ドイツの冒険作家 カール・マイ

その09 後期作品の特徴

研究者による高い評価

カール・マイは「オリエント大旅行」のさなか、その内面にそれまで経験したことのないほどの大きな衝撃を受けたわけである。想像力の限りを尽くして営々と築きあげてきた自らの虚構の世界と、自分の目で見た現実の世界との間に、この時亀裂が生じたからである。そしてその頃外部から、前期作品の文学的な質を問う声も出てきたことも加わって、マイはその作風を大きく変えることになった。

こうして生まれた後期の作品は数こそ少ないのだが、その文学的な質は研究者の間で高く評価されているのだ。後期の作品には、「銀獅子の帝国 3・4」、「そして地上に平和を」、戯曲「バベルと聖書」、「アルディスタンとジニスタン 1・2」、「ヴィネトゥー 4」そして自叙伝「わが生涯と苦闘」などがある。

『そして地上に平和を』

これらの作品は、自叙伝は別として、現実の地理的背景を持たない象徴的な内容の物語になっている。とはいえ前期作品の主なジャンルであった世界冒険物語の基本的な性格は、依然として受け継がれている。つまり見知らぬ場所の風景や環境の描写を背景にして旅の冒険が展開されているわけである。しかし地球上のある地域から出発しながら、その舞台はいつの間にか作者が頭の中で作り出した架空の地域に変貌したり、あるいは初めから遠い星の世界で物語が展開されたりしている場合もある。そのため物語の世界が、神話の国のような幻想性と神秘的な雰囲気を漂わせているのだ。

象徴的な作品「アルディスタンとジニスタン 1・2」

ここでは1909年に刊行された後期を代表する最大の作品「アルディスタンとジニスタン1・2」の内容を詳しく紹介することを通じて、後期作品の特徴を明らかにしていきたい。この作品はそれまで読者の間で人気の高かった世界冒険物語に属する作品とは違って、文学的により高度な精神的レベルへと自分の創造力を転化させようとしたものである。そのため作家のアルノ・シュミットは、この作品及び「銀獅子の帝国3・4」を、<ドイツの高級文学>を豊かにするものとして大変高く評価しているのだ。同時に彼はこれらの作品を通じて、マイを「ドイツ最後の神秘主義者」と呼んでいる。またジェームズ・ジョイス作品のドイツ語訳者であり、「カール・マイ学会」の主要メンバーでもあるハンス・ヴォルシュレーガーも、後期作品において前面に出ている哲学的思考に注目する一方、それらは美的感覚に満ちた作品だと称賛しているのだ。

さてこの作品の舞台はこの地球の上ではなく、伝説の星「シタラ」に設定されている。そしてその星の上に、アルディスタン、メルディスタンそしてジニスタンという地域を作り出し、そこに作家の頭脳から自由自在に紡ぎだされた地理や風土や人々を登場させている。とはいえ主要な人物としては、前期作品の世界冒険物語に再三再四登場させてきた、読者におなじみの人物たちが、従来とは全く違った姿で現れているのだ。つまり「オリエント・シリーズ」の主役たち、カラ・ベン・ネムジ、ハジ・ハレフ・オマール、マラー・ドゥリメーそしてシャカラの四人である。

物語の素材をシュールレアリズム化させるにあたってマイは、偉大なる先人作家たちの作品から強い刺激を受けたものと思われる。すなわちダンテの「神曲」、トーマス・モアの「ユートピア」、バンヤンの寓意物語「天路歴程」、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」そしてニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などである。

物語のあらすじ

『アルディスタンとジニスタン』第一巻の表紙

宇宙船「誕生号」に乗って星の国「シタラ」に到着したカラ・ベン・ネムジとその従者ハレフの二人は、この「星の花の国」の年老いた伝説的な女帝マラー・ドゥリメーを訪れた。そして高台の上にある彼女の宮殿の客人となる。女帝の支配領域は、広々とした低湿地と荒野の国アルディスタン及び明るい高地にある、豊饒と美と清潔の国ジニスタンの二つである。アルディスタンは暴力人間の国であり、ジニスタンは高貴な人々の住む国である。その一方の国から他方の国へ行くには、その中間に横たわっているメルディスタンつまりほとんど道らしい道がなく、岩がごろごろしている地峡地帯を通過しなけれならない。ちなみにこれらの国の「スタン」という語尾は、中東イスラム圏のアフガニスタンとかパキスタンといった国々の名称をほうふつとさせるものがある。

それはともかくこの「メルディスタン」の中心に「クルブ」という心の森があり、その森の中に人の魂を鍛える「魂の鍛練場」がある。そこへ入った者はさまざまな拷問によって試練を受ける。この試練に耐えられなかった者は、深い奈落の底にある沼沢地へと突き落とされる。いっぽう耐え忍んだ者は、あらゆる悪の要素や低劣な要素を清められて、高貴で威厳のある存在として人間性の国であるジニスタンへ送り込まれる。

さて女帝マラー・ドゥリメーは、アルディスタンとジニスタンの間に戦争が勃発したとの知らせを受ける。すると彼女は和平への特使として、カラ・ベン・ネムジとハジ・ハレフを、アルディスタンの支配者のところへ派遣する。この専制君主はアラブの首長に倣ってエミールを称している。この人物はその国民を苦しめ、虐待し、人権などは全く認めない。そして人々が逃げ出さないように、軍隊によって国境を厳しく監視させている。カラ・ベン・ネムジの使命は、この暴君の良心に訴えて、講和を結ばせ、ジニスタンで行われているような社会的公正と善良さに基づいた統治へと導くことであった。

主人公とハレフはその旅の途上、じめしめとした低湿地に住む巨人族ウスールに出会うが、策略を用いて巨人たちを退治して、手なずけた。ついで隣接した砂漠の国チョバンを通って、アルディスタンの暴君が邸宅を構えているアルドの町へ向かった。そしてその暴君と会見した。ところがちょうどその滞在中に、その地で謀反が起こった。「パンター(豹)」という名前の王子が、日頃圧政に苦しんでいたイスラム教徒の民衆の力を利用して、クーデターを起こしたのである。その結果、それまで忠実な家来だと思っていたパンターによって暴君は誘拐され、荒野の真っただ中にある「死者の町」に閉じ込められてしまう。そしてそのあおりを受けて、主人公とハレフもその廃墟の要塞都市に幽閉されることになった。

そこに長い間囚われの身となり、苦痛のうちに過ごすことになったアルディスタンの暴君は、やがて自分が犯してきた誤りに気が付いて、悔い改める気持ちになっていった。しかし新しい支配者となったパンターはかつての主人に対して、なんら同情の念を示すことなく、厳しい監視の目を光らせていた。そしてジニスタン軍との戦いに備えて、軍備の増強を図っていた。

いっぽう奇妙なことに、かつての暴君も主人公主従も、この「死者の町」の地底の闇の中で、囚われの身ながら、それぞれ一定の行動の自由を得ていた。そのため両者は様々な対話を行い、暴君も過去の数々の悪行を深く反省していく。そして主人公及び暴君がそれぞれ頭の中で考えたことが、あるいは独白の形であるいは対話の形で、延々と展開されてもいる。とはいえ優れた物語作家としてのカール・マイは、この作品においてもやはり複雑極まりないストーリー展開を繰り広げている。

第一巻、第二巻あわせて1200ページを超す長編小説でもあり、この場でそれらについて詳しく紹介していく余裕はないので、その結末へと急ぐことにしよう。やがてカラ・ベン・ネムジはその強力な精神的な影響力を発揮して、暴君を新しい人間へと生まれ変わらせるのに成功した。つまりクルプの森の中にある「魂の鍛練場」で、暴君は鍛えられて再生したのである。そして巨人族のウスールやチョバンやキリスト教徒民衆の支援を受けたうえ、さらにジニスタンの支配者から送られてきた援軍の力を借りて、ついにパンターを撲滅して、再びそこの支配者に返り咲いたのであった。こうしてかつての暴力支配者はいまや威厳と公正さを身に着けた「平和の君主」となり、アルディスタンの幸せのために尽力することになった。

この結末をもって二巻にわたる長編のユートピア小説は終わりを迎えた。しかしその長さにかかわらず、この物語は内容的には未完の書になっている。その結びの言葉は次のようになっている。

「我々はさらに歩みを続け、深く山々に分け入っていく。そしてその道はジニスタ
ンへとつながっている。我々はさらに高い目標に向かって、歩みを続けていくの
である。」

『アルディスタンとジニスタン』第二巻の表紙

物語の中に秘められた寓意

ところでマイは作品を文学的に高度で、精神的なものへと高めようとして、冒険物語に、より深い意味と比喩性を与えようとした。そして意識的に新しいスタイル、つまり登場人物の行動や物語の舞台あるいは小道具の寓意化と暗号化を試みた。かつて主人公を自分自身と同一視して痛烈な批判を受けたため、作者はこの作品では主人公である「私」を、「人類の魂」とか「世界平和の理念」といったものへの寓意化に機能転化したのである。

『アルディスタンとジニスタン』は極めて複雑な内部構造をとっているため、そこに描写された外的行動や個々の登場人物あるいは様々に起こる出来事の中から、作者が用意した寓意を読み取るのは、一般の読者にとって容易ではない。またそうした寓意のために、ストーリーの持つ首尾一貫性や実際の行動が示す緊張感が損なわれているというマイナス面もある。そのため前期の世界冒険物語を夢中になって読んできた読者の多くが、後期の作品から離れていったのであった。

そのいっぽうで作者が仕掛けた寓意をめぐって、多くの研究者が様々な解釈を発表してきた。しかし物語に登場するいろいろな人物や出来事あるいは「天使の像」、各種の建築物、様々な風景などが持つ寓意を解き明かすことは容易ではないのだ。とはいえこの作品を覆いつくしている謎めいた神秘的な雰囲気こそが、詩的な魅力となっているわけである。先に挙げた研究者のヴォルシュレーガーによれば、この作品に含まれている解き明かすことのできない謎と非合理性は、作者が若いころに受けた、精神分析で言う、「精神的外傷」に基づいているという。

マイはまた、寓意の意味を解くカギを、別の作品「銀獅子の帝国3・4」や自伝の中に収められた「シタラの伝説」あるいは死の直前にウィーンで行った講演「高貴な人間の住む天空に向かって」などに隠しておいた。そうした暗示に従えば、この作品には、二つのテーマが隠されていることが分かる。一つは個々人の存在と生成の問題ならびに野蛮な暴力人間から高貴な人間への発展の問題である。もう一つは、いつか本格的な戦争が始まるかもしれないという不安を解消して、世界の恒久平和を確立することが重要である、という作者の強い願望の念である。これはこの作品が書かれた1909年という年が、第一次世界大戦勃発(1914年)前の局地的紛争や小競り合いに彩られた不安に満ちた時代であったことと関係があろう。

この作品に登場している人物は、生成発展する現実の出来事の中に積極的に関与し、行動し、政治的な動きも見せるのである。そうした中で、結局は、「精神」の具現者であるカラ・ベン・ネムジによって計画されてきた「世界平和の理念の確立」という目標に向かって、すべての人々が動いていったわけである。

神秘主義のヴェールに包まれた詩的な作品

とはいえ、そうした過程にあって、魔術めいて神秘的な地下の冥府の力が働いていた。主人公一行は、巨人族の住む低湿地帯から二つの海に挟まれた狭い地峡地帯を通り過ぎ、乾いた砂漠地帯へと入っていく。そしてそこにそそり立つ巨大な天使像の中に、大きな地下の泉を発見する。その後神秘的な「死者の町」に入った一行は、罠にはまって地下の奥深くに閉じ込められる。

その後も波乱万丈のストーリーが展開されていくのだが、一連のファンタジーに満ちた叙述を通して、作者マイは「夢見がちな」世界の光景を描き上げている。そうした叙述は、言語表現の上で極めて洗練された境地に達している。その意味で『アルディスタンとジニスタン』は、マイのポエジーつまり詩的な能力が頂点に達した作品だという事ができよう。1200ページを超えた長編の叙事詩でありながら、そこには抒情詩的な魅力もふんだんに含まれているのだ。

この遠い「星の花の国」シタラで展開される恍惚の物語を書いていたころ、マイは新聞・雑誌などによる非難攻撃の矢面に立たされ、また長くつらい裁判にも巻き込まれていた。この物語が、初め『ドイツ人の家宝』という雑誌に掲載されたとき、長年この雑誌を通じてマイ作品を愛読してきた一般読者の多くは、この作品に対して苦情を訴える手紙を寄せたのであった。つまり難解過ぎてついていけないというわけなのだが、そうした苦情は殺到して、ついには雑誌の予約購読を取り消す人も現れた。こうして『ドイツ人の家宝』の発行部数は減り、出版社はマイに対して、こうした難解な実験はやめるように警告した。とはいえこの作品の掲載は、最後まで続けられはした。

前期の数々の冒険物語の愛読者が、後期作品を敬遠するという事情は、マイの生前の時代も現在も変わりない。そのいっぽうでマイ作品を研究している人々、とりわけ1969年に西ドイツで設立された「カール・マイ学会」に所属する研究者によって、マイの後期作品がいわば再発見されて、高く評価されるようになったわけである。この学会は、マイの全ての作品を取り上げて、批判的・学問的な研究の対象にしてるもので、けっして後期作品だけを扱っているわけであはない。

しかし先に挙げた現代作家アルノ・シュミットや、「カール・マイ学会」所属の評論家ヴォルシュレーガーなどの努力を通じて、今日、ドイツの読書界で、カール・マイの後期作品は、ドイツの高級文学の流れの中に置いていいもの、という評価が定着しいているのだ。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

カール・マイ研究

カール・マイ評価の逆転~非難攻撃から客観的評価へ~

カール・マイが著した作品を客観的に研究しようという動きは、その死後あまり時のたたない時期に始まった。その先駆となったのが、カール・マイ出版社の創立者であったオイヒャー・シュミットであった。マイの晩年に法律家としてその弁護にあたったシュミットは、マイの名声と名誉を復活させるために、「カール・マイを弁護する」という文章を著した。そしてそれを小冊子の形で、1918年に刊行した。そこで彼はマイへの変わらぬ信頼の念を表明するのと同時に、マスコミなどからの不当な罵詈雑言を排除し、世間の誤解を解くことに尽力した。

その直接のきっかけとなったのは、ウィーンの文学史家アントン・ベッテルハイムが、その前年に編集刊行した『死亡したドイツ人作家の略伝』であった。その中にカール・マイについても書かれていたが、そこには憎しみと非難攻撃の言葉が満ち満ちていた。つまりそれはドイツ文学史研究の信ぴょう性を疑わせるような調子に彩られていたのだ。それに対してシュミットは、別の出版社経営者のワルター・ド・グリュテアの協力を得て、事実関係に関する十分な証拠書類を取り揃えて、力強い反ぱくを加えたのであった。

もう一人、手ごわいマイの敵として、F・アヴェナリウスという雑誌発行人がいた。この人物は、マイの生前から激しいマイ攻撃を展開していたが、その死後も信じられないぐらいに事実関係を無視した非難中傷を、自分の雑誌を通じて続けていた。それらは度を越したものであったので、シュミットも反撃に立ち上がったのである。それが先に紹介した小冊子『カール・マイを弁護する』であったが、これが功を奏して、アヴェナリウス陣営は総崩れとなって、とどめを刺されたといわれる。その皮肉たっぷりの反撃の文章の一部を、次に引用することにする。

「アヴェナリウス氏は将来有名になるであろう。彼は第一に商売人であるが、第二に模倣的な(人まねの)批判の言葉を吐いている。しかしそれは決して創造的な才能を示すものではない。したがって彼は、死んでしまえば、すぐに忘れ去られてしまう類いのちっぽけな人物なのだ。しかるにその名前は後世に残るものと、私は信じている。つまり後世の人は、彼の名前を、カール・マイの思い出とともに、見出すことになるであろう。」

次いでマイ弁護に乗り出したのは、革新派の教育学者ルートヴィヒ・グルリットであった。彼は同僚の学者の反対を押し切って、1919年に『カール・マイに対して正当な評価を』と題する書物をものして、マイ擁護に一つの貢献をなしたのだ。

これらのマイ擁護運動のおかげで、大小数十にのぼる新聞雑誌を巻き込んでのカール・マイ騒動は、かなりの程度鎮静化し、反対派の言動にも、変化がみられるようになった。その一例としてベルリンで発行されていた代表的な日刊紙「ベルリーナー・ターゲブラット」の論調の変化を取り上げよう。この新聞ははじめ文学史家ベッテルハイムの側についていて、1918年5月16日の朝刊では、次のように書いていた。

「『死亡したドイツ人作家の略伝』のような学問的著作にあっては、事実がゆがめられているなどという事は、ありえないことである。この作家に対する訴訟は、もしそれが特別な文学的意義を持った作家に関するものならば、その生涯と業績についての供述が事実に基づいたものであり、しかも冷静な調子で語られて、はじめて、有罪かどうかの判定を下すことができるわけである」

これに対して、カール・マイ出版社のシュミット氏の要請で協力に乗り出したド・グリュテア氏は、同新聞社に必要で十分な資料を提出した。それに基づいて新聞社側は、『死亡したドイツ人作家の略伝』が含むものは、単に死んだカール・マイに対してだけではなくて、現在生きている人々にとっても侮辱を意味するものであることを理解した。そしてそれ以後、同新聞のマイに対する論調は、肯定的なものに変化したのであった。それから数週間後には、ドイツの出版界のみならず言論界にも大きな影響力を持っていたライプツィヒの『ドイツ書籍取引所会報』も、ド・グリュテア氏側についた。こうした動きを通じて、『死亡したドイツ人作家の略伝』は、権威を失い、その普及が阻止されたのであった。

