ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その5 流行作家としての活動

人気小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』

この人気小説の概要

多彩な才能の持ち主であったフリードリヒ・ニコライは、人気小説や他人の小説のパロディー作品もいくつか書いた。なかでも小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』が、この分野での彼の代表作であった。これは1773年から1776年にかけて、ニコライ出版社から三巻本として順次刊行されたもので、三巻あわせて716頁の長編である。現在ゲオルク・オルムス出版社から発行されているニコライ全集の第三巻に、オリジナルのまま収められている。またドイツの「レクラム百科文庫」にもおさめられ、今日なお大勢の人が読める状況にある。

さて1773年春にこの小説の第一巻を発表したが時、ニコライはそれまでの文芸評論よりも広い文学の世界に、第一歩を記したといえる。当時の最も緊急なテーマに敢然と挑んだ、この作品はただちに大きな評判を呼んだ。1799年までに四版を重ね、総発行部数は一万二千部に達した。この数字は現在の基準からすれば、微々たるものに見えようが、当時としては十分ベストセラーに数えられるものであったのだ。この数字はニコライ出版社からの正規の分だけであるが、当時は人気作品の翻刻版(いわゆる海賊版)が当たり前であったことから、この小説の海賊版が三種類、そして模倣作品が数種類刊行されている。さらにやがてフランス語、英語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語に翻訳出版されている。これらのことを考えてみれば、この人気小説がいかにもてはやされたか、分かろうというものである。

成功の秘密

『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の成功の秘密は、とりわけこの小説の中に、当時のドイツ人の生活ぶりが説得力をもって描かれていたことにあった。その意味でこれはドイツ初の写実小説といわれているのだ。作家のヴィーラントは『ドイツ・メルクーア』誌の中でこれを知ったとき、思わずこれに拍手喝采したといわれる。また啓蒙主義の仲間であったボイエはこれを、「ドイツ最初の長編小説である」と称えている。そしてドイツ人作家がやっと外国の模範から解放されて、生活の実態に即したドイツ人の性格を描いたことは、歓迎すべきことであると、人々は感じたといわれる。実際そこには18世紀ドイツ社会の様子が生き生きと描かれていて、われわれがその時代を知るうえでの貴重な社会史の史料にもなっているのだ、

ただその文学的な評価には問題があるものの、これを高く評価する人もいる。「ニコライの文章は軽妙で明晰であったが、ややドライで、単調であった。しかしその文体は前時代の古臭い散文に比べれば、はるかに進歩したものであった。そこにはレッシングの厳しい教えが守られていて、小説全編をつうじて、レッシングの息吹が漂っている」とまで、ニコライ研究者のジヒェルシュミットは書いているのだ。

しかしニコライ自身は若き日の文学評論活動を経て、この小説執筆に至った四十歳のころには、純粋な意味での文学的ないし美学的な面での質的向上よりは、当時のドイツ社会の実態や弊害などを、小説という手段を通じて人々に伝え,警鐘を鳴らすことの方に、より強い関心を向けていたといえる。その結果この小説の中には、強度の啓蒙主義的傾向がみられるといわれているわけである。

それにもかかわらず、この小説は決して無味乾燥なものではなく、そのストーリーの展開と数多くの興味深い細部描写に、同時代の人々は魅了されたのであった。ニコライは大変器用な人間で、その啓蒙的な意図を生の形で伝えるよりは、小説仕立てにした方が、より効果的であることを十分心得ていたように見受けられる。そのため災難、強盗の出現、船の難破、決闘、誘拐といった冒険小説の諸要素を、巧みに調合して利用したのであった。

またニコライは強い諷刺精神の持ち主でもあったので、この小説の中でも諷刺の笑いを通じて読者を説得し、状況を改善しようとしたわけである。ともかくこの小説は上質な娯楽小説の要素を持っていたため、当時の人々の人気を博したのであったが、ニコライは一体どこからそうしたものを学んだのであろうか。

まず一見して分かることであるが、この小説の『・・・・の生活と意見』という表題は、18世紀イギリスの作家ローレンス・スターンが、その少し前に発表した『紳士トリストラム・シャンデイ氏の生活と意見」からきている。またニコライの諷刺の笑いも、スターンのこの小説に通じるところが少なくない。例えば主人公のノートアンカーが馬鹿みたいに黙示録を勉強するのも、スターンの小説に見られる奇癖の数々の影響ともいわれる。とはいえニコライの諷刺精神は決して借り物ではなく、その確かな観察眼、ユーモア、自己に対する皮肉などは、文章表現上の欠陥を補って、彼の長編小説の長所となっている。

いっぽう登場人物の選択や筋書きにヒントを与えたのは、同時代の作家M・A・v・テュンメルが1764年に発表した人気小説『ヴィルヘルミーネあるいは結婚した細事拘泥者』であった。この小説は18世紀に流行した、例の「道徳週刊誌」に掲載された小説が用いていた常套的なトリックを使って一定の読者を確保していた。ニコライもこれに倣って、いわばその続編として『ノートアンカー』を書いたともいわれている。

小説のテーマ

ニコライのこの小説は、当時のドイツ社会の実態を写した鏡であったのだが、そこに写し取られたものは、まず何よりも社会に根強くはびこっていた宗教的慣習であった。実際にニコライは、この小説の中で、その時代に活発に展開されていた宗教論争に具体的に介入した。その際彼は、なお根強く残っていた迷信、精神的隠ぺい、信心家ぶり、宗教的不寛容などの実態を暴き、それらと断固闘う姿勢を見せている。後にニコライは南ドイツ地域を旅行して、そこで行われていたカトリック信仰の実態を親しく見聞して厳しく批判したのだが、この小説では彼自身が住んでいた東部および北部ドイツで行われていたプロテスタント信仰の実態を弾劾したわけである。

周知のように、16世紀前半に行われた宗教改革によって、ドイツの社会はカトリックとプロテスタントの両勢力に大きく分裂し、苛烈な宗教戦争にまで発展した対立抗争を繰り返していた。そして同じプロテスタントの中でも、ルター派正統主義、敬虔主義、カルヴァン主義等に分かれ、それぞれが地域的に細分化された領邦君主その他の世俗勢力と密接に絡み合って、18世紀後半になってもなお総体として地方ごとの狭い視野に閉じこもった状況を作り出していた。

ニコライの啓蒙主義が目指したのは、一言で言えば、脱宗教支配の近代社会の実現であったが、その当面の敵として攻撃の矛先を向けたのは、宗教的過激主義の代表としての敬虔主義とルター派正統主義なのであった。具体的には例えば、地獄の劫罰の教えといった、理性的解釈からは逸脱し、近代の世俗化した人間にとってはほとんど受け入れがたい、個々のドグマと闘ったのである。

またニコライは当時のドイツ社会に見られた別の側面にも目を向け、痛烈に批判した。例えばドイツ人貴族の様々な弱点や、地域ごとに散在していた彼らの宮廷生活に見られた愚かしい風習などを、批判の矢面に立たせたのであった。つまり彼らの贅沢三昧で自堕落な生活ぶり、浅薄な行動、身分上のうぬぼれ、腹立たしいフランスかぶれ、さらにドイツ語・ドイツ文学の軽蔑やドイツ人としての国民感情の欠如といったことを、持ち前の諷刺と皮肉を交えてこきおろしたのである。これはドイツ人の一般読者に対して、少なからぬ効果を上げたといえる。その際ニコライは返す刀で、役人たちの卑屈な態度も弾劾してやまなかった。

この小説のもう一つの特徴は、登場人物の中の幾人かを、実在の人物を戯画化した形で登場させていることである。そのパロディー化された人物は、当時の教養人にとっては、誰であるのかすぐに見分けがつくような人物だったのだ。そのため小説発表の後、いろいろ物議をかもした。

物語の筋書き

さてここで長い物語の筋書きを、できるだけ要領よく紹介することにしよう。主人公の名前はゼバルドゥス・ノートアンカーといい、大学出の学士であったが、中部ドイツ、チューリンゲン地方の村の牧師として、長年村人たちの尊敬を集めていた。そしてドイツのある地方君主の宮廷で宮仕えをしていたヴィルヘルミーネを妻に迎え、子供もでき、幸せな結婚生活を送っていた。

ところが六十歳という老境に達したとき、ルター派教会の管区総監督で上司にあたる人物と、神学上の見解を巡った議論に巻き込まれる。主人公は長年真摯に神学研究を行ってきたのだが、この時いわゆる地獄の劫罰期間の問題で、上司と対立した。村の牧師は、「神の善意に限度を設けるのは、人間にふさわしくない」といったのだが、これに憤激した上司は、「神を信じぬこの男は信仰の基本原理に反した主張を行ったのだから、牧師の地位をはく奪されるべきだ」と述べた。

そして正直そのもので、世間知らずの牧師は数時間のうちに牧師館を立ち去るよう命令された。そして所用で留守中に彼の家は他人のものになり、妻と赤子の末娘は別の小さな小屋に移された。運悪くその妻と赤子は病の床に伏していたが、この騒ぎがもとで死んでしまった。

挿絵(病の床に臥すノートアンカーの妻と赤子)

そして家と妻子を失ったゼバルドゥス・ノートアンカーは故郷の村を離れることになった。彼にはもう一人息子がいたが、兵役にとられてこの時不在だった。また長女のマリアンネはある身分の高い夫人のお相手役として、やはり故郷を離れていた。

続く第二章では、主人公は友人で書籍商のヒエロニムスから、ライプツィッヒの印刷所の校正係の仕事を世話してもらう。この書籍商はその際世間知らずの主人公に、ドイツの書籍出版業界の実情について詳しく説明している。しかしやがて意地の悪い者たちによって校正係の職を奪われる。そのため主人公はライプツィッヒを離れたが、ふとしたことで知り合った陸軍少佐の紹介状を携えて、プロイセン王国の王都ベルリンへ向かうことになった。郵便馬車に乗って旅立ったゼバルドゥスは日が暮れてから、とある森の中で強盗の一味に襲われ、頭を殴られ意識を失った。翌朝意識を回復したとき、彼は傍らに御者が死んでいるのを見た。彼自身は上着をはぎ取られ、わずかな小銭を遺して金と紹介状も奪われていた。しかし生来楽天的な主人公は、自ら研究を深めていた黙示録の言葉に励まされて、いずことも知らずに歩き出すところで第二章が終了している。

第三章では一転して、ゼバルドゥスの長女マリアンネの物語となる。彼女は書籍商ヒエロニムスの仲介で、身分の高いフォン・ホーエンアウフ夫人のお相手役となるのだ。マリアンネのフランス語の能力が証明されて、晴れて彼女はこの貴族の家に入ることができたわけである。当時のドイツ人貴族の間では、フランス語が常用されていたからである。
このマリアンネは物語のもう一人の主人公として、とりわけ女性読者の関心を狙った恋愛小説仕立ての中で活躍するのだ。と同時にニコライは、もともとは市民身分から成りあがったフォン・ホーエンアウフ一家の、虚飾に満ちた贅沢三昧の生活ぶりを、その独特の諷刺をきかせて描くことも忘れていない。

さてマリアンネがこの家に来て三か月したとき、フォン・ホーエンアウフ夫人の甥にあたる若い男がこの家にやってきた。彼は織物商人の息子で大学生であったが、柔弱な文学青年であった。ニコライはこの男にわざわざ「ゾイクリング(赤ん坊)」という名前を付けているが、これは同時代の作家ヤコービを戯画化したものであった。思考力が弱く、甘い感傷に熱中し、当時その名声も消え失せていた、この作家へのあてこすりや風刺は実に巧みである。

この文学青年はこの家の社交の場で、マリアンネの存在を知る。そして黒髪で青い眼、美しい顔立ちをした娘が良い趣味を持っていて、自分の朗読した詩に心から賛同するのを見て、マリアンネに恋心を抱く。彼女の方もこの母性本能をくすぐるようなところがある男から、はっきり美しいといわれて彼を好きになる。こうして彼らはフォン・ホーエンアウフ家の庭を散歩したりしながら逢引きを重ねた。しかしふとしたことから夫人の知るところとなり、甥と侍女とが交際するのを嫌った夫人は、結局マリアンネを夫人の知り合いの某伯爵夫人のところへ追いやってしまう。

第四章は再びゼバルドゥスの物語となる。彼は強盗に襲われた後、行方も知れぬ旅を続けていたが、その途中一人の男と知り合う。この旅人はベリリンへ向かうところだと聞いて、ゼバルドゥスは同じ目的地まで旅の伴侶ができたことを喜ぶ。この男は敬虔主義の信奉者で、強盗に襲われたことを話したのがきっかけで、二人は神や宗教を巡って議論を始める。敬虔主義に批判的なニコライはここで、その性善説が実は欺瞞に満ちていることを、様々な実例を通して暴いている。

しかしいろいろな経験をした後、ある日曜日の午後、二人はやっと目的地のベルリンにたどり着く。そして二人は西部の郊外に広がっている広大な公園「ティアガルテン」に足を踏みいれる。そこで展開されている日曜日の午後の活気に満ちた光景に関する描写には、なかなか捨てがたいものがある。ところが道連れの敬虔主義者は、「都会はソドムとゴモラのようだ」として、ベルリンの喧騒を忌み嫌う態度を示し、二人は別れることになる。

挿絵(ティアガルテンでの一場面)

ゼバルドゥスは乞食のような哀れな姿となっていたが、ふとしたことから学校の校長と知り合い、その家に温かく迎えられる。そしてそこの家の子供たちにピアノを教え、併せて楽譜を写す仕事にありつく。またこのベルリン滞在中、主人公はF氏と知り合い、その身の上話を聞くが、この人物もゼバルドゥスと同じように、聖職者の不寛容と暴力の犠牲者であることを知る。F氏と主人公はシュプレー河畔を散歩しながら、宗教的不寛容が人々の実生活に及ぼしている弊害などをめぐって、いろいろと話し合う。

その後ゼバルドゥスは長い間娘のマリアンネの消息を知らなかったこともあり、ベルリンを離れ、友人のヒエロニムスを訪ねることになる。そこでヒエロニムスは主人公のために、あらたにホルシュタイン地方の図書館の司書の仕事を斡旋することにして、一通の推薦状を書く。絶えず各地に所要のあった書籍商のヒエロニムスは、この度もマグデブルクに用事があるというので、二人は郵便馬車に乗り、途中まで旅を共にすることになる。その途上、馬車の行く手に大声が上がり、何か出来事の発生を予感させるところで、第四章が終わっている。

第五章は再びマリアンネとゾイクリングをめぐる物語となる。その後マリアンネは某伯爵夫人に温かく迎えられ、彼女の屋敷で幸せに暮らすことになった。この章では新たにゾイクリングの家庭教師ランボルトという若い男が登場する。マリアンネと引き離されてからも彼女への思いを忘れることができなかったゾイクリングは、この家庭教師に何とかして彼女の消息をつかんでくれるよう頼みこむ。ランボルトはやがて彼女の消息を知り、一計を案じてマリアンネを誘拐することに成功する。

馬車に乗せられた彼女は逃亡の機会を狙っていたが、ちょうどそこへ通りかかった郵便馬車の姿を見つけたマリアンネは、勇敢にも馬車から飛び降りた。その時あがった叫び声を、第四章の終わりでゼバルドゥス一行が耳にしたわけである。こうしてマリアンネは長いこと離れ離れになっていた父親とヒエロニムスに偶然、再会することになった。このようなストーリー展開は、まさに大衆小説の常套手段であるが、それはともかく父と娘は抱き合ってその再会を、心から喜んだ。ところがその再会の喜びもつかの間、ゼバルドゥスは娘とヒエロニムスの眼前から消えてしまう。

第六章では、二人と別れた主人公のその後が語られている。単独で馬に乗っていたゼバルドゥスは自分の研究テーマである黙示録のことに没頭している間に、道を間違えてしまったのである。しかしヒエロニムスが書いてくれた推薦状とたっぷり残っていた路銀に安心した主人公は、何とか目的地のホルシュタインにたどり着き、お目当ての宮廷侍従に会うことになる。当初目指していた図書館司書のポストには既にほかの人が就いていたため、ある牧師の息子の家庭教師の職で我慢することになる。

ところがゼバルドゥスはこの牧師とも、宗教上の見解を巡って対立することになる。その際主人公は次のように自説を主張した。「上位の聖職者の要求に盲目的に従うことは、プロテスタンティズムの真の精神に反することです。我々が信仰すべき教えについて、我々は納得していなければなりません。それが聖書であれ、信条書であれ、その他のものであれ、ある本に書いてあるからと言って、それを盲目的に受け入れることは、納得したことにはなりません。真実についての理性的な探求を通じて我々が納得したときにはじめて、道徳的な効果を発揮できるのです。」ここには啓蒙主義者ニコライの宗教観が、主人公の口を通じてそのまま示されているといえよう。

このように自己の信念に忠実なために、行く先々で衝突を繰り返していた主人公であったが、息子の消息は長い事途絶え、せっかく再会した娘とも離れ離れになり、その日々はみじめになっていた。そうした生活に倦みつかれた主人公は、遠く海のかなた東インドに行ってしまおうと決意する。そして東インドへの出発基地であるアムステルダムへ向けて、北海に臨む北ドイツのクックスハーフェン港を船出するところで、第六章が終わる。

次の第七章では、主人公は様々な運命のいたずらにもてあそばれ、波乱万丈の体験を重ねることになる。ゼバルドゥスを乗せた船はオランダ沿岸に近づいた時、突然の嵐に出会い、座礁してしまう。彼は何とか砂浜に泳ぎ着いたが、そこで意識を失う。数時間後一人のオランダ人漁師が彼を見つけて、自分の小屋まで連れていく。意識を取り戻した主人公は、ホルシュタインで習った低地ドイツ語の助けで、この漁師となんとか意思の疎通を図る。

漁師はゼバルドゥスがルター派の牧師であることを知って、アルクマールのルター派の説教師のところへ連れていく。同じルター派の聖職者との度重なる衝突や身の不幸のために、かなりの程度ひねくれていた主人公はこの人物に対しても初めは挑戦的な態度をとっていたが、善意の説教師に説得されて、その家に数週間泊めてもらうことになる。

こうして数週間が過ぎた時、一人の商人がロッテルダムからやってきたが、主人公はこの人物の次男の教育の面倒を見るという約束で、一緒にロッテルダムへ向かう。実はこの商人は、妻との結婚契約によって、最初の子は改革派の、そして二番目の子はルター派の教育を受けさせることにしていたのだ。かくして次男は主人公に預けられたが、それまで長男と次男の両方の面倒を見ていた改革派の家庭教師は、次男を自分の所有物のように見なしていたため、新しい家庭教師の登場には、不審の念を抱くことになった。

ここでニコライは、オランダにおける宗教状況について詳しく説明している。そして商人、その妻、改革派の家庭教師そしてルター派の家庭教師となった主人公の四人それぞれの宗派上の見解と立場の違いなどについて、具体的に叙述している。そしてこれらの人々の議論は、やはり神学論争となって妥協の許されない状況となっていった。その結果ゼバルドゥスは、数多くの宗派が共存している自由の土地アムステルダムへ移ることとなる。

商人からの紹介状を携えて意気揚々と主人公は朝の5時にユトレヒト門にたどり着いた。そこへ一人のドイツ人が現れ、手ごろな宿泊所へ連れて行ってやると申し出る。言葉が不自由で不安な思いに駆られていたゼバルドゥスにとっては、この同胞の出現はありがたい思いであった。そのため言われるままにこの男について行き、とある家の中に入った。その地下牢の中にはおよそ三十人ほどの哀れな人々が、わらの上に横たわっていた。

挿絵(アムステルダムの地下牢)   

この光景を見た主人公は男に抗議したが、その答えとしてこん棒で殴られ、わらの上に倒れてしまった。実はこのドイツ人は植民地行きの兵士や船員を募集する一種の奴隷商人だったのだ。未経験な外国人とりわけドイツ人をだまして、家の中に連れ込み、東インドへと売り飛ばすのを仕事にしていたのだ。この後豚小屋のような地下牢の悲惨な有様が具体的に描写される。主人公はこの地下牢に数日間過ごした後、彼を含めて数人が、外の空気を吸うために、監視付きで戸外へ出ることを許される。そしてその帰途、運よく以前世話になったアルクマールの説教師に出会い、この聖職者が金を払ってゼバルドゥスは奴隷商人の手から解放される。

