第三章 レクラム百科文庫の創刊
1 古典解禁年 1867年
1867年のもつ意味
1867年は、わが国で言えば江戸時代最後の慶應3年に当たり、ドイツの政治史ではビスマルクによる統一(1871年)の4年前のことである。しかし文化史的に言えば、これまでほとんど注目されてこなかったことであるが、実は一つの大きな画期をなす年なのである。それはドイツの出版史の上ではもちろん、広く文化史・精神史的に見ても、15世紀半ばのグーテンベルクによる印刷術の発明に匹敵するものだとだと言えよう。グーテンベルクの発明は、それまで修道院や大学などの奥深くで僧侶や学者などの一握りの精神貴族が独占してきた書物というものを、広く一般の世界に解放した。これがなければ人文主義の知的運動や、宗教改革運動はあのような速度と広がりで普及することはなかったであろう。
これと同じように、1867年のいわゆる「古典解禁年」は、それまで少数の教養読書人によって独占されてきた古典作品を、廉価版の大量出版によって、それこそ広範な層の人々に解放したのであった。印刷術の発明から数えれば、400年以上の歳月がたっていたが、印刷された書物の普及は、19世紀後半になるまで、様々な障害に阻まれて、さほど進まなかったのである。ドイツを含めたヨーロッパ地域でも、このころまで交通・運輸事情は悪く、とりわけドイツでは通貨事情や書籍価格の高さなどによって、書物は一般の人々の手に届きにくかったのである。
いま述べた「古典解禁年」1867年のもつ意味を解き明かすには、少々専門的になるが、ドイツの出版史とりわけ出版権ないし著作権をめぐる歴史的な経緯について、ざっと振り返る必要がある。
18世紀末までのドイツの出版事情
著作物に対する法的保護という考え方はドイツでは、イギリスやフランスに比べて比較的遅い時期に成立した。15世紀半ばの印刷術発明から18世紀の後半に至るまで、ドイツでは著作権・版権などにはほとんど顧慮することなく、書物は自由に翻刻出版されてきた。翻刻出版というのは、オリジナル出版社から出された著作物を許可なしに、他の出版社がもとの形のまま出版するもので、そのためそれを非難する側からは海賊出版と呼ばれていた。海賊出版取り締まりの動きはある程度見られたが、それはむしろ検閲の方に傾き、しかもあまり効果がなかった。ところが18世紀に入って、こうした海賊出版に対する評価に根本的な変化がみられるようになった。つまり海賊版の被害者でもあった学者や作家などによって、精神的所有権に関する教説があいついで出されるようになったのである。そして海賊版論難の調子を強めるものも現れ、その際「闇印刷屋」とか「泥棒」といった表現すら用いられたりした。
しかしこうした言論が直ちに効果を現したわけではなく、むしろ17,18世紀を通じてこの翻刻出版は花盛りだったのだ。この時代ドイツには大小無数の領邦国家が支配しており、それらの国家では、自国の通貨をできる限り外へ流出させないことによって富国策を図ろうとしていた。当時ドイツ語圏の書物取り引きの方法は卸売りの段階では、現金を用いずに地域的に離れた書籍業者同志が書物を交換するという「交換取引」であった。当時のドイツの国というのは、日本の江戸時代の藩のようなもので、藩札のような別々の通貨が用いられていた。そのため交換取引なら自国の通貨が流出しないので、交換取引と翻刻出版を支持していたのである。
ところがドイツ語圏における出版の先進地域であったライプツィッヒの出版業者のなかには、古い交換取引をやめて現金取引へ移行する者もあらわれた。その際彼らは先の精神的所有権に関する学者や作家の教説を引き合いに出して、オリジナル出版社の出版権と、著作者の著作権を強く主張し、あわせて翻刻出版の禁止を訴えた。しかし一口にドイツの出版界といっても、18世紀後半の時点では一様でなかった。古い見本市都市フランクフルトを中心とした南ドイツやオーストリア、スイスなどのドイツ語文化圏では、依然として翻刻出版が盛んであった。
この翻刻出版は著作権・版権を顧慮する必要がないため、書物の価格を安く抑えることができ、あまり金がない読者にとっては、書物を安く入手できるというメリットがあった。これは後進地域に住む人々、あるいは経済的に恵まれない人々に対する文化の普及という観点から見れば、一概に非難されるべきものではないと考えられる。
その一方、新興の見本市都市ライプツィッヒを中心とした中部ドイツ及びベルリンを中心とした北部ドイツなどの先進地域では、近代的な取引方法へ移行した。そして一時はドイツ語圏の出版界は、南北に分裂して対立抗争が繰り返された。しかしやがて北ドイツのイニシアティブによって、全体として著作権制度確立へと動いていったのである。
著作権制度の確立とその後
著作権・版権に関する決定的な動きは、19世紀に入ってから起こった。翻刻出版を禁止する法律は、先進的なプロイセン王国では1794年に制定された。そして1827年から1829年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて、ドイツ連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦議会全域における翻刻出版の禁止措置に踏み切ったのである。
