第三章 西ドイツにおける出版界の諸相(2)
(1)ポケット・ブックの隆盛
第二次世界大戦の直後にローヴォルト社が考え出した輪転機小説から、やがてポケット・ブック(日本の文庫本に相当)が生まれてきた。輪転機小説は形のうえではその名が示すように、新聞紙の半分の大きさであったが、新聞と同じように廉価で大量に販売された。ポケット・ブックは、その外形こそ普通の小型文庫版へと変わったが、廉価な大量生産商品という性格は、輪転機小説から受け継いでいる。高価なオリジナル版を合法的に復刻して廉価に大量販売する方法は、すでにレクラム百科文庫が19世紀の後半から連綿と続けてきたものである。この時書物の「非神格化」が起こり、従来の立派な装丁の、本棚に飾るのにふさわしい書物のほかに、こうした大量廉価本が一般に普及するようになったわけである。
ポケット・ブックは、いわばその延長線上にあるものと言えるが、その始まりはローヴォルト社が1950年から発行し始めた「ロ・ロ・ロ・ポケット・ブック」であった。このポケット・ブックの特徴としては、発行部数の多さ、均一判型、均一価格、各巻の番号付け、そして携帯に便利なことがあげられる。今日の日本人読者にとっては、巷に氾濫している文庫本のことを念頭に置いていただければ、第二次世界大戦後の西ドイツで隆盛を迎えるようになったポケット・ブックのことは、容易に想像できるはずである。
さて「ロ・ロ・ロ」を皮切りとしたポケット・ブックは、やがて他の出版社も競って発行するようになった。当初はこうした風潮に対して、「高度な精神財を俗化するもの」との非難の声が聞かれ、書店の側もこの風潮に批判的な態度を示していた。しかしやがて書籍販売者も、その文化的な意義や経済的効用を認めるようになった。こうしてポケット・ブックは、1960年には年間の発行部数が約1000点だったのが、1971年には3500点に増えた。また売り上げ部数は、1973年には5000万部と推定されている。
この時点で見ると、ポケット・ブックの創始者であるローヴォルト社の「ロ・ロ・ロ」ブックが売り上げ部数2000万部でトップに立っていた。これに続いて、「デーテーファオ」、「フィシャー」、「ゴルトマン」、「ヘルダー」、「ハイネ」、「クナウアー」、「マイアー」、「ズーアカンプ」、「ウルシュタイン」などの出版社のポケット・ブックがならんでいた。そして時代が下がって1987年になると、その年間の発行点数は1万1400点に増大しているが、これは書籍の総発行点数の17・4%を占める数字となっている。
(2)リプリント版の登場
第二次世界大戦の間、ドイツでは数百万冊にのぼる書物が消え失せたが、この大きな損失を取り戻す手段として、写真製版による本づくりが登場してきた。これは本の複製の一手段であるが、戦後アメリカ、イギリスなど英語圏との交流が深まった西ドイツでは、「リプリント版」と呼ばれるようになった。このリプリント版の市場は国際的な性格を持っていて、ドイツ系の会社としては、クラウス社(ニューヨーク/リヒテンシュタイン)とジョンソン社(本社ニューヨーク、支社ロンドン、ボンベイ、東京)が、有力な地位を占めていた。西ドイツ国内では、G・オルムス社が最大手で、1974年の時点で8000点を超すリプリント版を発行している。
リプリント版は、原本通りに複製するという意味ではかつての翻刻版と同じものであるが、著作権制度が確立した後のリプリント版とそれ以前の翻刻版では意味合いが異なる。リプリント版はむしろ我が国の復刻版に相当するものとみなすことができる。それはともかく19世紀の前半になってドイツでは、版権及び著作権の法的基盤が整ったわけである。当初著作権の保護期間が30年であったが、1934年には50年となり、戦後の1965年になって西ドイツでは70年に延ばされた。
しかしその一方で、リプリント版ないし海賊版と呼ばれているものを積極的に擁護する動きが、左翼の陣営から生まれてきた。「文学生産者」と称する左翼作家の組織が、1970年4月ミュンヘンで3回目の会合を開いたが、その時次のような決議が表明された。「文学生産者は、公有化された印刷物およびプロレタリア的なリプリントを、集団的所有物の資本主義的悪用ならびに独占化に対する抗議として、また社会主義的文化及びプロレタリア的階級意識形成への前提条件として、理解するものである」。そしてこの決議を実施に移すために「左翼書籍取引連合」が結成された。この決議は著作権制度そのものが資本主義的な悪であるとの考えを表明しているわけである。
