第2章 創業者 アントン・フィリップ・レクラム
1 その先祖
ユグノーの出身
レクラム百科文庫が創刊されたのは、1867年11月9日であったが、これは日本で言えばまさに明治維新の前年つまり江戸時代の最後の年、慶應3年のことであった。この時創業者のアントン・フィリップ・レクラム(1807~1896)はすでに60歳になっていた。彼が若干21歳でその出版社を創立したのは1828年のことであったから、のちに世界的な名声を得ることになる叢書を創刊するまでには、ほぼ40年かかったわけである。その初期の出版活動については、この後詳しく述べることにして、まずは彼の先祖のことから明らかにしていこう。このことは彼の出版活動全体と、『レクラム百科文庫』創刊の理念と深くかかわってくるからである。
レクラムの先祖は16世紀の初めころ、フランス南東部サヴォア地方に住んでいたが、当時はまだレクランと称していた。しかしこの世紀に起こった宗教改革で、レクラン一族はカルヴァンの新教に魅かれて、すぐ近くのジュネーヴへ移住した。その当主ジャン・レクランは1532年9月6日、ジュネーヴの市民権を獲得したが、息子たちや孫たちも引き続きこの新教徒の町に住み続けた。やがて18世紀になって、一家の中からアイルランドを経由してベルリンへ移住する者が現れた。彼らの職業は商人、説教師、金細工師と様々であったが、いずれも先祖伝来の信仰と生き方に忠実なユグノー(フランス人新教徒)なのであった。つまりその堅い信仰ゆえに、権力におもねない自由な気風を保持していたのである。

レクラム家の家紋
このことは一家の家紋にもよく表れている。それは日本の家紋のような図形化されたものではなく、かなり具象的な図柄となっている。つまり兜の上に鶏が羽を広げて止まり、その下の盾の中にのライオンが配置されたものである。そしてその下に「恐れずに警戒せよ」という格言がフランス語で書かれている。これは聖書の中の有名な言葉なのであるが、自由闊達で、権力を恐れないが、同時に周囲に注意深く目を光らせていくこうした生き方は、創業者アントン・フィリップ・レクラムによっても引き継がれている。
創業者の曽祖父にあたるジャン・レクランはアイルランドのダブリンで生まれ、金細工師として初めドイツのマグデブルクにやってきたが、やがて1739年にベルリンで大規模な宝石業を始めた。そしてプロイセンのフリードリヒ大王の知遇を得て、商売を発展させ、その息子のジャン・フランソワ・レクランは、宮廷お抱えの宝石商となった。
創業者の父親カール・ハインリヒ・レクラム
そしてこのジャン・フランソワの末の息子シャルル・アンリ・レクラン(1776~1844)が出版業者となったのである。彼は北独ブラウンシュヴァイク在住の教育者で、青少年向け図書も執筆していたヨアヒム・ハインリッヒ・カンペが経営していた教科書出版社で修業を積み、1803年にその姪ヴィルヘルミーネ・カンペと結婚した。しかしこの人物はさらなる書籍業の習得のため、フランス革命の最中にあったパリを訪れている。自由の気概をもったユグノーの血は、彼の中にも脈々と波打っていたと見え、ジャコバン派の立場から恐怖政治の舞台を目の当たりにしたのであった。つまりそこで彼はロベスピエールが断頭台の露と消えた様を目撃したのである。そしてこの革命家の首を切った刀を生涯保管し、さらに遺言でそれを次男のカール・レクラムに遺産として残している。
その後ライプツィッヒに移ったシャルル・アンリ・レクランは、1802年11月8日、26歳で独立の書籍出版販売店を、町の中心に開設した。この時名前をドイツ語風にカール・ハインリヒ・レクラムと変え、主として英仏の文学書を販売する傍ら、学術書や雑誌の出版も行った。その翌年結婚したが、全部で8人もの子供をもうけている。そして68歳でなくなると、その店はそれまで支配人をしていた義理の息子ユリウス・フリードリヒ・アルテンドルフが受け継いだ。この書籍出版販売店は1828年に「カール・ハインリヒ・レクラム・シニア」と称するようになり、1872年まで存続した。1828年に店名が変更されたのは、長男でのちにレクラム百科文庫を創刊することになるアントン・フィリップ・レクラムが、この年独立して別の出版社を設立したからであった。
