ヴィリニュス、クライペダ、
カリーニングラード見聞記
この地域の地図(ロシア、ベラルーシ、バルト三国)
9月15日(水)曇り後晴れ
リーガからヴィリニュスへ
ラトヴィアの首都リーガのホテルで6時起床。朝食をとり、チェックアウト。そしてバス・ターミナルへ。8時10分、ベラルーシのミンスク行きのバスに乗る。私の目的地はリトアニアの首都ヴィリニュスなのだが、そのバスはそこを通って東隣の国ベラルーシの首都ミンスクまで行くのだ。上の地図を見ていただければ明らかなのだが、現在ロシア連邦の友好国のベラルーシは、ラトヴィアとリトアニアの隣国で意外と近いのだ。この地図を見れば、リーガ発の長距離バスが二つの国境を越えて、ミンスクまで行くのが、それほどのことでもないことは納得いただけるであろう。
さて私の乗ったバスはロシア製で、古くて設備が悪いが、定刻に出発した。天気は一面の曇天で、うすら寒い。長距離バスだが、途中の乗り降りが結構多い。
リーガからヴィリニュスへ向かう途中のバス停留所
9時40分、国境の検問所に着く。旅券検査の間に私はその検問所で、40ドル分リトアニアの通貨リタLtに両替した。
ここでリトアニア共和国の概要について、ざっと紹介しておこう。総人口は約370万人。首都のヴィリニュスは人口57万8千人、第二の都市カウナスが人口42万人弱。そして第三は港町のクライペダで、人口は20万人強。宗教はキリスト教(カトリック)。在リトアニア日本大使館は首都のヴィリニュスにある。また言語的には、インドーヨーロッパ系の中のバルト語系。13世紀ドイツ騎士団の侵入に対抗して国家を統一した。14世紀にリトアニア大公国と称し、バルト海東岸一帯を領した。(『地球の歩き方 バルト三国 1998~99』)
ヴィリニュス(旧市街)の地図
さてバスは10時に検問所を出発した。すでにリトアニア領であるが、やがてバスは高速道に入った。この高速道がヴィリニュスまで続くのだ。道路標識の色は、一般道が青地、高速道が緑地で、よく整備されている。またリトアニアは日本との時差が―7時間だ。バスは正午過ぎ、ヴィリニュスのバス・ターミナルに到着した。バスの旅は決して快適ではないが、現地の人々の生活の一端を垣間見ることができて、貴重な体験だ。
ターミナルで下車し、すぐにタクシーを捕まえて、予約したホテルへ向かう。ホテルは新しく、設備が良い。チェックインして、部屋に入るとすぐにバスタブにつかって、長旅の疲れとほこりをとる。すると急に空腹を感じて、ホテル内のレストランで食事をとり、元気を回復する。
午後3時半ごろホテルを出て、ネリス川を渡って、賑やかな旧市街の一角に入る。そして郵便局を見つけて、日本あてに絵葉書を出す。旧市街北部にある大聖堂前は工事中だったので、近くの公園に入る。すると数人の女子生徒が近寄ってきて、どこから来たのかと、英語で聞いてきたので、日本からだと答えた。するとそんな遠いところからよく来たものだと言い、私のカメラで一緒に記念写真を撮ることになった。
公園で女子生徒たちと
その後大聖堂の内部を一通り見てから、裏手のゲディミナスの丘に登り、町を展望する。ヴィリニュスは周囲をゆるやかな丘と緑の樹木に足り囲まれた内陸の静かな町だ。
展望台からの緑多い街の眺め
また展望台のすぐ下には、先ほど入った大聖堂の真っ白な外壁が見えた。そして丘の上には城や塔が立っている。
丘の下の大聖堂
丘の上の平らなところを一通り見て歩いてから、再び丘を降りていく。それから近くの中華店で夕食をとって、8時半ごろホテルへ戻る。
9月16日(木)晴れのち曇り
ヴィリニュス二日目