そのあと主人公はロッテルダムの商人から預かっていた紹介状を持って、一人の裕福な人物を訪ねた。この人物は幅広い学識と高潔な志の持ち主で、さまざまな貴重な著作を、自分の費用で印刷させていた。彼は主人公をことのほか信頼して、やがてその方面の仕事を主人公に任せるようになった。ところがこの誠実な男は、しだいに体が衰えていって、数か月後に死んでしまった。ただ亡くなる前にその全ての作品の残部と版権を主人公に遺贈した。

ゼバルドゥスはその後、冬の夜長を若い時から親しんできたイギリスの本を読んで過ごした。そしてその中の一冊を翻訳して、亡くなった人物の全作品の販売を行ってきた書籍商の所へ出向いた。このイギリスの書物は宗教的にかなり大胆な内容を含むものであった。はじめ書籍商はこの本の出版に乗り気であったが、知り合いの改革派の説教師がこの本を見て、危険な内容を含んでいる旨伝えたために、結局この本の出版はご破算になってしまった。

せっかく高揚していた気持ちに冷水を浴びせられて、落胆した主人公は、もはやその土地にいることがつらくなった。そこで結局版権代として百グルデンをもらって、ドイツとの国境に近いアーネム行きの郵便馬車に乗って、アムステルダムを離れた。ところが途中高熱が出て、馬車から降り、最寄りの土地で病気療養せざるを得なくなった。彼の病気は重篤で、旅費と宿泊代と医者の費用で、所持金の大半を使い果たしてしまった。ここで第七章は終わる。

次の第八章では、新鮮な空気と穏やかな日の光のおかげで、主人公の健康は回復する。そして滞在先の家の道路に面した生垣のところに出て、道行く人々からわずかばかりの喜捨をもらって生活するようになった。そしてある日彼は馬に乗った二人の人物を見た。例のゾイクリングとその家庭教師のランボルトの二人であった。世にも哀れな姿で生垣にたたずんでいたゼバルドゥスの姿を見かけたゾイクリングは、馬のうえから憐みの表情をうかべ、老人の手に一グルデンを握らせた。老人のお礼の言葉を聞きながら、馬を走らせる青年の目には涙が浮かんでいた。マリアンネと突然引き裂かれた後、この感傷的な青年は父親の家で過ごしていたのだ。彼は家に帰ってからも哀れな老人のことが忘れられず、翌朝再び同じ場所に行き、老人に頼んで身の上話を聞いた。そしてゼバルドゥスを父親の家に連れてきた。こうして主人公はゾイクリングの父親の家の居候となった。

この家の主人は戦争の際、軍隊への物資補給で思わぬ利益を得た。そして戦争が終わりそうになった時、ある騎士領を購入して邸宅を建てた。そしていろいろな美術品で邸宅内を飾り、有閑人としての暮らしをするようになっていたのだ。ゼバルドゥスとはほぼ同じ年齢だったこともあり、彼を話し相手として格好の人物とみなした。そこで主人公に住まいを与えたうえ、年俸まで支給した。主人公がやるべき仕事といえば、朝食の際に彼のためにあらゆる新聞を朗読することぐらいだった。そうした新聞には、この家の主人の好きな数字合わせのロッテリー(宝くじ)も載っていた。

いっぽう父親と再会したのもつかの間、再び離れ離れになった娘のマリアンネは、その後村から村へと渡り歩き、ある嵐の日に森の中の一軒の農家に身を寄せることになった。そして居候ながら安定した日々を過ごすようになっていた。その頃彼女はゾイクリング宛に自分の現在の身の上を手紙に書いた。ところがその手紙を家庭教師のランボルトが盗み読みして、ひそかにマリアンネに会って、ゾイクリングは死んだと嘘をついて、彼女の心を自分の方に向かわせようとした。

その間ゾイクリングの方は、父とゲルトゥルーティン夫人が引き合わせた彼女の娘アナスターシアと、しばしば言葉を交わすようになる。アナスターシアは彼の気持ちを自分の方に引き付けるために、いろいろと手を尽くすが、彼の方は動かない。そんな時彼は偶然、森の中でマリアンネに再会し、互いに今でも気持ちが変わらないことを確認して、指輪を交換する。そこへランボルトが現れ、怒りのあまりゾイクリングを襲うが、その場にいた農民によって撃退される。

最後の第九章では、その翌朝ゾイクリングの父親は息子を呼び寄せ、アナスターシア嬢を花嫁に迎えるよう提案する。しかし息子の方は森の中で、以前から愛していた娘に再会したことを告げる。それを聞いて父親は狼狽したが、息子の指の指輪に気が付く。そこに居合わせたゼバルドゥスは、その指輪から相手が自分の娘であることを知る。そしてゾイクリングに案内してもらって、森の中の小屋へと急ぎ、マリアンネに出会う。その後一同、ゾイクリングの父親の家に戻り、マリアンネを紹介する。そして父親の了解を得ようとするが、拒絶される。

その時ゼバルドゥスは、この父親の弱点を思い出した。そしてちょうど新聞に掲載されていた宝くじで自分は、一万五千ターラーの賞金が当たったことを告げる。花嫁の父親となる人のこの幸運にゾイクリングの父親の気持ちはなごみ、結婚は許可される。そしてさらにその場にランボルトが現れ、実は自分は長いこと消息を絶っていたゼバルドゥスの息子で、マリアンネの兄であることを告げる。

こうして物語は、最後になってすべてハッピーエンドとなる。宝くじの賞金は支払われ、ゾイクリングはマリアンネと結ばれた。また金持ちになったゼバルドゥス・ノートアンカーは義理の息子であるゾイクリングの隣人から小さな土地を買って、そこで幸せな老後の生活を送ることになった。

この小説への反応

以上の筋書きでお分かりいただけたかと思うが、娯楽人気小説の要素をふんだんに取り入れたものであったため、その人気の点では、ほぼ同時期に発表されたゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』をはるかに凌駕していたという。ニコライのこの小説は、なんといってもその神学上のテーマ(問題性)によって、人々をもっとも刺激したのであった。実際ニコライは、この成功によってその啓蒙思想を人々に伝える可能性が生まれた、と当時は思っていたようだ。そのため彼に反対する立場の人々は、「迷信の神の代わりに真実の神を置こうとする」彼の試みに、強く反発した。

ニコライは当時、キリスト教の存在、あるいは西欧の文化そのものが存続できるのか、それとも没落してしまうのか、という瀬戸際の認識を抱いていたようだ。そのため彼は真実のキリスト教を知らせることによって、迫りくる不可知論を撃退しようとしたのだ。それにもかかわらず彼に反対する立場の人々は、その真意を理解しようとはせず、彼のことを無神論者であると非難したのだ。

その一方、のちにニコライと対立するようになったゲーテやヘルダーといった作家は、この時はこの小説を少なくとも成功した「時代のドキュメント」として、受け入れたのであった。同じくのちにニコライと激しく対立した哲学者のフィヒテでさえ、「この本は時代の精神と傾向を十分反映したものである」としたのだ。

つまりこの時反対派の中心を形成したのは、同じプロテスタント信仰ながら過激な考えや行動が見られたため、小説の中でこっぴどくやっつけられた敬虔主義者やルター派正統主義者たちなのであった。彼らを代表する敬虔主義者ユング=シュティリングは、「『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の著者たる軽蔑すべき俗物に対する牧童の投石器」という一書をものした。この書は、小説の第二巻が出る前の1775年に世に現れた。その前書きには次のように書かれている。「『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の著者氏ならびにその塩見のきいていない殴り書きを嘲笑している人々の双方に対して、はっきりとこういわざるを得ない。つまり彼は宗教に対する厚顔無恥な嘲笑者であり、同時にへたくそな小説書きであると」。そしてその本文で、ニコライはプロテスタント教会の教えを笑いものにしたと非難し、宗教界の利益のために、説教者身分に対する嘲笑を嘆いている。

しかしこのユング=シュティリングは、本来ニコライが攻撃した論点には、十分説得力ある反論をすることができなかった。ニコライはもともと反動的な人々によってキリスト教が浅薄になていることに反対して声をあげたのだが、まさにその批判を通じて多くの同時代人の代弁をしたわけである。当時人々は漠然と教会のヒエラルヒーの硬直化を、悲しむべき退行現象だとみていた。そしてそれこそ真のキリスト教精神に永続的な障害をもたらすに違いない、と考えていたのだ。人々はまた、心の内面では次第に拒絶するようになっていた封建的社会秩序を管理面で支えていたのが教会である、とも次第に思うようになっていたわけである。まさにニコライはその『ゼバルドゥス・ノートアンカー』において、市民階級の自立解放を謳っていたために、この小説は多くの読者から歓迎されたのである。彼の封建制批判は、まさに正鵠を得たものと言える。

ところがこうした点には関心を持たずに、もっぱら哲学思想、文学、形而上学など、人間の心や魂など内面の問題に、その関心を集中させていた当時の思想家や文学者のなかには、この小説ないしニコライの立場に反発する者も出てきた。例えば北方の魔術師と呼ばれていたハーマンは、その『カドマンバールの魔女』と題した小冊子の中で、「ニコライは正統主義のドグマとなんら異なることのない合理主義のドグマに陥っている」と批判した。

これに対してニコライはハーマンと何度も文通したのちに、『ドイツ百科叢書』の第二十四巻の中で、ハーマンの著作の総合書評という形で反論した。そしてその中で彼の曖昧で不明瞭な文章を容赦なく批判し、分析している。これによってニコライは大家ハーマンと決定的に断絶することとなった。遠くケーニヒスベルクの地で執筆活動をしていたハーマンは、ニコライに言わせれば、文学界全般を見渡せる都会性というものを持ち合わしていない田舎者なのだ。そしてその作家活動を、社会全般への責任感なしに、ある種の近親交配の中で、自己満足に浸って行っている、ということになる。

しかしこの小説の出現の後、ニコライに反発して、たもとを分かった、かつての協力者もいた。それまでニコライは主としてその『ドイツ百科叢書』の書評者として多くの学識者を探し求めて、協力を依頼していた。しかしこの小説が出た後、例えば作家のヘルダーは書評誌への協力を断っている。またかつてその観相学研究に対してニコライが常に強い関心を抱き、文通をつづけてきたラーヴァーターは、これ以後二人の道は別であると認識して別れていった。さらに小説の中で兄弟のことをこっぴどく暴かれたと思った哲学者のF・H・ヤコービは、やがてこの攻撃的な小説家ニコライに対して結束するグループを結成した。そしてその陣営に、グライム、ヴィーラント、ゲーテなどを引き込むことに成功したのである。

こうして『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の出現以降、ニコライを中心としたベルリン啓蒙主義の陣営と、あらたな敵陣営との戦線の位置が明瞭になったわけである。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その5

『ドイツ百科叢書』

『ドイツ百科叢書』とは何か ?

これはフリードリヒ・ニコライによって、1765年から1805年までの40年間にわたって発行された、様々な知の領域にわたる総合的な書評誌であった。言葉を変えて言えば、当時のドイツにおける学問・芸術上のあらゆる進歩発展の歩みを、啓蒙主義の視点から概観しようとした、気宇広大な試みでもあったのだ。そして同時にニコライの名を今日に至るまで不朽ならしめている巨大な業績なのである。

この書評誌『ドイツ百科叢書』(Allgemeine deutsche Bibliothek)で取り上げられた書籍の数は、実に8万冊に及ぶという。書評者はのべ433人で、大学教授、医師、教師、牧師、その他一般的な学識者であったが、皆ニコライの忠実な友人あるいは協力者であった。

当時ドイツには統一した国家がなく、こうした学識者もその広いドイツ語圏の各地に、散在して住んでいたのであった。つまりイギリスにおけるロンドンやフランスにおけるパリのような、精神文化面でも中心的な役割を演じていた首都の存在が、ドイツには欠けていたのだ。ドイツ語圏の二大領邦国家オーストリアのヴィーンも、プロイセンのベルリンも、ともにドイツ全体の政治的・経済的・文化的な中心地ではなかったのだ。それぐらい当時のドイツ語圏の領域は、イギリス、フランスに比べても広く、多様だったわけである。

この広大な国土の各地に住んでいたドイツの知識人は、お互いの意思の疎通を図るためには、まずは郵便という手段を用いていた。そのため当時、ドイツを中心とした中央ヨーロッパ地域には、郵便馬車を用いた、非常に緊密で能率の高い郵便網が整備されていたのだ。フランクフルト・アム・マインに本拠が置かれていた帝国郵便網を使って、ドイツの知識人たちは、互いに書簡その他のやり取りをして、ドイツ全体の知的・文化的水準を高めていたわけである。

こうした状況の中で、ニコライは『ドイツ百科叢書』の編集発行という仕事を通じて、知識人の「知のネットワーク」を築き上げ、そのことを通じてそうした知的交流の中心に立ったのである、そのネットワークは、部分的にはドイツ帝国の枠を越えて、ラトヴィアのリーガやロシアのサンクト・ペテルブルクにまで及んでいた。

本書評誌の外形的側面

『ドイツ百科叢書』の各号は、厚さが平均320ページ、出版部数はおよそ2500部、そして40年間に256号に達した。この書評誌はもともと季刊誌として、つまり年に4回発行されることで始まったが、やがて新刊書の洪水のような増大という事態に直面して、年に6~8回の発行になっていった。さらに後から届いたものを収録するために、補巻も必要になった。

次にこの雑誌の形状について見てみよう。この点私は、幸いなことに、この雑誌の原本(Allgemeine deutsche Bibliothek) を直接手に取って調べられる状況にあった。つまりその原本は、私がかつて勤めていた日本大学経済学部の図書館に、貴重図書として保管されていたからだ。というよりも1995年に日本大学経済学部図書館がこの書評誌のオリジナル版全135巻を購入するにあたって、私が推薦状を書いたのが縁となって、いらい私がいつでも利用できるようになったからである。

これは本巻115巻、補巻20巻,計135巻であるが、原本の全てではないものの、その大部分を含んでいる。それぞれ1巻に雑誌の2号分が収められている。そのため各巻のページ数は、ばらつきはあるものの、600~800ページといったところである。その外観は、我々が書評誌として一般に考えているものとはかなり違っている。つまり雑誌の形状ではなくて、一見したところ立派な装丁の文学全集といった感じなのである。その判型はタテ20センチ、ヨコ13センチで、ハードカヴァー製である。ただ40年間にわたって発行され続けた雑誌であるため、表紙の材質や厚さ、紙の質などは異なっている。文字は原則としてフラクトゥーア体のドイツ文字(いわゆるヒゲ文字)である。ただしラテン語や、数は少ないがフランス語で書かれた書物の表題などは、ローマン体で印刷されている。

『ドイツ百科叢書』全135巻(日本大学経済学部所蔵)

 

第1巻と第2巻の見開き

発行への直接の動機

ニコライが本書評誌を発行しようとした直接の動機は、その少し前にイギリスで創刊された書評誌から刺激を受けた事にあった。それは『マンスリー・レビュー』(
Monthly  Review    1749年創刊)と『クリティカル・レビュー』(Critical  Review  1756年創刊)であった。

これらイギリスの書評誌の性格について、ニコライの研究者で、18世紀の英独関係に詳しいドイツ人のB.ファビアンは次のように言っている。当時イギリスでは、おおむね特殊専門的な傾向を持った書評誌から、一般的な性格の文芸書評誌への移行が見られた。そしてこうした移行が可能になったのは、その読者がより幅広いテーマや対象をも受け入れる用意のできた教養ある階層に属していたからであるという。またこうした文芸書評誌の書評は、はじめのうちは作品の特徴や内容を要約したものが多かったが、やがて次第に独自の批評のスタイルが確立されていったという。

ニコライのイギリスへの傾倒

ニコライはごく若いころに独学で英語を学び、二十代のはじめに17世紀イギリスの詩人ミルトンの『失楽園』について文芸批評を書くなど、総じてイギリスの文芸に傾倒していた。18世紀半ばのドイツではなおラテン語やフランス語が、学識者や上流階級の間に幅をきかせていて、英語を学ぶことは一般には容易ではなかったという。当時英語の授業が行われていたのは、比較的少数の大学やアカデミーにおいてだけであった。こうした困難な状況の中で、苦心して習得した英語を通じてニコライは文芸作品のみならず、イギリス文化一般に強い関心を抱いて、イギリスの様々な文化や思想を習得していったのであった。

彼はまたイギリスの事情に通じるようになってからは、当時のヨーロッパ諸国の中で唯一、自由と寛容の国としてイギリスを高く評価するようになっていた。自分の国ドイツのみじめな状況に失望していた若きニコライは、その地にあこがれ留学することさえ真剣に考えたが、諸般の事情であきらめていたぐらいなのだ。こうしたイギリスへの傾倒から本書評誌が生まれたわけであるが、こうしたことを含めて、先のファビアンは、ニコライのことを「ドイツにおけるイギリスの発見者の一人」と呼んでいるのだ。

ヨーロッパにおける雑誌の発生

ここでヨーロッパにおける雑誌の発生に目を向けると、それは17世紀半ばのことであった。当時の学識者たちは、かなり多くの著者に様々なテーマの事柄について寄稿してもらい、出版社から定期的に発行して、一定の読者層を確保することにメリットを感じていたという。こうした考えに基づいて、1665年にロンドンで
<Philosophical Transactions>, 次いでパリで<Journal des Savants>が、そして1668年にローマで<Giornale de’Letterati>が、さらにドイツでも1682年にライプツィッヒで、パリの前掲雑誌に倣って<Acta Eruditorium>(学識者の報告)というラテン語の雑誌が創刊された。当時のドイツでは学識者の用いた言語はドイツ語ではなくて、ラテン語だったからである。これらは学識者の狭いサークルに対して、学術関係の新刊書や同時代の学者たちの生活についての情報を提供していたのである。

ドイツでは今あげた学術雑誌(Acta Eruditorium)の流れの中から、1700年ごろには、専門分化した様々な学術雑誌が生まれていった。それはつまり医学、法学、神学、歴史学などの学術雑誌であったが、それらは個別科学のその後の発展に大きく貢献し、その伝統は今日まで連綿として続いている。

その一方で、より広い観点に立った一般的な性格の文芸評論誌というものも、18世紀の前半に現れた。その一例としては、1739年創刊の<Goettingische Zeitung  von gelehrten  Sachen> を挙げることができる。ちなみにこの雑誌はその後名前を少し変えて、18世紀の伝統を今日に伝えている。

啓蒙のメディアとしての雑誌

こうした一般的な評論誌は18世紀も後半に入ると、さらにその輪を広げ、ニコライが編集発行に携わった数点の雑誌を始めとして、啓蒙主義のメディアとして、様々な発展を見せるようになった。それらは1750年ごろにはじまり、1780年代にその最盛期に達し、18世紀の末になって新しい形へと変質していったのである。それは外部の世界に対して影響力を行使することを重要視した啓蒙主義の活動であった。

その時代は、著作家や時事評論家やその他の学識者が、雑誌への寄稿者または編集者としてその真価を発揮した数十年間であった。そしてそれはまた啓蒙への一般的な努力が、著作者をして雑誌への支援へと突き動かした数十年間でもあった、と言われている。なかでもレッシング、ヤコービ、ボイエ、ヴィーラント、リヒテンベルク、ゲーディケ、ビースターといった人々がその代表であったが、わがニコライもその重要な一員であったのだ。

それが18世紀末の時点でどのような評価を受けていたのか、同時代の証言に耳を傾けることにしよう。1790年、二人の教師ボイトラー及びグーツムーツは、『ドイツ重要雑誌事項索引』という出版物を刊行したが、これは「現在までに至るこの世紀に現れたすべての定期刊行物に関する理路整然たる文献目録」なのである。その前書きには次のように書かれていた。

「雑誌というものは、人間の知識の宝庫となった。そこには人間精神を全体として用いるための、計り知れない宝物が詰まっている。何かのテーマについて知りたいと思うものは誰でも、安心してこの知識の宝庫に逃げ込むことができる。そして間違いなく豊かな気持ちで、満足して戻ってこられるのだ」

