ドイツ近代出版史(7)第三帝国の時代 1933-1945

第一章 出版業界の組織替え

「帝国文化院」への組み込み

第三帝国つまりヒトラー独裁のナチスの時代はわずか13年間しか続かなかったが、この時代には政治、経済、社会、文化を問わず、ほとんどすべての分野がナチスの支配体制の下に組み込まれた。出版業界もその例外ではなかった。ちなみに第三帝国という呼び名であるが、ドイツの歴史の中で、中世のドイツ国家である神聖ローマ帝国(962~1806)を第一帝国、ビスマルクによって作られたドイツ帝国(1871~1918)を第二帝国と考え、それに次ぐ帝国という意味で第三帝国と呼ばれているわけである。

さてナチス国家が遂行した、職業による社会的身分の区分けは、出版業界の組織にも大きな変化を及ぼしたのである。ナチスのやったことはすべて性急であったが、出版業界の組織替えも、政権奪取からわずか三か月半後の1933年5月14日には、出版業界の代表にその作業が委任されたのであった。まず「ドイツ書籍商取引所組合」(以下「書籍商組合」と略称する)の運営は、その総会において、5人の委員(出版主2人、書籍販売人2人、国民啓蒙宣伝省の代表1人)によって構成される委員会に任されることになった。
そして同年11月には、「書籍商組合」は「帝国文化院」の傘下に組み込まれた。その際「書籍商組合」に所属していたもろもろのグループは、それぞれ分散して「帝国文化院」の下部機関の指導を受けることになった。つまり書籍出版業者は「帝国著作院」に、新聞社は「帝国報道院」に、そして音楽出版社は「帝国音楽院」に、といった具合であった。
また「書籍商組合」は純粋の国内団体ではなくて、外国人の書籍業者も多数加わっていたので、結局二つの団体に分けられることになった。そしてドイツの出版業界の全ての団体を統合した身分的な組織として、「帝国ドイツ出版業者連合」というものが新たに結成されて、これが「帝国著作院」の指導を受けることになった。そしてその下部機関として、「ドイツ書籍代理人労働共同体」、「帝国書籍出版販売従業員団体」、「貸出文庫従業員団体」などが作られた。上部組織である「帝国ドイツ出版業者連合」は、1934年11月に定められた定款によって、非経済的な組織であることが、はっきりと謳われた。

「書籍商組合」、経済団体として存続

いっぽう1825年以来続いてきた伝統ある「書籍商組合」は、経済団体として、その後も存続することになった。かくして出版業界には、制度的に二つの全国組織が存在することになったが、出版業界ではこれら二つの組織の最高幹部つまり会長、副会長及び会計担当役員を同一人物が兼職することによって対応した。つまりこうすることによって、二つの組織が対立抗争したりしないようにしたわけである。「書籍商組合」のほうは、1934年の新しい定款で、「経済的な共同体として、国の内外におけるドイツ出版業界の発展に資する」ことが定められた。そしてその具体的任務として、とりわけ出版業者相互間ならびに買い手との間の業務上のもろもろの規約の制定、出版界の後進の育成、「ドイチェ・ビュッヘライ」(国立図書館)、「出版人養成学校」、「ドイツ書籍商中央学校」などの経営管理があげられている。さらにその第四条では、組合員は出版社によって定められた定価を遵守し、新刊書を「ドイチェ・ビュッヘライ」に納本することを義務付けることが、定められていた。

定価制度は維持

何事も統制管理することを金科玉条としていた第三帝国の下では、書物の定価制度が維持されたのは当然のことであった。書物の価格の動きに関しては、ワイマール共和制末期に、ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーが国家物価監視委員として目を光らせていたが、ヒトラーの下でも引き続きこの任務を委任された。ゲルデラー市長は、書物の定価制度の維持についてはもともと賛成の立場に立っていた。それは一定の価格が維持されることこそが、書物の買い手の利益にもつながると考えてのことであったという。さらにゲルデラー市長は、書物のような文化財にあっては、価格の放任は安定した状態で遠隔地へ書物を送ることを困難にするとも考えたという。この意味で1936年11月に出された一般的な「物価値上げ禁止令」は、出版業界にとっても重要な措置であったわけである。
定価制度に関する限り、戦争が終わるまで何の問題もなく存続したのである。

