ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(3)

その03 冒険作家として成功の頂点に(1887-1898)

<絵入り少年雑誌『よき仲間』への作品掲載>

1887年、カール・マイの人生に大きな転機が訪れた。それまでの13年間は、彼に社会復帰と作家生活への基盤をもたらすものであった。ところがこの後の13年間は、彼をドイツで最も成功した作家のひとりにし、彼に富と社会的栄光を与えたのであった。前述した雑誌『ドイツ人の家宝』への「世界冒険物語」の掲載を通じて、マイはすでに人気作家になっていたが、絵入り少年雑誌『よき仲間』とのつながりによって、彼の文学的成功はより確かなものになったのである。

1886年10月、彼はシュトゥットガルトの出版社主ヴィルヘルム・シュペーマンと出会った。この人物は当時、雑誌『よき仲間』の発行を、翌1887年1月から始めるべく準備していたが、この時マイの作品をそこに掲載することを強く望んだ。シュペーマンは青少年のために、教育的であると同時に彼らの心をしっかりとつかみ、彼らに大きな夢とファンタジーを与えるような物語を書いてくれるよう、マイに依頼したという。

元教師であったこの作家は青少年のためにそうした作品を書くことは、いわば自分に課せられた使命ではないかと考え、喜んで引き受けた。そのため、それ以降、ミュンヒマイヤー社の分冊販売小説の執筆を断ったのである。こうしてアメリカ西部を舞台にした「熊狩人の息子」が、1887年1月から9月まで『よき仲間』に掲載されていったのである。この作品は大成功をおさめ、雑誌の名声をも一挙に高めた。そのためシュペーマンはマイと継続的な契約を結び、それ以降1897年まで10年間にわたり、さらに7編の作品が掲載されていった。この一連の作品は質的に非常に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられている。そしてこれらは1890年以降、魅力的な挿絵を付けて順次、書物の形でも発行されていった。

「熊狩人の息子」他2篇の表紙)

またこの間にも『ドイツ人の家宝』には「世界冒険物語」のジャンルの作品が、引き続き掲載されていった。それによって文学的名声は上がっていったが、1880年代の終わりごろにはまだ、マイの財政状況はあまり良くなかった。なぜなら雑誌『ドイツ人の家宝』も『よき仲間』も、その原稿料は分冊販売小説に比べて低かったからだ。また作品執筆のためには、言語や地理や地誌などの研究を十分しなければならず、その表現にも慎重さが必要であった。そしてそのための時間もかかったわけである。

<個人全集の発行へ>

しかし1891年、マイに文学的名声のみならず、経済的な豊かさと社会的な地位の上昇をもたらす、大きな転機が訪れたのであった。マイはこのころ50歳になろうとしていた。『ドイツ人の家宝』などに掲載されていた「世界冒険物語」の中の、とりわけオリエント・シリーズを読んでとても感激した、若き出版社主フリードリヒ・フェーゼンフェルトは、この年の夏、マイあてに手紙を書き、それらの作品を書物の形にまとめて出版したいと申し出た。

個人全集の出版社主 フェーゼンフェルト)

全く未知の人物からの手紙に最初は戸惑ったマイであったが、やがて返事を出してその来訪を促した。その結果、フェーゼンフェルトは南西ドイツのフライブルクから東北ドイツのドレスデン近郊に住んでいたマイの住まいを訪れたのであった。そして二人の会見は順調に進み、1891年11月に出版契約が結ばれた。その第一条には次のように書かれている。「両署名者は、これまで『ドイツ人の家宝』及びその他の雑誌に掲載されているカール・マイ氏の冒険物語を、書物の形で出版することに合意した」

オリエント・シリーズの第2巻と第3巻

つまりマイの、世界を舞台にした冒険物語が、個人全集の形で発行されることになったわけである。そしてその最初のものとして中近東(オリエント)シリーズの六巻が、1892年のうちに刊行されていった。

マイは経済的に困った状況にあったため、フェーゼンフェルトに前借を頼んだが、この申し出は認められた。その後この最初の六巻が大成功をおさめたため、1892年には5、000マルクの報酬が入り、1895年と1896年にはその額は60、000マルクにも達したのであった。そしてフェーゼンフェルト社から発行された作品によって、マイは平均して年収30、000マルクを得ることになった。その上雑誌『ドイツ人の家宝』と『よき仲間』からの原稿料、カトリックの『マリア・カレンダー』に発表した短編の作品群その他から得た印税が加わった。かくしてカール・マイは、ようやくにして富に恵まれることになったのである。

<社交生活の始まり>

それまでは執筆などによる超多忙が原因で家に引きこもっていたマイであったが、このころから社会的な結びつきにも目を向けるようになった。1890年代の初めからマイ夫妻は、ドレスデン近郊のラーデボイル在住の包帯製造工場主リヒアルト・プレーン及びその夫人クラーラと親しく付き合うようになっていた。このクラーラ・プレーンは後にマイの第二の妻となったのである。

この二組の夫妻の関係は、とりわけ妻同士の心霊術への興味によって促進されていった。1895年、マイのかつての学友で、アメリカに住んでいた医師のペッファーコルンがマイ夫妻を訪問し、心霊術について詳しく教えた。そのためマイも、この教えに対して理論・実践両面で深入りしていったのである。ただ彼は晩年になって、心霊術からはっきりと距離を取るようになった。それでも彼の蔵書の中には70冊以上もこの関連の文献があったし、そのうちいくつかは彼の作品に取り入れられたのである。

1893年の最初の数か月は、最初から書物の形で刊行するために、「世界冒険物語」のジャンルの中でも傑作として評価されることになった『ヴィネトゥーⅠ』を書くことに費やされた。そして同年夏にはマイ夫妻はフェーゼンフェルトの家族とともに、スイスへ休暇旅行をしている。フェーゼンフェルト夫人が残した文章によると、このころのマイ夫妻の仲はよかったようだ。しかしマイは「しばしば気まぐれで、いらだちやすかった。・・・機嫌のいい時には、彼は親切でよくしゃべり、機知にとんだ社交家であった。・・・」
また1893年のマイの誕生日には、マイの自宅で「歌と踊りの夕べ」が開かれた。

1894年の春、マイは胸膜炎を患い、同時に目の病気にも悩まされた。そのため彼はハルツ地方へ療養に出かけたが、その年の末には体調が回復し、再び仕事に取り掛かることができるようになった。そのころマイは金があると、気前よく人にあげたりしていたので、妻のエマから叱られていた。

<豪邸を取得。ヴィラ・シャターハンド>

しかし収入は増えるばかりだったので、1895年には初めて自分の邸宅を購入することができるようになった。そのことは妻を大変喜ばせた。1895年12月30日、ドレスデン近郊の高級住宅街ラーデボイルに、37、300マルクで一軒の邸宅を購入したわけである。そして自分が作り出したアメリカ西部の英雄で、自分自身の分身でもあったシャターハンドにちなんで、その屋敷を「ヴィラ・シャターハンド」と名付けた。そして夫妻は翌年1896年1月14日にそこへ入居した。

マイの邸宅「ヴィラ・シャターハンド」

エマは、後年その時のことを思い出して、次のように書いている。「私たち二人は、人形部屋をもらった子供たちのように大喜びをしました。・・・そのころはまさにこの上なく幸せな、黄金時代でした」 マイはその後、隣接する土地を買い足して、熱心に庭づくりにいそしんだ。この「ヴィラ・シャターハンド」に、マイはその後1912年に亡くなるまで住み続けた。そして晩年の傑作はその家で書かれたのである。後年東独時代の1985年以降。この家はマイを記念する品々を展示した博物館になっている。

その後1899年までの歳月は、作品面で実りある時代であったばかりでなく、私生活の面でも最も幸せな時期であった。彼が長いこと望んでやまなかった社会的認知を、この時ようやく十二分に手にしたのであった。「世界冒険物語」の評判は、まったく申し分のないものであった。そのうえ、出版社主のフェーゼンフェルトは、ドイツ人司教からの推薦の言葉を、その全集の宣伝に用いることができたのである。

ヴィラ・シャターハンド」は、数多くの読者や崇拝者の訪問を受け、マイとしてもその応接にいとまがないほどであった。そうした様子についてマイは1896年、『ドイツ人の家宝』に寄せた「売れっ子作家の喜びと悩み」という文章の中で、感激の気持ちと、距離を置いた冷めた観察の間を揺れ動きながら報告している。1896年から1899年の間の4年間で、その作品はそれぞれ年間あたり10万部が印刷された。そして書物の形での全発行部数は、1899年には72万2千部に達したのである。当時としては、大変な数字と言えよう。

<マイ、虚構の世界の主人公に!>

今やマイは、広い世界にも飛び出していった。しかもそれは常にきわめて奇抜なやり方を取ったのである。その際「オールド・シャターハンド伝説」なるものを作り出したわけである。それはアメリカ西部を舞台にした冒険物語の主人公であるオールド・シャターハンドは、自分自身であるとの主張であった。そしてそこで語られている冒険の数々は、自ら体験したものである、とも彼は付け加えた。

彼は1874年以降、完全に社会復帰することができたのであるが、その風変わりな性格のため、良識ある市民として日常生活を過ごしていくことは無理であった。そのため自分が書いた作品の中の虚構(夢)の世界で、自分を限りなく展開させる道を選んだのである。その際、彼の作品を特徴づける善悪のはっきりした区別は、自らを教育するのにも役に立った。

そして虚構と現実との境界線を消し去ろうとする傾向は、今や彼の実生活の中に織り込まれていった。すでに1892年以来、その物語の中で、オールド・シャターハンド及びカラ・ベン・ネムジ(オリエント・シリーズの主人公)は、作者カール・マイの変名なのであるということを、常に明らかにしていた。
1894年ごろから彼は読者宛の数えきれない手紙の中で、次のように書いている。「そう、私はすべてを体験してきたのです。私には今でも、そのころ受けた傷跡が残っています。」彼はそうしたことを、驚くほど詳細に飾り立てるすべを知っていた。たとえば1874年9月2日に、インディアンの若き酋長ヴィネトゥーが死ぬ間際に緊急洗礼を施したとか、すでにアメリカには20回以上行ったことがあるとか、自分は40もの外国語を知っている、といったたぐいのことである。

そして1896年には、オールド・シャターハンドとカラ・ベン・ネムジの衣装を身に着けて、写真を撮らせて全世界に向けて売り出したのである。さらにその書斎を、数多くの野獣の毛皮やはく製のライオン、鹿の角から様々な猟銃やライフル銃、アラビアの水煙管やペルシア製のジュータンなどで、いっぱいに飾り立てた。

珍奇な品々で飾り立てたマイの書斎

<読者やファンとの直接交流>

1897年マイは夫人とともに、5月10日から7月15日まで、ドイツ各地を訪ね回って、彼の読者や崇拝者と直接コンタクトをとった。まず北ドイツのハンブルクで、あるコーヒー店夫妻と会い、次いで南ドイツのダーデスハイムでブドウ園主家族の客となった。さらにシュトゥットガルトとティロルに立ち寄ってから、ミュンヘンにたどり着いた。
そこでは「ホテル・トレフラー」に泊まったが、三日間の滞在中に600人から800人の訪問者や新聞記者などと会い、彼らに信じられないような話を聞かせたのである。たとえば、今少し前にメッカから帰ってきたところで、その年の秋にはアパッチ族のもとで3万5千人の部隊を指揮する予定であり、翌年にはアラビア人の召使いハレフに再会することになっている、などとまことしやかに語って聞かせたという。まさに「講談師、見てきたような嘘を言い」を、地で行く見事な役者ぶりだといえよう。

翌年1898年には、マイは高貴な人々との交際を重ねることができた。2月22日、ウィーンでオーストリア皇帝陛下、大公夫人マリー・テレーゼをはじめとする皇室のお歴々などから手厚くもてなされた。そうした貴族たちの中にあって、マイは臆することなく振る舞い、彼の物語の人気者アパッチの若き酋長ヴィネトゥーの人生から、まだ一般に知られていないエピソードの数々を話して聞かせたのである。
その後マイは2月27日から病気になったが、やがて回復して、今度はリンツ経由でミュンヘンへ行き、バイエルン王室から心からのもてなしを受けた。そこのヴィルトルード王女とは以後、晩年にいたるまで手紙のやり取りが続いたという。そしてそれに続く3日間は、ミュンヘンのカール・マイ・クラブの会員との会合に出席した。そこでもヴィネトゥーの死について、涙ながらに話して、拍手喝さいを浴びた。

この1898年には、そのほかドイツ語圏の各地を行ったり来たりして、結構忙しく動き回っていた。しかしそうした旅の間にも、執筆活動を中止したわけではなかった。かつてのような大量生産はしていないが、1896年から1899年の間、いくつかの作品を執筆した。それらは質の点では以前のものを上回るようになっていた。心理的、宗教的にみて深さを追求していたし、物語の構成や言語表現の点でもずっと進化していたのだ。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(2)

その02 作家としての活動

第1節 職業人としての出発~雑誌編集者兼作家(1874-1878)~

<ミュンヒマイヤー社に就職>

1874年5月、カール・マイは両親の家に帰った。その後しばらくの間は定職がなかったが、1875年になって事情は大きく変わった。同年3月初め、すでに以前からの知り合いであったドレスデンの出版者ミュンヒマイヤーはマイのところにやってきて、同社の雑誌の編集者になってほしいという申し出を行った。もちろんマイはそれに同意したが、年収600ターラーということで、それまで無収入であった状態から見れば、願ってもないことだったわけである。

カール・マイは、ミュンヒマイヤー社で発行されていた4種類の雑誌つまり『エルベ河の監視人』、『ドイツ家庭雑誌』、『立坑と精錬所』および『鉱山労働者、精錬工、機械工のための教養娯楽雑誌』の編集の仕事に携わることになったのだ。そしてそれらの雑誌の予約購読を取り付けるために、ルール工業地帯のエッセン市にあった当時の大企業クルップ社やベルリン市のボルジッヒ社を訪ねて、営業の仕事もしていた。

雑誌編集者としてのカール・マイ。1875年

<作家としての活動も始める>

これらの雑誌の編集の仕事に携わる傍ら、マイは自らの作品も発表するようになった。それらの内容は、故郷の村や外国を舞台にしたものであった。その最初の小説「エルンストタールのバラ」は、ドレスデンで発行されていた雑誌『ドイツ短編小説の花』に掲載された(1875年4月)。

