はじめに
レクラム百科文庫と私
私は1957、58年ごろ大学の教養課程のドイツ語の授業で、教師がこの文庫に収められていた18世紀末のドイツの詩人・作家ヘルダーリンの『ヒュペーリオン~ギリシアの隠者~』を用いたのが、この文庫との最初の出会いであった。今でもこの文庫本は持っているが、装飾のない薄茶色の表紙の小さな本のドイツ語の行間には鉛筆で日本語の訳語が書き込んである。そしてこの高級な文学作品は、当時ドイツ語を習いたての学生だった私にとっては、ほとんど理解できない代物であったことを覚えている。
レクラム百科文庫の『ヒュペーリオン~ギリシアの隠者』
“Hyperion oder der Eremit in Griechenland”
(Friedrich Hoelderlin) Reclam
(Reclams Universal-Bibliothek Nr.559/60)
これは第二次大戦後に作られた
ほとんど装飾のない簡素な装丁の表紙。
そして、ドイツの古典文学数冊と日本の『更科日記』、『新古今和歌集』、『今昔物語』のドイツ語版をこの文庫で買い揃えたり、東ベルリンを訪れた時、東独版のレクラム文庫を数冊買ったりした。
その後レクラム文庫のことは忘れていたが、ふとした機会に、旧知の日本学研究者レギーネ・マティアス女史から「レクラム文庫と岩波文庫」に関する研究を耳にして以来、自分の研究テーマとしてやっていきたいと思うようになった。そして日本の洋書取次店から、あるいはドイツのレクラム出版社から、レクラム関連の文献・資料を取り寄せ、調べ始めた。そのうえでまず、戦前それも特に19世紀のレクラム出版社ないしレクラム百科文庫とそれを取り巻く環境を中心に、数冊論文を執筆した。その後この文庫の全体像とその歴史を一冊の本にまとめようと決心した。しかし手元にあった文献・資料だけではまだ不十分であったので、1994年夏にドイツ西南部のシュトゥットガルト近郊にあるレクラム出版社を訪れた。そして同社の文書庫に収蔵されている創刊時からその時点までの全ての文庫本及び各種関連資料を閲覧したり、そのコピーを取らせていただいたりした。
こうして今から30年前の1995年12月に、『レクラム百科文庫。ドイツ近代文化史の一側面』を、朝文社から刊行することができた。今回、本ブログに、「文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』」を掲載するにあたって、30年前の私の著書の内容をほぼそのまま取り入れることにした。
『レクラム百科文庫』ドイツ近代文化史の一側面 の表紙。
中央にあるのは、1867年に創刊された時の最初の40
ナンバーの第1号ゲーテの「ファウスト」。
表紙の装丁は独特の装飾的なもの。
次にこの著書の内容の概要を紹介することにしよう。
序章 文庫本の元祖としてのレクラム文庫
第一章 「レクラム百科文庫」と日本
1 戦前のエリートに与えた大きな影響
2 レクラム文庫を模範にして生まれた岩波文庫
第二章 創業者 アントン・フィリップ・レクラム
1 その先祖
2 アントン・フィリップ・レクラムの初期出版活動
3 レクラム百科文庫への道
第三章 レクラム百科文庫の創刊
1 古典解禁年1867年
2 ドイツにあふれる古典廉価版
3 レクラム百科文庫成功の諸要因
4 創業者と二代目の横顔
第四章 その後の発展
1 創刊当時の時代風景
2 初期の発展
3 その後の歩みとジャンルの拡大
4 一大出版王国への歩み
5 第五千ナンバー(1908年)以後
6 第一次大戦後の路線変更
7 第三帝国時代の百科文庫
第五章 第二次世界大戦後の歩み
1 過渡期(1945~1948年)
(1)ソヴィエト軍政下のレクラム社
(2)シュトゥットガルトに新レクラム社設立(1947年)
2 シュトゥットガルトでの新路線の開始(1949~1966年)
(1)四代目当主ハインリヒ・レクラムによる指導
(2)レクラム社創立百二十五周年記念(1953年)以降
(3)シュトゥットガルトの新社屋完成(1961年)以降
3 百科文庫創刊百周年(1967年)以降
(1)創刊百周年記念祭(1967年)
(2)教育目的を持った文学研究シリーズ刊行開始
(3)戦後の百科文庫の読者層
(4)東独のレクラム百科文庫
(5)1978年から1992年まで
第六章 百科文庫の構成ーージャンル別の特徴ーー
1 ドイツ文学
2 外国文学
3 人気流行作品
4 戯曲作品
5 もろもろの学問
(1)哲学
(2)歴史学
(3)文学研究
(4)教育学
(5)社会科学
(6)地誌、美術
(7)自然科学
6 音楽関係
7 実用書
第七章 百科文庫の周辺
1 宣伝広告活動
2 大量販売のための経営戦略
(1)コルポルタージュ販売
(2)雑誌『ウニヴェルズム』の発行
(3)文庫自動販売機の設置
3 百科文庫の読者層
(1)レクラムと学校
(2)レクラムの読者としての教養市民予備軍
(3)レクラムと労働者
4 数字から見た百科文庫
注(各章ごと)
参考文献
あとがき
序章 文庫本の元祖としての
『レクラム百科文庫』
日本における文庫本の現状
小型で携帯しやすく、廉価な文庫本は、紙の書物としては便利な代物として、今日なお欠かすことのできないものと言えよう。立派な装丁のハード・カヴァーの本が、一定の歳月を経て文庫化される例も少なくない。
「文庫」とは何であるか定義するのは容易ではないかもしれないが、平凡社「世界大百科事典」(1981年発行)の文庫の項目には次のように書かれている。
「装丁の大きさなどを一定にして、継続的に出版される一連の図書群。
(1) 特定の主題をもって、しかもある限られた冊数で完結するもので、例えば母親文庫、料理文庫、花嫁文庫のようなもの。これは全集とか叢書とか言われているものとまったく同じである。
(2)世界のあらゆる方面の名著を広く集めたもので、刊行の終期が予定されていない継続出版物である。1927年から刊行されている岩波文庫、1928年からの新潮文庫、1929年の改造文庫、第二次世界大戦後では角川文庫その他がある。イギリスのエブリマンズ・ライブラリーやドイツのレクラム文庫などを範にとったもので、これらを一揃い備えることによって小図書館の効果を得られるというのが、この名称の由来するところと思われる。今日一般に文庫といえば(2)を意味し、形態も一般に小型である。(岡田 温)」
