中欧見聞録(後編)

はじめに

「中欧見聞録」前編では、ポーランドのワルシャワ、クラクフ、ザコパネ及びハンガリーのデブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウベントなどを旅した記録をご紹介した。

今回の後編では、北イタリアのトリエステ、スロヴェニアの首都リュブリアーナおよびチェコスロヴァキアのブラティスラヴァ、プラハ、カルロヴィ・ヴァリについて、ご紹介することにする。

北イタリアのトリエステ

アドリア海北東部のトリエステ及びリュブリアーナ

8月21日: 5日間にわたるブダペスト滞在を終え、東駅からオーストリアのク ラーゲンフルトを経て、イタリア北東部のトリエステへ向かう。列車の都合でクラーゲンフルトに一泊した後、ユーロシティに乗り、オーストリア国境の町フィラッハからイタリアへと入る。途中列車はアルプスの折り重なる山並みの間の狭い土地を縫うようにして南下していく。時に道路と並行し、時に清流を横切り、また短いトンネルを十数回にわたってくぐりながら、列車は次第に下降していく。左手には切り立った峨峨たる山頂も見えたが、やがてアルプスを最終的に潜り抜けたかと思うと、もうそこは北イタリアの平野であった。

ウディネで列車をローカル線に乗り換え、ようやく目的地のトリエステに到着した。ここはアドリア海の北岸に面し、ユーゴのスロヴェニア共和国との国境の町である。ここを訪れた目的は、トリエステがかつてオーストリア・ハンガリー帝国の海への玄関口だったので、現在どの程度その痕跡が残っているものか、知りたいことにあった。

午後4時近く中央駅に降り立つと、強烈な日差しが照り付け、朝方セーターが必要だったクラーゲンフルトとは大違い。ベルリンの旅行社で予約したホテルの名前を告げてタクシーに乗り込んだが、着いた所は駅から西へ20キロも離れたドゥイノという海べりの小さな町のホテルであった。駅で100マルクを両替えして74,000リラを受け取ったが、タクシー代に37,000リラ(50マルク)、そして薄っぺらな市街地図に8,000リラ(9.3マルク)取られ、イタリアの物価高にびっくりする。おまけにトリエステ見物に不便極まりない所へ連れていかれ、一時は途方に暮れたが、結局二泊の予定を一泊にちじめ、トリエステ見物は翌日の午前中だけにする。そして一時はあきらめていたスロヴェニア共和国の首都リュブリアーナへ、午後から行くことに決心する。

8月23日: トリエステは数時間かけて、海を一望のもとに望む丘の上の城や港の周辺一帯を見て回った。しかしそこにはハプスブルク時代の面影を残すものは、これといって何一つなかった。しかし『中欧の復活』にも書かれている通り、ウィーン風カフェーハウスの老舗「サンマルコ」の再開、トリエステとリュブリアーナを結ぶ運河を建設するプロジェクト、アルペン・アドリア同盟など、最近ではイタリアも中欧諸国との結びつきを強めつつあるので、今後の成り行きではこのトリエステの町がどのような役割を果たすことになるのか、興味深いところではある。またこの港がアドリア海を通って、ユーゴのクロアチア共和国の海岸諸地域とも結ばれていることを、港周辺の散歩で確認した。その意味でイタリアは今後、オーストリアやドイツと協力して、スロヴェニアやクロアチアの西側への組み込みに積極的な姿勢を示すことが予想される。

そのスロヴェニアの首都リュブリアーナ行きを決心させたのは、ドゥイノのモーテルのフロントの女性だった。幸いこの女性はドイツ語を話し、いろいろ親切に教えてくれたので、ついでにスロヴェニア情勢について尋ねたところ、もう戦争は終わり、今では平和なので旅行は問題ない、との返事が戻ってきた。こうして午後1時40分の列車でトリエステ中央駅を出発して、リュブリアーナへ向かう。

スロヴェニアの首都リュブリアーナ

列車はアドリア海の真夏の太陽が照り付けるトリエステから、次第にカルスト台地の石灰岩がごろごろしている山地へと入り、やがてかなり広々とした盆地につく。そこにリュブリアーナがあったのだが、わずか3時間の行程であった。しかし気候風土はアドリア海岸一帯とはまるで違い、もうそこはアルプスの国なのだ。現にこの国では「アルプスの南側にある国」として、バルカンのセルビアその他と違って、中欧に属することを売り込んでいるのだ。

スロヴェニアは1991年6月末から7月初めにかけて、セルビア軍と戦ったが、この戦争は幸い短期間で終わり、戦火は隣のクロアチアに移ったわけである。リュブリアーナの町を散歩中、本屋のショーウインドーで、『スロヴェニアを巡る戦争、1991年6月26日~7月8日』という写真入りのドキュメントを見かけた。本屋に入り、この本をぱらぱらめくってみたが、分厚い立派な体裁の書物で、戦況その他が詳しく叙述されていた。スロヴェニア語、独語、英語の3種類が出ていたが、独立を宣言したスロヴェニアがそのことを、ヨーロッパや世界に向けてアピールした本なのである。

さて時間は前後するが、中央駅で降りてから案内書に書いてあった代表的なホテルの中で一番駅に近いコンパス・ホテルに入り、空き室を訪ねたところ、一人部屋が簡単に取れた。普段ならドイツ,オーストリアをはじめ、西ヨーロッパ諸国から大量に観光客が押し寄せる時期なのだが、戦争の終了を知らないために、ぐっと減っているのだ。

ホテルで一休みしてから、夕暮れのリュブリアーナの町へ散歩に出る。街並みは一見してオーストリアの町とそっくりであることに気づく。市域は狭いので、見てまわるのに時間がかからない。オペラハウス、博物館、美術館が集まっている地区を歩いてから、旧市街との境をなす川のほとりに着く。すでに日はとっぷりと暮れて、旧市街の中心を占める丘の上にある城の時計台が照明されて、美しく浮かび上がって見える。そして川辺のレストランは、夏の宵を楽しむ人々で賑わっている。私もそうしたレストランの野外テラスで食事をとる。

たっぷり飲み食いし酔い心地の中で、請求書を見てその安さにびっくりする。イタリアの物価高に逃げ出してきたばかりのことでもあり、なおさらのことであったのだ。ちなみにユーゴでは近年ものすごいインフレで、桁数のやたらと多い紙幣を発行してきたが、少し前にデノミを実施して、桁数の少ない新紙幣に切り替えた。しかし古い紙幣もまだ出回っている。

現に私もホテルでマルクをユーゴ通貨のディナールに交換したが、新旧の紙幣を混ぜて渡されたので、一瞬頭が混乱した。その時の説明では、桁数の多い紙幣例えば
100,000ディナールは、0を4つ取って10ディナールに読み替えよ、というのであった。その後スロヴェニアでは独自の通貨を発行したと伝えられているが、新旧のディナール札はどうなったのであろうか。

スロヴェニア、オーストリア、チェコ・スロヴァキアあたりの地図

チェコスロヴァキアのブラティスラヴァ

僅か一泊とはいえ大変印象深かったリュブリアーナ滞在を終え、昼過ぎに出発して、こんどは南から北へとオーストリアのウィーンに向かう。途中、マリボルやグラーツを経由しての路線だが、クラーゲンフルト~フィラハ~ウディーネの路線ほど険しい山中を走るというものではなかった。地図を見ると、マリボル辺りでアルプスの東端が終わって、ハンガリーに続く平原が始まろうとしている。列車はオーストリア東部を北上して、6時間半かかってウィーンに到着した。この町には二泊したが、ここでの体験は省略して、チェコスロヴァキアのブラティスラヴァへと進むことにする。

