ドイツ近代出版史(10)第二次世界大戦後1945〜(その3)

第4章 東ドイツにおける出版事情

(1)社会主義社会における出版の役割

東ドイツにおいては、書籍や出版活動は、当初から「社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」とされていた。これに関連して、東ドイツの研究者のブルーノ・ハイトは1972年に、その『ドイツ民主共和国における書物の役割について』の中で、次のように述べている。
「書物はそもそも初めから社会主義社会の建設を手助けしてきた。書物はソビエト連邦ならびにその他の社会主義諸国との友好協力関係の促進に寄与してきた。書物は労働者や協同組合所属農民が、文化や芸術を自分のものにするのを手助けしてきた。書物は資本主義と社会主義の間の精神的な大論争に答えを与えた。そして今日、書物はドイツ民主共和国の発展した社会主義社会の形成に、寄与しているのだ。書物は社会主義的態度および信念の形成に当たって、何ものにも代えがたく、しかもその信念こそは社会主義の勝利のために、重要にして不可欠な前提条件なのである」

このように東ドイツでは、書物は一つの明確な目標を達成するための手段であると規定され、その出版活動もこうした前提条件の下で、はじめから独自の発展を見せてきたわけである。そしてこの観点から、何はともあれマルクス・レーニン主義の古典作品が、さまざまな版にわたって出版されたのである。さらにソビエト文学とならんで、反ファシズム・民主主義的な作家の作品が、民主的ドイツ文化の建設に当たって、大きな精神的な力となるものとされた。またこうした意味合いから、さまざまな形での読書会や作家との対話集会、文学的討論会などが奨励された。毎年「書籍週間」や「児童文学の日」が定められ、労働者の祭典などには「文学プロパガンダ的催し」も開かれたりした。

先にも述べたように「書物は社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」との至上命題が、出されたわけであるが、こうした原則は再三再四、体制側の代表によって、出版関係者に向かって呼びかけられた。出版界をその管轄下に置いていた文化省のJ・R・ベッヒャー大臣は、1953年に出版関係者を前にして、こう語った。「出版者も文化政策の推進者であり、自分が携わっている分野において、文化政策を推進していかなければならないのだ」。またウルブリヒト社会主義統一党第一書記は、1959年に開かれた作家会議に出席して、社会主義的社会秩序のなかでの作家の役割について、次のような演説を行った。
「作家は、社会生活のただなかに身を置き、社会生活の発展に対して自ら協力するときにのみ、その任務を果たすことができる。・・・われわれの文学・芸術は、ドイツの最良の人道主義的伝統の維持ならびにドイツ民主共和国における社会主義の勝利に奉仕すべきものである」

また出版社の活動については、1946年4月に開かれた社会主義統一党の創立大会の決議の中で規定され、その後1963年の第6回党大会で改めて確認されている。それはドイツ民主共和国における社会主義の全面的かつ完全な建設計画の一環として、組み込まれているものである。そしてその国法上の基盤は憲法にあった。1968年4月に改定された東ドイツの新憲法の第25条には次のように書かれている。
「ドイツ民主共和国の全ての市民は、教育を受ける平等の権利を有する。・・・全ての市民は、文化的生活に関与する権利を有する」。また第17条には「学問研究およびその知識の応用は、社会主義社会の根本的基礎であり、国家によってあらゆる面にわたって奨励される」と書かれており、さらに第18条では「働く者の文化的生活の促進および国民的文化遺産と世界文化の保護」がことさら強調されている。

(2)東ドイツ出版界の変遷

出版界の概況

社会主義国の東ドイツにとって出版は、前節でみたように特別の役割を担わされていたわけであるが、その40数年にわたる歴史をこれから概観することにしよう。ただし史料的制約もあって、西ドイツの場合に比べて、ごく簡単なものにならざるをえない事を、初めにお断りしておく。ちなみに東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1949年に発足し、1990年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収合併された形で消滅した。とはいえ1945年5月にナチスドイツが敗北し、ドイツの東北部をソ連が占領統治し始めた時点から、その出版界はのちに西ドイツとなる西側地域とは、まったく違った形で始まったのだ。

さて1949年に生まれた東ドイツ(ドイツ民主共和国)の出版界は文化省の管轄下にあり、主な書籍出版社と雑誌出版社は同省から認可を受けて営業していた。認可を受けていた出版社の数は、1970年代半ばの時点で、全部で78あったが、この数は1985年になっても変わっていない。これらの出版社は専門分野別に分けられており、21が政治・社会科学・自然科学文献の、4が医学・生理学文献の、15がその他の専門文献及び教科書の、3が地図の、6が児童及び青少年向け書籍の、16が文芸書の、3が美術書の、7が音楽書及び楽譜の、そして3が宗教書の出版社である。

いっぽう経営形態別にこれらの出版社を分類すると、国営が34、社会団体所有のものが22、国家関与企業が5、そして個人所有のものが17となっている。このほか国家の認可を受けていない小規模の出版社が20ほどあったが、そこでは暦、絵本、塗り絵帳、職業指導書、教育用ゲーム道具などが取り扱われていた。

東ドイツの出版社の中には、ライプツィッヒの伝統的な出版社もあれば、1945年以後に新たに創立された出版社もあった。しかし首都の東ベルリンには32もの出版社があつまり、東ドイツ全体の出版点数のほぼ三分の二を出版していたのである。その一方ライプツィッヒには38の出版社が集中し、数からいえば東ベルリンを凌駕していたが、出版点数は全体の23%にとどまっていた。とはいえ東ドイツの出版社は、ほとんどこの二つの都会に集中していたわけである。

それでは書籍生産の規模はどれぐらいだったのであろうか。そのことを示しているのが次の表である。

年間発行点数 年間総発行部数 一点当たりの平均部数
1949 1,998 3340万部 16,700
1954 5,096 7000 万部 13,800
1959 5,631 8880万部 15,783
1964 5,604 9360万部 16,723
1969 5,169 11400万部 22,050
1985 6,471 14460万部 22,350

(出典:H.Widmann,  Geschichte des  Buchhanndels, 1975.S.212
1985年度だけは、Lexikon des gesamten  Buchwesens.II, 1989, S.289)

それでは次に東ドイツ出版界の変遷を、1945年から1970年代まで(史料的制約から)を中心に、順次たどってみることにしよう。

初期の建設期(1945-1949)

この時期はまだ東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国されておらず、ソ連の占領時代に相当するが、なにごとによらずソ連占領軍政府の命令が絶対的な時代であった。まずソ連軍政府布令第二号によって民主主義的な諸政党が許可されたが、その筆頭に立ったドイツ共産党は、1945年6月国民に向かって、ある呼びかけを行った。その中で、ヒトラー体制の残骸の完全な一掃に次いで、すべての学校および教育施設における真に民主的で進歩的で自由な精神の保持と、学問研究及び芸術創造の自由が図られるべきことが謳われた。

そしてこの呼びかけに基づいて「ドイツの民主的再生のための文化連盟」というものが設立された。そしてこの組織の下に、出版関係では、何はさておきファシズム的思想の所産を含んでいるような著作物は出版しないように、との路線が示された。そのうえで新しい理念に合致した教科書を発行し、第三帝国時代に追放されたり、弾圧を受けたりした人の著作物の名誉回復を図ることが指示された。そしてさらに学問的生活の再建のために必要な専門書や専門文献の出版が促進されるべきことも指示された。その際出版界の再建のために、ソ連占領軍政府の文化担当官が援助の手を差しのべた。

かくして早くも1945年夏に、新しい出版社がいくつか設立されたのである。まずドイツ共産党の出版社として、「新路線出版社」が作られたが、それから数か月後には「ディーツ出版社」(ベルリン)が生まれた。また教科書出版社としてライプツィッヒに「人民と知識」が活動を始めた。さらに文化大臣ヨハネス・ベッヒャーの後押しで、「アウフバウ(建設)出版社」(ベルリンおよびヴァイマル)が設立されたが、この出版社は設立三年後には150点の書籍を刊行していた。そこにはJ・R・ベッヒャーやアンナ・ゼーガースなどの当時の現存作家の作品のほかに、ゲーテ、シラー、ハイネ、シュトルム、ケラーなどの古典作品も含まれていた。こうして同出版社は、東ドイツの文芸書出版社の筆頭の地位を占めるようになったのである。

これに続く数年の間に、さらに一連の出版社が設立されていった。学術出版社として「アカデミー出版社」(ベルリン)が作られたあと、1948年に「国民出版社」が誕生した。またマルクス・レーニン主義及びロシア・ソ連の偉大な作家の作品を刊行する出版社として「ソ連軍事管理出版社」及び「モスクワ外国文学出版社」が、1946~1949/50年にかけて、存在感を示していた。

いっぽう1946年に、国民教育担当官庁に出版部門及び出版担当の「文化諮問委員会」が設けられた。そして出版社の再認可、出版物の許諾申請、出版編集計画などの審査業務が、この「文化諮問委員会」に委ねられた。その結果、百年以上の歴史を有したものも含めて、たくさんの出版社が1946~47年にかけて、「国営企業」として引き継がれた。その主なものを挙げると、ライプツィッヒに本拠を置いていた「国営文献目録社」(1826年創立)、「国営ブロックハウス出版社」(1805年創立)、「国営ブライトコップ・ヘルテル音楽出版社」(1719年創立)、「トイプナー出版協会」(1811年創立)、「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」(1828年創立)、「インゼル出版社アントン・キッペンベルク」(1899年創立)、そしてハレに本拠を置いていた「国営マックス・ニーマイヤー出版社」(1869年創立)などである。結局1949年までに全部で160の出版社に営業許可がおりたが、その後はこの数はかなり減少して、前述のとおり78となった。

いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)に対しては、ソ連軍事政府によって、1946年4月にその活動再開が許可された。これによって同組合が発行してきた『ドイツ書籍取引所会報』と『全国図書目録』の発行も、再び軌道に乗るようになった。出版社の活動に対するその後の指針として、第一次二か年計画(1949/50)が定められ、その詳細については「ドイツの学術文化の保持発展に関する指令」(1949年3月)によることとされた。また専門技術者用の文献を発行するところとして「専門書出版社」が1949年にライプツィッヒに設立され、さらに児童書発行所として「児童書出版社」が同じ年に設立された。

ここでこの時期の書籍販売面に目を向けることにしよう。第二次大戦直後は、この分野ではなお著しい混乱が支配していたが、やがて1946年9月になって、ソ連軍事政府の命令によって、「ファシズム関係図書の絶滅」が図られることになった。その前の1945年8月~1946年8月の時期には、ソ連占領地域では、書物960万冊、小冊子180万冊そして雑誌350万冊が発行されていたのだ。

また書籍取引の中心的な機関として1946年に、「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」が設立された。そして書籍販売店はこのセンターを通じて、出版社と取引をし、代金の清算を行うことになった。書籍販売店の営業許可は、担当官庁から下されることになった。また初期の書物不足から、大学や専門学校に特別な役割が課された。さらに貸本店の在庫図書のためにも、相応の措置が取られねばならなかった。この時期の終わりに、書店は1600店、書籍販売所は1300か所を数えた。

国家建設後の発展の時期(1949-1955)

1949年5月、西側三占領地域からドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生したが、その後を追うようにして同年10月7日、ソ連占領地域からドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれた。その直後の11月23日、同国初代のグローテヴォール首相は、「人間精神の成果をすべての人々の手に届くようにし、加えて真に人道的な文化を発展させることこそが、ドイツの精神労働者の特別な任務である」と語っている。ここでは学者、知識人の役割を説いたのであるが、翌1950年3月に出された「ドイツ人民の先進民主文化の発展ならびにインテリの労働・生活条件のいっそうの改善のための指令」の中で、とりわけ学術出版社及び図書館が学術書を支援すべきことが謳われている。また同指令第6条第4項では、ドイツ民主共和国の外部で出版される文献や科学技術研究に必要な文献を調達するために、センターが設立さるべきことが記されている。さらに同じ指令の第10条第1項には、働く人民の文化水準向上のために、過去及び現在の最も進歩的で最良の文化作品を、企業や地方で働く創造的な人々に与えるべきことが定められている。
次いで1950年7月に開かれた政権党である社会主義統一党の第3回大会で、出版界にとって重要な意味を持った方針が打ち出された。つまり1951-55年の五か年計画で、出版の規模を二倍にすることが定められたのである。

いっぽう「進歩的著作物の発展に関する指令」に基づいて、書籍出版のための新しい役所が設立された。この役所の役割は、第一に中央の調整と指導によって、あらゆる分野の著作物を振興発展させること。第二に専門家の鑑定によって出版物の質の向上を図ること。第三に書籍及び雑誌出版社の設立を認可すること。第四に出版編集作業に対して絶えず助言を与えること。そして第五に書籍及び雑誌出版のために用紙を分配することなどであった。

この役所は1951年11月に、ベルリンで第一回の出版社会議を開いた。その後1952年10月にライプツィッヒで第二回会議、そして1953年11月に同じ場所で第三回会議を開催した。また1952年の社会主義統一党大会で、文化大臣ヨハネス・ベッヒャーは、「知識人と労働者の連携の緊密化」を訴えた。そして1953年5月の党中央委員会政治局の決議の中で、文芸批評、図書目録、進歩的書物の宣伝の促進が謳われた。その具体的方策として、例えば地域・企業新聞を含めたあらゆる新聞に、新刊書の書評欄を設けることが訴えられた。

書籍販売面ではこの時期、進歩的著作物を広く人々に供給するという意味合いで、国営の「人民書籍販売」という概念がしきりに宣伝された(1951年8月の指令)。その一方でなお私営の書店も存続していたが、それらの書店は「民主的立法の基盤の上に立つよう」にと、指示がなされた。1952年になると先の「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」の機能が拡大された。つまり現代的機能を備えた社会主義的な書籍取次業へと拡充されたのである。そして対外的な書籍販売面では、1953年10月にまったく新しい組織として、「ドイツ書籍輸出入有限会社ライプツィッヒ」が設立された。

社会主義的出版体制確立の時期(1956-1961)

ソ連共産党第20回大会が開かれた数週間後の1956年春、東ドイツ社会主義統一党の第3回大会がベルリンで開催され、そこで第二次五か年計画(1956-60)が策定された。この計画が出版の分野にもたらされた結果として、さらなる闘争のために「高度に有能な専門家」が必要であることが明らかとなった。そして西側からの専門文献の輸入に頼らなくてもやっていけるために、大学や専門学校の教科書の出版を拡充することが要請された。

翌1957年4月、ライプツィッヒで社会主義諸国の出版関係者の会議が開かれたが、これはお互いの情報交換や緊密な協力関係を作り出すうえで、大きな役割を果たした。同様の会議は、それに続く数年間続けられた。そしてこれらの会議を通じて、修正主義的な動きの浮上は断固として抑制された。そうした点で出版社の活動が不十分な場合には、その都度自分たちの役割の重大さを認識するよう、諭された。

こうした基本方針のもとに、1958年7月には文化省の内部に「著作・出版部」が設けられた。さらに新たに「国営出版社連合」という組織が作られ、文化省の下に入ることとなった。これとは別に著作・出版活動のイデオロギー的政治的基本計画を策定するために、文化省の中に25の著作・出版作業部会(出版主、編集員、学者、国家及び社会団体の代表から構成)が設けられた。

いっぽう各政党も独自の出版社を持つようになった。こうして1958年に自由民主党の出版社として「デア・モルゲン」出版社が活動を開始した。キリスト教民主同盟の「ウニオン出版社」はこれよりずっと早く、1951年に設立されていた。

この時期1959年9月、政権党の社会主義統一党の第一書記ウルブリヒトは、その「平和の7年計画」と題する人民議会での演説で、次のように語った。「ポピュラーサイエンスの著作物、学術専門文献、外国語文献の出版を大幅に拡充し、優れた図書を廉価に大衆に供給することが、切に望まれる」。

ベルリンの壁構築(1961年)以後の動き

1961年8月13日、東ドイツ政府は西ベルリンを遮断するために、いわゆる ベルリンの壁を構築した。そしてこれによって東西ドイツの分断が決定的な段階を迎えた。これに伴い、それまでなお部分的には西ドイツから取り入れていた教科書や専門文献に依存することが、全面的に拒絶されることになった。そして部分的にはソ連の教科書をドイツ語に翻訳して、学校で使用させることも始まった。

このようにして国家としても東ドイツは西ドイツとは別の独立国家であり、文化面でも社会主義的な独自の文化を有していることを、東ドイツ政府は強調するようになっていった。その結果、1963年6月には「西ドイツ、西ベルリン及び資本主義的外国からの著作物の受け入れへの特別措置に関する指令」が出されることになった。具体的には、これらの著作物を輸入しようとする者は、文化省内部の「書籍出版販売担当部門」に申請して、特別許可を得なくてはならなくなったのである。この措置によって、東ドイツ政府当局の気に入らない西側著作物は、いつでも締め出すことができるようになった。
いっぽう1963年1月には、閣僚評議会の決定に従って、「国営ドイツ中央出版社」が設立された。この出版社は、一般公文書及び人民議会、国家評議会、閣僚評議会その他の中央国家機関の文書、並びに国法問題に関する学術文献を発行することを、その任務としていた。

書籍販売面に目を向けると、1963年1月に文化省内部に作られた「書籍出版販売部門」が、書籍販売に従事する人々の組織化に乗り出すようになってきた。つまり国営の「人民書籍販売」に属していない私営の個人書店を、社会主義社会の建設のために、計画的に組み込んでいく方策がとられたのである。そして1966年5月には、そのための法的な根拠として「委託販売指令」が出された。この指令に基づいて、人民書籍販売と個人書店の間に<委託販売協定>が結ばれたが、その第1条第4項には次のように記されている。

「書籍、小冊子、楽譜、レコード及び複製品を継続的に人々に供給するために、そしてまた個人書店を社会主義の広範な建設へと組み込むために、両者の合意のもとに、人民書籍販売と個人書店の間で、当委託販売協定を締結する」

また第3条第1項及び第2項は、次のように記している。
「当委託販売協定によって、人民書籍販売(及びその支店)は、現にある売買用の在庫品を、人民所有(つまり国家所有)に引き継ぎ、その在庫を委託販売者(つまり従来の個人小売業者)に、今後の書籍販売業務の基礎として与える。商品在庫の区分は、個々の商品グループに従って、その勢力範囲に応じて確定される」

さらに第3条第4項には、次のように記されている。
「最終消費者(本の買い手)への販売は、支店(人民書籍販売の)の勘定書によって、委託販売者の名において行われる。当委託販売協定の締結に基づき、委託販売者は自分の勘定書によって行ってはならない」

第4条第1項には「引き渡された商品への保証として委託販売者は、平均在庫商品の最終消費者価格の33・3%相当の保証金を支払わねばならない」と書かれている。そしその見返りとして第8条第1項には「委託販売者はその業務に対して、売り上げの・・%の手数料を受け取るものとする」の記されている。

また第8条第3項には、「委託販売者には毎月、以下の経費つまり家賃、光熱費、クリーニング代、暖房費、店の設備の減価償却費が、あとで返済される」と記されている。さらに第10条第1項で「委託販売者及びその従業員に対する休暇は、法によてって定めるところとする」とも書かれている。

以上「委託販売協定」の条文をかなり詳しく紹介したが、これにょって東ドイツの書籍小売販売人が、どのような形で国家の傘下に組み込まれていったのか、そのおよその実情がお分かりいただけたことと思う。

こうした経過を経て、個人の書籍小売商は地域の「人民書籍販売」と結びつけられたのだが、1980年代末の時点(ドイツ民主共和国の最終の時期)で、書籍販売店の状況がどうなっていたのか、次に見ることにしよう。この時点で国営の人民書籍販売には、大小700の書店が属していた。そこには地域の重要都市にある14の「本の家」、250の郡の書店、280の都市書店ならびに外国書、楽譜、古書の専門店が含まれている。

このほか他の所有形態の書店及び古書店が380あり、そのうち100以上が委託販売協定を通じて、地域の人民書籍販売と結びついていた。「人民書籍販売」の中央管理センターの所在地は、ライプツィッヒであった。このセンターの下に、中央古書センター及び通信書籍販売業としての「ライプツィッヒ本の家」も入っていた。ここは東ドイツ及び他の社会主義国の出版社の出版物を、引き渡す業務を担当していた。その宣伝広報誌である「ブーフクーリエ」を通じて、一般文芸書、ポピュラーサイエンスの本、児童・青少年向け図書、そして学術書の一部の目録が、読者に提供された。さらに50万人にのぼる顧客の住所氏名を載せた顧客カードに基づいて、顧客の関心分野に応じて、それぞれの図書に関する情報が送られた。
また人民書籍販売の支店や書籍販売所が存在しない地域の住民に対しては、「注文仲介業者」が5%の手数料でサービスを行っていた。これら出版物の普及宣伝措置は、1969年に制定された「出版物販売に対する指令」に基づいて行われていたものである。

(3)東ドイツの図書館ほか

1913年にライプツィッヒに設立されたドイツの国立図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、第二次世界大戦中さしたる被害を受けず、戦後まもなくその活動を再開することができた。また1915年から続いてきた全国図書目録「ドイチェ・ナチオナールビブリオグラフィー」も、大戦末期から終戦直後にかけての混乱期にもかかわらず、1946年8月にはその仕事を再開した。こうして図書目録作成の作業は順調に進捗していった。当時東ドイツ地区はソ連軍の占領下にあったため、1946年12月には、ソ連占領軍の布告の形で、「ドイチェ・ビュッヘライ」への献本義務がソ連占領地域及びベルリンのソ連地区の出版社に対して伝えられた。また1950年には、「ドイツ書籍・著作博物館」が、「ドイチェ・ビュッヘライ」に併合された。そしてこの新しい部門は、1960年になって、以前「書籍商組合」の付属図書館が管理していた業務を受け継ぐことになった。

さらに「ドイチェ・ビュッヘライ」は第二次世界大戦中に壊滅的な打撃を受けた『出版社・諸機関カタログ』再編集の仕事も順次行うようになった。これは出版業界全体にとって実用的な価値があったばかりではなく、出版史の研究上も大きな価値を持つものであった。つまりこれは出版社や出版関係諸機関の単なるリストにとどまらず、それらの活動を歴史的に整理分類して叙述したものであるからである。1972年夏には1913年(「ドイチェ・ビュッヘライ」創立の年)までの編集が完了し、その後も1913年以降の分が続けられている。

以上述べてきた「ドイチェ・ビュッヘライ」は東ドイツで最も重要な図書館で、1980年代末の蔵書数は約790万冊に達していた。これに次ぐのがベルリンの「ドイツ国立図書館」であるが、蔵書数は680万冊である。以下、ベルリン大学図書館(390万冊)、ハレ大学・州立図書館(360万冊)、ライプツィッヒ大学図書館(320万冊)、イエナ大学図書館(240万冊)ロストック大学図書館(170万冊)、ドレスデンの「ザクセン州立大学図書館」(110万冊)、ドレスデン工科大学図書館(110万冊)などが、東ドイツの主な学術図書館である。

このほか4500を超す特殊・専門図書館が存在したが、その中にはヴァイマルの「ドイツ古典図書中央図書館」(80万冊)のようなユニークなものも少なくない。さらに一般の公立図書館は全国で3500もあり、その蔵書数は合計4300万冊に達し、これらの利用者総数は年間390万人に上っていた。また労働組合図書館が4000あり、その蔵書数は970万冊に達していた。

以上見てきたように、人口わずか1700万人足らずの東ドイツにしては、図書館の数が極めて多いことが特徴的である。そして単に図書館とそこの蔵書の数が多いだけではなくて、実際の利用率も極めて高かった点が注目されるのだ。つまり東ドイツ国民の3人に1人が、常時図書館を利用していたという。とりわけ児童や青少年の利用率が高く、6~14歳の児童の70%、14~18歳の青少年の62%が、図書館を常時利用していたわけだ。公立図書館の場合1984年に、図書貸出し件数が8400万件という記録が残されている。

次いで社会主義的理念の実現に大きく寄与すべきものとされている出版人の養成機関に目を向けてみよう。こうした社会主義的出版活動の指導者になるべき幹部候補生を養成することをその任務とした「書籍出版販売研究所」が、1968年にライプツィッヒのカール・マルクス大学内に設立されたことが、まず注目される。この研究所は1960年に設立された「書籍出版販売アカデミー」とともに、重要な役割を果たした。ただ出版社や書店で働く一般の従業員の養成に関しては、すでに1949年に出された指令の中で一般的な精神や理念が説かれ、これに基づいて1957年に、「書籍販売専門学校」が設立されている。

いっぽう書籍見本市についてみると、ソ連占領地域での最初の見本市が、1946年5月に、伝統あるライプツィッヒで開かれている。その二年後の1948年春の書籍見本市には、170にのぼる出版社、取次店が参加した。そしてその年の秋の見本市には、外国からの最初の参加者として、オーストリアの出版社が出品した。ただこの「ライプツィヒ書籍見本市」は1973年以後は、年一回春にだけ開催されることになった。この1973年春の見本市には、21か国から800を超す出版社が参加した。

最後に書物の外的側面を代表する愛書趣味とブックデザインについて、簡単に触れておきたい。東ドイツにおいても、書物の蒐集、とりわけ古書、稀覯本(きこうぼん)、グラフィックなどの蒐集は盛んであった。そして愛書家協会として、1956年に東ドイツ文化同盟の内部に、「ピルクハイマー協会」が設立された。そして同協会では独自の機関誌『マルジナーリエン』を発行すると同時に、講演会、展示会その他を開催した。

またブックデザインの振興のために、「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)及び文化省の共催で、1952年以後毎年、ブックデザインのコンクール「東ドイツの最も美しい書物」が開かれてきた。さらに1963年以後には、同じくライプツィッヒで、国際的なブックデザインのコンクール「全世界の最も美しい書物」が開催されてきた。東ドイツの最末期1986年についてみると、全世界から45か国が、これに参加した。いっぽう、外国における書籍見本市への参加状況について見ると、東ドイツの出版社は、周辺ヨーロッパの諸都市、つまりフランクフルト・アム・マイン、ワルシャワ、ベルグラード、ソフィア、ブリュッセルの書籍見本市に出品してきた。

ドイツ近代出版史(9)第二次世界大戦後 1945~(その2)

第三章 西ドイツにおける出版界の諸相(2)

(1)ポケット・ブックの隆盛

第二次世界大戦の直後にローヴォルト社が考え出した輪転機小説から、やがてポケット・ブック(日本の文庫本に相当)が生まれてきた。輪転機小説は形のうえではその名が示すように、新聞紙の半分の大きさであったが、新聞と同じように廉価で大量に販売された。ポケット・ブックは、その外形こそ普通の小型文庫版へと変わったが、廉価な大量生産商品という性格は、輪転機小説から受け継いでいる。高価なオリジナル版を合法的に復刻して廉価に大量販売する方法は、すでにレクラム百科文庫が19世紀の後半から連綿と続けてきたものである。この時書物の「非神格化」が起こり、従来の立派な装丁の、本棚に飾るのにふさわしい書物のほかに、こうした大量廉価本が一般に普及するようになったわけである。

ポケット・ブックは、いわばその延長線上にあるものと言えるが、その始まりはローヴォルト社が1950年から発行し始めた「ロ・ロ・ロ・ポケット・ブック」であった。このポケット・ブックの特徴としては、発行部数の多さ、均一判型、均一価格、各巻の番号付け、そして携帯に便利なことがあげられる。今日の日本人読者にとっては、巷に氾濫している文庫本のことを念頭に置いていただければ、第二次世界大戦後の西ドイツで隆盛を迎えるようになったポケット・ブックのことは、容易に想像できるはずである。

さて「ロ・ロ・ロ」を皮切りとしたポケット・ブックは、やがて他の出版社も競って発行するようになった。当初はこうした風潮に対して、「高度な精神財を俗化するもの」との非難の声が聞かれ、書店の側もこの風潮に批判的な態度を示していた。しかしやがて書籍販売者も、その文化的な意義や経済的効用を認めるようになった。こうしてポケット・ブックは、1960年には年間の発行部数が約1000点だったのが、1971年には3500点に増えた。また売り上げ部数は、1973年には5000万部と推定されている。

この時点で見ると、ポケット・ブックの創始者であるローヴォルト社の「ロ・ロ・ロ」ブックが売り上げ部数2000万部でトップに立っていた。これに続いて、「デーテーファオ」、「フィシャー」、「ゴルトマン」、「ヘルダー」、「ハイネ」、「クナウアー」、「マイアー」、「ズーアカンプ」、「ウルシュタイン」などの出版社のポケット・ブックがならんでいた。そして時代が下がって1987年になると、その年間の発行点数は1万1400点に増大しているが、これは書籍の総発行点数の17・4%を占める数字となっている。

(2)リプリント版の登場

第二次世界大戦の間、ドイツでは数百万冊にのぼる書物が消え失せたが、この大きな損失を取り戻す手段として、写真製版による本づくりが登場してきた。これは本の複製の一手段であるが、戦後アメリカ、イギリスなど英語圏との交流が深まった西ドイツでは、「リプリント版」と呼ばれるようになった。このリプリント版の市場は国際的な性格を持っていて、ドイツ系の会社としては、クラウス社(ニューヨーク/リヒテンシュタイン)とジョンソン社(本社ニューヨーク、支社ロンドン、ボンベイ、東京)が、有力な地位を占めていた。西ドイツ国内では、G・オルムス社が最大手で、1974年の時点で8000点を超すリプリント版を発行している。

リプリント版は、原本通りに複製するという意味ではかつての翻刻版と同じものであるが、著作権制度が確立した後のリプリント版とそれ以前の翻刻版では意味合いが異なる。リプリント版はむしろ我が国の復刻版に相当するものとみなすことができる。それはともかく19世紀の前半になってドイツでは、版権及び著作権の法的基盤が整ったわけである。当初著作権の保護期間が30年であったが、1934年には50年となり、戦後の1965年になって西ドイツでは70年に延ばされた。

しかしその一方で、リプリント版ないし海賊版と呼ばれているものを積極的に擁護する動きが、左翼の陣営から生まれてきた。「文学生産者」と称する左翼作家の組織が、1970年4月ミュンヘンで3回目の会合を開いたが、その時次のような決議が表明された。「文学生産者は、公有化された印刷物およびプロレタリア的なリプリントを、集団的所有物の資本主義的悪用ならびに独占化に対する抗議として、また社会主義的文化及びプロレタリア的階級意識形成への前提条件として、理解するものである」。そしてこの決議を実施に移すために「左翼書籍取引連合」が結成された。この決議は著作権制度そのものが資本主義的な悪であるとの考えを表明しているわけである。

(3)ブッククラブの発展

第一次大戦後のワイマール共和制時代に、ブッククラブは隆盛を見せ、末期の1933年には、その会員数は約80万人を数えていた。その後第三帝国の時代になってブッククラブは、特殊な同業者団体として国家から承認を受けた。そして1940年にはブッククラブの会員数は、170万人にも増加していた。またワイマール時代の代表的なブッククラブ「本のギルド・グーテンベルク」は、1933年にナチスの「ドイツ労働戦線」に組み込まれた。

第二次世界大戦後になると、ブッククラブは新たな発展を示すことになり、旧来のものに加えて新しい組織が次々と誕生した。なかでも「松明ブッククラブ」、「ヘルダー・ブッククラブ」、ブッククラブ「書物の中の世界」などが注目されたが、「セックス本配給ブッククラブ」といったものまで生まれた。その会員には年4回、その広告文によれば「きわめてエロティックな小説を詰め込んだ本の包み」が届けられることになっていた。

しかしなんといっても西ドイツのブッククラブ界を支配していた大きな存在は、二大出版コンツェルンであるベルテルスマン社とホルツブリンク社であった。1950年に設立された「ベルテルスマン・レーゼリング」は、瞬く間にその会員数が100万人を超え、1964年には250万人にも達している。いっぽうホルツブリンク・グループが経営する「ドイツ書籍連盟」と「福音派ブッククラブ」の二つを合わせると、その会員数は120万人に達した。ベルテルスマン社やホルツブリンク社などの巨大出版コンツェルンは、次々と中小の出版社やブッククラブなどを吸収合併して巨大になっていったのである。こうしたブッククラブ業界の集中化現象の進行の中で、なお健闘していたのは、ワイマール時代の「本のギルド・グーテンベルク」と戦後作られた「ヘルダー・ブッククラブ」ぐらいであった。

こうした流れとは別に、個々のブッククラブへの入会や退会は、全体としてみると、極めて目まぐるしいものがあった。退会するひとの数は年平均で20%近くにまで達したが、絶えず新会員を獲得していくことは容易ではなかったといわれる。ブッククラブは、1950年代に次々と新設され、会員数も増えていったが、60年代とりわけ70年代半ば以降になると、もはやそうした増加を望むことはできなくなった。その理由としてはテレビの普及がまず考えられるが、その他氾濫する雑誌類やデパート書籍売り場の廉価本もライバルとして挙げられている。

西ドイツにおけるブッククラブの総数が一体どれぐらいなのかという点については、研究者によって異なった数字があげられていて、定説はない。ただキルヒナー発行の『書籍百科事典』によると、1952年の時点で31となっている。またシュルツは1960年で40としているが、シュトラウスは1961年で31としている。

ところでブッククラブが一般の出版社と異なる点は、出版社の本質的な特徴ともいうべき版権をブッククラブは持っていないことにある。つまりブッククラブは、ほしいと思う本の出版権を、ライセンスを払って出版社から取得しているわけである。その際よく売れているオリジナル作品を選んでライセンスを支払っているので、売れない作品をつかまされるといった経営上の危機は、あらかじめ避けることができるのだ。このためブッククラブが発行する書物の点数は、年平均500~700点となっていて、中規模書店の年平均取扱量2万点にくらべて、はるかに少ない。その代わりあらかじめ確保した会員に対して、原則として発行した本はすべて配るわけであるから、多い発行部数が見込めるのだ。さらに著作権料や印税支払い分も、オリジナル出版社よりずっと安い計算になる。こうしたもろもろの事情が重なって、ブッククラブが発行する書物の価格は、オリジナル出版社の書物の30~40%になっている。