この定義によって「文庫」についてのだいたいの概念は得られると思われるが、ただ我が国の書籍市場に出回っている百を超す文庫のシリーズを見ると、(2)で言われるような、様々なジャンルを収めた、いわば正統的な文庫はむしろ少なく、大衆小説や推理小説を集めた文庫、漫画文庫、あるいは教養文庫、学術文庫など、特定のジャンルの文庫の方が多いように見受けられる。
それはともかく様々なジャンルを包括した、わが国で最初の本格的な文庫といえば、前述の岩波文庫であることは間違いない。そしてその岩波文庫が模範としたのが、これから取り上げていくドイツのレクラム百科文庫(1867年創刊)だったわけである。その意味でレクラム百科文庫は我が国の文庫本の元祖でもあったといえよう。
その他のヨーロッパの諸文庫
1927年(昭和2年)創刊の岩波文庫以前にもわが国には、すでに明治後期から文庫は存在していた。日本の文庫の起源については研究者によっていろいろな説があるが、その一人矢口進也によれば、第1号は明治36年(1903年)の「袖珍(しゅうちん)名著文庫」(冨山房発行)だといわれる。そしてこの文庫が模範にしたのが、イギリスのカッセル文庫だという。「・・・草創期の文庫が海外のそれに範を仰いだことは常識で、<袖珍名著文庫>も、校訂者の一人芳賀矢一が持ち帰ったレクラム、カッセル両文庫に倣ったものだ、と言われているが、私はレクラムよりカッセルの影響の方が大きかったのではないかと想像している。というのは、カッセル版はクロス装と紙装の両立てで出されており、冨山房の刊行方式と同じだからである。」
この「カッセル文庫」はイギリスのカッセル社から、1886年に創刊された。小説、戯曲、伝記、歴史、宗教、科学、芸術と収録範囲もレクラムに匹敵する豊富なものであったが、1890年には刊行を中止したので、5年間ばかりの寿命だった。
これに比べると同じイギリスでも1906年創刊の「エブリマンズ・ライブラリー」の方は長い間存続し、英語という事もあってか、わが国にも一定の影響を及ぼしたようである。随筆家で文化史家の春山行夫は1939年(昭和14年)に雑誌『学
鐙(がくとう)』に寄せたエッセイ「イヴリマン文庫その他」の中で、この文庫に触れている。彼はエッセイやクラシックの文芸ジャンルのものを、30冊ぐらい所持していたという。
この文庫については、平凡社の「世界大百科事典」(1981年発行)にも取り上げられているので、以下その記述を見ていくことにする。
「エブリマンズ・ライブラリー Everyman’s Library
ドイツのレクラム文庫、フランスのかつての国民文庫などと並んで、イギリスを代表する有名な文庫。1906年にロンドンの出版業者J・M・デントが創刊し、<誰もの文庫>を意味するその名称は、編集顧問のアーネスト・リーが16世紀初期の教訓劇<エブリマン>の中に、<われはなんじとともに行き、なんじの道しるべとならん>とあるのから思いついた。伝記、歴史、旅行と地誌、科学、随筆、雄弁、ギリシアとラテンの古典、伝奇、詩と戯曲、小説、神学、哲学などの部門に分かれ、世界中の有名な書物はほとんど収められているばかりでなく、この文庫でないと手に入らぬ古典も少なくない。小説が最も豊富で、ディケンズやスコットは全作品が入っている。以上の部門のほかに辞典類を中心とした参考書群、青少年年向け古典シリーズも別にある。知識を正確に民主化するというこの企画の主目的は、校訂者、印刷者、製紙業者などの情熱的な協力を得て、十分に達成され、現在までの発行部数は1千に達している。・・・(寿岳文章)」
ペンギンブックスの登場
いっぽう現代の世界各国における小型で廉価なポケットブックの氾濫の直接のきっかけを作ったのは、1935年にイギリスで創刊されたペンギンブックスであったという。ドイツの評論家エンツェンスベルガーはその『消費財としての教養ーポケットブック生産の分析』の中で、次のように述べている。
「ポケットブックが勝利の歩みを始めたのは、1935年のことである。その年イギリスで、ペンギンブックスの最初の一冊が発行された。・・・その後25年間に1億5千万部以上を売りさばき、年間発行部数が千五百万部を超えるという、イギリスのこの先駆的な会社の成功は、たちまちイギリス本国をはじめ、アメリカ、ヨーロッパ、南アメリカの書籍市場で多くのイミテーションを作り出した。アメリカでは、それはわずか1年間(1959年)に3億9千万部にのぼる発行部数となった。そしてドイツでポケットブックが初めて市場に現れたのは、1950年、エルンスト・ローヴォルトによって創始されたものである」
ペンギンブックスの日本における影響は、まず1938年創刊の「岩波新書」となって現れた。それについて話をする前に、そもそもペンギンブックス(Penguin Books)がどのようなものであったのか、平凡社の「世界大百科事典」(1981年)で見てみることにしたい。
「ヴィクトリア朝の有名な出版者ジョン・レーンの甥にあたるアラン・レーンが、二人の兄弟と協同し、1935年に創刊した廉価版叢書の名。当初の目的は、定評のある小説を一冊6ペンスという安い値段で大量に印刷出版することであったが、企画は見事に成功して、2年足らずのうちに百種を刊行した。37年、教養と科学知識を高め、広めるのを目的とする<ペリカン・ブックス>Pelican Booksも、同じ方針のもとに計画され、これまた大成功を収めた。その結果<ペーパー・バック>(紙装本)という新語まで作られ、同種の叢書が欧米に続出するきっかけとなり、日本ではまず<岩波新書>が範をこれに求めた。ことにペリカンの方は、この叢書のための書き下ろしが多く、それも一つの呼び物となっている。・・・(寿岳文章)」
これで分かるように、岩波新書はすでに存在していた岩波文庫との性格分けを明確にするために、このペリカン・ブックスの書き下ろし方式を採用したものと思われる。そして以後わが国では、新書はこうした書き下ろしものが主流になってきたようである。岩波新書創刊の経緯については、現在発行されている新書の巻末に載せられている「岩波新書創刊五十年、新版の発足に際して(1988年1月)」の中で、次のように書かれている。