いっぽうマイは、雑誌にポピュラーサイエンスの記事も書いていた。1848年の革命が挫折した後、ドイツでは1850年代から、鉄道などの交通手段が発達し、出版物の輸送が楽になり、同時に法的な規制が以前に比べて緩やかになっていた。そうした状況の中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになっていた。革命前後の騒然とした政治の季節は、すでにすぎ去っていたのである。

それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。これらはおおむね週間発行で、あらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに掲載されていたポピュラー・サイエンスの記事は、誰にでも理解できる平易なものであった。19世紀のこの種の雑誌は、当時ヨーロッパにおいて急速に発達していた科学技術について、貪欲に知りたいという一般読者の要望を満たす、いわば教科書の役割をも果たそうとしていたのであった。

一方そこに掲載されていた連載小説は、宣伝価値がある有名な作家たちに、出版社が依頼して書いてもらっていたものである。これらの作家にとって、この種の家庭向けの雑誌にオリジナルな作品を発表することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。むしろ狭い範囲の同人雑誌に掲載するよりも、広くその名を知ってもらえたし、同時に経済的な恩恵も得られたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、F・ラーベなど、当時の一流作家が名を連ねていたのだが、そこへ新進のカール・マイも加わっていったのだ。明治末から大正期にかけて、夏目漱石が『朝日新聞』にその作品を掲載していったのと、事情は同じだといえよう。

<エマ・ポルマーと婚約>

カール・マイはミュンヒマイヤー社の仕事の傍ら、ほかの出版社の雑誌に短編作品を送って、掲載してもらったわけである。それでも社主のミュンヒマイヤーは、マイの編集者としての積極的な仕事ぶりに満足していた。ところが出版社の業務に大きな影響力を与えていたミュンヒマイヤー夫人は、マイを同社の仕事にいつまでも結び付けておくという魂胆のもとに、自分の妹をマイと結婚させようとした。

マイの婚約者エマ・ポルマー

しかし当時すでにマイはエマ・ポルマーという若い女性と親しく付き合っていて、結婚も考えていた。そのためマイはミュンヒマイヤー夫人の申し出を断り、同時に同社での編集者としての仕事を辞める決断をした。それは1877年2月のことであった。彼女は1856年生まれで、当時21歳、マイよりも14歳若かった。早くから両親のもとを離れ、隣町のホーエンシュタイン在住の祖父の手で育てられていた。二人は相愛の仲であったが、祖父の反対で、すぐには結婚できなかった。ポルマー氏はマイの文学的業績を評価し、その前科も気にしていなかったが、彼の経済的能力に不安を感じて、結婚に反対したという。マイは編集者の仕事を辞めたために、定収入がなくなり、結婚して彼女を養っていくことが難しくなっていたわけである。そのためマイとしてもその結婚は、しばらくの間引き伸ばさざるを得なかった。

<この時期の作家活動>

再びこの時期の作家活動に目を向けると、新たにいくつかの出版社に働きかけて、その作品を発表していた。その一つがブレスラウのトレーヴェント社で、同社が発行していた『トレーヴェンツ民衆カレンダー』という出版物に、彼の作品を掲載してもらったのだ。民衆カレンダーというのは、昔からドイツに暦の形で存在していたもので、いろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物であった。そしてこれはとりわけ地方の村や町に出回っていた。

18世紀には啓蒙主義者たちが、この伝統的な民衆カレンダーに内容を徐々に改善することに、成功していた。そして19世紀の後半になってもなお、勢いを保っていたのだ。そこには読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話そして冒険物語などが掲載されていた。同様にして、フレミング社の民衆カレンダーにも、マイはユーモア小説二編を掲載してもらっている。

<オリエントを舞台とした最初の物語>

このころマイは、オーストリアの詩人・作家で月刊誌『故郷の庭』を発行していたペーター・ローゼッカーのもとにも原稿を送っている。ローゼッガーは未知の作家から送られてきた原稿を採択する前に、知り合いの大学教授に次のように、問い合わせをしている。「先ほど私はドレスデンの編集者カール・マイ氏から、『カヒラのバラ、エジプトでの冒険物語』という作品を受け取りました。この話は大変才気に満ち、手に汗を握るものです。一方で私はこれを歓迎するものですが、他方はたしてこれがオリジナルなものか、疑念もあります。教授殿、もしかしてカール・マイという名前をお聞きになられたことがあるか、またどんな雑誌の編集をしているのか、ご存知でしょうか?
その書き方から見て、長いことオリエントで生活していた、経験豊かな人物のように思えるのですが」(ロ-ベルト・ハマーリングにあてた1877年7月12日付けの手紙)。こうした経緯はあったが、マイが書いたこの作品は結局採択され、雑誌に掲載されることになった。

<再び、雑誌編集者に>

このようにいろいろな雑誌にその作品を掲載してもらってはいたが、定収入がなくなったため、マイは経済的にかなり苦しい状況に陥っていた。まだこの段階では、フリーの作家として自立してはいけなかったのだ。そんな時、ドレスデンの出版者ブルーノ・ラデリーのもとで、彼は編集者のポストを得ることとなった。1878年のことであった。
同社が発行していた娯楽雑誌『楽しい日々』の編集に携わったわけであるが、この雑誌にもマイは12編の小説を掲載することができた。その中には外国を舞台にした短編8編と、最初の長編『海上で捕われて』が含まれていた。この長編小説は、アメリカの西部を舞台にしたインディアン物語であった。

雑誌『楽しい日々』掲載のマイの長編「海上で捕われて」

こうしてマイは才能豊かな新進作家として次々と新作を発表していったが、その名声も徐々にではあるが、上がっていった。とはいえ、この段階では、「生活の糧」を得るために、まずは稼がねばならなかったのである。

そして収入が増えたことによって、彼はドレスデン市内に家具付きの住まいを借りることになり、婚約者のエマ・ポルマーをそこに迎えることになった。この時マイは、エマを自分の妻として公表している。しかしやがてエマは一人で住んでいる祖父の面倒を見るために、ホーエンシュタインに戻ることになり、マイはその隣町であるエルンストタールの両親の家に再び、住むことになった。
しかしラデリー社での編集者としての仕事は長続きせず、1878年末には同社を辞め、その後はフリーの作家として、筆一本で生活していくことになったのである。

第2節 フリーの作家となる(1879年以降)

<マイ最初の単行本の刊行>

フリーの作家として自立していく覚悟を決めたカール・マイは、それまで以上に熱心に作品執筆に取り組んでいくことになる。新たな出発のきっかけは、シュトゥットガルトの出版者ゲルツ・リューリングとの結びつきの中で生まれた。同社で発行されていた絵入り家庭向け雑誌『世のすべての人に』に、マイが書いた二編の長編小説「王笏と槌」および「宝島」が、1879年8月から1882年4月にかけて連載されたのである。

さらに同社を買い取ったノイゲバウアー社からは、1879年11月に、マイ最初の単行本『遥かなる西部』が刊行されている。これはすでに1875年に『ドイツ家庭雑誌』に掲載されたものに手を加えたものであった。この作品の中には、のちに彼が好んで書いていった「インディアンもの」の若き主人公ヴィネトゥーが、すでに登場している。この名前はマイが生み出した作品の中で最も代表的なものとして、今なお作家マイの分身のように扱われている。

<人気週刊誌『ドイツ人の家宝』への連載の開始>

このころ人気作家としての前兆を示していたマイは、そのほかいくつかの出版社とも作品発表の契約を結んでいた。なかでも南独レーゲンスブルクのカトリック系の出版社プステット社が発行していた人気週刊誌『ドイツ人の家宝』に、その作品が掲載されることになったことが、注目される。この雑誌は、北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して1874年に創刊されたものであった。

人気週刊誌『ドイツ人の家宝』の表紙

1879年3月、彼はこの雑誌掲載の件で、プステット社と契約を結んだ。そこで彼はアメリカ西部を舞台とした冒険小説を提供していくことになった。それは彼がかねてから計画していた、遥かなる世界を舞台とした冒険物語の一つであった。そして第二作以降、マイが書いた原稿は同誌に継続的に掲載されることになった。こうしてマイ作品の最も代表的なジャンルである「世界冒険物語」に属する作品の数々が、雑誌『ドイツ人の家宝』に次々と発表されていったわけである。ただそれらの中の多くは習作というか初期作品の色合いが濃いものであって、のちに書き直されていった。

しかし1881年から1882年にかけて発表された、中近東一帯を舞台にした「オリエントもの」三部作は、大変優れたものであったし、マイが作り出した独特の叙事詩のジャンルともいうべき「世界冒険物語」の特徴をすでに持ったものでもあった。この雑誌とマイとの関係は、わずかな中断期間を除いて、1897年まで続き、さらに1907~8年に復活している。

<妻との関係のその後>

それはさておき、ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。彼は1879年以降、故郷の町で暮らしていた。エマ・ポルマーとの関係は続いていたが、二人の間に当時すでに緊張がなくはなかった。何しろマイは休みなく、馬車馬のように仕事を続けていたため、退屈したエマは社交生活で憂さ晴らしをしていたが、そのことでマイに不興や嫉妬心を起こさせていた。そのため1879年の4月には両者の間に衝突が起こったが、それは一時的なものにとどまった。

そして翌1880年5月にエマの祖父が亡くなった後、ようやく二人は同年8月17日に、エルンストタールの町役場に結婚届を提出した。次いで9月12日にホーエンシュタインの聖クリストフォリ教会で、アルヴィル牧師の立会いの下で、結婚式が執り行われた。そしてその後3年間、二人はホーエンシュタインの町で一緒に暮らした。

カール・マイとエマ夫人

この時期マイは人気作家になってはいたが、そのころの雑誌の原稿料だけでは二人の生活を十分に賄うのは、無理であったといわれる。1881年当時のマイの年収は1500マルクほどであったが、これはミュンヒマイヤー社での雑誌編集者としての年俸より少なかった。当時二人は田舎町で質素な暮らしを続けるよりも、大都会のドレスデンへ引っ越ししたいと思っていたようだ。そのためにはもっと多くの収入が必要だったわけである。

<分冊販売小説での経済的成功>

そのような時期の1882年の晩夏、マイは妻のエマとともに一週間の休暇を取って、ドレスデンへ出かけた。そしてその地のレストランで、以前マイが雑誌の編集者をしていた出版社の社長ミュンヒマイヤーに再会した。その後同社は「分冊販売小説」の発行元として、大いに発展していた。これは長編の大衆小説を、薄い小冊子の形に分冊して、ごく短い間隔でどんどん発行し、読者の手元に届けるというものであった。一冊の値段が安く、一回の分量が少ないため、資力のない人々にも、手軽に読めたのである。

ミュンヒマイヤー社はこの分野で有力な出版社ではあったのだが、同業者との競争が激しく、当時苦境に陥っていたのであった。そのためもあって、ミュンヒマイヤーは旧知のマイに、分冊販売の形で作品を書いてくれるよう懇願した。これは高収入をもたらす仕事であったので、妻のエマは大いに乗り気になり、夫に引き受けるよう促した。マイはいろいろ考えたが、結局その執筆依頼を承諾した。

その小冊子は毎週の発行で、一回当たり24ページ、およそ100回分を予定していた。一回の発行部数は2万部で、原稿料は一回当たり35マルクであった。そして全部発行された後には、一巻が2400ページという大長編小説になるが、作品の著作権はマイに帰属することと、特別賞与が支給されることも約束された。ただこれらは、出版契約書に記されず、口約束であったため、のちに問題を引き起こすことになる。

もう一点は、締め切りの時間が短いため、推敲する暇がなく、どうしても冗長でぞんざい、装飾過多な文章になりがちであった。そのため雑誌『ドイツ人の家宝』に掲載し始めた作品によって獲得するようになっていた文学的名声を傷つける恐れがあった。そこでマイとしては、本名ではなくて、ペンネームを用いることにしたのであった。

かくしてカール・マイは1882年11月から、『森のバラ、または地の果てまでの追跡」という小説を発表し始めた。これはメキシコで起きたある悲劇を基にした冒険活劇もので、1884年まで109回続き、大八つ折判で2612ページにも達する大長編になった。この作品は大成功をおさめ、数多くの海賊版や翻訳本も出回ったりしたという。

分冊販売小説『森のバラ』の表紙

ペンネームを用いたのだが、作品の内容面ではマイには、自分の思うとおりに書くという自由が与えられていた。そのためもあってか、この作品執筆にあたって、作話術の巧みさや職人芸のさえも存分に発揮していた。後年カール・マイはドイツの文学界において、偉大なるストーリー・テラーと呼ばれるようになったが、その兆候はすでにこのころから現れていたのだ。

この成功に気をよくした出版社側は、一回当たりの原稿料を50マルクに引き上げた。マイもそれに応じて、その後4年半の間に、さらに4編の大長編を次々に発表していった。

これらの仕事を通じて、マイは年収5000~6000マルクを得ることになったが、これはそれ以前の三倍に達した。これによって当時の大学卒の高級官僚の年俸に匹敵する年収をマイは手に入れることになったわけである。それによって派手な社交生活や贅沢な暮らしを求めていた妻のエマを満足させることができたのであった。

その反面マイ自身は、寝ても覚めても原稿執筆という生活を強いられ、この間、ほかの事をしたり、ほかの人々と交際したりすることは、ほとんど不可能だったようだ。その上ミュンヒマイヤーの度重なる訪問や、妻が暇つぶしに自宅に招いた客たちによって、仕事をしばしば妨害されたりした。エマは夫の文学作品には興味も理解も示していなかった。そのことに不満を感じながらも、マイとしては、ますま執筆にのめりこむほかなかったようだ。

<母の死によって受けた衝撃>

しかしこの時期にマイを襲った大きな出来事は、母親の死であった。1885年4月15日、母クリスティアーネ・ヴィルヘルム・マイは、68歳でこの世を去った。それによってマイは途方もない衝撃を受けたのであった。それまでほとんど母親のことをかえりみる暇もなく、自分の好きなことばかりをしてきた、という悔悟の念に、この時マイはさいなまれたようだ。

後にエマと離婚したあと迎えた第二の妻クラーラは、マイの死後次のような文章を明らかにした。
「彼の母親がその腕の中で死んだとき、彼は彼女の遺体を晩方から明け方まで、抱き続けていた。・・・母親の墓は通常より二倍の深さに掘られた。彼は母親の傍らに埋葬されたいと願っていたのであろう」

