラテスの弁明』26D)に注目することにしよう。「私は哲学者アナクサゴラスの本を、アテナイのアゴラ(広場)にあるオルケストラ(劇場の平土間のことで、その一角に書籍販売所があったのかもしれない)において、1ドラクマで買うことができた」 この値段をほかのものと比べてみると、例えば当時羊一頭の値段は12-17ドラクマであった。

<前5世紀末、書物はギリシア世界の辺境まで到達>

当時、前5世紀末ごろには、書籍取引はすでにアテナイを超えて行われていて、書物はギリシア世界の境界線地域にまで到達していた。このことは古代ギリシアの軍人で歴史家のクセノポン(前426頃ー前355頃)の著作『アナバシス』から明らかである。将軍クセノポンは1万人のギリシア人傭兵を率いての行軍の際に、小アジアを通ってトラキア(現在のブルガリア)の黒海沿岸にやってきた。その時彼は、そこに数隻の船が座礁していて、船から流れ出た家具や箱やその他のものと一緒にたくさんの書物を見たのであった。

また哲学者プラトン(前427-前347)の弟子ヘルモドロスは、師匠の著作を許可なしにシチリア在住のギリシア人に、大々的に売りさばいたという。前4世紀以降になると、書籍取引や書物の普及についての言及はもっと豊富になる。例えばハリカルナッソスのディオニュシオスは、次のように述べている。「当時書籍商は修辞家イソクラテス(前436-前338)の法廷弁論書をすべて携えて、各地を回っていた。このアッティカの修辞家にとっては、自分の弁論書がスパルタでも読めることは至極当然のことであった。

<前4世紀後半以降については、書物自体が発掘>

前4世紀の最後の数十年間は、古代の書物に関する我々の知識にとって、根本的な転換の時期を意味していた。これに関連した言及や証拠などは、これまでも極めて有益なものであったが、それらはいずれも二次史料であった。つまり我々の関心の元来の対象物である古代の書物自体を、我々は直接的には把握していなかったのである。

しかしそれ以降の時代になると我々はギリシア文学のテキストを、発掘物の形で手中にしているのだ。我々の持つギリシアの書物のもっとも古い断片は、マケドニア(ギリシアの北部に位置する)のデルヴェニ近くの墓の中から発見された、ある宇宙論作品への論評を記載したパピルス巻子本の切れ端である。この地域の湿度の高さにもかかわらずこれが残存できたのは、このパピルスが死者の副葬品の一部として、薪の山の中で燃やされ、炭化したおかげであった。

また1902年にドイツ人のエジプト学者ボルヒャルトはエジプトのアブシーアにおいて、木製の棺桶の中にミイラと並んで置いてあったティモテオス・パピルスを発見した。それは初めと終わりの部分が欠けたままの状態で、死者の副葬品として入れられていた巻子本で、デルヴェニのパピルス断片とほぼ同じころのものである。このパピルスの現存している部分(長さ1.11メートル)は、前5世紀の詩人ティモテオス作の詩『ペルシア人』の中の、音楽的朗誦の最後の三分の一の個所である。

このティモテオス・パピルス以降古代末期に至るまで、エジプトの乾いた気候のおかげで、つぎつぎと書物が、もちろん多かれ少なかれ断片の形で、発見されていくことになった。そしてこれらの発掘物のおかげで、研究者たちは、アレクサンドロス大王の遠征(前4世紀末)によってギリシア世界の辺境に組み込まれた、この地域において、当時の書物についての図像による表現や古代の作家たちの特別の言及を、一次史料によって立証することができるようになったという。

<書籍取引の枠外での書物の普及>

古代の全時期を通じて、書籍取引が書物を手に入れるための唯一の手段というわけではなかった。書籍取引が広く普及した後でも、書籍商のもとで買うやり方と並んで、自ら書物を作ることがしばしば見られたのである。当時の書物製作は、冊子本の登場以前には、パピルスの巻物の上にテキストを書いていく事によって成り立っていた。つまりオリジナルの書物を筆写することで、新しい書籍を作ることができたのである。

それにはいくつかのケースがあった。まず第一に、ある作品が書籍商のもとで見つからなかった場合。第二に、ごく限られた読者層のために書かれた専門科学や哲学分野の作品の場合。第三に、ほしいと思った書物の価格が高くて買えない場合などである。当時はまだ著作権や版権などというものは存在していなかったので、ほしいと思った書物をどこかで借りて、書き写したわけである。その際テキストを自ら筆写したか、あるいは筆写の仕事に経験がある奴隷に依頼したか、それとも謝礼を払って「書写工房」に任せたか、そのやり方はいろいろあった。

そうした筆写の実例としては歴史に名をのこした人物の名前があげられる。前4世紀の政治家で雄弁家のデモステネスは、歴史家のトゥキュディデスの全作品を自らの手で8回も書き写したといわれる。その作業は、まだ無名の貧しかった時代に行われたものとみられるが、金銭上の理由以外にもあったようだ。次いでマケドニア国王カッサンドラは厚顔無恥の乱暴者であった反面、高度な教養を身に着けた人物でもあった。この人物はイリアスとオデュッセイアの大部分を暗誦することができたばかりでなく、この二つの叙事詩をすべて自ら筆写したといわれる。またマケドニア王朝の彼の後継者は、哲学者のゼノンに対して、書籍を筆写するための奴隷を、贈り物として与えたといわれているのだ。

ll ローマ時代における書籍取引

<作品の文字化~口述筆記~>

古代ローマの著作家は、自分の考えを文字化する場合、口述筆記のやり方をとる場合もあったようだ。これに関連して、優れた抒情詩人のホラティウス(前65-前8)は、詩人ルキリウスは1時間に200詩句も「乱造」していて、それらを口述筆記させていると嘲笑している。詩的作品とりわけ抒情詩の場合は、普通、詩人が自らの手で書いていたからであろう。
これに対して、分量の多い記録的な作品を書き残そうとする人は、自分の手で書いていくのは労力を要するので、口述筆記に頼っていたわけである。全37巻、項目数2万にのぼる膨大な百科全書『博物誌』を著した大プリニウス(後23-79)は、速記者に自分の考えを口述筆記させていた。この速記者は、寒い冬でもいつでも仕事ができるようにと、常に手袋を携行していたという。その叔父の仕事ぶりについて我々に伝えている小プリニウスも同様に、速記者に口述筆記させるのを、常としていた。彼の場合はとりわけ弁護士としての弁論を筆記させ、それを書物の形(巻子本)で刊行していたようだ。

ところがこの小プリニウスの師匠であったクインティリアヌスは、口述筆記よりも自分の手で書いてゆくほうを好んでいた。その理由として彼は、もし速記者の仕事がゆっくり過ぎるときには、自らの考えが滞ってしまうし、早すぎる速記者の場合には口述する自分が駆り立てられて好ましくない、と書いている。
その反対に「信じられないほどの生産性」を誇っていた神学者オリゲネス(後185-後253)は、男女からなる速記者・清書人工房を営んでいたために、その膨大な文筆上の生産実績を積むことができたといわれている。

<講演筆記>

口述者がそのテキストの文字化に責任を有する口述筆記とは違って、講演や演説の筆記の場合は、記述という仕事に興味をもった聴衆が、いわば速記者の代わりに書き写すことが行われた。講演者や演説者がきっちりとした原稿を用意していない時あるいは話が興に乗って脱線する回数が多かった時には、この聴衆の筆記したものが、書籍販売人によって刊行されるときに役に立ったという。

それに対する具体例として、哲学者エピクテトス(後50-後138)の講演を挙げることができる。ローマの政治家でギリシア語で書く作家でもあったアリアヌスが若いころ(後117-後120)ニコポリスで、このストア派の哲学者の学校をたびたび訪れて、その講義をすべて筆記した。そしてエピクテトスの死後、その講義ノートを編集し、刊行したが、そうすることによってはじめて、この哲学者の教えが文字化されて、後世に残ったのである。

<朗読会>

古代ローマにあっては、詩人ないし作家が自分の書いたものを刊行して、広めたいと思った時、発行人の関心を引き付けるために、一般公衆の前で朗読したりした。例えばローマで最初の公共図書館を創立した(たぶん前39年に)アシニウス・ポッリオは、自分の文学上の新作を、招待した公衆の前で朗読したといわれる。そして帝政時代に入ると、この朗読会は流行するようになった。それは多かれ少なかれ自分のことを多くの人々に知ってもらいたと思っている人の虚栄心を満足させるものでもあったのだ。
その反面、朗読を聞かされる聴衆たちは少なからず退屈し、ただ耳に届く響きの良さのために、その場に居合わせるという事もあったようだ。そうした朗読会の様子をまざまざと描いているのが、先に紹介した小プリニウス(後61-後113)であった。「今年は詩作の豊かな実りがもたらされた。四月いっぱい、誰も朗読しない日はほとんどなかった。詩作がそのように花開き、才能が示された。とは言え人々は不機嫌な顔をしてやってくるのだ。たいていの人は朗読する場所の隣の集会所にいて、おしゃべりをしてから、会場に入っていった。そして最後まで会場にいることができず、途中で退席してしまうのであった」

<巻子本の製作~著者原稿からの筆写~>

さて、いよいよプロの発行人が巻子本を製作する際の最初の仕事は、著者原稿を筆写する作業であった。その場合、目の前にある原稿を一人の人が筆写するやり方と、一人の口述者の声を聴きながら、複数の筆写人(筆写奴隷)が同時に書き写していくやり方とがあった。前者の場合は写し間違いが少なかったが、皆無ではなかったようだ。ただし一人の筆写人が一巻の巻子本を完成させる間に、口述筆記のほうは数巻の巻子本を完成させることができて、能率がよかった。しかしこの複数人による同時進行の筆写では、間違いがかなり多かったようだ。そのため時間はかかっても、一人の人が目の前の原稿を書き写していくやり方が、普通だったといわれている。
いずれにしても、15世紀に活版印刷術が発明されるまで、古代から中世ヨーロッパにかけて、この筆写という方法だけが書籍製作の唯一のやり方だったわけである。

さて筆写が終了すると、今度は校正の作業という段取りになった。書物の質はもちろん校正係の仕事の精密さ、厳密さにかかっていた。現存する写本を見ると、極めて厳密なものから全くいい加減なものまで、さまざまである。そのうえ未校正の書物も市場に出回っていたことを、帝政時代の初めの皇帝アウグストゥス帝時代の地誌家ストラボンは嘆いているのだ。

しかしその反面、職業上の名誉を尊重する書籍発行人もいた。その書籍商はローマの歴史家ファビウス・ピクトルの作品を刊行したとき、その本には全く誤りがないと胸を張って保証した。ところがある文法学者が、その本の中に一か所、綴りの誤りを発見した。現在でも、どんなに校正を重ねても、誤りを皆無にするのは困難であることを考えれば、ただ一か所の誤りは許されよう。
いっぽう著者と発行人との間の関係が緊密で、両者が良心的であった場合には、すでに写本が作られ、販売用に書籍商のもとに送られた作品でも、一つの誤りの削除が行われたこともあるのだ。

<書籍商用写本と私的写本>

あるパピルス巻子本が書籍販売用の写本なのか、それとも私的に作られた写本なのかを、現存している実物から、区別することは、ほとんど不可能である。ただ、もしその文学テキストが一度書かれたパピルス紙の裏側に記され、しかもあまり手慣れていない筆写の場合には、ある程度の確実さで、私的な写本だと判断することができる。しかしそれが再使用されたパピルス紙というだけでは、私的な筆写本だとする十分な根拠にはならないのだ。それが廉価な書籍販売用の本である可能性もあるからだ。

いっぽうその文学的テキストがパピルス紙の表側に記され、しかもその筆写がプロの手によるもののように見えれば、書籍販売用の写本である可能性が高い。とはいえその場合にも私的な写本である可能性を排除することはできない。金持ちの依頼主が筆写素材に金を惜しまず、プロの書き手に頼んだ場合も考えられるのだ。

<首都ローマの書籍商たち>

ここでは帝政時代の首都ローマで活躍した幾人かの書籍商たちを紹介することにしよう。まず抒情詩人ホラティウスの書簡集を刊行したことで知られているのがソシウス兄弟である。その名前が、エジプトで発見された、あるパピルス断片に記されていたのだ。それはアテナイの学者アポロニオスの書いた「イリアス第14書への文法上の諸問題」と題する巻子本の断片であるが、その巻末にソシウスという名前が書かれている。そのためこの人物が同書の発行人である可能性がきわめて高いのだ。ただソシウスの商売上のつながりが直接エジプトにまで伸びていたのか、それともこの本がその所有者によってエジプトまで運ばれたものなのか、いずれなのかはわからない。

次にストア哲学者のセネカ(後4-後65)の証言によれば、ドールスという書籍商がリヴィウス(前59-後17)の大部の歴史書を刊行して、販売したという。この書籍商はまた、政治家であり同時に散文家としても名高いキケロ(前106-前43)の著作の原本を、アッティクスの蔵書の中から獲得するのに成功したという。そうした「原本」はもちろん、のちに刊行された数々の版を考えた場合、特別な価値を持っていたわけである。

第3の書籍商はトリュフォンというが、修辞学者クィンティリアヌス(後35-95)に対して、大部な修辞学の手引書を書くよう再三再四促して、ついに刊行にこぎつけたという。トリュフォンが発行した書籍の数は、先のソシウスと同様に、かなりのものであったといわれている。さらに詩人マルティアリスの詩作品も引き受けている。そしてこの詩人からビブリオポラ(書籍販売人)と呼ばれているのだ。つまり書籍を発行し、同時に販売もしていたのだ。

いっぽう純粋な書籍販売人には、アトレクトゥス及びセクンドゥスという人物がいた。詩人のマルティアリスによれば、アトレクトゥスはローマ市内の中心部である
カエサル広場の向かい側に店舗(書店)を構え、詩人作家の作品を豊富に取り揃えて、販売していたという。そこでは5デナリウスで、詩作品を買うことができた。
セクンドゥスのほうは、平和神殿とネルヴァ広場の裏手にあった書店で、マルティリアスの詩作品を、小型の羊皮紙製冊子本という新機軸で売っていた。
そして第三の書籍販売人としてはヴァレリアヌスという人物の名前を挙げることができる。

          ローマの平和神殿。復元された平面図

そのほかローマには、書籍販売人がたくさん書店を構えて商売をしていた、神田の神保町のような地区があった。その場所は公共図書館付きの平和神殿からほど遠からぬ所にあるヴィクス・サンダラリウス地区である。同様にしてシギラリアという地区にも、たくさんの書籍商たちが店を構えていた。

<拡大していた書籍販売網>

ローマの随筆家にゲッリウス(後123-後169)という人物がいるが、この著作家の主著『アッティカの夜よ』の内容は百科万般に及び貴重な文献とされている。この人物は何度か上に挙げたローマの書店街について触れている。そして彼は、そうした書店がしばしば知識人たちの交流の場になっていたことを明らかにしている。そこに集まった詩人・作家の何人かは、自分たちの作品が帝国の辺境地域にまで普及して読まれていることを口にしていたのだ。

つまり紀元後1~2世紀のローマ帝国の最盛期には、書籍販売網が帝国の隅々にまで拡大していたわけである。先に紹介した大プリニウスもその著書『博物誌』の中で、ウァッロのイラスト入り人物事典が帝国の全領域に普及していたことを伝えている。さらに雄弁家で弁護士のレグルスの亡くなった息子への追悼の書が、千部といった単位で、イタリア及び属州のあらゆる地域に広まっていたという。

    ローマ帝国の支配領域(実教出版「世界史B 53頁)           

とりわけ南仏リヨンや南イタリアのブリンディシにおける書店の存在や、あるいは一連のキリスト教関連書籍の売れ行きが良かった古代末期には、ドイツ西部のトリーア、北アフリカのカルタゴ、アレクサンドリア、トルコのコンスタンティノープル、シリアのアンティオキアにおける書店が注目される。
南イタリアの港町ブリンディシについて、ゲッリウスは次のように伝えている。そこの港湾地区では、ギリシア語の書物が束になって売りに出されていたが、それらは古くなって保管が悪いため、みじめな状況にあった。とはいえ、その中には探していた昔の重要な書物も見つけることができた。ゲッリウスはその場で決断して、多くの書籍を大変安い値段で買ったという。
ついでに言えば、首都のローマで店ざらし品として買い手のつかなくなった本や、見本として汚れてしまった書物は地方に送られて、古本として処分されたようだ。

<古書商人>

こうした古本を扱う古本屋のほかに、質が高く、人々が探し求め、したがって値段が高い古書を扱う古書商人もいた。ゲッリウスによると、文法学者のオプタトゥスは、古代ローマ最大の詩人といわれるヴェルギリウスが書いた『アエネイス』の第二の書を、きわめて古い版で所有していたという。それは元来ヴェルギリウス自身が所持していたものだが、のちにこの学者がシギラリアの古書商人から金貨20枚で手に入れたものであった。

いっぽう書籍商が古くて高価な貴重書を、短期間、金と引き換えに貸し出すということも見られた。またしてもゲッリウスが語るところによると、雄弁家のユリアヌスは、こうしたやり方で文法家ランパディウスが入手した詩人エンニウスの古い版の作品を閲覧することができたという。ランパディウスは前2世紀の人物であったので、借り出したこの書物は約250年前のものだったわけである。

またこうした商売では、詐欺も見られた。例えばギリシアの雄弁家クリュソストモスは、後1世紀の末に、ある書籍商のやったことを次のように非難している。「古い本が求められているのは、丈夫で長持ちのするパピルス紙に書かれているからだという事を、あなたはご存じなのだ。それであなたは価値の低い現今の書物を穀粉の中に入れて、古い本と同じような色にして、古書として売っているのだ」と。

いっぽう人々は古書を定価以外でも手に入れることができたし、本の競売も普通に見られた。それからエジプトの田舎を歩いて本を売っている書籍の行商人のことが知られているが、こうした商売をやっていたのは彼一人ではなかったはずだ。
また帝政ローマ時代には、飲食店の中にも書店があった。数階建ての建物の一階の道路ないしは中庭に面した居酒屋がそれであった。そうした店はとりわけ首都ローマの外港都市オスティアに今も残っていて、印象深いものがある。

そうした居酒屋内の書店では、巻物状の巻子本は、アルマリア(本箱)やニディと呼ばれた、仕切りのついた本棚に置かれていた。

         仕切りのついた本棚に置かれた巻子本

そこにはまた客に見せるための陳列用の机もあった。そして外の戸口の側柱には、書物の表題を書いたものが貼られていた。

<著作者への謝礼はなし>

今日、出版社が著作者に対して支払っている原稿料ないし謝礼というものは、古代にはなかったと思われる。それでも古代の著作者の多くは、ほかに経済的基盤を持った人たちだったようだ。たとえばギリシアの哲学者プラトン、アリストテレス、テオフラトスなどはアカデミーの長もしくは王子の教育係として収入が保証されていた。またローマ時代のキケロや両プリニウスやタキトゥスといった人たちは十分な資産を所持していた。そうした人たちにとって自分の著作を刊行することは、謝礼が目当てではなくて、自分の考えや思想を多くの人々に知らせる手段なのであった。

とはいえ、すべての著作者が財産や収入に恵まれていたわけではなかった。有力者の支援を必要としていた物書きは、裕福で影響力のある人物に自分の著作を献呈したり、朗読したりすることは、金銭的な利益をもたらすものであった。そして社会的な地位の上昇をも、もたらすきっかけになった。社交詩人であったマルティリアスは、時の皇帝たちをほめちぎる詩を書き連ね、ティトゥス帝とドミティアヌス帝によっ騎士階級にまで引き上げられたのであった。これらの文学者たちにとっては、彼らの作品が書籍商によって広く世の中に普及し、成功した作家というイメージが植えつけられることが、重要なのであった。

いっぽう書物の献呈という行為は、もっぱら受け取り手から利益を得ようとしてなされた、というわけでもなかった。地位の高い人への感謝の念から、行われたこともあったのだ。例えば前1世紀の建築家で建築理論家でもあったヴィトルヴィウスは、年を取って退職したときに、それまで受けた厚意への感謝のしるしに、建築に関する自分の著作を、アウグストゥス帝にささげたのである。ちなみに彼の主著『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築状況を知るうえで不可欠の史料といわれているのだ。

<贈り物としての書物>

古代ローマ社会では、書物を贈り物にする習慣があった。これまで何度も紹介してきた社交詩人のマルティアリスは、ローマで重要な役割を果たしていたサトゥルヌス祭の贈り物として、受け取り手がきっと喜ぶに違いない著者あるいは作品について、次のような名前を列挙している:
ホメロス、『蛙とネズミの戦争』、ヴェルギリウス、キケロ、メナンドロスの『タイス』、プロペルティウス、リヴィウス、サルティヌス、オヴィディウスの『転身物語』、ティブルス、ルカヌス及びカトゥルス。

また教育手段としての書物の贈与については、伝記作者のスエトニウスの言葉が残っている。それによれば、皇帝アウグストゥスの孫の家庭教師もしていた著名な文法学者のフラックスは、つねづね最優秀の生徒に対するご褒美として、古い貴重書を贈ることによって、生徒を勉強に駆り立てていたという。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 02

その02 古代における書物の形態など

古代における書写材料

今日、私たちは書物を印刷したり、手紙を書いたり、記録文書を作成したりするとき、一般に紙を用いるのが普通である。
しかし紙がまだ存在していなかった古代にあっては、人々は実に様々なものの上に、文字を書き記していたのだ。それらは驚くほど多様なものだったことが、考古学的な発掘調査を通じて知られている。文字が書き記される素材を、ここでは書写材料と呼ぶことにするが、便宜上、無機の書写材料と有機の書写材料とにわけて、その多様な姿を、これから紹介していく事にしよう。

