1999年ロシア・バルト三国の旅(その3)

バルト三国のエストニアとラトヴィア見聞記

            

バルト三国の地図

今回はバルト3国の中のエストニアとラトヴィアの見聞記をお伝えする。エストニアは一番北にある国で、その首都タリンはバルト海の最も東に位置した港町である。反対側にはフィンランドの首都ヘルシンキがある。目と鼻の先といってもいいぐらいの距離だ。人口は1996年の時点でわずか145万人の小さな国である。そのうち65%がエストニア人である。首都のタリンは人口42万人だ。ロシアのサンクト・ペテルブルクが一番近く、鉄道でタリンと結ばれている。前日夜中の寝台列車内での出来事については、前回のサンクト・ペテルブルク見聞記の最後で、書いたとおりである。

タリン(旧市街)の地図

9月10日(金)霧のち晴れ  エストニア

サンクト・ペテルブルクからの寝台車では、国境の検問の際の不愉快な出来事のため、あまり眠れぬまま、タリン駅に到着した。外は深い霧に包まれていた。それでも迎えの車に乗り、午前7時前に「ホテル・サンタバルバラ」にたどり着いた。

ホテル・サンタ・バルバラ(旧市街のすぐ南に位置している)

ただ10時にチェックインで、まだ早いので、受付に荷物を預けて、ホテル内で朝食をとる。これで再び元気を取り戻し、ホテルの受付で50ドルを、エストニアの通貨クローンに両替した。レートは、98年の時点で1ドル=14クローン。その後ホテルを出て、旧市街の東側を歩いて、まず中央郵便局に入る。そして昨夜書いたハガキを日本向けに航空便で、6.7クローン払って出した。

その後メレ大通りを北へ向かって歩きだした。やがて分岐点に来たが、そこには下の写真に見るような道路標識があり、まっすぐ進めば港に行けることが分かった。

タリン市内から直進すれば港へ行けるとの標識

こうして港に出た。港にはバルト海汽船など、いくつもの乗り場があった。そこからはバルト海を通って、フィンランドの首都ヘルシンキやスエーデン方面へ行けるのだ。事務所の建物の中に入って、いろいろな施設を見て回った。

船の乗り場の事務所とその手前の広場

乗り場の事務所の正面

 

その後、港から市民ホールのある高い場所に移動して、タリン湾を望む。ヘルシンキは「目と鼻の近さ」のはずだが、肉眼で見ることはできなかった。タリン港をひととおり見てから、再びホテルへ戻ることにする。その途中、大通りに面して立派なガソリンスタンドがあるのが、目に付いた。

立派なガソリンスタンド

こうして再びホテルに戻り、午前10時チェックインして、部屋に入る。広くて、設備もよい。すぐにシャワーを浴び、昨日からの汚れを落とす。元気を回復して、12時ごろ再びホテルを出る。まず高台に上がり、大聖堂を見てから、近くのレストランでゆっくり昼食をとる。それから高台の端にある展望台から下町とその先の港を見渡す。赤褐色の屋根、風見鶏、ゴシック教会の尖塔などは、ドイツの古都とそっくりだ。また旧市街は狭い石畳の道が続いている。歴史的な因縁からドイツとの結びつきは、いたる所で感じられる。旧市庁舎前周辺は、人々でごったがえしていた。日が暮れてきたので、午後7時ごろホテルに戻る。今日の午前中には霧が出て涼しかったが、午後は暑くなった。

高台から見た下町の家の屋根とその先にある港

9月11日(土)晴れ  エストニア   

7時40分電話の音で起こされる。ホテルの中の食堂で、朝食をゆっくりとる。そして再び外出。昨日歩いたので、タリンの町のおよその輪郭がわかってきた。今日は昨日と同じ高台に上がる。まずトーンペア城に行き、裏手の城壁の外側を歩く。

その一角に「のっぽのヘルマン」塔があったが、この城は14世紀前半にドイツの帯剣騎士団によって、最初に建てられた。これは12~14世紀にドイツの諸侯・騎士・修道院などが行った、エルベ川以東のスラヴ人居住地などへの「東方植民」の一環だったのだ。とくに、ドイツ騎士団は先住民のキリスト教化を理由にバルト海東南沿岸地域で、軍事的性格の濃い植民を推し進めたという。

  トーンペア城の「のっぽのヘルマン塔」

城の外壁に貼り付けられた銘板
(「ここに1939年まで聖堂学校があった」とドイツ語でも書いてある)

いっぽう近くのロシア正教の「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」ではミサがおこなわれており、ロシア系信徒と思われる人々がたくさん集まっている。この教会は彼らの拠点のようだ。そのあと昨日とは別の展望台に行く。眺めはさらに良い。

その後丘の上の街並みを歩き、やがて下町への坂道を下っていった。下りたところに、日の丸の旗が見えたが、そこが日本大使館なのだ。また旧市街にはEU代表部もあった。当時エストニアはEU 加盟候補国であった。

 日の丸の旗と日本大使館

EU代表部の入り口

またそのあたりに「タリン旧市街がユネスコの世界文化遺産に指定されている」ことが書かれた掲示板(エストニア語、英語、ドイツ語)が立っていた。
しばらく歩いて「歴史博物館」に入る。そこではドイツとの歴史的な関係についても書かれていた。

午後1時ごろ裏通りの小さな店に入った。その店の看板には「Restoran」と書かれていた。サラダとパスタそしてビールで昼食をとる。その際エストニアの地ビール(SAKU)を飲む。

地ビール(SAKU)の看板

次いでラエコヤ広場に出て、旧市庁舎の地下に入っていく。こうした街づくりは、ドイツでは至る所にみられるもので、私にはお馴染みのものだ。一般に東欧地域の街づくりには、ドイツ人の影響が色濃く残っているように感じられる。

ラエコヤ広場と旧市庁舎

そこでは古くからのドイツ人の結社(ブラックヘッドのギルド)についての展示が行われていた。私が入った後、すぐに独人団体客がドヤドヤと入ってきた。そしてその中の一人がドイツ語で、展示について説明を始めたので、勿怪の幸いと私はその説明を傍聴した。

その後城壁を出て郵便局で絵葉書を出し、エストニアの民謡のCDを買う。そして見残した「聖ニコラス教会」に入る。そこでは「死の舞踏」の絵が面白かった。その後ホテルへ向かったが、途中花屋がずっと並んだ場所に通りかかった。エストニアに限らず、バルト3国の人々は花と合唱が大好きなのだ。

花屋がずっと並んだところ

ホテルにいったん戻って、ロシアの飛び地カリーニングラードで会う予定のロシア人カント学者の英文の論文を読み、心の準備をした。そして7時半ごろ外出して、夕食の場所を捜した。はじめ「オルデ・ハンザ」に入ろうとしたが満員だったので、別の場所を捜した。そして「K・フリードリヒ」というドイツ語名の料理店に入る。幸いラエコヤ広場に面した野外席が見つかった。そこは旧市庁舎を斜めに見た特等席で、タリン名残りの夜の素晴らしい雰囲気を満喫することができた。

9月12日(月)晴れ タリンからリーガへ

タリンのホテルで8時ごろ起床。朝食後ゆっくり仕度をして、10時ごろチェックアウト。11時半タクシーでバス・ターミナルへ。そして12時15分ラトヴィアのリーガ経由リトアニアのヴィリニュス行きの長距離バスに乗る。バルト三国を貫く、まさに長距離のバスなのだ。バスはタリン港でも客を乗せ、のどかな道を南下。道には車が極めて少ない。また沿道も野原と林が延々と続いている。直射日光がきつい。途中沿道には、MAZDA, HONDA,SUBARUなど日本車を宣伝する看板が目に入る。エストニアではRIGAはRIIAと表記されている。

3時間後の午後3時15分ラトヴィアとの国境検問所に到着した。係官がバスに乗り込んできて、全員の旅券を集めて事務所に持っていく。その間旅客はバスを降りて、外の空気を吸う。私もトイレに行き、20ドル分をラトヴィアの通貨ラットLsに両替する。検問所にはMUITA(CUSTOMS)の標識が立っている。やがて旅券は返却され、25分後にバスは再び出発する。次第に車が増えてくる。また工事のため一時渋滞もある。首都のリーガに近づくと、道路の混雑はさらに増してきた。高速道路がないので、追い越しが大変だ。道路標識は青色でドイツ風。午後5時45分、バスは旧市街の外のターミナルに到着した。バスを降りてから、おんぼろのタクシーを拾って、ホテルへ向かった。旧市街の真ん中にあるので、車が入りにくいところだ。

 修道院を改修したホテル

ホテルは修道院を改造した独特の建物だ。そのホテルに入り、チェックイン。そして、部屋に入るとすぐにシャワーを浴びる。その後腹がすいていたので、外出して、「アールス・ヤータ」という名前の田舎風ビヤホールで、夕食をとる。

ここでラトヴィア共和国の概要を書いておくと、1996年の統計で、人口は250万人弱。そのうち55%がラトヴィア人。首都のリーガの人口は81万6千人。宗教はキリスト教。北、西部にルター派プロテスタントが多く、東部にカトリックが多数。

首都リーガ(旧市街)の地図

9月13日(月)曇り後晴れ リーガ

午前7時起床。朝食後、雑用を済ませてから、9時ごろ街へ出る。曇っていて、やや涼しい感じだ。まず旧市街の外側を東北に沿って伸びている緑地帯(公園)に出る。

 公園の一角には、木の間隠れに堂々たる国立オペラ座が姿を見せていた。

国立オペラ座(公園の一角に立つ)

公園の中を歩いてから、その外側に沿って流れている運河を渡ると、背の高い(51m)「自由記念碑」が聳えていた。ロシア帝国からのラトヴィアの独立を記念して、かなり後の1935年に建立されたものだ。第一次世界大戦後の1918年11月にラトヴィアは独立を宣言し、20年8月にソヴィエト政権が承認したものだ。

  高さ51mの自由記念碑

自由記念碑の近くの大通りのわきの歩道で、花を売っているおばさんの姿を見た。ラトヴィアの人は花好きだといわれている。また新市街にはドイツの「ユーゲントシュティール」様式の建築群がある。これは日本の美術愛好家の間で知られているフランスの「アール・ヌーヴォー」様式の建築と似たものらしい。公園の外側のアルベルタ通りとエリザベテス通りに建っている。建築の期間は19世紀後半から20世紀初頭で、『戦艦ポチョムキン』で有名なロシアの映画監督エイゼンシュタインの父親ミハイル・エイゼンシュタインも代表的な建築家で、彼が設計した建築物も幾つかあるという。ソ連時代には長らく放置されていたが、独立後修復が進んでいる。以下写真で数枚紹介するが、極めて装飾的で、造形といい色彩といい、美しい。私も大好きだ。

ユーゲントシュテイール様式の建築物(1)

ユーゲントシュテイール様式の建築物(2)

 ユーゲントシュテイール様式の建築物(3

ユーゲントシュテイール様式の建築物(4)

その後、再び旧市街を通って、ダウガワ川に臨んだ河川港に達した。その川は少し先で、バルト海に注ぎ込んでいる。この港自体は、タリン港に比べて規模が小さい。

ダウガワ川とアクメンス橋

しかしダウガワ川は川幅が広く、立派な川だ。リーガの街にとって、この川は欠かせないようだ。

 

ダウガワ川の手前左手のカマボコ状の建物は中央市場

港を見てから再び旧市街に戻り、リーガ城を横目で見てから、聖ヤコブ教会、三兄弟、スウェーデン門、城壁、火薬塔などを見て回る。この辺りは旧市街の中でも、とても雰囲気のある地域だ。

 城壁の内側

火薬塔(現在は博物館になっている)

少し離れた所に交響楽団ホールがあった。その掲示板にコンサートの日程が書かれていたが、本日と明日しか、こちらの時間がないので、音楽会はあきらめざるを得なかった。そしてさらに旧市街の散策を続けた。これまで何度も述べてきたように、タリンでもリーガでもドイツとの歴史的つながりはいたる所で確認できたが、この散歩でもそのことを実証できた。例えばレンガ造りと重厚な建物が、北ドイツのハンザ同盟都市と同じつくりだったり、北独ブレーメンの有名な童話「ブレーメンの音楽隊」に出てくる4匹の動物をかたどったものを、たまたま見かけたりしたのだ。

北独ハンザ都市と同じつくりのレンガの家

聖ペテロ教会の前に立つ
ブレーメンの音楽隊」に出てくる(4匹の動物)の像

旧市街には歴史と文化を凝縮したものがたくさん集まっていたが、その一方人々の生活と直結したものを、散歩の途中見かけた。それらをいくつかご紹介することにしよう。

洒落た作りの食料品店  

ドイツ薬局の看板

インターネットカフェ
(バルト3国では、IT関連のものが発達しているようだ)

ドイツとラトヴィアの経済的絆を持つ企業・団体を示す表示板

1時ごろ「マクドナルド」で昼食をとってから、再び外側の公園を散歩する。そして旧市街に戻り、リーガ大聖堂に入る。この大聖堂はドイツの帯剣騎士団が占領したリヴォニア地域(現在のエストニアやラトヴィア)の宗教的な中心をなしてきたといわれている。 大聖堂のステンドグラスが美しい。18世紀後半のものと言う。 次いで聖ペテロ教会に向かったが、72mの塔の上へは、エレベーターで上がれる。

少し離れた聖ペテロ教会の72mの塔の上から見た大聖堂(左手の建物)

また聖ペテロ教会周辺では大規模な建築工事が行われていた。そこは中世ドイツ人の結社「ブラックヘッド」の建物が、2001年のリーガ創立800年祭に向けて再建中だ。この建築工事には、ドイツ資本の協力があるものと思われる。ここは戦前までは、美しい旧市庁舎と広場があった所だ。

聖ペテロ教会の72mの塔の上から見た建築工事現場

ちなみにブラックヘッド(黒頭)というのはエチオピアの守護聖人で、ドイツ人商人が作っていた団体(ギルド)のシンボルなのだ。

エチオピアの守護聖人「ブラックヘッド」をあらわしたもの

それから近くのデパートをのぞいて、どんな商品があるのか見て回った。こうして午後4時ごろいったんホテルに戻った。そして6時半ごろ再びホテルを出て、「セナ・リーガ」という雰囲気のある地下のレストランで夕食をとった。

9月14日(火)曇り後晴れ

午前8時起床。朝食後、昨夜立てた計画に従い、今日は、リーガ市郊外の海岸保養地ユールマラへ行くことにする。9時半ホテルを出て、リーガ駅へ。駅の時刻表を見て、10:02発のドゥブルティ行きの電車に乗る。そしてユールマラの中心地のマユアリ駅に10:42到着する。

のどかなマユアリ駅

ユールマラ海岸保養地の概要を示す地図

まず目抜きのヨマス通りを散歩する。夏の盛りが過ぎて、人影は少ない。広々とした並木道があり、気持ちが良い。

マユアリ駅から伸びている目抜き通り

マユアリ駅近くに、立派な別荘風の邸宅を見かけた。

別荘風の立派な邸宅。外壁と屋根の色彩のコントラストが見事だ

木陰の向こうに見える建物。ドイツビールのレーヴェンブロイの旗が見える

通りの終点で左折し、海岸に出る。砂浜にテントが見えるが、海水浴客の姿はない。9月半ばで、海水浴のシーズンは過ぎているのだ。夏の名残を感じさせる淋しい風景だ。

淋しいユールマラの海水浴場

再びヨマス通りを通って、一軒の店に立ち寄り、軽食をとる。そしてマユアリ駅に戻り、13:16発の電車に乗り、リーガに14時ごろ到着した。

リーガ駅からすぐ近くの中央市場へ向かう。石段を上がれば、そこが中央市場だ。

中央市場の賑わい

中央市場は大変な規模で、すでに建物の前の屋台の青空市場で物売りが行われている。そして大勢の人でごった返している。とりわけ中央市場の一部をなす花市場が
魅力的だ。

花市場の華やかで、色とりどりの花々と人々

市場の雑踏にやや疲れを感じて、午後5時ごろホテルに戻る。そして部屋に入って髪と体を洗い、気分もさっぱりする。7時過ぎ、A・セータというレストランで夕食をとる。明日はヴィリニュスへのバスの旅だ。

*次回は、リトアニアの首都ヴィリニュスおよびロシアの飛び地カリーニングラードについての見聞記をお届けします。

1999年ロシア・バルト三国の旅(その2)

サンクト・ペテルブルク見聞記

今回はモスクワに次いで、サンクト・ペテルブルク滞在の日々についてお伝えする。

9月5日(日)曇り後晴れ 第6日(サンクト・ペテルブルク)

サンクト・ペテルブルクの市街図

前夜23時55分モスクワ発の寝台車に乗り、朝の8時20分サンクト・ペテルブルクのモスクワ駅に到着。迎えの車で町の東部、ネヴァ川の畔にあるホテル・モスクワへ移動。チェックインして部屋に入る。すぐに昨日からの旅の汚れを風呂で洗い流す。そして衣類をいくつか洗濯する。そのあと机に向かって、昨日の日記をつける。この町は18世紀の初めにピョートル大帝によって、ロシア北西部のバルト海に面した場所に作られた都だ。

ホテル・モスクワの外観

一休みした後、ホテルの向かいにあるアレクサンドル・ネフスキー修道院を散歩する。修道院の隣にあるチフヴィン墓地には、ロシアの文学者や音楽家が多く埋葬されている。ドストエフスキー、チャイコフスキー、ボロジン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフなど、日本でも名の知られた人たちだ。

ドストエフスキーの墓

          チャイコフスキーの墓

ボロジンの墓

ムソルグスキーの墓

リムスキー・コルサコフの墓

この墓地を散策した後、修道院の大寺院に入る。中の壁面にはいたる所、イコンが飾られ、壮麗な雰囲気が漂っていた。記念の土産物に、本サイズのイコンを一つ買う(150ルーブル)。

その後ホテルに戻り、寝台車で配られた弁当を食べる。食休みした後、再び外出する。ホテルの建物の端の方にあるメトロの入り口から入って、エスカレーターで深い地下へと降りていく。そして地下鉄二つ目の「ネフスキー大通り駅」で降りる。

ネフスキー大通り、観光客を乗せた馬車

そして大通りに面して建つカザン聖堂にはいる。19世紀初めの建造という堂々たる寺院だ。

カザン聖堂

次いでネフスキー大通りの突き当りにある元老院広場を散策する。その一角に、堂々たる「聖堂の騎士像」が立っている。この町の生みの親であるピョートル大帝の雄姿だ。

青銅の騎士像(ピョートル大帝)

そして大ネヴァ川の川岸通りの一軒の屋外カフェーで一休みする。対岸にはいくつか博物館が立っている。これらの建物や宮廷橋を眺めながら、ビールを飲む。次いで川岸に沿ってトロイツキー橋まで歩く。ネヴァ川の対岸に要塞がみえる。要塞見物は後にして、いまはこちら側のマルス広場を抜け、クローヴィ聖堂脇の運河に沿って、出発点のネフスキー大通りに戻る。その後地下鉄でホテルに戻り、2階のレストランで夕食をとる。一階の食堂では団体客がいくつか円卓を囲んで会食をしている。そこでは楽団が時折演奏をしている。

9月6日(月)快晴 第7日(サンクト・ペテルブルク)

8時起床。朝食。その後部屋に戻り、昨日の日記をつける。9時半ごろ外出。メトロに乗り、一つ目の「ヴァスターニャ駅」で降りる。そして昨日の朝着いたモスクワ駅の構内に入り、改めて見て回る。次いでネフスキー大通りを西に進み、100番地の観光ツアーの出発点を捜したが、見つからず。やむなく通りを先に進み、エカテリーナ女帝像の立つアレキサンドリヤ広場で立ち止まる。この女帝はドイツ北部の領主の娘であったが、18世紀半ば、結婚したロシア皇帝を追い出して女帝になった人物なのだ。啓蒙主義を信奉し、西欧の先進文化を積極的に導入したが、その反面ポーランド分割に加わり領土を奪いとるなど、冷厳な側面ももっていた。

エカテリーナ女帝像

次いでトヴォールという名前のデパートに入る。また51番地の民芸品店で土産物の目星を付ける。次いで大通りを渡り、プーシキン像を見てから、その奥にある「ロシア博物館」に入る。とても立派な建物だ。まず13世紀ごろから15・6世紀のロシアの古い宗教画を見る。次いで18~19世紀の新しい絵画を見る。

2時半ごろ博物館を出て、近くの店で軽食をとる。その後運河にかかるアニーチコフ橋の畔から遊覧船に乗る。サンクト・ペテルブルクには、ネヴァ川にそそぐ形で何本もの運河が縦横無尽に通っている。そのため「北のヴェネチア」とも呼ばれているほどの「水の都」なのだ。私の乗った遊覧船は、フォンタンカ運河、モイカ運河と進み、ネヴァ川に出て、再び運河の元の発着点に着くのだ。その間ロシア語のガイドがしゃべり続けていた。

スパース・ナ・クラヴィー聖堂脇の運河

 スパース・ナ・クラヴィー聖堂(壁面のモザイク画に注目!) 

   

遊覧船が運河から大ネヴァ川に出たところ

遊覧船を降りてから、再びネフスキー大通りを進んで、とある土産物店に入る。そこで私の趣味のチェスの駒を捜す。いろいろ見てから鉛製の重厚な駒が見つかる。ロシア軍兵士とトルコ軍兵士が対戦するものだ。272ドルと値段は高いが、ロシア土産としては最高のものだ。その後公園の片隅のベンチの上で対局している人の姿を偶然見かけた。ロシアでは、学校の授業にもチェスがあるほどで、大のチェス好きの国民なのだ。ある時期にはチェスの世界チャンピオンやグランドマスターを輩出していたのだ。

公園のベンチでチェスの対局

その後、「ホテル・ヨーロッパ」の付属のレストラン「サトコ」で食事をして、8時過ぎホテルに戻った。

9月7日(火)快晴 第8日(サンクト・ペテルブルク)

8時ごろ起床。朝食後、今日の計画を立てる。そして旅券をホテルの受付で返してもらってから、ホテル内の劇場サービス係りのところで、相談する。その結果、今晩8時から始まる「エルミタージュ劇場」でのバレー公演と明日の夜の同じ劇場でのショーの切符を購入した。

エルミタージュ国立美術館

いったん部屋に戻り仕度を整えてから、地下鉄で市の中心部へ移動。そして徒歩で、ネヴァ川ほとりに立つ「エルミタージュ国立美術館」へ向かう。広々とした宮殿広場を突っ切り、川岸通りの入り口から入る。入場料は、外国人は250ルーブル、ロシア人は15ルーブルとなっている。ずいぶん大きな格差だが、仕方ない。案内書を手に、まず1階を見て回る。エジプト、ギリシア、ローマの彫像などが所狭しと展示してある。次いで2階に上がると、イタリア、スペイン、オランダなど西ヨーロッパの絵画が展示されている。日本語を含めて、英語、独語、仏語などのガイドに案内された観光客でいっぱいだ。ドイツとロシアの絵画を見てから、1階に降り、軽食をとる。元気を回復してから、3階に上がり19・20世紀のフランス絵画を見る。さいごに東洋美術の展示を見る。日本の美術品では、「根付(ねつけ」が目立っていた。これは煙草入れなどの紐の端につけて帯にはさみ、落ちないようにする細工物だが、欧米などでは美術品として高く評価されているのだ。東洋部門では、そのほか中国とインドの美術品が展示されている。結局この美術館には、10時40分から15時40分まで滞在していた。

さすがに疲れたが、強い西日の中をホテルへ戻り、風呂に入って元気を回復する。そして18時、再びホテルを出て、メトロで中心街へ向かう。腹がすいていたので偶然入った店が、案内書にも出ていた「文学カフェ」であることに気づく。この幸運に気分を良くして、そこのロシア料理を満喫した。20時過ぎ、エルミタージュ劇場に入る。小さな劇場だが、館内は豪華だ。中身はいくつかのバレーのさわりを、続けて見せるものだ。主として外国人向けの出し物と見えて、日本人の姿も多かった。とにかく肩の凝らない楽しい見世物だ。

9月8日(水)快晴 第9日(サンクト・ペテルブルク)

7時過ぎ起床。8時朝食。10時前ホテルを出て、メトロに乗り二つ目で乗り換え。「ゴーリカフスカヤ駅」で下車。そこはネヴァ川の向こう側で、眼前にモスクが聳えている。その建物は無視して、「ピョートル小屋博物館」へ歩いていく。そこは宮殿が完成するまでピョートル大帝が住んでいたという小さな家だ。

ピョートル小屋(小屋の外側をレンガ造りの建物が覆っている)

ピョートル大帝の書斎を窓越しに見た所

ピョートル大帝の書斎(机上のパイプは大帝が使用していたもの)

書斎の内部(ひじ掛け椅子は大帝自ら作ったもの)

大帝は若い時、ドイツ、オランダ、イギリスなど西欧の国々を見て回り、先進文化や、とりわけ造船、建築、都市計画、工芸など、物作りを自ら習得していた。小屋の中に展示されている、肘掛け椅子などは、自ら作ったものだ。

巡洋艦オーロラ号(ロシア革命の始まりを告げて冬宮殿に発砲したという)

次いでピョートル大帝の小屋近くのネヴァ川に停泊している「巡洋艦オーロラ号」に乗り込む。この船は由緒あるもので、1905年の日本海海戦に加わり、また1917年のロシア革命のとき、この地でその口火を切ったともいわれている。

巡洋艦オーロラ号の船内で

入場料は無料で、上甲板に上がると、英語を話す水平に呼び止められ、操縦室に案内された。いろいろ説明を受けた後、オーロラの名前入りの水平帽(ソ連のマーク入り)を25ドルで買わされた。高いとは思ったが、記念になると思って買ったのだ。

次いで川岸に沿って戻り、橋を渡り、「ペトロパウロフスク要塞」に入る。ただその中心に立つ聖堂は、水曜のため入れず、明日再び訪れることにする。そして小ネヴァ川にかかる「旧取引所橋」を渡り、ヴァシリエフスキー島に入る。

ヴァシリエフスキー島上のスフィンクス

      

ロストラの灯台柱
(ピンク色の柱が目立っている。小船が柱を貫いて
いる奇妙な造形物だ)

その島の岬の灯台下の野外スナックで、軽食をとる。その灯台は「ロストラの灯台柱」と呼ばれているが、ロストラとは船首の意味だそうで、1810年建造だ。次いで近くにある海軍博物館と民族学博物館を見て回る。この町と海とのつながりが興味深い。ピョートル大帝がこの町を作ってから300年の歴史だ。ロシアの近代史は、このサンクト・ペテルブルクと切っても切れない縁があるのだ。川岸を西へと進み、シュミット中尉橋を渡る。この先はやがてフィンランド湾になっているのだ。フィンランドの首都ヘルシンキは、ここからさほど離れていない。ニコライ聖堂をのぞいてから、サドーヴァヤ通りを経て、ネフスキー通りに出る。そこから地下鉄に乗りホテルに戻る。Mから2通、ファックスが届いている。リトアニアで日本人が暴行されたことが書かれている。

9月9日(木)快晴 第10日(サンクト・ペテルブルク、夜遅くタリンへ)

朝食後、M宛に詳しいロシアだよりをFax で送る。詳しい内容を伝えるには、電話よりも文章の方が良い。
その後、荷物をトランクに詰め込むのに一苦労する。土産物が増えてしまったからだ。その苦労を何とかしのいで、荷物を地下のクロークに預けて、午前11時ごろホテルを出る。昨日と同じメトロの経路をたどって、ペトロパウロフスク要塞に入る。

ペトロパウロフスク要塞の外壁(手前に大ネヴァ川)

要塞に入る橋の上を行く観光客

橋を渡って、中心部に立っている大聖堂に入る手前に、イヴァノフ門がある。もう一つのペトロフ門とともに、壮麗なたたずまいを見せている。

イヴァノフ門

ペトロフ門(壁面に双頭の鷲とレリーフ)

門をくぐって大聖堂の中に入る。その内部は豪華なシャンデリアと大理石の柱が印象的だ。

大聖堂の内部

そしてそこにはピョートル大帝以降の歴代ロシア皇帝の棺が並べてあり、壮観だ。別の一角には最後の皇帝ニコライ二世の棺がある。私が訪ねた前年の1998年に設置されたという。この皇帝は1917年の革命で命を落としている。