第二章 書物の一掃令と禁書目録

もろもろの指令

アドルフ・ヒトラーは政権を獲得すると直ちに、ドイツの出版界全体を自己の思い通りに動かそうと乗り出した。1933年3月5日の選挙戦に向けて、同年2月4日にナチが出した声明の中には、次のようなことも書かれていた。「いわゆる”体制の幹部ども”は、・・・長いこと、ドイツの書籍市場をみだらで、平和主義的で、国家反逆的で、神を冒涜するような文学作品が氾濫する場所として、放任してきた。」つまりナチ党はこれらの書物の取り締まりや一掃を狙っていたわけである。そして2月27日夜、国会議事堂が炎上した翌日の28日には、「民族と国家を保護するための大統領令」が布告された。これによって憲法で認められた基本的人権が停止され、公共の秩序と安寧を脅かす印刷物は、警察によって押収することができる、とされた(第七条第一項)。ナチスが狙った書物の追放を実現するのに、この一片の布告一つで十分なのであった。しかしこれに追い打ちをかけるように、同年7月14日には、「ドイツ国籍はく奪に対する刑罰」の規定が、そして10月13日には「国家反逆的文書の作成と外国からの持ち込みに対する刑罰」の規定が出された。

いっぽうヒトラーに全権委任する法律の制定を認めた、同年3月23日の国会での施政方針演説で、ヒトラーは次のように語っている。
「われわれの公共生活の政治的毒消しと並行して、わが民族体の徹底した立て直しが図られねばならない。われらの教育機関の全てーすなわち演劇、映画、文学、新聞、ラジオーが、わが民族の根底に横たわる永遠の価値に奉仕しなければならないのだ。」

この演説に先立つ3月7日、ナチスの最高幹部の一人ヘルマン・ゲーリングは「俗悪絵画・文書・広告 撲滅ドイツ警察本部」を通じて、そうしたものを公表あるいは流布した組織ないし施設との闘争に乗り出していた。そしてドイツ国民図書館員連盟は、「有害で不必要な文書・書物を排除せよ」との要請に協力した。また右翼的な団体「ドイツ学生連盟」は、追放すべき作家71名の名前を記した「ブラックリスト第一号」を当局に提出したが、これはいわゆる「非ドイツ的精神に抵抗する運動」の根底に置かれることになった。

焚書事件

焚書の準備をするナチス党員たち

こうした運動の延長線上の出来事として、1933年5月10日、人々の耳目をそばだたせた、あの「焚書事件」が起きたのである。ゲッベルス宣伝大臣の扇動によって、この日ベルリンをはじめとして、全国の全ての大学所在地のナチ党員は、一団となって公私立の図書館に闖入し、追放すべき作家の書物を手当たり次第につかみだした。これらの書物が街頭に投げ出されると、別のギャングの一隊がやってきて、それらをかき集め、ベルリンの場合は、フランツ・ヨーゼフ広場へ運んで、焚書の儀式が執り行われた。それはさながら死体を焼く火葬の儀式のようであったという。梱包された書籍の荷が、あとからあとから運ばれてくると、ギャングどもは歓声を上げてナチス文化を謳歌した。ユダヤ人やマルキストによって書かれた書物が、多くの古典の中に混じっており、ゲッベルスの憎しみを買った近代作家の書物も十把ひとからげにされていた。薄暮とともに突撃隊員に駆り立てられた大学生たちが、松明を手にして到着した。彼らは書物に火をつけ、炎の周りをあらかじめ用意されたスローガンを唱えながら、野蛮人のように踊りまわるのであった。