8月26日:このスロヴァキアの大都会はドナウ川に面した町なので、ウィーンからドナウ汽船を利用することにした。午前8時45分高速の遊覧船は大きな橋の傍らの発着所を出発し、ドナウ川を東へと向かう。もうこの辺りは平地で、両岸は緑の生い茂る所ばかりで少々退屈したが、わずか1時間でブラスティラヴァに到着した。船着き場の建物の中で旅券の検査。ビザは必要だったが、通貨の強制交換制度はなくなったと見えて、何の指示もなかった。しかしチェコの通貨コルナは必要なので、5日分としてとりあえず200マルクを交換する。

1981年にプラハを訪れた時に比べて係の人の態度が柔らかく、愛想がよくなっている。直ちにタクシーをつかまえて、予約しておいたホテル・フォーラムへ向かった。そこは旧市街の北の端に位置し、ブラスティラヴァで最高級のホテル。ひときわ目立つ所に建っている。一泊87ドル=148マルクとさすがに高いが、設備はよい。

一休みしてから旧市街見物に出かける。今まで幾つとなく見てきた旧市街と比べると、格段に見劣りする。泊まったホテルの豪華さと釣り合いが、取れていない。かつては素晴らしかったと思われる古い建物が老朽化して薄汚れ、観光用に目玉となるいくつかの記念建造物を除いては、ひどい状態にある。各所で工事中の足場が組まれ、空き家や崩れかかった家もある。案内書に書かれているような「落ち着いた雰囲気」どころではなく、はなはだすさんだ感じだ。

次いで旧市街の端にある丘の上の城へ登ってみる。この城も修築中で、中に入れない。長く放置されたままになってきた旧市街の由緒ある建物や城など、今ようやく改修工事に手が付けられたといったところだ。ただ丘の上からの眺望だけは文句なしに素晴らしい。ドナウ川の向こうには高層の住宅団地がたくさん立ち並び、市街地のかなたには工場の煙突群が林立しているのが見える。ハンガリーのエステルゴムの大聖堂横から対岸のスロヴァキアを眺めた時も、工場施設が目に付いた。しかも両者ともかなり旧式な重工業施設のようである。ここはチェコではなくて、スロヴァキアなのだ。最近になってチェコ(プラハ)の中央政府に対するスロヴァキア側の不平不満の声が時に報道されているが、この辺りの実情を見た者には、こうした不満の声(分離独立ないし大幅な自治の要求)もよく理解できる。

8月27日:翌日ホテルでの朝食時、日本人のビジネスマンと同席し、いろいろ話す。日本企業のドイツ支社に勤務していて、東欧諸国へは仕事で出張するとのこと。この日も朝9時からドナウ川の船上で、ビジネスの会合があるとのこと。チェコスロヴァキアへの日本企業の参入は、これからのようだ。

この人と別れて、朝食後大急ぎでタクシーに乗り、ブラスティラヴァの中央駅に駆けつける。ちょうど朝のラッシュ時に当たり、駅構内は大混乱。中央駅といっても、小さく粗末な建物で、しかも工事中のためここも荒れていて、終戦後の上野駅といった感じだ。

チェコのプラハ

午前9時過ぎ列車は西へ400キロ離れたプラハへ向け発車。この日は朝からどんより曇っていて、憂鬱な気分。車窓の景色もハンガリーに比べると、やや自然が荒れた感じだ。この区間は特に工業地帯はないらしいが、建物が老朽化した印象をあたえる。ようやくのことで3時過ぎに列車はプラハ本駅に到着した。

空腹を感じたので構内レストランへ入る。室内は堂々たるホールで、柱にはユーゲントシュティル風の女性像が描かれているが、テーブルや椅子などの調度品が粗末きわまわりなく、安食堂の感じだ。かつては豪華だったホールを、大衆用の食堂として長年使ってきたのであろう。もちろん党役員などはこんな所を利用しなかったであろう。後に述べるようにブルタバ(ドイツ語でモルダウ)河畔や旧市街の広場に立ち並ぶ優雅な建造物は、きちんとした改造が施され、以前にもまして光り輝いている。観光客が集まる所だから当然の措置であろうが、その他の建物は取り残されているのだ。さて駅の構内食堂では、粗末な身なりの人々が、ほとんどすべてビールの大ジョッキを傾けている。私もビールと簡単な肉料理を注文した。出てきたビールは、さすがピルゼンなど本場も近いだけあって、大変うまい。ただしナイフやフォークなどは、日本でも終戦直後には見られた安手のアルマイト製だった。

食後表に出てタクシーに乗り、予約したトランジット・ホテルへ行くように告げる。旅行社のリストには住所と1泊100マルク程度と書いてあるが、返事が届いていないので、とにかくホテルに行くよう指示されていたのだ。しかしホテルは本駅からかなり離れた郊外にあり、しかもホテルというよりは粗末きわまりない木賃宿といった所であった。だまされたように感じながらも、確かに予約だけは通じている。部屋には粗末なベッドと洗面台に壊れかかった衣装戸棚があるだけで、一泊の値段も朝食なしで1,700円とめちゃくちゃに安い。それだけに水回りの設備から、壁紙、ドアの取っ手に至るまで、粗末極まりない。ブラスティラヴァのホテルが最高級であっただけに、天国から地獄へ堕ちた思いがした。

プラハはもともとホテルが少ないところへ、改革以来トゥーリストが殺到して市内にホテルをとるのは難しいとは聞いていたが、その通りなのだ。つまりチェコの庶民が利用する宿屋を紹介されたというわけだ。しかし私にとっては、チェコスロヴァキアの庶民の生活水準の一端を知るうえで、大変貴重な経験ができた点、ありがたいと思っている。

さて宿にいても仕方がないので、教えてもらったバスと地下鉄を乗り継いで、30分ぐらいで都心部に出る。地下鉄の駅を上がると、ベルベット革命のときに大集会が開かれた目抜きのバーツラフ大通りへ出る。さすがにこの辺りは観光客でいっぱいだ。そこから古い石畳の道を幾つも通って、ブルタバ河畔に着く。そこには「5月1日橋」という名前の、川中島をはさんで架かった、とても趣のある優雅な橋があった。

斜め向かいの丘には王城が聳え、隣には有名なカレル橋が見える。橋を渡ってから、川に沿ってカレル橋まで歩いていく。あたりの川岸には、柳の木が並んでブルタバの川面にその姿を映していて、とてもロマンティックな景色だ。カレル橋に着くと、案内書の説明通りに、周囲の風景を描いた絵を自分で売っている人、土産物売り、あるいは橋の欄干に寝そべっている若者たちの姿が見え、その間を縫うようにして大勢の観光客が往来している。

橋の欄干には一定の間隔を置いて、それぞれ15の彫像が立っている。これは映画やテレビなどで幾度となく紹介されてきたプラハの代表的な風景なのだが、近づいてよく見ると、これらの彫像には鳩の糞やクモの巣が付いていて、かなりすすけた印象を与える。写真やフィルムに撮るときは、離れた所からシルエットにして浮かび上がらせれば、こうした汚れは隠されてしまうのだ。

ともかく夏も終わりの午後7時半、落日に映えるカレル橋とブルタバ川そしてその背後に控えた丘の上の城の眺めは、やはり一級品の名画だ。しかしブダペストのドナウ河畔の眺めが、スケールも大きく、あくまで華やかにきらきらと輝いているのに対して、ここプラハのブルタバ河畔は、もう少し抑制のきいた、渋くしっとりとした、いぶし銀の美しさといえよう。

