ドイツ近代出版史(2)18世紀半ばから1825年まで

第四章 <読書革命>と文学市場の成立

新しい読者層の誕生

ドイツの出版界が古い交換取引から近代的な取引方法へと転換する過程で、忘れてならないのが、読者層の拡大と文学市場の成立という問題である。ここには「読書革命」という文化的要因と「文学市場」の成立という経済的要因が、密接にからみあっている。つまり文学を中心とする読書や書物の世界に、需要と供給という経済原則が登場してきたという事である。

ドイツにおける啓蒙主義の普及は、18世紀の後半に入るとその第二段階に至った。世紀の前半には、いわば啓蒙主義の第一世代と名付けることができる人々が、従来とは違った新しい読書階層を形成したのであった。その人たちは、世俗的な書物に永続的な関心を示していた商人階級をはじめとして、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主、そして商人の妻や娘などの一部からなっていた。

ところが世紀の後半になると、この人たちの息子たちや娘たちから成る新しい読者層の第二世代が登場してきた。彼らは、職業から見れば、学生、行政機関の若い事務員、商業従事者そしてその友人の女性たちであったが、これら第二世代の周囲には、すでにやや開放的な文学的雰囲気が漂っていた。当時、啓蒙思想は定期的に刊行されていた雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて伝達されていたからである。またこの人たちはある程度、娯楽的読み物にも興味を示していた。かくしてこれら第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀の後半を通じて、世俗的書物や娯楽的読み物を受け入れる主要グループを形成していたわけである。

とはいえ、こうした新しい読者層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって、なされたわけではない。その担い手となったメディアである出版業界における生産、販売の変化もまた、それに貢献したのであった。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版および販売の側面に影響を及ぼした、といったほうが良い。つまりこれら二つの側面の相互影響の中に、新しい文学的発展への基盤が生まれることになったのである。

ここで18世紀における読書傾向の世俗化を示す手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数の比較をしてみよう。その際R・ヴィットマンが行った見本市カタログに基づいた計算を手掛かりにすることにする。ただし18世紀後半になっても隆盛を見せていた翻刻版は、書籍見本市のカタログに掲載されていないので、ここでは除外する。

これによると西暦1700年の見本市カタログに掲載された書籍の総点数は、年間950点であったが、1800年になると年間4000点に増大しており、この100年間の合計は17万点と推定されている。
次にこの中でラテン語の書物が占める割合の時代的変化を調べてみると、

1650年・・・・・・71%
1740年・・・・・・27%
1770年・・・・・・14%
1800年・・・・・・ 4%

となっている。

つまりこの数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段にかわったことを、如実に示しているわけである。その際発行された書物のジャンルにも大きな変化が生じたことも注目される。1740年にはまだ発行された書物のほぼ半分が神学的・宗教的内容であったのに、1800年にはわずか10%強に減少しているのだ。(1740年の時点で、ラテン語の割合が27%となっているが、このころにはドイツ語で書かれた宗教書が多かったのだ)。法学および医学関係の書籍は、この間コンスタントに5~8%を占めていたが、宗教関係の書籍の減少に反比例するように、文学の割合が伸びている。文学作品は1740年には5%だったが、1800年には20%を超えている。とりわけ小説の伸びが著しかった。

いっぽう18世紀の末ごろになると、ドイツ語圏の書籍(新刊書)の発行地域の分布は、圧倒的に北ドイツが優位を占めるようになっていた。これを1780-1782年の時期に関してみると、

北ドイツ・・・・・・・70%
南ドイツ・・・・・・・19%
オーストリア・・・・・ 7%
スイス・・・・・・・・ 3%

となる。この数字からも北ドイツの優位は明らかであるが、新刊書の六分の一が出版のメッカ、ライプツィヒ市から発行されていたことを付け加えておきたい。ライプツィヒがドイツの著作家の世界の中心でもあったことを考えれば、この優位は何ら不思議なことではなかろう。<読書革命>と並行して、<たくさん書くこと>も進行していたのだ。1773~1787年の15年間だけでも、ドイツにおける著作者の数は、3000人から6000人に増大した。そして1790年には平均して4000人に一人の割合で著作者がいた勘定になる。もちろんこれには地域差がみられ、辺境のオストプロイセン地域では9400人に一人の割合であったが、ライプツィヒのあったザクセン王国では2700人に一人の割合であった。これがライプツィヒ市になるとその集中度は著しく、住民170人に一人が著作者であった。ちなみにプロイセン王国の王都ベルリンでは675人に一人、ウイーンでは8000人に一人の割合であった。