この二人は18世紀における出版界の発展について、結論を出したのだ。つまり彼らははじめて雑誌というものが、啓蒙のメディアとして、いかに不可欠の存在になったかということを示したのである。その前書きにはさらに、いかに人々が雑誌の公益的目的を認識するようになったかという点について、次のように書かれている。

「それまでもっぱら学者たちの所有物として書物の中に蓄えられていたものが、今や雑誌というものを通じて一般にもたらされるようになった。それは国民の大部分が理解することも読むこともできず、また読もうとも思わなかった知識だったのだ。それらが今や国民が理解できる一般的な言葉に移し替えられたのだ。そしてそれらは、すべての人々が使える小額通貨になったわけである。」

ニコライがその編集発行に携わった『ドイツ百科叢書』も、こうした啓蒙のメディアの中の一つの大きな柱であったことは、言うまでもない。ただここで言われている「すべての人々」というのは、当時の実態としては、庶民を含めた国民全体を指すものではなく、少数のエリート層つまり様々な職業の有識者であったことに、注意しなければならない。そのことは当時刊行されていたこの種の個々の雑誌の発行部数が3千部程度であったことからも理解されよう。ちなみに当時のドイツの総人口は、ざっと2千万人であった。

『ドイツ百科叢書』の発行計画

本書評誌がどのようなものであるべきか、という点については、創刊号の冒頭に掲載された序文の中に、編集者であったニコライ自身の筆で詳しく書かれている。そこで次にこの創刊号の序文を紹介しることにしよう。

序 文

ここにドイツ人の読者に、『ドイツ百科叢書』の第一号をお届けします。これは年に4回、ほぼ同じ厚さの本として発行されます。2号で1巻となりますが、各巻には有名なドイツの著作家の肖像画が添えられます。
この第一号には、編集者の意図するところでは、1764年に発行された最新の著作物に関して、一般的な情報が盛り込まれるはずです。つまりここでは、ドイツで新たに発行されたすべての書物や関連した出来事について、情報を提供しようというわけです。いくつかの重要な著作物、とりわけドイツのオリジナル作品は詳しく書評されることになりますが、その書評を通じて読者は、その作品の全体像について、正しい概念を得ることができるでしょう。重要度が低い著作物や翻訳ものは、短い評価が添えられます。学位論文、個々の説教書、その他の小冊子については、掲載しません。
この計画の気宇広大さのゆえに、その完全な遂行の前に立ちはだかっている幾多の困難につきましては、あらかじめ予想しています。だからと言って編集者は、この事業から決してしり込みする者ではありません。これらの著作物はドイツの数多くの都市に、場合によっては書店が一軒もないような都市に、散在しているのです。したがって新刊本の存在やその価値について、信頼すべき情報が得られることは、読者にとって大変有益なことに違いないと思います。・・・
この目的を達成するためには、編集者は労力も費用も惜しむものではありません。まさにそのためにこそ、この定期刊行物に協力してくれる優秀な人材を探し求めてきたのです。・・・その結果かなりの数の学識者のみならず、その作品があまねく知られているような人までも、この仕事に協力を表明してくださったのです。とはいえあらゆる学問領域の書評に対して、本格的な協力者を満足のいく形で集められたわけではありません。・・・
私たちの計画の規模の大きさと起こりうる様々な困難とを認識されている諸兄は、直面しているいろいろな課題を一度に達成できないとしても、大目に見ていただけることと願っています。例えばこの第一号では、法学に関する書評がありませんが、それは今後の号で取り戻せるはずです。・・・・
最後になりますが、読者諸兄の協力と賛同の気持ちだけが、もっぱら読者のために捧げれれている一つの事業の存続を保証してくれるのです。そのために私どもは、読者諸兄からそうした賛同を得るべく、なお一層尽力していく所存です。

ベルリン、1765年4月20日」

編集方針と編集上の苦労

ニコライは1765年4月の創刊号を出してからも、その協力者たちとたえず連絡を取り、彼らに再三再四手紙や回状を送っていた。そうしたものの一つに、「『ドイツ百科叢書』への協力者各位」(1776年12月12日)がある。そこにはニコライの編集方針が極めて具体的に書き連ねてあり、さらに批評の対象となる書物の入手方法から原稿送付の仕方を経て、郵便料金の精算の仕方まで48項目にわたって、実際的な指示が記されている。その中から重要と思われるものを選んで、次に紹介することにする。これを読むと、18世紀後半のドイツにおける書籍雑誌の出版実務に関連したもろもろの事柄や、雑誌編集の様々な苦労が手に取るようにわかって興味深い。

『ドイツ百科叢書』への協力者各位

「『ドイツ百科叢書』の執筆者全員にあてられた備忘録」
~もっぱらこの事業の外面的処置について~

1 幾多の協力者が迅速にして誠実にその書評原稿をお送りくださっていることには深甚なる感謝をささげるものですが、・・・多くの協力者の原稿の遅れが本誌の発行に次のような害悪を及ぼしていることにも、注意を喚起したいと思います。つまりそれによって多くの書物の紹介が著しく遅れ、読者の不興を買うこと、原稿不足によって、ある号の発行が行えなくなること、そしてそれによって書評誌全体が不完全なものになることです。
しばしば繰り返し督促状を送っても、効果がない場合も多いのです。これは全く割に合わない仕事ですが、この仕事をこれまでなさってくださったのは、一人の尊敬すべき学識者です。この学者としても一流の人が、この仕事のためにいかに多くの時間を費やしているかという事、そしてその時間をもっと有益な仕事に振り向けることもできたという事を、期限を守らない協力者の方々は、とくとお考え下さいますよう。

2 幾多の協力者の方々は安請け合いし、いくつもの分野を引き受ける方もおられます。ところが原稿は送ってこないのです。いったん引き受けると約束した人には、(書評対象の)本を送ってしまいますので、別の人に頼むわけにいきません。
原稿の到着をを待つ側の心配や、督促その他にかかる費用のことも考えてください。

4 受け取りました原稿が、直ちに次の号に掲載されないこともあります。私としましては、常に2~3号分の原稿の在庫がほしいのです。さもないと印刷所との関係で、本誌を切れ目なく定期的に発行していくことが困難になります。

7 一般に質の高い本は少なく、質の悪い本が多いものです。ですから内容の良くない本を引き受けたからといって、別の本に乗り換えるのは無理です。そういう場合には、短評で済ましてくださって結構です。

9 私としましては書評の分量については、特に基準を設けません。とはいえざっと見積もって、一つの書評は16頁以内でお願いします。特に重要な本の場合は、その限りではありませんが。

12 ・・・たいていの読者が求めているのは、その本の全体的で忠実な紹介だと思われます。と同時に単なるダイジェストではなく、的確な評価をつけることも必要です。

14 似たような内容の数冊の本を、一つの書評として取り上げることも、有益でしょう。それによってページ数の節約が図られますし、また読者の方も似たような本を互いに比較することができるからです。

16 長い表題(半ページから一ページに及ぶ)は短くさせていただきます。書評のはじめに記すべき項目は、著者の氏名、身分・職業、印刷地、出版業者、判型、出版年、ページ数としてください。

18 多くの書評には、原著者の書いていることと、評者の書いたこととの区別がはっきりしないものがあります。原著者の言葉を引用する時は、引用符をつけて区別してください。

22 書評原稿はきれいな字で書くか、もしくは清書してからお送りください。それによって多くの誤植が避けられます。ゴタゴタした手書き原稿は、植字工にとっても校正係にとっても、大変面倒なものです。

31 私宛に原稿の小包を送られる場合には、印刷物と上書きして、郵便馬車がとまる場所に出してください。さもないと手紙用の料金を請求されますから。

35 書評用に受け取られた本は、書評原稿と一緒に受取人払いで、私宛に郵便馬車で送り返してください。あるいはライプツィヒ見本市の会場で返してくださっても結構です。また別に日時を取り決めて、返してくださっても結構です。

36 返送用の書物は、包装用布とわらで包んでくださいますよう。また内側に包む紙は、色刷りですと本が汚れてしまいます。

ベルリン、1776年12月12日  フリードリヒ・ニコライ 」

編集発行の実務と刊行の経過

以上みてきた書評者各位への回状によって、この事業を恒常的に続けていくことの困難さについて、ご理解いただけたかと思う。みずから無類の勤勉な人間であったニコライは、書評を依頼された人の中に、怠惰であったり、いい加減であったりという人が含まれていることについて、当初はかなり過小評価していたようだ。皆、自分と同じように勤勉に仕事をしてくれるものと、期待しすぎたようである。

それでもニコライは持ち前の粘り強さで、この大事業をやり遂げたのであるが、多忙なニコライは編集助手として、F・G・リュトケ牧師の助けを得ていた。この人物はベルリンのニコライ教会の牧師であったが、書評原稿の整理やそれに伴う様々な事務的な仕事を引き受けていた。さらにニコライの長男ザムエルも、不定期ではあったが、この雑誌の編集の仕事を手伝っていた。一方印刷の方は、たいていはヴィッテンベルクにおいて、ニコライのもぅ一人の友人で歴史家のJ・M・シュレックの監督のもとに行われていた。

次に刊行の経過についてみると、当初は季刊雑誌として年4回発行というペースで始まったが、新刊書の発行ラッシュという状況の中で、雑誌創刊4年後には早くも6回発行ということになった。何しろ新刊書の年間発行点数は、1763年に1360点であったものが、1805年には4181点に増大しているのだ。1770年発行の第11巻第1号では181点の書物が書評されているが、年間6号の発行として、ざっと一年に1100点も書評されているわけである。大変な努力といわねばなるまい。そして新刊書発行の圧力に押されて、その後は年に、7号、8号、10号、12号、13号、14号と増え続け、ついに1791年には17号にまで達している。そのピークには月刊誌以上のペースだったといえる。さらに1771年以降は、ほぼ5年おきに補巻が発行されているのだ。

このように本誌は順調に発展していったのであるが、1786年にフリードリヒ大王が死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世(在位1786~1797)がその後継者になるに及んで、変調をきたすことになった。この人物は性格的に弱く、神秘主義に傾倒していたため、側室たちやお気に入りの取り巻きが政治を牛耳ることになった。そして次第に反動的な風潮が強まり、出版物への検閲の強化という事態のもとに、この雑誌も何度か発行停止の危険に見舞われた。そしてついに1792年からは、その発行を北ドイツのキール在住の出版者K・E・ボーンに任せることになった。それは手元のバックナンバーによれば、第107巻からである。これ以後本書評誌は『新ドイツ百科叢書』と称するようになったが、編集自体はニコライが依然として引き受けていた。そのため内容の点では継続性が保たれたわけだが、その後状況が好転して、1800年からは再びニコライ出版社が引き取り、1805年の最終巻まで自ら発行を続けたのであった。

啓蒙の仲介者としてのニコライの功績

『ドイツ百科叢書』は、この時代の知のあらゆる領域についての紹介と報告によって、特徴づけられていた。この中で書評の対象として取り上げられた書物は、神学、法学、医学、文学、哲学・教育学、文献学、理学・博物学、歴史学・地理学、美術、家政学、音楽など広範な分野にわたっていた。

そこで注目されるのは、とりわけ初期のころに神学書が多い事である。啓蒙主義者のニコライが目指したものは、何よりも宗教支配の打破という事であたから、キリスト教を学問的に批判する立場から、神学書が書評の対象として大きく取り上げられたものと思われる。これに関連してニコライ研究者のジヒェルシュミットは、次のように書いている。
「もちろん道徳家のニコライは、そのライフワークの発行に倫理的な意図も結び付けていた。ハイネは『ドイツ百科叢書』を、ニコライ及びその仲間が、迷信家、イエズス会士、宮廷の取り巻き連中などと闘った雑誌と呼んでいる。・・・ニコライはこの雑誌の中で、とりわけカトリック正統主義と敬虔主義とに対して、断固たる闘いを行った。そのため60年代、70年代においては、神学の著作物が彼の関心の中心を占めていた。自由な合理主義宗教に関する事柄を社会の中で代表するためだけにも、ニコライは編集という重労働を引き受けたのである」

ここで取り上げられているハイネは、わが国では一般に抒情的な詩人として知られているが、実は少年時代にフランス革命の思想的洗礼を受けた戦闘的な文学者で、のちにパリに亡命したコスモポリタンだったのだ。

それはともかく、ニコライは先に挙げた様々な知の分野に対して、書評者の手持ちがあった。そしてそうした400人を超す学識者たちは、広大なドイツ帝国のあらゆる地域に散在して住んでいたのだが、彼らは一部を除いて、最後までニコライのこの啓蒙的な偉業を支援し続けたのであった。

それはまさに壮大な「知のネットワーク」であったといえようが、このネットワークをニコライはどのようにして築き上げていったのであろうか。「一年のうち4か月は、自分のスタンドがある(ライプツィヒ)書籍見本市や北ドイツの歳の市を訪ね歩いていた」ほど旅行好きなニコライであったから、こうした旅行のたびにドイツ各地に住んでいた友人たちを直接訪ねたこともあったろう。あるいは筆まめなニコライは、手紙のやり取りを通じて、絆を強めていたものとも考えられる。これに関連してドイツ書籍史の専門家ゴルトフリードリヒは、「彼の冷静な性格並びに時代と人間とを巧みに利用した、確実で断固とした組織力」という指摘を行っている。

ニコライは、その40年にわたる書評誌の編集発行の仕事を終えるにあたって、その最終巻の前書きの中で、自分の仕事について次のように自負している。「ドイツ百科叢書によって、無関心や無関心からくる無知から読者が本当に目覚めたとするならば、それこそ私が目指したものなのです。・・・自分は真実と無党派性と有用な知識の普及を求めてきたのだという気持ちこそが、私に力を与えてくれたのです。・・・」
そして彼はそうした人々の意識の変革に、自分は貢献したのだという正当な思いのうちに、その回顧を次のように締めくくっている。「私はこの仕事に対して朗らかな勇気をもって、私の人生の最大にして最善の部分を捧げてきたのです。・・・私はこれまでの人生を、決して無駄に生きてきた、とは思っていません。なぜならわが同胞の最善の人々は、次のことを知っているからです。つまりこの仕事は、ドイツにおける学問知識の進歩発展の途上にあって、異端迫害者、盲目的信仰、書きなぐり、細事拘泥、知ったかぶりの不遜などの減少のために、そしてその反対に理性的自由と人間的で分別のある文化の増大のために、良い影響を与えてきたという事を。」

本書評誌に対する同時代の反応

ベルリン啓蒙主義の機関誌ともいうべき『ベルリン月報』の編集者であったJ・E・ビースターは、ニコライに対する追悼文の中で、この書評誌の功績を次のように称えている。
「われらが祖国ドイツに関する、このように大規模で、あらゆる地域に大きな影響を及ぼした作品は、よその国には全く見られないものである。今初めてドイツは、文献(著作物という意味)の面で、いったい何が起きているのかという事を、知ったわけである。ドイツはそのことを知り、それによって互いにより緊密に結ばれるようになった。その任務は決して小さくはなかったし、また当時全く新しいものでもあった。その任務とは、百マイルも離れた所で印刷された一冊の書物に、ドイツ全土に住んでいる著名人を結び付けることであった。・・・またそれは、それぞれの地域の学問の現状に関する情報を集めることでもあったのだ。」

ニコライの同志であったビースターは、まだ統一国家のなかったドイツにあって、本誌が文化・思想面で、全ドイツ共通の基盤を作り上げるのに貢献するものだという事を、強調しているわけである。

その一方、伝統的・保守的な立場の人々の目には、『ドイツ百科叢書』は一方的な判断によって、刊行されるすべての書物をいわば独裁的に裁定していく巨大な「批評機関」であると、映っていたようだ。そのためそうした敵陣営からは、ニコライに向けてあらゆる種類の誹謗中傷、侮辱が加えられたという。とりわけこれらは啓蒙専制君主フリードリヒ大王の死後に起きた、潮流の変化の中で行われた。そうした時代背景について、ジヒェルシュミットは次のように書いている。

「ニコライがその考えを妨害されずに広めることができたのは、とりわけフリードリヒ大王時代のリベラルな雰囲気のおかげであった。・・・国王に対するニコライの尊敬の念は、王の死に至るまで続いた。・・・実際どれだけ大きな恩恵をこの国王に負っていたかという事を、国王の死後まもなく彼の雑誌がその敵たちによって厳しく弾圧されたとき、ニコライは感じたのであった。人々はニコライ及びその仲間たちを、反逆者、国王の敵、ジャコバン派の手先などと非難した。フランス革命の恐ろしい有様を伝え聞いた人々の耳には、そうした非難は受け入れやすくなっていた。かつてのニコライの友であり、『ドイツ百科叢書』の協力者でもあった国務大臣ヴェルナーも、背教者の不誠実を地で行くように、この雑誌を迫害した。雑誌は1794年4月17日の閣議決定で、プロイセン地域において発禁処分となった。」

実際の話、大王在世中の1775年には、国王勅令によって招集された枢密院の決議によって、『ドイツ百科叢書』は有益な作品である、と宣言されたことを考える時、時代の変化という事を思わざるを得ない。本書評誌が発刊されていた1765年から1805年までの40年間は、極めて変化の激しい時代であった。その最初の20年間にはプロイセン王国の興隆がみられ、同書評誌は『ベルリン月報』とともに、ベルリンをドイツ啓蒙主義の中心にした。そして1770年代末から1780年代初めにかけて、その最盛期をむかえたのである。このことはその発行部数が最大になったことにも現れている。そしてこの時期本書評誌の編集発行人は、ドイツの「学識者共和国」においても、また故郷の町ベルリンにおいても、最も影響力の大きな人物であったのだ。

しかしその後ドイツには、疾風怒濤、古典主義、ロマン主義、観念論など新しい思想や文芸の潮流が相次いで起こり、次第に啓蒙主義は新しい世代から見捨てられるようになっていった。かつて『ドイツ百科叢書』は思想と知識のフォーラムとして、ドイツ啓蒙主義のために統合的な役割を果たした。しかし1780年代後半以降、その影響力は色あせるようになっていった。それは特に神学の分野においてその使命を達成してしまったからだともいえる。本書評誌は長い間、世俗世界における教会の支配と闘い、宗教的寛容を生まずたゆまず訴え続けてきた。しかしその要請がようやく達成されたとき、啓蒙主義はとりわけ若い世代にとって魅力を失ったわけである。

とはいえニコライが1805年に『ドイツ百科叢書』の廃刊を告げた時、ハンブルクのある新聞は、40年にわたる彼の苦労をねぎらって、その功績を次のように称えたのであった。
「40年間続いてきた『ドイツ百科叢書』が今年で 廃刊となる。ドイツの最も重要な学識者たちによって支持されてきた、あらゆる観点から言って極めて重要なこの雑誌は、1765年の創刊以来、啓蒙主義の普及とドイツにおけるあらゆる文化・学問の振興に、計り知れない影響を及ぼしてきた。この雑誌を創刊し編集発行してきた人物は、苦労の多い仕事を倦まずたゆまず勤勉にこなし、その人生の最良の歳月を捧げてきた。そしてそれによって自ら未来に対して不滅の記念碑を築いたのである。」

本書評誌に対する後世の評価

本誌への後世の評価はいろいろあるが、全体としてドイツ啓蒙主義を代表する機関誌として、高い評価が与えられている。その中で主なものをいくつか選んで、次に紹介しよう。
まず19世紀ドイツの歴史家のF・C・シュロッサーは、その『18世紀の歴史』の中で次のように述べている。「ニコライはフランスのディドローやダランベールに倣って、ドイツ流のやり方で、知のあらゆる領域にわたって、新しい啓蒙主義を広めようとしたのである。」
次いで現代ドイツの歴史家で、ニコライ研究家でもあるH・メラーは、ニコライの業績に対して厳正な態度で臨み、批判すべき点は批判しているが、全体として彼を高く評価している一人である。彼はその分厚い研究書の中で、次のように書いている。「『ドイツ百科叢書』は紛れもなく、その多面性、書評者の精神的性向、その情報の規模と質の点で、フランス啓蒙主義の<百科全書>に対抗せんとするものであった。同書評誌は、ニコライやその多くの協力者の考えでは、ドイツにおいて「神学・哲学革命」を引き起こしたのである」
最後にニコライ研究者ジヒェルシュミットの言葉を紹介して、この項目を閉じることにしよう。{ニコライの広い視野は、いずれにしても当時のドイツ文学(学識全般)の狭い辺境的枠組み、つまり(教会の塔あら見渡せる程度の狭い範囲)を越えて注がれていた。ドイツの学識社会の近親交配に対して、彼が常に警告の声を発していたことは、ドイツ社会に対する彼の少なからぬ貢献であった。基本的に言って、彼の『ドイツ百科叢書』は、ドイツ人にとって、(当時欠けていた)精神的な首都の役割を、数十年年間にわたって果たしていたのだ。」