8月28日:翌朝くだんの安宿の食堂に出向く。ここは朝食が別料金で、しかもバター、チーズ、ハム、ソーセージ、ジャム、卵、コーヒー、ジュースなどに、一つ一つ値段がついている。メニューに載ったこれらの品を全部注文しても、たいした値段にはならない。こうした節約した質素なやり方は、今回の旅行でももちろんこのプラハの安宿でしか経験していない。

二日目もバスと地下鉄を利用して旧市街に出て、昨日見なかった地域を中心に探索を続ける。そして夜になって旧市街の一角の大きなアーケードの中にあるLucerna
Bar を訪れる。Barといっても日本流の小さな店ではなくて、キャバレーかナイトクラブといった感じだ。ここで「ボヘミアン・ファンタジー」というディナーつきのショーを見る。もちろん外国人観光客用の催し物で、英・独・仏・伊・スペイン語を自由自在に操る男性が司会をして、ボヘミアの民族色を強く打ち出した歌や踊りを見せるものだ。ブダペストの初老のバスガイドの女性といい、ここプラハの男性司会者といい、小国には時として舌を巻くような語学の達人がいるものだ。

地下三階の大きなホールの平土間にテーブルが並び、食事をしながらショーを見る仕組みになっている。私が同席した相手はカナダ人の父子で、父親はカナダ西部のヴィクトリア近くに住む海洋学者で、北海道大学、東北大学、京都大学の同僚を訪ねるために、すでに何度も日本へ行ったことがあるという。偶然とはいえ、とても良い同席者を得たことと、チェコ産のシャンパンに快い酔いが回って、話に弾みがつく。

チェコ西部のカルロヴィ・ヴァリ

 

プラハ、カルロヴィヴァリ周辺

8月29日:翌日はチェコスロヴァキア最後の滞在地であるカルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語ではKarlsbad カールスバート)へ向かう。ここは言うまでもなく西ボヘミア(チェコ西部)にある世界的に名の通った温泉保養地で、ゲーテ、シラー、ベートーベン、ゴーゴリ、ショパンなどが訪れ、またメッテルニヒ主導の反動的なカールスバート決議がなされた場所としても知られている。18世紀以来ハプスブルク帝国支配下の高級温泉保養地として、ヨーロッパ中の王侯貴族や有名人を集めてきたこの場所が、現在どうなっているのか知りたくて、カルロヴィ・ヴァリへ向かったわけである。

朝9時半、プラハのターミナルから出発したバスは、全席指定で、満席だった。バスはボヘミアのゆるやかな丘陵地帯を快調に飛ばし、二時間ほどで目的地に到着した。バスターミナルで市内バスに乗り換え、美しい森の中を通って目指すグランドホテル・プップにたどり着く。このホテルは当温泉でも歴史が古く、最高級のレベル。昨日のプラハの安宿とは雲泥の差だ。地獄から再び天国に昇った感がある。

5階の部屋に入り、窓から外を眺めると、眼下には清流が流れ、この川に沿って両側に色とりどりのファサードを持った建物がずっと並んでいる。川のそばには湯が出る所もあり、見たところ日本の山間の温泉街に地形的には似た点もある。しかし両側に立ち並ぶ優雅で堂々とした建造物などのため、全く違った雰囲気を醸し出している。それはかつて王侯貴族が訪れた時代をしのばせるもので、ここばかりはほとんどの建物が修復を終えていて、鮮やかな色彩を見せている。

天気が悪くやや肌寒い感じもするが、ホテルにいてもつまらないので、川に沿って町の方角へ降りるようにして散歩する。やがて案内書にもある湯元の建物に着く。ヨーロッパには温泉の湯を飲む治療法があるが、そうした飲料用の温泉がそれぞれ温度を変えて、5本ほど湧き出ている。これらは建物の中のホールのような所にあり、温度は50度から70度のものまである。近くで飲むためのコップを数種類売っていたが、私はその中から陶器製の花模様の取っ手付きのコップを買って、みなと同じように飲んでみる。これは周辺のカルロヴィ・ヴァリ山塊に源を持つ鉱泉で、飲用のほかにももちろん浴用にも用いられ、そのための立派なKurhaus(クーアハウス)もある。

こうしたクーアハウスは、以前ドイツ西部のBaden Baden(バーデン・バーデン)で十分堪能したことがあるので、今回は入らず、代わりに温水の水泳プールに入る。プールは坂道を上がった高台の上にあり、そこからは対岸の家々や眼下の川の流れがよく見える。カルロヴィ・ヴァリの主なホテルや施設、公園、クーアハウス、土産物店などは、たいていこの川の両側にある。

日暮れが近づき、再び川に沿ってゆっくりホテルに戻る。そして今回の中欧の旅の最後を飾る夜の食事は、グランドホテル・プップの豪華なレストランでとることにする。食事といいピルゼンのビールといい、申し分のないものであった。

食後は部屋に戻り、テレビのスイッチをつけると、ドイツ語の放送が2~3局みられる。そこで久しぶりにZDF(ドイツ第二テレビ)のニュース番組”Heute”を見る。ここはもうドイツとの国境も近く、チェコの中でも最もドイツ的な所であることを、改めて確認する。やはりKarlsbad(カールスバート)なのだ。ホテルをはじめ土産物屋からさまざまな施設に至るまで、たいていの所でドイツ語が通用した。

8月30日:カルロヴィ・ヴァリの最高級ホテルで二度にわたり食事をし、ゆったりとした温泉気分を満喫して、翌朝はすっきりした気分で、この温泉保養地をあとにすることができた。バスは再び低い丘がうち続くボヘミアの緑野を疾走して、プラハのターミナルに到着した。そこから地下鉄に乗り換えて、鉄道の本駅へ向かう。こうして三週間にわたるわが中欧の旅に終わりをつげ、列車はいよいよ隣国ドイツのドレスデンへ向けて発車した。

最後にチェコスロヴァキアについて、感想を一言述べるとすると、チェコ地域とスロヴァキア地域の間の大きな格差、並びに観光への重点的な力の投入と庶民の生活水準の予想外の低さ、ということになろうか。(完)

中欧見聞録(前編)

はじめに

1991年8月から9月にかけて2か月間、中欧諸都市とドイツを旅行した。このうち中欧領域の旅は3週間であったが、この地域とドイツ・オーストリア地域との関係が現在どうなているのかこの目で確かめてみたい、というのが旅の目的であった。かつて広い意味でのドイツ(ハプスブルクのオーストリアを含めての)の影響圏にあったこの中欧に対しては、加藤雅彦氏の『中欧の復活』などによって私自身強く啓発され、深い関心を寄せるようになった。

この中欧という概念は1989年の「東欧」の大崩壊以降、日本でも一般に紹介されるようになったが、まだわが国では定着していない。また「中欧」自体が復活したばかりであり、今後徐々に定着していくことが期待されるが、はげしく揺れ動く現在のヨーロッパ情勢の中では、いまだはっきりとした実体として把握することは困難である。

しかし長い目で見れば今後少しづつ「中欧」は固まってくるように思われる。つまり従来東へ向かわされていた「中欧」地域の姿勢は、今やかなり明白にロシア離れをして、西へ向かっていることは間違いなく、その際もっとも近いドイツ・オーストリア地域との関係が少しづつ深まってきている点も疑いを入れない。しかしそれはなお政府レベルないし「上」のレベルの動きであって、日常のレベルや文化面でどんなつながりが生じているのかは明らかではない。