ヴィリニュスのホテルで7時起床。そして朝食後8時過ぎホテルを出る。晴れやかな朝の空気の中をネリス川に沿って、散歩がてら聖ペトロ・パウロ教会へ向かう。外観は普通だが、内装の豪華絢爛さは息をのむほどだ。17世紀後半のバロック様式の彫刻が、壁面を埋め尽くしている。
聖ペテロ・パウロ教会(17世紀後半のバロック様式の建築)
壮麗極まりない内部装飾
次いで旧市街との間にある「三つの十字架の丘」に登る。そこからの町の眺望は、昨日見たゲディミナスの丘からの眺めに、勝るとも劣らない。また丘へ登る途中、野外ステージを見かけたが、そこでは合唱祭が時折開かれるという。リトアニアに限らずバルト三国では、合唱と花が愛されているのだ。このことは以前日本のテレビでも紹介されていたのを覚えている。
合唱祭に使われる野外ステージ
ついでながらカトリックの国リトアニアには教会も多く、十字架が目立っている。その十字架の形が独特なのに注目した。
独特な形の十字架
丘から降りる道で迷ったが、何とか旧市街にたどり着いた。そしてマクドナルドで軽い昼食をとる。その後「民族歴史博物館」に入る。民族衣装や生活風俗に関するものは見て分かるが、政治や軍事にかかわるものは、英語や独語の説明書きがないので、理解できない。次いで近くの「ヴィリニュス大学」に入る。授業が行われていたが、構内への立ち入りは自由だ。女子学生の姿が多い感じだ。
ヴィリニュス大学
次いで近くにある大統領官邸の前を通りかかったので、中には入らずに、正面から眺めた。それから近くの民芸品店で、民族衣装に巻きつける美しい模様の帯を、土産として買い求めた。その後旧市街を南へ進み、その南端に建つ「夜明けの門」にたどり着く。その門の上部に教会があったので、好奇心から中に入ってみる。
「夜明けの門」
その後は一転して旧市街を北に向かい、16世紀ゴシック様式の「聖アンナ教会」に入る。折からミサの最中。しばらく見学する。外観は北独風のレンガ造りだが、内部はカトリックの華麗な装飾に彩られていた。
聖アンナ教会(33種類のレンガが使用されているという)
夕暮れが迫ってきたので、ホテル方面へ急ぎ、途中「ゲディミナス大通り」のピッツェリアに入り、イタリア料理の夕食をとる。スープ、サラダ、スパゲッティに白ワインを飲んで、29リタ(800円)の安さだった。
9月17日(金)曇り後晴れ
ヴィリニュスからクライペダへ
ヴィリニュスのホテルで午前5時過ぎ起床。仕度をしてチェックアウト。朝食の代わりにサンドイッチをもらう。そして迎えの車でヴィリニュス駅へ。迎えの人が親切で、プラットフォームまで荷物を運んでくれる。そこに停車している列車は登り口の高い旧型の車両だ。一等車だと思われるが、設備が悪い。しかし定刻の6時45分に列車は出発した。車内はすいている。行き先はリトアニア西部の港町クライペダだ。車窓の景色は、自然が豊かで素晴らしい。しかし列車は激しく揺れる。それはともかく11時45分にクライペダに到着した。ヴィリニュスでは天気が曇っていたが、ここでは晴れていて、暑いぐらいだ。迎えの人が、珍しく英語で話しかけてくる。こちらも気持ちが楽になり、タクシーであっという間にホテルに着く。チェックインして、部屋に入ったが空腹で、疲れがどっと出る。そこですぐに風呂につかって、疲れをとる。
街へ出る前に、このクライペダについて案内書の説明を引用しておく。「ここはリトアニア第三の都市で、国の海運を一手に引き受ける港町。町の起源は13世紀にさかのぼる。1252年にここを占領した(ドイツ騎士団の中の)リヴォニア騎士団は城を築き、メーメルブルクとなずけた。その後騎士団は衰退したが、町はプロイセン領としてドイツ人の手に残った。今は歌われることのないドイツ国歌の第1節に「マース川からメーメル川まで・・・」とあるように、クライペダ(ドイツ時代はメーメル)はドイツ帝国の東端の町としての運命をたどることになった。」(『地球の歩き方 バルト三国 1998~99)