この時以来、マイの男性的な英雄の理想像の中に、母性原理が少しづつ入り込んで行って、やがて晩年になってその作品の中に、平和主義と神秘主義が見られるようになったといわれる。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(1)

その01 作家になるまで

第1節 幼年時代から少年時代まで(1842-1856)

<貧しい家庭>

カール・フリードリヒ・マイ(Karl Friedrich May)は、1842年2月25日、東部ドイツ・ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールにおいて誕生した。彼の父親ハインリヒ・アウグスト・マイは貧しい織物職人であったが、1836年5月にクリスチアーネ・ヴァイゼと結婚した。二人の間には全部で14人の子供(男6人、女8人)が生まれたが、そのうち9人は2歳までに死亡していた。幼児死亡の高さの原因は、一家の経済的貧しさに基づく不十分な栄養及び医療と衛生状態の劣悪さにあったという。息子たちのうちで生き延びたのは、5番目のカール・マイだけであった。

カール・マイ生誕の家

当時のドイツは王政復古期の、安定はしていたが、自由が抑圧されていた時代であった。一方ドイツの産業革命は、鉄道の建設を基軸として、1840年代以降急速に展開していた。そして機械制工業の誕生によって、工場労働者という新しい社会層を生み出していたが、彼らがおかれた状況は悲惨なものであった。マイが生まれた町エルンストタールは、まさにこうした貧窮にあえぐ機織りの町であり、マイの父親はその町の哀れな織物工だったのだ。

幼いカールは栄養失調などが原因で、4歳のころまで失明の状態にあったが、ドレスデンの医者のもとで目の手術が行われ、1846年3月にカールの視力は回復した。そして70歳で亡くなるまで、マイはその健康を維持することができた。

とはいえ当時のザクセン地方の織物職人の純収入は、生存の最低線を何とか支える程度だったという。こうしたその日の食事にも事欠くほどの経済的窮境は、幼いカールの心に、現実の背後にある「より良き世界」への切実な願望を植え付けたようだ。

<童話の祖母の影響を受ける>

そうしたファンタジーの世界へ彼を導いたのが、祖母のクレッチュマーであった。マイはその自伝の中で次のように述べている。「私は一日中、両親のもとではなくて、祖母のもとにいた。彼女は私の父親であり、母親であり、また教育者でもあった。私が視力を失っていた間は、私の太陽であり、光であったのだ。彼女は教育は受けていなかったが、天性の詩人でもあった」

この祖母は幼いカールに、童話や伝説、説話の類をいろいろ話して聞かせ、それが幼児の心の奥に、深く刻印されたのであろう。そして視力を回復したカールは、すでに5歳の時に、祖母から聞いていた童話を、近所の子供たちの前で話して聞かせていたという。そして皆から拍手喝采を浴びていた、と当時の学校友達が、のちに証言しているのだ。

母親についてはマイの筆は奇妙に沈黙を守っているが、子沢山の貧しい一家を切り盛りしていた母親は、一家の成員を飢えから守っていくだけで、せいいっぱいだったようだ。その代りを果たしていた祖母に9歳のとき連れて行かれた巡回の人形劇について、マイは自伝の中で感激の筆致で語っている。「入場料は二人で15ペニヒだった。外題は『ミュラーのばら、またはイエナの戦い』であった。私の目は輝いた。そして内心が燃えた。人形、人形、人形! 彼らは私の目には生きていた。そして彼らは話をしたのだ」

そのあとカールは祖母から人形劇の仕組みについて説明を受け、興味をさらに増した。そして親にせがんで、『ファウスト博士または神、人間、悪魔』と題された人形劇も見に行っている。これはゲーテの作品ではなくて、昔から伝わっていた民衆劇であった。そこで演じられた民衆の苦難からの救いの叫び声に、共感したことも自伝に書かれている。そしてさらに巡回の田舎芝居が演じたジプシーを主題にした『プレツィオーザ』という作品では、父親から頼まれて宣伝役として舞台の脇で、太鼓をたたいて人集めをしたことも、自慢げに書かれているのだ。

<父親から受けた早期教育>

国民学校ではカールは学業もよくでき、成績もよかった。そして自ら知的な職業に憧れていながら、その希望を果たせなかった父親は、その夢をただ一人幼児期を生き延びたカール少年に託したのであった。この少年が当時知的好奇心の萌芽を見せていたことを知って、父親は未来への希望を膨らませたわけである。

宗教上の立場では、マイの両親はルター派のプロテスタントだったため、カールもルター派の洗礼と、14歳の時には堅信礼を受けている。そして教会では早くから聖歌隊員になっている。そんな関係から、教会の音楽指揮者の下で、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンなどを次々に習わされていった。また子供には内容が理解できないような難しいテキストを、大量に書き取ることもやらされた。さらに語学の才能も見込まれて、教会音楽のテキストを読むために、ラテン語を学ばされたほか、英語とフランス語の習得も強制されたのであった。こうした早期教育を施されたため、学校時代のカールは、ほかの子供たちと一緒に遊んだり、付き合ったりする時間がほとんどなかったという。

その代りにのちに作家になるには良いことであったのだが、父親の指導によって、さまざまな種類の読み物を、次々と乱読していく習慣が身に着いたという。はじめは童話、薬草本、父祖伝来の注釈つきの絵入り聖書、次いで過去や現代の各種教科書や父親が集めてきたさまざまな種類の本であった。さらに完本の聖書を、はじめから終わりまで、繰り返し読んだことが自伝に書かれている。

<塾通いの費用をアルバイトで稼ぐ>

しかし家庭に経済的な余裕がなかったため、塾通いの費用は子供のカールがアルバイトをして稼ぎ出さねばならなかった。その仕事として選ばれたのが、近くの九柱戯場(ドイツに古くからあるボーリング場に似た遊技場)で、倒れたピンをもとのように並べる仕事だった。ただこの九柱戯場は、飲食の設備を備えた男の遊び場だった。つまり居酒屋が経営する庶民のための娯楽施設ないし社交場だったのだ。

ドイツの学校は、授業は午前中だけだったので、カール少年は午後から夜遅くまで、日曜日も午前の教会ミサが終わってから、そこで仕事をしていたという。とりわけ月曜日には近隣の地域から町に立つ市場に人々が集まってきたので、九柱戯場もにぎわった。しかし人々がプレーをしたり、飲食をしたりするときに交わされる会話は、学校や教会や家庭では聞くことがない、下卑た、汚濁に満ちたもので、少年の心には耐えられないような苦しみを与えたという。

もう一つマイが恥を忍んで告白していることは、そこに置かれていたいわゆる「俗悪本」のことである。これらは九柱戯場にやってくる一般の庶民からは愛好されていたが、当時のドイツの教育関係者や教会関係者あるいは教養人からは、低俗本として非難されていたものだった。それらの貸本を、カール少年は、仕事のないときにはその場で読んだり、あるいは家に持ち帰ったりすることができたのだ。そのため彼はそれらの本を夢中になって読みふけったばかりでなく、家族やよその人の前でも朗読していたというのだ。それらは盗賊騎士や幽霊屋敷の住人あるいは殺人犯や死刑執行人や義賊に関する物語であった。

<国民学校を卒業>

1856年、14歳の年、カール・マイは国民学校を卒業することになった。しかしその日が近づくにつれ、将来の進路を決めることが、彼自身にとっても、また父親やその他の家族にとっても、切実な問題となってきた。織物職人という父親の職業を受け継ぐ気持ちは、カール少年にはなかったし、またその能力もなかった。そして息子に早期教育をたたきこんできた父親としても、もっと社会的地位が高く、尊敬されるような職業へと息子が進むことを望んでいた。マイは自伝の中で、自分はギムナジウム(九年制の中・高等学校)から大学へと進学することを切望していた、と書いている。しかしそれを許すような経済的余裕はマイの一家にはなかったわけである。そこで一家としては、経済的な負担がより軽い師範学校へと進ませ、その後学校の教師になる道を選ばざるを得ないことになった。

第2節 師範学校生と教師の時代(1856-1862)

<抑圧的な師範学校>

当時のザクセン王国における師範学校の教育は、1848年の三月革命の挫折後に生まれた政治的反動の時代の主導理念を、まさに反映したものであった。悪名高い1854年のプロイセンの学校条例が、このザクセン王国でも取り入れられていたのだ。

カール・マイは1856年9月、ザクセン王国のヴァルデンブルク師範学校に入学した。この学校では革命の再発を防ぐために、自由や民主主義は上から抑圧され、教師や生徒に対して厳しい規律と詰め込み教育ばかりが強制されていた。元来、自由を求める性向を強く持っていたマイは、この学校のやり方に耐えられず、教師に反抗するようになった。そして余暇には作曲をしたり、文章を書いたりしていた。そして16歳の時、インディアン物語の原稿を、当時の有名な家庭向け雑誌「あずまや」に送ったが、雑誌の発行人から丁重な断りの手紙とともに送り返された。

そして1859年、17歳の時、クリスマスを前にして、貧しい家族を喜ばせようとして、寄宿舎にあったローソク六本を盗んだことが発覚して、マイはヴァルデンブルク師範学校から追放されることになった。ところが幸いにして、ザクセン王国の文部省のとりなしで、同王国内のプラウエン師範学校に移ることができた。この師範学校では、最初の学校に比べて、かなり自由が認められていた。そしてプラウエンの町にある感じの良い、評判のレストラン「トンネル・レストラン・アンデルス」に行くことが、生徒たちに許されていた。マイは自伝に次のように書いている。「プラウエンは私にとってとても大事な存在になっていた。アンデルスのガラス張りのサロンで、私は素晴らしいビールを飲み、最上のオムレツ付き豚肉料理を食べることができたのだ。それにフォークトランド風団子が添えられていて、何たる美味か!」それまであまり美味いものにありつけなかった貧しい青年にとって、その料理は最高の贅沢であったのだろう。

<教師の時代>    

1861年9月、マイは19歳で師範学校を卒業し、教師になるための試験に優秀な成績で合格した。そしてグラウヒャウの貧民学校の代用教員になった。そして64人の児童に対する授業を受け持つことになった。給料は年に175ターラーと定められていた。ところがその勤務はわずか12日間しか続かなかった。下宿先の主人から、その夫人(19歳)に対する不倫を訴えられて、解雇されてしまったのだ。
しかしその直後に、アルトケムニッツの紡績工場付属学校の教師として採用された。その工場では10歳から14歳の間の児童が働かされていて、その合間に付属学校の授業を受けていたのだ。

ところがこの学校でも、マイの勤務は長続きしなかった。今回は同じ年のクリスマスのころ、懐中時計窃盗の科で、6週間の禁固刑を受けることになったのだ。工場経営者は付属学校との契約に従って、マイに住まいを提供したのだが、経営者の部下の簿記係が使っていた部屋を、マイと共同で使用するように決めた。そのため簿記係はそのことに不満を感じ、マイとの間に感情のもつれが生じ、トラブルにまで発展したのだ。

ある時この簿記係は新しい懐中時計を買ったので、古いのをマイにも授業の際に使わせることにした。ただし授業が終わったら返すようにとの条件を付けた。クリスマスの日、マイは授業にその時計を持って行ったが、返却するのを忘れて、家に帰ってしまった。簿記係はその行為を窃盗とみなして、警察に届け出て、マイは警察に連行され、6週間の禁固刑を受けたというわけである。そしてこれ以後、学校の教師への道は絶たれ、父親は息子の前途を悲観して、嘆き悲しんだという。

第3節 フリーター、詐欺師そして服役者(1862-1874)

<フリーターとしての活動>

1862年10月下旬、カール・マイは釈放されたが、その前途には何の見通しもなかった。しかし当面の糊口をしのぐために、家庭教師として語学や音楽を教えたり、朗読の仕事や合唱団の一員としての仕事をしたり、あるいは作曲をしたり、物書きをしたりしていたという。
また1862年12月、20歳の時マイは徴兵検査を受けたが、近眼のために「不合格」になった。1863年1月25日、3月8日そして3月25日には、彼は故郷の町の「音楽と朗読の夕べ」という催しに、朗読者として出演している。また1863年4月及び7月には、故郷の教会が主催した夕食会に出席している。作曲の腕前はなかなかのものだったようで、個人的な楽譜は数枚残っているが、公表されてはいない。
物書きの仕事もすでに行っていたようだが、それらの原稿は残っていない。とはいえ、のちに作家として活動を始めた初期の時代(1875年)に書いた「ユーモア小説」や「エールツゲビルゲの村の物語」などの構想は、すでにそのころ練られていたらしい。

<精神分裂症にかかり、詐欺行為も>

このような活発な知的、精神的活動の傍ら、その気持ちのほうは暗く、沈んでいて、精神分裂症にかかった状態にあったようだ。師範学校生と教師の時代に、国家当局から受けた虐待が、依然として彼の心に重くのしかかっていたのだ。精神錯乱から、夜中に突然ベッドから飛び起きて、雨や雪の降りしきる路上を走り回ったという。
そして国家当局への復讐の気持ちが心の中で高まっていったようだ。その結果、虚言癖に強く彩られた自我は、どんどんその強度を強め、ついには刑法に触れるところにまで達してしまった。

1864年7月、22歳のマイは、医学博士の名前をかたって5着の服の仕立てを注文して、受け取ってから、後で支払うといったきり姿をくらましてしまった。
ついでマイは同年12月に、師範学校教師ローゼとしてケムニッツ市に現れた。そして勤め先の校長からの委託だと称して、毛皮の服と襟とを、宿泊先のホテルに届けさせた。その後、彼は隣室にいる病気の校長に見せるからと言って店員から品物を受け取り、そのまま姿をくらましたという。

しかし第三の試みではマイの悪運も尽きたようだ。1865年3月20日、ライプツィヒ市にヘルミンと称する楽譜彫刻師が現れ、宿泊用の部屋を借り、毛皮加工職人の店でビーバーの毛皮を買った。ちなみにヘルミンは、ギリシア神話の商人兼盗人の守護神ヘルメスのことなのだ。今回は毛皮を受け取った後、事情を知らない人間を通じてその毛皮を質屋に移させた。しかしこの不審な行動に気が付いた店員が、警察に通報して、質屋に現れたこの人物は、つかまってしまった。そして本名を告白して、以前に行った詐欺行為のことも自白したという。

<厚生施設での服役とその後>

そして1865年6月にライプツィヒ地方裁判所において、マイは三件の詐欺行為によって、4年1か月の更生施設行きを言い渡された。その結果ツヴィッカウの更生施設に収監されたのである。
そこは収監された人を社会復帰させる施設だったので、それぞれの個性に対応したやり方がとられていた。マイははじめ財布と煙草入れを作る仕事に従事させられた。しかしマイを観察していた監視人の推薦で、1867年からはトロンボーン奏者及び教会音楽歌手として施設内で活動することや、作曲をすることが許された。さらに1867年末には、更生施設所長の特別書記に任命された。つまりツヴィッカウ管内における刑執行に関する統計面と文書作成面での助手になったのだ。

ツヴィッカウの更生施設

そして施設内の図書館(四千冊を超す蔵書を備えていた)の仕事も任され、自らもそこの書物を自由に読むことができるようになった。こうした状況の中で、カール・マイは、将来作家としてやっていくための計画を、大いに促進させることができるようになった。
家族がたくさんいる自宅にいるよりは、この厚生施設のほうが、はるかによく勉強できたのである。彼がその頃書き記した文学上の執筆計画書が、その遺稿の中から発見されている。それによると、彼が書こうとしていたジャンルは、オリエントを舞台とした物語、アメリカ・インディアンに関連した物語そして故郷の村を舞台とした物語の三つであったことが分かる。

以上のべたように、マイにとってこの施設で過ごした歳月は、いわゆる「娑婆」で詐欺師として放浪していた時よりも、ずっと恵まれていたわけである。そして施設内での模範的な態度が認められて、元来の刑期より八か月早く、1868年11月2日に釈放されたのであった。

しかし久しぶりに家に帰って分かったことは、マイの服役中の1865年に、最愛の「童話の祖母」が亡くなっていたことであった。その文学計画を伝えて、夢を語り合いたいと思っていた、その肝心の相手の死は、彼にどれほど大きな衝撃を与えたことか!