次の段階として出版社の持つ版権ではなくて、著作者の持つ著作権の保護問題が浮かび上がってきた。この点について、1825年にライプツィッヒに生まれたドイツの出版社の全国組織は、1837年に著作権保護期間を著作者の死後30年と決めた。つまり「今後死亡する著作者の著作権保護期間は死後30年とする。また1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとする」とされたのである。こうしてドイツにおける著作権制度は長い紆余曲折を経た後、1837年になってようやく確立したのであった。
ところでこの日付けは後に「古典解禁年」と呼ばれるようになったが、それはゲーテ、シラーをはじめとするドイツの古典作家たちがほとんど1837年以前に死亡していたため、その30年後の1867年以降には、著作権料を支払わなくても、古典作家の作品を自由に出版できることになったからである。その裏には当時ドイツでは、書籍の販売がかなり低迷していたという事情があるのだ。
たしかに18世紀末に起こった「読書革命」によって読者層は拡大したものの、書籍価格の高さなどが原因で、書物の購買者は基本的になお有産有識の教養市民層であった。ところがこの教養市民層の中に、1848年の三月革命の前ごろから、騒然とした世の中の動きに影響されて、じっくり書物を読む習慣を捨てるものも現れてきた。当時この階層の人々は強い政治的傾向を帯び、読むものと言えば主として時事的な新聞・雑誌といった状態になっていた。こうした状態は革命の挫折後もかなり長い間続いていたため、書籍の販売はかなり長期にわたって低迷を続けていたのである。
2 ドイツにあふれる古典廉価版
各社競って古典廉価版の発行へ
1867年11月9日の直後、ドイツの町の書店は古典作品の廉価版の洪水に見舞われた。ドイツには昔からクリスマスに贈り物にする習慣があるが、頃はまさに本の「クリスマス商戦」の時期に当たっていたのだ。書店のショーウインドーにはこれらの書物が華やかに並べられ、書店では大勢の人々が直接買いに来たりしていたし、また大量の注文も押し寄せていたという。出版社の中には、一獲千金を狙った投機的な傾向のものもあったが、「一人でも多くの人に古典作品を提供しよう」という理想主義的な思いを持ったものも少なくなかった。その背景には、当然のことながら、一般市民の「精神への飢え」があったことも指摘しておかねばなるまい。
この古典廉価版シリーズの発行に踏み切ったのは、大手出版社ではブロックハウス、ヘンペル、マイヤー書籍協会、コッタ、そして中小出版社ではハンベルガー、パイネ、プロシャスカ、グローテ、ヴィニカー、ゲーベルそしてわがフィリップ・レクラム・ジュニア社であった。「古典解禁年」以前は、わずかな例外を除いてゲーテ時代のほとんど全てのドイツ古典文学の著作権・版権は、コッタ出版社などの少数の文芸出版社ががっちり握っていた。いわば古典作品出版の寡占状態が続いていたわけである。ところが「古典解禁年」が近づくにつれ、古典への読者の渇望からごく少数の出版社が吸い上げてきた巨大な利益の分け前にあずかろうとする出版社が、大規模な宣伝手段を通じて古典廉価版の発行を予告するようになっていた。そしてこれが原因で既得権を持ったコッタ社などとの間に激しい争いが生じたりしていた。
それにもかかわらず古典廉価版の大量発行は、全体としてかなりの成功を収めたようである。しかし時の流れとともに、長続きせず脱落していく出版社もあった。そうした中でレクラム百科文庫は永続していくわけであるが、当初は大手のヘンペル社とマイヤー書籍協会の廉価シリーズの方が注目されていたのである。ヘンペル社からは「全ドイツ古典作家国民文庫」全246巻が出された。ヘンペル社ではその際、著者によって最終的に認められた版を用いて、テキストの内容が完璧であることを心掛けたという。つまりたとえ廉価版といえども、内容的な質の高さは保ったわけである。またマイヤー書籍協会は古典廉価版の出版に参加するにあたって、昔から存在した行商人を用いて、売りさばく手段に出た。そしてこれが成功を収めたので、以後かなり長い間「文庫本」の老舗として、後々までレクラム社のライバルであり続けるのである。ちなみにマイヤー社の百科事典は、ブロックハウス百科事典と並んで、いまでもドイツの代表的な百科事典なのである。
レクラム百科文庫ーーささやかな出発ーー
当時はまだ中規模出版社の一つに過ぎなかったレクラム出版社が1867年に創刊したレクラム百科文庫は、数多くの古典廉価版の中にあって、当初は特に注目されたわけではなかった。他の多くの出版社は、その古典廉価版の発行に当たって、ドイツ出版業界の全国的な広報誌の役割も果たしていた「ドイツ書籍取引き所会報」に大々的な広告を掲載していたが、レクラム社がやったことといえば、ごくささやかなことであった。つまり同会報の第264号(1867年11月13日発行)の「ドイツ出版業界で発行された新刊書」という欄に、シリーズの最初の2巻に相当するゲーテの『ファウスト』第一部・第二部の題名が掲載されただけなのであった。
