はじめに
私は1999年9月から11月まで、大学の研究休暇でドイツへ行くことにした。そしてその初めに、まだ訪れたことのなかったロシアとバルト三国に短期間立ち寄った。
ロシアは、モスクワとサンクト・ペテルブルクの2都市、その後バルト三国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアそして最後に、ロシアの飛び地カリーニングラードを見て回ったわけである。
1999年といえば、ソ連邦が崩壊してロシア共和国になってから10年足らず、エリツィン大統領の最末期、プーチン氏が登場する直前の時期であった。ソ連時代の計画経済をやめて市場経済を導入したもののうまくいかず、経済は低迷し、ロシア社会は混乱していた。それなのに、ソ連時代に冷遇されていたロシア正教を復活させて、大聖堂など教会の建物の修築に大金を投じたり、ピョートル大帝やエカテリーナ女帝の銅像を修復したりして、ロシアの伝統の復活に力を入れていた。いっぽうバルト三国は、東欧革命の結果、ソ連(ロシア)の軛(くびき)から逃れて独立国となって、新たな希望に満ち溢れていた。
およそ3週間の短い旅であり、それらの国々の表面をかすってきた程度であるが、長年私が抱いてきたドイツとの歴史的な結びつきが、どのぐらい残っているのか、という視点を一応抱いてはいた。しかし実際には、各地域での人々の日常的な生活がどのようなものか、日記に克明に記すことで、四半世紀前の状況の一端を記録に残すことができたと思う。それらは現在の状況とはかなり大きく異なっているようだ。とにかく、冷戦状況が終わって10年ぐらいの時期で、バルト三国ではそこに住む人々の気持ちに、未来への希望と喜びが満ちあふれていたように、私の短い旅でも感じられた。しかし現在これらの地域を覆っている状況は、日々の報道でも分かるように、緊迫したものになっている。
そんな時に、四半世紀前の時代を振り返ってみるのも、何かの参考にはなるかと思い、当時の見聞記をこのブログに掲載したわけである。その(1)では、まずモスクワ滞在の日々についてお伝えする。
8月31日(火) 晴れ 第1日 東京-モスクワ
5時10分起床。一人で朝食をとり、7時前Mの見送りを受け、家を出る。9時前成田空港でチェックイン。出発までの時間、ナポレオン時代のロシア皇帝「アレクサンドル一世」の伝記を読んで待つ。そしてJL445便に乗って、最後尾の窓際の席に座る。機がモスクワ経由ローマ行きであることを知る。11時10分発の予定が遅れ、11時50分出発。座席の前に小型の画面があり、TV,映画、ゲームなど選択できる。
途中雲間から陸地や海が見える。シベリアの大地は、同じ姿が延々と続いている。ウラル山脈は、今回も雲で隠れて見えない。9時間の飛行の後、現地時間の午後3時50分、モスクワ空港に着陸。モスクワの気温は14度。東京の31度とは雲泥の差。シェレメチェボ空港に降り立つ前、モスクワ近郊の眺めは、樹々の緑と畑と家々が織りなす景色が美しかった。
しかし空港自体は、古く、みすぼらしい。出国審査場も狭く、混雑しており、審査に時間がかかった。そのため預けた荷物は、受取所にすでに出ていた。いっぽう税関申告は簡単に済み、到着時刻表の下で、出迎えの男性がすぐに見つかり、ひと安心。5時、彼の車に乗り、ホテルへ向かう。途中の道路は工事中で汚い。車も多く、ほこりっぽい。ほぼ1時間かかって、クレムリンのすぐ前のホテル「インツーリスト」に到着。カウンターでヴァウチャー(引換券)を渡し、パスポートも預け、部屋のカギとカードを受け取る。しかしマニュアルに書いてあったジェジュールナヤという女性はいず、ボーイさんが部屋まで荷物を運んでくれ、2ドル渡す。ホテルはTuerskaya(トヴェルスカヤ)という名前の目抜通りに面した、国連ビルのような高層ビルだ。
今回泊まったホテル「インツーリスト」
部屋に入り、シャワー浴びてから、フロントに降り、100ドル分(2450ルーブル)両替する。
モスクワの中心部の地図