歴代皇帝の棺

その後付属の施設も見て歩いたが、ある場所から城壁の外に出る。川までの間は砂浜になっているが、そこからの眺望は抜群だ。

要塞の外壁とその手前の砂浜

壮麗な大聖堂の内部とは対照的な荒々しい光景だが、要塞内部にはかつて監獄があって、囚人が入れられていたという。

川向こうの要塞見物を終えてから、再びトロイツキー橋を渡ってこちら側に戻り、広々とした夏の庭園を散歩する。

夏の庭園。
広い散歩道の両側に白い彫像

その後元老院広場の近くにあるイサク聖堂へ急ぐ。午後5時前に到着し、まずは螺旋(らせん)階段を上って塔の上に出る。とても良い眺めだ。

イサク聖堂展望台からの眺め

次いでらせん階段を降り、改めて正面入り口から聖堂の内部に入る。入場料は200ルーブルと高い。聖書に基づいた数多くの壁画があるが、19世紀前半の新しいものだという。とはいえ建物は世界で3番目に大きな聖堂で、19世紀前半に建造されている。

対岸から見たイサク聖堂

すでに日も暮れてきたので、午後8時、ホテルに戻る。そしてロビーで絵葉書に3通、便りを書く。9時半に迎えの車で市の南西部のワルシャワ駅へ移動する。うら寂しい雰囲気に包まれた駅で、薄暗いプラットフォームに停車している寝台車に乗り込む。二段式ベッドの下の部分が私の指定席になっている。列車は西隣のエストニアの首都タリン行きだ。

10時25分に、列車は静かに動き出す。こちらは昼間いろいろ動き回って疲れていたので、11時ごろ就寝。そして突然激しくドアをたたく音で、起こされる。腕時計を見ると午前2時になっている。エストニアとの国境に着いたらしく、ロシア側の出国審査が始まったのだ。その審査は厳しく、まず持ち物をすべてあけるよう言われ、中のものを念入りに調べられる。こちらは寝ぼけ眼で対応せざるを得なかったが、荷物検査は無事に終わり、やれやれと思っていたら、再びドアをたたく音。今度はいきなり大きな猛犬が入り込んできて、こちらの体や荷物の周辺を嗅ぎまわってから、出ていった。薬物などの検査だったらしい。その後しばらくして3回目の検査となった。今度は二人の係員による現金の申告書の検査で、まず出国時の現金申告書を見せた後、入国時に渡されたはずの申告書を見せろという。それをどこかへ紛失したというと、急に態度が厳しくなり、その書類がなければ、出国を許さないという。しばらく押し問答をした後、手持ちの現金の1割を出せば許してやるという。結局手持ちのドルとマルクの1割をとられて、決着した。その金はきっと係員が着服したのだと、思った。

エストニア側の入国審査は問題なく、列車は再び動き出したが、このハプニングでもう眠ることはできなかった。5日間のサンクト・ペテルブルク滞在は、楽しいものであったが、最後の出国時のいやな体験が、後味の悪い思い出として残ることになった。

(次回の1999年ロシア・バルト三国の旅はその3回目で、バルト三国の北の国エストニアと真ん中の国ラトヴィアの見聞記をお伝えします)

1999年ロシア・バルト三国の旅(その1)

はじめに

私は1999年9月から11月まで、大学の研究休暇でドイツへ行くことにした。そしてその初めに、まだ訪れたことのなかったロシアとバルト三国に短期間立ち寄った。

ロシアは、モスクワとサンクト・ペテルブルクの2都市、その後バルト三国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアそして最後に、ロシアの飛び地カリーニングラードを見て回ったわけである。
1999年といえば、ソ連邦が崩壊してロシア共和国になってから10年足らず、エリツィン大統領の最末期、プーチン氏が登場する直前の時期であった。ソ連時代の計画経済をやめて市場経済を導入したもののうまくいかず、経済は低迷し、ロシア社会は混乱していた。それなのに、ソ連時代に冷遇されていたロシア正教を復活させて、大聖堂など教会の建物の修築に大金を投じたり、ピョートル大帝やエカテリーナ女帝の銅像を修復したりして、ロシアの伝統の復活に力を入れていた。いっぽうバルト三国は、東欧革命の結果、ソ連(ロシア)の軛(くびき)から逃れて独立国となって、新たな希望に満ち溢れていた。

およそ3週間の短い旅であり、それらの国々の表面をかすってきた程度であるが、長年私が抱いてきたドイツとの歴史的な結びつきが、どのぐらい残っているのか、という視点を一応抱いてはいた。しかし実際には、各地域での人々の日常的な生活がどのようなものか、日記に克明に記すことで、四半世紀前の状況の一端を記録に残すことができたと思う。それらは現在の状況とはかなり大きく異なっているようだ。とにかく、冷戦状況が終わって10年ぐらいの時期で、バルト三国ではそこに住む人々の気持ちに、未来への希望と喜びが満ちあふれていたように、私の短い旅でも感じられた。しかし現在これらの地域を覆っている状況は、日々の報道でも分かるように、緊迫したものになっている。

そんな時に、四半世紀前の時代を振り返ってみるのも、何かの参考にはなるかと思い、当時の見聞記をこのブログに掲載したわけである。その(1)では、まずモスクワ滞在の日々についてお伝えする。

8月31日(火) 晴れ 第1日 東京-モスクワ

5時10分起床。一人で朝食をとり、7時前Mの見送りを受け、家を出る。9時前成田空港でチェックイン。出発までの時間、ナポレオン時代のロシア皇帝「アレクサンドル一世」の伝記を読んで待つ。そしてJL445便に乗って、最後尾の窓際の席に座る。機がモスクワ経由ローマ行きであることを知る。11時10分発の予定が遅れ、11時50分出発。座席の前に小型の画面があり、TV,映画、ゲームなど選択できる。
途中雲間から陸地や海が見える。シベリアの大地は、同じ姿が延々と続いている。ウラル山脈は、今回も雲で隠れて見えない。9時間の飛行の後、現地時間の午後3時50分、モスクワ空港に着陸。モスクワの気温は14度。東京の31度とは雲泥の差。シェレメチェボ空港に降り立つ前、モスクワ近郊の眺めは、樹々の緑と畑と家々が織りなす景色が美しかった。
しかし空港自体は、古く、みすぼらしい。出国審査場も狭く、混雑しており、審査に時間がかかった。そのため預けた荷物は、受取所にすでに出ていた。いっぽう税関申告は簡単に済み、到着時刻表の下で、出迎えの男性がすぐに見つかり、ひと安心。5時、彼の車に乗り、ホテルへ向かう。途中の道路は工事中で汚い。車も多く、ほこりっぽい。ほぼ1時間かかって、クレムリンのすぐ前のホテル「インツーリスト」に到着。カウンターでヴァウチャー(引換券)を渡し、パスポートも預け、部屋のカギとカードを受け取る。しかしマニュアルに書いてあったジェジュールナヤという女性はいず、ボーイさんが部屋まで荷物を運んでくれ、2ドル渡す。ホテルはTuerskaya(トヴェルスカヤ)という名前の目抜通りに面した、国連ビルのような高層ビルだ。

今回泊まったホテル「インツーリスト」

部屋に入り、シャワー浴びてから、フロントに降り、100ドル分(2450ルーブル)両替する。

モスクワの中心部の地図

6時半ごろになっていたが、まだ明るいので、近所へ散歩に出る。ホテル周辺はまさにモスクワの中心街で、大勢の人々でごった返していた。トヴェルスカヤ通りは道幅が広く、車も多く、地下道を通って反対側に出る。人の多さと車の多さ、そして道路工事などで、混とんとした活気に満ちていた。偶然メトロの入り口が見つかり、階段を下りてみたが、ロシア語の表示だけなので、すぐに電車に乗る気持ちにはなれなかった。(行き先の停留所の名前が分からないので)

地下鉄駅の入り口
(左手のMの表示はメトロのこと。
マクドナルドのMは形が少し違う)

モスクワ市内の「マクドナルド」
(メトロのMとの形の違いに注目されたい)

そのため、近くにあった有名なグム百貨店に入る。3階建て吹き抜けで、2~3重の通路が通り、中央に噴水。豪華そのものだ。

豪華なグム百貨店の内部

また少し先にはボリショイ劇場など劇場が多く、そうした雰囲気が漂っている。そしてプーシキン広場辺りまで進む。そこの地下街は商店街になっていて、熱気に満ちていた。9時に、ホテルに接続したピッツェリアに入り、ピッツァと赤ワインの食事をとる。そして10時に部屋に戻った。

9月1日(水) 晴れたり、曇ったり 第2日 モスクワ

夜中に目が覚めたが、7時に起床。朝食に行く。ヴァイキング方式だ。日本人の姿も多い。朝の仕度を済ませてから、9時ごろホテルを出る。快晴だが、空気はひんやりしている。チョッキに上着を着て、ちょうどよい。地下道を通って、マネージ広場の斜め向かいに出る。「赤の広場」は半分閉鎖されている。次いで広場に面した「聖ヴァシリー寺院」の前に出る。9本のネギ坊主は、まさにロシアそのものといった感じだ。    

聖ヴァシリー寺院を前にして、私が立っている

次いでクレムリンの外側を、モスクワ川に沿って歩いて、トロイツカヤ塔のところからクレムリン内部に入る。    

トロイツカヤ塔(クレムリンへの一般客の入り口)

すぐ左手の武器庫に入り、入場料を払って内部に進む。大勢のグループ客がガイドに案内されて動いている。二つの日本語ガイドのグループに加わって、説明を聞く。そこは豪華絢爛たるツァーリ(ロシア皇帝)の宝物庫なのだ。クレムリンはもともとロシア皇帝の宮殿だったのだが、革命後ソ連政府が奪い取ったものだ。

クレムリン内の武器庫(今は博物館)の内部

同武器庫での日本語ガイドと日本人観光客

この武器庫を出てから、様々な寺院が密集している地区を見て回る。それらの中にも内部が博物館になっているところもあった。こうしてクレムリンの内部を午前10時から午後1時半までかかって、見て歩いたわけである。

クレムリン内のソボルナヤ広場と観光客の群れ

クレムリン内部にある広場での観光客の姿、その前に私が立っている。

クレムリン外壁。その手前がレーニン廟

クレムリンのトロイツカヤ塔の外は公園になっている。そしてその公園からマネージ広場にかけて、見事に整備されている。また屋根が付いたパサージュ風の高級商店街はとても魅力的だった。

クレムリン近くのマネージ広場
(中央部分の下が大きなショッピング・モール)

その後いったんホテルに戻って、小休止。そして6時前にボリショイ劇場に行き、ダフ屋のおばさんから、350ルーブルで当日券を入手して、グリンカのオペラ
“Ivan Susanin” を見られたのは、幸運だった。ちなみに1999年9月現在のレートは、1ドル=25ルーブルだったので、当日券350ルーブルは14ドルである。

9月2日(木)晴れ 第3日 モスクワ

7時過ぎ起床。朝食後、昨日の日記をつけ、今日の行動計画を立てる。9時半ごろ、ホテルを出て、最寄りのM(地下鉄)の駅に入った。 そして長いエスカレーターを降りて、プラットフォームにたどり着く。料金は全線4ルーブルだ。

地下鉄駅構内の長いエスカレーター

電車に乗り、3つ目の駅で降りる。持参した日本語のモスクワ市内の地図を頼りに、見当をつけて、目的のラトヴィア大使館を捜したのだが、なかなか見つからない。5~6人に尋ねた末、ようやくラトヴィア大使館の新しい建物にたどり着く。どうしてその建物を捜したのかというと、この後旅行するラトヴィアに入国するためのビザが、日本では取れなかったからだ(当時日本とラトヴィアとは外交関係がまだ結ばれていなかったので)。

ラトヴィア大使館(領事部)の入り口の銘板

モスクワのラトヴィア大使館には、何とかたどり着いたのだが、そこで英語を話す人を見つけるのに、また一苦労した。その後申請書と自分が映った写真、旅券、及び手数料の60ドルを渡して、何とか手続きが済んだ。しかしラトヴィア入国のためのビザは、午後3時に発給されるというので、午前11時から午後3時まで、近所を散歩して過ごす。しかし方向音痴のせいか、歩いているうちに地図では確認できない所をうろついた挙句、何とか先ほどのラトヴィア領事館に戻ることができ、こうしてラトヴィアへの入国ビザを取得することができた。

そして往路と同じ地下鉄に乗って、3時40分ごろ、ホテルに戻った。快晴の強い日差しの中を歩いたので、汗をびっしょりかいた。部屋に入って、シャワーを浴びて一休みする。そして東京のMへ電話する。

それから5時ごろ再び外出。今度はトヴェルスカヤ通りを一路、北西方向のベラルーシ駅まで歩く。人と車は多いが、さわやかな空気と日差しで気分は良い。通りの左側を進み、プーシキン広場で一休みした。

プーシキン広場前の道路

広場の一角に立つ詩人プーシキンの銅像

その後、さらにベラルーシ駅へ向かったが、その途中、いわゆるスターリン様式の巨大な高層ビルが見えた。この形のビルは、遠くからよく見えるので目印にはなるが、いくつもあって、しかもどれも似たり寄ったりの形をしているので、道に迷ったときは、かえって迷いのもとになる。

スターリン様式の建物

それはともかく、さらにベラルーシ駅へと向かって歩いていく。

ベラルーシ駅(モスクワ市の西北にある)

ベラルーシ駅横手にあるノミの市

ベラルーシ駅近くの日本料理店

モスクワ市の中心街の周囲には、行き先別に、北西にベラルーシ駅、南西にキエフ駅そして北東にレニングラード駅という風に、3つの大きなターミナル駅がある。ロシア北方のレニングラードは、1991年のソ連崩壊に伴って、市名が18世紀以来のもともとのサンクト・ペテルブルクに戻ったが、駅名はそのままに残っているのだ。ちなみにレニングラードは、1917年の革命の後、指導者レーニンの名前にちなんでつけられたものだ。

ところで、ベラルーシ駅の周辺は3車線の大通りで、薄汚れた車でいっぱい。車優先の感じだが、歩行者もその間を巧みにわたっている。また駅の近くにノミの市もあり、庶民が集まる地域のようだ。日の丸のついた看板の日本料理店も見かけた。ロシア語の看板の文字が読めないのが、残念だ。

こうして市の中心街の北西部を歩き回って、8時半ごろ再びホテルにもどった。腹がすいていたので、3階のロシア・レストランで夕食をとる。楽団の演奏付きで、思いもかけず安かった。

9月3日(金)快晴 第4日 モスクワ

7時半起床。朝食後、昨日の日記をつける。その後、今日の行動計画として、中心部の西側を歩くことに決める。そして9時半ごろホテルを出る。さわやかな晴天。クレムリンの西側にあるモスクワ大学旧館のわきを通り過ぎ、ヴォズドヴィジェンカ通りを進む。この通りはやがて新アルバート通りという、幅の広いモダンな高層住宅が立ち並ぶ道になる。これらは旧ソ連時代に、社会主義成功の産物として建てられたという。

新アルバート通り
(旧カリーニン通り)

その先のモスクワ川に架かるカリーニン橋の周辺に、ホワイトハウス(ロシア連邦議会ビル)、モスクワ市役所、ウクライナホテルと、3っつの大きな建物がある。

新アルバート通りからウクライナ・ホテルを望む

左手:ウクライナ・ホテル、右手:モスクワ市役所

カリーニン橋 左手:ロシア連邦議会ビル、
カリーニン橋 右手:モスクワ市役所

橋を渡るとクトゥーゾフ大通りとなる。そしてかなり歩いた末に大工事中の鉄道駅を過ぎ、ようやく目指す凱旋門(1812年の対ナポレオン戦争の勝利を記念しての)に着く。ただその手前のボロジノ戦闘パノラマ館は休館だった。トルストイの『戦争と平和』にも出てくるが、クトゥーゾフ将軍は、ボロジノの闘いでナポレオン軍を破った祖国の英雄なのだ。このパノラマ館に入りたかったのだが、明日また来ることにする。

その日はやむなくすこし戻り、メトロに乗って川を渡り、環状道路わきに着く。既に1時半過ぎになっていたので、近くのレストランに入り昼食をとる。その後歩行者天国になっている繁華なアルバート通りを散歩する。両側にレストラン、カフェなどが立ち並んでいる。そのあたりの一軒の両替所で、100ドル(2560ルーブル)を両替する。率はホテルより良い。

次いで南へ向かって歩き、「トルストイ博物館」に入る。その時、参観者は私一人。若いころから私は熱心なトルストイのファンで、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、『セヴァストポリ』、『イワンの馬鹿』など主な作品はよく読んだものだ。

「トルストイ博物館」の入り口

館内をゆっくり見終わってから、本日は外歩きは早めに切り上げて、メトロに乗り、6時前にホテルに戻る。シャワーを浴び疲れをとってから、8時前に近くのマクドナルドで軽食をとり、すぐにホテルに帰る。今日になって初めて部屋のテレビをつけ、一般の番組を見る。いくつかチャンネルがある。ニュースは、ロシア語はわからないものの、映像からテーマぐらいは想像できる。またロビーで、ドイツ語の新聞 ”Moskauer  Deutsche  Zeitung” を入手して、部屋でゆっくり読む。私にとって興味ある記事がたくさん掲載されている。

9月4日(土)曇り後快晴 第5日 昼間モスクワ、夜遅くサンクト・ペテルブルクへ

7時ごろ起床。外は曇っている。朝食後、昨日の日記をつける。9時過ぎ、荷物をまとめてチェックアウト。トランクとショルダーを預けて、ホテルをでる。最寄りのメトロ駅から一度乗り換えて、市の西南にあるキエフ駅で下車。地上に出ると、まるで終戦後の上野駅の感じで、雑踏と混とんのカオスの雰囲気だ。外国製のたばこ販売の屋台が無数に軒を連ねていて、壮観だ。

キエフ駅(建物は立派だが、内部も周辺も人々の雑踏がすさまじい)

キエフ駅周辺の車の雑踏

キエフ駅周辺のマーケット
(外国製たばこ販売店が無数にある)

その後、昨日閉館していた「ボロジノ戦闘パノラマ館」へ、タクシーで駆けつける。手前に英雄クトゥーゾフ将軍の騎馬像、背後にボロジノ戦闘パノラマ館がある。

ボロジノ戦闘(1812年)パノラマ館と
クトゥーゾフ将軍の騎馬像

パノラマ館をざっと見てから、歩いて再びキエフ駅近くまで戻って、付近の「マクドナルド」店で昼食をとる。次いでタクシーでヴァラビョーヴィ丘(雀が丘)へ移動する。朝のうち曇っていたが、昼になると快晴になる。土曜日のせいか、大勢の人出だ。数多くの新婚カップルと関係者の姿が目立つ。マトリョーシカ人形は売り物のお土産だろう。

新婚カップルの両側に、
無数のマトリョーシカ人形が並んでいる

そこの展望台からは、眼下の芝生に遊ぶ人々の姿。そしてはるか遠くに、モスクワ川の先に市内の建物が見える。また背後にはモスクワ大学の威容が聳えている。

雀が丘の上のモスクワ大学

大学に向かって公園の中をしばらく歩いていく。そして天気が良いので、しばらくベンチで休憩する。そのあたりは次第に人影が少なくなっている。

モスクワ大学の前の公園

しばらく休んでから3時ごろ、こんどは丘の斜面を歩いて川端へ出る。そしてそこから遊覧船に乗り、クレムリンの先で下船。

遊覧船の上からの白色の橋の眺め

クレムリン前の赤の広場に出ると、聖ワシリー寺院のわきの仮設の舞台が、踊りと歌で賑わっている。そしてそれを見る大勢の観客と警備の警官の姿も見られる。土曜のためか、その一帯は歩行者天国になっていて、スピーカーから流れる大音響と人込みで、辺りは大変なもの。私が泊まったホテル前のトヴェルスカヤ通りも人でいっぱいだ。少し離れた所にあるイタリア料理店で、ゆっくり夕食をとる。そしてホテルに預けた荷物を受け取って、午後10時40分、迎えの車で、クレムリンから見て東北にあるレニングラード駅へと向かう。その後午後11時55分発の寝台車に乗り、次の目的地サンクト・ペテルブルクへ移動する。

(サンクト・ペテルブルクでの見聞記については、次回のブログ「ロシア・バルト三国の旅 その2」でご紹介します。)

ドイツ近代出版史(10)第二次世界大戦後1945〜(その3)

第4章 東ドイツにおける出版事情

(1)社会主義社会における出版の役割

東ドイツにおいては、書籍や出版活動は、当初から「社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」とされていた。これに関連して、東ドイツの研究者のブルーノ・ハイトは1972年に、その『ドイツ民主共和国における書物の役割について』の中で、次のように述べている。
「書物はそもそも初めから社会主義社会の建設を手助けしてきた。書物はソビエト連邦ならびにその他の社会主義諸国との友好協力関係の促進に寄与してきた。書物は労働者や協同組合所属農民が、文化や芸術を自分のものにするのを手助けしてきた。書物は資本主義と社会主義の間の精神的な大論争に答えを与えた。そして今日、書物はドイツ民主共和国の発展した社会主義社会の形成に、寄与しているのだ。書物は社会主義的態度および信念の形成に当たって、何ものにも代えがたく、しかもその信念こそは社会主義の勝利のために、重要にして不可欠な前提条件なのである」

このように東ドイツでは、書物は一つの明確な目標を達成するための手段であると規定され、その出版活動もこうした前提条件の下で、はじめから独自の発展を見せてきたわけである。そしてこの観点から、何はともあれマルクス・レーニン主義の古典作品が、さまざまな版にわたって出版されたのである。さらにソビエト文学とならんで、反ファシズム・民主主義的な作家の作品が、民主的ドイツ文化の建設に当たって、大きな精神的な力となるものとされた。またこうした意味合いから、さまざまな形での読書会や作家との対話集会、文学的討論会などが奨励された。毎年「書籍週間」や「児童文学の日」が定められ、労働者の祭典などには「文学プロパガンダ的催し」も開かれたりした。

先にも述べたように「書物は社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」との至上命題が、出されたわけであるが、こうした原則は再三再四、体制側の代表によって、出版関係者に向かって呼びかけられた。出版界をその管轄下に置いていた文化省のJ・R・ベッヒャー大臣は、1953年に出版関係者を前にして、こう語った。「出版者も文化政策の推進者であり、自分が携わっている分野において、文化政策を推進していかなければならないのだ」。またウルブリヒト社会主義統一党第一書記は、1959年に開かれた作家会議に出席して、社会主義的社会秩序のなかでの作家の役割について、次のような演説を行った。
「作家は、社会生活のただなかに身を置き、社会生活の発展に対して自ら協力するときにのみ、その任務を果たすことができる。・・・われわれの文学・芸術は、ドイツの最良の人道主義的伝統の維持ならびにドイツ民主共和国における社会主義の勝利に奉仕すべきものである」

また出版社の活動については、1946年4月に開かれた社会主義統一党の創立大会の決議の中で規定され、その後1963年の第6回党大会で改めて確認されている。それはドイツ民主共和国における社会主義の全面的かつ完全な建設計画の一環として、組み込まれているものである。そしてその国法上の基盤は憲法にあった。1968年4月に改定された東ドイツの新憲法の第25条には次のように書かれている。
「ドイツ民主共和国の全ての市民は、教育を受ける平等の権利を有する。・・・全ての市民は、文化的生活に関与する権利を有する」。また第17条には「学問研究およびその知識の応用は、社会主義社会の根本的基礎であり、国家によってあらゆる面にわたって奨励される」と書かれており、さらに第18条では「働く者の文化的生活の促進および国民的文化遺産と世界文化の保護」がことさら強調されている。

(2)東ドイツ出版界の変遷

出版界の概況

社会主義国の東ドイツにとって出版は、前節でみたように特別の役割を担わされていたわけであるが、その40数年にわたる歴史をこれから概観することにしよう。ただし史料的制約もあって、西ドイツの場合に比べて、ごく簡単なものにならざるをえない事を、初めにお断りしておく。ちなみに東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1949年に発足し、1990年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収合併された形で消滅した。とはいえ1945年5月にナチスドイツが敗北し、ドイツの東北部をソ連が占領統治し始めた時点から、その出版界はのちに西ドイツとなる西側地域とは、まったく違った形で始まったのだ。

さて1949年に生まれた東ドイツ(ドイツ民主共和国)の出版界は文化省の管轄下にあり、主な書籍出版社と雑誌出版社は同省から認可を受けて営業していた。認可を受けていた出版社の数は、1970年代半ばの時点で、全部で78あったが、この数は1985年になっても変わっていない。これらの出版社は専門分野別に分けられており、21が政治・社会科学・自然科学文献の、4が医学・生理学文献の、15がその他の専門文献及び教科書の、3が地図の、6が児童及び青少年向け書籍の、16が文芸書の、3が美術書の、7が音楽書及び楽譜の、そして3が宗教書の出版社である。

いっぽう経営形態別にこれらの出版社を分類すると、国営が34、社会団体所有のものが22、国家関与企業が5、そして個人所有のものが17となっている。このほか国家の認可を受けていない小規模の出版社が20ほどあったが、そこでは暦、絵本、塗り絵帳、職業指導書、教育用ゲーム道具などが取り扱われていた。

東ドイツの出版社の中には、ライプツィッヒの伝統的な出版社もあれば、1945年以後に新たに創立された出版社もあった。しかし首都の東ベルリンには32もの出版社があつまり、東ドイツ全体の出版点数のほぼ三分の二を出版していたのである。その一方ライプツィッヒには38の出版社が集中し、数からいえば東ベルリンを凌駕していたが、出版点数は全体の23%にとどまっていた。とはいえ東ドイツの出版社は、ほとんどこの二つの都会に集中していたわけである。

それでは書籍生産の規模はどれぐらいだったのであろうか。そのことを示しているのが次の表である。

年間発行点数 年間総発行部数 一点当たりの平均部数
1949 1,998 3340万部 16,700
1954 5,096 7000 万部 13,800
1959 5,631 8880万部 15,783
1964 5,604 9360万部 16,723
1969 5,169 11400万部 22,050
1985 6,471 14460万部 22,350

(出典:H.Widmann,  Geschichte des  Buchhanndels, 1975.S.212
1985年度だけは、Lexikon des gesamten  Buchwesens.II, 1989, S.289)

それでは次に東ドイツ出版界の変遷を、1945年から1970年代まで(史料的制約から)を中心に、順次たどってみることにしよう。

初期の建設期(1945-1949)

この時期はまだ東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国されておらず、ソ連の占領時代に相当するが、なにごとによらずソ連占領軍政府の命令が絶対的な時代であった。まずソ連軍政府布令第二号によって民主主義的な諸政党が許可されたが、その筆頭に立ったドイツ共産党は、1945年6月国民に向かって、ある呼びかけを行った。その中で、ヒトラー体制の残骸の完全な一掃に次いで、すべての学校および教育施設における真に民主的で進歩的で自由な精神の保持と、学問研究及び芸術創造の自由が図られるべきことが謳われた。

そしてこの呼びかけに基づいて「ドイツの民主的再生のための文化連盟」というものが設立された。そしてこの組織の下に、出版関係では、何はさておきファシズム的思想の所産を含んでいるような著作物は出版しないように、との路線が示された。そのうえで新しい理念に合致した教科書を発行し、第三帝国時代に追放されたり、弾圧を受けたりした人の著作物の名誉回復を図ることが指示された。そしてさらに学問的生活の再建のために必要な専門書や専門文献の出版が促進されるべきことも指示された。その際出版界の再建のために、ソ連占領軍政府の文化担当官が援助の手を差しのべた。

かくして早くも1945年夏に、新しい出版社がいくつか設立されたのである。まずドイツ共産党の出版社として、「新路線出版社」が作られたが、それから数か月後には「ディーツ出版社」(ベルリン)が生まれた。また教科書出版社としてライプツィッヒに「人民と知識」が活動を始めた。さらに文化大臣ヨハネス・ベッヒャーの後押しで、「アウフバウ(建設)出版社」(ベルリンおよびヴァイマル)が設立されたが、この出版社は設立三年後には150点の書籍を刊行していた。そこにはJ・R・ベッヒャーやアンナ・ゼーガースなどの当時の現存作家の作品のほかに、ゲーテ、シラー、ハイネ、シュトルム、ケラーなどの古典作品も含まれていた。こうして同出版社は、東ドイツの文芸書出版社の筆頭の地位を占めるようになったのである。

これに続く数年の間に、さらに一連の出版社が設立されていった。学術出版社として「アカデミー出版社」(ベルリン)が作られたあと、1948年に「国民出版社」が誕生した。またマルクス・レーニン主義及びロシア・ソ連の偉大な作家の作品を刊行する出版社として「ソ連軍事管理出版社」及び「モスクワ外国文学出版社」が、1946~1949/50年にかけて、存在感を示していた。