それでもレクラム社としてはその『百科文庫』の創刊には入念な準備を行い、11月9日の前夜までに第一期の35ナンバーが用意された。そして翌年1868年末までに120ナンバーが出版された。1868年1月には40ナンバーとなっていたが、この40ナンバーが、いったいどんな作品であったのか、見てみることにしよう。叢書のナンバー1はゲーテの『ファウスト第一部』であった。これは初版が5千部で、第2版同年12月に同じく5千部、さらに第3版は翌年1868年2月に1万部出された。ナンバー2の『ファウスト第二部』もほぼ同じようなペースで発行された。初版・第二版合わせて1万部は、わずか三か月で売り切れたが、第三版の1万部が売りきれるには1年半ほどの歳月を要した。
これに対してナンバー3のレッシング作『賢者ナータン』は、初版が3千部で、第二版は翌1868年4月発行であった。この第一期の40ナンバーの中には、ゲーテの前記2作品のほかに、シラーの『ヴィルヘルム・テル』、『群盗』、レッシングの『ミンナ・フォン・バルンヘルム』、ジャン・パウル、E・T・A・ホフマン、クライストなどが収められていた。これらの作品は、後世に残るドイツの古典作品であった。しかしこのほかにも、イギリス人劇作家シェークスピアのドイツ語版9点、そして文学史上は通俗作家扱いされているT・ケルナーの『七弦琴と剣』や、ミュルナー、クニッゲ、インフラントなどゲーテ時代の通俗劇作家の作品も収められていたことが注目される。つまりレクラム百科文庫は「古典廉価版」を称してはいたが、当初からその作品内容を文学史的意味合いでのドイツ古典文学作品に限らずに、シェークスピアなどの外国文学や、ドイツ人の人気作家の作品も進んで取り入れていたことが分かる。現在私たちの手元に残っているもっとも古い宣伝パンフレットには、第一期の作品40ナンバーを掲載しているが、その下に次のような言葉が書き添えてある。
「・・・しかしこのことによって<古典>というレッテルを貼られていなくとも、一般にそれに劣らず愛好されている作品を収録しないという事はありません。幾多のほとんど忘れられている良書が、再び日の目を見ることでしょう。その他の作品は、百科文庫にはいることによって、初めて読者の目に触れるはずです。外国文学や過去の文学作品の最良のものは、良いドイツ語に翻訳されてシリーズの中に、その位置をしめることでしょう」

百科文庫最初の40ナンバーの広告パンフレット
(1868年2月4日)
つまりこれがレクラム社の百科文庫に対する当初からの基本方針であったことが分かる。創業者フィリップ・レクラムの頭の中には、当然のことながら、この宣伝パンフレットの言葉に見られるように、狭い意味でのドイツ古典文学の枠を越えて、幅広い分野の作品を取り込んでいこうとの意図があったと考えられる。この点は後にこの叢書に収められる作品が、どんどん増えるにしたがって明らかになっていくところである。
ところで先に述べたブロックハウス、ヘンペル、マイヤーなどの大手をはじめとする数多くのドイツの出版社による古典廉価版の大量出版によって、コッタをはじめとする従来の老舗の古典出版社は大きな損害を被ることになった。そしてこれらの出版社が存続できるか否かの瀬戸際に立たされる原因の一つをなしたと言われる。それだけに老舗出版社側からの反発も強く、たとえばレクラム社に対しては、これら出版社や学者・教養人から「三文レクラム」という揶揄の言葉が投げつけられたりした。これは百科文庫に、当時としては破格に安い1冊2銀グロッシェンという値段が付けられたことからくるものであった。グロッシェンというのは当時のドイツで通用していた安い通貨の名称で、日本で言えば江戸時代の文(もん)に相当するものと言えよう。そのため三文の価値もない文庫という意味合いで用いられたわけである。ちなみに20世紀のドイツの劇作家ブレヒトの有名な芝居『三文オペラ』も、原題は『ドライ・グロッシェン・オーパー』である。
いっぽう小売書店の側もはじめのうちは、廉価なこの文庫の取り扱いを拒否する者もいたりして、あまり歓迎していなかったようだ。当時なお廉価版といえば、「安かろう、悪かろう」という一般通念が浸透していて、レクラム百科文庫も安売りの粗悪出版物とみなされる傾向が強かった。
しかし創業者のフィリップ・レクラムは、百戦錬磨のしぶとい商売人であり、またその理想追求の熱意には著しいものがあった。若き日に急進左翼リベラル派としてレクラムは、直接的な行動や「政治的小冊子」を通じて、ドイツ社会を民主化しようと尽力した。しかし三月革命の挫折による民主化運動の失敗の後、もっと広範な出版活動を通じて、この目標を間接的に実現しようとしたものと考えられる。その具体的な表れが、レクラム百科文庫の創刊なのであった。そこには「知識・教養の仲介を通じての民衆解放」という根本理念があったわけである。それに加えてこの人物は、少々の物事には動じない天性の楽天家であったようだ。かくして初期の困難な時期を経て、やがてこの叢書は読者によってその真価が理解されるようになり、次第にその地歩を確立していくのである。
3 レクラム百科文庫成功の諸要因
ドイツにおける古典愛好の伝統
レクラム百科文庫創刊の契機は、著者に印税を支払うことなく、古典作品を大量に出版することができるようになった、いわゆる「古典解禁年」であった。その背景としては当然のことながら、当時の一般の人々の間に古典に対する強い要望があったことが、考えられる。ここではまず、19世紀のドイツで古典文学作品が、そのように愛好された理由に目を向けることにしよう。