6時半ごろになっていたが、まだ明るいので、近所へ散歩に出る。ホテル周辺はまさにモスクワの中心街で、大勢の人々でごった返していた。トヴェルスカヤ通りは道幅が広く、車も多く、地下道を通って反対側に出る。人の多さと車の多さ、そして道路工事などで、混とんとした活気に満ちていた。偶然メトロの入り口が見つかり、階段を下りてみたが、ロシア語の表示だけなので、すぐに電車に乗る気持ちにはなれなかった。(行き先の停留所の名前が分からないので)
地下鉄駅の入り口
(左手のMの表示はメトロのこと。
マクドナルドのMは形が少し違う)
モスクワ市内の「マクドナルド」
(メトロのMとの形の違いに注目されたい)
そのため、近くにあった有名なグム百貨店に入る。3階建て吹き抜けで、2~3重の通路が通り、中央に噴水。豪華そのものだ。
豪華なグム百貨店の内部
また少し先にはボリショイ劇場など劇場が多く、そうした雰囲気が漂っている。そしてプーシキン広場辺りまで進む。そこの地下街は商店街になっていて、熱気に満ちていた。9時に、ホテルに接続したピッツェリアに入り、ピッツァと赤ワインの食事をとる。そして10時に部屋に戻った。
9月1日(水) 晴れたり、曇ったり 第2日 モスクワ
夜中に目が覚めたが、7時に起床。朝食に行く。ヴァイキング方式だ。日本人の姿も多い。朝の仕度を済ませてから、9時ごろホテルを出る。快晴だが、空気はひんやりしている。チョッキに上着を着て、ちょうどよい。地下道を通って、マネージ広場の斜め向かいに出る。「赤の広場」は半分閉鎖されている。次いで広場に面した「聖ヴァシリー寺院」の前に出る。9本のネギ坊主は、まさにロシアそのものといった感じだ。
聖ヴァシリー寺院を前にして、私が立っている
次いでクレムリンの外側を、モスクワ川に沿って歩いて、トロイツカヤ塔のところからクレムリン内部に入る。
トロイツカヤ塔(クレムリンへの一般客の入り口)
すぐ左手の武器庫に入り、入場料を払って内部に進む。大勢のグループ客がガイドに案内されて動いている。二つの日本語ガイドのグループに加わって、説明を聞く。そこは豪華絢爛たるツァーリ(ロシア皇帝)の宝物庫なのだ。クレムリンはもともとロシア皇帝の宮殿だったのだが、革命後ソ連政府が奪い取ったものだ。
クレムリン内の武器庫(今は博物館)の内部
同武器庫での日本語ガイドと日本人観光客
この武器庫を出てから、様々な寺院が密集している地区を見て回る。それらの中にも内部が博物館になっているところもあった。こうしてクレムリンの内部を午前10時から午後1時半までかかって、見て歩いたわけである。
クレムリン内のソボルナヤ広場と観光客の群れ
クレムリン内部にある広場での観光客の姿、その前に私が立っている。
クレムリン外壁。その手前がレーニン廟
クレムリンのトロイツカヤ塔の外は公園になっている。そしてその公園からマネージ広場にかけて、見事に整備されている。また屋根が付いたパサージュ風の高級商店街はとても魅力的だった。
クレムリン近くのマネージ広場
(中央部分の下が大きなショッピング・モール)
その後いったんホテルに戻って、小休止。そして6時前にボリショイ劇場に行き、ダフ屋のおばさんから、350ルーブルで当日券を入手して、グリンカのオペラ
“Ivan Susanin” を見られたのは、幸運だった。ちなみに1999年9月現在のレートは、1ドル=25ルーブルだったので、当日券350ルーブルは14ドルである。
9月2日(木)晴れ 第3日 モスクワ
7時過ぎ起床。朝食後、昨日の日記をつけ、今日の行動計画を立てる。9時半ごろ、ホテルを出て、最寄りのM(地下鉄)の駅に入った。 そして長いエスカレーターを降りて、プラットフォームにたどり着く。料金は全線4ルーブルだ。
地下鉄駅構内の長いエスカレーター
電車に乗り、3つ目の駅で降りる。持参した日本語のモスクワ市内の地図を頼りに、見当をつけて、目的のラトヴィア大使館を捜したのだが、なかなか見つからない。5~6人に尋ねた末、ようやくラトヴィア大使館の新しい建物にたどり着く。どうしてその建物を捜したのかというと、この後旅行するラトヴィアに入国するためのビザが、日本では取れなかったからだ(当時日本とラトヴィアとは外交関係がまだ結ばれていなかったので)。