2 アントン・フィリップ・レクラムの初期出版活動
職業生活の開始
わがアントン・フィリップ・レクラムは、1807年、カール・ハインリヒ・レクラムの長男として生まれたわけであるが、その若き日の肖像画を見ると、そこには単なる書籍業者の姿を越えた、知的な活力が感じられるのである。

若き日のアントン・フィリップ・レクラム
その明晰でしっかりした目つき、固く結ばれた口元そして高く突き出た額、これらはこの人物の輝くばかりの知性と気品を示していると言えよう。そしてその血の中には、先祖伝来の独立不きの魂と権力への抵抗精神が流れていたのであった。1823年から4年間、十代の彼は父親と同じようにブラウンシュヴァイクで、みっちり修業を積んだ。それは叔父のフリードリヒ・フィーヴェークが経営していた古典作品の出版社であった。その義理の父親のJ・H・カンペから製本所と活字鋳造所付の教科書出版社も引き継いだため、この叔父に当たる人物が経営する店で、アントンは書籍の出版販売業を総合的に習得することができたのであった。
父親のカール・ハインリヒ・レクラムは、息子のアントン・フィリップの才能と人柄を十分信頼していたようである。なぜなら若干21歳でその息子が独立の商売を始めたいと申し出た時、当時としても大金の3千ターラーを用意して、貸与したからである。この金でアントン・フィリップが手に入れたのは、ヨハン・ゴットロ-プ・バイガングが1795年に、ライプツィッヒ市の中心街に設立した「文学博物館」であった。これは内部に「読書ホール」、「貸出文庫」、「雑誌貸出所」そして小さな出版社を持った施設であった。

ライプツィッヒの「文学博物館」
この施設は「学問、芸術そして読書の愛好者」のために建てられたのであったが、その経営は当初から苦しかったと言われる。そのためバイガングはやがてこれを手放し、二代にわたる後継者に引き継がれた後、1828年4月1日、未経験の若者であったアントンの手に落ちたのであった。当時80人いたライプツィッヒの出版者の中で彼は最も若かったという。その建物は、若き日のゲーテがよく訪れ、『ファウスト』の中にも登場する有名な地下酒場「アウアーバッハス・ケラー」の隣にあったが、そこには7万冊の蔵書と百種類を超す新聞、雑誌、学術雑誌が保管されていたという。
この「文学博物館」は、出版社としての機能は付随的なもので、むしろ書籍や新聞・雑誌の閲覧所ないし貸出所の機能のほうが強かったようである。これが博物館と呼ばれたのは、立派な建物の中に書籍や雑誌のほかに、美術品や鉱物標本、物理化学の実験道具などが陳列されていたことからくる。しかしその内部は、いわば反権力的ないし反体制的な集会所の観を呈していたと言われる。「博物館」内の「読書ホール」は単なる読書室の域を超えた一種の「読書サロン」なのであった。これは啓蒙主義とフランス革命の思想的産物といえるもので、18世紀末ごろからドイツの各地に花開いたものだが、地域によってさまざまな名称で呼ばれていた。
そこにやってきた人々は、新しく出た本や新聞・雑誌を読んだり、それらを巡って互いに意見を交換したり、議論したりしていた。レクラムの施設もそうしたものの一つで、そこには文学や政治に興味を持ったライプツィッヒの全ての人々がやってきて、話し合う出会いの場でもあった。そこでは批判的な考えや意見が自由に、しばしば極めて激しく交わされたという。そうした議論は談話室ではなくて、読書室で行われたため、本を読んでいるひとには、さぞうるさかったことであろう。
レクラム出版社とも縁の深かった作家のトーマス・マンは、そこの雰囲気について、1928年のレクラム出版社創立百周年記念講演の中で、生き生きと伝えているので、次に引用することにする。
「そのいわゆる博物館は、危険で生き生きしたところで、講演と討論と批評の場所であった。偽りと信心ぶった秩序が支配していた古き良きライプツィッヒにあって、反抗的な人々がすべてそこに集まり交流した。そこでは作家や市民がわずかな入会金を払って、ドイツや諸外国の新聞を読み、大規模な貸出文庫を利用し、いろいろと思索をめぐらしながら、意地の悪い喜びにふけることもできたのだ。」
