前回の「ヨーロッパ中世の書籍文化」に続いて、今回は「グーテンベルクと活字版印刷術」について、2004年10月に朗文堂から刊行された『ヨーロッパの出版文化史』に基づいて、本ブログに書いていくことにします。
その01 印刷術発明への歩み
<グーテンベルクについての常識>
活字版印刷術がグーテンベルクによって発明されたことは、わが国でもあまねく知れ渡っている。中学の社会科や高校の世界史の教科書にも、必ずといっていいぐらいその名前が記され、その業績も簡単ではあるが紹介されているからである。たとえば高校の世界史の教科書の一つには、次のように記されている。
「ルネサンス時代には、技術の開発や発明も盛んにおこなわれた。その中でも三大発明といわれる活字版印刷術・羅針盤・火薬の発明は、文化・社会全般の革新・発展に大きく貢献した。ドイツ人グーテンベルクの発明といわれる活字版印刷術がヨーロッパに広く普及したのは、良質の紙を比較的安く供給できる製紙法が知られていたからである。この結果書籍がそれまでの写本に比べると、速く正確にしかも安く作られた。人文主義・宗教改革の思想が各地にすみやかに伝播した理由もここにあった」
私自身もこうした内容のことを習ってきたが、多くの日本人にとっても受験などを通じて、このことはほぼ常識になっているのではなかろうか? しかしグーテンベルクの活字版印刷術というものが、具体的にはどのようなものであり、またこの人物がどのような生涯をたどったのかという点については、はたしてどれぐらいの人が知っているのであろうか? 現在わが国で発行されている百科事典を広げてみても、その記述はあまり詳しくはない。またグーテンベルクに関して日本語で書かれた文献や書籍も極めて少ない。
ヨーロッパの出版文化の歴史をたどるとき、やはり活字版印刷術の中身とそれを発明した人物について、ある程度詳しく語る必要がある、と私は考えている。そこで以下にグーテンベルクの生涯をたどり、あわせてその業績について紹介していくことにしよう。
<グーテンベルクの出生>
グーテンベルクの肖像画(1584年製作の銅版画。同時代の肖像画は存在しな いので、この姿が本物にどれだけ近いのかは不明)
ヨハネス・グーテンベルクは、南西ドイツのライン川のほとりの町マインツで、西暦1400年ごろに誕生した。その正確な生年について記した記録文書は残っていないので、もろもろの傍証から推測したものである。
父親のフリーレ・ゲンスフライシュは豪商で、その家系はマインツの名門の都市貴族であった。おそらく父親は織物取引に従事していたとみられるが、数代前から市内に広大な家屋敷を所有していた。
マインツ市の景観(15世紀の木版画)
マインツはライン川とその支流のマイン川が合流する地点にあり、古代ローマ軍の駐屯地であった。そして中世には「黄金の町」と呼ばれたほどの繁栄を見せていた。また8世紀にはカトリック大司教の所在地となり、それ以後も宗教的・政治的に大きな役割を果たしていた。やがてこの町はケルンとともに、ライン地方の商業の中心地としても重きをなした。それは主として大司教からの全国的規模の注文によって、織物や金細工製品などの取引が促進されたからだ。こうして大規模な遠隔地商業に従事する大商人の経済力が高まるとともに、大司教の支配から脱して、皇帝直属の帝国自由都市となった。そして「商人ギルド」に結集していた大商人階級は、マインツの都市行政を担う「市参事会」の中枢メンバーとして、特権的な都市貴族となっていったのである。
印刷術の発明者の父親はこうした都市貴族の一人だったが、その妻の父親は小売り商人で、都市貴族ではなかった。そのためにヨハネス・グーテンベルクには四分の一だけ違う社会階層の血が流れていた。そして当時はこうした社会階層の違いは、極めて大きな意味を持っていたのである。このころ小売商人や職人が作っていたギルドと都市貴族の間で、階級間の激しい闘争が繰り広げられていた。こうしたことが発明者の性格や行動に暗い影を投げかけていて、通常の都市貴族がたどる経歴とは違った、特異な人生を歩ませたものと思われる。