いっぽう1946年に、国民教育担当官庁に出版部門及び出版担当の「文化諮問委員会」が設けられた。そして出版社の再認可、出版物の許諾申請、出版編集計画などの審査業務が、この「文化諮問委員会」に委ねられた。その結果、百年以上の歴史を有したものも含めて、たくさんの出版社が1946~47年にかけて、「国営企業」として引き継がれた。その主なものを挙げると、ライプツィッヒに本拠を置いていた「国営文献目録社」(1826年創立)、「国営ブロックハウス出版社」(1805年創立)、「国営ブライトコップ・ヘルテル音楽出版社」(1719年創立)、「トイプナー出版協会」(1811年創立)、「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」(1828年創立)、「インゼル出版社アントン・キッペンベルク」(1899年創立)、そしてハレに本拠を置いていた「国営マックス・ニーマイヤー出版社」(1869年創立)などである。結局1949年までに全部で160の出版社に営業許可がおりたが、その後はこの数はかなり減少して、前述のとおり78となった。

いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)に対しては、ソ連軍事政府によって、1946年4月にその活動再開が許可された。これによって同組合が発行してきた『ドイツ書籍取引所会報』と『全国図書目録』の発行も、再び軌道に乗るようになった。出版社の活動に対するその後の指針として、第一次二か年計画(1949/50)が定められ、その詳細については「ドイツの学術文化の保持発展に関する指令」(1949年3月)によることとされた。また専門技術者用の文献を発行するところとして「専門書出版社」が1949年にライプツィッヒに設立され、さらに児童書発行所として「児童書出版社」が同じ年に設立された。

ここでこの時期の書籍販売面に目を向けることにしよう。第二次大戦直後は、この分野ではなお著しい混乱が支配していたが、やがて1946年9月になって、ソ連軍事政府の命令によって、「ファシズム関係図書の絶滅」が図られることになった。その前の1945年8月~1946年8月の時期には、ソ連占領地域では、書物960万冊、小冊子180万冊そして雑誌350万冊が発行されていたのだ。

また書籍取引の中心的な機関として1946年に、「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」が設立された。そして書籍販売店はこのセンターを通じて、出版社と取引をし、代金の清算を行うことになった。書籍販売店の営業許可は、担当官庁から下されることになった。また初期の書物不足から、大学や専門学校に特別な役割が課された。さらに貸本店の在庫図書のためにも、相応の措置が取られねばならなかった。この時期の終わりに、書店は1600店、書籍販売所は1300か所を数えた。

国家建設後の発展の時期(1949-1955)

1949年5月、西側三占領地域からドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生したが、その後を追うようにして同年10月7日、ソ連占領地域からドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれた。その直後の11月23日、同国初代のグローテヴォール首相は、「人間精神の成果をすべての人々の手に届くようにし、加えて真に人道的な文化を発展させることこそが、ドイツの精神労働者の特別な任務である」と語っている。ここでは学者、知識人の役割を説いたのであるが、翌1950年3月に出された「ドイツ人民の先進民主文化の発展ならびにインテリの労働・生活条件のいっそうの改善のための指令」の中で、とりわけ学術出版社及び図書館が学術書を支援すべきことが謳われている。また同指令第6条第4項では、ドイツ民主共和国の外部で出版される文献や科学技術研究に必要な文献を調達するために、センターが設立さるべきことが記されている。さらに同じ指令の第10条第1項には、働く人民の文化水準向上のために、過去及び現在の最も進歩的で最良の文化作品を、企業や地方で働く創造的な人々に与えるべきことが定められている。
次いで1950年7月に開かれた政権党である社会主義統一党の第3回大会で、出版界にとって重要な意味を持った方針が打ち出された。つまり1951-55年の五か年計画で、出版の規模を二倍にすることが定められたのである。

いっぽう「進歩的著作物の発展に関する指令」に基づいて、書籍出版のための新しい役所が設立された。この役所の役割は、第一に中央の調整と指導によって、あらゆる分野の著作物を振興発展させること。第二に専門家の鑑定によって出版物の質の向上を図ること。第三に書籍及び雑誌出版社の設立を認可すること。第四に出版編集作業に対して絶えず助言を与えること。そして第五に書籍及び雑誌出版のために用紙を分配することなどであった。

この役所は1951年11月に、ベルリンで第一回の出版社会議を開いた。その後1952年10月にライプツィッヒで第二回会議、そして1953年11月に同じ場所で第三回会議を開催した。また1952年の社会主義統一党大会で、文化大臣ヨハネス・ベッヒャーは、「知識人と労働者の連携の緊密化」を訴えた。そして1953年5月の党中央委員会政治局の決議の中で、文芸批評、図書目録、進歩的書物の宣伝の促進が謳われた。その具体的方策として、例えば地域・企業新聞を含めたあらゆる新聞に、新刊書の書評欄を設けることが訴えられた。

書籍販売面ではこの時期、進歩的著作物を広く人々に供給するという意味合いで、国営の「人民書籍販売」という概念がしきりに宣伝された(1951年8月の指令)。その一方でなお私営の書店も存続していたが、それらの書店は「民主的立法の基盤の上に立つよう」にと、指示がなされた。1952年になると先の「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」の機能が拡大された。つまり現代的機能を備えた社会主義的な書籍取次業へと拡充されたのである。そして対外的な書籍販売面では、1953年10月にまったく新しい組織として、「ドイツ書籍輸出入有限会社ライプツィッヒ」が設立された。

社会主義的出版体制確立の時期(1956-1961)

ソ連共産党第20回大会が開かれた数週間後の1956年春、東ドイツ社会主義統一党の第3回大会がベルリンで開催され、そこで第二次五か年計画(1956-60)が策定された。この計画が出版の分野にもたらされた結果として、さらなる闘争のために「高度に有能な専門家」が必要であることが明らかとなった。そして西側からの専門文献の輸入に頼らなくてもやっていけるために、大学や専門学校の教科書の出版を拡充することが要請された。

翌1957年4月、ライプツィッヒで社会主義諸国の出版関係者の会議が開かれたが、これはお互いの情報交換や緊密な協力関係を作り出すうえで、大きな役割を果たした。同様の会議は、それに続く数年間続けられた。そしてこれらの会議を通じて、修正主義的な動きの浮上は断固として抑制された。そうした点で出版社の活動が不十分な場合には、その都度自分たちの役割の重大さを認識するよう、諭された。

こうした基本方針のもとに、1958年7月には文化省の内部に「著作・出版部」が設けられた。さらに新たに「国営出版社連合」という組織が作られ、文化省の下に入ることとなった。これとは別に著作・出版活動のイデオロギー的政治的基本計画を策定するために、文化省の中に25の著作・出版作業部会(出版主、編集員、学者、国家及び社会団体の代表から構成)が設けられた。

いっぽう各政党も独自の出版社を持つようになった。こうして1958年に自由民主党の出版社として「デア・モルゲン」出版社が活動を開始した。キリスト教民主同盟の「ウニオン出版社」はこれよりずっと早く、1951年に設立されていた。

この時期1959年9月、政権党の社会主義統一党の第一書記ウルブリヒトは、その「平和の7年計画」と題する人民議会での演説で、次のように語った。「ポピュラーサイエンスの著作物、学術専門文献、外国語文献の出版を大幅に拡充し、優れた図書を廉価に大衆に供給することが、切に望まれる」。

ベルリンの壁構築(1961年)以後の動き

1961年8月13日、東ドイツ政府は西ベルリンを遮断するために、いわゆる ベルリンの壁を構築した。そしてこれによって東西ドイツの分断が決定的な段階を迎えた。これに伴い、それまでなお部分的には西ドイツから取り入れていた教科書や専門文献に依存することが、全面的に拒絶されることになった。そして部分的にはソ連の教科書をドイツ語に翻訳して、学校で使用させることも始まった。

このようにして国家としても東ドイツは西ドイツとは別の独立国家であり、文化面でも社会主義的な独自の文化を有していることを、東ドイツ政府は強調するようになっていった。その結果、1963年6月には「西ドイツ、西ベルリン及び資本主義的外国からの著作物の受け入れへの特別措置に関する指令」が出されることになった。具体的には、これらの著作物を輸入しようとする者は、文化省内部の「書籍出版販売担当部門」に申請して、特別許可を得なくてはならなくなったのである。この措置によって、東ドイツ政府当局の気に入らない西側著作物は、いつでも締め出すことができるようになった。
いっぽう1963年1月には、閣僚評議会の決定に従って、「国営ドイツ中央出版社」が設立された。この出版社は、一般公文書及び人民議会、国家評議会、閣僚評議会その他の中央国家機関の文書、並びに国法問題に関する学術文献を発行することを、その任務としていた。

書籍販売面に目を向けると、1963年1月に文化省内部に作られた「書籍出版販売部門」が、書籍販売に従事する人々の組織化に乗り出すようになってきた。つまり国営の「人民書籍販売」に属していない私営の個人書店を、社会主義社会の建設のために、計画的に組み込んでいく方策がとられたのである。そして1966年5月には、そのための法的な根拠として「委託販売指令」が出された。この指令に基づいて、人民書籍販売と個人書店の間に<委託販売協定>が結ばれたが、その第1条第4項には次のように記されている。

「書籍、小冊子、楽譜、レコード及び複製品を継続的に人々に供給するために、そしてまた個人書店を社会主義の広範な建設へと組み込むために、両者の合意のもとに、人民書籍販売と個人書店の間で、当委託販売協定を締結する」

また第3条第1項及び第2項は、次のように記している。
「当委託販売協定によって、人民書籍販売(及びその支店)は、現にある売買用の在庫品を、人民所有(つまり国家所有)に引き継ぎ、その在庫を委託販売者(つまり従来の個人小売業者)に、今後の書籍販売業務の基礎として与える。商品在庫の区分は、個々の商品グループに従って、その勢力範囲に応じて確定される」

さらに第3条第4項には、次のように記されている。
「最終消費者(本の買い手)への販売は、支店(人民書籍販売の)の勘定書によって、委託販売者の名において行われる。当委託販売協定の締結に基づき、委託販売者は自分の勘定書によって行ってはならない」

第4条第1項には「引き渡された商品への保証として委託販売者は、平均在庫商品の最終消費者価格の33・3%相当の保証金を支払わねばならない」と書かれている。そしその見返りとして第8条第1項には「委託販売者はその業務に対して、売り上げの・・%の手数料を受け取るものとする」の記されている。

また第8条第3項には、「委託販売者には毎月、以下の経費つまり家賃、光熱費、クリーニング代、暖房費、店の設備の減価償却費が、あとで返済される」と記されている。さらに第10条第1項で「委託販売者及びその従業員に対する休暇は、法によてって定めるところとする」とも書かれている。

以上「委託販売協定」の条文をかなり詳しく紹介したが、これにょって東ドイツの書籍小売販売人が、どのような形で国家の傘下に組み込まれていったのか、そのおよその実情がお分かりいただけたことと思う。

こうした経過を経て、個人の書籍小売商は地域の「人民書籍販売」と結びつけられたのだが、1980年代末の時点(ドイツ民主共和国の最終の時期)で、書籍販売店の状況がどうなっていたのか、次に見ることにしよう。この時点で国営の人民書籍販売には、大小700の書店が属していた。そこには地域の重要都市にある14の「本の家」、250の郡の書店、280の都市書店ならびに外国書、楽譜、古書の専門店が含まれている。

このほか他の所有形態の書店及び古書店が380あり、そのうち100以上が委託販売協定を通じて、地域の人民書籍販売と結びついていた。「人民書籍販売」の中央管理センターの所在地は、ライプツィッヒであった。このセンターの下に、中央古書センター及び通信書籍販売業としての「ライプツィッヒ本の家」も入っていた。ここは東ドイツ及び他の社会主義国の出版社の出版物を、引き渡す業務を担当していた。その宣伝広報誌である「ブーフクーリエ」を通じて、一般文芸書、ポピュラーサイエンスの本、児童・青少年向け図書、そして学術書の一部の目録が、読者に提供された。さらに50万人にのぼる顧客の住所氏名を載せた顧客カードに基づいて、顧客の関心分野に応じて、それぞれの図書に関する情報が送られた。
また人民書籍販売の支店や書籍販売所が存在しない地域の住民に対しては、「注文仲介業者」が5%の手数料でサービスを行っていた。これら出版物の普及宣伝措置は、1969年に制定された「出版物販売に対する指令」に基づいて行われていたものである。

(3)東ドイツの図書館ほか

1913年にライプツィッヒに設立されたドイツの国立図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、第二次世界大戦中さしたる被害を受けず、戦後まもなくその活動を再開することができた。また1915年から続いてきた全国図書目録「ドイチェ・ナチオナールビブリオグラフィー」も、大戦末期から終戦直後にかけての混乱期にもかかわらず、1946年8月にはその仕事を再開した。こうして図書目録作成の作業は順調に進捗していった。当時東ドイツ地区はソ連軍の占領下にあったため、1946年12月には、ソ連占領軍の布告の形で、「ドイチェ・ビュッヘライ」への献本義務がソ連占領地域及びベルリンのソ連地区の出版社に対して伝えられた。また1950年には、「ドイツ書籍・著作博物館」が、「ドイチェ・ビュッヘライ」に併合された。そしてこの新しい部門は、1960年になって、以前「書籍商組合」の付属図書館が管理していた業務を受け継ぐことになった。

さらに「ドイチェ・ビュッヘライ」は第二次世界大戦中に壊滅的な打撃を受けた『出版社・諸機関カタログ』再編集の仕事も順次行うようになった。これは出版業界全体にとって実用的な価値があったばかりではなく、出版史の研究上も大きな価値を持つものであった。つまりこれは出版社や出版関係諸機関の単なるリストにとどまらず、それらの活動を歴史的に整理分類して叙述したものであるからである。1972年夏には1913年(「ドイチェ・ビュッヘライ」創立の年)までの編集が完了し、その後も1913年以降の分が続けられている。

以上述べてきた「ドイチェ・ビュッヘライ」は東ドイツで最も重要な図書館で、1980年代末の蔵書数は約790万冊に達していた。これに次ぐのがベルリンの「ドイツ国立図書館」であるが、蔵書数は680万冊である。以下、ベルリン大学図書館(390万冊)、ハレ大学・州立図書館(360万冊)、ライプツィッヒ大学図書館(320万冊)、イエナ大学図書館(240万冊)ロストック大学図書館(170万冊)、ドレスデンの「ザクセン州立大学図書館」(110万冊)、ドレスデン工科大学図書館(110万冊)などが、東ドイツの主な学術図書館である。

このほか4500を超す特殊・専門図書館が存在したが、その中にはヴァイマルの「ドイツ古典図書中央図書館」(80万冊)のようなユニークなものも少なくない。さらに一般の公立図書館は全国で3500もあり、その蔵書数は合計4300万冊に達し、これらの利用者総数は年間390万人に上っていた。また労働組合図書館が4000あり、その蔵書数は970万冊に達していた。

以上見てきたように、人口わずか1700万人足らずの東ドイツにしては、図書館の数が極めて多いことが特徴的である。そして単に図書館とそこの蔵書の数が多いだけではなくて、実際の利用率も極めて高かった点が注目されるのだ。つまり東ドイツ国民の3人に1人が、常時図書館を利用していたという。とりわけ児童や青少年の利用率が高く、6~14歳の児童の70%、14~18歳の青少年の62%が、図書館を常時利用していたわけだ。公立図書館の場合1984年に、図書貸出し件数が8400万件という記録が残されている。

次いで社会主義的理念の実現に大きく寄与すべきものとされている出版人の養成機関に目を向けてみよう。こうした社会主義的出版活動の指導者になるべき幹部候補生を養成することをその任務とした「書籍出版販売研究所」が、1968年にライプツィッヒのカール・マルクス大学内に設立されたことが、まず注目される。この研究所は1960年に設立された「書籍出版販売アカデミー」とともに、重要な役割を果たした。ただ出版社や書店で働く一般の従業員の養成に関しては、すでに1949年に出された指令の中で一般的な精神や理念が説かれ、これに基づいて1957年に、「書籍販売専門学校」が設立されている。

いっぽう書籍見本市についてみると、ソ連占領地域での最初の見本市が、1946年5月に、伝統あるライプツィッヒで開かれている。その二年後の1948年春の書籍見本市には、170にのぼる出版社、取次店が参加した。そしてその年の秋の見本市には、外国からの最初の参加者として、オーストリアの出版社が出品した。ただこの「ライプツィヒ書籍見本市」は1973年以後は、年一回春にだけ開催されることになった。この1973年春の見本市には、21か国から800を超す出版社が参加した。

最後に書物の外的側面を代表する愛書趣味とブックデザインについて、簡単に触れておきたい。東ドイツにおいても、書物の蒐集、とりわけ古書、稀覯本(きこうぼん)、グラフィックなどの蒐集は盛んであった。そして愛書家協会として、1956年に東ドイツ文化同盟の内部に、「ピルクハイマー協会」が設立された。そして同協会では独自の機関誌『マルジナーリエン』を発行すると同時に、講演会、展示会その他を開催した。

またブックデザインの振興のために、「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)及び文化省の共催で、1952年以後毎年、ブックデザインのコンクール「東ドイツの最も美しい書物」が開かれてきた。さらに1963年以後には、同じくライプツィッヒで、国際的なブックデザインのコンクール「全世界の最も美しい書物」が開催されてきた。東ドイツの最末期1986年についてみると、全世界から45か国が、これに参加した。いっぽう、外国における書籍見本市への参加状況について見ると、東ドイツの出版社は、周辺ヨーロッパの諸都市、つまりフランクフルト・アム・マイン、ワルシャワ、ベルグラード、ソフィア、ブリュッセルの書籍見本市に出品してきた。

ドイツ近代出版史(9)第二次世界大戦後 1945~(その2)

第三章 西ドイツにおける出版界の諸相(2)

(1)ポケット・ブックの隆盛

第二次世界大戦の直後にローヴォルト社が考え出した輪転機小説から、やがてポケット・ブック(日本の文庫本に相当)が生まれてきた。輪転機小説は形のうえではその名が示すように、新聞紙の半分の大きさであったが、新聞と同じように廉価で大量に販売された。ポケット・ブックは、その外形こそ普通の小型文庫版へと変わったが、廉価な大量生産商品という性格は、輪転機小説から受け継いでいる。高価なオリジナル版を合法的に復刻して廉価に大量販売する方法は、すでにレクラム百科文庫が19世紀の後半から連綿と続けてきたものである。この時書物の「非神格化」が起こり、従来の立派な装丁の、本棚に飾るのにふさわしい書物のほかに、こうした大量廉価本が一般に普及するようになったわけである。

ポケット・ブックは、いわばその延長線上にあるものと言えるが、その始まりはローヴォルト社が1950年から発行し始めた「ロ・ロ・ロ・ポケット・ブック」であった。このポケット・ブックの特徴としては、発行部数の多さ、均一判型、均一価格、各巻の番号付け、そして携帯に便利なことがあげられる。今日の日本人読者にとっては、巷に氾濫している文庫本のことを念頭に置いていただければ、第二次世界大戦後の西ドイツで隆盛を迎えるようになったポケット・ブックのことは、容易に想像できるはずである。

さて「ロ・ロ・ロ」を皮切りとしたポケット・ブックは、やがて他の出版社も競って発行するようになった。当初はこうした風潮に対して、「高度な精神財を俗化するもの」との非難の声が聞かれ、書店の側もこの風潮に批判的な態度を示していた。しかしやがて書籍販売者も、その文化的な意義や経済的効用を認めるようになった。こうしてポケット・ブックは、1960年には年間の発行部数が約1000点だったのが、1971年には3500点に増えた。また売り上げ部数は、1973年には5000万部と推定されている。

この時点で見ると、ポケット・ブックの創始者であるローヴォルト社の「ロ・ロ・ロ」ブックが売り上げ部数2000万部でトップに立っていた。これに続いて、「デーテーファオ」、「フィシャー」、「ゴルトマン」、「ヘルダー」、「ハイネ」、「クナウアー」、「マイアー」、「ズーアカンプ」、「ウルシュタイン」などの出版社のポケット・ブックがならんでいた。そして時代が下がって1987年になると、その年間の発行点数は1万1400点に増大しているが、これは書籍の総発行点数の17・4%を占める数字となっている。

(2)リプリント版の登場

第二次世界大戦の間、ドイツでは数百万冊にのぼる書物が消え失せたが、この大きな損失を取り戻す手段として、写真製版による本づくりが登場してきた。これは本の複製の一手段であるが、戦後アメリカ、イギリスなど英語圏との交流が深まった西ドイツでは、「リプリント版」と呼ばれるようになった。このリプリント版の市場は国際的な性格を持っていて、ドイツ系の会社としては、クラウス社(ニューヨーク/リヒテンシュタイン)とジョンソン社(本社ニューヨーク、支社ロンドン、ボンベイ、東京)が、有力な地位を占めていた。西ドイツ国内では、G・オルムス社が最大手で、1974年の時点で8000点を超すリプリント版を発行している。

リプリント版は、原本通りに複製するという意味ではかつての翻刻版と同じものであるが、著作権制度が確立した後のリプリント版とそれ以前の翻刻版では意味合いが異なる。リプリント版はむしろ我が国の復刻版に相当するものとみなすことができる。それはともかく19世紀の前半になってドイツでは、版権及び著作権の法的基盤が整ったわけである。当初著作権の保護期間が30年であったが、1934年には50年となり、戦後の1965年になって西ドイツでは70年に延ばされた。

しかしその一方で、リプリント版ないし海賊版と呼ばれているものを積極的に擁護する動きが、左翼の陣営から生まれてきた。「文学生産者」と称する左翼作家の組織が、1970年4月ミュンヘンで3回目の会合を開いたが、その時次のような決議が表明された。「文学生産者は、公有化された印刷物およびプロレタリア的なリプリントを、集団的所有物の資本主義的悪用ならびに独占化に対する抗議として、また社会主義的文化及びプロレタリア的階級意識形成への前提条件として、理解するものである」。そしてこの決議を実施に移すために「左翼書籍取引連合」が結成された。この決議は著作権制度そのものが資本主義的な悪であるとの考えを表明しているわけである。

(3)ブッククラブの発展

第一次大戦後のワイマール共和制時代に、ブッククラブは隆盛を見せ、末期の1933年には、その会員数は約80万人を数えていた。その後第三帝国の時代になってブッククラブは、特殊な同業者団体として国家から承認を受けた。そして1940年にはブッククラブの会員数は、170万人にも増加していた。またワイマール時代の代表的なブッククラブ「本のギルド・グーテンベルク」は、1933年にナチスの「ドイツ労働戦線」に組み込まれた。

第二次世界大戦後になると、ブッククラブは新たな発展を示すことになり、旧来のものに加えて新しい組織が次々と誕生した。なかでも「松明ブッククラブ」、「ヘルダー・ブッククラブ」、ブッククラブ「書物の中の世界」などが注目されたが、「セックス本配給ブッククラブ」といったものまで生まれた。その会員には年4回、その広告文によれば「きわめてエロティックな小説を詰め込んだ本の包み」が届けられることになっていた。

しかしなんといっても西ドイツのブッククラブ界を支配していた大きな存在は、二大出版コンツェルンであるベルテルスマン社とホルツブリンク社であった。1950年に設立された「ベルテルスマン・レーゼリング」は、瞬く間にその会員数が100万人を超え、1964年には250万人にも達している。いっぽうホルツブリンク・グループが経営する「ドイツ書籍連盟」と「福音派ブッククラブ」の二つを合わせると、その会員数は120万人に達した。ベルテルスマン社やホルツブリンク社などの巨大出版コンツェルンは、次々と中小の出版社やブッククラブなどを吸収合併して巨大になっていったのである。こうしたブッククラブ業界の集中化現象の進行の中で、なお健闘していたのは、ワイマール時代の「本のギルド・グーテンベルク」と戦後作られた「ヘルダー・ブッククラブ」ぐらいであった。

こうした流れとは別に、個々のブッククラブへの入会や退会は、全体としてみると、極めて目まぐるしいものがあった。退会するひとの数は年平均で20%近くにまで達したが、絶えず新会員を獲得していくことは容易ではなかったといわれる。ブッククラブは、1950年代に次々と新設され、会員数も増えていったが、60年代とりわけ70年代半ば以降になると、もはやそうした増加を望むことはできなくなった。その理由としてはテレビの普及がまず考えられるが、その他氾濫する雑誌類やデパート書籍売り場の廉価本もライバルとして挙げられている。

西ドイツにおけるブッククラブの総数が一体どれぐらいなのかという点については、研究者によって異なった数字があげられていて、定説はない。ただキルヒナー発行の『書籍百科事典』によると、1952年の時点で31となっている。またシュルツは1960年で40としているが、シュトラウスは1961年で31としている。

ところでブッククラブが一般の出版社と異なる点は、出版社の本質的な特徴ともいうべき版権をブッククラブは持っていないことにある。つまりブッククラブは、ほしいと思う本の出版権を、ライセンスを払って出版社から取得しているわけである。その際よく売れているオリジナル作品を選んでライセンスを支払っているので、売れない作品をつかまされるといった経営上の危機は、あらかじめ避けることができるのだ。このためブッククラブが発行する書物の点数は、年平均500~700点となっていて、中規模書店の年平均取扱量2万点にくらべて、はるかに少ない。その代わりあらかじめ確保した会員に対して、原則として発行した本はすべて配るわけであるから、多い発行部数が見込めるのだ。さらに著作権料や印税支払い分も、オリジナル出版社よりずっと安い計算になる。こうしたもろもろの事情が重なって、ブッククラブが発行する書物の価格は、オリジナル出版社の書物の30~40%になっている。

いっぽう巨大コンツェルンが経営しているブッククラブは、その後多角経営に乗り出し、やがて書物のほかに、グラフィックアート、レコード、音響機器、ホビー製品から一般のレジャー用品にまで手を広げている。ちなみに1980年代後半の西ドイツの出版市場においてブッククラブが占める年間売り上げ高の比率は、およそ12%になっている。

今まで述べてきた一般のブッククラブとは違った性格を持っているのが、1949年に設立された「学術ブッククラブ」である。これは企業採算性から言って一般の出版社から安くは発行できない専門性の高い学術書を、普通の定価の半分ぐらいの値段で出版することを目指して作られたものである。そのため出版社としての利益や流通利益が排除され、また予約購読制がとられた。いわばこれは学術書の出版を必要とした人々が作った、自助的な共同体というものであった。そして第二次世界大戦中の爆撃などによって各種図書館や書店から消失した、あらゆる分野の学術書をできる限り取り戻そうという意図のもとに行われた運動でもあったのだ。この「学術ブッククラブ」の幹部には、財界や学界の代表者たちがなったが、設立一年後の1950年には、その会員数は一万人を数えた。当初、出版社側からは、「学術ブッククラブ」としては既存の書物の復刻版制作にその仕事を限定し、初版の学術書の出版は一般の出版社に任せるよう、注文が付けられた。そのため初めのうちはこの注文に沿って、「学術ブッククラブ」は復刻版だけを出していた。そして友好的な関係にある出版社の協力のもとに、一般の書店を通じて会員以外にも販売するようになった。しかしやがて時のたつうちに事情も変わり、復刻版だけではなくて新刊書も出版するようになっていった。1973年の時点で見ると、年間の総発行点数447のうち新刊書は237点に達していた。それでは学術書といっても、どのような分野の書物が主として出版されてきたのであろうか? 次の表はその内訳を示したのものである。

出版された学術書の分野別比率(1974年)

ドイツ語・ドイツ文学      15%
社会科学            14%
歴史              12%
ギリシア・ローマ文献      12%
新文献学            10%
神学               8%
哲学               7%
自然科学             6%
芸術               5%
地理               3%
考古学              2.5%
インド・オリエント        2%
中世ラテン語           1%
極東               0.69%

(4)(中央図書館、書籍見本市、平和賞)

<ドイチェ・ビブリオテーク>

第二次世界大戦前、ライプツィヒにドイツの中央図書館として「ドイチェ・ビュッヘライ」が存在した。しかし大戦後、冷戦の進行に伴って、ソビエト占領地区にあったこの中央図書館が、西側占領地区から分離した存在となることが明らかになってきた。そのためアメリカ占領軍当局は、西側にも独自の中央図書館を設立する必要性を感じ、1946年、フランクフルト市立・大学図書館長を務めていたエッペルスハイマー博士に、その設立を委託した。そこで博士はフランクフルトに、中央文書館を兼ねた西ドイツ地域の中央図書館を建てる決意を固めた。そしてヘッセン州、フランクフルト市及び「取引所組合」の三者の協力によって、同じ年に中央図書館「ドイチェ・ビブリオテーク」が設立されたのである。同時に「ドイツ図書目録」の発行も行われるようになった。ただ当初は、この「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務は、「取引上組合」の会員だけに課せられることになった。しかし「取引所組合」とはいっても、実際には西部ドイツ出版業の州組合が担い手となっていた。ところが1952年になって、これが公法上の組織「財団法人ドイチェ・ビブリオテーク」となり、「取引所組合」が正式の担い手として加わるようになったのである。さらに1969年には、連邦政府が直接管理するものへと改組された。これと同時に「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務を定めた法律も制定された。