またマイがその後再開した文学面での活動から得た収入は、家計を支えるにはあまりに僅かなものであった。そして前科者のマイに対して近隣の人々から、敵意に満ちた冷たい視線が向けられた。こうして再びマイは、精神錯乱状態に陥ることになった。あてどなく森や野原をさまよい、ある時は放火の罪を着せられたこともあった。更生施設でせっかく獲得した再生への道は、冷たい「世間」の風にあたって、再び崩壊してしまったのだ。

1869年4月までは彼は両親の家に住んでいたが、その間しばしば家を留守にしていた。文学関連の用事で何度もドレスデンに行っていたほか、当時の恋人であった女性に会うために、ラッシャウという所へ出掛けていた。

しかし間もなく再びマイは、悪の道へとさ迷いこんでいった。つまりその後一年あまりにわたって彼は、詐欺や窃盗、偽造などの軽犯罪を数回繰り返した。そのたびに言い逃れをしたりしてごまかしていたが、故郷を離れ遠くへ行きたいと思うようになっていた。そんな時、商売と観光を兼ねてザクセン地方に滞在していたアメリカ人バートン父子と知り合った。そしてその人物から息子の家庭教師としてアメリカに来てくれないかと頼まれた。

これに関連してマイは両親あてに1869年4月20日付けの手紙で、次のように書いている。「・・・私は旅に出ます。人々は私のことを忘れ、許してくれるでしょう。そして私は前途有望な新しい人間になって、再び帰ってきます・・・」
しかしこのアメリカ行きは、旅券関連の障害があって実現せず、4月末には再びザクセン地方に現れている。

<再び刑務所へ。そして再生して社会に出る>

そして結局1870年1月に警察に逮捕され、窃盗、詐欺、偽造その他及び前科が考慮されて、4年の刑が言い渡された。その結果彼は、1870年5月3日から1874年5月2日まで、ライプツィヒ管区のヴァルトハイム刑務所で服役することになった。刑務所内の生活及び労働条件は、極めて厳しかった。労働時間は一日最低13時間で、他人と話をしてはいけないという沈黙規定もあった。その上マイは最下等の懲戒クラスに入れられ、逃亡の危険性と乱暴狼藉、反抗気質のゆえに、最初の一年ほどは独房に隔離された。また労働として、葉巻つくりの作業に従事させられた。

ヴァルトハイム刑務所内の教会

いっぽうヴァルトハイム刑務所の中には、教会の施設があった。そして服役者の更生のために、教会専属の聖職者がいた。そうしたうちの一人でカトリックの教理教師であったヨハネス・コホタという人物がいたが、この聖職者によってマイは、初期のもろもろの困難を克服して、次第にその精神も平穏になっていった。この清廉で高潔な聖職者は、マイとの会話の中で十分な理解を示して、その心をつかんでいったのである。そして刑の軽減を図ってくれ、懲戒クラスからの引き上げもしてくれた。

この人物についてマイは自伝の中で、次のように書いている。「カトリックの教理教師の名をコホタといった。彼はアカデミックな背景を持たない、ただの教師だった。しかしいかなる点から見ても高潔な人物で、人間味あふれ、しかも教育者として、あるいは人の心理を見抜くことにかけては、豊富な経験を積んでいた。・・・彼は私をプロテスタント信者として扱い、私にオルガンを弾くことを許可してくれたのである」

やがて刑務所内での彼の評判は高まり、ここでも図書館の管理の仕事に従事することができた。そのおかげで彼は図書館の書物を自由に読むことができるようになったのである。この点についてマイは自伝の中で次のように書いている。
「何ものにも邪魔されない孤独と豊かな資料のおかげで、私ははるかに先に進むことができた。・・・そして以前から準備していた小説の執筆計画を完成させ、実行に移すことになった。私は原稿を書き、書きあがるとそれを家に送った。両親は私と出版社との間を仲介してくれた」
カール・マイという極めてユニークで、毛色の変わった人物は、刑務所を書斎代わりにして、その作家活動を始めたわけである。

そしてやがて4年の歳月が流れ、刑期を終えた32歳のマイは、1874年5月初め、ヴァルトハイム刑務所を出ることになった。その時、看守のミュラーは冗談交じりにマイに対して、次のように言ったという。「なあ君、いつまた私たちはここで会えるのかね?」それに対してマイは極めて真面目な顔つきで、その手を看守の肩にかけ、相手の目をじっと見つめて、ゆっくり一語、一語区切ってこう答えた。「看守殿、私にここで会うことは、二度とないでしょう」と。


ドイツの冒険作家 カール・マイ(05)

その05 冒険物語の足跡をたどって(3)

今回は「冒険物語の足跡をたどって」の3回目で、トルコのヨーロッパ側にある古都エディルネをとりあげる。この町は現在、ギリシアとブルガリアとの国境すぐ近くに位置している。しかしオスマン帝国の時代、1361年に征服してから1453年にイスタンブールに移るまでの約90年間、帝国の二番目の首都として栄えた所である。

トルコのエディルネ旅行(2018年5月)

カール・マイの冒険物語では、第7巻『ブルガリア南部にて』の中の第1章「エディルネにて」が、物語の舞台となっている。
マイは、第1章の冒頭で次のように書いている。

<物語の叙述>

「トルコ人がエディルネと称しているアドリアノープルは、イスタンブールに次いで重要なオスマン帝国の古都である。この町に、ムラト一世からメフメト二世に至るまでのスルタンが宮廷を置いていたが、このメフメト二世が一四五三年に、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、そこに首都を移したわけである。これがイスタンブールなのであるが、その後も多くのスルタン、とりわけメフメト四世などは、好んで古都エディルネに滞在したものである。

この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集する真っただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に二五Oの窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ。

我々はキルク・キサリからやって来たのだが、はるか遠くからセリミエ・ジャーミイの尖塔が見えていた。このエディルネの町は、遠くから見ていると華麗な姿を示しているが、トルコの他のどの都会と同様に、町に入った途端に、その美しさは失われるのだ。」

物語の主人公カラ・ベン・ネムジは、盗賊団の一味を追跡して、仲間とともにイスタンブールを離れ、このエディルネにたどり着いたわけである。そしてダマスカスの宝石商アファラー及びイスタンブールの若き商人イスラの案内で、アファラーの兄の大商人フラムの大邸宅に入る。その後、次のような叙述が続いている。(10ページ)

「我々が探し求めていたフラムは、ムラド二世のモスクであるユチュ・シェリフェリ・ジャーミイの近くに住んでいた。我々は美しい大理石を敷き詰めたテラス状の前庭を進んでいった。七十本の柱で支えられた二十四の小丸屋根は、スミルナ攻略の際に略奪されたヨハネ騎士団の宝物をもとにして建てられたものである。
我々は賑やかな街路を通って、三階建の家の前にたどり着いた。この家に、我々は世話になることになっていたのだ。」

この後、フラムの大邸宅の内部の描写になる。(11ページ)

「イスラはヤクブ・アファラーとともに、主人の書斎へと向かった。・・・・我々は小さなホールほどもある部屋へ案内された。その前面は柱で支えられた広間になっており、三方の壁面には青地に金色でコーランの言葉が書かれていた。我々は、緑色のビロード製の長椅子に腰を下ろした。めいめいに水煙管(みずぎせる)と銀製の三脚つきカップに入れたコーヒーが出された。それだけでも、この家の豊かさが分かるというものである」

そしていよいよこの家の主人が現れた。

「祝福のしるしに両手を上げながら、主人はあいさつした。
『わが家にようこそお出でくださった。ここはまた、あなた方の家でもあります』
フラムは、我々一人ひとりにあいさつして回ってから、二人の親類とともに腰を下ろした。

『あなたのことは、私がよく知っていることを、おそらくあなたはご存じないでしょうな、先生?』と、主人は私に向かって言った。
『イスラが、あなたのことをよく話してくれましてな。あれは、あなたのことが好きなのじゃ。それで、まだ会わないうちから、あなたは私の心を占めていたのです。』

こうした挨拶の後、追跡している悪党が、名前と身分を偽って、フラム宅の居候になっていることが判明した。そしてその悪党バルード・エル・アマサトは、主人の厳しい尋問と追及の結果、正体を現し、つかまってしまう。その後、この町の顔役であるフラムは、この悪党を町の裁判所で裁判にかける手続きを取ることになった。
それに続く場面を、次に引用する。(22ページ)

「トルコの裁判所の判決は、あまり時間をかけずに出るのがふつうであった。そこで我々は判決が下されるまで、この地で待つことにした。そのため我々には、エディルネを見物する時間が生まれたのである。
翌朝、我々はセリムとムラドのモスクそしてトルコの神学校を見学した。それから有名なアリ・パシャのバザールも訪れた。そして最後に、町のそばを流れているトゥンジャ川の船くだりを楽しんだ。」

<私の旅行記の記述>

ブログの「04 冒険物語の足跡をたどって(2)」の中で、私は、2018年5月に参加した「山田寅次郎が愛したイスタンブルを訪ねる」と称する山田寅次郎研究会の記念ツアーについての旅行記(イスタンブール旅行)から、数か所引用した。
今回も同じ旅行記の中から、エディルネに関する部分を、次に引用することにする。

「5月18日(金)曇りのち晴れ
今日はトルコ滞在最後の日だ。午前6時前起床。6時半朝食。7時半、ホテルのロビーに全員集合。荷物をバスに乗せ、イスタンブールを離れ、北西部のブルガリアとギリシア国境近くの古都エディルネへ向かう。そこはイスタンブールに移る前、およそ90年間、オスマン帝国の二番目の首都だったところだ。
バスははじめマルマラ海に沿って、緑の多い田園地帯を走った。約3時間の道のりで、途中トイレ休憩などを取りながら、10時半ごろエディルネの町に到着。町のシンボルともいうべき世界遺産のセリミエ・モスクへ向かう。

壮麗なセリミエ・モスク

この町には私は特別強い関心を抱いていて、ぜひ訪れたいと思っていたので、今回のツアーの行程の中に組み込まれていたことは、何と言ってもありがたかった。私が翻訳してきた「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」の第7巻『ブルガリア南部にて』の冒頭に、エディルネが登場するので、少し引用する。
(この引用部分は、今回のブログの<物語の叙述>の中でも引用しているが、この町の叙景部分だけを次に引用する)

「この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集するまっただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には、高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に250の窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ」

セリミエ・モスクの内部ホール

カール・マイがこの作品を書いたのは、19世紀後半のことであるが、それから百数十年の歳月を経た今日でも、モスクのたたずまいは全く変わりがないといえよう。ただこのモスクの周辺一帯は、観光客を乗せた車であふれかえっていて、我々を乗せたバスも駐車場を探すのに、一苦労であった。世界遺産に指定されているこの大建造物は、ミマール・スィナンが80歳の時に注文を受け、6年の歳月の後、1575年に完成した。
今朝イスタンブールを離れた時は曇天であったが、エディルネでは快晴になっていて、強い日差しの中を一行はバスを降りて、人ごみの中を抜けて建物の中に入った。そして靴を脱ぎ、女性はスカーフのようなものをかぶり、広々とした空間の中央で腰を下ろし、ガイドのフーリエさんの詳しい解説に、一同耳を傾けた。
スィナンはこの建物を自らの最高傑作と言い続けたそうだが、その言葉からは、老建築家が晩年になってその完成に心血を注いだ情熱のほどが、ひしひしと伝わってきた。スィナンは16世紀という時代において、実に98歳という長寿に恵まれたという。90歳の北斎をも凌駕しているのだ。モスクの外の広場の一角に、この建築家の黒色の銅像が目に入った。

ミマール・スィナンの銅像

次いで一行を乗せたバスは町の南へと移動し、物語の中にも描かれているトゥンジャ川の畔にあるトルコ料理店<ハネダン・エディルネ>へ向かい、そこで一同昼食をとった。川の向こうのかなり離れたところにセリミエ・モスクが見えている。この川にはゴミが浮かび、川自体狭く、汚れている。一般の民家や商店、道路などを含めた街並みは、観光用のモスクなどの壮麗な建造物と比べて、一段と見劣りしているといわざるを得ない。
カール・マイが物語の中でまさに指摘している通りだ。

トルコ料理店「ハネダン」

ドイツの冒険作家 カール・マイ(04)

その04 冒険物語の足跡をたどって(2)