<その青少年時代>
ヨハネス・グーテンベルクが誕生したとき、父親はすでに50歳ぐらいだったが、母親のほうははるかに若く、発明者はこの母親の影響を強く受けて育ったとみられる。そしてマインツの修道院付属学校に通って、ラテン語も習得したものと思われる。
その後彼は創立間もない中部ドイツのエアフルト大学に通い、そこでラテン語に磨きをかけたものとみられる。後に彼は自分が発明した印刷術で聖書その他を印刷したのだが、これらの書物はラテン語で書かれていて、総監督であったグーテンベルクにとってラテン語の知識は必要不可欠だったからである。また当時のエアフルト大学にはカトリック教会の改革の精神が躍動し、イタリアからドイツへ流入していた新しい人文主義の理念についても語られ、さらに広く政治的・社会的な事柄にも目が向けられていた。
このころドイツに対して、ローマ教皇をはじめとするカトリック勢力の圧力が強まっていたが、エアフルト大学の周辺にはドイツ人の民族的権利を強調する動きがみられた。保守的なカトリックの聖職者は自分たちの権威を守るために、一般の民衆が聖書を読むのを禁じていたのだが、この大学に大きな影響を及ぼしていた進歩的な聖職者は、人々が聖書を直接読むことを奨励していたのだ。
このような進歩的な雰囲気に包まれていたエアフルト大学で、当然のことながら若きグーテンベルクは、各国からやってきた修士や学生たちと知り合ってその視野を広め、新しい思想や潮流の影響を強く受けたことと思われる。のちにグーテンベルクが印刷術を発明しようとした根本的な動機も、こうした思想的な背景と結びついていたのだろう。そのいっぽうこの大学生時代には、当時の学生がたいていアルバイトとしてやっていた筆写の仕事にも従事していたものと思われる。
1419年の秋、彼がまだ在学中に父親が死亡した。グーテンベルクは翌年学長から修了証書を授与され、故郷のマインツへ戻った。
<その後のグーテンベルクの歩み>
マインツに戻ったグーテンベルクは、その政治的な立場が異なるため緊張関係にあった実兄の家族とともに、広大な「グーテンベルク屋敷」に住んだ。そして活字の鋳造には決定的な意味を持つ金細工の技術を、二人の職人から習得したものとみられる。
いっぽう20代のころの生活を想像してみると、負けず嫌いで、鼻っ柱が強く、陽気な仲間とも付き合う青年貴族の面影が浮かび上がってくる。しかしそれ以上のことはわからない。そして1429年から5年間、マインツから姿を消している。その間どこにいたのか史料が残っていないので不明だが、ライン川上流のバーゼルの手工業職人組合の会員となって、金属加工の技術に磨きをかけていたともみられている。
シュトラースブルク市の景観(15世紀の木版画)
そして1434年から11年間にわたって、同じくライン川に沿ったシュトラースブルクの町に住んでいたことが、記録によって知られている。この町は現在はフランス領のストラスブールだが、当時はドイツ帝国の一部だった。地図を見れば明らかだが、マインツ、シュトラースブルク、バーゼルは、ライン川に沿って北から南へと真っすぐつながっていて、当時としても比較的容易に移動できたものと思われる。グーテンベルクが生きていた15世紀の中頃にはこの町の人口は2万5千人で、ドイツ帝国有数の都会であった。そしてマインツ同様に商工業の盛んな町で、ライン川の西の支流イル河畔の建物が、水陸両用の貨物の積み替え地となっていた。また中心部には当時からすでに壮麗な大聖堂がそそり立っていた。
このシュトラースブルクの町でグーテンベルクは1434年から1444年まで過ごしたわけであるが、それは彼にとって34歳から44歳までの壮年時代であったといえる。この間、彼とエネリンという女性との関係について記した文芸作品が昔から数多く存在する。しかしこの女性との結婚などについて書いた記録文書は一切存在しない。おそらくグーテンベルクは一時期彼女と関係を持ったがそれも切れて、それからは印刷術の発明へ向けて没頭していったようである。
