ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(03)

その03 冒険作家として成功の頂点に(1887-1898)

<絵入り少年雑誌『よき仲間』への作品掲載>

1887年、カール・マイの人生に大きな転機が訪れた。それまでの13年間は、彼に社会復帰と作家生活への基盤をもたらすものであった。ところがこの後の13年間は、彼をドイツで最も成功した作家のひとりにし、彼に富と社会的栄光を与えたのであった。前述した雑誌『ドイツ人の家宝』への「世界冒険物語」の掲載を通じて、マイはすでに人気作家になっていたが、絵入り少年雑誌『よき仲間』とのつながりによって、彼の文学的成功はより確かなものになったのである。

1886年10月、彼はシュトゥットガルトの出版社主ヴィルヘルム・シュペーマンと出会った。この人物は当時、雑誌『よき仲間』の発行を、翌1887年1月から始めるべく準備していたが、この時マイの作品をそこに掲載することを強く望んだ。シュペーマンは青少年のために、教育的であると同時に彼らの心をしっかりとつかみ、彼らに大きな夢とファンタジーを与えるような物語を書いてくれるよう、マイに依頼したという。

元教師であったこの作家は青少年のためにそうした作品を書くことは、いわば自分に課せられた使命ではないかと考え、喜んで引き受けた。そのため、それ以降、ミュンヒマイヤー社の分冊販売小説の執筆を断ったのである。こうしてアメリカ西部を舞台にした「熊狩人の息子」が、1887年1月から9月まで『よき仲間』に掲載されていったのである。この作品は大成功をおさめ、雑誌の名声をも一挙に高めた。そのためシュペーマンはマイと継続的な契約を結び、それ以降1897年まで10年間にわたり、さらに7編の作品が掲載されていった。この一連の作品は質的に非常に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられている。そしてこれらは1890年以降、魅力的な挿絵を付けて順次、書物の形でも発行されていった。

「熊狩人の息子」他2篇の表紙)

またこの間にも『ドイツ人の家宝』には「世界冒険物語」のジャンルの作品が、引き続き掲載されていった。それによって文学的名声は上がっていったが、1880年代の終わりごろにはまだ、マイの財政状況はあまり良くなかった。なぜなら雑誌『ドイツ人の家宝』も『よき仲間』も、その原稿料は分冊販売小説に比べて低かったからだ。また作品執筆のためには、言語や地理や地誌などの研究を十分しなければならず、その表現にも慎重さが必要であった。そしてそのための時間もかかったわけである。

<個人全集の発行へ>

しかし1891年、マイに文学的名声のみならず、経済的な豊かさと社会的な地位の上昇をもたらす、大きな転機が訪れたのであった。マイはこのころ50歳になろうとしていた。『ドイツ人の家宝』などに掲載されていた「世界冒険物語」の中の、とりわけオリエント・シリーズを読んでとても感激した、若き出版社主フリードリヒ・フェーゼンフェルトは、この年の夏、マイあてに手紙を書き、それらの作品を書物の形にまとめて出版したいと申し出た。

個人全集の出版社主 フェーゼンフェルト)

全く未知の人物からの手紙に最初は戸惑ったマイであったが、やがて返事を出してその来訪を促した。その結果、フェーゼンフェルトは南西ドイツのフライブルクから東北ドイツのドレスデン近郊に住んでいたマイの住まいを訪れたのであった。そして二人の会見は順調に進み、1891年11月に出版契約が結ばれた。その第一条には次のように書かれている。「両署名者は、これまで『ドイツ人の家宝』及びその他の雑誌に掲載されているカール・マイ氏の冒険物語を、書物の形で出版することに合意した」

オリエント・シリーズの第2巻と第3巻

つまりマイの、世界を舞台にした冒険物語が、個人全集の形で発行されることになったわけである。そしてその最初のものとして中近東(オリエント)シリーズの六巻が、1892年のうちに刊行されていった。

マイは経済的に困った状況にあったため、フェーゼンフェルトに前借を頼んだが、この申し出は認められた。その後この最初の六巻が大成功をおさめたため、1892年には5、000マルクの報酬が入り、1895年と1896年にはその額は60、000マルクにも達したのであった。そしてフェーゼンフェルト社から発行された作品によって、マイは平均して年収30、000マルクを得ることになった。その上雑誌『ドイツ人の家宝』と『よき仲間』からの原稿料、カトリックの『マリア・カレンダー』に発表した短編の作品群その他から得た印税が加わった。かくしてカール・マイは、ようやくにして富に恵まれることになったのである。