バッタグリアによる批判的マイ評価

続いて登場したのが、ウィーンの歴史家で社会学者のオットー・フォルスト・バッタグリアである。彼は1931年、初めての本格的なマイ研究書ともいうべき『カール・マイ~ある人生、ある夢』を著した。これはノーベル文学賞を受賞した20世紀ドイツの代表的な作家トーマス・マンの称賛を勝ち得たほどのものであった。

この本の著者は、マイに対して限りない愛情を注ぎながらも、盲目的な礼賛に陥らずに、終始批判的・客観的な筆致を忘れていない。同書の中で著者は、カール・マイを「偉大なる夢の実現者」とみなし、この夢想家の生涯を描くのと並んで、その作品を批判的に詳細に論じている。さらにその筆は、マイの犯罪者の素質と作品との関係にも及んでいる。そして最後にマイの作品が社会に与えた影響と評価の問題にまで触れている。ちなみに本書は、第二次大戦後、社会情勢とマイを取り巻く状況の変化を考慮して、大幅に手が加えられ、1966年にあらたに『カール・マイ~ある人生の夢、ある夢想家の人生』という題名のもとに刊行されている。

哲学者ブロッホによる熱烈なマイ賛歌

      エルンスト・ブロッホ著『希望の原理第一巻』

同じころドイツの高名な哲学者エルンスト・ブロッホによる熱烈なカール・マイ賛歌が現れた。この哲学者は、その主著『希望の原理』(日本語版も刊行)などを通じて、日本の知識人の間にも知られている人物である。このブロッホは1929年3月31日(マイの命日の翌日)付けの日刊紙『フランクフルター・ツァイトゥング』紙上に、「夢の市場」なる一文を寄せた。そしてそこでマイに対する熱烈な賛歌をうたい上げたのである。そこでブロッホは次のように書いている。

「カール・マイはドイツの物語作家の中で最も優れた者の一人である。・・・この人物が作家になったなり方には先例がない。つまり彼は監獄の中ですでに書き始めていたのである。・・・彼が描いたのは、花のような夢ではなく、野生の夢つまり人の心をとらえて離さないメルヒェンなのであった。」

ちなみにブロッホは、この文章を書いた時より以前の学生時代に「カール・マイとヘーゲルがあるだけだ。その間にあるすべてのものは、みな不純な混ざりものだ!」と叫んだという(『希望の原理第一巻」(白水社、1982年4月、649ページ、「あとがきにかえて」)。

          エルンスト・ブロッホの肖像

さらに彼は処女論文集の表題を「砂漠への挑戦」としているし、生涯で全著作を読んだのはカール・マイだけだ、と語っているという。またブロッホは同じく『希望の原理第一巻』の第三部(移行)鏡の中の願望像(陳列品、童話、旅、映画、舞台)の二七「歳の市、サーカス、童話、民衆小説における、もっとましな空中楼閣」の冒頭に、カール・マイの自伝『わが生涯と苦闘』の中からの引用を掲げている。

「それから、私たちは寝に行きました。けれども私は眠らずに目を覚ましていました。どのようにして助けを求めようかと考えました。思案の末に私は決心しました。以前読んだ本の題名に『シエラ・モレナの盗賊窟あるいは困った人たちの天使』というのがありました。父が帰宅して眠ってしまうと、私はベッドを抜け出し、こっそり部屋を出て、服を着ました。それから一枚の紙片に、<血で手を汚すような事はしないでください。僕はスペインへ行って、助けを呼んできます>と書きました。私はこの紙片をテーブルの上に置くと、かちかちのパンを一切れポケットに突っ込み、九柱戯用の小遣い数グロッシェンをもって、階段を駆け下りました。そして扉を開き、もう一度誰にも聞こえないようにしくしく泣きながら、深く息を吸い込みました。それから足音を忍ばせて広場を下り、裏通りを抜けて、ルングヴィッツ通りへ出ました。この道がリヒテンシュタインやツヴィッカウを経て、苦難の救い主である高貴な盗賊の国スペインへ続いているのです」

このエピソードについて一言補足しておく。マイが14歳で国民学校を卒業する時、その後の進路決定について、貧しい両親が話し合っていた。父親は自分が身を粉にして働いて、師範学校の学費を稼ぐといって部屋を出ていった。そうした話し合いを、息子のマイは部屋の片隅で、スペインを舞台にした盗賊騎士の物語を読みながら聞いていたわけである。

ところで本筋に戻ると、ブロッホが新聞紙上に掲載した、先の決定的な一文によって、長い間マイを縛っていた呪縛が解かれ、再びマイの上昇が始まった。人々は再びマイについて、自由に語ることができるようになった。そして青少年や庶民の間だけではなくて、教養ある階層の中でも、マイを話題にすることが可能になったのである。

第二次大戦後、マイの本格的研究始まる

しかしただ一つドイツ文学史の中では、戦前には、まだマイの名前は取り上げられていなかったのである。マイの再評価のために尽力してきた文学研究者のハインツ・シュトルテは、それまでドイツで編纂されてきた文学史の本を子細に点検してきたが、「二三の例外を除いて、マイの名前を載せているものはない」と言っている。そして彼が1936年、カール・マイについて学位論文を書き、提出したとき、受けた反応は、肩をすぼめたり、眉をしかめたり、首を横に振ったりする、といった体のものだったという。そしてさらに「まさに人跡未踏の地に単身降り立った思いであった。カール・マイを博士論文にするなどとは、だいぶ頭がおかしいのではないか、と思われた」とも、告白しているぐらいである。

ところが時代が変わって、第二次大戦後になると、主として西ドイツで、マイを学位論文や国家試験のテーマにする学生が現れてきたのである。その際興味深いのは、文学研究者のみならず、社会学者や文学心理学者、とりわけ精神分析の専門家が、マイを格好の研究対象として取り上げていることである。

作家アルノ・シュミットの登場

作家で評論家のアルノ・シュミットは、1963年、『シタラ、そこに至る道~カール・マイの本質、作品および影響に関する研究』という大部の書物を著した。これは批判的文学分析の代表例とみなすことができるもので、その手法を通じてシュミットは、ドイツの一文学現象に光を当てたわけである。この研究において彼は、精密なテキスト解釈と精神分析的手法を援用して、カール・マイの世界ならびに登場人物が、非日常的規模のエロス抑圧の産物として理解されることを示した。

彼は意識下のマイを、ホモ・セクシャルであると断定し、またドイツ最後の神秘主義者(後期の作品に基づいて)である、とも決めつけている。シュミットはさらに彼一流の皮肉や嘲笑を盛んに飛ばしているが、そのため篤実なマイ研究者の反発を買ったりした。その反面、マイ作品にしばしば登場する誇張されたユーモアを楽しんでいる節もうかがえる。

しかしマイ作品の華やかな表面の裏に、実はそれまでほとんど誰も気が付かなかった、ある種の<魂の風景>が隠されていることを如実に示した点にこそ、彼の功績であるといえよう。アルノ・シュミットのこの研究書は、世に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。そこで彼が用いた批判的文学分析の手法は、その後マイ研究の有力な手段として一般化していった。この点は注目すべきことである。

カール・マイ学会」の誕生(1969年)

かくしてこのような機運に乗って、戦前では考えれれなかったほど活発に、各方面にわたって、マイ研究は進展してきた。そして1969年には、ハンブルクで、文学研究団体としての「カール・マイ学会(Karl May Gesellschaft)が誕生した。この学会は、様々な分野の学者ならびにマイ愛好者が集まって、情報と研究の交換を行う学際的な学会なのである。

マイの故郷エルンストタールで開かれたカール・マイ学会の総会に参加した会員達
(1999年)

年一回の『年報』と季刊の『報告』が発行され、総会シンポジウムが隔年に開かれている。場所はカール・マイゆかりの地が選ばれ、4日間ほどの日程で、かなり大規模な催しとなっている。私自身もこの学会の存在を知った1980年以降学会員になって、総会シンポジウムにも数回参加してきた。1990年のドイツ再統一以降は、東ドイツ地域にまで拡大された。この旧東独地域こそは、マイが生まれ育ち、作家として活動し続けた所だったのである。そのため再統一後には、もちろんマイが成功してから住み続けたラーデボイルのすぐ近くの大都会ドレスデンでも、生まれ故郷のエルンストタールでも、総会シンポジウムが開かれている。そして2012年3月には、マイ没後百年祭を記念して、ドレスデンでシンポジウムが開かれたが、これには私も参加した。

その学会活動は年を追って活発さを増し、そうした研究の一つの集大成として、1987年に、実に内容の濃い浩瀚な研究書が刊行された。それが『カール・マイ・ハンドブック』(Karl-May-Handbuch)である。小型版だが、751ページと分厚い本である。ドイツのクレーナー出版社(シュトゥットガルト)から発行されている。学会の主たる研究者をまさに総動員しての分担執筆で、カール・マイの全てを、余すところなく明らかにしている。私もマイ研究にあたり、この本に大いに世話になっているので、次にその目次を紹介することを通じて、大体の内容をお伝えすることにしよう。

     『カール・マイ・ハンドブック』の見返しとマイの肖像

『カール・マイ・ハンドブック』
発行者ゲルト・ユーディング 編集者ラインハルト・チャプケ
目 次
まえがき
序 言
時代背景と伝承
A 三月前期と第一次大戦の間
B 文学的伝統
C 一九世紀における文学市場
人物と人生を取り巻く事情
A 伝記研究の歴史
B マイの生涯
C 年表(誕生から逝去まで)
作 品
A テキスト
B 内容の展開と散文形式
C 個々の作品
1.世界冒険物語
2.青少年向け作品
3.分冊販売小説と初期長編物語
4.初期の作品
a   ユーモレスク
b 村の物語
c 旅行冒険物語
5.G・フェリーの作品の翻案
6.自伝的文章
7.論文、講演その他の記録
8.戯曲「バベルと聖書」
9.抒情詩
10.断片、草稿、習作
社会的影響と評価
A   カール・マイ批判とマイ受容
B 作品への加筆および改訂
C オーストリア、スイス、東ドイツにおけるカール・マイ
D 翻訳版
E 戯曲化
F 映画化
G 音楽化
H 商業的利用
I マンガ、絵物語
J 博物館、記念館、展示
K カール・マイ出版社
L カール・マイ研究機関とその展望

 

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その07 その社会的影響(カール・マイ現象)

 「社会現象」になったカール・マイ

カール・マイはその生涯に膨大な分量の作品を書きあげた作家であったが、その影響は、単なる文学的な次元を超えて、広く社会的な性質を帯びていた。

戦後の西ドイツを代表する高級週刊誌『シュピーゲル』(社会を反映する<鏡>という意味)は、1960年代に、マイに関して特集記事を組んだ。そこでは、カール・マイは単なる人気作家であるにとどまらず、社会全体に広範な影響を及ぼしてきた、ひとつの「社会現象」である、と指摘された。この週刊誌は、そのレベルが非常に高く、広く政治、経済、社会、文化にわたって、鋭い論調を展開してきた。その主な読者層は、広範なエリート層であるが、この特集記事は、社会批判的な立場から、カール・マイを高く評価するものであった。そのためマイの作品を読んだことのないインテリ層に対しても、改めてこの作家への関心を呼び起こしたのであった。
1990年のドイツ再統一後も、この雑誌は健在である。

       ドイツの高級週刊誌『シュピーゲル』の表紙
2012年3月19
日号(カール・マイ特集号ではない)

しかしこの『シュピーゲル』の特集記事に先立ち、「カール・マイが一つの社会現象である」と言い出したのは、マイの先駆的な研究者であるハインツ・シュトルテであった。このブログの「カール・マイの生涯」の中でも述べたように、マイがその成功の頂点にあったころ、熱狂的なファンの間で幾つもの愛好会が作られていた。彼らはインディアンやアラビアの酋長の格好をしてマイを取り囲んで楽しんでいた。

また戦後の西ドイツ(再統一後には東独)でも、子供たちはマイの西部ものの影響で、カーニヴァルの仮装にインディアンの衣装を好んで身に着けたりしている。さらに北独のバート・ゼーゲベルクやエルスペでは、マイの作品を基に、毎年野外劇が演じられている。私も1983年に、子供たちを連れてその野外劇を見に行ったものである。またマイ作品の映画化やテレビ化(ビデオやDVDでも)は、数えきれないほど。また耳で聞くドラマの形で、数多くのレコード(CD)も販売されている。物語の主人公やわき役などのフィギュアや関連グッヅも、本屋に置かれ、その大衆的人気にこたえている。

いっぽう本来の書物のほうも、ドイツでは広く国民の間に浸透していて、復活祭やクリスマスのプレゼントとして、子供たちに贈られているのだ。さらに青少年時代に読んだカール・マイ作品は、家庭の書棚に数多く並べられていて、大人になってから読み直されているという。つまりマイの作品は、聖書に次ぐほどの人気なのだ。

カール・マイ出版社から刊行されている「バンベルク版」全集は、私が入手した1970年代半ばには74巻であったが、2009年には93巻に達している。またマイ没後50年たった1963年以降は、その著作権が消滅したため、廉価なポケット・ブックの全集も、様々な出版社から発行されている。それらを合計すれば、総発行部数はいったいどれほどになるのであろうか。

他方、外国語への翻訳に目を向けると、すでにマイ生前の1883年にフランス語に翻訳されたが、その後英語、オランダ語、スペイン語、チェコ語、イタリア語、ロシア語など周辺のヨーロッパ諸国の言語にも、次々と翻訳されていった。そして遠く中国語やわが日本語(私および他の3人の翻訳者による)にも翻訳されている。2006年現在で、合計35か国語に翻訳・刊行されているのだ。

     中国語版のマイ作品(第6巻)の表紙(1999年発行)

19世紀の他の多くのドイツの大衆作家がいまや忘却の彼方に消え去っているのに比べて、マイが今日なお、生前にもまして広く世界で読み継がれているのは、まさに驚嘆すべきことであろう。こうした作品受容の広がりと、それに付随したもろもろの社会的現象を含めて、一口に「カール・マイ現象」と呼ばれているわけである。

 カール・マイへの評価(賛否両論)

以上述べてきた絶大な人気の傍ら、ドイツでは昔から、青少年に与える教育面での影響が、一般に問題とされてきた。この点に関しては、これまで肯定と否定、賛成と反対の意見が真っ向から対立してきたといえる。先に挙げたマイ研究者シュトルテは、1970年ごろに書いたものの中で、次のように述べている。
「この数十年間ドイツでは、評論家、ジャーナリスト、政治家、教育学者、教師、図書館司書など、ありとあらゆる人々が、マイをめぐって賛否両論を表明してきた。そして新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどを通じて、再三再四論争が繰り返されてきた。そこで反対陣営が強調しているのは、マイに夢中になって勉強をおろそかにすることへの心配である。彼らはマイとその作品から、まるで悪魔のように遠ざけようとしてきた。それにもかかわらず青少年は、あるいは教室の片隅で、あるいは家のどこかで、夢中になってマイ作品を読みふけったのである」

マイに対する評価は、青少年への教育的影響に限らず、その全般にわたって、賛否両論が対立してきた。それを図式化すると、次のようになる。ある人が「天分ある青少年向け作家」といえば、他の人は「青少年をだめにする人間だ」と答える。左派からは「帝国主義の産物」と批判されるかと思えば、右派からは「ドイツ魂の典型」と称えられる。また「真の長編作家」と呼ばれる反面、「生まれながらの犯罪者」と非難される。「労働者階級の敵」という声には、「時代の枠を抜け出したプロレタリア」という反論がなされる。「三文小説の文士」という人もいれば、「千夜一夜物語に匹敵する物語作家だ」とほめちぎる人もいる。そして「ナチス突撃隊の教師」という言葉には、「世界平和運動と平和主義の先駆者」という言葉が返される。「素朴な国民的作家」という軽蔑的な言葉が発せられると、「いやマイこそはドイツ文学最後の偉大な神秘主義者だ」という反論が出てくる、といった具合なのだ。

 「マイは現代のメルヒェン作家」

以上、マイに対する賛否両論を標語として列挙してきたが、ここでマイを偉大なる「現代のメルヒェン作家」と称揚している先駆的なマイ研究者ハインツ・シュトルテの肯定的評価をご紹介することにしよう。彼は「犯罪とファンタジー」について、次のように考察しているのだ。

「かつて放浪者として警察の追及を受けた教師の犯罪と、のちの作家の華麗な冒険の世界との間には、直接的な関係が存在するのだ。両者は同じ精神的源流から流れてくるものである。・・・生まれながらの詩人作家そして自分の抱いた夢のとりことなった人物は、しばしば犯罪の暗闇へと道を踏み誤ることがある。・・・天才的な空想力の持ち主である詩人は、市民社会や無味乾燥で制約の多い職業生活に適応する能力を欠いているため、しばしば打ちひしがれる。

そうした例は、かのホメロスに始まり、シェイクスピア、クライスト、ヘッベルからトーマス・マンにいたるまで、枚挙にいとまがない。・・・新しいフランス抒情詩の偉大なる開拓者であるフランソア・ヴィヨンは、一連の天才的犯罪者の先鞭をつけた人物でもあった。偉大なるセルヴァンテスは悲喜劇的な騎士ドン・キホーテに関するヴィジョンを、牢獄の中で手に入れた。カサノヴァはヴェネチアの獄舎に入れられた。マルキ・ド・サドはかの悪名高いバスチーユ監獄に、ドストエフスキーはシベリアの<死の家>にいたが、これらはいずれも世界文学の有名な一章に属することである。