「岩波新書は、1938年11月に創刊された。その前年、日本軍部は日中戦争の全面化を強行し、国際社会の指弾を招いた。しかしアジアに覇を求めた日本は、言論思想の統制を厳しくし、世界大戦への道を歩み始めていた。出版を通じて学術と社会に貢献・尽力することを終始希いつづけた岩波書店創業者は、この時流に抗して、岩波新書を創刊した。・・・戦時下に一時休刊のやむなきにいたった岩波新書も、1949年、装を赤版から青版に転じて、刊行を開始した。・・・」
このようにして日本では、従来からあった文庫と新たに登場した新書という別個の系列のポケットブックが共存する状況が生まれたわけである。
西独のポケット・ブックとレクラム百科文庫
一方ドイツにおいては、第二次大戦後国が分断されたが、西独において1950年、アングロサクソン方式を真似た、ローヴォルト社の「ロ・ロ・ロ・ポケットブック」を皮切りに、数多くの出版社からポケット・ブックが次々に出されていった。そしてやがてこの新型のポケット・ブックが西ドイツにおける小型廉価版の主流を占めるようになっていったのだが、それらは戦後東独領になったライプツィッヒから西独のシュトゥットガルトに移って再建されたレクラム文庫とは基本的な類似点を持ちながらも、様々な面で異なる存在であった。
創刊以来125年を超すレクラム百科文庫の歴史を語るのが、本ブログの目的であるが、その冒頭に当たって戦後ドイツのポケット・ブックとの類似点と相違点を見ることによって、このドイツの古典的な文庫の特徴をはっきりつかんでおきたい。ここでは主として先にも取り上げたエンツェンスベルガーの著書『消費財としての教養ーポケットブック生産の分析』を通じて、その点を明確にすることにしよう。
彼はまず「購買者」という項目で、ポケット・ブックの外形的な特徴に関連して次のように述べている。
「客がソクラテス以前の哲学書に決めようと、あるいは料理の本に決めようと、値段だけはハッキリしている。・・・統一価格ーそれが生産者ばかりでなく購買者の計算の基礎でもある。次の保証としては、商標があげられる。もともと見返しに置かれていたつつましやかな出版社のマークは、よく眼につく場所、つまり表紙に刷り込まれ、簡潔だがハデな商標となっている。・・・本の印刷が発明されてこのかた、文学作品は確かに商品ではあった。しかし、ここではじめて―銘柄付き商品としてーその商品的性格が完全に実現するのだ。装丁は規格統一された包装となる。そして本の中身について購買者と了解しあうという重大な役割がそれにふりあてられる。・・・ポケット・ブックの外観そのものがそれ自身の広告となり、宣伝文がそこに貼りつけられる。」
ここで指摘されているポケット・ブックの様々な特徴は、レクラム百科文庫の創業者が発刊するにあたって苦心した工夫の数々であった。この点については「第3章3 レクラム百科文庫成功の諸要因」の箇所で詳述していくが、これらの諸特徴は、ポケット・ブックの発刊者がレクラムなど、それ以前の小型廉価版から受け継いだものといえよう。
次に「装置」という項目で、ポケット・ブックの大量生産システムについて述べられている。
「たんなる数字を軽蔑するものは、純粋に量的な生産データが生産手段に対して逆に作用し、さまざまな状況のもとで、生産手段を質的に変えることもありうる、という事実から眼をそらしたがる。が、この種の構造的変化は、第二次世界大戦以来、ドイツ出版業界のいたるところで確認しうることなのだ。・・・本の出版は、企業としては、ながいあいだ、職人的な企業であった。その生産は、ほとんど手工業的形態に固定されていたといえるかも知れぬ。・・・これに反して、典型的な現代の大出版社は、まったく合理的な経営による産業的特徴をそなえた企業である。その目標は、企業の生産力をフルに消化するきわめて膨大な、コンスタントに持続する部数の生産である。・・・したがって、出版カタログには、かなり長期にわたって店ざらしにされなければならないような売れ残りのための余地などない。・・・力点がおかれるのは、どんどん変わっていく新刊書だけだ。企画の中枢は、財政と契約の専門家にまかされる。・・・大きなポケット・ブック出版社は、自社の印刷所をもつか、あるいはその種のものを支配していない限り、大きな印刷・製本工場と長期契約を結んでいる」
レクラム出版社は最初から自分の印刷所をもち、合理的な大量生産体制を推進してきた点では、現代の大出版社の先駆的存在であったといえる。しかしその出版物である文庫の企画や出版に関しては、かなりの程度高まいな理念を保持し、その文庫はすべて自己の巨大な倉庫に保管して、いつでも読者の手元に届くようにしていた点では、大いに異なっていたといえよう。
この後者の点については、エンツェンスベルガーは「プログラム」という項目で、次のように明らかにしている。
「フィリップ・レクラムが、ライプツィッヒで1867年に、はじめて『ユニバーサル文庫』の小冊子を発刊したとき、トップにおかれていたのは、ゲーテの『ファウスト』二巻であった。<その出発にあたって名付け親となったのは、人文主義の理念と古典理想主義であった。・・・> 『ユニバーサル文庫』九十周年記念のためにレクラムが発行した出版小史には、こう述べられているのだ。この企業は、現在にいたるまで、この原則に忠実である。・・・ポケット・ブック出版社のプログラムは、もはや、ある<一貫性>・・・といったゼイタクを楽しんでいるわけにはいかないのだ。・・・自明のことだが、この『ユニバーサル文庫』のなかに、今日のポケット・ブックの先駆を認めなければなるまい。レクラムの出版史も、この『文庫』を<世界のもっとも古いポケット・ブック・シリーズ>と呼び、その先駆的役割をハッキリと自認している。むろん、その相違は明白だ。レクラムの試みは、歴史的なサンプルとしてぼくらの分析に役立つ。ローヴォルトの『ロータチオン』の企画が、ぼくらの時代の大衆文化を体現しているのと同じ正確さで、それは、19世紀の教養理念を具体化している。レクラムは普遍的教養ーかれが重視したのはそれだったーを、叢書というイメージでとらえていた。教養ある人間として読んでおくべきものの規準を、いっきょに認めさせたかったのだ」