ところで1795年、ドイツ人の文学社会学者ともいうべきJ・G・ハインツマンなる人物は、当時のドイツにおける無名の読者大衆の成立に関して、注目すべき比較をもって、その社会的・文化的意義を明らかにしている。

「この世ができてから、ドイツにおける小説愛好の習慣とフランスの革命の二つほど、奇妙な現象は、いまだかつて存在したことはなかった。この二つの極端な現象は、ほぼ並行して成長してきたものである」

ここではフランス革命の担い手となる大衆の登場を、ドイツの読者大衆の登場と重ね合わせているわけであるが、その比較の是非はともかく、それほどこの<読書革命>は、当時のドイツの知識人から社会的事件として受け止められていたという事であろう。そこでは深く沈潜する「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行がみられた。                     ただこの<読書革命>の進行は、同じドイツ語圏の中でも地域によって、その度合いが異なっていたようである。北部、中部、南部、オーストリア、スイスなどと分けた場合にどうであったのか、ドイツ人の専門家の間でもまだ十分研究されていないようである。ただごくおおざっぱに言って、北ドイツでは18世紀の半ばにすでに新しい読者層が形成されていたのに対して、南ドイツではまだであったことが知られている。そしてその50年後にはこの北の優位に追いつき、かなり統一的な読書習慣(ないし嗜好)がドイツの書籍市場を支配するようになっていことも知られている。

しかしどのようにしてこの<読書革命>が南ドイツで遂行されたのかという点になると、専門的研究はまだあまり進んでいないようである。ただここで前述した翻刻本が、南ドイツの読者に対して、読むことへの渇望を充足させたことは間違いないようである。そこで次に翻刻本の普及と読者層の拡大の関係について少し考えてみよう。

翻刻本の普及と読者層の拡大

まず翻刻本の異常なまでの成功の決定的理由は、その価格の安さにあった。当時のドイツ人読者大衆の大部分にとって、この値段こそが書物を購入する際の決め手であった。読書と教養に飢えていた当時の中流階層の人々ですら、オリジナル作品8~10冊で我慢しようとしたか、それとも翻刻本を40~50冊購入しようとしたか、答えはおのずから明らかであろう。
オーストリアの有名な医者アントン・フォン・シュテルクは1790年に、廉価な翻刻本の医学書を通じて、同地域の医者や医者の卵が医学の知識を習得したことを証言している。そしてそれによって辺境地域の住民の健康改善に著しく貢献したことを強調している。また学校の教員、金持ちの家の家庭教師、村の司祭、学生などあまり収入の良くないインテリ予備軍にとっても、翻刻本を購入するか、それとも全く書物を手にしないか、どちらか一つの選択しか残されていなかったのである。安い書物を所有し、それを読むことこそが、人々の読書能力の涵養を可能にしたわけである。読書文化の初歩段階にあって、翻刻本の利用が果たした役割を低く見ることは、決してできない。

ただ一口に翻刻本の普及といっても、その黄金時代である1765~85年のころと、それ以降とでは、出版された書物の傾向にかなりの相違がみられたことに、注意する必要がある。この時期に活躍した翻刻版業者の第一世代と呼ばれるトラットナー、シュミーダーなどが、啓蒙期の純文学作家の全集の発行など、外観・内容ともに質の高い出版活動をしていたことは、前回のブログの第三章「翻刻出版の花盛り」のところで述べたとおりである。

ところが1785~90年ころになると、翻刻本業者は純文学に目を向けなくなっていった。その頃現れてきたゲーテ、シラーの古典主義文学は一種の「高空飛行」を行っており、それについて行けたのは、ごく少数の読者だけであった。この古典主義とそれに続くロマン主義の詩文学に翻刻本業者はもはや関心を示さなくなった。先には啓蒙主義の純文学作品をシリーズの形で出版したシュミーダーは、1790年以降にはもはや古典主義文学やジャン・パウル、ティークなどのロマン主義文学は翻刻出版しなかった。