同様にしてカール・マイも、夢想家で精神的な夢遊病者そして極めて創造力にとんだイマジネーションの持ち主であった。それは地獄への道を踏むべく運命づけられていた。しかしその天才的な夢見る力は、成熟するに及んで、文学創造という正しい道を見出すことができたのである。・・・マイの書いた物語の多くは、かつては素晴らしく驚きに満ちていたが、その後世界の変転と技術的進歩によって、はるかに追い抜かれてしまったかに見える。すでに人類は月にまで到達してしまった。それなのにマイの冒険談の中では、人々は自動車も電話も通信機も知らないのだ。人々は馬やラクダにまたがって、苦労して旅をした。連発式ヘンリー銃が魔法の兵器として、驚きをもって受け取られていた。それにもかかわらず、これら全ては決して古びてはいず、読者の空想力を十分かき立てるのに役立っているのである。この事はどのように説明されるべきであろうか。

カール・マイは、時の流れに流されないものを作り出すのに成功したのだ。それはまさしく<メルヒェン(童話)>と呼ぶことができよう。・・・かつて民衆向けの童話は、夕べの一家団欒の中心として、糸つむぎ部屋の中や村の菩提樹の下で、口から口へ、世代から世代へと読み継がれていった。しかしこうした世界は今や、はるか過去のものになった。技術や交通といった現代生活のあらゆる形式が、古き良き時代の共同体にとってかわった。そして民衆向け童話は語られなくなった。

しかし民衆向け童話が消えたところに、民衆(国民)文学が登場してきた。古典作家たちの高級な作品と昔の民衆向け童話のちょうど中間の領域に、民衆(国民)文学が現れたのだ。そこではかつてのメルヒェンが、新しい衣装をまとって存続することが許されたのだ。カール・マイの緑色版を眺めていると、すでにその表紙の絵から、そこに登場する世界が童話の世界であることが分かる。この文学ないし精神の中間領域において、カール・マイは<民衆(国民)作家>になったのである。彼において古い<童話の魂>は、今一度、その驚くべき性能を発揮したのである」

忘却の危機からマイ復活へ~カール・マイ出版社の歩み~

1912年3月、カール・マイが死んだとき、その大衆的人気は地に落ちていた。そしてそのままいけば、他の大衆作家と同じように、永遠に忘れ去られる運命にあったかもしれない。その運命を大きく変え、作品を永続化させる契機をつくったのが、若き法律家オイヒャー・シュミットであった。子供のころからの熱心なマイ愛読者であったシュミットは、新聞・雑誌などを通じて非難攻撃され、また裁判沙汰に巻き込まれていた晩年の作家を、何とかして救いたいと思っていた。

       オイヒャー・シュミット(1884-1951)

その意思を伝えるために彼はマイに手紙を出し、1910年の夏つまり作家の死の二年前に、ラーデボイルの屋敷を訪れた。そしてその翌年マイはクラーラ夫人と一緒に、シュトゥットガルトのシュミットの家に出向いた。その時作家は直々に「あなたに私の作品のすべてを出版してほしい」と頼んだ。この言葉がカール・マイ出版社誕生の契機だったと言えるのだ。そして同出版社のその後の尽力がなければ、今日の「カール・マイ・ルネッサンス」は考えられなかったかもしれない。

1910年、マイ作品の年間の総発行部数は7万7千部だったが、1911年には3万6千部に減り、1913年には1万4千部へと谷を下る勢いであった。当時マイ作品の多くは、フライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行されていたが、その有能な出版社主をもってしても、この退潮を食い止めることができなかった。

こうした状況の中で、夫の死後、未亡人のクラーラ・マイは、先にシュミットに向かって夫が語った言葉を思い出した。そしてその実現の手立てを相談した。その結果、フェーゼンフェルト、マイ未亡人そしてシュミットの三人で「カール・マイ出版社」が、1913年7月、ラーデボイルに設立された。その経営責任者としてシュミットが同社を切り盛りしていくことになったのである。

この若き経営者はその販売戦略として、拡大方針を打ち出した。それはフェーゼンフェルト社から刊行されていた緑色の装丁のフライブルク版『世界冒険物語』全33巻を基本にして、他のもろもろの作品や未発表原稿を、その中に取り入れて、新たにラーデボイル版の「カール・マイ全集」を作るというものであった。しかし翌年に始まった第一次大戦のため、印刷用の紙不足となり、全集刊行は困難な状況に陥った。それでもシュミットは新たな全集の第34巻として、マイが晩年に書いた自伝「わが生涯と苦闘」を、「私」というタイトルで1916年に刊行した。この自伝には、マイが当時陥っていた精神的苦境と時間不足のために、かなりの誤りが含まれていたため、それらを修正する作業が行われた。そして第35巻から第41巻までは、以前ウニオンドイツ出版社から出されていた「青少年向け作品」が収録された。その版権取得にあたっては、かなりの高額を支払ったという。

その後1920年代になって、カール・マイの人気は回復していった。そしてすでに高齢となっていたフェーゼンフェルトは、出版社から身を引き、それ以後はオイヒャー・シュミットが、名実ともに出版社を率いていくことになった。彼は同社の仕事を手伝っていたカタリーナ・バルテルと、1921年に結婚した。彼女は夫の死去まで忠実に出版社の業務を補佐していった。そしてこの結婚から生まれた4人の息子たちのうち3人は、それぞれ一定の年齢に達してからは、出版社の仕事に従事していったのである。1920年代は、インフレと経済危機の時代であったにもかかわらず、マイ作品の売れ行きは上昇傾向をたどった。そして新しい作品を全集の中に取り入れていく作業は、順調に進んでいった。

1933年1月にヒトラーが政権を握って、第三帝国の時代になった。ヒトラー自身熱烈なカール・マイの愛読者であったが、出版社にとってはこのことはかえって面倒なことだったようだ。それでも社主のオイヒャー・シュミットは、持ち前の巧みな才覚と外交的手腕を発揮して、ナチス側からほとんど邪魔されずに、同社を運営していくことができたという。そして第二次大戦が勃発した1939年には、全集は65巻に達したのであった。

しかし大戦末期の1943年には、マイ作品の製作(印刷や製本)を行っていた出版都市ライプツィヒへの連合国側の爆撃が激しさを増した。そして関連施設や書物を保管していた倉庫も著しい損傷を受けた。さらにカール・マイ出版社のあるラーデボイルに近い大都会ドレスデンも、1945年2月に大爆撃を受け、その町の倉庫に保管されていたマイ作品の多くは損なわれてしまった。

 第二次大戦後のカール・マイ出版社

それらの都市があったドイツ東部地方は、戦後ソ連によって占領されたが、カール・マイはソ連流の社会主義体制に合わない存在となった。カール・マイ出版社はマイ作品の発行を許可してくれるよう、あの手この手を尽くしたが、許可は得られなかった。

長男のヨアヒムは書籍販売の専門教育を受けていたが、1945年に出版社の幹部社員になった。彼は直ちにドイツ西部地区への移転を考え、父親オイヒャーの生まれ故郷バンベルクに、1947年7月、まずはカール・マイ出版社の支社を設立した。そしてそこで、伝統ある緑色の装丁の「カール・マイ全集」の発行を行うことになった。1951年7月、創立者のオイヒャー・シュミットが事故でなくなった。そのためヨアヒムが社長に就任した。

その後東ドイツの社会主義体制がずっと続く見通しになったので、ラーデボイルに残っていた出版社の機能を廃止し、カール・マイ出版社はバンベルクだけになった。そこでは戦前にラーデボイル版として発行されていた65巻のマイ作品が受け継がれた。そのうえで、いろいろな雑誌などに掲載されていた作品や未発表原稿などを基に、第66巻以降の刊行が続けられた。

その際文学的な才能に恵まれていた四男のローラントが、文章の修正作業に当たった。こうして第66巻から第70巻までが刊行された。いっぽう三男のロタールは、長男のヨアヒムを補佐する形で経営に参画した。そして販売や版権問題の面で、尽力した。

1960年には姉妹会社のウスタッド社が、カール・マイ出版社に合併された。さらにラーデボイルでマイがその晩年を過ごした邸宅「ヴィラ・シャターハンド」の総財産、とりわけ貴重なマイの図書室と書斎を、カール・マイ出版社が獲得した。そしてそれらはバンベルクの出版社のそばに建てられた「カール・マイ博物館」の中に、移築された。(これらはドイツ再統一後の1994年に再びラーデボイルの邸宅の中に戻された。

          バンベルクのカール・マイ博物館の外観

    博物館内に移築された図書室(書棚及びマイと妻クラーラの胸像)

1960年、ウィーンのカール・ユーバーロイター出版社が版権を得て、廉価なポケットブック版によって、「カール・マイ全集」と同じ内容の全集を出版し始めた。これによってマイ作品の普及はさらに進んだ。いっぽうカール・マイ出版社の伝統的な緑色の全集は、74巻に達した。私がカール・マイの存在を知って、書店から全巻を購入したのは、この74巻だったのだ。

さらに1970年代から80年代にかけて、「カール・マイ全集」のほかに、昔のウニオン出版社の青少年向け作品や、そのたの個別作品のリプリント版が刊行されていった。そしてフライブルク版全33巻のオリジナルテキストのリプリント版が、新たな校閲と解説をつけて、1982年から84年にかけて発行された。それらはマイ研究者や熱烈なマイ愛好者向けの豪華限定版であった。

ドイツ再統一の年1990年に四男ローラントが死去し、その後長男ヨアヒムが高齢のため経営から手を引いた。そして三男のロタールが社長になり、その息子のベルンハルトが補佐する形で、1993年に出版社に入った。この年から二人の共同作業によって、いろいろな雑誌に掲載されていた作品や未発表の原稿、そして幾多の関連資料や往復書簡などを編集して、「カール・マイ全集」の中に収録する作業が急ピッチで進められていった。

2003年7月、カール・マイ出版社の創立90周年を祝う祝賀行事が、バンベルクのホテルにおいて、大々的に行われた。そこでは記者会見、スライドやフィルムの上映、マイ作品のオークション、研究者によるシンポジウム、展示会のほか、大勢の招待客を集めて、盛大な祝賀パーティーが開かれた。その席で社長のロタール・シュミットは、90年にわたる同社の歴史を振り返って、挨拶を行った。その際父オイヒャーが苦難の渦中にあったマイを助け、弁護したことにより、作家の遺志を受け継ぐ形で出版社を設立したことを強調した。そしてロタールの息子ベルンハルトは、同社の未来への展望を語ったのである。

2010年の夏、私は全く久しぶりに、南ドイツの古都バンベルクに、カール・マイ出版社を訪れ、旧知のロタール及びベルンハルト・シュミット父子に再会して、旧交をあたためた。

 ロタール(右)及びベルンハルト(左)シュミット父子と私(中央)

その前年の2009年には、「カール・マイ全集」は93巻に達した。そしてカール・マイ没後百周年の記念行事が、2012年3月に盛大に行われた。これに私も参加したが、その時の様子について、ブログの01「没後百年祭に参加して」で、詳しく報告している。その少し前にロタール・シュミットはなくなった。そのためこの時は、息子のベルンハルトと再会した。そして彼の主催によって、2013年にカール・マイ出版社の創立百周年が大々的に祝われたのであった。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(06)

その06 全作品の概観

カール・マイはそのおよそ35年におよぶ作家活動(1875-1910)を通じて、実に膨大な作品を執筆した。そしてその多くを当時存在したあらゆる出版メディアに、次々と発表していった。その間に書いた作品は、その種類が多岐にわたっていたのと同時に、発表の仕方や発表の場もさまざまであった。それは、とりわけ19世紀ドイツにおける出版物の出版及び販売の方法と深くかかわりがあった。そして世紀半ばからの産業革命の進展や政治・社会体制の変革とも連動していたのだ。

ところでマイの場合、大衆作家としては珍しく、その死後も忘却のかなたに葬り去られることはなく、生前未発表・未整理の原稿を含めて、おおむね全ての作品が発刊されてきた。そのため現在我々は、ほぼすべての作品を概観できる状況にあるのだ。その際手掛かりになるのは、もっぱらマイの作品を刊行している「カール・マイ出版社」の全集及び同社が所有している膨大な資料、ならびに「カール・マイ学会」が刊行している定期的な小冊子や年報(学会誌)そしてその集大成ともいえる「カール・マイ・ハンドブック」などである。

そこで私としては、その膨大な作品を、出版メディアとのかかわりにおいて形態的に分類して、概観することにしたい。ただその前に、マイが手掛けた作品が、いったいどんなジャンルのものであったのか、一応分類して、一瞥することにする。

ジャンル別の作品の分類

1 世界冒険物語
a   波乱万丈の冒険物語
b   象徴主義的な後期の作品
2 青少年向け冒険物語
3 分冊販売長編小説及び初期長編小説
4 初期の小品と単独の物語
a 滑稽小説、ヨーロッパの歴史物語
b マイの故郷の村の物語
c  その他の冒険小説
5 戯曲、抒情詩、音楽作品
6 自伝的作品

出版メディア別ないし刊行形態別の分類

第1節 雑誌、民衆カレンダー、新聞

まずカール・マイが作家活動を開始したころのドイツの雑誌文化に目を向けてみよう。1848年の三月革命以降、ドイツでは交通手段が発達し、また法的な規制が緩む中で、数多くのポピュラーな娯楽雑誌が市場に出回るようになった。これらの非政治的な週刊の家庭向け雑誌は、読者に娯楽と教養を提供していたが、やがてその発行部数をぐんぐん伸ばしていった。それらの雑誌は、はじめ行商人によって配達されていたが、後にはこれは郵便に代わった。

そこにはポピュラー・サイエンスの記事、なぞなぞ、連載小説、読者からの便りなどが掲載され、イラストや写真がふんだんに盛り込まれていた。そして連載小説はこれらの雑誌の中核的存在に位置付けられ、宣伝価値のある有名な作家に執筆を依頼していた。当時の慣習として、家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、作家の評判を傷つけることにならなかった。そして作家に、経済的な利益をもたらすものであったのだ。

マイは社会的活動を始めた初期のころ、これらの雑誌の編集に携わっていたが、自らの作品もそこに掲載してもらっていた。『ドイツ家庭雑誌』に6編、『立坑と精錬所』に1編、『炉端での夕べのひと時』に3編そして『楽しいひと時』に12編の作品が掲載された。また雑誌編集者をやめてフリーの作家になってからは、作品の数は急速に増え、1880年までの3年間に46編も掲載された。

それらの作品の内容は、ジャンル別分類の4「初期の小品」に属するものである。そこのb「村の物語」というのは、マイの生まれ故郷である東部ドイツのエルツ山地の村を題材とした短編の物語である。それらは明るく、牧歌的な環境の中で展開されており、おおむね軽快でユーモアに満ちたものになっている。こうした要素は当然のことながら、滑稽小説の中心を占めているが、のちに執筆するようになった長編の冒険物語の中にも、波乱万丈の活劇や背景の情景描写などと程よいバランスで織り込まれている。

やがてマイにとって重要な位置を占めるようになったのが、南独レーゲンスブルクのプステット社から発行されていたカトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』であった。この雑誌は北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して、1874年に創刊されたものであった。
ここでドイツにおける宗教事情を一瞥すると、16世紀における宗教改革以降、幾多の騒乱を経て、おおむね南部・西部地域がカトリック、東部・北部地域がプロテスタントという風に、色分けされるようになった。マイは東部ドイツで生まれ、元来プロテスタントの家系であったが、やがてカトリックに傾いていったのである。

     カトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』

さて、それまでいくつかの雑誌を転々としてきたマイであったが、1879年に『ドイツ人の家宝』を発行していたプステット社との間に、永続的な契約を結んだ。そして1899年まで、マイはかねて計画していたジャンル「世界冒険物語」に属する作品を次々と発表していったのである。やがてそれらの物語は人気と評判を呼び、マイ及び雑誌の名前は宗派の垣根を越えてドイツ全国に知れ渡るようになった。
それらはジャンル別の作品分類では、1世界冒険物語のa波乱万丈の冒険物語に相当するものである。

いっぽう1890-1909年の間、マイは作品発表の場として、「民衆カレンダー」とか「マリア・カレンダー」とか呼ばれていた印刷物を利用していた。これは16世紀に起源をもつマリア信仰を基にした地方農民向けの出版物であった。日付を伝える本来の「暦」としての目的のほかに、読者の要望に応じて、薬の処方箋や農業上の助言、さらに歌謡、逸話、冒険物語などが掲載されていたのだ。プステット社からも、「マリア・カレンダー」が刊行されていて、マイはこれにも自分の作品を発表していた。

           マリア・カレンダーの表紙

一方、19世紀から20世紀への転換期のころから、マイの作品とその人物をめぐって盛んに論争が繰り広げられていたが、そうした渦中にあって日刊新聞や週刊新聞が、マイにとって重要な発言の場となった。彼は論争及び自己弁護の文章を、こうした新聞に発表したのである。またマイに好意的であった新聞には、晩年に書かれた「世界冒険物語」が掲載たりもした。その一つとして最晩年の作品「ヴィネトゥー4」が、「アウクスブルガー・ツァイトゥング」に連載されたのが注目される(1909-10年)。

第2節 分冊販売小説

マイはその創作活動の比較的初期の一時期(1882-87年)、ドレスデンのミュンヒマイヤー社から5巻に上る大長編小説を、分冊販売小説の形で発表した。(ペンネームまたは匿名で)。これはドイツ語で「コルポルタージュ・ロマーン」と呼ばれているもので、1冊が大八つ折判で平均24ページという薄い小冊子を、毎週連載小説の形で発行していくものである。そしてその連載は100回以上の分冊になって続いたため、それが完結すれば、1巻が全部で2400ページにのぼる大長編小説になったのである。