こうした点を少しでも自分の目で確認してみたいというのが、前述した通り、私の今回の旅の目的であった。ただし僅か3週間という短い旅ではあり、以下の印象記も時間的。空間的に極めて限られた個人的な体験記に過ぎないことを、あらかじめお断りしておく。そしてその目的がどれほど達成されたかもよくわからないが、何かの参考にはなるのではないかと思い、できるだけ具体的に多少の感想を交えてつづった次第である。

「中欧見聞録」を掲載した『ドイツ研究』(日本ドイツ学会機関誌)第13号
1992年1月10日発行

旅を始める前に

今回私は加藤氏の助言などを受けて、中欧諸都市を鉄道で旅行したが、その範囲は『中欧の復活』(NHKブックス594)で述べられている小中欧に相当する地域にほぼ見合っている。同書によれば小中欧とは、旧ハプスブルク帝国の領域つまりオーストリア、ポーランド南部、ソ連ウクライナの一部、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアの北西部、イタリアの東北部を指すものとされている。

当初の計画ではこれらの地域に含まれる中心的都市を鉄道でくまなく回るつもりであった。しかし現在の政治情勢や各国鉄道事情、ホテル事情などの制約を受けて、三週間ていどでこれら地域をすべて回ることは不可能であることが明らかとなった。そのため今回はソ連ウクライナの一部、ルーマニア北西部そしてユーゴ北部のザグレブは割愛せざるを得なかった。

この結果私が実際に旅した諸都市は次のような所である。まずベルリンを出発点としてポーランドの首都ワルシャワに向かい、そこから本来の小中欧に属する地域へと移った。以下訪れた都市名と国名を時間的推移に従って列挙しよう。クラクフ(ポーランド南部)、ザコパネ(ポーランド南部)、デブレツェン(ハンガリー東部)、ブダペスト(ハンガリー西部)、クラーゲンフルト(オーストリア南部)、トリエステ(イタリア東北部)、リュブリャーナ(ユーゴスラヴィア北部)、ウイーン(オーストリア東部)、ブラティスラヴァ(チェコスロヴァキア東部)、プラハ(チェコスロヴァキア西部)、カルロビヴァリ(チェコスロヴァキア西部)。

今回の中欧旅行に先立ち、各都市のホテル予約をベルリンのAlexsanderplatz(アレキサンダー広場)にあるEuropaische  Reiseburo Gmbh(ヨーロッパ旅行社)に手紙で依頼した。ここは旧東独時代の国営旅行社で、旧東欧地域への旅行には最適と聞いていたのであるが、いつまでたっても返事が来ず、ベルリン在住の東京新聞特派員辻通男氏(学会員)を通じて調べてもらったところ、同旅行社では現在東欧地域のホテル斡旋はしていないという。やむなく辻氏を通じて、やはりベルリンにある別の旅行社に依頼して、ようやく予定目的地の大部分の宿泊所を予約してもらった次第である。

また通貨もドイツ・マルクを携帯して、それぞれの国で必要に応じて交換していった。実際に泊まった所は各国の一流ホテルが多く、こうした所や買い物に当たっても大きな店では、クレジット・カードが通用した。、また旧社会主義国に属するポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアではなおビザが必要であったが、各国通貨への一定額の強制交換制度は、すでに撤廃されていた。さらに従来西ヨーロッパ地域でのみ通用していた鉄道のユーレイルパスが、近年になってハンガリー、そして1991年1月から旧東独地域にも適用されるようになったので、今回の旅行に当たっても、ハンガリー、オーストリア、イタリア、旧東独地域などに対しては、このユーレイルパスを活用した。

中部ヨーロッパ地域の地図(昭文社の世界地図帳、2013年2版)

ポーランド(ワルシャワ、クラクフ、ザコパネ

8月8日:さて前置きが長くなったが、わが中欧の旅はベルリン中央駅を出発点とした。かつて東ベルリンの OSTBAHNHOF(東駅)と呼ばれていたこの駅は、今や大ベルリンの  HAUPTBAHNHOF(中央駅)に衣替えして、東西ヨーロッパを結ぶ要衝の駅へと脱皮しつつある。しかし現状においてはなお首都の表玄関というには、その実体は淋しすぎる。ともあれ列車は北ドイツからポーランドへかけての大平原を一路東へ向かって進行。どこまで行っても平らな土地で、森と林と畑が延々と続き、時折小さな町が現れては消えていく単調な景観。しかも手入れの良く行き届いた西ドイツの美しい風景とは比べようもない、どこかうら淋しい景色だ。国境での40分ほどの停車時間のほか、途中思わぬ場所での徐行、停車があり、結局ベルリンからワルシャワまで9時間かかって、ようやく到着。

ワルシャワ中央駅のホームは地下にあり、下車した途端に大変な混雑に巻き込まれ、盗難の心配などで思わず緊張。構内の両替所で100DM=620,000ズオティ(ZT) を交換。この数字を見てもお分かりの通り、ポーランドは大変なインフレなのだ。しかしマルクから交換すれば、大変使いでがある。すぐに駅前のタクシーに乗り込んで、予約したGRAND  HOTEL に入る。都心部にある四つ星のホテルで、人々の目に付くフロントや諸設備は立派だが、全体として古くなっており、風呂場の水回りも古くさく、貧弱。それでも長旅の疲れをいやすべく、まずは風呂につかって汗を流す。

さっぱりしたところで5時過ぎ、ホテルを出て町を散歩。中央駅前にそそり立つスターリンの遺産として評判の悪い豪華けんらんたる「文化科学宮殿」の中のレストランに入る。メニューはポーランド語とロシア語で書かれていて、ウェイトレスとは何とか英語で話が通じた。ドイツ語はワルシャワではまだ通用していないようだ。しかし料理の方はグラーシュスープ、シャシュリック料理、チェコ産ビール、コーヒーで 82,000ZT つまり1,000円ほどで、かなり安いといえる。

8月9日:ワルシャワは二泊なので翌日は朝早くから一日中、旧市街を中心に見て回る。まずホテルから地図を頼りに旧市街へと向かったが、途中コペルニクスとヴィシンスキー枢機卿の立像が目に入る。旧市街の入り口のザムコピイ広場には、首都をクラクフからワルシャワへと移したジギスムント三世王の、塔のように高い記念像が立っている。普通、観光客が見て回る所は、ワルシャワ市全体から見ればごく一部の旧市街の一角が中心になっている。広場から一歩入ると右手にワルシャワで最も古いといわれる聖ヨハネ教会があり、中に入ってみる。教会に入る時ポーランドの人は素早く十字を切り、また中に入ってから中央祭壇に向かって片膝を地面につけて礼をする人が多い。また子供の一群も入ってきたが、皆しつけが良く、小さな女の子が膝を軽く折って十字を切る様子はなんとも愛らしい。さらに祭壇に向かって熱心に祈りを捧げている人もいた。カトリック国といわれるポーランドだけあって、教会にくる人々の姿勢が真剣なのには、心打たれれる。最近のドイツではあまり見かけない風景ではなかろか?