その時代、1438年の初め、グーテンベルクは手鏡を作るための共同事業に関して、三人の仲間とある取り決めを結んだ。当時アーヘン大聖堂への巡礼行が行われていたが、そこでは救済用の手鏡が聖遺物の奇跡的な力を集めて蓄えると信じられていて、巡礼者に売られていたのだ。グーテンベルクが結んだ取り決めとは、独特な生産協同組合ともいうべきものであった。アイデアと製造技術を提供したグーテンベルクが利益の半分を、出費をした人物が四分の一を、そして労力の提供を申し出た二人がそれぞれ八分の一を受け取るというものだった。こうして手鏡はかなり短期間に完成したが、巡礼行が二年先に延ばされたために、作った手鏡は手元に保管され、利益のほうはお預けとなった。
この手鏡の材質には鉛と錫の合金が用いられたが、これこそグーテンベルクが後に印刷業務に取り組んだ際に鋳造した活字の材料と同じものだったのだ。活字版印刷術発明への技術的な前提の一つが、この手鏡製造という形をとって、ひそかに準備されていたのである。
手鏡製造が終わってから、あるいはそれと並行して、彼は新たな事業に取り組んでいた。それは当時人に知られてはまずい、ある新しい技術ないし発明を、協同組合方式で生み出そうというものであった。当時「印刷術」はドイツでは長いこと「黒い魔術」と呼ばれて疑惑の目で見られてきた。その事業をグーテンベルクは協同組合方式で、成功させようとしたわけである。この発明のアイデアと資本と労働能率の三つを結集した共同事業の形態こそ、のちに彼が活字版印刷術の発明と実践の際に用いたやり方そのものだったのである。
こうして手鏡製造の時に労力を提供した二人の人物は、秘密の術を教わる形で新たな事業の助手の役割を務めた。さらに別の人物が圧搾機を組み立て、一人の金細工師が活字父型を彫る仕事を委託され、材料の金属も購入された。これらのためには資金が必要であったが、延期になっていた先のアーヘンの巡礼行がその後実施されて、予定されていた売り上げがグーテンベルクの懐に入ってきた。
このようにして新しい事業は順調に進んでいった。しかし協力者の一人の兄弟から、ある時秘密の事業に関連して訴えられたが、一定の金を支払うことによって決着を見た。これは秘密裏に進めていた印刷事業を世間に公表できないという弱みを突かれたものであった。
<シュトラースブルクでの印刷事業>
こうしたつまずきはあったが、その事業はさらに進展して、市内の各所に拠点が作られて、必要な人材が配置されるようになった。グーテンベルクが住んでいた家には活字鋳造所があり、先の金細工師が活字父型を彫る作業を手伝っていた。しかし印刷工房と組版の作業所は、市内の別の家にあった。このように各作業所が離れ離れだったことは、確かに不便ではあったが、秘密の保持という点ではかえって勝っていたというべきであろう。
1439年には新たに5年の有効期間を持つ契約が結ばれた。そして新しい場所にそれまでより大型で質の良い印刷機が設置された。また以前より大量に羊皮紙や紙が購入され、新しい活字の鋳造のために、大量の鉛、錫、アンチモンなどが運ばれてきた。これらのためには多額の資金が必要であったと思われる。とにかく当時としては巨大な一つの事業を立ち上げるためには、莫大な資本が前提となっていたわけである。
グーテンベルクは当時「黒い魔術」などと呼ばれて、胡散臭い目で見られていた印刷術の発明に向けて、長期にわたる努力を傾けていた。そしてすでに印刷事業にも取り組んでいたのであった。その意味ではすでに「印刷術」は発明されていた、と言えそうである。
ところがいったい何をもって活字版印刷術の発明とするのかを決めることは、そう容易なことではないのだ。後世の人々は、ある偉大な発明が決まった時期に行われ、それが世の中にはっきり宣言されるものと、とかく考えがちである。しかし19世紀や20世紀のことはさておき、15世紀という昔には、そういうことはなかったのである。グーテンベルク自身は、自ら印刷したものに自分の名前を入れたり、発行年月日を入れたりはしていない。そのため彼が印刷したものの製作時期については、副次的な史料からさまざまに推測しているわけである。