ここで補足説明をしておくと、この歌を作詞したのは、19世紀前半の愛国の詩人フォン・ファラースレーベンで、1871年のドイツ統一以前、統一運動が盛んな時代に作ったものだ。その後この町は第一次大戦のドイツ敗北に伴い、国際管理地になったが、1924年にロシア帝国から独立したリトアニアに編入された。しかしドイツにナチズムが起こるとドイツ系住民はこれに呼応し、クライペダはドイツのものとなった。そして第二次大戦中の1940年にバルト三国がソ連に併合され、やがてクライペダもソ連のものとなった。その後長い冷戦期間の後の1991年に、バルト三国がソ連から独立し、クライペダも再びリトアニア領となったのだ。
クライペダの地図
クライペダは以上説明してきたように、歴史に翻弄されてきたが、私が元気を回復して最初に訪れたのも、そうした歴史に関連したところだ。つまり空腹を満たすため、まず近くのピッツェリアで食事をした後、旧市街の一角にある劇場広場を訪れたわけだ。
劇場とその前の広場に設置された噴水及び記念像
この劇場のバルコニーで、第二次大戦中ヒトラーが演説したという。ヒトラーは占領した東欧地域、とりわけ中世にドイツ騎士団が活動していた場所を好んで訪れていたといわれる。
劇場前に立つ少女像及びその下に詩人のレリーフ
この少女はドイツ民謡「エーンヒェン・フォン・タラウ」に出てくる人物で、その下のレリーフの男はこの民謡の作詞者ジーモン・ダッハである。この歌は今でも、昔を懐かしがるドイツ人のために、テレビの歌謡番組で歌われているようである。いわば「ナツメロ(懐かしのメロディー)」なのだ。またこの劇場広場周辺には、見事なファサードを見せる、美しいドイツ風の建物をいくつか見かけた。
その後旧市街のはずれにある船着き場へ向かった。そこはクルシュ海と呼ばれる内海に面していて、対岸にある細長い砂州との間をフェリーが往復しているのだ。上に掲載したクライペダの地図を参照されたい。私は3時発のフェリーで対岸へ渡ったが、その間わずか5分だ。そして馬車に乗って、砂州のはずれにある海洋博物館を訪れた。
クルシュ海に浮かぶ、バルト海航路の船
博物館の建物は昔の要塞を改造したものだ。海洋に関連した展示物も、いろいろ豊富にあって、興味深いものがあった。
海洋博物館の外観
博物館の中を一通り見た後、5時15分発のフェリーで再び旧市街に戻った。そのあとまだ時間があったので、新市街を見て歩いたが、何の変哲もない町並みが広がっていた。明日はロシアの飛び地カリーニングラードへ移動するので、それに備えて街歩きは早めに切り上げて、ホテルへ戻った。
9月18日(土)晴れ
クライペダからカリーニングラードへ
クライペダのホテルで7時ごろ起床。ゆっくり朝食をとってから、チェックアウト。そして9時ホテルからタクシーに乗り、バスターミナルへ。昨日確認しておいたおかげで、バスの乗り場がすぐにわかる。カリーニングラード行きのバスに乗り、そのバスは9時40分に出発した。市街地を通って、昨日も利用した船着き場に到着。バスはフェリーに乗り込み、クルシュ海(内海)を渡って対岸のネリンガ(細長い砂州)に着いた。カリーニングラード行きのバスは1日2本あり、12時8分発のバスは内陸部を通っていくのだ。私はネリンガ(細長い砂州)を通ってゆくというルートに大きな魅力を感じて、砂州経由にしたのだ。