教会からさらに進むと旧市街の中心地MARKTPLATZ(市場の立つ広場)がある。その広場の一角にある歴史博物館に入り、第二次大戦時における ワルシャワ市への爆撃と戦後の復興の様子を描いたドキュメンタリーフィルムを見る。ワルシャワはナチスドイツ軍によってほぼ完全に破壊し尽くされたが、中世の面影を残す美しい旧市街の街並みを、戦後、市民が一致協力して汗水たらして再建した様子が同フィルムに描かれていて、心打たれる。旧西ドイツにも戦災で破壊された街並みを昔通りに復興した町は数多くあるが、ヨーロッパに共通する市民精神なのであろうか? またこのフィルムは事実を淡々とした調子で伝えていて、ドイツを非難するような感じは、そこにはなかった。

ワルシャワの旧市街は小高い丘の上にあり、やや離れた所にビスワ川の光った川面が見える。中世さながらの童話の国のような旧市街から坂道を降りていくと、そこはもう大型トラックがブンブン走り過ぎていく現実の大都会だ。川は増水していて茶色に濁り、今にもあふれんばかり。

しかしワルシャワの市内も、他のヨーロッパの都会と同様に緑は多く、公園もかなり数多くある。なかでも市の南方にあるワジェンキ公園は、18世紀後半にポーランド王によって作られたものと言われ、緑の小道が縦横に走り、横に細長い池ではボートでのんびり遊ぶ人の姿も見られる。かつての王侯貴族の離宮の庭が、今では市民の憩いの場になっているのだ。真夏のためか女性の着ているものが薄く、肉感的で着こなしも洒落ている。若い男女の生態は自由奔放の感がある。もちろん中央駅前広場の青空市では、独特の形をした開閉式の屋台が無数ともいえるほど立ち並び、むんむんとした生活の熱気にあふれる光景が展開されていたことも、付け加えておかねばなるまい。

8月10日:2日間のワルシャワ滞在が終わり、列車で南部の古都クラクフへ向かう。途中、平原から次第に低い丘陵地帯へと入り、周囲の景色が立体的に変化の富んだものへと変わっていく。この路線はポーランドでも幹線の一つで、座席の作り方はベルリン–ワルシャワ間より良いが、ドイツの二等車並み。3時間ほどで着いたクラクフの中央駅はワルシャワに比べればずっと小さく、駅前も雑然としていて、バスターミナルやタクシーの列、それに人々の雑踏などで、その周辺では、とても古都のたたずまいを感じることはできない。

ポーランド第三の都市だけあって、現在の市域はかなり広く、周囲には工業施設も見られる。ここでもやはり観光名所は全体のごく一部なのだ。そのため予約してもらったホテルは旧市街はおろか新市街からもかなり離れた郊外にあった。ホテル自体は最新式の設備で気持ち良いのだが、旧市街見物にはバスやタクシーを使わねばならない。

ホテルで一休みしてから、それでもバスに乗って旧市街へと向かう。やがてそこの中央にあるMARKTPLATZ(市場の立つ広場)にたどり着く。広場の真ん中に横に長い織物会館の建物があるが、広場自体は旧市街のものよりずっと広い。しかし周囲の建物はあまり装飾的なものはなく、全般に平凡といえる。また織物会館の一部に工事用の足場が付いていたり、反対側の角近くに木製の仮設舞台が組み立てられていたりして、案内書の記述とは違って、雑ぱくで、ほこりっぽいという第一印象を受けた。道路にも各所に水溜まりができたり、石畳が土に埋まっていたりで、ベルギーはブリュッセルのグランプラス(建物に囲まれた大きな広場)やブルージュの壮麗な広場に比べれば、ずっと見劣りする。

この町は戦災に会わなかったと聞くが、古い建物や施設の保守整備が立ち遅れているようだ。この点は首都ワルシャワの方がずっと進んでいる。さて織物会館の1階はアーケードになっていて、土産物屋が軒を連ねているが、並んでいる商品は全体として安っぽく、買う気になれない。広場の一角にあるマリア教会に入ると、折りしも結婚式の最中で、前方の席には司祭と新郎新婦のほかに関係者が陣取り、その後方には敬虔なカトリック信者らしい一般の人々や、筆者のような観光客が見物している。こうした風景はその後ハンガリーでも目撃したが、このような開かれた結婚式は格式張らないで、とても好ましく思えた。

8月11日:翌日はチェコ国境に近いポーランド人の休暇保養地ザコパネへの日帰り旅行をする。全般として広大な平原の国ポーランドにあって、ベスギデイサン山脈の麓一帯は夏なお涼しい避暑地なのだ。クラクフ駅前のバスタ-ミナルを出発し、周囲の工場地帯を抜けるとやがてあたりは田園地帯となり、ゆるやかな丘陵地帯を上がったり下がったり、景色はバイエルン南部やオーストリアに似てくる。ベルリンからワルシャワへ向かう時の平坦な土地柄とはずいぶん違う。ザコパネはポーランドで最も南に位置した高原の町で、背後には2000メートル級の山並みが見えている。

南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンあたりに雰囲気が似ている。途中、別荘風の家々が点々としている。鉄道の駅前にあるバスターミナルで下車。折りしも列車が到着して、駅の出口からは人々がどっと吐き出されてくる。駅前からは広々とした並木道が四方八方に通じていて、いかにも高原の保養地といった感じ。少し町を歩くと外に開かれた形の教会堂で日曜の昼のミサが行われており、中に入り切れない人々が外で立ったままミサに参列していた。

そのまま歩いて見て回ろうとしたが、思い直して駅前に戻ると観光用の馬車がいたので、話しかけると御者のじいさんがドイツ語で返事をしてきたので、たちまち話はまとまり1時間かけて町を一周回ってもらうことにする。ちょうど日曜日のせいか子供連れの家族や若者のグループ、中年夫婦に老人たちといったふうに、様々な年齢層の人々が歩いている。昨今の軽井沢や清里のように若者たちに占領されているといったことは決してない。ポーランドはなお生活水準が低く、経済は低迷していると言われているが、人々の暮らしはのんびりしていて、生活を楽しんでいる様子がうかがえる。

8月12日:クラクフ三日目は夜行列車でハンガリーのデブレツェンへ向かうので、ホテルをチェックアウトした後中央駅に荷物を預けて、もう一日旧市街を見物する。まず旧市街入り口の外側に立つ大きな彫像が目にとまったが、その台座にGrunwaldという文字が見えた。案内書によればこれはドイツ語のTannenbergのことで、1410年ポーランド軍がドイツ騎士団を破った所として史上名高い地名だ。つまりこの彫像はこの戦いで戦功をあげた祖国の英雄というわけだ。

ついで小雨の降る中を旧市街の端の丘の上に立つWawel 城へと向かう。下から見上げる城郭はなかなか立派なもの。坂を上って城の構内に入ると、眼下にビスワ川が蛇行している風景が目に入る。城の前庭や中庭は大勢の観光客でいっぱいだが、ポーランド王が1683年ウィーン郊外のトルコ軍陣営から奪ってきたという天幕や略奪品を飾った宝物館ともなっている城の内部への扉は堅く閉まっていて、あかない。ヨーロッパでは博物館や城の内部を見学しようという時、よくこういう目にあうものだ。

やむなく旧市街に戻ったが、そこの一軒の祭礼用具専門店で、清楚な顔立ちのマリアの石膏像をみやげに買う。その店でローマ法王の顔が入った小旗が飛ぶように売れているので、理由を英語で尋ねたところ、若い女性が、明日法王ヨハネ・パウロ二世がやってくるからだと答えてくれた。中央広場に建てられた仮設舞台や数多くの鉄柵は、法王歓迎用のものだったのだ。ちなみに法王はこの町の近くの出身だし、クラクフのヤギェウォ大学を出ている。法王にはまた数日後にハンガリーですれ違うことになる。