いっぽう巨大コンツェルンが経営しているブッククラブは、その後多角経営に乗り出し、やがて書物のほかに、グラフィックアート、レコード、音響機器、ホビー製品から一般のレジャー用品にまで手を広げている。ちなみに1980年代後半の西ドイツの出版市場においてブッククラブが占める年間売り上げ高の比率は、およそ12%になっている。

今まで述べてきた一般のブッククラブとは違った性格を持っているのが、1949年に設立された「学術ブッククラブ」である。これは企業採算性から言って一般の出版社から安くは発行できない専門性の高い学術書を、普通の定価の半分ぐらいの値段で出版することを目指して作られたものである。そのため出版社としての利益や流通利益が排除され、また予約購読制がとられた。いわばこれは学術書の出版を必要とした人々が作った、自助的な共同体というものであった。そして第二次世界大戦中の爆撃などによって各種図書館や書店から消失した、あらゆる分野の学術書をできる限り取り戻そうという意図のもとに行われた運動でもあったのだ。この「学術ブッククラブ」の幹部には、財界や学界の代表者たちがなったが、設立一年後の1950年には、その会員数は一万人を数えた。当初、出版社側からは、「学術ブッククラブ」としては既存の書物の復刻版制作にその仕事を限定し、初版の学術書の出版は一般の出版社に任せるよう、注文が付けられた。そのため初めのうちはこの注文に沿って、「学術ブッククラブ」は復刻版だけを出していた。そして友好的な関係にある出版社の協力のもとに、一般の書店を通じて会員以外にも販売するようになった。しかしやがて時のたつうちに事情も変わり、復刻版だけではなくて新刊書も出版するようになっていった。1973年の時点で見ると、年間の総発行点数447のうち新刊書は237点に達していた。それでは学術書といっても、どのような分野の書物が主として出版されてきたのであろうか? 次の表はその内訳を示したのものである。

出版された学術書の分野別比率(1974年)

ドイツ語・ドイツ文学      15%
社会科学            14%
歴史              12%
ギリシア・ローマ文献      12%
新文献学            10%
神学               8%
哲学               7%
自然科学             6%
芸術               5%
地理               3%
考古学              2.5%
インド・オリエント        2%
中世ラテン語           1%
極東               0.69%

(4)(中央図書館、書籍見本市、平和賞)

<ドイチェ・ビブリオテーク>

第二次世界大戦前、ライプツィヒにドイツの中央図書館として「ドイチェ・ビュッヘライ」が存在した。しかし大戦後、冷戦の進行に伴って、ソビエト占領地区にあったこの中央図書館が、西側占領地区から分離した存在となることが明らかになってきた。そのためアメリカ占領軍当局は、西側にも独自の中央図書館を設立する必要性を感じ、1946年、フランクフルト市立・大学図書館長を務めていたエッペルスハイマー博士に、その設立を委託した。そこで博士はフランクフルトに、中央文書館を兼ねた西ドイツ地域の中央図書館を建てる決意を固めた。そしてヘッセン州、フランクフルト市及び「取引所組合」の三者の協力によって、同じ年に中央図書館「ドイチェ・ビブリオテーク」が設立されたのである。同時に「ドイツ図書目録」の発行も行われるようになった。ただ当初は、この「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務は、「取引上組合」の会員だけに課せられることになった。しかし「取引所組合」とはいっても、実際には西部ドイツ出版業の州組合が担い手となっていた。ところが1952年になって、これが公法上の組織「財団法人ドイチェ・ビブリオテーク」となり、「取引所組合」が正式の担い手として加わるようになったのである。さらに1969年には、連邦政府が直接管理するものへと改組された。これと同時に「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務を定めた法律も制定された。

こうして制度面で次第に態勢を整えてきたわけだが、ここには第二次世界大戦後に発行された出版物が保管されているわけである。そしてこれらの出版物を系統的に分類掲載した『ドイツ図書目録』の発行も行っている。1966年、この種のものとしては世界で初めて電子式データ処理法が採用され、写真植字によって製作されることになった。この『ドイツ図書目録』は、西ドイツの全ての出版社からの献本義務と並んで、西ドイツおよび他のドイツ語圏諸国からの著者献本も掲載していたので、全ドイツ的な図書目録の性格も備えているわけである。またエッペルスハイマー博士のイニシアティブによって、ナチス時代のドイツ亡命文学作品の収集が行われ、これが「亡命文学Ⅰ933-1945特別展示として、一般に公開されたことも注目されよう。

さらに「ドイチェ・ビブリオテーク」は、「取引所組合」および「ドイツ・グラフィックデザイン協会」とともに、書物の造本・装丁に関する組織「財団法人ブックデザイン」を、1965年に設立している。そして「取引所組合」の主催で1951年以来行われてきた「最も美しい書物」と題するブックデザインのコンクールを、1965年からこの組織が引き継ぐことになった。第二次世界大戦前の1929年にも、この種のコンクールが行われたが、その後のドイツ社会の混乱と戦争のうちに、長らく中断されていたものである。なおこのコンクールのタイトルは1971年から、「五十冊の本」と変更された。

<フランクフルト書籍見本市>

フランクフルト書籍見本市(1991年)

フランクフルトの書籍見本市は15世紀末から16、17世紀にかけて、ヨーロッパの書籍取引の中心として栄光を担っていた。その後ライバルのライプツィヒ見本市との競争に敗れ、18世紀半ばに衰退した。しかし第二次世界大戦後のドイツの分断に伴って、再びフランクフルト書籍見本市は復活したのであった。

とはいえその再生は当初極めて小さな規模で行われた。その主催者は、フランクフルト市があるヘッセン地方の書籍出版販売組合であった。第1回の見本市は旧市内の歴史に名高いパウル教会に205のドイツの出版社が集まって、1949年に開かれた。これにはソビエト占領地区から6社が参加した。そしてその翌年の1950年には、もう外国の出版社100社が加わり、参加出版社は合計460社に増えた。またこの第2回から1964年まで、主催者は「取引所組合」の出版社委員会に変わった。さらにその会場も、参加出版社の増大に対応して1951年には、市内のやや外寄りの見本市常設会場へと移った。

この間参加出版社の数は、年を追うごとに増大し、1959年には1837社になっていたが、この時すでに外国からは35か国1100社が出品していた。この数字を見ても、第二次世界大戦後に再開したフランクフルト書籍見本市が、いかに国際的な性格を帯びるようになっていたかが、分かるというものである。こうした書籍見本市の国際化に対応するようにして、見本市開催業務には、「取引所組合」のほかに、連邦外務省も部分的に参画するようになった。ここにこの見本市は、「フランクフルト国際書籍見本市」になったのである。そして1964年には「取引所組合」の専属団体として、見本市有限会社が設立されて、書籍見本市業務を専門に取り仕切るようになった。

いっぽう参加出版社の数に目を向けると、1968年には合計3048社となったが、そのうち外国の出版社は49か国2158社であった。さらに1973年には、59か国からの外国出版社を含めて合計3817社になった。また1972年に「取引所組合」の会長が言ったように、見本市の性格が従来の書物を売る市(いち)から、このころには「関係者の出会いの場、交際の場所」へと変貌を遂げていたのである。

また1976年から「フランクフルト国際書籍見本市」は、一年おきに重点テーマを掲げるようになった。例えばブラックアフリカ、インド、オーウェル2000といった風に。さらに1988年からは、毎回重点的に扱われる国が指定されるようになった。1988年はイタリア、1989年がフランス、1990年は日本であった。そして見本市への参加出版社の数はその後も着実に増え続け、1988年の第40回見本市には、95か国から合計7965社が参加した。そしてこの時見本市を訪れた人の数は、取引に直接関係のない一般客を含めて22万人に達した。さらに1991年の第43回見本市には、91か国から参加があった。この年の重点テーマ国はスペインであった。

ここで国際的な「フランクフルト書籍見本市」を補完するものとして、マインツの「ミニ・プレス見本市」に一言触れておこう。これはN・クバツキーのイニシアティブで、マインツ市の後援を受けて開かれているものである。これに参加しているのは、グラフィック・デザイン、愛書家向け書籍、抒情詩、時代批評、政治図書などを出版している小出版社である。さらに古本の部門では、1962年から毎年シュトゥットガルトで「古書籍見本市」が「ドイツ古書籍商組合」の主催で開かれている。また1968年からは、「ケルン古書籍市」も、毎年9月に開催されていることを付け加えておこう。

<ドイツ出版平和賞>

1950年、西ドイツの15の出版社の共同で、平和賞というものが設けられた。この時の受賞者は、ベルリンのカッシーラー出版社の元編集長マックス・タウという人物であった。その受賞理由としては、賞状に「第二次世界大戦後、ドイツ人作家及びドイツの書物の普及への貢献を通じて、かれが将来への国際理解への架け橋となった」ことが記されている。平和賞を設けた理由も、まさにこの点にあったわけである。

翌1951年にはこの平和賞を「ドイツ出版販売取引所組合」が引き継いだ。そして以後毎年授与されることになったため、これは「ドイツ出版平和賞」と呼ばれるようになった。そして「平和と人類と国際理解に貢献した人」に、この平和賞が授与されるべきことが、改めて謳われた。具体的には、とりわけ文学、科学、芸術の分野で、平和思想の実現に貢献した人物に、授与されることになったのである、こうして1951年にはその第一回受賞者として哲学者のアルベルト・シュヴァイツァーが選ばれ、フランクフルトのパウル教会で授賞式が行われた。

以後この平和賞の授与は、毎年秋に開かれる書籍見本市の期間中に行われることになった。そしてその選考に当たっては、「国籍、民族、宗教」の別なく、11人の委員からなる選考委員会によって受賞者が選出されることになった。事務局及び関係文書の保管所は「取引所組合」の内部に置かれている。この「ドイツ出版平和賞」は,回を重ねるごとに国際的にその重みを増しており、受賞者もノーベル平和賞に匹敵するような世界的に著名な人物が選ばれている。そしてこの平和賞は「フランクフルト国際書籍見本市」には欠かすことのできない行事として、知られるようになってきている。

(5)著作者の組織化

<ドイツ作家連盟>

著作者は通常ものを書き、それを発表すること、つまり著作活動によってもたらされる収益で生活していかなければならない。著作者と言えども他の人と同様に、物質的関心を有している。しかし著作者の仕事は個人的な性格のものであり、その点その利益を代表することに関しては、他の職業やグループよりも劣っている。確かに西ドイツにはいろいろな地方作家連盟というものがあって、会員の社会的利益を考えてきたが、あまり効果的とはいえなかった。

ところが1969年になって、指導的な作家も加わって、「ドイツ作家連盟」が設立された。その設立に当たって、西ドイツの代表的な作家でのちにノーベル文学賞を受賞したハインリッヒ・ベルは、「慎ましさの終わり」を高らかに宣言した。それまで文学や思想や社会のことについては大々的に発言してきたが、こと自分の経済生活のことになると他人に言うのを恥じて、ひたすら慎ましさの中に引きさがっていた作家が、この時堂々と闘いの宣言をしたのであった。「ドイツ作家連盟」は当初から労働組合に類似した組織であった。翌1970年にシュトゥットガルトで開かれた第一回総会で、作家マルティン・ヴァルザーは、「なにがしかの自明の理をもって、自らの生産手段を創り出すことができるために、<文化労働組合>なるものを将来作る考え」を明らかにした。しかし実際には1974年に「ドイツ作家連盟」は、「印刷・製紙産業労働組合」に、専門グループとして加入したのであった。

こうしてドイツ作家連盟は、作家の経済生活の改善をその主要関心事として取り組むようになった。1972年報道週刊誌『デア・シュピーゲル』が作家の経済状態についてアンケート調査を行ったが、その際とりわけ中・高齢著作者のおかれた苦しい生活ぶりが明らかとなった。また第一回総会で作家のロルフ・ホーホフートは、老齢の著作者のおかれたみじめな経済状態について、世の人々の注意を喚起している。その報告の中で、自分の読者を失い、出版社や放送局から名前を忘れられた19人の高齢の作家のことが伝えられた。また文学賞を受賞したような高名な作家の生活も、そう楽ではなかった。ゲオルク・ビュヒナー賞の受賞者エルンスト・クロイダーは、「墓場に行くまで書き続けなければならない」と嘆いている。また同じ賞の受賞者ヴォルフガング・ケッペンは、「作家とは終生、借金地獄にいるようなものだ」と語っている。

このような著作者のみじめな状態を改善するために、「ドイツ作家連盟」は、各方面への働きかけを始めたのだが、まもなく若干の成果を上げることができた。主として連盟の要請によって1972年、図書館納付金という制度が導入されたのである。これは公立の図書館で本を貸し出すごと一回につき、図書館所有者は基金に10ペニヒ納入するというものである。これを作家の養老年金資金にしようとしたわけである。また大出版コンツェルンのベルテルスマン社は、同社から3冊以上本を出している作家に対して、老齢年金制度を設けたが、こうしたことは豊富な財政基盤があって初めてできることである。

<自由ドイツ作家連盟>

その一方、「ドイツ作家連盟」に背を向ける作家もいた。今日なおたくさんの読者を抱えている有名な作家オイゲン・ロート(1895年生まれ)は、「作家連盟が労働組合に加盟することは、無意味なことだ・・・作家とはサーカスの綱渡りのように危うい職業なのだ」と、自分の見解を明らかにしている。こうした考えに同調する作家も少なくなく、その立場から「自由ドイツ作家連盟」が設立された。これは当初南ドイツのバイエルン州から出発したが、やがて西ドイツ全域へと広がり、さらにその枠を乗り越えていった。そして所属する政党、団体に関係なく、自由な民主主義原理に基づく全ドイツ語圏の作家のための職業団体である、と同連盟は自己の役割を規定している。

<作家の自主出版社>

18世紀初めの哲学者ライプニッツの試み以来、作家が自ら出版社を経営する考えは連綿と続いてきた。第二次世界大戦後、大出版コンツェルンのベルテルスマン社では、こうした著作者の要望を取り入れて、著作者による一種の共同編集モデルをつくりだしている。ここでは4人の作家と出版社代表1人から構成される編集委員会によって、どんな小説・物語を出版していったらよいか、決定されるのである。その意味ではこれは作家の純粋な自主出版社ではなく、作家グループを交えた編集の共同決定システムだといえよう。

これとは全く別に、第二次世界大戦中メキシコに亡命したドイツ人作家が、1942年に作った自主出版社「エル・リブロ・リブレ」というものがあった。これはA・アブッシュ、L・レン、A・ゼーガースなどが資金を出して設立したものである。またH・ケステンが提唱して作られたドイツ人亡命作家の自主出版社に「アウローラ出版社」があった。その規約によれば、同社は設立発起人の共有財産とすることが記されていた。ちなみにこの発起人には、E・ブロッホ、B・ブレヒト、A・デーブリン、H・マンといったそうそうたる名前が連なっていた。また規約の中の重要項目として、出版物の発行は委員会の多数決によって決定されるべきことや、出版物の最初の1000部に対しては印税は支払われないことが記されていた。

時代が下って1960年代になると、新左翼運動との関連の中から、作家の自主出版社設立の動きが起きてきた。この運動に伴って実に様々な宣言が出され、実験が行われたが、それらに共通していたのは、私的経済の基盤の上に立ってきた従来の出版社経営から決別するということであった。そしていかなる種類のものであれ、私的な利益追求は行わないことが明らかにされた。さらに出版経営によってあがった利益は、次の政治的な出版活動の資金に回されることも、しばしば宣言の中に謳われていた。こうした運動の先頭に立った人物に、老舗のS・フィシャー出版社を政治的見解の相違から1964年に解雇された同社の文学担当編集員K・ヴァーゲンバッハがいた。彼とは作家のJ・ボブロフスキーとC・メッケルが行動を共にした。彼らは手を携えて私的利益の追求を目的としない出版社の設立を考え、同年のうちにK・ヴァーゲンバッハ出版社が開業した。そこでは作家たちが編集と経営に共同決定の権利を有していた。そして1971年には同社で働く人全員の賛成を得て決定された定款の中に、年一回の作家総会が経営監査の権利をもつことが盛り込まれた。実際ヴァーゲンバッハはその総会で、出版社の一年間の経営状態を公開したのである。

これとは別に作家たちが集まって1969年に、演劇関係の出版社として「作家の出版社」が設立された。その設立趣意書には、出版社の性格が記されているので、少々長いが引用することにする。
「当出版社は社員の所有物である。社員は作家及び出版社の事務員から構成される。この社員が出版社の意志決定をする。生産者は自らの関心事を、自らの責任において、自らの財布をもって達成すべく仕事をする。作家の出版社には、<出版主>は存在しない。出版社の業務は、三年の期限をつけて社員から選ばれる代表によって執り行われる。出版社の任務、目的、方針は、年次総会において社員が決定するが、新しい作品を受け入れるか否かの決定は代表が行う。作家は他の出版社と同様に印税を受け取り、代表及び事務員には給料が支払われる。それ以外の出版社の収益は、社員に分配される」

もう一つ別の動きとして、「文学生産者」の運動を挙げることができる。これは1970年4月にミュンヘンで開かれた会議でその方針が定められた作家の出版社であった。この大会で、学術書の著作家が著書出版社に集結すると同時に、資本主義的労働分配がもたらす社会的損害を軽減するために、既存の出版社における利用の権利を自ら行使することが呼びかけられた。さらに大会では、「生産手段の資本主義的処分権の廃止と生産者の自由な連合」が宣言された。

ドイツ近代出版史(8)第二次世界大戦後 1945~(その1)

第1章 戦争直後の出版界の状況

占領政策と出版界

1945年5月、壮絶なベルリン攻防戦の戦火がやみ、第二次世界大戦はヨーロッパでは終息を見た。そしてドイツは戦勝国によって占領され、アメリカ、イギリス、フランス及びソビエトという4つの占領地区に分割された。ドイツは5月8日に無条件降伏の文書に調印したが、その直後の5月12日には、出版報道活動全般に関する通達が占領軍当局から布告された。これはあらゆる形での印刷・出版活動および出版物の販売活動を、禁止するものであった。つまりこの通達によって、新聞、雑誌、書籍、小冊子、ポスター、楽譜、その他複製品などの印刷・出版・販売・宣伝などが一切、禁止されたわけである。

とはいえこの全面禁止措置は、その直後に出された追加的な通達によって変更を受け、一定の条件の下でなら、新聞、雑誌、書籍などの発行が許されることになった。つまりどの占領地区でも、出版販売活動をするにあたっては、一つ一つの出版物の発行について占領軍当局の許可を得ることによって、それが可能になったのである。これは事前検閲の措置であったのだが、長くは続かず、1945年10月には、フランス占領地区とアメリカ占領地区で、原稿の事前検閲措置は撤廃され、やがてイギリス占領地区でも1947年にはこれに倣っている。こうした許可の問題と並んで、出版社にとって当初頭が痛かったのは、深刻な紙不足の問題であった。この頃書籍の最大発行部数は5000部に抑えられ、出版社は配給という手段によって新刊書を引き渡していた。             なおソビエト占領地区(のちの東ドイツ)については、冷戦の進行につれて西側占領地区とは、断絶するようになっていったので、のちに「東ドイツにおける出版事情」の項目で述べることにする。ちなみに西側の3占領地区から西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が1949年5月に成立し、ソビエト占領地区から東ドイツ(ドイツ民主共和国)が1949年10月に成立している。

いっぽう戦勝国は戦争直後のこの時期、ドイツ国民のいわゆる「非ナチ化政策」を実行した。そしてナチ時代に発行された出版物の回収も行われた。こうした観点から連合国管理委員会は1946年5月13日に、布告第4号を出して、それを実施したのであった。この布告によると「(ナチ時代に発行された)書物、ビラ、雑誌、新聞、ナチ宣伝文書、人種理論や暴力行為扇動に関するもの、反国連の宣伝文書、軍事教育的色彩をもった教科書を含むあらゆる軍事的性格の出版物を破棄させるために、二か月以内に、連合国軍事当局ないしその他の役所に提出すべきこと」とされたのである。この布告は、出版社、公立図書館、学校内及び企業内図書館、大学図書館などを対象にして出された。とはいえこの布告が出されてしばらくたった8月10日には、学術研究用に必要な一定数の出版物は、破棄処分から救う旨の追加的布告が出された。そしてこれらの出版物は、特定の場所に保管して、連合国管理委員会の厳しい監視の下で、ドイツ人の学者や、連合国から許可を受けた人物に対して、その利用を許すこととされた。これとは別にソ連占領地区では、禁止すべき出版物の目録が発表された。1946年4月1日の一回目のリストには、書籍1万4千点、雑誌1500点が記載された。この目録はその後1947年、1948年と続けて発行された。

ここで出版社に対する営業許可に目を向けてみよう。これはアメリカ占領地区においては1945年8月、イギリス占領地区では9月、そしてフランス占領地区では10月に、それぞれ実施された。その結果1945年末にはアメリカ地区では66、イギリス地区では70、フランス地区では45の出版社が営業許可を受けたのであった。その後営業許可の件数は各地区で増えていって、1946年末には、アメリカ地区で287、イギリス地区で242、1948年6月にはフランス地区で190の出版社が営業許可を受けていた。これを西側3占領地区と西ベルリンを合わせた合計で見ると、1945年半ばから通貨改革の行われた1948年半ばまでの3年間に、およそ850の出版社が約1万5千点の書物、小冊子、並びに約千点の雑誌を発行していたことになる。

この時代は様々な障害のために一冊の本を作るにも、通常よりはるかに多くの時間を必要としていた。また書籍取次の世界にも新しい状況が生まれてきた。戦前ドイツの書籍取次のセンターであったライプツィヒはソ連占領地区となってしまったため、西側の3占領地区には新たに数多くの書籍販売の中心地が生まれることになった。しかしそれぞれの占領地区の間の交流は、かなり難しい情勢にあったのだ。

この戦後三年間ほどの出版界の状況を要約すると、書籍供給の少なさに対して、一般読者の需要の高まりが目立った時期であったといえる。この読書への飢えは、ナチスの時代に一般のドイツ人が、特定の種類の書物以外の書物(国内・国外を問わず)から遮断されていたことへの反動といえる。とりわけ国外の書物に対する飢えは大きかった。そしてこうした動きにいち早く対応したのが、第三次ローヴォルト書店の始めた「ローヴォルト輪転機小説」であった。これがどんなものであるのか、『ナチス通りの出版社』(人文書院、1989年発行、219~220頁)に詳しく書かれているので、引用させていただく。

「何しろ戦後、焼け跡、闇市の時代である。用紙はもとより、製本用の厚紙、クロス、また糸や仮綴じ用の縫糸、製本用の膠(にかわ)、その上包装用の材料まで不足していた。そこでまず新聞用紙にできる限り多くの文字を組み、輪転機を使って大量に印刷することによって組版代を節約し、また書物の規格を新聞の半分の大きさに変え、留め金を使用せず貼り合わせて綴じることによって製本工程を不要にし、包装材を倹約した。こうして本のコストは安くなった。普通の本の約350ページの小説が、”輪転機小説”では、32ページになり、50ペニッヒの値段で販売できた。一本の葉巻が闇市で4~8マルクの時代である。二巻本は1マルク、三巻本で1・5マルク、各巻はそれぞれ10万部出版、画期的発行部数であった。最初に出された「ロ・ロ・ロ叢書」(ローヴォルト輪転機小説の叢書)の内訳は、アラン=フールニエ『モーヌの大将』、J・コンラッド『台風』、ヘミングウェイ『武器よさらば』、トゥホルスキー『グリプスホルム城』、ジッド『法王庁の抜け穴』、プリーヴィエ『スターリングラード』であった。以後、四年間に29点の作品で、約300万部が印刷されている。こうして現代世界文学の小型版が、貧しい青年の手にも渡るようになった。こうして書物は、形式ではなくその実質が重視される商品となり、大衆の中に浸透しはじめる」

このローヴォルト輪転機小説こそは、すべて物資が欠乏していた時代に、活字に飢えていた人々を狙って発射された「ヒット商品」なのであった。しかし全般的に見て当時のドイツの出版界は、なお不振をかこっていたのである。輸入するには外貨が不足し、輸出するには質の良くない紙に印刷されたドイツの書物は適していなかったのである。

通貨改革と出版業界

西側三占領地区では、1948年6月21日、通貨改革が実施された。従来の通貨の価値は10分の1に引き下げられ、新しいドイツ・マルクが導入された。と同時に統制経済から市場経済への大胆な転換を企てる措置がとられた。基本的な食糧や生活必需品を除いて、他の全ての物資は、通貨改革をきっかけに自由価格制のもとにおかれた。配給制は次第になくなっていき、それまで倉庫に蓄えられていた商品が、市場に出回るようになってきた。市場経済への転換は、ドイツ人の営利活動を刺激する上で決定的な成功をおさめ、西ドイツ地域の工業生産は通貨改革以後、目に見えて急上昇し始めた。

ここに始まる西ドイツ経済の復興は、のちに「ドイツ経済の奇跡」と呼ばれたほど順調なものであったが、ドイツの出版界にとっては、事情はそう簡単なものではなかったのである。人々は手持ちの金を、まずは衣料をはじめとする生活必需品のために使ったため、書物に対する需要は伸び悩んだ。通貨改革後、一時的にではあれ貧しくなった人々にとって、書物の値段は多くの場合高すぎたのである。そのうえ紙代の値上げに伴う本代の値上げは、ますます本から人々を遠ざけた。公共図書館の予算も横ばいか、わずかに増えた程度であったので、この方面における書物の需要も通貨改革前とさして変わりなかった。

いっぽう西側三占領地区の境界線の開放によって、新たに進出してきた大規模な書籍業者のために、それまで地域的な活動に限られていた小規模な小売書店や取次店などは、重要性を失って、不振をかこったり、倒産したりした。とりわけ中間に立つ書籍取次業が、いくつかの大都市(ハンブルク、ケルン、フランクフルト、シュトゥットガルト、ミュンヘン)に集中するようになって、出版業界全体の合理化が促進されることになった。通貨改革前には、占領軍政府の甘い営業許可のために、経験不足で未熟な者まで書籍業者になったりしていたのだ。つまり適正規模の二倍ほどの書籍業者が、その時期には営業していたといわれる。

書籍出版量の低下は、書籍の販売にとっても不安定要因となった。そして通貨改革後の一時期、書籍販売業者の間に強い不安感が広がった。この時期、多くの出版社は宣伝や引き渡しに当たって、書籍販売人を通じないで直接買い手と取引した。出版社に言わせれば、それは多くの書籍販売業者が機能を停止していたからとった措置ということになる。ただこうした混乱によって、重要な出版物が読者の手元に届かないこともみられたのだ。とにかくこの時代の書籍業者が置かれていた状況は、一般にみじめなものであった。書店主のH・クリーマンは1949~53年の時期を振り返って、書籍販売業者の多くは熟練労働者よりもはるかに低い水準にあった、と証言している。さらに別の書店主は、1954年になってもなお、書籍販売店の収益率が極めて低いことを報告している。

そして客観的に見て、こうした状況を打開するには、業界の体質改善、合理化が必要なことも認められていた。一般の書籍販売店は、旅行書専門店、通信販売店、書籍と雑誌の販売店などとの競争に立たされ、ますます苦しい状況に追い込まれていた。その反面、戦争直後の混乱期にはなお吸引力をもっていた商業ベースによる「貸出文庫」などは、書籍供給が順調に行われるようになると、次第にその魅力を失っていった。その代わりに人々が次第に利用するようになっていったのが、数を増していった公共図書館であった。

いっぽう外国との書籍の売買は、戦争直後は外貨不足のために極めて低調であった。1948年9月になって外国の書籍の輸入のために外貨払いが自由化されたが、経済情勢が緊迫していたために、事情はあまり変わらなかった。事態が進展しだしたのは、書物、雑誌、楽譜の郵便による小額輸入(一件100マルクまで)に関する特別措置が、1952年3月1日に導入されてからのことであった。またドイツの書籍の輸出にとっては、1951年初めにアメリカのファーミントン計画とつながりができたことが重要であった。これはアメリカ合衆国コネティカット州のファーミントン市にちなんで名付けられたプロジェクトで、外国の学術書のアメリカへの輸入促進を図って設立されたものであった。

第2章 西ドイツにおける出版界の諸相

(1)出版界の組織

東から西への移行

ドイツ出版界の中心都市ライプツィヒは、戦争直後の国際政治の荒波に翻弄されることになった。はじめこの出版都市は、アメリカ軍によって占領された。しかし連合国側の占領地に対する取り決めに従って、アメリカ軍が撤退し、代わってソビエト軍が入ってきた。この変更は1945年7月1日に行われた。ところがそれに先立つ6月5日に、「ライプツィヒ書籍商組合行動委員会」とアメリカ占領軍との間で、「書籍商組合」の支部を、連合軍支部のあったフランクフルトないしヴィースバーデンに設置されることが取り決められた。そしてその支部長にはライプツィヒのディーテリヒ出版社のW・クレム博士が、そして支配人にはG・K・シャウアー博士が就任した。この時の取り決めによれば、ヴィースバーデン支部の設立によって、ライプツィヒの「書籍商組合」の活動に支障をきたすといったものではなく、新設の支部はライプツィヒの本部の下部組織になるというものであった。

しかしこの取り決め締結の一か月後には、前述したように占領地区の確定が行われ、ライプツィヒはソビエト地区となったわけである。そしてその後、西側三戦勝国とソビエトとの関係が日に日に冷却していったため、ライプツィヒのいくつかの大出版社はヴィースバーデン(フランクフルトの隣町)へと移転した。それらの出版社とは、ブロックハウス、ブライトコップ・ヘルテル、ディーテリヒ、インゼル、ティーメである。さらにその少し後に、ハラソヴィッツ、ヒールゼマン、レクラムなどの大手出版社がライプツィヒから、そしてE・ディーデリヒスがイエナから、西側地域へと移った。

1945年秋になると『書籍取引所会報・フランクフルト版』の発行がアメリカ軍当局によって許可されることになった。そしてその第一号が10月6日に発行された。はじめ会報の発行所はヴィースバーデンにあったが、1946年4月1日にフランクフルトに移った。
いっぽう当初支部として発足したヴィースバーデンの「書籍商組合」は、次第に独自の活動を見せるようになった。その際新たな方針として、「中央集権ではなくて地方分権を」という基本的な考え方が、支配人のG・K・シャウアー博士によって打ち出された点が注目される。これはナチ時代の中央集権への反省から出てきた考えといえるが、地方分権は後に生まれたドイツ連邦共和国の指導的理念でもあるのだ。またこの考えに沿うような形で、1945年8月にはハンブルクに「北ドイツ書籍商連盟」が設立された。そして西側三占領地区には、書籍商の地域的連合体がいくつも生まれた。さらにヴィースバーデンの「書籍商組合」支部は、1945年10月9日にはフランクフルトに移転した。また1946年10月29日には南ドイツ書籍商の州連合代表が集まって「アメリカ占領地区書籍商作業共同体」が結成されることになった。同様にして北ドイツとライン地方の書籍商が集まって「イギリス占領地区書籍商作業共同体」が結成された。翌1947年には南西ドイツのフランス占領地区でも、同じ動きが見られた。

その間アメリカ地区とイギリス地区では、1946年9月5日に経済面での統合に関する協定が締結された。この協定の精神に即してアメリカおよびイギリス両地区の書籍商作業共同体は、数回にわたって会議を開いた。そして紙の配給、外国との取引、目前に迫っていた通貨改革及び後進育成などの諸問題について話し合った。さらにこうした緊密な協力の基盤のうえに、1948年5月13日、二つの地区の組織が統合されて、「ドイツ出版・販売者連合作業共同体」(本部フランクフルト)が結成されたのである。その規約第二条によれば、新たに生まれたこの組織は、全ドイツを包含する「書籍商組合」の前身である、と位置づけされていた。そうした意味合いからこの共同体は、『書籍取引所会報・フランクフルト版』の発行を行うと同時に、全国的規模の図書館の設立とその文献目録発行の準備に取り掛かった。

西側における全国組織の誕生

その後米英情報機関の要請によって、この「作業共同体」は、1948年10月31日に「ドイツ出版・販売者連合取引所組合」と改称された。そして会長には、前の「共同体」の時と同じV・クロスターマンが選出された。その後1949年9月にフランス地区の、そして1950年3月には西ベルリンの書籍商団体がこれに合流した。この時、この組織は昔の「書籍商組合」の伝統にのっとって、将来政治情勢が許せば、全ドイツ地域の書籍取引所組合になるべきことが、改めて確認された。そうした願望を示す一つの具体的な動きが、1948年に発行された『ドイツ出版関係者住所録』であった。これはこの種のものとしては第二次大戦後に発行された最初のものであったが、ソビエトを含む4占領地区(つまり全ドイツ)の出版社、書店、取次店を収録したものであった。これの編集に当たったカルスタインイェンは、「東西両陣営の緊張が著しく高まっている現時点にあって、まごうかたなき協力の証しを示すものとして二重に高く評価されてしかるべきである」と述べている。

1952年4月1日、「ドイツ書籍・楽譜・雑誌全協議会」が設立された。この傘下には、ドイツ出版・販売者連合取引所組合、ドイツ駅構内書店組合、ドイツ書籍・新聞・雑誌卸売組合、ドイツ・ブッククラブ組合、旅行・書籍通信販売組合、貸出文庫組合連合、広告・雑誌販売組合、ドイツ楽譜販売組合、ドイツ音楽書出版社組合、ドイツ古書・グラフィック販売組合、ドイツ教材組合、ブッククラブ作業共同体などの諸団体が入っていた。また1953年には、先の「ドイツ出版販売者連合取引所組合」の独自の会館が、フランクフルト市の中心街にあるゲーテの生家の隣に建てられた。

出版人の養成機関の設立

第二次大戦終了直後の1946年、ライン・ヴェストファーレン地区の出版・販売者連合が、この地域の中心都市ケルンに出版人養成学校を設立した。この職業学校の授業内容としては、見習い期間の終了までに年間6週間のコース受講を義務付け、卒業に当たって試験を課すことにした。やがてこの出版人養成学校は、1952年、「連合取引所組合」によって引き継がれた。西ドイツの教育行政は州に任せられていたため、州によってその教育の仕方が異なっていたが、全国組織である「取引所組合」の傘下に入ることによって、出版人の養成という任務は全国的なものになったと言えよう。そして1954年、出版・販売者は、一定の見習い期間を要求される職業として国家から認められることになったのである。その際仕事の内容・修業過程・待遇などを示した独自の職業案内が提示された。これは社会の進展につれて修正が加えられ、1973年と1979年に、新しい要項が出された。また1962年にフランクフルト市のゼックバッハ地区に、「ドイツ出版・販売者養成学校」の新校舎が落成した。