冒険物語の足跡をたどって(1)では、第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』の第2章「死の騎馬行」に出てくる、北アフリカのチュニジア中部にある塩砂漠での冒険を、まず扱った。その後、同じく第1巻の第4章「アブラヒム・マムールの手中で」、第5章「素晴らしいめぐり合わせ」及び第6章「ハーレムからの誘拐」の舞台となっているナイル河流域での冒険について書いた。

その後、主人公カラ・ベン・ネムジと従者のハレフは、ティグリス・ユーフラテス両河一帯へと移動した。そして第2巻『ティグリス河の探検』、第3巻『悪魔崇拝者』、第4巻『クルディスタンの奥地にて』、第5巻『ペルシア辺境にそって』の各巻では、主として現在のイラクに相当するメソポタミア地方が、冒険の舞台となっている。

この地域へも、私は行ってみたいと思っているが、いまだ紛争地域となっていて、危険なので、行くことができないでいる。そこで今回はトルコのイスタンブールで演じられた冒険を取り上げることにする。

イスタンブール旅行(2018年5月)

<物語の叙述>

第6巻『バグダードからイスタンブールへ』の中の、第5章「イスタンブールの旋舞教団」、第6章「暗黒のイスタンブール」および第7章「ガラタ塔にて」が、今回の物語の舞台となっている。

まず第5章「イスタンブールの旋舞教団」の中から引用する。(174~178ページ)

「翌日は休日であった。それでイスラは、ペラ地区への散歩についてくるよう、私を促した。その帰り道、二人はロシア公使館の近くにあるイスラム寺院のような建物の前にやってきた。
その建物は四つ目垣によって、道路と隔てられていた。イスラは立ち止まって、私に尋ねた。
「先生、踊る修道僧を見たことがありますか?」
「ええ。でも、このイスタンブールとは別のところで」
「ここがイスタンブールの修道院です。今が、祈りの時間です。入ってみませんか?」

私はそれに同意した。二人は広く開け放ってある門扉を通って、大きな大理石板で敷き詰められた中庭へと、入っていった。その左側には、格子垣によって仕切られた墓地があった。・・・・・
中庭の奥のほうには、半球状の屋根が付いた丸い建物があり、右側には同じく丸屋根の付いた二階建ての修道院があった。・・・・・

修道院を意味するデルヴィシュはペルシア語で「貧しい人」という意味だが、アラビア語では”ファキル”という。デルヴィシュは、あるイスラム修道会員をさす言葉でもある。・・・デルヴィシュ修道会は、しばしば土地や財産、収入があって、豊かなのである。・・・
僧侶はたいてい結婚しており、共同の祈りは別として、食べたり、飲んだり、眠ったり、遊んだり、無為を楽しんだりしている。
かつてデルヴィシュたちは、宗教上、政治上、大きな意味を持っていた。しかし現在では、その評価はぐんと落ちて、下層民から何がしかの尊敬を受けているに過ぎない。そこで彼らは、神霊を感じたり、奇跡を行ったりすることができると見せかけるために、術策を考え出した。彼らは、あらゆる芸を編み出した、独特の踊りと歌によって、人心を引きつけようとしたのだ。・・・・・

その通路を通って、我々は丸い建物へと移動した。はじめ四角形の前室に入り、そこから八角形のメインホールに足を踏み入れた。頭上には、細長い列柱に支えられたドーム状の屋根があり、後方には一連の大きな窓が見えた。床は鏡のように、ピカピカに磨かれていた。
ホールの八角形の壁に沿って、桟敷席が二列~一列目は平土間に、二列目はやや高い位置に~作られていた。上の桟敷席のいくつかは、黄金色の棒で仕切ってあったが、そこは婦人席ということであった。上段の別の席は、楽隊の席になっていた。上の席はすでに満員だったので、我々は下の席に腰を下ろした。

礼拝の儀式の一種とみなされる踊りが、始まった。正面の扉から三十人ほどの修道僧が、入場してきた。一番先頭に、踊りのリーダーがいた。この人物は、灰色の髭をはやした老人で、長い黒色のマントを身に着けていた。その他の者は褐色のマントを羽織り、頭上には細長い円錐形のフェルト帽を、かぶっていた。
彼らは、ゆったりと荘重な足取りで、ホールを三度回ると床の上にあぐらを組んで、しゃがんだ。・・・・それから音楽が始まった。その不協和音は、私の耳をつんざくばかりであったし、歌のほうは「石をも感動させ、人間を狂わせる」響きを発した。
この音に合わせて、修道僧は身をかがめながら、あるいはお互いに、あるいはリーダーに向かってお辞儀を繰り返した。それから重ね合わせて脚を前後左右にゆすり、さらに上体をぐるぐる回し、頭を回転させ、腕を振り、手を揉み、次いで手をたたいた。それから身を床の上に投げ出すと、円錐形のフェルト帽で、床をぱたぱた打った。

以上が、独特な儀式の第一部で、およそ三十分かかった。それから音楽や歌が終わった。修道僧たちは、静かに床の上に、あぐらの姿勢で座った。トルコ人の観客は、この催し物を、信心深さと感動の面持ちで、眺めていたが、とても満足している様子であった。
その時、突然といっていいほど急激に、音楽が鳴り始めた。修道僧は、跳び上がるや、褐色のマントを脱ぎ棄てて、たちまち白装束に変身した。彼らは再びリーダーと隣の人にお辞儀をすると、踊り始めた。この動きから、「踊る修道僧」と呼ばれるようになったのである。・・・・・
音楽が急テンポになると、修道僧の旋回運動も速くなった。その動きは、目を開けて見ていると、目まいがしそうになるぐらい速くなったのだ。これが三十分続いた。そして一人一人が身を沈めて、公演は終わりとなった。私自身は、もうこれ以上はたくさんだという気分であったが、ほかの観客は、目に見えて満足げであった。

イスラは私のほうを見て、こう尋ねた。
「いかがでしたか、先生?」
「気持ちが悪くなりそうだったよ」と、私は正直に答えた。
「その通りですよ。預言者がああした訓練を要求したかどうか、知りませんが。それから預言者の教えそのものが、このオスマン人の国家や国民にとって、良いものかどうかも、分かりません」
「イスラム教徒の君が、そんなこと言っていいのかね?」
「先生」と、彼はささやいた。「私の妻は、キリスト教徒ですよ」
この言葉によって彼が何を言おうとしたのか、私は理解した。つまり健気な妻は、家の魂として、キリスト教の礼節を、持ち込んだわけである。

その後主人公は、金角湾近くの荒れ果てた地域にある盗賊団の巣窟で、悪党どもと派手な活劇を演じた。そしてその騒動が一段落した後、主人公は再び、先ほどの旋舞教団の修道院に赴き、そこに住んでいる悪党の一味である修道僧アリ・マナハを訪ねた。

そこでの場面を、以下に引用する。(第7章「ガラタ塔にて」237~240ページ)

私がそこに着いたとき、例の修道僧は、その独房にいて、お祈りをしていた。お祈りが終わった時、彼はこちらのほうに視線を向けたが、私の訪問を不快に思っていないように思われた。アリ・マナハは、私のあいさつに丁寧に答えると、こう尋ねた。
「また喜捨をしてくださるのですか?」
「まだ分かりません。あなたのことを何と呼んだらよいか、教えてください。アリ・マナハ・・・あるいはエン・ナスルですか?」
この言葉を聞いたとたんに、修道僧は長椅子から立ち上がるや、私のすぐ近くに飛んできた。そして心配そうに、ささやいた。
「しっ! ここではだめです。墓地へ出てください。すぐに私も行きますから」

私はこの勝負に勝ったと思った。修道院の建物を離れると、中庭を通ってから、格子戸をくぐって、墓地へと足を踏み入れた。
そこには、修道僧が百人近く休んでいた。彼らは踊りが終わったのだ。彼らの近くには、ターバン状の装飾が付いた墓石が立ち並んでいた。彼らの遊戯時間が終わったのだ。
そうした墓石の中に入りかけた時、例の修道僧がやってくるのが見えた。彼は敬虔な祈りを続けながら、人々がいない方向へ歩いて行った。私もそれに従った。やがて二人は落ち合った。」

そのあと主人公カラ・ベン・ネムジは、この修道僧とのやりとりの中で、追跡している悪党の親分アブラヒム・マムールが、彼の「師」であることを確認する。そして彼の父もアブラヒムの腹心であることも知った。さらにこの悪党の親分が略奪した大量の宝石類を、ガラタ塔の中の安全な場所に移したことを、修道僧の口から聞き知った。

このあと物語の舞台は、その修道院からあまり離れていない、イスタンブールの名所のひとつであるガラタ塔へと移る。つまり主人公は、馬にまたがって、そのガラタ塔へと急いだのである。

「私はあたりかまわず人ごみの中へ突進し、人垣を潜り抜けて、内部へと押し入った。すると目の前に、二人の人間の身体が、見るも無残な格好で横たわっていた。このガラタ塔の展望台の高さは、四十四・五メートルであった。そんな高さから落下したら、人間の身体がどうなるか、およそ想像できるであろう。・・・・
私は塔のほうに進んで、中に入った。チップをあげて、塔をあがる許可を得た。私はまず下の五つの階の石段を駆け上がった。それから木の階段を三つあがって、喫茶ルームにたどり着いた。そこにはサービス係りがいただけで、客は一人もいなかった。それまでに合計百四十段、上がったことになる。そこからは梯子を四十三段あがって、鐘楼に着いた。
そこはブリキで覆われていて、とても急傾斜だった。そしてそこから展望台へと跳び上がった。そして周囲五十歩ほどの回廊を、私は慎重に動いて行ったが、死者が横たわっていた側に、たくさんの血痕を見つけた。彼らが落ちる前に、争いが行われたことを、立証するものであった。
この高さで取っ組み合いが行われ、まっさかさまに地上へと落ちて行ったわけか」

この取っ組み合いの相手は、主人公と行動を共にしていたが、しばらく別行動をしていたオマールというアラビア人であった。彼は、父の仇敵アブラヒム・マムールを追跡してきたわけであるが、このガラタ塔でその仇敵を見つけて、激しい格闘をしたのちに、塔の上から相手を投げ落としたのだ。

<私の旅行記の記述>

私は2018年5月13日から19日まで、「山田寅次郎が愛したイスタンブルを訪ねる」と称する、山田寅次郎研究会の記念ツアーに参加した。この人物は明治中期に、当時のオスマン帝国に長期滞在し、商売を営む傍ら、まだ国交のなかった日本からの訪問客の世話をして、一種の「民間大使」の役割を果たしたのであった。

このツアーを主催したのは、山田寅次郎のお孫さんにあたる和多利月子さんとそのご主人の浩一さんであった。和多利夫妻は、神宮前にあるワタリウム美術館を経営していて、これまで数回、山田寅次郎研究会を開催し、私はそれに二回ほど参加したことがある。

私はこの時の旅の記録を、備忘録のつもりで、毎日の日記の形で残し、メールで親しい人々に伝えた。今回はその記録の中から、カール・マイ冒険物語に関連した部分だけを抜き出して、ここに記すことにする。

「次の予定まで2時間半ほど時間があったので、ガイドのフーリエさんに相談して、単独行動として比較的近くにある<ガラタ・メヴラーナ博物館>へタクシーで出かけた。道路の渋滞が心配されたが、幸いホテル前に駐車していたタクシーの運転手は良心的で、狭い抜け道を通って目的地のすぐそばまで連れて行ってくれた。

そこは博物館と称しているが、もともとは1491年に創立されたメヴレヴィー教団の修行場の一つなのだ。いわゆる踊る宗教で、白いマントに身を包んだ数十人の男たちが、マントの裾を翻しながら、くるくる旋回していくもので、私は30数年前にイスタンブールの広場で、その旋回舞踊を見たことがある。そしてまた一昨年には、東京の能楽堂の舞台でも、この踊りは見ている。

博物館前に立つ、旋回舞踊のショーに関する英語の掲示

今回訪れた所には、旋回舞踊のための八角形の舞台が設置されていて、週に1回ほどその公演があるという。また公演の際に用いる笛(ネイ)や太鼓(ラデュム)などの楽器や踊る人の衣装なども、展示されていた。この旋回舞踊の教団に強い関心を持っているのは、私が翻訳してきた「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」の第6巻『バグダードからイスタンブールへ』の中に、この教団に関連した話が、たくさん出てくるからだ。

旋回舞踊のための八角形の専用舞台

第6巻の174~178ページまでの叙述は、先に紹介したとおりであるが、それに関連して私は日記の中に、次のように記している。

「・・・この後、旋回舞踊が始まり、その様子がかなり詳しく叙述されている。その叙述の中身はとても詳しいが、私が先に見た二回の旋回舞踊とほぼおなじである。つまり舞踊そのものは、どこで踊ろうとだいたい同じものであろう。ただその踊りが行われる専用の舞台を今回見ることができ、私は満足したわけである。

博物館の本館前の中庭に接している墓地の内部

ついでに言えば、敷地の中に墓地があって、今回その中に入ることができたが、物語の主人公が、旋回舞踊を行った修道僧(実は悪党団の一員)と、この墓地で密会するわけだ。私が実際に見た、墓石が立ち並ぶ墓地のたたずまいは、マイの物語に描かれたものと、そっくりであることを、その時知って、一種の感慨を覚えた。

全体として、作者カール・マイの叙述が、19世紀後半の教団の建物を忠実に再現していることを、今回の探訪で確認することができた次第である。

<ガラタ塔に上る>

第6巻『バグダードからイスタンブールへ』の中の第7章「ガラタ塔にて」の242~243ページにかけて、主人公がガラタ塔を大急ぎで上っていく場面が
描写されている。

それに関連した私の日記の記述を次に記すことにする。

「やがてそのジュウタン店を辞し、ガラタ橋の近くの新市街へ移動。カラキョイ駅から丘の上まで通じているフニクラというレトロな登山電車に乗り、テュネル駅で下車。そこは私が昨日訪れた<ガラタ・メヴラーナ博物館>のすぐ近くにあり、イスティクラール通りの南端にあたっていたのだ。それはともかくガイドのフーリエさんに導かれて、狭く曲がりくねった石畳の坂道を降りて行ったが、やがてめざす<ガラタ塔>の前に着いた。

