第4章 東ドイツにおける出版事情
(1)社会主義社会における出版の役割
東ドイツにおいては、書籍や出版活動は、当初から「社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」とされていた。これに関連して、東ドイツの研究者のブルーノ・ハイトは1972年に、その『ドイツ民主共和国における書物の役割について』の中で、次のように述べている。
「書物はそもそも初めから社会主義社会の建設を手助けしてきた。書物はソビエト連邦ならびにその他の社会主義諸国との友好協力関係の促進に寄与してきた。書物は労働者や協同組合所属農民が、文化や芸術を自分のものにするのを手助けしてきた。書物は資本主義と社会主義の間の精神的な大論争に答えを与えた。そして今日、書物はドイツ民主共和国の発展した社会主義社会の形成に、寄与しているのだ。書物は社会主義的態度および信念の形成に当たって、何ものにも代えがたく、しかもその信念こそは社会主義の勝利のために、重要にして不可欠な前提条件なのである」
このように東ドイツでは、書物は一つの明確な目標を達成するための手段であると規定され、その出版活動もこうした前提条件の下で、はじめから独自の発展を見せてきたわけである。そしてこの観点から、何はともあれマルクス・レーニン主義の古典作品が、さまざまな版にわたって出版されたのである。さらにソビエト文学とならんで、反ファシズム・民主主義的な作家の作品が、民主的ドイツ文化の建設に当たって、大きな精神的な力となるものとされた。またこうした意味合いから、さまざまな形での読書会や作家との対話集会、文学的討論会などが奨励された。毎年「書籍週間」や「児童文学の日」が定められ、労働者の祭典などには「文学プロパガンダ的催し」も開かれたりした。
先にも述べたように「書物は社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」との至上命題が、出されたわけであるが、こうした原則は再三再四、体制側の代表によって、出版関係者に向かって呼びかけられた。出版界をその管轄下に置いていた文化省のJ・R・ベッヒャー大臣は、1953年に出版関係者を前にして、こう語った。「出版者も文化政策の推進者であり、自分が携わっている分野において、文化政策を推進していかなければならないのだ」。またウルブリヒト社会主義統一党第一書記は、1959年に開かれた作家会議に出席して、社会主義的社会秩序のなかでの作家の役割について、次のような演説を行った。
「作家は、社会生活のただなかに身を置き、社会生活の発展に対して自ら協力するときにのみ、その任務を果たすことができる。・・・われわれの文学・芸術は、ドイツの最良の人道主義的伝統の維持ならびにドイツ民主共和国における社会主義の勝利に奉仕すべきものである」
また出版社の活動については、1946年4月に開かれた社会主義統一党の創立大会の決議の中で規定され、その後1963年の第6回党大会で改めて確認されている。それはドイツ民主共和国における社会主義の全面的かつ完全な建設計画の一環として、組み込まれているものである。そしてその国法上の基盤は憲法にあった。1968年4月に改定された東ドイツの新憲法の第25条には次のように書かれている。
「ドイツ民主共和国の全ての市民は、教育を受ける平等の権利を有する。・・・全ての市民は、文化的生活に関与する権利を有する」。また第17条には「学問研究およびその知識の応用は、社会主義社会の根本的基礎であり、国家によってあらゆる面にわたって奨励される」と書かれており、さらに第18条では「働く者の文化的生活の促進および国民的文化遺産と世界文化の保護」がことさら強調されている。
(2)東ドイツ出版界の変遷
出版界の概況