いっぽう出版界の幹部のための継続教育コースとして、「第一回ドイツ出版人ゼミナール」が1968年に開かれた。翌1969年には職業教育法が公布されたが、これは書籍出版・販売の実務においてしばしば見られてきた欠陥を修正し、全体的な教育を統一するための良いきっかけになった。1972年になると、出版・販売者養成学校と出版人ゼミナールのちょうど中間形態として、「ドイツ出版販売専門学校」が設立された。これには数か月にわたるコース受講が義務付けられた。また「ドイツ出版・販売者養成学校」には、やがて実に様々な職業教育の科目が設けられるようになって、外国人でもこの教育を受けることができるようになっている。さらに出版人の社会的地位を向上させるものとして、出版社員の職務内容などを示した職業案内が、1981年に法律の形で提示された。そして1987年から88年にかけての冬学期にはミュンヘン大学内の「ドイツ文献学研究所」に、出版学の講座が設けられた。

出版界のその他の活動

書籍流通面における動きとして、1953年に「書籍商清算協同組合」がフランクフルト市に再建されたことが注目される。これは1922年に、書籍取引の合理化策として、ライプツィヒに設立されたものであったが、これが第二次世界大戦後に復活したものである。そして戦後には外国の書籍販売商も、この機関を利用できるようになった。このように第二次世界大戦後の西ドイツの出版界はかなり国際化したことが注目されるが、ドイツの出版業者のイニシアティブにより、1956年には「国際書籍販売連合労働共同体」(1976年に「国際書籍商連盟」と改称)が設立された。そして1959年には「ロンドン決議」というものを採択して、国際的レベルでの「書籍の自由な流通」や定価制度の維持などを訴えた。

いっぽう国内の書籍取引を電子式データ処理システムによって合理化していこうという動きが出てきたが、その前提として書籍取引上の流通番号というものが、1964年に導入された。さらに図書館及び出版業界にとって膨大な量の書物を合理的に処理してゆくための手段として、すでにイギリス、アメリカで用いられていた国際標準図書番号(ISBN)が、1969年に採用されることになった。同様に雑誌に対しては、国際標準連載番号(ISSN)が作られている。そしてこのISBNの印は、以後西ドイツで出版される書物には必ず記載されるようになった。

また毎日のように出版され、市場に出回っていく膨大な量の書物を年間でまとめた「年次図書目録(VLB)」が、出版連合有限会社の出版局によって、1971年から発行されることになった。これは後に述べる「ドイチェ・ビブリオテーク」(第二次世界大戦後フランクフルト市に設立された全国規模の図書館)が発行する図書目録と「書籍取次業者カタログ」とを結ぶ仲介の役割を果たすものである。ちなみにこのVLBには、1971年には3200社の書物30万7000点が記載されていたが、1988年には7717社の書物48万1500点に増えている。ただし1988年版には、全ドイツ語圏つまり西ドイツ、東ドイツ、オーストリア、スイスの出版社から発行された書物が記載されているのだ。1987年には、教科書に対しても同様の目録が発行されるようになり、1988年版には、220社の4万点が記載されている。

いっぽう電子式データ処理法を用いた出版業界の合理化措置はさらに進展を見せ、1972年には「書籍取引計算センター有限会社」というものが設立された。この会社は「書籍商清算協同組合」の精算業務、「年次図書目録」及び「ドイツ出版関係者住所録」用のデータバンク業務などをはじめ、ドイツの出版業界のあらゆる会計業務まで引き受けている。

(2)書籍の生産と出版市場

出版市場の拡大

1948年の通貨改革の後、個々のケースではなお不振と変動が見られたものの、全体としては、西ドイツにおける書籍生産量は著しい上昇をみせていった。「ドイツ出版販売取引上組合」(フランクフルト)が1951年以降毎年発行してきた小冊子『数字に見る書籍と書籍取引』によれば、年間の総出版点数は、1951年の1万4094点から、1971年には4万2957点に伸びている。この20年間に約三倍の伸びが見られたわけである。これを1970年の時点で、主要国間の出版点数の国際比較をしたものが次の表である。

出版点数の国際比較(1970年)

国 名     出版点数

アメリカ    79,530
ソビエト    78,899
西ドイツ    45,369
イギリス    33,441
日  本    31,249
フランス    22,935
スペイン    19,717
東ドイツ     5,243
(国連統計)

これを見てもすでに西ドイツが世界有数の出版国に復興していたことが分かる。当然のことながら、1950年代から60年代にかけての経済成長が、出版界にもよい影響を及ぼした結果とみることができる。この間大学やその他の教育・研究機関がどんどん設立されていくのにつれて、新たな書籍需要が生じた。そして順調な経済情勢の下で、出版社側の巧みな宣伝攻勢に乗って書物を自ら買う人の数も増大していったのだ。

こうした明るい数字にもかかわらず、出版社や書店が置かれた状況は、必ずしも良いわけではなかった。それは1973年末の石油危機以前にすでに見られたことである。あのマクルーハンの「書物には未来はない、書物はやがて消滅するであろう」という不吉な予言とも関連して、出版界に不安が広がった。これに対して1973年に開かれた出版関係者の集会で、大手ズーアカンプ出版社のS・ウンゼルト社長は、当時あちこちで聞かれた不吉な予言に敢然と立ち向かった。そして「書物は死んでもいないし、病んでもいない。書物は将来もコミュニケーションの媒体であり続けるであろう」と訴えた。また社会学者のW・リュエッグは、再三再四「書物は他の情報伝達手段によってとって代わられることはなく、ただ補完されるだけである」ことを強調した。

いっぽう西ドイツの出版界で顕著にみられるようになってきた傾向が、集中という現象であった。つまり少数の大出版コンツェルンの独占ないし寡占傾向が、集中という現象であった。つまり少数の大出版コンツェルンの独占が、年とともに強まってきたのである。とりわけ注目すべきは、ベルテルスマン・グループとホルツブリンク・グループという二大出版コンツェルンの存在である。伝統を誇ってきたドイツの出版社もやがて資本の力に負けて、こうした二大巨大出版コンツェルンの傘下に入っていったのである。例えば1786年創立のフィーヴェーク出版社はベルテルスマン・グループに吸収されたし、これより規模は小さいが、文学出版社の名門インゼル出版社は、ズーアカンプ出版社に合併された。

また17にのぼる教科書出版社が「学校教育情報作業共同体」に統合された。1974年の時点で見ると、売り上げが一番多かったのは、大衆的・保守的な新聞・雑誌を発行していて、世論形成にも大きな影響力をもっていたシュプリンガー・コンツェルン(1億マルク)で、次いでベルテルスマン・コンツェルン(8700万マルク)そしてE・クレット社と続く。

こうした集中化の一方、西ドイツには、様々な種類の零細出版社が数多く存在していた。その数は専門家によって、1970年代の初めには、150から200ぐらいあったと見積もられているが、これらの中には、短命に終わる出版社もあった。またこれらの零細出版社の中には、個性的・趣味的出版を手掛けるもの、特定の政治的・イデオロギー的な出版をめざすもの、書物の世界に新たな実験をもとめるものなど、実に多種多様な出版社が含まれている。これらは自主出版の形をとるか、集団的な編集方法をとるかしている。特定の政治的・イデオロギー的な傾向をもった出版社は、初めから利益を上げることは目的とせず、経済的な犠牲を払ってでも、その政治目的を達成することを目指しているわけである。

書籍市場調査

かつて1914年、名門出版社のE・ディーデリヒス社が、読者の購買と動機を調べるために、アンケート調査を行ったことがある。しかしこれはまだ市場調査と呼べるものではなく、しかも一出版社がおこなったものにすぎなかった。今日的な意味での書籍市場の調査は、第二次大戦後になって始められものである。1952年連合取引所組合は、その内部に<市場分析>部門を設けた。そして1952年から毎年『数字に見る書籍と書籍取引』という小冊子並びに『書籍取引の社会学及び経済問題のための資料』が、そこから発行されるようになった。

また1958年には、先のベルテルスマン出版社の委託を受けて、大手の世論調査研究所エムニドが、西ドイツにおける最初の大規模な書籍市場調査を行った。その後ベルテルスマン社は、1961年になると独自の「書籍市場調査研究所」を設立した。ここでは書物の買い手や読者の行動から書籍の販売経路、宣伝広告、広告媒体、メディア、競合媒体に関する調査さらにイメージに至るまで、実に多様なマーケティング・リサーチが行われた。そしてその結果は一般にも公表された。しかしこの研究所は1974年に閉鎖された。

これと並んで大手アレンスバッハの世論調査研究所に委託した読書と本の買い手の行動に関する最初の調査結果を、「取引所組合」は1968年に発表している。この種の調査はその後も続けて行われているがその結果は毎回出版物の形で公表されている。いっぽう宗教書に関する市場調査が、「カトリック出版連合」と「福音派出版聯合」によって、1968年に行われたことがある。

こうした調査の中では、本の買い手である読者の生態に関する調査がますます重要性を増してきているが、その結果は本の売り上げという観点から出版業者が活用しているだけではない。この「読者調査」は、出版物の受容および読者の生態に関する社会学的な関心からも、大いに利用されている点が注目される。しかしその反面、これらの書籍市場調査が偏っていて、読書傾向の一面を示すにすぎない、との批判の声が出版社の一部からあがっていることも付け加えておきたい。

いっぽうこの書籍市場調査の結果を活用したりして行われる書籍の宣伝広告合戦は、近年ますます激しさを増してきている。とりわけ売り上げが大きいベストセラーつくりのため広告宣伝費は、年を追って増大してきている。こうした出版業界における派手な広告宣伝戦は、今日先進国に共通の現象なので多言を要しないが、このような現象に対しては、立場によってさまざまな評価があることは言うまでもない。書籍市場における大衆化の波は、日本同様ドイツでも激しさを加えつつあるのだ。

書籍の価格

日本でも書籍は、いわゆる再販契約の対象商品に指定されている。これは商品の信用維持や販路統制のために、販売業者は生産者(出版業者)があらかじめ指定した卸・小売価格以下で販売しないという契約で、公正取引委員会が指定する商品に限って認められているものである。これによって書籍の定価制度が守られているものである。ドイツではこの問題を巡って19世紀いらい、長い経緯があることは、私もすでに述べてきたところである。そして1888年のクレーナー改革以来の伝統に基づき、また「取引所組合」の新たな努力の結果、第二次大戦後も書籍の定価制度は存続することとなった。

これを具体的に見ると、1957年西ドイツではカルテル法(日本の独占禁止法に相当するものが発布されたが、書籍にたいしては例外措置がみとめられ、再販商品として価格維持(定価制度)が守られたのである。

この例外措置は1973年の「競争制限排除法」でも認められた。書籍の価格維持は、ドイツの隣国オーストリアとスイスにも存在するが、スェーデンやフランスなどでは、この価格制度は撤廃された。
書籍の定価制度は、西ドイツでは、書籍販売店が定価で売ったことを立証する「返り証」を出版社に送り返すことによって、その実施が具体的に監視されていた。ただこうした業務そのものを「取引所組合」が行うことはカルテル法によって禁止されていたので、これを信託事務所に委託していた。一方、「取引所組合」の粘り強い努力によって、書籍に対する売上税は、1961年通常の4%から1・5%に引き下げられた。この税制上の特別措置は1968年に「付加価値税」が西ドイツに導入されたときも、なお維持されていた。

なお「西ドイツにおける出版界の諸相」は、次回のブログでも、紹介していく予定である。

 

ドイツ近代出版史(7)第三帝国の時代 1933-1945

第一章 出版業界の組織替え

「帝国文化院」への組み込み

第三帝国つまりヒトラー独裁のナチスの時代はわずか13年間しか続かなかったが、この時代には政治、経済、社会、文化を問わず、ほとんどすべての分野がナチスの支配体制の下に組み込まれた。出版業界もその例外ではなかった。ちなみに第三帝国という呼び名であるが、ドイツの歴史の中で、中世のドイツ国家である神聖ローマ帝国(962~1806)を第一帝国、ビスマルクによって作られたドイツ帝国(1871~1918)を第二帝国と考え、それに次ぐ帝国という意味で第三帝国と呼ばれているわけである。

さてナチス国家が遂行した、職業による社会的身分の区分けは、出版業界の組織にも大きな変化を及ぼしたのである。ナチスのやったことはすべて性急であったが、出版業界の組織替えも、政権奪取からわずか三か月半後の1933年5月14日には、出版業界の代表にその作業が委任されたのであった。まず「ドイツ書籍商取引所組合」(以下「書籍商組合」と略称する)の運営は、その総会において、5人の委員(出版主2人、書籍販売人2人、国民啓蒙宣伝省の代表1人)によって構成される委員会に任されることになった。
そして同年11月には、「書籍商組合」は「帝国文化院」の傘下に組み込まれた。その際「書籍商組合」に所属していたもろもろのグループは、それぞれ分散して「帝国文化院」の下部機関の指導を受けることになった。つまり書籍出版業者は「帝国著作院」に、新聞社は「帝国報道院」に、そして音楽出版社は「帝国音楽院」に、といった具合であった。
また「書籍商組合」は純粋の国内団体ではなくて、外国人の書籍業者も多数加わっていたので、結局二つの団体に分けられることになった。そしてドイツの出版業界の全ての団体を統合した身分的な組織として、「帝国ドイツ出版業者連合」というものが新たに結成されて、これが「帝国著作院」の指導を受けることになった。そしてその下部機関として、「ドイツ書籍代理人労働共同体」、「帝国書籍出版販売従業員団体」、「貸出文庫従業員団体」などが作られた。上部組織である「帝国ドイツ出版業者連合」は、1934年11月に定められた定款によって、非経済的な組織であることが、はっきりと謳われた。

「書籍商組合」、経済団体として存続

いっぽう1825年以来続いてきた伝統ある「書籍商組合」は、経済団体として、その後も存続することになった。かくして出版業界には、制度的に二つの全国組織が存在することになったが、出版業界ではこれら二つの組織の最高幹部つまり会長、副会長及び会計担当役員を同一人物が兼職することによって対応した。つまりこうすることによって、二つの組織が対立抗争したりしないようにしたわけである。「書籍商組合」のほうは、1934年の新しい定款で、「経済的な共同体として、国の内外におけるドイツ出版業界の発展に資する」ことが定められた。そしてその具体的任務として、とりわけ出版業者相互間ならびに買い手との間の業務上のもろもろの規約の制定、出版界の後進の育成、「ドイチェ・ビュッヘライ」(国立図書館)、「出版人養成学校」、「ドイツ書籍商中央学校」などの経営管理があげられている。さらにその第四条では、組合員は出版社によって定められた定価を遵守し、新刊書を「ドイチェ・ビュッヘライ」に納本することを義務付けることが、定められていた。

定価制度は維持

何事も統制管理することを金科玉条としていた第三帝国の下では、書物の定価制度が維持されたのは当然のことであった。書物の価格の動きに関しては、ワイマール共和制末期に、ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーが国家物価監視委員として目を光らせていたが、ヒトラーの下でも引き続きこの任務を委任された。ゲルデラー市長は、書物の定価制度の維持についてはもともと賛成の立場に立っていた。それは一定の価格が維持されることこそが、書物の買い手の利益にもつながると考えてのことであったという。さらにゲルデラー市長は、書物のような文化財にあっては、価格の放任は安定した状態で遠隔地へ書物を送ることを困難にするとも考えたという。この意味で1936年11月に出された一般的な「物価値上げ禁止令」は、出版業界にとっても重要な措置であったわけである。
定価制度に関する限り、戦争が終わるまで何の問題もなく存続したのである。

第二章 書物の一掃令と禁書目録

もろもろの指令

アドルフ・ヒトラーは政権を獲得すると直ちに、ドイツの出版界全体を自己の思い通りに動かそうと乗り出した。1933年3月5日の選挙戦に向けて、同年2月4日にナチが出した声明の中には、次のようなことも書かれていた。「いわゆる”体制の幹部ども”は、・・・長いこと、ドイツの書籍市場をみだらで、平和主義的で、国家反逆的で、神を冒涜するような文学作品が氾濫する場所として、放任してきた。」つまりナチ党はこれらの書物の取り締まりや一掃を狙っていたわけである。そして2月27日夜、国会議事堂が炎上した翌日の28日には、「民族と国家を保護するための大統領令」が布告された。これによって憲法で認められた基本的人権が停止され、公共の秩序と安寧を脅かす印刷物は、警察によって押収することができる、とされた(第七条第一項)。ナチスが狙った書物の追放を実現するのに、この一片の布告一つで十分なのであった。しかしこれに追い打ちをかけるように、同年7月14日には、「ドイツ国籍はく奪に対する刑罰」の規定が、そして10月13日には「国家反逆的文書の作成と外国からの持ち込みに対する刑罰」の規定が出された。

いっぽうヒトラーに全権委任する法律の制定を認めた、同年3月23日の国会での施政方針演説で、ヒトラーは次のように語っている。
「われわれの公共生活の政治的毒消しと並行して、わが民族体の徹底した立て直しが図られねばならない。われらの教育機関の全てーすなわち演劇、映画、文学、新聞、ラジオーが、わが民族の根底に横たわる永遠の価値に奉仕しなければならないのだ。」

この演説に先立つ3月7日、ナチスの最高幹部の一人ヘルマン・ゲーリングは「俗悪絵画・文書・広告 撲滅ドイツ警察本部」を通じて、そうしたものを公表あるいは流布した組織ないし施設との闘争に乗り出していた。そしてドイツ国民図書館員連盟は、「有害で不必要な文書・書物を排除せよ」との要請に協力した。また右翼的な団体「ドイツ学生連盟」は、追放すべき作家71名の名前を記した「ブラックリスト第一号」を当局に提出したが、これはいわゆる「非ドイツ的精神に抵抗する運動」の根底に置かれることになった。

焚書事件

焚書の準備をするナチス党員たち

こうした運動の延長線上の出来事として、1933年5月10日、人々の耳目をそばだたせた、あの「焚書事件」が起きたのである。ゲッベルス宣伝大臣の扇動によって、この日ベルリンをはじめとして、全国の全ての大学所在地のナチ党員は、一団となって公私立の図書館に闖入し、追放すべき作家の書物を手当たり次第につかみだした。これらの書物が街頭に投げ出されると、別のギャングの一隊がやってきて、それらをかき集め、ベルリンの場合は、フランツ・ヨーゼフ広場へ運んで、焚書の儀式が執り行われた。それはさながら死体を焼く火葬の儀式のようであったという。梱包された書籍の荷が、あとからあとから運ばれてくると、ギャングどもは歓声を上げてナチス文化を謳歌した。ユダヤ人やマルキストによって書かれた書物が、多くの古典の中に混じっており、ゲッベルスの憎しみを買った近代作家の書物も十把ひとからげにされていた。薄暮とともに突撃隊員に駆り立てられた大学生たちが、松明を手にして到着した。彼らは書物に火をつけ、炎の周りをあらかじめ用意されたスローガンを唱えながら、野蛮人のように踊りまわるのであった。

このようにしてハインリッヒ・マン、シュテファン・ツヴァイク、エーリヒ・ケストナー、カール・マルクス、ジークムント・フロイト、ハインリヒ・ハイネをはじめとする、ナチスの烙印を押された著作家の書物が、次々と焼かれていったのであった。やがて宣伝車とともに現場に現れたゲッベルス宣伝相は、全国放送用のマイクの前に歩み寄り、「過激なユダヤ的主知主義」の終焉を宣言した。そして「過去の悪しき亡霊は正当にも火刑に処せられた。これこそ偉大にして象徴的な行為である」と付け加えた。

この焚書事件の4日後、ゲッベルス宣伝相はドイツの書籍業者の代表を前にして、「われわれが欲しているのは反乱以上のものである。我々の歴史的任務は、国民の精神そのものを変えることにある・・・」と語った。

しかし外国においてはこの焚書事件は、嫌悪の念と憤激の嵐をもって迎えられたのである。ドイツにおいても批判の声は上がったが、焚書行為を弁護する次のような声にかき消された。「焚書の行為は、不純なものを取り除くために必要なことであったのだ。これは、かつて1817年にドイツの学生たちが、ヴァルトブルクの集会で、絶対主義的国家主義者の作品やナポレオン法典を焼いたのと同じ精神に立つものである」。これに対して当時中立国スイスに住んでいたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、その二年後に同地の新聞「ノイエ・ルントシャウ」(1935年)の評論の中で、「書物を燃やし、徴候を取り除くことでは、時代の病を治すことはできないのだ」と書いている。ついでに言えば、焚書の激しい嵐の中で、アイヒェンドルフ、シュトルム、メーリケなど19世紀ドイツのロマン派的傾向の作家の作品も犠牲となったが、これらが焼かれたのは、「十分力強くない」という理由からなのであった。

禁書目録への道

焚書事件は人々を驚かせるセンセーショナルな出来事であったが、それと同時にナチスは自分たちの気に入らない書物や出版物を、もろもろの法令を出すことによって、取り締まったり、禁止したりしていった。これから世に出そうとする書物の取り締まりに対しては、1933年9月22日公布の「帝国文化院令」が威力を発揮した。その具体的な細目については、11月1日に公布された「実施細則」に定められていた。それによると、作家として活動したり、あるいは書籍出版ないし販売の業務を行うためには、まず「帝国文化院」傘下の「帝国著作院」のメンバーであることが前提とされた。つまり「信頼性ないし適正が欠如」しているために、「帝国著作院」の会員になっていないか、もしくは除名された者は、ドイツで著作を発表したり、出版販売活動をしたりすることができないのであった。

このようにして検閲は確実に行われるため、わざわざ事前検閲する必要はなかった。とはいえ政治的・思想的内容の書物に対しては、ちゃんと明文化された事前検閲の制度も存在したのだ。この種の書物は、1934年3月15日に設置された「ナチス文書保護のための党検査委員会」に提出された。その追加規定は1935年のニュルンベルク法の中で定められた。

このように規定や規則は次々に出されていったが、この過程で浮かび上がってきたのが、どの部局がそれを担当するのかという縄張り争いの問題であった。当時秘密警察および国民啓蒙宣伝省の二つが、著作物の取り締まり機関として実際に活動していたが、時とともに宣伝省の役割が拡大するようになっていった。いっぽう1928年に、ナチスのイデオロギー担当者アルフレート・ローゼンベルクがミュンヘンに設立していた「ドイツ文化のための闘争団」が、ヒトラーの政権奪取の直後に、著作物取り締まりへの権限授与を要求したが、もちろんこれは認められなかった。その代わりに「帝国ドイツ著作物振興部」が1933年6月16日に設置され、やがてその権限がA・ローゼンベルクに割り当てられたが、この部局は「良い本と悪い本をよりわけるだけ」であって、禁書指定の権限はなかった。それに反して「帝国著作院」の権限は増す一方であった。同院を制定した規定の第一条には次のように書かれている。「帝国著作院は、国民社会主義的意向を危うくする書物や著作のリストを作成する権限を有する。これらの書物や著作を、公の図書館やいかなる形態のものであれ書店を通じて広めることは、これを禁止する」

この規定に基づいて「帝国著作院」は、1935年4月25日、「有害にして好ましくない著作物のリスト第1号」を明らかにした。このブラックリスト第1号は、その後数回にわたって、追補版が発表された。これらブラックリストに掲載され、その作品の公表が全面的に禁止された著作者の内訳を見てみると、1939年の段階では、亡命作家45%、マルキスト及びソビエトの著作家31%、ポルノグラフィー作家10%、その他14%となっている。こうした全面的に公表を禁止された著作家のリストと並んで、個々の著作物の禁止目録があったことは言うまでもない。その中にはとりわけ、マルクス主義的文献、ナチス体制及び第三帝国に敵対する内容の文献、平和主義的文献、国防の観念や民族意識を失わせるような文献、さらにユダヤ人が書いたあらゆる著作が含まれていた。

「ブラックリスト第1号」が公表されたことによって、ドイツの図書館や書籍市場へのその影響力は、確固たるものになっていった。そしてその余波は隣国のスイスにも及んだ。例えばドイツとスイスの共同出版という形で発行されていた雑誌『コロナ』は、その発行に当たって一定の妥協に応じなければならなかった。またスイス在住の作家ヘルマン・ヘッセは、詩集『夜の慰め』の新版を出すにあたって、ユダヤ人や亡命作家にも向けられていた献辞を削除することを余儀なくされた。

とはいえナチスがその13年間に行った出版および書物の世界の監視と検閲は、その網の目が細かかったにもかかわらず、内容的には必ずしも完璧なものではなかったようである。哲学者のカール・ヤスパースが当時を回想して述べているように、とりわけ精神・人文科学の分野では、その取り締まりにもしばしば欠陥が見られたという。つまり党の見解に反するような著作物が、この時代になお出版され続けたのであるが、それは監視や検閲に当たる担当者の能力不足によるところが大きかったようだ。

ナチス公認の出版社

いっぽうこの時代には、ドイツ精神、ゲルマン的北方性、「血と大地の神話」などを鼓吹するナチ党員作家やその同調者が書いた著作物が、巷に氾濫していた。そしてそうした作品をはじめナチスから公認された出版物を発行していた出版社も、当然のことながら存在していたわけである。なかでもナチ党の中枢出版社として公認されていたのが、ミュンヘンのフランツ・エーア出版社であった。同社は1941年までに、書籍や小冊子など合わせて1億3200万冊発行した。そのなかにはナチ党中央機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』をはじめとして、小説から道路地図まで、歌謡の本から暦まで、党の各種指令から人種理論の本まで、およそナチスのお眼鏡にかなった、ありとあらゆる種類の出版物が含まれていた。

規模はもっと小さかったが、ナチス公認の出版社は、そのほか70社ほど存在していた。ヒトラーが書いた『我が闘争』は、エーア出版社から刊行され、1940年4月までに600万部が売れたが、これはいわば「官製のベストセラー」だったわけである。しかしD・シュトロートマンがナチス時代の文学政策について書いた本の中で言っているように、この『我が闘争』は、「第三帝国時代に最も普及した本であったが、最もよく読まれた本という訳ではなかった」のである。

その他の出版社のたどった運命

ここで第三帝国の時代にドイツの一般の出版関係者がたどった運命について、すこし見ておくことにしよう。とりわけ非アーリア民族(つまりユダヤ人)の出版関係者が、ナチスのユダヤ人撲滅政策に従って、過酷な扱いを受けた。ユダヤ人以外でも数多くの名の通った出版人が国外へ亡命したが、それに失敗した者は、逮捕連行され、虐殺された。そうしたこともあって、多くのドイツ人出版業者はドイツの地に残って、体制に順応した。

しかしナチスに抵抗した出版関係者も決して少なくはなかったのである。なかでもエルンスト・ローヴォルトがその一人であった。彼が1919年に再建した第二次ローヴォルト出版社は、ナチスの政権奪取後、次第にその活動の縮小を余儀なくされていった。出版主のローヴォルトは、当初大胆不敵な態度を示したりしたが、ナチスの迅速な文化統制の前には、なすすべも限られていた。同社が抱えていた作家は、あるいは国外に亡命、あるいはブラックリストに載せられるといった具合に、ローヴォルト出版社の活動は著しく制限されていった。しかしこの間にも、原稿審査員の更迭、社主の変更、経営規模の縮小などによって、同社はなお生き延びていった。ただ出版するものも、ノンフィクションものとか、政治的傾向を持たない文学作品や翻訳文学など、当局の検閲にかからないものに限られていた。
しかし1938年になってローヴォルト出版社は、帝国著作院から締め出されることになった。同社はウルバン・レードルというチェコの作家がユダヤ人であることを知りながら、それまでチェコ人で押し通して出版していた。ところがこの年にチェコ領ズデーテン地方がナチス・ドイツによって占領されたことよって、彼がユダヤ人であることが判明して、帝国著作院から締め出されわわけである。その結果、ローヴォルトは国外に逃亡したが、別人を同社の社長に据えて、ローヴォルト出版社をなお生き延びさせた。しかしナチスの統制がさらに強化されるに及んで、ついに1943年、第二次ローヴォルト出版社は営業停止へと追い込まれたのであった。

第三章 第二次世界大戦中の出版界

戦時経済下の特殊事情

1939年9月、第二次世界大戦が、ヨーロッパの地で、勃発した。そしてドイツの出版界はこの戦争の影響を大きく被ることになった。つまり諸外国との関係の断絶、生産の減少、人員不足、管理統制と検閲の強化、紙不足、そして最後には空爆による物質的破壊という事態が引き起こされたわけである。

まず諸外国との関係についてみると、ナチス体制になってからもドイツと諸外国との外交関係は続いていたし、ナチスの党大会には、外国の代表も来賓として出席していた。またヒトラーが主役を演じた1936年のベルリン・オリンピックには、諸外国からたくさんの選手が参加していたのである。
それが1914年の第一次世界大戦勃発の時と同様に、1939年9月から外国との関係が断絶することになった。いっぽう第一次大戦中と同様に、今回も前線や後方基地での書物の特別需要が生じることになった。そしてこの事態にはどの出版社も、多かれ少なかれ対応した。その結果1943年秋までに、およそ5000万部の「野戦郵便図書」が出版された。第一次大戦の時と同様に、レクラム出版社は携帯用の「野戦文庫」を用意した。しかしこのレクラム版を装った小冊子を利用して、対ドイツ・プロパガンダが連合国側によって行われた点も、第一次大戦の時と同様であった。

出版量の減退

しかし1943年以降、戦局がドイツにとって不利に展開し、国内で人員や資源の不足が深刻の度合いを深めるに及んで、書籍の出版量は著しく減退することになった。その具体的な数字を、次の表で見てみることにしよう。

書籍の発行点数

年       新刊書      再販       合計
1938   20,130  5,309   25,439
1939   15,585  4,793   20,378
1940   13,782  6,294   20,706
1941   11,884  6,953   18,837
1942    9,423  9,993   19,416
1943    7,334  5,224   13,058
1944    5,304  4,224    9,552
1945      135     80      215
(1月)

(出典:H.Widmann: Geschichte des Buchhandels, 1975.  S.178)

1938年以降、新刊書はこの年をピークにして、年を追うごとに減退しているが、再販については1940年、1941年、とりわけ1942年はかえって増大している。しかし1943年からは、ドイツの戦局悪化に伴い、新刊書も再販も減っていったことが分かる。ちなみにドイツの敗戦は1945年5月である。

この表からも分かるように、1943年以降、書物に対する需要が完全には満たされなくなると、他の分野と同様に出版界でも、配給制度が導入されることになった。出版業界の幹部は1943年5月7日の会合で、「紙不足のために生産調整する必要が生じた」ことを口にした。これに先立つ同年1月に出された総統指令に基づいて、帝国経済省は出版活動の停止措置を打ち出していた。それは総力戦を遂行するために、国民各層の全ての力を結集する必要が生じたため、とされた。これを実施するにあたって、当局側は出版されるべき書物が戦争遂行に必要不可欠なものか否かによって選別するとの方針を明らかにした。そしてこの基準に基づいて、帝国宣伝省は紙の配給を行うか否かを決定するようになった。これは実質的には出版禁止措置と同じ効力を持っていたのである。紙は書物の発行には必要不可欠なものだからである。

このような手段を用いて当局は、好ましくないと思われた出版社を閉鎖へと追い込んでいったのである。こうして閉鎖を余儀なくされた南独テュービンゲンのある出版社の社長は、次のように語っている。「閉鎖命令に続いて起こったことは、すべて口頭による措置であった。ただそのやり方ときたら、陰険なものであった。つまりその瞬間から紙の供給がとだえたのであった。そしてその数日後、帝国著作院から電話があって、私の全ての在庫を、当時ナチスの所有となっていたライプツィヒの取次店に運ぶよう指示された」

いっぽう新聞には、たくさんの紙が割り当てられていたが、それは一般の書籍や雑誌より、国内国外に与える影響が大きいからという理由からであった。ちなみに1943年の時点で、ドイツの新聞の82・5%は、ナチ党の所有するところとなっていたのだ。つまり当時の新聞はナチ党のプロパガンダの重要な手段だったわけである。

突然の文字改革命令

ナチス・ドイツは1940年の段階で、激しく抵抗していたイギリスと、局外にあったスペイン・ポルトガル及び中立国スイス、スェーデンなどを除く西ヨーロッパの大部分、とりわけ大国フランスを占領していた。そしてイタリアはドイツ側に立って参戦した。そのため自信をつけたヒトラーはドイツの思想文学や宣伝文書を、占領地ほかに普及させるために、それまでドイツで用いられてきたドイツ文字(独特のヒゲ文字)が外国人には読みにくいので、他の西ヨーロッパ地域で使われていたラテン文字に変更するよう、1941年に突然の文字改革命令を出したのであった。

以下は私の勝手な私見であるが、ヒトラーは19世紀以来ドイツ社会を文化思想面で支配してきた大学卒エリートの教養市民層への強い反発の気持ちを抱いていたようである。その教養市民層が用いていた難しいドイツ文字をなくすことは、彼らへのひそかな復讐になると、ヒトラーは考えていたのかもしれない。

それはともあれ、この突然の文字改革命令で、ドイツの印刷所や活字鋳造所は、大変な出費を強いられたという。またこの文字改革がどの程度所期の目的を達したのか、明らかではない。それはともかく、この方針は第二次大戦後のドイツでも引き継がれ、今日に至っている。ドイツの文字がラテン文字に代わったこと自体は、戦後のドイツの若い世代にとっても、我々を含む外国人にとっても、ありがたい事である。とはいえ国粋主義のナチスがこのようなところで、意図せざる国際主義に同調するような措置をとったのは、皮肉なことだと言わざるを得ない。

