ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(1)

その01 作家になるまで

第1節 幼年時代から少年時代まで(1842-1856)

<貧しい家庭>

カール・フリードリヒ・マイ(Karl Friedrich May)は、1842年2月25日、東部ドイツ・ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールにおいて誕生した。彼の父親ハインリヒ・アウグスト・マイは貧しい織物職人であったが、1836年5月にクリスチアーネ・ヴァイゼと結婚した。二人の間には全部で14人の子供(男6人、女8人)が生まれたが、そのうち9人は2歳までに死亡していた。幼児死亡の高さの原因は、一家の経済的貧しさに基づく不十分な栄養及び医療と衛生状態の劣悪さにあったという。息子たちのうちで生き延びたのは、5番目のカール・マイだけであった。

カール・マイ生誕の家

当時のドイツは王政復古期の、安定はしていたが、自由が抑圧されていた時代であった。一方ドイツの産業革命は、鉄道の建設を基軸として、1840年代以降急速に展開していた。そして機械制工業の誕生によって、工場労働者という新しい社会層を生み出していたが、彼らがおかれた状況は悲惨なものであった。マイが生まれた町エルンストタールは、まさにこうした貧窮にあえぐ機織りの町であり、マイの父親はその町の哀れな織物工だったのだ。

幼いカールは栄養失調などが原因で、4歳のころまで失明の状態にあったが、ドレスデンの医者のもとで目の手術が行われ、1846年3月にカールの視力は回復した。そして70歳で亡くなるまで、マイはその健康を維持することができた。

とはいえ当時のザクセン地方の織物職人の純収入は、生存の最低線を何とか支える程度だったという。こうしたその日の食事にも事欠くほどの経済的窮境は、幼いカールの心に、現実の背後にある「より良き世界」への切実な願望を植え付けたようだ。

<童話の祖母の影響を受ける>

そうしたファンタジーの世界へ彼を導いたのが、祖母のクレッチュマーであった。マイはその自伝の中で次のように述べている。「私は一日中、両親のもとではなくて、祖母のもとにいた。彼女は私の父親であり、母親であり、また教育者でもあった。私が視力を失っていた間は、私の太陽であり、光であったのだ。彼女は教育は受けていなかったが、天性の詩人でもあった」

この祖母は幼いカールに、童話や伝説、説話の類をいろいろ話して聞かせ、それが幼児の心の奥に、深く刻印されたのであろう。そして視力を回復したカールは、すでに5歳の時に、祖母から聞いていた童話を、近所の子供たちの前で話して聞かせていたという。そして皆から拍手喝采を浴びていた、と当時の学校友達が、のちに証言しているのだ。

母親についてはマイの筆は奇妙に沈黙を守っているが、子沢山の貧しい一家を切り盛りしていた母親は、一家の成員を飢えから守っていくだけで、せいいっぱいだったようだ。その代りを果たしていた祖母に9歳のとき連れて行かれた巡回の人形劇について、マイは自伝の中で感激の筆致で語っている。「入場料は二人で15ペニヒだった。外題は『ミュラーのばら、またはイエナの戦い』であった。私の目は輝いた。そして内心が燃えた。人形、人形、人形! 彼らは私の目には生きていた。そして彼らは話をしたのだ」

そのあとカールは祖母から人形劇の仕組みについて説明を受け、興味をさらに増した。そして親にせがんで、『ファウスト博士または神、人間、悪魔』と題された人形劇も見に行っている。これはゲーテの作品ではなくて、昔から伝わっていた民衆劇であった。そこで演じられた民衆の苦難からの救いの叫び声に、共感したことも自伝に書かれている。そしてさらに巡回の田舎芝居が演じたジプシーを主題にした『プレツィオーザ』という作品では、父親から頼まれて宣伝役として舞台の脇で、太鼓をたたいて人集めをしたことも、自慢げに書かれているのだ。

<父親から受けた早期教育>

国民学校ではカールは学業もよくでき、成績もよかった。そして自ら知的な職業に憧れていながら、その希望を果たせなかった父親は、その夢をただ一人幼児期を生き延びたカール少年に託したのであった。この少年が当時知的好奇心の萌芽を見せていたことを知って、父親は未来への希望を膨らませたわけである。