こうして制度面で次第に態勢を整えてきたわけだが、ここには第二次世界大戦後に発行された出版物が保管されているわけである。そしてこれらの出版物を系統的に分類掲載した『ドイツ図書目録』の発行も行っている。1966年、この種のものとしては世界で初めて電子式データ処理法が採用され、写真植字によって製作されることになった。この『ドイツ図書目録』は、西ドイツの全ての出版社からの献本義務と並んで、西ドイツおよび他のドイツ語圏諸国からの著者献本も掲載していたので、全ドイツ的な図書目録の性格も備えているわけである。またエッペルスハイマー博士のイニシアティブによって、ナチス時代のドイツ亡命文学作品の収集が行われ、これが「亡命文学Ⅰ933-1945特別展示として、一般に公開されたことも注目されよう。

さらに「ドイチェ・ビブリオテーク」は、「取引所組合」および「ドイツ・グラフィックデザイン協会」とともに、書物の造本・装丁に関する組織「財団法人ブックデザイン」を、1965年に設立している。そして「取引所組合」の主催で1951年以来行われてきた「最も美しい書物」と題するブックデザインのコンクールを、1965年からこの組織が引き継ぐことになった。第二次世界大戦前の1929年にも、この種のコンクールが行われたが、その後のドイツ社会の混乱と戦争のうちに、長らく中断されていたものである。なおこのコンクールのタイトルは1971年から、「五十冊の本」と変更された。

<フランクフルト書籍見本市>

フランクフルト書籍見本市(1991年)

フランクフルトの書籍見本市は15世紀末から16、17世紀にかけて、ヨーロッパの書籍取引の中心として栄光を担っていた。その後ライバルのライプツィヒ見本市との競争に敗れ、18世紀半ばに衰退した。しかし第二次世界大戦後のドイツの分断に伴って、再びフランクフルト書籍見本市は復活したのであった。

とはいえその再生は当初極めて小さな規模で行われた。その主催者は、フランクフルト市があるヘッセン地方の書籍出版販売組合であった。第1回の見本市は旧市内の歴史に名高いパウル教会に205のドイツの出版社が集まって、1949年に開かれた。これにはソビエト占領地区から6社が参加した。そしてその翌年の1950年には、もう外国の出版社100社が加わり、参加出版社は合計460社に増えた。またこの第2回から1964年まで、主催者は「取引所組合」の出版社委員会に変わった。さらにその会場も、参加出版社の増大に対応して1951年には、市内のやや外寄りの見本市常設会場へと移った。

この間参加出版社の数は、年を追うごとに増大し、1959年には1837社になっていたが、この時すでに外国からは35か国1100社が出品していた。この数字を見ても、第二次世界大戦後に再開したフランクフルト書籍見本市が、いかに国際的な性格を帯びるようになっていたかが、分かるというものである。こうした書籍見本市の国際化に対応するようにして、見本市開催業務には、「取引所組合」のほかに、連邦外務省も部分的に参画するようになった。ここにこの見本市は、「フランクフルト国際書籍見本市」になったのである。そして1964年には「取引所組合」の専属団体として、見本市有限会社が設立されて、書籍見本市業務を専門に取り仕切るようになった。

いっぽう参加出版社の数に目を向けると、1968年には合計3048社となったが、そのうち外国の出版社は49か国2158社であった。さらに1973年には、59か国からの外国出版社を含めて合計3817社になった。また1972年に「取引所組合」の会長が言ったように、見本市の性格が従来の書物を売る市(いち)から、このころには「関係者の出会いの場、交際の場所」へと変貌を遂げていたのである。

また1976年から「フランクフルト国際書籍見本市」は、一年おきに重点テーマを掲げるようになった。例えばブラックアフリカ、インド、オーウェル2000といった風に。さらに1988年からは、毎回重点的に扱われる国が指定されるようになった。1988年はイタリア、1989年がフランス、1990年は日本であった。そして見本市への参加出版社の数はその後も着実に増え続け、1988年の第40回見本市には、95か国から合計7965社が参加した。そしてこの時見本市を訪れた人の数は、取引に直接関係のない一般客を含めて22万人に達した。さらに1991年の第43回見本市には、91か国から参加があった。この年の重点テーマ国はスペインであった。

ここで国際的な「フランクフルト書籍見本市」を補完するものとして、マインツの「ミニ・プレス見本市」に一言触れておこう。これはN・クバツキーのイニシアティブで、マインツ市の後援を受けて開かれているものである。これに参加しているのは、グラフィック・デザイン、愛書家向け書籍、抒情詩、時代批評、政治図書などを出版している小出版社である。さらに古本の部門では、1962年から毎年シュトゥットガルトで「古書籍見本市」が「ドイツ古書籍商組合」の主催で開かれている。また1968年からは、「ケルン古書籍市」も、毎年9月に開催されていることを付け加えておこう。

<ドイツ出版平和賞>

1950年、西ドイツの15の出版社の共同で、平和賞というものが設けられた。この時の受賞者は、ベルリンのカッシーラー出版社の元編集長マックス・タウという人物であった。その受賞理由としては、賞状に「第二次世界大戦後、ドイツ人作家及びドイツの書物の普及への貢献を通じて、かれが将来への国際理解への架け橋となった」ことが記されている。平和賞を設けた理由も、まさにこの点にあったわけである。

翌1951年にはこの平和賞を「ドイツ出版販売取引所組合」が引き継いだ。そして以後毎年授与されることになったため、これは「ドイツ出版平和賞」と呼ばれるようになった。そして「平和と人類と国際理解に貢献した人」に、この平和賞が授与されるべきことが、改めて謳われた。具体的には、とりわけ文学、科学、芸術の分野で、平和思想の実現に貢献した人物に、授与されることになったのである、こうして1951年にはその第一回受賞者として哲学者のアルベルト・シュヴァイツァーが選ばれ、フランクフルトのパウル教会で授賞式が行われた。

以後この平和賞の授与は、毎年秋に開かれる書籍見本市の期間中に行われることになった。そしてその選考に当たっては、「国籍、民族、宗教」の別なく、11人の委員からなる選考委員会によって受賞者が選出されることになった。事務局及び関係文書の保管所は「取引所組合」の内部に置かれている。この「ドイツ出版平和賞」は,回を重ねるごとに国際的にその重みを増しており、受賞者もノーベル平和賞に匹敵するような世界的に著名な人物が選ばれている。そしてこの平和賞は「フランクフルト国際書籍見本市」には欠かすことのできない行事として、知られるようになってきている。

(5)著作者の組織化

<ドイツ作家連盟>

著作者は通常ものを書き、それを発表すること、つまり著作活動によってもたらされる収益で生活していかなければならない。著作者と言えども他の人と同様に、物質的関心を有している。しかし著作者の仕事は個人的な性格のものであり、その点その利益を代表することに関しては、他の職業やグループよりも劣っている。確かに西ドイツにはいろいろな地方作家連盟というものがあって、会員の社会的利益を考えてきたが、あまり効果的とはいえなかった。

ところが1969年になって、指導的な作家も加わって、「ドイツ作家連盟」が設立された。その設立に当たって、西ドイツの代表的な作家でのちにノーベル文学賞を受賞したハインリッヒ・ベルは、「慎ましさの終わり」を高らかに宣言した。それまで文学や思想や社会のことについては大々的に発言してきたが、こと自分の経済生活のことになると他人に言うのを恥じて、ひたすら慎ましさの中に引きさがっていた作家が、この時堂々と闘いの宣言をしたのであった。「ドイツ作家連盟」は当初から労働組合に類似した組織であった。翌1970年にシュトゥットガルトで開かれた第一回総会で、作家マルティン・ヴァルザーは、「なにがしかの自明の理をもって、自らの生産手段を創り出すことができるために、<文化労働組合>なるものを将来作る考え」を明らかにした。しかし実際には1974年に「ドイツ作家連盟」は、「印刷・製紙産業労働組合」に、専門グループとして加入したのであった。

こうしてドイツ作家連盟は、作家の経済生活の改善をその主要関心事として取り組むようになった。1972年報道週刊誌『デア・シュピーゲル』が作家の経済状態についてアンケート調査を行ったが、その際とりわけ中・高齢著作者のおかれた苦しい生活ぶりが明らかとなった。また第一回総会で作家のロルフ・ホーホフートは、老齢の著作者のおかれたみじめな経済状態について、世の人々の注意を喚起している。その報告の中で、自分の読者を失い、出版社や放送局から名前を忘れられた19人の高齢の作家のことが伝えられた。また文学賞を受賞したような高名な作家の生活も、そう楽ではなかった。ゲオルク・ビュヒナー賞の受賞者エルンスト・クロイダーは、「墓場に行くまで書き続けなければならない」と嘆いている。また同じ賞の受賞者ヴォルフガング・ケッペンは、「作家とは終生、借金地獄にいるようなものだ」と語っている。

このような著作者のみじめな状態を改善するために、「ドイツ作家連盟」は、各方面への働きかけを始めたのだが、まもなく若干の成果を上げることができた。主として連盟の要請によって1972年、図書館納付金という制度が導入されたのである。これは公立の図書館で本を貸し出すごと一回につき、図書館所有者は基金に10ペニヒ納入するというものである。これを作家の養老年金資金にしようとしたわけである。また大出版コンツェルンのベルテルスマン社は、同社から3冊以上本を出している作家に対して、老齢年金制度を設けたが、こうしたことは豊富な財政基盤があって初めてできることである。

<自由ドイツ作家連盟>

その一方、「ドイツ作家連盟」に背を向ける作家もいた。今日なおたくさんの読者を抱えている有名な作家オイゲン・ロート(1895年生まれ)は、「作家連盟が労働組合に加盟することは、無意味なことだ・・・作家とはサーカスの綱渡りのように危うい職業なのだ」と、自分の見解を明らかにしている。こうした考えに同調する作家も少なくなく、その立場から「自由ドイツ作家連盟」が設立された。これは当初南ドイツのバイエルン州から出発したが、やがて西ドイツ全域へと広がり、さらにその枠を乗り越えていった。そして所属する政党、団体に関係なく、自由な民主主義原理に基づく全ドイツ語圏の作家のための職業団体である、と同連盟は自己の役割を規定している。

<作家の自主出版社>

18世紀初めの哲学者ライプニッツの試み以来、作家が自ら出版社を経営する考えは連綿と続いてきた。第二次世界大戦後、大出版コンツェルンのベルテルスマン社では、こうした著作者の要望を取り入れて、著作者による一種の共同編集モデルをつくりだしている。ここでは4人の作家と出版社代表1人から構成される編集委員会によって、どんな小説・物語を出版していったらよいか、決定されるのである。その意味ではこれは作家の純粋な自主出版社ではなく、作家グループを交えた編集の共同決定システムだといえよう。

これとは全く別に、第二次世界大戦中メキシコに亡命したドイツ人作家が、1942年に作った自主出版社「エル・リブロ・リブレ」というものがあった。これはA・アブッシュ、L・レン、A・ゼーガースなどが資金を出して設立したものである。またH・ケステンが提唱して作られたドイツ人亡命作家の自主出版社に「アウローラ出版社」があった。その規約によれば、同社は設立発起人の共有財産とすることが記されていた。ちなみにこの発起人には、E・ブロッホ、B・ブレヒト、A・デーブリン、H・マンといったそうそうたる名前が連なっていた。また規約の中の重要項目として、出版物の発行は委員会の多数決によって決定されるべきことや、出版物の最初の1000部に対しては印税は支払われないことが記されていた。

時代が下って1960年代になると、新左翼運動との関連の中から、作家の自主出版社設立の動きが起きてきた。この運動に伴って実に様々な宣言が出され、実験が行われたが、それらに共通していたのは、私的経済の基盤の上に立ってきた従来の出版社経営から決別するということであった。そしていかなる種類のものであれ、私的な利益追求は行わないことが明らかにされた。さらに出版経営によってあがった利益は、次の政治的な出版活動の資金に回されることも、しばしば宣言の中に謳われていた。こうした運動の先頭に立った人物に、老舗のS・フィシャー出版社を政治的見解の相違から1964年に解雇された同社の文学担当編集員K・ヴァーゲンバッハがいた。彼とは作家のJ・ボブロフスキーとC・メッケルが行動を共にした。彼らは手を携えて私的利益の追求を目的としない出版社の設立を考え、同年のうちにK・ヴァーゲンバッハ出版社が開業した。そこでは作家たちが編集と経営に共同決定の権利を有していた。そして1971年には同社で働く人全員の賛成を得て決定された定款の中に、年一回の作家総会が経営監査の権利をもつことが盛り込まれた。実際ヴァーゲンバッハはその総会で、出版社の一年間の経営状態を公開したのである。

これとは別に作家たちが集まって1969年に、演劇関係の出版社として「作家の出版社」が設立された。その設立趣意書には、出版社の性格が記されているので、少々長いが引用することにする。
「当出版社は社員の所有物である。社員は作家及び出版社の事務員から構成される。この社員が出版社の意志決定をする。生産者は自らの関心事を、自らの責任において、自らの財布をもって達成すべく仕事をする。作家の出版社には、<出版主>は存在しない。出版社の業務は、三年の期限をつけて社員から選ばれる代表によって執り行われる。出版社の任務、目的、方針は、年次総会において社員が決定するが、新しい作品を受け入れるか否かの決定は代表が行う。作家は他の出版社と同様に印税を受け取り、代表及び事務員には給料が支払われる。それ以外の出版社の収益は、社員に分配される」

もう一つ別の動きとして、「文学生産者」の運動を挙げることができる。これは1970年4月にミュンヘンで開かれた会議でその方針が定められた作家の出版社であった。この大会で、学術書の著作家が著書出版社に集結すると同時に、資本主義的労働分配がもたらす社会的損害を軽減するために、既存の出版社における利用の権利を自ら行使することが呼びかけられた。さらに大会では、「生産手段の資本主義的処分権の廃止と生産者の自由な連合」が宣言された。

ドイツ近代出版史(8)第二次世界大戦後 1945~(その1)

第1章 戦争直後の出版界の状況

占領政策と出版界

1945年5月、壮絶なベルリン攻防戦の戦火がやみ、第二次世界大戦はヨーロッパでは終息を見た。そしてドイツは戦勝国によって占領され、アメリカ、イギリス、フランス及びソビエトという4つの占領地区に分割された。ドイツは5月8日に無条件降伏の文書に調印したが、その直後の5月12日には、出版報道活動全般に関する通達が占領軍当局から布告された。これはあらゆる形での印刷・出版活動および出版物の販売活動を、禁止するものであった。つまりこの通達によって、新聞、雑誌、書籍、小冊子、ポスター、楽譜、その他複製品などの印刷・出版・販売・宣伝などが一切、禁止されたわけである。

とはいえこの全面禁止措置は、その直後に出された追加的な通達によって変更を受け、一定の条件の下でなら、新聞、雑誌、書籍などの発行が許されることになった。つまりどの占領地区でも、出版販売活動をするにあたっては、一つ一つの出版物の発行について占領軍当局の許可を得ることによって、それが可能になったのである。これは事前検閲の措置であったのだが、長くは続かず、1945年10月には、フランス占領地区とアメリカ占領地区で、原稿の事前検閲措置は撤廃され、やがてイギリス占領地区でも1947年にはこれに倣っている。こうした許可の問題と並んで、出版社にとって当初頭が痛かったのは、深刻な紙不足の問題であった。この頃書籍の最大発行部数は5000部に抑えられ、出版社は配給という手段によって新刊書を引き渡していた。             なおソビエト占領地区(のちの東ドイツ)については、冷戦の進行につれて西側占領地区とは、断絶するようになっていったので、のちに「東ドイツにおける出版事情」の項目で述べることにする。ちなみに西側の3占領地区から西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が1949年5月に成立し、ソビエト占領地区から東ドイツ(ドイツ民主共和国)が1949年10月に成立している。

いっぽう戦勝国は戦争直後のこの時期、ドイツ国民のいわゆる「非ナチ化政策」を実行した。そしてナチ時代に発行された出版物の回収も行われた。こうした観点から連合国管理委員会は1946年5月13日に、布告第4号を出して、それを実施したのであった。この布告によると「(ナチ時代に発行された)書物、ビラ、雑誌、新聞、ナチ宣伝文書、人種理論や暴力行為扇動に関するもの、反国連の宣伝文書、軍事教育的色彩をもった教科書を含むあらゆる軍事的性格の出版物を破棄させるために、二か月以内に、連合国軍事当局ないしその他の役所に提出すべきこと」とされたのである。この布告は、出版社、公立図書館、学校内及び企業内図書館、大学図書館などを対象にして出された。とはいえこの布告が出されてしばらくたった8月10日には、学術研究用に必要な一定数の出版物は、破棄処分から救う旨の追加的布告が出された。そしてこれらの出版物は、特定の場所に保管して、連合国管理委員会の厳しい監視の下で、ドイツ人の学者や、連合国から許可を受けた人物に対して、その利用を許すこととされた。これとは別にソ連占領地区では、禁止すべき出版物の目録が発表された。1946年4月1日の一回目のリストには、書籍1万4千点、雑誌1500点が記載された。この目録はその後1947年、1948年と続けて発行された。

ここで出版社に対する営業許可に目を向けてみよう。これはアメリカ占領地区においては1945年8月、イギリス占領地区では9月、そしてフランス占領地区では10月に、それぞれ実施された。その結果1945年末にはアメリカ地区では66、イギリス地区では70、フランス地区では45の出版社が営業許可を受けたのであった。その後営業許可の件数は各地区で増えていって、1946年末には、アメリカ地区で287、イギリス地区で242、1948年6月にはフランス地区で190の出版社が営業許可を受けていた。これを西側3占領地区と西ベルリンを合わせた合計で見ると、1945年半ばから通貨改革の行われた1948年半ばまでの3年間に、およそ850の出版社が約1万5千点の書物、小冊子、並びに約千点の雑誌を発行していたことになる。

この時代は様々な障害のために一冊の本を作るにも、通常よりはるかに多くの時間を必要としていた。また書籍取次の世界にも新しい状況が生まれてきた。戦前ドイツの書籍取次のセンターであったライプツィヒはソ連占領地区となってしまったため、西側の3占領地区には新たに数多くの書籍販売の中心地が生まれることになった。しかしそれぞれの占領地区の間の交流は、かなり難しい情勢にあったのだ。

この戦後三年間ほどの出版界の状況を要約すると、書籍供給の少なさに対して、一般読者の需要の高まりが目立った時期であったといえる。この読書への飢えは、ナチスの時代に一般のドイツ人が、特定の種類の書物以外の書物(国内・国外を問わず)から遮断されていたことへの反動といえる。とりわけ国外の書物に対する飢えは大きかった。そしてこうした動きにいち早く対応したのが、第三次ローヴォルト書店の始めた「ローヴォルト輪転機小説」であった。これがどんなものであるのか、『ナチス通りの出版社』(人文書院、1989年発行、219~220頁)に詳しく書かれているので、引用させていただく。

「何しろ戦後、焼け跡、闇市の時代である。用紙はもとより、製本用の厚紙、クロス、また糸や仮綴じ用の縫糸、製本用の膠(にかわ)、その上包装用の材料まで不足していた。そこでまず新聞用紙にできる限り多くの文字を組み、輪転機を使って大量に印刷することによって組版代を節約し、また書物の規格を新聞の半分の大きさに変え、留め金を使用せず貼り合わせて綴じることによって製本工程を不要にし、包装材を倹約した。こうして本のコストは安くなった。普通の本の約350ページの小説が、”輪転機小説”では、32ページになり、50ペニッヒの値段で販売できた。一本の葉巻が闇市で4~8マルクの時代である。二巻本は1マルク、三巻本で1・5マルク、各巻はそれぞれ10万部出版、画期的発行部数であった。最初に出された「ロ・ロ・ロ叢書」(ローヴォルト輪転機小説の叢書)の内訳は、アラン=フールニエ『モーヌの大将』、J・コンラッド『台風』、ヘミングウェイ『武器よさらば』、トゥホルスキー『グリプスホルム城』、ジッド『法王庁の抜け穴』、プリーヴィエ『スターリングラード』であった。以後、四年間に29点の作品で、約300万部が印刷されている。こうして現代世界文学の小型版が、貧しい青年の手にも渡るようになった。こうして書物は、形式ではなくその実質が重視される商品となり、大衆の中に浸透しはじめる」

このローヴォルト輪転機小説こそは、すべて物資が欠乏していた時代に、活字に飢えていた人々を狙って発射された「ヒット商品」なのであった。しかし全般的に見て当時のドイツの出版界は、なお不振をかこっていたのである。輸入するには外貨が不足し、輸出するには質の良くない紙に印刷されたドイツの書物は適していなかったのである。

通貨改革と出版業界

西側三占領地区では、1948年6月21日、通貨改革が実施された。従来の通貨の価値は10分の1に引き下げられ、新しいドイツ・マルクが導入された。と同時に統制経済から市場経済への大胆な転換を企てる措置がとられた。基本的な食糧や生活必需品を除いて、他の全ての物資は、通貨改革をきっかけに自由価格制のもとにおかれた。配給制は次第になくなっていき、それまで倉庫に蓄えられていた商品が、市場に出回るようになってきた。市場経済への転換は、ドイツ人の営利活動を刺激する上で決定的な成功をおさめ、西ドイツ地域の工業生産は通貨改革以後、目に見えて急上昇し始めた。

ここに始まる西ドイツ経済の復興は、のちに「ドイツ経済の奇跡」と呼ばれたほど順調なものであったが、ドイツの出版界にとっては、事情はそう簡単なものではなかったのである。人々は手持ちの金を、まずは衣料をはじめとする生活必需品のために使ったため、書物に対する需要は伸び悩んだ。通貨改革後、一時的にではあれ貧しくなった人々にとって、書物の値段は多くの場合高すぎたのである。そのうえ紙代の値上げに伴う本代の値上げは、ますます本から人々を遠ざけた。公共図書館の予算も横ばいか、わずかに増えた程度であったので、この方面における書物の需要も通貨改革前とさして変わりなかった。

いっぽう西側三占領地区の境界線の開放によって、新たに進出してきた大規模な書籍業者のために、それまで地域的な活動に限られていた小規模な小売書店や取次店などは、重要性を失って、不振をかこったり、倒産したりした。とりわけ中間に立つ書籍取次業が、いくつかの大都市(ハンブルク、ケルン、フランクフルト、シュトゥットガルト、ミュンヘン)に集中するようになって、出版業界全体の合理化が促進されることになった。通貨改革前には、占領軍政府の甘い営業許可のために、経験不足で未熟な者まで書籍業者になったりしていたのだ。つまり適正規模の二倍ほどの書籍業者が、その時期には営業していたといわれる。

書籍出版量の低下は、書籍の販売にとっても不安定要因となった。そして通貨改革後の一時期、書籍販売業者の間に強い不安感が広がった。この時期、多くの出版社は宣伝や引き渡しに当たって、書籍販売人を通じないで直接買い手と取引した。出版社に言わせれば、それは多くの書籍販売業者が機能を停止していたからとった措置ということになる。ただこうした混乱によって、重要な出版物が読者の手元に届かないこともみられたのだ。とにかくこの時代の書籍業者が置かれていた状況は、一般にみじめなものであった。書店主のH・クリーマンは1949~53年の時期を振り返って、書籍販売業者の多くは熟練労働者よりもはるかに低い水準にあった、と証言している。さらに別の書店主は、1954年になってもなお、書籍販売店の収益率が極めて低いことを報告している。

そして客観的に見て、こうした状況を打開するには、業界の体質改善、合理化が必要なことも認められていた。一般の書籍販売店は、旅行書専門店、通信販売店、書籍と雑誌の販売店などとの競争に立たされ、ますます苦しい状況に追い込まれていた。その反面、戦争直後の混乱期にはなお吸引力をもっていた商業ベースによる「貸出文庫」などは、書籍供給が順調に行われるようになると、次第にその魅力を失っていった。その代わりに人々が次第に利用するようになっていったのが、数を増していった公共図書館であった。

いっぽう外国との書籍の売買は、戦争直後は外貨不足のために極めて低調であった。1948年9月になって外国の書籍の輸入のために外貨払いが自由化されたが、経済情勢が緊迫していたために、事情はあまり変わらなかった。事態が進展しだしたのは、書物、雑誌、楽譜の郵便による小額輸入(一件100マルクまで)に関する特別措置が、1952年3月1日に導入されてからのことであった。またドイツの書籍の輸出にとっては、1951年初めにアメリカのファーミントン計画とつながりができたことが重要であった。これはアメリカ合衆国コネティカット州のファーミントン市にちなんで名付けられたプロジェクトで、外国の学術書のアメリカへの輸入促進を図って設立されたものであった。

第2章 西ドイツにおける出版界の諸相

(1)出版界の組織

東から西への移行

ドイツ出版界の中心都市ライプツィヒは、戦争直後の国際政治の荒波に翻弄されることになった。はじめこの出版都市は、アメリカ軍によって占領された。しかし連合国側の占領地に対する取り決めに従って、アメリカ軍が撤退し、代わってソビエト軍が入ってきた。この変更は1945年7月1日に行われた。ところがそれに先立つ6月5日に、「ライプツィヒ書籍商組合行動委員会」とアメリカ占領軍との間で、「書籍商組合」の支部を、連合軍支部のあったフランクフルトないしヴィースバーデンに設置されることが取り決められた。そしてその支部長にはライプツィヒのディーテリヒ出版社のW・クレム博士が、そして支配人にはG・K・シャウアー博士が就任した。この時の取り決めによれば、ヴィースバーデン支部の設立によって、ライプツィヒの「書籍商組合」の活動に支障をきたすといったものではなく、新設の支部はライプツィヒの本部の下部組織になるというものであった。

しかしこの取り決め締結の一か月後には、前述したように占領地区の確定が行われ、ライプツィヒはソビエト地区となったわけである。そしてその後、西側三戦勝国とソビエトとの関係が日に日に冷却していったため、ライプツィヒのいくつかの大出版社はヴィースバーデン(フランクフルトの隣町)へと移転した。それらの出版社とは、ブロックハウス、ブライトコップ・ヘルテル、ディーテリヒ、インゼル、ティーメである。さらにその少し後に、ハラソヴィッツ、ヒールゼマン、レクラムなどの大手出版社がライプツィヒから、そしてE・ディーデリヒスがイエナから、西側地域へと移った。

1945年秋になると『書籍取引所会報・フランクフルト版』の発行がアメリカ軍当局によって許可されることになった。そしてその第一号が10月6日に発行された。はじめ会報の発行所はヴィースバーデンにあったが、1946年4月1日にフランクフルトに移った。
いっぽう当初支部として発足したヴィースバーデンの「書籍商組合」は、次第に独自の活動を見せるようになった。その際新たな方針として、「中央集権ではなくて地方分権を」という基本的な考え方が、支配人のG・K・シャウアー博士によって打ち出された点が注目される。これはナチ時代の中央集権への反省から出てきた考えといえるが、地方分権は後に生まれたドイツ連邦共和国の指導的理念でもあるのだ。またこの考えに沿うような形で、1945年8月にはハンブルクに「北ドイツ書籍商連盟」が設立された。そして西側三占領地区には、書籍商の地域的連合体がいくつも生まれた。さらにヴィースバーデンの「書籍商組合」支部は、1945年10月9日にはフランクフルトに移転した。また1946年10月29日には南ドイツ書籍商の州連合代表が集まって「アメリカ占領地区書籍商作業共同体」が結成されることになった。同様にして北ドイツとライン地方の書籍商が集まって「イギリス占領地区書籍商作業共同体」が結成された。翌1947年には南西ドイツのフランス占領地区でも、同じ動きが見られた。