(3)ブッククラブの発展
第一次大戦後のワイマール共和制時代に、ブッククラブは隆盛を見せ、末期の1933年には、その会員数は約80万人を数えていた。その後第三帝国の時代になってブッククラブは、特殊な同業者団体として国家から承認を受けた。そして1940年にはブッククラブの会員数は、170万人にも増加していた。またワイマール時代の代表的なブッククラブ「本のギルド・グーテンベルク」は、1933年にナチスの「ドイツ労働戦線」に組み込まれた。
第二次世界大戦後になると、ブッククラブは新たな発展を示すことになり、旧来のものに加えて新しい組織が次々と誕生した。なかでも「松明ブッククラブ」、「ヘルダー・ブッククラブ」、ブッククラブ「書物の中の世界」などが注目されたが、「セックス本配給ブッククラブ」といったものまで生まれた。その会員には年4回、その広告文によれば「きわめてエロティックな小説を詰め込んだ本の包み」が届けられることになっていた。
しかしなんといっても西ドイツのブッククラブ界を支配していた大きな存在は、二大出版コンツェルンであるベルテルスマン社とホルツブリンク社であった。1950年に設立された「ベルテルスマン・レーゼリング」は、瞬く間にその会員数が100万人を超え、1964年には250万人にも達している。いっぽうホルツブリンク・グループが経営する「ドイツ書籍連盟」と「福音派ブッククラブ」の二つを合わせると、その会員数は120万人に達した。ベルテルスマン社やホルツブリンク社などの巨大出版コンツェルンは、次々と中小の出版社やブッククラブなどを吸収合併して巨大になっていったのである。こうしたブッククラブ業界の集中化現象の進行の中で、なお健闘していたのは、ワイマール時代の「本のギルド・グーテンベルク」と戦後作られた「ヘルダー・ブッククラブ」ぐらいであった。
こうした流れとは別に、個々のブッククラブへの入会や退会は、全体としてみると、極めて目まぐるしいものがあった。退会するひとの数は年平均で20%近くにまで達したが、絶えず新会員を獲得していくことは容易ではなかったといわれる。ブッククラブは、1950年代に次々と新設され、会員数も増えていったが、60年代とりわけ70年代半ば以降になると、もはやそうした増加を望むことはできなくなった。その理由としてはテレビの普及がまず考えられるが、その他氾濫する雑誌類やデパート書籍売り場の廉価本もライバルとして挙げられている。
西ドイツにおけるブッククラブの総数が一体どれぐらいなのかという点については、研究者によって異なった数字があげられていて、定説はない。ただキルヒナー発行の『書籍百科事典』によると、1952年の時点で31となっている。またシュルツは1960年で40としているが、シュトラウスは1961年で31としている。
ところでブッククラブが一般の出版社と異なる点は、出版社の本質的な特徴ともいうべき版権をブッククラブは持っていないことにある。つまりブッククラブは、ほしいと思う本の出版権を、ライセンスを払って出版社から取得しているわけである。その際よく売れているオリジナル作品を選んでライセンスを支払っているので、売れない作品をつかまされるといった経営上の危機は、あらかじめ避けることができるのだ。このためブッククラブが発行する書物の点数は、年平均500~700点となっていて、中規模書店の年平均取扱量2万点にくらべて、はるかに少ない。その代わりあらかじめ確保した会員に対して、原則として発行した本はすべて配るわけであるから、多い発行部数が見込めるのだ。さらに著作権料や印税支払い分も、オリジナル出版社よりずっと安い計算になる。こうしたもろもろの事情が重なって、ブッククラブが発行する書物の価格は、オリジナル出版社の書物の30~40%になっている。
いっぽう巨大コンツェルンが経営しているブッククラブは、その後多角経営に乗り出し、やがて書物のほかに、グラフィックアート、レコード、音響機器、ホビー製品から一般のレジャー用品にまで手を広げている。ちなみに1980年代後半の西ドイツの出版市場においてブッククラブが占める年間売り上げ高の比率は、およそ12%になっている。