周知のようにドイツではビスマルクによる1871年の国家統一まで、政治的に分裂した状況があった。18世紀には300余の領邦国家がひしめいていたし、1815年のウィーン会議の後になってもまだ39もの領邦国家に分かれていたのだ。こうした国家分裂の結果としてドイツ人は、お互いの間の共通の自己理解を「文化国民」という形で発展させてきた。所属する領邦国家、制度、身分、階級、職業、地域など、様々な面で異なった人々を結び付ける共通の基盤として、文化というものが置かれたのである。
そしてその中心的な規範が、「教養」であった。この教養というドイツ特有の概念は、現在の日本でごく普通に用いられているのとは、かなり違ったニュアンスをもったものであった。この言葉は、19世紀初めの大知識人で、ベルリン大学の創立者でもあったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの次の言葉に最もよくあらわされているといえよう。「人間の真の目的は・・・自らのもろもろの能力を一つのまとまりある全体に向けて、最高度に、しかも最も調和のとれた仕方で発展させることである」。つまりすべての人間が目指すべき最高の目標として「教養」を身につけることを掲げ、同時にそれがすべてのドイツ人たるものの最高の努力目標であるとすることによって、ドイツ人相互の間を結び付けようとしたわけである。
そしてそれを具体的に体現していたのが、18世紀末から19世紀初めの時期に輩出した、古典主義作家の作品だったわけである。こうした教養や文化は、はじめのうちはごく限られた人々の間でだけ保持され、共有されていたもので、一般の国民にとっては無縁な存在であった。ところが19世紀のドイツの歴史の中で、これらの概念は広く国民も共有すべき規範として掲げられ、徐々に国民の間に浸透していくようになったのである。そしてそのきっかけはやはり、具体的な政治社会運動にあった。
19世紀前半のいわゆる「三月前期」と呼ばれる時期には、国家の統一を求めるナショナリズムの運動と、封建的な制約からの解放を目指すリベラルな改革理念が結びついていた。そしてこれを具体的な運動に移した人物に、ゲルヴィヌスがいた。彼は封建的専制に抗議したゲッティンゲン大学の七教授事件に加わって大学教授の地位を失っているが、もともと自由国民主義の立場に立つ歴史家であり、またのちにフランクフルトの国民議会の代表ともなった人物である。このゲルヴィヌスは、『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』という画期的な書物を著したが、その中で彼は「古典主義作家たちは、国民文化的アイデンティティーの宣伝家であると同時に、普遍人間的で、超国民的な人間性と自由の告知者であるとかいている。これによって彼は当時の自由国民主義的な政治社会運動の中心に、古典主義作家を据えたのである。
なかでもフリードリヒ・シラーは清廉潔白な人柄であったし、またその作品を通じて封建的な専制に対して強く抗議をし、厳しい批判を加えるなど、その後の自由国民主義的傾向に通じるものがあった。そのため19世紀を通じてこうした立場の人々によって、公共の祝祭行事の中で、象徴的存在に祭り上げられたのである。ちなみにあのベートーヴェンの「第九交響曲」に出てくる「歓喜の歌」の作詞者は、このシラーなのである。
その一方で封建的支配を維持する反啓蒙的、反革命的な立場から、読書階層の広がりに反対するプロパガンダもなお執拗に繰り返されていた。そしてリベラルな立場はとっていても、その知的な独占を破られるのを恐れていた教養市民層がいて、その地位が19世紀を通じて、極めて強力であったことも忘れてはならない。しかし「国民的財産」としての古典作家という考え方や、「古典作家崇拝のなかでの国民の理念的統合」というイデオロギー的な概念自体には、彼らとしても反対できるものではなかった。そして遅くとも1867年の「古典解禁年」には、これらは国民共有の財産になっていたといえよう。こうしてドイツにおける古典愛好の伝統は、次第にその輪を広げていったわけである。
優れた経営戦略
レクラムは百科文庫を創刊するにあたって、理念面、経営面で幾多の先人たちの試みを実に巧みに取り入れていたことが注目される。百科文庫は理念・経営両面で、18世紀後半に黄金時代を迎えた翻刻出版のシリーズ・プロジェクトの中に、その起源を見ることができる。理念面では、古典作家文庫としての基本的性格と教養のエンサイクロペディアとしての出版意図を、そして販売戦略面では、印税のいらない大衆廉価版という性格を受け継いでいる。例えば南西ドイツの出版業者シュミーダーが企画・出版した「ドイツ作家・詩人選集」(1774~1793、全180巻)は、百科全書の精神から生まれ、国民教育的な意図すら感じられる最初の標準的な文学叢書であった。これは啓蒙期ドイツ文学の全集であったが、完璧な本造りを目指していた点や、その対象を狭い意味での純文学に限らずに、歴史的、政治的、哲学的な散文や娯楽文学にまで広げていた点で、レクラム百科文庫の模範ともいえる存在であった。