社会主義国の東ドイツにとって出版は、前節でみたように特別の役割を担わされていたわけであるが、その40数年にわたる歴史をこれから概観することにしよう。ただし史料的制約もあって、西ドイツの場合に比べて、ごく簡単なものにならざるをえない事を、初めにお断りしておく。ちなみに東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1949年に発足し、1990年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収合併された形で消滅した。とはいえ1945年5月にナチスドイツが敗北し、ドイツの東北部をソ連が占領統治し始めた時点から、その出版界はのちに西ドイツとなる西側地域とは、まったく違った形で始まったのだ。
さて1949年に生まれた東ドイツ(ドイツ民主共和国)の出版界は文化省の管轄下にあり、主な書籍出版社と雑誌出版社は同省から認可を受けて営業していた。認可を受けていた出版社の数は、1970年代半ばの時点で、全部で78あったが、この数は1985年になっても変わっていない。これらの出版社は専門分野別に分けられており、21が政治・社会科学・自然科学文献の、4が医学・生理学文献の、15がその他の専門文献及び教科書の、3が地図の、6が児童及び青少年向け書籍の、16が文芸書の、3が美術書の、7が音楽書及び楽譜の、そして3が宗教書の出版社である。
いっぽう経営形態別にこれらの出版社を分類すると、国営が34、社会団体所有のものが22、国家関与企業が5、そして個人所有のものが17となっている。このほか国家の認可を受けていない小規模の出版社が20ほどあったが、そこでは暦、絵本、塗り絵帳、職業指導書、教育用ゲーム道具などが取り扱われていた。
東ドイツの出版社の中には、ライプツィッヒの伝統的な出版社もあれば、1945年以後に新たに創立された出版社もあった。しかし首都の東ベルリンには32もの出版社があつまり、東ドイツ全体の出版点数のほぼ三分の二を出版していたのである。その一方ライプツィッヒには38の出版社が集中し、数からいえば東ベルリンを凌駕していたが、出版点数は全体の23%にとどまっていた。とはいえ東ドイツの出版社は、ほとんどこの二つの都会に集中していたわけである。
それでは書籍生産の規模はどれぐらいだったのであろうか。そのことを示しているのが次の表である。
年 | 年間発行点数 | 年間総発行部数 | 一点当たりの平均部数 |
1949 | 1,998 | 3340万部 | 16,700 |
1954 | 5,096 | 7000 万部 | 13,800 |
1959 | 5,631 | 8880万部 | 15,783 |
1964 | 5,604 | 9360万部 | 16,723 |
1969 | 5,169 | 11400万部 | 22,050 |
1985 | 6,471 | 14460万部 | 22,350 |
(出典:H.Widmann, Geschichte des Buchhanndels, 1975.S.212
1985年度だけは、Lexikon des gesamten Buchwesens.II, 1989, S.289)
それでは次に東ドイツ出版界の変遷を、1945年から1970年代まで(史料的制約から)を中心に、順次たどってみることにしよう。
初期の建設期(1945-1949)
この時期はまだ東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国されておらず、ソ連の占領時代に相当するが、なにごとによらずソ連占領軍政府の命令が絶対的な時代であった。まずソ連軍政府布令第二号によって民主主義的な諸政党が許可されたが、その筆頭に立ったドイツ共産党は、1945年6月国民に向かって、ある呼びかけを行った。その中で、ヒトラー体制の残骸の完全な一掃に次いで、すべての学校および教育施設における真に民主的で進歩的で自由な精神の保持と、学問研究及び芸術創造の自由が図られるべきことが謳われた。
そしてこの呼びかけに基づいて「ドイツの民主的再生のための文化連盟」というものが設立された。そしてこの組織の下に、出版関係では、何はさておきファシズム的思想の所産を含んでいるような著作物は出版しないように、との路線が示された。そのうえで新しい理念に合致した教科書を発行し、第三帝国時代に追放されたり、弾圧を受けたりした人の著作物の名誉回復を図ることが指示された。そしてさらに学問的生活の再建のために必要な専門書や専門文献の出版が促進されるべきことも指示された。その際出版界の再建のために、ソ連占領軍政府の文化担当官が援助の手を差しのべた。