ネリンガ(細長い砂州)とその周辺
バスはその後、細長い砂州の上を、東北から西南へ向かって一目散に走っていく。時々海が見え隠れするが、道の両側にはおおむね並木が続いている。やがて海岸保養地ニダを通り過ぎてゆく。この保養地にドイツの作家ト-マス・マンが、1930年代初めに滞在してことがあるという。このニダの町を過ぎると、国境の検問所があらわれた。砂州の東半分がリトアニア領で、西の半分はロシアの飛び地であるカリーニングラード州になっているのだ。検問所では、荷物の検査と税関申告書を提出したが、検査は特に厳しいことはなく、ほぼ型どおりに終了した。
その後ネリンガ(砂州)の残り半分を走って砂州は終わり、バスは南下してカリーニングラードの町中に入っていった。車が多くゴミゴミとした感じで、おまけに道路が悪く、バスは揺れる。全体として雑然とした感じで、街並みの美しさなど全くない。
ソ連時代に建てられたアパート群
途中写真で知っていた大聖堂だけが見事だが、周囲の景色とは不調和だ。この大聖堂については後に詳しく紹介する。やがてバスはターミナルに到着した。そこからタクシーで、町の北部にあるホテル・コモドールに入る。日本との時差はラトヴィアと同じく、-6時間だ。ホテルは独人用に建てられた新しい建物だ。つまり冷戦後この町を訪れるドイツ人が増えたのだが、第二次大戦末期にソ連に占領支配されるまで、カリーニングラードはドイツ領で、ケーニヒスベルクと呼ばれていたのだ。遅い昼食をホテルでたっぷりとる
そもそも私がこの町に来ようとしたきっかけは、この年の夏前に東京の日独協会主催で、カリーニングラード在住のロシア人のカント研究者カリニコフ教授の講演があり、それを私が聴いたことであった。講演の後教授に向かって、9月にカリーニングラードへ行ってお会いしたいと申し出た。すると教授はこちらの図々しい要望に快く答えてくれたのだ。そんなわけでこの日は教授との対面への準備をすることになった。
9月19日(日)快晴
カリーニングラード滞在
ホテルで7時起床。朝食後、8時半と9時に2回、カリニコフ教授に電話したが不在で、夫人に伝言を頼んで、ネクタイを締めて外出しようとしたとき、教授から電話があり、自宅に招待された。早速タクシーを拾って、聞いていた住所の家を訪れた。その場所は思いもかけず、市の中心部の大聖堂の近くにあった。家は高層アパートの中にあり、建物の外観は薄汚れていたが、中に入ると学者の住まいらしく、きちんと整理されていて、立派な家具もある。
カリニコフ教授が住んでいるアパートの外観
カリニコフ教授の部屋の中
カリニコフ夫妻
日本でもお顔を拝見した夫人は、ロシア人の女性らしく、お茶やお菓子を出したりして接待してくださった。別居している息子さんはコンピューター関係に関心があり、将来日本へ留学したいそうだ。ただ教授はソ連時代、ドイツ人の哲学者カントを研究しているというので、冷遇されていたという。しかし冷戦が終わり、研究面でも自由になり、ようやく光がさしてきたという。長年ドイツ語の書物を読んで研究してきたが、ドイツ人との交流がなく、ドイツ語の会話は得意でないそうだ。
しばらく英語で話し合った後、教授の案内で外出することになった。そしてカントゆかりの場所を中心に見て回った。まず最初に訪れたのは、ドイツ側の資金援助で、昨年最終的に完成したばかりの大聖堂であった。
大聖堂の正面。堂々としており、形も色彩も落ち着いている
大聖堂の入り口に立つカリニコフ教授
大聖堂の裏手には、カントの墓碑銘が見える。
カントの墓碑銘と私
この建物は一階がロシア正教の寺院で、2階から上が「カント博物館」になっている。その館長さんがカリニコフ教授なのだ。