ここで私としてはレクラム文庫の表記について一言言っておきたい。エンツェンスベルガーの本の訳者は「ユニバーサル文庫」と訳しているのだが、これまで日本では一般に「レクラム文庫」と呼ばれてきた。そのほかに「レクラム叢書」、「レクラム版」、「レクラム世界文庫」、「レクラム萬有文庫」、「レクラム・ユニバーサル文庫」などと、様々な呼び方がなされている。その元のドイツ語は<Reclams Universal-
Bibliothek>であるが、ドイツ語の Universal という言葉には、独和辞典では「全般的な、萬物(有)の、普遍的な、全世界の」といった訳語が付けられている。そして Universal-Lexikon という言葉には「百科事典」という訳語が当てられている。しかもこの Universal という言葉は、百科事典が編纂され始めた18世紀後半の啓蒙主義時代以来、ドイツで好まれてきた概念だともいわれている。こうした理由から私は「レクラム百科文庫」と表記するわけである。百科万般にわたる広範なジャンルを包括した、この文庫の名称として最もふさわしいと信じるからである。
第1章 『レクラム百科文庫』と
日本
1 戦前のエリートに与えた大きな影響
旧制高校生とドイツ語
レクラム文庫という名前は、戦前の旧制高校や旧制大学で学んだものにとっては、おそらくその専門の如何を問わず、懐かしい響きを持っているに違いない。実態として帝国大学への予備教育機関であったといわれる旧制高校では、語学教育に著しく重点が置かれていたが、その際ドイツ語の授業は英語と並んで大きな地位を占めていたのである。それぞれ第一語学ないし第二語学として毎週の授業時間数はとても多く、平均すると全授業数の四割前後を占めていたという。旧制高校生はまさに英語漬け、ドイツ語漬けになっていたようだ。
1894(明治27)年の<高等学校令>によって確立され、戦後の学制改革まで続いたこの旧制高校は、その間いろいろな変遷を経ているが、全体から見ればごく少数のエリートが通った教育機関であった。明治以後の日本の教育は、先進国に追いつき、追い越せという意味合いでの近代化推進の手段として、おおむね実利主義的な色彩が濃かったといえるが、三年間の旧制高校だけはその例外だったようだ。いわばエリートに与えられた特権として、そしてまた将来社会の各界の指導者に成るものにとって必要なこととして、この期間には実利から離れた一般教養や語学に重点が置かれていたのである。人生とは何ぞや、青春とは、宇宙とは、世界とは、人はいずこから来ていずこに行くのか、といった哲学的な問題に取り組んで、あれこれ悩み、友達や先輩と議論できたのも、このモラトリアム期間における特権であったようだ。
そのため旧制高校での語学の授業も、実際的なものではなくて、一般に人文主義的な分野つまり古典文学や哲学・思想などに関して英語やドイツ語の原書を講読するというものであった。そしてドイツ語の場合、原書つまり教材としてレクラム百科文庫が大きな役割を果たしていたわけである。さらにこのレクラム百科文庫は、旧制高校生が大学に入ってドイツ文学・語学のみならず、医学、法律学、自然科学などの専門分野の勉学についてからも、また卒業して社会人になってからも、読まれていたようだ。この人たちとドイツ語との結びつきは、今日では考えられないほど緊密だったのだ。
ここで旧制高校生の在籍者数を見てみると、1900年(明治33年)には5,684人、1920年(大正9年)に8,839人、1930年(昭和5年)に20,551人、そして1940年(昭和15年)には20,283人であった。昭和前期(戦前)の旧制高校生はおよそ2万人に過ぎなかったのだ。しかもこれらすべてが第一語学としてドイツ語を選んでいたわけではなかったので、レクラム百科文庫などの原書を読みこなせた者の数はさらに少なかったはずである。
日本学専攻でレクラム百科文庫と日本との関係について研究したドイツ人のレギーネ・マティアス女史はこの点について、次のように述べている。「ある研究者によれば、1905年ごろドイツ語ができた日本人の数は三千人を超えることはなかったと推測されるという。これは五千六百万人(1920年)の総人口と比べれば、極めて少ない数であるが、これら高校生のほとんど全てが教養エリートとしてその職業生活で社会の重要な地位についていたことを忘れてはならない。それゆえにこの数字には乗数をかけてみる必要があり、実際にはこの数字から推測されるよりもはるかに大きな影響力を持つことができたのだ」
実際、大衆文化が今日ほど優勢でなかった明治・大正・昭和前期には、少数エリートが持っていた文化的な影響力は極めて大きく、それゆえにレクラム百科文庫などの洋書を通じて入ってきたドイツ文化の優勢ぶりは、今日では想像できないほどのものがあったと思われる。
レクラム文庫の日本への輸入
レクラム百科文庫は、1867年に創刊されたあと、諸外国への輸出にも力を注いでいたが、明治時代の中頃1890年代には日本にも入ってきたようである。当時洋書の輸入販売を一手に引き受けていたのは、1869(明治2)年創立の丸善であった。レクラム百科文庫の戦前からの研究者であるアンネマリー・マイナー女史はこの叢書の世界への輸出について次のように述べている。
「百科文庫の外国への進出はとても早い時期に始まった。すでに1870年には大西洋のルートを発見していた。やがて外国のほとんどすべての首都には、商品引き渡し所ができていた。つまりパリ、フィレンツェ、モスクワ、ペータースブルク、ストックホルム、プラハ、ブカレスト、ニューヨークそして東京に。日本への輸出は1914年以前には第一位であった。戦争が始まったとき、それぞれ五千冊を入れた木箱六個が輸送の途中にあったが、これらは時に危険な目にあいながら、目的地に到着した。」
ここで言う戦争勃発というのは、第一次世界大戦のことで、日本へ向けて三万冊ものレクラム百科文庫が送られていたのだ。しかも日本への輸出が欧米諸国にもまして第一位だったというのだ。ここでいう日本での商品引き渡し所は輸入代理店としての丸善であったが、いつごろから丸善が「百科文庫」の輸入を始めたのかという点については、1923年の関東大震災で丸善の建物が燃えてしまい、その時資料も焼失してしまったので、明らかではない。ただ先ほどのマイナー女史の『レクラム。百科文庫の歴史』(1942年)にはレクラムと日本との関係については別に記したところがあり、次に引用するその記述から推測すると、この叢書は1890年代にはすでに日本でよく知られていた模様である。