壊滅した出版界

第二次大戦も末期の1944年8月、帝国文化院総裁でもあったゲベルス宣伝大臣は、「帝国文化院の分野における総力戦への取り組みに関する命令」を発した。これは追い詰められたナチス当局が取り組んだ、絶望的ともいえる試みであった。しかしそれ以上に恐ろしい効果を発揮したのは、連合国がわによる度重なる空からの爆撃であった。この結果、多くのドイツの町や都会が壊滅状態に陥ったが、出版界に対してもこの空爆は大きな被害をもたらした。ドイツの出版のメッカ、ライプツィヒも1943年12月4日に行われた大規模な爆撃によって、わずか2時間のうちに、多くの人命と家屋建築物そして数百万冊におよぶ書物が灰燼に帰したのであった。同様にしてもう一つの出版都市ベルリンも破滅的な打撃をうけた。かくしてドイツの出版界は第二次大戦末期には、完全な麻痺状態に陥ったのであった。

ドイツ近代出版史【6】1914~1933

第一章 第一次世界大戦と書籍取引

戦時書籍販売の特徴

大戦勃発直以前の1914年6月にライプツィッヒで開かれた、書籍とグラフィックの大規模な国際見本市ブルガは、ドイツの出版界にとって極めて重要な国際的な催しであった。しかしその数週間後に戦争がはじまると、ドイツの出版界と外国の出版界との結びつきは、様々な分野で途切れることになった。そしてまた閉ざされた国内市場の中で、書物の滞貨が次第に進行していった。それは一つには、書物が緊急時には必要のないぜいたく品と見なされたことにも原因があった。戦争が始まって数週間後に、雑誌『鉄道図書販売』の冒頭記事に、「一般庶民は戦時中はぜいたく品は買わないものだ」という内容の文章が載せられた。それが書物を指すものであることは、明らかであった。しかし書物の販売や購読が禁止されたわけではなく、戦場や野戦病院にいる兵士のために、書物が寄贈されたりした。そして占領地にいるドイツ人兵士に対して、鉄道で本を送る「鉄道図書販売」が、この動きに追随した。さらに1916年には、「戦地書店」というものが誕生した。

ここで紹介しておきたいのが、1870年の普仏戦争の時に見られた一つの動きである。家庭向けの人気雑誌『ディ・ガルテンラウベ(あずまや)』の発行人E・カイルはこの時戦地を訪れ、従軍兵士に対して、その予約購読を募ったのである。カイルはこれに関連して次のように書いている。「毎月戦地から『ディ・ガルテンラウベ』に対する注文が山のようにやってくる。戦地で注文する人は軍隊のあらゆる野戦郵便網を使え、しかも予約購読なので、一回ごとに金を送る手間も省ける。一方われわれとしては、戦地を訪れる親類や友人のためにも、注文された雑誌を毎週きちんとメッツやパリへ発送する準備ができているのだ。

戦地書店

これと似たようなことが第一次大戦中にもみられたわけである。つまり1914年レクラム出版社は、その百科文庫を100冊づつまとめて、ひと箱にした「携帯用野戦文庫」なるものを作り出し、戦場、野戦病院、捕虜収容所などへ送ったのであった。そして「ご希望とあれば、寄贈者のお名前を箱の上に印刷して差し上げます」との広告文もつけた。一箱あたりの値段は20マルクであった。一冊当たりにすると20ペニッヒということになるが、この安い値段は19世紀の後半からずっと据え置かれていたのである。ついでに言うと、レクラム百科文庫の人気を逆用して、フランス軍はドイツ軍の指導部やドイツ政府を批判する文章を、レクラム百科文庫の表紙に書いて、ドイツ軍の陣地に投下したという。

携帯用野戦文庫(レクラム)

こうした動きの後1916年になって、「戦地書店」が作られたわけであるが、その許可はたいていは大規模な書店に与えられた。そこで販売された出版物の多くは、やはり戦争に関連したものであった。例えばベルリンのG・ジルケ出版社が長期的に売れ続けるものとして推薦したのは、『三国同盟の刊行物に見る世界大戦の勃発』(30ペニッヒ)であるが、これは10か月で2万6千部売り上げた。また月刊誌の『写真で見る世界大戦』(1冊50ペニッヒ)は1号あたり6万8千部であった。

こうした戦記ものの過剰出版に対しては、すでに大戦勃発直後にも、これを嘆く声が聞かれた。先に「百部刷り」という選ばれた読者向けの豪華本の発行者として紹介したH・v・ヴェーバーは、自分で発行していた雑誌『ごちゃまぜ活字』の中で、そうした書物の内容や質について、手厳しく批判しているのだ。その際彼は一部出版社や書店の金儲け主義を激しく攻撃し、「そうした書店は人々が捜し求めている良質な本を戦地に送るべきなのである」としている。1916年2月のある前線報告にも、「内省的な書物への読書傾向は著しく減っている」と書かれている。

戦争中の書籍販売の実態をもっとなまなましい形で暴露的に紹介したのが、ダダイストのヴァルター・メーリングであった。彼は第一次大戦中の回想録『失われた文庫、一つの文化的自伝』の中で、次のように書いている。「“神われらとともに”とクルップ製の大砲には刻み込まれていた。そして“本を前線に送ろう!”と古典の帯紙に肉太活字で書かれていた。これらの本は、ウールのソックス、救急医療品、戦時チョコレートと一緒に、“野戦郵便-愛の小包”として、わが”勇敢なる若者”のもとに送られたのだ。どの新刊書にも、石炭酸と膿の混じった野戦病院のにおいがしみ込んでいた。そして大本営が戦死者のリストを張り出すように、大出版社は“われらの戦死した作家たちのアンソロジー”を陳列した」

その反面、戦争という特殊な状況の下でかえって人々が読書に目を向けるようになった、という側面があったことも忘れてはならない。このことを実証するいくつかの証言を次に紹介しよう。「戦時中という神経を逆なでするような時期だからこそ、人々は書物の力を借りて、より良きより静かな世界に引きこもる必要性を感じているのだ」、「戦時中、たくさんの兵士だけでなく、一般の人々も読書をすることを知った」、「多くの人々は苦難と危機の時代になって初めて、精神的な道具の価値について目を開いた」、「もし私が自分の本棚の中に1920年代を代表する書物を探すとなると、それは私が第一次大戦中に塹壕の中で過ごした青年時代に読んだ本を取り出すことになろう」、「陣地戦は数多くの新しい読者を生み出した。そして戦争の終わりごろには、いくつかの出版社の倉庫は空っぽになっていた」

これらの証言でも分かるように、長い塹壕戦の続いた第一次大戦の前線で、兵士たちは読書をする時間が十分あったわけである。陸軍中尉として従軍していた出版主のH・ベックは、ある戦地書店でシュペングラーの『西洋の没落』を見つけてこれに注目し、戦後自分の出版社からこの本を出版して大成功を収めたという。

紙の管理統制

戦争は一般的に言って、物の生産に有無を言わせぬ影響を及ぼした。とりわけその影響は戦後になって恐ろしいまでに現れた。出版業界に対しては、紙の管理統制による生産減少が悪影響を及ぼした。製紙に関する統制は、大戦中の1916年6月20日に告示された。そして書物は1920年10月1日まで、新聞は1921年4月1日まで、統制経済の下に置かれた。こうした経済的困難の中で、出版社と書店との間の利害の対立があらわになってきた。そして書籍販売業者は自らの利益を護るために、独立した組織づくりを始めるようになった。こうしてベルリンの書籍商ニッチュマンのイニシアティブによって、1916年5月19日に、「書籍商ギルド」が結成された。これは1886年に設立された出版主協会に対抗する形で作られたものであった。しかしこうした動きにもかかわらず、出版界全体の組織である「ドイツ書籍商取引所組合」は存続した。

出版社と書籍商の間の紛争の主たる対象は、物価上昇に伴うものであった。販売業者としては利益を確保するために、各種の割引を廃止したいと考えた。こうして年間予算が1万マルク以下の図書館に対して、プロイセン文部省が1903年に許可した割引を放棄することに、「書籍商ギルド」は成功した。この措置はドイツの他の地域でも相次いで実行されることになった。

しかし戦争による一般的な物価上昇は、さらに出版業界全体に物価上昇割増金の導入をもたらした。つまり書籍の定価を一定率値上げしたのである。これは大戦末期の1918年春に開かれた「書籍商組合」の総会で決議されたもので、ドイツの書籍販売業界のあらゆる分野に拘束力をもって適用されることになった。ただしこの時はプロイセンの図書館及び官公庁は除いて、10%の割増金が決定された。そして1920年1月になって、この割増金は10%から20%に引き上げられた。ただし専門的な学術書の出版社はこの決定に従わずに、10%の割増率に固執した。このような混乱を経て、この割増率は1920年10月には再び10%に引き下げられた。

第二章 インフレの時代と1920年代

インフレーション

1918年11月に第一次大戦が終了した後も、敗戦国ドイツの物価はじりじりと上昇の一途をたどった。そして通貨暴落の速度は、1922年の後半に入るとどんどん上がっていった。やがて出版界としても書物の値段を、従来の物価上昇割増率では調整することができないほどに、貨幣価値の下落の速度は激しくなった。「書籍商組合」としては、出版物の基本価格を何倍にしたらよいかというキー数字を「取引所会報」に発表することによって、このインフレに対応した。その度合いがいかに激しいものであったか、次に見てみよう。1922年9月13日には、キー数字の倍率は従来の60倍になった。そして12月27日には600倍に、1923年6月21日には6300倍に、8月11日には30万倍に、9月7日には240万倍に、11月20日には6600億倍に、そして11月22日にはついに1兆1000億倍にも達した。この時点になってドルを基軸にしたレンテンマルクが導入されて、これによってこの気ちがいじみた狂乱インフレはようやく終息したのであった。

その2週間後の12月5日には、「書籍商組合」もキー数字による勘定を取りやめることにした。紙屑同然になった紙幣の山を大きなリュックサックに詰め混んで、買い出しに出かけたといわれるほど、ドイツ人の心に暗い影を落とした狂乱インフレではあった。今度はこれを本の値段で具体的に見てみることにしよう。例の人気ナンバーワンの「レクラム百科文庫」は、1867年の創刊以来1917年まで半世紀にわたって、1冊の値段が20ペニッヒに据え置かれていた。それから装丁などを改善して25ペニッヒとなり、この値段がしばらく続いた。ところがインフレの終末期には、その1冊の値段は何と3300億マルクにもなっていたのだ。

この狂乱インフレのあおりを受けて、古くから続いていた名の通った老舗の出版社が、数多く倒産した。またこのインフレのために条件販売取引や委託販売取引がなくなり、出版社との直接取引(しばしば前払いで)が主流となった。いっぽうドイツで出版された書物の外国への輸出は、戦争中はほとんど壊滅状態になっていたが、戦後になって徐々に回復し始めていた。ところがドイツの通貨大暴落によって、書物の輸出は今度は極端なまでに増進することになった。それはバナナのたたき売りよりはるかに悪い、本の投げ売りといった感を呈していた。これによってこの時期ドイツの貴重な書物が洪水のように外国に流出したといわれている。

この頃(1923年=大正12年)ドイツに留学していた日本人の学者や本好きのパトロンが、ドイツ語の貴重な文献資料や出版物の数々を、ごく安い値段で大量に日本へ持ち帰ったというエピソードがいくつも残っているぐらいなのだ。

その後の出版業界の動き

さしもの狂乱インフレも1923年末の「レンテンマルクの奇跡」によってぴたりと終息し、ドイツの社会も1929年末の世界大恐慌の発生まで、つかの間の安定期を迎えた。1922年ライプツィヒの出版主ローベルト・フォークトレンダーの提唱によって、書籍取引の根本的な合理化措置として、「書籍商精算協同組合」なるものが設立された。しかし発足早々に狂乱インフレの強烈な打撃を受けて、この組織もしばらくは開店休業の状態に陥った。とはいえ経済情勢の安定化に伴い、この協同組合は徐々に活動を再開し始めた。これは清算取引を中央に集中することによって、簡素化することを狙ったものであった。従来は数多くの出版社とその得意先の間で、個別的に勘定取引が行われていた。それを一つのセンターに集めて、請求業務と支払い業務を行い、同時に配分比によって受け取り手に渡すというものであった。このようにして数多くの帳簿記入をやめて、一回の帳簿記入で間に合うようになったのである。この「書籍商精算協同組合」は、1842年のフライシャーによる「ライプツィヒ注文センター」と同じ考えに基づくものであった。

いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」は1923年に、宣伝広告部門を作った。そしてその二年後の1925年には、組織内部の争いや経済的困難にもかかわらず、その創立100周年記念行事を大々的に祝うことができたのである。またG・メンツ博士によって、ライプツィヒ商科大学内に、書籍取引経営学講座が作られた。さらに狂乱インフレによって吹き飛んでいた書物の定価制度も、その後の安定期に再び採用されるようになっていった。そして1928年には、9000の書籍販売業者と1100を超す出版社の間の取り決めや「書籍商組合」の新しい規約の導入などによって、ドイツの出版業界は再び新たな基盤を獲得した。しかしそれは社会や文化の他の多くの分野と同様に、ドイツの出版業界にとっても、「つかの間の安定期」にすぎなかったのである。

1929年末の世界大恐慌の影響を受けて、売り上げ減少と資本不足、大幅な生産減退と支払い不能といったもろもろの事態に、ドイツの出版業界も陥った。こうした困難は、諸官庁の文化予算の大幅な削減措置によってもたらされた面も少なくない。「書籍商組合」はこうした措置に対して何度も抗議を行ったが、効果はなかった。

出版人養成機関

1920年代の初め、専門的な職業機関としての出版人の養成機関設立の動きが活発になった。これは当初、世紀転換期の代表的出版人の一人であるオイゲン・ディーデリヒスの働きかけによって動いた。その目的は将来の出版人を育てるための職業訓練を、出版界内部の独自の機関で行うというものであった。彼がこれを思いついたのは当時盛んとなっていた青年運動であったというが、何よりも戦後ドイツの出版界が陥っていた窮状が、ディーデリヒスを動かした原動力であった。

1923年、ディーデリヒスは「取引所会報」に一つのアピールを発表したが、それは『変わらねばならない。ドイツ出版界への挑戦状』というタイトルのものであった。これに対する具体的な反応として、ラウエンシュタインで第一回の会議が開かれた。その後の動きは順調で、やがて出版人の養成機関「ユング・ブーフハンデル」が設立された。その活動は多岐にわたっていたが、新人に対して集中的な職業訓練をまず施した。それは夏の合宿コースや職能向上のためのもろもろの研修などであった。今日のドイツではこうした職業訓練や研修は当たり前のことになっているが、当時としては新しい試みであったのである。そしてこうした職業訓練の法制化の考えが、1927年に「タウテンブルク決議」の形で採択されたのであった。しかしこの未来の出版人の養成所は、1933年ナチス政権の誕生とともに幕を閉じることになった。

ブッククラブ

ドイツでは第一次大戦後になって大きな社会変動が起こり、戦前の中流市民階層が没落し、貧窮化することになった。この市民階層こそは書物の潜在的な読者であったのだが、戦後はこの階層の人々にとっても書籍は高いものになった。こうした変化に応じて勢いを増してきたのが、「ブッククラブ」の制度であった。これは出版社が本の買い手を会員の形で確保し、その会員に一般の定価より安い値段で、選定した出版物を届けるという制度である。

この「ブッククラブ」は第一次大戦後に初めて現れたものではなく、その最も初期の形態は1872年に生まれている。この時はクラブの経営者は書籍販売業者と提携したが、出版社側からは激しく攻撃されたという。次いで1891年には、労働者の教育向上の観点(”知識は力なり”とか”書物を民衆に!”といった掛け声とともに)から、「書物の友の会」というものが作られた。その後出版社の中にも、ブッククラブに関心を示すものが出てきた。例えばフランク出版社は自然科学の知識を国民に普及させることを目的に、ブッククラブ「コスモス」を設立した。さらに1916年には「ドイツ店員同盟」が、「ハンザ出版協会」と提携して、「ドイツ国民文庫」を創設した。これらの組織はすべて、労働者や手工業者、店員といった一般民衆の成人教育を狙って作られたものであった。

ところが第一次大戦後に生まれたブッククラブの会員には、いま述べた下層の人々だけではなくて、戦争とインフレで貧乏になった市民階層も含まれるようになった。いっぽうでは戦前の古き良き時代の出版人であったS・フィッシャーのように、20年代の半ばに「書籍市場における異常な静けさ」(1926年)を口にする人もいた。フィッシャーはさらに次のようにも言っている。「人々はスポーツをしたり、ダンスをしたり、夕べともなればラジオを聴き、映画館に行く。仕事のほかに人々がすることは沢山あり、本を読む時間などありはしないのだ。」

たしかに第一次大戦後、ドイツは大衆社会化し、人々の生活行動も戦前に比べてはるかに多様化した。しかしだからといって人々が全く本を読まなくなったのではなくて、実際には読書の形態も書籍販売の形態も多様化したのであった。その一つがここで取り上げているブッククラブというわけである。1924年にライプツィヒに「本のギルド・グーテンベルク」が、ベルリンに「ドイツ書籍協会」の二つが設立された。前者は元来印刷工見習い組合が作ったものである。次いで1925年には「福音派ブッククラブ」と「ボロモイス協会ブッククラブ」が、1926年には社会主義的傾向の「ビュッヒャークライス」が、そして1927年には「ドイツ・ブッククラブ」が生まれたのである。ブッククラブは元来会員に対して、配給するすべての本について予約購読制をとっていた。しかし先の「ドイツ書籍協会」の場合は、提示した本の中から年間70~80点を選ぶことができた。また「福音派ブッククラブ」の場合は、会員以外にも、値段を高くして、一般書店を通じて提供していた。

学術図書館への財政援助

第一次大戦を通じてドイツは諸外国と各方面で交流を欠くことになったが、外国書の文献もこの間ドイツに流入しなくなった。そのためこうして生じた外国語文献の調達を図ることを目的として、F・S・オットーのイニシアティブによって、1920年に「ドイツ学術支援組織」なるものが創設された。その基本理念は「世界中で出版された学術図書の中の重要なものは、ドイツ国内のどの図書館にも少なくとも一冊は備えておくべきである」というものであった。つまりどんな地域に住んでいる人にも、そうした書籍文献に容易に接することができるように、という分散的収集の考え方なのであった。

と同時に図書館相互間の貸出交流の活性化も図られた。この考え方のモデルは、二十世紀の初めにアルトホフがプロイセン学術図書館のために実現したものであった。「ドイツ学術支援組織」は1920~1932年の間、各地の図書館の外国書収集のために、総額870万ライヒス・マルクを支払った。そしてその調達に当たっての実際の業務は、国立図書館交流機関と共同で行った。

ところが1929年の世界大恐慌のあおりを受けて、「ドイツ学術支援組織」の予算は削減され、やがて全面的に撤廃されることになった。その結果、例えばテュービンゲン大学では、1931年には一度に530種類の雑誌が削られ、その続きのものは当分の間調達されないことになったのである。一般に文化予算は経済危機の時代には真っ先に削られる傾向があるが、この時の措置もまさにこの原則が当てはまったのである。この経済危機の時代、ドイツでは出版社や書店の多くが倒産した。このことは『書籍取引所会報』に、出版社などの和議や破産申請が、再三再四にわたって、掲載されたことからも分かるのである。

水が豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~前編

はじめに

2024年4月1日(月)から9日(火)まで、ドイツ旅行をしてきた。今回は目標を首都のベルリンとその周辺のブランデンブルク地方を見て回ることに定めた。
まずベルリンでは、この10年ほど会えなかったニコライ出版社の社長ディーター・ボイアーマン氏に再会することにした。彼は、20数年前私が『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』という著作を刊行するにあたって、大変お世話になった人物なのだ。
その後ブランデンブルク地方を少しばかり旅したのだが、そのきっかけは昨年5月のドイツ旅行の際、ふとしたことからベルリン北部のオラーニエンブルクという小さな町を訪れ、そこで手に入れた ”Die Mark BRANDENBURG”
(ブランデンブルク辺境地方)という雑誌数冊の記事に触発されたことであった。この雑誌はこの地域を対象に、その歴史、地理、文化、産業などを広く扱っているが、毎号テーマを決めて、豊富なカラー写真を取り入れて、非常に詳しく、しかも一般の人にも分かりやすく解説している。

その中の一冊に「誰がわれわれのためにdie Mark(辺境地方)を発見したのか。作家、芸術家、学者」というタイトルのものがあり、その第一に19世紀の著名な作家テオドール・フォンターネが取り上げられている。この作家は日本ではドイツ文学者によっていくつかの小説が翻訳されており、『新集。世界の文学 12
フォンターネ』で、その人物が紹介されているが、私が注目したのは『マルク・ブランデンブルク周遊記』である。そのドイツ語版は5巻にも及び、分厚いので研究者がまとめたドイツ語の縮刷版を、私は手にいれて読んできた。そしてその記述に基づいて私は今回二・三の地域を旅して歩いたわけである。

日本では一般にベルリン市の中央に立ち、テレビニュースなどでもよく出てくるブランデンブルク門とか、クラシック音楽のファンならば、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を通して、ブランデンブルクという名称を知っているぐらいだろう。

現在ブランデンブルクはドイツ連邦共和国の16の州のひとつであるが、その州都は首都ベルリンのすぐ西隣のポツダム市である。地理的には北ドイツ一帯に広がる広大な平野の一部で、おおざっぱに言って西はエルベ川、東はポーランドとの国境をなしているオーデル川にはさまれた地域である。それらの支流を含めて幾多の河川や運河が流れ、また大小無数の湖が点在するなど、豊富な水に恵まれた地方だといえよう。

     

ドイツ東部の地図
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24「ドイツ全図」
から)

今回の旅ではそのうちの二・三の地方を見て回っただけであるが、それらの地域のささやかな個人的な印象を以下に記すことにしたい。

第一日 4月1日(月)曇り
羽田からフランクフルトへ

次男が運転する車に私と見送りの家内も乗り、羽田空港に午前9時半ごろ到着。ルフトハンザ航空の受付けにトランクを預けてから、海外旅行保険を契約。その後しばらく次男と家内と歓談した後、搭乗口へ向かう。荷物検査は簡単だった。機内は満席で、両翼の上あたりの通路側の席に座る。予定より30分遅れて午前11時15分出発。飛行機は北東方向に飛ぶ。座席向かいの画面で、映画や音楽を視聴したり、コンピュウター相手にチェスの対局を楽しんだりする。相手は指し手が速く強いが、一局勝つことができた。やがてベーリング海峡を抜け、北極海上空に入ったが、グリーンランドの白い氷山の連なりが印象的。14時間の滞空時間はやはりものすごく長く、狭いエコノミークラスの座席に座っているのは、苦痛だ。
やがてノルウエー上空からデンマークを通り、ドイツに入ってフランクフルト空港に到着した。入国審査にかなり時間がかかったが、その後荷物はすぐに受け取り、出口に出る。そこでドイツ在住の長男哲也の出迎えを受け、一緒に迎えのマイクロバスでNH空港ホテルへ移動した。外はうすら寒く、まだ冬だ。ホテルに入りチェックインしたが、受付には復活祭のウサギのぬいぐるみが飾ってあった。ドイツでは先週金曜の受難日から本日月曜まで4日間、復活祭の祝日なのだ。また昨日の日曜(3月31日)から夏時間となり、日本との時差は7時間になった。
長男は今回の旅に同行するのだが、私のために往復の航空券やホテルの予約、鉄道の切符などの手配をすべてやってくれた。一息ついてから、長男が私の部屋に来て、今後の予定について相談した。

第二日 4月2日(火)曇り・小雨
フランクフルトからベルリンへ

ホテルで午前6時ごろ起床。昨日の長旅で疲れてはいたが、いつものように夜中に3,4回目が覚め、トイレへ。7時20分長男とともに、一階の朝食会場へ。セルフサービスだが、朝食中、窓から大きな飛行機がすれすれに飛行するのを目撃。8時15分チェックアウト。ホテルのバスで再び空港へ。そしてSバーン(電車)でフランクフルト中央駅へ移動する。時間があるので、構内ラウンジでゆったりドイツ語の新聞を読みながら、休憩。
そしてプラットフォームの先端の場所で10:13発のICE(特急)を待つ。かなり遅れて列車は到着したが、ドイツでは珍しくはない。指定席に座って、やがて列車は悠然と出発した。フルダを経由して、ドイツの「心臓部」と呼ばれるチューリンゲン地方を西から東へそして北東へと移動。つまりアイゼナハ、ゴータ、エアフルト、ワイマールからハレを通ってベルリンヘ向かうのだ。地図を広げて確かめながら、車窓の景色を楽しんだ。

車中で地図を広げている私

途中風力発電用の風車や太陽光パネルをたくさん見る。そして列車は南からベルリン中央駅の地下フォームに15時15分に到着した。中央駅から、去年の旅でも利用したU5の地下鉄に乗り、マグダレーナ駅で下車。広々とした大通りを歩いて、
NHBerlinCityOstホテルに入る。中央駅から東へ向かい13の停留所で20分という便利さだ。NHホテルはドイツ全国にあるチェーン組織のホテルだが、ベルリン中心部にある店はやはり高く、割安のここのホテルを長男は予約したわけだ。去年の5月も今年もユーロに対して円安で、何かと節約しなければならないのだ。
チェックインして、一休みしてから隣のイタリア料理店で昼と夜の中間の食事をとる。その後近くのスーパーに入り、家内に頼まれたドイツの日常品や土産物を買う。
長い空の旅とその後の鉄道旅行で、やはり体は疲れていたので、明日の準備をしてから早めにベッドに入る。

第三日 4月3日(水)曇り・小雨
「ニコライ・ハウス」訪問

朝6時半起床。7時テレビニュースを見る。7時半長男と一緒に一階の食堂へ行き、朝食をとる。セルフサービスだが、席はゆったりとしていて、食事をしながら長男と8時過ぎまで歓談する。9時ホテルを出て、曇り空で寒々とした中、地下鉄に乗り、都心部の「博物館島駅」で下車。ウンター・デン・リンデン大通りを横切り、かつてのプロイセン王国のベルリン王宮の外観を再建したフンボルト・フォーラムの横を歩いて9時半過ぎ、「ニコライ・ハウス」に到着した。ニコライ出版社の社長ボイアーマン氏(Beuermann)と、ここで会う約束をしていたのだ。約束の時間よりやや早く着いたが、建物の中でしばらく待つ。

やがてボイアーマン氏が現れ、10年ぶりの再会を果たす。まずは館内で記念の写真を撮る。

ボイアーマン氏と私の二人の写真

次いで「ニコライ・ハウス」の館長をしている女性のショイアーマン((Scheuermann)さんが現れた。7,8年前に館長に就任したという彼女とは初めての出会いであったので、自己紹介を兼ねて、二十年ほど前に刊行した『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』を献呈した。それから日本からの土産として能の舞扇をプレゼントした。

舞扇を広げて見ているショイアーマンさん

ボイアーマン氏には同様の舞扇と観世流の能楽師の舞台写真のカレンダー及び能楽に関する英文の本を贈呈した。そして自分が趣味として能楽関連の謡曲を習っていることも説明した。

その後館長のショイアーマンさんが、「ニコライ・ハウス」の内部を案内してくれることになったが、その前に建物の正面に出て、ブリュダー街13番地のこの家がたどってきた歴史的経緯を説明してくれた。この建物にニコライの名前がついているのは、18世紀の成功した出版業者で作家のフリードリヒ・ニコライが1787年から死亡した1811年まで住んでいたことによるのだ。この場所は旧プロイセン王国のベルリン王宮のすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人々や馬車で大変賑わっていた。1730年に王国の大臣によって建てられた大邸宅をニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そして晩年の24年間を過ごしたこの邸宅は、当時ベルリンの精神的な中心の一つであり続けた。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたという。
ニコライ死亡の後には、この建物は別人のものになったが、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。第二次大戦では部分的に損傷を受けたが、大したことはなく、東独時代には党の事務所として使われていたという。

建物正面前での記念写真(ボイアーマン氏、ショイアーマンさんと私)

正面の壁に貼られたニコライ顕彰板。この家にはフリードリヒ・ニコライ(1733年3月18日-1811年1月8日)が、1787年からその死亡まで住んでいた。この作家、歴史家、批評家、出版業者は「ベルリン啓蒙主義」の代表的存在である。

実は私がこの建物を訪れたのは初めてのことではなく、1999年にボイアーマン氏が連れて行ってくれていたのだ。その時のことは私の研究書『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(2001年2月、朝文社)の中に書き込むことができた(190頁~192頁)。その時建物の内部もざっと見せてもらったが、かなり荒れた感じで、この時点ではまだ内部の整備が十分ではなかった、という印象を私は抱いていた。
その後2011年に「ドイツ文化財保護財団」が、「ニコライ・ハウス」の管理を引き受けたという事で、その頃から建物の外装や内装を修復する作業が急速に進んだようだ。

さてショイアーマン館長はその後、建物の中の案内をしてくれた。一階入り口から二階へ上がるときの木製階段はニコライが住んでいた時に使用していたものだが、その後部分的に損傷があったものの、今では立派に修復されている。

修復された見事な手すりつきの木製階段

その階段を上がって広々とした部屋に案内されたが、そこでは時折ニコライにちなんだコンサートや朗読会が開かれているという。例えば昨年2023年3月18日には、ニコライ生誕290周年を記念した講演会と音楽会が開かれている。このイベントはニコライ・ハウス友好協会の会長でもあるボイアーマン氏が主催しているのだ。私の本にも書いたことだが、ニコライは大の音楽好きで、その最良の歳月には自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身ヴィオラを演奏することもあったという。

さらに二階には大きな会議室もあり、その隣にはニコライ関連の主な書籍を陳列した小型の図書館があった。その中央には彼の主要業績の一つであった『ドイツ百科叢書135巻』のオリジナル本が飾ってあった。またニコライの胸像も見えた。

ニコライ関連の展示品。『ドイツ百科叢書』とニコライの胸像

「ニコライ・ハウス」の中庭

そのほかニコライ関連で様々なものが、あるいは壁面に、あるいはガラス・ケースの中に展示されていた。例えばニコライが『南ドイツ旅行記』を書くための取材旅行で使用した馬車と距離測定器の細密画など、私の本の中でも使わせてもらったものが目に留まった。さらに二階のいくつかの部屋から部屋へと巡り歩いていた時に窓の外の中庭の景観が見えたが、後で階下に降りた時に実際に歩いて見た。

こうして「ニコライ・ハウス」の案内は終わった。この建物について書くことはまだまだたくさんあるが、きりがないのでこの辺にしておきたい。

その後ボイアーマン氏の案内で、ショイアーマンさん、私そして長男が、近くのフンボルト・フォーラムの中のレストランに招待され、昼食をとりながら、さらに歓談を続けた。そしてお二人には別れを告げ、ベルリン市内を遊覧船で見て回るために、長男と私は近くの船着き場に向かった。

ベルリン・ウンター・デン・リンデン周辺
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24。300頁)

この地図をご覧になっても分かるように、私たちがいた「ニコライ・ハウス」は、ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)のすぐ近くにある。そしてシュプレー川をはさんで反対側にあるニコライ地区はベルリン発祥の地域といわれ、東独時代の1980年代から注目されるようになった。そして1230年建造のニコライ教会を中心とした地域にはいくつかの由緒ある料理店やカフェが復活し、その流れは統一後に加速され、今では観光客もたくさん訪れる地区になっている。私はドイツ統一後の早い時期に、このニコライ地区に行き、有名なレストランで食事をしたことがある。

またベルリン王宮について一言付け加えると、この旧プロイセン王国の王宮は、18世紀初頭に建造された。そして第一次大戦後に王国が消滅した後も存続していたが、第二次大戦末期の空爆で被害を受け、戦後東独政府によって取り壊された。そしてその跡地に「共和国宮殿」と称するガラス張りの建物が作られた。その後ドイツが再統一された後は、空き家になっていた。ところがやがて昔の王宮を再建すべしという保守派の声が上がり、それに反対する革新勢力との間で議論が起こり、一般市民へのアンケートも行われた。その結果、妥協策として、王宮のファサードや中庭の一部が復元されたが、その内部は博物館ないしギャラリーとして使われることになった。そしてその名称も、19世紀前半に活躍した知識人フンボルト兄弟の名前にちなんで、「フンボルト・フォーラム」となったわけである。

いっぽう「ブランデンブルク」という名称は、12世紀に、東方植民を進める中で神聖ローマ皇帝が成立させた「ブランデンブルク辺境伯領」という領邦に起源がある。そして15世紀の1415年以降、元来南ドイツ出身のホーエンツォレルン家の領土になった。またドイツ騎士団の団長が新教(ルター派)に改宗し、領地を世俗化して「プロイセン公国」を作り、1618年、ブランデンブルク選帝侯国と合併して、同君連合を形成した。そして17世紀後半、実力者の大選帝侯のもとで、大いに実力をつけ、その息子が1701年プロイセン公国を王国に格上げした。やがてフリードリヒ2世(大王)の時、ヨーロッパの列強の一角を占める強国となった。その後19世紀の後半には宰相ビスマルクの時、ドイツを統一して、1871年プロイセン王国を中核にした「ドイツ帝国」ができあがったわけである。それ以来その首都のベルリンは、ヨーロッパ有数の大都市に成長したのであった。

シュプレー川遊覧船

歴史の話がやや長くなったが、長男の案内で私はニコライ地区の川べりにある遊覧船の乗り場に着いた。シュプレー川遊覧船は冬季には運休していたが、3月末の復活祭の祝日から運航を開始した。私たちはStern(シュテルン社)の船に乗ることになった。往復1時間半のコースで、値段は約22ユーロ(3630円)だ。

コースはベルリンのど真ん中(中心街)の北側に沿っている。これまで陸の側から見てきた建物をおおむね裏側から見るわけだ。出発点はベルリン発祥の地であるニコライ地区である。それでは往復1時間半の船旅で、私が注目した場所を写真で紹介していくことにしよう。最初の橋をくぐると左側にベルリン大聖堂が見えてくる。大聖堂を横から見たのが次の写真である。

