2019年7月ドイツ鉄道の旅(その2)

第2回は北ドイツの港町で、旧ハンザ同盟都市のリューベック及びハンブルクについてお伝えする。

フルダからリューベックへ

7月21日(日) 晴れ

朝食後、フルダのイビス・ホテルでチェックアウト。そしてタクシーでフルダ駅へ。9時4分発のICE886号に乗り、ドイツ中央部を北上する。はじめトンネルの多い中部山岳地帯を通り抜け、やがて北ドイツ平原に出る。そして見本市でよく知られた中都会ハノーファー(日本ではハノーバーと言われている)に到着。ニーダーザクセン州の州都だが、第一次大戦以前、ハノーファー王国の都だった。

この王朝からは、18世紀の初め、血縁者が、イギリス国王ジョージ一世として迎えられている。本人は英語ができず、ドイツ滞在が多かったため、その治世、王に代わって行政を担当する首相と内閣の制度が発達したといわれている。「王は君臨すれども統治せず」をモットーとしていた当時のイギリスの政治家にとっては、政治にくちばしを入れられなかったので、都合がよかったのだろう。『世界史用語集』によれば、ハノーヴァー朝(1714~1917)は、その後実に2世紀余りにわたって続いたのだ。

この間、この地域はイギリスと親しい関係になり、さまざまな分野で先進的なイギリス文化や制度が、導入されていったという。たとえば同王国のゲッティンゲン大学は、イギリスからの先端的な文化の導入や人事面での交流があって、当時のドイツの一流大学へと発展した。明治以降、日本からも多くの学生・研究者がゲッティンゲン大学へ留学しているのだ。

さて話は横道にそれたが、列車は12時半に大都会ハンブルクの中央駅に到着した。そして13時4分発のローカル列車に乗り換えて、その北東部にある港町リューベックへ向かった。そしてその中央駅に13時48分に着いた。港町と言っても、この町はバルト海のリューベック湾には直接面してはいず、トラーヴェ川を少し遡った所に位置している。

とはいえ中世後期には、バルト海を中心に北ドイツ、ポーランド、ロシア、スカンディナヴィア地域の諸都市から、さらにライン川をさかのぼった所にあるケルンそして北海に通じたハンブルクや、かなり西のロンドンなどの都市にまで広がって、国際交易のための「ハンザ同盟」の盟主だったのが、このリューベックなのだ。そのため「ハンザ都市リューベック」という称号を持ち、いまなおその伝統を誇りにしているわけである。

さてわれわれ三人は、中央駅のコインロッカーに大きな荷物をしまい、身軽になって、昼食をとるために旧市街へ向かった。そこは中央駅から歩いて行ける距離にあるが、四方を運河で取り囲まれた中の島の上に位置している。この点第1回でお話ししたストラスブールに似ているといえよう。その地域に入る少し手前に、リューベックの象徴としてよく知られ、紙幣の図柄にもなっている「ホルステン門」が見事な姿を見せていた。

ホルステン門

三人はこの門の傍らを通り過ぎて、運河にかかった橋を渡って島の中に入った。そして左折して運河に面した一軒の魚料理店に入った。店の名前は「Seewolf
(おおかみうお)」という。時刻は午後2時半で、店内に客の姿はなかった。しかし尋ねてみると、営業しているという。
三人は席について、まず地元の生ビールを注文。食事のほうはそれぞれ別の魚料理を頼んだ。私は衣つきのタラ料理だが、添え物は好物のジャーマンポテト。ビールにぴったりだ。空腹を十二分に満たしてくれた。店内にはいたるところに、海に関連した品々が置かれていた。また天井からはいろいろな漁具や船の模型などがつりさげられ、まさに港町の雰囲気を堪能できた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”の店の人は素朴で、親切。ドイツ語でこの辺りのことをいろいろ尋ねてみたが、北ドイツ人の特性と言えるのかどうか、静かな調子で淡々と答えてくれた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”

食後には、近くの比較的狭い通りを散歩する。そこは石畳を敷き詰めた道だが、風情はあるものの、でこぼこしていて歩きにくい。とはいえ道路の両側には、北ドイツ特有の茶色ないし黒色の煉瓦造りの数階建ての建物が立ち並んでいる。

煉瓦造りの数階建の建物

その一角にマリーエン教会があったので、中に入る。この教会の目玉は天文時計と立派なパイプオルガンだ。そのオルガンは何故か”Totentanzorgel(死者の舞踏オルガン)と呼ばれている。そして北ドイツ地域の代表的なオルガンだということを、事前に、オルガン奏者でもある家内の実兄の馬淵久夫さんから聞いていた。またバロック音楽の作曲家ブクステフーデが、この教会のオルガンを弾いていたという事も、聞いていた。そのため家内は教会内の売店で、ブクステフーデが演奏した作品を収録したCDを買い求めた。