その間アメリカ地区とイギリス地区では、1946年9月5日に経済面での統合に関する協定が締結された。この協定の精神に即してアメリカおよびイギリス両地区の書籍商作業共同体は、数回にわたって会議を開いた。そして紙の配給、外国との取引、目前に迫っていた通貨改革及び後進育成などの諸問題について話し合った。さらにこうした緊密な協力の基盤のうえに、1948年5月13日、二つの地区の組織が統合されて、「ドイツ出版・販売者連合作業共同体」(本部フランクフルト)が結成されたのである。その規約第二条によれば、新たに生まれたこの組織は、全ドイツを包含する「書籍商組合」の前身である、と位置づけされていた。そうした意味合いからこの共同体は、『書籍取引所会報・フランクフルト版』の発行を行うと同時に、全国的規模の図書館の設立とその文献目録発行の準備に取り掛かった。

西側における全国組織の誕生

その後米英情報機関の要請によって、この「作業共同体」は、1948年10月31日に「ドイツ出版・販売者連合取引所組合」と改称された。そして会長には、前の「共同体」の時と同じV・クロスターマンが選出された。その後1949年9月にフランス地区の、そして1950年3月には西ベルリンの書籍商団体がこれに合流した。この時、この組織は昔の「書籍商組合」の伝統にのっとって、将来政治情勢が許せば、全ドイツ地域の書籍取引所組合になるべきことが、改めて確認された。そうした願望を示す一つの具体的な動きが、1948年に発行された『ドイツ出版関係者住所録』であった。これはこの種のものとしては第二次大戦後に発行された最初のものであったが、ソビエトを含む4占領地区(つまり全ドイツ)の出版社、書店、取次店を収録したものであった。これの編集に当たったカルスタインイェンは、「東西両陣営の緊張が著しく高まっている現時点にあって、まごうかたなき協力の証しを示すものとして二重に高く評価されてしかるべきである」と述べている。

1952年4月1日、「ドイツ書籍・楽譜・雑誌全協議会」が設立された。この傘下には、ドイツ出版・販売者連合取引所組合、ドイツ駅構内書店組合、ドイツ書籍・新聞・雑誌卸売組合、ドイツ・ブッククラブ組合、旅行・書籍通信販売組合、貸出文庫組合連合、広告・雑誌販売組合、ドイツ楽譜販売組合、ドイツ音楽書出版社組合、ドイツ古書・グラフィック販売組合、ドイツ教材組合、ブッククラブ作業共同体などの諸団体が入っていた。また1953年には、先の「ドイツ出版販売者連合取引所組合」の独自の会館が、フランクフルト市の中心街にあるゲーテの生家の隣に建てられた。

出版人の養成機関の設立

第二次大戦終了直後の1946年、ライン・ヴェストファーレン地区の出版・販売者連合が、この地域の中心都市ケルンに出版人養成学校を設立した。この職業学校の授業内容としては、見習い期間の終了までに年間6週間のコース受講を義務付け、卒業に当たって試験を課すことにした。やがてこの出版人養成学校は、1952年、「連合取引所組合」によって引き継がれた。西ドイツの教育行政は州に任せられていたため、州によってその教育の仕方が異なっていたが、全国組織である「取引所組合」の傘下に入ることによって、出版人の養成という任務は全国的なものになったと言えよう。そして1954年、出版・販売者は、一定の見習い期間を要求される職業として国家から認められることになったのである。その際仕事の内容・修業過程・待遇などを示した独自の職業案内が提示された。これは社会の進展につれて修正が加えられ、1973年と1979年に、新しい要項が出された。また1962年にフランクフルト市のゼックバッハ地区に、「ドイツ出版・販売者養成学校」の新校舎が落成した。

いっぽう出版界の幹部のための継続教育コースとして、「第一回ドイツ出版人ゼミナール」が1968年に開かれた。翌1969年には職業教育法が公布されたが、これは書籍出版・販売の実務においてしばしば見られてきた欠陥を修正し、全体的な教育を統一するための良いきっかけになった。1972年になると、出版・販売者養成学校と出版人ゼミナールのちょうど中間形態として、「ドイツ出版販売専門学校」が設立された。これには数か月にわたるコース受講が義務付けられた。また「ドイツ出版・販売者養成学校」には、やがて実に様々な職業教育の科目が設けられるようになって、外国人でもこの教育を受けることができるようになっている。さらに出版人の社会的地位を向上させるものとして、出版社員の職務内容などを示した職業案内が、1981年に法律の形で提示された。そして1987年から88年にかけての冬学期にはミュンヘン大学内の「ドイツ文献学研究所」に、出版学の講座が設けられた。

出版界のその他の活動

書籍流通面における動きとして、1953年に「書籍商清算協同組合」がフランクフルト市に再建されたことが注目される。これは1922年に、書籍取引の合理化策として、ライプツィヒに設立されたものであったが、これが第二次世界大戦後に復活したものである。そして戦後には外国の書籍販売商も、この機関を利用できるようになった。このように第二次世界大戦後の西ドイツの出版界はかなり国際化したことが注目されるが、ドイツの出版業者のイニシアティブにより、1956年には「国際書籍販売連合労働共同体」(1976年に「国際書籍商連盟」と改称)が設立された。そして1959年には「ロンドン決議」というものを採択して、国際的レベルでの「書籍の自由な流通」や定価制度の維持などを訴えた。

いっぽう国内の書籍取引を電子式データ処理システムによって合理化していこうという動きが出てきたが、その前提として書籍取引上の流通番号というものが、1964年に導入された。さらに図書館及び出版業界にとって膨大な量の書物を合理的に処理してゆくための手段として、すでにイギリス、アメリカで用いられていた国際標準図書番号(ISBN)が、1969年に採用されることになった。同様に雑誌に対しては、国際標準連載番号(ISSN)が作られている。そしてこのISBNの印は、以後西ドイツで出版される書物には必ず記載されるようになった。

また毎日のように出版され、市場に出回っていく膨大な量の書物を年間でまとめた「年次図書目録(VLB)」が、出版連合有限会社の出版局によって、1971年から発行されることになった。これは後に述べる「ドイチェ・ビブリオテーク」(第二次世界大戦後フランクフルト市に設立された全国規模の図書館)が発行する図書目録と「書籍取次業者カタログ」とを結ぶ仲介の役割を果たすものである。ちなみにこのVLBには、1971年には3200社の書物30万7000点が記載されていたが、1988年には7717社の書物48万1500点に増えている。ただし1988年版には、全ドイツ語圏つまり西ドイツ、東ドイツ、オーストリア、スイスの出版社から発行された書物が記載されているのだ。1987年には、教科書に対しても同様の目録が発行されるようになり、1988年版には、220社の4万点が記載されている。

いっぽう電子式データ処理法を用いた出版業界の合理化措置はさらに進展を見せ、1972年には「書籍取引計算センター有限会社」というものが設立された。この会社は「書籍商清算協同組合」の精算業務、「年次図書目録」及び「ドイツ出版関係者住所録」用のデータバンク業務などをはじめ、ドイツの出版業界のあらゆる会計業務まで引き受けている。

(2)書籍の生産と出版市場

出版市場の拡大

1948年の通貨改革の後、個々のケースではなお不振と変動が見られたものの、全体としては、西ドイツにおける書籍生産量は著しい上昇をみせていった。「ドイツ出版販売取引上組合」(フランクフルト)が1951年以降毎年発行してきた小冊子『数字に見る書籍と書籍取引』によれば、年間の総出版点数は、1951年の1万4094点から、1971年には4万2957点に伸びている。この20年間に約三倍の伸びが見られたわけである。これを1970年の時点で、主要国間の出版点数の国際比較をしたものが次の表である。

出版点数の国際比較(1970年)

国 名     出版点数

アメリカ    79,530
ソビエト    78,899
西ドイツ    45,369
イギリス    33,441
日  本    31,249
フランス    22,935
スペイン    19,717
東ドイツ     5,243
(国連統計)

これを見てもすでに西ドイツが世界有数の出版国に復興していたことが分かる。当然のことながら、1950年代から60年代にかけての経済成長が、出版界にもよい影響を及ぼした結果とみることができる。この間大学やその他の教育・研究機関がどんどん設立されていくのにつれて、新たな書籍需要が生じた。そして順調な経済情勢の下で、出版社側の巧みな宣伝攻勢に乗って書物を自ら買う人の数も増大していったのだ。

こうした明るい数字にもかかわらず、出版社や書店が置かれた状況は、必ずしも良いわけではなかった。それは1973年末の石油危機以前にすでに見られたことである。あのマクルーハンの「書物には未来はない、書物はやがて消滅するであろう」という不吉な予言とも関連して、出版界に不安が広がった。これに対して1973年に開かれた出版関係者の集会で、大手ズーアカンプ出版社のS・ウンゼルト社長は、当時あちこちで聞かれた不吉な予言に敢然と立ち向かった。そして「書物は死んでもいないし、病んでもいない。書物は将来もコミュニケーションの媒体であり続けるであろう」と訴えた。また社会学者のW・リュエッグは、再三再四「書物は他の情報伝達手段によってとって代わられることはなく、ただ補完されるだけである」ことを強調した。

いっぽう西ドイツの出版界で顕著にみられるようになってきた傾向が、集中という現象であった。つまり少数の大出版コンツェルンの独占ないし寡占傾向が、集中という現象であった。つまり少数の大出版コンツェルンの独占が、年とともに強まってきたのである。とりわけ注目すべきは、ベルテルスマン・グループとホルツブリンク・グループという二大出版コンツェルンの存在である。伝統を誇ってきたドイツの出版社もやがて資本の力に負けて、こうした二大巨大出版コンツェルンの傘下に入っていったのである。例えば1786年創立のフィーヴェーク出版社はベルテルスマン・グループに吸収されたし、これより規模は小さいが、文学出版社の名門インゼル出版社は、ズーアカンプ出版社に合併された。

また17にのぼる教科書出版社が「学校教育情報作業共同体」に統合された。1974年の時点で見ると、売り上げが一番多かったのは、大衆的・保守的な新聞・雑誌を発行していて、世論形成にも大きな影響力をもっていたシュプリンガー・コンツェルン(1億マルク)で、次いでベルテルスマン・コンツェルン(8700万マルク)そしてE・クレット社と続く。

こうした集中化の一方、西ドイツには、様々な種類の零細出版社が数多く存在していた。その数は専門家によって、1970年代の初めには、150から200ぐらいあったと見積もられているが、これらの中には、短命に終わる出版社もあった。またこれらの零細出版社の中には、個性的・趣味的出版を手掛けるもの、特定の政治的・イデオロギー的な出版をめざすもの、書物の世界に新たな実験をもとめるものなど、実に多種多様な出版社が含まれている。これらは自主出版の形をとるか、集団的な編集方法をとるかしている。特定の政治的・イデオロギー的な傾向をもった出版社は、初めから利益を上げることは目的とせず、経済的な犠牲を払ってでも、その政治目的を達成することを目指しているわけである。

書籍市場調査

かつて1914年、名門出版社のE・ディーデリヒス社が、読者の購買と動機を調べるために、アンケート調査を行ったことがある。しかしこれはまだ市場調査と呼べるものではなく、しかも一出版社がおこなったものにすぎなかった。今日的な意味での書籍市場の調査は、第二次大戦後になって始められものである。1952年連合取引所組合は、その内部に<市場分析>部門を設けた。そして1952年から毎年『数字に見る書籍と書籍取引』という小冊子並びに『書籍取引の社会学及び経済問題のための資料』が、そこから発行されるようになった。

また1958年には、先のベルテルスマン出版社の委託を受けて、大手の世論調査研究所エムニドが、西ドイツにおける最初の大規模な書籍市場調査を行った。その後ベルテルスマン社は、1961年になると独自の「書籍市場調査研究所」を設立した。ここでは書物の買い手や読者の行動から書籍の販売経路、宣伝広告、広告媒体、メディア、競合媒体に関する調査さらにイメージに至るまで、実に多様なマーケティング・リサーチが行われた。そしてその結果は一般にも公表された。しかしこの研究所は1974年に閉鎖された。

これと並んで大手アレンスバッハの世論調査研究所に委託した読書と本の買い手の行動に関する最初の調査結果を、「取引所組合」は1968年に発表している。この種の調査はその後も続けて行われているがその結果は毎回出版物の形で公表されている。いっぽう宗教書に関する市場調査が、「カトリック出版連合」と「福音派出版聯合」によって、1968年に行われたことがある。

こうした調査の中では、本の買い手である読者の生態に関する調査がますます重要性を増してきているが、その結果は本の売り上げという観点から出版業者が活用しているだけではない。この「読者調査」は、出版物の受容および読者の生態に関する社会学的な関心からも、大いに利用されている点が注目される。しかしその反面、これらの書籍市場調査が偏っていて、読書傾向の一面を示すにすぎない、との批判の声が出版社の一部からあがっていることも付け加えておきたい。

いっぽうこの書籍市場調査の結果を活用したりして行われる書籍の宣伝広告合戦は、近年ますます激しさを増してきている。とりわけ売り上げが大きいベストセラーつくりのため広告宣伝費は、年を追って増大してきている。こうした出版業界における派手な広告宣伝戦は、今日先進国に共通の現象なので多言を要しないが、このような現象に対しては、立場によってさまざまな評価があることは言うまでもない。書籍市場における大衆化の波は、日本同様ドイツでも激しさを加えつつあるのだ。

書籍の価格

日本でも書籍は、いわゆる再販契約の対象商品に指定されている。これは商品の信用維持や販路統制のために、販売業者は生産者(出版業者)があらかじめ指定した卸・小売価格以下で販売しないという契約で、公正取引委員会が指定する商品に限って認められているものである。これによって書籍の定価制度が守られているものである。ドイツではこの問題を巡って19世紀いらい、長い経緯があることは、私もすでに述べてきたところである。そして1888年のクレーナー改革以来の伝統に基づき、また「取引所組合」の新たな努力の結果、第二次大戦後も書籍の定価制度は存続することとなった。

これを具体的に見ると、1957年西ドイツではカルテル法(日本の独占禁止法に相当するものが発布されたが、書籍にたいしては例外措置がみとめられ、再販商品として価格維持(定価制度)が守られたのである。

この例外措置は1973年の「競争制限排除法」でも認められた。書籍の価格維持は、ドイツの隣国オーストリアとスイスにも存在するが、スェーデンやフランスなどでは、この価格制度は撤廃された。
書籍の定価制度は、西ドイツでは、書籍販売店が定価で売ったことを立証する「返り証」を出版社に送り返すことによって、その実施が具体的に監視されていた。ただこうした業務そのものを「取引所組合」が行うことはカルテル法によって禁止されていたので、これを信託事務所に委託していた。一方、「取引所組合」の粘り強い努力によって、書籍に対する売上税は、1961年通常の4%から1・5%に引き下げられた。この税制上の特別措置は1968年に「付加価値税」が西ドイツに導入されたときも、なお維持されていた。

なお「西ドイツにおける出版界の諸相」は、次回のブログでも、紹介していく予定である。

 

ドイツ近代出版史(7)第三帝国の時代 1933-1945

第一章 出版業界の組織替え

「帝国文化院」への組み込み

第三帝国つまりヒトラー独裁のナチスの時代はわずか13年間しか続かなかったが、この時代には政治、経済、社会、文化を問わず、ほとんどすべての分野がナチスの支配体制の下に組み込まれた。出版業界もその例外ではなかった。ちなみに第三帝国という呼び名であるが、ドイツの歴史の中で、中世のドイツ国家である神聖ローマ帝国(962~1806)を第一帝国、ビスマルクによって作られたドイツ帝国(1871~1918)を第二帝国と考え、それに次ぐ帝国という意味で第三帝国と呼ばれているわけである。

さてナチス国家が遂行した、職業による社会的身分の区分けは、出版業界の組織にも大きな変化を及ぼしたのである。ナチスのやったことはすべて性急であったが、出版業界の組織替えも、政権奪取からわずか三か月半後の1933年5月14日には、出版業界の代表にその作業が委任されたのであった。まず「ドイツ書籍商取引所組合」(以下「書籍商組合」と略称する)の運営は、その総会において、5人の委員(出版主2人、書籍販売人2人、国民啓蒙宣伝省の代表1人)によって構成される委員会に任されることになった。
そして同年11月には、「書籍商組合」は「帝国文化院」の傘下に組み込まれた。その際「書籍商組合」に所属していたもろもろのグループは、それぞれ分散して「帝国文化院」の下部機関の指導を受けることになった。つまり書籍出版業者は「帝国著作院」に、新聞社は「帝国報道院」に、そして音楽出版社は「帝国音楽院」に、といった具合であった。
また「書籍商組合」は純粋の国内団体ではなくて、外国人の書籍業者も多数加わっていたので、結局二つの団体に分けられることになった。そしてドイツの出版業界の全ての団体を統合した身分的な組織として、「帝国ドイツ出版業者連合」というものが新たに結成されて、これが「帝国著作院」の指導を受けることになった。そしてその下部機関として、「ドイツ書籍代理人労働共同体」、「帝国書籍出版販売従業員団体」、「貸出文庫従業員団体」などが作られた。上部組織である「帝国ドイツ出版業者連合」は、1934年11月に定められた定款によって、非経済的な組織であることが、はっきりと謳われた。

「書籍商組合」、経済団体として存続

いっぽう1825年以来続いてきた伝統ある「書籍商組合」は、経済団体として、その後も存続することになった。かくして出版業界には、制度的に二つの全国組織が存在することになったが、出版業界ではこれら二つの組織の最高幹部つまり会長、副会長及び会計担当役員を同一人物が兼職することによって対応した。つまりこうすることによって、二つの組織が対立抗争したりしないようにしたわけである。「書籍商組合」のほうは、1934年の新しい定款で、「経済的な共同体として、国の内外におけるドイツ出版業界の発展に資する」ことが定められた。そしてその具体的任務として、とりわけ出版業者相互間ならびに買い手との間の業務上のもろもろの規約の制定、出版界の後進の育成、「ドイチェ・ビュッヘライ」(国立図書館)、「出版人養成学校」、「ドイツ書籍商中央学校」などの経営管理があげられている。さらにその第四条では、組合員は出版社によって定められた定価を遵守し、新刊書を「ドイチェ・ビュッヘライ」に納本することを義務付けることが、定められていた。

定価制度は維持

何事も統制管理することを金科玉条としていた第三帝国の下では、書物の定価制度が維持されたのは当然のことであった。書物の価格の動きに関しては、ワイマール共和制末期に、ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーが国家物価監視委員として目を光らせていたが、ヒトラーの下でも引き続きこの任務を委任された。ゲルデラー市長は、書物の定価制度の維持についてはもともと賛成の立場に立っていた。それは一定の価格が維持されることこそが、書物の買い手の利益にもつながると考えてのことであったという。さらにゲルデラー市長は、書物のような文化財にあっては、価格の放任は安定した状態で遠隔地へ書物を送ることを困難にするとも考えたという。この意味で1936年11月に出された一般的な「物価値上げ禁止令」は、出版業界にとっても重要な措置であったわけである。
定価制度に関する限り、戦争が終わるまで何の問題もなく存続したのである。

第二章 書物の一掃令と禁書目録

もろもろの指令

アドルフ・ヒトラーは政権を獲得すると直ちに、ドイツの出版界全体を自己の思い通りに動かそうと乗り出した。1933年3月5日の選挙戦に向けて、同年2月4日にナチが出した声明の中には、次のようなことも書かれていた。「いわゆる”体制の幹部ども”は、・・・長いこと、ドイツの書籍市場をみだらで、平和主義的で、国家反逆的で、神を冒涜するような文学作品が氾濫する場所として、放任してきた。」つまりナチ党はこれらの書物の取り締まりや一掃を狙っていたわけである。そして2月27日夜、国会議事堂が炎上した翌日の28日には、「民族と国家を保護するための大統領令」が布告された。これによって憲法で認められた基本的人権が停止され、公共の秩序と安寧を脅かす印刷物は、警察によって押収することができる、とされた(第七条第一項)。ナチスが狙った書物の追放を実現するのに、この一片の布告一つで十分なのであった。しかしこれに追い打ちをかけるように、同年7月14日には、「ドイツ国籍はく奪に対する刑罰」の規定が、そして10月13日には「国家反逆的文書の作成と外国からの持ち込みに対する刑罰」の規定が出された。

いっぽうヒトラーに全権委任する法律の制定を認めた、同年3月23日の国会での施政方針演説で、ヒトラーは次のように語っている。
「われわれの公共生活の政治的毒消しと並行して、わが民族体の徹底した立て直しが図られねばならない。われらの教育機関の全てーすなわち演劇、映画、文学、新聞、ラジオーが、わが民族の根底に横たわる永遠の価値に奉仕しなければならないのだ。」

この演説に先立つ3月7日、ナチスの最高幹部の一人ヘルマン・ゲーリングは「俗悪絵画・文書・広告 撲滅ドイツ警察本部」を通じて、そうしたものを公表あるいは流布した組織ないし施設との闘争に乗り出していた。そしてドイツ国民図書館員連盟は、「有害で不必要な文書・書物を排除せよ」との要請に協力した。また右翼的な団体「ドイツ学生連盟」は、追放すべき作家71名の名前を記した「ブラックリスト第一号」を当局に提出したが、これはいわゆる「非ドイツ的精神に抵抗する運動」の根底に置かれることになった。

焚書事件

焚書の準備をするナチス党員たち

こうした運動の延長線上の出来事として、1933年5月10日、人々の耳目をそばだたせた、あの「焚書事件」が起きたのである。ゲッベルス宣伝大臣の扇動によって、この日ベルリンをはじめとして、全国の全ての大学所在地のナチ党員は、一団となって公私立の図書館に闖入し、追放すべき作家の書物を手当たり次第につかみだした。これらの書物が街頭に投げ出されると、別のギャングの一隊がやってきて、それらをかき集め、ベルリンの場合は、フランツ・ヨーゼフ広場へ運んで、焚書の儀式が執り行われた。それはさながら死体を焼く火葬の儀式のようであったという。梱包された書籍の荷が、あとからあとから運ばれてくると、ギャングどもは歓声を上げてナチス文化を謳歌した。ユダヤ人やマルキストによって書かれた書物が、多くの古典の中に混じっており、ゲッベルスの憎しみを買った近代作家の書物も十把ひとからげにされていた。薄暮とともに突撃隊員に駆り立てられた大学生たちが、松明を手にして到着した。彼らは書物に火をつけ、炎の周りをあらかじめ用意されたスローガンを唱えながら、野蛮人のように踊りまわるのであった。

このようにしてハインリッヒ・マン、シュテファン・ツヴァイク、エーリヒ・ケストナー、カール・マルクス、ジークムント・フロイト、ハインリヒ・ハイネをはじめとする、ナチスの烙印を押された著作家の書物が、次々と焼かれていったのであった。やがて宣伝車とともに現場に現れたゲッベルス宣伝相は、全国放送用のマイクの前に歩み寄り、「過激なユダヤ的主知主義」の終焉を宣言した。そして「過去の悪しき亡霊は正当にも火刑に処せられた。これこそ偉大にして象徴的な行為である」と付け加えた。

この焚書事件の4日後、ゲッベルス宣伝相はドイツの書籍業者の代表を前にして、「われわれが欲しているのは反乱以上のものである。我々の歴史的任務は、国民の精神そのものを変えることにある・・・」と語った。

しかし外国においてはこの焚書事件は、嫌悪の念と憤激の嵐をもって迎えられたのである。ドイツにおいても批判の声は上がったが、焚書行為を弁護する次のような声にかき消された。「焚書の行為は、不純なものを取り除くために必要なことであったのだ。これは、かつて1817年にドイツの学生たちが、ヴァルトブルクの集会で、絶対主義的国家主義者の作品やナポレオン法典を焼いたのと同じ精神に立つものである」。これに対して当時中立国スイスに住んでいたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、その二年後に同地の新聞「ノイエ・ルントシャウ」(1935年)の評論の中で、「書物を燃やし、徴候を取り除くことでは、時代の病を治すことはできないのだ」と書いている。ついでに言えば、焚書の激しい嵐の中で、アイヒェンドルフ、シュトルム、メーリケなど19世紀ドイツのロマン派的傾向の作家の作品も犠牲となったが、これらが焼かれたのは、「十分力強くない」という理由からなのであった。

禁書目録への道

焚書事件は人々を驚かせるセンセーショナルな出来事であったが、それと同時にナチスは自分たちの気に入らない書物や出版物を、もろもろの法令を出すことによって、取り締まったり、禁止したりしていった。これから世に出そうとする書物の取り締まりに対しては、1933年9月22日公布の「帝国文化院令」が威力を発揮した。その具体的な細目については、11月1日に公布された「実施細則」に定められていた。それによると、作家として活動したり、あるいは書籍出版ないし販売の業務を行うためには、まず「帝国文化院」傘下の「帝国著作院」のメンバーであることが前提とされた。つまり「信頼性ないし適正が欠如」しているために、「帝国著作院」の会員になっていないか、もしくは除名された者は、ドイツで著作を発表したり、出版販売活動をしたりすることができないのであった。

このようにして検閲は確実に行われるため、わざわざ事前検閲する必要はなかった。とはいえ政治的・思想的内容の書物に対しては、ちゃんと明文化された事前検閲の制度も存在したのだ。この種の書物は、1934年3月15日に設置された「ナチス文書保護のための党検査委員会」に提出された。その追加規定は1935年のニュルンベルク法の中で定められた。

このように規定や規則は次々に出されていったが、この過程で浮かび上がってきたのが、どの部局がそれを担当するのかという縄張り争いの問題であった。当時秘密警察および国民啓蒙宣伝省の二つが、著作物の取り締まり機関として実際に活動していたが、時とともに宣伝省の役割が拡大するようになっていった。いっぽう1928年に、ナチスのイデオロギー担当者アルフレート・ローゼンベルクがミュンヘンに設立していた「ドイツ文化のための闘争団」が、ヒトラーの政権奪取の直後に、著作物取り締まりへの権限授与を要求したが、もちろんこれは認められなかった。その代わりに「帝国ドイツ著作物振興部」が1933年6月16日に設置され、やがてその権限がA・ローゼンベルクに割り当てられたが、この部局は「良い本と悪い本をよりわけるだけ」であって、禁書指定の権限はなかった。それに反して「帝国著作院」の権限は増す一方であった。同院を制定した規定の第一条には次のように書かれている。「帝国著作院は、国民社会主義的意向を危うくする書物や著作のリストを作成する権限を有する。これらの書物や著作を、公の図書館やいかなる形態のものであれ書店を通じて広めることは、これを禁止する」

この規定に基づいて「帝国著作院」は、1935年4月25日、「有害にして好ましくない著作物のリスト第1号」を明らかにした。このブラックリスト第1号は、その後数回にわたって、追補版が発表された。これらブラックリストに掲載され、その作品の公表が全面的に禁止された著作者の内訳を見てみると、1939年の段階では、亡命作家45%、マルキスト及びソビエトの著作家31%、ポルノグラフィー作家10%、その他14%となっている。こうした全面的に公表を禁止された著作家のリストと並んで、個々の著作物の禁止目録があったことは言うまでもない。その中にはとりわけ、マルクス主義的文献、ナチス体制及び第三帝国に敵対する内容の文献、平和主義的文献、国防の観念や民族意識を失わせるような文献、さらにユダヤ人が書いたあらゆる著作が含まれていた。

「ブラックリスト第1号」が公表されたことによって、ドイツの図書館や書籍市場へのその影響力は、確固たるものになっていった。そしてその余波は隣国のスイスにも及んだ。例えばドイツとスイスの共同出版という形で発行されていた雑誌『コロナ』は、その発行に当たって一定の妥協に応じなければならなかった。またスイス在住の作家ヘルマン・ヘッセは、詩集『夜の慰め』の新版を出すにあたって、ユダヤ人や亡命作家にも向けられていた献辞を削除することを余儀なくされた。

とはいえナチスがその13年間に行った出版および書物の世界の監視と検閲は、その網の目が細かかったにもかかわらず、内容的には必ずしも完璧なものではなかったようである。哲学者のカール・ヤスパースが当時を回想して述べているように、とりわけ精神・人文科学の分野では、その取り締まりにもしばしば欠陥が見られたという。つまり党の見解に反するような著作物が、この時代になお出版され続けたのであるが、それは監視や検閲に当たる担当者の能力不足によるところが大きかったようだ。

ナチス公認の出版社

いっぽうこの時代には、ドイツ精神、ゲルマン的北方性、「血と大地の神話」などを鼓吹するナチ党員作家やその同調者が書いた著作物が、巷に氾濫していた。そしてそうした作品をはじめナチスから公認された出版物を発行していた出版社も、当然のことながら存在していたわけである。なかでもナチ党の中枢出版社として公認されていたのが、ミュンヘンのフランツ・エーア出版社であった。同社は1941年までに、書籍や小冊子など合わせて1億3200万冊発行した。そのなかにはナチ党中央機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』をはじめとして、小説から道路地図まで、歌謡の本から暦まで、党の各種指令から人種理論の本まで、およそナチスのお眼鏡にかなった、ありとあらゆる種類の出版物が含まれていた。