今まで述べてきた一般のブッククラブとは違った性格を持っているのが、1949年に設立された「学術ブッククラブ」である。これは企業採算性から言って一般の出版社から安くは発行できない専門性の高い学術書を、普通の定価の半分ぐらいの値段で出版することを目指して作られたものである。そのため出版社としての利益や流通利益が排除され、また予約購読制がとられた。いわばこれは学術書の出版を必要とした人々が作った、自助的な共同体というものであった。そして第二次世界大戦中の爆撃などによって各種図書館や書店から消失した、あらゆる分野の学術書をできる限り取り戻そうという意図のもとに行われた運動でもあったのだ。この「学術ブッククラブ」の幹部には、財界や学界の代表者たちがなったが、設立一年後の1950年には、その会員数は一万人を数えた。当初、出版社側からは、「学術ブッククラブ」としては既存の書物の復刻版制作にその仕事を限定し、初版の学術書の出版は一般の出版社に任せるよう、注文が付けられた。そのため初めのうちはこの注文に沿って、「学術ブッククラブ」は復刻版だけを出していた。そして友好的な関係にある出版社の協力のもとに、一般の書店を通じて会員以外にも販売するようになった。しかしやがて時のたつうちに事情も変わり、復刻版だけではなくて新刊書も出版するようになっていった。1973年の時点で見ると、年間の総発行点数447のうち新刊書は237点に達していた。それでは学術書といっても、どのような分野の書物が主として出版されてきたのであろうか? 次の表はその内訳を示したのものである。
出版された学術書の分野別比率(1974年)
ドイツ語・ドイツ文学 15%
社会科学 14%
歴史 12%
ギリシア・ローマ文献 12%
新文献学 10%
神学 8%
哲学 7%
自然科学 6%
芸術 5%
地理 3%
考古学 2.5%
インド・オリエント 2%
中世ラテン語 1%
極東 0.69%
(4)(中央図書館、書籍見本市、平和賞)
<ドイチェ・ビブリオテーク>
第二次世界大戦前、ライプツィヒにドイツの中央図書館として「ドイチェ・ビュッヘライ」が存在した。しかし大戦後、冷戦の進行に伴って、ソビエト占領地区にあったこの中央図書館が、西側占領地区から分離した存在となることが明らかになってきた。そのためアメリカ占領軍当局は、西側にも独自の中央図書館を設立する必要性を感じ、1946年、フランクフルト市立・大学図書館長を務めていたエッペルスハイマー博士に、その設立を委託した。そこで博士はフランクフルトに、中央文書館を兼ねた西ドイツ地域の中央図書館を建てる決意を固めた。そしてヘッセン州、フランクフルト市及び「取引所組合」の三者の協力によって、同じ年に中央図書館「ドイチェ・ビブリオテーク」が設立されたのである。同時に「ドイツ図書目録」の発行も行われるようになった。ただ当初は、この「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務は、「取引上組合」の会員だけに課せられることになった。しかし「取引所組合」とはいっても、実際には西部ドイツ出版業の州組合が担い手となっていた。ところが1952年になって、これが公法上の組織「財団法人ドイチェ・ビブリオテーク」となり、「取引所組合」が正式の担い手として加わるようになったのである。さらに1969年には、連邦政府が直接管理するものへと改組された。これと同時に「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務を定めた法律も制定された。
こうして制度面で次第に態勢を整えてきたわけだが、ここには第二次世界大戦後に発行された出版物が保管されているわけである。そしてこれらの出版物を系統的に分類掲載した『ドイツ図書目録』の発行も行っている。1966年、この種のものとしては世界で初めて電子式データ処理法が採用され、写真植字によって製作されることになった。この『ドイツ図書目録』は、西ドイツの全ての出版社からの献本義務と並んで、西ドイツおよび他のドイツ語圏諸国からの著者献本も掲載していたので、全ドイツ的な図書目録の性格も備えているわけである。またエッペルスハイマー博士のイニシアティブによって、ナチス時代のドイツ亡命文学作品の収集が行われ、これが「亡命文学Ⅰ933-1945特別展示として、一般に公開されたことも注目されよう。
さらに「ドイチェ・ビブリオテーク」は、「取引所組合」および「ドイツ・グラフィックデザイン協会」とともに、書物の造本・装丁に関する組織「財団法人ブックデザイン」を、1965年に設立している。そして「取引所組合」の主催で1951年以来行われてきた「最も美しい書物」と題するブックデザインのコンクールを、1965年からこの組織が引き継ぐことになった。第二次世界大戦前の1929年にも、この種のコンクールが行われたが、その後のドイツ社会の混乱と戦争のうちに、長らく中断されていたものである。なおこのコンクールのタイトルは1971年から、「五十冊の本」と変更された。