かくして早くも1945年夏に、新しい出版社がいくつか設立されたのである。まずドイツ共産党の出版社として、「新路線出版社」が作られたが、それから数か月後には「ディーツ出版社」(ベルリン)が生まれた。また教科書出版社としてライプツィッヒに「人民と知識」が活動を始めた。さらに文化大臣ヨハネス・ベッヒャーの後押しで、「アウフバウ(建設)出版社」(ベルリンおよびヴァイマル)が設立されたが、この出版社は設立三年後には150点の書籍を刊行していた。そこにはJ・R・ベッヒャーやアンナ・ゼーガースなどの当時の現存作家の作品のほかに、ゲーテ、シラー、ハイネ、シュトルム、ケラーなどの古典作品も含まれていた。こうして同出版社は、東ドイツの文芸書出版社の筆頭の地位を占めるようになったのである。
これに続く数年の間に、さらに一連の出版社が設立されていった。学術出版社として「アカデミー出版社」(ベルリン)が作られたあと、1948年に「国民出版社」が誕生した。またマルクス・レーニン主義及びロシア・ソ連の偉大な作家の作品を刊行する出版社として「ソ連軍事管理出版社」及び「モスクワ外国文学出版社」が、1946~1949/50年にかけて、存在感を示していた。
いっぽう1946年に、国民教育担当官庁に出版部門及び出版担当の「文化諮問委員会」が設けられた。そして出版社の再認可、出版物の許諾申請、出版編集計画などの審査業務が、この「文化諮問委員会」に委ねられた。その結果、百年以上の歴史を有したものも含めて、たくさんの出版社が1946~47年にかけて、「国営企業」として引き継がれた。その主なものを挙げると、ライプツィッヒに本拠を置いていた「国営文献目録社」(1826年創立)、「国営ブロックハウス出版社」(1805年創立)、「国営ブライトコップ・ヘルテル音楽出版社」(1719年創立)、「トイプナー出版協会」(1811年創立)、「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」(1828年創立)、「インゼル出版社アントン・キッペンベルク」(1899年創立)、そしてハレに本拠を置いていた「国営マックス・ニーマイヤー出版社」(1869年創立)などである。結局1949年までに全部で160の出版社に営業許可がおりたが、その後はこの数はかなり減少して、前述のとおり78となった。
いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)に対しては、ソ連軍事政府によって、1946年4月にその活動再開が許可された。これによって同組合が発行してきた『ドイツ書籍取引所会報』と『全国図書目録』の発行も、再び軌道に乗るようになった。出版社の活動に対するその後の指針として、第一次二か年計画(1949/50)が定められ、その詳細については「ドイツの学術文化の保持発展に関する指令」(1949年3月)によることとされた。また専門技術者用の文献を発行するところとして「専門書出版社」が1949年にライプツィッヒに設立され、さらに児童書発行所として「児童書出版社」が同じ年に設立された。
ここでこの時期の書籍販売面に目を向けることにしよう。第二次大戦直後は、この分野ではなお著しい混乱が支配していたが、やがて1946年9月になって、ソ連軍事政府の命令によって、「ファシズム関係図書の絶滅」が図られることになった。その前の1945年8月~1946年8月の時期には、ソ連占領地域では、書物960万冊、小冊子180万冊そして雑誌350万冊が発行されていたのだ。
また書籍取引の中心的な機関として1946年に、「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」が設立された。そして書籍販売店はこのセンターを通じて、出版社と取引をし、代金の清算を行うことになった。書籍販売店の営業許可は、担当官庁から下されることになった。また初期の書物不足から、大学や専門学校に特別な役割が課された。さらに貸本店の在庫図書のためにも、相応の措置が取られねばならなかった。この時期の終わりに、書店は1600店、書籍販売所は1300か所を数えた。