主として経済的な生活保障の観点からマイが大量生産した「コルポルタージュ・ロマーン」は、元来は行商人が村の奥までは配達して歩いていた娯楽本を指していた。そしてこの方式が19世紀に、フランスからドイツに入ってきて、マイがせっせと分冊販売小説を書いていた1880年代は、この書籍行商業の最盛期にあたっていたのである。ちなみに1860年から1903年の間に、ドイツ全土で、年間500編の分冊販売小説が出回っていたといわれる。

次にマイが書いた5巻の小説の題名、発行期間及び分冊の回数を記すと、以下のようになる。1『森のバラまたは地の果てまでの追跡』(1882-84年、109回)、2『放蕩息子または哀れな君主』(1883-85年、101回)、3『槍騎兵の恋』(1883-85年、108回)、4『ドイツの心、ドイツの英雄』(
1885-87年、109回)、5『幸運への道』(1886-87年、109回)。

第3節 青少年向け雑誌

これは雑誌の一種には違いないが、マイにとって特別な意味を持っていたので、ここに一項を設けて扱うことにする。具体的には青少年向けの絵入り雑誌『よき仲間』が、これに該当する。この雑誌はシュトゥットガルトのシュペーマン出版社から1887年1月に創刊されたものである。その編集方針として、青少年に健全な読み物を提供することが示されていた。そしてこの編集方針に沿って、当時人気上昇中の作家カール・マイに、この雑誌への連載が委嘱されたわけである。

             雑誌『よき仲間』の表紙

この時初めてマイは作家としての使命を自覚したという。つまり元教師であったこの作家は、青少年のために教育的で、しかも無味乾燥に陥らない作品を書くことが自分に課せられた使命ではないかと考えたのである。それ以後彼は、分冊販売書小説の執筆はやめ、これに全力を注いだのであった。こうして1887年から1897年までの間に、いくつかの短編作品のほかに合計8編に上る、いわゆる「青少年向け作品」が、雑誌『よき仲間』に掲載されたのであった。

この一連の作品は質的に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられるものである。これらの作品は外国を舞台とした旅行冒険物語であるが、主人公が三人称になっている点が、「世界冒険物語」とは異なっている。そのため研究者の間で、「青少年向け作品」というジャンルに分類されているものである。

それらの作品を列挙すると次のようになる。(1)『熊狩人の息子』、(2)『リヤノ・エスタカードの幽霊』、(3)『名誉をかけた誓い』、(4)『奴隷の隊商』、(5)『シルバー湖の宝』、(6)『インカの遺産』、(7)『石油王子』、(8)『黒いムスタング』。これらの作品は、内容もさることながら、挿絵画家ヴァイガントの描いた魅力的な挿絵によっても評判を呼んだ。

1890年、シュペーマン出版社は他の二つの出版社と合併して「ウニオン・ドイツ出版社」を設立した。同社は引き続き青少年向け雑誌『よき仲間』を発行し続けた。そしてマイ作品の評判が良かったため、先の青少年向け作品8編は、雑誌への連載が終わると順次書物の形で刊行されていったのである。これら8冊の本は、前述した挿絵と並んで、色彩豊かな表紙絵並びに赤色の総クロス装丁の美しい外観を呈していて、「ウニオン版」としてポピュラーになった。

第4節 個人全集の発行

 1 フライブルク版

1891年、作家マイにとって大きな転機が訪れた。それは個人全集の発行という大きな出来事であった。マイ49歳のことであった。それはフライブルクの出版社主フェーゼンフェルトとの出会いを契機としていた。この若き出版人は雑誌『ドイツ人の家宝』に連載されていた世界冒険物語の中の、とりわけ「オリエント・シリーズ」にいたく感激した。そしてこの雑誌を中心に、それまで各種雑誌にばらばらに発表されていた世界冒険物語を、個人全集『カール・マイ世界冒険物語』の形で発行していくことを決意した。そしてこの計画は翌1892年から実施に移された。

フェーゼンフェルトはこの全集を発行するにあたって、作家マイ及び自社の評判を高めるための用意周到な工夫を凝らした。なかでも造本には知恵を絞った。緑色のハード・カバーの背表紙に唐草模様をあしらい、金色の文字を付し、表紙には各巻の内容にふさわしい色彩豊かな絵を載せて、全体として上品な装丁に仕立てた。それは従来の読み捨ての娯楽読み物というよりは、むしろ高級文学のイメージを与えるものであった。そのため読者層も従来より広がり、マイの名声は大いに高まった。これがマイ最初の「フライブルク版個人全集」であるが、緑色の装丁のため、一般に「緑色の全集」と呼ばれている。

         緑色の装丁のフライブルク版個人全集

一方、それまで雑誌に発表されてきた作品をこの全集に収めるにあたって、一巻ごとの物語の長さが調整された。そして作品の題名も一巻ごとに新たに付け直された。またこの全集のためにマイが新たに書き下ろした作品もいくつかある。かくしてこの個人全集は、彼がオリエント大旅行に出かける1899年までに、27巻に達した。大旅行後はマイが外部との争いに巻き込まれたため、全集の刊行は休止した。しかし晩年の象徴主義的な内容の冒険物語6編を組み込んで、、マイが亡くなる2年前の1910年に、6巻が追加されて、フライブルク版個人全集は全33巻をもって完結した。

この33巻の題名を列挙すると、次のようになる。(カッコ内の数字は発行年)

(1)砂漠とハーレムを越えて(1892年)、(2)荒野のクルジスタン    (1892年)、(3)バグダードからイスタンブールへ(1892年)、(4)
バルカンの峡谷にて(1892年)、(5)スキペタール人の国を通って(1892年)、(6)ジュート(1892年)、(7)~(9)赤い紳士ヴィネトゥー1~3(1893年)、(10)オレンジとナツメヤシ(1893年)、(11)太平洋にて(1894年)、(12)ラプラタ河にて(1894年)、(13)アンデス山中にて(1894年)、(14)(15)(19)オールド・シュアーハンド1~3(1894-1896年)、(20)~(22)サタンとイシャリオット1~3(1896-1897年)、(23)見知らぬ道で(1897年)、(24)クリスマス(1897年)、(25)彼岸にて(1899年)、(26)~(29)銀獅子の帝国にて1~4(1898-1903年)、(30)そして地上に平和を(1904年)、(31)~(32)アルディスタンとジニスタン1~2(1905年)、(33)ヴィネトゥー4(1910年)

これとは別に、今日の我々から見て非常に魅力的なのは、その内容にふさわしく、ち密な出来栄えの挿絵が豊富に入った絵入り全集が、同じくフェーゼンフェルト社から、1907-1912年に発行されていることである。内容的には、先のフライブルク版の1~30巻を収めたものであるが、各巻の順番は部分的に異なっている。この全集は青色の表紙の装丁で、先の「緑色の全集」と区別している。

 2 ラーデボイル版

1912年にマイが死亡し、その翌年の1913年に「カール・マイ出版社」が、ラーデボイルに設立された。そして「フライブルク版」は、新しいシリーズのタイトル「カール・マイ全集」のもとに継続発行されていった。この全集はマイ未亡人の同意のうえで、同社の社主オイヒャー・シュミットが作家の遺志をついで、マイの全作品を個人全集の形にまとめたものである。そのためフライブルク版には収録されていなかった数多くのマイの作品が順次、収録・出版されていった。そして第二次世界大戦勃発の1939年には、「ラーデボイル版」全65巻になった。それはまずフライブルク版の1~33巻に相当する世界冒険物語を基本としていた。その上に、ウニオン版の青少年向け作品8巻、分冊販売小説15巻、初期の村の物語
や歴史小説7巻、そしてさらに自伝及び詩作品、戯曲の2巻が追加収録されたものである。

このラーデボイル版の発行にあたって、言語面及び内容面で、かなり大幅な編集の手が加えられたことが注目される。具体的には、外国語の引用の誤りの修正、過度に使用されていた外国語の削減、卑猥な表現の除去ならびに全作品の外面的な統一と規格化などである。こうした大幅な編集作業の狙いは、「マイの作品は低俗で汚辱に満ちた文学である」とする、晩年に行われた非難攻撃から作家マイを救うという点にあった。

こうした編集の度合いは、とりわけ分冊販売小説と晩年の作品に著しかったが、カール・マイ出版社は、このラーデボイル版をなお、オリジナル版と称し続けた。その理由として同社は、マイ未亡人クラーラが1930年に行った説明を引き合いに出している。それは「カール・マイ出版社が行っている編集作業は、作家マイが生前出来なかったことを代行してくれているもので、作家自身が行ったのと同じである」というものであった。

 3 バンベルク版

第二次大戦後ラーデボイルが東ドイツ領に組み込まれたため、カール・マイ出版社は西ドイツのバンベルクへ移転した。そしてその地で引き続き全集の補完作業を続けていった。2009年現在、それは93巻に達している。これがバンベルク版であるが、書物の体裁や編集方針は、戦前のラーデボイル版をそのまま引き継いでいる。そしてラーデボイル版、バンベルク版ともに、書物の装丁として、緑色のハード・カバーに唐草模様というフライブルク版の格調の高さをそのまま踏襲している。このバンベルク版が、現在ドイツの一般書店に並べられているカール・マイ全集の正統版である。

     バンベルク版個人全集の表紙(第1巻 砂漠を越えて)

このほかマイ生前のオリジナル版(カール・マイ出版社による編集の手が加えられていない)へのマイ研究者ないしマイ愛好家の熱心な要望に応えて今日、それらの再販やリプリント版が発行されている。各種雑誌に発表された作品や、様々な単行本が数多くリプリントされて、発行されているわけである。その中でもとりわけ注目されるのは、前に述べたフライブルク版全33巻の完全復刻版の刊行である(1982-84年)。これは内容、装丁ともに完璧なものと言え、マイ研究者や愛好家の期待に十分こたえたものと言える。

さらにマイの死後50年たった1962年以降は、その著作権が消滅したこともあって、廉価なポケット・ブック版のマイ全集も、各種発行されている。この中でパヴラク出版発行の全集74巻(1976-78年)は高い評価を得ているが、そのほかは、造本が粗雑であったり、ミスプリが目立ったりといった欠点が多い。

第5節 単行本

マイの青少年向け作品が雑誌『よき仲間』に発表された後、書物の形でも順次発行されていったことは、すでに述べた。このほかにもマイの作品は、全集ではなくて単行本の形でも、1879-1912年の間に、数おおく出版されている。

なかでも注目すべきは、マイの個人全集を最初に出したフライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行された単行本のことである。それらは内容的にみて、それまでマイが書いてきた小説や物語とは違ったものであった。マイの数少ない詩作品「アヴェ・マリア」と「忘れな草」に作者自身が曲をつけた楽譜入りの本が『厳かな響き』と題して、1896年に出版されたのである。

          楽譜入りの本『厳かな響き』の表紙

また1900年には、オリエント大旅行の文学的成果として生まれた、詩と警句を集めた詩集『天国の思想』が発行された。さらに同社からは、1902年に、論争の渦中にあったマイが自己弁護のために書いた『教育者としてのカール・マイ』及び『カール・マイの真相』が出された。
そして1906年には、マイ唯一の戯曲作品『バベルと聖書~アラビア幻想』が刊行されている。この二幕の戯曲は、当時ヨーロッパで展開されていた、バベルつまり古代バビロンとバイブル(聖書)との関連に関する論争に触発されて書かれたものである。

一方、1907年には、一連のエルツ地方の村の物語がまとめて単行本となり、また1910年にはマイの自伝『わが生涯と苦闘』が、フェーゼンフェルト社から出版されたのであった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(05)

その晩年(1900~1912)

 後期作品の執筆

後期作品の特徴は、すでにオリエント大旅行の直前に書いていた『彼岸にて』にもみられるように、隣人愛と平和主義という新しい理念に基づくものであった。もはや男性の英雄ではなくて、祖母の姿に似せて作られた人間精神の象徴ともいうべき女性マラー・ドゥリメーが、中心的存在になった神話的な作品群であった。
そして日常生活の面でも、カール・マイは、新しい生き方をするようになった。オールド・シャターハンドやカラ・ベン・ネムジといった英雄的主人公になりすますという生活態度は捨て去り、またそうした衣装も片づけられた。そしてその館「ヴィラ・シャターハンド」の中を飾り立てていた家具調度類も整理された。

帰国後の最初の作品であった『そして地上に平和を』(1901年5月~9月)は、オリエント大旅行の印象を生かしたものであった。そこには帝国主義及び植民地主義に対する強い反対ならびに人種主義的、宗教的優越意識への断固たる拒否の態度が貫かれている。そして世界の人々を結び付けている連帯の理念と平和主義の教義が延々と展開されているのだ。また当時中国の山東半島へドイツが進出し、キリスト教の布教を行っていたが、それに対する反感から武装蜂起した義和団の反乱というトピックも取り上げられている。そして反乱に対する八か国共同出兵とそれによる残酷な弾圧が厳しく批判されているのだ。

(左)小説『そして地上に平和を』
(右)ノーベル平和賞受賞者ベルタ・フォン・ズットナー女史

 ノーベル平和賞受賞者ズットナー女史との出会い

いっぽうこの作品は、のちの1905年にノーベル平和賞を受賞したベルタ・フォン・ズットナー女史(1843-1914年)とマイとを結びつけることになった。その年の10月、このウィーン出身の作家・ジャーナリストはドレスデンにおいて講演を行ったが、その時マイは彼女と知り合い、自著の『そして地上に平和を』を献呈した。それが縁となって彼女とはその後死ぬまで、いわば「平和主義思想」の同志として親交を重ねたのであった。ズットナー女史はのちにマイにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「あなたは平和の問題やその他のことで、私の思想上の同志です。”上へ向かって高く!”こそ、私たちに共通した合言葉です」

マイの平和主義思想はさらに、第一次大戦前のヨーロッパの平和主義運動とも接点を見出したのである。マイのこの著作を知った、フランスの平和主義を代表する雑誌『法を通じての平和』の編集者から、マイに対して1907年初め、独仏の接近への方策に関して質問状が寄せられた。それに対するマイの回答を短くまとめて、次に紹介しよう。
「1.フランスとドイツの接近の試みは願ってもないことです。・・・誤った道に導かれていないドイツ人はだれしも、フランス人を評価し、尊敬しています。2.フランスとドイツは、20世紀の入り口の門を支える二つの女神の柱にならなければなりません。3.それを達成する一つの試みとして、私は次のことを提案します。それは廉価な週刊誌を両国で発行することです。その雑誌のただ一つの目標は、フランスとドイツの住民を互いに心の内面で結びつけることです。そのために同じ内容の記事をフランス語とドイツ語で発行することです。」

またカール・マイの宗教的信条の面でも、この時期に大きな変化が見られた。北東ドイツのザクセン地方に住んでいたマイの先祖は代々プロテスタントであったが、彼自身はレッシングやヘルダーなどの影響を受けて、一種の啓蒙的キリスト教の立場に立っていた。ところがヴァルトハイム刑務所の教理教師コホタとの接触とそこでのカトリックの礼拝実践、そしてさらにカトリック系の雑誌『ドイツ人の家宝』への寄稿を通じて、やがてカトリックへと接近することになった。そのため「世界冒険物語」をせっせと執筆していたころは、マイはカトリックの作家とみなされていたのだ。

しかしオリエント大旅行の後に、事情は再び変わることになった。今や彼は超宗派で反教義の立場にたって、愛のキリスト教をを唱えるようになったのだ。それは狭い意味で信心に凝り固まる立場を、拒否するものであった。その一方で自分は確固たるキリスト者であると主張していた。しかし後期作品の中で展開されている宗教哲学は、オカルト的、神智学的、神秘主義的要素ならびに他の宗教からの影響をも示しているのだ。

 この時期のマイの私生活

ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。このころ妻エマとの結婚生活は、マイにとって大きな負担になっていたようだ。二人は精神面で結びつくところがほとんどなかった。エマはマイの作品を読もうとはせず、その思考世界にも関心を持とうとはしなかった。そのため読者やファンからの手紙への返事などで、多忙な夫の手伝いをしなかった。さらに彼女は、自分が交際していた女友達を家に連れてきたりしていたが、マイはそれが仕事の邪魔になると感じて、不愉快な思いをしていたという。

こうしたことが重なって、すでにオリエント旅行の途上でも、少なからず好意を感じていた友人の妻クラーラ・プレーンにマイは接近したりしていた。そしてその夫のリヒアルト・プレーンが1901年2月に腎臓病で床に臥せ、やがて死亡した。そのあとクラーラはマイの秘書として雇われることになった。彼女はエマ・マイの名前で、読者からの手紙に返事を書く仕事を任されたのである。そのためもあって、マイとエマとの関係はますます悪化し、しまいにはエマに殺されるのではないかという被害妄想に陥り、彼女が調理した食事を食べなくなった。

後期作品の傑作のひとつ『銀獅子の帝国にて、第3巻』が完成したのをチャンスととらえたマイは、1902年夏、はエマとクラーラという二人の女性を連れて、しばし転地療養の旅へと出かけた。その旅の途中、マイはエマに対して離婚の話を持ち出し、自分はクラーラと結婚すると伝えた。その条件として、年額3000マルクの金を毎年エマに支払うことが提示された。そしてそのことを裁判所に訴え、その訴えは裁判所によって認められた。その後カール・マイは1903年3月30日に、正式にクラーラと結婚することになったのである。

                                         結婚後のマイとクラーラ夫人

この結婚生活は、とても幸せなものだったという。クラーラも性格の上で難しい側面を持ってはいたが、マイを深く愛し、また尊敬もしていた。そして生活面でも精神面でも、カールを強く支えていた。彼女はマイの作品を理解していたため、そのあと起きた裁判でも彼を強力に支援し続けたのであった。とりわけ情緒面でマイをやさしく支えたが、それなしにはマイはその後の歳月を生き延びることはできなかったと思われる。

