その01 没後百年祭に参加して
カール・マイの肖像
2012年の3月下旬、ドイツ東部の文化芸術の都ドレスデン周辺で開催された、カール・マイ(Karl May)没後百周年の記念行事に参加した。この作家は日本の明治時代にあたる時期に活躍したドイツの大人気作家である。生年は1842年2月25日、没年は1912年3月30日である。全世界を舞台にしたその波乱万丈の物語は、生前はもちろん百年たった現在もなお、人々を遥かな夢の国へといざなってやまない。
その数多くの作品は、ドイツでは百年を超す歳月の間に、聖書に次ぐ発行部数に達している。そして今なお、ドイツ人でその名前を知らない人はいないぐらい有名で、マスコミの注目度も高い。まさに「国民作家」の名にふさわしい存在といえよう。
ホーエンシュタイン・エルンストタールの生家 (博物館)
カール・マイの生家(博物館)
記念行事は命日の3月30日を中心に、その前年からドイツ語圏の各地で、愛好者や研究者によって行われていたが、2012年の2月末から3月末にかけてが、そのクライマックスであった。私は、この冒険作家の生家で今は博物館になっている建物を、3月28日に訪れた。
マイが生まれた町は、現在はドイツ東部のザクセン州に属し、地理的にはチェコとの国境をなすエールツ山地の北側のゆるやかな丘陵地帯にある。
19世紀の前半、この地域には織物工業が盛んであったが、マイの父親は貧しい織物工であった。そのため生家もみすぼらしく、14人の子供のうち9人は、2歳までに死亡していたという。しかし5番目の息子カールは、乳児期を生き延び、幼年期から物語の語り部として特異な才能を示していた。そのため父親は自分が果たせなかった夢をこの息子に託して、英才教育を施した。
カールは、はじめは童話、薬草本、絵入り聖書、各種教科書など、さまざまな種類の書物を乱読させられたが、のちには完本の聖書をはじめから終わりまで、繰り返し読むよう強いられたという。
小学校の後、本人はギムナジウム(9年制の中・高等学校)から大学への進学を希望した。しかし一家にそれを許す経済的な余裕がなく、負担の少ない師範学校へ進み、学校の教師となった。その間、哀れな現実を逃れて、自由な想像の翼をいくらでも広げることができる文筆への道に進むことを、生涯の課題と定めていた。
とはいえ、目の前の現実は厳しかった。当時のドイツの学校や役所は規則ずくめで、自由を求めて羽を伸ばすことは許されなかった。そのためマイ青年は、しばしば軽犯罪を犯して、不当とも思われる重い禁固刑を受け、更生施設や刑務所での生活を余儀なくされた。
そうした長い不幸な青少年時代を経て、マイが職業人(雑誌編集者兼作家)として世に出たのは、ようやく32歳の時であった。しかし更生施設や刑務所内にあった図書館で、たくさんの本を読んだり、書き物をしたりと、作家への修行をすることができたこともあって、そのあとは順調な歩みを示した。そして次第に人気作家としての地位を固めていったのである。
以上、ごく簡単にこの作家の横顔をお伝えした。
カール・マイの特別展
さて博物館の2階には、特別展の一部として、この十数年間に外国で刊行されたマイに関する研究書や翻訳書が展示されていた。そしてその中に、2011年10月に朝文社から出された、私の著書『知られざるドイツの冒険作家 カール・マイ』(生涯と作品)もあったのだ。ちなみにマイの作品は、現在43の言語に翻訳されている。
実は私は、1970年代前半の西ドイツ滞在中にカール・マイの存在を知り、特別な関心を寄せるようになった。当時私は、西ドイツの外国向け放送の日本語番組を担当していた。それでその放送の中で、「ドイツの国民作家 カール・マイ」という特集番組を制作して、日本人の聴取者に提供した。この番組を聴いていただいた人のほとんどは、そのとき初めてカール・マイの存在を知ったものと思われる。
しかし私のカール・マイへの執着はなお強く、この放送だけでは物足りなかった。そのため、ほぼ百年前からマイの作品だけを刊行し続けて、その普及に大いに貢献している「カール・マイ出版社」に掛け合って、日本語版の版権を獲得した。
そして日本に帰国した後、さっそく私は、たくさんあるマイの作品の中でも最も優れていて、人気もあったオスマン帝国を舞台としたシリーズ六巻の翻訳に取り掛かった。そして東京のエンデルレ書店から刊行されることになったが、その際便宜上十二巻に分けて発行されることになり、その第一巻『砂漠への挑戦』が、1977年に世に出た。そして第四巻までは順調に発行されたのだが、諸般の都合で、その後の巻は刊行されなくなってしまった。