マリーエン教会の天文時計

マリーエン教会を出ると、日曜の午後という事で、あたりは大勢の人で混雑していた。教会の隣には、見上げると空高くそびえ立つ建造物が建っていた。その建物にはいくつもの尖塔があり、その下に円形がくりぬかれている造形が、特徴と言えよう。大変印象的だ。それがリューベックの市庁舎なのだ。

リューベックの市庁舎

市庁舎前の広場も、人々でごったがえしていた。長男の提案で、その市庁舎の中には入らずに、二・三軒先にある聖ペトリ教会へと向かった。そして教会の塔を、エレベーターで上って行った。そこからの眺めは、旧市街全体を十分見下ろせるばかりでなくて、ホルステン門や遠くの市街地まで、まさに眺望絶佳であった。

そのあと旧市街を離れ、先ほどは傍らを通り過ぎたホルステン門に入っていった。
門の内部は博物館になっていて、昔の人々の暮らしに関連した品々が展示してあった。三階建になっていて、狭い石段を上って、それらの展示を一通り見て回った。

そのあとリューベック中央駅構内のロッカーにしまっておいた、大きなトランクを引き出して、タクシーで町はずれのイビス・ホテルに入った。夕食は、そとで買ったサンドイッチやサラダ、飲み物をホテルの部屋で取った。そして一日の疲れをいやすため、早めに就寝した。

リューベック二日目

7月22日(月)小雨 イビス・ホテルで8時半、朝食。9時半、ホテルを出て、タクシーで、島の一番北の旧市街はずれにある「ハンザ博物館」へ直行する。この博物館は、運河の北側と島の内部を結ぶ城門のすぐ近くにある元修道院の建物を改造して2015年に開設されたばかりだ。ハンザ同盟に関連した本格的な博物館である。中の展示は豊富で、いろいろと体験することができる「体験型の博物館」だ。

ハンザ同盟は、『世界史用語集』によれば、リューベックを盟主として、13世紀後半から発展したもので、ハンザは「商人の仲間」の意味。1358年に明確に都市同盟の形をとった。加盟都市は100を超え、共通の貨幣・度量衡・取引法を決め、陸海軍を維持し、国王や諸侯に対抗して北海・バルト海一帯を制圧した。しかし、主権国家体制が成立し始めた16世紀以降次第に衰え、17世紀初めには、ほぼ実体を失った。
展示を見終わって、博物館の中にあるレストランで昼食をとった。

博物館を出ると、小雨が降りだしてきた。今回の旅行で初めて雨傘を取り出して、石畳の狭い道を移動していった。そして「ヴィリー・ブラント・ハウス」に入った。この町出身のブラントは、1969年から1974年まで、社会民主党の党首として、自由民主党との連立政府で、西ドイツの首相を務めた人物である。
この「ハウス」では、ブラントの生涯と業績を詳しく説明した展示がなされていた。彼の最大の業績は、米ソの冷戦体制のはざまにあって、ソ連、ポーランド、東独、チェコスロヴァキアとの間に、それぞれ条約を結んで、東西間の融和と緊張緩和を図ったことである。その政策は新東方政策として歴史に名を残している。そしてその功績によって、ノーベル平和賞を受賞した。

私はブラントが西独の首相を務めていた時期にほぼ重なる1971年10月から1974年末までの三年間、NHKから派遣されてケルンのドイチェ・ヴェレ(ドイツ海外放送)の日本語番組を担当していた。その時、毎日のようにラジオのニュースや番組などで、ドイツを中心としてヨーロッパ全般の政治・経済・社会・文化などに関して、日本の聴取者に知らせていた。そんなこともあって、ブラントのことは三年間、常に私の関心の的であった。

1972年のことだったと思うが、西ドイツで総選挙が行われた時、ブラントは私が住んでいたケルン市の中心にある広場で、演説を行った。その時私は広場の聴衆の一人として、彼独特の ゆっくりとした、粘り気のある話ぶりに、すぐ近くで接したわけである。また新聞、テレビ、ラジオでは、毎日のようにブラントをめぐる話題に触れていたのだ。
私はその後1983年4月から1986年3月まで、三年間再び同じ放送局で仕事をした。その時は保守系のキリスト教民主同盟のコール首相の時代で、政治ばかりでなく、さまざまな面で、70年代とは違っていた。