こうした性格を持った「文学博物館」の若き所有者は、このようにしてそこに出入りする人々のリベラルな考えや進歩的な思想を速やかに体得していったことと思われる。
民主化運動への傾倒
若き出版者アントン・フィリップ・レクラムは、こうした環境の下でその職業生活を始めたのであった。だだその「文学博物館・出版社」の方は、当初はさしたる出版計画もなく、軽い娯楽作品や詩集、ユーモア小説、風刺作品、実用書などを出す傍ら、時事的で、政治的な小冊子なども手掛けていた。二十代のレクラムにとっては、金儲けを目指した地道な出版活動よりは、むしろ情熱の対象としてのアクチュアルな現実政治の方に、より強い関心があったようである。1815年のウィーン会議後のドイツは、いわゆるメッテルニヒ体制のもとの王政復古時代にあり、自由や人権、あるいは民主主義ないし祖国統一を求める人々の要求や運動は、ことごとく弾圧され、保守反動の静けさが支配していたの言われる。
しかしこうした時代ににあっても、反動期への幻滅の後に、やがて憲法の枠内での政治的諸権利の拡張への要求が、住民のより広範な部分をとらえていった。そしてこれら諸要求と諸邦政府の反動的な態度との対立は、ドイツにかつて見られなかった自由主義運動の急進化をもたらした。レクラムが住んでいたライプツィッヒはドイツの出版のメッカであるのと同時に、民主化運動も極めて盛んであった。たとえば1830年に起きたデモで一人の若者が死亡したが、反対運動の指導者たちは警察の横暴を弾劾し、反対運動を高揚させようとした。その最も熱心な人間の一人が、レクラムなのであった。彼の「読書ホール」では、警察に向けて激しい言葉が飛び交い、殺人事件の背後関係をめぐって激しい議論が続いたという。
こうした民主化運動に対しては、若き日のレクラムに限らず 総体としてライプツィッヒの書籍業者や印刷業者が、指導的な役割を果たしたことが注目される。全ドイツ出版界におけるライプツィッヒの指導的な地位と彼らの職業の持つ地域経済的な重要性は、当局としても十分認識していた。そのためそのことを利用して、彼らは政治的な干渉や検閲に反対し、あわせて言論出版の自由を求める運動をエネルギシュに展開したわけである。しかしこうした要求が政治面での市民の解放へと発展し、やがて王国の貴族支配体制が崩壊することを恐れた当局側は、なんだかんだと言い逃れをして、約束を引き延ばしていったのである。
次いで1831年から翌年32年にかけて、ドイツ国内の各地でポーランド人難民に対する支援活動が見られたが、これにもレクラムは積極的に関与した。周知のようにポーランドは18世紀末以来、ロシア、オーストリア、プロイセンという大国によって分割支配され、独立を失っていたが、祖国の解放を求めて何度も闘争を繰り返してきた。この時もポーランド軍は強大なロシア軍に対して立ち上がったが、この度も戦いは成功せず、敗北した兵士など難民がフランスなど西ヨーロッパへ逃れる途中ドイツ領内を通過するという出来事が発生した。これに対してドイツ各地で自然発生的に同情デモや連帯行動が起きてきたわけであるが、ライプツィッヒでも難民・亡命者のために「ポーランド人支援協会」というものが、リベラルな市民・知識人によって設立され、八か月にわたる活動期間に一万ターラー以上を集めて、難民に提供した。レクラムはこの活動に加わったのであるが、出版人として難民に同情し、支援する内容の詩集や体制批判的な小冊子を自分の出版社から出したりもした。