ラトヴィア大使館(領事部)の入り口の銘板
モスクワのラトヴィア大使館には、何とかたどり着いたのだが、そこで英語を話す人を見つけるのに、また一苦労した。その後申請書と自分が映った写真、旅券、及び手数料の60ドルを渡して、何とか手続きが済んだ。しかしラトヴィア入国のためのビザは、午後3時に発給されるというので、午前11時から午後3時まで、近所を散歩して過ごす。しかし方向音痴のせいか、歩いているうちに地図では確認できない所をうろついた挙句、何とか先ほどのラトヴィア領事館に戻ることができ、こうしてラトヴィアへの入国ビザを取得することができた。
そして往路と同じ地下鉄に乗って、3時40分ごろ、ホテルに戻った。快晴の強い日差しの中を歩いたので、汗をびっしょりかいた。部屋に入って、シャワーを浴びて一休みする。そして東京のMへ電話する。
それから5時ごろ再び外出。今度はトヴェルスカヤ通りを一路、北西方向のベラルーシ駅まで歩く。人と車は多いが、さわやかな空気と日差しで気分は良い。通りの左側を進み、プーシキン広場で一休みした。
プーシキン広場前の道路
広場の一角に立つ詩人プーシキンの銅像
その後、さらにベラルーシ駅へ向かったが、その途中、いわゆるスターリン様式の巨大な高層ビルが見えた。この形のビルは、遠くからよく見えるので目印にはなるが、いくつもあって、しかもどれも似たり寄ったりの形をしているので、道に迷ったときは、かえって迷いのもとになる。
スターリン様式の建物
それはともかく、さらにベラルーシ駅へと向かって歩いていく。
ベラルーシ駅(モスクワ市の西北にある)
ベラルーシ駅横手にあるノミの市
ベラルーシ駅近くの日本料理店
モスクワ市の中心街の周囲には、行き先別に、北西にベラルーシ駅、南西にキエフ駅そして北東にレニングラード駅という風に、3つの大きなターミナル駅がある。ロシア北方のレニングラードは、1991年のソ連崩壊に伴って、市名が18世紀以来のもともとのサンクト・ペテルブルクに戻ったが、駅名はそのままに残っているのだ。ちなみにレニングラードは、1917年の革命の後、指導者レーニンの名前にちなんでつけられたものだ。
ところで、ベラルーシ駅の周辺は3車線の大通りで、薄汚れた車でいっぱい。車優先の感じだが、歩行者もその間を巧みにわたっている。また駅の近くにノミの市もあり、庶民が集まる地域のようだ。日の丸のついた看板の日本料理店も見かけた。ロシア語の看板の文字が読めないのが、残念だ。
こうして市の中心街の北西部を歩き回って、8時半ごろ再びホテルにもどった。腹がすいていたので、3階のロシア・レストランで夕食をとる。楽団の演奏付きで、思いもかけず安かった。
9月3日(金)快晴 第4日 モスクワ
7時半起床。朝食後、昨日の日記をつける。その後、今日の行動計画として、中心部の西側を歩くことに決める。そして9時半ごろホテルを出る。さわやかな晴天。クレムリンの西側にあるモスクワ大学旧館のわきを通り過ぎ、ヴォズドヴィジェンカ通りを進む。この通りはやがて新アルバート通りという、幅の広いモダンな高層住宅が立ち並ぶ道になる。これらは旧ソ連時代に、社会主義成功の産物として建てられたという。
新アルバート通り
(旧カリーニン通り)
その先のモスクワ川に架かるカリーニン橋の周辺に、ホワイトハウス(ロシア連邦議会ビル)、モスクワ市役所、ウクライナホテルと、3っつの大きな建物がある。
新アルバート通りからウクライナ・ホテルを望む
左手:ウクライナ・ホテル、右手:モスクワ市役所
カリーニン橋 左手:ロシア連邦議会ビル、
カリーニン橋 右手:モスクワ市役所
橋を渡るとクトゥーゾフ大通りとなる。そしてかなり歩いた末に大工事中の鉄道駅を過ぎ、ようやく目指す凱旋門(1812年の対ナポレオン戦争の勝利を記念しての)に着く。ただその手前のボロジノ戦闘パノラマ館は休館だった。トルストイの『戦争と平和』にも出てくるが、クトゥーゾフ将軍は、ボロジノの闘いでナポレオン軍を破った祖国の英雄なのだ。このパノラマ館に入りたかったのだが、明日また来ることにする。