いずれにしてもニコライは、本書評誌の編集者であることを通じて、実践的啓蒙主義のオルガナイザー、宣伝家そして普及者として、ドイツにおいて唯一無二の地位を獲得したのである。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その3

啓蒙主義出版業者としてのニコライ

1 ニコライ、書籍出版販売業を引き継ぐ

「ニコライ書店」の引継ぎ

それまで父親のあとを継いで書店経営を担当していた長兄が1758年10月に突然死去した。そのため書店見習いなどの経験を通じて出版や書籍販売の実務にも明るかった弟のフリードリヒが、25歳で「ニコライ書店」を引き継ぐことになった。

一度は書店の実務から離れ、好きな文芸評論や著作の仕事に専念していたためか、「全く不承不承ニコライは商売の継承を決意した」という。とはいえ父親譲りの実務能力を十分備えていたニコライは、書籍出版販売業を引き継いでからは、自らのやり方で、父親の書店を大きく発展させることに成功するのである。

ニコライはその活動を開始するや、学校時代から愛読し、崇拝していた古代ギリシアの「文芸の父」ホメロスの胸像を自分の書店の入り口の上に掲げた。そして初期の出版物のたいていの表紙に、やはりホメロスの胸像を<出版社標章>として印刷させたのである。

初期出版物のホメロス胸像付き表紙

十八世紀ドイツの出版界

ニコライが成人に達した十八世紀半ばごろ、ドイツの出版界は先進的な北部・東部地域と、後進的な南部・西部地域に分裂していた。北部・東部のプロテスタント地域の書籍出版活動は、古くからの見本市都市で、すでにドイツ随一の出版のメッカになっていたライプツィヒを中心に動いていた。この都市があるザクセン地方では、世紀の前半から道徳週刊誌やポピュラー哲学から文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場には新しい時代の息吹が感じられた。そして書籍取引の方法としては、古くからの交換取引制度が廃止され、新たに現金取引による正価販売が導入されていた。ここではドイツ出版界の合理化、近代化への第一歩が記されていた。

しかし遅れた南部・西部地域では、なお古い交換取引制度が残り、先進地域で出版された書籍の翻刻版(いわゆる海賊版)が花盛り、といった状況も見られた。こうした過渡的な状態はかなり長い間続き、ドイツに統一的な書籍市場が生まれ、出版界が全体として近代化したのは、ようやくナポレオン戦争後の1825年にライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」が誕生したときであった。

ベルリンに生まれ育ったニコライが活躍したのは、この十八世紀後半から十九世紀初頭にかけてのことであった。この時期にベルリンは、ドイツ北部ブランデンブルク・プロイセン地方の中心都市として、ライプツィヒに次ぐドイツ第二の出版都市へと成長していったのである。ドイツ出版史の古典といわれる『ドイツ書籍出版史』の中で著者のゴルトフリードリヒは、「北部ドイツの出版界で全面的に進行した最も重要な変化の一つは、ベルリンの輝かしい興隆であった。それはおよそ七年戦争の終結とともに始まった」と書いている。

この時プロイセンには、のちに大王と呼ばれるようになった国王フリードリヒ二世が関与した七年戦争(1756ー1763年)の終結によって、平和な時代が訪れていて、次のナポレオンによる占領までの四十年間、各方面での発展がみられたのであった。ベルリン出版業界の興隆もその一環とみることができるが、その原動力になったのが、わがニコライその人だったのである。

啓蒙主義の普及に果たした出版業者の役割

この時代のドイツ北部・東部地域は、啓蒙主義によって刻印されていたが、そこで果たした書籍出版や読書の役割には、極めて大きなものがあった。ちなみに研究者ラーベは『十八世紀の出版業者』という論文の中で、次のように述べている。「啓蒙主義は、1764年以降のドイツにおいて、文化的展開も見られたひとつの枠組みであった。増大する書籍出版量と読書への欲求の高まりの中で、同時代の人々が体験したこの変化は、平和的な<文化革命>と呼ばれた。そこでは社会的経済的諸関係が以前に比べて透明度を増し、人々は様々な要求を掲げるようになっていた。また文化的領域では、<シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)>に始まり、のちに<古典主義>へと流れ込んでいった、ひっとつの美的運動が勃発し、さらに啓蒙化された市民社会が生まれてきたのである」

そうした新しい市民社会の形成に向けての啓蒙活動に参加したのは、学識者、著作家、教育学者、経済学者、神学者そして都市及び宮廷で政治活動を行っていた官僚などであった。その際こうした広い意味での学識者の著作活動が大きな役割を果たしたのであったが、これらの著作者と読者の間の仲介という新しい役割を担ったのが出版業者なのであった。そして十八世紀末には、出版業者の存在が重要性を増し、彼らは啓蒙家となり、「国民の恩人」となったのである。

またE・ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、啓蒙主義にとっての出版業者の重要性について、次のように述べている。「ある都市が啓蒙主義の中心地になるかどうかは、経済的前提条件とともに、最終的には近代的な出版事業を効果的に起こすことができたかどうかにかかっていた。啓蒙思想の普及は、新しい文学や哲学を新しい形式ーつまり短い論述の形式(随筆、パンフレット、「道徳週刊誌」への寄稿文など)で引き受けることができた出版業者の存在とむすびついていた。」

当時の出版業の実態

十八世紀ドイツの出版業者は、身分としてはいわゆる第三身分の中の「商人」であった。そして世紀の最初の三分の二ぐらいまでの時期には、その顧客の大部分が学識者であった。出版業者はとりわけ学識者が書いたものを扱っていたが、よその出版業者の本の販売も取り扱い、それらを別の学識者に売っていた。

しかしこうした状況は十八世紀の最後の三分の一の時期に大きく変貌するようになった。翻刻版の普及と読者層の拡大、「物書き」の増加、出版量の増大など、一般に「読書革命」と呼ばれている状況が現出したのである。とはいえ書籍取引の面では、北部・東部と南部・西部とでは事情が異なり、なお長い過渡的な状態の中にあったといえる。

ニコライが出版業の道に入った1750年代には、まだ新しい動きは起こっていなかった。当時ドイツの出版業者は、長いこと変わることのなかった都市的秩序の中に組み込まれていた。とりわけ大学、アカデミー、上級学校が存在し、学識者の顧客が住んでいた都会で、彼らは活動していた。

この世紀の前半、ドイツの出版業者の数はわずか100軒から120軒ぐらいだったという。当時のドイツの総人口は二千万人ほどであったことを考えると、この数は極めて少ないといわざるをえない。出版業者という職業が当時いかに特権的なものであったか、ということがよくわかる。そしてこれに対応して、年間の出版点数も極めて少なく、1765年で1517点であった。この時ようやく1600年の水準に回復したのであった。三十年戦争(1618-1648年)後のドイツの経済的・社会的衰退、とりわけ書籍出版の分野における衰退というものは、にわかには信じられないくらいひどいものであったのだ。

それはともかく当時の出版業者は、薬剤師や外科医と同様、アカデミックな教育を受けたエリートであった。書籍の顧客の大部分が学識者であったから、出版業者としても取り扱う商品である書籍の内容によく通じていて、相談相手になったり、良書を推薦したりできなければならなかったからである。またたいていの書店は、代々受け継がれていく家族経営体であった。そうした書店の店内の様子について、ラーベは次のように、生き生きとしたタッチで描いている。

「書店主は、我々が当時の木版画や銅版画から想像できるような施設、出入りの自由な書店というものを経営している必要があった。そこには天井まで届くような本棚があり、印刷された紙を積み重ねた未製本の書物でいっぱい詰まっていた。一部には製本された書物も本棚には見られた。カウンターの後ろには、書店主が座っており、その店の主な書物に書き込みをしたり、お客と話し合ったりしていた。しばしば店の中には、製本業者が仕事をする場所もあり、お客が未製本のまま購入した本を、その場で製本していた。また書店の中では、店員や徒弟が働いており、お客のためにサービスしていた」

ニコライ書店の様子を描いたものは、残念ながら、残っていないが、おそらく今紹介したものに近いと思われる。ニコライが引き継いだ当時のベルリンには、13の書籍出版販売店が存在していた。その中でニコライ書店は3番目に大きな規模の店であった。また当時のベルリンにはフランス人がたくさん住んでいたので、フランス系書店が5軒あった。それが十八世紀の末になると、ベルリンには全部で30軒に増えていた。こうした出版業界の隆盛には、フリードリヒ・ニコライの活躍とその影響が、しっかり結びついていたのだ。

2 ニコライの初期出版活動

従来の経営方針の継承と新たな発展

ニコライは書店を引き継いだ1758年から1810年ごろまで、ほぼ50年にわたって、書籍出棺販売の経営に携わっていたわけだが、まずは父親の方針を継承することから始めた。例えば父親が行っていた教科書の出版販売は、安定した販路と再販という点で、経営的に利益と継続性をもたらすものであったから、継承することにした。これと関連して教育関係の出版にも極めて熱心に取り組んだが、その際父の時代からの著作者に加えて、新たに何人かの学校教師を獲得することができた。また父の時代からの神学関連の書物の出版も店にとって安定した財源となった。さらに数は少なかったが、歴史学や文献学関連の著作物の出版も続けた。

その一方、書店経営を引き継ぐ以前から著作活動に入っていたニコライは、自らの出版社の著作者としても、しばしば登場するようになった。それは初期には、名のある著作者を記念して発行した著作物の中での伝記的評価という形で現れた。その最初のものは、『春』の詩人作家E・v・クライストに捧げられた(1760年)。

また若き日のニコライの出版計画には英仏文学の紹介という仕事もあった。まず仏文学では、百科全書の編纂の仕事で名高いディドローの作品やマリヴォーの小説などが出版された。そしてヴォルテールの個々の著作物のジュネーヴ版を、委託で受け取り、しばしば自分の店のカタログに載せた。次いで英文学に関しては、A・ポープの作品10編とJ・トムソンの何編かの詩を刊行している。これらの著作物の選考には、啓蒙主義の普及という観点が反映しているのだ。

文芸批評活動と出版業

いっぽうニコライが早くから始めていた文芸批評活動も、ニコライ出版社の営業にプラスに作用した。ニコライは1753年、二十歳にして最初の著作『ジョン・ミルトンの失楽園について』を公刊した。またその二年後には論文「ドイツにおける文芸の現状に関する書簡」によって、1750年代のドイツの文芸批評界で名を成したのである。そしてこの論文がきっかけで知り合ったレッシングとメンデルスゾーンと共同で、ニコライは1757年、評論誌『文芸美術文庫』の編集に携わるようになった。有能な二人の友人の協力を得て、ニコライは文芸批評誌の編集発行という仕事でも、経験を積むことができたのである。

こうした経験を生かしてニコライは、こんどは自らの出版社から、新たな文芸批評誌を編集発行することになった。これが1759年に創刊された『最新文学に関する書簡』であったが、この雑誌は24巻にわたり、1765年まで発行が続けられた。「同時代文学の振興に重要な貢献を行っている出版社という名声」は、ニコライの出版活動にとってもプラスになったことは言うまでもない。

このように文芸批評誌の発行という仕事は、ニコライの出版活動や書店経営をも活気づけ、同社に繁栄をもたらしたのである。この時期ニコライはもう一つ別の評論誌を発行していた。それは『文芸美術振興のための様々な著作集(1759-1763)というものであるが、そこでは同時代の文学、美術及び音楽の批判的摂取を自己の課題としていたという。

このような評論活動の延長線上に生まれたのが、ニコライの主要業績の一つになっている『ドイツ百科叢書』である。これは1765年から1805年まで、実に40年間にわたって発行が続けられた書評誌であった。この書評誌については、書くべきことが山のようにあるので、独立した一章として扱うことにする。

3 本格的な出版活動

ベルリンにおけるニコライ出版社の位置づけ

ここではニコライ出版社がベルリンにおいてどのような位置を占めていたのか、考えてみたい。その際、代表的な出版社の出版量の比較によって、それを見ることにする。ただそれぞれの出版社が出していた全出版物に関する統計資料は、残念ながら見つからないので、ここでは書籍見本市カタログに掲載されていた数字によって、比較することにする。以下の表は、1764-1788年の期間について、ベルリンの十大出版社の出版点数を比べたものである。
出版社名                                 出版点数
1  ゴットロープ・アウグスト・ランゲ             524
2  ゲオルク・ヤーコプ・デッカー               464
3  フリードリヒ・ニコライ                  434
4  ハウデ・ウント・シュペナー                358
5  クリスティアン・フリードリヒ・フォス           342
6  アルノルト・ヴェーヴァー                 335
7  クリスティアン・フリードリヒ・ヒンブルク         267
8  アウグスト・ミューリス                  263
9  実科学校出版会                      240
10 ヨアヒム・パウリ                     239

この表からみて、一位のランゲ社及び当時宮廷書籍印刷所として知られていたデッカー社と並んで、ニコライ社がベルリンにおいて指導的な地位を占めていたことが分かる。

エカチェリーナ女帝との関係

ここでは、ニコライ出版社の著作家であると同時に、最も名の知られた重要な顧客でもあったロシア帝国の女帝エカチェリーナとの関係について、見ていくことにしたい。この女帝はニコライが支店を出していた北ドイツのシュテティンの領主の娘として生まれ、のちにロシアの首都ペテルブルクに赴き、やがてクーデタによって帝位についた女傑であった。

その反面彼女は、若いころから啓蒙思想家と文通し、教育と学芸を奨励し、自らもペンをとって、社会教化を狙いとした論文や作品を発表していた。こうした背景を知れば、この女帝がベルリンの有力な啓蒙出版人フリードリヒ・ニコライと関係を持っていたとしても、なんら不思議はない。女帝はニコライの小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』の愛読者の一人でもあった。また女帝のために営んでいた書店は、ニコライが経営していた全ての店の中で最も儲かっていたという。

これに関連してニコライの伝記作者ゲッキングは1820年に出した『フリードリヒ・ニコライとその文学的遺産』の中で、ニコライと女帝との間に起きた興味深いエピソードを伝えている。

「女帝はその孫たち、つまり現に統治している皇帝アレクサンドル及びコンスタンティン公のために、歴史関係の書物を集めようと思った。そして1783年5月、ニコライに、ドイツ語およびフランス語で出版されたあらゆる歴史関係の作品・・・年代記、年報、古文書の類いまで含めて、しかも世界の全ての国のもののリストを作成してくれるよう依頼した。この膨大な規模の仕事に対して、ニコライが要したのはわずか数か月であった。そして同年9月には、そのリストは女帝のもとに送り届けられた。それは手書きで、かなりびっしり書かれた二つ折り判のものであった。

ついでエカチェリーナ女帝は、これら歴史関係の書物を、すべての国で本当に購入して、彼女のもとに届けてくれるよう依頼した。ニコライはこの要請を受け入れ、その調達の仕事を数年間にわたって続けたのであった。

さらに女帝は1784年の末頃、死んだ言語も生きている言語も含めてあらゆる言語の比較辞典を編集発行しようとして、この大事業に必要な書物のリストを送るよう依頼した。ある学者の手助けによって、これも数か月後には完成して、彼女のもとに送付された。そのタイトルは「世界の全言語リスト、それぞれの言語の語源、起源およびつながりに関する各言語の主要辞書についてのカタログ付き」というものであった。これらの書物もニコライは出来る限り早急に調達しなければならなかった。この極めて膨大な規模の書物の送付は、1787年8月まで続いたが、ロシアとトルコの間に戦争が勃発したため、中断されることになった。

こうした仕事をできる限り完璧に遂行しようとしたニコライの尽力に対して、女帝は満足された。その一方彼女は若き大公殿下たちのために彼女が書いた物語のドイツ語訳の手書き原稿をニコライのもとに送り届けた。これらはニコライ出版社から全8巻の全集として出版された。これにはコドヴィエツキの銅版画が添えられ、美しい装飾的な書物に仕立て上げられた。そして『アレクサンドル及びコンスタンティン大公文庫』(1784-1788年)という表題をつけて刊行された。」

『アレキサンドル及びコンスタンティン大公文庫』

ニコライ出版社の経営と書物づくり

ここでニコライ出版社の経営に目を向けると、そこでは主として予約先払い制度が取られていた。出版物は、フリードリヒ大王をはじめとする高位の貴族や名士たちに献呈されていたが、これらの人々を含めて顧客は、出版に先立って支払いをしてくれていた。そのため出版社としては、事前に十分な出版計画を立てることができたのであった。その前払い人のリストを眺めると、ニコライ出版社の読者層のおよその実態が読み取れる。それは主として学識者を中心とした固定読者層であった。

いわゆる「読書革命」によって新たに生まれていた大衆的な読者層は、ニコライ出版社の場合には、対象外であった。ドイツの書籍取引方法が変わりつつあった過渡期の初めにニコライは位置していたのだが、彼自身は旧来の出版業者の、最大にしてもっとも代表的な一人なのであった。このことは、彼が自分の出版物には、書物の宣伝広告を一切載せないという事にも現れていた。当時他の出版社は本の宣伝広告をよくやっていたのだが、ニコライはこれをやらなかった。それにもかかわらず、ニコライ出版社の出版物はしばしば版を重ね、売れ行きは良かったという。

次にニコライ出版社から出されていた出版物の外形についてみておきたいそれらは十八世紀のたいていの書物と同様に、原則として飾り気がなく、たいていは素朴な灰色の紙に、フラクトゥーア体(いわゆるヒゲ文字)の活字で印刷されていた。そして判型としては、『ドイツ百科叢書』(当時のオリジナルが存在している)と同様の大型二つ折り判であった。

『ドイツ百科叢書』の外形

またニコライは同業者にならって、輸送費を節約するために、ベルリンからあまり遠くないライプツィヒ周辺で印刷させていた。つまりウィッテンベルクのデュル印刷所、ライプツィヒのゾルブリヒ印刷所そしてヘルムシュテットのフレックアイゼン印刷所などであった。

ただ十八世紀も末になると、ベルリン改革派印刷所J・F・ウンガーも、ニコライのために仕事をするようになった。そこで印刷されたものは他の印刷所のものより、はるかに良かった。美麗な判型に印刷されたエカチェリーナ女帝の作品などは、毎ページが枠の中に収められていた。そして作品の中に数枚の銅版画が添えられていた。これら銅版画は書物に品格を与えていたので、その画家としては、当時のベルリンで最も著名な人物であったダニエル・コドヴィエツキとJ・W・マイルが選ばれた。

銅版画家ダニエル・コドヴィエツキ

なかでもコドヴィエツキは、啓蒙主義時代のベルリンっ子であり、ニコライの友人でもあり、またその同志でもあった。そのためニコライ出版社の文学作品には多くの挿絵を描いているが、ニコライが書いたベストセラ-小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』には、15枚の銅版画の挿絵を描いている。

『ノートアンカー』の挿絵(コドヴィエツキー作)

文化史家マックス・フォン・ベーンはその著書『ドイツ十八世紀の文化と社会』の中で、コドヴィエツキについて次のように書いている。

「彼には注文が多くて、どんなに努力しても、それらの注文に応じられないほどの(売れっ子画家)であった。出版社は皆、出版する長編も短編も、年鑑やポケット本も、コドヴィエツキの描く挿絵か、せめてタイトルか扉絵を欲しがった。当時の全ての大衆文学は彼の手によって生命力を与えられていた。また彼は驚くべき現実感覚を持ち、鋭い目と暖かい心でもって現実を観察した。そして常に喜ばしい点を強調し、苦しいところでも一種のユーモアを引き出すすべを知っていた。彼は学者の仕事場にも親しくなかったわけでないが、妻と子供たちの世界である家庭にこそ、彼の心情が込められていたのである。」