規模はもっと小さかったが、ナチス公認の出版社は、そのほか70社ほど存在していた。ヒトラーが書いた『我が闘争』は、エーア出版社から刊行され、1940年4月までに600万部が売れたが、これはいわば「官製のベストセラー」だったわけである。しかしD・シュトロートマンがナチス時代の文学政策について書いた本の中で言っているように、この『我が闘争』は、「第三帝国時代に最も普及した本であったが、最もよく読まれた本という訳ではなかった」のである。

その他の出版社のたどった運命

ここで第三帝国の時代にドイツの一般の出版関係者がたどった運命について、すこし見ておくことにしよう。とりわけ非アーリア民族(つまりユダヤ人)の出版関係者が、ナチスのユダヤ人撲滅政策に従って、過酷な扱いを受けた。ユダヤ人以外でも数多くの名の通った出版人が国外へ亡命したが、それに失敗した者は、逮捕連行され、虐殺された。そうしたこともあって、多くのドイツ人出版業者はドイツの地に残って、体制に順応した。

しかしナチスに抵抗した出版関係者も決して少なくはなかったのである。なかでもエルンスト・ローヴォルトがその一人であった。彼が1919年に再建した第二次ローヴォルト出版社は、ナチスの政権奪取後、次第にその活動の縮小を余儀なくされていった。出版主のローヴォルトは、当初大胆不敵な態度を示したりしたが、ナチスの迅速な文化統制の前には、なすすべも限られていた。同社が抱えていた作家は、あるいは国外に亡命、あるいはブラックリストに載せられるといった具合に、ローヴォルト出版社の活動は著しく制限されていった。しかしこの間にも、原稿審査員の更迭、社主の変更、経営規模の縮小などによって、同社はなお生き延びていった。ただ出版するものも、ノンフィクションものとか、政治的傾向を持たない文学作品や翻訳文学など、当局の検閲にかからないものに限られていた。
しかし1938年になってローヴォルト出版社は、帝国著作院から締め出されることになった。同社はウルバン・レードルというチェコの作家がユダヤ人であることを知りながら、それまでチェコ人で押し通して出版していた。ところがこの年にチェコ領ズデーテン地方がナチス・ドイツによって占領されたことよって、彼がユダヤ人であることが判明して、帝国著作院から締め出されわわけである。その結果、ローヴォルトは国外に逃亡したが、別人を同社の社長に据えて、ローヴォルト出版社をなお生き延びさせた。しかしナチスの統制がさらに強化されるに及んで、ついに1943年、第二次ローヴォルト出版社は営業停止へと追い込まれたのであった。

第三章 第二次世界大戦中の出版界

戦時経済下の特殊事情

1939年9月、第二次世界大戦が、ヨーロッパの地で、勃発した。そしてドイツの出版界はこの戦争の影響を大きく被ることになった。つまり諸外国との関係の断絶、生産の減少、人員不足、管理統制と検閲の強化、紙不足、そして最後には空爆による物質的破壊という事態が引き起こされたわけである。

まず諸外国との関係についてみると、ナチス体制になってからもドイツと諸外国との外交関係は続いていたし、ナチスの党大会には、外国の代表も来賓として出席していた。またヒトラーが主役を演じた1936年のベルリン・オリンピックには、諸外国からたくさんの選手が参加していたのである。
それが1914年の第一次世界大戦勃発の時と同様に、1939年9月から外国との関係が断絶することになった。いっぽう第一次大戦中と同様に、今回も前線や後方基地での書物の特別需要が生じることになった。そしてこの事態にはどの出版社も、多かれ少なかれ対応した。その結果1943年秋までに、およそ5000万部の「野戦郵便図書」が出版された。第一次大戦の時と同様に、レクラム出版社は携帯用の「野戦文庫」を用意した。しかしこのレクラム版を装った小冊子を利用して、対ドイツ・プロパガンダが連合国側によって行われた点も、第一次大戦の時と同様であった。

出版量の減退

しかし1943年以降、戦局がドイツにとって不利に展開し、国内で人員や資源の不足が深刻の度合いを深めるに及んで、書籍の出版量は著しく減退することになった。その具体的な数字を、次の表で見てみることにしよう。

書籍の発行点数

年       新刊書      再販       合計
1938   20,130  5,309   25,439
1939   15,585  4,793   20,378
1940   13,782  6,294   20,706
1941   11,884  6,953   18,837
1942    9,423  9,993   19,416
1943    7,334  5,224   13,058
1944    5,304  4,224    9,552
1945      135     80      215
(1月)

(出典:H.Widmann: Geschichte des Buchhandels, 1975.  S.178)

1938年以降、新刊書はこの年をピークにして、年を追うごとに減退しているが、再販については1940年、1941年、とりわけ1942年はかえって増大している。しかし1943年からは、ドイツの戦局悪化に伴い、新刊書も再販も減っていったことが分かる。ちなみにドイツの敗戦は1945年5月である。

この表からも分かるように、1943年以降、書物に対する需要が完全には満たされなくなると、他の分野と同様に出版界でも、配給制度が導入されることになった。出版業界の幹部は1943年5月7日の会合で、「紙不足のために生産調整する必要が生じた」ことを口にした。これに先立つ同年1月に出された総統指令に基づいて、帝国経済省は出版活動の停止措置を打ち出していた。それは総力戦を遂行するために、国民各層の全ての力を結集する必要が生じたため、とされた。これを実施するにあたって、当局側は出版されるべき書物が戦争遂行に必要不可欠なものか否かによって選別するとの方針を明らかにした。そしてこの基準に基づいて、帝国宣伝省は紙の配給を行うか否かを決定するようになった。これは実質的には出版禁止措置と同じ効力を持っていたのである。紙は書物の発行には必要不可欠なものだからである。

このような手段を用いて当局は、好ましくないと思われた出版社を閉鎖へと追い込んでいったのである。こうして閉鎖を余儀なくされた南独テュービンゲンのある出版社の社長は、次のように語っている。「閉鎖命令に続いて起こったことは、すべて口頭による措置であった。ただそのやり方ときたら、陰険なものであった。つまりその瞬間から紙の供給がとだえたのであった。そしてその数日後、帝国著作院から電話があって、私の全ての在庫を、当時ナチスの所有となっていたライプツィヒの取次店に運ぶよう指示された」

いっぽう新聞には、たくさんの紙が割り当てられていたが、それは一般の書籍や雑誌より、国内国外に与える影響が大きいからという理由からであった。ちなみに1943年の時点で、ドイツの新聞の82・5%は、ナチ党の所有するところとなっていたのだ。つまり当時の新聞はナチ党のプロパガンダの重要な手段だったわけである。

突然の文字改革命令

ナチス・ドイツは1940年の段階で、激しく抵抗していたイギリスと、局外にあったスペイン・ポルトガル及び中立国スイス、スェーデンなどを除く西ヨーロッパの大部分、とりわけ大国フランスを占領していた。そしてイタリアはドイツ側に立って参戦した。そのため自信をつけたヒトラーはドイツの思想文学や宣伝文書を、占領地ほかに普及させるために、それまでドイツで用いられてきたドイツ文字(独特のヒゲ文字)が外国人には読みにくいので、他の西ヨーロッパ地域で使われていたラテン文字に変更するよう、1941年に突然の文字改革命令を出したのであった。

以下は私の勝手な私見であるが、ヒトラーは19世紀以来ドイツ社会を文化思想面で支配してきた大学卒エリートの教養市民層への強い反発の気持ちを抱いていたようである。その教養市民層が用いていた難しいドイツ文字をなくすことは、彼らへのひそかな復讐になると、ヒトラーは考えていたのかもしれない。

それはともあれ、この突然の文字改革命令で、ドイツの印刷所や活字鋳造所は、大変な出費を強いられたという。またこの文字改革がどの程度所期の目的を達したのか、明らかではない。それはともかく、この方針は第二次大戦後のドイツでも引き継がれ、今日に至っている。ドイツの文字がラテン文字に代わったこと自体は、戦後のドイツの若い世代にとっても、我々を含む外国人にとっても、ありがたい事である。とはいえ国粋主義のナチスがこのようなところで、意図せざる国際主義に同調するような措置をとったのは、皮肉なことだと言わざるを得ない。

壊滅した出版界

第二次大戦も末期の1944年8月、帝国文化院総裁でもあったゲベルス宣伝大臣は、「帝国文化院の分野における総力戦への取り組みに関する命令」を発した。これは追い詰められたナチス当局が取り組んだ、絶望的ともいえる試みであった。しかしそれ以上に恐ろしい効果を発揮したのは、連合国がわによる度重なる空からの爆撃であった。この結果、多くのドイツの町や都会が壊滅状態に陥ったが、出版界に対してもこの空爆は大きな被害をもたらした。ドイツの出版のメッカ、ライプツィヒも1943年12月4日に行われた大規模な爆撃によって、わずか2時間のうちに、多くの人命と家屋建築物そして数百万冊におよぶ書物が灰燼に帰したのであった。同様にしてもう一つの出版都市ベルリンも破滅的な打撃をうけた。かくしてドイツの出版界は第二次大戦末期には、完全な麻痺状態に陥ったのであった。

ドイツ近代出版史【6】1914~1933

第一章 第一次世界大戦と書籍取引

戦時書籍販売の特徴

大戦勃発直以前の1914年6月にライプツィッヒで開かれた、書籍とグラフィックの大規模な国際見本市ブルガは、ドイツの出版界にとって極めて重要な国際的な催しであった。しかしその数週間後に戦争がはじまると、ドイツの出版界と外国の出版界との結びつきは、様々な分野で途切れることになった。そしてまた閉ざされた国内市場の中で、書物の滞貨が次第に進行していった。それは一つには、書物が緊急時には必要のないぜいたく品と見なされたことにも原因があった。戦争が始まって数週間後に、雑誌『鉄道図書販売』の冒頭記事に、「一般庶民は戦時中はぜいたく品は買わないものだ」という内容の文章が載せられた。それが書物を指すものであることは、明らかであった。しかし書物の販売や購読が禁止されたわけではなく、戦場や野戦病院にいる兵士のために、書物が寄贈されたりした。そして占領地にいるドイツ人兵士に対して、鉄道で本を送る「鉄道図書販売」が、この動きに追随した。さらに1916年には、「戦地書店」というものが誕生した。

ここで紹介しておきたいのが、1870年の普仏戦争の時に見られた一つの動きである。家庭向けの人気雑誌『ディ・ガルテンラウベ(あずまや)』の発行人E・カイルはこの時戦地を訪れ、従軍兵士に対して、その予約購読を募ったのである。カイルはこれに関連して次のように書いている。「毎月戦地から『ディ・ガルテンラウベ』に対する注文が山のようにやってくる。戦地で注文する人は軍隊のあらゆる野戦郵便網を使え、しかも予約購読なので、一回ごとに金を送る手間も省ける。一方われわれとしては、戦地を訪れる親類や友人のためにも、注文された雑誌を毎週きちんとメッツやパリへ発送する準備ができているのだ。

戦地書店

これと似たようなことが第一次大戦中にもみられたわけである。つまり1914年レクラム出版社は、その百科文庫を100冊づつまとめて、ひと箱にした「携帯用野戦文庫」なるものを作り出し、戦場、野戦病院、捕虜収容所などへ送ったのであった。そして「ご希望とあれば、寄贈者のお名前を箱の上に印刷して差し上げます」との広告文もつけた。一箱あたりの値段は20マルクであった。一冊当たりにすると20ペニッヒということになるが、この安い値段は19世紀の後半からずっと据え置かれていたのである。ついでに言うと、レクラム百科文庫の人気を逆用して、フランス軍はドイツ軍の指導部やドイツ政府を批判する文章を、レクラム百科文庫の表紙に書いて、ドイツ軍の陣地に投下したという。

携帯用野戦文庫(レクラム)

こうした動きの後1916年になって、「戦地書店」が作られたわけであるが、その許可はたいていは大規模な書店に与えられた。そこで販売された出版物の多くは、やはり戦争に関連したものであった。例えばベルリンのG・ジルケ出版社が長期的に売れ続けるものとして推薦したのは、『三国同盟の刊行物に見る世界大戦の勃発』(30ペニッヒ)であるが、これは10か月で2万6千部売り上げた。また月刊誌の『写真で見る世界大戦』(1冊50ペニッヒ)は1号あたり6万8千部であった。

こうした戦記ものの過剰出版に対しては、すでに大戦勃発直後にも、これを嘆く声が聞かれた。先に「百部刷り」という選ばれた読者向けの豪華本の発行者として紹介したH・v・ヴェーバーは、自分で発行していた雑誌『ごちゃまぜ活字』の中で、そうした書物の内容や質について、手厳しく批判しているのだ。その際彼は一部出版社や書店の金儲け主義を激しく攻撃し、「そうした書店は人々が捜し求めている良質な本を戦地に送るべきなのである」としている。1916年2月のある前線報告にも、「内省的な書物への読書傾向は著しく減っている」と書かれている。

戦争中の書籍販売の実態をもっとなまなましい形で暴露的に紹介したのが、ダダイストのヴァルター・メーリングであった。彼は第一次大戦中の回想録『失われた文庫、一つの文化的自伝』の中で、次のように書いている。「“神われらとともに”とクルップ製の大砲には刻み込まれていた。そして“本を前線に送ろう!”と古典の帯紙に肉太活字で書かれていた。これらの本は、ウールのソックス、救急医療品、戦時チョコレートと一緒に、“野戦郵便-愛の小包”として、わが”勇敢なる若者”のもとに送られたのだ。どの新刊書にも、石炭酸と膿の混じった野戦病院のにおいがしみ込んでいた。そして大本営が戦死者のリストを張り出すように、大出版社は“われらの戦死した作家たちのアンソロジー”を陳列した」

その反面、戦争という特殊な状況の下でかえって人々が読書に目を向けるようになった、という側面があったことも忘れてはならない。このことを実証するいくつかの証言を次に紹介しよう。「戦時中という神経を逆なでするような時期だからこそ、人々は書物の力を借りて、より良きより静かな世界に引きこもる必要性を感じているのだ」、「戦時中、たくさんの兵士だけでなく、一般の人々も読書をすることを知った」、「多くの人々は苦難と危機の時代になって初めて、精神的な道具の価値について目を開いた」、「もし私が自分の本棚の中に1920年代を代表する書物を探すとなると、それは私が第一次大戦中に塹壕の中で過ごした青年時代に読んだ本を取り出すことになろう」、「陣地戦は数多くの新しい読者を生み出した。そして戦争の終わりごろには、いくつかの出版社の倉庫は空っぽになっていた」

これらの証言でも分かるように、長い塹壕戦の続いた第一次大戦の前線で、兵士たちは読書をする時間が十分あったわけである。陸軍中尉として従軍していた出版主のH・ベックは、ある戦地書店でシュペングラーの『西洋の没落』を見つけてこれに注目し、戦後自分の出版社からこの本を出版して大成功を収めたという。

紙の管理統制

戦争は一般的に言って、物の生産に有無を言わせぬ影響を及ぼした。とりわけその影響は戦後になって恐ろしいまでに現れた。出版業界に対しては、紙の管理統制による生産減少が悪影響を及ぼした。製紙に関する統制は、大戦中の1916年6月20日に告示された。そして書物は1920年10月1日まで、新聞は1921年4月1日まで、統制経済の下に置かれた。こうした経済的困難の中で、出版社と書店との間の利害の対立があらわになってきた。そして書籍販売業者は自らの利益を護るために、独立した組織づくりを始めるようになった。こうしてベルリンの書籍商ニッチュマンのイニシアティブによって、1916年5月19日に、「書籍商ギルド」が結成された。これは1886年に設立された出版主協会に対抗する形で作られたものであった。しかしこうした動きにもかかわらず、出版界全体の組織である「ドイツ書籍商取引所組合」は存続した。

出版社と書籍商の間の紛争の主たる対象は、物価上昇に伴うものであった。販売業者としては利益を確保するために、各種の割引を廃止したいと考えた。こうして年間予算が1万マルク以下の図書館に対して、プロイセン文部省が1903年に許可した割引を放棄することに、「書籍商ギルド」は成功した。この措置はドイツの他の地域でも相次いで実行されることになった。

しかし戦争による一般的な物価上昇は、さらに出版業界全体に物価上昇割増金の導入をもたらした。つまり書籍の定価を一定率値上げしたのである。これは大戦末期の1918年春に開かれた「書籍商組合」の総会で決議されたもので、ドイツの書籍販売業界のあらゆる分野に拘束力をもって適用されることになった。ただしこの時はプロイセンの図書館及び官公庁は除いて、10%の割増金が決定された。そして1920年1月になって、この割増金は10%から20%に引き上げられた。ただし専門的な学術書の出版社はこの決定に従わずに、10%の割増率に固執した。このような混乱を経て、この割増率は1920年10月には再び10%に引き下げられた。

第二章 インフレの時代と1920年代

インフレーション

1918年11月に第一次大戦が終了した後も、敗戦国ドイツの物価はじりじりと上昇の一途をたどった。そして通貨暴落の速度は、1922年の後半に入るとどんどん上がっていった。やがて出版界としても書物の値段を、従来の物価上昇割増率では調整することができないほどに、貨幣価値の下落の速度は激しくなった。「書籍商組合」としては、出版物の基本価格を何倍にしたらよいかというキー数字を「取引所会報」に発表することによって、このインフレに対応した。その度合いがいかに激しいものであったか、次に見てみよう。1922年9月13日には、キー数字の倍率は従来の60倍になった。そして12月27日には600倍に、1923年6月21日には6300倍に、8月11日には30万倍に、9月7日には240万倍に、11月20日には6600億倍に、そして11月22日にはついに1兆1000億倍にも達した。この時点になってドルを基軸にしたレンテンマルクが導入されて、これによってこの気ちがいじみた狂乱インフレはようやく終息したのであった。

その2週間後の12月5日には、「書籍商組合」もキー数字による勘定を取りやめることにした。紙屑同然になった紙幣の山を大きなリュックサックに詰め混んで、買い出しに出かけたといわれるほど、ドイツ人の心に暗い影を落とした狂乱インフレではあった。今度はこれを本の値段で具体的に見てみることにしよう。例の人気ナンバーワンの「レクラム百科文庫」は、1867年の創刊以来1917年まで半世紀にわたって、1冊の値段が20ペニッヒに据え置かれていた。それから装丁などを改善して25ペニッヒとなり、この値段がしばらく続いた。ところがインフレの終末期には、その1冊の値段は何と3300億マルクにもなっていたのだ。

この狂乱インフレのあおりを受けて、古くから続いていた名の通った老舗の出版社が、数多く倒産した。またこのインフレのために条件販売取引や委託販売取引がなくなり、出版社との直接取引(しばしば前払いで)が主流となった。いっぽうドイツで出版された書物の外国への輸出は、戦争中はほとんど壊滅状態になっていたが、戦後になって徐々に回復し始めていた。ところがドイツの通貨大暴落によって、書物の輸出は今度は極端なまでに増進することになった。それはバナナのたたき売りよりはるかに悪い、本の投げ売りといった感を呈していた。これによってこの時期ドイツの貴重な書物が洪水のように外国に流出したといわれている。

この頃(1923年=大正12年)ドイツに留学していた日本人の学者や本好きのパトロンが、ドイツ語の貴重な文献資料や出版物の数々を、ごく安い値段で大量に日本へ持ち帰ったというエピソードがいくつも残っているぐらいなのだ。

その後の出版業界の動き

さしもの狂乱インフレも1923年末の「レンテンマルクの奇跡」によってぴたりと終息し、ドイツの社会も1929年末の世界大恐慌の発生まで、つかの間の安定期を迎えた。1922年ライプツィヒの出版主ローベルト・フォークトレンダーの提唱によって、書籍取引の根本的な合理化措置として、「書籍商精算協同組合」なるものが設立された。しかし発足早々に狂乱インフレの強烈な打撃を受けて、この組織もしばらくは開店休業の状態に陥った。とはいえ経済情勢の安定化に伴い、この協同組合は徐々に活動を再開し始めた。これは清算取引を中央に集中することによって、簡素化することを狙ったものであった。従来は数多くの出版社とその得意先の間で、個別的に勘定取引が行われていた。それを一つのセンターに集めて、請求業務と支払い業務を行い、同時に配分比によって受け取り手に渡すというものであった。このようにして数多くの帳簿記入をやめて、一回の帳簿記入で間に合うようになったのである。この「書籍商精算協同組合」は、1842年のフライシャーによる「ライプツィヒ注文センター」と同じ考えに基づくものであった。

いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」は1923年に、宣伝広告部門を作った。そしてその二年後の1925年には、組織内部の争いや経済的困難にもかかわらず、その創立100周年記念行事を大々的に祝うことができたのである。またG・メンツ博士によって、ライプツィヒ商科大学内に、書籍取引経営学講座が作られた。さらに狂乱インフレによって吹き飛んでいた書物の定価制度も、その後の安定期に再び採用されるようになっていった。そして1928年には、9000の書籍販売業者と1100を超す出版社の間の取り決めや「書籍商組合」の新しい規約の導入などによって、ドイツの出版業界は再び新たな基盤を獲得した。しかしそれは社会や文化の他の多くの分野と同様に、ドイツの出版業界にとっても、「つかの間の安定期」にすぎなかったのである。

1929年末の世界大恐慌の影響を受けて、売り上げ減少と資本不足、大幅な生産減退と支払い不能といったもろもろの事態に、ドイツの出版業界も陥った。こうした困難は、諸官庁の文化予算の大幅な削減措置によってもたらされた面も少なくない。「書籍商組合」はこうした措置に対して何度も抗議を行ったが、効果はなかった。

出版人養成機関

1920年代の初め、専門的な職業機関としての出版人の養成機関設立の動きが活発になった。これは当初、世紀転換期の代表的出版人の一人であるオイゲン・ディーデリヒスの働きかけによって動いた。その目的は将来の出版人を育てるための職業訓練を、出版界内部の独自の機関で行うというものであった。彼がこれを思いついたのは当時盛んとなっていた青年運動であったというが、何よりも戦後ドイツの出版界が陥っていた窮状が、ディーデリヒスを動かした原動力であった。

1923年、ディーデリヒスは「取引所会報」に一つのアピールを発表したが、それは『変わらねばならない。ドイツ出版界への挑戦状』というタイトルのものであった。これに対する具体的な反応として、ラウエンシュタインで第一回の会議が開かれた。その後の動きは順調で、やがて出版人の養成機関「ユング・ブーフハンデル」が設立された。その活動は多岐にわたっていたが、新人に対して集中的な職業訓練をまず施した。それは夏の合宿コースや職能向上のためのもろもろの研修などであった。今日のドイツではこうした職業訓練や研修は当たり前のことになっているが、当時としては新しい試みであったのである。そしてこうした職業訓練の法制化の考えが、1927年に「タウテンブルク決議」の形で採択されたのであった。しかしこの未来の出版人の養成所は、1933年ナチス政権の誕生とともに幕を閉じることになった。

ブッククラブ

ドイツでは第一次大戦後になって大きな社会変動が起こり、戦前の中流市民階層が没落し、貧窮化することになった。この市民階層こそは書物の潜在的な読者であったのだが、戦後はこの階層の人々にとっても書籍は高いものになった。こうした変化に応じて勢いを増してきたのが、「ブッククラブ」の制度であった。これは出版社が本の買い手を会員の形で確保し、その会員に一般の定価より安い値段で、選定した出版物を届けるという制度である。

この「ブッククラブ」は第一次大戦後に初めて現れたものではなく、その最も初期の形態は1872年に生まれている。この時はクラブの経営者は書籍販売業者と提携したが、出版社側からは激しく攻撃されたという。次いで1891年には、労働者の教育向上の観点(”知識は力なり”とか”書物を民衆に!”といった掛け声とともに)から、「書物の友の会」というものが作られた。その後出版社の中にも、ブッククラブに関心を示すものが出てきた。例えばフランク出版社は自然科学の知識を国民に普及させることを目的に、ブッククラブ「コスモス」を設立した。さらに1916年には「ドイツ店員同盟」が、「ハンザ出版協会」と提携して、「ドイツ国民文庫」を創設した。これらの組織はすべて、労働者や手工業者、店員といった一般民衆の成人教育を狙って作られたものであった。

ところが第一次大戦後に生まれたブッククラブの会員には、いま述べた下層の人々だけではなくて、戦争とインフレで貧乏になった市民階層も含まれるようになった。いっぽうでは戦前の古き良き時代の出版人であったS・フィッシャーのように、20年代の半ばに「書籍市場における異常な静けさ」(1926年)を口にする人もいた。フィッシャーはさらに次のようにも言っている。「人々はスポーツをしたり、ダンスをしたり、夕べともなればラジオを聴き、映画館に行く。仕事のほかに人々がすることは沢山あり、本を読む時間などありはしないのだ。」

たしかに第一次大戦後、ドイツは大衆社会化し、人々の生活行動も戦前に比べてはるかに多様化した。しかしだからといって人々が全く本を読まなくなったのではなくて、実際には読書の形態も書籍販売の形態も多様化したのであった。その一つがここで取り上げているブッククラブというわけである。1924年にライプツィヒに「本のギルド・グーテンベルク」が、ベルリンに「ドイツ書籍協会」の二つが設立された。前者は元来印刷工見習い組合が作ったものである。次いで1925年には「福音派ブッククラブ」と「ボロモイス協会ブッククラブ」が、1926年には社会主義的傾向の「ビュッヒャークライス」が、そして1927年には「ドイツ・ブッククラブ」が生まれたのである。ブッククラブは元来会員に対して、配給するすべての本について予約購読制をとっていた。しかし先の「ドイツ書籍協会」の場合は、提示した本の中から年間70~80点を選ぶことができた。また「福音派ブッククラブ」の場合は、会員以外にも、値段を高くして、一般書店を通じて提供していた。

学術図書館への財政援助

第一次大戦を通じてドイツは諸外国と各方面で交流を欠くことになったが、外国書の文献もこの間ドイツに流入しなくなった。そのためこうして生じた外国語文献の調達を図ることを目的として、F・S・オットーのイニシアティブによって、1920年に「ドイツ学術支援組織」なるものが創設された。その基本理念は「世界中で出版された学術図書の中の重要なものは、ドイツ国内のどの図書館にも少なくとも一冊は備えておくべきである」というものであった。つまりどんな地域に住んでいる人にも、そうした書籍文献に容易に接することができるように、という分散的収集の考え方なのであった。

と同時に図書館相互間の貸出交流の活性化も図られた。この考え方のモデルは、二十世紀の初めにアルトホフがプロイセン学術図書館のために実現したものであった。「ドイツ学術支援組織」は1920~1932年の間、各地の図書館の外国書収集のために、総額870万ライヒス・マルクを支払った。そしてその調達に当たっての実際の業務は、国立図書館交流機関と共同で行った。

ところが1929年の世界大恐慌のあおりを受けて、「ドイツ学術支援組織」の予算は削減され、やがて全面的に撤廃されることになった。その結果、例えばテュービンゲン大学では、1931年には一度に530種類の雑誌が削られ、その続きのものは当分の間調達されないことになったのである。一般に文化予算は経済危機の時代には真っ先に削られる傾向があるが、この時の措置もまさにこの原則が当てはまったのである。この経済危機の時代、ドイツでは出版社や書店の多くが倒産した。このことは『書籍取引所会報』に、出版社などの和議や破産申請が、再三再四にわたって、掲載されたことからも分かるのである。

水が豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~前編

はじめに

2024年4月1日(月)から9日(火)まで、ドイツ旅行をしてきた。今回は目標を首都のベルリンとその周辺のブランデンブルク地方を見て回ることに定めた。
まずベルリンでは、この10年ほど会えなかったニコライ出版社の社長ディーター・ボイアーマン氏に再会することにした。彼は、20数年前私が『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』という著作を刊行するにあたって、大変お世話になった人物なのだ。
その後ブランデンブルク地方を少しばかり旅したのだが、そのきっかけは昨年5月のドイツ旅行の際、ふとしたことからベルリン北部のオラーニエンブルクという小さな町を訪れ、そこで手に入れた ”Die Mark BRANDENBURG”
(ブランデンブルク辺境地方)という雑誌数冊の記事に触発されたことであった。この雑誌はこの地域を対象に、その歴史、地理、文化、産業などを広く扱っているが、毎号テーマを決めて、豊富なカラー写真を取り入れて、非常に詳しく、しかも一般の人にも分かりやすく解説している。