その日はやむなくすこし戻り、メトロに乗って川を渡り、環状道路わきに着く。既に1時半過ぎになっていたので、近くのレストランに入り昼食をとる。その後歩行者天国になっている繁華なアルバート通りを散歩する。両側にレストラン、カフェなどが立ち並んでいる。そのあたりの一軒の両替所で、100ドル(2560ルーブル)を両替する。率はホテルより良い。
次いで南へ向かって歩き、「トルストイ博物館」に入る。その時、参観者は私一人。若いころから私は熱心なトルストイのファンで、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、『セヴァストポリ』、『イワンの馬鹿』など主な作品はよく読んだものだ。
「トルストイ博物館」の入り口
館内をゆっくり見終わってから、本日は外歩きは早めに切り上げて、メトロに乗り、6時前にホテルに戻る。シャワーを浴び疲れをとってから、8時前に近くのマクドナルドで軽食をとり、すぐにホテルに帰る。今日になって初めて部屋のテレビをつけ、一般の番組を見る。いくつかチャンネルがある。ニュースは、ロシア語はわからないものの、映像からテーマぐらいは想像できる。またロビーで、ドイツ語の新聞 ”Moskauer Deutsche Zeitung” を入手して、部屋でゆっくり読む。私にとって興味ある記事がたくさん掲載されている。
9月4日(土)曇り後快晴 第5日 昼間モスクワ、夜遅くサンクト・ペテルブルクへ
7時ごろ起床。外は曇っている。朝食後、昨日の日記をつける。9時過ぎ、荷物をまとめてチェックアウト。トランクとショルダーを預けて、ホテルをでる。最寄りのメトロ駅から一度乗り換えて、市の西南にあるキエフ駅で下車。地上に出ると、まるで終戦後の上野駅の感じで、雑踏と混とんのカオスの雰囲気だ。外国製のたばこ販売の屋台が無数に軒を連ねていて、壮観だ。
キエフ駅(建物は立派だが、内部も周辺も人々の雑踏がすさまじい)
キエフ駅周辺の車の雑踏
キエフ駅周辺のマーケット
(外国製たばこ販売店が無数にある)
その後、昨日閉館していた「ボロジノ戦闘パノラマ館」へ、タクシーで駆けつける。手前に英雄クトゥーゾフ将軍の騎馬像、背後にボロジノ戦闘パノラマ館がある。
ボロジノ戦闘(1812年)パノラマ館と
クトゥーゾフ将軍の騎馬像
パノラマ館をざっと見てから、歩いて再びキエフ駅近くまで戻って、付近の「マクドナルド」店で昼食をとる。次いでタクシーでヴァラビョーヴィ丘(雀が丘)へ移動する。朝のうち曇っていたが、昼になると快晴になる。土曜日のせいか、大勢の人出だ。数多くの新婚カップルと関係者の姿が目立つ。マトリョーシカ人形は売り物のお土産だろう。
新婚カップルの両側に、
無数のマトリョーシカ人形が並んでいる
そこの展望台からは、眼下の芝生に遊ぶ人々の姿。そしてはるか遠くに、モスクワ川の先に市内の建物が見える。また背後にはモスクワ大学の威容が聳えている。
雀が丘の上のモスクワ大学
大学に向かって公園の中をしばらく歩いていく。そして天気が良いので、しばらくベンチで休憩する。そのあたりは次第に人影が少なくなっている。
モスクワ大学の前の公園
しばらく休んでから3時ごろ、こんどは丘の斜面を歩いて川端へ出る。そしてそこから遊覧船に乗り、クレムリンの先で下船。
遊覧船の上からの白色の橋の眺め
クレムリン前の赤の広場に出ると、聖ワシリー寺院のわきの仮設の舞台が、踊りと歌で賑わっている。そしてそれを見る大勢の観客と警備の警官の姿も見られる。土曜のためか、その一帯は歩行者天国になっていて、スピーカーから流れる大音響と人込みで、辺りは大変なもの。私が泊まったホテル前のトヴェルスカヤ通りも人でいっぱいだ。少し離れた所にあるイタリア料理店で、ゆっくり夕食をとる。そしてホテルに預けた荷物を受け取って、午後10時40分、迎えの車で、クレムリンから見て東北にあるレニングラード駅へと向かう。その後午後11時55分発の寝台車に乗り、次の目的地サンクト・ペテルブルクへ移動する。
(サンクト・ペテルブルクでの見聞記については、次回のブログ「ロシア・バルト三国の旅 その2」でご紹介します。)