さてブラント・ハウスを出てすぐ近くに、西ドイツの作家でノーベル賞を受賞したギュンター・グラスの家もあった。彼もリューベックの出身である。革新系の政治信条の持ち主かどうか、詳しいことは知らないが、ブラントの選挙を応援していたのだ。作品としては『ブリキの太鼓』が代表作と言われ、映画化もされていて、私もその映画を日本で見ている。しかし時間の関係で、その家はパスして、近くにある「ブッデンブローク・ハウス」に入った。                 この建物は「マン兄弟博物館」とも呼ばれているが、ドイツの有名な作家ハインリヒ・マンと弟のトーマス・マンの記念館なのだ。ノーベル賞作家のトーマス・マンは、名高い小説「ブッデンブローク家の人々」を書いているが、彼の親や祖父やさらに数代先の先祖も、リューベックの商人で、市の有力市民なのであった。その代々の家が「ブッデンブローク・ハウス」なのである。マン兄弟はこの祖父母の家を、しばしば訪れていたという。

ドイツを代表する知識人・作家の博物館だけあって、訪れる人は多く、その中には若者たちも少なくなかった。またその展示は実に豊富で、短時間ではとても見切れないものであった。

そこを出てしばらくすると、昨日も見た市庁舎の前の広場が現れた。晴れていたらトラーヴェ川の河口でバルト海に面しているトラーヴェミュンデまで遠出したいと思っていたが、あいにく小雨が降り続いていたので、残念ながらその計画は断念することにした。
そしてそれ以上石畳の狭い道を雨の中歩くのは、決して楽ではないので、早めにホテルに戻って休息した。

そのあと元気を回復したので、夕方の5時半ごろ再び外へ出て、歩いて中央駅周辺へ向かった。そして駅前のイタリアレストランに入って、今回初めてスパゲッティー料理を口にした。味も大変よく、分量もたっぷりしていて、十分満足した。そしてホテルに戻って、早めに就寝した。

ハンブルク見物

7月23日(火)晴れ

今日は再び天気が良くなった。7時起床。8時半ホテルをチェックアウトして、タクシーでリューベック中央駅へ。9時8分リューベック発のローカル列車に乗り、ハンブルク中央駅に9時51分着。そして近郊電車(S-Bahn)に乗り換えて、ハンブルク・アルトナ駅へ移動した。そして駅に隣接した所にある「インターシティ・ホテル」に入った。チェック・インして部屋に入り、荷物を置いて、身軽になって、ただちにハンブルク市内観光へ出掛ける。

ハンブルクはドイツ第二の人口の大都会。これまで何度も訪れたことがある。リューベックと同様に、中世以来の「ハンザ同盟都市」であることが、今でもこの町の誇りとなっている。ドイツ有数の大河であるエルベ川の河口近くの港町であるが、北海に面したその河口からは70キロほどさかのぼった地点に港としての機能が集まっている河川港である。

リューベックはユトランド半島の東側のバルト海に面していたため、16世紀の大航海時代の幕開けとともに大西洋に国際交易の重点が移り、次第に没落していった。それに反して同じハンザ同盟都市であったハンブルクは、大西洋に近い北海に面していたこともあって、その後もうまく立ち回って、貿易を中心に発展してゆき、ドイツ有数の大都会になって、今日に至っている。

私が初めてドイツを訪れたのは1971年秋であった。日本からの飛行機はアラスカのアンカレッジで一度乗り換え、北極上空を飛んでスカンディナヴィア半島を越えて、ハンブルクに到着した。飛行機が空港近くで高度を下げ始め、ハンブルク市が窓の外に見えてきたとき、緑あふれる森の中に赤褐色の屋根の住宅が見事にその色をそろえていた。日本のように建物の色彩がバラバラでなく、実に程よく調和していて、なんと美しいのだろうと感激したものである。

さて今回のハンブルク観光はわずか一日の行程であるため、目的地を港湾地区の見物に絞ることにした。我々三人はホテル近くの停留所からバスに乗って、その港湾地区へ向かった。最初に訪れたのは、エルベ川に面した所に立っている音楽ホール
「エルプ・フィルハーモニー」であった。2017年1月に開館したばかりで、昔の赤レンガ倉庫の上部に,波の形をイメージした総ガラス張りの構造物を載せた、大変ユニークな外観になっている。夏場のため、この時期は演奏会は開かれていないが、開館以来すでにハンブルクの新名所になっていて、この日も大勢の人々が建物を見物するために、押し寄せ、周辺からもうごった返していた。

エルプ・フィルハーモニーの外観

その人ごみに交じって、1階の入り口から長いエスカレーターに乗って、上階へ上った。そこは演奏会場の手前の広々としたロビーになっていて、ガラス張りのため、窓際に近づくと、外の景色への眺望がすばらしい。窓際に沿って移動していくと、ハンブルク市内の街並みがよく見え、また反対側に回ると、眼下に広々としたエルベ川の景観が目に入ってきた。