こうした事情があるうえに、グーテンベルクは印刷技術のいろいろな工程に、どんどん改良を加えていっている。そのために最初の印刷物がいったいいつ製作されたのかという事も、簡単には言えないのだ。しかし複雑な過程は省略して結論だけを言えば、1439年の12月ないしその少し後に、最初の出版物を世に出した、と推測されている。
ちなみにグーテンベルクが亡くなって少し経った1505年に書かれた書物の中では、
「ヨハネス・グーテンベルクが1440年にシュトラースブルクで書籍印刷術を発明し、のちにマインツでこれを完成させた」
と記されている。我々は1440年にはグーテンベルクはまだシュトラースブルクに住んでいたことを知っているので、この記述は正しいものと言えよう。
グーテンベルクの立像(シュトラースブルク市に現在立っているもの、私が撮影)
<東洋における活字版印刷>
いっぽう活字を印刷用の刷り版に用いた印刷の方法自体は、グーテンベルクよりずっと早く、中国や朝鮮半島で行われていた。中国では古くから木版印刷が盛んであったが、北宋の時代(960-1127)に、泥土を膠(にかわ)で固めて、その上に文字を彫り、それを焼いて作った、いわゆる「膠泥(こうでい)活字」が発明された。
印刷にあたっては、鉄板に蝋を流して温めながら活字を並べ、並べ終えると鉄板を火からおろして冷却させる。そして蝋で活字が固定されるのを待って、そのあとは木版印刷と同じように活字の上に墨を塗り、上から紙をあてて文字を写し取るのである。
この方法だと、活字を用いるとはいっても、実際には木版印刷とあまり変わるところがない。片面印刷だという点と、文字が象形文字で膨大な数の活字を必要とした点、そして一枚一枚の組版を作るのがかなり面倒な作業であった点などの欠点があり、極めて能率の悪いものであった。その後の中国では、木や金属を材料とする活字が考案されたが、ほんの一部で使用されただけで、印刷の主流はやはり木版であった。
また朝鮮では、1230年に鋳造銅活字の印刷が行われた。しかし銅活字の鋳造が盛んになったのは李朝時代(1392年以降)に入ってからである。1403年に太宗は朝鮮に書物が少ないことを遺憾として、数か月の間に数万個の活字を鋳造させたという。そしてその2,30年後に儒教を広めるために、その関連の書物の印刷が奨励された。
しかしながら印刷物の内容は、国が指定したものだけで、民間で自由に印刷することは許されなかった。こうしたことから印刷の普及には限度があった。そして印刷機が用いられずに、上からこすりつける方式だったために、やはり能率の悪いものであったと思われる。これはグーテンベルクの発明に先立つことわずか半世紀のことであるが、彼が果たして朝鮮の活字印刷方式やその印刷物を、知っていたかどうかを立証する史料は存在しない。
<グーテンベルク方式の優れた点>
これらの東洋の印刷方式と比べて、これから詳しく述べるグーテンベルク方式は、大量生産方式に極めて適した効率の良いのもであった。その際多くの研究者が指摘しているように、活字に用いられた文字が表音文字のアルファベットだったという事こそ、グーテンベルク方式を可能にした大きな利点であったというべきであろう。この表音文字の持つ特徴によって、それほど数の多くないアルファベット活字を、随時組み合わせて植字をして組み版が作られた。そしてそれを刷り版として印刷し、印刷が終わるとその組版を解体して、再び新たな組版を作るという方法がとられたわけである。
後に明治時代の初めに、西洋からこの活字版印刷術が日本に入ってきたとき、本木
昌造などの努力によって象形文字である漢字の活字が作られ、それを組版にして活字版印刷をするようになったわけである。しかし15世紀半ばという時代に、膨大な数の象形文字の活字を作って、さらにその組版を作ることを考える人が果たして現れたであろうか?