「百科文庫の創始者が1896年に死んだとき、ニューヨークのある新聞は、レクラムのような人物の成功ほどドイツ帝国の増大する力をよく説明する者はないであろう、と書いた。ほぼ同時期のドイツ人日本旅行者の報告は、このことをさらに良く物語っている。彼によれば日本ではただ二人のドイツ人の名前しか知られていないが、それはつまりビスマルクとレクラムだという事だ」
これらの引用から、いかに明治の日本が日の出の勢いのドイツ帝国に魅惑され、その優れた文化をレクラム文庫などの洋書を通じて吸収しようとしていたか、という様子がよくご理解いただけよう。ただ丸善の資料消失によってレクラム文庫輸入の実態を総体として裏付けることはできない状態にある。しかし先のレギーネ・マティアス女史によれば、その後の発展ぶりへの最小限の手掛かりは「大震災の数年前に顧客に配られ、火災のあと再びこの書店の文書庫に返却された丸善発行の洋書目録およびカタログ」によってつかめるという。それによれば「1905年5月のカタログには引き渡し可能な百科文庫83点が掲載されているが、そこにはゲーテ、シラー、レッシング、ルソー、ドイツ法律集などのほかに、とりわけロシア文学(トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーリキ)やイプセンの作品が見られたという。そして「わずか4年後の1909年には、別のカタログが289点を載せていたが、そこにはたくさんの法律集とドイツ文学、外国文学が含まれていた。このリストには日本に関連したものが2点入っていた。それは日本の短編小説と和歌をドイツ語に翻訳したもの及び1889年の日本の憲法のドイツ語版」であった。
戦前のエリートが語るレクラム百科文庫
ここでは先の日本研究者マティアス女史の論文『日本におけるレクラム。百科文庫と岩波文庫』の記述をもとにして、戦前に青春時代を送ったエリートが語っているレクラム百科文庫への熱き思い出を紹介しよう。同女史はその際、レクラム文庫と深い関係にあった岩波書店発行の『図書』及び『文庫』ならびに丸善発行の『学鐙』に掲載されたものを、丹念に調べて引用しているわけである。ただこの論文はドイツ語で書かれていて、当然その引用もドイツ語に翻訳されたものなので、私としてはその日本語の原典に当たって、ここに引用することにした。
森鴎外とレクラム
さて、おそらく日本で最も早く、もっとも有名なレクラムの読者は森鴎外であったという。鴎外は大正3(1914)年に小文「小さい本」の中で、レクラム文庫に関連して次のように書いている。「・・・かう云う、おもちやの小さい本とは違って、廉く賣つて廣く行はれさせようと云う目的でつくる稍小さい本がある。Leipzigの書肆Reclamから出る所謂Reclam本などがその尤なるものである。Reclam本の校正は決して悪くない」
鴎外はまた自らドイツ文学の翻訳にあたって、レクラム版もどしどし使用していたようである。比較文学者の島田謹二はその著書「近代比較文学」の中で、森鷗外の名訳 『即興詩人』の底本が、レクラム百科文庫のドイツ語版であることを明らかにしている。
さらに鴎外は友人、知人との交際の際にも、レクラムを宣伝していたという。このことは例えば経済学者で元慶應義塾長の小泉信三(1888~1966)が書いたエッセイ『岩波文庫とレクラム』のなかでも触れられている。「・・・私は回教の經典(コラン)の如きものもレクラムで見たし、幾多のドイツの法典もこの文庫本で間に合わせた。たしか各種の遊戯法もそれには収められてゐたと思ふ。料理法の本はたしかにあった。森鴎外が客をするとき、それを讀んで家人に授け、之をレクラム料理と稱して客をもてなしたといふ話を(小山内薫から)きいたことがある。・・
・私はドイツ文學のみならず、ロシア、スカンジナビア、フランス文學等を、多くレクラム文庫本によって讀んだ」
明治の旧制高校生とレクラム
レクラム文庫は1890年代(明治23~33年)には日本でもよく知られていた、と先に書いたが、このことを立証するのが国語学者の新村出(1876~1967)が書いた「文庫懐旧談」である。「私は明治の二十七、八、九年ころ、一高の上級から東大へ進んだころ、レクラム本でレッシングのラオコーン、ゲーテのウェルテルやヘルマン・ドロテーア、シラーのメッシナの花嫁などを習ったことがあったこと、明治四十年ころ、ベルリンやウィーンやライプチッヒに留學の時分には、ワグネルの歌劇やらイプセンの近代劇やらを觀賞するについては、むろんレクラム本のお世話になったのだが、それは後年の岩波文庫の場合に近かった。・・・レクラムの出版印刷工場には、1932年、ゲーテ百年祭のあと、三たび獨国に遊んだとき、初めてライプチッヒの學友に案内されて見學したことがあった。・・・それより二十餘年前には數ケ月間一ゼメステル中の留學期には、この圖書文化都市に在りながら、レクラム本の印行などに關してはまだ無関心であった。いかにもざんねんとも、ざんちとも自嘲されるばかりである。」
この新村の青春時代から10年ほど経った日露戦争(1904~05)のころになると「一高や東大でドイツ語を習いたての若い学生が、安価で名著がたやすく買えるのを便宜とし、丸善でしきりにレクラム本をあさりだした」という。そうした一人に作家の武者小路実篤(1885~1976)がいる。この白樺派の作家は「岩波文庫の使命」という小文で次のように書いている。 「僕達の若い頃には岩波文庫のような本はなかった。又いい翻譯物も少なかった。勢い西洋の讀みたいものを讀むためには、外國語に頼るより仕方なかった。僕は父が若い時ドイツに留學を命じられて六七年ドイツに留學した事があったので、その關係から兄も僕もドイツ語を第一外國語として選んだわけだ。従って僕は讀みたい西洋のものは出来ないドイツ語をたよるより仕方がなかった。ドイツ語で西洋のものを讀むとなると、小泉信三氏もかいていたが、レクラムにたよるのが一番近道で便利であった。一つの星が十銭だった。電車にのらずに歩いて、その代わりレクラムを買うと言うのが、その時分の僕の方針だった。レクラムでトルストイのものが出ているのは殆ど讀んだ」