ベーンが描くコドヴィエツキは、家庭を中心に据えた健全な良識を訴えてやまなかったフリードリヒ・ニコライとは、まさに肝胆相照らす仲だったのではなかろうか。ちなみに1999年秋にフランクフルトで開催された「ヨーロッパ啓蒙主義美術」に関する展覧会で、ベルリン啓蒙主義を代表する画家として、このコドヴィエツキの作品が十数点にわたって展示されていた。私もこの展覧会を見る機会を得たが、従来注目されることのなかった十八世紀後半の啓蒙主義美術について、ロンドン、パリ、ローマ、サンクト・ペテルブルクなどの主要都市で、新たな視点から光を投げかけたものである。

4 ニコライ出版社の分野別出版物

ジャンル別出版物とその規模

ここではニコライがその長い活動を通じて、どのような出版物をどれぐらいの規模で出版していたのか、見ていくことにしよう。その際長男ザムエルによって経営されていた1779年から1790年までの間も含めて、1759年から1811年までの52年間にわたるニコライ出版社の出版状況をしめす統計資料に基づいて、分析することにする。それは私がこれまでたびたび引用してきたP・ラーベの「出版者フリードリヒ・ニコライ」の中に掲載されているものである。

次の表は、ニコライ出版社のジャンル別出版物を、出版点数と出版巻数に分けて記したものである。これは1作品が1巻の場合は、点数と巻数が一致する。しかし小説などの長い作品の場合は、1点で2巻ないし数巻になる。

分 野                  出版点数     出版巻数
1  小説・詩・戯曲            77      167
2  神学                 68      100
3  教育関連               59       78
4  ブランデンブルク・プロイセン     52       98
5  数学・自然科学            39       57
6  医学                 39       53
7  哲学                 30       37
8  技術・経済              30       55
9  旅行記・地理・国家学         27       47
10 時事問題・論争書           26       34
11 歴史                 25       38
12 文芸学                24       96
13 古典文献学              19       26
14 一般                 16      198
15 言語学                 7        8
16 趣味                  5       25
合 計                  543     1117

各分野の主な著作物

総体としてニコライが出版した著作物には、知識を普及し、偏見を取り除くことを通じて、国民の啓蒙に貢献するという啓蒙主義者の意図が、それぞれの分野で見て取れる。つぎにニコライ出版社から刊行された数ある出版物の中から、分野をやや大きくまとめて、それぞれの主な著作物を取り上げてみることにしたい。

     A  小説・詩・戯曲

この分野は点数及び巻数の点で、彼の出版物の中でトップを占めていた。若いころ熱心に文芸批評活動に取り組んでいたニコライは、1760年代には英語やフランス語の主な文学作品を出版し続けていた。そして1770年代になって、自ら書き自分の出版社から刊行した小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』は、大いに人気を博し、ベストセラーになった。それによってニコライは作家兼出版者として、出版のメッカであったライプツィヒに進出することができた。さらにゲーテの『若きヴェルテルの悩み』のパロディーとしてニコライが書いた『若きヴェルテルの喜び』という短編小説も出版している。これは啓蒙主義者を喜ばせたが、ヴァイマルの文学者たちを怒らせ、以後ニコライへの風当たりが強くなった。

      B       神 学

二番目に多い神学書については、不寛容と盲目的な信仰に対する闘いといった観点から、刊行されている。その際彼が住んでいたベルリンないしプロイセンの牧師及び神学者の著作が優勢を占めている。それらはプロテスタント神学に関連したものであったが、一般に想像されるよりはるかに古めかしさのない、理性的な著作であった。

神学上の作品は100巻(68点)を数えたが、ニコライ家と親しい友人でもあったJ・S・ディートリヒの『イエスの教えによる至福への授業』やF・G・リュトケの『堅信礼の本』は、ニコライ出版社のベストセラーであった。さらにニコライの個人的な友人であったJ・A・エバーハルトやJ・A・ヘルメス、J・M・シュヴァーガー、G・F・トロイマン、R・ダップといった牧師の書いた説教集も出版された。

この分野での最後の作品は、友人で宮廷牧師のW・A・テラーの『プロイセン国における理性と理性的宗教の自由な発展』であった。これは著者が亡くなった後、追悼記念作品として出版されたものだが、刊行後数十年にわたってドイツ人に影響を与え続けた書物であったという。

       C       教育関連

言うまでもなく教育は国民啓蒙の重要な分野であり、ニコライ出版社にとっても欠かすことのできないジャンルであった。教科書は、父親の時代からニコライ出版社の重要出版物であった。毎年のように需要があり、しじゅう再販や改訂版が出されていたから、店の健全な財政基盤になっていたのだ。

その一方ニコライは、プロイセンの改革教育学の振興にも尽力した。こうした改革教育に熱心な人物にF・E・フォン・ロホウという大地主がいたが、この人物が書いた『子供と農民のための教科書の試み』という原稿が、1772年にニコライ出版社から刊行された。また新しい教授法のために尽力したF・G・レーゼヴィッツも、ニコライのもとで『公教育改革のための理念、提言及び要望』(1~5巻、1778-1786年)を刊行している。

     D    ブランデンブルク・プロイセン

このジャンルの著作物は98巻と、巻数の点で第3位を占めている。これに属するものとしては、ニコライ自身の作品『王都ベルリン及びポツダムについての記述』をまず挙げねばならないが、これは彼の重要業績の一つなので、独立の一章として扱うことにする。またニコライが崇拝していたフリードリヒ大王に関連した数多くの著作が編集発行されていた。彼自身もこの啓蒙専制君主に関するエピソードを集めて編集した作品を著わしているので、私も「歴史研究者ニコライ」の個所で論じている。次いで人文科学の分野では、ベルリンで最初の芸術家事典(1786年)が編集刊行されたほか、ブリューメックの『ベルリン演劇史草稿』およびマンガーの3巻本のポツダム建築史関する書物が出版されている。

目を法律や行政の分野に向けると、ニコライと縁戚関係にあったE・F・クラインの法律書が大きな部分を占めている。それらは絶対主義官僚国家プロイセンの官吏たちのための法律ハンドブックといったものであった。さらにプロイセン国家全体に適用される新しいプロイセン一般ラント法に関する教科書も刊行されている。

    E       数学・自然科学、技術・経済

数学・自然科学関連の著作物も、その刊行を通じて、広く知識を普及させ、偏見を取り除き、国民の啓蒙に貢献しようというニコライの尽力の一環に数えられよう。この分野の著作物も全体として、かなりの分量刊行されている。クリューゲルが編纂した四巻本の『百科事典』(1782-1784年)は三版を重ねたが、これは自然科学の領域を越えて、科学技術上の全ての重要な事実を伝えたもので、人々から大変愛読された実際的な事典であった。

またこの分野では、当時の先進国イギリス及びフランスの自然科学上の作品が、ドイツ語に翻訳されてニコライ出版社から刊行されていたことが注目される。

いっぽう技術と経済(ここでは産業というほどの意味)の分野では、およそ30点の著作物が発行されている。ここでの最も重要な作品は、J・K・ヤコブセンが編纂した『科学技術事典』であった。そこには機械技術、マニュファクチャー、工場、手工業に関連したすべての実用的な知識並びにそこに登場するあらゆる作業、施設、道具、専門用語についての記述がなされている。つまりこの実用的な事典は、前工業時代における技術についての極めて有益な参考書なのであった。

         F        医 学

医学の分野の著作物は53巻を数えるが、なかでもプロイセン王室外科医J・A・シュムッカーの作品が目に付く。また彼の同僚であったテーデン及びハーゲンが書いた『外科学及び外科薬品学のためのハンドブック』も注目された。そしてゼンフトが書いた『農民のための健康教理問答』は、健康と病気に関して農民を啓蒙するための典型的な著作であった。ここでも日常生活の改善に資する実用目的への配慮がうかがえる。

              G       旅行記、地理

この分野ではハンガリー、ロシア、東洋、セイロン、シベリア、スペイン、オランダ、イギリスなどの諸地域に関する旅行記や地理学上の論文、統計的著作が、オリジナルな報告または翻訳ものとして刊行されている。
いっぽうドイツ国内の地域事情に関する報告も出版されている。しかしドイツの地域事情については、ニコライ自身の『1781年におけるドイツ・スイス旅行記』が最も重要な作品であった。そのため私としては、『南ドイツ旅行記』という表題の下に、独立した一章として詳しく述べることにする。

    H     文芸学、古典文献学、言語学、哲学

若いころ文芸批評活動に熱心に取り組んでいたニコライは、友人の作家兼学者のエッシェンブルクに文芸学関連の著作をいろいろ書いてもらった。それが『文芸理論草稿』、『学問方法論教程』および9巻ものの選集『文芸理論への先例集』であった。

ついで古典文献学では、5版を重ねたエッシェンブルクの『古典文学ハンドブック』および『ギリシア・ローマ寓話史概観』そしてヘルマン著『神話学ハンドブック』が主な作品であった。

言語学の著作物では、数人の専門家による言語学史ならびに方言の歴史があげられる。

哲学については、数量的にはあまり多くないが、ユダヤ系のドイツ人でニコライの親友であったモーゼス・メンデルスゾーンが書いた『ファイドンまたは霊魂の不滅』が最も重要な作品である。オリジナル版はドイツ語で書かれ、4版を重ねている。またこれは英語、フランス語など九か国語に翻訳され、彼の名声はヨーロッパ中に広められた。

メンデルスゾーンの『ファンドンまたは霊魂の不滅』の見開き

       I      歴 史

この分野では、北獨オスナブリュック在住の注目すべき歴史家ユストゥス・メーザーのいくつかの主要作品がニコライ出版社から刊行されていることを、まず強調しておきたい。『祖国愛の幻想』(四巻、1775-1788)は、週刊誌『オスナブリュック・インテリゲンツブレッター』に連載されたものを、のちにまとめて刊行したものである。後世に大きな影響を与えた作品である。さらに彼の代表作『オスナブリュック史』(三巻、1780年、再版1824年)は、ドイツの社会経済史ないし歴史法学の先駆者の地位を彼に与えたものといわれるぐらい重要な作品であった。

 ユストゥス・メーザーの肖像

そのほかJ・C・マイヤー著『十字軍史の試み』、ハイネス著『トルコの戦術についての論考』、レーマー著『全世紀を通じての歴史世界の叙述』などの著作も出版されている。

なおニコライ自身、歴史には強い興味と関心を抱き続け、歴史関連著作を数冊刊行しているが、その詳しいことについては、独立した一章「歴史研究者ニコライ」の項目で述べることにする。

      J     時事問題・論争書

啓蒙主義者フリードリヒ・ニコライは、何事によらず、学問上、宗教上、倫理上の時事問題に強い関心を抱いていた。そしてこれらのテーマについて、自ら、あるいは他の執筆者が書いた文章を、自分の出版社の雑誌や小冊子に掲載していた。それらは十八世紀の後半になってもなお根強く残っていた迷信や秘密めいた習俗を打ち破って、理性と分別への道を切り開こうという努力のあかしだったわけである。当時自意識を持つようになってきた、精神的、知的問題に関心ある市民層は、これらの時事問題をめぐって、いろいろ議論するようになっていた。こうした背景のもとに、ニコライ出版社の雑誌や論争的小冊子も読まれたものと思われる。

その具体的なテーマをいくつか列挙すれば、「宗教的偽善やいかさまに対する闘い」、「悪名高いヘッセンの上級牧師シュタルクの秘密カトリシズムとの論争」、「薔薇十字団、テンプル騎士団、フリーメーソン及び啓明結社をめぐる論争」といったものであった。

またユダヤ人の啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの友人であったニコライにとっては、ドイツに住むユダヤ人の運命を、啓蒙主義運動の中で、改善していくことは、極めて切実な問題なのであった。この関連で出版された、軍事顧問菅C・W・ドーム著『ユダヤ人の市民的地位の向上について』は、ドイツにおいて最終的なユダヤ人解放へと導いた初期の文献に属する。

十八世紀後半の啓蒙主義の時代以降、二十世紀前半30年代のナチスによる迫害に至るまでの時期は、ドイツにおいてユダヤ人が各方面で活躍した時代なのであった。

5 啓蒙主義出版業者としての理念

出版業についての冷徹な考え

間違いなくニコライは成功を収めた書籍業者の一人であった。しかし同時にドイツ出版史を通じて、最も確かな理念を有していた出版業者でもあった。彼の全作品に散見される書籍出版業に対する理論的見解は、ドイツの出版に対する極めて貴重で、かち文化史的に見て最も重要な史料であるといえよう。それらはとりわけ彼の小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』、一種の自伝『私の勉学修業時代』そしてカントの『本屋稼業』への反論に中に見られるものである。

ニコライはしばしばレッシングやメンデルスゾーンと、自主出版の可能性について議論したり、海賊出版の搾取から著作家を保護することに関心を抱いたりした。その際彼は書籍出版業についての専門的知識の重要性を訴え、それの欠如は結局経済的な破綻につながることを指摘した。また「文学的に優れたものは買い手が付く」というレッシングの考えに反論するなど、リアリストの本領を発揮していた。この点についてニコライは次のように書いている。
「書籍業者という者は文学的な質の高いものによってではなく、多くの読み物が氾濫している都会の読者によって生活しているのである。またわが友レッシングなどついぞ見たこともないような愚か者や、彼の書いたものなど読もうともしない田舎者によっても生活しているのだ。」 優れた書物は大衆性を欠き、人気のある作品は質を欠いている、という古くて永遠に新しい命題について、ニコライは優れて現代的な仕方で対処していたわけである。

十八世後半のドイツには、「物書き」が急激に増え、また読者の数も同じく増大した。しかしこの人たちが読んでいたものの大部分は、後世に名を遺したような大作家の作品ではなかった。この点経験豊かな商売人でもあったニコライは、どんな種類の文学が一般読者の関心を引くかという点について、何らの幻想も抱いていなかった。つまり当時の読者の大部分は精神的な訓練を積んでいなかったために、すぐれた作品に無関心であることを十分知っていたのだ。そして文学的な野心におぼれてはならず、一般大衆の残念ながら極めて低い水準に合わせていくべき、との結論に達したのである。そうして築かれた安定的な基盤の上に立って初めて、ニコライが目指した啓蒙的出版販売も可能になったわけである。

啓蒙的出版の理念

当時プロイセン王国では、フリードリヒ大王の指示によって大規模な法典の編纂作業が着手されていた。ただその作業が軌道に乗り出したのは、ようやく1780年代になってからのことであった。これにはベルリン啓蒙主義を奉じていたニコライの仲間の学識者も多数関与していた。ニコライはこの「プロイセン一般国法典」の中の版権に関する部分を担当していた。そしてそれに関する鑑定書(1790年)の中で、社会一般に対する出版業者の文化的重要性について、再三再四強調している。

「出版者自身が一つのアイデアを持っていて、このアイデアに対して著作者をいわば道具として用いるような著作物が、世にはきわめて多く存在している。・・・私は例のベルリンにかんする記述に対して、最初のアイデアを抱いた。そして他の人々をそのための道具にした。私は彼らに手引きを与えて、コストを負担した。今や私は、私の収穫の果実(成果)を享受する時が来たのだ。出版業者というものは、一般に読者が求めているものを、著作者よりもよく知っている。公衆の利益になる多くの本が、そうした出版業者の発案によって生まれている、と断言できる。」

このような言葉から、公益の代表としての自信がうかがえるが、そうした立場から文学の大量生産化に反対すると同時にドイツ文学の特権化にも、彼は反対していた。それに関連して、「ドイツ人の著作家は、フランス人やイギリス人の著作家のように、大衆向けにわかりやすく書くことができない」という嘆きの言葉を、ニコライは繰り返し。用いている。

自分が書いた小説『ノートアンカー』の中でも、友人の書籍商ヒエロニムスが主人公の問いに答える形で、説明しているので、少し長くなるが引用することにする。

「ノートアンカー: イギリスやフランスの書籍商は、良書に大変恵まれていると聞いていますが。
ヒエロニムス: それはフランスやイギリスでは、作家の層が読者の層に対応しているからです。作家は、読者が必要とし、読むことができるものを書いているのです。
ノートアンカー: ドイツではそうではないのですか?
ヒエロニムス: そういうケースはとても稀ですね。ドイツでは作家の身分の者は、ほとんど自分自身のためか、あるいは学識者身分の人のために書いています。我々のところでは、学識者が文筆家であることはとても少ないのです。ドイツでは学識者というのは、神学者、法律家、医学者、哲学者、大学教授、マギステル、研究所長、学長、副学長、バチェラーなどです。そして彼らは自分の聴講生か従属している人たちのために書いているのです。およそ二万人を数える、こうした学識ある教師やが学生は、残りの二千万人のドイツ語を話す人々を、軽蔑しています。そして彼らのために書くという労をとろうとはしないのです。・・・二千万人の学識のない人々は、この二万人の学識者に対して、軽蔑と忘却の念をもって報いています。彼らは学識者がこの世にいることさえ、ほとんど知らないのですから。・・・学識者は一般向けに書くことを、怪しげな作家、説教集の書き手、あるいは道徳週刊誌の記者といった素人に任せているのですよ。」

ニコライは学識ある著作家に対して、何よりもまず学問性を損なうことなく、一般向けに分かりやすく書くことを要求したのであった。彼によれば、いかなる学問もそれ自身のためにあるのではなくて、他者のためになり、ひいては人間社会全体の公共性に寄与すべきものであったのだ。その意味で彼にとって理想的な出版物というのは、当時隣国フランスやイギリスで発刊されていた百科事典であった。ニコライはこれらを、「哲学的かつ人類愛的な意図から生まれ、様々な学問を同時に概観し、各人の意識を一般的な認識と同調させようとする試みである」として、高く評価していた。

結局ニコライが目指していたものは、まちがいなくまともな書物の読者階層を、それまでそこに属していなかった人々の範囲にまで拡大することであった。その際彼は、いわゆる読書革命によって増大した低俗な読み物の読者を考えていたわけではなかった。質を落としたり、短縮したりしたダイジェスト版の概説書によって、書籍の発行部数の増大を狙ったりはしなかった。
彼にとって大事なことは、あくまでも学問上の専門知識を、大衆化した形で普及させることであった。書物の数の増大だけではなくて、とりわけその内容に誰でも近づけるということが、大切なのであった。そこにこそ彼の言う書籍出版の公共性が存在し、そうしてこそ個々の学問が社会一般に向かって、開放されることになるわけである。

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その2

その青少年時代

1 生誕から書店見習い時代まで

父親クリストフ・ゴットリープ・ニコライ

わが主人公クリストフ・フリードリヒ・ニコライは、1733年3月18日、プロイセン王国の王都ベルリンで、書籍商クリストフ・ゴットリープ・ニコライの息子として生まれた。4人の男兄弟の末の男子であったが、このほか4人の姉妹も含めて何人かは、早死にしていた。ベルリンからあまり遠くないヴィッテンベルク市の市長を務めていた彼の祖父も、本業は書籍商であった。

この祖父の店で働いていたのが父親であったが、祖父の娘と結婚したとき、そのベルリンの支店を結婚持参金として与えられたのであった。この書店には国王から特権が付与されていたが、書店を受け継いだ父親は、やがてその書店にいくらかの名声を付け加えていった。当時プロイセン王国を統治していたのは軍人王と呼ばれているフリードリヒ・ヴィルヘルム一世であった。そしてその後継者となったフリードリヒ大王は、皇太子時代にこのニコライ書店をしばしば訪れていたことを、のちにわが主人公フリードリヒ・ニコライと会見したときに明らかにしている。

当時ドイツの書籍商は一般に書店経営と出版業を兼ねていたが、父親のゴットリープ・ニコライは、出版業の面で、時代の文学的要請に対して確かな勘と才覚を有していた、といわれる。つまり当時大きな発行部数を見込め、儲けも大きかったドイツ語・ドイツ文学関係の書物に目をつけていたのだ。これらと「当時評判の良かった学校の教科書は、彼の名声を高めるのと同時に、その経営基盤を改善した」わけである。