このようにしてハインリッヒ・マン、シュテファン・ツヴァイク、エーリヒ・ケストナー、カール・マルクス、ジークムント・フロイト、ハインリヒ・ハイネをはじめとする、ナチスの烙印を押された著作家の書物が、次々と焼かれていったのであった。やがて宣伝車とともに現場に現れたゲッベルス宣伝相は、全国放送用のマイクの前に歩み寄り、「過激なユダヤ的主知主義」の終焉を宣言した。そして「過去の悪しき亡霊は正当にも火刑に処せられた。これこそ偉大にして象徴的な行為である」と付け加えた。

この焚書事件の4日後、ゲッベルス宣伝相はドイツの書籍業者の代表を前にして、「われわれが欲しているのは反乱以上のものである。我々の歴史的任務は、国民の精神そのものを変えることにある・・・」と語った。

しかし外国においてはこの焚書事件は、嫌悪の念と憤激の嵐をもって迎えられたのである。ドイツにおいても批判の声は上がったが、焚書行為を弁護する次のような声にかき消された。「焚書の行為は、不純なものを取り除くために必要なことであったのだ。これは、かつて1817年にドイツの学生たちが、ヴァルトブルクの集会で、絶対主義的国家主義者の作品やナポレオン法典を焼いたのと同じ精神に立つものである」。これに対して当時中立国スイスに住んでいたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、その二年後に同地の新聞「ノイエ・ルントシャウ」(1935年)の評論の中で、「書物を燃やし、徴候を取り除くことでは、時代の病を治すことはできないのだ」と書いている。ついでに言えば、焚書の激しい嵐の中で、アイヒェンドルフ、シュトルム、メーリケなど19世紀ドイツのロマン派的傾向の作家の作品も犠牲となったが、これらが焼かれたのは、「十分力強くない」という理由からなのであった。

禁書目録への道

焚書事件は人々を驚かせるセンセーショナルな出来事であったが、それと同時にナチスは自分たちの気に入らない書物や出版物を、もろもろの法令を出すことによって、取り締まったり、禁止したりしていった。これから世に出そうとする書物の取り締まりに対しては、1933年9月22日公布の「帝国文化院令」が威力を発揮した。その具体的な細目については、11月1日に公布された「実施細則」に定められていた。それによると、作家として活動したり、あるいは書籍出版ないし販売の業務を行うためには、まず「帝国文化院」傘下の「帝国著作院」のメンバーであることが前提とされた。つまり「信頼性ないし適正が欠如」しているために、「帝国著作院」の会員になっていないか、もしくは除名された者は、ドイツで著作を発表したり、出版販売活動をしたりすることができないのであった。

このようにして検閲は確実に行われるため、わざわざ事前検閲する必要はなかった。とはいえ政治的・思想的内容の書物に対しては、ちゃんと明文化された事前検閲の制度も存在したのだ。この種の書物は、1934年3月15日に設置された「ナチス文書保護のための党検査委員会」に提出された。その追加規定は1935年のニュルンベルク法の中で定められた。

このように規定や規則は次々に出されていったが、この過程で浮かび上がってきたのが、どの部局がそれを担当するのかという縄張り争いの問題であった。当時秘密警察および国民啓蒙宣伝省の二つが、著作物の取り締まり機関として実際に活動していたが、時とともに宣伝省の役割が拡大するようになっていった。いっぽう1928年に、ナチスのイデオロギー担当者アルフレート・ローゼンベルクがミュンヘンに設立していた「ドイツ文化のための闘争団」が、ヒトラーの政権奪取の直後に、著作物取り締まりへの権限授与を要求したが、もちろんこれは認められなかった。その代わりに「帝国ドイツ著作物振興部」が1933年6月16日に設置され、やがてその権限がA・ローゼンベルクに割り当てられたが、この部局は「良い本と悪い本をよりわけるだけ」であって、禁書指定の権限はなかった。それに反して「帝国著作院」の権限は増す一方であった。同院を制定した規定の第一条には次のように書かれている。「帝国著作院は、国民社会主義的意向を危うくする書物や著作のリストを作成する権限を有する。これらの書物や著作を、公の図書館やいかなる形態のものであれ書店を通じて広めることは、これを禁止する」