無機書写材料

これをざっと列挙してみると、陶片(陶器のかけら)、化粧漆喰、そして青銅、鉛、錫、銅、銀、金などの金属である。
まず世界史の教科書を通じてよく知られている「陶片追放」の制度に使われていたのが、陶器のかけらであった。アテネの市民は、追放したい政治家の名前を陶器のかけらに書いて投票していたわけである。陶片はギリシア語でオストラコンと呼ばれるが、それらはとりわけエジプトで最もよく発見されている。ただそれらの陶片ををよく調べてみると、陶片追放に使われた以外にも、税金の領収書、各種証明書、手紙、学童の文字の練習用などに用いられていたのだ。
また陶片に似た原始的な書写材料は平らな石片で、とりわけエジプトで数多く発掘されているのが、石灰石のかけらである。

さらに家の壁に使われていた化粧漆喰も、書くための材料として使われていた。後1世紀に起きたヴェスヴィオス火山の噴火で埋もれたポンペイなどの諸都市からは、ある家族の家計簿や人間生活の様々な側面を描いた壁画や記録的な文章が発掘されているのだ。

いっぽう書写の重要な材料として、いろいろな金属を挙げることができる。碑文に対する材料としては、まず青銅が来るが、銅と錫の合金である青銅は、柔らかい尖筆では彫れないぐらい硬い素材であった。そのためもっと柔らかい鉛を用いることが多かった。たとえば、ある人に悪い結果をもたらそうとして、薄い鉛の板に呪いの言葉を書き記すという風習が、古代には広まっていたという。また神託をうかがう言葉がしばしば鉛の板に書かれていた。

さらに手紙を書く材料としても、鉛は用いられていた。そうした私信は数多く残っているが、その最も早いものが、南ロシアのクリミア半島近くのベレサン島で発見されたものである。イオニア・ギリシア人によって書かれた手紙だが、前6世紀というから、現存する最古のパピルス文書より以前のものである。その手紙が発見されたとき、それは書類の束のように巻き付けてあった。いっぽうパピルスがまだ使われていなかったローマの初期の時代には、鉛の巻物が公式の文書に用いられていたという。鉛の巻物はあまりしばしば巻いたり広げたりすると壊れてしまうので、主として保管用の文書に使われていたようだ。

また柔らかい錫も書写材料に適していた。そのため錫に書かれた呪いの板が残っているし、錫製の巻物もあった。前369年にテバイの将軍エバミノンダスがスパルタからメッセニアを解放したとき、青銅製の容器に入った錫製の巻物を人々の前に見せたという。次に銅製の巻物も発見されている。死海近くのクムランの洞窟内で発掘されたおびただしい数のユダヤの聖職者たちの神聖な文書の中には、大量の革製とパピルス製の巻物のほかに、二枚の銅製の巻物が見つかったのだ。

高価な貴金属である銀や金は、日常的な書写材料にはなっていなかった。ただ銀製の呪いの板やオルペウス教の金製の板を含む様々な金製の護符が出土している。加えてエトルリアの聖地ともいうべきカエレで発見された黄金の書き板が注目される。これは女神ウニへの奉献の言葉をエトルリア語と古代カルタゴ語で書いたもの(前500年ごろ)で、エトルリア研究にとっては戦後最も注目すべき発掘物であった。さらにギリシアのコリント地峡で開催された音楽と体育の競技会(イストミア祭)の詩の部門で、女流詩人アリストマケが優勝した後、奉納品としてささげた黄金の巻物も発掘されているのだ。

有機書写材料

A 木材、亜麻布など

植物性の有機書写材料の中では、木材が古代のどの時代を見ても、またどの場所でも、とりわけ短いテキストに用いられていた。その最も簡単な形が木製の板で、その上に直接インクで書かれていた。その際文字をはっきりと読みやすくするため、板の上に石灰や石膏を塗って、白くしていた。その発掘物が最も多かったのはエジプトであったが、乾燥した風土のために有機物質がどこよりも良い状態で保存されてきたからだ。そこに書かれた内容は、ミイラ運搬の際に必要な氏名、年齢、目的地を記したミイラ・ラベルのほかに、手紙や領収書の類いが多かった。そのほか文学的な内容の授業用書き板もあった。

その中でも最も注目されたのが、1988年にエジプトで発見された「木製の本」であった。それはたくさんの木の板の片側に穴をあけて、複数の木の板を紐で結びつけたものであった。縦25センチ、横10センチ、厚さ3ミリの板が9枚結び付けてあった。そこに書かれていたのは、ギリシアの雄弁家イソクラテスの演説を記したもので、紀元後4~5世紀に雄弁術を学んでいた学生が、自分用に写し取ったものであったのだ。

それとは別に、ローマ帝国の最北端にあったブリタニアのヴィンドランダの宿営地で、1970年代に行われた発掘調査の際に見つかった大量の木簡が大きな話題となった。そこのゴミ捨て場で、数百枚に上るシラカバとハンノキの断片が発見されたのだ。それは紀元後100年ごろそこに駐屯していたローマ軍に関する直接的な記録であった。当時パピルスが手に入らない北国では、書写材料として木簡が使用されていたことを示すものであった。その形状は、薄い木片を何枚も重ねて使われた「折り畳み式メモ帳」とでも呼ぶべきものであった。それを再現したものが、下のスケッチである。

イギリスのヴィンドランダで出土した木製の「折り畳み式メモ帳」

ヴィンドランダの発掘物の中には、上記の「メモ帳」のほかにも、長方形の書き板がたくさん見つかっている。その片面は平らで、他の面は縁の部分が盛り上がっていた。そして中の低くなったところに蝋が引かれていた。その部分に尖筆でもって文字を刻みこんでいったのだ。その蝋はたいてい暗い色または赤い色に染められていて、文字がより鮮明に読めるようにしてあった。そして蝋を引いた板2枚が紐または蝶番でつないであった。3枚折り、4枚折りのものもあったが、その数はせいぜい10枚が上限であった。下の写真がその実例である。

生徒が使用していた10枚重ねの書き板

これらの木製の書き板は、一枚のものであれ、数枚を結んだものであれ、ギリシア人、エトルリア人、ローマ人のいずれにおいても、最古の時代から用いられていて、その用途もさまざまであった。あるいは手紙やメモ帳として、あるいは文学的な文章の草稿ないし抜粋として、あるいは学校の授業用として使われていた。とりわけローマ地域では、勘定書きとしての用途が多く見られた。古代ローマの会計制度や経済制度を知るうえで重要な資料になっているのが、1959年にポンペイの町はずれにある銀行家一族の館から発掘された書き板である。

いっぽう通常の木製の二枚折り書き板のほかに、高価な材料として象牙製のものもあった。これは客への贈り物として使われたのだが、古代末期になると政府の高官とりわけ執政官が就任の際に、豪華な彫刻を施した象牙製の二枚折り書き板を、贈り物にする習慣ができていたという。それらは中世になると豪華本の装丁として再利用されたので、数多くの現物が今に残っているのだ。

後1世紀の帝政期ローマの著述家プリニウスによると、ローマでも古い時代には、棕櫚の葉や樹皮を使った本もあったという。ただしギリシア・ローマ世界に関しては、そのオリジナルも図版も発見されていないのだ。しかしインドや東アジアでは、近代にいたるまで棕櫚の葉や樹皮は書写材料として用いられている。スマトラ島のバタクの樹皮の本は、祭式に関するものだが、アコーデオンのような形に折り曲げられている。これは先のヴィンドランダの木製の手紙に似ているが、また古い時代のイタリアの亜麻布制の本にも似ているのだ。

前1世紀のローマの歴史家リヴィウスによれば、前293年のサムニウム戦争の最中、あるサムニウムの神官は、古い亜麻布製の本に書かれた典礼儀式にのっとり供物をささげたという。また皇帝マルクス・アウレリウスは若い時、古いラテン人の町で、いたるところにある神殿や聖域とは別に、亜麻布の本も見たという。そしてローマ時代の神託集も亜麻布製だった。総じて初期のイタリアでは、宗教的な内容のテキストや公式の官吏のリストは、亜麻布製の本に書かれるのが普通だったのだ。

代々政府の高官を出していたローマの古い時代の家族には、私的な記録というものがあった。同様のことはエトルリアの貴族にも当てはまったが、こうした「家族の記録」も亜麻布で作られていた。エトルリアのカエレで出土した前4世紀の石棺の蓋には、遺体の頭の後ろのところに、平らな包みの形に丁寧にたたまれた布が置かれている。

エトルリアの石棺の一部の拡大図。折りたたまれた亜麻布製の本

これとは別に、エトルリアの亜麻布製の本のオリジナルが現存している。クロアチアのザグレブの博物館には、エジプトの少女のミイラが保存されているが、そのミイラが普通のやり方で亜麻布製の帯で巻かれているのだ。そしてその布には、エトルリア文字によって文章が書かれている。現存する5枚の帯はもともとは一枚の大きな布を切ったものであった。その一枚の長さは340センチ、もともとの幅は40センチである。エトルリアの習慣に倣って右から左へと書かれた文字は、黒いインクで、明らかに練達の書記によって丁寧に記されたものである。

エトルリア文字が書かれたミイラ保存用の布

文字が書かれたこの布地はイタリア半島で書かれ、エトルリアの移民によってエジプトへもたらされ、そこでミイラ製作者の手に渡ったものと思われる。およそ1200文字からなるこの文章は、大体の内容が解読されている。その結果それらは、数字、月の名前、神々の名前、容器の名称、祭式関連用語などであり、祭礼暦の形で記された礼拝用の本であることが明らかである。

B パピルス

古代における書写材料としてもっとも一般的なのが、パピルスである。これはヨシ科の宿根草であるパピルス草から加工して作られたものである。このパピルスを素材として作られた巻物状の本(巻子本 かんすぼん)をギリシア語で byblos という。 ドイツ語ではこの言葉から、外来語として、Bibliothek(図書館)、Bibliographie(書籍目録)、bibliophil(書籍を愛好する)そしてBibel(聖書)といった言葉が生まれている。

さてパピルス草は湿度と暖かさを好むため、古代においては、その産地はナイル河全域に及んでいた。とりわけナイル河下流のデルタ地域に繁茂していた。そこは古代エジプト王国の支配地域だったのだ。その地域では、パピルス草から、書写材料以外にもいろいろな製品が作られていた。まず澱粉を含んだ茎の部分は、安くて味の良い食品として食べられていた。またその繊維からは、籠、むしろ、綱、ランプの芯、衣服、サンダル、そして簡便なボートなどが作られていた。根の固い部分は燃料になり、また道具を作るときに用いられていた。そして花序の部分は花飾りとして編まれ、燃やした後の灰は薬として使われていた。

<書写材料としてのパピルスの作り方> 

私たちの関心の的である書写材料は、茎の下部にある髄から加工したものが用いられていた。パピルス製造について、明らかにしてくれたのが、シチリア島のシラクーザにあるパピルス博物館のコラド・バシレ館長である。ちなみに私は2001年のシチリア旅行の際、このシラクーザにも立ち寄り、同博物館の中でパピルス製造の実演を見たことがあるのだ。そしてそれに先立って、博物館の近くの池にびっしり繁茂していたパピルス草を見た。それは私にとってとても貴重な経験であった。

さてパピルス作りの大要は次のようである。まず茎は新鮮な状態で何本かに切られ、髄が現れるまで皮をむく。その後、その髄を、薄くてできる限り幅の広い帯に切り裂く。そしてそれらを、あらかじめ水で湿らせておいた板の上に、少しはみ出すぐらいに並べる。この第一の層の上に、第二の髄の層を、第一のとは垂直に交差するようにして並べる。

第一の層の上に交差するように並べられたパピルス草

それから平らで幅広の石で表面をたたいてゆく。その際、澱粉を含んだ髄の粘着性のおかげで、個々の部分は互いに密着していくのだ。こうしてできた葉は日に当てて乾かし、それから軽石または貝殻や象牙の棒で、滑らかにされる。その後、接着剤(澱粉および酢)を用いて、数枚の葉(通常は20枚だが、ときとして50枚も)を張り合わせて、巻物状にする。その際植物の繊維がつねに同じ方向に並ぶようにすることが肝要なのだ。
パピルスは常にそうした巻物の状態で取引されていた。短い文章で済む手紙のような場合は、この巻物から必要な分だけ切り取って売買していた。

<パピルスの品質と等級>

このようにして作られたパピルスは、明るいクリーム色をしており、しなやかな書写材料であった。そうしたしなやかな柔軟性は、しばしば開いたり閉じたりする巻物状の書物に、まさにぴったりのものであった。現存する古代のパピルスがたいていの場合茶色く見えるのは、長い歳月が経ったためである。もちろん様々な品質のパピルスが市場に出されていたのだが、それらは素材の良し悪しのほかに、巻物の幅によってもランク付けされていた。

後1世紀のローマの博物学者プリニウスはその著書『博物誌』の中で、パピルスについてもいろいろ書いている。そこでプリニウスは、パピルスの等級付けをしているのだ。最高の品質のものは24.3センチ幅のパピルスで、もともとcharta
hieraticaと呼ばれていた。これは主として祭礼用の文書に用いられていた。しかし後になると皇帝アウグストゥスをたたえるために、charta augustaと呼ばれることになった。そして第二の品質のものに対しては、その妻リヴィアの名前が付けられた。初めに挙げたhieraticaはこれら二つのものによって第三のランクに下げられ、20.3センチ幅のパピルスを指すようになった。

次いで時代が下って、皇帝クラウディウスの時代に、新たな品質のパピルスが導入された。このcharta claudia はaugustaより丈夫だったので、上回る第一位の評価を受けることになった。いっぽうhieraticaの下の16.6センチ幅のものは、
charta amphitheatricaと呼ばれた。これはその生産地アレクサンドリアの競技場
Amphitheaterの名前をとったものだが、ハンマーでたたいて滑らかにしたため、雑な品質になった。さらにその下には12.95-14.8センチ幅のパピルスが来るが、その生産地ナイル・デルタのSaisからcharta saiticaと呼ばれる。その下にcharta taeneoticaが来て、最下等にcharta emportica がランク付けされた。これはもはや書写材料には向かないので、包装紙として使われていた。

ローマ帝政時代の後半(紀元後3世紀以降)になると、パピルスの品質はどんどん下がっていった。そしてエジプトにおけるパピルスの生産は、後10世紀から11世紀にかけての時期に、終了したとみられている。

<パピルスの需要と供給>

ギリシア・ローマ時代を通じて、その支配下にあった地域全体、とりわけ行政管理機構を伴った大都会地域で、パピルスの需要と供給は大きかったはずである。そしてそれに見合ったパピルスの取引も盛んであったと思われる。すでに前408年にアテナイの行政機構がパピルスを用いていたことは、エレクテイオン建設に要した金額の支払いを記した勘定書きが現存していることから、実証される。

おそらくこれより一世代古いと思われるアッティカの詩人ヘルミボスの喜劇作品の断片には、当時の一連の輸入物資が列挙されている。そしてその中にはエジプトからの帆布とならんでパピルスも含まれているのだ。そしてエジプトのプトレマイオス朝(前304年~前30年)の役所でのパピルス消費量が莫大なものであったことは、前258年のパピルス文書が明らかにしている。それによると宰相アポロニオスの下にあった一部局が、33日間で434巻のパピルス文書を使ったとのことである。

C 革と羊皮紙

<動物の皮>

書物に対する書写材料としてパピルスにかなり匹敵する存在が動物の皮であった。動物の皮はその仕上げの方法の違いに応じて、二つの製品つまり革と羊皮紙に分けることができる。革は脱毛した動物の皮を、タンニン酸を含んだ植物性の布地でなめすことによって製品となる。羊皮紙の製造については、動物の皮をなめすのではなくて、石灰液で処理した後、強く張って乾燥させ、薄く削り取って滑らかにするのだ。

古代の文献には、書写材料としての皮のことが、しばしば述べられている。前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの証言によれば、イオニアのギリシア人たちは、パピルスをまだ使っていない古い時代には、ヤギや羊の皮の上に文字を書いていたという。ここではたぶん革のことを指していると思われる。同様にペルシア王国の公式の記録、とりわけ前5世紀のペルシアの地方長官の文書で革に書かれたものが、エジプトで発見されているのだ。

さらに死海近くのクムランで発掘された、かの有名な巻物状の文書が注目される。これはユダヤ人社会の宗教について記したものであるが、その大部分は革に書かれていて、互いに縫い合わせて書物にしてあるのだ。また蛇の皮に黄金のインクでイリアスとオデュッセイアを書いたものがイスタンブールの宝物館にあるが、これなどは珍品といえよう。

<羊皮紙>

ユダヤの神官エレアザ-ルがエジプト王プトレマイオス二世(在位前285-前246年)に贈ったといわれる書物状の法律文書は、間違いなく羊皮紙製であった。国王はその時、皮の薄さに驚いているからだ。現在羊皮紙は、一般にpergamena(ペルガメーナ)と呼ばれているが、この言葉は、比較的後の時代になって使われるようになったものだ。つまりこの言葉は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの後301年の価格勅令に初めて登場するものだ。その語源は当時の小アジア地方の都市ペルガモンの名前からきている。

この事については、プリニウスによって後世に伝えられたローマの学者ウァッロの報告が特に興味深い。すなわちエジプトのプトレマイオス二世(在位、前180-前145年)とペルガモン図書館の創立者エウメネス二世(在位、前197-前159年)の間に図書館をめぐって生まれた嫉妬から、プトレマイオスはパピルスのペルガモンへの輸出を禁止した。その結果ペルガモンでは羊皮紙を発明したというのだ。しかし考古学的に現在では、羊皮紙はそれ以前から存在していたことが分かっている。そのため次の説明のほうが説得的なのだ。

前170-168年にシリア王アンティオコスがエジプトに侵入したが、その時アレクサンドリアが包囲され、パピルスが輸出できなくなった。こうした状況の中で、ペルガモンでは図書館をさらに拡張していくために、昔から知られていた書写材料である羊皮紙に手を出したというものである。そしてのちに書物の新しい形態として「冊子本(さっしぼん)」が発明されてから、書写材料として羊皮紙は盛んに用いられるようになって、ついにはパピルスを駆逐したわけである。

古代における書物の主な形態:巻子本と冊子本

これまで私たちは古代における「書物」のいくつかの特殊な形態について、ご紹介してきた。それらは金属や木材や木の葉を材料にしたものから、古代のローマ人が用いていた亜麻布製のものまで、実に様々な材料を使った「書物」であった。ただそれらは文字が記してあるとはいえ、たいていは書物とは呼べないものであった。その中で、これまで何度となく触れてきた「巻子本(かんすぼん)=巻物」だけは、本格的な書物である。これに対して紀元後の帝政ローマ時代になって登場したのが、「冊子本(さっしぼん)」なのであった。そしてその後長い紆余曲折を経て、現在普通にみられる書物の形になったわけである。

ここでは古代ギリシア・ローマ時代をとおして最も重要な書物の形態であった巻子本について、まず詳しく見ていく事にしたい。

巻子本(かんすぼん)

この巻子本は、古典古代のギリシア時代いらい、数世紀にわたって、書物そのものを意味していた。巻物の形をした文書は、古代エジプトで発明され、のちにギリシア世界に入ってきた。その年代は史料が不足していて、定かではない。とはいえギリシアにおける巻子本の存在を示す資料があるのだ。それは前回のブログ「ギリシア・ローマ時代における文字の誕生とその活用」のなかでもその図像を紹介した「紀元前490年ごろのアッティカの画家オネシモスが描いた壺絵」である。

オネシモスが描いた壺絵。ベルリン国立博物館所蔵

その絵には、一人の若者が前かがみに腰かけに座り、両手に巻子本をもって読んでいる場面が描かれている。この壺絵を見るだけでは、巻子本がどんな材料からできているのかは断定しにくいが、多分その材料はパピルスだと思われる。書写材料としてのパピルスについて最初に言及しているアテナイの文字史料の時期が、この壺絵の時期とあまり隔たっていないからである。

<パピルス紙を張り合わせて作られた巻子本>

先にパピルスの項目で説明したが、通常パピルス紙は20葉(枚)またはもっと多くの葉を張り合わせて、巻物状にして、市場に出されていた。これら市場に出されたパピルス紙の巻物は、作成すべき書物の内容に応じて、短く切ったり、余分に張り合わせたりして売られていた。

パピルス巻子本の実物。ベルリンのエジプト博物館所蔵

先に述べたように、ギリシア語でもラテン語でも、文章は横書きで、文字は左から右へと書いていった。その場合一行の文字数は決められていた。さもないと長い巻物の左端から右端まで書いていっては、その文章を読むときに巻物を右端まで広げねばならず、まったく実用的ではなかったからだ。具体的にそれがどのようなものであったのか、下記の図像をご覧になれば大体お分かりいただけよう。

巻子本を広げた図像。発見された実物を克明に模写したもの

古代の巻子本の大きさについてみると、巻物の上下の幅は、現存するパピルス文書から判断して、普通は19センチから25センチの間にあった。ただ例外的に上下の幅が37センチもある大型の巻物もあったし、上下の幅が12センチから15センチの間というものもあった。現在知られているもっとも小さな巻子本は、上下幅が8センチである。それはエロティックな警句詩を載せたものであるが、ある研究者はそれについて次のように書いている。「そうした小型本は、妙齢な淑女がひそかに衣服のふくらみの中に忍ばせて、こっそり読んでいたのであろう」

いっぽう巻物の長さのほうは、理論的には限度がなかった。パピルス紙を好きなだけ張り足していくことができたからである。しかし現実問題として、あまり長いものは、両手でひろげて持った時に、その取扱いが難しく、不便であった。現存する不完全な巻子本から類推して、長さが10メートルを超えるようなものはなかったと思われる。長さが6メートルの巻物は、巻き取るとその厚みは5~6センチとなるが、これなら読むときにその扱いが容易である。例えばプラトンの作品『饗宴』は、長さ7メートルの巻物1巻に収められている。

さて模写された巻子本の図像を眺めると、一行の文章が一定の文字数で左から右へ書かれ、次の行へ移っている。そして下端近くの最後の行に来ると次の右側の欄の第一行へと移っている。ここで一つの欄は、私たちの本(冊子本)の1ページに相当するものと考えればよい。また模写された図像を見ると、パピルス葉を張り合わせた個所が縦の線となって描かれている。この張り合わせ部分は滑らかになっていて、その部分を横切って文字を書いていくのに支障がなかったようだ。