<フランクフルト書籍見本市>
フランクフルト書籍見本市(1991年)
フランクフルトの書籍見本市は15世紀末から16、17世紀にかけて、ヨーロッパの書籍取引の中心として栄光を担っていた。その後ライバルのライプツィヒ見本市との競争に敗れ、18世紀半ばに衰退した。しかし第二次世界大戦後のドイツの分断に伴って、再びフランクフルト書籍見本市は復活したのであった。
とはいえその再生は当初極めて小さな規模で行われた。その主催者は、フランクフルト市があるヘッセン地方の書籍出版販売組合であった。第1回の見本市は旧市内の歴史に名高いパウル教会に205のドイツの出版社が集まって、1949年に開かれた。これにはソビエト占領地区から6社が参加した。そしてその翌年の1950年には、もう外国の出版社100社が加わり、参加出版社は合計460社に増えた。またこの第2回から1964年まで、主催者は「取引所組合」の出版社委員会に変わった。さらにその会場も、参加出版社の増大に対応して1951年には、市内のやや外寄りの見本市常設会場へと移った。
この間参加出版社の数は、年を追うごとに増大し、1959年には1837社になっていたが、この時すでに外国からは35か国1100社が出品していた。この数字を見ても、第二次世界大戦後に再開したフランクフルト書籍見本市が、いかに国際的な性格を帯びるようになっていたかが、分かるというものである。こうした書籍見本市の国際化に対応するようにして、見本市開催業務には、「取引所組合」のほかに、連邦外務省も部分的に参画するようになった。ここにこの見本市は、「フランクフルト国際書籍見本市」になったのである。そして1964年には「取引所組合」の専属団体として、見本市有限会社が設立されて、書籍見本市業務を専門に取り仕切るようになった。
いっぽう参加出版社の数に目を向けると、1968年には合計3048社となったが、そのうち外国の出版社は49か国2158社であった。さらに1973年には、59か国からの外国出版社を含めて合計3817社になった。また1972年に「取引所組合」の会長が言ったように、見本市の性格が従来の書物を売る市(いち)から、このころには「関係者の出会いの場、交際の場所」へと変貌を遂げていたのである。
また1976年から「フランクフルト国際書籍見本市」は、一年おきに重点テーマを掲げるようになった。例えばブラックアフリカ、インド、オーウェル2000といった風に。さらに1988年からは、毎回重点的に扱われる国が指定されるようになった。1988年はイタリア、1989年がフランス、1990年は日本であった。そして見本市への参加出版社の数はその後も着実に増え続け、1988年の第40回見本市には、95か国から合計7965社が参加した。そしてこの時見本市を訪れた人の数は、取引に直接関係のない一般客を含めて22万人に達した。さらに1991年の第43回見本市には、91か国から参加があった。この年の重点テーマ国はスペインであった。
ここで国際的な「フランクフルト書籍見本市」を補完するものとして、マインツの「ミニ・プレス見本市」に一言触れておこう。これはN・クバツキーのイニシアティブで、マインツ市の後援を受けて開かれているものである。これに参加しているのは、グラフィック・デザイン、愛書家向け書籍、抒情詩、時代批評、政治図書などを出版している小出版社である。さらに古本の部門では、1962年から毎年シュトゥットガルトで「古書籍見本市」が「ドイツ古書籍商組合」の主催で開かれている。また1968年からは、「ケルン古書籍市」も、毎年9月に開催されていることを付け加えておこう。
<ドイツ出版平和賞>
1950年、西ドイツの15の出版社の共同で、平和賞というものが設けられた。この時の受賞者は、ベルリンのカッシーラー出版社の元編集長マックス・タウという人物であった。その受賞理由としては、賞状に「第二次世界大戦後、ドイツ人作家及びドイツの書物の普及への貢献を通じて、かれが将来への国際理解への架け橋となった」ことが記されている。平和賞を設けた理由も、まさにこの点にあったわけである。