この規定に基づいて「帝国著作院」は、1935年4月25日、「有害にして好ましくない著作物のリスト第1号」を明らかにした。このブラックリスト第1号は、その後数回にわたって、追補版が発表された。これらブラックリストに掲載され、その作品の公表が全面的に禁止された著作者の内訳を見てみると、1939年の段階では、亡命作家45%、マルキスト及びソビエトの著作家31%、ポルノグラフィー作家10%、その他14%となっている。こうした全面的に公表を禁止された著作家のリストと並んで、個々の著作物の禁止目録があったことは言うまでもない。その中にはとりわけ、マルクス主義的文献、ナチス体制及び第三帝国に敵対する内容の文献、平和主義的文献、国防の観念や民族意識を失わせるような文献、さらにユダヤ人が書いたあらゆる著作が含まれていた。

「ブラックリスト第1号」が公表されたことによって、ドイツの図書館や書籍市場へのその影響力は、確固たるものになっていった。そしてその余波は隣国のスイスにも及んだ。例えばドイツとスイスの共同出版という形で発行されていた雑誌『コロナ』は、その発行に当たって一定の妥協に応じなければならなかった。またスイス在住の作家ヘルマン・ヘッセは、詩集『夜の慰め』の新版を出すにあたって、ユダヤ人や亡命作家にも向けられていた献辞を削除することを余儀なくされた。

とはいえナチスがその13年間に行った出版および書物の世界の監視と検閲は、その網の目が細かかったにもかかわらず、内容的には必ずしも完璧なものではなかったようである。哲学者のカール・ヤスパースが当時を回想して述べているように、とりわけ精神・人文科学の分野では、その取り締まりにもしばしば欠陥が見られたという。つまり党の見解に反するような著作物が、この時代になお出版され続けたのであるが、それは監視や検閲に当たる担当者の能力不足によるところが大きかったようだ。

ナチス公認の出版社

いっぽうこの時代には、ドイツ精神、ゲルマン的北方性、「血と大地の神話」などを鼓吹するナチ党員作家やその同調者が書いた著作物が、巷に氾濫していた。そしてそうした作品をはじめナチスから公認された出版物を発行していた出版社も、当然のことながら存在していたわけである。なかでもナチ党の中枢出版社として公認されていたのが、ミュンヘンのフランツ・エーア出版社であった。同社は1941年までに、書籍や小冊子など合わせて1億3200万冊発行した。そのなかにはナチ党中央機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』をはじめとして、小説から道路地図まで、歌謡の本から暦まで、党の各種指令から人種理論の本まで、およそナチスのお眼鏡にかなった、ありとあらゆる種類の出版物が含まれていた。

規模はもっと小さかったが、ナチス公認の出版社は、そのほか70社ほど存在していた。ヒトラーが書いた『我が闘争』は、エーア出版社から刊行され、1940年4月までに600万部が売れたが、これはいわば「官製のベストセラー」だったわけである。しかしD・シュトロートマンがナチス時代の文学政策について書いた本の中で言っているように、この『我が闘争』は、「第三帝国時代に最も普及した本であったが、最もよく読まれた本という訳ではなかった」のである。

その他の出版社のたどった運命

ここで第三帝国の時代にドイツの一般の出版関係者がたどった運命について、すこし見ておくことにしよう。とりわけ非アーリア民族(つまりユダヤ人)の出版関係者が、ナチスのユダヤ人撲滅政策に従って、過酷な扱いを受けた。ユダヤ人以外でも数多くの名の通った出版人が国外へ亡命したが、それに失敗した者は、逮捕連行され、虐殺された。そうしたこともあって、多くのドイツ人出版業者はドイツの地に残って、体制に順応した。

