バルト三国のエストニアとラトヴィア見聞記
バルト三国の地図
今回はバルト3国の中のエストニアとラトヴィアの見聞記をお伝えする。エストニアは一番北にある国で、その首都タリンはバルト海の最も東に位置した港町である。反対側にはフィンランドの首都ヘルシンキがある。目と鼻の先といってもいいぐらいの距離だ。人口は1996年の時点でわずか145万人の小さな国である。そのうち65%がエストニア人である。首都のタリンは人口42万人だ。ロシアのサンクト・ペテルブルクが一番近く、鉄道でタリンと結ばれている。前日夜中の寝台列車内での出来事については、前回のサンクト・ペテルブルク見聞記の最後で、書いたとおりである。
タリン(旧市街)の地図
9月10日(金)霧のち晴れ エストニア
サンクト・ペテルブルクからの寝台車では、国境の検問の際の不愉快な出来事のため、あまり眠れぬまま、タリン駅に到着した。外は深い霧に包まれていた。それでも迎えの車に乗り、午前7時前に「ホテル・サンタバルバラ」にたどり着いた。
ホテル・サンタ・バルバラ(旧市街のすぐ南に位置している)
ただ10時にチェックインで、まだ早いので、受付に荷物を預けて、ホテル内で朝食をとる。これで再び元気を取り戻し、ホテルの受付で50ドルを、エストニアの通貨クローンに両替した。レートは、98年の時点で1ドル=14クローン。その後ホテルを出て、旧市街の東側を歩いて、まず中央郵便局に入る。そして昨夜書いたハガキを日本向けに航空便で、6.7クローン払って出した。
その後メレ大通りを北へ向かって歩きだした。やがて分岐点に来たが、そこには下の写真に見るような道路標識があり、まっすぐ進めば港に行けることが分かった。
タリン市内から直進すれば港へ行けるとの標識
こうして港に出た。港にはバルト海汽船など、いくつもの乗り場があった。そこからはバルト海を通って、フィンランドの首都ヘルシンキやスエーデン方面へ行けるのだ。事務所の建物の中に入って、いろいろな施設を見て回った。
船の乗り場の事務所とその手前の広場
乗り場の事務所の正面
その後、港から市民ホールのある高い場所に移動して、タリン湾を望む。ヘルシンキは「目と鼻の近さ」のはずだが、肉眼で見ることはできなかった。タリン港をひととおり見てから、再びホテルへ戻ることにする。その途中、大通りに面して立派なガソリンスタンドがあるのが、目に付いた。
立派なガソリンスタンド
こうして再びホテルに戻り、午前10時チェックインして、部屋に入る。広くて、設備もよい。すぐにシャワーを浴び、昨日からの汚れを落とす。元気を回復して、12時ごろ再びホテルを出る。まず高台に上がり、大聖堂を見てから、近くのレストランでゆっくり昼食をとる。それから高台の端にある展望台から下町とその先の港を見渡す。赤褐色の屋根、風見鶏、ゴシック教会の尖塔などは、ドイツの古都とそっくりだ。また旧市街は狭い石畳の道が続いている。歴史的な因縁からドイツとの結びつきは、いたる所で感じられる。旧市庁舎前周辺は、人々でごったがえしていた。日が暮れてきたので、午後7時ごろホテルに戻る。今日の午前中には霧が出て涼しかったが、午後は暑くなった。
高台から見た下町の家の屋根とその先にある港
9月11日(土)晴れ エストニア
7時40分電話の音で起こされる。ホテルの中の食堂で、朝食をゆっくりとる。そして再び外出。昨日歩いたので、タリンの町のおよその輪郭がわかってきた。今日は昨日と同じ高台に上がる。まずトーンペア城に行き、裏手の城壁の外側を歩く。
その一角に「のっぽのヘルマン」塔があったが、この城は14世紀前半にドイツの帯剣騎士団によって、最初に建てられた。これは12~14世紀にドイツの諸侯・騎士・修道院などが行った、エルベ川以東のスラヴ人居住地などへの「東方植民」の一環だったのだ。とくに、ドイツ騎士団は先住民のキリスト教化を理由にバルト海東南沿岸地域で、軍事的性格の濃い植民を推し進めたという。