大聖堂内のロシア正教礼拝堂
カント博物館をひととおり見た後、カリニコフ教授が務めている大学へ行った。
その外側に置かれた大きな石には、ロシア語とドイツ語で、1544年にこの場所でケーニヒスベルク大学の建物が落成した、と書かれている。これが書かれたのは、1994年だ。ちなみにカントは、18世紀後半、このケーニヒスベルク大学に勤めていたのだ。
大きな石に書かれた銘文
大学の周辺から池に沿って二人で散歩したが、この辺りはカントも毎朝、時計のように決まった時刻に散歩していたところだという。この池の周辺一帯は、カリーニングラードの町中の喧騒が嘘のような静けさだ。
カントが毎日散歩した池
その後池の近くにある「琥珀博物館」に入る。琥珀(こはく)は地質時代の樹脂が石化したもので、黄褐色ないし黄色で樹脂光沢があり、透明ないし半透明。様々な装飾に用いられていて、私も琥珀のカフス・ボタンを買い求めた。バルト海沿岸が産地になっているそうだ。
その後街の西部を歩き、シラーやプーシキンの立像を見てから、再び教授の住まいに戻る。夕方、夫人の手作りの料理をご馳走になる。そして教授とチェスの対局をする。相手はチェス愛好者の多いロシア人なので、さすがに強く、2局とも負ける。こうして半日以上をカリニコフ教授と共に過ごした後、5時過ぎホテルに戻った。教授は明日から24日までカント会議に参加するという。全く運よく、付き合ってくれたわけだ。夏前に夫人とともに日本を訪れた時、世話をしてくれた板生さんという日本人女性へのお礼の意味もあったようだ。そのことに感謝し、併せて今日一日の行動の記録を伝える内容の手紙を、この夜ホテルで、板生さんあてに書いた。
9月20日(月)晴れ
カリーニングラードからグダンスクへ
今朝は7時ごろ起床。ゆっくり朝食をとり、9時にフロントでポーランドのグダンスク行きの列車の切符の件について尋ねる。するとしばらくしてカリーニングラードの旅行社の人が現れ、切符を持参してくれた。こうして10分後にチェックアウトして、旅行社の車で、動物園近くの事務所へ行き、そこに荷物を置いて、市内見物に出る。まず「歴史博物館」へ行ったが、あいにく閉館中。やむなく近くの池を再び散歩してから、大聖堂を訪ねる。そして近くのレストランで、たっぷり昼食をとる。次いで再び動物園前までタクシーで戻り、せっかくなので中に入って動物たちを見物する。その後歩いているとき、偶然、ドイツ時代の名残の門を見かけた。どっしりとしたレンガ造りで、優雅で美しい。
ドイツ時代の名残の門
その後、午後3時に旅行社の車で、カリーニングラード駅まで行く。がらんとしたプラットフォームに、すでにポーランドのグダンスク行きの列車が待機している。そこですぐに一等車のコンパートメントに入ったが、乗客は私一人だけ。しかし発車間際になって、ウオッカと外国製のたばこをたくさん持ったグループがどやどやと乗り込んできて、私の座っている座席の反対側の座席を持ち上げて、それらのものを隠し始めた。明らかに密輸関係の連中だと思われたが、こちらが外国人だという事で、安心しているらしい。ほかの車両からも大きな声が聞こえてきたが、連中はやがてどこかへ消えていった。
こうしてやがて列車は、何事もなかったかのように動き出し、グダンスクへ向かっていった。私の旅はこの後、ポーランドの港町グダンスクへ行って、昔のハンザ同盟都市ダンツィヒの痕跡が何か残っているのか探りたいと思ったのだ。そしてそのあと列車でドイツのベルリンへ移動した。
4回にわたる私の「1999年9月のロシア・バルト三国」の見聞記は、これをもって終了とする。