翌1951年にはこの平和賞を「ドイツ出版販売取引所組合」が引き継いだ。そして以後毎年授与されることになったため、これは「ドイツ出版平和賞」と呼ばれるようになった。そして「平和と人類と国際理解に貢献した人」に、この平和賞が授与されるべきことが、改めて謳われた。具体的には、とりわけ文学、科学、芸術の分野で、平和思想の実現に貢献した人物に、授与されることになったのである、こうして1951年にはその第一回受賞者として哲学者のアルベルト・シュヴァイツァーが選ばれ、フランクフルトのパウル教会で授賞式が行われた。
以後この平和賞の授与は、毎年秋に開かれる書籍見本市の期間中に行われることになった。そしてその選考に当たっては、「国籍、民族、宗教」の別なく、11人の委員からなる選考委員会によって受賞者が選出されることになった。事務局及び関係文書の保管所は「取引所組合」の内部に置かれている。この「ドイツ出版平和賞」は,回を重ねるごとに国際的にその重みを増しており、受賞者もノーベル平和賞に匹敵するような世界的に著名な人物が選ばれている。そしてこの平和賞は「フランクフルト国際書籍見本市」には欠かすことのできない行事として、知られるようになってきている。
(5)著作者の組織化
<ドイツ作家連盟>
著作者は通常ものを書き、それを発表すること、つまり著作活動によってもたらされる収益で生活していかなければならない。著作者と言えども他の人と同様に、物質的関心を有している。しかし著作者の仕事は個人的な性格のものであり、その点その利益を代表することに関しては、他の職業やグループよりも劣っている。確かに西ドイツにはいろいろな地方作家連盟というものがあって、会員の社会的利益を考えてきたが、あまり効果的とはいえなかった。
ところが1969年になって、指導的な作家も加わって、「ドイツ作家連盟」が設立された。その設立に当たって、西ドイツの代表的な作家でのちにノーベル文学賞を受賞したハインリッヒ・ベルは、「慎ましさの終わり」を高らかに宣言した。それまで文学や思想や社会のことについては大々的に発言してきたが、こと自分の経済生活のことになると他人に言うのを恥じて、ひたすら慎ましさの中に引きさがっていた作家が、この時堂々と闘いの宣言をしたのであった。「ドイツ作家連盟」は当初から労働組合に類似した組織であった。翌1970年にシュトゥットガルトで開かれた第一回総会で、作家マルティン・ヴァルザーは、「なにがしかの自明の理をもって、自らの生産手段を創り出すことができるために、<文化労働組合>なるものを将来作る考え」を明らかにした。しかし実際には1974年に「ドイツ作家連盟」は、「印刷・製紙産業労働組合」に、専門グループとして加入したのであった。
こうしてドイツ作家連盟は、作家の経済生活の改善をその主要関心事として取り組むようになった。1972年報道週刊誌『デア・シュピーゲル』が作家の経済状態についてアンケート調査を行ったが、その際とりわけ中・高齢著作者のおかれた苦しい生活ぶりが明らかとなった。また第一回総会で作家のロルフ・ホーホフートは、老齢の著作者のおかれたみじめな経済状態について、世の人々の注意を喚起している。その報告の中で、自分の読者を失い、出版社や放送局から名前を忘れられた19人の高齢の作家のことが伝えられた。また文学賞を受賞したような高名な作家の生活も、そう楽ではなかった。ゲオルク・ビュヒナー賞の受賞者エルンスト・クロイダーは、「墓場に行くまで書き続けなければならない」と嘆いている。また同じ賞の受賞者ヴォルフガング・ケッペンは、「作家とは終生、借金地獄にいるようなものだ」と語っている。
このような著作者のみじめな状態を改善するために、「ドイツ作家連盟」は、各方面への働きかけを始めたのだが、まもなく若干の成果を上げることができた。主として連盟の要請によって1972年、図書館納付金という制度が導入されたのである。これは公立の図書館で本を貸し出すごと一回につき、図書館所有者は基金に10ペニヒ納入するというものである。これを作家の養老年金資金にしようとしたわけである。また大出版コンツェルンのベルテルスマン社は、同社から3冊以上本を出している作家に対して、老齢年金制度を設けたが、こうしたことは豊富な財政基盤があって初めてできることである。
<自由ドイツ作家連盟>