いっぽうレクラムは書物の判型としては、小型の小冊子版を採用した。これはドイツの投機的な出版業者が、著作権保護のないアングロサクソン系の流行作家の翻訳小説を発行したときに用いたものであった。例えばシュトゥットガルトのフランク兄弟は、1827年イギリスの流行作家ウォルター・スコットの小説本を、1冊平均128頁という薄くて手軽な小冊子の分冊販売方式で、極めて安い値段で販売した。このため以前は本など手にしたことのない人々がひきつけられ、書店に大勢の人が押し寄せたという。
もう一つ古典廉価版の叢書という点でレクラムの先駆者となっていたのが、マイヤーの「ドイツ古典ミニ文庫」であった。そこでは販売に当たっては、叢書を全部買わせるという点で、旧来の方式を守っていた。いくら廉価版といっても叢書の全巻を買うことは、やはり買い手にとって負担が大きかったと思われる。狭い領域の専門的な全集ならばこれでよいのであるが、ジャンルを限らずにどんどん発行していく事は、この方式ではできなかった。
規格化と叢書の個別売り~現代ポケット・ブックの開祖~
これと対照的であったのが、レクラムの始めた叢書の個別売りという方式であった。この方式こそは、レクラム百科文庫の永続性を保証した、経営的に見て極めて優れたシステムなのであった。その優秀さは、現代のポケット・ブックや、文庫、新書の類いがすべてこの方式を採用していることによっても、保証されているといえよう。この意味でレクラム百科文庫こそは、現代ポケット・ブックの開祖ともいうべき存在なのである。レクラムは先人たちの様々な経験をふまえて、その百科文庫を小型の小冊子版にし、同じ装丁で、一定価格、定期刊行のシリーズ形成(叢書)にしたのであった。そして原則として一冊づつを完結したものにして、それらを個別売りにしたわけである。
19世紀ドイツの大衆的な文学市場の研究者であるゲオルク・イェーガーは、この百科文庫の特徴を「完結した巻と開かれた叢書」という言葉で表現している。この「開かれた叢書」という表現は、ジャンルの点で開放的な百科全書的な叢書という意味であるが、それはまた全巻を買わずに個別に買うことができる開放性を指した言葉でもある。また「完結した巻」というのは、長編の大衆小説を薄い小冊子にして売るという小冊子の形で分冊にして売るという当時流行していた販売方式ではなくて、「一冊に完結した本」の形で売ることを意味したものである。
「完結した巻と開かれた叢書」というレクラム方式は、従来の全集販売方式や分冊販売方式とは違った新しいやり方であった。この方式をレクラムはすでに1865年にシェークスピア全集を発行したときに採用していたのであった。当時他社の同種の全集との競争で負ける危険を察知したレクラムは、25巻にわたるシェークスピア戯曲作品を、一巻2銀グロッシェンで個別売りにした。これによってレクラムが経営的に大成功を収めたことは、「文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』(2)」の3(レクラム百科文庫への道)の中で述べた通りである。
とはいえこの方式はレクラムの全くの独創という訳ではなく、ただ一つ前例があったのである。それはライプツィッヒの出版社ベルンハルト・タオホニッツが1841年に創刊した『英米作家叢書』であった。この叢書は英米の作家の作品を英語のままでヨーロッパ大陸の読者に提供していたものである。これは1912年までに4、312点、1955年までに5、425点出版された。
半世紀、不変の価格システム
この叢書は、創刊以来ほぼ50年にわたって、本の大きさつまり判型及び装丁は同じであった。そして1冊20ペニヒという価格も不変であった。判型はタテ14・78センチ、ヨコ9.4センチで、これは現在の岩波文庫とタテの長さは同じだが、横幅が1センチ短いものであった。
1冊のページ数はさまざまで、短いものは48頁、長いもので128頁といった具合であった。しかし時とともに一巻のページ数は、平均して80頁ぐらいになっていたが、当時の廉価大衆小説本によく見られたような機械的な分量の規定という事は、決してしなかった。これは廉価版とはいえ、古典をはじめとした良質の作品を、内容的に短縮するようなことはせずに、しかも印刷や装丁など造本面でも、できる限り立派な形で人々に提供しようという、創業者の当初からの確固たる信念に基づくものであったのだ。
そしてこれを可能にしたのが、製作費のできる限りの節約と、大量生産体制の確立であった。レクラムは百科文庫の創刊よりかなり早い時期に、自分自身の印刷所を手に入れ、1850年代には聖書、辞典類、ギリシア・ロ-マの古典作品など、高い発行部数が見込め、しかも内容の変更なしに再販を重ねることができるものを、印刷出版していた。また書物の製作で当時もっとも高くついたのが、組み版であったが、この組み版を枠型で簡単に作ることができる、当時のドイツで実験的に使われ始めたばかりのステロ版製版を、レクラムはいち早く取り入れていた。これによって印刷面での合理化体制が整い、製本面でもハード・カバーは使わずに、厚紙の表紙を用いることによって節約を図った。