宗教上の立場では、マイの両親はルター派のプロテスタントだったため、カールもルター派の洗礼と、14歳の時には堅信礼を受けている。そして教会では早くから聖歌隊員になっている。そんな関係から、教会の音楽指揮者の下で、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンなどを次々に習わされていった。また子供には内容が理解できないような難しいテキストを、大量に書き取ることもやらされた。さらに語学の才能も見込まれて、教会音楽のテキストを読むために、ラテン語を学ばされたほか、英語とフランス語の習得も強制されたのであった。こうした早期教育を施されたため、学校時代のカールは、ほかの子供たちと一緒に遊んだり、付き合ったりする時間がほとんどなかったという。

その代りにのちに作家になるには良いことであったのだが、父親の指導によって、さまざまな種類の読み物を、次々と乱読していく習慣が身に着いたという。はじめは童話、薬草本、父祖伝来の注釈つきの絵入り聖書、次いで過去や現代の各種教科書や父親が集めてきたさまざまな種類の本であった。さらに完本の聖書を、はじめから終わりまで、繰り返し読んだことが自伝に書かれている。

<塾通いの費用をアルバイトで稼ぐ>

しかし家庭に経済的な余裕がなかったため、塾通いの費用は子供のカールがアルバイトをして稼ぎ出さねばならなかった。その仕事として選ばれたのが、近くの九柱戯場(ドイツに古くからあるボーリング場に似た遊技場)で、倒れたピンをもとのように並べる仕事だった。ただこの九柱戯場は、飲食の設備を備えた男の遊び場だった。つまり居酒屋が経営する庶民のための娯楽施設ないし社交場だったのだ。

ドイツの学校は、授業は午前中だけだったので、カール少年は午後から夜遅くまで、日曜日も午前の教会ミサが終わってから、そこで仕事をしていたという。とりわけ月曜日には近隣の地域から町に立つ市場に人々が集まってきたので、九柱戯場もにぎわった。しかし人々がプレーをしたり、飲食をしたりするときに交わされる会話は、学校や教会や家庭では聞くことがない、下卑た、汚濁に満ちたもので、少年の心には耐えられないような苦しみを与えたという。

もう一つマイが恥を忍んで告白していることは、そこに置かれていたいわゆる「俗悪本」のことである。これらは九柱戯場にやってくる一般の庶民からは愛好されていたが、当時のドイツの教育関係者や教会関係者あるいは教養人からは、低俗本として非難されていたものだった。それらの貸本を、カール少年は、仕事のないときにはその場で読んだり、あるいは家に持ち帰ったりすることができたのだ。そのため彼はそれらの本を夢中になって読みふけったばかりでなく、家族やよその人の前でも朗読していたというのだ。それらは盗賊騎士や幽霊屋敷の住人あるいは殺人犯や死刑執行人や義賊に関する物語であった。

<国民学校を卒業>

1856年、14歳の年、カール・マイは国民学校を卒業することになった。しかしその日が近づくにつれ、将来の進路を決めることが、彼自身にとっても、また父親やその他の家族にとっても、切実な問題となってきた。織物職人という父親の職業を受け継ぐ気持ちは、カール少年にはなかったし、またその能力もなかった。そして息子に早期教育をたたきこんできた父親としても、もっと社会的地位が高く、尊敬されるような職業へと息子が進むことを望んでいた。マイは自伝の中で、自分はギムナジウム(九年制の中・高等学校)から大学へと進学することを切望していた、と書いている。しかしそれを許すような経済的余裕はマイの一家にはなかったわけである。そこで一家としては、経済的な負担がより軽い師範学校へと進ませ、その後学校の教師になる道を選ばざるを得ないことになった。

第2節 師範学校生と教師の時代(1856-1862)

<抑圧的な師範学校>

当時のザクセン王国における師範学校の教育は、1848年の三月革命の挫折後に生まれた政治的反動の時代の主導理念を、まさに反映したものであった。悪名高い1854年のプロイセンの学校条例が、このザクセン王国でも取り入れられていたのだ。