ライトアップされたガラタ塔

そのころには日もとっぷり暮れて、塔はライトアップされていた。ここも観光の名所で、日中は塔に上るのに長い行列ができるというので、わざわざ遅い時刻にここへやってきたわけだ。そのおかげで待ち時間も短くて済んだ。高さ67mであるが、丘の上に立っているので、かなり遠いところもよく見え、新市街のランドマークになっているのだ。エレベーターで最上階まで行き、さらに螺旋階段を上がって、地上53mのテラスに出た。狭いテラスは人々でいっぱいで、動きにくい。しかし360度のパノラマ風景は、やはり素晴らしい。眼下の金角湾とそこにかかるガラタ橋、アタテュルク橋から、対岸の旧市街の丘の上に広がっているトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルー・モスクそしてスレイマニエ・モスクなども、一望のもとに、光り輝いている。

夕暮れ時、ガラタ塔から見たガラタ橋など

ドイツの冒険作家 カール・マイ(03)

 冒険物語の足跡をたどって(1)

ドイツの冒険作家カール・マイは、その生涯に数多くの作品を残したが、主たる物語の舞台は、地中海周辺の中近東地域であった。それらの地域を舞台に展開される物語が、ドイツ語の原作では全6巻の、私が翻訳した日本語版では全12巻のシリーズを構成している。そしてそのシリーズのタイトルは『カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~』である。

内容的には、ドイツ人の英雄カラ・ベン・ネムジがアラビア人の従者ハレフを伴って、その広大な地域を移動しながら、数々の冒険を繰り広げていくというものである。この作家は、今から百数十年前、書斎に集めた膨大な資料を基にして、物語を書いた。そうした物語に組み込まれた、それぞれの地域の地形や自然景観、そこに住んでいる人々の風俗習慣や宗教事情などに関する緻密な描写が、彼の作品全体の大きな特徴になっているのだ。

そこで私としては物語の舞台になっている場所を、実際に訪ねてみたいと思うようになった。しかし全12巻の物語の舞台はとにかく広大である。主人公と従者の旅は、北アフリカのチュニジアから始まって、エジプトのナイル河地方から、アラビア半島にあるイスラム教の聖地メッカを経て、ティグリス・ユーフラテス両河地域のバグダードへと移る。そしてさらにイラク北部にあるクルディスタンの山岳地帯での冒険を経て、シリアの古都ダマスクスに滞在する。

そのあと一行は、レバノンから船でオスマン帝国の首都イスタンブールへ移る。そしてオスマン帝国の二番目の首都であった古都エディルネに滞在するところから、物語は後半に入る。そこではバルカン半島南部の地域が舞台となっている。現在の地域でいえば、まずブルガリア南部であるが、そこから主人公一行は、うわさに聞くバルカン・マフィアの大親分を探し求めて西へとむかう。そして一行はマケドニアを経てアルバニアに到達し、そこでその大親分を打ち取ることに成功する。そのあと主人公は故郷ドイツへ戻るために、アドリア海に出たところで、この長い,長い物語は完結するのだ。

そんなわけで、一口に物語の舞台を訪ねるといっても、そのすべてはおろか、ごく一部の地域にしか行けないことは、最初から分かっていた。それでもそれらの場所が現在どうなっているのか、私としてはどうしても自分の目で確かめてみたいと思うようになった。そこで何度かの海外旅行を、そのために利用することにしたわけである。そして物語の叙述と現実の場所とを比較して、検証することにした。

チュニジア旅行(2009年12月)

<物語の叙述>

第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』の第2章「死の騎馬行」の舞台は、北アフリカのチュニジア中部にある大きな塩湖(塩砂漠)である。その南側はもう、広大無限ともいえるサハラ砂漠に接している。そのあたりの地形について、物語では、次のように描写されている。(37ページ)

「アウレ山脈の南面とこの山塊の東に続く支脈の麓には、あちこちに、ゆるやかに波打つ丘状の平野が広がっている。そしてその一番低いところに、昔は大きな湖であったが、歳月とともに干上がって、今では塩分が乾燥して固着し、残ってできた、いわゆる塩砂漠が横たわっている。この塩砂漠は、アルジェリアとチュニジアの両国にまたがっている。・・・・・

この窪地の大部分は、今日、大量の砂で埋まっており、わずかに中央の部分に、水が溜まっているにすぎない。表面を覆っている、堅く乾いた泥は、十センチから二十センチの厚みだ。そうした所を、生命の危険なしに、進むことは非常に難しい。
ひとたび風が吹けば、たちまち道は砂塵によって埋められてしまう。そして深淵は犠牲者を、ひとのみにする。・・・この、幾多の生命をのみこんできた、陰険で残酷な塩砂漠の表層は、青白く光る鉛色の海面のように見える。
さて、このような恐ろしい、しかし普段は穏やかに静まり返っている塩砂漠が、我々の左手に現れたのである。」

このあと主人公のカラ・ベン・ネムジと従者のハレフは、道案内のサデクに出会う。そして彼の案内で、一行は、塩砂漠の真ん中を通っている、一本の細い道を進んで行くのだ。

「今や我々は、横幅がわずか二十五センチという狭い道にさしかかったが、この糸のような道が、二十メートルにわたって続いているのであった。
『先生、気をつけて! わしらは今、死の真っただ中にいます!』と、道案内人が叫んだ。サデクは進みながら、顔を東方に向け、コーランの第一章を、大声で唱え始めた。・・・・
ハレフは、私の後ろで、この祈りに加わった。しかし突然、二人の声が同時にやんだ、突如として起こった銃声とともに、道案内人のサデクが両腕を大きく開いたかと思うと、大きな叫び声をあげた。と見る間に次の瞬間には、彼の身体はずるずると下のほうに沈んでいった。そして塩の地盤の下に消えたかと思うと、その地盤は再び頭上で閉じてしまった」

実はこの少し前に主人公と従者は、人殺しの悪党二人に会い、その悪事を追求していた。しかし確かな証拠が見つからなかったので、その悪党を見逃した。そして彼らは一歩先に、別の案内人とともに、その狭い道を進んでいて、振り返って主人公一行を狙って銃撃したのだ。その際、主人公と従者は、九死に一生を得たのであった。

<私の旅行記の記述>

私は2009年12月、あるパック旅行に参加して、チュニジアを旅行した。その旅は北部の地中海沿岸に面した首都のチュニスを起点にして、バスでこの国の北部から中部にかけて、移動しながら、歴史的遺跡見学を中心にして、狭いながら変化にとんだ地域を見て回るというものであった。この国の南部は、すでに広大なサハラ砂漠の一部になっているため、見学の対象外であった。

チュニジアという国は、面積が日本の約5分の2という小国ながら、その自然は多様性に富んでいる。またその歴史も、紀元前800年ごろのカルタゴ時代に始まって、古代ローマ、ビザンツ、さらに紀元7世紀以降は長いイスラム時代が続いた。そして1881年以降のフランス保護領時代を経て、1956年に独立した。今では人口約一千万人で、95%がアラブ人で、イスラム教が国教となっている。

我々が旅行した2009年は、あの「アラブの春」という運動がおこる直前の時期で、観光に力を入れているこの国の治安はよかった。その後、日本人も巻きこまれたテロ事件が起きたりしているが。
さてチュジジア国内4泊5日の旅は、首都のチュニスを起点としたバス旅行であった。まず東部の地中海沿岸にあるスースというイスラム旧市街を見て、海岸あたりで多くの欧米人が訪れるビーチ地区で泊まった。次の日は西南方向に進み、延々と続くオリーブ畑を横目で見て、内陸部にあるスベイトラで、ビザンツ時代の遺跡を見学した。その後は、アルジェリアとの国境近くの山脈を右手に見ながら、バスは進んだ。この辺りになると、中東地域特有のナツメヤシの林が続いている。

そしていよいよ待望のジェリド塩湖が現れた。先に述べたカール・マイの物語の舞台である。物語では、「塩砂漠」と訳したが、湖が干上がって塩の層になった上に、砂漠から吹いてくる砂で表面が覆われているために、そのように訳したのである。周辺のいくつかの塩湖を含めて、現在、その面積は五千平方メートルである。そしてその南側は、広大無限ともいえるサハラ砂漠の入り口になっているのだ。

ジェリド塩湖内の一本道の途中にある土産物屋

マイの物語に登場し、先ほど紹介した冒険の舞台となっている危険な一本道は、現在では、全長96キロの、舗装された直線道路になっていた。我々一行も、バスでこの道を走った。途中には道路沿いに、数か所、土産物屋兼休憩所があった。一行はその中の一つで下車し、周りを見て回った。
夏には水が干上がって、塩の層と土がまじりあった姿を呈しているという。だが、我々が旅行した12月は雨期なので、水がかなりあるのだそうだ。この日は晴れていたが、休憩時間中、同行の観光客たちは、舗装された道路から湖辺に下りて行った。そして広漠たる塩湖の先を遠望したりしていた。

湖のほとりには、茶色や青色、緑色、バラ色などに変色して、キラキラ光っていた大きな塩の結晶が見えた。それらは一口に『砂漠のバラ』と呼ばれていて、土産物屋で売っていた。私は、記念にその結晶数個とナツメヤシの実を一緒に買った。
長らく知りたかったジェリド塩砂漠の現在の姿を、ともかくこの目で見届けることができて、私としては満足した。

ちなみにナツメヤシの実は、中東一帯では昔から隊商などが旅する時の携帯用の常備食になっているのだ。一日7個食べれば、カロリーの点では十分なのだそうだ。そういえば古代メソポタミアのことを記した文献や読み物の中にも、ナツメヤシはよく登場している。悠久の時の流れの中で、こうしたものは変わっていないのだ、との感慨しきりである。

この休憩の後、バスは東南の方向に走り、次の宿泊地へ向かった。途中、ナツメヤシの樹にたわわにぶら下がった実の塊が、ビニールの袋をかけられて保護されている景色が見られた。11月、12月が収穫の時期なのだそうだ。塩湖の東にあるドゥーズの町のホテルには、日がとっぷり暮れたころ到着した。
ここはもう、サハラ砂漠の入り口に近いそうで、ホテルの中は砂っぽく、洗面台やふろ場の蛇口から出てくる水は塩分が強いので、直接飲むことはできない。夏のシーズンには観光客で混雑するそうだが、12月の今は人が少なく、快適だ。ついでながら、ドゥーズ(Douz)という町の名称は、保護領時代のフランス軍第12(douze)連隊が駐屯していたことから、付けられたのだという。

エジプト~ナイルの船旅~(2018年2月)

<物語の叙述>

第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』の第4章「アブラヒム・マムールの手中で」、第5章「素晴らしいめぐり合わせ」及び第6章「ハーレムからの誘拐」の舞台は、ナイル河流域である。その発端部分の記述は、以下のようになっている。(87ページ以下)

「それは、焼けつくような太陽の光がナイル流域の国々を照らし、その酷熱に耐えられなくなった人々が、憩いと冷気を求めて光をさえぎってくれる屋根の下へと逃れる時刻であった。・・・・我々は、トリポリタニアとクファラ・オアシスを通ってエジプトにやってきたのだ。・・・・我々はまず、エジプト人が単に都と呼んでいるカイロの町を訪ね、そこからナイルをさかのぼってケルタシにたどり着き、そこで一軒の家を借りたわけである。」

このエジプトで、ドイツ人の主人公カラ・ベン・ネムジは、医者として近隣の人々の病気を治療していた。その名声を聞きつけた地元の有力者アブラヒム・マムールは使いの者を派遣して、自分の妻の病気を治してほしいと要請した。その使者は主人公に対して、次のように言った。

『わしの主人のご一家あげて心を痛めることが起こりましただ。と申しますのは、主人が心の底から愛されているお方が、死の影に取りつかれているからでごぜえます。どんな名医も、どんなお坊様も、病の進行を抑えることはできませなんだ。その時、死神もその声を聞けば逃げていくといわれる、あなた様の評判が主人の耳元にも届きましただ。そこで私を使いに出して、わが麗しの花のかんばせから、死神を追い出してくれと申すのでごぜえます』・・・・

『お前の主人が住んでいる場所を知らないのだが、ここから遠いのか?』

『わしの主人は河べりに住んでます。ですから舟に乗っていけばいいのです。一時間ぐらいで、向こうに着きまさあ』

『それで、帰りは誰が私を送ってくれる?』

『わっしが』

『そうか。では行こう。外で待っていろ!』

ハミドは下がった。私は立ち上がって、上着をひっかけた。それから、アコニト、硫黄、その他いろいろな薬品や道具の詰まった救急医療箱をつかんだ。そして5分後にはもう、4人の漕ぎ手の漕ぐ小舟に乗っていた。私は小舟の中で考えに沈んだが、ハレフのほうはトルコの司令官パシャのように、ふんぞり返っていた。腰の帯には、カイロで贈り物としてもらった銀の留め金つきのピストルとキラキラ輝く短刀を差し、手にはカバ製の鞭を持っていた。この方はエジプト人に、怖れと尊敬の念を持たせるための不可欠の小道具であった。

むっとする周囲の熱気は愉快なものではなかったが、上流から吹く風がその熱気を和らげてくれた。
舟は、岸辺に茂るさまざまな灌木やヤシの樹、しゅろの樹などが見事に広がった一帯を過ぎていった。また昔の遺跡の数々が姿を見せては、視界から消えていった。そしてやがて川幅が狭くなり、両岸が互いに迫ってきた。両岸の岸壁は、花崗岩でできていることが分かった。流れも速まってきた。この辺りは数キロにわたって、バブ・エル・カラブシャと呼ばれる峡谷となっている。そしてその始まりのところに、四角い壁のような建造物が建っているのが目に入った。
その建造物に近づくと、実はそれが水門であることが分かった。そこから狭い運河が一本通じていたのだ。そしてその運河は一軒の家に通じていた。ハミドは我々を先導して、四角い壁に接近して、その入り口のところで、戸を開けるようサインを送った。」

以上の叙述から、主人公が借りていた住まいから地元の有力者の屋敷まで、途中のナイル河の様子がよくわかる。
そしてこの後、地元の有力者アブラヒム・マムールという男が、実は悪党の親分であることや、病気の妻と称する女が、この男にむりやり妾にされ、いやでいやでたまらずに、体のほうも痩せ衰えていることが判明する。そのため主人公はこの若い女性を、ナイルのほとりにある「ハーレム」から助け出す決心する。そして彼女の救出のために、いろいろな冒険をするのだ。