この父親の性格は、倹約、勤勉、厳格そして道徳心や宗教心の厚さ、といった言葉で表現できるものであった。そしてそれらはまたプロイセン王国に生きていた中流市民のプロテスタント的な生活信条そのものであった、といえよう。これはまたプロイセン王国を軍事官僚国家に仕立て上げた軍人王の統治方式に倣ったものともいわれる。

忠実な臣下であったニコライの父親は、時代とその身分に見合った形で、その家族と奉公人と商売を取り仕切っていた「家父長」だったのだ。

ニコライの幼少期

この父親の性格のいくつかを、いくぶん薄めた形で息子のニコライも受け継いでいる。ただ宗教に対しては息子はやがて父親とは大きく異なる立場をとるようになった。またニコライは原ベルリンっ子の典型として、仕事熱心さ、批判精神そして現実感覚の三つを併せ持っていた。これらの三つの要素がやがて彼の運命を大きく左右するのであるが、この点については徐々に明らかになっていくであろう。

権威主義的な父親の厳しさを和らげてくれたのが、母親であったが、この母親をニコライは5歳の時に失うなど、その幼少時代から彼は家庭の温かさには恵まれなかった。この家庭的な保護の欠如が、やがて彼の生涯に大きくかかわっていくのである。そしてその精神生活にも影響を与えたのであった。

中等教育期

幼少期を過ぎて、やがてニコライは教育熱心な父親によって、三つの中等教育機関に通うことになった。まず1746年、13歳でベルリンのヨアヒムスタール・ギムナジウムに1年間通ったのち、ハレにあった孤児院の学校に移り、さらに1748年にはベルリンの実科学校へと転校した。最初に通ったギムナジウムでは、上級生による新入生いじめが、やりたい放題に行われていた。新しく入ってきた生徒は、上級生から好き勝手に殴られたり、いじめられたりしていたが、それに対して教師はなすすべがなかった、という状況にあった。

この学校での息子の発展が望めないことが分かり、父親はハレにあったフランケ財団経営の孤児院の学校に息子を移した。この学校はもともと敬虔主義者のA・H・フランケによって17世紀末から、キリスト教の敬虔な精神の育成と有用な知識の獲得をその教育の最終目標に掲げて作られた一連の学校の一つであった。

しかしニコライがこの学校に移されたときには、フランケの創設から半世紀が過ぎていて、敬虔主義のうわべとかたくなな形式主義に支配されていた。これはニコライの父親の見込み違いであったのだ。敬虔主義を嫌っていたフリードリヒ大王に言わせれば、ただ「偽善的な坊主ども」と「プロテスタントのイエズス会士」を作っていたことになる。ニコライ自身は、のちにこの学校について次のように振り返っている。

「教育のやり方もまたその中身も、すべて伸びようとしている若者の精神の力を抑圧することに向けられていたようだ。魂の抜けた無為無策とうわべを取りつくろった態度が、信心深さなのであった。監督官や教師の下での奴隷的な服従と、信心深さだけが称賛されていたのだ」

ただニコライもシュタインというギリシア語の教師については良い印象を持っていて、彼がいたおかげでギリシア語を勉強したのだと、述べている。このシュタイン先生からニコライは、ギリシア語で書かれた新約聖書の一部を習い、さらにホメロスの『イリアス』から数節を教わったとき、ハレ大学で哲学を勉強していた兄のザムエルにこのホメロスがいったいどんな人物なのか、問い合わせている。それに対して「彼は私にホメロスが文学の頂点に立つ人物であることを教えてくれたが、当時15歳の少年だった私にとっては、ホメロスはまだ早すぎたようだ」と書いている。

とはいえホメロスの存在はその後もニコライの心に残り、のちに出版業を受け継いでから発行した、初期のたいていの出版物には、出版社の標章としてホメロスの肖像が印刷されていたのである。

初期出版物のホメロス胸像つき表紙

しかしシュタイン先生に代わって、細かなことにうるさい教師になってからは、この学校はニコライにとってますます息苦しいものになったようだ。

文学への開眼

学校の中の、こうした息苦しさから、ニコライは、もっと自由で開かれた世界にあこがれ、世俗的な文学を読みたいという欲求にかられるようになった。そんな時、兄のザムエルからニコライのもとに、一冊の文芸雑誌が送られてきた。この雑誌は『ブレーメン寄与』という名前であったが、そこには新しい啓蒙主義文学が紹介されていた。この雑誌を通じてニコライは初めてドイツ詩の概念を得たというが、それはまさに彼の「文学への開眼」であったのだ。

しかしニコライはこの雑誌を学校で自由に読めたわけではなかった。そのことについて彼は次のように書いている。

「敬虔主義に凝り固まったこの学校では、・・・世俗的な本、とりわけドイツ語の本は読むのを禁じられていた。それでも私は何人かの友達に、私の宝物ともいえる『ブレーメン寄与』を持っていることを打ち明けた。ところがそのことがやがて露見してしまった。当時は監督官に対しては、頭を垂れて密告するのが一番だと勧められていたのだ。そのため互いに信頼できる生徒は少なかった。もっとも信心深そうに見せかけていた者が、一番信頼できなかったのだ。私は自分の宝を、人の目につかないところ、つまりわら布団の中に隠したが、それでも見つかって、没収されてしまったのだ」

実科学校への転校

こうした状況を知った父親は息子を再び、ベルリンに新設されて間もない実科学校に転校させた。まさに中国の故事にみえる「孟母三遷の教え」を、地で行くものであったといえよう。

この学校はJ・J・ヘッカ-によって、1747年5月に設立されたものであった。「ヘッカーはハレの教育施設で教師としてフランケ流の教授法を徹底的に学び、1738年から説教者としてベルリンに招聘され、そこでも引き続き研究を行った人物である。・・・1747年ヘッカーはコッホ通りに、図工、幾何、技術、建築、手工芸、家政などを教える最初の小さな実科学校を開設し、翌年にはその学校の教師の数はすでに20名を数えるようになっていた」

この学校は「本来、職人養成学校として設立された学校であったが、しまいには神学、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、地理、歴史、正書法、実業書簡の書き方、数学、算術、音楽、植物学、解剖学、商学、鉱山学などが教えられるようになった。こんな状況だったので、口の悪い人からは、子供たちにこれだけのものを学ばせ、専門家の先生より利口にさせて、どうしようとするのだ、と非難された」

それはともかく、ニコライはこの実科学校に入学したのであったが、ここでの1年間に彼は、その前の二つの学校で得たものよりも、はるかに多くのものを得たという。その具体的な様子を、少し長くなるが、ニコライの自伝から引用することにする。

「私は実科学校に入学したが、そこは全く新しい世界であった。前に通った学校での授業が、わたしには全く面白くなく、無意味であったのに、この学校で学ぶことはすべて興味深く、変化に富んでいるように思われた。そのため最初の一か月、私は喜びのあまり我を忘れた。

植物学の授業では、春から秋にかけて、遠足が行われた。いろいろな雑草、花、木の葉を、家に持ち帰り、乾燥させ標本として、各自が保存することによって、植物の名前を覚えた。
解剖学は、骨格の模型と銅版画によって学んだ。冬になると数回、大学の解剖学教室に連れていかれ、死体を通じて内臓の位置や脳の構造などについて学んだ。
農業経済は、かつて実際に農場を経営していた人から教わった。この先生は私たちを外に連れ出して、農作業の実態を見せてくれた。
理化学では、まず一般的な知識が教えられ、また実験も行われた。理科学教室には、空気ポンプや気圧計、温度計、その他の物理の実験機材が置いてあった。さらに電気は当時まだ全く新しいものであったが、私たちは電気で動く機械のある場所に連れていかれ、当時としては最高級の実験を見せてもらった。
つぎに銅版画や石膏像を見ながら、人間の身体を描いた。最終段階では、一か月かかって、実物のモデルを使って人体をスケッチした。またあらゆる種類の建築学の製図の描き方を教わった。そしてかなり大きな実科学校の校舎を実測させられたし、建物の全体と個々の部分の平面図と立面図を素描し、仕上げをさせられた。
天文学は、ツィンマーマンの天体儀によって教えられた。冬の澄み切った大空にちりばめられた星がくっきり見える夜、戸外に出て星座を観察した。また何度か大学の天文台に連れていかれ、天文学の計測機器や天体観測に関する知識を習得した。

最高に面白かったのは、製作実習の時間だった。この時間には国王の法令に従って、当時ベルリンで親方になろうとする職人全ての資格審査合格作品が、生徒たちのために提示されねばならないことになっていた。クラスの全員が週に2回、ベルリンにあるマニュファクチャーや工場の見学に連れていかれた。そして各人が自分の目で見たものを記録しなければならなかったが、これは同時にわかりやすく明瞭な文章を書く練習にもなった。

必要な場合には、それに製図もつけられた。私がこの製作実習のクラスに出ていた年には、織物と羊毛製品の全工程について学習した。つまり羊毛の洗浄や紡績から布地の仕上げや羊毛製品の光沢仕上げに至るまでである。同様にして帽子や金銀などの貴金属の加工といった家内工業とか、針金製造やモールとか縁飾り加工に至るまでを学習した」

好奇心の目覚め

以上、実科学校の授業についてニコライの生き生きとした報告でお伝えしたが、さらに数学の授業では、機械的な訓練ではなくて、思考の訓練を学ぶことができたという。それはつまり知識の詰込みではなくて、物事の原因と結果について考えさせるという、やりかただったのだ。この原因と結果についての思考訓練は、のちにニコライが歴史の研究に携わったときに、大いに役立ったといわれる。

実科学校でのこのような教授法は、のちにスイスの有名な教育学者ペスタロッチによって形成された「観察こそあらゆる認識の基礎である」という理論を先取りしたものものであったといわれる。こうした状況の中で、少年ニコライの好奇心が、多くの分野で呼び覚まされた。

とりわけ数学の教師ベルトルトから大きな感化を受けた。この教師は生徒の中に、大きな感受性を見出して、数学以外でもニコライを手助けした。一緒になってヴェルギリウスやホラチウスといったローマの作家の古典作品を読んだり、ミルトンの『失楽園』のドイツ語訳を与えて、その語句の美しさにニコライの注意を向けさせたりした。後に彼がイギリス文学に傾倒するようになった、その基盤もこのあたりにあったようだ。

さらにその文章のスタイルを磨かせるために、ベルトルト先生は毎日ニコライ少年に対して、手紙を書かせもした。そして先の孤児院の学校で、宗教というものに懐疑心を抱くようになっていたニコライに、のちに村の牧師になったベルトルト先生は、真の宗教心を目覚めさせたのである。

ところが、おそらくニコライにとって「夢のようであったと思われる」勉学時代は、わずか一年で打ち切られることになった。厳しい父親の有無を言わせぬ命令によってニコライ少年は、現在はポーランドとの国境をなしているオーダー川に面した町フランクフルトの書店に送られることになったからである。今では、フランクフルトというと、国際空港があり、日本人の観光客やビジネスマンにもおなじみの商業都市フランクフルト(アム・マイン)のほうを考える日本人が大半ではないかと思われるが、オーダー川のほとりのこの町は、18世紀には大学もある、かなり重要な町であったのだ。

彼の一生に強い刻印を遺したこの実科学校、とりわけ素晴らしい恩師ベルトルト先生との別れを強制された少年ニコライの心は、「筆舌に尽くしがたい苦痛にみちていた」という。

書店での見習い時代

このフランクフルトの書店でニコライは、1749年から1752年まで、年齢にすると16歳から19歳までの3年間、見習いとして過ごしたのであった。この書店見習いとしての3年間に、ニコライは実科学校で身に着けた勉学の習慣を、さらに本格化させた。

しかしそれはまさに苦学生としての期間であった。父親としては、将来自分の書店を確実に継いでくれる後継者を養成するために、長男だけではなくて、末の弟のフリードリヒに対しても、修業を命じたのであった。その際厳しい家父長であったニコライの父親は、修業中の若者には小遣いを与えず、書店員としての仕事の習得に専念するよう指示した。そのためニコライにとって大学へ進む道は閉ざされたわけであるが、向学心に富んでいたニコライ青年は、まさに疲れを知らぬ熱意をもって、朝の早い時間や営業中の暇な時間を利用して、勉学に励んだのであった。そのころの様子をニコライは、晩年に記した自伝『私の勉学修業時代』の中で、次のように書いている。

「確かに私はそのころ、あらゆる苦労をなめた。冬には大変な寒さにさらされた。店の中も家の中も、部屋は暖房されてなく、夜も朝も明かりというものがなかった。しかし私はこうした苦労を克服することができた。・・・商売上のことには、昼間の三分の二の時間を費やすだけでよかった。そのため余った時間を利用して、あらゆる種類の知識を習得すべく務めた。

私が実行した最初の勉強は、英語の文法書と店の中で見つけた古ぼけた英語の本を頼りに、誰の指導も受けづに英語を学ぶことであった。かなり長い事私は朝食代その他を節約して、照明ランプ用の油を買っていた。それによって私は、冬でも寒い部屋で、朝も夜も勉強できるようになった。夏になってもその節約の習慣は続き、私はミルトンの作品に原文で取り組めるようになった」

勉学修業の継続

こうして彼は独学者の疲れを知らぬ熱意をもって、一歩一歩精神世界へと近づいていったのである。そして様々な領域にわたる彼の傑出した知識の基礎が徐々に形成されていった。新聞・雑誌や、あらゆる種類の書物を手当たり次第に読破していくことによって、のちの彼の博学の基盤が築かれたのだ。

その際かつての恩師ベルトルト先生によって切り開かれたギリシア・ローマの古典への関心は、作家エーヴァルトとの交友を通じて、さらに深まった。当時ニコライはフランクフルト大学の学生たちと知り合ったが、エーヴァルトはそうした学生の一人であった貴族青年の家庭教師をしていたのだ。ニコライは彼から与えられたホメロスのオリジナル版をはじめ、ギリシアの抒情詩人の作品を夢中になって読んでいった。この時以来ホメロスは、ニコライにとって切っても切れない存在になっていくのだ。

さらにニコライは、それまで近づきにくい存在だった哲学も、学生の講義ノートを通じて、瞥見することができた。当時、同大学で哲学を講義していたのは、A・G・バウムガルテンであった。彼は啓蒙哲学者クリスティアン・ヴォルフの弟子で、ドイツ美学の始祖として知られている人物である。独学者のニコライはその講義の一部を盗み聞きするために、教室の扉に忍び寄ったりしたという。そのいっぽう神学の学生パッケと知り合ったが、その講義ノートを通じて、バウムガルテンの論理学、形而上学及び美学を学んだのであった。

これらは全く新しい精神の領域へと彼を導いた。またペスラー教授や法律顧問のフォン・トルといった学識者も、この独学者を受け入れて、その図書室を利用させた。これらの勉学、とりわけバウムガルテンを通じて、習得したヴォルフの哲学から、ニコライは啓蒙思想の豊かな所産を手に入れていったわけである。

しかし学識に対するニコライの姿勢は、大学でのポストを得るために研究を続けている大学教員の細事拘泥主義とは根本的に異なっていて、「現実生活に役に立つか」とか「社会や公共の利益にかなうか」といった基準に基づいていたのだ。つまり彼にとっての学識の意味は、あくまでも社会性、公共性、実用性のはかりにかけられたものであった。こうした基本姿勢をニコライは、すでにこのフランクフルト時代から身に着け始めていたのだ。

これに関連して歴史家のホルスト・メラーは次のように述べている。「ニコライは早い時期から、実生活に即したあり方と実際活動の中での学識とを結び付けていた。彼は前者からは逃れられず、その一方後者なしでは済ますことができなかった。実現不可能な理論を考え出す学者の、誤ってそう思われていたり、あるいは実際に存在する世間知らずな態度こそは、(のちに)彼が哲学論争する時に、(相手を非難する言葉として)持ち出した決まり文句なのであった」

彼が後に信条とするようになったのは、「健全な良識」であったが、そのために彼が身に着けた知識は、あらゆる分野にわたる広範なものであった。それらは、学者・知識人に言わせれば、深く熟考されたものではなく、いわば知識の折衷主義だということになる。しかしそれは死んだ知識ではなくて、社会や公共の役に立つ生きた知識なのであった。その意味でニコライは「象牙の塔」に閉じこもった学識者ではなくて、「生きた社会」のために、その知識を生かそうとした「優れたジャーナリスト」であったのだ。

ニコライが世の中に提供しようとしていたものは、啓蒙の時代にふさわしく、まさに「百科全書的な」知識なのであった。このような姿勢はすでにフランクフルト時代にその萌芽がみられており、そのころ図書館にこもってニコライが考えていたことは、当時の重要な著作家とその作品をまとめて、ある種の事典を作ろうという構想だったのだ。

2 青年時代の活動

ベルリンの実家への帰還

父親の計画では、フリードリヒの書店見習い期間は、1752年の末までであったが、一つには体調を崩したために、もう一つには軍隊勤務から逃れるために、彼はその年の1月にベルリンへ戻り、父親の書店の手伝いをすることになった。ニコライはこの時19歳になっていた。

ところがその数週間後の2月22日に父親が死亡し、その書店は4人の息子たちが所有することになった。ただ書店経営は、長男のゴットフリート・ヴィルヘルムが受け継ぎ、書店見習いをして実務に通じるようになっていたフリードリヒは、全力で兄を助けていくことになった。

そのため彼には、それまでのように勉強していく時間が、ほとんどなくなってしまった。それにもかかわらず、彼は寸暇を惜しんで、勉学を続けたのであった。「朝の早い時間か、夜遅くにしか勉強の時間はなかった。その時間に私は、むさぼるように勉強を続けた。そしてやがて日中にも商売の支障にならないように気を付けながら、本を読んだ。店内の騒音などは気にせずに、読書をしたり、思索にふけったりする術を、身に着けたのである」

やがて父親の遺産をめぐって兄弟たちの間で争いが起こり、結局書店は長兄が単独で受け継ぐことになった。そのためフリードリヒは商売から手を引くことになったが、遺産の自分の取り分とその利子で、質素ながら暮らしていくのに十分な経済的な保証は得られたのであった。

自由の身になって

晴れて自由の身になったニコライは、この後しばらくの間、念願であった学問や文学の研究や、友人たちとの交際に専念できることになった。このころニコライは、ドイツの啓蒙期の最重要な合理主義哲学者といわれるクリスティアン・ヴォルフの教えに取り組むことになった。

「今や私はヴォルフのドイツ語の著作を勉強し始めた。そしてそれを数年間続けた。今や私は、彼の概念規定や彼のとった態度について考えることのできる年齢に達していた。」

ニコライはヴォルフ哲学だけでなく、それまで欠けていた教養を、体系的に身につけようとして、その全エネルギーを注ぐことになった。彼はギリシア語を勉強しなおすと同時に、ヴィンケルマンの著作から刺激を受けて、美術史の勉強にも励んだ。また音楽史の勉強でも、さらに磨きをかけた。以前から和声学を学んでいたが、ビオラ奏者としてもかなりの腕を示した。そのため後年家庭音楽会を開いた時には、ビオラのパートを受け持った。

その一方、この時期に彼は私設図書館の設立も始めている。啓蒙主義の時代は、まさに百科全書の時代でもあったので、ニコライの広範な分野にわたる書籍収集活動は、彼自身の生き方の現れであったのと同時に、時機に叶ったものでもあったのだ。

文芸評論活動の開始

こうした多方面にわたる勉学と並行して、ニコライはすでに執筆活動にも乗り出していた。その手始めとして彼は、学校時代に発見していたイギリスの作家ミルトンの『失楽園』に関する評論を、早くも1753年(20歳)に匿名で発表した。当時ミルトンは、ドイツ語圏の啓蒙の中心地であったライプツィッヒとチューリヒの文芸界で、論争の中心に位置していた作家であったため、この評論は注目を浴びたのである。