こうして技術面での大量生産体制への基盤は出来たのであるが、出来上がった本を大量販売するためには、どうしても価格をひくく抑える必要があった。そのための条件が、印税支払いを不要にするために、著作権保護がきれた著作家の作品か、はじめから著作権のない作品を選定することであった。しかしこれだけではまだ採算が取れるという保証はなかった。それは内容的に売れる作品と売れない作品とが存在するからであった。この点について、二代目のハンス・ハインリヒ・レクラムはその手紙の中で、「冷静な計算が必要である。重厚で、貴重な文学作品の発行を続けていくためには、流行作品の出版も必要なのである」と書いている。つまりこれは大量発行部数の作品の儲けで、少量部数の作品の高いコストを補っていくことによって、全体として叢書のは発行を可能にするものだ。このコスト計算を、百科文庫の研究者ゲルト・シュルツは「混合見積り」という言葉で表現しているが、まさにこれによってこの叢書はその永続性が保証されたのである。
こうした価格計算に基づいて、平均頁数が設定され、それを基本単位として発行順に通し番号が付けられていった。この通し番号制度(ナンバー・システム)によって、たとえば最初に発行された『ファウスト第一部』には1、つぎの『ファウスト第二部」には2という番語が付けられた。ジャン・パウルの『ドクトル・カッツェンベルガーの湯治紀行』には、内容が長い(172頁)ために、17,18という連続番号が付けられた。またトルストイの『戦争と平和』のような長大な作品に対しては、2966から2976までの連続番号が付けられている。この一つの番号が20ペニヒという価格設定は、その後長い間変更されることなく、第一次世界大戦中の1916年まで、ほぼ半世紀にわたって続いたのであった。
いっぽう一つの番号に一つの星印を与える価格表示制度は、1917年に価格改定されたときに導入されたもののようである。この時には文庫の装丁も大幅に変更され、それに伴い各巻の背表紙にこの星印が付けられるようになった。

1917年に改訂された装丁。その表紙は時代に合わせたように簡素なもの
これは書籍販売業者にとっても、買い手にとっても一目で価格が分かるという便利な代物であった。ちなみに1927年創刊の岩波文庫も、この星印による価格制度をとりいれたのである。
半世紀間、不変の装丁
いっぽう表紙を含めた文庫の装丁も、ごく細かな点をのぞいて、半世紀の間変わらなかったのである。そしてこの叢書の名声が次第に高まるにつれ、この装丁はいわばブランド品としての品質を保証するものという風に、一般から見なされていったわけである。
その表紙のデザインはかなり装飾的で、左側にバラのつたかずらが二本伸びており、それは下の方で葉とつぼみをつけている。そしてつたかずらには文字の書かれた帯飾りが、下から上へと絡まるようにして伸びている。その帯飾りには「各巻とも2銀グロッシェン(のちには20ペニヒ)で、個別に買えます」と書かれている。さらに上部には大きな横書きの文字で百科文庫と書いてある。中央には横書きで本の題名と著者名が、そして一番下に出版社の名前が刷り込まれている、といった具合である。

百科文庫初期の装丁。『ファウスト第一部』
この表紙について、レクラム百科文庫とレクラム出版社について詳しい歴史を残しているアンネマリー・マイナー女史は、次のように述べている。
「ロマン主義の息吹すら感じさせる装飾模様のついた表紙は、この時代が要求していたものに完全に対応していた。ハンス・ハインリヒ・レクラムのデザインに基づいたと言われる、木版の曲がりくねった装飾模様については、人々はその独特の不完全さの中に、かえって完璧さを見ていたのだ。それは一種の品質を保証するマークとなり、手にした文庫を人々は信頼することができた」
もう一つ表紙に関して注目すべき点は、その色彩にあった。これもずっと長い間、肌色であった。つまり岩波文庫の表紙とほぼ同じものである。この色が選ばれたのは、何よりもできるだけ光に耐えて、いつまでも色あせないというのが理由のようであった。この点に関してもマイナー女史はつぎのように述べている。
「アントン・フィリップ・レクラムは、その叢書の造本と装丁に対しても、市場に出す前に十分考えていた。彼はすでに1865年以前に、その表紙をできる限り光に耐えられる色彩にするために、無数の実験を繰り返していたという事を、我々は知っている。それは長い事倉庫に保管しておくと文庫の表紙が色あせてしまって、売りにくくなることを考えてのことであった。こうして光に強い鉛丹から作られた目立たないオレンジ色が、もっともふさわしい色として選ばれた。すでにシェークスピア全集の表紙にこれが選ばれていたのだ。<二銀グロッシェン>という定価が刷り込まれている文庫本を、今なお所持している人は、いかに良く元の色が残っているかという事を知って、驚くことであろう」
文庫の内容的な多様性
百科文庫の大きな特徴は、「ジャンルの点で開放的で、百科全書的な叢書」という点にあった。そしてこの点こそが、それ以前に一般に流行していた「内容的に限られた全集的な叢書」と決定的に異なる特徴なのであった。しかもこの開放性こそが、叢書発行の半永久的な継続性を保証したのであった。
まずレクラム社は、価格、判型、装丁などの外観の点で、ほぼ50年間にわたって同一の形態を保持することによって、だれでもすぐに思い出すことのできる最大級の銘柄品に、百科文庫を仕立て上げた。しかし書物は装飾品ではないので、内容が伴わなければ、銘柄品とは認められないであろう。そのためレクラムは当初から、テキストを短縮するようなことは決してせず、また誤植などもないように配慮し、さらに活字の選定にも十分に気を配った。