ところで一つの作品としての巻子本の場合、巻物にすべてを書き終えると、最後の欄の右側に細い棒が取り付けられた。そしてその棒を軸にして、巻物は巻かれた。その巻物にはしばしば、その本の表題を書いた小さな標札が付けられた。この標札の取り付けは、おおむね巻子本の所有者がやる仕事だった。それとは別に作品の表題は、本文の初めの部分か、あるいは巻物の外側にも書かれることがあった。さらに巻子本は円筒形の筒に複数入れて保管されたりした。

<再利用されたパピルス文書>

古代においては書写材料は高価で、貴重なものであったので、節約して使わねばならなかった。そのため一巻のパピルス文書は、多くの場合その裏側も再利用された。こうした二度目の使用はほとんどの場合、商売用あるいはお役所の文書に対して行われた。そのような文書には、しばしば正確な日付が記されていたから、研究者にとっては、その表側に書かれた文学テキストの年代測定に対しても役に立っている。

パピルスは乾いた状態で保管されれば、極めて長持ちする材料である。帝政ローマ時代のギリシアの医学者ガレノスは、紀元後2世紀に、自分は300年前のパピルスの巻物を用いたと語っている。発掘された現物によって、そうしたパピルスの長命が証明されているのだ。

冊子本(さっしぼん)

冊子本というのは、現在私たちが本として認識している書物の形態である。ところが、先にも述べたように、紀元前の古代ギリシア時代から紀元後の帝政ローマ時代にかけての長い間、書物といえば「巻子本」のことを意味していた。

<ローマの詩人マルティアリス、最初の冊子本を刊行>

最初の冊子本として実証できるのは、紀元1世紀に帝政ローマ時代のエピグラム詩人のマルティアリスが刊行したものである。この詩人は最初に出した巻子本による詩集の中で、旅行の時に持ち歩くのに便利な小型の冊子本でも自分の詩は読むことができる、と書いている。そしてそれは書籍販売人のセクンドゥスを通じて買うことができる、とも宣伝しているのだ。
彼はまた、自分の作品だけではなくて、ホメロス、キケロ、ウェルギリウス、オヴィディウス、リヴィウスなど古典作家の質の高い作品も、冊子本で刊行し、それらには次のような宣伝文句もつけている。

<羊皮紙に書かれたホメロス、イリアス及びプリアモス王国の敵の運命、
オデュッセウスの運命が折り重なるようにして、この皮のなかに
入っている>
<羊皮紙に書かれたキケロ、もしあなたがこの羊皮紙の本を持ち歩くならば、
あなたはいつでもキケロと一緒に旅している、と考えてもいいのだ>

しかし詩人マルティアリスが書籍販売人セクンドゥスとともに行った新しい試みは、当初はわずかな成果を上げたにすぎなかったようだ。その理由としては、社会的地位の高い保守的な当時の読者は、冊子本を日常的な、過行くことどもを書き記す「ノート・ブック」の類いと考えていたことがあげられる。後2世紀から後3世紀にかけての時期に刊行された冊子本が12冊現存しているのだが、その中のわずか3冊だけがピンダロス、クセノポン、プラトンといった古典作家の作品を扱っていた。そして残りは、神託の詩句、学校生徒用のホメロスからの引用、技術・医学的なもの、大衆文学などであった。

このマルティアリスより数十年後に刊行された羊皮紙冊子本が、エジプトの砂漠の中から発見されているが、それはラテン語で書かれた歴史作品で、ローマ人の対マケドニア戦争を扱ったものである。次いで作られた冊子本は、後200年ごろのもので、遺産相続争いに絡んだ法律家ウルビアヌスの著作である。そのほか後2世紀末から後3世紀初めにかけての冊子本が、いくつか発見されている。そして後3世紀末から4世紀にはいると、発見された冊子本の数は増大している。

<キリスト教と冊子本>

一般に知られているように、キリスト教はローマ帝国の東方辺境に出現し、ペテロ・パウロなどの使徒の活動によってローマ帝国の下層民の間に広がった宗教である。そのため帝国の社会的地位の高い人々からは嫌われていた。このことと冊子本の普及との間には、密接な関係があるのだ。ローマ帝国では皇帝は神として崇拝されていたが、この皇帝崇拝をキリスト教徒は拒否したため、たびたび迫害の対象とされていた。

こうしたキリスト教徒下層民に対しては、帝国のエリート層は反発していた。そのため下層民のほうも上流層に対しては意識的に距離をとって、その行動も違ったものになっていた。そして初期のキリスト教徒は自分たちの信仰を広める手段として、上流層の間では常識になっていた巻子本ではなくて、冊子本を選んだといわれている。つまりキリスト教徒にとっては、当初から冊子本こそ自分たちが選んだ書物の形態だったのだ。そのことを端的に示しているのが、下の図像である。

本箱に入れてある4福音書(聖書)の冊子本。ラヴェンナの霊廟内に描かれた
モザイク画。紀元後5世紀前半のもの

紀元後2世紀末から3世紀にかけて作られたもっとも初期のパピルス冊子本は文学的な内容の標準的なパピルス巻子本に比べて、文字の美しさの点でずっと劣っている。それらは書物の外形的な側面よりも、むしろ書かれた内容のほうに強い関心を抱いていた当時の利用者(庶民であるキリスト教徒)のために書かれた、いわば実用的な文字だったのである。

実際の話、巻子本に対して冊子本は、実用面で明らかに大きな利点を持っていた。まず第一に冊子本の場合、紙の両面に書くことができたので、片面しか書けなかった巻子本より、はるかに多くの分量のテキストを収めることができた。第二に巻子本は手に取って読むときに、その扱いが面倒であった。第三に書写作業にかかる平均的な経費の点で、同じ分量のテキストに対して、パピルス冊子本のほうがパピルス巻子本よりも26%も安くなるという。第四に冊子本のもう一つの利点は、書物の本体と表紙がコンパクトなため、傷みに対して相対的に抵抗力があった。そして冊子本の最大の利点は、巻子本のように読み終わったときに巻き戻す必要がなく、極めて使いやすいことである。さらに冊子本では、必要な個所に栞(しおり)などを入れて、読み直したい部分をすぐに見つけられることも、大きな利点といえる。

とはいえギリシア・ローマ時代の長きにわたって、巻子本こそがまずもって書物だったわけである。冊子本は、上に挙げたような多くの利点を持っていたにもかかわらず、直ちに伝統的な巻子本にとってかわったわけではない。そのためにはローマ帝国の政治・経済・社会情勢の大きな変化が必要であった。ローマ帝国は、後2世紀末から後3世紀にかけて、さまざまな危機的な状況に陥った。属州反乱の頻発、ササン朝やゲルマン人との戦いなどが重なり、経済混乱も生じて社会不安に至った。また政治的にも軍人皇帝の時代という混乱期でもあった。

こうした経緯を経て、コンスタンティヌス帝によって、後313年、キリスト教が公認されることになった。それに伴って主としてキリスト教徒がかかわってきた冊子本が、従来からの巻子本にとって代わったわけである。およそ二百年にわたった巻子本と冊子本の競合状態に終止符が打たれた。そして古い古典古代の担い手の中から生まれた新たな形の書物(冊子本)が、それに続くヨーロッパの中世を経て、今日の私たちの書物の形態として定着したわけである。

<巻子本から冊子本への古典作品の写し替え>

数百年来使われてきた巻子本と並んで冊子本が登場し、最終的には巻子本を駆逐してしまったことは、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷術の発明と、それに続く写本に対する印刷本の勝利に匹敵するぐらい重要で、しかも後世に大きな影響を及ぼした出来事であった。

その最も大きな影響の一つが、古典古代の文献が、古代末期、中世を経て、さらに私たちの時代へと伝承されてきたことであった。とはいえローマ帝政末期に、私的な文庫を含めた当時の図書館の巻子本の蔵書を、新しい書物の形態である冊子本に移し始めた時、人々は文学上のその時代の嗜好と彼らの価値観に従って、古典古代の作品を取捨選択したのであった。
その結果、例えばアリストファネス(前450~前385)の44の喜劇作品のうち、わずか11作品だけが残ったのである。また以前には大変好まれたが、冊子本への移し替えの時代には、評価が下がっていたメナンドロスの作品も、わずかなものしか冊子本にならなかったのである。しかもこれらは今日には伝わっていない。そのため私たちが現在メナンドロスの作品について所有しているテキストは、いくつかの引用は別にして、エジプト出土のパピルス巻子本だけなのである。

また東西両ローマ帝国の貴族層およびコンスタンティウス二世統治下のコンスタンティノポリス図書館をはじめとする当時の大規模な図書館も、率先して古典古代の数々の作品を、パピルス巻子本から羊皮紙冊子本へと書き写す作業を奨励するようになった。これらはスポンサーの嗜好と財力を反映した豪華本であったが、少なからぬ数の豪華本が、多かれ少なかれ、完全な形で現存しているのだ。それらを列挙すると、次のようになる。

後4,5世紀の二冊のヴェルギリウス冊子本、 ミラノのアムブロアシアーナ図   書館所蔵の後5世紀末のイリアス、ウィーンのオーストリア図書館所蔵のディオスクリデスの植物標本(献呈の銘により後512年より前のもの)、大英博物館所蔵の後5世紀の創成期、紫の羊皮紙製の3冊の『ウィーン創成期』、ロッサリーノの福音書、パリ国立図書館所蔵の後6世紀の『シノペ福音書』、

これらはごく著名なものであるが、それらがよく知られているのは、イラストが豊富に入った冊子本という理由によるのだ。ただそうしたイラスト入り冊子本は、テキスト伝承の点でいうと、必ずしも良いわけではない。たとえば後4世紀に書かれたテレンツ冊子本は、文字の字面は美しいのだが、テキストの書写にあたって間違いが多いので、文献学者の間では評判が悪いのだ。

<冊子本の形態>

冊子本の形態については、下の図像に見られるように、二つの基本形を区別することができる。

冊子本の形態(右側ー基本形A、左側ー基本形B)

基本形Aは今日の学校で生徒が使っているノートのようなものである。つまりたくさんのパピルス紙葉を中央で折り曲げて、再び開いたものである。この一束の紙葉は、折り目の線に沿って、糸で縫い合わされた。この形に属するもので代表的なものは、紀元後300年ごろの「ボドマー・コーデックス」と呼ばれるものである。そこにはメナンドロスの喜劇『気難し屋』の全文および『サモス島から来た女』と『アスピス』の大部分が収められている。
ただこの冊子本には次のような欠点があった。そこに使用される全紙の数が増えれば増えるほど、本を閉じるときに緊張が加わる。その結果、本の背中の部分に裂け目ができるか、もしくは綴じ糸が全紙の内部に食い込むようになる。そのため、しばしば折り目の個所に羊皮紙または革の細い帯状のものを貼り付けて、保護していたのだ。

基本形Bは基本形Aの技術上の欠点を改善するために、考案されたものだといえよう。この基本形Bは一折の紙葉を複数重ねて、その束(これを帳と呼ぶ)ごとに、その背中を縫い合わせていったものである。このやり方が、中世から現代にいたるまで伝えられた。こうした製本上の技術については、冊子本をよく観察するとわかるが、普通は気が付かないものである。

古代の冊子本にあっては、そうした個々の帳は全紙4枚からなっていたが、その全紙4枚から8葉、ついで16ページとなるのだ。1帳が全紙4枚から構成されているもののほかに、全紙1枚のもの、全紙3枚のもの、全紙5枚のもの、さらには全紙9枚のものまであった。

<冊子本の大きさ>

冊子本の大きさについてみると、後2世紀及び後3世紀の現存するもっとも古い冊子本では、縦長の長方形で、厚さ300ページ以下となっている。パピルス冊子本と並んで、羊皮紙の冊子本が登場するようになった後4世紀以降になると、もっとサイズの大きな本が現れてきた。これまでに知られているものの中でもっとも大型のパピルス冊子本の一つに、後4~5世紀のコプト教の詩篇を収めた冊子本があるが、これは少なくとも638ページある。さらに聖書全編を収めた後4世紀の羊皮紙製冊子本は1600ページある。また本の縦横のサイズについては、縦40センチ、横34センチという巨大本もあった。

いっぽう小型本のほうは、縦45ミリ、横38ミリというものもあった。それでも厚さは192ページもあった。その製作年代は後4世紀から後5世紀にかけてのもので、内容はマニ教の開祖の生活を記したものである。これよりさらに小さな本としては、縦40ミリ、横26ミリであるが、パピルス冊子本とはいえ、折りたたんだ1紙葉のものである。これはおそらく魔よけのお守りとして使われていたものと思われる。教父ヨハネス・クリュソストモスも、「キリスト教徒は福音書のテキストをお守りにして、首からかけていた」と書いているのだから。

<冊子本の装丁>

巻物状の巻子本とは違って、冊子本にはしっかりした表紙がついていた。この点現在の書物と共通している。ただ古代の冊子本の装丁に関する私たちの知識は、長い事わずかであった。ところが1945年から46年にかけてエジプトのナグ・ハマディで発掘された後4世紀の13冊に及ぶコプト教のパピルス冊子本によって、私たちの知識は著しく豊かになった。この冊子本は、その製本が唯一の束(帳)からなっている基本形Aに相当するものである。下図のように、その装丁はとても良い状態に保たれている。

エジプト出土のパピルス冊子本とその表紙

13冊の冊子本の装丁は、それぞれわずかな違いがみられるものの、おおよそ次のようになっている。まずその表紙にはヤギまたは羊の革が使われている。その大きさは、その上部、下部そして右側が、製本された紙葉よりも数センチ広い。そして左側には、三角形の布切れが付いている。パピルス紙葉を重ねて作った厚手の表紙を革の内面に貼り付けた後、革のはみ出した部分は折り曲げて、表紙に貼り付けた。その後、製本された紙葉の折り目には、革の細い帯がくっつけられた。それから細い革紐で綴じ合わせることができるように、表紙の一部に穴があけられた。そして最後に、表紙の革は、本の背中のところで穴があけられ、本の紙葉を内側に置く。それから細い革紐をこれらの穴に通す。こうして製本された本を閉じると、表紙の上部に取り付けられた三角形の布切れを、その先端に着いた細紐で動かして、冊子本全体をしっかりと綴じることができるのである。

 

<冊子本の場合の筆写のやり方>

冊子本の場合、紙の上への書き込みの作業は、通常装丁を行う前になされた。書き手はまず書くべきテキストの中身を吟味して、パピルスにするか羊皮紙にするか、その書写材料を選択した。それからあらかじめ1帳(紙葉を束ねたもの)ごとの全紙の数を確定しておく必要があった。というのは書き始めてからでは、1帳のページ数を変更できなかったからである。

また書いている間、ページや帳の順番をきちんと把握しておかねばならなかった。そのための一番簡単なやり方は、事前の丁付け(ページ数をつけること)であった。冊子本の多くで、こうした丁付けが、たいていの場合、上端の中央部になされていた。この丁付けの作業は、本を製本した後で行われていた。それは読者がテキストの中の特定の個所を、いつでも速やかに見つけられるようにとの、配慮であった。これは巻子本の場合にはできないことであった。
この実利的な便利さという考えは、官庁や商売上の実務に伴って生じてきたものといえよう。

また羊皮紙冊子本の場合は、書く前に羊皮紙の上に尖筆によって罫線が引かれた。これによってページごとに書くための面積が同じになり、上下同じ間隔で書くことができたのである。また文字を収めるスペースがページごとに異なることがないようにするために、1帳ごとに紙葉を重ねて、1ページの中の各部分の四隅に穴を通して開け、文字を書く範囲を確定したのである。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 01

その01 ギリシア・ローマにおける文字の誕生とその活用

私が<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>の研究を始めた動機

私はこの30年ほど、ドイツおよびヨーロッパの書物ないし出版の歴史を研究してきた。そしてその過程で、数冊の研究書を著した。ドイツの出版史の通史ともいうべき『ドイツ出版の社会史』(1992年)から始まって、19、20世紀のドイツ出版文化史の一側面としての『レクラム百科文庫』(1995年)、15世紀半ばに活版印刷術を発明したグーテンベルクの生涯と業績について書いた『グーテンベルク』(清水書院「人と思想シリーズ」、1997年)、そして15世紀から18世紀までを扱った『ヨーロッパの出版文化史』(朗文堂、2004年)などである。この最後の著作において、いわば導入部としてグーテンベルク以前のヨーロッパ中世の書物(写本)の世界について、一般的状況を述べた。

その後私の関心は、中世以前つまり古代ギリシア・ローマ時代の書籍とそれをめぐる状況は、いったいどんなものだったのか、という事に向かった。そうしたときに出会ったのが、“Das Buch in der Antike”(ギリシア・ローマ時代の書物)というドイツ語の本であった。この著作をざっと読んでいくと、本書こそ私が求めていた研究内容の要諦を十二分に満たしてくれるものであることが分かった。そこで私は、本書を日本語に翻訳して、広く日本の読者に提供することにした。翻訳が終わった段階で、ギリシア・ローマ史の専門家に読んでもらった。その際古代ギリシア・ローマ時代の人名、地名、官職名、建築物の名称その他もろもろの表記法ならびに西洋古代史の知識一般について、ご教示いただいた。

こうして刊行されたのが、『ギリシア・ローマ時代の書物』(朝文社、2007年10月)であった。このブログでは、本書に基づいて、<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>一般について、わかりやすく紹介していくことにしたい。

ギリシア人はフェニキア人から文字を借用

今日の日本では、時代も空間も遠く離れた古代ギリシアに発するもろもろの事柄が、驚くほど豊富に浸透している。それはなぜであろうか? 日本は長い事、中国文化圏の辺境にあって、その影響を強く受けてきた。そして実に長い間、中国以西の事柄については、シルクロードを通じてもたらされた正倉院御物などの文物や、遣隋使、遣唐使などによる事物や知識の受け入れによって知ってきたに過ぎない。

遠く離れた西洋の事情について日本人が本格的に知るようになったのは、端的に言って、今から170年ほど前の幕末維新の文明開化の時代からのことであった。
その後、その西洋文明の基盤を作ってきたギリシア・ローマ文明についても、少しずつ日本に伝わるようになってきた。現在、日本でも、ギリシア神話やローマ神話に関する一般的な書物、ギリシア悲劇の上演、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどのギリシアの哲学者たち、古代ギリシアのオリンピアで発祥したオリンピック・ゲーム、ギリシア文字のアルファベット(アルファ、ベータ、ガンマ・・・)、アテネのパルテノン神殿、ローマのコロッセウムや各地に残る水道橋などなど、様々なことが一般の日本人の間に知られている。

いっぽう<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>となると、日本ではほとんど知られていないと言えよう。いうまでもなく、書籍は文字によって書かれたものであるが、例えば古代ギリシア時代に、書かれていた文字はいったいどのようなものであったのだろうか?