トーンペア城の「のっぽのヘルマン塔」
城の外壁に貼り付けられた銘板
(「ここに1939年まで聖堂学校があった」とドイツ語でも書いてある)
いっぽう近くのロシア正教の「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」ではミサがおこなわれており、ロシア系信徒と思われる人々がたくさん集まっている。この教会は彼らの拠点のようだ。そのあと昨日とは別の展望台に行く。眺めはさらに良い。
その後丘の上の街並みを歩き、やがて下町への坂道を下っていった。下りたところに、日の丸の旗が見えたが、そこが日本大使館なのだ。また旧市街にはEU代表部もあった。当時エストニアはEU 加盟候補国であった。
日の丸の旗と日本大使館
EU代表部の入り口
またそのあたりに「タリン旧市街がユネスコの世界文化遺産に指定されている」ことが書かれた掲示板(エストニア語、英語、ドイツ語)が立っていた。
しばらく歩いて「歴史博物館」に入る。そこではドイツとの歴史的な関係についても書かれていた。
午後1時ごろ裏通りの小さな店に入った。その店の看板には「Restoran」と書かれていた。サラダとパスタそしてビールで昼食をとる。その際エストニアの地ビール(SAKU)を飲む。
地ビール(SAKU)の看板
次いでラエコヤ広場に出て、旧市庁舎の地下に入っていく。こうした街づくりは、ドイツでは至る所にみられるもので、私にはお馴染みのものだ。一般に東欧地域の街づくりには、ドイツ人の影響が色濃く残っているように感じられる。
ラエコヤ広場と旧市庁舎
そこでは古くからのドイツ人の結社(ブラックヘッドのギルド)についての展示が行われていた。私が入った後、すぐに独人団体客がドヤドヤと入ってきた。そしてその中の一人がドイツ語で、展示について説明を始めたので、勿怪の幸いと私はその説明を傍聴した。
その後城壁を出て郵便局で絵葉書を出し、エストニアの民謡のCDを買う。そして見残した「聖ニコラス教会」に入る。そこでは「死の舞踏」の絵が面白かった。その後ホテルへ向かったが、途中花屋がずっと並んだ場所に通りかかった。エストニアに限らず、バルト3国の人々は花と合唱が大好きなのだ。
花屋がずっと並んだところ
ホテルにいったん戻って、ロシアの飛び地カリーニングラードで会う予定のロシア人カント学者の英文の論文を読み、心の準備をした。そして7時半ごろ外出して、夕食の場所を捜した。はじめ「オルデ・ハンザ」に入ろうとしたが満員だったので、別の場所を捜した。そして「K・フリードリヒ」というドイツ語名の料理店に入る。幸いラエコヤ広場に面した野外席が見つかった。そこは旧市庁舎を斜めに見た特等席で、タリン名残りの夜の素晴らしい雰囲気を満喫することができた。
9月12日(月)晴れ タリンからリーガへ
タリンのホテルで8時ごろ起床。朝食後ゆっくり仕度をして、10時ごろチェックアウト。11時半タクシーでバス・ターミナルへ。そして12時15分ラトヴィアのリーガ経由リトアニアのヴィリニュス行きの長距離バスに乗る。バルト三国を貫く、まさに長距離のバスなのだ。バスはタリン港でも客を乗せ、のどかな道を南下。道には車が極めて少ない。また沿道も野原と林が延々と続いている。直射日光がきつい。途中沿道には、MAZDA, HONDA,SUBARUなど日本車を宣伝する看板が目に入る。エストニアではRIGAはRIIAと表記されている。