カール・マイは1856年9月、ザクセン王国のヴァルデンブルク師範学校に入学した。この学校では革命の再発を防ぐために、自由や民主主義は上から抑圧され、教師や生徒に対して厳しい規律と詰め込み教育ばかりが強制されていた。元来、自由を求める性向を強く持っていたマイは、この学校のやり方に耐えられず、教師に反抗するようになった。そして余暇には作曲をしたり、文章を書いたりしていた。そして16歳の時、インディアン物語の原稿を、当時の有名な家庭向け雑誌「あずまや」に送ったが、雑誌の発行人から丁重な断りの手紙とともに送り返された。

そして1859年、17歳の時、クリスマスを前にして、貧しい家族を喜ばせようとして、寄宿舎にあったローソク六本を盗んだことが発覚して、マイはヴァルデンブルク師範学校から追放されることになった。ところが幸いにして、ザクセン王国の文部省のとりなしで、同王国内のプラウエン師範学校に移ることができた。この師範学校では、最初の学校に比べて、かなり自由が認められていた。そしてプラウエンの町にある感じの良い、評判のレストラン「トンネル・レストラン・アンデルス」に行くことが、生徒たちに許されていた。マイは自伝に次のように書いている。「プラウエンは私にとってとても大事な存在になっていた。アンデルスのガラス張りのサロンで、私は素晴らしいビールを飲み、最上のオムレツ付き豚肉料理を食べることができたのだ。それにフォークトランド風団子が添えられていて、何たる美味か!」それまであまり美味いものにありつけなかった貧しい青年にとって、その料理は最高の贅沢であったのだろう。

<教師の時代>    

1861年9月、マイは19歳で師範学校を卒業し、教師になるための試験に優秀な成績で合格した。そしてグラウヒャウの貧民学校の代用教員になった。そして64人の児童に対する授業を受け持つことになった。給料は年に175ターラーと定められていた。ところがその勤務はわずか12日間しか続かなかった。下宿先の主人から、その夫人(19歳)に対する不倫を訴えられて、解雇されてしまったのだ。
しかしその直後に、アルトケムニッツの紡績工場付属学校の教師として採用された。その工場では10歳から14歳の間の児童が働かされていて、その合間に付属学校の授業を受けていたのだ。

ところがこの学校でも、マイの勤務は長続きしなかった。今回は同じ年のクリスマスのころ、懐中時計窃盗の科で、6週間の禁固刑を受けることになったのだ。工場経営者は付属学校との契約に従って、マイに住まいを提供したのだが、経営者の部下の簿記係が使っていた部屋を、マイと共同で使用するように決めた。そのため簿記係はそのことに不満を感じ、マイとの間に感情のもつれが生じ、トラブルにまで発展したのだ。

ある時この簿記係は新しい懐中時計を買ったので、古いのをマイにも授業の際に使わせることにした。ただし授業が終わったら返すようにとの条件を付けた。クリスマスの日、マイは授業にその時計を持って行ったが、返却するのを忘れて、家に帰ってしまった。簿記係はその行為を窃盗とみなして、警察に届け出て、マイは警察に連行され、6週間の禁固刑を受けたというわけである。そしてこれ以後、学校の教師への道は絶たれ、父親は息子の前途を悲観して、嘆き悲しんだという。

第3節 フリーター、詐欺師そして服役者(1862-1874)

<フリーターとしての活動>

1862年10月下旬、カール・マイは釈放されたが、その前途には何の見通しもなかった。しかし当面の糊口をしのぐために、家庭教師として語学や音楽を教えたり、朗読の仕事や合唱団の一員としての仕事をしたり、あるいは作曲をしたり、物書きをしたりしていたという。
また1862年12月、20歳の時マイは徴兵検査を受けたが、近眼のために「不合格」になった。1863年1月25日、3月8日そして3月25日には、彼は故郷の町の「音楽と朗読の夕べ」という催しに、朗読者として出演している。また1863年4月及び7月には、故郷の教会が主催した夕食会に出席している。作曲の腕前はなかなかのものだったようで、個人的な楽譜は数枚残っているが、公表されてはいない。
物書きの仕事もすでに行っていたようだが、それらの原稿は残っていない。とはいえ、のちに作家として活動を始めた初期の時代(1875年)に書いた「ユーモア小説」や「エールツゲビルゲの村の物語」などの構想は、すでにそのころ練られていたらしい。