 マイに加えられた非難攻撃

カール・マイは晩年の10年間、様々な種類の非難攻撃にさらされた。初期のころ各種雑誌や分冊販売誌に発表していた作品が、ほじくり出されて、俗悪で青少年に悪い影響を与えてきた、という非難のキャンペーンを一斉に受けたのであった。それらは主として、彼が経済的な窮状を逃れるために、1880年代の前半から半ばにかけて執筆し、ミュンヒマイヤー社発行の分冊販売誌に匿名で発表した大量の物語に関するものである。それらは推敲する暇もないほど急がされて書いたため、内容的に冗長で、装飾過多で、ぞんざいな出来栄えのものであった。ただ報酬は大変よかったという。
これらは匿名で発表されたのだが、実名が明らかになれば、評判を落とすことは明らかであったので、マイはひた隠しにしていたのだ。

ところがミュンヒマイヤー社の経営をその後引き継いだアダルベルト・フィッシャーという人物が、いわば金儲け目的でそれらの長編小説を、今度はカール・マイという実名を出して、発行しようとしたのである。大人気作家マイの名前を出せば、大きな利益を得られることは間違いない、と踏んでのことであった。オリエント大旅行の最中にそのことを知ったマイは、旅先からフィッシャーに対して発行を差し止めるよう伝えた。しかしマイの前科を知っていたフィッシャーは、マイがそれ以上強くは反対しないだろうと考えて、発行を強行したのであった。

              『絵入りカール・マイ全集』の中の一つ「放蕩息子」の挿絵

こうして全五巻の分冊販売小説が、今度は二十五巻に分けられ、大々的な宣伝広告のもとに『絵入りカール・マイ全集』として刊行されたわけである。旅行から帰ったマイはフィッシャーと何度か話しあって、発行停止を申し出たが、無駄であった。そして弱気になったマイは、1903年2月に、自分の前科を世間に公表しないことを条件に、発行継続を認めてしまったのであった。

しかしその分冊販売長編小説がもとで、青少年に不道徳的な悪影響を与えた作家であるとの非難が、各方面から起こったのである。そのためマイは妥協を後悔して、1905年に再びフィッシャーに発行停止を申し入れた。これも無視されたが、この経営者が1907年に死亡したタイミングで、後継の経営者に対して訴訟を起こした。その結果、分冊販売小説には第三者によってかなり手が加えられたというマイの申し立てが1907年10月に認められて、それ以後それらの作品からマイの名前は削除されることになった。この成果を勝ち取るまでに、実に7年もの歳月がかかったのである。

次に各方面からの批判キャンペーンに目を向けることにしよう。これは彼のオリエント大旅行中に始まり、以後断続的にマイの最晩年に至るまで続いたのであった。
1890年代の成功の絶頂期には起らなかったことが、鳴り物入りの宣伝広告を通じて刊行された『絵入りカール・マイ全集』によって、たぶんに「ねたみ・そねみ」の気分に彩られて、批判・非難の嵐が巻き起こされたのである。それらの批判の基調は、「清らかな世界冒険物語のかたわら、不倫とも不道徳とも言えるような
俗悪小説を書いて、青少年に悪影響を与えてきた」というものであった。

すでにマイのオリエント大旅行中の1899年に『フランクフルター・ツァイトゥング』の文芸欄では、「世界をくまなく旅行してきた世界漫遊者である、とのマイの主張は欺瞞である」と書かれていた。その後、以前はマイのことを高く評価していたカトリック系のジャーナリストによって、「マイは敬虔なカトリック信者を装ってきたが、実はプロテスタント信者なのだ」と指摘された。そして「いっぽうでカトリック系の家庭雑誌ではカトリックの立場にたって、敬虔なタッチで冒険物語を書きながら、同時に性的な描写を含み、不倫や不道徳に満ちた長編小説をカール・マイはたくさん書いていたのだ」と非難された。つまりマイは道徳的・文学的二重人格の持ち主である、というのだ。

この非難の根拠になっている不倫や不道徳な描写については、マイ自身は、「ミュンヒマイヤー社側が、販売効果を狙って、第三者に書き加えさせたものだ」と主張している。1880年代にマイが書いて同社に渡したオリジナル原稿を、同社はその後も公表していないので、この点は明らかではない。しかし『絵入りカール・マイ全集』を読んでも、そうした問題の箇所は量的に少なく、現代の視点から見れば全く無害なものである。それにもかかわらず、非カトリック陣営に属する保守主義者や国家主義者からも、誹謗中傷はやまなかった。

こうした各方面からの攻撃に対してカール・マイは沈黙していたわけではなく、盛んに防戦に努めていた。それは新聞への寄稿、新聞・雑誌への広告、パンフレットの配布、裁判関連の文書、数多くの名誉棄損の訴えなどを通じて行われたものであった。そしてそれらは一定の成果を上げ、マイを支持する賛成派の人々も少なくなかったのだ。彼らは革新派の社会民主党員、数多くの反体制派の人々、前衛の作家・芸術家たち、そしてカトリック伝統派の人たちであった。彼ら支持者たちは、言論発表の機会をマイにいろいろと与え続け、講演会なども用意した。

 名誉回復(1907年)

                                              雑誌『ドイツ人の家宝』

そうしたこともあって1907年には、カール・マイは多くの新聞雑誌に対して、おおむねその名誉を回復することができた。そしてその年の9月には、例の雑誌『ドイツ人の家宝』も、昔の同社の人気作家に再び接近してきたのである。その結果、1907年11月から、マイ最後の大長編小説「アルディスタンとジニスタン」が、その雑誌に掲載され始めた。それはマイが渾身の力を振り絞って取り組んだ大長編の物語で、後期作品の中でも最も代表的な作品といえるものとなった。そのころ彼は健康面でも元気を取り戻していたため、この大作の執筆にあたることができたのであった。

       北米旅行へ向かう船中にて。(左)マイ(右)後列右から2人目がマイ

そうした執筆の合間をぬうようにして1908年の晩夏に、マイは妻クラーラとともに、かねてからの北米旅行に出たのであった。9月5日「ブレーマー・ロイド社」の汽船でドイツを出発し、16日にニュー・ヨークに到着した。そこに一週間滞在した後、アルバーニ、バッファローを経てナイアガラの滝を見物した。その後カナダ側のクリントン・ハウスに宿泊した。そこからタスカロラ・インディアンの住む地域へ向かい、さらに五大湖周辺をトロント、デトロイト、モントリオールという具合に移動した。

10月5日には、マサチューセッツ州のローレンスで金持ちになって住んでいた旧友のペッファーコルンに再会した。そしてその町のドイツ系アメリカ人を前にして、講演を行った。それは「人間に関する三つの問題~我々は何者か? 我々はどこから来たのか? 我々はどこへ行くのか?」と題する講演であったが、大好評を博した。そのあとはローレンスを基地にして各地へ赴いたが、それらは主として休養を兼ねたものであった。そして11月にはボストン、ニュー・ヨークを経て大西洋を渡ってイギリスへ移動した。そこでは主としてロンドンで二週間を過ごしてから、マイ夫妻は12月初めに故郷の家に戻ったのである。

この二回目の海外旅行はオリエント大旅行のような、人生の転機を画すといった性質のものではなかった。またそれは広大なアメリカ合衆国のごく一部を動いたものに過ぎず、マイの作品の舞台になっている大西部にも行かなかったのである。それはすでに老境に入った人物の、息抜きの観光旅行であったのだ。

旅から戻ったマイは仕事を再開して、翌年の1909年6月には、雑誌に連載していた「アルディスタンとジニスタン」の最終原稿を書きあげた。そしてその夏、推敲の手を加えて、同年のクリスマスにはその作品は書物の形で刊行された。この著作は、童話的に場所と時間の制約のないユートピア風にして、人類の歴史を暴力から平和への発展としてとらえて、描いたものである。

そして1909年12月10日には南ドイツのアウクスブルクで、この作品に関連して、「人類の魂の故郷 シタラ」と題する講演を行った。地元の新聞によれば、会場は感激した聴衆であふれかえる大盛況で、隣接したカフェーまで人の群れでいっぱいになったという。その中にマイ作品の熱心な読者で、のちの大作家のブレヒトもいたと思われる。

 最晩年

この時期マイは再び大きな不幸に見舞われた。彼の最晩年を苦しめたのは、ルドルフ・レビウスという執念深い、ある種の政治ジャーナリストであった。はじめは社会民主党に属していたが、のちに転向して反社会民主主義、反ユダヤ主義、国家社会主義の立場に立つようになった人物である。雑誌編集者であった1904年春、この男はマイに接近してきて、かなりの額の借金を請求し、その見返りに支援を申し出た。その要求をマイは拒絶したが、その後もレビウスは半ば脅迫をちらつかせながら、要求を繰り返した。それに対してマイは法的手段に訴えて、その要求を退けることができた。

しかし執念深いこの人物は、その後マイと離婚してヴァイマルに一人寂しく住んでいたエマ・ポルマーを訪ねて、マイとの結婚生活や離婚した時の事情を探り出した。そしてさらにマイの故郷エルンストタールにも行って、その若き日の犯罪行為を調べ上げた。そしてその結果が出版物として公表された。そこではマイは「生まれながらの犯罪者」と呼ばれていた。それに対してマイは再び法的手段をとって、レビウスを名誉棄損で訴えた。ところが1910年4月に行われたベルリン・シャルロッテンブルクの裁判所での公判では、レビウスに無罪判決が下された。これはマイを犯罪者として公的に認めたことになり、マイは破滅的な衝撃を受けることになったのである。レビウスがまき散らした害毒は広くマスコミや世間に浸透し、いまや再びマイに対するかつての誹謗中傷の炎が燃え上がった。そのため彼の本の売れ行きのほうも、激減することになった。

こうした世間からの非難攻撃に対する弁明と反撃そして自己反省と自戒の書としてマイは、自伝『わが生涯と苦闘』を、それこそ最後の力を振り絞って書きあげ、これが1910年10月に刊行された。しかしこのころには心身ともに疲れ果てていたことが、自伝の中でも述べられている。「一年前から夜になると眠れなくなった。・・・そして絶えず激しい神経の痛みをを感ずるようになっている。・・・できることなら死んでしまいたいものだ。」そして1910年のクリスマスに肺炎に襲われ、1911年には病気と心身の衰えで仕事をすることができない状態になった。そのため医師の強い勧告を受けて、5月から6月にかけて妻のクラーラに伴われて、ラディウム療養のためにカールスバートに出かけ、その後さらに南チロルのホテルでのんびり過ごした。こうした長期療養のおかげで、その健康状態は一時的に回復した。

その年の12月初めマイは先のベルリン・シャルロッテンブルクの判決に対する控訴審手続きのための文書147ページを書きあげた。そしてその控訴審裁判がベルリン・モアビットの裁判所で、1911年12月18日に開かれた。レビウス側の検事が、マイの生き方は常軌を逸した奇行に満ちていると非難したのに対して、エーレッケ裁判長は次のように述べた。「しかし犯罪というものは、一人の作家によって作り上げられた奇抜な事柄などではないのだ。私はマイ氏を作家だと思っている」 この時マイは、この理解に満ちた裁判長によって救われたのであった。先の判決は取り消され、レビウスに対しては重度の侮辱罪によって罰金100マルクが課せられた。

 ウィーンでの最後の講演

このようにしてマイはその最晩年において、その名誉を回復することができたのであった。そして世間の風向きもマイに対して暖かいものに変わった。1912年2月1日には、ウィーン在住の作家ローベルト・ミュラーによるマイ擁護のエッセイが公表された。ウィーン文学・音楽アカデミーの責任者でもあったこの作家は、さらにマイに対して、その70歳の誕生記念にウィーンで講演してくれるよう依頼した。この講演依頼の目的は、マイの個人的・文学的名声を再び世の人々の前で明白に回復することであった。当時マイの体調は思わしくなく、医者からは長旅をしないよう勧告されていたが、それを振り切って彼はウィーンに向かったのである。

                        ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」

1912年2月22日、ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」の二千人以上にのぼる聴衆を前にして、マイは二時間以上にわたって(途中脱力状態の発作で短時間中断したが)話をしたのであった。その演題は「高貴な人間の住む天空に向かって」というものであった。このテーマはジニスタンへ向かって上昇しようと懸命に努力してきたマイ自身のことを表している。平和主義運動の担い手ベルタ・フォン・ズットナー女史もやってきて、事前にホテルでマイに会ってから、講演を聴いたのである。彼女の願いを入れて、マイはその講演の中で、最新作『人間の高貴な思想』からの引用もしている。「高貴な人間」という概念も彼女から借りたものであった。そこでは平和の理念が語られたほか、自らの人生の告解も行われた。

この講演は彼の公的人生の最後の成功を画するものとなった。ウィーンの新聞はこのことを詳しく報じた。「彼は歓呼の声で迎えられた。そして最後に、ぎごちなく、頼りなげに、そして明らかに驚いた感じで、みなへの感謝の言葉を述べた。拍手は十倍に強まった。少年たちが席から立ちあがって、彼らにヴィネトゥーをプレゼントしてくれた人物にあいさつした。講演が終わると、拍手は鳴りやまず、退場しようとしたマイの周りを人々が取り囲んだ。」
そうした人々の暖かいまなざしの中で、マイは感極まって「いつまでも変わらぬ心で私のことを!」と叫んだのである。

 ウィーンのカール・マイとクラーラ夫人。生前最後の写真(1912年3月20日)

そのあと3月の冷雨の中、風邪をひいて熱を帯びた体で、彼はラーデボイルの家へ戻った。しかし病床に就くことはなく、クラーラとの結婚記念日である3月30日には再び元気を取り戻したかに見えた。しばらくの間彼は静かに時を過ごし、半ば眠ったようにして、自分が作り出した人物たちと話をしていたという。そして夜の8時ごろ、カール・マイはただ一人妻のクラーラに付き添われて、息を引き取った。
「勝利だ! 大勝利だ! バラが・・・赤いバラだ」
これがその最後の言葉だった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(3)

その03 冒険作家として成功の頂点に(1887-1898)

<絵入り少年雑誌『よき仲間』への作品掲載>

1887年、カール・マイの人生に大きな転機が訪れた。それまでの13年間は、彼に社会復帰と作家生活への基盤をもたらすものであった。ところがこの後の13年間は、彼をドイツで最も成功した作家のひとりにし、彼に富と社会的栄光を与えたのであった。前述した雑誌『ドイツ人の家宝』への「世界冒険物語」の掲載を通じて、マイはすでに人気作家になっていたが、絵入り少年雑誌『よき仲間』とのつながりによって、彼の文学的成功はより確かなものになったのである。

1886年10月、彼はシュトゥットガルトの出版社主ヴィルヘルム・シュペーマンと出会った。この人物は当時、雑誌『よき仲間』の発行を、翌1887年1月から始めるべく準備していたが、この時マイの作品をそこに掲載することを強く望んだ。シュペーマンは青少年のために、教育的であると同時に彼らの心をしっかりとつかみ、彼らに大きな夢とファンタジーを与えるような物語を書いてくれるよう、マイに依頼したという。

元教師であったこの作家は青少年のためにそうした作品を書くことは、いわば自分に課せられた使命ではないかと考え、喜んで引き受けた。そのため、それ以降、ミュンヒマイヤー社の分冊販売小説の執筆を断ったのである。こうしてアメリカ西部を舞台にした「熊狩人の息子」が、1887年1月から9月まで『よき仲間』に掲載されていったのである。この作品は大成功をおさめ、雑誌の名声をも一挙に高めた。そのためシュペーマンはマイと継続的な契約を結び、それ以降1897年まで10年間にわたり、さらに7編の作品が掲載されていった。この一連の作品は質的に非常に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられている。そしてこれらは1890年以降、魅力的な挿絵を付けて順次、書物の形でも発行されていった。

「熊狩人の息子」他2篇の表紙)

またこの間にも『ドイツ人の家宝』には「世界冒険物語」のジャンルの作品が、引き続き掲載されていった。それによって文学的名声は上がっていったが、1880年代の終わりごろにはまだ、マイの財政状況はあまり良くなかった。なぜなら雑誌『ドイツ人の家宝』も『よき仲間』も、その原稿料は分冊販売小説に比べて低かったからだ。また作品執筆のためには、言語や地理や地誌などの研究を十分しなければならず、その表現にも慎重さが必要であった。そしてそのための時間もかかったわけである。

<個人全集の発行へ>

しかし1891年、マイに文学的名声のみならず、経済的な豊かさと社会的な地位の上昇をもたらす、大きな転機が訪れたのであった。マイはこのころ50歳になろうとしていた。『ドイツ人の家宝』などに掲載されていた「世界冒険物語」の中の、とりわけオリエント・シリーズを読んでとても感激した、若き出版社主フリードリヒ・フェーゼンフェルトは、この年の夏、マイあてに手紙を書き、それらの作品を書物の形にまとめて出版したいと申し出た。

個人全集の出版社主 フェーゼンフェルト)

全く未知の人物からの手紙に最初は戸惑ったマイであったが、やがて返事を出してその来訪を促した。その結果、フェーゼンフェルトは南西ドイツのフライブルクから東北ドイツのドレスデン近郊に住んでいたマイの住まいを訪れたのであった。そして二人の会見は順調に進み、1891年11月に出版契約が結ばれた。その第一条には次のように書かれている。「両署名者は、これまで『ドイツ人の家宝』及びその他の雑誌に掲載されているカール・マイ氏の冒険物語を、書物の形で出版することに合意した」

オリエント・シリーズの第2巻と第3巻

つまりマイの、世界を舞台にした冒険物語が、個人全集の形で発行されることになったわけである。そしてその最初のものとして中近東(オリエント)シリーズの六巻が、1892年のうちに刊行されていった。