ベルリン大聖堂のアップの写真

大聖堂を過ぎたあたりで、反対側を走る遊覧船が見えた。

反対側をすれ違った遊覧船

大聖堂の後、二本の川に挟まれた先端の地点に立つのがボーデ博物館だ。

ボーデ博物館
(博物館島の先端に立っている)

そこを過ぎ2本、橋をくぐったところにSバーン(電車)のフリードリヒ・シュトラーセ駅が鉄橋の上にかかるようにしてあるが、ちょうど電車が停車していた。この駅は冷戦中、ドイツ(ベルリン)が分断されていた時、東側にあり、西ベルリンから東ベルリン地区に観光客などが訪れる時、この駅の改札口に検問所があった。24時間滞在できるビザをその場で発行してもらって、私は二・三度東ベルリン地区に入ったことがある。検問所での検査は極めて厳しかった。西側の新聞雑誌や本などは持参できなかった。それはもう30年以上前のことなのだが。

フリードリヒ・シュトラーセ駅に停車している電車

その先1本橋をくぐると、左側にドイツ連邦議会議事堂が見えてくる。私はこの建物に去年5月に入ったが、その裏側から見るのは初めてだ。

ドイツ連邦議会議事堂を裏側から見たもの

それから2本橋をくぐると、右側にベルリン中央駅が見えてくる。川の側から見るのは初めてだ。

ベルリン中央駅をやや離れた地点から見たもの

中央駅の先、左側に広大なティアガルテンの公園が広がっている。その途中で船はUターンして元のニコライ地区の船着き場に戻った。あいにく曇りから小雨模様になってきたので、それ以上町中を見て歩くのはやめて、地下鉄に乗り、ホテルに戻って休息をとった。そして午後7時、長男が私の部屋にやってきて、サンドイッチをぱくつきながら、明日の行程の打ち合わせをした。

第四日 4月4日(木)晴後小雨
シュプレーヴァルトへの日帰りの旅

6時過ぎ起床。7時朝食。8時、ホテルを出て、最寄りのSバーン(電車)の駅まで歩く。そして一つ目のオストクロイツ(Ostkreuz)駅で、コットブス行きの列車に乗る。ちなみにベルリンには戦前から周辺を取り巻くようにして環状電車の路線ができていた。オストクロイツというのはその環状線の東側で、ほかの路線と交差する要衝の駅という意味である。同様にして南にはズュートクロイツ駅そして西にはヴェストクロイツ駅がある。ただ北のノルトクロイツ駅というものはない。

列車はベルリンから南東部に広がる湖沼地方のシュプレーヴァルト(Spree-wald)を通って、コットブスへ走っていった。この辺りはベルリン市内を蛇行しているシュプレー川の上流地域に当たっている。その中心の町リュッベナウ(
Luebbenau)を過ぎたあたりから駅名にドイツ語とヴェンド語が併記されているのに気づいた。ヴェンド語はこの辺り一帯にかなり昔から住んでいる西スラブ系の少数民族ヴェンド人の言葉なのだ。たとえばドイツ語のRadduschとヴェンド語のRadusが併記されているのだ。

コットブス駅のプラットフォーム

やがて終点の駅コットブス(Cottbus、ヴェンド語でChosebuz)に到着した。見た所、普通の東部ドイツの中都市の駅である。駅は市の南に位置しているが駅前に市電が走っていて、旧市街に通じている。早速その市電に乗り込み、10分ぐらいで旧市街の中央広場(Altmarkt)で降りる。そしてその一角にある聖ニコライ教会に入る。14世紀に建立された後期ゴシック様式のレンガ造りの教会だ。この辺りはニーダーラウジッツ地方と呼ばれているが、この地域最大の教会だそうだ。教会の塔は55メートルあり、塔の上からは緑豊かなコットブスの町が素晴らしい眺めだと、案内書には書いてあるが、歩いて石段を上るのは苦痛なので、やめておく。その代わりに教会の内部をゆっくり見て歩く。星形の丸天井、説教壇、雪花石膏をちりばめた主祭壇など、見事なつくりだ。

聖ニコライ教会の外観

教会を出てから旧市街の東側を流れるシュプレー川を捜して、町中を動き回る。地図を見ながら歩いたのだが、やがて川にたどり着いた。平らな土地をゆっくり流れているが、川幅は狭く、あまり見栄えはよくない。しかし、いたる所木々の緑に覆われていて、散歩するには向いていて、穏やかな気分になれた。

緑に覆われたシュプレー川

その後狭い石畳の道を歩いて、旧市街の中ほどにあるヴェンド博物館に入った。この狭い旧市街には、そのほか市立博物館、ブランデンブルク薬事博物館、シュプレー技術博物館などいろいろ案内書には書いてあるが、時間がないのでこのヴェンド博物館だけを見ることにする。

ヴェンド博物館の外観

入り口から入って受付で料金を払い、荷物をロッカーにしまう。するとすぐ近くの場所で動画が流れていて、席に座ってしばらく見ることにする。ヴェンド人の若者が激しく動いて伝統的な踊りを踊っている。それから美しい民族衣装に身を包んだ男女の若者が、互いに手を組んで歩いていく場面が続いた。女性は白く大きな帽子をかぶり、真っ白で透明な衣装に、赤、緑、黄色など鮮やかな色の帯を締めている。男の方は皆、黒いスーツに山高帽をかぶっている。

華麗な衣装のヴェンド人男女による踊り

そのあとガラス・ケースの中や、壁に貼った展示物などを見て歩いたが、そこにはヴェンド人の風俗習慣や独特の歴史や文化などが、様々な形で紹介されている。その中にはヴェンド語で書かれた聖書もあった。それから19世紀、20世紀のヴェンド人の学者、作家、知識人も紹介されていた。それらの展示は詳しすぎるほどで、丁寧に読んでいくにはとても時間が足りない。ただ、ちょうど復活祭の時期だったので、それに関連して、色とりどりの卵を作っている写真や、実物の卵が売り物として置かれていたのが印象的であった。聞けばヴェンド人は昔から復活祭の卵作りに、熱心に取り組んでいるとのことだ。

彩りの美しい復活祭の卵

ここで案内書に従って、少しばかりコットブスの歴史を紐解くと、シュプレーの周辺には西スラブ系の民族が住んでいて、すでに8世紀には定住の集落があったという。そして1156年にはドイツのシュタウフェン朝によって、一人の城市の司令官が任命されたという文書が残っている。また13世紀にはシュプレー川の渡河地点に商人の集落がつくられた。1405/06年以降、織物業やリンネル織物業があったことが文書によって知られている。そして1701年にフランスから移ってきたユグノー(新教徒)によってもたらされた絹紡績業が、今日の繊維産業の基礎を築いた。
いっぽう17世紀前半の三十年戦争(1618-48年)による事態の急激な悪化は、世紀後半、大選帝侯の努力によってかなり埋め合わせがなされた。そして1726-30年に、新しい市街地が建設された。その後第二次大戦後の東独政権の下1952年に、コットブスはこの地域の中心都市となった。さらに再統一の1990年10月3日以降、ブランデンブルク州第二の都市になった。

なお入手した資料の中には、Wende(ヴェンド人)のほかに、Sorbe(ソルビア人)とも書かれていて、この二つの言葉は、西スラブ系の二つの少数民族のことが混同して用いられているようだ。

このヴェンド博物館にはもっと滞在したかったが、次の予定地のリュッベナウに移動するために時間がなく、やむなく博物館を後にする。そして近くのレストランで食事をしてから、再び市電に乗って鉄道のコットブス駅へ移動する。こうして元来た路線を戻るようにして、シュプレーヴァルトの中心の町リュッベナウ(Luebbenau)へ移動した。

駅前は閑散としていて、町の中心地まで小雨の中を歩いていく。うすら寒くなってきて、徒歩は快適ではない。やがて商店などが立ち並ぶ中心街にたどり着いたが、復活祭の過ぎたただの週日で、しかも雨ふりのせいか人々の姿があまり見当たらない。ここは水郷で観光地なのだが、今日は船着き場は雨のため閉鎖されていて、小舟は運航していない。

小舟の乗り場には運航停止の表示。船にはシートがかぶされている

代わりにシュプレーヴァルトの絵葉書によって、小舟に乗ってシュプレー川遊覧を楽しんでいる様子を、次に示しておく。

シュプレー川遊覧船で楽しむ観光客(絵葉書)

船に乗れなかったので、周辺を歩いていると、「シュプレー川の自然景観保存館」が目についたので、中に入ってみる。川や湖、森や林、そこに生息する動物や鳥たちや植物などを、いかに保護していくかという事が、様々な具体的な展示で説明されている。

この地方の女性の民族衣装

同時にこの地域の自然の、時代による移り変わりについても説明されている。

シュプレーヴァルトの自然の移り変わり

19世紀後半に活躍したドイツの作家テオドール・フォンターネは、前にも述べたように、マルク・ブランデンブルク地方を旅して歩き、「周遊記」を書いたわけだが、もちろんシュプレーヴァルト地方も訪れて、詳しい紀行文を書いている。その分量はかなりのものになるが、少数民族ヴェンド人についても詳しく触れている。フォンターネの時代にはまだ一般の人々が観光して歩く習慣がなかった。フォンターネはこの地域を動き回るにあたって、知り合いの有力者が雇った専用の小舟に、数人の仲間と一緒に乗っているのだ。そして詳しい紀行文を遺しているわけだが、「マルク・ブランデンブルク周遊記」は、ドイツ語版で5巻に及ぶ大著なので、その中身を簡単に紹介することはできない。自分としてはその縮刷版を読んで、旅の参考にしているわけである。

天気さえよかったら、このシュプレーヴァルトをゆっくり船で遊覧したかったのだが、それが叶わなかったので、日が暮れないうちにベルリンへ戻ることにした。

なおこのシュプレーヴァルト訪問をもって、今回の旅行記の前半は終わりにして、残りの4月5日以降の後半の予定を記しておく。5日(金)は、ベルリン市内のフォンターネの墓を訪ねた後、ポツダムのサン・スーシー公園内の新宮殿へ移動する。6日(土)には、ベルリン北西部にあるフォンターネの誕生の地ノイルッピンへの日帰り旅行をする。そして7日(日)には再びポツダムへ行き、ハーフェル(Havel)湖の遊覧船に乗ることにする。

ドイツ近代出版史(5)~1887/88-1914~

第一章 書籍出版販売界の大改革

投げ売りとその防止策

ドイツの書籍出版界全体の公の組織として1825年に「ドイツ書籍商取引所組合」が作られたが、その後も書籍販売の面では書籍の投げ売りという事が大きな問題として存在していた。これに対しては幾多の防止策が試みられたが、どれもたいした効果を上げることができなかった。それどころか出版のメッカ、ライプツィヒやベルリンでは19世紀の後半になってから、かえって投げ売りは激しさを増してきたのである。割引価格を示したカタログ広告によって、地方の書籍販売業者はますます経済的苦境に陥るようになり、事態は深刻の度合いを深めていた。

地方レベルではすでに19世紀前半に、投げ売り防止の監視機関としての地域組合ができていて、地域的にはそれなりの効果を挙げる所もあった。そしてこの地域的に実施されてきたものを、全国一律にどこにでも通用するような商習慣にせよとの要求が、1870年代になって強まってきた。1876年には「書籍販売者連盟」の委託を受けて、『その支配的慣習に基づくドイツ書籍業界の基本秩序に関する草稿』というものが世に出された。そしてその二年後の1878年には、投げ売り防止のために、多くの出版業者がアイゼナハに集合した。こうした動きを見て全国組織の「書籍商取引所組合」も行動することを決心した。そしてそのイニシアティブで、同じ年の秋にワイマールに会議が招集された。そこで人々は、当時その数を増し、その連合会へと結集するようになっていた地域組合の基盤の上に立って「書籍商取引所組合」を改革することを話し合った。

「書籍販売者連盟」では、定価制度の確立をめざしたもろもろの規定を定めていた。そしてその連盟の会長から出版社に対して1882年、投げ売り業者への割引を減らすか、もしくは全く取引をしないようにとの要請が出された。この要請には484軒の出版社が応じた。

クレーナー改革

A. クレーナーの肖像

「書籍商取引所組合」の側でこの問題に対するリーダーシップをとったのが、その会長を務めていたアドルフ・クレーナー(1836-1911)であった。彼はすでに1878年のワイマール会議にも出席して、人々の注目を集めていた人物である。クレーナーは1859年に南西ドイツのシュトゥットガルトに出版社を創立した。そして1889年には老舗の大手出版社コッタ社を手に入れ、翌年にはウニオン・ドイツ出版社を創立した。これから述べる「書籍商取引所組合」の改革は、彼の名前をとって一般に「クレーナー改革」と呼ばれているが、その10年にわたる会長としての任期(1882-1892)中の1888年に、ライプツィヒに新しい「書籍商取引所組合」の会館が建設されている。

書籍商取引所組合の新館(1888年設立)

さてクレーナーは、投げ売りを防止するために定価制度を導入する過程で、ドイツの書籍業界にそれまでいろいろ存在していた組織を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することに成功したのである。彼は1887年、「書籍商取引所組合」の総会を、フランクフルト・アム・マインに招集した。これは投げ売り業者がたくさんいたライプツィヒやベルリンを意図的に避けることによって、かれらの反対をかわすためであった。

そしてこの総会で彼は、一連の提案を行った。それは書籍商同士の交流ならびに書籍商と読者との交流に関する一般的な基準を確立することと、市町村組合及び地域組合並びに出版業者連盟及び書籍取次業者連合を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することであった。このフランクフルトの総会では、全く抵抗がなかったわけではないが、結局クレーナーの政治力によってその提案は受け入れられ、以上のことを定めた新しい規約が、翌1888年の春から効力を発することになった。

この中の最も重要な規定の一つとして、投げ売り防止のための定価制度の確立に関するものがあった。ドイツのほとんどの出版業界の団体が「書籍商取引所組合」の傘下に入ったため、会員である書籍業者としては定価制度を守らなければならなくなったわけである。これによって悪名高い投げ売りは事実上終末を迎えた。このクレーナー改革によってドイツの出版業者は大同団結し、力を合わせて業界の利益と繁栄のために尽くすことを誓い合ったのである。やがてスイスの書籍商組合の定款も、ドイツの書籍商取引所組合の規約に合わせて改訂された。そしてスイスの書籍商組合の会員は、1922年までドイツ書籍商組合の会員になることが義務付けられた。またオーストリアの書籍商組合の規約も、ドイツのそれに適合するように改訂された。

定価制度をめぐる争い

クレーナー改革によって書籍の定価制度は確立したわけであるが、1888年に発効した「書籍商取引規約」をよく読むと、割引の実施に当たって地域組合にはなおある種の逸脱の余地が残されていたのであった。そのため改革から十数年をを経た1903年の初めになって、「書籍商取引所組合」は地域組合と取り決めた販売規定の中で、原則として顧客に対する割引は撤廃するが、現金払いの時だけなにがしかの割引を認めるという考え方を示した。そして具体的な取り決めとして、現金払いの際の割り引き率を、一般個人客には2.5%、官庁に対しては5%認めることになった。

ところがこの時、この程度の割引率では「不十分である」という声が、大学関係者の間からあがってきた。それは「書籍商取引所組合」へのドイツの出版業界の権力集中に抵抗して、書物の著作者と買い手の利害を護るという基本的な立場からなされたものである。そのためドイツ大学学長会議は1903年4月14日に、「大学保護協会」というものを設立して、この問題に取り組むことになった。

その昔1716年に、書籍問題にも造詣の深かった哲学者のライプニッツは、その『プロメモリア』の中で、「学者はもはや書籍業者に依存する賃労働者ではないのに、書籍業者はそうしたことを考えずに、自分たちのことばかりにかかずらわっている」と嘆いた。そして時は下って1880年代になってゲッティンゲン大学の神学教授パウル・ル・ルガルデは、ドイツの書物は外国に比べて高価であることを非難した。さらにベルリン大学教授のF・パウルゼンも、顧客割引をめぐる争いの中で、相対的に高い書籍の価格に狙いを定めた。全体としてドイツでは書物の値段が高いが、それだけ書籍業者が利益をあげている、というのが彼の主張であった。

書籍価格をめぐる論争

こうした流れの中で、書籍業界にたいして最も徹底した批判を加えたのが、ライプツィヒ大学教授のカール・ビュッヒャーであった。彼は先の「大学保護協会」の依頼を受けて1903年、『ドイツの書籍販売と学問』と題する一文を著し、その中で「書籍商取引所組合」に対して鋭い批判の矛先を向けた。かなり長くはなるが、以下その論調の主な部分を引用することにする。

「書籍商取引所組合は新しい定款を受け入れることによって、一つの<カルテル>を結成した。そして会員に商売上の最大限の利益を保証し、お互いの自由競争を取りやめることにした。」「定款には組合の目的として、会員の福祉の増進ならびにドイツ書籍業界及びその会員の最も広範な領域での利益を代表する事がうたわれているが、これは精神労働に対する搾取である」「寄生的な中間業者(取次店、委託販売人)は、書物の生産及び販売における経済的形成に対する阻害要因である」「ドイツの書籍業界は、人々が長いこと称賛してきたような完璧な組織などではない。我が国民の経済生活に対して、十分その任務を果たしていない」「そのカルテルの輪を断ち切る必要がある。・・・それから長期的観点から、公共図書館のためにしかるべき措置をとる必要がある。そして著作者に関しては、賃労働の奴隷の水準にまで落とされないよう、対策をたてるべきである」
そしてビュッヒャーは、定価制度の撤廃と自由競争の導入によってのみ、書物の価格は引き下げられるであろう、と主張したのであった。

このカール・ビュッヒャーの『覚え書き』は外国でも出版され、またドイツでは三版を重ね、同時に激しい論争を引き起こした。個人の意見が次々と洪水のように出された。そして非難の矢面に立たされた「書籍商取引所組合」の幹部が、1903年9月25日に声明を発表して、正式な異議申し立てを行った。この声明の中で「書籍商取引所組合」は、1825年の創立以来行ってきた多くの努力と業績を数え上げて、人々に訴えた。それはまず第一に著作者及び書籍業界のために翻刻出版禁止への闘いを指導してきたこと。第二に著作権保護のために道を切り開き、あわせて国際的著作権保護のためにベルヌ条約締結を呼びかけてきたこと。第三にその出版社法において著作者及び出版社の権利を擁護し、全世界の模範となるようなドイツの出版権の基礎を作り上げたこと。そして第四に造形美術作品や写真作品などの著作権に対する保護法制定に向けていまなお尽力していることなどであった。

そして定価制度をめぐる中核的問題に対しては、「書籍商取引所組合」は次のように主張した。すなわち定価制度が撤廃された場合に生ずる価格の引き下げによって、思わぬ結果が生ずることになろう。つまり比較的大規模な書籍販売業者だけは永続的に生き残れるであろうが、小さな町の書店はつぶれることになろうし、大学町の書籍販売業者も生き残りは難しいことになろう。それゆえにこうした中小書籍販売業者の生き残りのためにも、定価制度は必要であるとしたのである。

こうした学者と出版人との争いは、一般に「書籍論争」と呼ばれているが、双方互いに一歩も譲らず、強硬な主張を繰り返したため、ついにその仲介に帝国内務省が乗り出すことになった。こうして1904年4月11-13日に、関係各界の代表が招かれて会合が開かれた。そこに集まったのは、片や役所の代表、大学教授、図書館代表、対するに「書籍商取引所組合」幹部、出版主、書籍商の代表という顔ぶれであった。しかしこの会合でも直ちには問題に決着がつかず、結局懸案の数々はその解決を、「大学保護協会」及び「書籍商取引所組合」の代表から構成された「合同委員会」に委任されることになった。

ところが同委員会が同年5月31日にライプツィヒに招集されたとき、議論の対象となったのは割引問題だけであった。この時「書籍商取引所組合」は個人客に対する割引については従来の主張を繰り返しただけであったが、図書館に対しては7.5%という統一的な割引率の用意があることを明らかにした(これは「書籍商取引所組合」が従来行ってきた5%と、反対陣営が期待した10%という数字の中間をとった妥協策であった。)こうしてまとめられた取り決めは、少なくとも追加予算のついた図書館に対しては7.5%の割引を、それ以下の規模の図書館に対しては5%の割引を認めるというものであった。この取り決めは、今日なお存在している図書館割引の基礎となったものである。

書籍の定価制度をめぐる様々な問題は、その後も絶えず蒸し返され、今日に至るまで議論はし尽くされてはいない。とりわけこの議論は、第一次大戦中とその後の大インフレの時期そして第二次大戦後に繰り返されてきた。ちなみにドイツ連邦共和国の法律では、出版物は統制・協定などによる価格の拘束の禁止の対象から除外されている。

第二章 この時代の代表的出版社とその活動

特色のある出版社

今日ではもう見られなくなったことであるが、20世紀初頭のころにはまだ、ドイツの出版社にはそれぞれ独自の個性や特色があったといわれている。つまりこの時代の出版社には「顔」があったというのだ。W・ カイザーは1958年に行った講演「現代の文学生活」の中で、第二次世界大戦後の時代と20世紀の最初の数十年とを比較して、次のように言っている。「ザムエル・フィッシャー、ゲオルク・ミュラー、アルベルト・ランゲン、オイゲン・ディーデリヒス、インゼル(などの出版社)から出版された本には、それぞれ一種の風格があり、それぞれ独自の精神的分野と結びついていた。当時の書籍市場はある程度出版社によって秩序づけられていたのである。私の家のナイトテーブルには、丁寧に編集された古い完璧なカタログが置いてある」。

この古い出版社目録について、ワイマール時代の著名の評論家クルト・トゥホルスキーは、1931年に次のように書いている。ゲオルク・ミュラー、ピーパー、フィッシャー、インゼル出版社などは、このカタログ作成のために大変な努力を払い、かなりの経費と用紙を投じたのである。・・・しかもこの努力は十分報われているのだ・・・なぜならドイツの出版界にはかつて、ある本が新刊されたときにそれを自慢にできるような時代があったからなのだ。その本はX社でしか出版することができない。Y社からそれを出すことはできない、と人々は考えていた。・・・しかし今ではもうこういうことは全くなくなっている。どんな本もどんな出版社からでも出せるのだ。ほとんどどんな本も、出版社を取り換えることができる。」

トゥホルスキーがこれを書いた1931年には、先のカイザーが言った「20世紀の最初の数十年」は終わりを告げていたのだ。

装丁に対する工夫

ところで出版社の個性や特色は、書物の外観に対して人々が抱くイメージによって決められる度合いも少なくない。こうした観点から、この時代の主な出版社が書物の装丁に対して、どのような工夫をしていたのか、見てみることにしよう。まず出版者アルベルト・ランゲン(1869-1909)は、パリに滞在中にフランスのポスター美術から影響を受けて、著名な芸術家にブックカバー用のデザインを依頼することを思いついた。こうしてドイツで、書物にカバーをかけるという習慣が生まれ、これはたちまちのうちに多くの出版社が採用するところとなった。

しかも19世紀から20世紀への転換期は、時あたかも装飾美あふれたユーゲントシュティール様式(フランスではアール・ヌーヴォー様式)の全盛期であったので、この様式を用いた装丁が目立った。その際、出版者のA・キッペンベルク(1874-1950)が言うように、この「美の貴族」を広く国民大衆のもとにもたらすことが考えられた。そのためには書物の値段を下げて、発行部数を増やすことが図られた。

この考えはもともとレクラム出版社のもので、あの有名な「レクラム百科文庫」は何の装丁もない小型の文庫の形で、今日まで出版されている。そのため値段も初期には長い事20ペニッヒにおさえられていた。

ところがこうした大量出版を、美しい装丁を施したハードカバーの本で実行したのが、J・C・エンゲルホルンであった。彼は1884年、自社発行の文学全集に赤いハードの表紙をつけて、一冊50ペニッヒで売り出した。また上等な革製の表紙の方には、75ペニッヒの値段を付けた。エンゲルホルンのこの「赤表紙」は成功をおさめたが、20世紀に入ると、時代とともに読者の趣味嗜好も変わって、こうした点から新たな競争にさらされることになった。ザムエル・フィシャー(1859-1934)が経営する出版社が1908年から出し始めた文学全集は、黄褐色の表紙が付けられたが、エンゲルホルンと区別するために、これは「黄表紙」と呼ばれた。さらにこの時代、K・R・ランゲヴィーシェの「青表紙」本も存在した。

その一方、書物の外観に特別念入りな配慮を施し、ぜいたくな造本をして、しかも発行部数を100部に抑えて、選り抜きの100人に前払いで提供する「百部刷り」の試みも見られた。これを行なったのがH・v・ヴェバーが経営するヒュペーリオン出版社で、価格が50から100マルクという高価な豪華限定版であった。

このヴェーバーの友人だったE・ローヴォルト(1887-1960)は、この企画に魅せられながらも、やや別のやり方をした。つまり美しい活字と選り抜きの紙を用いて造本しながらも、それを手ごろな値段で愛書家の手元に届けようというのであった。こうして1910年から『愛書家のための雑誌』が発行されることになった。このためにローヴォルト書店と関係の深かったドゥルグリーン印刷所が尽力した。これはちょうどレクラムが本の内容に関して行なったこと(古典の廉価版の発行)を、愛書家のために造本の分野で行ったものであるといえる。

世紀転換期の「文化出版社」

それではここでこの時代に活躍した主な出版人の横顔を紹介することにしよう。これらの出版人が19世紀末から20世紀初めにかけて創立した出版社は、今日なお存続するか、あるいは今なおその影響力を残しているのだ。これらの出版人の一人オイゲン・ディーデリヒス(1867-1930)は、これらの出版社に共通するものとして「文化出版社」という名称を付けている。これら文化出版社は、新しい市民的個人主義の導入、(帝国主義的な)ヴィルヘルム体制からの市民階級の解放、そして(1871年の)帝国創立後の戦勝祝賀気分から覚めて、より現実的で健康な時代を建設することなどに貢献したのであった。

ザムエル・フィシャーの肖像

まず取り上げなければならないのはザムエル・フィッシャーであるが、ユダヤ人の彼は1886年にベルリンに出版社を創立した。S・フィッシャー社は、まず何よりも自然主義文学の作品を手掛けたことで知られている。フィッシャー社は、良書を安く人々に提供することに尽力したが、同時に作家の個人全集を出すことによっても知られていた。フィッシャーは一人の作家を掘り出す時に、のちに全集を出すことを考えてその作家の原稿を点検したのである。

その最初の全集をフィッシャーは、北欧の作家ヘンリク・イプセンの作品でもって始めることにした。イプセンの個々の作品の出来栄えは悪くなかった。しかし初めはその作品はレクラム出版社から出されていたのだ。イプセンはレクラムとフィッシャーを競合させて、漁夫の利を占めようとしていたとみられている。そのためフィッシャー社としてはイプセンの全作品の版権を獲得するのに、かなりの出費を強いられたという。それは一種の賭けともみなされるものであったが、S・フィッシャーはあえてこの冒険をすることによって、結局は同社の永続的発展を築くことができたのであった。

こうした冒険への性向は、イプセンに限らず、フィッシャーの北欧文学全般への好みに現れていた。その結果1889年から「北欧文庫」が発行されたが、新しいドイツ文学を振興させるには、言語的にも親類関係にある北欧ものが良いと彼は考えたのであった。
とはいえフィッシャー社が最初に取り上げた外国人作家は、イプセンのほかに、当時ドイツではまだ知られていなかったフランスのエミール・ゾラとロシアのレオ・トルストイであった。そしてのちにゲアハルト・ハウプトマンやトーマス・マンといったドイツ人が同社の看板作家になったのである。

フィッシャーの冒険的・革命的な行き方とは対照的であったのが、ライプツィヒのインゼル出版社のアントン・キッペンベルクであった。その行き方は慎重そのものであったが、次の彼の言葉はそれを十分示している。「我々は当時、正しい道を知らずに、手探りで進んでいた。ところが最上の水先案内人が、実は我々の船内にいたのだ。それはゲーテであった。彼は船内から何を捨てたらよいのか、教えてくれたのであった」。インゼル出版社という名称は、同社が発行した雑誌『ディ・インゼル(島)』にちなんでつけられたもので、創立は1899年であった。同社はやがてゲーテの作品の出版社として名を成していったが、1904年に出版した『ラート・ゲーテ夫人の手紙は特筆するに値した。ゲーテ夫人の手紙が公刊されたのは、このときが初めてであった。インゼル出版社はまた、文献学的な面でも貢献した。自らゲーテ作品の熱心な収集家であったA・キッペンベルクは、文献学的に当時としては最も念入りな編集を施したゲーテ全集を出版しているのだ。

オイゲン・ディーデリヒスは、多面的な才能をもって、多様な活動をした出版人であった。彼は1896年、イタリアのフィレンツェで出版社を起こし、のちに有名なブックデザイナーとなったE・R・ヴァイスの二冊の詩集を出版した。やがて彼はドイツに戻り、ライプツィヒを経て、イエナに出版社を移した。そして彼は自分の出版社を「文学、社会科学および神智学の現代化を試みる出版社」と名付けた。ディーデリヒスは初め、「自由思想家」F・ナウマンより左に立つ社会主義者であった。こうした立場から彼は、1848年革命史を、その50周年の1898年に向けて書くよう、弁護士のハンス・ブルームに依頼した。この人物は48年のフランクフルト国民議会の代表として名高いローベルト・ブルームの息子であった。

彼の出版人としての活動を見ると、出版界に様々なアイデアを持ち込んだ人物だといえる。彼は新種の宣伝広告の方法を考えて、それを実行した。また読者に書籍購入の動機をアンケートによって尋ねるという、ドイツの出版界で最初の「市場調査」を行ったりした。さらに第一次大戦後の出版界の苦境を克服するために、様々な提案を行ったし、「出版人養成機関」の生みの親の一人でもあったのだ。

先にブックカヴァーの創案者として紹介したアルベルト・ランゲンは、1893年に出版社をパリに創立した。文芸出版社としては、北欧とフランスの作家の作品をドイツに紹介することに重点を置いていた。そうした観点から彼は、若きノルウエーの作家クヌート・ハムスンを、S・フィッシャー社から引き抜いて、その小説『神秘』を出版した。しかし出版者ランゲンの名前と切っても切れないのが、名高い諷刺週刊誌『ジンプリチシムス』であった。この絵入り週刊誌はヴィルヘルム二世時代のドイツの政治や社会を鋭いタッチで諷刺・批判したために、その関係者はたえず告訴されたり、拘留されたりした。そして雑誌は発刊禁止処分を受けたり、発行人のランゲンはこのためスイスへ逃亡しなければならないこともあった。

こうした危険があったにもかかわらず、雑誌関係者はこの週刊誌の編集発行に意欲を燃やし続けた。やがてランゲン出版社は有限会社に組織替えされたが、1907年ランゲンは新しい雑誌『三月』を創刊した。この雑誌の発行人の中には、作家のヘルマン・ヘッセもいた。ところがヘッセはもともとフィッシャー社の作家であったため、このことが契機となって、S・フィッシャーとA・ランゲンの間に気まずい雰囲気が生まれることになった。ランゲン自身は翌年の1908年に亡くなったが、やがて雑誌『三月』はメルツ出版社から発刊されることになり、その編集は後にドイツ連邦共和国初代大統領となったテオドール・ホイスが担当した。

またゲオルク・ミュラー(1877-1917)という人物が、1903年ミュンヘンに出版社を創立した。皮革の卸売り商の息子だったミュラーは、その財政基盤はしっかりしていた。若き日にヴェーバー書店で見習いとして働いた経験を生かして、のちに自分の出版社を作ったが、直ちにその事業拡大へと突き進んでいった。まずマイヤー出版社の作家の版権を買い取った。そしてS・フィッシャー社が開拓することができなかった北欧の作家ストリンドベリーのドイツ語版全集を発行した。さらにランゲン社から、そこの作家ヴェーデキントを横取りした。

このG・ミュラーと同様にベルリンのヴェーバー書店で見習いをしていた人物にラインハルト・ピーパー(1879-1953)がいた。彼はミュラーと一緒にパリへ旅行したりしたが、やがて1904年に自分の出版社をミュンヘンに創立した。ピーパー出版社はとりわけ現代美術作品の出版に力を入れた。こうしてその出版社から、エドアルト・ムンク、H・v・マレー、M・リーバーマンなどの美術家の作品が出版された。さらにM・ベックマンとE・バルラッハも出版された。そこでの絵画作品の複製の出来栄えは、素晴らしいものだった。

最後にエルンスト・ローヴォルト(1887-1960)及びクルト・ヴォルフ(1887-1963)という二人の出版人の横顔を紹介しよう。ローヴォルトは1908年に、その第一次出版社をベルリンに創立したが、最初に出版したのが、G・C・エトツァルトの抒情詩集『夏の夜の歌』であった。これは二色刷りのユーゲントシュティールの美麗本で、当時若干21歳だったローヴォルト青年の夢を実現させたものであった。その2年後の1910年、ローヴォルトは劇作家H・オイレンベルクに心惹かれることになる。オイレンベルクはこの年の11月10日、シラー生誕150周年の祝典で記念講演を行った。しかしこの時彼は国民の愛国的シラー像を打ち砕いたため、講演は抗議の声と退場する人々の騒音で包まれた。それでもローヴォルト青年はこの劇作家に近づき、その全作品を出版することを約束した。これも若き出版人の理想主義を示す逸話であった。

オイレンベルクの作品に関するローヴォルト書店の広告

その一年前の1909年から親友のクルト・ヴォルフが、匿名の株主としてローヴォルト書店を全面的に支援していた。この二人の青年はシャム双生児と一般に呼ばれていたぐらい、常に行動を共にしていた。しかし二人の性格は非常に異なっていた。そのこともあって、それまで二人三脚のようにして一緒に出版事業を営んできたローヴォルトとヴォルフの間に、1912年になって出版の方針を巡って大喧嘩が持ち上がった。その結果、社の資金面を支えてきたヴォルフが1万5千マルクをローヴォルトに渡して、作家たちの版権も手に入れた。その中にはヨハネス・ベッヒャー、マックス・ブロート、ゲオルク・ハイム、フランツ・カフカ、M・リヒノフスキー、アルノルト・ツヴァイクなど文学史上に名をのこす、そうそうたる顔ぶれがいた。そしてヴォルフは翌1913年に社名を「クルト・ヴォルフ社、ライプツィヒ」と改めて、独自の出版活動を続けることになった。