その代わりに後期啓蒙主義のポピュラーな哲学者や歴史家に目を向けるようになった。純文学はこのころになると、社会的、政治的な解放を目指していた一般市民層から離れて、人の内面へと向かっていたからである。啓蒙主義に強く傾いていたこれら翻刻本業者の第一世代にとって、純文学はもはや有益な活動分野ではなくなってきたわけである。

ちょうどこのころ第二世代の翻刻本業者が新しい計画を携えて登場してきた。この世代の業者は、偉大なる啓蒙主義から古典主義、ロマン主義へと続くドイツの純文学を敬遠した。そして営業上永続的な成功が見込まれる大衆的な作品に目を向けるようになった。名のある作家の野心的な全集の代わりに、ヴァリスハウザー社の「ウイーン叢書」のような大衆小説シリーズが登場してきた。そして翻刻出版は次第に投機的な傾向を強め、粗製乱造の気味を加えていった。かくして翻刻本業者の名前は質の低い出版業者の代名詞となっていったのである。また名前すら明らかにしない匿名の翻刻本出版社も出現するようになった。

高級な読書サロン

ここではオリジナル版であれ、翻刻版であれ、世俗化され量産されるようになった書物と、人々はどのように接触していたのか、見てみることにしたい。
新しい読書層の誕生といっても、18世紀も末ごろになると、社会階層的に見れば、上流階層から都市の小市民階層まで広範に広がっていた。地方都市の名士ともいうべきヒルデスハイムのギムナジウムの校長K・H・フレマーは、1780年に次のように書いている。「今から60年前には、本を買う人間といえば学者と相場が決まっていた。ところが今日では本を多少なりとも読むことができない婦人を見つけるのは容易ではなくなっているぐらいだ。読書する人は今ではあらゆる身分にわたり、都会であろうと地方であろうと見受けることができる」
ただこの言葉は地方の校長先生の個人的な印象を述べたもので、統計的にはあまり信頼できるものではないと、私には思われる。

とはいえこうした状況の中で、町や村の名士や有力者が利用していた読書のための施設として、レーゼカビネットとかレーゼゲゼルシャフトといわれるものが生まれてきた。これらは元来フランスから来たもので、「読書サロン」といった感じの施設であった。例えばフランスのアルザス地方の町コルマールは、ドイツ人もたくさん住んでいたところであったが、この町に1769年からこの読書サロンがあった。ここでは教養も財産もある人達が毎月のように集まっては、ドイツ語やフランス語の本を批評しあったという。

あるレーゼ・カビネット(18世紀後半)

こうしたサロンは18世紀の半ばから末ごろにかけて、ドイツ全域で花開いた。書店は人々のために読書室を設け、そこに新刊書や新聞・雑誌類を置いていた。そうした場所を人々は、好んでムゼウム(博物館)とも呼んだりしていた。人々はそこにやってきて、新しく出た本を読んだり、互いに意見を交換しあったりした。そしてこの場所は「遊んだり、踊ったり、食事をしたりするところ」としても利用されるようになった。つまりここは読書サロンとはいいながら、もっと幅の広い総合的な社交の場でもあったのだ。

現に西南ドイツのシュトゥットガルトにあった読書サロンの1795年の規約には、次のように書かれている。「何びとも読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心を満足させるため、あるいは多様な知識の普及のため、さらに趣味嗜好を洗練させるため、そして社交生活の喜びのために、もっとも目的に叶った手段が提供され、それらによって計り知れない利益が得られるのだ」。こうした高級なサロンであったために、その会費もきわめて高かった。そのため一般庶民にとっては高嶺の花の存在で、もっぱら特権身分の人のために作られていた。そして啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になっていた。