<精神分裂症にかかり、詐欺行為も>

このような活発な知的、精神的活動の傍ら、その気持ちのほうは暗く、沈んでいて、精神分裂症にかかった状態にあったようだ。師範学校生と教師の時代に、国家当局から受けた虐待が、依然として彼の心に重くのしかかっていたのだ。精神錯乱から、夜中に突然ベッドから飛び起きて、雨や雪の降りしきる路上を走り回ったという。
そして国家当局への復讐の気持ちが心の中で高まっていったようだ。その結果、虚言癖に強く彩られた自我は、どんどんその強度を強め、ついには刑法に触れるところにまで達してしまった。

1864年7月、22歳のマイは、医学博士の名前をかたって5着の服の仕立てを注文して、受け取ってから、後で支払うといったきり姿をくらましてしまった。
ついでマイは同年12月に、師範学校教師ローゼとしてケムニッツ市に現れた。そして勤め先の校長からの委託だと称して、毛皮の服と襟とを、宿泊先のホテルに届けさせた。その後、彼は隣室にいる病気の校長に見せるからと言って店員から品物を受け取り、そのまま姿をくらましたという。

しかし第三の試みではマイの悪運も尽きたようだ。1865年3月20日、ライプツィヒ市にヘルミンと称する楽譜彫刻師が現れ、宿泊用の部屋を借り、毛皮加工職人の店でビーバーの毛皮を買った。ちなみにヘルミンは、ギリシア神話の商人兼盗人の守護神ヘルメスのことなのだ。今回は毛皮を受け取った後、事情を知らない人間を通じてその毛皮を質屋に移させた。しかしこの不審な行動に気が付いた店員が、警察に通報して、質屋に現れたこの人物は、つかまってしまった。そして本名を告白して、以前に行った詐欺行為のことも自白したという。

<厚生施設での服役とその後>

そして1865年6月にライプツィヒ地方裁判所において、マイは三件の詐欺行為によって、4年1か月の更生施設行きを言い渡された。その結果ツヴィッカウの更生施設に収監されたのである。
そこは収監された人を社会復帰させる施設だったので、それぞれの個性に対応したやり方がとられていた。マイははじめ財布と煙草入れを作る仕事に従事させられた。しかしマイを観察していた監視人の推薦で、1867年からはトロンボーン奏者及び教会音楽歌手として施設内で活動することや、作曲をすることが許された。さらに1867年末には、更生施設所長の特別書記に任命された。つまりツヴィッカウ管内における刑執行に関する統計面と文書作成面での助手になったのだ。

ツヴィッカウの更生施設

そして施設内の図書館(四千冊を超す蔵書を備えていた)の仕事も任され、自らもそこの書物を自由に読むことができるようになった。こうした状況の中で、カール・マイは、将来作家としてやっていくための計画を、大いに促進させることができるようになった。
家族がたくさんいる自宅にいるよりは、この厚生施設のほうが、はるかによく勉強できたのである。彼がその頃書き記した文学上の執筆計画書が、その遺稿の中から発見されている。それによると、彼が書こうとしていたジャンルは、オリエントを舞台とした物語、アメリカ・インディアンに関連した物語そして故郷の村を舞台とした物語の三つであったことが分かる。

以上のべたように、マイにとってこの施設で過ごした歳月は、いわゆる「娑婆」で詐欺師として放浪していた時よりも、ずっと恵まれていたわけである。そして施設内での模範的な態度が認められて、元来の刑期より八か月早く、1868年11月2日に釈放されたのであった。

しかし久しぶりに家に帰って分かったことは、マイの服役中の1865年に、最愛の「童話の祖母」が亡くなっていたことであった。その文学計画を伝えて、夢を語り合いたいと思っていた、その肝心の相手の死は、彼にどれほど大きな衝撃を与えたことか!