その前に古代のギリシア人とはいったいどのような人々であったのか、ざっと紹介しておくことにする。この民族はインド・ヨーロッパ系で、紀元前20世紀以降、バルカン半島北部からギリシアに南下、定着した。方言により、東方方言群(イオニア・アイオリス人)と西方方言群(ドーリア人)に分かれる。このうち、イオニア人は半島東部や小アジア西岸に定着したが、アテネが代表である。

これらのギリシア人は、前8世紀ごろ、有力者(貴族)が中心となって軍事的・経済的要地へ移住し、周辺の村々を統合した。それらがポリスと呼ばれる都市国家であったが、城壁で囲まれた中心市と、周囲の田園地帯とからなっていた。それぞれ政治的に独立しており、1000以上のポリスが存在していたという。

いっぽうギリシア人たちは、航海が得意で、これらのポリスを離れて、エーゲ海沿岸やさらに地中海沿岸、イタリア半島沿岸などに、植民市を作っていた。これらのギリシア人たちはギリシア語の方言を話していたが、はじめは、文字を持っていなかった。そのため現在のレバノン海岸に多くの都市国家を建設し、地中海貿易を独占していたフェニキア人の文字を、ギリシア人は前8世紀に借用した。その場所は、フェニキア沿岸のギリシア(イオニア人)の在外公館だったといわれている。

フェニキア・アルファベットの借用と改良

フェニキア人は、セム系の民族であったが、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を基に自分たちの文字を作った。それは22の子音からなる表音文字であった。ヘブライ文字やアラビア文字と共通しているといわれる。いっぽうギリシア人は、インド・ヨーロッパ系で、言語系統は異なっていた。そのためフェニキア文字を借用する際に、根本的な修正を加えた。ごく大ざっぱにいって、ギリシア語には表れない子音価を持つ5つのフェニキア文字を、母音aeiou,を表す文字としたのだ。たとえて言うと、古代の日本で、中国の文字(漢字)の発音だけを借用して、万葉仮名を作ったのと事情は似ているといえよう。

ところでドイツ人の文献学者キルヒホッフは、初期ギリシアのアルファベットを東部ギリシアと西部ギリシアに色分けした地図を作製した。それによってそれぞれのアルファベットの普及図を、東部は青色、西部は赤色という具合に色分けしたのだ。前750年ごろから導入されたアルファベットは、前5世紀初めには、全ギリシア語圏に定着したという。ただ東部と西部という具合に大きく区分けされただけではなく、個々の都市国家や地方で、アルファベットの無数のヴァリエーションも生まれていた。

地域文字の統合へ

ギリシア・アルファベットはその後、「地域文字」を統合する方向に向かった。それはすでに廃れてしまった記号を廃棄することによっても示された。これに関連して、極めて重要で、しかも後世に影響するところの大きかった出来事が、前403年に、アテナイの首席執政官エウクレイデスの時代に起こった。それは住民投票によって、ミレトス市のアルファベットを借用するとの決定が行われたことだった。その改革によってアテナイに、新たに4つの文字が導入されたのであった。そして時期の差はあれ、すべてのギリシアのポリスや地方で、このいわゆるエウクレイデスのアルファベットを事実上、習得するようになったのである。その結果ギリシア語のアルファベットは、最終的に24個になったのであった。

ところでギリシア文字で書かれた最も古い証拠物件の一つが、イタリア半島のナポリ近くに浮かぶイスキア島にあったイオニア人の植民市ピテクサイ出土の陶器である。これは前8世紀後半のものである。もう一つの証拠物件は、エーゲ海南部に浮かぶかなり大きなロードス島から持ち込まれた飲用容器である。そこにはある書くことの達者な人物が、宴会の場で上機嫌に一つの格言を書き込んでいるのだ。「ネストルの杯は飲むによし、されどこの盃により飲みし者は、直ちに美しき冠を付けしアフロディテの求めを受けることになるべし。」この盃が回し飲みされたところでは、人々がただホメロスを知っていたというだけではなくて、このような詩を作ることさえできたのだ。

ギリシア文字からエトルリア文字ができた

イタリア半島の中部トスカーナ地方を中心に、系統不明の民族エトルリア人が定住していた。その最盛期は紀元前7~前6世紀で、王政の12の都市国家が都市連合を形成していた。一部のエトルリア人は前7世紀末にローマを支配したが、前5世紀以降衰えて、前3世紀にローマに征服された。とはいえこのエトルリア人は、建築のアーチ・水道橋をはじめ、衣服、官制、習慣などで、ローマに大きな影響を与えたのであった。

さてこのエトルリア人は、イタリア半島中部にあったギリシア人の植民都市に居住していたイオニア人の使っていたギリシア文字を借用したのであった。それはギリシア人がフェニキア文字を借用してから数十年もたたない時期であった。エトルリア文字で書かれたもっとも古い銘文は、前700年ごろの陶土製の容器に刻まれたものであるが、それらは南エトルリアの中心地で発掘されたものであった。

当時エトルリア人は西南アジア及びギリシア世界と活発な商業活動を展開していたが、その過程で大規模な都市施設が作られ、また豊かさの上に貴族制度が生まれていた。貴族たちは物質的な財とともに、意識的にオリエント的、ギリシア的な生活様式も取り入れていた。この生活様式には、文字の知識とその習得も含まれていたわけである。

中部トスカーナ地方で発掘された「王侯貴族」の墓(前670年)に入れられていた副葬品の中から、象牙製の書き板が発見された。この書き板の平面には蝋が塗られ、その上に子供が尖筆で書いていたのだが、上部の縁には手本として26のアルファベット文字が書き込まれているのだ。これは児童用の文字の練習板だったのだ。

副葬品の中から発見された象牙製の書き板。上部の縁に手本用のアルファベットが書かれている。

とはいえエトルリア人はそうした模範的な26のアルファベットの文字すべてを使っていたわけではないようだ。ギリシア人がフェニキア人のアルファベットを借用したときにしたように、エトルリア人も借用したギリシアのアルファベットを、彼らの言語の音価に適合させねばならなかったからだ。そしてそうした作業を行ったうえで、エトルリアのアルファベット文字を作り上げたわけである。その際彼らは、横書きで右から左へと書いていたことが注目される。ギリシア人は横書きで、左から右へと書いていたのだが。

ローマ人(ラテン人)もギリシア人からアルファベットを借用した

この時期イタリア半島には、エトルリア人と並んで、インド・ヨーロッパ系のイタリア人が、北から南下して居住していた。その第1波(ウンブリア系)は、前16世紀ごろに、半島東南部の山岳地帯に、そして第2波(ラテン系)は前11世紀末ごろに半島中西部の丘陵地帯に定着した。
この第2波のイタリア人はラティウム地方に定住したため、ラテン人と呼ばれている。そしてラテン人が建設した都市国家の一つローマが、のちに大帝国に発展したのであった。このラテン人が使っていたラテン語が、その広大な領域で用いられるようになり、そこから後にロマンス語と呼ばれる諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語など)が生まれたわけである。

さてラテン人が都市ローマを含めて、その隣接する地域の大きな中心部において、エトルリア人とほぼ同じ時期にアルファベットを借用したことは、考古学的に立証できる。その際エトルリア人が仲介の役割を果たしたことは、大いにありうることである。ラテン人の言語においても、借用したアルファベットの中にいくつか不必要な文字が混じっていた。そのためそれらを削除して、21文字から構成されることになった。またラテン文字を書く方向は、横書きではあったが、初期にあっては一様ではなかった。しかし前6世紀の終わりごろから、左から右へ書くのが増えてきて、最終的にそれに定着した。

いっぽうギリシア人はその文字に対して、極めて響きの良い名称を与えていた。つまりアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ・・・といった風にである。同様にラテン人も簡明な音で文字を表した。つまり母音は(a, e, i, o, u) とし、子音に対しては母音を一つ加えて、発音しやすいようにした。(be, ce, de, ef, ha, kaなど)である。例外は後にアルファベットに加えられた、「純粋なローマ文字」ではないyとzである。それらに対してはギリシア語の名称ypsilonとzetが与えられた。

文字の活用(書くことと読むこと)

フェニキア文字がそれ相応の改良を加えられて、前8世紀にギリシア人によって借用されたとき、この新しい成果はしばらくの間、住民のごく限られた層の間で、なじまれていたにすぎない。そのおよそ百年後にアルファベットの借用が行われたエトルリア及び隣接したラティウムでは、発掘状況ならびに最古の碑文を記した証拠物件の種類から見て、文字の「所有」が初めは富裕な上層貴族に限られていたことは明らかである。アッテイカの最古の碑文であるアテネ出土の水差しに刻まれた六歩格の詩は、踊りや宴会との関連から見て、上流層の生活様式を示すものである。

しかしギリシアでは前7世紀以降になると、文字は公衆の間でも読まれるようになった。公衆向けに書かれた最古の碑文は、前7世紀のものである。最初それは法律文書や墓碑銘の類いであったが、その数はやがて数千に及んだはずである。そしてそれらはかなりの数の人々によって読まれ、理解されたものと思われる。前7世紀には既に、壺に書かれた碑文の中に、絵画に添えて画家の署名もみられるのだ。アテネのアゴラ(広場)から発掘されたものの中には、落書きが書かれた陶器の破片がたくさんあるが、その中にはごく普段の日常生活で書かれた手紙なども含まれている。

人々はいったいどのようにして書くことを覚えたのであろうか? その際、書くことに対して、人から人へと何らかの教授があったことが推測されるのである。とはいえ前7世紀や前6世紀のギリシアで、読み書きを教える学校が存在したかどうか、我々は知るところではない。しかし個人的な家庭教師や子供の親による授業があったことは、考えられる。ただ前5世紀になると、初等学校の存在を示す確かな証拠があるのだ。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは次のように書いているのだ。「ラデ島近くの海戦を前にしたイオニア・ギリシア人の蜂起(前494年)の最中、キオス島にある学校の建物の屋根が崩落して、そこで文字を習っていた子供たち119人が死亡した」 ヘロドトスにとっては、学校の存在自体はもはや当たり前のことになっていて、そこで起きた大事故について伝えているのだ。

ドゥリスの壺絵に描かれた授業風景。ベルリン国立博物館所蔵

また前5世紀初めのものとして、学校生活をテーマにした現存する最古の壺絵が存在する。この種のものとしてもっとも有名なものが、ベルリンにあるドゥリスの壺絵である。そこには3つの授業科目の様子が描かれている。それはまずグランマタ(読み書きの授業)、ついで散文や詩の講義と暗唱の時間、そしてムシケ(音楽と踊り)とギュムナスティケ(体育)の時間である。上の壺絵を見ると、椅子の上にひげを生やした教師が竪琴をもって、座っている。その前には、同じ楽器の弦をつま弾いている少年が座っている。もう一方の絵柄は、ひげを生やした男が背もたれのついた椅子に座って、巻物を開いている様子を描いている。その巻物の中に、壺絵の作者は詩句を書き込んでいる(壺絵を見る人が読めるように横の方向に)。下の壺絵を見ると、一人の少年に対して二重の笛を吹いて聞かせている若い男の様子を描いている。その横の絵柄は、椅子に座っている男から暗唱の試問を受けている少年を描いたものだ。その横に椅子に座って、後ろを振り返っている男の姿がある。

アテナイの民主主義と文字の習得

上に述べたドゥリスの壺絵は、初期アテナイの民主主義において、文字の習得とその使用が、市民にとって重要な事柄になってきた、という事を示している。同時代に書かれた文学もそのことを反映しているのだ。たとえば有名な悲劇詩人アイスキュロス(前525~前456)の場合、正義の女神ディケが主神ゼウスの書き板の上に人間の犯罪行為を書き記す場面がある。また別の悲劇詩人ソフォクレス(前496~406)が書いた作品の中では、アカイア人の王がトロイアへの進軍を前に、皆がその誓いに従っているかどうか、調べさせているのだ。さらに第三の悲劇詩人エウリピデス(前485~前406)では、その作品『テセウス』の舞台の上に一人の無教養な羊飼いが登場し、ある人物の名前のつづりを書く場面が出てくる。無教養とはいえ、その羊飼いはギリシア文字のアルファベットは書けるのだ。

こうした偉大な悲劇の場合より、むしろ喜劇の中でしばしば読み書きの習得が事実上当たり前のことになっていた事が示されている。例えばアテナイ最大の喜劇作家アリストファネス(前450~前385)の作品『騎士』の中では、神のお告げを読むことができる、小アジアのパフラゴニア出身のソーセージ売りと一人の男が登場している。また彼の別の作品『鳥』の中では、文字を読むことのできる重装備の装甲歩兵たちに対して、出征のあとで家に帰るときに掲示板の告知に注意するようにとの指示がなされている。同じ作品の別の個所では、占い師クレスモロゴスが巻物状の本(ビブロス)をもって舞台に登場し、それを読んでいる。

前5世紀のアテナイでの書籍販売人

同様にして喜劇の中で、前5世紀のアテナイでは書籍販売人が当たり前の職業として現れていることを確認できるのだ。例えば喜劇作家ニコフォンはその作品『手仕事で生活する人々』の中で、書籍販売人を、市場に販売スタンドを持っているというので、八百屋、魚屋、炭販売人、菓子屋などと一緒に扱っているのだ。また先に述べたアリストファネスは『鳥』の中で、朝早く書籍販売人の陳列品を眺めている人々の群れをあてこすっている。

いっぽう同じアリストファネスは、皆の前で朗読するのではなくて、一人で静かに本を読んでいる人の存在を立証する最も早い時期の文学を提供しているのだ。そこでは、最近船の上でエウリピデスの『アンドロメダ』を一人で読んでいたのは、人間ではなくてディオニュソス神であると、ユーモアたっぷりに書かれている(『蛙』)。この箇所は、一義的に舞台での上演用に書かれた戯曲作品を、人々が黙って読んでもいたことを、示している。

オネシモスの壺絵。中央の人が巻物を広げて読んでる。

「一人で読書する習慣」は、すでに前5世紀の80年代からアッティカの壺絵作者によって、画題としてとりあげられている。その際しばしば、人々の中で朗読したり、楽器の伴奏とともに本を読んでいる場面も描かれている。もし描かれた対象が若い女とか娘の場合は、詩歌・芸術をつかさどるムーサイの神が選ばれている。またそれはしばしばアテナイの「良家の子女」だったりするが、いずれにしてもムシケやグラマティケにふさわしいのは、男ではなくて女性であると考えられていたようだ。

陶片追放と文字

ペイシストラトスの僭主政治が力を失った後、アテナイの初期民主主義はいわゆる陶片追放という制度を導入した(前487年)。これは国家の中で一人の人間があまりに強くなることを防ぐものであった。この制度の実施が決められた時、すべての市民がアゴラ(広場)に集まった。そして権力乱用の疑いがもたれた政治家の名前を陶片に書いて、投票した。投票総数が6000票以上あったときは、最多得票の政治家は10年間、アテナイから追放されたのであった。この陶片追放の最初の犠牲者は、ペイシストラトスの後継者ヒッパルコスであった。

陶片追放の際に用いられた陶片は一万個以上発見されているが、それによるといくつかの名前が、ある同一人物によって書かれていることが明らかにされている。それは政治闘争の中で有力な世論形成者がやったことかもしれないし、あるいは文字を書ける人物が書けない人の代わりをしたのかもしれない。また文字を書けない田舎者が、アリステイデス本人だとは知らずに、近くにいた本人にアリステイデスの名前を書くように頼んだ、という笑い話もあるのだ。そうした文盲がいたにしても、アッティカ市民の大多数が、名前を読んだり書いたりできなかったとしたら、陶片追放の制度自体が成り立たなかったであろう。

アテナイ及びギリシア世界の他の中心地域においても、前5世紀初頭以降には、大部分の人々が読み書きできたのである。ただ前3世紀初頭以降、ギリシア人によって支配されるようになったエジプト地域では文盲の数が相対的に多かったといわれている。そこに住んでいたエジプトの住民は自国の言葉を話し、読み書きできていても、支配者だったギリシア人やローマ人から文盲とみなされていたようなのである。

児童の文字習得

ギリシアでは読み書き習得のために、子供が6歳か7歳になったとき授業が始まった。まずは文字の習得にあたって、児童たちはアルファベットを初めからも終わりからも言える必要があった。普通の家庭の子供たちには、木片や象牙に文字を刻んだものを与えて、遊びながらアルファベットを覚えさせた。それから子供たちは文字を書くことを学ばねばならなかった。ごくまれにパピルスが書くための材料として用いられたが、たいていの場合は、蝋を引いた木版の上に尖筆で文字を書いていた。ただアテナイでは、児童が使っていた石盤が発見されているが、一般的なものではなかったようだ。

最初の段階では、初等学校の教師は学童の手を取って教えた。まず教師が蝋を引いていない木版のうえに文字を書き、学童は自分の尖筆でもってその跡をなぞりながら、正しい形を覚えるまで書いていったのだ。その後これらの文字は、いろいろな綴りに結ばれていった。そうした後になってようやく、やさしいものから難しいものへと、言葉や名前を全体として書くことができたのだ。こうしたやり方については、数多く現存している学童の練習帳や宿題帳の類いによってみることができるばかりではなくて、古代の作家たちのコメントによっても分かるのである。

次の段階では教師が個々の文章(たいていは道徳的な文章)を韻文形式で書き記し、子供たちはそれを真似したのである。プラトンがプロタゴラスに口頭で伝えた比喩から我々は、教師が書き板の上に二本の線を引き、その線の間に学童が文字を書かねばならないことを知っているのだ。そのような書き板の上部に教師は正確にある格言を記したが、学童はその下に二度同じ格言を書き写している。下の写真は後2世紀のものだが、これを見れば初等教育のやり方というものは、何世紀たっても基本的には変わらないものであることが分かる。

学校での文字練習用の書き板

読むことの習得

読むことの習得は、書くことの習得と切り離すことはできないものである。つまり互いに不即不離の関係にあるのだ。したがって読むことの練習も、同じ方法で行われたのである。個々の文字の次には個々のつづりへ、そして個々の単語へと進んだ。そしてその単語も発音の易しいものから難しいものへと。また名詞や動詞の語形変化の練習も済まさねばならなかった。そして最後に書き取りや読むためや暗唱するために、かなりの分量のテキストが用意された。

それは短い物語であったり、有名な詩人や散文作家の作品からの抜粋であったりした。まずホメロスがきて、それから悲劇詩人のエウリピデスや喜劇作家のメナンドロス(前342~前292)、アッティカの雄弁家デモステネス、ヒュベレイデス、イソクラテスとなった。

前4世紀後半のアレクサンドロス大王の大遠征の後、エジプトや西南アジア一帯が政治的、文化的にギリシアに組み込まれた。ヘレニズム時代と呼ばれるその時代になると、その地域の都市にはいたる所にギュムナシオンと呼ばれる教育機関が生まれた。これは主として若者の身体教育を担う所であったのだが、上級学校の人文科学的科目の授業の場所としても用いられた。ここではグラマティコス(文法学者)が教えていた。授業の主たる教材としては、偉大な詩人や散文作家の作品がそのまま用いられた。生徒たちは今や積極的にこれらの作品に取り組み、考えたり、論じあったりしなければならなかった。さらに一連の課題が与えられたが、それについては我々はオリジナルな形で残っているものによって直接知ることができるのだ。

今や書くための材料としてはパピルスが用いられたのだが、真新しいものではなくて、すでに書かれたものの裏側を使うのである。ギュムナシオンの生徒に対する課題の一つに、本文を解釈する仕事があった。例えばホメロスの章句のわきの欄外に、詩人によって用いられた言葉の解釈を書き加えねばならないのだ。さらにある文学作品の一節を自分の言葉で言い直すという課題もあった。あるいは与えられたテーマに即して作文をするという作業もあった。それから音律に従った正しい朗誦を習うために、一語一語綴りや節に従ってアクセントをつけて唱える練習もあった。

ローマにおける読み書きの習得

前4世紀初頭、中部イタリアのファレーリの町に小学校の教師がいて、数多くの家庭の子供たちにギリシア風の授業を行なっていたことが伝えられている。またラティウムの都市トゥスクルムにも、この時代すでに学校があったという。そして前234年にローマで最初に報酬をとった学校が、ある解放奴隷によって開かれたことが、プルタルコスによって伝えられている。さらに前310年ごろ、エトルリア文学を学ばせるために、子息たちをカエレに送ったことも知られている。当時エトルリアの教育制度は相当高かったと言われる。

いっぽうエトルリアの美術には、モノを書く神々が表されているが、それはたいて死者の名前を書いた巻子本あるい二枚折の書き板を手に持った死の悪霊なのである。発掘されたエトルリアの石棺や骨壺はおびただしい数に上るが、それらの石棺の上には、書き板や巻子本を手にした人物の像が乗せられている。そしてそこにはしばしば死者の名前や年齢が記されているのだ。タルクィニアのラリス・プレスナ出土の巻子本には死者の簡単な経歴も記されている。それは文字や文学にかかわった一人の人物だったことが分かる。

出土した石棺の蓋の上に横たわる人物。ひろげた巻子本を手にしている

ローマ人がヘレニズム時代にギリシア世界の一部をその支配下におさめていったとき、彼ら、とりわけその上層の人々は、物質的な財のほかに、被支配者の文学、学問そして教育面での文化財などを、自分たちのものにしていったわけである。その一環としてギリシアの作品をラテン語に翻訳する作業もなされた。最初の翻訳者はリウィウス・アンドロニクスという人物であったが、彼は前3世紀の後半に『オデュッセイア』をラテン語に翻訳した。また前1世紀のローマの哲学者キケロが言っているように、ローマの教養人にとって二つの言語を話すことは、ますます自明のことになっていったのだ。

さらに都市ローマや他の中心的な都会では、紀元前1世紀の共和制末期から帝政時代にかけて、一般に書くことや読むことが多くの人々にとって当然の能力になっていったわけである。このことは壁に書かれたグラフィット(落書きの類い)や壺などの容器に書かれた銘文、あるいは公的・私的を問わず無数に存在した銘文などによって証明されるのだ。壁に書かれたグラフィットの多くには詩の引用が見られたりするが、こうしたものは必ずしも文学にかかわっていたわけではなかった。中には計算が上手にできることや、碑文を読めることを自慢しているものも少なくないからだ。さらに詩文を軽蔑した成り上がり者たちもいたのだ。

ローマにおける上級学校教育

ローマにおける上級学校教育の開始は、前3世紀から前2世紀への転換期のころのことである。最初のラテン語の教師は、先に紹介したリウィウス・アンドロニクスであった。彼はギリシアの伝説を材料にして、数多くの戯曲を作ったのだが、とりわけホメロスの『オデュッセイア』を大変正確にラテン語に翻訳した人物である。次いで前2世紀の前半には南イタリア出身のエンニウスが教師として活躍する傍ら、数多くの戯曲や風刺作品のほかに、ラテン語による最初の国民叙事詩を書いている。それはローマの歴史に題材をとった『年代記』であった。

   レリーフに描かれたアウグストゥス帝時代のラテン語授業の風景。

ラテン語文法の授業がしっかりした形をとるようになったのは、ようやく前1世紀終わりのアウグストゥス帝の時代のことであった。そのやり方はギリシアの上級学校を模倣したものであったが、唯一の違いはラテン語の詩文が使われたことであた。ローマ第一の詩人ウェルギリウスを初めとしてホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、スタティウスなどである。ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』は、その死後公刊され、授業にも直ちに取り入れられた。そして長らくこの作品は、授業での教材として第一位を占め続けた。もっとも重要な散文作家としては、政治家でもあったキケロ及び歴史家のサルティウスを挙げることができる。

ローマの教養層の間では、少なくとも前1世紀前半のキケロの時代以降は、二言語を用いるのが普通だったので、ラテン語の授業と並んでギリシア語の授業も重要であった。首都ローマ並びにローマ帝国のラテン語圏の都市では、ギリシア語学校の教師はほとんどがギリシア出身者、それもしばしば解放奴隷の身分のものであった。また上流階級の間では、文学的教養を身に着けた解放奴隷を、秘書や朗読者あるいは私設文庫の司書として雇う習慣があった。

雄弁術のための修辞学学校

前5世紀以降、古代ギリシア・ローマ時代を通じて、雄弁術というものが重要な意味を持っていた。明晰にそして説得的に、さらに人々の心をかき立てるように演説できることは、当時の政治家や弁護士や将軍たちにとって、必須の前提であった。
こうした伝統はその後ヨーロッパにも受け継がれて、現在においても欧米世界では、演説の重要性は公的世界で活躍するリーダーたちにとって、自明の理になっているわけである。この点は、以心伝心や忖度など、言葉によらない意思疎通がまかり通っている日本とは大きく事情を異にしているようだ。

さてギリシア・ローマにおいて、公の世界で指導的な役割を果たそうという者には、修辞学の勉強が不可欠であった。そのためアリストテレスやキケロなどの著名な人物は、雄弁術について数多くの手引書を書いている。また後1世紀に活躍した雄弁家のクインティリアヌスも、『弁論術教程』という著作をものしている。我々はそこから学校の低学年の授業における有用な助言をくみ取ることができる。著者によれば、雄弁家になるためには、すでに子供の時からの教育が大事だというのだ。