3時間後の午後3時15分ラトヴィアとの国境検問所に到着した。係官がバスに乗り込んできて、全員の旅券を集めて事務所に持っていく。その間旅客はバスを降りて、外の空気を吸う。私もトイレに行き、20ドル分をラトヴィアの通貨ラットLsに両替する。検問所にはMUITA(CUSTOMS)の標識が立っている。やがて旅券は返却され、25分後にバスは再び出発する。次第に車が増えてくる。また工事のため一時渋滞もある。首都のリーガに近づくと、道路の混雑はさらに増してきた。高速道路がないので、追い越しが大変だ。道路標識は青色でドイツ風。午後5時45分、バスは旧市街の外のターミナルに到着した。バスを降りてから、おんぼろのタクシーを拾って、ホテルへ向かった。旧市街の真ん中にあるので、車が入りにくいところだ。
修道院を改修したホテル
ホテルは修道院を改造した独特の建物だ。そのホテルに入り、チェックイン。そして、部屋に入るとすぐにシャワーを浴びる。その後腹がすいていたので、外出して、「アールス・ヤータ」という名前の田舎風ビヤホールで、夕食をとる。
ここでラトヴィア共和国の概要を書いておくと、1996年の統計で、人口は250万人弱。そのうち55%がラトヴィア人。首都のリーガの人口は81万6千人。宗教はキリスト教。北、西部にルター派プロテスタントが多く、東部にカトリックが多数。
首都リーガ(旧市街)の地図
9月13日(月)曇り後晴れ リーガ
午前7時起床。朝食後、雑用を済ませてから、9時ごろ街へ出る。曇っていて、やや涼しい感じだ。まず旧市街の外側を東北に沿って伸びている緑地帯(公園)に出る。
公園の一角には、木の間隠れに堂々たる国立オペラ座が姿を見せていた。
国立オペラ座(公園の一角に立つ)
公園の中を歩いてから、その外側に沿って流れている運河を渡ると、背の高い(51m)「自由記念碑」が聳えていた。ロシア帝国からのラトヴィアの独立を記念して、かなり後の1935年に建立されたものだ。第一次世界大戦後の1918年11月にラトヴィアは独立を宣言し、20年8月にソヴィエト政権が承認したものだ。
高さ51mの自由記念碑
自由記念碑の近くの大通りのわきの歩道で、花を売っているおばさんの姿を見た。ラトヴィアの人は花好きだといわれている。また新市街にはドイツの「ユーゲントシュティール」様式の建築群がある。これは日本の美術愛好家の間で知られているフランスの「アール・ヌーヴォー」様式の建築と似たものらしい。公園の外側のアルベルタ通りとエリザベテス通りに建っている。建築の期間は19世紀後半から20世紀初頭で、『戦艦ポチョムキン』で有名なロシアの映画監督エイゼンシュタインの父親ミハイル・エイゼンシュタインも代表的な建築家で、彼が設計した建築物も幾つかあるという。ソ連時代には長らく放置されていたが、独立後修復が進んでいる。以下写真で数枚紹介するが、極めて装飾的で、造形といい色彩といい、美しい。私も大好きだ。
ユーゲントシュテイール様式の建築物(1)
ユーゲントシュテイール様式の建築物(2)
ユーゲントシュテイール様式の建築物(3)
ユーゲントシュテイール様式の建築物(4)
その後、再び旧市街を通って、ダウガワ川に臨んだ河川港に達した。その川は少し先で、バルト海に注ぎ込んでいる。この港自体は、タリン港に比べて規模が小さい。
ダウガワ川とアクメンス橋
しかしダウガワ川は川幅が広く、立派な川だ。リーガの街にとって、この川は欠かせないようだ。
ダウガワ川の手前左手のカマボコ状の建物は中央市場
港を見てから再び旧市街に戻り、リーガ城を横目で見てから、聖ヤコブ教会、三兄弟、スウェーデン門、城壁、火薬塔などを見て回る。この辺りは旧市街の中でも、とても雰囲気のある地域だ。
城壁の内側
火薬塔(現在は博物館になっている)
少し離れた所に交響楽団ホールがあった。その掲示板にコンサートの日程が書かれていたが、本日と明日しか、こちらの時間がないので、音楽会はあきらめざるを得なかった。そしてさらに旧市街の散策を続けた。これまで何度も述べてきたように、タリンでもリーガでもドイツとの歴史的つながりはいたる所で確認できたが、この散歩でもそのことを実証できた。例えばレンガ造りと重厚な建物が、北ドイツのハンザ同盟都市と同じつくりだったり、北独ブレーメンの有名な童話「ブレーメンの音楽隊」に出てくる4匹の動物をかたどったものを、たまたま見かけたりしたのだ。