マイは経済的に困った状況にあったため、フェーゼンフェルトに前借を頼んだが、この申し出は認められた。その後この最初の六巻が大成功をおさめたため、1892年には5、000マルクの報酬が入り、1895年と1896年にはその額は60、000マルクにも達したのであった。そしてフェーゼンフェルト社から発行された作品によって、マイは平均して年収30、000マルクを得ることになった。その上雑誌『ドイツ人の家宝』と『よき仲間』からの原稿料、カトリックの『マリア・カレンダー』に発表した短編の作品群その他から得た印税が加わった。かくしてカール・マイは、ようやくにして富に恵まれることになったのである。

<社交生活の始まり>

それまでは執筆などによる超多忙が原因で家に引きこもっていたマイであったが、このころから社会的な結びつきにも目を向けるようになった。1890年代の初めからマイ夫妻は、ドレスデン近郊のラーデボイル在住の包帯製造工場主リヒアルト・プレーン及びその夫人クラーラと親しく付き合うようになっていた。このクラーラ・プレーンは後にマイの第二の妻となったのである。

この二組の夫妻の関係は、とりわけ妻同士の心霊術への興味によって促進されていった。1895年、マイのかつての学友で、アメリカに住んでいた医師のペッファーコルンがマイ夫妻を訪問し、心霊術について詳しく教えた。そのためマイも、この教えに対して理論・実践両面で深入りしていったのである。ただ彼は晩年になって、心霊術からはっきりと距離を取るようになった。それでも彼の蔵書の中には70冊以上もこの関連の文献があったし、そのうちいくつかは彼の作品に取り入れられたのである。

1893年の最初の数か月は、最初から書物の形で刊行するために、「世界冒険物語」のジャンルの中でも傑作として評価されることになった『ヴィネトゥーⅠ』を書くことに費やされた。そして同年夏にはマイ夫妻はフェーゼンフェルトの家族とともに、スイスへ休暇旅行をしている。フェーゼンフェルト夫人が残した文章によると、このころのマイ夫妻の仲はよかったようだ。しかしマイは「しばしば気まぐれで、いらだちやすかった。・・・機嫌のいい時には、彼は親切でよくしゃべり、機知にとんだ社交家であった。・・・」
また1893年のマイの誕生日には、マイの自宅で「歌と踊りの夕べ」が開かれた。

1894年の春、マイは胸膜炎を患い、同時に目の病気にも悩まされた。そのため彼はハルツ地方へ療養に出かけたが、その年の末には体調が回復し、再び仕事に取り掛かることができるようになった。そのころマイは金があると、気前よく人にあげたりしていたので、妻のエマから叱られていた。

<豪邸を取得。ヴィラ・シャターハンド>

しかし収入は増えるばかりだったので、1895年には初めて自分の邸宅を購入することができるようになった。そのことは妻を大変喜ばせた。1895年12月30日、ドレスデン近郊の高級住宅街ラーデボイルに、37、300マルクで一軒の邸宅を購入したわけである。そして自分が作り出したアメリカ西部の英雄で、自分自身の分身でもあったシャターハンドにちなんで、その屋敷を「ヴィラ・シャターハンド」と名付けた。そして夫妻は翌年1896年1月14日にそこへ入居した。

マイの邸宅「ヴィラ・シャターハンド」

エマは、後年その時のことを思い出して、次のように書いている。「私たち二人は、人形部屋をもらった子供たちのように大喜びをしました。・・・そのころはまさにこの上なく幸せな、黄金時代でした」 マイはその後、隣接する土地を買い足して、熱心に庭づくりにいそしんだ。この「ヴィラ・シャターハンド」に、マイはその後1912年に亡くなるまで住み続けた。そして晩年の傑作はその家で書かれたのである。後年東独時代の1985年以降。この家はマイを記念する品々を展示した博物館になっている。

その後1899年までの歳月は、作品面で実りある時代であったばかりでなく、私生活の面でも最も幸せな時期であった。彼が長いこと望んでやまなかった社会的認知を、この時ようやく十二分に手にしたのであった。「世界冒険物語」の評判は、まったく申し分のないものであった。そのうえ、出版社主のフェーゼンフェルトは、ドイツ人司教からの推薦の言葉を、その全集の宣伝に用いることができたのである。

ヴィラ・シャターハンド」は、数多くの読者や崇拝者の訪問を受け、マイとしてもその応接にいとまがないほどであった。そうした様子についてマイは1896年、『ドイツ人の家宝』に寄せた「売れっ子作家の喜びと悩み」という文章の中で、感激の気持ちと、距離を置いた冷めた観察の間を揺れ動きながら報告している。1896年から1899年の間の4年間で、その作品はそれぞれ年間あたり10万部が印刷された。そして書物の形での全発行部数は、1899年には72万2千部に達したのである。当時としては、大変な数字と言えよう。

<マイ、虚構の世界の主人公に!>

今やマイは、広い世界にも飛び出していった。しかもそれは常にきわめて奇抜なやり方を取ったのである。その際「オールド・シャターハンド伝説」なるものを作り出したわけである。それはアメリカ西部を舞台にした冒険物語の主人公であるオールド・シャターハンドは、自分自身であるとの主張であった。そしてそこで語られている冒険の数々は、自ら体験したものである、とも彼は付け加えた。

彼は1874年以降、完全に社会復帰することができたのであるが、その風変わりな性格のため、良識ある市民として日常生活を過ごしていくことは無理であった。そのため自分が書いた作品の中の虚構(夢)の世界で、自分を限りなく展開させる道を選んだのである。その際、彼の作品を特徴づける善悪のはっきりした区別は、自らを教育するのにも役に立った。

そして虚構と現実との境界線を消し去ろうとする傾向は、今や彼の実生活の中に織り込まれていった。すでに1892年以来、その物語の中で、オールド・シャターハンド及びカラ・ベン・ネムジ(オリエント・シリーズの主人公)は、作者カール・マイの変名なのであるということを、常に明らかにしていた。
1894年ごろから彼は読者宛の数えきれない手紙の中で、次のように書いている。「そう、私はすべてを体験してきたのです。私には今でも、そのころ受けた傷跡が残っています。」彼はそうしたことを、驚くほど詳細に飾り立てるすべを知っていた。たとえば1874年9月2日に、インディアンの若き酋長ヴィネトゥーが死ぬ間際に緊急洗礼を施したとか、すでにアメリカには20回以上行ったことがあるとか、自分は40もの外国語を知っている、といったたぐいのことである。

そして1896年には、オールド・シャターハンドとカラ・ベン・ネムジの衣装を身に着けて、写真を撮らせて全世界に向けて売り出したのである。さらにその書斎を、数多くの野獣の毛皮やはく製のライオン、鹿の角から様々な猟銃やライフル銃、アラビアの水煙管やペルシア製のジュータンなどで、いっぱいに飾り立てた。

珍奇な品々で飾り立てたマイの書斎

<読者やファンとの直接交流>

1897年マイは夫人とともに、5月10日から7月15日まで、ドイツ各地を訪ね回って、彼の読者や崇拝者と直接コンタクトをとった。まず北ドイツのハンブルクで、あるコーヒー店夫妻と会い、次いで南ドイツのダーデスハイムでブドウ園主家族の客となった。さらにシュトゥットガルトとティロルに立ち寄ってから、ミュンヘンにたどり着いた。
そこでは「ホテル・トレフラー」に泊まったが、三日間の滞在中に600人から800人の訪問者や新聞記者などと会い、彼らに信じられないような話を聞かせたのである。たとえば、今少し前にメッカから帰ってきたところで、その年の秋にはアパッチ族のもとで3万5千人の部隊を指揮する予定であり、翌年にはアラビア人の召使いハレフに再会することになっている、などとまことしやかに語って聞かせたという。まさに「講談師、見てきたような嘘を言い」を、地で行く見事な役者ぶりだといえよう。

翌年1898年には、マイは高貴な人々との交際を重ねることができた。2月22日、ウィーンでオーストリア皇帝陛下、大公夫人マリー・テレーゼをはじめとする皇室のお歴々などから手厚くもてなされた。そうした貴族たちの中にあって、マイは臆することなく振る舞い、彼の物語の人気者アパッチの若き酋長ヴィネトゥーの人生から、まだ一般に知られていないエピソードの数々を話して聞かせたのである。
その後マイは2月27日から病気になったが、やがて回復して、今度はリンツ経由でミュンヘンへ行き、バイエルン王室から心からのもてなしを受けた。そこのヴィルトルード王女とは以後、晩年にいたるまで手紙のやり取りが続いたという。そしてそれに続く3日間は、ミュンヘンのカール・マイ・クラブの会員との会合に出席した。そこでもヴィネトゥーの死について、涙ながらに話して、拍手喝さいを浴びた。

この1898年には、そのほかドイツ語圏の各地を行ったり来たりして、結構忙しく動き回っていた。しかしそうした旅の間にも、執筆活動を中止したわけではなかった。かつてのような大量生産はしていないが、1896年から1899年の間、いくつかの作品を執筆した。それらは質の点では以前のものを上回るようになっていた。心理的、宗教的にみて深さを追求していたし、物語の構成や言語表現の点でもずっと進化していたのだ。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(2)

その02 作家としての活動

第1節 職業人としての出発~雑誌編集者兼作家(1874-1878)~

<ミュンヒマイヤー社に就職>

1874年5月、カール・マイは両親の家に帰った。その後しばらくの間は定職がなかったが、1875年になって事情は大きく変わった。同年3月初め、すでに以前からの知り合いであったドレスデンの出版者ミュンヒマイヤーはマイのところにやってきて、同社の雑誌の編集者になってほしいという申し出を行った。もちろんマイはそれに同意したが、年収600ターラーということで、それまで無収入であった状態から見れば、願ってもないことだったわけである。

カール・マイは、ミュンヒマイヤー社で発行されていた4種類の雑誌つまり『エルベ河の監視人』、『ドイツ家庭雑誌』、『立坑と精錬所』および『鉱山労働者、精錬工、機械工のための教養娯楽雑誌』の編集の仕事に携わることになったのだ。そしてそれらの雑誌の予約購読を取り付けるために、ルール工業地帯のエッセン市にあった当時の大企業クルップ社やベルリン市のボルジッヒ社を訪ねて、営業の仕事もしていた。

雑誌編集者としてのカール・マイ。1875年

<作家としての活動も始める>

これらの雑誌の編集の仕事に携わる傍ら、マイは自らの作品も発表するようになった。それらの内容は、故郷の村や外国を舞台にしたものであった。その最初の小説「エルンストタールのバラ」は、ドレスデンで発行されていた雑誌『ドイツ短編小説の花』に掲載された(1875年4月)。

いっぽうマイは、雑誌にポピュラーサイエンスの記事も書いていた。1848年の革命が挫折した後、ドイツでは1850年代から、鉄道などの交通手段が発達し、出版物の輸送が楽になり、同時に法的な規制が以前に比べて緩やかになっていた。そうした状況の中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになっていた。革命前後の騒然とした政治の季節は、すでにすぎ去っていたのである。

それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。これらはおおむね週間発行で、あらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに掲載されていたポピュラー・サイエンスの記事は、誰にでも理解できる平易なものであった。19世紀のこの種の雑誌は、当時ヨーロッパにおいて急速に発達していた科学技術について、貪欲に知りたいという一般読者の要望を満たす、いわば教科書の役割をも果たそうとしていたのであった。

一方そこに掲載されていた連載小説は、宣伝価値がある有名な作家たちに、出版社が依頼して書いてもらっていたものである。これらの作家にとって、この種の家庭向けの雑誌にオリジナルな作品を発表することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。むしろ狭い範囲の同人雑誌に掲載するよりも、広くその名を知ってもらえたし、同時に経済的な恩恵も得られたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、F・ラーベなど、当時の一流作家が名を連ねていたのだが、そこへ新進のカール・マイも加わっていったのだ。明治末から大正期にかけて、夏目漱石が『朝日新聞』にその作品を掲載していったのと、事情は同じだといえよう。

<エマ・ポルマーと婚約>

カール・マイはミュンヒマイヤー社の仕事の傍ら、ほかの出版社の雑誌に短編作品を送って、掲載してもらったわけである。それでも社主のミュンヒマイヤーは、マイの編集者としての積極的な仕事ぶりに満足していた。ところが出版社の業務に大きな影響力を与えていたミュンヒマイヤー夫人は、マイを同社の仕事にいつまでも結び付けておくという魂胆のもとに、自分の妹をマイと結婚させようとした。

マイの婚約者エマ・ポルマー

しかし当時すでにマイはエマ・ポルマーという若い女性と親しく付き合っていて、結婚も考えていた。そのためマイはミュンヒマイヤー夫人の申し出を断り、同時に同社での編集者としての仕事を辞める決断をした。それは1877年2月のことであった。彼女は1856年生まれで、当時21歳、マイよりも14歳若かった。早くから両親のもとを離れ、隣町のホーエンシュタイン在住の祖父の手で育てられていた。二人は相愛の仲であったが、祖父の反対で、すぐには結婚できなかった。ポルマー氏はマイの文学的業績を評価し、その前科も気にしていなかったが、彼の経済的能力に不安を感じて、結婚に反対したという。マイは編集者の仕事を辞めたために、定収入がなくなり、結婚して彼女を養っていくことが難しくなっていたわけである。そのためマイとしてもその結婚は、しばらくの間引き伸ばさざるを得なかった。

<この時期の作家活動>

再びこの時期の作家活動に目を向けると、新たにいくつかの出版社に働きかけて、その作品を発表していた。その一つがブレスラウのトレーヴェント社で、同社が発行していた『トレーヴェンツ民衆カレンダー』という出版物に、彼の作品を掲載してもらったのだ。民衆カレンダーというのは、昔からドイツに暦の形で存在していたもので、いろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物であった。そしてこれはとりわけ地方の村や町に出回っていた。

18世紀には啓蒙主義者たちが、この伝統的な民衆カレンダーに内容を徐々に改善することに、成功していた。そして19世紀の後半になってもなお、勢いを保っていたのだ。そこには読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話そして冒険物語などが掲載されていた。同様にして、フレミング社の民衆カレンダーにも、マイはユーモア小説二編を掲載してもらっている。

<オリエントを舞台とした最初の物語>

このころマイは、オーストリアの詩人・作家で月刊誌『故郷の庭』を発行していたペーター・ローゼッカーのもとにも原稿を送っている。ローゼッガーは未知の作家から送られてきた原稿を採択する前に、知り合いの大学教授に次のように、問い合わせをしている。「先ほど私はドレスデンの編集者カール・マイ氏から、『カヒラのバラ、エジプトでの冒険物語』という作品を受け取りました。この話は大変才気に満ち、手に汗を握るものです。一方で私はこれを歓迎するものですが、他方はたしてこれがオリジナルなものか、疑念もあります。教授殿、もしかしてカール・マイという名前をお聞きになられたことがあるか、またどんな雑誌の編集をしているのか、ご存知でしょうか?
その書き方から見て、長いことオリエントで生活していた、経験豊かな人物のように思えるのですが」(ロ-ベルト・ハマーリングにあてた1877年7月12日付けの手紙)。こうした経緯はあったが、マイが書いたこの作品は結局採択され、雑誌に掲載されることになった。

<再び、雑誌編集者に>

このようにいろいろな雑誌にその作品を掲載してもらってはいたが、定収入がなくなったため、マイは経済的にかなり苦しい状況に陥っていた。まだこの段階では、フリーの作家として自立してはいけなかったのだ。そんな時、ドレスデンの出版者ブルーノ・ラデリーのもとで、彼は編集者のポストを得ることとなった。1878年のことであった。
同社が発行していた娯楽雑誌『楽しい日々』の編集に携わったわけであるが、この雑誌にもマイは12編の小説を掲載することができた。その中には外国を舞台にした短編8編と、最初の長編『海上で捕われて』が含まれていた。この長編小説は、アメリカの西部を舞台にしたインディアン物語であった。

雑誌『楽しい日々』掲載のマイの長編「海上で捕われて」

こうしてマイは才能豊かな新進作家として次々と新作を発表していったが、その名声も徐々にではあるが、上がっていった。とはいえ、この段階では、「生活の糧」を得るために、まずは稼がねばならなかったのである。

そして収入が増えたことによって、彼はドレスデン市内に家具付きの住まいを借りることになり、婚約者のエマ・ポルマーをそこに迎えることになった。この時マイは、エマを自分の妻として公表している。しかしやがてエマは一人で住んでいる祖父の面倒を見るために、ホーエンシュタインに戻ることになり、マイはその隣町であるエルンストタールの両親の家に再び、住むことになった。
しかしラデリー社での編集者としての仕事は長続きせず、1878年末には同社を辞め、その後はフリーの作家として、筆一本で生活していくことになったのである。

第2節 フリーの作家となる(1879年以降)

<マイ最初の単行本の刊行>

フリーの作家として自立していく覚悟を決めたカール・マイは、それまで以上に熱心に作品執筆に取り組んでいくことになる。新たな出発のきっかけは、シュトゥットガルトの出版者ゲルツ・リューリングとの結びつきの中で生まれた。同社で発行されていた絵入り家庭向け雑誌『世のすべての人に』に、マイが書いた二編の長編小説「王笏と槌」および「宝島」が、1879年8月から1882年4月にかけて連載されたのである。

さらに同社を買い取ったノイゲバウアー社からは、1879年11月に、マイ最初の単行本『遥かなる西部』が刊行されている。これはすでに1875年に『ドイツ家庭雑誌』に掲載されたものに手を加えたものであった。この作品の中には、のちに彼が好んで書いていった「インディアンもの」の若き主人公ヴィネトゥーが、すでに登場している。この名前はマイが生み出した作品の中で最も代表的なものとして、今なお作家マイの分身のように扱われている。