雄弁術の習得は、主として散文作品とりわけ著名な雄弁家が残した作品に基づいていた。とりわけゴルギアス、アンティフォン、イソクラテスといった雄弁家の著作が、授業で取り上げられていた。その最も重要な路線を定めたのは、バロック的な言葉の誇張を嫌った前4世紀アッティカの偉大な雄弁家たちであった。そのためデモステネスをはじめとするアッテイカの雄弁家たちのテキストが、パピルスなどに数多く残っているのも、何ら不思議ではない。そうしたパピルスの中には、学生が書き写したものも少なからずあるのだ。

声を出してする読書

今日われわれは、書物や新聞やその他のテキストを、通常声に出して読むことはしない。ところがこの読書の習慣は、古代ギリシア・ローマにあっては、逆転していたのだ。つまり少なくとも文学ないし詩に関するテキストは、一人でいるときも、声に出して読んでいたのだ。そしてこの習慣を破った場合には、奇妙なことをする人だと思われたようだ。古代にあっては、文学は読むときにも、音の響きとともに受容されていたわけである。そのため芸術的な内容の散文作品の場合にも、耳に心地よいように工夫がなされたのだ。文章はリズムに乗って流れるように書き、母音が連続することは避けていた。また富裕な人々の間では、詩や散文のテキストを、手慣れた家内奴隷に読ませることが、普通に行われていたという。

とはいえ古代の人々が全く黙読しなかった、とまでは主張することはできない。とりわけ記録文書や手紙などの場合は、黙読されていたことを証言する資料も若干ながら存在する。そしてまた、少なくともローマ時代には存在していた公共図書館の読書室において、すべての人が声に出して読書していた、などと想像することは難しい。他方、ヘレニズム時代の図書館には、利用者のために倉庫のような蔵書保管棚、広々とした柱廊広間あるいは遊歩廊が備わっていたので、これなら「声に出してする読書」に向いていたと言える。

読書する時の姿勢

次に人が読書する時の姿勢であるが、前5世紀初めのアッティカの壺絵に、読書する人間の姿が、初めて登場するのだ。そしてこのテーマは古代末期から、さらに後の時代にも引き続き好まれた。時として巻物状の本(巻子本)を手にして立っている人の姿も描かれている。とはいえ、もっと楽な姿勢で読書するのが普通だったようだ。つまり描かれたものを見ても、たいていは椅子に座って、両手でひろげて巻子本を読んでいるのだ。

巻子本を読んでいる人を描いた壺絵

いっぽう巻子本を読むときの動作と、そのさまざまな段階について調べた本が公刊されている。それによると、まず読み始めるとき、読む人の左手は巻物の初めの部分を開いている。いっぽうその右手はまだ沢山残っている膨らんだ部分を握っている。次いで巻物の中間部を読む姿が示され、最後には巻物の膨らんだ部分は左手が握っているのだ。また読書を中断したときの様子も描かれている。その時巻物は片方の手でつかまれ、その中間部は、巻き取られた最初の部分とまだ開かれていない終わりの部分の間で、たるんだ状態になっているのだ。次の図版をご覧になれば、このことはよく理解できよう。

         巻子本を読んでいる途中の姿を描いた墓石立像

この図版には、墓の中央に立ってその左手に巻子本を握っている一人の男の像がみられる。この立像の周辺に書かれた碑銘によって、帝政ローマ時代の後94年に、時の皇帝ドミティアヌスによって催された詩のコンクールで、立像に描かれた少年が詩を朗読して、優勝したことが分かる。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その09 後期作品の特徴

研究者による高い評価

カール・マイは「オリエント大旅行」のさなか、その内面にそれまで経験したことのないほどの大きな衝撃を受けたわけである。想像力の限りを尽くして営々と築きあげてきた自らの虚構の世界と、自分の目で見た現実の世界との間に、この時亀裂が生じたからである。そしてその頃外部から、前期作品の文学的な質を問う声も出てきたことも加わって、マイはその作風を大きく変えることになった。

こうして生まれた後期の作品は数こそ少ないのだが、その文学的な質は研究者の間で高く評価されているのだ。後期の作品には、「銀獅子の帝国 3・4」、「そして地上に平和を」、戯曲「バベルと聖書」、「アルディスタンとジニスタン 1・2」、「ヴィネトゥー 4」そして自叙伝「わが生涯と苦闘」などがある。

『そして地上に平和を』

これらの作品は、自叙伝は別として、現実の地理的背景を持たない象徴的な内容の物語になっている。とはいえ前期作品の主なジャンルであった世界冒険物語の基本的な性格は、依然として受け継がれている。つまり見知らぬ場所の風景や環境の描写を背景にして旅の冒険が展開されているわけである。しかし地球上のある地域から出発しながら、その舞台はいつの間にか作者が頭の中で作り出した架空の地域に変貌したり、あるいは初めから遠い星の世界で物語が展開されたりしている場合もある。そのため物語の世界が、神話の国のような幻想性と神秘的な雰囲気を漂わせているのだ。

象徴的な作品「アルディスタンとジニスタン 1・2」

ここでは1909年に刊行された後期を代表する最大の作品「アルディスタンとジニスタン1・2」の内容を詳しく紹介することを通じて、後期作品の特徴を明らかにしていきたい。この作品はそれまで読者の間で人気の高かった世界冒険物語に属する作品とは違って、文学的により高度な精神的レベルへと自分の創造力を転化させようとしたものである。そのため作家のアルノ・シュミットは、この作品及び「銀獅子の帝国3・4」を、<ドイツの高級文学>を豊かにするものとして大変高く評価しているのだ。同時に彼はこれらの作品を通じて、マイを「ドイツ最後の神秘主義者」と呼んでいる。またジェームズ・ジョイス作品のドイツ語訳者であり、「カール・マイ学会」の主要メンバーでもあるハンス・ヴォルシュレーガーも、後期作品において前面に出ている哲学的思考に注目する一方、それらは美的感覚に満ちた作品だと称賛しているのだ。

さてこの作品の舞台はこの地球の上ではなく、伝説の星「シタラ」に設定されている。そしてその星の上に、アルディスタン、メルディスタンそしてジニスタンという地域を作り出し、そこに作家の頭脳から自由自在に紡ぎだされた地理や風土や人々を登場させている。とはいえ主要な人物としては、前期作品の世界冒険物語に再三再四登場させてきた、読者におなじみの人物たちが、従来とは全く違った姿で現れているのだ。つまり「オリエント・シリーズ」の主役たち、カラ・ベン・ネムジ、ハジ・ハレフ・オマール、マラー・ドゥリメーそしてシャカラの四人である。

物語の素材をシュールレアリズム化させるにあたってマイは、偉大なる先人作家たちの作品から強い刺激を受けたものと思われる。すなわちダンテの「神曲」、トーマス・モアの「ユートピア」、バンヤンの寓意物語「天路歴程」、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」そしてニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などである。

物語のあらすじ

『アルディスタンとジニスタン』第一巻の表紙

宇宙船「誕生号」に乗って星の国「シタラ」に到着したカラ・ベン・ネムジとその従者ハレフの二人は、この「星の花の国」の年老いた伝説的な女帝マラー・ドゥリメーを訪れた。そして高台の上にある彼女の宮殿の客人となる。女帝の支配領域は、広々とした低湿地と荒野の国アルディスタン及び明るい高地にある、豊饒と美と清潔の国ジニスタンの二つである。アルディスタンは暴力人間の国であり、ジニスタンは高貴な人々の住む国である。その一方の国から他方の国へ行くには、その中間に横たわっているメルディスタンつまりほとんど道らしい道がなく、岩がごろごろしている地峡地帯を通過しなけれならない。ちなみにこれらの国の「スタン」という語尾は、中東イスラム圏のアフガニスタンとかパキスタンといった国々の名称をほうふつとさせるものがある。

それはともかくこの「メルディスタン」の中心に「クルブ」という心の森があり、その森の中に人の魂を鍛える「魂の鍛練場」がある。そこへ入った者はさまざまな拷問によって試練を受ける。この試練に耐えられなかった者は、深い奈落の底にある沼沢地へと突き落とされる。いっぽう耐え忍んだ者は、あらゆる悪の要素や低劣な要素を清められて、高貴で威厳のある存在として人間性の国であるジニスタンへ送り込まれる。

さて女帝マラー・ドゥリメーは、アルディスタンとジニスタンの間に戦争が勃発したとの知らせを受ける。すると彼女は和平への特使として、カラ・ベン・ネムジとハジ・ハレフを、アルディスタンの支配者のところへ派遣する。この専制君主はアラブの首長に倣ってエミールを称している。この人物はその国民を苦しめ、虐待し、人権などは全く認めない。そして人々が逃げ出さないように、軍隊によって国境を厳しく監視させている。カラ・ベン・ネムジの使命は、この暴君の良心に訴えて、講和を結ばせ、ジニスタンで行われているような社会的公正と善良さに基づいた統治へと導くことであった。

主人公とハレフはその旅の途上、じめしめとした低湿地に住む巨人族ウスールに出会うが、策略を用いて巨人たちを退治して、手なずけた。ついで隣接した砂漠の国チョバンを通って、アルディスタンの暴君が邸宅を構えているアルドの町へ向かった。そしてその暴君と会見した。ところがちょうどその滞在中に、その地で謀反が起こった。「パンター(豹)」という名前の王子が、日頃圧政に苦しんでいたイスラム教徒の民衆の力を利用して、クーデターを起こしたのである。その結果、それまで忠実な家来だと思っていたパンターによって暴君は誘拐され、荒野の真っただ中にある「死者の町」に閉じ込められてしまう。そしてそのあおりを受けて、主人公とハレフもその廃墟の要塞都市に幽閉されることになった。

そこに長い間囚われの身となり、苦痛のうちに過ごすことになったアルディスタンの暴君は、やがて自分が犯してきた誤りに気が付いて、悔い改める気持ちになっていった。しかし新しい支配者となったパンターはかつての主人に対して、なんら同情の念を示すことなく、厳しい監視の目を光らせていた。そしてジニスタン軍との戦いに備えて、軍備の増強を図っていた。

いっぽう奇妙なことに、かつての暴君も主人公主従も、この「死者の町」の地底の闇の中で、囚われの身ながら、それぞれ一定の行動の自由を得ていた。そのため両者は様々な対話を行い、暴君も過去の数々の悪行を深く反省していく。そして主人公及び暴君がそれぞれ頭の中で考えたことが、あるいは独白の形であるいは対話の形で、延々と展開されてもいる。とはいえ優れた物語作家としてのカール・マイは、この作品においてもやはり複雑極まりないストーリー展開を繰り広げている。

第一巻、第二巻あわせて1200ページを超す長編小説でもあり、この場でそれらについて詳しく紹介していく余裕はないので、その結末へと急ぐことにしよう。やがてカラ・ベン・ネムジはその強力な精神的な影響力を発揮して、暴君を新しい人間へと生まれ変わらせるのに成功した。つまりクルプの森の中にある「魂の鍛練場」で、暴君は鍛えられて再生したのである。そして巨人族のウスールやチョバンやキリスト教徒民衆の支援を受けたうえ、さらにジニスタンの支配者から送られてきた援軍の力を借りて、ついにパンターを撲滅して、再びそこの支配者に返り咲いたのであった。こうしてかつての暴力支配者はいまや威厳と公正さを身に着けた「平和の君主」となり、アルディスタンの幸せのために尽力することになった。

この結末をもって二巻にわたる長編のユートピア小説は終わりを迎えた。しかしその長さにかかわらず、この物語は内容的には未完の書になっている。その結びの言葉は次のようになっている。

「我々はさらに歩みを続け、深く山々に分け入っていく。そしてその道はジニスタ
ンへとつながっている。我々はさらに高い目標に向かって、歩みを続けていくの
である。」

『アルディスタンとジニスタン』第二巻の表紙

物語の中に秘められた寓意

ところでマイは作品を文学的に高度で、精神的なものへと高めようとして、冒険物語に、より深い意味と比喩性を与えようとした。そして意識的に新しいスタイル、つまり登場人物の行動や物語の舞台あるいは小道具の寓意化と暗号化を試みた。かつて主人公を自分自身と同一視して痛烈な批判を受けたため、作者はこの作品では主人公である「私」を、「人類の魂」とか「世界平和の理念」といったものへの寓意化に機能転化したのである。

『アルディスタンとジニスタン』は極めて複雑な内部構造をとっているため、そこに描写された外的行動や個々の登場人物あるいは様々に起こる出来事の中から、作者が用意した寓意を読み取るのは、一般の読者にとって容易ではない。またそうした寓意のために、ストーリーの持つ首尾一貫性や実際の行動が示す緊張感が損なわれているというマイナス面もある。そのため前期の世界冒険物語を夢中になって読んできた読者の多くが、後期の作品から離れていったのであった。

そのいっぽうで作者が仕掛けた寓意をめぐって、多くの研究者が様々な解釈を発表してきた。しかし物語に登場するいろいろな人物や出来事あるいは「天使の像」、各種の建築物、様々な風景などが持つ寓意を解き明かすことは容易ではないのだ。とはいえこの作品を覆いつくしている謎めいた神秘的な雰囲気こそが、詩的な魅力となっているわけである。先に挙げた研究者のヴォルシュレーガーによれば、この作品に含まれている解き明かすことのできない謎と非合理性は、作者が若いころに受けた、精神分析で言う、「精神的外傷」に基づいているという。

マイはまた、寓意の意味を解くカギを、別の作品「銀獅子の帝国3・4」や自伝の中に収められた「シタラの伝説」あるいは死の直前にウィーンで行った講演「高貴な人間の住む天空に向かって」などに隠しておいた。そうした暗示に従えば、この作品には、二つのテーマが隠されていることが分かる。一つは個々人の存在と生成の問題ならびに野蛮な暴力人間から高貴な人間への発展の問題である。もう一つは、いつか本格的な戦争が始まるかもしれないという不安を解消して、世界の恒久平和を確立することが重要である、という作者の強い願望の念である。これはこの作品が書かれた1909年という年が、第一次世界大戦勃発(1914年)前の局地的紛争や小競り合いに彩られた不安に満ちた時代であったことと関係があろう。

この作品に登場している人物は、生成発展する現実の出来事の中に積極的に関与し、行動し、政治的な動きも見せるのである。そうした中で、結局は、「精神」の具現者であるカラ・ベン・ネムジによって計画されてきた「世界平和の理念の確立」という目標に向かって、すべての人々が動いていったわけである。

神秘主義のヴェールに包まれた詩的な作品

とはいえ、そうした過程にあって、魔術めいて神秘的な地下の冥府の力が働いていた。主人公一行は、巨人族の住む低湿地帯から二つの海に挟まれた狭い地峡地帯を通り過ぎ、乾いた砂漠地帯へと入っていく。そしてそこにそそり立つ巨大な天使像の中に、大きな地下の泉を発見する。その後神秘的な「死者の町」に入った一行は、罠にはまって地下の奥深くに閉じ込められる。

その後も波乱万丈のストーリーが展開されていくのだが、一連のファンタジーに満ちた叙述を通して、作者マイは「夢見がちな」世界の光景を描き上げている。そうした叙述は、言語表現の上で極めて洗練された境地に達している。その意味で『アルディスタンとジニスタン』は、マイのポエジーつまり詩的な能力が頂点に達した作品だという事ができよう。1200ページを超えた長編の叙事詩でありながら、そこには抒情詩的な魅力もふんだんに含まれているのだ。

この遠い「星の花の国」シタラで展開される恍惚の物語を書いていたころ、マイは新聞・雑誌などによる非難攻撃の矢面に立たされ、また長くつらい裁判にも巻き込まれていた。この物語が、初め『ドイツ人の家宝』という雑誌に掲載されたとき、長年この雑誌を通じてマイ作品を愛読してきた一般読者の多くは、この作品に対して苦情を訴える手紙を寄せたのであった。つまり難解過ぎてついていけないというわけなのだが、そうした苦情は殺到して、ついには雑誌の予約購読を取り消す人も現れた。こうして『ドイツ人の家宝』の発行部数は減り、出版社はマイに対して、こうした難解な実験はやめるように警告した。とはいえこの作品の掲載は、最後まで続けられはした。

前期の数々の冒険物語の愛読者が、後期作品を敬遠するという事情は、マイの生前の時代も現在も変わりない。そのいっぽうでマイ作品を研究している人々、とりわけ1969年に西ドイツで設立された「カール・マイ学会」に所属する研究者によって、マイの後期作品がいわば再発見されて、高く評価されるようになったわけである。この学会は、マイの全ての作品を取り上げて、批判的・学問的な研究の対象にしてるもので、けっして後期作品だけを扱っているわけであはない。

しかし先に挙げた現代作家アルノ・シュミットや、「カール・マイ学会」所属の評論家ヴォルシュレーガーなどの努力を通じて、今日、ドイツの読書界で、カール・マイの後期作品は、ドイツの高級文学の流れの中に置いていいもの、という評価が定着しいているのだ。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

カール・マイ研究

カール・マイ評価の逆転~非難攻撃から客観的評価へ~

カール・マイが著した作品を客観的に研究しようという動きは、その死後あまり時のたたない時期に始まった。その先駆となったのが、カール・マイ出版社の創立者であったオイヒャー・シュミットであった。マイの晩年に法律家としてその弁護にあたったシュミットは、マイの名声と名誉を復活させるために、「カール・マイを弁護する」という文章を著した。そしてそれを小冊子の形で、1918年に刊行した。そこで彼はマイへの変わらぬ信頼の念を表明するのと同時に、マスコミなどからの不当な罵詈雑言を排除し、世間の誤解を解くことに尽力した。

その直接のきっかけとなったのは、ウィーンの文学史家アントン・ベッテルハイムが、その前年に編集刊行した『死亡したドイツ人作家の略伝』であった。その中にカール・マイについても書かれていたが、そこには憎しみと非難攻撃の言葉が満ち満ちていた。つまりそれはドイツ文学史研究の信ぴょう性を疑わせるような調子に彩られていたのだ。それに対してシュミットは、別の出版社経営者のワルター・ド・グリュテアの協力を得て、事実関係に関する十分な証拠書類を取り揃えて、力強い反ぱくを加えたのであった。

もう一人、手ごわいマイの敵として、F・アヴェナリウスという雑誌発行人がいた。この人物は、マイの生前から激しいマイ攻撃を展開していたが、その死後も信じられないぐらいに事実関係を無視した非難中傷を、自分の雑誌を通じて続けていた。それらは度を越したものであったので、シュミットも反撃に立ち上がったのである。それが先に紹介した小冊子『カール・マイを弁護する』であったが、これが功を奏して、アヴェナリウス陣営は総崩れとなって、とどめを刺されたといわれる。その皮肉たっぷりの反撃の文章の一部を、次に引用することにする。

「アヴェナリウス氏は将来有名になるであろう。彼は第一に商売人であるが、第二に模倣的な(人まねの)批判の言葉を吐いている。しかしそれは決して創造的な才能を示すものではない。したがって彼は、死んでしまえば、すぐに忘れ去られてしまう類いのちっぽけな人物なのだ。しかるにその名前は後世に残るものと、私は信じている。つまり後世の人は、彼の名前を、カール・マイの思い出とともに、見出すことになるであろう。」

次いでマイ弁護に乗り出したのは、革新派の教育学者ルートヴィヒ・グルリットであった。彼は同僚の学者の反対を押し切って、1919年に『カール・マイに対して正当な評価を』と題する書物をものして、マイ擁護に一つの貢献をなしたのだ。

これらのマイ擁護運動のおかげで、大小数十にのぼる新聞雑誌を巻き込んでのカール・マイ騒動は、かなりの程度鎮静化し、反対派の言動にも、変化がみられるようになった。その一例としてベルリンで発行されていた代表的な日刊紙「ベルリーナー・ターゲブラット」の論調の変化を取り上げよう。この新聞ははじめ文学史家ベッテルハイムの側についていて、1918年5月16日の朝刊では、次のように書いていた。

「『死亡したドイツ人作家の略伝』のような学問的著作にあっては、事実がゆがめられているなどという事は、ありえないことである。この作家に対する訴訟は、もしそれが特別な文学的意義を持った作家に関するものならば、その生涯と業績についての供述が事実に基づいたものであり、しかも冷静な調子で語られて、はじめて、有罪かどうかの判定を下すことができるわけである」

これに対して、カール・マイ出版社のシュミット氏の要請で協力に乗り出したド・グリュテア氏は、同新聞社に必要で十分な資料を提出した。それに基づいて新聞社側は、『死亡したドイツ人作家の略伝』が含むものは、単に死んだカール・マイに対してだけではなくて、現在生きている人々にとっても侮辱を意味するものであることを理解した。そしてそれ以後、同新聞のマイに対する論調は、肯定的なものに変化したのであった。それから数週間後には、ドイツの出版界のみならず言論界にも大きな影響力を持っていたライプツィヒの『ドイツ書籍取引所会報』も、ド・グリュテア氏側についた。こうした動きを通じて、『死亡したドイツ人作家の略伝』は、権威を失い、その普及が阻止されたのであった。

バッタグリアによる批判的マイ評価

続いて登場したのが、ウィーンの歴史家で社会学者のオットー・フォルスト・バッタグリアである。彼は1931年、初めての本格的なマイ研究書ともいうべき『カール・マイ~ある人生、ある夢』を著した。これはノーベル文学賞を受賞した20世紀ドイツの代表的な作家トーマス・マンの称賛を勝ち得たほどのものであった。

この本の著者は、マイに対して限りない愛情を注ぎながらも、盲目的な礼賛に陥らずに、終始批判的・客観的な筆致を忘れていない。同書の中で著者は、カール・マイを「偉大なる夢の実現者」とみなし、この夢想家の生涯を描くのと並んで、その作品を批判的に詳細に論じている。さらにその筆は、マイの犯罪者の素質と作品との関係にも及んでいる。そして最後にマイの作品が社会に与えた影響と評価の問題にまで触れている。ちなみに本書は、第二次大戦後、社会情勢とマイを取り巻く状況の変化を考慮して、大幅に手が加えられ、1966年にあらたに『カール・マイ~ある人生の夢、ある夢想家の人生』という題名のもとに刊行されている。