北独ハンザ都市と同じつくりのレンガの家
聖ペテロ教会の前に立つ
「ブレーメンの音楽隊」に出てくる(4匹の動物)の像
旧市街には歴史と文化を凝縮したものがたくさん集まっていたが、その一方人々の生活と直結したものを、散歩の途中見かけた。それらをいくつかご紹介することにしよう。
洒落た作りの食料品店
ドイツ薬局の看板
インターネットカフェ
(バルト3国では、IT関連のものが発達しているようだ)
ドイツとラトヴィアの経済的絆を持つ企業・団体を示す表示板
1時ごろ「マクドナルド」で昼食をとってから、再び外側の公園を散歩する。そして旧市街に戻り、リーガ大聖堂に入る。この大聖堂はドイツの帯剣騎士団が占領したリヴォニア地域(現在のエストニアやラトヴィア)の宗教的な中心をなしてきたといわれている。 大聖堂のステンドグラスが美しい。18世紀後半のものと言う。 次いで聖ペテロ教会に向かったが、72mの塔の上へは、エレベーターで上がれる。
少し離れた聖ペテロ教会の72mの塔の上から見た大聖堂(左手の建物)
また聖ペテロ教会周辺では大規模な建築工事が行われていた。そこは中世ドイツ人の結社「ブラックヘッド」の建物が、2001年のリーガ創立800年祭に向けて再建中だ。この建築工事には、ドイツ資本の協力があるものと思われる。ここは戦前までは、美しい旧市庁舎と広場があった所だ。
聖ペテロ教会の72mの塔の上から見た建築工事現場
ちなみにブラックヘッド(黒頭)というのはエチオピアの守護聖人で、ドイツ人商人が作っていた団体(ギルド)のシンボルなのだ。
エチオピアの守護聖人「ブラックヘッド」をあらわしたもの
それから近くのデパートをのぞいて、どんな商品があるのか見て回った。こうして午後4時ごろいったんホテルに戻った。そして6時半ごろ再びホテルを出て、「セナ・リーガ」という雰囲気のある地下のレストランで夕食をとった。
9月14日(火)曇り後晴れ
午前8時起床。朝食後、昨夜立てた計画に従い、今日は、リーガ市郊外の海岸保養地ユールマラへ行くことにする。9時半ホテルを出て、リーガ駅へ。駅の時刻表を見て、10:02発のドゥブルティ行きの電車に乗る。そしてユールマラの中心地のマユアリ駅に10:42到着する。
のどかなマユアリ駅
ユールマラ海岸保養地の概要を示す地図
まず目抜きのヨマス通りを散歩する。夏の盛りが過ぎて、人影は少ない。広々とした並木道があり、気持ちが良い。
マユアリ駅から伸びている目抜き通り
マユアリ駅近くに、立派な別荘風の邸宅を見かけた。
別荘風の立派な邸宅。外壁と屋根の色彩のコントラストが見事だ。
木陰の向こうに見える建物。ドイツビールのレーヴェンブロイの旗が見える
通りの終点で左折し、海岸に出る。砂浜にテントが見えるが、海水浴客の姿はない。9月半ばで、海水浴のシーズンは過ぎているのだ。夏の名残を感じさせる淋しい風景だ。
淋しいユールマラの海水浴場
再びヨマス通りを通って、一軒の店に立ち寄り、軽食をとる。そしてマユアリ駅に戻り、13:16発の電車に乗り、リーガに14時ごろ到着した。
リーガ駅からすぐ近くの中央市場へ向かう。石段を上がれば、そこが中央市場だ。
中央市場の賑わい
中央市場は大変な規模で、すでに建物の前の屋台の青空市場で物売りが行われている。そして大勢の人でごった返している。とりわけ中央市場の一部をなす花市場が
魅力的だ。
花市場の華やかで、色とりどりの花々と人々
市場の雑踏にやや疲れを感じて、午後5時ごろホテルに戻る。そして部屋に入って髪と体を洗い、気分もさっぱりする。7時過ぎ、A・セータというレストランで夕食をとる。明日はヴィリニュスへのバスの旅だ。
*次回は、リトアニアの首都ヴィリニュスおよびロシアの飛び地カリーニングラードについての見聞記をお届けします。