その一方、「ドイツ作家連盟」に背を向ける作家もいた。今日なおたくさんの読者を抱えている有名な作家オイゲン・ロート(1895年生まれ)は、「作家連盟が労働組合に加盟することは、無意味なことだ・・・作家とはサーカスの綱渡りのように危うい職業なのだ」と、自分の見解を明らかにしている。こうした考えに同調する作家も少なくなく、その立場から「自由ドイツ作家連盟」が設立された。これは当初南ドイツのバイエルン州から出発したが、やがて西ドイツ全域へと広がり、さらにその枠を乗り越えていった。そして所属する政党、団体に関係なく、自由な民主主義原理に基づく全ドイツ語圏の作家のための職業団体である、と同連盟は自己の役割を規定している。
<作家の自主出版社>
18世紀初めの哲学者ライプニッツの試み以来、作家が自ら出版社を経営する考えは連綿と続いてきた。第二次世界大戦後、大出版コンツェルンのベルテルスマン社では、こうした著作者の要望を取り入れて、著作者による一種の共同編集モデルをつくりだしている。ここでは4人の作家と出版社代表1人から構成される編集委員会によって、どんな小説・物語を出版していったらよいか、決定されるのである。その意味ではこれは作家の純粋な自主出版社ではなく、作家グループを交えた編集の共同決定システムだといえよう。
これとは全く別に、第二次世界大戦中メキシコに亡命したドイツ人作家が、1942年に作った自主出版社「エル・リブロ・リブレ」というものがあった。これはA・アブッシュ、L・レン、A・ゼーガースなどが資金を出して設立したものである。またH・ケステンが提唱して作られたドイツ人亡命作家の自主出版社に「アウローラ出版社」があった。その規約によれば、同社は設立発起人の共有財産とすることが記されていた。ちなみにこの発起人には、E・ブロッホ、B・ブレヒト、A・デーブリン、H・マンといったそうそうたる名前が連なっていた。また規約の中の重要項目として、出版物の発行は委員会の多数決によって決定されるべきことや、出版物の最初の1000部に対しては印税は支払われないことが記されていた。
時代が下って1960年代になると、新左翼運動との関連の中から、作家の自主出版社設立の動きが起きてきた。この運動に伴って実に様々な宣言が出され、実験が行われたが、それらに共通していたのは、私的経済の基盤の上に立ってきた従来の出版社経営から決別するということであった。そしていかなる種類のものであれ、私的な利益追求は行わないことが明らかにされた。さらに出版経営によってあがった利益は、次の政治的な出版活動の資金に回されることも、しばしば宣言の中に謳われていた。こうした運動の先頭に立った人物に、老舗のS・フィシャー出版社を政治的見解の相違から1964年に解雇された同社の文学担当編集員K・ヴァーゲンバッハがいた。彼とは作家のJ・ボブロフスキーとC・メッケルが行動を共にした。彼らは手を携えて私的利益の追求を目的としない出版社の設立を考え、同年のうちにK・ヴァーゲンバッハ出版社が開業した。そこでは作家たちが編集と経営に共同決定の権利を有していた。そして1971年には同社で働く人全員の賛成を得て決定された定款の中に、年一回の作家総会が経営監査の権利をもつことが盛り込まれた。実際ヴァーゲンバッハはその総会で、出版社の一年間の経営状態を公開したのである。
これとは別に作家たちが集まって1969年に、演劇関係の出版社として「作家の出版社」が設立された。その設立趣意書には、出版社の性格が記されているので、少々長いが引用することにする。
「当出版社は社員の所有物である。社員は作家及び出版社の事務員から構成される。この社員が出版社の意志決定をする。生産者は自らの関心事を、自らの責任において、自らの財布をもって達成すべく仕事をする。作家の出版社には、<出版主>は存在しない。出版社の業務は、三年の期限をつけて社員から選ばれる代表によって執り行われる。出版社の任務、目的、方針は、年次総会において社員が決定するが、新しい作品を受け入れるか否かの決定は代表が行う。作家は他の出版社と同様に印税を受け取り、代表及び事務員には給料が支払われる。それ以外の出版社の収益は、社員に分配される」
もう一つ別の動きとして、「文学生産者」の運動を挙げることができる。これは1970年4月にミュンヘンで開かれた会議でその方針が定められた作家の出版社であった。この大会で、学術書の著作家が著書出版社に集結すると同時に、資本主義的労働分配がもたらす社会的損害を軽減するために、既存の出版社における利用の権利を自ら行使することが呼びかけられた。さらに大会では、「生産手段の資本主義的処分権の廃止と生産者の自由な連合」が宣言された。