その中でニコライはライプツィッヒ在住で、当時ドイツ文学界で帝王と呼ばれていたゴットシェートを批判したのだが、それによってこの人物と対立関係にあったボードマーをはじめとする人々の拍手喝采を浴びたのであった。ともあれこの処女作が文芸界で一定の評価を受けたため、ニコライは自分の作品を公表することに、物おじしないようになった。この時彼は弱冠20歳であったから、書店員としての仕事の傍らに書いたものとしては、かなり早いデビューであったといえよう。

その後ニコライは、当時すでに名声を得るようになっていた作家のレッシングの作品から影響を受けるようになった。レッシングの文体の優雅さと気品が、彼に強い感銘を与えたのである。そしてその軽快な手紙の調子を取り入れて、ニコライは次の作品を1754年にものした。それが『ドイツにおける文芸の現状に関する書簡』で、これは翌1755年に出版された。ニコライの伝記を書いたグスタフ・ジヒェルシュミットによれば、この作品は前述した「ライプツィヒとチューリヒとの間の文学論争に最終的な決着をつけるうえで、少なからず貢献した」という。

ちなみに「18世紀最大の美学論争」といわれている、このミルトンをめぐる争いは、合理主義的かつ擬古典主義的な規範詩学の信奉者たち(ゴットシェート派)と、空想や感情の権利を重視する傾向のあった人々(ボードマー派)との間の典型的な争いであったのだ。またジヒェルシュミットは「この作品の出現によって、ドイツにおける文芸批評不在の時代に終止符が打たれた。ニコライのような、ものにとらわれない、自由な精神の持ち主だげが、名のある人々に対しても批判的に対峙する権利を有した。・・・彼は同時代の、なお地方的なドイツ文学に新たな可能性を切り開くために、両者に対して、容赦ないが、正当だと信じた批判を加えたのである。」とも書いている。

こうしてニコライは文芸評論家としての第一歩を記したのであるが、そこには後年論争家として、様々な論敵と闘っていく自信が、すでにみられるのである。

レッシング及びメンデルスゾーンとの出会い

レッシングの肖像

『ドつにおける文芸の現状に関する書簡』は、のちの大作家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729~1781)の注意を引き付けた。その内容に注目したレッシングは、ただちにその作者と知り合いになることを求めた。当時すでに成功した作家となっており、著名なジャーナリストとしても広く世間に影響を及ぼしていた人物が、緊密な精神的な結びつきを求めてきたことは、若きニコライの自尊心を著しく高めた。

彼は他人との精神面での接触や人間的な付き合いというものを常に大切にしていたので、この人物と親しく過ごしたその後の数年間というものは、まさに陶酔的な気分に満たされていたという。収穫の多かったこの時期を振り返って、ニコライは晩年に次のように記している。

「レッシング及び彼を通じて、モーゼス・メンデルスゾーンとも、1755年の初めに知り合った。そしてこの二人と私は親しい友情で結びつけられた。この友情は、これら偉大な男たちの死に至るまで続いた。・・・我々三人は、当時その花盛りの時にいた。真実への愛と熱意に満たされ、三人は何ものにもとらわれない自由な精神のもと、学問上のさまざまな想念を自らの中に育てること以外に、何の意図も持っていなかった。

二十年以上にわたる我々の親密な交際にあって、一度たりとも誤解が生じたことはなかった。我々の会合では、たいていの場合、活発な論争が起こった。しかし互いに何らかの独善的態度や教師面をとることなしに、多くのアイデアが生まれたのである」

レッシングは各地を転々とする定職のない生活を送っていた。しかしベルリンの滞在中には、これら三人の友人たちは、あるいはニコライ家の庭での朝の集いで、あるいはベルリンの有名なワイン酒場「バウマンスヘーレ」での夜の集まりで、親交を重ねていたのである。ニコライはこのころの三人の談話について、次のように書いている。

「レッシングはベルリン滞在中、しばしば我々の哲学談議に加わった。彼がいるとその談義は、一層盛り上がった。彼は議論をするとき、弱いほうに肩入れするか、誰かが賛成論をぶつと、ただちに独特の鋭い調子で、それに反論を加えたからだ。・・・とはいえレッシングのこの流儀は、ただ反論するのが好きだからだというのではなくて、それによって概念をより明瞭にさせようという意図によるのだ」

この時期ニコライは、傾倒していた寛容と自由の国イギリスへ移住して、みじめなドイツから永遠におさらばしようという思いに取りつかれたことがあった。しかしレッシングとメンデルスゾーンとの精神共同体を捨てたくなかったので、結局この考えをあきらめた。この二人と出会った1755年には、ニコライは22歳、レッシングとメンデルスゾーンは26歳であった。

この後三人はドイツの文芸界、思想界に新たな息吹を吹き込む具体的な活動に乗り出すが、彼らは新しい世代感情を代表していたともいえる。これら三人の啓蒙家が作り出した、実り豊かな精神共同体は、ドイツ文化史上これまで以上に高く評価されるべきであろう。

メンデルスゾーンとの交友

モーゼス・メンデルスゾーンの肖像

モーゼス・メンデルスゾーン(1729~1786)はユダヤ人で、1743年以来ベルリンに住んでいた。その息子は後に、銀行家として経済界で活躍することになり、また孫は日本でもよく知られた音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンである。

14歳の時、モーゼス・メンデルスゾーンは、その先生 D・フレンケルがベルリンに新設したタルムード研究のための高校に移るために、生まれ故郷の町デッサウを離れて、プロイセン王国の王都ベルリンにやってきたのだ。当時のプロイセン王は、啓蒙専制君主として知られているフリードリヒ大王(在位:1740~86)であった。この国王はフランスの名高い啓蒙主義者ヴォルテールを呼び寄せるなど、学芸の振興に努めていた。そしてユダヤ人に対しても寛容な態度をとっていたのだ。

さてメンデルスゾーンは生計のために、はじめヘブライ語のテキストを清書する仕事についた。ついで家庭教師をやり、1754年からは絹取引商 I・ベルンハルトの簿記係として働いていた。そして商売に熱心に打ち込み、やがてそこの共同経営者になった。

彼はニコライ同様、大学には行かずにいわば独学で、M・マイモニデス、キケロ、ユークリッド、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフなどの哲学を熱心に学んだ。と同時に数学も勉強し、さらに住んでいた国の言語ドイツ語のほかに、ラテン語、フランス語、英語も習得した。ユダヤ人であったメンデルスゾーンの母語は、西部イディッシュ語であった。

レッシング及びニコライと初めて会ったときは、著作活動を始めたばかりのころであった。後にレッシングはその劇詩『賢者ナータン』の中で、メンデルスゾーンの面影を描き、この人物の姿を後世に伝えている。しかしニコライとしては、同じ商人であり、同時に学識がある人物という共通性から、彼に親しみを感じたようである。この点についてニコライは次のように書いている。

「我々が知り合ったばかりのころ、対象を考察するその仕方において、私はM・メンデルスゾーンに近いものを感じた。なぜなら彼は、その知識の大部分を人から教えてもらったのではなくて、自らの努力を通じて獲得したからである。彼も、私同様に商人であった。そして我々二人は、様々な対象を、もっぱら大学教育を通じて習得した人とは違った観点から考察することを学んだのである」

ニコライとメンデルスゾーンの二人は、1755年、ベルリン在住のミュヒラー教授によって作られた「学識者のコーヒーの会」の会員となった。会員数は百人で、七年戦争(1756~63)の中ごろまで存続したという。そこでは4週に一度、数学、物理学、哲学などの分野の会員の論文が発表されたという。

またこの時期にニコライはレッシングの手引きで、「月曜クラブ」という会にも入っているが、この会については後述することにしよう。

『文芸美術文庫』の発行

休みを知らないニコライは、知識の吸収・習得に励むかたわら、まずは文芸の世界で世の中に働きかけることを始めた。先の文芸批評の中で、彼は「客観的批評ををすべきである」と主張したのであったが、いまやこのことを自ら雑誌を発行することを通じて、実現しようとしたのである。それがつまり1757年創刊の『文芸美術文庫』なのであるが、メンデルスゾーンやレッシングもこの雑誌の発行に賛成してくれた。そしてライプツィヒのデューク出版社が紹介された。

当時のドイツには、医学、法学、神学、歴史学などの専門的な学術雑誌や、人の役に立ち、道徳を奨励することを狙った、一般市民向けの道徳週刊誌などがあった。これらに加えて、1750年ごろのドイツに入ってきて、1780年代にその最盛期を迎えた文芸評論誌が、啓蒙主義のメディアとして、実にさまざまに発行されていた。ニコライのこの雑誌は、いわばそれらの先駆的存在だったのだ。

ニコライはこの文芸評論誌の編集を担当するとともに、その主要な寄稿者としても、まさに水を得た魚のような活躍を示した。彼はドイツ文学のあらゆる分野に目を光らせたばかりでなく、イギリス、フランス、イタリアにおける新刊書をも批評の対象にしようとして探し回った。またニコライはドイツ人の間に文学とよき趣味を育てることを目指して、絵画、銅版画、彫刻、建築、音楽、バレーなどを、考察の対象に含めた。

彼の本質に深くかかわっていた百科全書性が、すでにこの雑誌にも現れたというべきであろう。彼はこの雑誌を一つのフォーラムと考えていたが、その一例として、ドイツでそれまで長年にわたって続いてきた演劇改革に関する議論に対して、この評論誌を通じて決着をつけようと考えたことがあげられる。

そしてそのために第一号で、ドイツで最良の悲劇に対して、50ターラーを授与するという懸賞募集を行った。この募集を通じて、レッシングはその『エミリア・ガロッティ』の構想への刺激を受けたという。そしてそのほか数人の作家が悲劇作品をものしている。ニコライ自身は第一号に、「悲劇について」というエッセイを発表しているが、それに先立って、彼はレッシング宛の手紙の中で、新しい悲劇の在り方について、次のように書いている。

「・・・悲劇の目的は情熱を浄化し、道徳を形成することだという命題を、私は論破しようと思っています。・・・悲劇の目的は情熱を刺激することだと、私は考えます。もっともすぐれた悲劇は最も激しく情熱を揺さぶるものであって、情熱を浄化するものであってはならないのです」

いっぽうこの評論誌を支援していたレッシングは、1757年8月26日付けのニコライ宛の手紙の中で、友人としての率直な忠告を行っている。

「親愛なるニコライ。今回は少しだけにしておこう。私の考えが、いろいろと貴君の気に入ってくれて幸いです。貴君がそこから使えるものすべてを、役立ててください。ただその前に、われらの愛するモーゼスと一緒に考えてほしいのです。というのは、現在私が陥っている混乱した状況の中では、何か役に立つことを考えるのは、ほとんど不可能だからです。
・・・ただ愛するニコライ、誤植が多いのは自分の責任だと思いますか? これからは貴君の原稿は、もう少し読みやすくしてほしいものです。私がそちらにいないと、どんなおかしな誤植が忍び込むやら!・・・お元気で。たびたびお便りを下さい。貴君の真の友、レッシングより」

やがて歳を重ねるにしたがってニコライは、次第に市民的な健全な良識という事を、文学の在り方としても主張するようになっていくが、それは若き文芸評論家時代の考え方とは、著しく異なるものだといえよう。

それはともかく、この文芸評論誌を始めて二年足らずの1758年秋に長兄が亡くなり、ニコライは25歳で出版社の経営を引き受けざるを得なくなった。それを理由にニコライはこの雑誌の編集の仕事を退き、その仕事をヴァイセという人物に譲ることになった。この人物は雑誌の名称を、『新文芸美術文庫』と改めたが、これは1806年まで続いた。

『最新文学に関する書簡』

その後ニコライは商売のために以前にもまして多忙となったが、レッシングの強い勧めもあって、新しい雑誌を、今度は自らの出版社から発行することになった。これが『最新文学に関する書簡』(以下『文学書簡』と省略)で、1759年1月から1765年7月まで、毎週木曜に発行された。今回はレッシングの忠告に従って、ドイツのことだけを扱い、また内容的にも文学だけに集中することになった。「この賢明な自己抑制から、『文学書簡』は驚くべき魅力を発揮して、人の心に強く訴えることができた」という。

文芸批評誌であるのに、文学書簡という名称がついているのは、七年戦争で負傷した友人の詩人エーヴァルト・フォン・クライストに、最新の文学状況を知らせるという形式をとっているためである。プロイセン王国ににとって運命的であったともいえるこの七年戦争(1756~63年)中の高揚した雰囲気が、この『文学書簡』から今日なお伝わってくる。また書簡という形式はこの時代のごく一般的な文学形式でもあったのだ。

レッシングは初期のころはこの雑誌にたくさん寄稿したが、ブレスラウへ移ってからはそれも不可能になった。その代わりに、責任ある編集者としてニコライは、合計335編の書簡のうち64編、つまり五分の一を自ら書いていた。しかしメンデルスゾーンと二人だけでは、この仕事を長く続けられないと感じたニコライは、第8号から常勤の協力者としてトーマス・アプトという人物を迎えることになった。『祖国のために死ぬことについて』という著作によって文芸界にデビューしたアプトは、ニコライにとって頼もしい味方となったのである。

当時のベルリンの文学界の生きた証言になっていたこの『文学書簡』の中では、様々な文学問題が扱われていた。しかしその率直さが、例えば神学に関することでは、正統派神学者の強い反発を呼んだ。その結果この雑誌は一時ベルリンで、発禁処分を受けたりした。

当時すでにニコライは、正統信仰派や敬虔主義者から自由思想家ないし異端者と見なされるようになっていたのだ。そして彼や彼の仲間たちは、侮蔑的に「ニコライ派」と呼ばれていた。このころからニコライは終生、様々な文学上・思想上の敵と立ち向かうことになったわけである。

それはさておきジヒェルシュミットによれば、『文学書簡』は商業的にも成功をおさめ、「今日なおドイツ文学史上に確固たる地位を主張できる」という。そして「そこには文学上の啓蒙主義が高らかに宣言されている」とも彼は書いているのである。またH・メラーも、「・・・文学史的に見れば、(のちの『ドイツ百科叢書』よりも)実り多いものであり、レッシング、メンデルスゾーン、アプトの協力を得て、内容面でも、言語面でも、高い水準にあった」と述べている。

とはいえ、あらゆる困難や停滞にもめげずに、雑誌の発行という事業を推進したのは、ニコライなのであった。啓蒙主義の文学や思想を広く一般に普及させて、ドイツの一般的な文化風土を変革していくことこそ、ニコライがその後終生にわたって、目指したものであった。一般に啓蒙主義の普及に果たした出版業者の役割は大きかったが、出版業者で同時に雑誌編集者でもあったニコライの二重の役割は、格段に評価されてしかるべきであろう。

 

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その1

まえがき

私はこのブログにおいて、2020年3月以来、月に1回のペースで、自分の研究テーマの中核をなすヨーロッパの出版文化史についてずっと紹介してきた。まずヨーロッパの源流ともいえるギリシア・ローマ時代の書籍文化について詳しく紹介した。次いでヨーロッパ中世の書籍文化について簡単にふれた後、15世紀におけるグーテンベルクの活字版印刷術の発明とその伝播についてかなり詳細に書いてきた。この時以降、それまでの筆写による書籍文化から出版文化へと変わったわけである。そしてその出版文化の歩みを18世紀までたどり、前回2021年12月には、「18世紀ドイツ啓蒙主義と文学市場の誕生」について紹介した。

さて今回はその18世紀ドイツ啓蒙主義に関連した重要人物であるフリードリヒ・ニコライについて取り上げることにする。

フリードリヒ・ニコライの肖像

フリードリヒ・ニコライとは何者か?

おそらく皆様の中で、フリードリヒ・ニコライ(1733-1811)についてご存じの方は、きわめて少ないと思われる。この人物は18世紀ドイツの啓蒙知識人で、同時に大出版業者なのであるが、わが国では、これまでドイツ文学やドイツ思想の専門家がその名前を知っているぐらいであった。

しかし私はドイツの出版史を研究する過程で、この人物の存在を知ったわけである。つまり『ドイツ出版の社会史~グーテンベルクから現代まで』(三修社、1992年12月発行)の原稿を執筆している時であった。その第4章「18世紀半ばから1825年まで」を書く過程で、18世紀ドイツ書籍史研究家であるパウル・ラーベの研究に出会った。ラーベはニコライ書店の在庫目録に基づいて様々な角度から分析しているのだが、私はこの研究に依拠して、啓蒙主義時代のドイツの出版状況を記述したわけである。その時以来、ニコライという人物に強い関心を抱くようになった。

そして我が国においてニコライがどれぐらい一般的に紹介されているのか知るために、戦後発行された主な百科事典にあたってみた。しかし多くの百科事典にはニコライについての記述が見当たらなかった。ただ平凡社の「世界大百科事典」の場合、1981年の版にはまだないのに、1985年版からは、その名前を独立した項目として取り上げている。そしてそこには次のように記述されている。「ドイツの出版業者、著述家。ゲーテ、シラー、カント、フィヒテらを攻撃したため、頑迷な啓蒙主義者と見みられがちであるが、啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者、ベストセラー作家、批評家として、その多角的な活動は、ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM・メンデルスゾーンの助けを得て、ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し、文化の媒介者の役割を果たした。(岩村行雄)」

この短いが、要を得た記述によって、この人物の業績の概要は理解されよう。ニコライの名前が日本の百科事典にも取り上げられるようになったという事は、実は近年ドイツにおいてニコライに対する再評価の動きが盛んになってきたことの、まさに反映だといえるのである。

私のニコライ研究の経緯

さてニコライとの私の二回目の出会いは、以前勤めていた日本大学経済学部の図書館が、1995年に、ニコライが編集していた書評誌『ドイツ百科叢書』のオリジナル版全135巻を購入するにあたって、推薦状を書いたときであった。幸いこの雑誌は購入され、私としてはいつでも利用できる状況になった。

『ドイツ百科叢書』
(全135巻のうちの2巻。右側中央に描かれているのは、
古代ギリシアの詩人ホメロスの胸像)

これが契機となって、私はニコライについて論文を書こうという気持ちになり、関連の文献や資料の収集に全力を傾けることになった。とはいえニコライについて日本語で書かれた論文はわずかで、本格的な研究著作は皆無であった。しかしドイツにおけるニコライ研究はかなり進んでいて、その成果もどんどん刊行されていた。新しいものは国内の洋書輸入書店を通じて購入することができた。ただ十年・二十年以上前に発行された図書などは、このルートでは無理なので、以前からたびたび訪れていたフランクフルト・アム・マインの「ドイツ書籍出版会館」内の図書館に行き、必要な文献・資料をコピーした。

そしてまた当時ベルリンに「ニコライ出版社」が存在していることも分かった。そこで早速ベルリンに飛び、都心部にある同出版社を訪ねた。ニコライは子供たちに先立たれ、血のつながった後継者はいなかったのだが、ボイアーマン氏が社長をしていて、幸いなことにこの人物に会うことができた。同出版社では当時なお、ニコライ関連の図書も刊行していた。そのうえベルリン郊外にある社長の自宅には、ニコライ関連の初版本など貴重図書を含めた私設文庫があった。私はそれを利用することができ、貴重書はコピーを取らせていただいた。また一般的な性格の文献・資料は数点、譲り受けることができた。

さらにこのボイアーマン氏には、ニコライが熟年期から晩年にかけて住んでいた邸宅にも案内していただいた。そこは統一ベルリンの中心部(ウンターデンリンデン大通りのすぐ近くのブリューダー街)に位置していて、建物の外壁には「ニコライ・ハウス」という銘板が貼られていた。建物の内部は、東独時代には政府関係の事務所として使われていたというが、その時は空き家になっていた。

            ニコライ・ハウスの外観

こうしてある程度の準備ができた段階で、私は順次論文を書き始めた。ただ多方面な活躍を見せていたフリードリヒ・ニコライについて、はじめのうちはその全貌がつかめなかった。しかしそれまでドイツ出版史を研究していたところから、まず出版業者としての側面から入っていった。その結果、「出版業者としてのフリードリヒ・ニコライ」(1996年4月)と題する論文が出来上がった。これを書き終えた時、漠然とながらニコライの様々な業績を順次解明していこうという心構えが出来上がった。

そしてその後さらに、18世紀ドイツの社会文化史という大きな枠組みの中で、この啓蒙知識人がその時代において果たした役割、ならびに後のドイツ社会の変革に及ぼした影響について、明らかにしていこうと思うようになった。こうして先の論文を含めて7つの論文を、日本大学経済学研究会の『研究紀要』に発表していった。それらは