<人気週刊誌『ドイツ人の家宝』への連載の開始>

このころ人気作家としての前兆を示していたマイは、そのほかいくつかの出版社とも作品発表の契約を結んでいた。なかでも南独レーゲンスブルクのカトリック系の出版社プステット社が発行していた人気週刊誌『ドイツ人の家宝』に、その作品が掲載されることになったことが、注目される。この雑誌は、北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して1874年に創刊されたものであった。

人気週刊誌『ドイツ人の家宝』の表紙

1879年3月、彼はこの雑誌掲載の件で、プステット社と契約を結んだ。そこで彼はアメリカ西部を舞台とした冒険小説を提供していくことになった。それは彼がかねてから計画していた、遥かなる世界を舞台とした冒険物語の一つであった。そして第二作以降、マイが書いた原稿は同誌に継続的に掲載されることになった。こうしてマイ作品の最も代表的なジャンルである「世界冒険物語」に属する作品の数々が、雑誌『ドイツ人の家宝』に次々と発表されていったわけである。ただそれらの中の多くは習作というか初期作品の色合いが濃いものであって、のちに書き直されていった。

しかし1881年から1882年にかけて発表された、中近東一帯を舞台にした「オリエントもの」三部作は、大変優れたものであったし、マイが作り出した独特の叙事詩のジャンルともいうべき「世界冒険物語」の特徴をすでに持ったものでもあった。この雑誌とマイとの関係は、わずかな中断期間を除いて、1897年まで続き、さらに1907~8年に復活している。

<妻との関係のその後>

それはさておき、ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。彼は1879年以降、故郷の町で暮らしていた。エマ・ポルマーとの関係は続いていたが、二人の間に当時すでに緊張がなくはなかった。何しろマイは休みなく、馬車馬のように仕事を続けていたため、退屈したエマは社交生活で憂さ晴らしをしていたが、そのことでマイに不興や嫉妬心を起こさせていた。そのため1879年の4月には両者の間に衝突が起こったが、それは一時的なものにとどまった。

そして翌1880年5月にエマの祖父が亡くなった後、ようやく二人は同年8月17日に、エルンストタールの町役場に結婚届を提出した。次いで9月12日にホーエンシュタインの聖クリストフォリ教会で、アルヴィル牧師の立会いの下で、結婚式が執り行われた。そしてその後3年間、二人はホーエンシュタインの町で一緒に暮らした。

カール・マイとエマ夫人

この時期マイは人気作家になってはいたが、そのころの雑誌の原稿料だけでは二人の生活を十分に賄うのは、無理であったといわれる。1881年当時のマイの年収は1500マルクほどであったが、これはミュンヒマイヤー社での雑誌編集者としての年俸より少なかった。当時二人は田舎町で質素な暮らしを続けるよりも、大都会のドレスデンへ引っ越ししたいと思っていたようだ。そのためにはもっと多くの収入が必要だったわけである。

<分冊販売小説での経済的成功>

そのような時期の1882年の晩夏、マイは妻のエマとともに一週間の休暇を取って、ドレスデンへ出かけた。そしてその地のレストランで、以前マイが雑誌の編集者をしていた出版社の社長ミュンヒマイヤーに再会した。その後同社は「分冊販売小説」の発行元として、大いに発展していた。これは長編の大衆小説を、薄い小冊子の形に分冊して、ごく短い間隔でどんどん発行し、読者の手元に届けるというものであった。一冊の値段が安く、一回の分量が少ないため、資力のない人々にも、手軽に読めたのである。

ミュンヒマイヤー社はこの分野で有力な出版社ではあったのだが、同業者との競争が激しく、当時苦境に陥っていたのであった。そのためもあって、ミュンヒマイヤーは旧知のマイに、分冊販売の形で作品を書いてくれるよう懇願した。これは高収入をもたらす仕事であったので、妻のエマは大いに乗り気になり、夫に引き受けるよう促した。マイはいろいろ考えたが、結局その執筆依頼を承諾した。

その小冊子は毎週の発行で、一回当たり24ページ、およそ100回分を予定していた。一回の発行部数は2万部で、原稿料は一回当たり35マルクであった。そして全部発行された後には、一巻が2400ページという大長編小説になるが、作品の著作権はマイに帰属することと、特別賞与が支給されることも約束された。ただこれらは、出版契約書に記されず、口約束であったため、のちに問題を引き起こすことになる。

もう一点は、締め切りの時間が短いため、推敲する暇がなく、どうしても冗長でぞんざい、装飾過多な文章になりがちであった。そのため雑誌『ドイツ人の家宝』に掲載し始めた作品によって獲得するようになっていた文学的名声を傷つける恐れがあった。そこでマイとしては、本名ではなくて、ペンネームを用いることにしたのであった。

かくしてカール・マイは1882年11月から、『森のバラ、または地の果てまでの追跡」という小説を発表し始めた。これはメキシコで起きたある悲劇を基にした冒険活劇もので、1884年まで109回続き、大八つ折判で2612ページにも達する大長編になった。この作品は大成功をおさめ、数多くの海賊版や翻訳本も出回ったりしたという。

分冊販売小説『森のバラ』の表紙

ペンネームを用いたのだが、作品の内容面ではマイには、自分の思うとおりに書くという自由が与えられていた。そのためもあってか、この作品執筆にあたって、作話術の巧みさや職人芸のさえも存分に発揮していた。後年カール・マイはドイツの文学界において、偉大なるストーリー・テラーと呼ばれるようになったが、その兆候はすでにこのころから現れていたのだ。

この成功に気をよくした出版社側は、一回当たりの原稿料を50マルクに引き上げた。マイもそれに応じて、その後4年半の間に、さらに4編の大長編を次々に発表していった。

これらの仕事を通じて、マイは年収5000~6000マルクを得ることになったが、これはそれ以前の三倍に達した。これによって当時の大学卒の高級官僚の年俸に匹敵する年収をマイは手に入れることになったわけである。それによって派手な社交生活や贅沢な暮らしを求めていた妻のエマを満足させることができたのであった。

その反面マイ自身は、寝ても覚めても原稿執筆という生活を強いられ、この間、ほかの事をしたり、ほかの人々と交際したりすることは、ほとんど不可能だったようだ。その上ミュンヒマイヤーの度重なる訪問や、妻が暇つぶしに自宅に招いた客たちによって、仕事をしばしば妨害されたりした。エマは夫の文学作品には興味も理解も示していなかった。そのことに不満を感じながらも、マイとしては、ますま執筆にのめりこむほかなかったようだ。

<母の死によって受けた衝撃>

しかしこの時期にマイを襲った大きな出来事は、母親の死であった。1885年4月15日、母クリスティアーネ・ヴィルヘルム・マイは、68歳でこの世を去った。それによってマイは途方もない衝撃を受けたのであった。それまでほとんど母親のことをかえりみる暇もなく、自分の好きなことばかりをしてきた、という悔悟の念に、この時マイはさいなまれたようだ。

後にエマと離婚したあと迎えた第二の妻クラーラは、マイの死後次のような文章を明らかにした。
「彼の母親がその腕の中で死んだとき、彼は彼女の遺体を晩方から明け方まで、抱き続けていた。・・・母親の墓は通常より二倍の深さに掘られた。彼は母親の傍らに埋葬されたいと願っていたのであろう」

この時以来、マイの男性的な英雄の理想像の中に、母性原理が少しづつ入り込んで行って、やがて晩年になってその作品の中に、平和主義と神秘主義が見られるようになったといわれる。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(1)

その01 作家になるまで

第1節 幼年時代から少年時代まで(1842-1856)

<貧しい家庭>

カール・フリードリヒ・マイ(Karl Friedrich May)は、1842年2月25日、東部ドイツ・ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールにおいて誕生した。彼の父親ハインリヒ・アウグスト・マイは貧しい織物職人であったが、1836年5月にクリスチアーネ・ヴァイゼと結婚した。二人の間には全部で14人の子供(男6人、女8人)が生まれたが、そのうち9人は2歳までに死亡していた。幼児死亡の高さの原因は、一家の経済的貧しさに基づく不十分な栄養及び医療と衛生状態の劣悪さにあったという。息子たちのうちで生き延びたのは、5番目のカール・マイだけであった。

カール・マイ生誕の家

当時のドイツは王政復古期の、安定はしていたが、自由が抑圧されていた時代であった。一方ドイツの産業革命は、鉄道の建設を基軸として、1840年代以降急速に展開していた。そして機械制工業の誕生によって、工場労働者という新しい社会層を生み出していたが、彼らがおかれた状況は悲惨なものであった。マイが生まれた町エルンストタールは、まさにこうした貧窮にあえぐ機織りの町であり、マイの父親はその町の哀れな織物工だったのだ。

幼いカールは栄養失調などが原因で、4歳のころまで失明の状態にあったが、ドレスデンの医者のもとで目の手術が行われ、1846年3月にカールの視力は回復した。そして70歳で亡くなるまで、マイはその健康を維持することができた。

とはいえ当時のザクセン地方の織物職人の純収入は、生存の最低線を何とか支える程度だったという。こうしたその日の食事にも事欠くほどの経済的窮境は、幼いカールの心に、現実の背後にある「より良き世界」への切実な願望を植え付けたようだ。

<童話の祖母の影響を受ける>

そうしたファンタジーの世界へ彼を導いたのが、祖母のクレッチュマーであった。マイはその自伝の中で次のように述べている。「私は一日中、両親のもとではなくて、祖母のもとにいた。彼女は私の父親であり、母親であり、また教育者でもあった。私が視力を失っていた間は、私の太陽であり、光であったのだ。彼女は教育は受けていなかったが、天性の詩人でもあった」

この祖母は幼いカールに、童話や伝説、説話の類をいろいろ話して聞かせ、それが幼児の心の奥に、深く刻印されたのであろう。そして視力を回復したカールは、すでに5歳の時に、祖母から聞いていた童話を、近所の子供たちの前で話して聞かせていたという。そして皆から拍手喝采を浴びていた、と当時の学校友達が、のちに証言しているのだ。

母親についてはマイの筆は奇妙に沈黙を守っているが、子沢山の貧しい一家を切り盛りしていた母親は、一家の成員を飢えから守っていくだけで、せいいっぱいだったようだ。その代りを果たしていた祖母に9歳のとき連れて行かれた巡回の人形劇について、マイは自伝の中で感激の筆致で語っている。「入場料は二人で15ペニヒだった。外題は『ミュラーのばら、またはイエナの戦い』であった。私の目は輝いた。そして内心が燃えた。人形、人形、人形! 彼らは私の目には生きていた。そして彼らは話をしたのだ」

そのあとカールは祖母から人形劇の仕組みについて説明を受け、興味をさらに増した。そして親にせがんで、『ファウスト博士または神、人間、悪魔』と題された人形劇も見に行っている。これはゲーテの作品ではなくて、昔から伝わっていた民衆劇であった。そこで演じられた民衆の苦難からの救いの叫び声に、共感したことも自伝に書かれている。そしてさらに巡回の田舎芝居が演じたジプシーを主題にした『プレツィオーザ』という作品では、父親から頼まれて宣伝役として舞台の脇で、太鼓をたたいて人集めをしたことも、自慢げに書かれているのだ。

<父親から受けた早期教育>

国民学校ではカールは学業もよくでき、成績もよかった。そして自ら知的な職業に憧れていながら、その希望を果たせなかった父親は、その夢をただ一人幼児期を生き延びたカール少年に託したのであった。この少年が当時知的好奇心の萌芽を見せていたことを知って、父親は未来への希望を膨らませたわけである。

宗教上の立場では、マイの両親はルター派のプロテスタントだったため、カールもルター派の洗礼と、14歳の時には堅信礼を受けている。そして教会では早くから聖歌隊員になっている。そんな関係から、教会の音楽指揮者の下で、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンなどを次々に習わされていった。また子供には内容が理解できないような難しいテキストを、大量に書き取ることもやらされた。さらに語学の才能も見込まれて、教会音楽のテキストを読むために、ラテン語を学ばされたほか、英語とフランス語の習得も強制されたのであった。こうした早期教育を施されたため、学校時代のカールは、ほかの子供たちと一緒に遊んだり、付き合ったりする時間がほとんどなかったという。

その代りにのちに作家になるには良いことであったのだが、父親の指導によって、さまざまな種類の読み物を、次々と乱読していく習慣が身に着いたという。はじめは童話、薬草本、父祖伝来の注釈つきの絵入り聖書、次いで過去や現代の各種教科書や父親が集めてきたさまざまな種類の本であった。さらに完本の聖書を、はじめから終わりまで、繰り返し読んだことが自伝に書かれている。

<塾通いの費用をアルバイトで稼ぐ>

しかし家庭に経済的な余裕がなかったため、塾通いの費用は子供のカールがアルバイトをして稼ぎ出さねばならなかった。その仕事として選ばれたのが、近くの九柱戯場(ドイツに古くからあるボーリング場に似た遊技場)で、倒れたピンをもとのように並べる仕事だった。ただこの九柱戯場は、飲食の設備を備えた男の遊び場だった。つまり居酒屋が経営する庶民のための娯楽施設ないし社交場だったのだ。

ドイツの学校は、授業は午前中だけだったので、カール少年は午後から夜遅くまで、日曜日も午前の教会ミサが終わってから、そこで仕事をしていたという。とりわけ月曜日には近隣の地域から町に立つ市場に人々が集まってきたので、九柱戯場もにぎわった。しかし人々がプレーをしたり、飲食をしたりするときに交わされる会話は、学校や教会や家庭では聞くことがない、下卑た、汚濁に満ちたもので、少年の心には耐えられないような苦しみを与えたという。

もう一つマイが恥を忍んで告白していることは、そこに置かれていたいわゆる「俗悪本」のことである。これらは九柱戯場にやってくる一般の庶民からは愛好されていたが、当時のドイツの教育関係者や教会関係者あるいは教養人からは、低俗本として非難されていたものだった。それらの貸本を、カール少年は、仕事のないときにはその場で読んだり、あるいは家に持ち帰ったりすることができたのだ。そのため彼はそれらの本を夢中になって読みふけったばかりでなく、家族やよその人の前でも朗読していたというのだ。それらは盗賊騎士や幽霊屋敷の住人あるいは殺人犯や死刑執行人や義賊に関する物語であった。

<国民学校を卒業>

1856年、14歳の年、カール・マイは国民学校を卒業することになった。しかしその日が近づくにつれ、将来の進路を決めることが、彼自身にとっても、また父親やその他の家族にとっても、切実な問題となってきた。織物職人という父親の職業を受け継ぐ気持ちは、カール少年にはなかったし、またその能力もなかった。そして息子に早期教育をたたきこんできた父親としても、もっと社会的地位が高く、尊敬されるような職業へと息子が進むことを望んでいた。マイは自伝の中で、自分はギムナジウム(九年制の中・高等学校)から大学へと進学することを切望していた、と書いている。しかしそれを許すような経済的余裕はマイの一家にはなかったわけである。そこで一家としては、経済的な負担がより軽い師範学校へと進ませ、その後学校の教師になる道を選ばざるを得ないことになった。

第2節 師範学校生と教師の時代(1856-1862)

<抑圧的な師範学校>

当時のザクセン王国における師範学校の教育は、1848年の三月革命の挫折後に生まれた政治的反動の時代の主導理念を、まさに反映したものであった。悪名高い1854年のプロイセンの学校条例が、このザクセン王国でも取り入れられていたのだ。

カール・マイは1856年9月、ザクセン王国のヴァルデンブルク師範学校に入学した。この学校では革命の再発を防ぐために、自由や民主主義は上から抑圧され、教師や生徒に対して厳しい規律と詰め込み教育ばかりが強制されていた。元来、自由を求める性向を強く持っていたマイは、この学校のやり方に耐えられず、教師に反抗するようになった。そして余暇には作曲をしたり、文章を書いたりしていた。そして16歳の時、インディアン物語の原稿を、当時の有名な家庭向け雑誌「あずまや」に送ったが、雑誌の発行人から丁重な断りの手紙とともに送り返された。

そして1859年、17歳の時、クリスマスを前にして、貧しい家族を喜ばせようとして、寄宿舎にあったローソク六本を盗んだことが発覚して、マイはヴァルデンブルク師範学校から追放されることになった。ところが幸いにして、ザクセン王国の文部省のとりなしで、同王国内のプラウエン師範学校に移ることができた。この師範学校では、最初の学校に比べて、かなり自由が認められていた。そしてプラウエンの町にある感じの良い、評判のレストラン「トンネル・レストラン・アンデルス」に行くことが、生徒たちに許されていた。マイは自伝に次のように書いている。「プラウエンは私にとってとても大事な存在になっていた。アンデルスのガラス張りのサロンで、私は素晴らしいビールを飲み、最上のオムレツ付き豚肉料理を食べることができたのだ。それにフォークトランド風団子が添えられていて、何たる美味か!」それまであまり美味いものにありつけなかった貧しい青年にとって、その料理は最高の贅沢であったのだろう。

<教師の時代>    

1861年9月、マイは19歳で師範学校を卒業し、教師になるための試験に優秀な成績で合格した。そしてグラウヒャウの貧民学校の代用教員になった。そして64人の児童に対する授業を受け持つことになった。給料は年に175ターラーと定められていた。ところがその勤務はわずか12日間しか続かなかった。下宿先の主人から、その夫人(19歳)に対する不倫を訴えられて、解雇されてしまったのだ。
しかしその直後に、アルトケムニッツの紡績工場付属学校の教師として採用された。その工場では10歳から14歳の間の児童が働かされていて、その合間に付属学校の授業を受けていたのだ。