1791年、北ドイツの都会ブレーメンには36の読書サロンがあり、併せて2340人の会員がいたといわれる。これほど多くの会員がいなくても、同じようなサロンは、リューベック、ベルリン、フランクフルト(オーダー)、ヴィッテンベルク、ゲッティンゲン、マインツ、シュパイヤー、ヴュルツブルク、カールスルーエ、シュトゥットガルト、ウルム、レーゲンスブルク、ほかにもあった。そしてこの読書サロンは、もっと小さな田舎町にまで広がっていった。その会員には、それぞれの地域の名士であった、司教や牧師、学校の教師や地区参事会会員などがなっていた。農民や労働者は、こうした読書サロンに入ることはできなかったのである。

都市の貸出文庫

「読書サロン」が社会の上層を占める人々の社交と教養の場所であったのに対して、広く国民各層が実際に本を読むのに好んで利用したのが「貸出文庫」であった。これはは要するに本を一定期間、金をとって貸し出す貸本屋であった。18世紀の前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。啓蒙主義の思想家ルソーも子供のころ、ジュネーヴの悪名高い貸本屋から、良い本、悪い本取り交ぜて店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすべて読んでしまったことが、例の『懺悔録』に書いてある。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィヒでのことであった。その少し後の1772年ミュンヘンの宮廷顧問官付き書記官J・A・クレーツは、自分が経営していた書店を移転した際に、店にあった本を人々に貸し出すことを明らかにした。しかしこの新しい試みは、借りた人が本を汚したり、返さなかったりして、結局失敗に終わったという。

とはいえ18世紀の末ごろになると貸出文庫は、ドイツでも次第に盛んになってきた。そのころには、うまくいけば貸本業のほうが書店で本を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あった本が、1806年には4000冊に増えていた。また南ドイツの小さな大学都市ランツフート在住のザンデルスキーの貸出文庫の書物は、1814年の1200冊から1820年には2526冊になっていた。さらに北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫は以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その種類は都市の規模や性格により、またその所在した地区によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したため、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から立派な建物の貸し出し図書館まで、いろいろあったわけである。その意味で貸出文庫は、最も民主的な図書貸出し施設であったのだ。

ところでロマン主義の作家ハインリヒ・フォン・クライストは、1800年9月14日付けの婚約者宛の手紙の中で、南ドイツのヴュルツブルクの貸出文庫を訪れた時の模様を次のように書いている。

「ある町の文化の度合い、ないしそこに支配的な趣味嗜好の度合いを、いち早くしかも正確に知ることができるのは、なんといっても貸出文庫をおいてほかにはないでしょう」

その貸出文庫を訪れたのは法律家、商人、既婚の女性などであったが、そこにはヴィーラント、シラー、ゲーテなど当時の高級文学の作品は置いてなかった。そこでクライストが見たのは、当時流行していた大衆文学作品ともいうべき騎士物語ばかりだったという。

同じくロマン派の作家ヴィルヘルム・ハウフも、4000~5000冊の本を持つ、ある貸出文庫を利用していた客の読書態度などについて、興味深い分析をしている。

① 貸出文庫の本は睡眠薬の代わりである。
② 緊迫感にとんだ最初の部分は夜のうちに読んでおいて、翌朝その続きを読む。
③ ジャン・パウルはお呼びでなく、代わりにクラーマーの『エラスムスの陰謀家』とかクラウレンの作品が好まれる。
④ 読者は若い女性が多い。
⑤ 貴族も召使も同様に、ヒルデブランドの『ヘルフェンシュタイン城』や『火を吹く復讐の剣』といった騎士物語を読む。
⑥ 軍人はウォルター・スコットの作品を読みたがる。スコットはドイツで6万部も出回っている。
⑦ スコットのドイツ語版は、チームワークによる「シェーラウ」の翻訳工場で翻訳されている。

ハウフやクライストが、子細に観察したように、貸出文庫を訪れていたのは「読書する大衆」だけではなく、上層の人々もいたのである。またここにやって来たのは年配の人間だけではなくて、若者もいた。ロマン派の詩人アイヒェンドルフも若き日には、ルソーと同様に故郷ラティボアーの貸出文庫に出向いて、手当たり次第に読んでいたのである。クライストやハウフの証言からも断片的に明らかになったことだが、18世紀の末から19世紀を通じてドイツで栄えた貸出文庫の中身は、主として小説か戯曲であったようだ。