その中の一冊に「誰がわれわれのためにdie Mark(辺境地方)を発見したのか。作家、芸術家、学者」というタイトルのものがあり、その第一に19世紀の著名な作家テオドール・フォンターネが取り上げられている。この作家は日本ではドイツ文学者によっていくつかの小説が翻訳されており、『新集。世界の文学 12
フォンターネ』で、その人物が紹介されているが、私が注目したのは『マルク・ブランデンブルク周遊記』である。そのドイツ語版は5巻にも及び、分厚いので研究者がまとめたドイツ語の縮刷版を、私は手にいれて読んできた。そしてその記述に基づいて私は今回二・三の地域を旅して歩いたわけである。

日本では一般にベルリン市の中央に立ち、テレビニュースなどでもよく出てくるブランデンブルク門とか、クラシック音楽のファンならば、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を通して、ブランデンブルクという名称を知っているぐらいだろう。

現在ブランデンブルクはドイツ連邦共和国の16の州のひとつであるが、その州都は首都ベルリンのすぐ西隣のポツダム市である。地理的には北ドイツ一帯に広がる広大な平野の一部で、おおざっぱに言って西はエルベ川、東はポーランドとの国境をなしているオーデル川にはさまれた地域である。それらの支流を含めて幾多の河川や運河が流れ、また大小無数の湖が点在するなど、豊富な水に恵まれた地方だといえよう。

     

ドイツ東部の地図
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24「ドイツ全図」
から)

今回の旅ではそのうちの二・三の地方を見て回っただけであるが、それらの地域のささやかな個人的な印象を以下に記すことにしたい。

第一日 4月1日(月)曇り
羽田からフランクフルトへ

次男が運転する車に私と見送りの家内も乗り、羽田空港に午前9時半ごろ到着。ルフトハンザ航空の受付けにトランクを預けてから、海外旅行保険を契約。その後しばらく次男と家内と歓談した後、搭乗口へ向かう。荷物検査は簡単だった。機内は満席で、両翼の上あたりの通路側の席に座る。予定より30分遅れて午前11時15分出発。飛行機は北東方向に飛ぶ。座席向かいの画面で、映画や音楽を視聴したり、コンピュウター相手にチェスの対局を楽しんだりする。相手は指し手が速く強いが、一局勝つことができた。やがてベーリング海峡を抜け、北極海上空に入ったが、グリーンランドの白い氷山の連なりが印象的。14時間の滞空時間はやはりものすごく長く、狭いエコノミークラスの座席に座っているのは、苦痛だ。
やがてノルウエー上空からデンマークを通り、ドイツに入ってフランクフルト空港に到着した。入国審査にかなり時間がかかったが、その後荷物はすぐに受け取り、出口に出る。そこでドイツ在住の長男哲也の出迎えを受け、一緒に迎えのマイクロバスでNH空港ホテルへ移動した。外はうすら寒く、まだ冬だ。ホテルに入りチェックインしたが、受付には復活祭のウサギのぬいぐるみが飾ってあった。ドイツでは先週金曜の受難日から本日月曜まで4日間、復活祭の祝日なのだ。また昨日の日曜(3月31日)から夏時間となり、日本との時差は7時間になった。
長男は今回の旅に同行するのだが、私のために往復の航空券やホテルの予約、鉄道の切符などの手配をすべてやってくれた。一息ついてから、長男が私の部屋に来て、今後の予定について相談した。

第二日 4月2日(火)曇り・小雨
フランクフルトからベルリンへ

ホテルで午前6時ごろ起床。昨日の長旅で疲れてはいたが、いつものように夜中に3,4回目が覚め、トイレへ。7時20分長男とともに、一階の朝食会場へ。セルフサービスだが、朝食中、窓から大きな飛行機がすれすれに飛行するのを目撃。8時15分チェックアウト。ホテルのバスで再び空港へ。そしてSバーン(電車)でフランクフルト中央駅へ移動する。時間があるので、構内ラウンジでゆったりドイツ語の新聞を読みながら、休憩。
そしてプラットフォームの先端の場所で10:13発のICE(特急)を待つ。かなり遅れて列車は到着したが、ドイツでは珍しくはない。指定席に座って、やがて列車は悠然と出発した。フルダを経由して、ドイツの「心臓部」と呼ばれるチューリンゲン地方を西から東へそして北東へと移動。つまりアイゼナハ、ゴータ、エアフルト、ワイマールからハレを通ってベルリンヘ向かうのだ。地図を広げて確かめながら、車窓の景色を楽しんだ。

車中で地図を広げている私

途中風力発電用の風車や太陽光パネルをたくさん見る。そして列車は南からベルリン中央駅の地下フォームに15時15分に到着した。中央駅から、去年の旅でも利用したU5の地下鉄に乗り、マグダレーナ駅で下車。広々とした大通りを歩いて、
NHBerlinCityOstホテルに入る。中央駅から東へ向かい13の停留所で20分という便利さだ。NHホテルはドイツ全国にあるチェーン組織のホテルだが、ベルリン中心部にある店はやはり高く、割安のここのホテルを長男は予約したわけだ。去年の5月も今年もユーロに対して円安で、何かと節約しなければならないのだ。
チェックインして、一休みしてから隣のイタリア料理店で昼と夜の中間の食事をとる。その後近くのスーパーに入り、家内に頼まれたドイツの日常品や土産物を買う。
長い空の旅とその後の鉄道旅行で、やはり体は疲れていたので、明日の準備をしてから早めにベッドに入る。

第三日 4月3日(水)曇り・小雨
「ニコライ・ハウス」訪問

朝6時半起床。7時テレビニュースを見る。7時半長男と一緒に一階の食堂へ行き、朝食をとる。セルフサービスだが、席はゆったりとしていて、食事をしながら長男と8時過ぎまで歓談する。9時ホテルを出て、曇り空で寒々とした中、地下鉄に乗り、都心部の「博物館島駅」で下車。ウンター・デン・リンデン大通りを横切り、かつてのプロイセン王国のベルリン王宮の外観を再建したフンボルト・フォーラムの横を歩いて9時半過ぎ、「ニコライ・ハウス」に到着した。ニコライ出版社の社長ボイアーマン氏(Beuermann)と、ここで会う約束をしていたのだ。約束の時間よりやや早く着いたが、建物の中でしばらく待つ。

やがてボイアーマン氏が現れ、10年ぶりの再会を果たす。まずは館内で記念の写真を撮る。

ボイアーマン氏と私の二人の写真

次いで「ニコライ・ハウス」の館長をしている女性のショイアーマン((Scheuermann)さんが現れた。7,8年前に館長に就任したという彼女とは初めての出会いであったので、自己紹介を兼ねて、二十年ほど前に刊行した『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』を献呈した。それから日本からの土産として能の舞扇をプレゼントした。

舞扇を広げて見ているショイアーマンさん

ボイアーマン氏には同様の舞扇と観世流の能楽師の舞台写真のカレンダー及び能楽に関する英文の本を贈呈した。そして自分が趣味として能楽関連の謡曲を習っていることも説明した。

その後館長のショイアーマンさんが、「ニコライ・ハウス」の内部を案内してくれることになったが、その前に建物の正面に出て、ブリュダー街13番地のこの家がたどってきた歴史的経緯を説明してくれた。この建物にニコライの名前がついているのは、18世紀の成功した出版業者で作家のフリードリヒ・ニコライが1787年から死亡した1811年まで住んでいたことによるのだ。この場所は旧プロイセン王国のベルリン王宮のすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人々や馬車で大変賑わっていた。1730年に王国の大臣によって建てられた大邸宅をニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そして晩年の24年間を過ごしたこの邸宅は、当時ベルリンの精神的な中心の一つであり続けた。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたという。
ニコライ死亡の後には、この建物は別人のものになったが、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。第二次大戦では部分的に損傷を受けたが、大したことはなく、東独時代には党の事務所として使われていたという。

建物正面前での記念写真(ボイアーマン氏、ショイアーマンさんと私)

正面の壁に貼られたニコライ顕彰板。この家にはフリードリヒ・ニコライ(1733年3月18日-1811年1月8日)が、1787年からその死亡まで住んでいた。この作家、歴史家、批評家、出版業者は「ベルリン啓蒙主義」の代表的存在である。

実は私がこの建物を訪れたのは初めてのことではなく、1999年にボイアーマン氏が連れて行ってくれていたのだ。その時のことは私の研究書『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(2001年2月、朝文社)の中に書き込むことができた(190頁~192頁)。その時建物の内部もざっと見せてもらったが、かなり荒れた感じで、この時点ではまだ内部の整備が十分ではなかった、という印象を私は抱いていた。
その後2011年に「ドイツ文化財保護財団」が、「ニコライ・ハウス」の管理を引き受けたという事で、その頃から建物の外装や内装を修復する作業が急速に進んだようだ。

さてショイアーマン館長はその後、建物の中の案内をしてくれた。一階入り口から二階へ上がるときの木製階段はニコライが住んでいた時に使用していたものだが、その後部分的に損傷があったものの、今では立派に修復されている。

修復された見事な手すりつきの木製階段

その階段を上がって広々とした部屋に案内されたが、そこでは時折ニコライにちなんだコンサートや朗読会が開かれているという。例えば昨年2023年3月18日には、ニコライ生誕290周年を記念した講演会と音楽会が開かれている。このイベントはニコライ・ハウス友好協会の会長でもあるボイアーマン氏が主催しているのだ。私の本にも書いたことだが、ニコライは大の音楽好きで、その最良の歳月には自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身ヴィオラを演奏することもあったという。

さらに二階には大きな会議室もあり、その隣にはニコライ関連の主な書籍を陳列した小型の図書館があった。その中央には彼の主要業績の一つであった『ドイツ百科叢書135巻』のオリジナル本が飾ってあった。またニコライの胸像も見えた。

ニコライ関連の展示品。『ドイツ百科叢書』とニコライの胸像

「ニコライ・ハウス」の中庭

そのほかニコライ関連で様々なものが、あるいは壁面に、あるいはガラス・ケースの中に展示されていた。例えばニコライが『南ドイツ旅行記』を書くための取材旅行で使用した馬車と距離測定器の細密画など、私の本の中でも使わせてもらったものが目に留まった。さらに二階のいくつかの部屋から部屋へと巡り歩いていた時に窓の外の中庭の景観が見えたが、後で階下に降りた時に実際に歩いて見た。

こうして「ニコライ・ハウス」の案内は終わった。この建物について書くことはまだまだたくさんあるが、きりがないのでこの辺にしておきたい。

その後ボイアーマン氏の案内で、ショイアーマンさん、私そして長男が、近くのフンボルト・フォーラムの中のレストランに招待され、昼食をとりながら、さらに歓談を続けた。そしてお二人には別れを告げ、ベルリン市内を遊覧船で見て回るために、長男と私は近くの船着き場に向かった。

ベルリン・ウンター・デン・リンデン周辺
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24。300頁)

この地図をご覧になっても分かるように、私たちがいた「ニコライ・ハウス」は、ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)のすぐ近くにある。そしてシュプレー川をはさんで反対側にあるニコライ地区はベルリン発祥の地域といわれ、東独時代の1980年代から注目されるようになった。そして1230年建造のニコライ教会を中心とした地域にはいくつかの由緒ある料理店やカフェが復活し、その流れは統一後に加速され、今では観光客もたくさん訪れる地区になっている。私はドイツ統一後の早い時期に、このニコライ地区に行き、有名なレストランで食事をしたことがある。

またベルリン王宮について一言付け加えると、この旧プロイセン王国の王宮は、18世紀初頭に建造された。そして第一次大戦後に王国が消滅した後も存続していたが、第二次大戦末期の空爆で被害を受け、戦後東独政府によって取り壊された。そしてその跡地に「共和国宮殿」と称するガラス張りの建物が作られた。その後ドイツが再統一された後は、空き家になっていた。ところがやがて昔の王宮を再建すべしという保守派の声が上がり、それに反対する革新勢力との間で議論が起こり、一般市民へのアンケートも行われた。その結果、妥協策として、王宮のファサードや中庭の一部が復元されたが、その内部は博物館ないしギャラリーとして使われることになった。そしてその名称も、19世紀前半に活躍した知識人フンボルト兄弟の名前にちなんで、「フンボルト・フォーラム」となったわけである。

いっぽう「ブランデンブルク」という名称は、12世紀に、東方植民を進める中で神聖ローマ皇帝が成立させた「ブランデンブルク辺境伯領」という領邦に起源がある。そして15世紀の1415年以降、元来南ドイツ出身のホーエンツォレルン家の領土になった。またドイツ騎士団の団長が新教(ルター派)に改宗し、領地を世俗化して「プロイセン公国」を作り、1618年、ブランデンブルク選帝侯国と合併して、同君連合を形成した。そして17世紀後半、実力者の大選帝侯のもとで、大いに実力をつけ、その息子が1701年プロイセン公国を王国に格上げした。やがてフリードリヒ2世(大王)の時、ヨーロッパの列強の一角を占める強国となった。その後19世紀の後半には宰相ビスマルクの時、ドイツを統一して、1871年プロイセン王国を中核にした「ドイツ帝国」ができあがったわけである。それ以来その首都のベルリンは、ヨーロッパ有数の大都市に成長したのであった。

シュプレー川遊覧船

歴史の話がやや長くなったが、長男の案内で私はニコライ地区の川べりにある遊覧船の乗り場に着いた。シュプレー川遊覧船は冬季には運休していたが、3月末の復活祭の祝日から運航を開始した。私たちはStern(シュテルン社)の船に乗ることになった。往復1時間半のコースで、値段は約22ユーロ(3630円)だ。

コースはベルリンのど真ん中(中心街)の北側に沿っている。これまで陸の側から見てきた建物をおおむね裏側から見るわけだ。出発点はベルリン発祥の地であるニコライ地区である。それでは往復1時間半の船旅で、私が注目した場所を写真で紹介していくことにしよう。最初の橋をくぐると左側にベルリン大聖堂が見えてくる。大聖堂を横から見たのが次の写真である。

ベルリン大聖堂のアップの写真

大聖堂を過ぎたあたりで、反対側を走る遊覧船が見えた。

反対側をすれ違った遊覧船

大聖堂の後、二本の川に挟まれた先端の地点に立つのがボーデ博物館だ。

ボーデ博物館
(博物館島の先端に立っている)

そこを過ぎ2本、橋をくぐったところにSバーン(電車)のフリードリヒ・シュトラーセ駅が鉄橋の上にかかるようにしてあるが、ちょうど電車が停車していた。この駅は冷戦中、ドイツ(ベルリン)が分断されていた時、東側にあり、西ベルリンから東ベルリン地区に観光客などが訪れる時、この駅の改札口に検問所があった。24時間滞在できるビザをその場で発行してもらって、私は二・三度東ベルリン地区に入ったことがある。検問所での検査は極めて厳しかった。西側の新聞雑誌や本などは持参できなかった。それはもう30年以上前のことなのだが。

フリードリヒ・シュトラーセ駅に停車している電車

その先1本橋をくぐると、左側にドイツ連邦議会議事堂が見えてくる。私はこの建物に去年5月に入ったが、その裏側から見るのは初めてだ。

ドイツ連邦議会議事堂を裏側から見たもの

それから2本橋をくぐると、右側にベルリン中央駅が見えてくる。川の側から見るのは初めてだ。

ベルリン中央駅をやや離れた地点から見たもの

中央駅の先、左側に広大なティアガルテンの公園が広がっている。その途中で船はUターンして元のニコライ地区の船着き場に戻った。あいにく曇りから小雨模様になってきたので、それ以上町中を見て歩くのはやめて、地下鉄に乗り、ホテルに戻って休息をとった。そして午後7時、長男が私の部屋にやってきて、サンドイッチをぱくつきながら、明日の行程の打ち合わせをした。

第四日 4月4日(木)晴後小雨
シュプレーヴァルトへの日帰りの旅

6時過ぎ起床。7時朝食。8時、ホテルを出て、最寄りのSバーン(電車)の駅まで歩く。そして一つ目のオストクロイツ(Ostkreuz)駅で、コットブス行きの列車に乗る。ちなみにベルリンには戦前から周辺を取り巻くようにして環状電車の路線ができていた。オストクロイツというのはその環状線の東側で、ほかの路線と交差する要衝の駅という意味である。同様にして南にはズュートクロイツ駅そして西にはヴェストクロイツ駅がある。ただ北のノルトクロイツ駅というものはない。

列車はベルリンから南東部に広がる湖沼地方のシュプレーヴァルト(Spree-wald)を通って、コットブスへ走っていった。この辺りはベルリン市内を蛇行しているシュプレー川の上流地域に当たっている。その中心の町リュッベナウ(
Luebbenau)を過ぎたあたりから駅名にドイツ語とヴェンド語が併記されているのに気づいた。ヴェンド語はこの辺り一帯にかなり昔から住んでいる西スラブ系の少数民族ヴェンド人の言葉なのだ。たとえばドイツ語のRadduschとヴェンド語のRadusが併記されているのだ。

コットブス駅のプラットフォーム

やがて終点の駅コットブス(Cottbus、ヴェンド語でChosebuz)に到着した。見た所、普通の東部ドイツの中都市の駅である。駅は市の南に位置しているが駅前に市電が走っていて、旧市街に通じている。早速その市電に乗り込み、10分ぐらいで旧市街の中央広場(Altmarkt)で降りる。そしてその一角にある聖ニコライ教会に入る。14世紀に建立された後期ゴシック様式のレンガ造りの教会だ。この辺りはニーダーラウジッツ地方と呼ばれているが、この地域最大の教会だそうだ。教会の塔は55メートルあり、塔の上からは緑豊かなコットブスの町が素晴らしい眺めだと、案内書には書いてあるが、歩いて石段を上るのは苦痛なので、やめておく。その代わりに教会の内部をゆっくり見て歩く。星形の丸天井、説教壇、雪花石膏をちりばめた主祭壇など、見事なつくりだ。

聖ニコライ教会の外観

教会を出てから旧市街の東側を流れるシュプレー川を捜して、町中を動き回る。地図を見ながら歩いたのだが、やがて川にたどり着いた。平らな土地をゆっくり流れているが、川幅は狭く、あまり見栄えはよくない。しかし、いたる所木々の緑に覆われていて、散歩するには向いていて、穏やかな気分になれた。

緑に覆われたシュプレー川

その後狭い石畳の道を歩いて、旧市街の中ほどにあるヴェンド博物館に入った。この狭い旧市街には、そのほか市立博物館、ブランデンブルク薬事博物館、シュプレー技術博物館などいろいろ案内書には書いてあるが、時間がないのでこのヴェンド博物館だけを見ることにする。

ヴェンド博物館の外観

入り口から入って受付で料金を払い、荷物をロッカーにしまう。するとすぐ近くの場所で動画が流れていて、席に座ってしばらく見ることにする。ヴェンド人の若者が激しく動いて伝統的な踊りを踊っている。それから美しい民族衣装に身を包んだ男女の若者が、互いに手を組んで歩いていく場面が続いた。女性は白く大きな帽子をかぶり、真っ白で透明な衣装に、赤、緑、黄色など鮮やかな色の帯を締めている。男の方は皆、黒いスーツに山高帽をかぶっている。

華麗な衣装のヴェンド人男女による踊り

そのあとガラス・ケースの中や、壁に貼った展示物などを見て歩いたが、そこにはヴェンド人の風俗習慣や独特の歴史や文化などが、様々な形で紹介されている。その中にはヴェンド語で書かれた聖書もあった。それから19世紀、20世紀のヴェンド人の学者、作家、知識人も紹介されていた。それらの展示は詳しすぎるほどで、丁寧に読んでいくにはとても時間が足りない。ただ、ちょうど復活祭の時期だったので、それに関連して、色とりどりの卵を作っている写真や、実物の卵が売り物として置かれていたのが印象的であった。聞けばヴェンド人は昔から復活祭の卵作りに、熱心に取り組んでいるとのことだ。

彩りの美しい復活祭の卵

ここで案内書に従って、少しばかりコットブスの歴史を紐解くと、シュプレーの周辺には西スラブ系の民族が住んでいて、すでに8世紀には定住の集落があったという。そして1156年にはドイツのシュタウフェン朝によって、一人の城市の司令官が任命されたという文書が残っている。また13世紀にはシュプレー川の渡河地点に商人の集落がつくられた。1405/06年以降、織物業やリンネル織物業があったことが文書によって知られている。そして1701年にフランスから移ってきたユグノー(新教徒)によってもたらされた絹紡績業が、今日の繊維産業の基礎を築いた。
いっぽう17世紀前半の三十年戦争(1618-48年)による事態の急激な悪化は、世紀後半、大選帝侯の努力によってかなり埋め合わせがなされた。そして1726-30年に、新しい市街地が建設された。その後第二次大戦後の東独政権の下1952年に、コットブスはこの地域の中心都市となった。さらに再統一の1990年10月3日以降、ブランデンブルク州第二の都市になった。

なお入手した資料の中には、Wende(ヴェンド人)のほかに、Sorbe(ソルビア人)とも書かれていて、この二つの言葉は、西スラブ系の二つの少数民族のことが混同して用いられているようだ。

このヴェンド博物館にはもっと滞在したかったが、次の予定地のリュッベナウに移動するために時間がなく、やむなく博物館を後にする。そして近くのレストランで食事をしてから、再び市電に乗って鉄道のコットブス駅へ移動する。こうして元来た路線を戻るようにして、シュプレーヴァルトの中心の町リュッベナウ(Luebbenau)へ移動した。

駅前は閑散としていて、町の中心地まで小雨の中を歩いていく。うすら寒くなってきて、徒歩は快適ではない。やがて商店などが立ち並ぶ中心街にたどり着いたが、復活祭の過ぎたただの週日で、しかも雨ふりのせいか人々の姿があまり見当たらない。ここは水郷で観光地なのだが、今日は船着き場は雨のため閉鎖されていて、小舟は運航していない。

小舟の乗り場には運航停止の表示。船にはシートがかぶされている

代わりにシュプレーヴァルトの絵葉書によって、小舟に乗ってシュプレー川遊覧を楽しんでいる様子を、次に示しておく。

シュプレー川遊覧船で楽しむ観光客(絵葉書)

船に乗れなかったので、周辺を歩いていると、「シュプレー川の自然景観保存館」が目についたので、中に入ってみる。川や湖、森や林、そこに生息する動物や鳥たちや植物などを、いかに保護していくかという事が、様々な具体的な展示で説明されている。

この地方の女性の民族衣装

同時にこの地域の自然の、時代による移り変わりについても説明されている。

シュプレーヴァルトの自然の移り変わり

19世紀後半に活躍したドイツの作家テオドール・フォンターネは、前にも述べたように、マルク・ブランデンブルク地方を旅して歩き、「周遊記」を書いたわけだが、もちろんシュプレーヴァルト地方も訪れて、詳しい紀行文を書いている。その分量はかなりのものになるが、少数民族ヴェンド人についても詳しく触れている。フォンターネの時代にはまだ一般の人々が観光して歩く習慣がなかった。フォンターネはこの地域を動き回るにあたって、知り合いの有力者が雇った専用の小舟に、数人の仲間と一緒に乗っているのだ。そして詳しい紀行文を遺しているわけだが、「マルク・ブランデンブルク周遊記」は、ドイツ語版で5巻に及ぶ大著なので、その中身を簡単に紹介することはできない。自分としてはその縮刷版を読んで、旅の参考にしているわけである。

天気さえよかったら、このシュプレーヴァルトをゆっくり船で遊覧したかったのだが、それが叶わなかったので、日が暮れないうちにベルリンへ戻ることにした。

なおこのシュプレーヴァルト訪問をもって、今回の旅行記の前半は終わりにして、残りの4月5日以降の後半の予定を記しておく。5日(金)は、ベルリン市内のフォンターネの墓を訪ねた後、ポツダムのサン・スーシー公園内の新宮殿へ移動する。6日(土)には、ベルリン北西部にあるフォンターネの誕生の地ノイルッピンへの日帰り旅行をする。そして7日(日)には再びポツダムへ行き、ハーフェル(Havel)湖の遊覧船に乗ることにする。

ドイツ近代出版史(5)~1887/88-1914~

第一章 書籍出版販売界の大改革

投げ売りとその防止策

ドイツの書籍出版界全体の公の組織として1825年に「ドイツ書籍商取引所組合」が作られたが、その後も書籍販売の面では書籍の投げ売りという事が大きな問題として存在していた。これに対しては幾多の防止策が試みられたが、どれもたいした効果を上げることができなかった。それどころか出版のメッカ、ライプツィヒやベルリンでは19世紀の後半になってから、かえって投げ売りは激しさを増してきたのである。割引価格を示したカタログ広告によって、地方の書籍販売業者はますます経済的苦境に陥るようになり、事態は深刻の度合いを深めていた。

地方レベルではすでに19世紀前半に、投げ売り防止の監視機関としての地域組合ができていて、地域的にはそれなりの効果を挙げる所もあった。そしてこの地域的に実施されてきたものを、全国一律にどこにでも通用するような商習慣にせよとの要求が、1870年代になって強まってきた。1876年には「書籍販売者連盟」の委託を受けて、『その支配的慣習に基づくドイツ書籍業界の基本秩序に関する草稿』というものが世に出された。そしてその二年後の1878年には、投げ売り防止のために、多くの出版業者がアイゼナハに集合した。こうした動きを見て全国組織の「書籍商取引所組合」も行動することを決心した。そしてそのイニシアティブで、同じ年の秋にワイマールに会議が招集された。そこで人々は、当時その数を増し、その連合会へと結集するようになっていた地域組合の基盤の上に立って「書籍商取引所組合」を改革することを話し合った。

「書籍販売者連盟」では、定価制度の確立をめざしたもろもろの規定を定めていた。そしてその連盟の会長から出版社に対して1882年、投げ売り業者への割引を減らすか、もしくは全く取引をしないようにとの要請が出された。この要請には484軒の出版社が応じた。

クレーナー改革

A. クレーナーの肖像

「書籍商取引所組合」の側でこの問題に対するリーダーシップをとったのが、その会長を務めていたアドルフ・クレーナー(1836-1911)であった。彼はすでに1878年のワイマール会議にも出席して、人々の注目を集めていた人物である。クレーナーは1859年に南西ドイツのシュトゥットガルトに出版社を創立した。そして1889年には老舗の大手出版社コッタ社を手に入れ、翌年にはウニオン・ドイツ出版社を創立した。これから述べる「書籍商取引所組合」の改革は、彼の名前をとって一般に「クレーナー改革」と呼ばれているが、その10年にわたる会長としての任期(1882-1892)中の1888年に、ライプツィヒに新しい「書籍商取引所組合」の会館が建設されている。

書籍商取引所組合の新館(1888年設立)

さてクレーナーは、投げ売りを防止するために定価制度を導入する過程で、ドイツの書籍業界にそれまでいろいろ存在していた組織を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することに成功したのである。彼は1887年、「書籍商取引所組合」の総会を、フランクフルト・アム・マインに招集した。これは投げ売り業者がたくさんいたライプツィヒやベルリンを意図的に避けることによって、かれらの反対をかわすためであった。

そしてこの総会で彼は、一連の提案を行った。それは書籍商同士の交流ならびに書籍商と読者との交流に関する一般的な基準を確立することと、市町村組合及び地域組合並びに出版業者連盟及び書籍取次業者連合を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することであった。このフランクフルトの総会では、全く抵抗がなかったわけではないが、結局クレーナーの政治力によってその提案は受け入れられ、以上のことを定めた新しい規約が、翌1888年の春から効力を発することになった。

この中の最も重要な規定の一つとして、投げ売り防止のための定価制度の確立に関するものがあった。ドイツのほとんどの出版業界の団体が「書籍商取引所組合」の傘下に入ったため、会員である書籍業者としては定価制度を守らなければならなくなったわけである。これによって悪名高い投げ売りは事実上終末を迎えた。このクレーナー改革によってドイツの出版業者は大同団結し、力を合わせて業界の利益と繁栄のために尽くすことを誓い合ったのである。やがてスイスの書籍商組合の定款も、ドイツの書籍商取引所組合の規約に合わせて改訂された。そしてスイスの書籍商組合の会員は、1922年までドイツ書籍商組合の会員になることが義務付けられた。またオーストリアの書籍商組合の規約も、ドイツのそれに適合するように改訂された。

定価制度をめぐる争い

クレーナー改革によって書籍の定価制度は確立したわけであるが、1888年に発効した「書籍商取引規約」をよく読むと、割引の実施に当たって地域組合にはなおある種の逸脱の余地が残されていたのであった。そのため改革から十数年をを経た1903年の初めになって、「書籍商取引所組合」は地域組合と取り決めた販売規定の中で、原則として顧客に対する割引は撤廃するが、現金払いの時だけなにがしかの割引を認めるという考え方を示した。そして具体的な取り決めとして、現金払いの際の割り引き率を、一般個人客には2.5%、官庁に対しては5%認めることになった。