国家建設後の発展の時期(1949-1955)
1949年5月、西側三占領地域からドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生したが、その後を追うようにして同年10月7日、ソ連占領地域からドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれた。その直後の11月23日、同国初代のグローテヴォール首相は、「人間精神の成果をすべての人々の手に届くようにし、加えて真に人道的な文化を発展させることこそが、ドイツの精神労働者の特別な任務である」と語っている。ここでは学者、知識人の役割を説いたのであるが、翌1950年3月に出された「ドイツ人民の先進民主文化の発展ならびにインテリの労働・生活条件のいっそうの改善のための指令」の中で、とりわけ学術出版社及び図書館が学術書を支援すべきことが謳われている。また同指令第6条第4項では、ドイツ民主共和国の外部で出版される文献や科学技術研究に必要な文献を調達するために、センターが設立さるべきことが記されている。さらに同じ指令の第10条第1項には、働く人民の文化水準向上のために、過去及び現在の最も進歩的で最良の文化作品を、企業や地方で働く創造的な人々に与えるべきことが定められている。
次いで1950年7月に開かれた政権党である社会主義統一党の第3回大会で、出版界にとって重要な意味を持った方針が打ち出された。つまり1951-55年の五か年計画で、出版の規模を二倍にすることが定められたのである。
いっぽう「進歩的著作物の発展に関する指令」に基づいて、書籍出版のための新しい役所が設立された。この役所の役割は、第一に中央の調整と指導によって、あらゆる分野の著作物を振興発展させること。第二に専門家の鑑定によって出版物の質の向上を図ること。第三に書籍及び雑誌出版社の設立を認可すること。第四に出版編集作業に対して絶えず助言を与えること。そして第五に書籍及び雑誌出版のために用紙を分配することなどであった。
この役所は1951年11月に、ベルリンで第一回の出版社会議を開いた。その後1952年10月にライプツィッヒで第二回会議、そして1953年11月に同じ場所で第三回会議を開催した。また1952年の社会主義統一党大会で、文化大臣ヨハネス・ベッヒャーは、「知識人と労働者の連携の緊密化」を訴えた。そして1953年5月の党中央委員会政治局の決議の中で、文芸批評、図書目録、進歩的書物の宣伝の促進が謳われた。その具体的方策として、例えば地域・企業新聞を含めたあらゆる新聞に、新刊書の書評欄を設けることが訴えられた。
書籍販売面ではこの時期、進歩的著作物を広く人々に供給するという意味合いで、国営の「人民書籍販売」という概念がしきりに宣伝された(1951年8月の指令)。その一方でなお私営の書店も存続していたが、それらの書店は「民主的立法の基盤の上に立つよう」にと、指示がなされた。1952年になると先の「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」の機能が拡大された。つまり現代的機能を備えた社会主義的な書籍取次業へと拡充されたのである。そして対外的な書籍販売面では、1953年10月にまったく新しい組織として、「ドイツ書籍輸出入有限会社ライプツィッヒ」が設立された。
社会主義的出版体制確立の時期(1956-1961)
ソ連共産党第20回大会が開かれた数週間後の1956年春、東ドイツ社会主義統一党の第3回大会がベルリンで開催され、そこで第二次五か年計画(1956-60)が策定された。この計画が出版の分野にもたらされた結果として、さらなる闘争のために「高度に有能な専門家」が必要であることが明らかとなった。そして西側からの専門文献の輸入に頼らなくてもやっていけるために、大学や専門学校の教科書の出版を拡充することが要請された。