これをブレーメンのガイスラー貸出文庫が1829年に刊行したカタログによって詳しく見てみることにしよう。ここでもやはりその扱っている本の種類からいって一番多いのが小説で、二番目が戯曲であった。その他の分野、歴史、政治、紀行文、詩、地誌、年鑑、児童文学、ジャーナル、月刊誌などは、これにくらべれば、ぐっと比重が低かった。小説の中では、クライストも書いていたように、騎士物語や盗賊物語が多かった。

そこにはイギリス人のウオルター・スコットやアメリカ人のクーパーなど英米の人気作家の翻訳物が混じっている点が注目される。そのほかの作家は今日ではほとんど忘れ去られたドイツの大衆小説作家であった。

しかし18世紀の後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってさらに読者層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、以後大きな文学市場を形成していくのである。

第五章 <書籍商組合>結成への道

ライプツィヒの「書籍商取引所」の誕生

前回のブログ「ドイツ近代出版史【1】18世紀半ばから1825年まで」の第一章「近代的書籍出版販売への転換」のところで述べたように、現金取引方式および条件取引制度の成立、さらに委託販売方式の導入などによって、ドイツの書籍出版販売業界は18世紀の末に、近代化へ向けて力強い歩みを示し始めた。書物は、古い交換取引の時代のように物々交換されるのではなく、貨幣によって支払われることになった。

条件取引制度というのは、次のようなシステムであった。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内にその代金の精算を行う(初めは春と秋の年2回であったが、やがて秋の精算はなくなり、春の復活祭の時期だけに行われるようになった)。そしてこの期間に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については店頭価格の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

その際問題となったのがライプツィヒでの精算業務のやり方であった。精算したいと思っている書籍業者は、ライプツィヒ市内の様々な場所で相手を探さねばならないという、厄介な問題があったのだ。こうした精算業務の簡素化・統一化のために、ライプツィヒの書籍業者G・J・ゲッシェンは、1791年に取引事務所を開設しようという考えに取りつかれた。しかしこの考えはその一年後に、同じくライプツィヒの書籍業者P・G・クンマーによって実現されることになった。彼はライプツィヒ市内のリヒターという喫茶店の三階を事務所として借りたわけである。

しかしこの場所は見本市会場からやや遠いところにあったので、ポツダムの書籍業者K・C・ホルヴァートは、同じ目的のために書籍街の中にあった大学の建物を借りた。そして彼はこの建物を家賃をとって業界仲間にまた貸しした。この建物の中で初めて支払業務が行われたのは1797年のことであったが、その対象はライプツィヒ以外の書籍業者であった。ライプツィヒの書籍業者は、こうした施設を使用することを初めはためらっていた。しかしやがて利用者が増えていったため、いつしかこの建物は見本市の開催中、「書籍商取引所」と呼ばれるようになった。(1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」という名称も、これに由来するのだ)。

出版業界体質改善の動き

いっぽう18世紀から19世紀への変わり目ごろ、ドイツの書籍出版量及び書籍業者の数は著しく増大した。このため書籍販売面での互いの競争が激化し、個々の書籍商の中には「投げ売り」つまりダンピングによって商売を乗り切ろうとするものも出てきた。顧客割引率を従来の10%から25%さらに50%にまでして、何とか商品としての書物を売りさばこうとしたのである。

こうした動きを憂慮したホルヴァートは、1802年の春の見本市に向けて一つの改革案を提出した。そこで彼は、顧客割引率の制限、新規の業者に対するクレジット保証の制限、見本市決済のための特定の為替相場の導入などを提案した。この提案に対しては40人の書籍業者が賛意を示した。なかでもゲッシェン(1752-1828)は、『書籍販売に関する私見』という文書の形で、これに応えた。この中で彼は「顧客割引率はせいぜい10%が限度であり、できることなら廃止すべきである。非書籍商に割引を認めることは無意味な投げ売り以外の何ものでもない。書籍業者のあいだでも、割引率は33・3%を超えるべきではない」と記し、商人としての尊厳と道徳心に訴えた。そして書籍取引所組合の設立を説き、「その組合のための資金と品位と持続性を手に入れよう」と呼びかけた。ちなみにゲッシェンは、作家シラーの友人でもあり、その作品を出版したライプツィヒの名門出版社の主であった。