しかしやがてポーランド人のドイツ領通過は禁止され、支援活動も停止することになった。とはいえ若きレクラムにとってこの活動は決して無駄ではなかった。というのはこの時の出来事を通じて、のちに「若きドイツ派」と呼ばれる旧新自由主義思想を持った文学者グループの一員として名をあげることになるハインリッヒ・ラウベと知り合うことになったからである。この作家はポーランド国民の解放闘争に感激し、ロシア皇帝、プロイセン国王そして自国民を裏切ったポーランド貴族に対しても厳しい批判の矛先を向けてきた人物であった。自分と同年齢のこの青年作家と知り合ったレクラムは、たちまち意気投合してその作品を出版したのであった。それは当時のヨーロッパの反動的な支配体制を厳しく糾弾したもので、その第一作『ポーランド』は検閲を避けて、レクラムは別の出版社の名前で出すという用心深さを示した。この作品は結局、発行禁止処分を受けたが、同業者仲間の連帯感に支えられて、当局の追求を免れたレクラムは、その第二作『政治書簡』を、こんどは自分の「文学博物館・出版社」から出版したのである。さらにレクラムはラウベに対して、ある新聞の発行を促した。それは『優雅な世界のための新聞』という名前で発行されることになった。ラウベはこの発行を1833年、1834年にわたって続け、『若きドイツ派」の代表的な機関誌にした。またラウベの演劇的才能にも注目したレクラムは、のちに再び出版面で関係を結び、そのいくつかの作品を『レクラム百科文庫』の中に収録している。それはともあれ、この時レクラムは初めて、書物を通じて理想や理念の普及に寄与し、自由でより良い世界を築くことに協力しようという、決意を固めたようである。
「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」
こうして出版業に専念するために、1837年彼はその「文学博物館」を売却し、同年7月から出版社の名前も「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」と変更した。ジュニアという言葉を入れたのは、先に紹介した父親の出版社と区別するためであった。ちなみにこの出版社名は、第二次世界大戦後の今日なおシュトゥットガルト近郊にあるレクラム社の正式名称として残っている。
思想的に急進的で、過激であったレクラムも、出版人としては決して無鉄砲ではなかった。先に紹介した家紋にもあるように、「恐れずに警戒せよ」という家訓をアントン・フィリップ・レクラムも守っていたようである。彼は大急ぎで事を進めるという事はせず、経験や失敗によく学び、その世界を広げることに努力した。そして職業生活の基礎が固まった三十歳になって、彼は結婚したのであった。
このころ彼は自分の出版社の経営基盤の確立という問題に、真剣に取り組むようになった。1839年彼は金持ちの友人たちの金銭的支援を受けて、ライプツィッヒのハーク書籍印刷所を買い取ることに成功した。そして自分のところの出版物はすべて、この印刷所で印刷することにした。その際彼はこの印刷所の効率的な運用という事を考えた。そのために高い発行部数が望め、しかもすぐに古くなってしまわず、何度でも再販できるような作品を確保することが肝要であるとも考えた。
そうした性格の出版物として選ばれたのが、聖書、ギリシア・ラテンの古典作品、フランス語、英語、ラテン語の辞書そしてオペラ・テキストなどであった。そして印刷に当たって最も高価につく活字の組版を新たに作らなくてもよくするために、一つの組版母型から同じものをたくさん作れる、当時最新鋭のステロ版印刷法を取り入れたのであった。これによって製作コストを著しく引き下げることに成功したのであったが、それは同時に後に彼が『レクラム百科文庫』を創刊するにあたって、その技術的な前提条件になったものであった。
民衆向け雑誌の発行
1834年ドイツでは穀物の不作の結果として経済・社会状況が悪化し、広範な層の人々の不満が蔓延していたが、こうした展開の下で、「民主化運動」は市民運動の内部で、ますます大きな影響力を持つようになっていた。つまり政治的・社会的な諸要求において、下層階級の利害をもっと考慮すべし、との認識が広まってきたわけである。その代表者たちは、リベラル派の妥協的な態度や、彼らの「ブルジョア・リベラリズム」を批判し、それによって挫折しかかっていた反体制運動を前進させたのである。こうした新しい動きは、とりわけ小市民的な知識人の間で多くの支持者を見出した。