<社交生活の始まり>

それまでは執筆などによる超多忙が原因で家に引きこもっていたマイであったが、このころから社会的な結びつきにも目を向けるようになった。1890年代の初めからマイ夫妻は、ドレスデン近郊のラーデボイル在住の包帯製造工場主リヒアルト・プレーン及びその夫人クラーラと親しく付き合うようになっていた。このクラーラ・プレーンは後にマイの第二の妻となったのである。

この二組の夫妻の関係は、とりわけ妻同士の心霊術への興味によって促進されていった。1895年、マイのかつての学友で、アメリカに住んでいた医師のペッファーコルンがマイ夫妻を訪問し、心霊術について詳しく教えた。そのためマイも、この教えに対して理論・実践両面で深入りしていったのである。ただ彼は晩年になって、心霊術からはっきりと距離を取るようになった。それでも彼の蔵書の中には70冊以上もこの関連の文献があったし、そのうちいくつかは彼の作品に取り入れられたのである。

1893年の最初の数か月は、最初から書物の形で刊行するために、「世界冒険物語」のジャンルの中でも傑作として評価されることになった『ヴィネトゥーⅠ』を書くことに費やされた。そして同年夏にはマイ夫妻はフェーゼンフェルトの家族とともに、スイスへ休暇旅行をしている。フェーゼンフェルト夫人が残した文章によると、このころのマイ夫妻の仲はよかったようだ。しかしマイは「しばしば気まぐれで、いらだちやすかった。・・・機嫌のいい時には、彼は親切でよくしゃべり、機知にとんだ社交家であった。・・・」
また1893年のマイの誕生日には、マイの自宅で「歌と踊りの夕べ」が開かれた。

1894年の春、マイは胸膜炎を患い、同時に目の病気にも悩まされた。そのため彼はハルツ地方へ療養に出かけたが、その年の末には体調が回復し、再び仕事に取り掛かることができるようになった。そのころマイは金があると、気前よく人にあげたりしていたので、妻のエマから叱られていた。

<豪邸を取得。ヴィラ・シャターハンド>

しかし収入は増えるばかりだったので、1895年には初めて自分の邸宅を購入することができるようになった。そのことは妻を大変喜ばせた。1895年12月30日、ドレスデン近郊の高級住宅街ラーデボイルに、37、300マルクで一軒の邸宅を購入したわけである。そして自分が作り出したアメリカ西部の英雄で、自分自身の分身でもあったシャターハンドにちなんで、その屋敷を「ヴィラ・シャターハンド」と名付けた。そして夫妻は翌年1896年1月14日にそこへ入居した。

マイの邸宅「ヴィラ・シャターハンド」

エマは、後年その時のことを思い出して、次のように書いている。「私たち二人は、人形部屋をもらった子供たちのように大喜びをしました。・・・そのころはまさにこの上なく幸せな、黄金時代でした」 マイはその後、隣接する土地を買い足して、熱心に庭づくりにいそしんだ。この「ヴィラ・シャターハンド」に、マイはその後1912年に亡くなるまで住み続けた。そして晩年の傑作はその家で書かれたのである。後年東独時代の1985年以降。この家はマイを記念する品々を展示した博物館になっている。

その後1899年までの歳月は、作品面で実りある時代であったばかりでなく、私生活の面でも最も幸せな時期であった。彼が長いこと望んでやまなかった社会的認知を、この時ようやく十二分に手にしたのであった。「世界冒険物語」の評判は、まったく申し分のないものであった。そのうえ、出版社主のフェーゼンフェルトは、ドイツ人司教からの推薦の言葉を、その全集の宣伝に用いることができたのである。

ヴィラ・シャターハンド」は、数多くの読者や崇拝者の訪問を受け、マイとしてもその応接にいとまがないほどであった。そうした様子についてマイは1896年、『ドイツ人の家宝』に寄せた「売れっ子作家の喜びと悩み」という文章の中で、感激の気持ちと、距離を置いた冷めた観察の間を揺れ動きながら報告している。1896年から1899年の間の4年間で、その作品はそれぞれ年間あたり10万部が印刷された。そして書物の形での全発行部数は、1899年には72万2千部に達したのである。当時としては、大変な数字と言えよう。