翌1957年4月、ライプツィッヒで社会主義諸国の出版関係者の会議が開かれたが、これはお互いの情報交換や緊密な協力関係を作り出すうえで、大きな役割を果たした。同様の会議は、それに続く数年間続けられた。そしてこれらの会議を通じて、修正主義的な動きの浮上は断固として抑制された。そうした点で出版社の活動が不十分な場合には、その都度自分たちの役割の重大さを認識するよう、諭された。
こうした基本方針のもとに、1958年7月には文化省の内部に「著作・出版部」が設けられた。さらに新たに「国営出版社連合」という組織が作られ、文化省の下に入ることとなった。これとは別に著作・出版活動のイデオロギー的政治的基本計画を策定するために、文化省の中に25の著作・出版作業部会(出版主、編集員、学者、国家及び社会団体の代表から構成)が設けられた。
いっぽう各政党も独自の出版社を持つようになった。こうして1958年に自由民主党の出版社として「デア・モルゲン」出版社が活動を開始した。キリスト教民主同盟の「ウニオン出版社」はこれよりずっと早く、1951年に設立されていた。
この時期1959年9月、政権党の社会主義統一党の第一書記ウルブリヒトは、その「平和の7年計画」と題する人民議会での演説で、次のように語った。「ポピュラーサイエンスの著作物、学術専門文献、外国語文献の出版を大幅に拡充し、優れた図書を廉価に大衆に供給することが、切に望まれる」。
ベルリンの壁構築(1961年)以後の動き
1961年8月13日、東ドイツ政府は西ベルリンを遮断するために、いわゆる ベルリンの壁を構築した。そしてこれによって東西ドイツの分断が決定的な段階を迎えた。これに伴い、それまでなお部分的には西ドイツから取り入れていた教科書や専門文献に依存することが、全面的に拒絶されることになった。そして部分的にはソ連の教科書をドイツ語に翻訳して、学校で使用させることも始まった。
このようにして国家としても東ドイツは西ドイツとは別の独立国家であり、文化面でも社会主義的な独自の文化を有していることを、東ドイツ政府は強調するようになっていった。その結果、1963年6月には「西ドイツ、西ベルリン及び資本主義的外国からの著作物の受け入れへの特別措置に関する指令」が出されることになった。具体的には、これらの著作物を輸入しようとする者は、文化省内部の「書籍出版販売担当部門」に申請して、特別許可を得なくてはならなくなったのである。この措置によって、東ドイツ政府当局の気に入らない西側著作物は、いつでも締め出すことができるようになった。
いっぽう1963年1月には、閣僚評議会の決定に従って、「国営ドイツ中央出版社」が設立された。この出版社は、一般公文書及び人民議会、国家評議会、閣僚評議会その他の中央国家機関の文書、並びに国法問題に関する学術文献を発行することを、その任務としていた。
書籍販売面に目を向けると、1963年1月に文化省内部に作られた「書籍出版販売部門」が、書籍販売に従事する人々の組織化に乗り出すようになってきた。つまり国営の「人民書籍販売」に属していない私営の個人書店を、社会主義社会の建設のために、計画的に組み込んでいく方策がとられたのである。そして1966年5月には、そのための法的な根拠として「委託販売指令」が出された。この指令に基づいて、人民書籍販売と個人書店の間に<委託販売協定>が結ばれたが、その第1条第4項には次のように記されている。
「書籍、小冊子、楽譜、レコード及び複製品を継続的に人々に供給するために、そしてまた個人書店を社会主義の広範な建設へと組み込むために、両者の合意のもとに、人民書籍販売と個人書店の間で、当委託販売協定を締結する」
また第3条第1項及び第2項は、次のように記している。
「当委託販売協定によって、人民書籍販売(及びその支店)は、現にある売買用の在庫品を、人民所有(つまり国家所有)に引き継ぎ、その在庫を委託販売者(つまり従来の個人小売業者)に、今後の書籍販売業務の基礎として与える。商品在庫の区分は、個々の商品グループに従って、その勢力範囲に応じて確定される」
さらに第3条第4項には、次のように記されている。