次に活字版印刷術のどういう点が、グーテンベルクの独創であり、発明だったのか、考えてみたい。
まず第一に活字であるが、金属活字の製造方法そのものは、ヨーロッパでもグーテンベルク以前から知られていた。鋳造業者は13世紀ごろから金属や木に文字を彫って砂の鋳型を作り、そこに溶けた金属を流し込んで活字を作っていた。ただこれらの活字はばらばらのままで、製本業者が書物の丈夫な背表紙にそれらの活字を打ち込んで、書物のタイトルを作っていたわけである。
グーテンベルクは活字の鋳造そのものに改造を加えたうえで、さらに活字を自由に組み合わせて組版を作って刷り版とし、その刷り版を用いて印刷する方法を考え出したわけである。この点にこそ彼の発明の独創性があったというべきであろう。
第二に、有名なグーテンベルクの印刷機がどのようにして製造されたかということである。この点においては、彼は地の利を得ていたといえよう。彼が生まれ育ったライン川中流域は、名高いワインの産地で、マインツやシュトラースブルクには、ブドウの実を絞るのに用いられた、らせん状の圧搾機があった。こうした圧搾機を、彼は子供のころからマインツやエルトヴィル近くのエバーバッハ修道院で見ていたはずである。また布の上に模様を押圧する機械や、写本を製本する工程で圧搾を加える機械もあった。グーテンベルクはこうしたものにヒントを得て、圧搾式(プレス式)の印刷機を発明することができたのである。ちなみにこの押し付ける圧搾機の意味から、のちにドイツ語のDruckや英語のpressという言葉が生まれたわけである。
第三に、彼が活字版印刷に適したインクを作り出したことも、やはり高く評価されよう。それ以前に筆写や木版印刷に用いられていたのは、油煙や煤煙を水と膠(にかわ)類で溶いた水性インクであった。これは金属活字にはのりが悪く、うまく印刷できなかった。ところが1401年に、フランドルの画家ヴァン・アイク兄弟によってワニスを用いた油絵具が作られた。そして煮沸アマニ油を用いた油性の印刷インクの製造も行なわれるようになっていた。グーテンベルクはこれらに改良を加えて、鉛合金活字にのりの良いインクを作ったのだ。
第四は、技術というよりは生産体制の問題であった。グーテンベルクは様々な職種の人々を一つの事業目的に結集して、効率よく生産していく共同事業体制を採用して、印刷の大量生産方式を確立したのである。こうした初期資本主義的な生産方式こそ、グーテンベルクが単なる技術者ないし職人ではなくて、優れた経営者でもあったことを証明するものだといえよう。
グーテンベルクの印刷機(マインツのグーテンベルク博物館内に展示されている復元された印刷機)
<グーテンベルク、マインツへ帰還>
その後、シュトラースブルクが外国勢力の略奪を受けるという出来事があったりしたが、グーテンベルクは1444年には11年間住んだこの町を離れている。そして空白の4年間の後、1448年に故郷のマインツに帰還した。故郷を離れた時は30歳前後の青年であった。それから20年近くたって、この時には既に48歳になっていた。活字版印刷術の原理をすでに発明し、その共同事業体において、ラテン語教科書「ドナトゥス」などの印刷・刊行は軌道に乗っていた。
マインツでは、昔住んでいた「グーテンベルク屋敷」に再び住むことになった。そこにはもともと仲の良かった義兄が住んでいて、この義兄がヨハネスに対して、屋敷への居住とその中に印刷工房を建てることを許可したのだ。そしてここでもシュトラースブルクでやっていたように、豊富な資金の融資を受け、印刷工房を建て、印刷機その他の設備を設置し、必要な備品を備える事ができた。
グーテンベルクはこの印刷工房で、ラテン語文法書「ドナトゥス」を、継続して印刷した。その後の10年間で「ドナトゥス」は実に24もの異なった版で発刊されている。しかしわずか28頁というこの小型の書物は、もともとが消耗図書であったためか、現存するものはすべて不完全なものばかりである。
とはいえこの小型の教科書は、マインツ最初の印刷工房の能力に見合ったものだったようだ。後の聖書やほかの作品が二段組みだったのに対して、この書物はまだ一段組であった。それは印刷機の加圧版の大きさや押し付ける力が限られていたことによるのだ。一枚の組版の中に、たくさんの文字を入れ込むのはまだ無理だったのだ。さらに高価な羊皮紙の在庫数や、活字が摩耗するまでの耐久度などから、一度の組版でたくさんの印刷部数を見込むことはできなかったのだ。
そのために「ドナトゥス」のそれぞれの版の印刷部数は、200部から400部だと推測されている。こうしてこの教科書は数年かけて、4800冊から9600冊が、「グーテンベルク屋敷印刷工房」で印刷されたものとみられている。
ラテン語文法書「ドナトゥス」の一断片(パリ国立図書館所蔵)