G・J・ゲッシェンの肖像

このゲッシェンの提案と真っ向から対立したのが南独エアランゲンの書籍商パルムの提案であった。そこで彼は古い交換取引に戻ることを主張したが、他のほとんどの書籍商は交換取引に反対の態度を示していたので、一人孤立することになった。ともあれ19世紀の初めには出版業界の体質改善に対して多くの書籍業者が強い関心を示すようになり、改革のための集会まで開かれる運びとなった。そして1803年に開かれた二回目の集会で、30人の委員からなる新しい委員会が結成された。

ところがドイツにおいて書籍商の組織を結成しようという動きは、ナポレオン戦争によって、ひとまず頓挫することになった。ナポレオン軍との戦いの敗北によって、1806年8月、神聖ローマ帝国は消滅し、ドイツ語圏地域は西・南地域にできたライン連邦、東北部に領土を縮小させられたプロイセン王国、そしてオーストリア帝国に分割された。そしてナポレオン支配下のドイツの出版界は、書物の輸出や国内取引に対する妨害や厳しい検閲によって、一時的にではあれ、全体として大損害を被ったのであった。ニュルンベルクの書籍商パルムは反仏的なビラ『深い恥辱の底にあるドイツ』を発行したために、ナポレオンの命令によって射殺された。またハンブルクの書籍商ペルテスは1811年1月、知人に宛てた手紙の中で「全体として希望の片鱗すらうかがうことができません」と述べている。

ナポレオン戦争後の状況

しかし1813年の解放戦争の結果ナポレオン軍が敗北し、ナポレオンがパリに逃げ帰るに及んで、フランスによるドイツ支配は終わりを告げた。そして翌年のナポレオン失脚の後を受けて、ヨーロッパ各国の王侯や政治家たちはウィーンに集まって、戦後のヨーロッパの新秩序について協議することになった。こうした新しい情勢に呼応して、ドイツの書籍商たちのあらたな協力態勢への動きが、再び始まった。

1814年4月春のライプツィヒ書籍見本市において、6人の代表からなる委員会が再び結成された。この6人とは、ライプツィヒ出身のクンマー、フォーゲル、リヒター、ワイマール出身のベルトゥーフ、テュービンゲン出身のコッタ、そしてリガ出身のハルトクノッホであった。この委員会はドイツ書籍業界の関心事をウィーン会議(1814・15年)に持ち出すことによって、全ドイツ的な問題にしようと目論んだ。

いっぽう神聖ローマ帝国の解体後、統一組織を欠いたままになっていたドイツ諸国の再組織の問題も、ウィーン会議の重要議題の一つであった。結局これは大中小39の領邦国家を集めた緩い組織としての「ドイツ連邦」の結成によって決着を見ることになった。書籍商委員会を代表してコッタ及びベルトゥーフの二人は、ウィーン会議に働きかけて、新しく生まれるドイツ連邦の在り方を定める連邦規約の中に、ドイツ書籍業界の関心事を織り込むことに成功した。その結果、連邦規約第18条に、次のような文章が挿入されることになった。

「連邦議会はその最初の会議において、出版の自由に関する指令並びに翻刻出版に対する作家及び出版主の権利の確保に関する指令の作成に従事するであろう」

そしてこのための公聴会が連邦議会において開かれる見通しも、その際明らかになった。そうした期待の中でハンブルクの書籍商ペルテスは1816年匿名で、『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書を発表した。この中でペルテスは、翻刻出版を激しく糾弾した。しかし書籍業界にとっては最大の関心事であったにもかかわらず、連邦議会での審議は遅々として進まなかった。

そこでいくつかの出版社は、自らイニシアティブをとって動き出した。例えば中部ドイツのハレの4つの出版社は、1816年いかなる翻刻出版も拒否することを約束した。また西南ドイツのハイデルベルクの出版主モールは、次の春の見本市で翻刻出版業者とのあらゆる関係を絶つよう、ドイツの書籍商に要請した。さらに1817年に結成された「ドイツ書籍商選考委員会」は、翻刻出版をはじめとするもろもろの問題の解決に向けて取り組むよう委任を受けた。こうした情勢の中で、出版社の版権や著作者の著作権を保護しようという考えが、次第に具体化してきた。そして1819年2月に連邦議会に提出された法案の中には、10年ないし15年の保護機関が定められていた。