哲学者ブロッホによる熱烈なマイ賛歌

      エルンスト・ブロッホ著『希望の原理第一巻』

同じころドイツの高名な哲学者エルンスト・ブロッホによる熱烈なカール・マイ賛歌が現れた。この哲学者は、その主著『希望の原理』(日本語版も刊行)などを通じて、日本の知識人の間にも知られている人物である。このブロッホは1929年3月31日(マイの命日の翌日)付けの日刊紙『フランクフルター・ツァイトゥング』紙上に、「夢の市場」なる一文を寄せた。そしてそこでマイに対する熱烈な賛歌をうたい上げたのである。そこでブロッホは次のように書いている。

「カール・マイはドイツの物語作家の中で最も優れた者の一人である。・・・この人物が作家になったなり方には先例がない。つまり彼は監獄の中ですでに書き始めていたのである。・・・彼が描いたのは、花のような夢ではなく、野生の夢つまり人の心をとらえて離さないメルヒェンなのであった。」

ちなみにブロッホは、この文章を書いた時より以前の学生時代に「カール・マイとヘーゲルがあるだけだ。その間にあるすべてのものは、みな不純な混ざりものだ!」と叫んだという(『希望の原理第一巻」(白水社、1982年4月、649ページ、「あとがきにかえて」)。

          エルンスト・ブロッホの肖像

さらに彼は処女論文集の表題を「砂漠への挑戦」としているし、生涯で全著作を読んだのはカール・マイだけだ、と語っているという。またブロッホは同じく『希望の原理第一巻』の第三部(移行)鏡の中の願望像(陳列品、童話、旅、映画、舞台)の二七「歳の市、サーカス、童話、民衆小説における、もっとましな空中楼閣」の冒頭に、カール・マイの自伝『わが生涯と苦闘』の中からの引用を掲げている。

「それから、私たちは寝に行きました。けれども私は眠らずに目を覚ましていました。どのようにして助けを求めようかと考えました。思案の末に私は決心しました。以前読んだ本の題名に『シエラ・モレナの盗賊窟あるいは困った人たちの天使』というのがありました。父が帰宅して眠ってしまうと、私はベッドを抜け出し、こっそり部屋を出て、服を着ました。それから一枚の紙片に、<血で手を汚すような事はしないでください。僕はスペインへ行って、助けを呼んできます>と書きました。私はこの紙片をテーブルの上に置くと、かちかちのパンを一切れポケットに突っ込み、九柱戯用の小遣い数グロッシェンをもって、階段を駆け下りました。そして扉を開き、もう一度誰にも聞こえないようにしくしく泣きながら、深く息を吸い込みました。それから足音を忍ばせて広場を下り、裏通りを抜けて、ルングヴィッツ通りへ出ました。この道がリヒテンシュタインやツヴィッカウを経て、苦難の救い主である高貴な盗賊の国スペインへ続いているのです」

このエピソードについて一言補足しておく。マイが14歳で国民学校を卒業する時、その後の進路決定について、貧しい両親が話し合っていた。父親は自分が身を粉にして働いて、師範学校の学費を稼ぐといって部屋を出ていった。そうした話し合いを、息子のマイは部屋の片隅で、スペインを舞台にした盗賊騎士の物語を読みながら聞いていたわけである。

ところで本筋に戻ると、ブロッホが新聞紙上に掲載した、先の決定的な一文によって、長い間マイを縛っていた呪縛が解かれ、再びマイの上昇が始まった。人々は再びマイについて、自由に語ることができるようになった。そして青少年や庶民の間だけではなくて、教養ある階層の中でも、マイを話題にすることが可能になったのである。

第二次大戦後、マイの本格的研究始まる

しかしただ一つドイツ文学史の中では、戦前には、まだマイの名前は取り上げられていなかったのである。マイの再評価のために尽力してきた文学研究者のハインツ・シュトルテは、それまでドイツで編纂されてきた文学史の本を子細に点検してきたが、「二三の例外を除いて、マイの名前を載せているものはない」と言っている。そして彼が1936年、カール・マイについて学位論文を書き、提出したとき、受けた反応は、肩をすぼめたり、眉をしかめたり、首を横に振ったりする、といった体のものだったという。そしてさらに「まさに人跡未踏の地に単身降り立った思いであった。カール・マイを博士論文にするなどとは、だいぶ頭がおかしいのではないか、と思われた」とも、告白しているぐらいである。

ところが時代が変わって、第二次大戦後になると、主として西ドイツで、マイを学位論文や国家試験のテーマにする学生が現れてきたのである。その際興味深いのは、文学研究者のみならず、社会学者や文学心理学者、とりわけ精神分析の専門家が、マイを格好の研究対象として取り上げていることである。

作家アルノ・シュミットの登場

作家で評論家のアルノ・シュミットは、1963年、『シタラ、そこに至る道~カール・マイの本質、作品および影響に関する研究』という大部の書物を著した。これは批判的文学分析の代表例とみなすことができるもので、その手法を通じてシュミットは、ドイツの一文学現象に光を当てたわけである。この研究において彼は、精密なテキスト解釈と精神分析的手法を援用して、カール・マイの世界ならびに登場人物が、非日常的規模のエロス抑圧の産物として理解されることを示した。

彼は意識下のマイを、ホモ・セクシャルであると断定し、またドイツ最後の神秘主義者(後期の作品に基づいて)である、とも決めつけている。シュミットはさらに彼一流の皮肉や嘲笑を盛んに飛ばしているが、そのため篤実なマイ研究者の反発を買ったりした。その反面、マイ作品にしばしば登場する誇張されたユーモアを楽しんでいる節もうかがえる。

しかしマイ作品の華やかな表面の裏に、実はそれまでほとんど誰も気が付かなかった、ある種の<魂の風景>が隠されていることを如実に示した点にこそ、彼の功績であるといえよう。アルノ・シュミットのこの研究書は、世に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。そこで彼が用いた批判的文学分析の手法は、その後マイ研究の有力な手段として一般化していった。この点は注目すべきことである。

カール・マイ学会」の誕生(1969年)

かくしてこのような機運に乗って、戦前では考えれれなかったほど活発に、各方面にわたって、マイ研究は進展してきた。そして1969年には、ハンブルクで、文学研究団体としての「カール・マイ学会(Karl May Gesellschaft)が誕生した。この学会は、様々な分野の学者ならびにマイ愛好者が集まって、情報と研究の交換を行う学際的な学会なのである。

マイの故郷エルンストタールで開かれたカール・マイ学会の総会に参加した会員達
(1999年)

年一回の『年報』と季刊の『報告』が発行され、総会シンポジウムが隔年に開かれている。場所はカール・マイゆかりの地が選ばれ、4日間ほどの日程で、かなり大規模な催しとなっている。私自身もこの学会の存在を知った1980年以降学会員になって、総会シンポジウムにも数回参加してきた。1990年のドイツ再統一以降は、東ドイツ地域にまで拡大された。この旧東独地域こそは、マイが生まれ育ち、作家として活動し続けた所だったのである。そのため再統一後には、もちろんマイが成功してから住み続けたラーデボイルのすぐ近くの大都会ドレスデンでも、生まれ故郷のエルンストタールでも、総会シンポジウムが開かれている。そして2012年3月には、マイ没後百年祭を記念して、ドレスデンでシンポジウムが開かれたが、これには私も参加した。

その学会活動は年を追って活発さを増し、そうした研究の一つの集大成として、1987年に、実に内容の濃い浩瀚な研究書が刊行された。それが『カール・マイ・ハンドブック』(Karl-May-Handbuch)である。小型版だが、751ページと分厚い本である。ドイツのクレーナー出版社(シュトゥットガルト)から発行されている。学会の主たる研究者をまさに総動員しての分担執筆で、カール・マイの全てを、余すところなく明らかにしている。私もマイ研究にあたり、この本に大いに世話になっているので、次にその目次を紹介することを通じて、大体の内容をお伝えすることにしよう。

     『カール・マイ・ハンドブック』の見返しとマイの肖像

『カール・マイ・ハンドブック』
発行者ゲルト・ユーディング 編集者ラインハルト・チャプケ
目 次
まえがき
序 言
時代背景と伝承
A 三月前期と第一次大戦の間
B 文学的伝統
C 一九世紀における文学市場
人物と人生を取り巻く事情
A 伝記研究の歴史
B マイの生涯
C 年表(誕生から逝去まで)
作 品
A テキスト
B 内容の展開と散文形式
C 個々の作品
1.世界冒険物語
2.青少年向け作品
3.分冊販売小説と初期長編物語
4.初期の作品
a   ユーモレスク
b 村の物語
c 旅行冒険物語
5.G・フェリーの作品の翻案
6.自伝的文章
7.論文、講演その他の記録
8.戯曲「バベルと聖書」
9.抒情詩
10.断片、草稿、習作
社会的影響と評価
A   カール・マイ批判とマイ受容
B 作品への加筆および改訂
C オーストリア、スイス、東ドイツにおけるカール・マイ
D 翻訳版
E 戯曲化
F 映画化
G 音楽化
H 商業的利用
I マンガ、絵物語
J 博物館、記念館、展示
K カール・マイ出版社
L カール・マイ研究機関とその展望

 

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その07 その社会的影響(カール・マイ現象)

 「社会現象」になったカール・マイ

カール・マイはその生涯に膨大な分量の作品を書きあげた作家であったが、その影響は、単なる文学的な次元を超えて、広く社会的な性質を帯びていた。

戦後の西ドイツを代表する高級週刊誌『シュピーゲル』(社会を反映する<鏡>という意味)は、1960年代に、マイに関して特集記事を組んだ。そこでは、カール・マイは単なる人気作家であるにとどまらず、社会全体に広範な影響を及ぼしてきた、ひとつの「社会現象」である、と指摘された。この週刊誌は、そのレベルが非常に高く、広く政治、経済、社会、文化にわたって、鋭い論調を展開してきた。その主な読者層は、広範なエリート層であるが、この特集記事は、社会批判的な立場から、カール・マイを高く評価するものであった。そのためマイの作品を読んだことのないインテリ層に対しても、改めてこの作家への関心を呼び起こしたのであった。
1990年のドイツ再統一後も、この雑誌は健在である。

       ドイツの高級週刊誌『シュピーゲル』の表紙
2012年3月19
日号(カール・マイ特集号ではない)

しかしこの『シュピーゲル』の特集記事に先立ち、「カール・マイが一つの社会現象である」と言い出したのは、マイの先駆的な研究者であるハインツ・シュトルテであった。このブログの「カール・マイの生涯」の中でも述べたように、マイがその成功の頂点にあったころ、熱狂的なファンの間で幾つもの愛好会が作られていた。彼らはインディアンやアラビアの酋長の格好をしてマイを取り囲んで楽しんでいた。

また戦後の西ドイツ(再統一後には東独)でも、子供たちはマイの西部ものの影響で、カーニヴァルの仮装にインディアンの衣装を好んで身に着けたりしている。さらに北独のバート・ゼーゲベルクやエルスペでは、マイの作品を基に、毎年野外劇が演じられている。私も1983年に、子供たちを連れてその野外劇を見に行ったものである。またマイ作品の映画化やテレビ化(ビデオやDVDでも)は、数えきれないほど。また耳で聞くドラマの形で、数多くのレコード(CD)も販売されている。物語の主人公やわき役などのフィギュアや関連グッヅも、本屋に置かれ、その大衆的人気にこたえている。

いっぽう本来の書物のほうも、ドイツでは広く国民の間に浸透していて、復活祭やクリスマスのプレゼントとして、子供たちに贈られているのだ。さらに青少年時代に読んだカール・マイ作品は、家庭の書棚に数多く並べられていて、大人になってから読み直されているという。つまりマイの作品は、聖書に次ぐほどの人気なのだ。

カール・マイ出版社から刊行されている「バンベルク版」全集は、私が入手した1970年代半ばには74巻であったが、2009年には93巻に達している。またマイ没後50年たった1963年以降は、その著作権が消滅したため、廉価なポケット・ブックの全集も、様々な出版社から発行されている。それらを合計すれば、総発行部数はいったいどれほどになるのであろうか。

他方、外国語への翻訳に目を向けると、すでにマイ生前の1883年にフランス語に翻訳されたが、その後英語、オランダ語、スペイン語、チェコ語、イタリア語、ロシア語など周辺のヨーロッパ諸国の言語にも、次々と翻訳されていった。そして遠く中国語やわが日本語(私および他の3人の翻訳者による)にも翻訳されている。2006年現在で、合計35か国語に翻訳・刊行されているのだ。

     中国語版のマイ作品(第6巻)の表紙(1999年発行)

19世紀の他の多くのドイツの大衆作家がいまや忘却の彼方に消え去っているのに比べて、マイが今日なお、生前にもまして広く世界で読み継がれているのは、まさに驚嘆すべきことであろう。こうした作品受容の広がりと、それに付随したもろもろの社会的現象を含めて、一口に「カール・マイ現象」と呼ばれているわけである。

 カール・マイへの評価(賛否両論)

以上述べてきた絶大な人気の傍ら、ドイツでは昔から、青少年に与える教育面での影響が、一般に問題とされてきた。この点に関しては、これまで肯定と否定、賛成と反対の意見が真っ向から対立してきたといえる。先に挙げたマイ研究者シュトルテは、1970年ごろに書いたものの中で、次のように述べている。
「この数十年間ドイツでは、評論家、ジャーナリスト、政治家、教育学者、教師、図書館司書など、ありとあらゆる人々が、マイをめぐって賛否両論を表明してきた。そして新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどを通じて、再三再四論争が繰り返されてきた。そこで反対陣営が強調しているのは、マイに夢中になって勉強をおろそかにすることへの心配である。彼らはマイとその作品から、まるで悪魔のように遠ざけようとしてきた。それにもかかわらず青少年は、あるいは教室の片隅で、あるいは家のどこかで、夢中になってマイ作品を読みふけったのである」

マイに対する評価は、青少年への教育的影響に限らず、その全般にわたって、賛否両論が対立してきた。それを図式化すると、次のようになる。ある人が「天分ある青少年向け作家」といえば、他の人は「青少年をだめにする人間だ」と答える。左派からは「帝国主義の産物」と批判されるかと思えば、右派からは「ドイツ魂の典型」と称えられる。また「真の長編作家」と呼ばれる反面、「生まれながらの犯罪者」と非難される。「労働者階級の敵」という声には、「時代の枠を抜け出したプロレタリア」という反論がなされる。「三文小説の文士」という人もいれば、「千夜一夜物語に匹敵する物語作家だ」とほめちぎる人もいる。そして「ナチス突撃隊の教師」という言葉には、「世界平和運動と平和主義の先駆者」という言葉が返される。「素朴な国民的作家」という軽蔑的な言葉が発せられると、「いやマイこそはドイツ文学最後の偉大な神秘主義者だ」という反論が出てくる、といった具合なのだ。

 「マイは現代のメルヒェン作家」

以上、マイに対する賛否両論を標語として列挙してきたが、ここでマイを偉大なる「現代のメルヒェン作家」と称揚している先駆的なマイ研究者ハインツ・シュトルテの肯定的評価をご紹介することにしよう。彼は「犯罪とファンタジー」について、次のように考察しているのだ。

「かつて放浪者として警察の追及を受けた教師の犯罪と、のちの作家の華麗な冒険の世界との間には、直接的な関係が存在するのだ。両者は同じ精神的源流から流れてくるものである。・・・生まれながらの詩人作家そして自分の抱いた夢のとりことなった人物は、しばしば犯罪の暗闇へと道を踏み誤ることがある。・・・天才的な空想力の持ち主である詩人は、市民社会や無味乾燥で制約の多い職業生活に適応する能力を欠いているため、しばしば打ちひしがれる。

そうした例は、かのホメロスに始まり、シェイクスピア、クライスト、ヘッベルからトーマス・マンにいたるまで、枚挙にいとまがない。・・・新しいフランス抒情詩の偉大なる開拓者であるフランソア・ヴィヨンは、一連の天才的犯罪者の先鞭をつけた人物でもあった。偉大なるセルヴァンテスは悲喜劇的な騎士ドン・キホーテに関するヴィジョンを、牢獄の中で手に入れた。カサノヴァはヴェネチアの獄舎に入れられた。マルキ・ド・サドはかの悪名高いバスチーユ監獄に、ドストエフスキーはシベリアの<死の家>にいたが、これらはいずれも世界文学の有名な一章に属することである。

同様にしてカール・マイも、夢想家で精神的な夢遊病者そして極めて創造力にとんだイマジネーションの持ち主であった。それは地獄への道を踏むべく運命づけられていた。しかしその天才的な夢見る力は、成熟するに及んで、文学創造という正しい道を見出すことができたのである。・・・マイの書いた物語の多くは、かつては素晴らしく驚きに満ちていたが、その後世界の変転と技術的進歩によって、はるかに追い抜かれてしまったかに見える。すでに人類は月にまで到達してしまった。それなのにマイの冒険談の中では、人々は自動車も電話も通信機も知らないのだ。人々は馬やラクダにまたがって、苦労して旅をした。連発式ヘンリー銃が魔法の兵器として、驚きをもって受け取られていた。それにもかかわらず、これら全ては決して古びてはいず、読者の空想力を十分かき立てるのに役立っているのである。この事はどのように説明されるべきであろうか。

カール・マイは、時の流れに流されないものを作り出すのに成功したのだ。それはまさしく<メルヒェン(童話)>と呼ぶことができよう。・・・かつて民衆向けの童話は、夕べの一家団欒の中心として、糸つむぎ部屋の中や村の菩提樹の下で、口から口へ、世代から世代へと読み継がれていった。しかしこうした世界は今や、はるか過去のものになった。技術や交通といった現代生活のあらゆる形式が、古き良き時代の共同体にとってかわった。そして民衆向け童話は語られなくなった。

しかし民衆向け童話が消えたところに、民衆(国民)文学が登場してきた。古典作家たちの高級な作品と昔の民衆向け童話のちょうど中間の領域に、民衆(国民)文学が現れたのだ。そこではかつてのメルヒェンが、新しい衣装をまとって存続することが許されたのだ。カール・マイの緑色版を眺めていると、すでにその表紙の絵から、そこに登場する世界が童話の世界であることが分かる。この文学ないし精神の中間領域において、カール・マイは<民衆(国民)作家>になったのである。彼において古い<童話の魂>は、今一度、その驚くべき性能を発揮したのである」

忘却の危機からマイ復活へ~カール・マイ出版社の歩み~

1912年3月、カール・マイが死んだとき、その大衆的人気は地に落ちていた。そしてそのままいけば、他の大衆作家と同じように、永遠に忘れ去られる運命にあったかもしれない。その運命を大きく変え、作品を永続化させる契機をつくったのが、若き法律家オイヒャー・シュミットであった。子供のころからの熱心なマイ愛読者であったシュミットは、新聞・雑誌などを通じて非難攻撃され、また裁判沙汰に巻き込まれていた晩年の作家を、何とかして救いたいと思っていた。

       オイヒャー・シュミット(1884-1951)

その意思を伝えるために彼はマイに手紙を出し、1910年の夏つまり作家の死の二年前に、ラーデボイルの屋敷を訪れた。そしてその翌年マイはクラーラ夫人と一緒に、シュトゥットガルトのシュミットの家に出向いた。その時作家は直々に「あなたに私の作品のすべてを出版してほしい」と頼んだ。この言葉がカール・マイ出版社誕生の契機だったと言えるのだ。そして同出版社のその後の尽力がなければ、今日の「カール・マイ・ルネッサンス」は考えられなかったかもしれない。

1910年、マイ作品の年間の総発行部数は7万7千部だったが、1911年には3万6千部に減り、1913年には1万4千部へと谷を下る勢いであった。当時マイ作品の多くは、フライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行されていたが、その有能な出版社主をもってしても、この退潮を食い止めることができなかった。

こうした状況の中で、夫の死後、未亡人のクラーラ・マイは、先にシュミットに向かって夫が語った言葉を思い出した。そしてその実現の手立てを相談した。その結果、フェーゼンフェルト、マイ未亡人そしてシュミットの三人で「カール・マイ出版社」が、1913年7月、ラーデボイルに設立された。その経営責任者としてシュミットが同社を切り盛りしていくことになったのである。

この若き経営者はその販売戦略として、拡大方針を打ち出した。それはフェーゼンフェルト社から刊行されていた緑色の装丁のフライブルク版『世界冒険物語』全33巻を基本にして、他のもろもろの作品や未発表原稿を、その中に取り入れて、新たにラーデボイル版の「カール・マイ全集」を作るというものであった。しかし翌年に始まった第一次大戦のため、印刷用の紙不足となり、全集刊行は困難な状況に陥った。それでもシュミットは新たな全集の第34巻として、マイが晩年に書いた自伝「わが生涯と苦闘」を、「私」というタイトルで1916年に刊行した。この自伝には、マイが当時陥っていた精神的苦境と時間不足のために、かなりの誤りが含まれていたため、それらを修正する作業が行われた。そして第35巻から第41巻までは、以前ウニオンドイツ出版社から出されていた「青少年向け作品」が収録された。その版権取得にあたっては、かなりの高額を支払ったという。

その後1920年代になって、カール・マイの人気は回復していった。そしてすでに高齢となっていたフェーゼンフェルトは、出版社から身を引き、それ以後はオイヒャー・シュミットが、名実ともに出版社を率いていくことになった。彼は同社の仕事を手伝っていたカタリーナ・バルテルと、1921年に結婚した。彼女は夫の死去まで忠実に出版社の業務を補佐していった。そしてこの結婚から生まれた4人の息子たちのうち3人は、それぞれ一定の年齢に達してからは、出版社の仕事に従事していったのである。1920年代は、インフレと経済危機の時代であったにもかかわらず、マイ作品の売れ行きは上昇傾向をたどった。そして新しい作品を全集の中に取り入れていく作業は、順調に進んでいった。