「最終消費者(本の買い手)への販売は、支店(人民書籍販売の)の勘定書によって、委託販売者の名において行われる。当委託販売協定の締結に基づき、委託販売者は自分の勘定書によって行ってはならない」
第4条第1項には「引き渡された商品への保証として委託販売者は、平均在庫商品の最終消費者価格の33・3%相当の保証金を支払わねばならない」と書かれている。そしその見返りとして第8条第1項には「委託販売者はその業務に対して、売り上げの・・%の手数料を受け取るものとする」の記されている。
また第8条第3項には、「委託販売者には毎月、以下の経費つまり家賃、光熱費、クリーニング代、暖房費、店の設備の減価償却費が、あとで返済される」と記されている。さらに第10条第1項で「委託販売者及びその従業員に対する休暇は、法によてって定めるところとする」とも書かれている。
以上「委託販売協定」の条文をかなり詳しく紹介したが、これにょって東ドイツの書籍小売販売人が、どのような形で国家の傘下に組み込まれていったのか、そのおよその実情がお分かりいただけたことと思う。
こうした経過を経て、個人の書籍小売商は地域の「人民書籍販売」と結びつけられたのだが、1980年代末の時点(ドイツ民主共和国の最終の時期)で、書籍販売店の状況がどうなっていたのか、次に見ることにしよう。この時点で国営の人民書籍販売には、大小700の書店が属していた。そこには地域の重要都市にある14の「本の家」、250の郡の書店、280の都市書店ならびに外国書、楽譜、古書の専門店が含まれている。
このほか他の所有形態の書店及び古書店が380あり、そのうち100以上が委託販売協定を通じて、地域の人民書籍販売と結びついていた。「人民書籍販売」の中央管理センターの所在地は、ライプツィッヒであった。このセンターの下に、中央古書センター及び通信書籍販売業としての「ライプツィッヒ本の家」も入っていた。ここは東ドイツ及び他の社会主義国の出版社の出版物を、引き渡す業務を担当していた。その宣伝広報誌である「ブーフクーリエ」を通じて、一般文芸書、ポピュラーサイエンスの本、児童・青少年向け図書、そして学術書の一部の目録が、読者に提供された。さらに50万人にのぼる顧客の住所氏名を載せた顧客カードに基づいて、顧客の関心分野に応じて、それぞれの図書に関する情報が送られた。
また人民書籍販売の支店や書籍販売所が存在しない地域の住民に対しては、「注文仲介業者」が5%の手数料でサービスを行っていた。これら出版物の普及宣伝措置は、1969年に制定された「出版物販売に対する指令」に基づいて行われていたものである。
(3)東ドイツの図書館ほか
1913年にライプツィッヒに設立されたドイツの国立図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、第二次世界大戦中さしたる被害を受けず、戦後まもなくその活動を再開することができた。また1915年から続いてきた全国図書目録「ドイチェ・ナチオナールビブリオグラフィー」も、大戦末期から終戦直後にかけての混乱期にもかかわらず、1946年8月にはその仕事を再開した。こうして図書目録作成の作業は順調に進捗していった。当時東ドイツ地区はソ連軍の占領下にあったため、1946年12月には、ソ連占領軍の布告の形で、「ドイチェ・ビュッヘライ」への献本義務がソ連占領地域及びベルリンのソ連地区の出版社に対して伝えられた。また1950年には、「ドイツ書籍・著作博物館」が、「ドイチェ・ビュッヘライ」に併合された。そしてこの新しい部門は、1960年になって、以前「書籍商組合」の付属図書館が管理していた業務を受け継ぐことになった。
さらに「ドイチェ・ビュッヘライ」は第二次世界大戦中に壊滅的な打撃を受けた『出版社・諸機関カタログ』再編集の仕事も順次行うようになった。これは出版業界全体にとって実用的な価値があったばかりではなく、出版史の研究上も大きな価値を持つものであった。つまりこれは出版社や出版関係諸機関の単なるリストにとどまらず、それらの活動を歴史的に整理分類して叙述したものであるからである。1972年夏には1913年(「ドイチェ・ビュッヘライ」創立の年)までの編集が完了し、その後も1913年以降の分が続けられている。