ほぼ同じ世代に属する人物にドイツ文学者の吹田順助(1883~1963)がいる。ドイツではレクラム文庫創刊七十五周年記念祭は第二次大戦中のため、戦後の1953年に、レクラム出版社創立百二十五年と合わせて行われた。この時吹田は丸善の『学鐙』に「レクラム文庫の思い出」というエッセイを載せているので、その一部を次に引用する。
「レクラム文庫はいまでは東京その他の大都市における洋書取次店の店頭には陳列されているであろうから、多くの学生諸君は恐らくその存在を知っているであろうが、なかにはレクラムという名を聞いてピンと来ない人も少なくないのではなかろうか。ところが私たちの學生時代からこの大戦の勃発した頃にかけては、いやしくもドイツ語を習っている學生なら、レクラムの名稱を知らなかったものは恐らくなかったろうし、また彼等は同文庫からいろいろの恩澤に浴したものであるー教科書としてなり、自習書としてなり。・・・私たちが一高の寮(本郷にあった)にいたころ、寮友は夕食後よく、三々五々、例の弊衣破帽というかっこうで散歩に出たものだが、そういう時には例えば、鴎外の『雁』の背景になっている不忍の池畔などをぶらついた帰りには、よく湯島切通しの坂上にあった南江堂に立ち寄ったものだ。
それで二三段の本棚にぎっしりと並べられたレクラム文庫を漁ってはグリムの童話集とか、『ウェルテル』とか『ウィリアム・テル』とか、ハイネの『歌の本』とか、トルストイの『民譚集』とか、一二冊ずつ買ってくるのが、一種の習わしともなり、たのしみともなった。何しろドイツ語を習いたての時分で、そのころは翻譯書も今のようには出ていなかったので、辭書と首っぴきで原書を読んでゆくより仕方がなかったが、そういうときの気持ちというものは、行く先のしれない森の下道でも辿ってゆくのに比べられようか。もちろん分からない處も出てくるが、らくに讀めて面白そうな處やすばらしい表現にぶつかると、赤鉛筆か何かでさかんにアンダーラインしたものであるー原書を讀んでいるという初學者らしいプライドも手傳っていたのであろう」
このドイツ文学者より少しあとの世代に属する法学者で元最高裁判所長官の田中耕太郎(1890~1974)は、太平洋戦争中の昭和十八年に『学鐙』に「洋書のにほひ」と題するエッセイを寄稿しているが、その中でレクラムに触れて次のように述べている。
「一高に入って初めて洋書を買った。それはレクラムであった。それでもあこがれていた洋書の部類に屬するのである。大枚十銭でゲーテやシルレルが手に入ることは、まったく不思議なことであった。寮費を加算して十四・五圓の學資では、勢ひレクラムに集中する外なかった。細字で行間をつめて組んだレクラムからは精神文明のかほりが横溢してゐるように思へた。樺色の簡素なしかし良質の表紙は、獨逸文明の堅実さを象徴しているやうであった」
またレクラムに関するエッセイの類いは見つからないが、マティアス女史によればレクラムの愛読者であったのが、民俗学者の柳田国男(1875~1962)であった。彼は「自分が所蔵していた図書のなかに、四十冊ほどのレクラム文庫を残している」そうであるが、「それらのうちの数冊は、書店のスタンプからわかるように、ベルリンやウィーンで買ったものか、もしくはたぶん第三者からプレゼントとして柳田の手元に入ったものであった」という。ちなみに柳田は若い頃から鴎外と知り合い、竜土会、イプセン会のメンバーとして海外の新文学を紹介したりしていたというし、1922年には国際連盟委任統治委員会委員としてスイスに駐在していたこともある。
同じく鴎外と親しかった医者で詩人・劇作家の木下杢太郎(1885~1945)
も「熱心なレクラムの読者で、遺された文庫には八十一冊のレクラム本があるが、そのテーマは広範にわたっている。主なものはロシア文学(トルストイ、ツルゲーネフ)およびイプセンの作品である。そのほこキケロ、タキトゥスからセルバンテスを経てゲーテ、ハウフ、ヘッベル、シェイクスピア、オスカー・ワイルドに及んでいる」という。そして「木下には一時そのレクラム本に名前と購入の日付を記す習慣があった。そのため彼が多くを1904年から1912年にかけて、つまり彼の旧制高校と大学の時期に入手したことを、我々は知るのである」という。ちなみに木下の詩にはドイツ近代叙情詩の影響も見られるという。
大正末期の旧制高校生とレクラム
以上紹介した人々より少し若く、大正末期に旧制高校生だったのがドイツ文学者の高橋健二(1902~1998)であった。彼は1969年、『学鐙』の丸善創業百年記念号に「レクラム本」という小文を寄せているので、その中から興味深い箇所を抜粋して引用する。
「・・・一高ではドイツ語の組で、一週間に十三時間もドイツ語をおそわったので、しばらくすると、いくらか読めるようになった。・・・そのころは、翻刻の教科書がドイツ語では特に少なかったので、教科書にも原書がよく用いられた。漱石の『三四郎』の偉大なる暗やみこと岩元禎先生は、三年の時、シラーの『ヴィルヘルム・テル』と『ヴァレンシュタイン』をレクラムで教えられた。・・・岩本先生がひとりで、我流の発音で読んで、古風なことばで訳していくので、どんどんはかどって、『テル』五章をあげてしまい、『ヴァレンシュタイン』に進んだが、この方はいくらもやらないで、卒業となった。・・・大学に入ってからも、さかんにレクラム本を買った。この十二月四日に文学座がシラーの『メアリー・スチュアート』を上演するので、シラーのレクラム版を出してみた。全集なんかより扱いやすいからである。大学時代に読んだと見えて、訳語がへたな字でたくさん書きこんである。かめの子文字の古い版で、背中が破れているが、読むには便利である。四日に芝居を見に行く時に、たずさえて行くことにした」
後に本論で詳しく述べるが、レクラム文庫には戯曲作品が大変たくさん収録されていて、ドイツではとりわけ帝政時代に、劇場にこれらが携行されていたという。次に載せるのはレムラム百科文庫に納めらているオペラ作品の台本の一つである。百科文庫ナンバー5641と表紙に書かれているワーグナー作『ラインの黄金』。
オペラ作品の一つ『ラインの黄金』(ナンバー5641)
もうひとりこの時代に旧制高校生だった成田山仏教研究所員の渡辺照宏が1976年に書いたエッセイ『レクラム文庫の今と昔』から、興味深い箇所を引用することにしよう。