僅か5日という短いポーランド滞在であったが、初めての訪問という事もあって筆者にとっては、新鮮で強烈な印象が残った。小中欧も北の端に位置し、かつてハプスブルク王朝下にあったクラクフではあるが、今日その跡を具体的に見つけ出すことは難しい。14世紀から300年にわたってポーランド王国の首都であり、18世紀末からオーストリア支配下に入ったとはいえ、1866年の普墺戦争でオーストリアが敗れてからは、生活のあらゆる分野においてポーランド化が認められた所であるから、それは当然のことであろう。

それよりはむしろつい最近社会主義を脱却したばかりのこの国で見た、人々の宗教との結びつきの方に深い感銘を受けた。日常生活における強い消費生活への欲求と伝統回帰の姿こそ、ポーランドをはじめ、のちに訪れるハンガリー、チェコスロヴァキアでも感じた最も強い筆者の印象であった。

ハンガリー(デブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウクニー)

8月13日: さてクラクフを夜行列車で出発した筆者は、スロヴァキア東部を通って翌朝ハンガリー東部の町デブレツェンに到着した。直ちに案内書に載っている、この町第一のホテル Aranybika (黄金の牛)に赴き、空き室を尋ねたところ、幸いにも空いた部屋があり、セセッション様式の優雅なホテルで三泊することができることとなった。ホテルに荷物を預けて早速市内見物に出かける。

まずホテルのすぐ近くにあるカルヴィニスト大教会へ。ドイツ語の説明書によれば、St.Andreas Kirche(聖アンドレアス教会) とあり、新教の教会と書かれている。萌黄色の外壁に二本の塔が聳え、落ち着いた重厚な感じを与える建物だ。教会前の広場には反ハプスブルク闘争の指導者コシュート(Kossuth  Lajos) の立像が立っている。1849年5月、ハプスブルク支配からの解放闘争の最中に、この教会の中でハンガリー議会が開かれたという。そしてここで独立宣言のテキストが起草され、コシュートによって読み上げられたという。教会内部は座席がタテの方向だけでなく両翼にもついており、これなら議会場としても使えたことが、十分納得できる。ポーランドでカトリック教会の装飾過多ともいえる、きらびやかな内装をいやというほど見せつけられた後だけに、この新教教会の純白の内装は、誠に清楚な感じを人に与える。もう一度1944年のソ連軍による解放の時の計2回、ハンガリーの臨時政府が置かれたことが案内書に書かれている。

教会を離れ、市電の通る大通りをどこまでも真っすぐ進んでいくと、やがて広大な市民の森にたどり着いた。ウイークデーだというのに、池でボートを漕ぐ者、ベンチでお喋りしたり散歩したりする者、そして近くのプールにやってくる者などさまざま。森の中にはドイツの Kurhaus のような建物も見られた。ハンガリーは16世紀の前半から150年間、オスマン・トルコの支配を受けたため、国中の各所にトルコ風の温泉やプールがあるのだ。

夜はホテルの裏手のナイトクラブを訪れる。2時間ほどバンドの演奏とミラーボールのきらめく光の中で、アルコールを傾けた後、12時ごろからショーが始まった。期待にたがわず素晴らしく可愛らしく、同時になかなか妖艶な女の子たちが、きびきびとまた雰囲気たっぷりに踊ってみせる。かなり官能的で、しかもくどくはない。おまけに料金が、おそらく東京やパリでは考えられないくらいに安いのだ。

8月14日:翌日ハンガリーの大平原 Puszta  の中心地ホルトバジー へと汽車に乗って向かう。駅から7,8分すると賑やかな所に出て、ドイツ語の表示からそこが観光の基地であることを知る。観光客も大勢おり、みやげ物屋も立ち並ぶ中で、「Pusztaを2時間、馬車で見て回りませんか?」というドイツ語の宣伝文句が目に入る。英語やフランス語はなくて、ドイツ語だけなのだ。その理由は明らかで、ここを訪れる観光客の中心が、ドイツ人かオーストリア人だからだ。他の観光客にならってドイツ語でこの遊覧馬車を申し込む。ただ馬車の乗り場はそこから2キロ離れた所にあるという。一瞬ずいぶん遠い所だと思ったが、他の観光客のほとんどはマイカーでそこまで飛ばしている。こちらはタクシーに乗るにもタクシーの姿は見えず、仕方なく田舎道を歩いて乗り場まで行く。

そこには大きな駐車場があり、観光客でごった返している。近くにはホテルや民宿も点々としている。午後2時、二十台ぐらいの馬車に皆が乗り始め、次々と出発していく。一台の馬車には20人ぐらい乗っている。ハンガリーの大平原は地域的にかなりの広がりをを持っているが、そこには現在なお羊・馬の放牧にしか使えない荒地 Puszta が、あちこちに点在している。そうしたものの一つが現在筆者がいるホルトバジーにあるのだ。疾走する馬を追う牧童、水飲み場で馬に水をやっている風景、羊のいる大きな小屋そして水牛の大群などを見ながら、馬車は荒地のデコボコ道をガタガタ揺れながら、進んでいく。その揺れ方はものすごく、身体が跳び上がらんばかりになることもある。御者のほかにガイドも馬車に乗っているが、使う言葉はもちろんドイツ語である。筆者の馬車にはフランス人の家族もいたが、父親はドイツ語ができるので、奥さんや子供たちに通訳していた。

やがて Puszta 観光のハイライトがやってくる。カウボーイならぬ馬追いの牧童が正装して現れ、観光客にいろいろサービスするのだ。あるいはスナップ写真の対象としてポーズをとったり、あるいは馬車の回りを20頭ばかりの馬を追って疾走して見せたり、はたまた馬を地面の上に横たえさせて、そのうえでバーン、バーンとピストルのような音をたてながら、鞭を振り回したりする。

こうして2時間足らずの馬車観光は終わり、こちらは2キロの田舎道を元の方向へと戻る。そこには博物館があり、この大草原での人々の昔からの暮らしぶりが展示されていて、興味深かった。ハンガリー語とドイツ語の説明がついていた。その博物館の向かいに Tscharda (チャルダ)と呼ばれる茶屋があり、そこの屋外テラスで一休みする。こうしたチャルダでは、日暮れともなればジプシー音楽の哀愁に満ちたメロディーが聞かれる所なのだ。

建物の壁には、ハンガリーの国民的詩人で1848/49年の革命の際に活躍したSandor  Petoefi  (サンドル・ペテフィ)の肖像がはめ込まれている。博物館で買ったドイツ語の説明付きの Puszta 写真集には、その詩人の美しい詩がドイツ語訳で掲載されていた。デブレツェンへ戻る車中でこの写真集を読んで過ごしたが、そこには Puszta の四季折々の自然の豊かさが描写されていた。そして「Pusztaは文明化した社会の真っただなかに浮かぶ陸の大きな孤島だ」とも書かれていた。

8月16日:ハンガリー東部の町デブレツェンで三日間過ごした後、列車で首都のブダペストへと向かう。この時からユーレイルパスを使い始めたのだが、デブレツェンの駅の窓口の女性はこのパスのことを知らず、しかもハンガリー語しか話せないので、仕方なく身振りとドイツ語を交えて日付とスタンプのことを説明して、むりやりスタンプを押してもらう。3時間足らずでブダペスト西駅へ到着。首都だけあってさすがに賑やかだ。駅の構内は極めて広く、奥行きが深い。また鉄枠とガラスでできた正面ファサードはなかなか洒落ている。