その間、主人公はこの女の婚約者であるイスタンブール出身の若き商人イスラと知り合い、自分の体験を話して聞かせる。その結果、この男は主人公についてアブラヒム・マムールの屋敷に忍び込んで、ついにその婚約者の女を、「ハーレム」から救出することに成功するのだ。その後の叙述は、次のようになっている。

「彼らは自分たちの舟が置いてある運河のほうへ、いっせいに走り出した。真っ先にそこに駆けつけたアブラヒム・マムールは、小舟が消えてしまっているのを見て、がく然とした。
その間、我々を乗せたボートは静かな水面を滑るように進み、広々としたナイルの流れに出て行った。ハレフとドイツ出身の床屋が舟をこいだ。私はアブラヒムの小舟から盗んでおいたオールをつかんだ。イスラも同様にした。こうして舟は前よりもスピードを上げて進むようになった。・・・・
この夜の冒険はとても時間がかかった。そのため空は次第に赤みを増し、霧のないナイルの川面は、ずっと遠くまで眺め渡すことができた。アブラヒムが召使いたちと一緒に、岸辺に立っているのが見えた。」

この後主人公一行は、知り合いのハッサン船長所有の帆船に乗せてもらって、下流へと移動した。そして次の描写となる。

「もうだいぶ以前から我々は、水面が激しい勢いで泡立ち始め、岸辺に向かって怒涛の勢いで押し寄せていくのに、気が付いた。我々は、ナイル河の船舶航行にとって大変障害となっている激流に近づいていたのである。・・・・ナイルを航行する船の上で指令を発するのは、ヨーロッパの舟の中のように静かにはいかないものである。
南国の人々の熱い血潮が乗組員の体内にもみなぎっているためか、人々は極端なまでに過大な希望を抱いた後に、突然深い破滅と絶望の淵に落ち込んだのである。船乗りたちは互いに争い、叫び、わめき、吠えるかと思うと、ただひたすら祈りをささげる者も中にはいた。」

<私の旅行記の記述>

私は2018年2月、やはりパックツアーに参加して、ナイルの船旅を行った。その旅は「エジプト・ナイル河クルーズ8日間」というものであった。東京からカイロまで14時間の長旅で、そこで乗り換えて、ナイル河中流域のルクソールまで、ローカル航空の飛行機で飛んだ。
カイロ空港に到着してから、はじめて参加者37人が一堂に会した。そしてルクソールに移動してから、バスによる観光ツアーが始まった。ルクソールはすでに気温が高く、2月中旬なのに初夏のような感じで、南国に来たという実感がわいてきた。12月から2月までが、エジプト観光のベストシーズンとのことだ。8月にエジプトの古代遺跡を見て歩いて、あまりの暑さに卒倒した人もいるそうだ。

このルクソール周辺には、世界遺産に指定されているような古代遺跡が数多く集まっている。それらの名前を数え上げていったら、それこそきりがない位である。
ただエジプトといえば誰もが思い描くピラミッドはここにはなく、もっと下流のカイロに近いところにあるのだ。その代り、少しでも古代遺跡に興味を抱いている人ならだれでも知っている、有名な<王家の谷>はこの界隈にある。

 

このツアーでは、数多くの神殿や王家の谷などを見物して回ったが、ここではそれらについてはいちいち説明しないでおく。観光1日目にカルナック神殿とルクソール神殿を見た後、一行は昼ごろ、ナイルの岸壁に停泊しているクルーズ船に乗り込んだ。その後、この船の上に4泊して、ナイル河を上流のアスワンまで、ゆっくり遡りながら、途中にある遺跡巡りをするわけだ。

ナイル河に浮かぶヨット。背後にアスワンの街並み

ナイルの川幅はかなり広く、水量もたっぷりしている。デッキは広々としていて、半分ぐらいに屋根がついている。夏の強い日差しを防ぐためのものであろう。そして寝椅子やデッキチェアーやテーブルなどが置かれ、人々が集まってお喋りをしたりしている。その中に知り合いの顔を認め、のんびりと午後のひと時を歓談して過ごす。
両岸の景色も刻々と変わり、背の高いナツメヤシの樹木や低い灌木の間に、牛や羊や馬の姿も見える。そして所々に民家やイスラム寺院やその尖塔(ミナレット)も散見する。ナイル河の川幅は、中流域でも広いが、場所によって中州や川中島がある。

マイの物語の中で、先に引用した「この辺りは数キロにわたって、バブ・エル・カラブシャと呼ばれる峡谷となっている」という叙述に出てくる場所は、現在の昭文社の地図には記載されていない。しかし物語の叙述から推測すると、第二次大戦後に建設されたアスワン・ハイダムによってナセル湖となった地域のようだ。この辺りはアブ・シンベル神殿のある地域で、かつては川幅の狭い峡谷があったといわれているのだ。この地域は、巨大ダム建設によって水没してしまったのであろう。

さらに物語の別の個所で描写されている激流については、アスワン・ハイダムが建設された第二次大戦後に先立つ古い時代のヨーロッパの地図に書かれているアスワン上流の瀑布のことだと思われる。その地図には、第一瀑布から第六瀑布(スーダン領にある)まで記されているが、今述べた激流は、たぶん第一瀑布(ダム建設後にはやはりナセル湖によって消滅)だと思われる。

アブ・シンベル神殿の外観

そういうわけで今回の私の旅では、マイの物語に出てくる場所は、残念ながら、見られなかったのだ。とはいえ我々が乗ったクルーズ船は、ナイル上流の大きな町アスワンにも停泊した。そしてそこからバスに乗りかえて、上流第一の観光名所アブ・シンベル神殿まで、片道3時間かけて見学に行った。この神殿は、アスワン・ハイダム建設の際に水没する運命にあったが、ユネスコの国際キャンペーンによって救済され、われわれ後世の人々はその恩恵を受けているわけである。

なお次回のブログ「ドイツの冒険作家カール・マイ(04)、冒険物語の足跡をたどって(2)」では、トルコのイスタンブールとエディルネを取り上げることにする。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(02)

その02 冒険物語の魅力はどこに ?

私はブログの第一回で、「全世界を舞台にした、その波乱万丈の物語は、生前はもちろん百年たった現在なお、人々をはるかな夢の世界にいざなってやまない」と書いた。

主たる舞台である地中海周辺地域

主たる舞台は地中海周辺の中近東地域

しからばカール・マイ(1842-1912)が作りあげた、膨大な数の作品の舞台とは、いったいどこら辺りなのであろうか? その主な舞台は、北アフリカからアラビアにかけての砂漠地帯やメソポタミアの両河地域からクルディスタンの山岳地帯そしてバルカン半島を含む、かつてのオスマン帝国領、ならびに北アメリカのインディアンの世界である。このほかにも中南米やアフリカの奥地、あるいは中国を舞台にした作品もある。

オスマン(トルコ)帝国は、19世紀後半には、当時の世界を牛耳っていた帝国主義列強諸国から、「ヨーロッパの病人」などと馬鹿にされていたが、マイが亡くなった1912年には、なお健在だったのだ。ただその2年後に始まった第一次世界大戦に巻き込まれて、ドイツ側についたため、敗戦国となり、そのあおりを受けて帝国は消滅した。そしてトルコは領土を著しく縮小して、共和国として再生したことは、世界史をかじった人なら、ご存知かと思われる。

第二次世界大戦後のトルコ共和国は、領土的にはほぼアナトリア半島に限られた。そして日本では「アジア」の国とされているが、NATO(北大西洋条約機構)の加盟国でもあり、EU(ヨーロッパ連合)への加盟申請もしている国なのである。それからまた、戦後、経済復興を遂げた西ドイツの労働力不足を補うために、このトルコからも大勢の出稼ぎ労働者が呼ばれたのである。

トルコ人は、もともと中央アジア方面からアナトリア半島に移動してきたわけである。しかし14世紀から始まったオスマン帝国の領土支配が、東欧の一部といえるバルカン半島にも及んでから、およそ600年もの長きにわたり、ヨーロッパと対峙してきたのだ。その最後の時期ではあるが、カール・マイが活躍していた19世紀後半(日本でいえば、幕末維新のころ)にも、なおオスマン帝国の支配地域は、ドイツ人にとって無縁の地ではなかったわけである。

ちなみに18世紀後半に活躍したモーツアルトの「トルコ行進曲」は、オスマン帝国の勇壮な軍楽隊の演奏に触発されたものといえよう。私は1984年にイスタンブールのトプカピ宮殿を見学したとき、王宮の門前でこの軍楽隊のマーチを聞いたことがある。もともとこの軍楽隊は、オスマン軍の精鋭が戦う時に、戦意を高揚させるものだったといわれている。

さてマイが作り出した冒険物語は、手に汗握るストーリーの面白さで、読者をぐいぐい引っ張っていくのだが、マイ作品の最も大きな特徴は、まさにその点にあるわけだ。その意味で、この作家は偉大なるストーリー・テラーなのである。『悪魔の将軍』などでわが国でも知られているドイツの劇作家カール・ツックマイヤーの次の言葉が、そのことを如実に証明している。「ドイツには古来、ゲーテ、ビュヒナー、クライストなどすぐれた短編作家はたくさんいた。しかし男の運命を雄大に描いた物語作家といえば、カール・マイただ一人であろう。彼の作品は、親から子へ、子から孫へと読み継がれていくものである」

物語に組み込まれた地域事情と背景描写

と同時にマイ作品のもう一つの大きな特徴が、はじめから述べてきたことだが、物語が演じられる場所なのである。そして舞台となっている土地の地理や風土あるいは風俗習慣、宗教事情などが、実に巧みに物語の中に、組み込まれているわけである。

たとえば中近東(オスマン帝国支配下のさまざまな地域)を舞台とした作品群には、イスラム教文化とキリスト教文化の相互の接触や衝突にかかわる話が、しばしば出てくる。これは百年以上たった現在においても、毎日のように国際報道で伝えられている出来事を通じて、形は変わっても、事情が似ていることを知らされて驚くのだ。イスラム地域とヨーロッパ地域は、昔から近いことがわかる。
さらにマイの物語では、乾燥した砂漠にすむ遊牧民族や荒々しい山岳民族に特有の風習も語られている。そしてさらにドイツ人の主人公が抱いている、エキゾチックな風物への好奇心も、読者へのサービスになっている。

波乱万丈の冒険活劇の魅力は言うまでもないことだが、私などはむしろこうした緻密な背景描写のほうに惹かれるのだ。マイが物語の中で詳しく描き上げている、それぞれの地域に住む人々のもつ風俗習慣や地形風土、動植物の名前などは、物語の魅力を高めるうえで欠かすことのできない要素となっている。

時には思い違いや誤解が含まれているにしても、ストーリーの背景を彩るものとして、許されてしかるべきもの、と私などは思っている。マイは地理学者でも文化人類学者でもないから、空想の翼を自由自在に広げて、いかにも本当らしい真実を読者に伝えているのだ。そしてそうすることによって、遠く遥かなファンタジーの世界へと、読者をいざなっているわけである。

『希望の原理』という大作を通じて日本でも知られているドイツの哲学者エルンスト・ブロッホは、すでに1929年に、当時のドイツの代表的な新聞の紙上に「夢の市場(バザール)」と題した一文を載せて、次のように述べている。「カール・マイはドイツの物語作家の中でも最も優れたものの一人で、ホメロス風の雄大な物語の書き手である。・・・この人物が作家になったなり方には先例がない。つまりすでに監獄の中で、彼は書き始めていたのだ。・・・彼が描いたのは、花のような夢ではなく、人の心を虜(とりこ)にして離さない<野生の夢>なのであった。

カール・マイの書斎

それにしてもマイがその物語をつなぐ太い横糸として用いた、風土や風俗に関する描写は、まことに真にせまっていて、いかにも本当らしく思われる。そのため誰しもこうした冒険物語を描く前に、何度も現地取材をしたに違いない、と思うであろう。しかし実際には現地へは赴かずに、自分の書斎に集めた膨大な資料をもとにして、物語作家としての想像力と描写力を加えて、その作品の数々を書いたのであった。その資料といえば、ざっと三千点に上ったといわれ、さまざまな旅行記、学術報告書、百科事典、聖書にコーラン、いろいろな種類の精密な地図(この点ではドイツは世界一であった)、その他の文化人類学、地理学、宗教学などもろもろの文献や論文などであった。
この点、わが国の司馬遼太郎に似ているといえよう。マイのことを私が「国民作家」と呼ぶのも、納得していただけるであろうか?