1933年1月にヒトラーが政権を握って、第三帝国の時代になった。ヒトラー自身熱烈なカール・マイの愛読者であったが、出版社にとってはこのことはかえって面倒なことだったようだ。それでも社主のオイヒャー・シュミットは、持ち前の巧みな才覚と外交的手腕を発揮して、ナチス側からほとんど邪魔されずに、同社を運営していくことができたという。そして第二次大戦が勃発した1939年には、全集は65巻に達したのであった。

しかし大戦末期の1943年には、マイ作品の製作(印刷や製本)を行っていた出版都市ライプツィヒへの連合国側の爆撃が激しさを増した。そして関連施設や書物を保管していた倉庫も著しい損傷を受けた。さらにカール・マイ出版社のあるラーデボイルに近い大都会ドレスデンも、1945年2月に大爆撃を受け、その町の倉庫に保管されていたマイ作品の多くは損なわれてしまった。

 第二次大戦後のカール・マイ出版社

それらの都市があったドイツ東部地方は、戦後ソ連によって占領されたが、カール・マイはソ連流の社会主義体制に合わない存在となった。カール・マイ出版社はマイ作品の発行を許可してくれるよう、あの手この手を尽くしたが、許可は得られなかった。

長男のヨアヒムは書籍販売の専門教育を受けていたが、1945年に出版社の幹部社員になった。彼は直ちにドイツ西部地区への移転を考え、父親オイヒャーの生まれ故郷バンベルクに、1947年7月、まずはカール・マイ出版社の支社を設立した。そしてそこで、伝統ある緑色の装丁の「カール・マイ全集」の発行を行うことになった。1951年7月、創立者のオイヒャー・シュミットが事故でなくなった。そのためヨアヒムが社長に就任した。

その後東ドイツの社会主義体制がずっと続く見通しになったので、ラーデボイルに残っていた出版社の機能を廃止し、カール・マイ出版社はバンベルクだけになった。そこでは戦前にラーデボイル版として発行されていた65巻のマイ作品が受け継がれた。そのうえで、いろいろな雑誌などに掲載されていた作品や未発表原稿などを基に、第66巻以降の刊行が続けられた。

その際文学的な才能に恵まれていた四男のローラントが、文章の修正作業に当たった。こうして第66巻から第70巻までが刊行された。いっぽう三男のロタールは、長男のヨアヒムを補佐する形で経営に参画した。そして販売や版権問題の面で、尽力した。

1960年には姉妹会社のウスタッド社が、カール・マイ出版社に合併された。さらにラーデボイルでマイがその晩年を過ごした邸宅「ヴィラ・シャターハンド」の総財産、とりわけ貴重なマイの図書室と書斎を、カール・マイ出版社が獲得した。そしてそれらはバンベルクの出版社のそばに建てられた「カール・マイ博物館」の中に、移築された。(これらはドイツ再統一後の1994年に再びラーデボイルの邸宅の中に戻された。

          バンベルクのカール・マイ博物館の外観

    博物館内に移築された図書室(書棚及びマイと妻クラーラの胸像)

1960年、ウィーンのカール・ユーバーロイター出版社が版権を得て、廉価なポケットブック版によって、「カール・マイ全集」と同じ内容の全集を出版し始めた。これによってマイ作品の普及はさらに進んだ。いっぽうカール・マイ出版社の伝統的な緑色の全集は、74巻に達した。私がカール・マイの存在を知って、書店から全巻を購入したのは、この74巻だったのだ。

さらに1970年代から80年代にかけて、「カール・マイ全集」のほかに、昔のウニオン出版社の青少年向け作品や、そのたの個別作品のリプリント版が刊行されていった。そしてフライブルク版全33巻のオリジナルテキストのリプリント版が、新たな校閲と解説をつけて、1982年から84年にかけて発行された。それらはマイ研究者や熱烈なマイ愛好者向けの豪華限定版であった。

ドイツ再統一の年1990年に四男ローラントが死去し、その後長男ヨアヒムが高齢のため経営から手を引いた。そして三男のロタールが社長になり、その息子のベルンハルトが補佐する形で、1993年に出版社に入った。この年から二人の共同作業によって、いろいろな雑誌に掲載されていた作品や未発表の原稿、そして幾多の関連資料や往復書簡などを編集して、「カール・マイ全集」の中に収録する作業が急ピッチで進められていった。

2003年7月、カール・マイ出版社の創立90周年を祝う祝賀行事が、バンベルクのホテルにおいて、大々的に行われた。そこでは記者会見、スライドやフィルムの上映、マイ作品のオークション、研究者によるシンポジウム、展示会のほか、大勢の招待客を集めて、盛大な祝賀パーティーが開かれた。その席で社長のロタール・シュミットは、90年にわたる同社の歴史を振り返って、挨拶を行った。その際父オイヒャーが苦難の渦中にあったマイを助け、弁護したことにより、作家の遺志を受け継ぐ形で出版社を設立したことを強調した。そしてロタールの息子ベルンハルトは、同社の未来への展望を語ったのである。

2010年の夏、私は全く久しぶりに、南ドイツの古都バンベルクに、カール・マイ出版社を訪れ、旧知のロタール及びベルンハルト・シュミット父子に再会して、旧交をあたためた。

 ロタール(右)及びベルンハルト(左)シュミット父子と私(中央)

その前年の2009年には、「カール・マイ全集」は93巻に達した。そしてカール・マイ没後百周年の記念行事が、2012年3月に盛大に行われた。これに私も参加したが、その時の様子について、ブログの01「没後百年祭に参加して」で、詳しく報告している。その少し前にロタール・シュミットはなくなった。そのためこの時は、息子のベルンハルトと再会した。そして彼の主催によって、2013年にカール・マイ出版社の創立百周年が大々的に祝われたのであった。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(06)

その06 全作品の概観

カール・マイはそのおよそ35年におよぶ作家活動(1875-1910)を通じて、実に膨大な作品を執筆した。そしてその多くを当時存在したあらゆる出版メディアに、次々と発表していった。その間に書いた作品は、その種類が多岐にわたっていたのと同時に、発表の仕方や発表の場もさまざまであった。それは、とりわけ19世紀ドイツにおける出版物の出版及び販売の方法と深くかかわりがあった。そして世紀半ばからの産業革命の進展や政治・社会体制の変革とも連動していたのだ。

ところでマイの場合、大衆作家としては珍しく、その死後も忘却のかなたに葬り去られることはなく、生前未発表・未整理の原稿を含めて、おおむね全ての作品が発刊されてきた。そのため現在我々は、ほぼすべての作品を概観できる状況にあるのだ。その際手掛かりになるのは、もっぱらマイの作品を刊行している「カール・マイ出版社」の全集及び同社が所有している膨大な資料、ならびに「カール・マイ学会」が刊行している定期的な小冊子や年報(学会誌)そしてその集大成ともいえる「カール・マイ・ハンドブック」などである。

そこで私としては、その膨大な作品を、出版メディアとのかかわりにおいて形態的に分類して、概観することにしたい。ただその前に、マイが手掛けた作品が、いったいどんなジャンルのものであったのか、一応分類して、一瞥することにする。

ジャンル別の作品の分類

1 世界冒険物語
a   波乱万丈の冒険物語
b   象徴主義的な後期の作品
2 青少年向け冒険物語
3 分冊販売長編小説及び初期長編小説
4 初期の小品と単独の物語
a 滑稽小説、ヨーロッパの歴史物語
b マイの故郷の村の物語
c  その他の冒険小説
5 戯曲、抒情詩、音楽作品
6 自伝的作品

出版メディア別ないし刊行形態別の分類

第1節 雑誌、民衆カレンダー、新聞

まずカール・マイが作家活動を開始したころのドイツの雑誌文化に目を向けてみよう。1848年の三月革命以降、ドイツでは交通手段が発達し、また法的な規制が緩む中で、数多くのポピュラーな娯楽雑誌が市場に出回るようになった。これらの非政治的な週刊の家庭向け雑誌は、読者に娯楽と教養を提供していたが、やがてその発行部数をぐんぐん伸ばしていった。それらの雑誌は、はじめ行商人によって配達されていたが、後にはこれは郵便に代わった。

そこにはポピュラー・サイエンスの記事、なぞなぞ、連載小説、読者からの便りなどが掲載され、イラストや写真がふんだんに盛り込まれていた。そして連載小説はこれらの雑誌の中核的存在に位置付けられ、宣伝価値のある有名な作家に執筆を依頼していた。当時の慣習として、家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、作家の評判を傷つけることにならなかった。そして作家に、経済的な利益をもたらすものであったのだ。

マイは社会的活動を始めた初期のころ、これらの雑誌の編集に携わっていたが、自らの作品もそこに掲載してもらっていた。『ドイツ家庭雑誌』に6編、『立坑と精錬所』に1編、『炉端での夕べのひと時』に3編そして『楽しいひと時』に12編の作品が掲載された。また雑誌編集者をやめてフリーの作家になってからは、作品の数は急速に増え、1880年までの3年間に46編も掲載された。

それらの作品の内容は、ジャンル別分類の4「初期の小品」に属するものである。そこのb「村の物語」というのは、マイの生まれ故郷である東部ドイツのエルツ山地の村を題材とした短編の物語である。それらは明るく、牧歌的な環境の中で展開されており、おおむね軽快でユーモアに満ちたものになっている。こうした要素は当然のことながら、滑稽小説の中心を占めているが、のちに執筆するようになった長編の冒険物語の中にも、波乱万丈の活劇や背景の情景描写などと程よいバランスで織り込まれている。

やがてマイにとって重要な位置を占めるようになったのが、南独レーゲンスブルクのプステット社から発行されていたカトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』であった。この雑誌は北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して、1874年に創刊されたものであった。
ここでドイツにおける宗教事情を一瞥すると、16世紀における宗教改革以降、幾多の騒乱を経て、おおむね南部・西部地域がカトリック、東部・北部地域がプロテスタントという風に、色分けされるようになった。マイは東部ドイツで生まれ、元来プロテスタントの家系であったが、やがてカトリックに傾いていったのである。

     カトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』

さて、それまでいくつかの雑誌を転々としてきたマイであったが、1879年に『ドイツ人の家宝』を発行していたプステット社との間に、永続的な契約を結んだ。そして1899年まで、マイはかねて計画していたジャンル「世界冒険物語」に属する作品を次々と発表していったのである。やがてそれらの物語は人気と評判を呼び、マイ及び雑誌の名前は宗派の垣根を越えてドイツ全国に知れ渡るようになった。
それらはジャンル別の作品分類では、1世界冒険物語のa波乱万丈の冒険物語に相当するものである。

いっぽう1890-1909年の間、マイは作品発表の場として、「民衆カレンダー」とか「マリア・カレンダー」とか呼ばれていた印刷物を利用していた。これは16世紀に起源をもつマリア信仰を基にした地方農民向けの出版物であった。日付を伝える本来の「暦」としての目的のほかに、読者の要望に応じて、薬の処方箋や農業上の助言、さらに歌謡、逸話、冒険物語などが掲載されていたのだ。プステット社からも、「マリア・カレンダー」が刊行されていて、マイはこれにも自分の作品を発表していた。

           マリア・カレンダーの表紙

一方、19世紀から20世紀への転換期のころから、マイの作品とその人物をめぐって盛んに論争が繰り広げられていたが、そうした渦中にあって日刊新聞や週刊新聞が、マイにとって重要な発言の場となった。彼は論争及び自己弁護の文章を、こうした新聞に発表したのである。またマイに好意的であった新聞には、晩年に書かれた「世界冒険物語」が掲載たりもした。その一つとして最晩年の作品「ヴィネトゥー4」が、「アウクスブルガー・ツァイトゥング」に連載されたのが注目される(1909-10年)。

第2節 分冊販売小説

マイはその創作活動の比較的初期の一時期(1882-87年)、ドレスデンのミュンヒマイヤー社から5巻に上る大長編小説を、分冊販売小説の形で発表した。(ペンネームまたは匿名で)。これはドイツ語で「コルポルタージュ・ロマーン」と呼ばれているもので、1冊が大八つ折判で平均24ページという薄い小冊子を、毎週連載小説の形で発行していくものである。そしてその連載は100回以上の分冊になって続いたため、それが完結すれば、1巻が全部で2400ページにのぼる大長編小説になったのである。

主として経済的な生活保障の観点からマイが大量生産した「コルポルタージュ・ロマーン」は、元来は行商人が村の奥までは配達して歩いていた娯楽本を指していた。そしてこの方式が19世紀に、フランスからドイツに入ってきて、マイがせっせと分冊販売小説を書いていた1880年代は、この書籍行商業の最盛期にあたっていたのである。ちなみに1860年から1903年の間に、ドイツ全土で、年間500編の分冊販売小説が出回っていたといわれる。

次にマイが書いた5巻の小説の題名、発行期間及び分冊の回数を記すと、以下のようになる。1『森のバラまたは地の果てまでの追跡』(1882-84年、109回)、2『放蕩息子または哀れな君主』(1883-85年、101回)、3『槍騎兵の恋』(1883-85年、108回)、4『ドイツの心、ドイツの英雄』(
1885-87年、109回)、5『幸運への道』(1886-87年、109回)。

第3節 青少年向け雑誌

これは雑誌の一種には違いないが、マイにとって特別な意味を持っていたので、ここに一項を設けて扱うことにする。具体的には青少年向けの絵入り雑誌『よき仲間』が、これに該当する。この雑誌はシュトゥットガルトのシュペーマン出版社から1887年1月に創刊されたものである。その編集方針として、青少年に健全な読み物を提供することが示されていた。そしてこの編集方針に沿って、当時人気上昇中の作家カール・マイに、この雑誌への連載が委嘱されたわけである。

             雑誌『よき仲間』の表紙

この時初めてマイは作家としての使命を自覚したという。つまり元教師であったこの作家は、青少年のために教育的で、しかも無味乾燥に陥らない作品を書くことが自分に課せられた使命ではないかと考えたのである。それ以後彼は、分冊販売書小説の執筆はやめ、これに全力を注いだのであった。こうして1887年から1897年までの間に、いくつかの短編作品のほかに合計8編に上る、いわゆる「青少年向け作品」が、雑誌『よき仲間』に掲載されたのであった。

この一連の作品は質的に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられるものである。これらの作品は外国を舞台とした旅行冒険物語であるが、主人公が三人称になっている点が、「世界冒険物語」とは異なっている。そのため研究者の間で、「青少年向け作品」というジャンルに分類されているものである。

それらの作品を列挙すると次のようになる。(1)『熊狩人の息子』、(2)『リヤノ・エスタカードの幽霊』、(3)『名誉をかけた誓い』、(4)『奴隷の隊商』、(5)『シルバー湖の宝』、(6)『インカの遺産』、(7)『石油王子』、(8)『黒いムスタング』。これらの作品は、内容もさることながら、挿絵画家ヴァイガントの描いた魅力的な挿絵によっても評判を呼んだ。

1890年、シュペーマン出版社は他の二つの出版社と合併して「ウニオン・ドイツ出版社」を設立した。同社は引き続き青少年向け雑誌『よき仲間』を発行し続けた。そしてマイ作品の評判が良かったため、先の青少年向け作品8編は、雑誌への連載が終わると順次書物の形で刊行されていったのである。これら8冊の本は、前述した挿絵と並んで、色彩豊かな表紙絵並びに赤色の総クロス装丁の美しい外観を呈していて、「ウニオン版」としてポピュラーになった。

第4節 個人全集の発行

 1 フライブルク版

1891年、作家マイにとって大きな転機が訪れた。それは個人全集の発行という大きな出来事であった。マイ49歳のことであった。それはフライブルクの出版社主フェーゼンフェルトとの出会いを契機としていた。この若き出版人は雑誌『ドイツ人の家宝』に連載されていた世界冒険物語の中の、とりわけ「オリエント・シリーズ」にいたく感激した。そしてこの雑誌を中心に、それまで各種雑誌にばらばらに発表されていた世界冒険物語を、個人全集『カール・マイ世界冒険物語』の形で発行していくことを決意した。そしてこの計画は翌1892年から実施に移された。

フェーゼンフェルトはこの全集を発行するにあたって、作家マイ及び自社の評判を高めるための用意周到な工夫を凝らした。なかでも造本には知恵を絞った。緑色のハード・カバーの背表紙に唐草模様をあしらい、金色の文字を付し、表紙には各巻の内容にふさわしい色彩豊かな絵を載せて、全体として上品な装丁に仕立てた。それは従来の読み捨ての娯楽読み物というよりは、むしろ高級文学のイメージを与えるものであった。そのため読者層も従来より広がり、マイの名声は大いに高まった。これがマイ最初の「フライブルク版個人全集」であるが、緑色の装丁のため、一般に「緑色の全集」と呼ばれている。

         緑色の装丁のフライブルク版個人全集

一方、それまで雑誌に発表されてきた作品をこの全集に収めるにあたって、一巻ごとの物語の長さが調整された。そして作品の題名も一巻ごとに新たに付け直された。またこの全集のためにマイが新たに書き下ろした作品もいくつかある。かくしてこの個人全集は、彼がオリエント大旅行に出かける1899年までに、27巻に達した。大旅行後はマイが外部との争いに巻き込まれたため、全集の刊行は休止した。しかし晩年の象徴主義的な内容の冒険物語6編を組み込んで、、マイが亡くなる2年前の1910年に、6巻が追加されて、フライブルク版個人全集は全33巻をもって完結した。

この33巻の題名を列挙すると、次のようになる。(カッコ内の数字は発行年)

(1)砂漠とハーレムを越えて(1892年)、(2)荒野のクルジスタン    (1892年)、(3)バグダードからイスタンブールへ(1892年)、(4)
バルカンの峡谷にて(1892年)、(5)スキペタール人の国を通って(1892年)、(6)ジュート(1892年)、(7)~(9)赤い紳士ヴィネトゥー1~3(1893年)、(10)オレンジとナツメヤシ(1893年)、(11)太平洋にて(1894年)、(12)ラプラタ河にて(1894年)、(13)アンデス山中にて(1894年)、(14)(15)(19)オールド・シュアーハンド1~3(1894-1896年)、(20)~(22)サタンとイシャリオット1~3(1896-1897年)、(23)見知らぬ道で(1897年)、(24)クリスマス(1897年)、(25)彼岸にて(1899年)、(26)~(29)銀獅子の帝国にて1~4(1898-1903年)、(30)そして地上に平和を(1904年)、(31)~(32)アルディスタンとジニスタン1~2(1905年)、(33)ヴィネトゥー4(1910年)

これとは別に、今日の我々から見て非常に魅力的なのは、その内容にふさわしく、ち密な出来栄えの挿絵が豊富に入った絵入り全集が、同じくフェーゼンフェルト社から、1907-1912年に発行されていることである。内容的には、先のフライブルク版の1~30巻を収めたものであるが、各巻の順番は部分的に異なっている。この全集は青色の表紙の装丁で、先の「緑色の全集」と区別している。

 2 ラーデボイル版

1912年にマイが死亡し、その翌年の1913年に「カール・マイ出版社」が、ラーデボイルに設立された。そして「フライブルク版」は、新しいシリーズのタイトル「カール・マイ全集」のもとに継続発行されていった。この全集はマイ未亡人の同意のうえで、同社の社主オイヒャー・シュミットが作家の遺志をついで、マイの全作品を個人全集の形にまとめたものである。そのためフライブルク版には収録されていなかった数多くのマイの作品が順次、収録・出版されていった。そして第二次世界大戦勃発の1939年には、「ラーデボイル版」全65巻になった。それはまずフライブルク版の1~33巻に相当する世界冒険物語を基本としていた。その上に、ウニオン版の青少年向け作品8巻、分冊販売小説15巻、初期の村の物語
や歴史小説7巻、そしてさらに自伝及び詩作品、戯曲の2巻が追加収録されたものである。

このラーデボイル版の発行にあたって、言語面及び内容面で、かなり大幅な編集の手が加えられたことが注目される。具体的には、外国語の引用の誤りの修正、過度に使用されていた外国語の削減、卑猥な表現の除去ならびに全作品の外面的な統一と規格化などである。こうした大幅な編集作業の狙いは、「マイの作品は低俗で汚辱に満ちた文学である」とする、晩年に行われた非難攻撃から作家マイを救うという点にあった。

こうした編集の度合いは、とりわけ分冊販売小説と晩年の作品に著しかったが、カール・マイ出版社は、このラーデボイル版をなお、オリジナル版と称し続けた。その理由として同社は、マイ未亡人クラーラが1930年に行った説明を引き合いに出している。それは「カール・マイ出版社が行っている編集作業は、作家マイが生前出来なかったことを代行してくれているもので、作家自身が行ったのと同じである」というものであった。

 3 バンベルク版

第二次大戦後ラーデボイルが東ドイツ領に組み込まれたため、カール・マイ出版社は西ドイツのバンベルクへ移転した。そしてその地で引き続き全集の補完作業を続けていった。2009年現在、それは93巻に達している。これがバンベルク版であるが、書物の体裁や編集方針は、戦前のラーデボイル版をそのまま引き継いでいる。そしてラーデボイル版、バンベルク版ともに、書物の装丁として、緑色のハード・カバーに唐草模様というフライブルク版の格調の高さをそのまま踏襲している。このバンベルク版が、現在ドイツの一般書店に並べられているカール・マイ全集の正統版である。

     バンベルク版個人全集の表紙(第1巻 砂漠を越えて)

このほかマイ生前のオリジナル版(カール・マイ出版社による編集の手が加えられていない)へのマイ研究者ないしマイ愛好家の熱心な要望に応えて今日、それらの再販やリプリント版が発行されている。各種雑誌に発表された作品や、様々な単行本が数多くリプリントされて、発行されているわけである。その中でもとりわけ注目されるのは、前に述べたフライブルク版全33巻の完全復刻版の刊行である(1982-84年)。これは内容、装丁ともに完璧なものと言え、マイ研究者や愛好家の期待に十分こたえたものと言える。