ただ駅前大通りは車が多く、大変な渋滞ぶり。この大通りはブダペスト目抜き通りの一つで、以前はレーニン通りと呼ばれていたものが、改革以来Erzsebet(エルゼベート)通りと変わっている。古い赤枠の道路表示の上に、黒枠で新しい通りの名前が書いてある。町の第一印象は、混沌とした活気と華やかさという事だ。夏のこととて道行く女性が肌をあらわにしており、大変肉感的な感じ。ミニスカートも多く、色とりどりにユニークで、しかも魅力的。着こなしの大胆さには、ついこちらの目も平静さを失いかねない。

午後1時ころ、先の大通りに面した Grand Hotel Royalに入り、一休みしてから町の見物に出る。ブダペストへは1984年にドイツから車で入ったことがあるが、その時と比べても町は格段に賑やかになっている。まずホテルを起点にペスト側の繁華街を、Erzebet通りからAndrassy通りへと曲がる。このAndrassyは19世紀ハンガリーの著名な政治家の名前で、彼はハンガリーの繁栄はオーストリアとの結合が良いと主張した現実主義者だという。

周知のとおりハンガリーは1867年にオーストリアとの間に、オーストリア=ハンガリー二重帝国を作り、以来かなりの独立性を獲得したのと同時に、オーストリアとも強い友好関係に立った。Andrassyはこの時代に活躍したしたわけだが、現在のブダペストの美しい街並みや建造物は、19世紀後半から世紀転換期にかけて作られたものと言う。さてブダペスト随一の美しいAndrassy通りに面した国立オペラ劇場は、ウィーンのStaatsoper(国立オペラ)に比べても遜色のない堂々たる建物で、1884年の建造だ。

またそこからほど遠からぬ所に立つセント・イシュトバーン大聖堂は工事中であったが、中に入ってみる。これもウィーンのStephans Dom(シュテファン大聖堂)に負けない壮麗な建築物で、やはり19世紀後半に建てられたという。この大聖堂の鐘は昨年ドイツからの寄付で新しく設置されたことが、写真入りで説明してある。また1989年夏から秋にかけて国外移住を希望する東独市民に通行許可を与えたハンガリー政府の措置が、最終的にドイツ統一へと結びついたことに感謝する旧西ドイツのコール首相の言葉もそこには掲示されていた。

大聖堂を出てからしばらく歩くとやがてドナウ川の川岸に着く。対岸にはブダの丘が聳え、右手には名高い鎖橋が見える。このあたりに来るとさすがに観光客であふれかえっている。鎖橋の所まで来ると、警官が立ちはだかって、そこから先は通行禁止だという。言葉が通じなかったのでよくわからなかったが、どうも法王の来訪に備えてのものらしい。このことは後に別の筋から確認された。

ドナウの川岸から一歩裏通りに入ると、歩行者天国もあり、一帯に華やかな商店やレストランが立ち並んでいる。ここもトゥーリストでいっぱいだ。さらに歩いて、やがて筆者の泊まっているホテルのあるErzsebet大通りへと戻る。そこで偶然以前から一度入ってみたいと思っていた有名な”Cafe-Restaurant Hungaria”を見つける。

ちょうど外装工事中で足場が組まれ、外側は混乱した印象を与えているが、一歩内部に入ると別世界。思っていた通りの華麗で重厚な室内装飾に満足して、中央の階段を下りて昔から”Tiefwasser”(水底)と呼ばれていたレストランにたどり着く。1894年に建てられ、当時は New York と呼んでいて、当時の著名人が大勢集まったという因縁のある店なのだ。食前酒にトカイワイン、次いでスープ、サラダ、コイのフライ、食後にコーヒーというコースで、ざっと三千円程度なのだから、割安といえよう。もちろん味の方も大満足であった。

また数年前西ドイツに住んでいた時、西ドイツのテレビ番組でこの”Hungaria”からの中継を放送していたのを思い出す。詳しい内容は忘れたが、西ドイツとハンガリーとの関係について、ドイツ側のインタビュアーがハンガリー市民にいろいろ尋ねていたことを覚えている。

8月17日:翌日はドナウベント一日トゥアーに参加する。ドナウベントとは日本の案内書に書いてある表記で、ハンガリー語では Dunaukanyar,ドイツ語ではDonauknieという。ベントは英語のBend(湾曲)のことなのだ。つまりブダペストの北方でドナウ川が東西から南北の方向へと大きく湾曲している一帯のことを指すわけだ。石灰岩の低い山々がドナウ川に迫る景勝の地でもあり、9~10世紀にハンガリー建国の舞台となった所だという。

ドナウ川が東西から南北方向へ曲がっているドナウベント周辺

さて朝の9時から夕方6時までの日帰り トゥアーのバスは、市内の有名ホテルから集まった外国人を乗せて、ブダペストの都心部から出発。ガイドは感じの良い初老のハンガリー女性だが、独語、英語、イタリア語が堪能で、同じことをこの三か国語でいちいち繰り返し説明してくれる。その手際の良さと内容の濃い話ぶりには、全く舌を巻くばかりだ。現在のハンガリーの社会情勢や政治情勢まで説明してくれたのだから。

バスはまずブダペストから20キロ離れたセンテンドレ(Szentendre)に到着。この町はドナウ川の岸辺から丘の中腹にかけて発達しており、坂道を上るとたちまち中世風の美しい街並みにぶつかる。ここは17世紀後半にオスマントルコによってバルカン半島から追われてきたセルビア人によって築かれた町で、小さな地域にセルビア正教の教会4,カトリック教会2,新教会1が立っている。風光明媚な土地柄に魅かれて集まってきたのか、この町は今では若き芸術家が大勢住む所となっている。

コヴァーチ・マルギット(Kovacs  Margit) 陶芸美術館に入ってみたが、宗教的題材のものも含めて、ヒューマンな暖かい眼差しで作られた作品が多かった。またこの町には華やかで女性好みの人形や刺繡、民族衣装を売っている土産物店も多く、家々の壁も含めて、全体としてカラーフルで色彩豊かな町だ。

次いでバスは60キロ離れたエステルゴム(Esztergom) の町に着く。ここでの見ものは何といってもハンガリー最大といわれる大聖堂(Basilika)だ。丘の上に高く聳えたち、その堂々たる姿は周囲を圧倒している。この大聖堂は初代ハンガリー王イシュトヴァーン一世の創建になるものと言われ、以後ハンガリー・キリスト教の総本山となっている所だ。

聞けば昨日ローマ法王がこの大聖堂を訪れた後、ヘリコプターでヴィシェグラードまで飛び、そこから船でブダペストへ向かったという。昨日ドナウ岸辺で見た交通規制は、法王来訪に備えてのものであったのだ。クラクフに次いで二度目の法王とのすれ違いだ。現在の大聖堂は1825年に建設が始まり、ベートーベンがその落成を祝して鎮魂ミサ曲の指揮を申し出たが、工事が遅れ落成したのはその没後の1856年。このため落成祝いには際しては、ハンガリー人のリストのエステルゴム・ミサ曲が演奏されたという。聖堂内部の宝物館には、金細工や法衣、織物などのコレクションがあった。

大聖堂見物後、丘の下のレストランで昼食をとったが、その時そのトゥアーに参加した人々が、ドイツ人、オーストリア人、イタリア人、イギリス人、フランス人、それに日本人(筆者1人)と、国際色豊かな顔ぶれであることを、あらためて確認する。現在アメリカ人はヨーロッパにはあまり来ていないようだ。