同時にレクラム社では、「知は力なり」といった標語を援用して、精神への信頼を通じて大衆にサービスするという考え方を普及させた。こうすることによって、知識人からレクラム社に対して、「社会的理想主義」を持った出版社、というイメージが与えられるようになった。これは創刊当初の「三文レクラム」という揶揄に比べれば、大きな変化であったといえよう。
しかし全体的な経営的観点から見れば、実に色とりどりの多様なジャンルを抱えていた点にこそ、百科文庫の半永久的な継続性を保証する重要な要素があったわけである。つまり百科文庫全体の成功への処方箋は、それぞれのジャンルに対応した市場への最大限の適応の中にあったのである。そのためレクラム社の出版戦略は、時代の変遷とともに、それぞれの作品が対象とする様々な読者の期待や利用法に応じて、異なっていくのである。
文庫の内容的な多様性は、実は創刊まもなく出そろった40ナンバーのなかにもみられたことである。つまりそこには、レッシングからゲーテ、シラーを経て、クライスト、ジャン・パウルと続くドイツ古典文学のほかに、シェークスピアなどの外国文学やドイツの人気作家の作品も含まれていたわけである。この方針はその後も守られ、ドイツ古典文学を中心に、ギリシア・ロ-マの古典作品、その後のヨーロッパ諸国の中世から近代にかけての主要文学作品の翻訳もの、どんどん採用された。
これらは理念的に見れば、ゲーテのいう「世界文学」の主要な特徴を備えたものと言える。ただしその裏には印税(謝礼)支払いの不必要な作品の選択という、経営的な計算もがっちりとなされていた点を、見逃すわけにはいかない。つまりレクラムにあっては、高邁な理想とそれを実現するための現実的で冷静な計算が、常に二人三脚のように、連れ添っていたという事である。
4 創業者と二代目の横顔
その後のアントン・フィリップ・レクラム
アントン・フィリップ・レクラムは百科文庫を創刊したとき、その年齢はすでに60歳に達していた。60といえば、普通の人にとってはその仕事から引退して、ゆっくり余生を過ごす年齢であったが、この不屈の人物はこの年から、そのライフワークに向かって踏み出していったのであった。そして1896年に89歳でなくなるまで、およそ三十年間にわたって現役でそのライフワークに全力を傾注していったのである。
その際アントンは、一人息子ハンス・ハインリヒ・レクラムの協力を全面的に受けていた。百科文庫創刊のアイデアはもちろん父親のフィリップのものであったが、この事業を現実のものにし、実際に運営していったのは、父と息子の両者であった。息子もこの事業に初めから、全面的に参画していたのである。この二人の心からの協力があったからこそ、「ささやかな地点」から出発したレクラム社の叢書は、他社の停滞をよそに、その後急速な発展を見せるようになったわけである。
百科文庫発行に当たって路線の大筋は父親が引き、その運営や販売の指導も自らになったが、編集の仕事や作家、読者との応対は息子に任せた。そしてこの二人はともに、仕事への情熱、持続性、勤勉さそして自らを持す厳しさなどの点で、共通性を持っていた。従業員に対しても二人は高い要求を突き付けたが、従業員のほうも二人の厳しい仕事ぶりを見て、納得して従ったという。

創業者晩年の肖像
父親のフィリップは、創業者特有の頑固さを身につけていた人物で、家庭でも仕事場でも、決して人当たりのよい人物とはいえなかった。年と共にその頑固さは募り、周囲の人々に対して、無愛想で独断的な態度を見せることも少なくなかったようだ。しかしそれはあくまでも表面的な態度を見てのことで、暖かさや人間的な感情に欠けていたわけではなかったという。実はその従業員に対しては、暖かい心遣いの気持ちも持っていたし、数は少ないながら良い友人にも恵まれていた。そうした友人たちは、生涯彼に忠実であったが、フィリップ・レクラムはその人たちを、冗談で「教授先生」と呼んでいた。
その反面、ユグノーの末裔として、独立不きの性格を持ち、体制や強いものに反抗する気質から、敵も少なくなかった。若い頃からの幾多の闘いを経て、十分強くなり、十分頑固になっていた。そして周囲のことは気にも留めず、自ら信じる道を真っすぐ進んでいったのである。これはその商売の遂行に当たっても言え、書籍販売業者とのやり取りでも、愛想を振りまくことはせず、業務本位で応対したため、不満を漏らす業者もいたことを、息子のハンスは伝えている。フィリップ・レクラムにとっては、百科文庫の発展だけが関心事であって、その他のことを配慮する気持ちはなかったようだ。
それだけにこの人物は、自分のライフワークが順調に軌道に乗り、発展していくまでに、なお時間がかかることも知っていたのだ。時代に先駆けて進むものは、自分の努力の正当性となしとげた業績の偉大さが認められるまで、時を待たねばならぬものだ。そしてやがてその時が彼にも訪れたのである。百科文庫はその後着実な歩みを見せ、発刊点数も増え続け、この創業者が1896年1月5日に89歳で亡くなったときには、3、470ナンバーに達していた。これは彼自身の予想をはるかに上回るものだったという。しかしその発展はこれで終わったわけではなかった。その黄金時代はむしろ彼の死後にやってきたのだ。
ハンス・ハインリヒ・レクラム