しかしナチスに抵抗した出版関係者も決して少なくはなかったのである。なかでもエルンスト・ローヴォルトがその一人であった。彼が1919年に再建した第二次ローヴォルト出版社は、ナチスの政権奪取後、次第にその活動の縮小を余儀なくされていった。出版主のローヴォルトは、当初大胆不敵な態度を示したりしたが、ナチスの迅速な文化統制の前には、なすすべも限られていた。同社が抱えていた作家は、あるいは国外に亡命、あるいはブラックリストに載せられるといった具合に、ローヴォルト出版社の活動は著しく制限されていった。しかしこの間にも、原稿審査員の更迭、社主の変更、経営規模の縮小などによって、同社はなお生き延びていった。ただ出版するものも、ノンフィクションものとか、政治的傾向を持たない文学作品や翻訳文学など、当局の検閲にかからないものに限られていた。
しかし1938年になってローヴォルト出版社は、帝国著作院から締め出されることになった。同社はウルバン・レードルというチェコの作家がユダヤ人であることを知りながら、それまでチェコ人で押し通して出版していた。ところがこの年にチェコ領ズデーテン地方がナチス・ドイツによって占領されたことよって、彼がユダヤ人であることが判明して、帝国著作院から締め出されわわけである。その結果、ローヴォルトは国外に逃亡したが、別人を同社の社長に据えて、ローヴォルト出版社をなお生き延びさせた。しかしナチスの統制がさらに強化されるに及んで、ついに1943年、第二次ローヴォルト出版社は営業停止へと追い込まれたのであった。

第三章 第二次世界大戦中の出版界

戦時経済下の特殊事情

1939年9月、第二次世界大戦が、ヨーロッパの地で、勃発した。そしてドイツの出版界はこの戦争の影響を大きく被ることになった。つまり諸外国との関係の断絶、生産の減少、人員不足、管理統制と検閲の強化、紙不足、そして最後には空爆による物質的破壊という事態が引き起こされたわけである。

まず諸外国との関係についてみると、ナチス体制になってからもドイツと諸外国との外交関係は続いていたし、ナチスの党大会には、外国の代表も来賓として出席していた。またヒトラーが主役を演じた1936年のベルリン・オリンピックには、諸外国からたくさんの選手が参加していたのである。
それが1914年の第一次世界大戦勃発の時と同様に、1939年9月から外国との関係が断絶することになった。いっぽう第一次大戦中と同様に、今回も前線や後方基地での書物の特別需要が生じることになった。そしてこの事態にはどの出版社も、多かれ少なかれ対応した。その結果1943年秋までに、およそ5000万部の「野戦郵便図書」が出版された。第一次大戦の時と同様に、レクラム出版社は携帯用の「野戦文庫」を用意した。しかしこのレクラム版を装った小冊子を利用して、対ドイツ・プロパガンダが連合国側によって行われた点も、第一次大戦の時と同様であった。

出版量の減退

しかし1943年以降、戦局がドイツにとって不利に展開し、国内で人員や資源の不足が深刻の度合いを深めるに及んで、書籍の出版量は著しく減退することになった。その具体的な数字を、次の表で見てみることにしよう。

書籍の発行点数

年       新刊書      再販       合計
1938   20,130  5,309   25,439
1939   15,585  4,793   20,378
1940   13,782  6,294   20,706
1941   11,884  6,953   18,837
1942    9,423  9,993   19,416
1943    7,334  5,224   13,058
1944    5,304  4,224    9,552
1945      135     80      215
(1月)

(出典:H.Widmann: Geschichte des Buchhandels, 1975.  S.178)

1938年以降、新刊書はこの年をピークにして、年を追うごとに減退しているが、再販については1940年、1941年、とりわけ1942年はかえって増大している。しかし1943年からは、ドイツの戦局悪化に伴い、新刊書も再販も減っていったことが分かる。ちなみにドイツの敗戦は1945年5月である。