ところがこの学校でも、マイの勤務は長続きしなかった。今回は同じ年のクリスマスのころ、懐中時計窃盗の科で、6週間の禁固刑を受けることになったのだ。工場経営者は付属学校との契約に従って、マイに住まいを提供したのだが、経営者の部下の簿記係が使っていた部屋を、マイと共同で使用するように決めた。そのため簿記係はそのことに不満を感じ、マイとの間に感情のもつれが生じ、トラブルにまで発展したのだ。

ある時この簿記係は新しい懐中時計を買ったので、古いのをマイにも授業の際に使わせることにした。ただし授業が終わったら返すようにとの条件を付けた。クリスマスの日、マイは授業にその時計を持って行ったが、返却するのを忘れて、家に帰ってしまった。簿記係はその行為を窃盗とみなして、警察に届け出て、マイは警察に連行され、6週間の禁固刑を受けたというわけである。そしてこれ以後、学校の教師への道は絶たれ、父親は息子の前途を悲観して、嘆き悲しんだという。

第3節 フリーター、詐欺師そして服役者(1862-1874)

<フリーターとしての活動>

1862年10月下旬、カール・マイは釈放されたが、その前途には何の見通しもなかった。しかし当面の糊口をしのぐために、家庭教師として語学や音楽を教えたり、朗読の仕事や合唱団の一員としての仕事をしたり、あるいは作曲をしたり、物書きをしたりしていたという。
また1862年12月、20歳の時マイは徴兵検査を受けたが、近眼のために「不合格」になった。1863年1月25日、3月8日そして3月25日には、彼は故郷の町の「音楽と朗読の夕べ」という催しに、朗読者として出演している。また1863年4月及び7月には、故郷の教会が主催した夕食会に出席している。作曲の腕前はなかなかのものだったようで、個人的な楽譜は数枚残っているが、公表されてはいない。
物書きの仕事もすでに行っていたようだが、それらの原稿は残っていない。とはいえ、のちに作家として活動を始めた初期の時代(1875年)に書いた「ユーモア小説」や「エールツゲビルゲの村の物語」などの構想は、すでにそのころ練られていたらしい。

<精神分裂症にかかり、詐欺行為も>

このような活発な知的、精神的活動の傍ら、その気持ちのほうは暗く、沈んでいて、精神分裂症にかかった状態にあったようだ。師範学校生と教師の時代に、国家当局から受けた虐待が、依然として彼の心に重くのしかかっていたのだ。精神錯乱から、夜中に突然ベッドから飛び起きて、雨や雪の降りしきる路上を走り回ったという。
そして国家当局への復讐の気持ちが心の中で高まっていったようだ。その結果、虚言癖に強く彩られた自我は、どんどんその強度を強め、ついには刑法に触れるところにまで達してしまった。

1864年7月、22歳のマイは、医学博士の名前をかたって5着の服の仕立てを注文して、受け取ってから、後で支払うといったきり姿をくらましてしまった。
ついでマイは同年12月に、師範学校教師ローゼとしてケムニッツ市に現れた。そして勤め先の校長からの委託だと称して、毛皮の服と襟とを、宿泊先のホテルに届けさせた。その後、彼は隣室にいる病気の校長に見せるからと言って店員から品物を受け取り、そのまま姿をくらましたという。

しかし第三の試みではマイの悪運も尽きたようだ。1865年3月20日、ライプツィヒ市にヘルミンと称する楽譜彫刻師が現れ、宿泊用の部屋を借り、毛皮加工職人の店でビーバーの毛皮を買った。ちなみにヘルミンは、ギリシア神話の商人兼盗人の守護神ヘルメスのことなのだ。今回は毛皮を受け取った後、事情を知らない人間を通じてその毛皮を質屋に移させた。しかしこの不審な行動に気が付いた店員が、警察に通報して、質屋に現れたこの人物は、つかまってしまった。そして本名を告白して、以前に行った詐欺行為のことも自白したという。

<厚生施設での服役とその後>

そして1865年6月にライプツィヒ地方裁判所において、マイは三件の詐欺行為によって、4年1か月の更生施設行きを言い渡された。その結果ツヴィッカウの更生施設に収監されたのである。
そこは収監された人を社会復帰させる施設だったので、それぞれの個性に対応したやり方がとられていた。マイははじめ財布と煙草入れを作る仕事に従事させられた。しかしマイを観察していた監視人の推薦で、1867年からはトロンボーン奏者及び教会音楽歌手として施設内で活動することや、作曲をすることが許された。さらに1867年末には、更生施設所長の特別書記に任命された。つまりツヴィッカウ管内における刑執行に関する統計面と文書作成面での助手になったのだ。

ツヴィッカウの更生施設

そして施設内の図書館(四千冊を超す蔵書を備えていた)の仕事も任され、自らもそこの書物を自由に読むことができるようになった。こうした状況の中で、カール・マイは、将来作家としてやっていくための計画を、大いに促進させることができるようになった。
家族がたくさんいる自宅にいるよりは、この厚生施設のほうが、はるかによく勉強できたのである。彼がその頃書き記した文学上の執筆計画書が、その遺稿の中から発見されている。それによると、彼が書こうとしていたジャンルは、オリエントを舞台とした物語、アメリカ・インディアンに関連した物語そして故郷の村を舞台とした物語の三つであったことが分かる。

以上のべたように、マイにとってこの施設で過ごした歳月は、いわゆる「娑婆」で詐欺師として放浪していた時よりも、ずっと恵まれていたわけである。そして施設内での模範的な態度が認められて、元来の刑期より八か月早く、1868年11月2日に釈放されたのであった。

しかし久しぶりに家に帰って分かったことは、マイの服役中の1865年に、最愛の「童話の祖母」が亡くなっていたことであった。その文学計画を伝えて、夢を語り合いたいと思っていた、その肝心の相手の死は、彼にどれほど大きな衝撃を与えたことか!

またマイがその後再開した文学面での活動から得た収入は、家計を支えるにはあまりに僅かなものであった。そして前科者のマイに対して近隣の人々から、敵意に満ちた冷たい視線が向けられた。こうして再びマイは、精神錯乱状態に陥ることになった。あてどなく森や野原をさまよい、ある時は放火の罪を着せられたこともあった。更生施設でせっかく獲得した再生への道は、冷たい「世間」の風にあたって、再び崩壊してしまったのだ。

1869年4月までは彼は両親の家に住んでいたが、その間しばしば家を留守にしていた。文学関連の用事で何度もドレスデンに行っていたほか、当時の恋人であった女性に会うために、ラッシャウという所へ出掛けていた。

しかし間もなく再びマイは、悪の道へとさ迷いこんでいった。つまりその後一年あまりにわたって彼は、詐欺や窃盗、偽造などの軽犯罪を数回繰り返した。そのたびに言い逃れをしたりしてごまかしていたが、故郷を離れ遠くへ行きたいと思うようになっていた。そんな時、商売と観光を兼ねてザクセン地方に滞在していたアメリカ人バートン父子と知り合った。そしてその人物から息子の家庭教師としてアメリカに来てくれないかと頼まれた。

これに関連してマイは両親あてに1869年4月20日付けの手紙で、次のように書いている。「・・・私は旅に出ます。人々は私のことを忘れ、許してくれるでしょう。そして私は前途有望な新しい人間になって、再び帰ってきます・・・」
しかしこのアメリカ行きは、旅券関連の障害があって実現せず、4月末には再びザクセン地方に現れている。

<再び刑務所へ。そして再生して社会に出る>

そして結局1870年1月に警察に逮捕され、窃盗、詐欺、偽造その他及び前科が考慮されて、4年の刑が言い渡された。その結果彼は、1870年5月3日から1874年5月2日まで、ライプツィヒ管区のヴァルトハイム刑務所で服役することになった。刑務所内の生活及び労働条件は、極めて厳しかった。労働時間は一日最低13時間で、他人と話をしてはいけないという沈黙規定もあった。その上マイは最下等の懲戒クラスに入れられ、逃亡の危険性と乱暴狼藉、反抗気質のゆえに、最初の一年ほどは独房に隔離された。また労働として、葉巻つくりの作業に従事させられた。

ヴァルトハイム刑務所内の教会

いっぽうヴァルトハイム刑務所の中には、教会の施設があった。そして服役者の更生のために、教会専属の聖職者がいた。そうしたうちの一人でカトリックの教理教師であったヨハネス・コホタという人物がいたが、この聖職者によってマイは、初期のもろもろの困難を克服して、次第にその精神も平穏になっていった。この清廉で高潔な聖職者は、マイとの会話の中で十分な理解を示して、その心をつかんでいったのである。そして刑の軽減を図ってくれ、懲戒クラスからの引き上げもしてくれた。

この人物についてマイは自伝の中で、次のように書いている。「カトリックの教理教師の名をコホタといった。彼はアカデミックな背景を持たない、ただの教師だった。しかしいかなる点から見ても高潔な人物で、人間味あふれ、しかも教育者として、あるいは人の心理を見抜くことにかけては、豊富な経験を積んでいた。・・・彼は私をプロテスタント信者として扱い、私にオルガンを弾くことを許可してくれたのである」

やがて刑務所内での彼の評判は高まり、ここでも図書館の管理の仕事に従事することができた。そのおかげで彼は図書館の書物を自由に読むことができるようになったのである。この点についてマイは自伝の中で次のように書いている。
「何ものにも邪魔されない孤独と豊かな資料のおかげで、私ははるかに先に進むことができた。・・・そして以前から準備していた小説の執筆計画を完成させ、実行に移すことになった。私は原稿を書き、書きあがるとそれを家に送った。両親は私と出版社との間を仲介してくれた」
カール・マイという極めてユニークで、毛色の変わった人物は、刑務所を書斎代わりにして、その作家活動を始めたわけである。

そしてやがて4年の歳月が流れ、刑期を終えた32歳のマイは、1874年5月初め、ヴァルトハイム刑務所を出ることになった。その時、看守のミュラーは冗談交じりにマイに対して、次のように言ったという。「なあ君、いつまた私たちはここで会えるのかね?」それに対してマイは極めて真面目な顔つきで、その手を看守の肩にかけ、相手の目をじっと見つめて、ゆっくり一語、一語区切ってこう答えた。「看守殿、私にここで会うことは、二度とないでしょう」と。


ドイツの冒険作家 カール・マイ(05)

その05 冒険物語の足跡をたどって(3)

今回は「冒険物語の足跡をたどって」の3回目で、トルコのヨーロッパ側にある古都エディルネをとりあげる。この町は現在、ギリシアとブルガリアとの国境すぐ近くに位置している。しかしオスマン帝国の時代、1361年に征服してから1453年にイスタンブールに移るまでの約90年間、帝国の二番目の首都として栄えた所である。

トルコのエディルネ旅行(2018年5月)

カール・マイの冒険物語では、第7巻『ブルガリア南部にて』の中の第1章「エディルネにて」が、物語の舞台となっている。
マイは、第1章の冒頭で次のように書いている。

<物語の叙述>

「トルコ人がエディルネと称しているアドリアノープルは、イスタンブールに次いで重要なオスマン帝国の古都である。この町に、ムラト一世からメフメト二世に至るまでのスルタンが宮廷を置いていたが、このメフメト二世が一四五三年に、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、そこに首都を移したわけである。これがイスタンブールなのであるが、その後も多くのスルタン、とりわけメフメト四世などは、好んで古都エディルネに滞在したものである。

この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集する真っただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に二五Oの窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ。

我々はキルク・キサリからやって来たのだが、はるか遠くからセリミエ・ジャーミイの尖塔が見えていた。このエディルネの町は、遠くから見ていると華麗な姿を示しているが、トルコの他のどの都会と同様に、町に入った途端に、その美しさは失われるのだ。」

物語の主人公カラ・ベン・ネムジは、盗賊団の一味を追跡して、仲間とともにイスタンブールを離れ、このエディルネにたどり着いたわけである。そしてダマスカスの宝石商アファラー及びイスタンブールの若き商人イスラの案内で、アファラーの兄の大商人フラムの大邸宅に入る。その後、次のような叙述が続いている。(10ページ)

「我々が探し求めていたフラムは、ムラド二世のモスクであるユチュ・シェリフェリ・ジャーミイの近くに住んでいた。我々は美しい大理石を敷き詰めたテラス状の前庭を進んでいった。七十本の柱で支えられた二十四の小丸屋根は、スミルナ攻略の際に略奪されたヨハネ騎士団の宝物をもとにして建てられたものである。
我々は賑やかな街路を通って、三階建の家の前にたどり着いた。この家に、我々は世話になることになっていたのだ。」

この後、フラムの大邸宅の内部の描写になる。(11ページ)

「イスラはヤクブ・アファラーとともに、主人の書斎へと向かった。・・・・我々は小さなホールほどもある部屋へ案内された。その前面は柱で支えられた広間になっており、三方の壁面には青地に金色でコーランの言葉が書かれていた。我々は、緑色のビロード製の長椅子に腰を下ろした。めいめいに水煙管(みずぎせる)と銀製の三脚つきカップに入れたコーヒーが出された。それだけでも、この家の豊かさが分かるというものである」

そしていよいよこの家の主人が現れた。

「祝福のしるしに両手を上げながら、主人はあいさつした。
『わが家にようこそお出でくださった。ここはまた、あなた方の家でもあります』
フラムは、我々一人ひとりにあいさつして回ってから、二人の親類とともに腰を下ろした。

『あなたのことは、私がよく知っていることを、おそらくあなたはご存じないでしょうな、先生?』と、主人は私に向かって言った。
『イスラが、あなたのことをよく話してくれましてな。あれは、あなたのことが好きなのじゃ。それで、まだ会わないうちから、あなたは私の心を占めていたのです。』

こうした挨拶の後、追跡している悪党が、名前と身分を偽って、フラム宅の居候になっていることが判明した。そしてその悪党バルード・エル・アマサトは、主人の厳しい尋問と追及の結果、正体を現し、つかまってしまう。その後、この町の顔役であるフラムは、この悪党を町の裁判所で裁判にかける手続きを取ることになった。
それに続く場面を、次に引用する。(22ページ)

「トルコの裁判所の判決は、あまり時間をかけずに出るのがふつうであった。そこで我々は判決が下されるまで、この地で待つことにした。そのため我々には、エディルネを見物する時間が生まれたのである。
翌朝、我々はセリムとムラドのモスクそしてトルコの神学校を見学した。それから有名なアリ・パシャのバザールも訪れた。そして最後に、町のそばを流れているトゥンジャ川の船くだりを楽しんだ。」

<私の旅行記の記述>

ブログの「04 冒険物語の足跡をたどって(2)」の中で、私は、2018年5月に参加した「山田寅次郎が愛したイスタンブルを訪ねる」と称する山田寅次郎研究会の記念ツアーについての旅行記(イスタンブール旅行)から、数か所引用した。
今回も同じ旅行記の中から、エディルネに関する部分を、次に引用することにする。

「5月18日(金)曇りのち晴れ
今日はトルコ滞在最後の日だ。午前6時前起床。6時半朝食。7時半、ホテルのロビーに全員集合。荷物をバスに乗せ、イスタンブールを離れ、北西部のブルガリアとギリシア国境近くの古都エディルネへ向かう。そこはイスタンブールに移る前、およそ90年間、オスマン帝国の二番目の首都だったところだ。
バスははじめマルマラ海に沿って、緑の多い田園地帯を走った。約3時間の道のりで、途中トイレ休憩などを取りながら、10時半ごろエディルネの町に到着。町のシンボルともいうべき世界遺産のセリミエ・モスクへ向かう。

壮麗なセリミエ・モスク

この町には私は特別強い関心を抱いていて、ぜひ訪れたいと思っていたので、今回のツアーの行程の中に組み込まれていたことは、何と言ってもありがたかった。私が翻訳してきた「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」の第7巻『ブルガリア南部にて』の冒頭に、エディルネが登場するので、少し引用する。
(この引用部分は、今回のブログの<物語の叙述>の中でも引用しているが、この町の叙景部分だけを次に引用する)

「この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集するまっただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には、高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に250の窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ」

セリミエ・モスクの内部ホール

カール・マイがこの作品を書いたのは、19世紀後半のことであるが、それから百数十年の歳月を経た今日でも、モスクのたたずまいは全く変わりがないといえよう。ただこのモスクの周辺一帯は、観光客を乗せた車であふれかえっていて、我々を乗せたバスも駐車場を探すのに、一苦労であった。世界遺産に指定されているこの大建造物は、ミマール・スィナンが80歳の時に注文を受け、6年の歳月の後、1575年に完成した。
今朝イスタンブールを離れた時は曇天であったが、エディルネでは快晴になっていて、強い日差しの中を一行はバスを降りて、人ごみの中を抜けて建物の中に入った。そして靴を脱ぎ、女性はスカーフのようなものをかぶり、広々とした空間の中央で腰を下ろし、ガイドのフーリエさんの詳しい解説に、一同耳を傾けた。
スィナンはこの建物を自らの最高傑作と言い続けたそうだが、その言葉からは、老建築家が晩年になってその完成に心血を注いだ情熱のほどが、ひしひしと伝わってきた。スィナンは16世紀という時代において、実に98歳という長寿に恵まれたという。90歳の北斎をも凌駕しているのだ。モスクの外の広場の一角に、この建築家の黒色の銅像が目に入った。

ミマール・スィナンの銅像

次いで一行を乗せたバスは町の南へと移動し、物語の中にも描かれているトゥンジャ川の畔にあるトルコ料理店<ハネダン・エディルネ>へ向かい、そこで一同昼食をとった。川の向こうのかなり離れたところにセリミエ・モスクが見えている。この川にはゴミが浮かび、川自体狭く、汚れている。一般の民家や商店、道路などを含めた街並みは、観光用のモスクなどの壮麗な建造物と比べて、一段と見劣りしているといわざるを得ない。
カール・マイが物語の中でまさに指摘している通りだ。

トルコ料理店「ハネダン」