エステルゴムのあたりでドナウ川はハンガリーとチェコスロヴァキアの国境となっているが、大聖堂横手から対岸のスロヴァキアが見える。工場の煙突が林立し、ごみごみした灰色の建造物が密集しているさまは、ゆるやかな丘の斜面に別荘風の家々が点々としているハンガリー側の牧歌的な風景と対照的だ。後に訪れたスロヴァキアの首都 ブラティスラヴァの郊外も工業地帯となっていたが、これらは遅れた重厚長大産業の典型のように思えた。

ドナウベント第三の訪問地はドナウ川を眼下に望む 丘の上の廃墟の古城だ。ここはヴィシェグラードといい、先のセンテンドレとエステルゴムの中間に位置している。この辺りでドナウ川は東西から南北へと大きく湾曲している。16,17世紀にトルコ軍がウィーンに迫ったとき、この城でも攻防戦が行われたという。しかし1683年トルコ軍の最終的なウィーン攻略が失敗して退却してからは、この城も役割を終え、以後廃墟になったという。現在この城は廃墟とはいえ、石壁や石の床などが残っている。そしてここからは大きく屈曲するドナウ川の雄大な眺めが、手に取るように見て取れる。

8月19日:次の日は雨が降ったので、ホテルにこもって原稿書きに専念する。そして翌々日は再び快晴となり、ブダペストの観光名所の一つである英雄広場を訪れる。中央に高さ36mの天使像が聳え、その足元にマジャール部族の首長だったアールバートと6人の部族長の騎馬像がある。そして周囲には、ハンガリーに貢献した歴代の王や英雄の像が半円形に並んでいる。建国一千年を記念して1896年に作り始め、1929年に完成したといわれるが、バチカンのサンピエトロ寺院前の広場と同じぐらい広々とした壮大な広場だ。

この広場に続いて市民公園があり、そこには温泉、動物園、植物園、遊園地があって、市民の憩いの場となっている。この日はハンガリーの祭日に当たっていたらしく、市民公園は大変な賑わいを見せていた。そして広場の一角にはまたもや仮設舞台が作られ、広場からその周辺一帯は鉄柵で仕切られていたが、法王歓迎用であることは言うまでもない。

公園の一角にあるトルコ風呂セーチェニ温泉に入ろうとしたが、その日は女性専用だというので、川向こうのルダシュ温泉へ向かう。オスマントルコ支配150年の影響でハンガリーにトルコ風呂が多いことは先にも書いた通り。ブダペストにも数多くあるが、ルダシュ温泉は400年の歴史を誇る由緒正しい所という。建物の中央が丸屋根になっていて、外観内装とも以前訪れたイスタンブールのトルコ風呂と同じ感じだ。

温度の異なるいくつかの蒸し風呂に入ってから、八角形の大きな湯舟を中心に周囲に小さな4つの湯舟がある。中央ドームの下の風呂場に入る。中央のは36度、周囲のは28度から42度まである。こうして蒸し風呂と湯風呂を何度か往復した後、屈強な男が石鹸で体をごしごしこすりつけるマッサージを受ける。

8月20日:ブダペスト最後の日、まず国立博物館を訪れる。ハンガリーの歴史にまつわる展示が実に多岐にわたっていて、興味深いものがあったが、中でも見ものは有名な聖イシュトヴァーン一世の王冠であった。改革後ハンガリーでは、それまでの赤い星、ハンマー、麦の穂をあしらった社会主義リアリズム風の紋章から、この王冠をあしらった国家紋章へと、国民投票によって変更した。社会主義離れと伝統回帰を示す象徴的出来事といえよう。

ついで川向こうのブダの丘の上にある歴史博物館へと向かう。ここは沢山ある博物館群の一つだが、天候にも恵まれた丘の上は、観光客で賑わっている。ここからは対岸のペストの街並みが一望のもとに見渡せる。博物館群から王宮、漁夫の砦、マーチャーシ教会にかけての一帯は、トゥーリストが最も多く集まるブダペスト観光のメッカだ。屋外の仮設舞台では弦楽四重奏団が、ハンガリーの歌も交えて、民族音楽をたっぷり聴かせてくれる。さらに別の場所では民族舞踊が披露され、人垣でいっぱい。その少し先の丘の端の門に差しかかった時、道路わきに人垣ができ、警官の姿が見えたが、しばらくして法王を乗せた黒い車が通り過ぎていった。

人垣が崩れてからタクシーに乗り、ドナウ川に浮かぶ川中島のマルガレータ島へ行く。この島は古代ローマ時代から人々の保養の地となってきたという。島全体が緑に覆われ、車もシャットアウトされているのだ。広々とした「リゾートセンター」になっているわけである。太陽がさんさんと降り注ぐ真夏の午後のこと、公園の一角にある広々としたプールに入り、暑さをしのぐ。ポーランドでもそうであったが、ここハンガリーではなお一層のんびりとした時を過ごす人の姿を多く見かける。西欧や日本に比べて、経済や生活水準は低いのかもしれないが、日本などよりはよほど生活を楽しんでいるように見受けられる。

夜になってドナウ河畔の最も華やかなプロムナードに面した劇場へ行き、オペレッタコンサートを聴く。対岸のブダの丘や鎖橋が夜空に赤々と浮かび上がり、やはり心を浮き立たせる美しさだ。開演は8時半。隣席には可愛らしい中国人の女性。向こうから英語で話しかけてきたので尋ねると、外国貿易の仕事をするために北京からブダペストにやってきたところだという。コンサートはレハール、カルマン、ヨハン・シュトラウスの曲がびっしり組まれ、楽団のほかに女性歌手3人、男性歌手2人。皆ハンガリー人。歌と踊りを交えてのウィーン風オペレッタの雰囲気がそのまま再現されていて、実に楽しい。オーストリア・ハンガリー帝国時代へのノスタルジーがひしひしと感じられ、聴衆の方も年輩のひとから中年にかけて、多くの人が陶然として聴きいっていた。

しかし途中で楽しいハプニングが起きた。対岸の丘から9時-9時半にかけて花火が打ち上げられるので、コンサートをその間中止して、劇場の廊下の窓から見物してくださいとの粋な計らいがあったのだ。一同大喜び。見れば劇場前の広場や川岸のプロムナードは見物客でぎっしり埋まっている。こちらはいわば特等席を与えらたわけだが、ブダの丘やゲレルトの丘が夜間照明の上にさらに花火の光で、煌々と夜空に浮かび上がり、華麗なる陶酔の30分間ではあった。筆者にとってはブダペスト最後の夜への楽しい贈り物であった。

かなり以前から始まっているハンガリーの市場経済化へのさまざまな試みが、最近では必ずしもうまくいってない事など、マスコミの報道で知ってはいたが、首都ブダペストをはじめとする各地での外国人観光客誘致の動きは、以前にもまして活発になっている。ご多分に漏れず日本人観光客の姿もブダペストではずいぶん大勢見かけたが、なおビザが必要とはいえ、ユーレイルパスが有効なことなど、西側体制への組み込みは、ますます拍車がかかっていくことであろう。オーストリアやドイツとの交流は、すでに日常茶飯事化している。こうした交流を通じて中欧の中でもハンガリーが一番早く、西側に組み込まれていくことと思われる。(前編の終わり)

後編では、イタリア東北部のトリエステ、ユーゴ北部のリュブリアーナ、スロヴァキアのブラティスラヴァ、チェコの首都パラハそしてチェコ西部のカルロヴィ・ヴァリを旅します。