この表からも分かるように、1943年以降、書物に対する需要が完全には満たされなくなると、他の分野と同様に出版界でも、配給制度が導入されることになった。出版業界の幹部は1943年5月7日の会合で、「紙不足のために生産調整する必要が生じた」ことを口にした。これに先立つ同年1月に出された総統指令に基づいて、帝国経済省は出版活動の停止措置を打ち出していた。それは総力戦を遂行するために、国民各層の全ての力を結集する必要が生じたため、とされた。これを実施するにあたって、当局側は出版されるべき書物が戦争遂行に必要不可欠なものか否かによって選別するとの方針を明らかにした。そしてこの基準に基づいて、帝国宣伝省は紙の配給を行うか否かを決定するようになった。これは実質的には出版禁止措置と同じ効力を持っていたのである。紙は書物の発行には必要不可欠なものだからである。

このような手段を用いて当局は、好ましくないと思われた出版社を閉鎖へと追い込んでいったのである。こうして閉鎖を余儀なくされた南独テュービンゲンのある出版社の社長は、次のように語っている。「閉鎖命令に続いて起こったことは、すべて口頭による措置であった。ただそのやり方ときたら、陰険なものであった。つまりその瞬間から紙の供給がとだえたのであった。そしてその数日後、帝国著作院から電話があって、私の全ての在庫を、当時ナチスの所有となっていたライプツィヒの取次店に運ぶよう指示された」

いっぽう新聞には、たくさんの紙が割り当てられていたが、それは一般の書籍や雑誌より、国内国外に与える影響が大きいからという理由からであった。ちなみに1943年の時点で、ドイツの新聞の82・5%は、ナチ党の所有するところとなっていたのだ。つまり当時の新聞はナチ党のプロパガンダの重要な手段だったわけである。

突然の文字改革命令

ナチス・ドイツは1940年の段階で、激しく抵抗していたイギリスと、局外にあったスペイン・ポルトガル及び中立国スイス、スェーデンなどを除く西ヨーロッパの大部分、とりわけ大国フランスを占領していた。そしてイタリアはドイツ側に立って参戦した。そのため自信をつけたヒトラーはドイツの思想文学や宣伝文書を、占領地ほかに普及させるために、それまでドイツで用いられてきたドイツ文字(独特のヒゲ文字)が外国人には読みにくいので、他の西ヨーロッパ地域で使われていたラテン文字に変更するよう、1941年に突然の文字改革命令を出したのであった。

以下は私の勝手な私見であるが、ヒトラーは19世紀以来ドイツ社会を文化思想面で支配してきた大学卒エリートの教養市民層への強い反発の気持ちを抱いていたようである。その教養市民層が用いていた難しいドイツ文字をなくすことは、彼らへのひそかな復讐になると、ヒトラーは考えていたのかもしれない。

それはともあれ、この突然の文字改革命令で、ドイツの印刷所や活字鋳造所は、大変な出費を強いられたという。またこの文字改革がどの程度所期の目的を達したのか、明らかではない。それはともかく、この方針は第二次大戦後のドイツでも引き継がれ、今日に至っている。ドイツの文字がラテン文字に代わったこと自体は、戦後のドイツの若い世代にとっても、我々を含む外国人にとっても、ありがたい事である。とはいえ国粋主義のナチスがこのようなところで、意図せざる国際主義に同調するような措置をとったのは、皮肉なことだと言わざるを得ない。

壊滅した出版界

第二次大戦も末期の1944年8月、帝国文化院総裁でもあったゲベルス宣伝大臣は、「帝国文化院の分野における総力戦への取り組みに関する命令」を発した。これは追い詰められたナチス当局が取り組んだ、絶望的ともいえる試みであった。しかしそれ以上に恐ろしい効果を発揮したのは、連合国がわによる度重なる空からの爆撃であった。この結果、多くのドイツの町や都会が壊滅状態に陥ったが、出版界に対してもこの空爆は大きな被害をもたらした。ドイツの出版のメッカ、ライプツィヒも1943年12月4日に行われた大規模な爆撃によって、わずか2時間のうちに、多くの人命と家屋建築物そして数百万冊におよぶ書物が灰燼に帰したのであった。同様にしてもう一つの出版都市ベルリンも破滅的な打撃をうけた。かくしてドイツの出版界は第二次大戦末期には、完全な麻痺状態に陥ったのであった。