「私は1924年(関東大震災の翌年)旧制高等学校に入学したころ、日本橋丸善本店の二階の一隅にあったレクラム世界文庫の書棚の前でしばしかなり永い時間を費やした。著者名のアルファベット順に配列してある棚を上から下までゆっくりと検討し、書名を確かめ、読みたい本を心に留めた。小遣銭の乏しい時でも星一個につき二十銭(当時は封書郵税三銭)で最低一冊は買って帰ることができた。・・・高等学校で菅虎雄先生に習ったハウフの『皇帝の肖像』や三浦吉兵衛先生に習ったフケーの『ウンディーネ』も当時レクラムに入っていた。岩元禎先生は教科書版ではなくてレクラム版を教室で使用させた。・・・そのころ、神田の古本屋などでよく古いレクラム文庫を見つけた。やや薄手の表紙の上方にUniversal-Bibliothekと記され、左方に長いリボンを垂らした格好で「各番号ごとに―ー二十ペニヒーでーーどこでも買える」と記されているが、扉の体裁は同じであった。この古い文庫本は消耗品のように失われていったが、固い表紙をつけた上製本も時には古本屋で見かけた」
渡辺氏が書いているような装飾的な表紙の古い『レクラム百科文庫』
ナンバー3874(Die Stumme von Portici)
2 レクラム文庫を模範にして生まれた
岩波文庫
岩波文庫発刊に際しての宣言文
周知のように昭和2年(1927年)7月、岩波書店から「岩波文庫」が発刊され、最初の31点が市場に出ていった。この叢書がレクラム文庫をモデルにして作られたことは、今なお岩波文庫の各巻の末尾に印刷された「読書子に寄すーー岩波文庫発刊に際してーー」という文章の中に明示されているのだ。そこには「・・・吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類の如何を問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易な形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる」とある。ここに書かれている「文庫の内容の多様性」「古典の強調」「本の外観の規格化(簡易なる形式)」「予約出版に頼らない叢書の個別売り」などの原理は、第三章「レクラム百科文庫の創刊」のところで述べるように、レクラム文庫発刊にあたっての基本的な原則であったのだ。
またこの岩波文庫発刊の宣言文の冒頭には、次のような文章も書かれている。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸がもっとも狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう」
アントン・フィリップ・レクラムの根本理念が「知識・教養の仲介を通じての民衆の政治的解放」にあったことは、第三章をお読みになれば、直ちにお分かりいただけよう。
岩波書店が戦後の1951年に読者との交流を緊密にし、かつ同社の広報宣伝を図るために発刊した雑誌『文庫』に岩波文庫略史が掲載されているが、それによるとこの格調高い「文庫創刊のマニフェストの草稿が(哲学者)の三木清氏によって作られ」「(岩波書店当主の)岩波茂雄が手を入れた」とされている。またこの宣言文の続きに、文庫発刊の具体的な動機ともいえる次のような文章が書かれている。「近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。・・・このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年前より志してきた計画を慎重審議この際断然実行することにした。」
岩波文庫発刊の経緯
この宣言文を理解するためには、昭和二年(1927年)前後の日本の出版界の事情を知る必要がある。そこで当時の出版界を振り返って、この叢書が生まれた経緯をざっと見てみることにしよう。まず宣言文に書かれた「大量生産予約出版」ないし「後代にのこすと誇称する全集」というのは、改造社が大正十五年(1926年)に一冊一円で発売を始めた『現代日本文学全集』、いわゆる円本のことである.
当初は大博打として始められたこの企画が大当たりして、その後各社一斉に同種の企画が続出して、「円本騒動」といった事態が起きていたのであった。こうした騒ぎの中で「創立十余年まだ出版界ではそれほど有力ではなかった」岩波書店から岩波文庫が発刊されたわけである。しかし日本の文庫本の研究者矢口進也によれば、「それが円本大流行の風潮に逆行する文庫の刊行に「永遠の事業」と銘うったのであるから、大風呂敷とみられても仕方なかった。」
「また、いかにも長年暖め続けた企画のようにうたっていても、それが拙速、急ごしらえ計画の見切り発車であったことは、のちに関係者の語るところである」という。この関係者は「岩波文庫略史」の中で、この点について次のように記してる。
「山本さんの圓本計画は玄人筋では気の毒ながらうまくゆくまいと、はじめはたかを括っていたのである。そして岩波書店などはそういう考え方では第一人者であった。」ところが圓本が大当たりをして焦りを感じた岩波書店でも「岩波らしい計画を次々にたててみた。ところがちゃんとした計画を立てようとすると時間がかかり、ついに絶望して圓本計画を捨て、全然目先を変えてドイツのレクラムに範をとり、計画されたのが岩波文庫であった」という。そして「この計画の立案者は間違いなく岩波茂雄である。学生時代に読んだレクラム文庫のことが絶えず彼の頭の中にあったのであろう。それが圓本騒動の大嵐の中で、出版者としての彼の頭の中にクローズアップされたのは幸いなことであった」と付け加えている。
岩波文庫成立の裏話には、このほかいろいろ興味深いエピソードがあるが、ここではこれ以上立ち入る余裕はない。ただ岩波は発刊理念や内容面でレクラムを模範としただけでなく、その外観・装丁の面でもレクラム版をいろいろな点で参考にしていた。例えばその判型をレクラム百科文庫のものとほぼ同じにした点や、表紙の色をレクラム百科文庫のものとよく似たラクダ色にした点、そしてさらに価格設定に当たってナンバー制度と星印による表示法を採用した点などである。
岩波文庫の表紙
装丁は平福百穂画伯が選んだ正倉院御物の古鏡の模様だといわれている