フィルハーモニーから見たエルベ川

あいにく演奏会場への扉は閉まっていたが、その音響設計には、日本人の豊田泰久氏が携わったという。本当はその音楽ホールも見たかったのだが、それはまたの機会にという事にして、ロビーの一角の土産物コーナーへ向かった。そして記念にブラームスの「交響曲3・4番」が収録されているCDなどを買い求めた。演奏は北ドイツ放送局管弦楽団。ブラームスはハンブルクの出身で、その音楽は北ドイツの重々しい風土を反映しているといえよう。私の大好きな作曲家だ。フランスの女流作家フランソワーズ・サガンに「ブラームスはお好き?」という作品があるが、フランス人の中にもブラームスが好きな人は、少なくないと見える。

「エルプ・フィルハーモニー」を出てから、歩いて港湾地区の一角に集まっているポルトガル料理店の中の一軒の店”Casa Madeira”に入る。どこの国でも港には世界各国の船乗りなどが立ち寄るものだが、この地区には昔からポルトガル人が集まって、一つのコロニーを形成しているらしい。先日ある新聞記事で、16世紀にスペイン・ポルトガルで、カットリック教徒以外のユダヤ人などが、迫害された時、このハンブルクにもかなりのユダヤ人(ポルトガル人)が逃げてきたという事を読んだ。その事と、このポルトガル人コロニーとどんな関係があるのか、調べてみたら面白いだろう、と思った。

この店では三人とも、イカのグリル料理とポルトガル産のビールを注文した。先にリューベックでも魚料理を食べたが、やはり港町にふさわしいものと言えよう。味も分量も満足のいくものであった。ただ一般に内陸部に住む多数派のドイツ人の庶民はあまり魚を食べないようだ。たとえば私が住んでいた内陸部のライン川の畔の都会ケルンで、1970年代、80年代に付き合っていたドイツ人の庶民の中には、魚を食べたことがないといった人も結構たくさんいた。                昼食の後は「エルプ・フィルハーモニー」近くの桟橋から無料の遊覧船に乗って、しばらくエルベ川の両岸の景色を楽しんだ。その船は5分ばかりで、別の桟橋に着いた。そこには、かなり大きな三本マストの帆船が停泊していた。

帆船”Rickmer Rickmers(リックマー・リックマース)号

その船は観光用の博物館になっていて、一人5ユーロ(625円)で、内部を詳しく見て歩くことができるようになっていた。その入場券には、”Museumsschiff   Rickmer Rickmers(博物館船リックマー・リックマース)”と書かれていて、さらに「ハンブルクの浮かぶ象徴」とも付け加えてあった。リックマーは、代々この帆船の持ち主だった一族の名前なのだ。内部の展示を見ていくと、リックマー家が、貿易商人として、19世紀から20世紀にかけて活動してきた様子が、つぶさに分かるようになっていた。

聖ミヒャエル教会

次いで我々は、「水上から見たハンブルクの目印」と言われている聖ミヒャエル教会に入った。北海からエルベ川をさかのぼって数十キロ進んだ地点に立っている、この教会を見た船乗りたちは、ハンブルクの港に着いたことを実感するのだそうだ。
そのあと三人は港湾地区から地下鉄に乗って、ハンブルク市の中心部へ移動した。市の中心には大小二つのアルスター湖があって、緑豊かな地域だが、湖の周辺には高級ホテルや高級レストランが立ち並んでいる。大都会のど真ん中に、これだけ広々とした湖がある風景は、ドイツの他の都市には見当たらない。

その一角に風格のある、壮麗な市庁舎(Rathaus)が建っている。ドイツでは昔からこの市庁舎は、どの町でも、国王や領主から独立した豊かな経済力を持った市民階級が、町の権力を象徴する建物として、誇りにしてきた建造物なのだ。
その近くの屋外カフェーに我々は席を占めた。そして暑さしのぎに、冷たい飲み物を飲みながら一息入れた。昨日リューベックでは小雨が降っていたためかやや涼しかったが、今日のハンブルクでは、再び晴天となり、暑さのほうもぶり返してきたのだ。その暑さをしのぐには、冷たい飲み物だけではなく日陰にいることが肝要だ。幸いわれわれのテーブル席は大きなパラソルによっておおわれていた。そして湖から吹いてくる涼しい風に当たりながら、堂々たる市庁舎を眺めることができた。

アルスター湖畔のカフェ、背後に市庁舎

市内見物はそれぐらいにして、我々はホテルに戻って、一休みした。そして午後7時15分、アルトナ駅近くのレストラン”Schweinske”に入り、夕食をとった。奇妙な名前の店だが、Schwein はドイツ語で豚のことだ。料理のメニューを見ると、やはりポーク料理が目に付いた。そのためこちらもその中の一つを注文し、生ビールをたっぷり飲みながら、ハンブルクの夜を過ごした。