ところがこの時、この程度の割引率では「不十分である」という声が、大学関係者の間からあがってきた。それは「書籍商取引所組合」へのドイツの出版業界の権力集中に抵抗して、書物の著作者と買い手の利害を護るという基本的な立場からなされたものである。そのためドイツ大学学長会議は1903年4月14日に、「大学保護協会」というものを設立して、この問題に取り組むことになった。

その昔1716年に、書籍問題にも造詣の深かった哲学者のライプニッツは、その『プロメモリア』の中で、「学者はもはや書籍業者に依存する賃労働者ではないのに、書籍業者はそうしたことを考えずに、自分たちのことばかりにかかずらわっている」と嘆いた。そして時は下って1880年代になってゲッティンゲン大学の神学教授パウル・ル・ルガルデは、ドイツの書物は外国に比べて高価であることを非難した。さらにベルリン大学教授のF・パウルゼンも、顧客割引をめぐる争いの中で、相対的に高い書籍の価格に狙いを定めた。全体としてドイツでは書物の値段が高いが、それだけ書籍業者が利益をあげている、というのが彼の主張であった。

書籍価格をめぐる論争

こうした流れの中で、書籍業界にたいして最も徹底した批判を加えたのが、ライプツィヒ大学教授のカール・ビュッヒャーであった。彼は先の「大学保護協会」の依頼を受けて1903年、『ドイツの書籍販売と学問』と題する一文を著し、その中で「書籍商取引所組合」に対して鋭い批判の矛先を向けた。かなり長くはなるが、以下その論調の主な部分を引用することにする。

「書籍商取引所組合は新しい定款を受け入れることによって、一つの<カルテル>を結成した。そして会員に商売上の最大限の利益を保証し、お互いの自由競争を取りやめることにした。」「定款には組合の目的として、会員の福祉の増進ならびにドイツ書籍業界及びその会員の最も広範な領域での利益を代表する事がうたわれているが、これは精神労働に対する搾取である」「寄生的な中間業者(取次店、委託販売人)は、書物の生産及び販売における経済的形成に対する阻害要因である」「ドイツの書籍業界は、人々が長いこと称賛してきたような完璧な組織などではない。我が国民の経済生活に対して、十分その任務を果たしていない」「そのカルテルの輪を断ち切る必要がある。・・・それから長期的観点から、公共図書館のためにしかるべき措置をとる必要がある。そして著作者に関しては、賃労働の奴隷の水準にまで落とされないよう、対策をたてるべきである」
そしてビュッヒャーは、定価制度の撤廃と自由競争の導入によってのみ、書物の価格は引き下げられるであろう、と主張したのであった。

このカール・ビュッヒャーの『覚え書き』は外国でも出版され、またドイツでは三版を重ね、同時に激しい論争を引き起こした。個人の意見が次々と洪水のように出された。そして非難の矢面に立たされた「書籍商取引所組合」の幹部が、1903年9月25日に声明を発表して、正式な異議申し立てを行った。この声明の中で「書籍商取引所組合」は、1825年の創立以来行ってきた多くの努力と業績を数え上げて、人々に訴えた。それはまず第一に著作者及び書籍業界のために翻刻出版禁止への闘いを指導してきたこと。第二に著作権保護のために道を切り開き、あわせて国際的著作権保護のためにベルヌ条約締結を呼びかけてきたこと。第三にその出版社法において著作者及び出版社の権利を擁護し、全世界の模範となるようなドイツの出版権の基礎を作り上げたこと。そして第四に造形美術作品や写真作品などの著作権に対する保護法制定に向けていまなお尽力していることなどであった。

そして定価制度をめぐる中核的問題に対しては、「書籍商取引所組合」は次のように主張した。すなわち定価制度が撤廃された場合に生ずる価格の引き下げによって、思わぬ結果が生ずることになろう。つまり比較的大規模な書籍販売業者だけは永続的に生き残れるであろうが、小さな町の書店はつぶれることになろうし、大学町の書籍販売業者も生き残りは難しいことになろう。それゆえにこうした中小書籍販売業者の生き残りのためにも、定価制度は必要であるとしたのである。

こうした学者と出版人との争いは、一般に「書籍論争」と呼ばれているが、双方互いに一歩も譲らず、強硬な主張を繰り返したため、ついにその仲介に帝国内務省が乗り出すことになった。こうして1904年4月11-13日に、関係各界の代表が招かれて会合が開かれた。そこに集まったのは、片や役所の代表、大学教授、図書館代表、対するに「書籍商取引所組合」幹部、出版主、書籍商の代表という顔ぶれであった。しかしこの会合でも直ちには問題に決着がつかず、結局懸案の数々はその解決を、「大学保護協会」及び「書籍商取引所組合」の代表から構成された「合同委員会」に委任されることになった。

ところが同委員会が同年5月31日にライプツィヒに招集されたとき、議論の対象となったのは割引問題だけであった。この時「書籍商取引所組合」は個人客に対する割引については従来の主張を繰り返しただけであったが、図書館に対しては7.5%という統一的な割引率の用意があることを明らかにした(これは「書籍商取引所組合」が従来行ってきた5%と、反対陣営が期待した10%という数字の中間をとった妥協策であった。)こうしてまとめられた取り決めは、少なくとも追加予算のついた図書館に対しては7.5%の割引を、それ以下の規模の図書館に対しては5%の割引を認めるというものであった。この取り決めは、今日なお存在している図書館割引の基礎となったものである。

書籍の定価制度をめぐる様々な問題は、その後も絶えず蒸し返され、今日に至るまで議論はし尽くされてはいない。とりわけこの議論は、第一次大戦中とその後の大インフレの時期そして第二次大戦後に繰り返されてきた。ちなみにドイツ連邦共和国の法律では、出版物は統制・協定などによる価格の拘束の禁止の対象から除外されている。

第二章 この時代の代表的出版社とその活動

特色のある出版社

今日ではもう見られなくなったことであるが、20世紀初頭のころにはまだ、ドイツの出版社にはそれぞれ独自の個性や特色があったといわれている。つまりこの時代の出版社には「顔」があったというのだ。W・ カイザーは1958年に行った講演「現代の文学生活」の中で、第二次世界大戦後の時代と20世紀の最初の数十年とを比較して、次のように言っている。「ザムエル・フィッシャー、ゲオルク・ミュラー、アルベルト・ランゲン、オイゲン・ディーデリヒス、インゼル(などの出版社)から出版された本には、それぞれ一種の風格があり、それぞれ独自の精神的分野と結びついていた。当時の書籍市場はある程度出版社によって秩序づけられていたのである。私の家のナイトテーブルには、丁寧に編集された古い完璧なカタログが置いてある」。

この古い出版社目録について、ワイマール時代の著名の評論家クルト・トゥホルスキーは、1931年に次のように書いている。ゲオルク・ミュラー、ピーパー、フィッシャー、インゼル出版社などは、このカタログ作成のために大変な努力を払い、かなりの経費と用紙を投じたのである。・・・しかもこの努力は十分報われているのだ・・・なぜならドイツの出版界にはかつて、ある本が新刊されたときにそれを自慢にできるような時代があったからなのだ。その本はX社でしか出版することができない。Y社からそれを出すことはできない、と人々は考えていた。・・・しかし今ではもうこういうことは全くなくなっている。どんな本もどんな出版社からでも出せるのだ。ほとんどどんな本も、出版社を取り換えることができる。」

トゥホルスキーがこれを書いた1931年には、先のカイザーが言った「20世紀の最初の数十年」は終わりを告げていたのだ。

装丁に対する工夫

ところで出版社の個性や特色は、書物の外観に対して人々が抱くイメージによって決められる度合いも少なくない。こうした観点から、この時代の主な出版社が書物の装丁に対して、どのような工夫をしていたのか、見てみることにしよう。まず出版者アルベルト・ランゲン(1869-1909)は、パリに滞在中にフランスのポスター美術から影響を受けて、著名な芸術家にブックカバー用のデザインを依頼することを思いついた。こうしてドイツで、書物にカバーをかけるという習慣が生まれ、これはたちまちのうちに多くの出版社が採用するところとなった。

しかも19世紀から20世紀への転換期は、時あたかも装飾美あふれたユーゲントシュティール様式(フランスではアール・ヌーヴォー様式)の全盛期であったので、この様式を用いた装丁が目立った。その際、出版者のA・キッペンベルク(1874-1950)が言うように、この「美の貴族」を広く国民大衆のもとにもたらすことが考えられた。そのためには書物の値段を下げて、発行部数を増やすことが図られた。

この考えはもともとレクラム出版社のもので、あの有名な「レクラム百科文庫」は何の装丁もない小型の文庫の形で、今日まで出版されている。そのため値段も初期には長い事20ペニッヒにおさえられていた。

ところがこうした大量出版を、美しい装丁を施したハードカバーの本で実行したのが、J・C・エンゲルホルンであった。彼は1884年、自社発行の文学全集に赤いハードの表紙をつけて、一冊50ペニッヒで売り出した。また上等な革製の表紙の方には、75ペニッヒの値段を付けた。エンゲルホルンのこの「赤表紙」は成功をおさめたが、20世紀に入ると、時代とともに読者の趣味嗜好も変わって、こうした点から新たな競争にさらされることになった。ザムエル・フィシャー(1859-1934)が経営する出版社が1908年から出し始めた文学全集は、黄褐色の表紙が付けられたが、エンゲルホルンと区別するために、これは「黄表紙」と呼ばれた。さらにこの時代、K・R・ランゲヴィーシェの「青表紙」本も存在した。

その一方、書物の外観に特別念入りな配慮を施し、ぜいたくな造本をして、しかも発行部数を100部に抑えて、選り抜きの100人に前払いで提供する「百部刷り」の試みも見られた。これを行なったのがH・v・ヴェバーが経営するヒュペーリオン出版社で、価格が50から100マルクという高価な豪華限定版であった。

このヴェーバーの友人だったE・ローヴォルト(1887-1960)は、この企画に魅せられながらも、やや別のやり方をした。つまり美しい活字と選り抜きの紙を用いて造本しながらも、それを手ごろな値段で愛書家の手元に届けようというのであった。こうして1910年から『愛書家のための雑誌』が発行されることになった。このためにローヴォルト書店と関係の深かったドゥルグリーン印刷所が尽力した。これはちょうどレクラムが本の内容に関して行なったこと(古典の廉価版の発行)を、愛書家のために造本の分野で行ったものであるといえる。

世紀転換期の「文化出版社」

それではここでこの時代に活躍した主な出版人の横顔を紹介することにしよう。これらの出版人が19世紀末から20世紀初めにかけて創立した出版社は、今日なお存続するか、あるいは今なおその影響力を残しているのだ。これらの出版人の一人オイゲン・ディーデリヒス(1867-1930)は、これらの出版社に共通するものとして「文化出版社」という名称を付けている。これら文化出版社は、新しい市民的個人主義の導入、(帝国主義的な)ヴィルヘルム体制からの市民階級の解放、そして(1871年の)帝国創立後の戦勝祝賀気分から覚めて、より現実的で健康な時代を建設することなどに貢献したのであった。

ザムエル・フィシャーの肖像

まず取り上げなければならないのはザムエル・フィッシャーであるが、ユダヤ人の彼は1886年にベルリンに出版社を創立した。S・フィッシャー社は、まず何よりも自然主義文学の作品を手掛けたことで知られている。フィッシャー社は、良書を安く人々に提供することに尽力したが、同時に作家の個人全集を出すことによっても知られていた。フィッシャーは一人の作家を掘り出す時に、のちに全集を出すことを考えてその作家の原稿を点検したのである。

その最初の全集をフィッシャーは、北欧の作家ヘンリク・イプセンの作品でもって始めることにした。イプセンの個々の作品の出来栄えは悪くなかった。しかし初めはその作品はレクラム出版社から出されていたのだ。イプセンはレクラムとフィッシャーを競合させて、漁夫の利を占めようとしていたとみられている。そのためフィッシャー社としてはイプセンの全作品の版権を獲得するのに、かなりの出費を強いられたという。それは一種の賭けともみなされるものであったが、S・フィッシャーはあえてこの冒険をすることによって、結局は同社の永続的発展を築くことができたのであった。

こうした冒険への性向は、イプセンに限らず、フィッシャーの北欧文学全般への好みに現れていた。その結果1889年から「北欧文庫」が発行されたが、新しいドイツ文学を振興させるには、言語的にも親類関係にある北欧ものが良いと彼は考えたのであった。
とはいえフィッシャー社が最初に取り上げた外国人作家は、イプセンのほかに、当時ドイツではまだ知られていなかったフランスのエミール・ゾラとロシアのレオ・トルストイであった。そしてのちにゲアハルト・ハウプトマンやトーマス・マンといったドイツ人が同社の看板作家になったのである。

フィッシャーの冒険的・革命的な行き方とは対照的であったのが、ライプツィヒのインゼル出版社のアントン・キッペンベルクであった。その行き方は慎重そのものであったが、次の彼の言葉はそれを十分示している。「我々は当時、正しい道を知らずに、手探りで進んでいた。ところが最上の水先案内人が、実は我々の船内にいたのだ。それはゲーテであった。彼は船内から何を捨てたらよいのか、教えてくれたのであった」。インゼル出版社という名称は、同社が発行した雑誌『ディ・インゼル(島)』にちなんでつけられたもので、創立は1899年であった。同社はやがてゲーテの作品の出版社として名を成していったが、1904年に出版した『ラート・ゲーテ夫人の手紙は特筆するに値した。ゲーテ夫人の手紙が公刊されたのは、このときが初めてであった。インゼル出版社はまた、文献学的な面でも貢献した。自らゲーテ作品の熱心な収集家であったA・キッペンベルクは、文献学的に当時としては最も念入りな編集を施したゲーテ全集を出版しているのだ。

オイゲン・ディーデリヒスは、多面的な才能をもって、多様な活動をした出版人であった。彼は1896年、イタリアのフィレンツェで出版社を起こし、のちに有名なブックデザイナーとなったE・R・ヴァイスの二冊の詩集を出版した。やがて彼はドイツに戻り、ライプツィヒを経て、イエナに出版社を移した。そして彼は自分の出版社を「文学、社会科学および神智学の現代化を試みる出版社」と名付けた。ディーデリヒスは初め、「自由思想家」F・ナウマンより左に立つ社会主義者であった。こうした立場から彼は、1848年革命史を、その50周年の1898年に向けて書くよう、弁護士のハンス・ブルームに依頼した。この人物は48年のフランクフルト国民議会の代表として名高いローベルト・ブルームの息子であった。

彼の出版人としての活動を見ると、出版界に様々なアイデアを持ち込んだ人物だといえる。彼は新種の宣伝広告の方法を考えて、それを実行した。また読者に書籍購入の動機をアンケートによって尋ねるという、ドイツの出版界で最初の「市場調査」を行ったりした。さらに第一次大戦後の出版界の苦境を克服するために、様々な提案を行ったし、「出版人養成機関」の生みの親の一人でもあったのだ。

先にブックカヴァーの創案者として紹介したアルベルト・ランゲンは、1893年に出版社をパリに創立した。文芸出版社としては、北欧とフランスの作家の作品をドイツに紹介することに重点を置いていた。そうした観点から彼は、若きノルウエーの作家クヌート・ハムスンを、S・フィッシャー社から引き抜いて、その小説『神秘』を出版した。しかし出版者ランゲンの名前と切っても切れないのが、名高い諷刺週刊誌『ジンプリチシムス』であった。この絵入り週刊誌はヴィルヘルム二世時代のドイツの政治や社会を鋭いタッチで諷刺・批判したために、その関係者はたえず告訴されたり、拘留されたりした。そして雑誌は発刊禁止処分を受けたり、発行人のランゲンはこのためスイスへ逃亡しなければならないこともあった。

こうした危険があったにもかかわらず、雑誌関係者はこの週刊誌の編集発行に意欲を燃やし続けた。やがてランゲン出版社は有限会社に組織替えされたが、1907年ランゲンは新しい雑誌『三月』を創刊した。この雑誌の発行人の中には、作家のヘルマン・ヘッセもいた。ところがヘッセはもともとフィッシャー社の作家であったため、このことが契機となって、S・フィッシャーとA・ランゲンの間に気まずい雰囲気が生まれることになった。ランゲン自身は翌年の1908年に亡くなったが、やがて雑誌『三月』はメルツ出版社から発刊されることになり、その編集は後にドイツ連邦共和国初代大統領となったテオドール・ホイスが担当した。

またゲオルク・ミュラー(1877-1917)という人物が、1903年ミュンヘンに出版社を創立した。皮革の卸売り商の息子だったミュラーは、その財政基盤はしっかりしていた。若き日にヴェーバー書店で見習いとして働いた経験を生かして、のちに自分の出版社を作ったが、直ちにその事業拡大へと突き進んでいった。まずマイヤー出版社の作家の版権を買い取った。そしてS・フィッシャー社が開拓することができなかった北欧の作家ストリンドベリーのドイツ語版全集を発行した。さらにランゲン社から、そこの作家ヴェーデキントを横取りした。

このG・ミュラーと同様にベルリンのヴェーバー書店で見習いをしていた人物にラインハルト・ピーパー(1879-1953)がいた。彼はミュラーと一緒にパリへ旅行したりしたが、やがて1904年に自分の出版社をミュンヘンに創立した。ピーパー出版社はとりわけ現代美術作品の出版に力を入れた。こうしてその出版社から、エドアルト・ムンク、H・v・マレー、M・リーバーマンなどの美術家の作品が出版された。さらにM・ベックマンとE・バルラッハも出版された。そこでの絵画作品の複製の出来栄えは、素晴らしいものだった。

最後にエルンスト・ローヴォルト(1887-1960)及びクルト・ヴォルフ(1887-1963)という二人の出版人の横顔を紹介しよう。ローヴォルトは1908年に、その第一次出版社をベルリンに創立したが、最初に出版したのが、G・C・エトツァルトの抒情詩集『夏の夜の歌』であった。これは二色刷りのユーゲントシュティールの美麗本で、当時若干21歳だったローヴォルト青年の夢を実現させたものであった。その2年後の1910年、ローヴォルトは劇作家H・オイレンベルクに心惹かれることになる。オイレンベルクはこの年の11月10日、シラー生誕150周年の祝典で記念講演を行った。しかしこの時彼は国民の愛国的シラー像を打ち砕いたため、講演は抗議の声と退場する人々の騒音で包まれた。それでもローヴォルト青年はこの劇作家に近づき、その全作品を出版することを約束した。これも若き出版人の理想主義を示す逸話であった。

オイレンベルクの作品に関するローヴォルト書店の広告

その一年前の1909年から親友のクルト・ヴォルフが、匿名の株主としてローヴォルト書店を全面的に支援していた。この二人の青年はシャム双生児と一般に呼ばれていたぐらい、常に行動を共にしていた。しかし二人の性格は非常に異なっていた。そのこともあって、それまで二人三脚のようにして一緒に出版事業を営んできたローヴォルトとヴォルフの間に、1912年になって出版の方針を巡って大喧嘩が持ち上がった。その結果、社の資金面を支えてきたヴォルフが1万5千マルクをローヴォルトに渡して、作家たちの版権も手に入れた。その中にはヨハネス・ベッヒャー、マックス・ブロート、ゲオルク・ハイム、フランツ・カフカ、M・リヒノフスキー、アルノルト・ツヴァイクなど文学史上に名をのこす、そうそうたる顔ぶれがいた。そしてヴォルフは翌1913年に社名を「クルト・ヴォルフ社、ライプツィヒ」と改めて、独自の出版活動を続けることになった。

その後ヴォルフは出版事業家としての才能を発揮して、事業拡大に乗り出した。その手始めとして、1917年「百部刷り」で知られていたヒュペーリオン出版社を買い取った。そしてそれに続いていくつかの長い名称を持った出版社を創立していった。このヴォルフの出版事業を経営面から支えた人物にG・H・マイヤーがいたが、彼はヴォルフに宣伝広告の重要性を説き続けた。そしてこのマイヤーの宣伝工作が見事に功を奏したのが、1915年に出版されたグスタフ・マイリンクの幻想小説『ゴーレム』に対する宣伝活動であった。この時マイヤーは街の広告塔に真っ赤な宣伝ポスターを貼ったのであった。

いっぽう自分の出版社を失ったローヴォルトの方は、第一次大戦勃発とともに出征していったが、戦争終了とともに帰国し、再び出版活動に従事した。今度は時代の先端を行く表現主義の芸術家や作家との交際のうちに、この種の作品を出版することを狙って、1919年に第二次ローヴォルト書店を創立した。そして従来の堅い純文学作品のほかに時局ものも多数出版するなど、多角的経営によって事業を安定させていくことになった。そして「自由なる精神の試合場、書物のための公共機関」をモットーに、出版活動をつづけた。1919-1933年のワイマール共和制の時代に出版された書籍の点数は、500点余におよんだ。しかもその著者層の広さ、作品の多様性は注目に値した。右翼から左翼に至るまで多彩な顔ぶれ、大衆作家から新聞・雑誌の文芸記事の執筆者、文学史に残る作家、あるいは各界の著名人に至るまで、その執筆陣は及んでいたのだ。こうして第二次ローヴォルト書店は出版の自由を全面的に享受して、ワイマール共和国時代の代表的出版社の一つとして、繁栄を謳歌したのであった。

なおナチス時代の前半に細々と経営を続けていたローヴォルト書店も、その後半にはついに閉鎖の憂き目にあった。そして第二次大戦後になって第三次ローヴォルト書店が創立されて今日に至っている。この間の事情については後に述べることにする。

大衆向けの書籍販売

以上紹介した「文化出版社」で発行されていた書物とは別に、広範な一般大衆向けの印刷物や書物を取り扱っていた書籍販売が、世紀転換期から20世紀初めにかけての時期にも、もちろん存在した。例えば都市近郊や地方では、しばしば文房具店と製本業者が合体した店で、広範な購買層向けに、教科書、暦、青少年向け図書、料理の本、安手の娯楽シリーズ本、家庭向け小冊子などが売られていた。いっぽう鉄道の駅構内の書店も、1854年にすでにハイデルベルクに存在していたが、このころにはその数を増やしていた。またレクラム出版社では、1914年に全国1600の駅の構内に、本の自動販売機を設置した。さらに大都会のデパート内に書籍売り場が設けられるようになった。こうした動きに対抗するように一般書店でも、ショーウインドー内の書物の飾りつけに工夫をこらしたり、店内の魅力あるレイアウトなどに尽力するようになった。

レクラム百科文庫の自動販売機

第三章 国立図書館開設への動きと出版界

1848年-不幸な第一歩

ドイツでも全国的な規模の公的図書館を開設しようという動きはかなり早くからあったが、地方分権国家として国の統一(1871年)が遅れたこともあって、この運動はなかなか結実しなかった。最初の動きは1848年の三月革命のときにおこった。北独ハノーファーの出版者H・W・ハーンは、フランクフルトの国民議会執行部に宛てて、自分の出版社の出版物を提供するので、他の出版社からの献本を併せて、公の図書館を作ってほしいとの申し出を行った。やがてドイツ及びオーストリアの多くの出版社がこの動きに同調したため、国民議会では国立図書館建設への第一歩を踏み出せるものとの見込みを立てた。そしてそのための専門的な担当官が任命され、具体的な計画立案が委任された。担当官のH・プラート博士は早速、納本義務と文献目録作成に関する立法作業に取り掛かった。その際新刊書の供出と文献目録への登録によって、著作権保護期間の確定も行うことを計画した。

こうして国立図書館開設へ向けての第一歩は順調に踏み出された。しかし翌1849年に国民議会そのものが解散したことによって、この計画も挫折してしまったのである。このようにドイツにおける国立図書館建設の最初のイニシアティブは、国や政府ではなくて出版界がとったわけであるが、この傾向はずっと後まで続くことになる。

「ドイチェ・ビュッヘライ」開設へ

1848年の計画の挫折の後、1871年にドイツは統一され帝国が成立したが、このころになると再び国立図書館開設へ向けての動きが起こってきた。今度は図書館関係者のイニシアティブによるもので、既に存在していたベルリン王立図書館をドイツの帝国図書館へと昇格させようというものであった。しかし今回は政府関係者のこの問題に対する無関心から、この提案は受け入れられなかった。

こうして時が過ぎていったが、第一次大戦勃発の少し前の時期に、ドレスデンの出版主エーラーマンの主導で、全国的な規模の図書館を建設しようという提案がなされた。かれは三度にわたって自分の提案の鑑定を専門家に依頼した後、1910年になってそれを公表した。その設立の目的は、外国におけるドイツ語出版物を含め、ドイツ語の全ての出版物を集めた公共の図書館を作ることであった。そしてその集めるべき出版物の中には、芸術上の印刷物、個人的な印刷物そして官公庁の刊行物も含まれるべきことが謳われた。そしてこの図書館へはすべての出版社が自由意志によって納本することで、出版界に合意がみられることになった。

主導者のエーラーマンはこの全国的規模の図書館を、ドイツの書籍の中心都市ライプツィヒに建設することを提唱した。幸いそこの「ドイツ書籍商取引所組合」はこの計画に協力的であった。そしてこの全国的図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、この「書籍商組合」の施設として建設されることが決まった。そのうえライプツィヒ市当局とザクセン州政府もこの計画に大変協力的であった。こうしてライプツィヒ市が土地を提供、ザクセン州政府が建設費を負担、そして両者がその経常運営費を負担していくことで合意がみられた。また「書籍商組合」が書籍や出版物の収集に対して責任を負うことが定められた。

「ドイチェ・ビュッヘライ」の堂々たる外観

こうして1912年10月にこれら三者の間で契約が交わされ、「ドイチェ・ビュッヘライ」は誕生することになったのである。出版界を代表してこの交渉に携わったのは、1910-16年の間「書籍商組合」の会長を務めたベルリンの出版主カール・ジーギスムントであった。しかし期待されたドイツ帝国政府のこの事業への参加は、ついに見られなかった。そのためこの図書館は全国的な規模のものではあったが、この時点では帝国図書館とはならなかったのである。第一次大戦勃発前夜の時期でもあり、当時のドイツ帝国政府の代表者は、こうした文化的事業に関心が向かなかったのであろう。

それはともかく「ドイチェ・ビュッヘライ」は1913年の初めから、ライプツィヒの「書籍商組合」の会館の中で、業務を開始することになった。当初はその業務は、1913年1月以降に発行された出版物の収集に限ることとされた。しかし1916年になると第一次大戦中にもかかわらず、「ドイチェ・ビュッヘライ」の独自の建物の建設が開始されることになった。そして第一次大戦後の1922年になると、ワイマール共和国政府は「ドイチェ・ビュッヘライ」の共同出資者に加わることになったのである。こうしてライプツィヒの「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1945年までドイツの全地域をカヴァーする唯一の中央図書館(つまり国立図書館)の地位を保ったのである。

全国図書目録の発行

全国的規模の図書館開設の動きと並んで、総合的な図書目録整備の事業の方も進展した。ドイツでは図書目録は長い間、個々の出版社が発行したものや見本市協会の出品目録という形で存在してきた。なかでもカイザーとヒンリヒスの図書目録が、その内容が充実したものとして知られていた。このカイザーの図書目録を1914年に、「書籍商組合」の図書目録部が受け継ぎ、「ドイツ書籍目録」という名称で、その業務を続けることになった。また翌1915年には、ヒンリヒスの図書目録も受け継ぎ、同様に図書目録部が仕事を続けた。

こうして先人の多くの遺産を受け継いだ「書籍商組合」は、全国的な規模の図書目録の発行に踏み切ったのであった。この「ドイツ全国図書目録」は既刊書の総目録であったが、1921年には毎日発行される新刊書の目録も現れることになった。一方重要な価値を持つとみなされたドイツ語の学術論文や雑誌論文の目録作成・発行の業務を、「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1924年から始めることになった。これはかつてツァルンケによって創刊された「リテラーリシェ・ツェントラールブラット」を受け継いだものであった。

また1928年には「ドイツ公文書月刊目録」が発行。そして1936年には、それまでプロイセン国立図書館によって管理されていた「ドイツ大学文書年次目録」が、そして1943年には「ドイツ音楽図書目録」及び「美術図書総目録」が付け加えられた。そして年次は前後するが、1927年に「ドイチェ・ビュッヘライ」は、「ドイツ歴史図書年次報告」を開始し、さらに1930年には「歴史図書国際総目録」のドイツ語部門を引き受けることになった。