砂漠を行く馬上の主人公とアラビア人の従者(原作第一巻の表紙)

主人公はドイツ人の英雄、従者はアラビア人

それではここで、オスマン帝国を舞台とするシリーズ(原作全集の第1巻~第6巻。私が翻訳した日本語版の「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」の全12巻)に登場する主な人物の横顔を、紹介することにしよう。

このシリーズ全巻を通じて出てくるのが、ドイツ人の英雄で主人公のカラ・ベン・ネムジおよびアラビア人の召使いで友人のハジ・ハレフ・オマールである。この主人公を作者のマイは、自分自身の分身として描いていて、会話の中では「私」という一人称で表現している。ただし他人に自己紹介するときは、カラ・ベン・ネムジ(ドイツ出身のカール)と名乗っている。この名前はイスラム教徒の間で分かるように、アラビア語風にしたものである。

主人公は、何よりもキリスト教精神の具現者として描かれている。そして欧米語はもちろん、アラビア語、トルコ語、クルド語、ペルシア語その他いくつもの言葉を話し、オスマン帝国の地域事情にも通じている。また知略に富み、馬術や射撃の名人で、水泳も大の得意というスーパー・マン。キリスト教徒であるのに、アラビア人の格好をしているので、しばしばイスラム教徒に間違えられる。少し後のイギリス人の実在の人物アラビアのロレンスを思い浮かべていただければ、ある程度イメージをつかめると思われる。

ついでハジ・ハレフ・オマール(ハジはメッカ巡礼経験者に対する称号)は、小柄で忠誠心あつい敬虔なイスラム教徒である。そしてキリスト教徒の主人公を何とかしてイスラム教徒に改宗させようと説得するのだが、その試みは成功しない。とはいえこの人物は、おしゃべりで、適度にずるさを備えた憎めない人柄のため、「チビのハレフ」と呼ばれて、読者の大のアイドルになっているのだ。

物語では、このドイツ人とアラビア人の主従が、広大なオスマン帝国の領土の中を移動しながら、土地の人々と交流したり、悪漢たちと対決したりして、数々の冒険を繰り返していくわけである。その意味で、オスマン帝国シリーズでは、物語がずっと連続しているのだ。

主たる脇役の紹介

次に主な脇役たちを紹介することにしよう。その第一に、作者の理想を体現した人物として第4巻『クルディスタンの奥地にて』に登場している女性がいる。神秘的な魅力を秘めた老婆のマラー・ドゥリメーである。ティグリス河上流の山岳地帯の奥深くの洞窟にこもっていて、普段は人々の前に姿を現さない。そこはクルディスタンと呼ばれる一帯で、イスラム教徒、ネストリウス派のキリスト教徒、ヤジディ教徒(周囲のクルド人などからは、悪魔崇拝者と呼ばれている)、そしてカトリック教徒などが混在して住んでいる。彼らは絶えず部族間争いを繰り返しているが、この謎めいた老婆に対しては各部族の人々は、絶対的な信頼を寄せている。そのため難局が生じると、調停役として彼女は登場してきて、紛争を解決するのだ。主人公も彼女には、祖母のような存在として、敬愛の念を抱いている。

余談ながら、ヤジディ教徒の人々は、現在なおイラクやシリア地域に住んでいる。そして数年前、過激派組織IS(イスラム国)によって、「悪魔崇拝者」として、暴力的な迫害を受けたことが、報道された。とりわけ女性たちは彼らによって奴隷的な扱いを受け、言語に絶する性的な被害をうけた。その中の一人であるナディア・ムラドさんは、2014年このISによって拉致され、レイプや暴力を繰り返し受けたという。だが、この女性はISの魔の手から逃げ出した後、その体験を国際社会に訴え続け、昨年2018年、ノーベル平和賞を受賞した。

マイの物語では、主人公のカラ・ベン・ネムジは、クルディスタン地域の山奥に住んでいるヤジディ教徒が、実はキリスト教徒の一派であることを知り、共感をおぼえ、その若き統領アリ・ベイと意気投合する。そしてオスマン帝国のトルコ人悪代官との戦いを支援して、オスマン軍の侵略を撃退するのだ。(第2巻『ティグリス河の探検』および第3巻『悪魔崇拝者』)

このほか脇役として、数多くのユニークな人物が登場している。なかでも中近東シリーズに出てくるイギリス人紳士のデービッド・リンゼー卿は、マイ作品のもう一つの特徴ともいうべきユーモアの要素を体現した人物である。暇と金をたっぷり持て余したイギリス貴族で、ティグリス河流域のメソポタミア地方の古代遺跡(バビロンやニネヴェ)の発掘に夢中になり、従者を連れてこの地域を徘徊しているアマチュアの考古学者である。

山高帽子をかぶり、すべて灰色の市松模様のネクタイ、チョッキ、上着、ズボンを身に着けた背の高いイギリス人のリンゼー卿は、ドイツ人の主人公と偶然出会い、珍妙な会話を交わす。その奇人ともいえる行動と相まって、この人物はストーリー展開に、たっぷりユーモアの要素を付け加えているのだ。(第2巻『ティグリス河の探検』)

いっぽう、時はまさに帝国主義の覇権争いの時代で、ビスマルクのドイツ帝国は、大英帝国に必死に追いつこうとしていた。そうした時代背景の中で、イギリス人紳士をからかって、優越感を示していたドイツ人の主人公は、読者である自国の国民に、ユーモアのオブラートに包んだ形で、満足感をあたえていたのだと、私は考えている。

オスマン帝国シリーズの後半の舞台は、バルカン半島の南部に移る。第7巻『ブルガリア南部にて』から、第12巻『アドリア海へ』までが、それに相当する。現在の国では、ブルガリア、マケドニアそしてアルバニアであるが、19世紀半ばごろはオスマン帝国の支配を受けていた地域なのだ。それらの地域は現在、ギリシアの北に位置している。

第7巻で、主人公は、バルカン半島のドナウ河南部の広大な地域一帯に勢力をはっていた盗賊団(マフィア)の大親分シュートの存在を知る。そして主人公は、このなぞ深きマフィアの統領の撲滅を、ひそかに決意する。この人物の支配下に入っていた男たちは、これらの地方の有力者になっていて、たがいに結びついていることを、主人公は行く先々での体験や見聞あるいは噂を通じて知ることになる。シリーズ後半は、なかなかその正体を現さない、この「バルカン・マフィア」の大親分シュートを追跡しての冒険行になっているのだ。

この盗賊団に属する仲間たちは、たがいに秘密の暗号をつうじて結びついている。これらの人々は、表向きには、それぞれ職業を持っているのだが、おおむね地方の有力者の地位を占めている。その中でも注目すべき存在が、「聖者ミュバレク」である。オストロムジャの廃墟に住んでいるのだが、迷信深い住民から「聖者」として尊敬されている。そして超能力によって奇跡も行う謎の人物なのだ。まるで空中浮揚を行う、オオム真理教の麻原彰晃を彷彿(ほうふつ)させる人物であるが、主人公によって、ペテン師としての化けの皮をはがされる。

このほか実に様々な脇役が登場していて、物語を豊かに彩っている、そうしたユニークな人物像の創造にかけては、カール・マイはピカ一だといえよう。とにかく手に汗握るストーリー展開と合わせて、これらの人物たちの言動は、実に面白いのだ。皆様も実際に作品を手にとって読んでみれば、そのことを納得していただけるものと、私は確信している次第である。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(01)

その01 没後百年祭に参加して

カール・マイの肖像

2012年の3月下旬、ドイツ東部の文化芸術の都ドレスデン周辺で開催された、カール・マイ(Karl May)没後百周年の記念行事に参加した。この作家は日本の明治時代にあたる時期に活躍したドイツの大人気作家である。生年は1842年2月25日、没年は1912年3月30日である。全世界を舞台にしたその波乱万丈の物語は、生前はもちろん百年たった現在もなお、人々を遥かな夢の国へといざなってやまない。

その数多くの作品は、ドイツでは百年を超す歳月の間に、聖書に次ぐ発行部数に達している。そして今なお、ドイツ人でその名前を知らない人はいないぐらい有名で、マスコミの注目度も高い。まさに「国民作家」の名にふさわしい存在といえよう。

 ホーエンシュタイン・エルンストタールの生家 (博物館)

カール・マイの生家(博物館)

記念行事は命日の3月30日を中心に、その前年からドイツ語圏の各地で、愛好者や研究者によって行われていたが、2012年の2月末から3月末にかけてが、そのクライマックスであった。私は、この冒険作家の生家で今は博物館になっている建物を、3月28日に訪れた。

マイが生まれた町は、現在はドイツ東部のザクセン州に属し、地理的にはチェコとの国境をなすエールツ山地の北側のゆるやかな丘陵地帯にある。
19世紀の前半、この地域には織物工業が盛んであったが、マイの父親は貧しい織物工であった。そのため生家もみすぼらしく、14人の子供のうち9人は、2歳までに死亡していたという。しかし5番目の息子カールは、乳児期を生き延び、幼年期から物語の語り部として特異な才能を示していた。そのため父親は自分が果たせなかった夢をこの息子に託して、英才教育を施した。

カールは、はじめは童話、薬草本、絵入り聖書、各種教科書など、さまざまな種類の書物を乱読させられたが、のちには完本の聖書をはじめから終わりまで、繰り返し読むよう強いられたという。

小学校の後、本人はギムナジウム(9年制の中・高等学校)から大学への進学を希望した。しかし一家にそれを許す経済的な余裕がなく、負担の少ない師範学校へ進み、学校の教師となった。その間、哀れな現実を逃れて、自由な想像の翼をいくらでも広げることができる文筆への道に進むことを、生涯の課題と定めていた。

とはいえ、目の前の現実は厳しかった。当時のドイツの学校や役所は規則ずくめで、自由を求めて羽を伸ばすことは許されなかった。そのためマイ青年は、しばしば軽犯罪を犯して、不当とも思われる重い禁固刑を受け、更生施設や刑務所での生活を余儀なくされた。

そうした長い不幸な青少年時代を経て、マイが職業人(雑誌編集者兼作家)として世に出たのは、ようやく32歳の時であった。しかし更生施設や刑務所内にあった図書館で、たくさんの本を読んだり、書き物をしたりと、作家への修行をすることができたこともあって、そのあとは順調な歩みを示した。そして次第に人気作家としての地位を固めていったのである。

以上、ごく簡単にこの作家の横顔をお伝えした。

 カール・マイの特別展

さて博物館の2階には、特別展の一部として、この十数年間に外国で刊行されたマイに関する研究書や翻訳書が展示されていた。そしてその中に、2011年10月に朝文社から出された、私の著書『知られざるドイツの冒険作家 カール・マイ』(生涯と作品)もあったのだ。ちなみにマイの作品は、現在43の言語に翻訳されている。

実は私は、1970年代前半の西ドイツ滞在中にカール・マイの存在を知り、特別な関心を寄せるようになった。当時私は、西ドイツの外国向け放送の日本語番組を担当していた。それでその放送の中で、「ドイツの国民作家 カール・マイ」という特集番組を制作して、日本人の聴取者に提供した。この番組を聴いていただいた人のほとんどは、そのとき初めてカール・マイの存在を知ったものと思われる。

しかし私のカール・マイへの執着はなお強く、この放送だけでは物足りなかった。そのため、ほぼ百年前からマイの作品だけを刊行し続けて、その普及に大いに貢献している「カール・マイ出版社」に掛け合って、日本語版の版権を獲得した。

そして日本に帰国した後、さっそく私は、たくさんあるマイの作品の中でも最も優れていて、人気もあったオスマン帝国を舞台としたシリーズ六巻の翻訳に取り掛かった。そして東京のエンデルレ書店から刊行されることになったが、その際便宜上十二巻に分けて発行されることになり、その第一巻『砂漠への挑戦』が、1977年に世に出た。そして第四巻までは順調に発行されたのだが、諸般の都合で、その後の巻は刊行されなくなってしまった。

しかし私はその後も、いわば執念で、そのシリーズの続きの翻訳をこつこつと行っていった。そしてかなりの中断の期間の後、先にマイの研究書を出してくれた、先述の朝文社から、あらたに「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」というシリーズの統一名称を付けて、発行されることになった。
その第一巻『サハラ砂漠からメッカへ』が、2013年12月に刊行され、最終巻の第十二巻『アドリア海へ』が2017年4月に出て、全十二巻のシリーズが完結したのである。先のエンデルレ版の第一巻の刊行(1977年)から数えて、実に四十年の歳月が流れていた。

自分の話が長くなってしまったが、博物館内の特別展では、カール・マイの生涯と作品を紹介する展示や、作品の名場面をジオラマで立体的に表したものもあった。そして先に触れた「カール・マイ出版社」の活動を紹介したコーナーもあった。

カール・マイ出版社のコーナー

 マイの霊廟での記念式典

その翌日の3月30日はマイの命日に当たり、ドレスデン近郊の高級住宅地ラーデボイルにある霊廟で、没後百周年の式典が執り行われた。小雨降るなか、関係者百人ほどが列席。吹奏楽の演奏のあと、マイゆかりの団体の代表者たちが次々と短い挨拶を行った。そしてギリシア神殿風の霊廟の中央祭壇に花束が捧げられていった。

マイの霊廟(ギリシア風の神殿)の前に集まった人々

 カール・マイ博物館でのパーティ

その日の午後二時、霊廟からあまり遠くない所にあるカール・マイ博物館に関係者が集まって、パーティが開かれた。マイは成功して金持ちになった後の1896年から、亡くなった1912年まで、ドレスデン近郊のラーデボイルに住んでいたが、死後その豪邸(作品の主人公の名前にちなんで Villa Shatterhand と呼ばれている)は博物館になった。そのため現在、カール・マイ博物館は、先述したマイ生誕の家を改造した建物と、合わせて二つあるわけだ。

カール・マイ博物館の外観と私

中庭の一角にテントが立ち、飲み物や食べ物が提供されて、集まった人々が歓談していた。また本館の反対側には、「インディアン博物館」が建っている。なぜインディアンなのかというと、マイの作品の主な舞台が、オスマン帝国のほかにアメリカ西部であるためである。

また本館では、一階,二階、廊下、階段などに、所狭しとマイの生涯と業績に関する常設の展示があった。さらにマイが使用していた豪華な書斎や広々とした専用の図書室も、公開されていた。

確かにマイは傑出したストーリー・テラーで、その作品の大きな魅力は、血沸き肉躍る波乱万丈の冒険物語の展開にある。しかしその一方、物語の背景に、世界各地の地理や風土、人々の風俗習慣、宗教などを巧みに取り入れている点に、彼の作品の大きな特徴があるのだ。その際使用したのが、専用図書室に集めた膨大な資料であったのだ。

 学会シンポジウムに参加

パーティのあと、私は博物館から市電に乗って、ドレスデンの中心地区へ移動した。そして20分で、エルベ河畔の新市街に到着した。川向うには、ドレスデン旧市街の格調ある建物が連なるパノラマが見えている。その地域が歴史と文化・芸術を凝縮して体現しているところで、たいていの観光客はそのあたりを見て回るわけである。

その反対側の新市街の川べりにある建物で、この日の午後6時から翌31日いっぱいをかけて、研究者が集まってシンポジウムが開かれ、私もそれに参加した。

マイは大衆的な人気作家であったのだが、その晩年には、文学的な香りが高く、神秘主義的ないし象徴主義的な傾向の作品を、いくつも書いている。それらの作品は難解だとして、一般の読者からは敬遠されてきたが、戦後の1969年になって設立された「カール・マイ学会」に参集した研究者からは、高く評価されるようになった。それ以後、マイは従来からの大衆的な人気と、文学作品としての研究対象という二つの側面を持つようになったのである。

今回開かれたシンポジウムも後者の活動の一つである。そのテーマは、「諸民族に関するステレオタイプから平和主義へ~カール・マイを多文化交流の面から読む」というものであった。一人30分で12人が次々に、入れ代わり立ち代わり、さまざまな観点から発表していった。そして熱心な質疑応答もあり、ともかくも一部の人とはいえ、カール・マイを研究の対象として取り組んでいる真面目な人々の集まりではあった。

シンポジウ発表者の女性