さらにマイの死後50年たった1962年以降は、その著作権が消滅したこともあって、廉価なポケット・ブック版のマイ全集も、各種発行されている。この中でパヴラク出版発行の全集74巻(1976-78年)は高い評価を得ているが、そのほかは、造本が粗雑であったり、ミスプリが目立ったりといった欠点が多い。

第5節 単行本

マイの青少年向け作品が雑誌『よき仲間』に発表された後、書物の形でも順次発行されていったことは、すでに述べた。このほかにもマイの作品は、全集ではなくて単行本の形でも、1879-1912年の間に、数おおく出版されている。

なかでも注目すべきは、マイの個人全集を最初に出したフライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行された単行本のことである。それらは内容的にみて、それまでマイが書いてきた小説や物語とは違ったものであった。マイの数少ない詩作品「アヴェ・マリア」と「忘れな草」に作者自身が曲をつけた楽譜入りの本が『厳かな響き』と題して、1896年に出版されたのである。

          楽譜入りの本『厳かな響き』の表紙

また1900年には、オリエント大旅行の文学的成果として生まれた、詩と警句を集めた詩集『天国の思想』が発行された。さらに同社からは、1902年に、論争の渦中にあったマイが自己弁護のために書いた『教育者としてのカール・マイ』及び『カール・マイの真相』が出された。
そして1906年には、マイ唯一の戯曲作品『バベルと聖書~アラビア幻想』が刊行されている。この二幕の戯曲は、当時ヨーロッパで展開されていた、バベルつまり古代バビロンとバイブル(聖書)との関連に関する論争に触発されて書かれたものである。

一方、1907年には、一連のエルツ地方の村の物語がまとめて単行本となり、また1910年にはマイの自伝『わが生涯と苦闘』が、フェーゼンフェルト社から出版されたのであった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(05)

その晩年(1900~1912)

 後期作品の執筆

後期作品の特徴は、すでにオリエント大旅行の直前に書いていた『彼岸にて』にもみられるように、隣人愛と平和主義という新しい理念に基づくものであった。もはや男性の英雄ではなくて、祖母の姿に似せて作られた人間精神の象徴ともいうべき女性マラー・ドゥリメーが、中心的存在になった神話的な作品群であった。
そして日常生活の面でも、カール・マイは、新しい生き方をするようになった。オールド・シャターハンドやカラ・ベン・ネムジといった英雄的主人公になりすますという生活態度は捨て去り、またそうした衣装も片づけられた。そしてその館「ヴィラ・シャターハンド」の中を飾り立てていた家具調度類も整理された。

帰国後の最初の作品であった『そして地上に平和を』(1901年5月~9月)は、オリエント大旅行の印象を生かしたものであった。そこには帝国主義及び植民地主義に対する強い反対ならびに人種主義的、宗教的優越意識への断固たる拒否の態度が貫かれている。そして世界の人々を結び付けている連帯の理念と平和主義の教義が延々と展開されているのだ。また当時中国の山東半島へドイツが進出し、キリスト教の布教を行っていたが、それに対する反感から武装蜂起した義和団の反乱というトピックも取り上げられている。そして反乱に対する八か国共同出兵とそれによる残酷な弾圧が厳しく批判されているのだ。

(左)小説『そして地上に平和を』
(右)ノーベル平和賞受賞者ベルタ・フォン・ズットナー女史

 ノーベル平和賞受賞者ズットナー女史との出会い

いっぽうこの作品は、のちの1905年にノーベル平和賞を受賞したベルタ・フォン・ズットナー女史(1843-1914年)とマイとを結びつけることになった。その年の10月、このウィーン出身の作家・ジャーナリストはドレスデンにおいて講演を行ったが、その時マイは彼女と知り合い、自著の『そして地上に平和を』を献呈した。それが縁となって彼女とはその後死ぬまで、いわば「平和主義思想」の同志として親交を重ねたのであった。ズットナー女史はのちにマイにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「あなたは平和の問題やその他のことで、私の思想上の同志です。”上へ向かって高く!”こそ、私たちに共通した合言葉です」

マイの平和主義思想はさらに、第一次大戦前のヨーロッパの平和主義運動とも接点を見出したのである。マイのこの著作を知った、フランスの平和主義を代表する雑誌『法を通じての平和』の編集者から、マイに対して1907年初め、独仏の接近への方策に関して質問状が寄せられた。それに対するマイの回答を短くまとめて、次に紹介しよう。
「1.フランスとドイツの接近の試みは願ってもないことです。・・・誤った道に導かれていないドイツ人はだれしも、フランス人を評価し、尊敬しています。2.フランスとドイツは、20世紀の入り口の門を支える二つの女神の柱にならなければなりません。3.それを達成する一つの試みとして、私は次のことを提案します。それは廉価な週刊誌を両国で発行することです。その雑誌のただ一つの目標は、フランスとドイツの住民を互いに心の内面で結びつけることです。そのために同じ内容の記事をフランス語とドイツ語で発行することです。」

またカール・マイの宗教的信条の面でも、この時期に大きな変化が見られた。北東ドイツのザクセン地方に住んでいたマイの先祖は代々プロテスタントであったが、彼自身はレッシングやヘルダーなどの影響を受けて、一種の啓蒙的キリスト教の立場に立っていた。ところがヴァルトハイム刑務所の教理教師コホタとの接触とそこでのカトリックの礼拝実践、そしてさらにカトリック系の雑誌『ドイツ人の家宝』への寄稿を通じて、やがてカトリックへと接近することになった。そのため「世界冒険物語」をせっせと執筆していたころは、マイはカトリックの作家とみなされていたのだ。

しかしオリエント大旅行の後に、事情は再び変わることになった。今や彼は超宗派で反教義の立場にたって、愛のキリスト教をを唱えるようになったのだ。それは狭い意味で信心に凝り固まる立場を、拒否するものであった。その一方で自分は確固たるキリスト者であると主張していた。しかし後期作品の中で展開されている宗教哲学は、オカルト的、神智学的、神秘主義的要素ならびに他の宗教からの影響をも示しているのだ。

 この時期のマイの私生活

ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。このころ妻エマとの結婚生活は、マイにとって大きな負担になっていたようだ。二人は精神面で結びつくところがほとんどなかった。エマはマイの作品を読もうとはせず、その思考世界にも関心を持とうとはしなかった。そのため読者やファンからの手紙への返事などで、多忙な夫の手伝いをしなかった。さらに彼女は、自分が交際していた女友達を家に連れてきたりしていたが、マイはそれが仕事の邪魔になると感じて、不愉快な思いをしていたという。

こうしたことが重なって、すでにオリエント旅行の途上でも、少なからず好意を感じていた友人の妻クラーラ・プレーンにマイは接近したりしていた。そしてその夫のリヒアルト・プレーンが1901年2月に腎臓病で床に臥せ、やがて死亡した。そのあとクラーラはマイの秘書として雇われることになった。彼女はエマ・マイの名前で、読者からの手紙に返事を書く仕事を任されたのである。そのためもあって、マイとエマとの関係はますます悪化し、しまいにはエマに殺されるのではないかという被害妄想に陥り、彼女が調理した食事を食べなくなった。

後期作品の傑作のひとつ『銀獅子の帝国にて、第3巻』が完成したのをチャンスととらえたマイは、1902年夏、はエマとクラーラという二人の女性を連れて、しばし転地療養の旅へと出かけた。その旅の途中、マイはエマに対して離婚の話を持ち出し、自分はクラーラと結婚すると伝えた。その条件として、年額3000マルクの金を毎年エマに支払うことが提示された。そしてそのことを裁判所に訴え、その訴えは裁判所によって認められた。その後カール・マイは1903年3月30日に、正式にクラーラと結婚することになったのである。

                                         結婚後のマイとクラーラ夫人

この結婚生活は、とても幸せなものだったという。クラーラも性格の上で難しい側面を持ってはいたが、マイを深く愛し、また尊敬もしていた。そして生活面でも精神面でも、カールを強く支えていた。彼女はマイの作品を理解していたため、そのあと起きた裁判でも彼を強力に支援し続けたのであった。とりわけ情緒面でマイをやさしく支えたが、それなしにはマイはその後の歳月を生き延びることはできなかったと思われる。

 マイに加えられた非難攻撃

カール・マイは晩年の10年間、様々な種類の非難攻撃にさらされた。初期のころ各種雑誌や分冊販売誌に発表していた作品が、ほじくり出されて、俗悪で青少年に悪い影響を与えてきた、という非難のキャンペーンを一斉に受けたのであった。それらは主として、彼が経済的な窮状を逃れるために、1880年代の前半から半ばにかけて執筆し、ミュンヒマイヤー社発行の分冊販売誌に匿名で発表した大量の物語に関するものである。それらは推敲する暇もないほど急がされて書いたため、内容的に冗長で、装飾過多で、ぞんざいな出来栄えのものであった。ただ報酬は大変よかったという。
これらは匿名で発表されたのだが、実名が明らかになれば、評判を落とすことは明らかであったので、マイはひた隠しにしていたのだ。

ところがミュンヒマイヤー社の経営をその後引き継いだアダルベルト・フィッシャーという人物が、いわば金儲け目的でそれらの長編小説を、今度はカール・マイという実名を出して、発行しようとしたのである。大人気作家マイの名前を出せば、大きな利益を得られることは間違いない、と踏んでのことであった。オリエント大旅行の最中にそのことを知ったマイは、旅先からフィッシャーに対して発行を差し止めるよう伝えた。しかしマイの前科を知っていたフィッシャーは、マイがそれ以上強くは反対しないだろうと考えて、発行を強行したのであった。

              『絵入りカール・マイ全集』の中の一つ「放蕩息子」の挿絵

こうして全五巻の分冊販売小説が、今度は二十五巻に分けられ、大々的な宣伝広告のもとに『絵入りカール・マイ全集』として刊行されたわけである。旅行から帰ったマイはフィッシャーと何度か話しあって、発行停止を申し出たが、無駄であった。そして弱気になったマイは、1903年2月に、自分の前科を世間に公表しないことを条件に、発行継続を認めてしまったのであった。

しかしその分冊販売長編小説がもとで、青少年に不道徳的な悪影響を与えた作家であるとの非難が、各方面から起こったのである。そのためマイは妥協を後悔して、1905年に再びフィッシャーに発行停止を申し入れた。これも無視されたが、この経営者が1907年に死亡したタイミングで、後継の経営者に対して訴訟を起こした。その結果、分冊販売小説には第三者によってかなり手が加えられたというマイの申し立てが1907年10月に認められて、それ以後それらの作品からマイの名前は削除されることになった。この成果を勝ち取るまでに、実に7年もの歳月がかかったのである。

次に各方面からの批判キャンペーンに目を向けることにしよう。これは彼のオリエント大旅行中に始まり、以後断続的にマイの最晩年に至るまで続いたのであった。
1890年代の成功の絶頂期には起らなかったことが、鳴り物入りの宣伝広告を通じて刊行された『絵入りカール・マイ全集』によって、たぶんに「ねたみ・そねみ」の気分に彩られて、批判・非難の嵐が巻き起こされたのである。それらの批判の基調は、「清らかな世界冒険物語のかたわら、不倫とも不道徳とも言えるような
俗悪小説を書いて、青少年に悪影響を与えてきた」というものであった。

すでにマイのオリエント大旅行中の1899年に『フランクフルター・ツァイトゥング』の文芸欄では、「世界をくまなく旅行してきた世界漫遊者である、とのマイの主張は欺瞞である」と書かれていた。その後、以前はマイのことを高く評価していたカトリック系のジャーナリストによって、「マイは敬虔なカトリック信者を装ってきたが、実はプロテスタント信者なのだ」と指摘された。そして「いっぽうでカトリック系の家庭雑誌ではカトリックの立場にたって、敬虔なタッチで冒険物語を書きながら、同時に性的な描写を含み、不倫や不道徳に満ちた長編小説をカール・マイはたくさん書いていたのだ」と非難された。つまりマイは道徳的・文学的二重人格の持ち主である、というのだ。

この非難の根拠になっている不倫や不道徳な描写については、マイ自身は、「ミュンヒマイヤー社側が、販売効果を狙って、第三者に書き加えさせたものだ」と主張している。1880年代にマイが書いて同社に渡したオリジナル原稿を、同社はその後も公表していないので、この点は明らかではない。しかし『絵入りカール・マイ全集』を読んでも、そうした問題の箇所は量的に少なく、現代の視点から見れば全く無害なものである。それにもかかわらず、非カトリック陣営に属する保守主義者や国家主義者からも、誹謗中傷はやまなかった。

こうした各方面からの攻撃に対してカール・マイは沈黙していたわけではなく、盛んに防戦に努めていた。それは新聞への寄稿、新聞・雑誌への広告、パンフレットの配布、裁判関連の文書、数多くの名誉棄損の訴えなどを通じて行われたものであった。そしてそれらは一定の成果を上げ、マイを支持する賛成派の人々も少なくなかったのだ。彼らは革新派の社会民主党員、数多くの反体制派の人々、前衛の作家・芸術家たち、そしてカトリック伝統派の人たちであった。彼ら支持者たちは、言論発表の機会をマイにいろいろと与え続け、講演会なども用意した。

 名誉回復(1907年)

                                              雑誌『ドイツ人の家宝』

そうしたこともあって1907年には、カール・マイは多くの新聞雑誌に対して、おおむねその名誉を回復することができた。そしてその年の9月には、例の雑誌『ドイツ人の家宝』も、昔の同社の人気作家に再び接近してきたのである。その結果、1907年11月から、マイ最後の大長編小説「アルディスタンとジニスタン」が、その雑誌に掲載され始めた。それはマイが渾身の力を振り絞って取り組んだ大長編の物語で、後期作品の中でも最も代表的な作品といえるものとなった。そのころ彼は健康面でも元気を取り戻していたため、この大作の執筆にあたることができたのであった。

       北米旅行へ向かう船中にて。(左)マイ(右)後列右から2人目がマイ

そうした執筆の合間をぬうようにして1908年の晩夏に、マイは妻クラーラとともに、かねてからの北米旅行に出たのであった。9月5日「ブレーマー・ロイド社」の汽船でドイツを出発し、16日にニュー・ヨークに到着した。そこに一週間滞在した後、アルバーニ、バッファローを経てナイアガラの滝を見物した。その後カナダ側のクリントン・ハウスに宿泊した。そこからタスカロラ・インディアンの住む地域へ向かい、さらに五大湖周辺をトロント、デトロイト、モントリオールという具合に移動した。

10月5日には、マサチューセッツ州のローレンスで金持ちになって住んでいた旧友のペッファーコルンに再会した。そしてその町のドイツ系アメリカ人を前にして、講演を行った。それは「人間に関する三つの問題~我々は何者か? 我々はどこから来たのか? 我々はどこへ行くのか?」と題する講演であったが、大好評を博した。そのあとはローレンスを基地にして各地へ赴いたが、それらは主として休養を兼ねたものであった。そして11月にはボストン、ニュー・ヨークを経て大西洋を渡ってイギリスへ移動した。そこでは主としてロンドンで二週間を過ごしてから、マイ夫妻は12月初めに故郷の家に戻ったのである。

この二回目の海外旅行はオリエント大旅行のような、人生の転機を画すといった性質のものではなかった。またそれは広大なアメリカ合衆国のごく一部を動いたものに過ぎず、マイの作品の舞台になっている大西部にも行かなかったのである。それはすでに老境に入った人物の、息抜きの観光旅行であったのだ。

旅から戻ったマイは仕事を再開して、翌年の1909年6月には、雑誌に連載していた「アルディスタンとジニスタン」の最終原稿を書きあげた。そしてその夏、推敲の手を加えて、同年のクリスマスにはその作品は書物の形で刊行された。この著作は、童話的に場所と時間の制約のないユートピア風にして、人類の歴史を暴力から平和への発展としてとらえて、描いたものである。

そして1909年12月10日には南ドイツのアウクスブルクで、この作品に関連して、「人類の魂の故郷 シタラ」と題する講演を行った。地元の新聞によれば、会場は感激した聴衆であふれかえる大盛況で、隣接したカフェーまで人の群れでいっぱいになったという。その中にマイ作品の熱心な読者で、のちの大作家のブレヒトもいたと思われる。

 最晩年

この時期マイは再び大きな不幸に見舞われた。彼の最晩年を苦しめたのは、ルドルフ・レビウスという執念深い、ある種の政治ジャーナリストであった。はじめは社会民主党に属していたが、のちに転向して反社会民主主義、反ユダヤ主義、国家社会主義の立場に立つようになった人物である。雑誌編集者であった1904年春、この男はマイに接近してきて、かなりの額の借金を請求し、その見返りに支援を申し出た。その要求をマイは拒絶したが、その後もレビウスは半ば脅迫をちらつかせながら、要求を繰り返した。それに対してマイは法的手段に訴えて、その要求を退けることができた。

しかし執念深いこの人物は、その後マイと離婚してヴァイマルに一人寂しく住んでいたエマ・ポルマーを訪ねて、マイとの結婚生活や離婚した時の事情を探り出した。そしてさらにマイの故郷エルンストタールにも行って、その若き日の犯罪行為を調べ上げた。そしてその結果が出版物として公表された。そこではマイは「生まれながらの犯罪者」と呼ばれていた。それに対してマイは再び法的手段をとって、レビウスを名誉棄損で訴えた。ところが1910年4月に行われたベルリン・シャルロッテンブルクの裁判所での公判では、レビウスに無罪判決が下された。これはマイを犯罪者として公的に認めたことになり、マイは破滅的な衝撃を受けることになったのである。レビウスがまき散らした害毒は広くマスコミや世間に浸透し、いまや再びマイに対するかつての誹謗中傷の炎が燃え上がった。そのため彼の本の売れ行きのほうも、激減することになった。

こうした世間からの非難攻撃に対する弁明と反撃そして自己反省と自戒の書としてマイは、自伝『わが生涯と苦闘』を、それこそ最後の力を振り絞って書きあげ、これが1910年10月に刊行された。しかしこのころには心身ともに疲れ果てていたことが、自伝の中でも述べられている。「一年前から夜になると眠れなくなった。・・・そして絶えず激しい神経の痛みをを感ずるようになっている。・・・できることなら死んでしまいたいものだ。」そして1910年のクリスマスに肺炎に襲われ、1911年には病気と心身の衰えで仕事をすることができない状態になった。そのため医師の強い勧告を受けて、5月から6月にかけて妻のクラーラに伴われて、ラディウム療養のためにカールスバートに出かけ、その後さらに南チロルのホテルでのんびり過ごした。こうした長期療養のおかげで、その健康状態は一時的に回復した。

その年の12月初めマイは先のベルリン・シャルロッテンブルクの判決に対する控訴審手続きのための文書147ページを書きあげた。そしてその控訴審裁判がベルリン・モアビットの裁判所で、1911年12月18日に開かれた。レビウス側の検事が、マイの生き方は常軌を逸した奇行に満ちていると非難したのに対して、エーレッケ裁判長は次のように述べた。「しかし犯罪というものは、一人の作家によって作り上げられた奇抜な事柄などではないのだ。私はマイ氏を作家だと思っている」 この時マイは、この理解に満ちた裁判長によって救われたのであった。先の判決は取り消され、レビウスに対しては重度の侮辱罪によって罰金100マルクが課せられた。

 ウィーンでの最後の講演

このようにしてマイはその最晩年において、その名誉を回復することができたのであった。そして世間の風向きもマイに対して暖かいものに変わった。1912年2月1日には、ウィーン在住の作家ローベルト・ミュラーによるマイ擁護のエッセイが公表された。ウィーン文学・音楽アカデミーの責任者でもあったこの作家は、さらにマイに対して、その70歳の誕生記念にウィーンで講演してくれるよう依頼した。この講演依頼の目的は、マイの個人的・文学的名声を再び世の人々の前で明白に回復することであった。当時マイの体調は思わしくなく、医者からは長旅をしないよう勧告されていたが、それを振り切って彼はウィーンに向かったのである。

                        ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」

1912年2月22日、ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」の二千人以上にのぼる聴衆を前にして、マイは二時間以上にわたって(途中脱力状態の発作で短時間中断したが)話をしたのであった。その演題は「高貴な人間の住む天空に向かって」というものであった。このテーマはジニスタンへ向かって上昇しようと懸命に努力してきたマイ自身のことを表している。平和主義運動の担い手ベルタ・フォン・ズットナー女史もやってきて、事前にホテルでマイに会ってから、講演を聴いたのである。彼女の願いを入れて、マイはその講演の中で、最新作『人間の高貴な思想』からの引用もしている。「高貴な人間」という概念も彼女から借りたものであった。そこでは平和の理念が語られたほか、自らの人生の告解も行われた。

この講演は彼の公的人生の最後の成功を画するものとなった。ウィーンの新聞はこのことを詳しく報じた。「彼は歓呼の声で迎えられた。そして最後に、ぎごちなく、頼りなげに、そして明らかに驚いた感じで、みなへの感謝の言葉を述べた。拍手は十倍に強まった。少年たちが席から立ちあがって、彼らにヴィネトゥーをプレゼントしてくれた人物にあいさつした。講演が終わると、拍手は鳴りやまず、退場しようとしたマイの周りを人々が取り囲んだ。」
そうした人々の暖かいまなざしの中で、マイは感極まって「いつまでも変わらぬ心で私のことを!」と叫んだのである。

 ウィーンのカール・マイとクラーラ夫人。生前最後の写真(1912年3月20日)

そのあと3月の冷雨の中、風邪をひいて熱を帯びた体で、彼はラーデボイルの家へ戻った。しかし病床に就くことはなく、クラーラとの結婚記念日である3月30日には再び元気を取り戻したかに見えた。しばらくの間彼は静かに時を過ごし、半ば眠ったようにして、自分が作り出した人物たちと話をしていたという。そして夜の8時ごろ、カール・マイはただ一人妻のクラーラに付き添われて、息を引き取った。
「勝利だ! 大勝利だ! バラが・・・赤いバラだ」
これがその最後の言葉だった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。