その後ヴォルフは出版事業家としての才能を発揮して、事業拡大に乗り出した。その手始めとして、1917年「百部刷り」で知られていたヒュペーリオン出版社を買い取った。そしてそれに続いていくつかの長い名称を持った出版社を創立していった。このヴォルフの出版事業を経営面から支えた人物にG・H・マイヤーがいたが、彼はヴォルフに宣伝広告の重要性を説き続けた。そしてこのマイヤーの宣伝工作が見事に功を奏したのが、1915年に出版されたグスタフ・マイリンクの幻想小説『ゴーレム』に対する宣伝活動であった。この時マイヤーは街の広告塔に真っ赤な宣伝ポスターを貼ったのであった。

いっぽう自分の出版社を失ったローヴォルトの方は、第一次大戦勃発とともに出征していったが、戦争終了とともに帰国し、再び出版活動に従事した。今度は時代の先端を行く表現主義の芸術家や作家との交際のうちに、この種の作品を出版することを狙って、1919年に第二次ローヴォルト書店を創立した。そして従来の堅い純文学作品のほかに時局ものも多数出版するなど、多角的経営によって事業を安定させていくことになった。そして「自由なる精神の試合場、書物のための公共機関」をモットーに、出版活動をつづけた。1919-1933年のワイマール共和制の時代に出版された書籍の点数は、500点余におよんだ。しかもその著者層の広さ、作品の多様性は注目に値した。右翼から左翼に至るまで多彩な顔ぶれ、大衆作家から新聞・雑誌の文芸記事の執筆者、文学史に残る作家、あるいは各界の著名人に至るまで、その執筆陣は及んでいたのだ。こうして第二次ローヴォルト書店は出版の自由を全面的に享受して、ワイマール共和国時代の代表的出版社の一つとして、繁栄を謳歌したのであった。

なおナチス時代の前半に細々と経営を続けていたローヴォルト書店も、その後半にはついに閉鎖の憂き目にあった。そして第二次大戦後になって第三次ローヴォルト書店が創立されて今日に至っている。この間の事情については後に述べることにする。

大衆向けの書籍販売

以上紹介した「文化出版社」で発行されていた書物とは別に、広範な一般大衆向けの印刷物や書物を取り扱っていた書籍販売が、世紀転換期から20世紀初めにかけての時期にも、もちろん存在した。例えば都市近郊や地方では、しばしば文房具店と製本業者が合体した店で、広範な購買層向けに、教科書、暦、青少年向け図書、料理の本、安手の娯楽シリーズ本、家庭向け小冊子などが売られていた。いっぽう鉄道の駅構内の書店も、1854年にすでにハイデルベルクに存在していたが、このころにはその数を増やしていた。またレクラム出版社では、1914年に全国1600の駅の構内に、本の自動販売機を設置した。さらに大都会のデパート内に書籍売り場が設けられるようになった。こうした動きに対抗するように一般書店でも、ショーウインドー内の書物の飾りつけに工夫をこらしたり、店内の魅力あるレイアウトなどに尽力するようになった。

レクラム百科文庫の自動販売機

第三章 国立図書館開設への動きと出版界

1848年-不幸な第一歩

ドイツでも全国的な規模の公的図書館を開設しようという動きはかなり早くからあったが、地方分権国家として国の統一(1871年)が遅れたこともあって、この運動はなかなか結実しなかった。最初の動きは1848年の三月革命のときにおこった。北独ハノーファーの出版者H・W・ハーンは、フランクフルトの国民議会執行部に宛てて、自分の出版社の出版物を提供するので、他の出版社からの献本を併せて、公の図書館を作ってほしいとの申し出を行った。やがてドイツ及びオーストリアの多くの出版社がこの動きに同調したため、国民議会では国立図書館建設への第一歩を踏み出せるものとの見込みを立てた。そしてそのための専門的な担当官が任命され、具体的な計画立案が委任された。担当官のH・プラート博士は早速、納本義務と文献目録作成に関する立法作業に取り掛かった。その際新刊書の供出と文献目録への登録によって、著作権保護期間の確定も行うことを計画した。

こうして国立図書館開設へ向けての第一歩は順調に踏み出された。しかし翌1849年に国民議会そのものが解散したことによって、この計画も挫折してしまったのである。このようにドイツにおける国立図書館建設の最初のイニシアティブは、国や政府ではなくて出版界がとったわけであるが、この傾向はずっと後まで続くことになる。

「ドイチェ・ビュッヘライ」開設へ

1848年の計画の挫折の後、1871年にドイツは統一され帝国が成立したが、このころになると再び国立図書館開設へ向けての動きが起こってきた。今度は図書館関係者のイニシアティブによるもので、既に存在していたベルリン王立図書館をドイツの帝国図書館へと昇格させようというものであった。しかし今回は政府関係者のこの問題に対する無関心から、この提案は受け入れられなかった。

こうして時が過ぎていったが、第一次大戦勃発の少し前の時期に、ドレスデンの出版主エーラーマンの主導で、全国的な規模の図書館を建設しようという提案がなされた。かれは三度にわたって自分の提案の鑑定を専門家に依頼した後、1910年になってそれを公表した。その設立の目的は、外国におけるドイツ語出版物を含め、ドイツ語の全ての出版物を集めた公共の図書館を作ることであった。そしてその集めるべき出版物の中には、芸術上の印刷物、個人的な印刷物そして官公庁の刊行物も含まれるべきことが謳われた。そしてこの図書館へはすべての出版社が自由意志によって納本することで、出版界に合意がみられることになった。

主導者のエーラーマンはこの全国的規模の図書館を、ドイツの書籍の中心都市ライプツィヒに建設することを提唱した。幸いそこの「ドイツ書籍商取引所組合」はこの計画に協力的であった。そしてこの全国的図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、この「書籍商組合」の施設として建設されることが決まった。そのうえライプツィヒ市当局とザクセン州政府もこの計画に大変協力的であった。こうしてライプツィヒ市が土地を提供、ザクセン州政府が建設費を負担、そして両者がその経常運営費を負担していくことで合意がみられた。また「書籍商組合」が書籍や出版物の収集に対して責任を負うことが定められた。

「ドイチェ・ビュッヘライ」の堂々たる外観

こうして1912年10月にこれら三者の間で契約が交わされ、「ドイチェ・ビュッヘライ」は誕生することになったのである。出版界を代表してこの交渉に携わったのは、1910-16年の間「書籍商組合」の会長を務めたベルリンの出版主カール・ジーギスムントであった。しかし期待されたドイツ帝国政府のこの事業への参加は、ついに見られなかった。そのためこの図書館は全国的な規模のものではあったが、この時点では帝国図書館とはならなかったのである。第一次大戦勃発前夜の時期でもあり、当時のドイツ帝国政府の代表者は、こうした文化的事業に関心が向かなかったのであろう。

それはともかく「ドイチェ・ビュッヘライ」は1913年の初めから、ライプツィヒの「書籍商組合」の会館の中で、業務を開始することになった。当初はその業務は、1913年1月以降に発行された出版物の収集に限ることとされた。しかし1916年になると第一次大戦中にもかかわらず、「ドイチェ・ビュッヘライ」の独自の建物の建設が開始されることになった。そして第一次大戦後の1922年になると、ワイマール共和国政府は「ドイチェ・ビュッヘライ」の共同出資者に加わることになったのである。こうしてライプツィヒの「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1945年までドイツの全地域をカヴァーする唯一の中央図書館(つまり国立図書館)の地位を保ったのである。

全国図書目録の発行

全国的規模の図書館開設の動きと並んで、総合的な図書目録整備の事業の方も進展した。ドイツでは図書目録は長い間、個々の出版社が発行したものや見本市協会の出品目録という形で存在してきた。なかでもカイザーとヒンリヒスの図書目録が、その内容が充実したものとして知られていた。このカイザーの図書目録を1914年に、「書籍商組合」の図書目録部が受け継ぎ、「ドイツ書籍目録」という名称で、その業務を続けることになった。また翌1915年には、ヒンリヒスの図書目録も受け継ぎ、同様に図書目録部が仕事を続けた。

こうして先人の多くの遺産を受け継いだ「書籍商組合」は、全国的な規模の図書目録の発行に踏み切ったのであった。この「ドイツ全国図書目録」は既刊書の総目録であったが、1921年には毎日発行される新刊書の目録も現れることになった。一方重要な価値を持つとみなされたドイツ語の学術論文や雑誌論文の目録作成・発行の業務を、「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1924年から始めることになった。これはかつてツァルンケによって創刊された「リテラーリシェ・ツェントラールブラット」を受け継いだものであった。

また1928年には「ドイツ公文書月刊目録」が発行。そして1936年には、それまでプロイセン国立図書館によって管理されていた「ドイツ大学文書年次目録」が、そして1943年には「ドイツ音楽図書目録」及び「美術図書総目録」が付け加えられた。そして年次は前後するが、1927年に「ドイチェ・ビュッヘライ」は、「ドイツ歴史図書年次報告」を開始し、さらに1930年には「歴史図書国際総目録」のドイツ語部門を引き受けることになった。

ドイツ近代出版史(4)~1825-1887/88~

大衆的な文学市場

第一章 古典作品の大衆廉価版の成功

<レクラム百科文庫>の発行

先に著作権保護の箇所で述べたように、1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別な取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅することとされた。そしてドイツの古典主義文学の代表的な作家、つまりゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントなどの作家はみな、1837年以前に死亡していたため、その著作権は1867年に消滅したのである。

ドイツのいくつかの大出版社、そして中規模の出版社も、ひそかにこの時期が来るのを待ち構えて、著作権のない古典作家の作品の廉価版を、大量出版することを計画していた。そうした中規模出版社の一つがアントン・フィリップ・レクラム(1807-1896)の出版社であった。彼は他の出版社と同様に著作権消滅のまさに当日の11月9日に、古典作品の大衆廉価版である<レクラム百科文庫>の発行に踏み切ったのであった。その前夜までに第一期の35点が用意された。その第一巻と第二巻は、それぞれゲーテの『ファウスト』第一部と第二部であった。『ファウスト第一部』は3か月のうちに1万部が売り切れたという。また翌年1868年末までに<レクラム百科文庫>は、120点出版された。

この文庫の特徴は、当時慣習となっていた配本順にシリーズ作品を全部買うというやり方に従わずに、単独で一冊づつ買うことができたことと、一冊わずか20ペニッヒという値段の安さにあった。こうしたことから伝統的な文学書出版社や学者・教養人の側からは、「三文レクラム」などとやゆされたりした。しかしレクラム側では、「知は力なり」というモットーのもとに。だんことして初期の方針を貫きとおした。いっぽう書籍販売者の側からも当初は、この種の三文文庫の販売に対して抵抗がみられたが、全般に売れ行きは好調で、この新企画は大成功であったといえる。

とはいえ各社が一斉に古典廉価版に踏み切った1867年には、当時なお中小出版社の一つであったレクラム社の動きはさして注目を浴びず、数年たってからようやく新聞・雑誌の文芸欄などで取り上げられたのだという。しかしその後脱落していった出版社が多かった中で、<レクラム百科文庫>だけは途絶えることなく発行が続けられ、今日に至っているのである。ちなみに1945年までにレクラム社は世界文学のあらゆる分野の作品7600点を発行し、その総発行部数は2億8千部にも達した。さらに第二次大戦後の発行部数の伸びは目覚ましく、1988年までに実に合わせて、7億7700部にも達しているのだ。

レクラム百科文庫の1991年の広告。
この写真の左上にレクラム出版社創立156年と書かれている。
つまり創立されたのは1835年だった。

古典の廉価版はまさにドイツの出版界における一大事件だったのだ。それまで古典文学の出版を独占的に手掛けてきたコッタ出版社をはじめとしたいくつかの出版社は、大きな損失を受けることになった。二十世紀の大手出版社のひとつローヴォルト社の社長が言うように、「レクラム百科文庫は<文学の民主化>と<書物の非神格化>に向けて最初の重要な一歩を踏み出した」ものなのであった。またドイツ社会民主党党首アウグスト・ベーベルは1908年、レクラム百科文庫の第5000号発刊に際して、「レクラム百科文庫は、すべての文化と進歩の友人から暖かい感謝の念を受けてきた」と祝辞を述べている。

さらに遠く離れた日本にもこの文庫の影響を受けて、昭和2年(1927年)、岩波茂雄が<岩波文庫>を発刊したことは周知の事実であろう。「読書子に寄すー岩波文庫発刊に際してー」という一文の中で岩波は、「吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する」と書いている。

ここでフィリップ・レクラムが古典の大衆廉価版の発行を思いついた動機について見てみよう。彼は1839年に印刷所を一軒手に入れたが、経営者としてこの印刷所の効率的な運用を考えた。その際彼は印刷所を自分の出版社のためだけに使用することを決心した。そして当時質の良い新作が見当たらなかったため、すでに評価が定まっている古典を大量に出版することを思いついた。その際この考えを技術的に可能にしたのが、当時発明されたばかりの高性能の印刷方法であったステロ版製版であった。これは新たに活字を組む必要がなく、比較的簡単に複製することができたため、経費も大幅に節約することができた。こうして翻刻版を大量出版することが技術的に可能になったため、本の販売価格を大幅に引き下げる見通しが立った。

この見通しのもとにレクラムは1858年、良質の古典としてシェークスピアの作品12巻の版権を獲得した。そして全12巻の全集を、当時としては破格の安値である1・5ターラーで大量に市場に出したのであった。この全集は大当たりをとった。さらに1865年になるとレクラムは、この全集を1巻づつ個別に(1巻を2000部づつ)販売するようになった。シェークスピアの作品を個別に売り出すというこのアイデアこそ、その後の<レクラム百科文庫>の発行の源であったのだ。

私はこの「レクラム百科文庫」にも強い関心を寄せ、研究を進めた。そして『レクラム百科文庫-ドイツ近代文化史の一側面』という著書を、1995年12月に刊行することができた(朝文社)。興味のおありの方は、この著作をお読みいただければ幸いである。

その他の古典廉価版

レクラムと同様に古典作品の著作権消滅を待って、古典作品の発行を行った出版社は沢山いた。大手のブロックハウスをはじめパイネ、プロシャスカ、ヴィニカー、ゲーベル、グローテなど小規模な出版社も加わったが、なかでも注目すべき存在が大手出版社主ヘルマン・マイヤー及びグスタフ・ヘンペルの二人であった。マイヤー社からはゲーテの詩集を皮切りに<ドイツ国民文学文庫>が出版され、ヘンペル社からは<ドイツ古典作家国民文庫>(全部で246巻)が出された。ヘンペルはその際テキストの内容が完璧であることを心掛けた。つまり著者によって最終的に認められた版を用いたのである。そのため出版人であると同時に有名なゲーテ収集家でもあったザロモン・ヒッツェルは、そのゲーテ・カタログに、ヘンペル版のゲーテ作品だけを採録している。こうした文献学的な質の高さを狙ったヘンペルのいき方は、知識と教養の普及を目指したレクラムの考え方とは、おのずから違ったものであったといえる。

いっぽう古典作品の名門出版社コッタ社も、古典の大衆廉価版を出していた。例えば1839年には廉価版のシラー全集を10万部以上売りさばいていたし、「万人向け文庫」という古典の大衆廉価版も刊行していた。また百科事典を手掛けていたマイヤー出版社もレクラムに先駆けて、古典の大衆廉価版を出している。

第二章 貸出文庫

都市型貸本業

19世紀に入るとドイツでは、数多くの経済的、社会的、技術的革新が相次いだが、これらを通じて文盲も著しく減少した。とはいえドイツにおける識字化と読書の普及には、なお地域的、階層的に格差がみられた。つまり南ドイツのカトリック地域や農村地域では遅れ、北ドイツなどの人口が増大しつつあった都市部で進んでいたのだ。しかし書物は当時なお高価な商品であり、本を買って所有できたのは金持ち層に限られていた。そのため有料で本を貸し出す広い意味での貸本業が、18世紀の末頃から生まれてきた。こうした手段によって、当時新たに読書階層にくわわってきた人々も、大きな経済的負担なしに本を読むことができたのである。こうした商業的な貸本業は、一般に<貸出文庫>と呼ばれている。ちなみに18世紀末の1799年には「貸出文庫」という題名の喜劇も登場しているぐらいなのだ。

これは18~19世紀における書籍配給システムとしての都市型商業貸本業という訳であるが、18世紀末から19世紀半ばまでがその黄金時代であった。その所在地は各領邦国家の首都、領主の城館のある都会(城下町)、商業・手工業都市などであったが、社会階層別に様々な形態の貸出文庫が存在していた。上はベルリンのボルステルの読書クラブや、ハノーファーのコルマンの貸本業のように、王侯貴族とも交流があり、もっぱら金持ちの大市民を相手にした高級施設から、下は公にはほとんど把握できない街の片隅のしがない貸本屋に至るまで、様々だったのだ。そうした小さな貸本屋は、製本業者が副業として経営していたり、手工業者や文房具店、床屋のような別種の人々によって運営されていたものもあった。

高級な施設では、保存が非常に良い新しい本が貸し出されていた。そしてシーズンごとの新刊書もあったが、それらはしばしば貸出所のスタンプすら押してなかった。それはより高級な読者の要求に譲歩してのことであった。そしてそうした本が何度も貸し出されて、古くなったり、あるいはあまり読まれなくなったりすると、二流・三流の貸本屋へと流されていったのである。

19世紀後半に活躍したドイツの大衆文学作家カール・マイ(1842-1912)は、子供のころ小遣い銭稼ぎにアルバイトをしていたボーリング場が副業として経営していた貸本所で、本を借りていたという。ここで少年マイは、半分ぼろぼろになった貸本の通俗小説を夜を徹して目を真っ赤にして読みふけったのであった。

貸し出される本の種類で見ると、読者の社会階層にはあまり関係なく、まずは文芸もの、とりわけ小説部門が圧倒的に多かった。19世紀が進行するうちにドイツでは、大市民、商人、手工業者などの間で、こうした分野での趣味嗜好が次第に接近しつつあったのだ、しかもこうした小説をこの時代には、個人が買うという事はなかったわけである。つまり小説の新刊書の買い手は、圧倒的に貸出文庫を利用していたのだ。

ちなみに当時の作家たち、G・フライターク、T・フォンターネ、P・ローゼッガーなどが書いた小説の売り上げは、当時存在していた貸出文庫も購買額にほぼ対応していたという。さらにわざわざ貸出文庫用に書かれた小説も当時は存在していたといわれているが、それもあながち例外的な存在という訳ではなかったようだ。

その多様な形態

いっぽう貸出文庫とは別に、人々が高い金を出して本を買う代わりに、安く利用できた非商業ベースの公共図書館も19世紀の初めに、国民啓蒙運動の一環として作られた。たとえばザクセン王国財務官のプロイスカーや、医者のプレープシュタインの尽力が特筆される。プレープシュタインは1837年に、福祉的性格の「図書協会」を設立したのだ。また産業家のハルコルトのようなパトロンが金を出して作られた企業図書館や教区図書館もあったが、これらは貧しい人々へ有用な知識を伝えることを狙ったものであった。しかしこの種の慈善的性格を持った公共図書館は、当時のドイツでは一般にまだわずかな関心しかひかなかった。そして圧倒的な関心は、これまで述べてきた貸出文庫の方に向けられていたのであった。

またこの種の書籍貸し出しシステムは、18・19世紀のドイツで実によく発達していた。レーゼツィルケル、レーゼ・ビブリオテーク、レーゼ・ゲゼルシャフト、レーゼ・カビネットなど、地域により時期により、様々な名称の組織が存在していた。前述したフィリップ・レクラムは、1829年父親から財産として、ライプツィヒの「リテラーリシェス・ムゼウム」というものを手に入れた。これは直訳すれば「文学博物館」となるが、実は一種の貸出文庫であって、そこにはドイツ語、フランス語、英語、イタリア語による各種文学作品の新刊本が備え付けてあった。同時にこの施設には、「ジュルナリスティクーム」と称する部屋もあって、78種類の新聞・雑誌が置いてあった。

この建物がムゼウム(博物館)と呼ばれたのは、立派な建物の中に書籍や雑誌のほかに、美術品や鉱物標本、物理化学の実験道具などが陳列展示されていたことからくるものである。レクラムが取得したこの施設は、「<読書革命>と文学市場の成立」のところで述べた「高級な読書サロン」の一種だと考えられる。これらは啓蒙主義とフランス革命の思想的産物といえるもので、その雰囲気について作家のトーマス・マンは、レクラム出版社創立百周年記念講演の中で次のように述べている。

「そのいわゆる博物館は、危険でしかも生き生きとしたところで、講演と討論と批評の場所であった。偽りと信心ぶった秩序が支配していた古き良きライプツィヒにあって、反抗的な人々がすべてそこに集まり交流した。そこでは作家や市民がわずかな会費を払って、ドイツや諸外国の新聞を読み、大規模な貸出文庫を利用し、いろいろと思索をめぐらしながら、意地の悪い喜びにふけることもできたのであった」

これを読むとこの種の「読書サロン」は、ウィーン会議後の王政復古期のドイツで、さまざまな進歩的、自由主義的思想を抱いていた人々の交流の場所であったことが分かる。それはともかく18・19世紀のドイツでは、貸本屋が書籍雑誌を賃貸で定期的に配達回収する「読書クラブ」とか「書籍回読会」とか、あるいは新聞・雑誌・書籍の共同購読のための組織である「読書組合」とか「回読クラブ」など、広い意味での「商業的貸出文庫」が花盛りだったのである。しかもこれは都市住民を対象とした都市型の書籍配給システムだったのだ。

第三章 行商人販売による廉価大衆小説

十八世紀末までの書籍行商人

ここでは19世紀の後半に入ってドイツで大変な隆盛を見せた、行商人の販売する廉価大衆小説について考えてみることにしよう。ただその前に18世紀末までの書籍行商人の実態について見ておかねばならない。書籍の行商人については、これまでも述べてきたように、実は15世紀から存在していたものである。書籍商がひとりとして店を出すことができなかった小都市や集落、農村地帯に彼らは現れ、しばしば小間物や宗教画とともに、書物も売り歩いていたのである。書物といっても、相手がほとんど教養のない人々であったから、暦や年鑑、つづり字練習帳などの小冊子であった。それが16世紀前半の宗教改革時代になると、ルターの教説をはじめとするプロテスタントの新思想を印刷した小冊子を、国の隅々に至るまで配布する重要な役割を演じることになった。この書籍行商人は、フランスでも同じように活動していた。16世紀のフランスの行商人は、本を木箱に入れてひもで縛って、背中に背負って運んでいた。

ドイツではとりわけ南部地域で、同様に桶を背負って移動する人々や、それらの桶をロバ、犬、馬などの背中に縛り付けて運ばせる人々が現れた。しかしわずかな収入しかもたらさないこの商売は、当初から評判が良くなかった。また世間からは堅気の職業とはみなされず、「盗品のさばき手」、「海賊版の売り手」あるいは「みだらで、悪魔的な低俗本の販売人」などと呼ばれたりしていた。

ところでドイツでは1770年ごろ、本を読むことのできる人は全人口のわずか15%だったと見積もられている。そのためこの頃になっても、行商人が運んでいたのは、まともな書物というよりはむしろ、宗教的な内容の廉価な絵物語や絵草紙をはじめとして、騎士物語、幽霊話、殺人や死刑執行人の物語を扱った絵本などであった。18世紀末から19世紀初頭になっても事情はそれほど変わらなかったが、いま挙げた絵本のほかに、年鑑、暦、祈りと説教の書、童話、料理の本、夢占いの本などが、行商人によって売りさばかれていたのである。18世紀にはこうしたものの氾濫に対して、啓蒙主義者が眉をひそめていた。印刷物が国の隅々にまで普及していく書籍行商人のシステムそのものには反対しなかった啓蒙主義者も、運ばれた印刷物の内容について異議を唱えたのであった。そうした本能を刺激する娯楽本は、社会の風俗を乱すものであると非難したわけである。

十九世紀における廉価大衆小説の普及

さて19世紀に入ると書籍行商人は、教会や教育関係者あるいは国家当局の監督を受けるようになった。国の検閲官は書籍行商人を疑惑の目で見て、嫌がらせを行ったりしたが、彼らは神出鬼没で得体が知れず、商品を検閲するのも容易ではなかった。それでも怪奇幻想小説や荒唐無稽な冒険小説などは、風俗を乱す反国家的なものとして、厳しく取り締まりを受けた。そして南ドイツの小さな領邦国家では、この商売全体が禁止された。

そのいっぽうで、1800年ごろ以降、国民啓蒙主義的努力つまり義務教育の普及の結果として、読書する大衆が誕生したことは、すでに述べたとおりである。これらの大衆は、教育的なものだけではなくて、娯楽的な内容の書物も欲したのである。そうした要望に応じて、出版社側も大衆的な娯楽小説をどんどん出版するようになった。ところが当時なお地方の小都市や村には、書店がなかった。そこで書籍行商人は、当局の目をかいくぐって、印刷所、出版社、そして読者の間を取り持つ仲介人の役割を果たすようになったのである。読書する人の数が増しただけ、その役割は以前より増えたといえる。と同時に読み物の運搬人は、つねに情報を運搬する機能を持っていた。まだ新聞や雑誌が今日ほど発達していなかったこの時代には、彼らは遠く見知らぬ世界の情報を人々に知らせる使者の役割も担っていたのであった。

読書する労働者の出現

さて時代が下がって1850,60年代になると、読者層はさらに広がって、都市の労働者層も大衆小説の読者の列に加わることになった。同じプロテタリア的社会階層に属する人々の中でも、例えば金持ちの家で働いていた奉公人とか、仕事の少ない冬の時期に都市近郊の農場で働いていた人々は、18世紀末ごろから大衆小説の読者となっていた。しかし大部分の労働者にとって状況が根本的に変わったのは、19世紀の後半の始まりごろなのであった。その原因としては次の三つが考えられる。

① 第一の原因は、産業化の進行と近代官僚制国家体制の成立によってもたらされた初等学校教育の普及と、その結果として生じた読書能力の一般的向上

② 第二の原因は、労働集約的方法によって生じた労働時間の短縮とそれに伴う余暇時間の増大

③ 第三の原因は、資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の努力と工夫である

コルポルタージュ・ロマーン

以上述べたもろもろの要因が重なって、19世紀後半のドイツで、行商人が売りさばく廉価大衆小説が大変な隆盛を見せたわけである。それらは一般にフランス語から借りてきた「コルポルタージュ・ロマーン」という言葉で呼ばれていた。このころになると書籍行商人の足は、地方の町や村だけではなくて、大都会の隅々にまで伸びていたのであった。

その際資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の一つの工夫として、分冊販売方式というものがあった。これは長編の大衆小説を一冊の本にまとめないで、薄い小冊子の形に分冊にして、ごく短い間隔でどんどん発行して読者の手元に届けるというものであった。つまり現在の日本で見られる週刊誌の連載小説のようなもので、一回分の分量が少ないのでだれでも手軽に読めるという利点があった。しかも人々は毎回話の続きを待ち遠しく思った。そして値段も安くし、割賦払い方式も取られた。この分冊の小冊子を携えて、行商人は家々を訪ね歩いたり、酒場や人々の集まる場所に現れては、それらを売りさばいていたのである。その際ちょっとした景品やプレミアムを伴った巧みな宣伝によって購買予約を取り、知らず知らずのうちに売り上げを伸ばしていた。その景品も次第にエスカレートして、美術品の複製写真、時計、安手の装飾品、金属食器セットといったものから、さらに抽選に当たった人には別荘、小型ピアノ、偽装馬車などが贈られたりした。行商人はまた麗々しく書き立てた宣伝パンフレットも配って、別の本への興味をかき立てることも忘れなかった。

こうした出版社側の巧みな戦術に乗って、工場労働者、手工業従業員、下級役人、ボーイ、女中など、いわゆるプロレタリア階層の人々が、薄手の小冊子を手にして、読みふけったわけである。これら小冊子の一冊の値段は安かったものの、シリーズとしては100回を超すものもあったし、発行部数も多かったので、コルポルタージュ・ロマーンを発行した出版社は、総体として大変な利益をあげたのであった。格式ある伝統的な出版社がほとんど注意を向けなかった、新しい読者層(労働者)を含めた大衆的な文学市場が、このようにして19世紀後半のドイツで繁栄を謳歌したわけである。

カール・マイとコルポルタージュ・ロマーン

コルポルタージュ・ロマーンの実態をもう少しく詳しく見るために、ここで先に名前を挙げた大衆小説作家カール・マイ(1842-1912)が、その作家活動の初期にこの種の小説をたくさん書いた時の事情を、その一例として紹介することにしよう。ただしカール・マイはこの方法によって名前を売ってからは、これとは手を切り、広く一般国民を対象とした質の高い冒険小説をどんどん書き進め、ことに晩年には難解で神秘的な内容の作品にも取り組んだことを、初めにお断りしておきたい。

さてカール・マイはその初期にコルポルタージュ・ロマーンの出版社であったミュンヒマイアー社と知り合った。同社は1862年にドレスデンに設立されていたが、1882~1887年のあいだに、マイはペンネームで5編の小説をこのミュンヒマイアー社から出版した。その中の4編はそれぞれ100冊を超す分冊から成り立っていた。それら5編を合計すると実に1万250頁にもなる。これは単純に計算して、1編が2000頁ほどの長編である(一回の分冊は20頁)。なかでも巨大な作品『野ばら』は、世紀末までに合計して50万部が売れた。一般にドイツで1860~1903年の間に、年間500編のコルポルタージュ・ロマーンが出回ったといわれているが、それらの多くは匿名かペンネームで書かれていた。たいていは一冊16~24頁で、それを50回から150回に分けて販売した(値段は一冊20ペニッヒ)。

出版社はその出版を厳密に需要に応じて行い、小説の中身を短縮したり、エピソードを適当に削ったりしたため、内容を著しく損なう場合もあった。そしてそれが作家に相談なく勝手に出版社側の手で行われることもあったという。何しろ作家は出版社側からせかされて、ベルトコンベヤー風に次から次へと書き進めたので、ゆっくり推敲する暇もなかったという。そのことはカール・マイが晩年に書いた自叙伝で明らかにされている。

カール・マイ(書斎風景)

ところで私はこのカール・マイに特別の関係を持っている。その伝記『知られざるドイツの作家カール・マイ』(朝文社、2011年10月17日第一刷発行)も書いているし、彼の主要作品を翻訳したシリーズ作品『カール・マイ冒険物語。オスマン帝国を行く』全一二巻(朝文社)も刊行している。これは第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』(2013年12月初刷り発行)から第12巻『アドリア海へ』(2017年4月初刷り発行)までである。これらはこのブログの私の自己紹介欄に載せてあるので、お読みいただければ幸いである。

私は1970年代前半に西ドイツの放送局に勤めていたが、その時初めてカール・マイの存在を知った。なにしろ当時の西ドイツの新聞雑誌やテレビ、ラジオで、やたらとこの作家のことが取り上げられていたからだ。それらを通じて日本では知られていないこの作家のことに興味を抱くようになり、勤め先のケルン市の書店へ行って、その全集74巻を買い込んだのだ。そして主な作品を夢中になって読んでいった。その結果、これを日本語に翻訳して刊行したいと思うようになった。そのため南ドイツのバンベルクにあったカール・マイ出版社まで出かけて行って、社長のシュミット氏に会って、その旨伝えた。その後帰国してから、さっそく翻訳をはじめ、刊行してくれそうな出版社を捜した。幸い東京のエンデルレ書店が引き受けてくれて『カール・マイ冒険物語1~砂漠への挑戦~』(エンデルレ書店、1997年10月)から『カール・マイ冒険物語4~秘境クルディスタン~』(エンデルレ書店、1981年6月)まで全4巻が刊行された。そしてかなりの歳月を置いて、前述の朝文社から全12巻のシリーズを刊行することができた次第である。

十九世紀末の「俗悪文学」取り締まり

このように大衆向けのコルポルタージュ・ロマーンは、内容的には問題をはらみながらも、経営的には大成功を収めていったわけである。しかし19世紀も末になると、これに対する反動の動きが現れた。皇帝ヴィルヘルム二世が直接統治を始めた1890年代に始まり、第一次大戦の勃発(1914年)ごろまで続く「俗悪文学の取り締まり」が、それであった。同皇帝は就任早々、『売春婦のひも』に関する訴訟事件と関連して、風俗を乱す不道徳な書物の普及販売に対して刑罰の強化を要求した。しかしこの頃になるとこの「俗悪文学」とさげすまれた出版産業に、出版社、行商人、作家、印刷所、製紙工場など多くの人々の生活がかかわるようになっていた。そのため取り締まりといっても、そう簡単にできるものではなかった。

とはいえ俗悪文学に関する議論は世紀転換期を越えて、さらに続けられた。1905年にハンブルクの教師ヴォルガストは『われらの青少年文学のみじめな状況』という一文を発表したし、1909年図書館司書のシュルツェは『俗悪文学、その本質、その影響、それとの闘い』というものを公表した。その他文筆家やジャーナリストで、この俗悪文学攻撃に加わった人も少なくなかった。しかし反俗悪文学キャンペーンの経済的側面に目を向けてみると、それはまじめな古い出版社と新興の通俗文学出版社との間の偽装された闘争、つまり販売市場を巡る両者の間の争いといった意味合いがあったことにも注目しておく必要があろう。

実は「俗悪」という言葉は極めてあいまいな概念なのであった。いわゆる「俗悪文学」の反対者たちは、この概念を帝政時代の排外的で軍国主義的な書物には、けっしてあてはめないのであった。そしてこれら「俗悪文学と闘う闘志たち」の多くは、1914年に第一次大戦が勃発したとき、積極的な戦争支持者となったのである。