そして自分たちの理想を広く宣伝するために、いろいろな雑誌が発行された。 こうした流れの中で最も注目すべき民衆向けの雑誌として、1842年11月から「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」によって、『ライプツィッヒの機関車』が発行された。この週刊誌の編集者は、かつてのプロイセンの将校F・W・A・ヘルトであった。内容的には、全世界で起きた政治的、社会的、経済的、文化的な日々の出来事について伝えるもので、読書対象としては一般の小市民、手工業者、労働者、学生などに狙いを定めていた。そのため年間の購読料もわずか1ターラーと、廉価な価格に抑えられていた。こうした廉価で広く普及させるというやり方は、のちの「百科文庫」の行き方の先駆をなすものであった。そこには民衆向けのウイットがもりこまれ、時代遅れの国内ニュースは皮肉なタッチで伝えられていた。その一方外国ニュースに対しては、いちいちドイツと比較して、当てこすりが付け加えられていた。そのため一般民衆の間での人気はどんどん高まっていき、翌年6月には、当時としては大変な数字といえる二万部にも達したのであった。
この週刊誌の反体制的な論調には、当時ドイツやオーストリアをはじめとする中央ヨーロッパ地域を実質的に支配していたメッテルニヒも当初から注目し、恐怖感すら抱いていたようである。そのためその秘密情報網を通じて、この雑誌の人気ぶりが逐一彼のもとに報告されていた。その結果メッテルニヒの差し金によって、ライプツィッヒ市のあったザクセン王国の当局は、いろいろとその編集方針にくちばしをさしはさむようになった。そして1843年6月21日に、『ライプツィッヒの機関車』は、わずか25号で廃刊させられることになった。
その後レクラムは、1842年から庶民的な機知とジョークにあふれた民衆向けの雑誌『シャリバリ』を発行した。こちらの方の編集人はE・M・エッティンガーであった。この雑誌も週刊発行であったが、文字だけでなく、木版画が多数挿入されたり、美術関係の付録が付いたりしていた。つまり内容的には政治を扱ったものではなかったが、『機関車』で獲得した多くの読者をつなぎ留めておくための工夫もしていた。そしてパリで発行されていたものと同じ名前を持ち、共和制的・諷刺的傾向を帯びていたため、その鋭い調子を和らげるよう、当局から指図を受けた。これにはさすがのレクラムも抵抗できず、以後その調子を和らげ、遠回しに皮肉ったり、諷刺したりする程度で我慢せざるを得なかった。こうしてこの『シャリバリ』は、1849年まで存続した。
民主化運動と結びついた出版活動
メッテルニヒ統治下のオーストリア帝国では、王政の利害に反するようなあらゆる自由主義的、民主主義的、進歩的な運動は、様々な手段によって抑圧されていた。そのためそこでは自由な言論・出版活動など望めるものではなかった。こうして1830年、40年代を通じて、そうした傾向を持った作家やジャーナリストはたいてい、より抑圧の少ないライプツィッヒへ逃れてきて、そこから祖国の書籍市場へ向けて、自分たちの著作物を送り届けるようにしていた。ただライプツィッヒでも、出版の自由がかなり制限されていたことは、今まで述べてきたとおりである。メッテルニヒはこの都会を「ザクセンの小冊子工房」と称して、怖れ憎んでいたという。そのためメッテルニヒの長い手は、陰に陽にここにも迫っており、ザクセン王国政府も反ハプスブルク的著作物への検閲を厳しくせよとのウィーン政府からの要望に従っていたという。
こうした厳しい情勢にありながら、レクラムを初めライプツィッヒの何人かの出版人は、オーストリアからの亡命作家の原稿の出版を進んで引き受けていた。そうした出版人としては、オットー・ヴィーガント、ブロックハウス兄弟、ホフマン・ウント・カンペなどがいた。レクラムは1842年からこうした亡命作家の原稿の出版に乗り出していた。その際これら著作者たちの身の上を考えて、匿名ないし偽名で出版した。1844年にはこれらは15冊と最も多い出版点数となった。それらは広大なオーストリア帝国の各地の実情を調べた比較的穏やかな内容のものから、帝国の裏面を描いた批判的・反抗的なものまで、いろいろであった。