しかし私はその後も、いわば執念で、そのシリーズの続きの翻訳をこつこつと行っていった。そしてかなりの中断の期間の後、先にマイの研究書を出してくれた、先述の朝文社から、あらたに「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」というシリーズの統一名称を付けて、発行されることになった。
その第一巻『サハラ砂漠からメッカへ』が、2013年12月に刊行され、最終巻の第十二巻『アドリア海へ』が2017年4月に出て、全十二巻のシリーズが完結したのである。先のエンデルレ版の第一巻の刊行(1977年)から数えて、実に四十年の歳月が流れていた。
自分の話が長くなってしまったが、博物館内の特別展では、カール・マイの生涯と作品を紹介する展示や、作品の名場面をジオラマで立体的に表したものもあった。そして先に触れた「カール・マイ出版社」の活動を紹介したコーナーもあった。
カール・マイ出版社のコーナー
マイの霊廟での記念式典
その翌日の3月30日はマイの命日に当たり、ドレスデン近郊の高級住宅地ラーデボイルにある霊廟で、没後百周年の式典が執り行われた。小雨降るなか、関係者百人ほどが列席。吹奏楽の演奏のあと、マイゆかりの団体の代表者たちが次々と短い挨拶を行った。そしてギリシア神殿風の霊廟の中央祭壇に花束が捧げられていった。
マイの霊廟(ギリシア風の神殿)の前に集まった人々
カール・マイ博物館でのパーティ
その日の午後二時、霊廟からあまり遠くない所にあるカール・マイ博物館に関係者が集まって、パーティが開かれた。マイは成功して金持ちになった後の1896年から、亡くなった1912年まで、ドレスデン近郊のラーデボイルに住んでいたが、死後その豪邸(作品の主人公の名前にちなんで Villa Shatterhand と呼ばれている)は博物館になった。そのため現在、カール・マイ博物館は、先述したマイ生誕の家を改造した建物と、合わせて二つあるわけだ。
カール・マイ博物館の外観と私
中庭の一角にテントが立ち、飲み物や食べ物が提供されて、集まった人々が歓談していた。また本館の反対側には、「インディアン博物館」が建っている。なぜインディアンなのかというと、マイの作品の主な舞台が、オスマン帝国のほかにアメリカ西部であるためである。
また本館では、一階,二階、廊下、階段などに、所狭しとマイの生涯と業績に関する常設の展示があった。さらにマイが使用していた豪華な書斎や広々とした専用の図書室も、公開されていた。
確かにマイは傑出したストーリー・テラーで、その作品の大きな魅力は、血沸き肉躍る波乱万丈の冒険物語の展開にある。しかしその一方、物語の背景に、世界各地の地理や風土、人々の風俗習慣、宗教などを巧みに取り入れている点に、彼の作品の大きな特徴があるのだ。その際使用したのが、専用図書室に集めた膨大な資料であったのだ。
学会シンポジウムに参加
パーティのあと、私は博物館から市電に乗って、ドレスデンの中心地区へ移動した。そして20分で、エルベ河畔の新市街に到着した。川向うには、ドレスデン旧市街の格調ある建物が連なるパノラマが見えている。その地域が歴史と文化・芸術を凝縮して体現しているところで、たいていの観光客はそのあたりを見て回るわけである。
その反対側の新市街の川べりにある建物で、この日の午後6時から翌31日いっぱいをかけて、研究者が集まってシンポジウムが開かれ、私もそれに参加した。
マイは大衆的な人気作家であったのだが、その晩年には、文学的な香りが高く、神秘主義的ないし象徴主義的な傾向の作品を、いくつも書いている。それらの作品は難解だとして、一般の読者からは敬遠されてきたが、戦後の1969年になって設立された「カール・マイ学会」に参集した研究者からは、高く評価されるようになった。それ以後、マイは従来からの大衆的な人気と、文学作品としての研究対象という二つの側面を持つようになったのである。
今回開かれたシンポジウムも後者の活動の一つである。そのテーマは、「諸民族に関するステレオタイプから平和主義へ~カール・マイを多文化交流の面から読む」というものであった。一人30分で12人が次々に、入れ代わり立ち代わり、さまざまな観点から発表していった。そして熱心な質疑応答もあり、ともかくも一部の人とはいえ、カール・マイを研究の対象として取り組んでいる真面目な人々の集まりではあった。
シンポジウ発表者の女性