二代目のハンス・ハインリヒ・レクラム(1840~1920)の采配のもとで、父親の事業はドイツ文化にとって欠かすことのできない重要な教育・教養の手段となった。そしてその名声ははるか海外にまで届くようになった。息子ハンス・ハインリヒ・レクラムの生涯は、父親アントン・フィリップ・レクラムに比べて、あらゆる点で平坦で、安定したものであった。父親が苦労の末に築き上げたものを、息子は継承し、発展させていけばよかった。

二代目当主ハンス・ハインリヒ
とはいえこの息子は、父親とともにほぼ三十年にわたって仕事をしてきたし、もともとの優れた素質と厳しい教育のおかげで、一人っ子にありがちな父親の遺産を食いつぶす、といった危険に陥ることにはならなかった。それだけに父親の生存中は、自由に動き回ることができなかったようだ。父親の極度の厳しさと独断的なやり方は、青年時代を過ぎてからもなお、息子を苦しめたという。それにもかかわらずこの人物は、父親がその過酷な生存競争の中で厳しさと荒っぽさの背後に隠し、めったに人に見せなかった愛すべき性質、愛想のよい態度、心のやさしさそして善意を、決して失うことはなかった。
と同時に彼は父親から、その職業には好都合ないくつかの別の性質を受け継いでいた。それはつまり勤勉さ、義務に忠実な態度、商人としての有能さ、持続力そして自由で真っすぐな心根などであった。もちろん彼には最良の職業教育が施された。まず父親のもとで印刷技術上の知識を習得し、同じライプツィッヒのヒンリヒス書店で書籍販売の訓練を受けたあと、なお徒弟としてとしてチューリッヒとブリュッセルで出版販売の修練を積んだ。この外国での経験は、のちに外国での百科文庫の販売に大いに役立った。こうして6年間にわたる修業期間を終えた後に、ハンス・ハインリヒ・レクラムのは父親のもとに戻ってきた。それは1868年、28歳のときであったが、この時彼はレクラム出版社の出資者となったのである。
ハンス・ハインリヒは父親のような激情家ではなく、冷静で穏やかな性格であったが、その一方で仕事熱心で、粘り強かった。そして義務に忠実な態度が、その事業の推進力となっていた。またその知性と教養を自分の仕事に反映させることができたし、書籍販売面での能力も十分あった。さらに文学や演劇に対する知識やセンスも持ち、価値があるものや必要なものを見分ける能力から、時代の要請に従う柔軟さや、未来に対する洞察力も兼ね備えていた。これらの能力はもちろん百科文庫の拡充に当たって、大いに役立ったことは言うまでもない。
今日不完全な形で残されている商業書簡から、彼の業務が百科文庫の初期の時代からすでに作家や読者との応対に限られていたわけではなく、印刷や販売の仕事にも携わり、注文を受ける仕事もしていたことが分かる。そして叢書の内容をどのようなものにしてくか、そのジャンルをどのように拡大深化させていくか、ということはもっぱら彼に任せられていた。レクラム社に寄せられる作品の審査、そしてそれらの原稿の採否も彼に任せられていた。
後に同社が大きく発展してからも、最後の決断は彼が行ったいたのである。また彼はしばしばいろいろな出版計画を携えて、それにふさわしい作家や学者を訪れた。そして叢書に収録するのにふさわしい作品を自ら探して、中身を検討したり、印刷の校正刷りを自ら読んだりもした。
父親の死後は外部組織との折衝や百科文庫の宣伝にも全力を傾注して、その売り上げを著しく伸ばすことに成功している。しかしその晩年に訪れた第一次大戦と戦後の窮状は、レクラム社の土台を揺るがすものであった。とはいえ彼はその二人の息子フリップ・エルンストとハンス・エミールの協力を得て、この困難な時期を克服したのであった。
そしてその生涯の間、いろいろな栄誉を受けたりもしたが、自分からは外部に売り込もうとすることはせず、終始控えめな人物としてとどまった。みずから語っているように、「あらゆる配慮、努力そして成功への報酬は、常にただ仕事への喜びと広く国民のために役立つことができるという誇らしい意識の中にあった」わけである。そのためレクラム社の従業員も、彼のことを進んで手助けしてくれる父親のような存在として、敬愛していたようである。そしてこの社長を心から信頼して長年仕事をした社員も少なくなかった。とりわけ支配人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ビンダー(1889~1924在社)、百科文庫の編集員のユリウス・R・ハールハウス(1895~1897)、ヘルマン・メーゼリッツ(1897~1925在社)、カール・ヴィルヘルム・ノイマン(1908~1935在社)などがそうであった。
ハンス・ハインリヒ・レクラムはその晩年の1908年に、百科文庫が五千ナンバーに達したのを記念して、レクラム社と縁の深い1、225人から、心のこもった献呈の辞をおくられた。これらの人々は、文学界、演劇界、音楽界、政界、経済界と多岐にわたっていた。そのいずれも百科文庫と自己との個人的なかかわりについて感謝の念を込めて語り、さらにこの叢書が持っている意義について、それぞれの立場から賛辞を呈しているわけである。その中には文学者のフーゴ・フォン・ホフマンスタール、トーマス・マン、リカルダ・フーフ、経済学者のヴェルナー・ゾンバルト、退役牧師で帝国議会議員のフリードリヒ・ナウマン、ワイマール時代の名外相グスタフ・シュトレーゼマン、辞書で知られた出版人コンラート・ドゥーデンなどの名前も見られる。