これに対してオーストリア当局は、これらの著作物が帝国内に流入しないように、行く手にあらゆる障害を設けた。しかし仲間の出版業者や、検閲者を含めた一連の人々の協力によって、オーストリア帝国への出版物の密輸を防ぐことは、当局もできなかったという。その結果メッテルニヒも最後には強硬手段に出て、1846年3月、オットー・ヴィーガントとフィリップ・レクラムにたいして、そうした小冊子の帝国内での販売禁止命令を出した。二人の出版者はこれに対して、新聞紙上に抗議文を掲載するなどなお抵抗したが、結局はこの命令を受け入れざるを得なかったのである。
これと並行してレクラムはドイツ・カトリック教会の改革運動に関連して、改革派の助任司祭ロンゲの著作のいくつかを印刷・出版して、その運動を援助したりもした。さらに1848年の三月革命へと向かって高揚しつつあったドイツの民主化運動の中にあって、フランス革命時代のイギリスの政論家トーマス・ペインの書いた『理性の時代』も出版した。これに対して当局は「宗教に対する公然たる侮辱のゆえに」、レクラムに四か月の禁固刑を命じた。彼はこれに抗告して、再び裁判が行われたが、第二審の判決が下される前に、三月革命が勃発し、この訴訟は取り下げになり、結局禁固刑の執行は回避できたのであった。
3 レクラム百科文庫への道
廉価娯楽文庫の発刊
この時期レクラムは、できるかぎり多数の読者を獲得すべく、別の試みも始めていた。それは「教養読者層のための廉価娯楽文庫」の発行であった。これは1844ねんから1847年までの間に全部で61巻に達したが、その目玉は一冊がわずか5グロッシェンという安さにあった。その中身は、当時の人気作家によって書かれたスリルやエロを狙った娯楽作品であったから、高い文学的価値には欠けていた。しかしその安い値段を通じて広範な層の人々を読書へと導いた点は評価されようが、それよりはむしろ出版業に専念してから7,8年という時期にあったレクラムとしては、これによって出版社の経営基盤の確立を図ろうとしたものと考えられる。
と同時にこれは二十年後にレクラム百科文庫の中で、より高いレベルで円熟完成することになった出版企画の最初の萌芽とみなすことができよう。1848、1849年の三月革命の騒乱後、1850年代に入ってからもレクラムの印刷所では、なお左派リベラル的・反体制的著作物も印刷されてはいたが、その出版活動の中心は、聖書、ギリシア・ローマの古典書、辞典、オペラ・テキストなど、高い発行部数が望め、しかも組版の変更なしに再版できるものに置かれるようになった。ちなみに辞典の中では、この頃発刊され1940年代になお45版を重ねていた『ミュールマンのラテン語辞典』のように息の長いものもあった。これらの出版物は出版社に安定した収入をもたらす安全弁ともいうべき存在で、しっかりとした経営基盤をもった大出版社を目指すには必要不可欠なものだったといえよう。
シェークスピアの廉価版全集

1858年のシェークスピア全集
ところで百科文庫の直接の先駆者として重要な役割を果たしたのが、シェークスピア全集の出版であった。1858年フィリップ・レクラム・ジュニア社から、「シェークスピア戯曲全集」全12巻が12枚の鋼版画付きで、<新ステロ版>と称して発行されたのである。当時ドイツではシェークスピアの作品は大変好まれ、そのドイツ語訳はいくつも出版されていた。このときレクラムが出版したのは、新たに翻訳されたものではなく、1836年にライプツィッヒのゲオルク・ヴィーガント社から全巻6ターラー強で出された全集であった。その12人の翻訳者の中には当時有数のシェークスピア通として知られていた人々もいた。つまり内容的にはすでに保証済みのものだったわけである。これはその12年後にベルリンのカール・クレーマー社によって買い取られ、こんどは<新カビネット文庫>という名称で、12枚の鋼版画付きの全12巻で、値段を2・5ターラーに下げて発行された。レクラムはこれがその10年後に絶版になったとき、買い取ったのである。そしてレクラムはこの全集を、驚くほど安い1・5ターラーという廉価で出版したわけである。これは自分の印刷所で、先に述べたステロ版を使用し、製作費をぐっと引き下げることによって可能になったのである。しかしこれは高い発行部数が得られて初めて、その成功が保証されるものであったのだ。