またマイがその後再開した文学面での活動から得た収入は、家計を支えるにはあまりに僅かなものであった。そして前科者のマイに対して近隣の人々から、敵意に満ちた冷たい視線が向けられた。こうして再びマイは、精神錯乱状態に陥ることになった。あてどなく森や野原をさまよい、ある時は放火の罪を着せられたこともあった。更生施設でせっかく獲得した再生への道は、冷たい「世間」の風にあたって、再び崩壊してしまったのだ。

1869年4月までは彼は両親の家に住んでいたが、その間しばしば家を留守にしていた。文学関連の用事で何度もドレスデンに行っていたほか、当時の恋人であった女性に会うために、ラッシャウという所へ出掛けていた。

しかし間もなく再びマイは、悪の道へとさ迷いこんでいった。つまりその後一年あまりにわたって彼は、詐欺や窃盗、偽造などの軽犯罪を数回繰り返した。そのたびに言い逃れをしたりしてごまかしていたが、故郷を離れ遠くへ行きたいと思うようになっていた。そんな時、商売と観光を兼ねてザクセン地方に滞在していたアメリカ人バートン父子と知り合った。そしてその人物から息子の家庭教師としてアメリカに来てくれないかと頼まれた。

これに関連してマイは両親あてに1869年4月20日付けの手紙で、次のように書いている。「・・・私は旅に出ます。人々は私のことを忘れ、許してくれるでしょう。そして私は前途有望な新しい人間になって、再び帰ってきます・・・」
しかしこのアメリカ行きは、旅券関連の障害があって実現せず、4月末には再びザクセン地方に現れている。

<再び刑務所へ。そして再生して社会に出る>

そして結局1870年1月に警察に逮捕され、窃盗、詐欺、偽造その他及び前科が考慮されて、4年の刑が言い渡された。その結果彼は、1870年5月3日から1874年5月2日まで、ライプツィヒ管区のヴァルトハイム刑務所で服役することになった。刑務所内の生活及び労働条件は、極めて厳しかった。労働時間は一日最低13時間で、他人と話をしてはいけないという沈黙規定もあった。その上マイは最下等の懲戒クラスに入れられ、逃亡の危険性と乱暴狼藉、反抗気質のゆえに、最初の一年ほどは独房に隔離された。また労働として、葉巻つくりの作業に従事させられた。

ヴァルトハイム刑務所内の教会

いっぽうヴァルトハイム刑務所の中には、教会の施設があった。そして服役者の更生のために、教会専属の聖職者がいた。そうしたうちの一人でカトリックの教理教師であったヨハネス・コホタという人物がいたが、この聖職者によってマイは、初期のもろもろの困難を克服して、次第にその精神も平穏になっていった。この清廉で高潔な聖職者は、マイとの会話の中で十分な理解を示して、その心をつかんでいったのである。そして刑の軽減を図ってくれ、懲戒クラスからの引き上げもしてくれた。

この人物についてマイは自伝の中で、次のように書いている。「カトリックの教理教師の名をコホタといった。彼はアカデミックな背景を持たない、ただの教師だった。しかしいかなる点から見ても高潔な人物で、人間味あふれ、しかも教育者として、あるいは人の心理を見抜くことにかけては、豊富な経験を積んでいた。・・・彼は私をプロテスタント信者として扱い、私にオルガンを弾くことを許可してくれたのである」

やがて刑務所内での彼の評判は高まり、ここでも図書館の管理の仕事に従事することができた。そのおかげで彼は図書館の書物を自由に読むことができるようになったのである。この点についてマイは自伝の中で次のように書いている。
「何ものにも邪魔されない孤独と豊かな資料のおかげで、私ははるかに先に進むことができた。・・・そして以前から準備していた小説の執筆計画を完成させ、実行に移すことになった。私は原稿を書き、書きあがるとそれを家に送った。両親は私と出版社との間を仲介してくれた」
カール・マイという極めてユニークで、毛色の変わった人物は、刑務所を書斎代わりにして、その作家活動を始めたわけである。

そしてやがて4年の歳月が流れ、刑期を終えた32歳のマイは、1874年5月初め、ヴァルトハイム刑務所を出ることになった。その時、看守のミュラーは冗談交じりにマイに対して、次のように言ったという。「なあ君、いつまた私たちはここで会えるのかね?」それに対してマイは極めて真面目な顔つきで、その手を看守の肩にかけ、相手の目をじっと見つめて、ゆっくり一語、一語区切ってこう答えた。「看守殿、私にここで会うことは、二度とないでしょう」と。