<マイ、虚構の世界の主人公に!>

今やマイは、広い世界にも飛び出していった。しかもそれは常にきわめて奇抜なやり方を取ったのである。その際「オールド・シャターハンド伝説」なるものを作り出したわけである。それはアメリカ西部を舞台にした冒険物語の主人公であるオールド・シャターハンドは、自分自身であるとの主張であった。そしてそこで語られている冒険の数々は、自ら体験したものである、とも彼は付け加えた。

彼は1874年以降、完全に社会復帰することができたのであるが、その風変わりな性格のため、良識ある市民として日常生活を過ごしていくことは無理であった。そのため自分が書いた作品の中の虚構(夢)の世界で、自分を限りなく展開させる道を選んだのである。その際、彼の作品を特徴づける善悪のはっきりした区別は、自らを教育するのにも役に立った。

そして虚構と現実との境界線を消し去ろうとする傾向は、今や彼の実生活の中に織り込まれていった。すでに1892年以来、その物語の中で、オールド・シャターハンド及びカラ・ベン・ネムジ(オリエント・シリーズの主人公)は、作者カール・マイの変名なのであるということを、常に明らかにしていた。
1894年ごろから彼は読者宛の数えきれない手紙の中で、次のように書いている。「そう、私はすべてを体験してきたのです。私には今でも、そのころ受けた傷跡が残っています。」彼はそうしたことを、驚くほど詳細に飾り立てるすべを知っていた。たとえば1874年9月2日に、インディアンの若き酋長ヴィネトゥーが死ぬ間際に緊急洗礼を施したとか、すでにアメリカには20回以上行ったことがあるとか、自分は40もの外国語を知っている、といったたぐいのことである。

そして1896年には、オールド・シャターハンドとカラ・ベン・ネムジの衣装を身に着けて、写真を撮らせて全世界に向けて売り出したのである。さらにその書斎を、数多くの野獣の毛皮やはく製のライオン、鹿の角から様々な猟銃やライフル銃、アラビアの水煙管やペルシア製のジュータンなどで、いっぱいに飾り立てた。

珍奇な品々で飾り立てたマイの書斎

<読者やファンとの直接交流>

1897年マイは夫人とともに、5月10日から7月15日まで、ドイツ各地を訪ね回って、彼の読者や崇拝者と直接コンタクトをとった。まず北ドイツのハンブルクで、あるコーヒー店夫妻と会い、次いで南ドイツのダーデスハイムでブドウ園主家族の客となった。さらにシュトゥットガルトとティロルに立ち寄ってから、ミュンヘンにたどり着いた。
そこでは「ホテル・トレフラー」に泊まったが、三日間の滞在中に600人から800人の訪問者や新聞記者などと会い、彼らに信じられないような話を聞かせたのである。たとえば、今少し前にメッカから帰ってきたところで、その年の秋にはアパッチ族のもとで3万5千人の部隊を指揮する予定であり、翌年にはアラビア人の召使いハレフに再会することになっている、などとまことしやかに語って聞かせたという。まさに「講談師、見てきたような嘘を言い」を、地で行く見事な役者ぶりだといえよう。

翌年1898年には、マイは高貴な人々との交際を重ねることができた。2月22日、ウィーンでオーストリア皇帝陛下、大公夫人マリー・テレーゼをはじめとする皇室のお歴々などから手厚くもてなされた。そうした貴族たちの中にあって、マイは臆することなく振る舞い、彼の物語の人気者アパッチの若き酋長ヴィネトゥーの人生から、まだ一般に知られていないエピソードの数々を話して聞かせたのである。
その後マイは2月27日から病気になったが、やがて回復して、今度はリンツ経由でミュンヘンへ行き、バイエルン王室から心からのもてなしを受けた。そこのヴィルトルード王女とは以後、晩年にいたるまで手紙のやり取りが続いたという。そしてそれに続く3日間は、ミュンヘンのカール・マイ・クラブの会員との会合に出席した。そこでもヴィネトゥーの死について、涙ながらに話して、拍手喝さいを浴びた。

この1898年には、そのほかドイツ語圏の各地を行ったり来たりして、結構忙しく動き回っていた。しかしそうした旅の間にも、執筆活動を中止したわけではなかった。かつてのような大量生産はしていないが、1896年から1899年の間、いくつかの作品を執筆した。それらは質の点では以前のものを上回るようになっていた。心理的、宗教的にみて深さを追求していたし、物語の構成や言語表現の点でもずっと進化していたのだ。