レクラムの商売人としての才能は、この時開花したと言えよう。レクラムの見込みは図にあたり、翌年には既に第5,6版を出すことができた。そしてその後ほとんど毎年新しい版を出していき、1867年には第14版にも達した。つまりこれは、それまで値段の高さゆえに手に入れることができなかった人々の手に、シェークスピアが届くようになったという事を意味するのである。廉価なシェークスピア全集に対する庶民の要望に気づき、その要望に沿った出版に踏み切ったという点にこそ、レクラムの偉大な出版人としての才能を認めることができるのである。その出版企画は、1867年以前の彼の職業生活において最大の成功をもたらしたのである。それまでドイツの中小出版社の一つに過ぎなかったフィリップ・レクラム・ジュニア出版社は、この時になって初めて大手出版社と競争できる立場に立ったのである。
シェークスピア作品の個別売り
以上の全集とは別に、1865年にレクラム社から25巻にのぼるシェークスピア全集が、こんどは個別売り、一冊2グロッシェンで発行された。これは同じ判型と同じ淡紅色の表紙を持った小冊子版であった。シェークスピア戯曲の個別売りは、すでに1850年にライマー社から一冊1ターラーで出ており、またブロックハウス社からの29巻本(1867~1870)が5グロッシェンで売られたのに比べれば、レクラム社のものは、かなり安かったと言わねばなるまい。ちなみに当時1ターラーは30グロッシェンであったから、レクラム社のものはライマー社のものの実に15分の1の安さだったのだ。これが可能であったのは、先の12巻のシェークスピア全集のステロ組版をそのまま使うことができたため、植字の費用が省けたことが大きい。さらに印刷代も安く、小冊子のための製本も簡単で安く、紙も廉価であった。こうした本づくりは、2年後の百科文庫にもほとんどそのまま受け継がれたのであった。
ただレクラム社がこれに踏み切った直接のきっかけとしては、次のような事情があったようだ。つまり1冊あたりの値段がレクラム社のものより安い1グロッシェンのシェークスピア全集がこの時出現したことに対する、いわば対抗措置だったのである。1865,66年、フリートラインが経営するシェークスピア出版社が、シェークスピアの全作品を<ドイツ国民版>と稱して、三百枚の木版画付きで、1冊1グロッシェン、四十週配本で出版した。
これは実際レクラム社にとって手ごわい相手で、いかにしてこの厄介な競争相手に打ち勝つべきか相談したとき、2年前に入社したばかりの息子のハンス・ハインリヒ・レクラムは、配本方式を提案したという。しかし父親はその意見を聞かずに、1冊2グロッシェンの個別売りを決断したのであった。全集を読者に全部買わせる方式では、1冊あたり1グロッシェンのフリートラインのものに負けてしまうことを、この時フィリップ・レクラムは確信したのであろう。結果的にはこれが大成功をおさめ、かれの出版業者としての優れた経営感覚が証明されたわけである。しかし1冊の価格をこれだけの安さに下げて個別売りする場合、それぞれがかなりの発行部数を確保できなければ、採算がとれないことは明らかである。それだけにこれに踏み切るには、極めて大きな決断力が必要だったと思われる。
こうして1858年の「シェークスピア戯曲全集」及び1865~67年のシェークスピア作品の個別売りの成功は、そのすぐ後の『レクラム百科文庫』の創刊へとつながる先駆的事業という意味で、大変重要なものであったのだ。なお一人息子のハンス・ハインリヒは、この後父親を助けて百科文庫の創刊に大いに貢献し、その後の文庫の発展にも文字通り心血を注いでいくのである。
百科文庫が創刊されることになる経緯については、次章で詳しく述べることにする。