岩波とレクラム
ところで明治の中頃から日本でよく知られていたレクラム百科文庫は、岩波以前にもいろいろな出版社が模倣の試みをしていた。中でも大正三年(1914年)の<アカギ文庫>は、キャッチフレーズに「日本のレクラム」をうたうなど、ドイツのレクラム文庫は、文庫のお手本としてさまざまな文庫の宣伝に利用されていたようだ。しかし実際にレクラムに比肩し得たのは岩波文庫だけであった。
いっぽう1867年にレクラム百科文庫が創刊されたとき、なお中小の一出版社に過ぎなかったレクラム社が初期になめた苦難には大きなものがあったが、この点、初期に苦労した岩波書店と共通したものと言えよう。しかし両社とも高い志と理想主義的な出版の理念を堅持し、同時にその理想を実現するためのしたたかな経営的な才覚を持っていた点でも、共通していたようだ。
ちなみに創業者の岩波茂雄(1881-1946)は、明治末期の1900年代に一高、東大に学び、そこでレクラム文庫を読んだわけである。そしてレクラムを模範として自らの文庫を創刊した岩波は、創刊後もなおレクラムのことが頭から離れず、ことあるごとにレクラムを引き合いに出している。岩波文庫創刊直後の1927年夏には、知り合いのドイツ文学者佐藤通次にたのんで、同社の雑誌『思想』に「レクラム文庫の沿革」という文章を書いてもらっている。これはレクラム文庫の中に収録されている作品が大体どんなものかを概観したものである。
そして自らの文庫を始めてから8年目の1935年にはドイツに行き、レクラム社を訪問して、その印刷工場まで見せてもらっている。ただドイツはその2年前からナチス体制になっていたこともあって、レクラム文庫の中にはヒトラー演説集まで入っていた。岩波発行の『文庫』の記事によると、「ヒトラーを最も嫌っていた岩波は、この一事だけでも、そのころのレクラムを尊敬する気にはならなかったらしい」という。 さらに岩波は印刷工場の印象を語った後、「岩波文庫のように古今の典籍をちゃんと出しているものは、世界中にないと繰り返して言い、満足そうであった」という。事実本家のレクラム百科文庫の中には、のちに整理されて縮小したとはいえ、人気流行作品などが混じっていた。またナチス時代にはその圧力によって収録作品にも影響を受けていたことは確かである。レクラム社にとっては都合の悪い時に遠来の友が訪れた、というところであろう。
しかし岩波としても、レクラム文庫全体について関心を失ってしまったわけでは決してなく、その3年後の1938年には、同社発行の雑誌『岩波月報』に経済学者の大塚金之助に依頼して、「レクラム文庫」という小文を書いてもらっている。これは収録されている作品の概観にとどまらず、時代との関連など、やや広い視野に立った紹介となっている。この小文は全体としてレクラム百科文庫を高く評価しながらも、その「缺點や癖を舉げたら色々あるだろう」として、当時のレクラムに批判を加えている。そして最後に「七十年の間に世界は変化した。ドイツにもレクラムにも若さがなくなった。トーマス・マンは亡命作家となった。自由主義時代のレクラム文庫は終わりを告げるのである」と結んでいる。
岩波茂雄は終戦直後の1946年に亡くなったが、岩波とレクラムとの関係がそれによってまったく断ち切られたという事ではなかった。岩波書店は1951年、岩波文庫の愛読者を会員とする「岩波文庫の会」を作り、その会誌として『文庫』を創刊した。そしてその第一号には「岩波文庫とレクラム」と題した小泉信三のエッセイが載せられた。またその表紙には1928年のレクラム社創立百周年を記念して行われたトーマス・マンの演説からの抜粋が、小さな文字で掲載されている。さらに50年代には折に触れて、かつての旧制高校生のレクラムへのノスタルジーに満ちた思い出話が載せられていた。
いっぽうレクラムの側では岩波をどのように見ていたのであろうか。両出版社の関係については、戦後レクラム社から岩波に送られてきた一通の手紙がある。そしてその手紙の最後に次のような部分がある。「あなたはおそらくご存じないかもしれませんが、この第二次世界大戦の勃発前に、私の父と岩波書店主との間にすでに一つの文通がとりかわされ、それによって貴社は私をある期間無給見習い社員として採用してくださることに、原則的な承諾が与えられていました。私は、この計画が戦争の勃発によって空に帰してしまったこと、したがってあなた及びあなたの会社そしてあなたの美しい国を 知ることができなくなったことを、大変残念に思っています」
この文章から推測するところ、差出人は四代目のハインリヒ・レクラム、受取人は岩波二代目の雄二郎であることは間違いない。ただこの手紙が掲載されている『文庫』の「後日譚ーー岩波茂雄とレクラム社」には、それに続く部分で次のように書かれているのだ。「面白いことだから、この話のあったころ岩波茂雄の秘書をしていた人や、いつもそばにいた人たちに聞いてみたが、誰にも確かな記憶がない。しかし、こんなことを作ってわざわざ言ってくる筈はないから、事実に違いない」
もう一つアンネマリー・マイナー女史が第二次世界大戦中の1942年に出した『レクラム、百科文庫の歴史』の中では、「レクラムと模倣」という項目が設けられ、そこでドイツ国内・国外のあまたの類似の廉価文庫が多かれ少なかれレクラムの影響で生まれたことが述べられた後、岩波文庫についても触れられている。その箇所を次に引用することにする。
「1927年に創刊された日本の叢書岩波文庫は注目に値する。なぜならこれは内容・外観ともにドイツの模範に従っているからだ。同じ判型、同じ黄赤色の表紙に裏表紙の出版社章、背中の表題、ナンバーそして星印までも同じだ。ただ表紙と裏表紙に描かれた模様だけは日本製だ。今日すでに約五千点にも達しているこの叢書が百科文庫と違う点は、これが学術出版社の岩波書店から出版されているという事だけであるが、日本人にとってこの叢書は、われわれにとってのレクラムのような意味を持っているのだ。これは百科文庫と全く同様に、まず国民文学(日本の小説、戯曲、詩、音楽、舞踊)が来て、それから世界文学が来ている。次いで哲学、自然科学、宗教、教育、さらに法律、社会学、政治学、経済学となっている」
次回は第二章 創業者アントン・フィリップ・レクラム をお届けします。