しかしウィーン会議後のドイツを牛耳っていたオーストリアの宰相メッテルニヒは、旧体制を守るために反動的な政策をとることも辞さなかった。そして1819年8月のカールスバートの決議によって、大学法や扇動者取締法などと並んで、厳しい出版法が定められた。これによると新聞・雑誌そして320頁以下の出版物はすべて、厳重な検閲のもとに置かれることになった。
こうして出版の自由は踏みにじられ、同時に精神的財産(知的所有権)の保護という考え方も大きく後退することになった。

いっぽうこれとは別に、南独ニュルンベルクの書籍商レヒナーは、1806年以来ライプツィヒから離れてニュルンベルクに独自の書籍見本市を設立する考えを抱き、その線に沿った動きを示していた。そして1819年この考えを関係者の前に持ち出し、人々の議論に供した。しかしこの計画は、同じニュルンベルクの同業者カンペ、マインベルガー、シュラークなどの反対にあって挫折した。

ところがニュルンベルク見本市設立計画は1822年になって、別の方面から再び持ち出された。今度の計画は書籍商ではなくてバイエルン王国学士院の事務総長シュリヒテグロルからのものであった。この人物はニュルンベルクの書籍商と、見本市プロジェクトをめぐって交渉を行った。その際書籍商側はバイエルン教科書出版会社の廃止を持ち出した。またバイエルン政府も度重なる審議の後、書籍見本市設立に関する報告書を提出したりしたが、なかなか結論を得るに至らなかった。

「書籍商組合」の結成

そうこうするうちにライプツィヒでは、ライプツィヒ以外の書籍商を中心に、先にホルヴァートが明らかにしていた書籍取引所の設立へむけて急展開を見せはじめていた。先の「ドイツ書籍商選考委員会」がそのイニシアティブをとったのだが、こうした取引所を必要としない地元のライプツィヒの書籍業者はいぜんとして冷淡な態度をとり続けていた。そのためこうした態度に対しては外部の書籍商からはげしい非難の声が上がり、結局ニュルンベルクの書籍商フリードリヒ・カンペ(1777-1848)の指導の下に、1825年4月30日、「ドイツ書籍商取引所組合」が設立されたのであった。この名称はドイツ語の表記を正確に訳したものであるが、日本語の文脈の中では分かりにくいので、今後は「ドイツ書籍商組合」ないし単に「書籍商組合」と表記していく。

この日「取引所規約」には、ライプツィヒの書籍業者6人及び外部の書籍業者93人が署名した。この93人のうち70人が北・東部からの、そして23人が南・西部からの業者であった。またこの組合には外国人も会員として加盟できることも定められた。初代の会長(任期1825-28)にはカンペが就任し、その他の幹部としてライプツィヒ外の書籍業者ホルヴァートなど3人が選ばれた。

F・カンペ(「書籍商組合」の創立者)の肖像

こうして「ドイツ書籍商組合」は、ドイツの出版界全体の公の組織となったのである。この組織には、出版界に確固たる秩序を築き、書籍取引の際に生ずる誤解を取り除き、書籍業界の利害を守るべき任務が課せられた。そして長期的な展望のもとに、ドイツの出版界全体をリードしていくことも、新たに生まれた書籍商組合の使命の一つとなった。
この組織は「よそ者」であるニュルンベルクの書籍商カンペの断固たる措置によって、最終的に出来上がったのであった。このカンペはすでに1819年にニュルンベルク書籍見本市設立計画に反対していたが、1825年12月にバイエルン国王ルートヴィッヒに謁見したときにも、改めてニュルンベルクのプロジェクトに反対する態度を明らかにしたのだ。

それはともかく「書籍商組合」の設立によって、ドイツの書籍出版販売の世界は、「疾風怒濤の時代」に終わりをつげ、新しい時代へと踏み出していったのである。個々の企業の商業上の利害を超えて成立したこのドイツ出版界の大同団結には、ドイツの政治的統一(1871年)よりはるかに先行した大きな意義が与えられねばなるまい。