体制側から「俗悪」との烙印を押されたコルポルタージュ・ロマーンは、社会の広範な底辺を形成する人々、つまり庶民に向けて書かれた娯楽小説ではあったが、同時にそれは現状に飽き足らず、何かを求める体制批判的な性格をもひめていたのであった。こうした意味合いから読めば、次に引用する哲学者エルンスト・ブロッホの言葉もよく理解できるであろう。「コルポルタージュは常に夢見ているが、それは結局革命とその背後にある栄光を夢見ているのだ。コルポルタージュ・ロマーンは、キッチュ・リテラトゥーア(まがいもの文学)とは反対に、つねに反抗的な昼の夢の性格をそなえており、数多くの願望充足のファンタジーをもたらしている。それゆえに官憲は、無意識のうちに、その報復措置をそれらの先導的な内容にも向けたのであろう」(「この時代の遺産」、1962年。177頁)

第四章 教養娯楽雑誌

1850年以前

19世紀に入って広くドイツの一般庶民の間に普及したものに、広い意味での雑誌があった。18世紀の啓蒙主義の時代に<道徳週刊誌>なるものが普及したことはすでに述べたが、一般にドイツの雑誌文化が飛躍的な発展を示したのは、1848/49年の革命以後のことであった。それ以前の王政復古期には、言論出版活動に対して取り締まりが厳しかったため、出版物の内容も政治的なものから離れて、娯楽及び科学的な啓蒙を目指したものへと傾いていた。

例えば1833年にライプツィヒで、週刊の「ペニヒ雑誌」が創刊されたが、これは自然科学、技術などポピュラーサイエンス的記事と娯楽的記事そして宗教的な素材を織り交ぜた内容のものであった。厚さはわずか8頁で、言葉と絵を巧みに織り込んで誰でも理解できるようになっていた。そのためか創刊時ですでに発行部数は3万5千部だったが、やがて10万部にまで増加し、そのうち予約購読者は6万人を数えた。

そのいっぽうで政治的な内容の雑誌の方は、体制側からいろいろと抑圧を受けた。王政復古期の1846年に、エルンスト・カイルという出版者が月刊誌『灯台』を創刊した。しかしその政治的な内容のために、この雑誌はたえず検閲や警察の捜査を受けた。そのため彼は出版社の場所を、ハレ、マグデブルク、デッサウ、ブレーメン、ブラウンシュヴァイク、ライプツィヒといった具合に転々と移さざるを得なかったと言う。やがて1848年3月に革命がおこり、報道の自由がもたらされるに及び、一時的に政党的、宣伝的刊行物が隆盛を迎えたが、まもなく革命が失敗すると、「報道の自由」は短い間奏曲に過ぎないものとなった。

1850年以後の教養娯楽雑誌の隆盛

1850年以降になると、鉄道などの交通手段が発達して出版物の輸送が楽になった。そして法的な規制が以前に比べて弛む中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになった。それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。なかでももっとも有名であったのが『あずまや』であった。この雑誌は先のエルンスト・カイルが1853年に創刊し、以後1943年まで続いた。いっぽう同じカイルが発行していた政治的な雑誌『灯台』は、革命後の反動的風潮の中で、1851年に発行停止処分を受けた。しかし彼は検閲に反対し、報道の自由や立憲体制を求める闘いを決してあきらめなかった。そしてF・シュトレから『村の床屋』という絵入り雑誌を引き継いで、発行を続けた。この雑誌はその題名とは裏腹に政治的な主張が盛り込まれていたのだ。それはともかくこの雑誌は2万部の発行部数を得て、まずまずだった。そのいっぽう先の『灯台』の件で訴訟が行われ、カイルは9か月の拘留を受けることになった。

拘留期間が終わって出てきたとき、カイルはそれまでの急進的な考え方を改めて、まずは均質で道徳的な社会の建設を目指すようになった。こうしてカイルは『村の床屋』をやめて、『あずまや』の発行へと方向転換したわけである。この雑誌の題名は、革命の嵐の後、うるさい争いごとは避けて、静かに自分の家にある『あずまや』に引きこもって過ごしたいという市民の願望に沿うものであった。ともかくこの雑誌はよく読まれ、1870年代にはその発行部数は一時、週刊40万部にも達した。その読者層は広く分布していたが、企業経営者や商人が全体の20%を占めていた。

家庭向け雑誌『あずまや』の表紙

科学と小説

これら家庭向けの教養娯楽雑誌は毎週発行され、原則として男女の別なくあらゆる階層の人々に向けられていた。そしてそこにはあらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに現れたポピュラーサイエンスの記事は、誰にでも理解できるものであった。こうして19世紀のこの種の雑誌は、自然科学的、技術的解説に対する一般読者の願望を満たす教科書の役割をも果たそうとしていたのである。

いっぽうそこに掲載された連載小説は、宣伝価値のある有名な作家たちに、出版社が特に依頼して書いてもらったものであった。その際これらの作家にとって、この種の家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。しかも作家はそこから経済的恩恵も得ていたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、P・ラーベそしてK・マイなど当時の人気作家たちも、まずはこうした方法でその作品を発表していたのだ。

多種多様な雑誌

これら家庭向け雑誌の大きな部分を占めていたのが、キリスト教系の雑誌であった。例えば1858年創刊の『海山を越えて』とか、1864年創刊の『わが家』などがその代表といえる。いっぽうフランスのレビューのスタイルで1856年から『ヴェスターマンス・モナーツヘフト』が発刊されるようになったが、これには哲学者のディルタイも協力していた。広範な文化雑誌として百科全書的な目標を追求したこの月刊誌は、そのやや高踏的な性格のために、発行部数は1万2千部にとどまった。とはいえ忠実な固定読者をつかんでいたためか、ごく最近の1985年までこの雑誌は発行が続けられていたのである。ちなみに私も1970年代半ばの西ドイツ滞在中、この雑誌の存在を知り、その終わりまで定期購読していたのだ。その内容に満足していただけに、その廃刊は残念なことであった。

いっぽう諷刺的な内容を特徴としていた『フリーゲンデ・ブレッター』(1845-1944)は毎週発行されていた。この週刊誌はその素晴らしい木口(こぐち)木版画で知られていたが、しばしばそれは文章を凌駕したりしていた。この雑誌への寄稿者としては、みずから絵をかき文章を書いたヴィルヘルム・ブッシュや冒険小説家のF・ゲルステッカーなどがいた。また1848年にベルリンで創刊された『クラデラダッチュ』は、諷刺的でリベラルな内容に重点が置かれていた。後の『ジンプリシムス』(1896-1944)と同様に、これは皇帝ヴィルヘルム二世が支配していた1890年代から第一次大戦時(1914-18)までの体制に対する数多くのカリカチュアや、偽装した社会批判によって成り立っていた。これらの雑誌は先のコルポルタージュ・ロマーンと同じように、はじめは行商人によって配られていたが、のちには郵便によって配達されるようになった。

また市民階層の子弟に向けられた数多くの青少年向け雑誌も存在した。そうした中に1886年創刊の青少年向け絵入り雑誌『よき仲間』があった。この雑誌に、前述した大衆作家のカール・マイは、全部で8編の青少年向け作品を発表している。これらは、先のコルポルタージュ・ロマーンとは違って、じっくり時間をかけ力を入れて書かれた作品であった。いっぽう宗教的色彩のある雑誌には、このころにはもう読者もあまり見向きをしなくなっていたが、週刊のカトリック系雑誌『ドイツ人の家宝』だけは例外だった。この雑誌にもマイは数多くの作品を寄稿している。

ところでドイツでは昔から暦の形をとって、そこにいろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物が、とりわけ地方の村や町に出回っていた。その一つに人々の広範なマリア信仰をその基本に置いていた「マリア・カレンダー」というものがあった。これが19世紀後半になってもなお勢いを保っていたのだ。18世紀の啓蒙主義者たちは、これら伝統的な国民カレンダーの内容を徐々に改善していくことに成功した。その結果暦のほかにいろいろと付録が付くようになっていった。それらは読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話、そして冒険物語などであった。マリア・カレンダーは19世紀後半には数種類発行されていた。なかでも南ドイツのレーゲンスブルクのカトリック系出版社プステット社から1866年に創刊された『レーゲンスブルガー・マリーエンカレンダー』は、急速に発行を伸ばして40万部にも達している。

しかし全体の流れから見ると、19世紀後半に隆盛を極めた家庭向けの教養娯楽雑誌も、1900年ごろになると勢いがかなり衰え、代わって絵入り雑誌や新聞の文芸欄などが人気を呼ぶようになった。とはいえ雑誌そのものの発行は20世紀に入ってからも相変わらず盛んで、1880-1918年の間に,新刊の雑誌が洪水のように市場に流れ出ていたのである。

ドイツ近代出版史(3)~1825-1887/88~

第一章 著作権制度の確立と<書籍商組合>の活動

周辺諸国の動き

著作権・版権に関して決定的な動きは、ドイツにおいては、19世紀に入ってから起こった。たしかに北ドイツ及び中部ドイツの大部分では、18世紀の末ごろにはもう翻刻出版は禁止されていた(プロイセン王国では1794年に、ザクセン王国では1773年に、こうした法律が制定された)。しかしドイツ全体ではそうした法律は制定されていなかった。いっぽう周辺諸国の動きを見ると、まずイギリスではアン女王時代の1709年に、著作者及び出版社に対する保護期間の制度が導入されていた。アメリカでは1781年のコネティカット事件の後、著作連邦法が成立した。ここではイギリスの判例に従って、保護期間が28年と定められた。フランスでは1777年に「永世版権」の制度が定められた。次いで1793年には著作者の複写権は死ぬまで、その相続人に対しては著作者の死後10年までと定められた。そしてオランダでも同様の動きがみられたため、ドイツの著作者たちも、こうした制度の導入を待ち望んでいた。これらの声を代表するものともなっていたのが、フリードリヒ・ペルテスが1816年に公表した『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書であった。これはドイツ出版業界の実践的な基本文書ともいうべきもので、社会における出版業界の義務について述べたものであるが、この中でペルテスは出版社の版権が保護されるべきことを訴えているわけである。

ペルテスの著作『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』

翻刻出版の禁止

ドイツにおいてこの面でも先行していたのは、北ドイツのプロイセン王国であった。1794年には、書籍出版に当たっての諸権利の保護を決めた法律が定められたが、これにはベルリンの大書籍商フリードリヒ・ニコライの働きかけが大きかった。この法律の中で、翻刻出版の厳禁がうたわれ、これに従わない場合には、原出版社の申し出のうえで、翻刻本は没収または販売不能もしくは原出版社への引き渡しが定められていた。
またこの法律には著作者と出版社との関係についても、出版契約をはじめ詳細に規定されており、著作者の意見をきくことなしに翻刻出版をしてはならないことも規定されていた。ただこの権利は相続者には及ばないものとされ、どの出版社にも翻刻出版に対する版権が存在しないときは、誰でも翻刻出版できるものとした。ただしこの場合、新しい出版社は著作者の一親等の家族と、翻刻出版についての取り決めを結ぶべきことが定められていた。ただ著作者と出版社の出版契約の有効期限については、ここには何も記されていない。

ところで1815年のウィーン会議の結果生まれた「ドイツ連邦」には、オーストリア、プロイセンをはじめ大中小39の領邦国家が加盟し、全ドイツを代表する組織になっていた。そしてその代表議決機関として「ドイツ連邦議会」が設立されたが、事実上これは大国オーストリアによって牛耳られていた。しかもオーストリアは南ドイツの諸地域と同様に、翻刻出版を公然と支援していたわけである。そのため1815年連邦規約第十八条d」によって、「出版報道の自由並びに翻刻出版禁止」に関する措置が取られる見通しがいったんは出てきたものの、連邦議会はその後この措置を引き延ばしてしまった。そこでプロイセン王国は、連邦議会の枠外で事を進めることに方針を変更した。こうしてプロイセンは1827年から29年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に、個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦全領域における翻刻出版の禁止措置に、しぶしぶ踏み切ったのである。

著作権の保護

このようにして翻刻出版の禁止措置はドイツ全土に広まったのであるが、次の段階として出版社の持つ版権保護ではなくて、書物の著作者が持つ著作権の保護の問題が浮かび上がってきた。この点についてドイツ書籍商組合は、1834年に、『ドイツ連邦加盟諸国における著作者の法的地位の確立に関する提言』と題する覚書を公表し、その中で著作権保護期間を著作者の死後30年間と定めた。しかし連邦議会はこれを無視する態度に出たため、再びプロイセン王国は独自の歩みを見せ、1837年に法律を制定した。これは『学問芸術上の著作物の所有権保護のために、翻刻出版並びに複製を禁止する法律』というもので、ここで初めて著作者の権利保護が明白に規定されたのである。またその際著作権保護期間が30年と定められたのであった。そしてドイツ連邦加盟のいくつかの国もこの法律を受け入れた。

いっぽう連邦議会はこうしたプロイセンのイニシアティブに刺激を受けながら、しぶしぶ1837年11月9日に著作権保護を取り決めたが、そこではプロイセンのものよりも弱い内容となっていた。それは保護期間を10年と定め、法律実施の日からさかのぼって20年間に発行された作品に対して有効としたのである。

次いでヘルダー、シラー、ヴィーラント、ジャン・パウル、ゲーテなど1838年以前に死亡していた作家の相続人及び出版社に対して、その「国民的な業績」ゆえに、20年間の連邦特権というものを認めた。しかしゲーテはすでに1825年に、自分の全作品に対する特権を認めるよう連邦議会に申請していた。この申請に対して、ゲーテは、この件に関しては個々の領邦国家が担当しているとの返事を受け取ったという。

それはさておき、ドイツ書籍商組合は著作権保護のさらなる推進を目指して、1841年に新たな覚書を提出したが、これを受けてザクセン王国では、30年の保護期間が導入された。そして1845年6月19日になってようやく連邦議会は、著作者の死後30年という保護期間をドイツ連邦の全領域に広げることを決定したのであった。

ここでは1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとされた。この日付は後に、ドイツの古典作家の作品の著作権保護期間に関連して注目されることになる。つまりこの日以後、これら古典作家の作品は著作権を気にすることなく、自由に大量出版できることになるのだ。その意味で極めて重要な日付になるのであるが、これについては後に詳しく述べることにする。

著作権保護の国際的動向

ここで著作権制度に関する国際的動向について一言ふれておこう。まずいくつかの国の間で二国間協定が結ばれた。例えばスイスと北ドイツ連邦の間では1869年にこの協定が結ばれている。そしてその後1886年になって、「文芸作品及び芸術作品の保護に関するベルヌの取り決め」、いわゆるベルヌ条約が発効した。この条約に加わったのは、ベルギー、フランス、イギリス、ハイチ、リベリア、スイス、スペイン、チュニスそしてドイツの各国であった。これを見るとベルヌ条約の原参加国の数が少ないことが分かるが、それには各国の出版業界のそれぞれの利害や思惑がからんでいたようである。そのためか北欧のノルウエーは1896年、デンマークは1903年、スエーデンは1904年にそれぞれ加盟している。そしてこの条約の中身は、1908年にベルリンで、1928年にローマで、1948年にブリュッセルで、そして1967年にストックホルムでそれぞれ修正されている。

王政復古期の検閲

それではここで1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」の活動に、眼を向けることにしよう。この組織が最初に取り組んだ問題は、以上述べてきた版権・著作権制度の確立と並んで、国家による検閲を廃止させることであった。ウイーン会議後のドイツは、オーストリア宰相メッテルニヒの指導の下で、いわゆる王政復古期にあった。ドイツ連邦傘下の各領邦国家では、自由が抑圧され、書籍や印刷物に対する検閲が行われていた。
1819年、ドイツ連邦はカールスバートの決議によって、詳細な検閲規定を定めた。その骨子を説明すると、検閲には、事前検閲と事後検閲の二種類あった。事前検閲は320頁以下の印刷物に適用され、これはドイツ連邦加盟各国当局の管轄とされた。いっぽう事後検閲は321頁以上の大部な書物に適用され、これはドイツ連邦の事務当局が直接担当した。つまり加盟諸国当局の出版許可がおりて出版された本であっても、この事後検閲によって発禁処分にすることができたのである。

ただ事前検閲については、加盟各国によってその検閲の厳しさにかなりの相違がみられた。最も厳しいオーストリアから、かなり寛容なザクセン・アルテンブルクまで、その間に厳しさに様々な差異がみられた。その際とりわけ厳しい検閲の対象にされたのが、当時進歩的で過激とされていた「若きドイツ派」に属する作家の作品であった。この派の作家としては、ハイネ、グッツコウ、ラウベ、ヴィーンバルク、ムントなどの名前があげられていた。これらの作家の作品を出版した出版社、印刷業者、販売者に対しては、刑法および警察法を適用して、作品の普及を抑えようとしたのである。

「若きドイツ派」の作品を出版していたのは、ハンブルクの出版者ユリウス・カンペ(1792-1867)であった。彼はこうした検閲と終始闘い続けた代表的な出版人であるが、検閲の目を潜り抜けるために、印刷、引き渡しその他経営一般に複雑なシステムを取り入れていた。たとえば検閲の厳しくない国の印刷所にわざわざ頼んだり、事後検閲を避けるために本の厚さを320頁以下に抑えたりといった具合である。
ただ自分の作品が短縮されるのを嫌ったハインリヒ・ハイネなどは、この点で出版社側と争ったりした。そして両者は互いに新聞紙上に公開書簡を発表しあったりした。しかしこれも深刻な争いというのではなく、むしろ宣伝効果に対する暗黙の了解が、両者の間にはあったようである。この公開書簡の発表によって、検閲の実施という事実を一般に知らせることができたし、売り上げの方も促進されたのである。ハイネは自分の作品『ドイツ、冬物語』の序文(1844年9月17日付け)の中で、次のように書いている。「自分の出版社は出版を可能にするために、詩の内容を検閲する役人に対して細心の注意をもって接しなければならなかった。それでも数度にわたって、修正・変更や削除を余儀なくされたのである。」

検閲の廃止

こうした検閲を廃止させるために、書籍商組合の代表は1842年にザクセン政府当局に赴いて、ドイツ連邦が検閲の規定を大幅に緩めるよう請願した。その最終目標は、検閲の全くない完全な言論報道の自由の実現であった。そうした書籍商組合の度重なる努力は、ようやく1848年の三月革命のときになってその目標を達成することになった。ハレ新聞は1848年3月20日付の紙上で、その喜びを次のような書き出しの記事で読者に伝えた。「出版報道は自由になった。今日初めてわが新聞は検閲なしに発行されることになった。」

しかし政府当局は検閲廃止の代わりに、個々の出版物の内容に対して、印刷業者、出版社、および書籍販売人が責任を負うことを定めた。そしてその具体的措置として、出版報道業務の開始に当たって、検査、許可及び保証金の制度が導入された。とりわけ言論出版関係業種の営業活動に加えられたこうした制限措置は、その後1869年になって北ドイツ連邦加盟国領域で撤廃され、いわゆる営業の自由が導入された。そしてこの営業の自由は1872年になって、その前年に誕生したドイツ帝国の全土に拡大されたのであった。

業界専門誌の発行

ところでドイツ書籍商組合は、その設立以前から書籍取引業界の専門誌を発行する必要性を感じていたようだ。そして設立後もその発行について議論が重ねられてきたが、なかなか実現に至らなかった。そうこうしているうちに全国組織であるドイツ書籍商取引所組合とは別の「ライプツィヒ書籍商組合」が、1833年に『ドイツ書籍取引所会報』の発行を決め、翌1834年1月3日にその創刊号が世に出た。この創刊号の序文の中で、ドイツ出版業界の大立者フリードリヒ・ペルテスは、ドイツの書籍取引業界が直面している情勢についてふれ、書籍市場が本の洪水であふれていることを嘆いている。

『書籍取引所会報』創刊号の表紙

それはともかく、この会報は翌年の1835年には、ドイツ書籍商取引所組合の所有するところとなった。そして初代編集長O・A・シュルツは1839年に、『ドイツ書籍商人名録』を発行した。しかしこの会報の編集担当者は当初頻繁に入れ替わっていた。これはこの雑誌に対する外部からの規制が強く、その圧力を受けて組合内部で争いが絶えなかったことによるものとみられている。
それでも『ドイツ書籍取引所会報』は続けて発行され、やがて出版業経営上非常に有益な「新刊書目録」が掲載されることになった。この仕事はヒンリックス書店が担当した。これは当初は週に一回、1842年からは週に二回、そして1867年からは毎日掲載されるようになった。ちなみにこの年からは会報そのものも毎日発行されることになった。

書籍商組合会館の建設

この会報の発行と並んで、ドイツ書籍商組合にとって独自の会館を建設する必要性が生じてきた。会報の発行が遅れていたのも、一つには会館の設計と建設に、関係者の関心と精力が、まず注がれていたことによるといえるぐらいなのだ。
それはともかく組織ができて11年後の1836年には、ライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」の会館が落成した。これは写真に見るようにとても堂々たる立派な建物であった。

書籍商組合会館(1836年落成)

いっぽう出版人の養成所を作る必要性についても、ペルテスは1833年に提言していたが、この構想については書籍取引所会報でも1840年に取り上げられ、真剣に論じられた。そして十余年後の1852年になって、フリードリヒ・フライシャーが音頭を取って、「ライプツィヒ書籍商組合」によって実現されることになった。つまりドイツの出版の中心地に、出版人の後継者を養成するための教育施設が誕生したのであった。

書籍出版史の発行

19世紀も後半に入ると「書籍商組合」は、ドイツの書籍取引に関する歴史研究と歴史叙述に力を入れて取り組むようになった。そして1876年、出版主エドゥアルト・ブロックハウスの音頭取りで、出版史編纂のための歴史委員会が結成された。そしてその二年後の1878年から『ドイツ出版販売史記録集』が発行され始め、これは1898年までに20巻に達した。ついでに言えば第二次大戦後、フランクフルトの「書籍商組合」によって、『書籍史記録集』という題名のもとに、この仕事は受け継がれている。

いっぽうドイツの出版史の叙述の方に目を向けると、フリードリヒ・カップとヨハン・ゴルトフリードリヒという二人の学者によって、『ドイツ書籍出版史』という四巻にのぼる大著が書かれた。これは印刷術の発明から1889年までを扱ったもので、その第一巻は1886年に、ドイツ書籍商組合出版局から発行された。内容的にも非常に詳しく、今日に至るまでドイツ書籍出版史の古典といわれ、多くの研究者から今なお利用されているものである。第四巻が発行されたのは1913年であったが、その後の時代についての叙述が目下準備されている。

F・カップとJ・ゴルトフリードリヒの肖像

いずれにしてもドイツ書籍商組合は、ドイツの書籍商の単なる業界的な利益集団という枠をはるかに超えて、ドイツの出版文化を総合的に育成していく機関へと成長したのである。

第二章 出版界の多様な展開

高速印刷機の発明

印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明以来、細かな改良は加えられてきたとはいえ、基本的には以後350年間、ほぼ変わりがなかったといえる。ところが18世紀後半に始まった産業革命の影響のもとに、印刷の世界にも画期的な技術革新が訪れた。1811年、ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒが蒸気式高速印刷機を発明したが、これによって出版の世界は決定的な進歩をとげることになった。つまりこの新発明によって従来の手動印刷の10倍の印刷能力が生まれたわけで、ここに印刷物の大量生産が飛躍的に促進されたのである。

ロンドンの「ザ・タイムズ」社の社長は、このドイツ人の発明を「印刷術の発明以来書籍印刷の世界で見られた最大の改良」と呼んだ。そして新聞「ザ・タイムズ」は、1814年11月29日に、この高速印刷機を用いて初めて印刷されたのであった。ドイツ人のケーニヒが行った発明が外国で最初に認められたという事は、時代の兆候を示すものと言えよう。その後この新発明はドイツでも採用されたが、これを最初に用いたのは、大出版経営者ヨハン・フリードリヒ・コッタ(1764ー1832)であった。彼はこの高速印刷機を使って、自分が発行していた新聞『アルゲマイネ・ツァイトゥング』を印刷したわけである。

15世紀から19世紀までの印刷所の変遷

初期資本家コッタ

このコッタこそは、ドイツの出版界の新時代を代表する人物だったのだ。彼は、1659年創立の古い出版社を、1787年、23歳の時父から受け継いだが、当時朽ちかけていた同出版社を、その数年後にはヨーロッパでも有数のものに再建し直したのであった。コッタ出版社は、はじめ南西ドイツの小さな大学町テュービンゲンにあったが、1811年にはその近くの中都会シュトゥットガルトに移った。そして優れた経営手腕を示したために、彼の出版社には当時有力な著作家たちが大勢集まってきた。それはゲーテをはじめとする古典主義の作家たちであったが、そのため出版社主コッタの名前は、やがてドイツの文芸思潮の一つであるドイツ古典主義と深く結びつくことになったのである。

J・F・コッタの肖像

この伝でいくと、出版者G・A・ライマー(1776-1842)とロマン主義、時代は下るが出版者S・フィシャーと自然主義及びリアリズム、そして出版者K・ヴォルフと表現主義の文学を、それぞれ結びつけることができよう。
それはさておき、コッタは大出版経営者として、文学作品の出版だけではなく、先に挙げた新聞の発行のほか、さまざまな出版部門に触手を伸ばした。
そのためドイツ出版界全体の健全な発展に心を砕いていた前述のペルテスは、コッタが何にでも手を出すことに危惧の念を明らかにしたぐらいである。ペルテスは1816年、ドイツの出版界の現状を知り、あわせてお互いの協力態勢を作り上げる可能性を探るためにドイツ全土を視察旅行したが、その時コッタについて次のように書いているのだ。
「その個人的重要性、その粘り強さ、その富、そしてその政治的影響力のゆえに、西南ドイツの出版界はただ一人の人物の手に握られており、そのため文学的判断の公正さ、交流の活力、そして販売の効果などが損なわれる可能性もあるのだ」

ペルテスはこの時、独占態勢へ突き進む初期資本家としての姿をコッタの中に見ていたわけである。彼の出版社からは、数十年間にわたってドイツで最も重要な政治新聞の位置を占めてきた『アルゲマイネ・ツァイトゥング』や、同じく数十年間にわたって指導的立場にあった文芸雑誌『教養層のためのモルゲンブラット』が発行されていた。さらにコッタは別の経営部門にも手を出したり、政治的な活動もしたりした。こうしてコッタ出版社は、19世紀初めから半ば過ぎまで繁栄を謳歌したのであるが、1867年に古典作家の著作権消滅に伴う大量出版現象の出現によって、その独占態勢は崩れたのであった。しかしコッタ社は、その後アドルフ・クレーナーによって買い取られ、以後別の発展を見せることになる。

関税同盟と鉄道建設

19世紀の前半、ドイツの出版界をその流通面において近代化するのに大きく貢献したのが、関税同盟の結成と鉄道網の普及であった。1834年プロイセンは、南ドイツの関税同盟と中部ドイツの通商同盟の影響のもとに、全国的なドイツ関税同盟を結成した。これによってドイツでは中小領邦国家の煩わしい関税障壁が取り払われ、経済的統合への第一歩が記されたのであった。この関税同盟には、南の大国オーストリアは加盟せず、また北ドイツのハンザ諸都市メクレンブルクやハノーファーは、やや遅れて加盟した。それでもドイツ関税同盟は、決済手段の簡素化をはじめ総体として、ドイツの書籍取引の近代化に大変役立ったのである。

いっぽう鉄道建設によってもたらされる利益についても、ドイツの出版界は早くから認識していた。ドイツの鉄道網は、1835年南ドイツのニュルンベルク=ヒュルト間を皮切りに、1837年ドレスデン=ライプツィヒ間、1838年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル間、といった風にどんどん広がっていった。

これに関連してアウグスト・プリンツは、その『ドイツ書籍販売史のための素材』第二部(1855年発行)の中で次のように書いている。「昔は必要な場合には倉庫を持たねばならなかった。というのは注文してから二・三週間後になってようやく手に入るという始末だったから、いつでも取り出せ、また高い運送料の節約のために、あらかじめ沢山の在庫を用意しておく必要があったのだ。ところが今では事情は変わった。大手の書店でも教科書や古典図書は別として、ほとんど倉庫を持っていない。その他の本は残本とするか、出版社がそれを許さない場合には返本したり、春の見本市後に新たに注文しなおしている。鉄道によって通常の貨物は、三,四日のうちにドイツのどんな地域にも運搬されるのだから、時間の節約には計り知れないものがある。」

このように鉄道の普及は書籍流通面の迅速化と経費節減に役だったのであるが、同時に販売領域の拡大によって独占の危険性を減らす効果も持っていたのである。

百科事典の発行

いっぽう18世紀末に起こったいわゆる<読書革命>によって文学市場が成立し、読書層の拡大も行われたわけである。こうした読書をする教養市民層の一般的要請にこたえるようにして、19世紀前半に百科事典の出版が相次いで行われた。最初の本格的な百科事典は、1809年にF・A・ブロックハウス(1772-1823)によって発行された。ブロックハウス百科事典といえば、今日のドイツにおいてもなお発行が続けられている百科事典の古典であるが、もともとは19世紀初頭の啓蒙主義思潮の産物なのであった。次いで1824年にはピーラー、1839年にはマイヤーそして1853年にヘルダーといった具合に、様々な種類の百科事典がドイツで発行されていった。

F・A・ブロックハウスの肖像

ちなみに私は個人的に百科事典が大好きで、昔から平凡社の世界大百科事典などを好んで利用していた。そして1970年代にはその全巻を買って、自宅の本棚に入れて、何かと活用していた。またドイツ語のブロックハウス百科事典とマイヤー百科事典は、1990年代に買い揃えて、研究用に活用してきた。とはいえ2000年代に入ってインターネットが普及し、私も遅ればせながらパソコンを使うようになり、ウキペディアをこれらの紙の百科事典の代わりに利用するようになった。もちろん古いことを知りたいと思った時には、その後も従来の紙の百科事典も利用している。

さてドイツの百科事典の先鞭をつけた出版者F・A・ブロックハウスは、出版者としては異色の経歴を持つ人物であった。彼は初めイギリス相手の織物商人であったが、ナポレオンの大陸封鎖令によってその商売がうまくいかなくなり、1805年に出版業に鞍替えしたのであった。そして商売の場所もアムステルダムからドイツのアルテンブルクを経て、出版業のメッカ、ライプツィヒに移し替えた。ブロックハウスは機を見るに敏な商売人の才能を発揮して、自分の出版社を大きく伸ばしていった。
そして1813年10月、反ナポレオン解放戦争の時、大きな好機が訪れた。この時反ナポレオンのヨーロッパ同盟軍(これにはプロイセン、オーストリアをはじめとするドイツ諸国も参加した)の大本営が一時、アルテンブルクに置かれた。ブロックハウスはこの機をつかんで同盟軍の司令官に拝謁し、「同盟国側からすでに出されたか、もしくはこれから出されるニュースや公式の情報を、印刷物を通じて人々に知らせ、さらに定期刊行物を通じて世に伝える」ことへの許可を獲得したのである。こうしてブロックハウスが<ジャーナル>と名付けた『ドイチェ・ブレッター』の創刊号が発行された。そしてその数日後には、ライプツィヒ近郊で同盟軍がナポレオン軍を撃破するという大事件が起こり、そのことを伝えた号外によって『ドイチェ・ブレッター』は一躍有名となり、発行部数も4000部となった。この成功によってブロックハウス社は、A・W・シュレーゲル、T・ケルナー、F・リュッケルト、M・v・シェンケンドルフといった当時有名だった数多くの作家を獲得することができたのだ。こうしてブロックハウスは出版社の経営基盤を固めていったわけである。

書籍販売業者の増大

ところで19世紀初頭には、ドイツには書籍販売業者の数は、あわせて500軒ほどしかなかった。そのうちの大部分は人口の多い都会(その10%がライプツィヒ)に集まっていた。当時読者が書物を読むためには、書店からの購入のほかに、行商人による訪問販売や読書サロン、貸出文庫の利用など、いろいろな手段方法があったことは、すでに述べたとおりである。書籍販売業というものは、一定以上の人口、人々の知的水準の高さ、そして業務許可を受けやすい条件などがそろっている土地でだけ、やっていけたのだ。さらに1848年の三月革命以前は、地域的な法律によって、書籍販売業に対する営業許可は規制を受けていたのである。そのため19世紀の前半では、書籍販売店の網の目はドイツ全国に、ごくゆっくりしたテンポでしか広がっていかなかった。それでも1816~1830年の間に、新たに300軒が加わり、「書籍商組合」が発表した数字によれば、1834年には859軒を数えている。

1830年ごろの書店の風景

そして19世紀の中ごろには後進的なエルベ川東部の地域を含めて、ドイツ全土には人口二万人につき一軒の割合で、書籍販売業者がいた勘定になる。そしてその後の鉄道の普及、郵便網の拡充、並びに1869年の「営業の自由」の導入以後、書籍販売業者の網の目はかなりの勢いで細かくなっていったのである。

第10表 ドイツにおける書籍販売業者数の変遷

第10表がそうした発展の様子を示  している。1870年代から80年代にかけてのいわゆる「創業者時代」に、書籍業者の数が5年で約千軒づつ増えているのは、とりわけ注目されるところである。こうした書籍業者数の急増に対して、従来から存在していた古手の書籍業者は、当然のことながら苦々しい思いをしていた。1850年ごろまでに既に存在していた書籍販売者や出版社は、たいてい印刷業から発展したものであった。
しかしそれより後の出版経営者の多くは、その経歴を書籍業の見習いから始め、次第に出版社主へと上昇していったのである。そして書籍業者、読者、及び著作者の間に見られた親密な関係によって特徴づけられていたゲーテ時代の出版の世界(19世紀前半)の独特な雰囲気は、1848年以後の書籍生産の増大によって、都市化、機械化、人口増大といった大きな流れの中で、急速に失われていったのであった。

こうした変化は、数多くの中小出版社や古本業者を不安にさせた。従来は出版業というものは、ほんの少人数でもできたもので、1850年ごろまではまだ出版者は自分以外の労働力として数人の手伝いがいれば十分なのであった。しかし1860年代に入ると、書籍業者の多くは新しい状況へと適応するために、その経営を根本から変革しなければならなかったのだ。書物の生産(出版)と配給(販売)は、以後どんどんと分化していく傾向が見られた。
たとえばシュトゥットガルトの老舗の出版販売業者メッツラーの場合は、1858年に、純粋な出版業者となったが、この時印刷部門も切り離された。また古く、特定の地域に限定されていた出版社は、近代的な専門企業へと脱皮が迫られた。というのは1800~1850年の間に、書物の生産は著しく増大し、販売業者や出版社は、とても全体を概観することなどできなくなっていたからである。