以上述べてきた「ドイチェ・ビュッヘライ」は東ドイツで最も重要な図書館で、1980年代末の蔵書数は約790万冊に達していた。これに次ぐのがベルリンの「ドイツ国立図書館」であるが、蔵書数は680万冊である。以下、ベルリン大学図書館(390万冊)、ハレ大学・州立図書館(360万冊)、ライプツィッヒ大学図書館(320万冊)、イエナ大学図書館(240万冊)ロストック大学図書館(170万冊)、ドレスデンの「ザクセン州立大学図書館」(110万冊)、ドレスデン工科大学図書館(110万冊)などが、東ドイツの主な学術図書館である。
このほか4500を超す特殊・専門図書館が存在したが、その中にはヴァイマルの「ドイツ古典図書中央図書館」(80万冊)のようなユニークなものも少なくない。さらに一般の公立図書館は全国で3500もあり、その蔵書数は合計4300万冊に達し、これらの利用者総数は年間390万人に上っていた。また労働組合図書館が4000あり、その蔵書数は970万冊に達していた。
以上見てきたように、人口わずか1700万人足らずの東ドイツにしては、図書館の数が極めて多いことが特徴的である。そして単に図書館とそこの蔵書の数が多いだけではなくて、実際の利用率も極めて高かった点が注目されるのだ。つまり東ドイツ国民の3人に1人が、常時図書館を利用していたという。とりわけ児童や青少年の利用率が高く、6~14歳の児童の70%、14~18歳の青少年の62%が、図書館を常時利用していたわけだ。公立図書館の場合1984年に、図書貸出し件数が8400万件という記録が残されている。
次いで社会主義的理念の実現に大きく寄与すべきものとされている出版人の養成機関に目を向けてみよう。こうした社会主義的出版活動の指導者になるべき幹部候補生を養成することをその任務とした「書籍出版販売研究所」が、1968年にライプツィッヒのカール・マルクス大学内に設立されたことが、まず注目される。この研究所は1960年に設立された「書籍出版販売アカデミー」とともに、重要な役割を果たした。ただ出版社や書店で働く一般の従業員の養成に関しては、すでに1949年に出された指令の中で一般的な精神や理念が説かれ、これに基づいて1957年に、「書籍販売専門学校」が設立されている。
いっぽう書籍見本市についてみると、ソ連占領地域での最初の見本市が、1946年5月に、伝統あるライプツィッヒで開かれている。その二年後の1948年春の書籍見本市には、170にのぼる出版社、取次店が参加した。そしてその年の秋の見本市には、外国からの最初の参加者として、オーストリアの出版社が出品した。ただこの「ライプツィヒ書籍見本市」は1973年以後は、年一回春にだけ開催されることになった。この1973年春の見本市には、21か国から800を超す出版社が参加した。
最後に書物の外的側面を代表する愛書趣味とブックデザインについて、簡単に触れておきたい。東ドイツにおいても、書物の蒐集、とりわけ古書、稀覯本(きこうぼん)、グラフィックなどの蒐集は盛んであった。そして愛書家協会として、1956年に東ドイツ文化同盟の内部に、「ピルクハイマー協会」が設立された。そして同協会では独自の機関誌『マルジナーリエン』を発行すると同時に、講演会、展示会その他を開催した。
またブックデザインの振興のために、「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)及び文化省の共催で、1952年以後毎年、ブックデザインのコンクール「東ドイツの最も美しい書物」が開かれてきた。さらに1963年以後には、同じくライプツィッヒで、国際的なブックデザインのコンクール「全世界の最も美しい書物」が開催されてきた。東ドイツの最末期1986年についてみると、全世界から45か国が、これに参加した。いっぽう、外国における書籍見本市への参加状況について見ると、東ドイツの出版社は、周辺ヨーロッパの諸都市、つまりフランクフルト・アム・マイン、ワルシャワ、ベルグラード、ソフィア、ブリュッセルの書籍見本市に出品してきた。