ちなみにドイツにおける新刊書の年間出版点数は、1800年に3000点であったものが、1834年には一万4000点に増えていた。このため著名な出版社でも、それぞれ特色ある専門分野をもって出版に当たるようになっていたわけである。例えばユストゥス・ペルテス社はもっぱら歴史や神学に、ヴァイトマン社は古典文献学に、そしてフイーヴェーク社は自然科学に、といった具合に。そして鉄道網の発達に見合ってベーデカー社は旅行案内書の専門店となったのである。ちなみに私も古本の赤い表紙のベーデカーの旅行案内書(ドイツ語で書かれた)を、神田の古本屋で見つけて、いまだに大切に持っている。
前述したコッタ社のようないくつかの大出版社だけが、精神科学ないし文学全般に及ぶ出版を手掛けることができたのである。

書籍流通の合理化

ここで書籍流通面における具体的な改善策や合理化策に、眼を向けてみよう。19世紀の前半、本を買いたい人は書籍販売業者(書店)に注文するのが普通であった。そして書籍販売業者は、在庫があればすぐに渡せるが、ない場合には、該当する本の出版社に注文カードを送り、それを受けた出版社が書籍販売業者に本を送るということになっていた。
ところが大きな出版社は、書店と直接こうした取引をせずに、自分のところの出版物の販売を、傘下の販売委託者に任せたり、あるいは独立の書籍取次業者に委託していたりした。この場合、書籍販売業者は、こうした取次業者に注文カードを送って、そこから本を受け取ることになる。ライプツィヒのような出版のメッカでは、こうした取次業者や販売委託者の数がもともと多かったが、19世紀の後半に入ってその数はますます増大した。

第11表(取次業者と販売委託者の数)

第11表は主な出版地における取次業者と販売委託者の数を示している。取次業者は多くの出版社の出版物を扱っている企業であり、販売委託者は特定の出版社の傘下に入っているものである。この表から分かるように、ライプツィヒには出版物の仲介業者がたくさんいたわけであるが、1842年「ライプツィヒ書籍商組合」の会長F・フライシャーは、「ライプツィヒ注文センター」というものを設立した。これは図書注文カードの簡素化を狙ったものである。つまりこのセンターで注文カードを一括して受け付けて、それをさらに取次業者や販売委託者あるいは出版社に回送するわけである。ここでは単に注文カードの取り扱いだけではなくて、請求書に基づく代金の決済も行っていた。これが第一次世界大戦後の1922年には、「書籍取引精算協同組合」という全国組織にまで発展し、第二次世界大戦後には、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に新たにこれが設立されている。

19世紀後半における書籍販売簡素化の動きの中で、もう一つ注目すべきことは、現金扱い専門の取次業者の発生であった。この種の会社の最初のものは、1852年にライプツィヒに設立されたルイ・ツァンダー社であった。このころなおドイツの出版社の多くは、自社の出版物をたいていは「仮とじ」のままで販売していた。そこでこの新たに生まれた取次業者は、仮とじ本を自分のところで製本してそうした完成本を自己の倉庫に保管していた。

製本についてみると、このころ従来の手による製本から機械による製本へと、移行したことが注目される。こうした機械製本の導入後は出版社も自らの采配で、自分のところの出版物を製本させるようになった。それ以後、現金扱いの取次業者はわざわざ製本する必要がなくなり、引き続き独立した書籍取次業者として仕事を続けていった。

いっぽう書籍業者にとって経費節減に役だったのが、図書注文カードと書籍小包の送付が、印刷物扱いとされ、一般の郵便物より割安の料金になったことである。これは1871年10月28日のドイツ帝国郵便法の規定によるものであった。ドイツ全土に書籍をこうした割安の値段で送れることは、書籍業界の合理化・近代化を大いに促進することになった。

投げ売り防止の試み

ところで書籍業界の恒常的組織設立へのそもそもの動機の一つに、書籍の投げ売りを防止することがあった。しかし1825年に「書籍商組合」が設立された後も、投げ売りの問題はいっこうになくならなかった。たしかに古い交換取引制度から条件取引制度へと転換した際に、定価制度が導入されはしたが、これが全面的に守られたわけではなかったのだ。これまで何度も紹介してきた書籍商ペルテスは1816年に公表した文書の中で、ドイツ全土で一律に定価制度が守られるべきことを訴えていた。

それに続いて「書籍商組合」の設立に先立つ1821年に、二人の出版者ドゥンカーとフンボルトは、出版業者の地域組合を設立することによって、投げ売り防止の監視機関にすることを提案した。この呼びかけに応じて、まずライプツィヒに1832年、この種の地域組織ができた。そしてそれに続いてシュトゥットガルト、テューリンゲン、ラインラント・ヴェストファーレン、南西ドイツ地域、ポンメルン、ベルリン、メクレンブルク、ブランデンブルクの各地域に、同種の地域組合が生まれた。そしてこれらの組織は、顧客割引つまり投げ売りの防止を、各出版業者に向かって訴えかけたが、あまり効果はなかったという。

「書籍商組合」は、1852年に改定した規定の中に投げ売りの禁止措置を入れたが、これも駄目であった。しかし書籍の投げ売り競争が続いたために、19世紀の中ごろには書籍販売業者は、次第に支払い困難に陥っていった。そのため書籍販売業者は1863年、独自の「書籍販売者連盟」を設立した。これは出版社からの不当な干渉や恣意を排除して、自分たちの一般的な利益を護ることを狙ったものであった。ここで投げ売りつまり割引販売には、出版社から書籍販売者にわたるときの出版社割引と、書籍販売者から顧客にわたる時の顧客割引の二つが存在した。しかしこの二つの問題はともに簡単に禁止できるような性質のものではなく、なおも尾を引くことになった。そして投げ売りの禁止と定価制度の確立は、ようやく1887年の<クレーナーの改革>によって、実現を見たのである。

ドイツ近代出版史(2)18世紀半ばから1825年まで

第四章 <読書革命>と文学市場の成立

新しい読者層の誕生

ドイツの出版界が古い交換取引から近代的な取引方法へと転換する過程で、忘れてならないのが、読者層の拡大と文学市場の成立という問題である。ここには「読書革命」という文化的要因と「文学市場」の成立という経済的要因が、密接にからみあっている。つまり文学を中心とする読書や書物の世界に、需要と供給という経済原則が登場してきたという事である。

ドイツにおける啓蒙主義の普及は、18世紀の後半に入るとその第二段階に至った。世紀の前半には、いわば啓蒙主義の第一世代と名付けることができる人々が、従来とは違った新しい読書階層を形成したのであった。その人たちは、世俗的な書物に永続的な関心を示していた商人階級をはじめとして、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主、そして商人の妻や娘などの一部からなっていた。

ところが世紀の後半になると、この人たちの息子たちや娘たちから成る新しい読者層の第二世代が登場してきた。彼らは、職業から見れば、学生、行政機関の若い事務員、商業従事者そしてその友人の女性たちであったが、これら第二世代の周囲には、すでにやや開放的な文学的雰囲気が漂っていた。当時、啓蒙思想は定期的に刊行されていた雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて伝達されていたからである。またこの人たちはある程度、娯楽的読み物にも興味を示していた。かくしてこれら第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀の後半を通じて、世俗的書物や娯楽的読み物を受け入れる主要グループを形成していたわけである。

とはいえ、こうした新しい読者層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって、なされたわけではない。その担い手となったメディアである出版業界における生産、販売の変化もまた、それに貢献したのであった。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版および販売の側面に影響を及ぼした、といったほうが良い。つまりこれら二つの側面の相互影響の中に、新しい文学的発展への基盤が生まれることになったのである。

ここで18世紀における読書傾向の世俗化を示す手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数の比較をしてみよう。その際R・ヴィットマンが行った見本市カタログに基づいた計算を手掛かりにすることにする。ただし18世紀後半になっても隆盛を見せていた翻刻版は、書籍見本市のカタログに掲載されていないので、ここでは除外する。

これによると西暦1700年の見本市カタログに掲載された書籍の総点数は、年間950点であったが、1800年になると年間4000点に増大しており、この100年間の合計は17万点と推定されている。
次にこの中でラテン語の書物が占める割合の時代的変化を調べてみると、

1650年・・・・・・71%
1740年・・・・・・27%
1770年・・・・・・14%
1800年・・・・・・ 4%

となっている。

つまりこの数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段にかわったことを、如実に示しているわけである。その際発行された書物のジャンルにも大きな変化が生じたことも注目される。1740年にはまだ発行された書物のほぼ半分が神学的・宗教的内容であったのに、1800年にはわずか10%強に減少しているのだ。(1740年の時点で、ラテン語の割合が27%となっているが、このころにはドイツ語で書かれた宗教書が多かったのだ)。法学および医学関係の書籍は、この間コンスタントに5~8%を占めていたが、宗教関係の書籍の減少に反比例するように、文学の割合が伸びている。文学作品は1740年には5%だったが、1800年には20%を超えている。とりわけ小説の伸びが著しかった。

いっぽう18世紀の末ごろになると、ドイツ語圏の書籍(新刊書)の発行地域の分布は、圧倒的に北ドイツが優位を占めるようになっていた。これを1780-1782年の時期に関してみると、

北ドイツ・・・・・・・70%
南ドイツ・・・・・・・19%
オーストリア・・・・・ 7%
スイス・・・・・・・・ 3%

となる。この数字からも北ドイツの優位は明らかであるが、新刊書の六分の一が出版のメッカ、ライプツィヒ市から発行されていたことを付け加えておきたい。ライプツィヒがドイツの著作家の世界の中心でもあったことを考えれば、この優位は何ら不思議なことではなかろう。<読書革命>と並行して、<たくさん書くこと>も進行していたのだ。1773~1787年の15年間だけでも、ドイツにおける著作者の数は、3000人から6000人に増大した。そして1790年には平均して4000人に一人の割合で著作者がいた勘定になる。もちろんこれには地域差がみられ、辺境のオストプロイセン地域では9400人に一人の割合であったが、ライプツィヒのあったザクセン王国では2700人に一人の割合であった。これがライプツィヒ市になるとその集中度は著しく、住民170人に一人が著作者であった。ちなみにプロイセン王国の王都ベルリンでは675人に一人、ウイーンでは8000人に一人の割合であった。

ところで1795年、ドイツ人の文学社会学者ともいうべきJ・G・ハインツマンなる人物は、当時のドイツにおける無名の読者大衆の成立に関して、注目すべき比較をもって、その社会的・文化的意義を明らかにしている。

「この世ができてから、ドイツにおける小説愛好の習慣とフランスの革命の二つほど、奇妙な現象は、いまだかつて存在したことはなかった。この二つの極端な現象は、ほぼ並行して成長してきたものである」

ここではフランス革命の担い手となる大衆の登場を、ドイツの読者大衆の登場と重ね合わせているわけであるが、その比較の是非はともかく、それほどこの<読書革命>は、当時のドイツの知識人から社会的事件として受け止められていたという事であろう。そこでは深く沈潜する「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行がみられた。                     ただこの<読書革命>の進行は、同じドイツ語圏の中でも地域によって、その度合いが異なっていたようである。北部、中部、南部、オーストリア、スイスなどと分けた場合にどうであったのか、ドイツ人の専門家の間でもまだ十分研究されていないようである。ただごくおおざっぱに言って、北ドイツでは18世紀の半ばにすでに新しい読者層が形成されていたのに対して、南ドイツではまだであったことが知られている。そしてその50年後にはこの北の優位に追いつき、かなり統一的な読書習慣(ないし嗜好)がドイツの書籍市場を支配するようになっていことも知られている。

しかしどのようにしてこの<読書革命>が南ドイツで遂行されたのかという点になると、専門的研究はまだあまり進んでいないようである。ただここで前述した翻刻本が、南ドイツの読者に対して、読むことへの渇望を充足させたことは間違いないようである。そこで次に翻刻本の普及と読者層の拡大の関係について少し考えてみよう。

翻刻本の普及と読者層の拡大

まず翻刻本の異常なまでの成功の決定的理由は、その価格の安さにあった。当時のドイツ人読者大衆の大部分にとって、この値段こそが書物を購入する際の決め手であった。読書と教養に飢えていた当時の中流階層の人々ですら、オリジナル作品8~10冊で我慢しようとしたか、それとも翻刻本を40~50冊購入しようとしたか、答えはおのずから明らかであろう。
オーストリアの有名な医者アントン・フォン・シュテルクは1790年に、廉価な翻刻本の医学書を通じて、同地域の医者や医者の卵が医学の知識を習得したことを証言している。そしてそれによって辺境地域の住民の健康改善に著しく貢献したことを強調している。また学校の教員、金持ちの家の家庭教師、村の司祭、学生などあまり収入の良くないインテリ予備軍にとっても、翻刻本を購入するか、それとも全く書物を手にしないか、どちらか一つの選択しか残されていなかったのである。安い書物を所有し、それを読むことこそが、人々の読書能力の涵養を可能にしたわけである。読書文化の初歩段階にあって、翻刻本の利用が果たした役割を低く見ることは、決してできない。

ただ一口に翻刻本の普及といっても、その黄金時代である1765~85年のころと、それ以降とでは、出版された書物の傾向にかなりの相違がみられたことに、注意する必要がある。この時期に活躍した翻刻版業者の第一世代と呼ばれるトラットナー、シュミーダーなどが、啓蒙期の純文学作家の全集の発行など、外観・内容ともに質の高い出版活動をしていたことは、前回のブログの第三章「翻刻出版の花盛り」のところで述べたとおりである。

ところが1785~90年ころになると、翻刻本業者は純文学に目を向けなくなっていった。その頃現れてきたゲーテ、シラーの古典主義文学は一種の「高空飛行」を行っており、それについて行けたのは、ごく少数の読者だけであった。この古典主義とそれに続くロマン主義の詩文学に翻刻本業者はもはや関心を示さなくなった。先には啓蒙主義の純文学作品をシリーズの形で出版したシュミーダーは、1790年以降にはもはや古典主義文学やジャン・パウル、ティークなどのロマン主義文学は翻刻出版しなかった。

その代わりに後期啓蒙主義のポピュラーな哲学者や歴史家に目を向けるようになった。純文学はこのころになると、社会的、政治的な解放を目指していた一般市民層から離れて、人の内面へと向かっていたからである。啓蒙主義に強く傾いていたこれら翻刻本業者の第一世代にとって、純文学はもはや有益な活動分野ではなくなってきたわけである。

ちょうどこのころ第二世代の翻刻本業者が新しい計画を携えて登場してきた。この世代の業者は、偉大なる啓蒙主義から古典主義、ロマン主義へと続くドイツの純文学を敬遠した。そして営業上永続的な成功が見込まれる大衆的な作品に目を向けるようになった。名のある作家の野心的な全集の代わりに、ヴァリスハウザー社の「ウイーン叢書」のような大衆小説シリーズが登場してきた。そして翻刻出版は次第に投機的な傾向を強め、粗製乱造の気味を加えていった。かくして翻刻本業者の名前は質の低い出版業者の代名詞となっていったのである。また名前すら明らかにしない匿名の翻刻本出版社も出現するようになった。

高級な読書サロン

ここではオリジナル版であれ、翻刻版であれ、世俗化され量産されるようになった書物と、人々はどのように接触していたのか、見てみることにしたい。
新しい読書層の誕生といっても、18世紀も末ごろになると、社会階層的に見れば、上流階層から都市の小市民階層まで広範に広がっていた。地方都市の名士ともいうべきヒルデスハイムのギムナジウムの校長K・H・フレマーは、1780年に次のように書いている。「今から60年前には、本を買う人間といえば学者と相場が決まっていた。ところが今日では本を多少なりとも読むことができない婦人を見つけるのは容易ではなくなっているぐらいだ。読書する人は今ではあらゆる身分にわたり、都会であろうと地方であろうと見受けることができる」
ただこの言葉は地方の校長先生の個人的な印象を述べたもので、統計的にはあまり信頼できるものではないと、私には思われる。

とはいえこうした状況の中で、町や村の名士や有力者が利用していた読書のための施設として、レーゼカビネットとかレーゼゲゼルシャフトといわれるものが生まれてきた。これらは元来フランスから来たもので、「読書サロン」といった感じの施設であった。例えばフランスのアルザス地方の町コルマールは、ドイツ人もたくさん住んでいたところであったが、この町に1769年からこの読書サロンがあった。ここでは教養も財産もある人達が毎月のように集まっては、ドイツ語やフランス語の本を批評しあったという。

あるレーゼ・カビネット(18世紀後半)

こうしたサロンは18世紀の半ばから末ごろにかけて、ドイツ全域で花開いた。書店は人々のために読書室を設け、そこに新刊書や新聞・雑誌類を置いていた。そうした場所を人々は、好んでムゼウム(博物館)とも呼んだりしていた。人々はそこにやってきて、新しく出た本を読んだり、互いに意見を交換しあったりした。そしてこの場所は「遊んだり、踊ったり、食事をしたりするところ」としても利用されるようになった。つまりここは読書サロンとはいいながら、もっと幅の広い総合的な社交の場でもあったのだ。

現に西南ドイツのシュトゥットガルトにあった読書サロンの1795年の規約には、次のように書かれている。「何びとも読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心を満足させるため、あるいは多様な知識の普及のため、さらに趣味嗜好を洗練させるため、そして社交生活の喜びのために、もっとも目的に叶った手段が提供され、それらによって計り知れない利益が得られるのだ」。こうした高級なサロンであったために、その会費もきわめて高かった。そのため一般庶民にとっては高嶺の花の存在で、もっぱら特権身分の人のために作られていた。そして啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になっていた。

1791年、北ドイツの都会ブレーメンには36の読書サロンがあり、併せて2340人の会員がいたといわれる。これほど多くの会員がいなくても、同じようなサロンは、リューベック、ベルリン、フランクフルト(オーダー)、ヴィッテンベルク、ゲッティンゲン、マインツ、シュパイヤー、ヴュルツブルク、カールスルーエ、シュトゥットガルト、ウルム、レーゲンスブルク、ほかにもあった。そしてこの読書サロンは、もっと小さな田舎町にまで広がっていった。その会員には、それぞれの地域の名士であった、司教や牧師、学校の教師や地区参事会会員などがなっていた。農民や労働者は、こうした読書サロンに入ることはできなかったのである。

都市の貸出文庫

「読書サロン」が社会の上層を占める人々の社交と教養の場所であったのに対して、広く国民各層が実際に本を読むのに好んで利用したのが「貸出文庫」であった。これはは要するに本を一定期間、金をとって貸し出す貸本屋であった。18世紀の前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。啓蒙主義の思想家ルソーも子供のころ、ジュネーヴの悪名高い貸本屋から、良い本、悪い本取り交ぜて店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすべて読んでしまったことが、例の『懺悔録』に書いてある。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィヒでのことであった。その少し後の1772年ミュンヘンの宮廷顧問官付き書記官J・A・クレーツは、自分が経営していた書店を移転した際に、店にあった本を人々に貸し出すことを明らかにした。しかしこの新しい試みは、借りた人が本を汚したり、返さなかったりして、結局失敗に終わったという。

とはいえ18世紀の末ごろになると貸出文庫は、ドイツでも次第に盛んになってきた。そのころには、うまくいけば貸本業のほうが書店で本を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あった本が、1806年には4000冊に増えていた。また南ドイツの小さな大学都市ランツフート在住のザンデルスキーの貸出文庫の書物は、1814年の1200冊から1820年には2526冊になっていた。さらに北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫は以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その種類は都市の規模や性格により、またその所在した地区によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したため、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から立派な建物の貸し出し図書館まで、いろいろあったわけである。その意味で貸出文庫は、最も民主的な図書貸出し施設であったのだ。

ところでロマン主義の作家ハインリヒ・フォン・クライストは、1800年9月14日付けの婚約者宛の手紙の中で、南ドイツのヴュルツブルクの貸出文庫を訪れた時の模様を次のように書いている。

「ある町の文化の度合い、ないしそこに支配的な趣味嗜好の度合いを、いち早くしかも正確に知ることができるのは、なんといっても貸出文庫をおいてほかにはないでしょう」

その貸出文庫を訪れたのは法律家、商人、既婚の女性などであったが、そこにはヴィーラント、シラー、ゲーテなど当時の高級文学の作品は置いてなかった。そこでクライストが見たのは、当時流行していた大衆文学作品ともいうべき騎士物語ばかりだったという。

同じくロマン派の作家ヴィルヘルム・ハウフも、4000~5000冊の本を持つ、ある貸出文庫を利用していた客の読書態度などについて、興味深い分析をしている。

① 貸出文庫の本は睡眠薬の代わりである。
② 緊迫感にとんだ最初の部分は夜のうちに読んでおいて、翌朝その続きを読む。
③ ジャン・パウルはお呼びでなく、代わりにクラーマーの『エラスムスの陰謀家』とかクラウレンの作品が好まれる。
④ 読者は若い女性が多い。
⑤ 貴族も召使も同様に、ヒルデブランドの『ヘルフェンシュタイン城』や『火を吹く復讐の剣』といった騎士物語を読む。
⑥ 軍人はウォルター・スコットの作品を読みたがる。スコットはドイツで6万部も出回っている。
⑦ スコットのドイツ語版は、チームワークによる「シェーラウ」の翻訳工場で翻訳されている。

ハウフやクライストが、子細に観察したように、貸出文庫を訪れていたのは「読書する大衆」だけではなく、上層の人々もいたのである。またここにやって来たのは年配の人間だけではなくて、若者もいた。ロマン派の詩人アイヒェンドルフも若き日には、ルソーと同様に故郷ラティボアーの貸出文庫に出向いて、手当たり次第に読んでいたのである。クライストやハウフの証言からも断片的に明らかになったことだが、18世紀の末から19世紀を通じてドイツで栄えた貸出文庫の中身は、主として小説か戯曲であったようだ。

これをブレーメンのガイスラー貸出文庫が1829年に刊行したカタログによって詳しく見てみることにしよう。ここでもやはりその扱っている本の種類からいって一番多いのが小説で、二番目が戯曲であった。その他の分野、歴史、政治、紀行文、詩、地誌、年鑑、児童文学、ジャーナル、月刊誌などは、これにくらべれば、ぐっと比重が低かった。小説の中では、クライストも書いていたように、騎士物語や盗賊物語が多かった。

そこにはイギリス人のウオルター・スコットやアメリカ人のクーパーなど英米の人気作家の翻訳物が混じっている点が注目される。そのほかの作家は今日ではほとんど忘れ去られたドイツの大衆小説作家であった。

しかし18世紀の後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってさらに読者層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、以後大きな文学市場を形成していくのである。

第五章 <書籍商組合>結成への道

ライプツィヒの「書籍商取引所」の誕生

前回のブログ「ドイツ近代出版史【1】18世紀半ばから1825年まで」の第一章「近代的書籍出版販売への転換」のところで述べたように、現金取引方式および条件取引制度の成立、さらに委託販売方式の導入などによって、ドイツの書籍出版販売業界は18世紀の末に、近代化へ向けて力強い歩みを示し始めた。書物は、古い交換取引の時代のように物々交換されるのではなく、貨幣によって支払われることになった。

条件取引制度というのは、次のようなシステムであった。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内にその代金の精算を行う(初めは春と秋の年2回であったが、やがて秋の精算はなくなり、春の復活祭の時期だけに行われるようになった)。そしてこの期間に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については店頭価格の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

その際問題となったのがライプツィヒでの精算業務のやり方であった。精算したいと思っている書籍業者は、ライプツィヒ市内の様々な場所で相手を探さねばならないという、厄介な問題があったのだ。こうした精算業務の簡素化・統一化のために、ライプツィヒの書籍業者G・J・ゲッシェンは、1791年に取引事務所を開設しようという考えに取りつかれた。しかしこの考えはその一年後に、同じくライプツィヒの書籍業者P・G・クンマーによって実現されることになった。彼はライプツィヒ市内のリヒターという喫茶店の三階を事務所として借りたわけである。

しかしこの場所は見本市会場からやや遠いところにあったので、ポツダムの書籍業者K・C・ホルヴァートは、同じ目的のために書籍街の中にあった大学の建物を借りた。そして彼はこの建物を家賃をとって業界仲間にまた貸しした。この建物の中で初めて支払業務が行われたのは1797年のことであったが、その対象はライプツィヒ以外の書籍業者であった。ライプツィヒの書籍業者は、こうした施設を使用することを初めはためらっていた。しかしやがて利用者が増えていったため、いつしかこの建物は見本市の開催中、「書籍商取引所」と呼ばれるようになった。(1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」という名称も、これに由来するのだ)。

出版業界体質改善の動き

いっぽう18世紀から19世紀への変わり目ごろ、ドイツの書籍出版量及び書籍業者の数は著しく増大した。このため書籍販売面での互いの競争が激化し、個々の書籍商の中には「投げ売り」つまりダンピングによって商売を乗り切ろうとするものも出てきた。顧客割引率を従来の10%から25%さらに50%にまでして、何とか商品としての書物を売りさばこうとしたのである。

こうした動きを憂慮したホルヴァートは、1802年の春の見本市に向けて一つの改革案を提出した。そこで彼は、顧客割引率の制限、新規の業者に対するクレジット保証の制限、見本市決済のための特定の為替相場の導入などを提案した。この提案に対しては40人の書籍業者が賛意を示した。なかでもゲッシェン(1752-1828)は、『書籍販売に関する私見』という文書の形で、これに応えた。この中で彼は「顧客割引率はせいぜい10%が限度であり、できることなら廃止すべきである。非書籍商に割引を認めることは無意味な投げ売り以外の何ものでもない。書籍業者のあいだでも、割引率は33・3%を超えるべきではない」と記し、商人としての尊厳と道徳心に訴えた。そして書籍取引所組合の設立を説き、「その組合のための資金と品位と持続性を手に入れよう」と呼びかけた。ちなみにゲッシェンは、作家シラーの友人でもあり、その作品を出版したライプツィヒの名門出版社の主であった。

G・J・ゲッシェンの肖像

このゲッシェンの提案と真っ向から対立したのが南独エアランゲンの書籍商パルムの提案であった。そこで彼は古い交換取引に戻ることを主張したが、他のほとんどの書籍商は交換取引に反対の態度を示していたので、一人孤立することになった。ともあれ19世紀の初めには出版業界の体質改善に対して多くの書籍業者が強い関心を示すようになり、改革のための集会まで開かれる運びとなった。そして1803年に開かれた二回目の集会で、30人の委員からなる新しい委員会が結成された。

ところがドイツにおいて書籍商の組織を結成しようという動きは、ナポレオン戦争によって、ひとまず頓挫することになった。ナポレオン軍との戦いの敗北によって、1806年8月、神聖ローマ帝国は消滅し、ドイツ語圏地域は西・南地域にできたライン連邦、東北部に領土を縮小させられたプロイセン王国、そしてオーストリア帝国に分割された。そしてナポレオン支配下のドイツの出版界は、書物の輸出や国内取引に対する妨害や厳しい検閲によって、一時的にではあれ、全体として大損害を被ったのであった。ニュルンベルクの書籍商パルムは反仏的なビラ『深い恥辱の底にあるドイツ』を発行したために、ナポレオンの命令によって射殺された。またハンブルクの書籍商ペルテスは1811年1月、知人に宛てた手紙の中で「全体として希望の片鱗すらうかがうことができません」と述べている。

ナポレオン戦争後の状況

しかし1813年の解放戦争の結果ナポレオン軍が敗北し、ナポレオンがパリに逃げ帰るに及んで、フランスによるドイツ支配は終わりを告げた。そして翌年のナポレオン失脚の後を受けて、ヨーロッパ各国の王侯や政治家たちはウィーンに集まって、戦後のヨーロッパの新秩序について協議することになった。こうした新しい情勢に呼応して、ドイツの書籍商たちのあらたな協力態勢への動きが、再び始まった。

1814年4月春のライプツィヒ書籍見本市において、6人の代表からなる委員会が再び結成された。この6人とは、ライプツィヒ出身のクンマー、フォーゲル、リヒター、ワイマール出身のベルトゥーフ、テュービンゲン出身のコッタ、そしてリガ出身のハルトクノッホであった。この委員会はドイツ書籍業界の関心事をウィーン会議(1814・15年)に持ち出すことによって、全ドイツ的な問題にしようと目論んだ。

いっぽう神聖ローマ帝国の解体後、統一組織を欠いたままになっていたドイツ諸国の再組織の問題も、ウィーン会議の重要議題の一つであった。結局これは大中小39の領邦国家を集めた緩い組織としての「ドイツ連邦」の結成によって決着を見ることになった。書籍商委員会を代表してコッタ及びベルトゥーフの二人は、ウィーン会議に働きかけて、新しく生まれるドイツ連邦の在り方を定める連邦規約の中に、ドイツ書籍業界の関心事を織り込むことに成功した。その結果、連邦規約第18条に、次のような文章が挿入されることになった。

「連邦議会はその最初の会議において、出版の自由に関する指令並びに翻刻出版に対する作家及び出版主の権利の確保に関する指令の作成に従事するであろう」

そしてこのための公聴会が連邦議会において開かれる見通しも、その際明らかになった。そうした期待の中でハンブルクの書籍商ペルテスは1816年匿名で、『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書を発表した。この中でペルテスは、翻刻出版を激しく糾弾した。しかし書籍業界にとっては最大の関心事であったにもかかわらず、連邦議会での審議は遅々として進まなかった。

そこでいくつかの出版社は、自らイニシアティブをとって動き出した。例えば中部ドイツのハレの4つの出版社は、1816年いかなる翻刻出版も拒否することを約束した。また西南ドイツのハイデルベルクの出版主モールは、次の春の見本市で翻刻出版業者とのあらゆる関係を絶つよう、ドイツの書籍商に要請した。さらに1817年に結成された「ドイツ書籍商選考委員会」は、翻刻出版をはじめとするもろもろの問題の解決に向けて取り組むよう委任を受けた。こうした情勢の中で、出版社の版権や著作者の著作権を保護しようという考えが、次第に具体化してきた。そして1819年2月に連邦議会に提出された法案の中には、10年ないし15年の保護機関が定められていた。

しかしウィーン会議後のドイツを牛耳っていたオーストリアの宰相メッテルニヒは、旧体制を守るために反動的な政策をとることも辞さなかった。そして1819年8月のカールスバートの決議によって、大学法や扇動者取締法などと並んで、厳しい出版法が定められた。これによると新聞・雑誌そして320頁以下の出版物はすべて、厳重な検閲のもとに置かれることになった。
こうして出版の自由は踏みにじられ、同時に精神的財産(知的所有権)の保護という考え方も大きく後退することになった。

いっぽうこれとは別に、南独ニュルンベルクの書籍商レヒナーは、1806年以来ライプツィヒから離れてニュルンベルクに独自の書籍見本市を設立する考えを抱き、その線に沿った動きを示していた。そして1819年この考えを関係者の前に持ち出し、人々の議論に供した。しかしこの計画は、同じニュルンベルクの同業者カンペ、マインベルガー、シュラークなどの反対にあって挫折した。

ところがニュルンベルク見本市設立計画は1822年になって、別の方面から再び持ち出された。今度の計画は書籍商ではなくてバイエルン王国学士院の事務総長シュリヒテグロルからのものであった。この人物はニュルンベルクの書籍商と、見本市プロジェクトをめぐって交渉を行った。その際書籍商側はバイエルン教科書出版会社の廃止を持ち出した。またバイエルン政府も度重なる審議の後、書籍見本市設立に関する報告書を提出したりしたが、なかなか結論を得るに至らなかった。

「書籍商組合」の結成

そうこうするうちにライプツィヒでは、ライプツィヒ以外の書籍商を中心に、先にホルヴァートが明らかにしていた書籍取引所の設立へむけて急展開を見せはじめていた。先の「ドイツ書籍商選考委員会」がそのイニシアティブをとったのだが、こうした取引所を必要としない地元のライプツィヒの書籍業者はいぜんとして冷淡な態度をとり続けていた。そのためこうした態度に対しては外部の書籍商からはげしい非難の声が上がり、結局ニュルンベルクの書籍商フリードリヒ・カンペ(1777-1848)の指導の下に、1825年4月30日、「ドイツ書籍商取引所組合」が設立されたのであった。この名称はドイツ語の表記を正確に訳したものであるが、日本語の文脈の中では分かりにくいので、今後は「ドイツ書籍商組合」ないし単に「書籍商組合」と表記していく。

この日「取引所規約」には、ライプツィヒの書籍業者6人及び外部の書籍業者93人が署名した。この93人のうち70人が北・東部からの、そして23人が南・西部からの業者であった。またこの組合には外国人も会員として加盟できることも定められた。初代の会長(任期1825-28)にはカンペが就任し、その他の幹部としてライプツィヒ外の書籍業者ホルヴァートなど3人が選ばれた。

F・カンペ(「書籍商組合」の創立者)の肖像

こうして「ドイツ書籍商組合」は、ドイツの出版界全体の公の組織となったのである。この組織には、出版界に確固たる秩序を築き、書籍取引の際に生ずる誤解を取り除き、書籍業界の利害を守るべき任務が課せられた。そして長期的な展望のもとに、ドイツの出版界全体をリードしていくことも、新たに生まれた書籍商組合の使命の一つとなった。
この組織は「よそ者」であるニュルンベルクの書籍商カンペの断固たる措置によって、最終的に出来上がったのであった。このカンペはすでに1819年にニュルンベルク書籍見本市設立計画に反対していたが、1825年12月にバイエルン国王ルートヴィッヒに謁見したときにも、改めてニュルンベルクのプロジェクトに反対する態度を明らかにしたのだ。

それはともかく「書籍商組合」の設立によって、ドイツの書籍出版販売の世界は、「疾風怒濤の時代」に終わりをつげ、新しい時代へと踏み出していったのである。個々の企業の商業上の利害を超えて成立したこのドイツ出版界の大同団結には、ドイツの政治的統一(1871年)よりはるかに先行した大きな意義が与えられねばなるまい。