ー フリードリヒ・ニコライの『王都ベルリン及びポツダムについての記述』について。

ー フリードリヒ・ニコライの『ドイツ百科叢書』について

ー フリードリヒ・ニコライの生涯

ー フリードリヒ・ニコライとベルリン啓蒙主義

ー フリードリヒ・ニコライの『南ドイツ旅行記』について

ー 歴史研究者としてのフリードリヒ・ニコライ(2000年10月)

これらの論文が出来上がる前から私はこれらを素材にして、一冊の本を書きあげようと考えるようになった。その際各論文の間に重複していた部分は調整し、資料的な性格の部分は、巻末にまとめて資料編として掲載した。こうして完成した本が、『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(朝文社、2001年2月)である。

これから紹介していくブログの中身は、おおむねこの本に基づいているが、一般の読者向けに、やさしくかみ砕いて書くようにしている。

ニコライについての評価の変遷

<19世紀から第二次世界大戦までのニコライ評価>

19世紀の初めから第二次世界大戦ごろまで、ドイツの政治的、社会的傾向はおおむねナショナリズムに彩られてきたといえよう。そしてその一方文化的・精神的潮流としては、そうした政治や社会あるいは経済の動きから超然とした新人文主義や教養主義の流れの中で、文学、哲学、芸術、科学などの精神文化が花開いてきた。長い間ドイツは「詩人と哲学者の国」として、知られてきたわけである。

ニコライはゲーテ以下の作家や哲学者たちとその晩年に行った論争の結果、そうした人々から仮借ない非難を受けた。そしてその後いま述べたような時代状況が続く中で、そうした評価を受け継いだ文学史家や哲学史家によって、軽蔑と酷評のまなざしで眺められてきたのであった。つまりその間ニコライは、もっぱら文学史や哲学史の枠組みの中で、低い評価に甘んじなければならなかった。そうした状況の中では、ニコライの生涯や業績に客観的な立場から取り組むのが困難であったことは、容易に想像がつく。

しかし何事にも例外があり、19世紀の末にニコライないし啓蒙主義を高く評価する人物もいた。その一人がテュービンゲン大学の事務局長を務めていたグスタフ・リューメリンであった。彼はニコライの旅行記のシュヴァーベンに関する部分について1881年に論文を書いた。そしてその中で「ニコライは出版の自由、民衆教育の拡大と時代への適応、農業及び産業における規制撤廃、ドイツの学問の大衆化などのために闘った、実際的な思想家であった」と書いている。つまりそこでニコライの時代に先駆けた先進性を指摘しているわけである。

もう一人は著名なプロテスタント神学者のエルンスト・トレルチュであった。彼は啓蒙主義を高く評価した論文(1897年)の中で、ニコライの小説に言及し、またベルリン啓蒙主義の中心人物としてのニコライとその書評誌『ドイツ百科叢書』にも触れている。この神学者については、後でもう一度触れることにする。

次いで第一次世界大戦後になると、19世紀の精神潮流にも変化がみられ、ニコライ評価もかなりバランスの取れたものとなってきた。そのためこのころ書かれた18世紀ドイツの文化・思想に関する著作の中では、ニコライについて長所と短所の双方を取り上げて論じられている。例えば文化史家マックス・フォン・ベーンはその『ドイツ18世紀の文化と社会』の中で、次のように記している。「かわいそうにフリードリヒ・ニコライは<頑迷なるベルリン人>の原型にされてしまうという運命に甘んじなければならなかった。つまり、せかせかした落ち着きのなさ、味気ない考え方と尊大な饒舌に加えて、万事についての知ったかぶりの故にである。しかしこの<文明開化>の使徒は、その欠陥すべてを認めたうえで、なおかつ彼の時代に不可欠の人間であったという事ができよう。・・・啓蒙主義を勝利に導いたことがそもそも一つの功績であるとすれば、この名声のかなりの部分が、フリードリヒ・ニコライに帰せられてしかるべきである。彼は存命中にこの名誉を勝ち得たが、1811年に七十八歳で死んだときには、この名声はすでに過去のものとなってしまっていた。」

同じく文化史家エーゴン・フリーデルはその大著『近代文化史』の中で、ニコライに一項目を与えて、次のように評価している。「実直で知識豊かで、賢く才能のあるこの男は、有名な書店主の家柄に生まれ、商人と文士のあいの子のような人物であり、時代の思潮をくみ出して発表する才能にたけていた。だが、その一方では、彼自身の凡庸さとひとりよがりによって、送られてくる原稿を編集するために、たいそう露骨な結果をもたらした。そのうえ・・・偏狭な合理主義のために、高慢で浅薄な上げ足取り批評の、世にも名高い模範例となってしまった。・・・そうであるにもかかわらずニコライの名誉を回復してやりたいと思う。・・・ニコライは生粋のベルリン人であり、論理的で即物的であろうとする善意に満ち、月並みな文句や現実離れした空想や山師的な言行にはたいそう強い不信感を抱き、極めて堅実で、非常に勤勉で、すべての物事に関心を寄せ、常に諧謔的精神を働かせる人物であった。」

<第二次世界大戦後のニコライ再評価>

第二次世界大戦後になると、1949年、分割されたドイツの西側にできた西ドイツ(ドイツ連邦共和国)においてすべての状況が変わった。東側にはソ連の影響を強く受けた社会主義の東ドイツ(ドイツ民主共和国)が生まれたが、この国のことはこの際置いておく。さて西ドイツでは、精神文化の領域においては、1960年代に入って、新しい世代が活躍するようになった。そして19世紀初めから第二次世界大戦まで続いてきた精神文化の潮流を見直す動きが出てきた。その中でドイツ18世紀史の再評価の動きが生まれてきたのだ。

ニコライ再評価も、まさにこうした流れの中で起きてきたのであった。初めはなお文学史的な潮流に棹さす形でモレンハウアーが、ニコライの作品中に見られる諧謔や皮肉に目をつけて、『ニコライにおける諷刺』という著作をあらわした。ついで70年代の初めにジヒェルシュミットは、ニコライの生涯と業績について、まとまった作品を著した。これはニコライの生涯をかなり忠実に描くのと同時に、啓蒙主義者としての業績を、主にその文学的な面に即して評価・叙述している。そしてその出版活動についても、なお一般的な評価にとどまるとはいえ、肯定的にとらえている。

いっぽうニコライ再評価のうえで画期的な役割を果たしたのは、ドイツ近現代史の歴史家ホルスト・メラーであった。彼は1974年に600頁を超す大著『プロイセンにおける啓蒙主義~出版者、ジャーナリスト、歴史叙述者 フリードリヒ・ニコライ』を刊行した。ここでメラーはニコライという人物を通じて、プロイセン啓蒙主義の全貌を余すところなく、描いているわけである。そしてこの作品は歴史家によって書かれたニコライに関する本格的な研究書なのである。

つまり従来の文学史的な評価から離れて、ニコライのジャーナリスト(時事評論家)並びに歴史叙述者としての側面が強調されている。そしてベルリンないしドイツの啓蒙主義の仲介者として果たしたニコライの大きな役割が明らかにされているのである。そこには歴史家としてのメラーの鋭い批判的な見解が随所にみられる。とにかく本著作によってニコライという人物に対する評価が、従来の文学史的な狭い枠組みから解き放たれ、ドイツ18世紀の社会史ないし文化史という大きな流れの中で行われるようになったわけである。その意味で私としても、メラーの著作には一方ならず世話になっているのだ。

<ニコライ生誕250周年記念行事>

こうして1960年代から始まった新しい動きは70年代を通じてさらに促進され、ニコライ研究はその生誕250周年に当たる1983年に、ひとつの大きな画期を迎えることになった。まずこの年にニコライの生誕地ベルリンにあるニコライ出版社から、生誕250周年記念論文集が刊行されたのである。そこには研究者9人の論文が掲載されている。まず今紹介したばかりのホルスト・メラ-の「歴史家としてのフリードリヒ・ニコライ」に続いて、、これも著名な歴史家であるルドルフ・フィアハウスの「フリードリヒ・ニコライとベルリン社交クラブ」、さらにW.マルテンスの「旅する市民」、パウル・ラーベの「出版者フリードリヒ・ニコライ」そして編集者でもあるB・ファビアンの「ニコライとイギリス」など、ニコライの多様な側面を専門的に研究した、優れた論文が収められているのである。

ちなみに18・19世紀の書籍出版史の専門家であるラーベは、翌年自らの論文集を刊行している。そこには「啓蒙のプロイセン出版業者フリードリヒ・ニコライ」のほか、「18世紀の出版業者」や「啓蒙のメディアとしての雑誌」などが収められているが、これらは私も利用させてもらっている。

生誕250周年記念行事としては、もう一つ、生誕地ベルリン(当時は西ベルリン)で催されたニコライの生涯と業績に関する大規模な展示会を忘れることができない。これは1983年12月7日から1984年2月4日まで開かれた。そしてこれを記念して、展示した書籍や雑誌、手紙、肖像画その他ニコライに関連した様々なものを、図録や写真として収録した立派なカタログ『フリードリヒ・ニコライ~生涯と業績~生誕250周年記念展示』が発行された。これには展示物の中から選んだ図版や写真に対して、詳しい説明書きが添えられている。また冒頭にはニコライの生涯と業績について簡潔に記した序文も掲載されていて、一般の人々のニコライ理解を助けている。ともかくこの展示会は、それまで一般にはあまり知られていなかったの思われるニコライについて、初めて大規模な形で紹介したものだったといえよう。

そのご1988年に刊行された三巻本の文学事典『文学ブロックハウス』でも、ニコライの項目には比較的大きなスペースが与えられ、「後期啓蒙主義の学問・文芸の仲介者」としての側面が強調され、最新の学問上の成果が反映されている。

その一方、ニコライの全作品を学問的に批判・吟味して復刻する動きも始まった。その一環として1985年からゲオルク・オルムス社の『ニコライ全集二十巻』(復刻版)の刊行が開始され、15年の歳月を経て、1999年に完結している。これは当時用いられていたフラクトゥーア体(いわゆるヒゲ文字)で印刷されていて、専門研究者向けのものである。

これとは別にニコライの作品を広く一般の知識人や、世界の人々に向けて紹介する意図をもったのが、1991年以来ペーター・ラング社から刊行されている全集『フリードリヒ・ニコライ。全著作、手紙、記録』である。これは現代人のために現代のドイツ文字に直して印刷されているが、文章の表記は18世紀のニコライの時代のままになっている。その代わりに、現代人のために極めて詳しい註と解説が付けられている。「ベルリン版」と称されてはいるが、発行地としては、そのほかニューヨーク、パリ、ヴィーン、ベルン、フランクフルトの名前が記されている。そこにはニコライないしドイツ啓蒙主義を欧米全地域に認知させようとする編集者・出版社の意図が感じられる。

ドイツ18世紀史研究の活性化

ところでこれまで述べてきた近年におけるニコライ再評価の動きは、1960年代から徐々にみられるようになってきた「ドイツ18世紀史研究の活性化」と密接に結びついていることは、言うまでもない。このことを最もよく示しているのが、1976年に刊行された論文集『ドイツにおける啓蒙主義、絶対主義及び市民階級』である。

ここには12の論文が収録されているが、その編集にあたった人物は、ドイツ人社会史家フランクリン・コービッチュである。その刊行の意図は、編集者が書いた巻頭論文「研究課題としてのドイツ啓蒙主義の社会史」の中に、明瞭に示されている。その中で彼は「啓蒙主義は哲学や文学のみならず、あらゆる生の領域を包括した改革運動であったので、個々に孤立した視点からでは十分な分析が行えない。その研究には諸学問の協力が必要である」ことを訴えた。そして「こうした観点から、この論文集には、歴史家、ドイツ文学者、哲学者、神学者、教育学者などの論考を集めたわけである。」と、まず強調した。

そして1975年3月に、18世紀ドイツ啓蒙主義の代表者であるレッシングゆかりのヴォルフェンビュッテルに、「ドイツ18世紀研究会」が設立されたが、これによってその方面の学際的研究が推進されることを、コービッチュは切に願ったわけである。それから彼は先の巻頭論文の中で、啓蒙主義の担い手の階層、改革プログラム、そしてドイツ啓蒙主義の到達範囲などについての体系的な研究が必要なことも、述べている。
さらに彼は、ドイツ18世紀史研究に欠かせない様々な課題を列挙して、すでに達成された成果として、収録したほかの11の論文を、要約した形で紹介している。これら11の論文はそれぞれ興味深いものであるが、ここでは18世紀ないし啓蒙主義を総体として扱っている3つの論文を取り上げて、その内容をごく簡単に紹介することにしよう。

<トレルチュの先駆的業績>

まず第一に紹介するのは、19世紀末のプロテスタント神学者E・トレルチュの論文「啓蒙主義」である。最初にトレルチュは、啓蒙主義の特徴を、次の3点に絞って述べている。
(1) 啓蒙主義は、それまで支配的であった教会的・神学的文化と対立した、ヨーロッパの文化と歴史の本来的な近代の開始を告げる思想である。(2)しかし啓蒙主義は学問的・思想的な運動に限られたものではなく、あらゆる生の領域で起きた文化の総体的な変革運動なのである。(3)その傾向としては、普遍的に通用する認識手段を通じて、世界を内在的に説明することと、一般に通用する実際的目標のために、生を合理的に秩序づけることがあげられる。

次いでトレルチュはこうした視点に立って、ヨーロッパ全体を視野に収めて、啓蒙主義の具体的な特徴を、さまざまな分野に分けて述べている。そこではオランダ、イギリス、フランスとの比較において、ドイツの啓蒙主義の流れを、具体的に叙述している。その意味においてドイツ啓蒙主義に関する古典的な論考なのであるが、19世紀末から第二次世界大戦までの民族主義隆盛のドイツでは、ほとんど顧みられなかったのではなかろうか。

<フィアハウスの18世紀見直し論>

第二の論文は、ドイツの著名な歴史家ルドルフ・フィアハウスが1967年に著した「18世紀のドイツ。社会構造、政治制度及び精神運動」である。フィアハウスは、その冒頭でハンナ・アーレントが1960年にレッシング賞を受賞したときに述べた「レッシングと我々の間には、18世紀ではなくて、19世紀が横たわっている」という言葉を引用している。つまり彼は、これまでドイツで18世紀が注目されてこなかった理由を、19世紀が立ちはだかってきた点に求めているわけである。しばらくフィアハウスの言葉に耳を傾けることにしよう。

「ドイツにおいてはとりわけ18世紀と19世紀の継続性という事が、問題となる。政治的な革命や社会的な変革は起きなかったとしても、その頃神聖ローマ帝国が崩壊し、帝国教会領、帝国騎士領、ほとんどすべての帝国都市領が消滅した。その結果ドイツの地図が大幅に塗り替わったのだ。そしてそれらのことどもが、ドイツ人の心の中に、フランス革命(注:1789年)以前の世界の状況は取り返しのつかない地点へと沈んでしまった、との感情を呼び起こしたのだ。さらに重要なことは、1770年から1830年の間の数十年間に起きた文学上・哲学上の黄金時代が18世紀にとって代わって現れ、後世の観察者の前に、どっかと立ちふさがってしまったことである。そして古典主義(注:ゲーテ、シラーに代表される)、新人文主義(注:W。フンボルトなど)、理想主義、ロマン主義、歴史的思考の開始などが、啓蒙主義的合理主義や自然法思想への反撃ないし18世紀の克服として理解されて来たのである。

啓蒙主義は一方的に合理主義的で、抽象的で、非歴史的で、非宗教的であり、この時代の国家は魂のない機械であり、教会は硬直化し、文芸はただ教訓的なだけだ、という観念が長い間、学問の世界と教育界で、支配的であった。さらにヨーロッパ(注:イギリス、フランス)の啓蒙主義からの転換こそが、ドイツ精神界の特別の功績であると認識され、またドイツ人の民族意識が1800年ごろの文化的な展開から、最も強い刺激を受けたという事情が加わる。

しかし最近になってドイツにおいても、18世紀に対する新たな関心が生まれてきている。そこでは18世紀は緊張に満ちた時代、数多くの変化とりわけ人間の意識の根本的変革の時代、そして進歩と危機の時代として描かれている。・・・いわゆる近代世界の根本的命題はすでに18世紀に論じられてきたし、近代世界の基本構造はすでに当時、その兆候が認められる、と主張できるのだ。しかし18世紀が与えた解答は、19世紀のそれとは異なるものであった。そして今日、啓蒙主義の時代の思想や思考スタイルに対する新たな理解や、新たな要求が出てきているのだ。」

<セインの啓蒙主義再評価>

第三の論文は、アメリカ人のドイツ18世紀史研究者トーマス・P・セインが1974年に著した「啓蒙主義とは何か~ドイツ啓蒙主義との新たな取り組みについての文化史的考察」である。この論文の導入部分でセインは、まず「18世紀の啓蒙主義がドイツにとって近代の始まりを意味することは、全く疑いのないところである」と書いている。しかしその後「18世紀は、ルネサンス以後のドイツの文化史において、研究され、評価され、理解されることが最も少なかった時代である」と付け加えている。

その理由として彼は、ドイツの諸領邦国家が16世紀半ばから18世紀半ばまでの200年間、政治・経済から文化・科学の研究に至るまで、イギリス、フランス、オランダに比べて、決定的な遅れをとったことを挙げている。そして「三十年戦争による恐るべき荒廃と非合理的な宗教論争が18世紀まで続いたため、精神的エネルギーと物質的な余力の大半を使い果たしてしまったわけである。神聖ローマ帝国内の諸邦分立主義は、諸邦が物事を全体としてみることや互いに協力し合うことを阻害してきた。そして17世紀末から18世紀半ばまでの精神生活の状況は、とりわけ学芸に対する支援の欠如、古い大学の哀れな実情、学校制度のみじめさの中に現れている」と述べている。

ところがこうした立ち遅れは18世紀末にワイマル古典主義やロマン主義が現れるに及んで、一挙に取り戻されたと言われてきたわけである。そしてセインによれば、「ドイツ人がその<古典>文化を誇りにし始めた19世紀以来、<啓蒙主義>は一般に悪い評判をとるようになった。・・・人々はやれやれという安堵のため息をつき、もはやその<前史>には立ち入って取り組むことをしなくなったのである。」という。

こうした状況が長い事続いた後「数年ほど前からドイツ啓蒙主義に対する新たな関心の喜ばしい兆候が見られるようになったきた」と、セインは話を続け、あわせて18世紀研究への期待を表明している。そして従来なおざりにされてきたことだが、18世紀ドイツの文化的成果として、経験的および数学的・理論的自然科学、国民経済学の研究、絶対主義的ではない新しいドイツ文学、近代歴史叙述と文献学の開始、人類学や比較民族学の研究そして旅行に対する新たな関心などがあげられている。

このように、次の19世紀に見られたドイツ文化の開花は、実はすでに18世紀の間に準備されていたことが、そこでは強調されているのだ。そしてさらにこうした18世紀の文化の研究にあたって、「文学史、哲学史、科学史など(個々の分野)の視点から観察するのではなくて、広い意味での文化史の視点から考察するようになれば、まさにその時こそ、重要で実り多い新たな成果が期待できるであろう」と、セインは付け加えているのである。

ニコライに対する私の評価

以上述べてきたように、フリードリヒ・ニコライという人物は、ドイツ啓蒙主義ないし18世紀史の見直しの中で再評価されてきているわけである。そこで私としてはドイツ啓蒙主義にとって欠かすことのできないこの巨人の多方面にわたる業績を、その生涯の歩みの中で描き出していくことにする。

その前にニコライに対する私の評価について、一言述べておきたい。私の見るところニコライはまずもって、当時ヨーロッパの後進国であったドイツの近代化に向けて、全力を傾けた「文明開化の使徒」であった、という事である。その活動の時期は、18世紀後半のほぼ半世紀に及ぶが、この間古く因習的な宗教支配を打破し、社会の各方面の改革を推進すべく、休む暇なく言論・出版活動を続けた。活動の中心は、ドイツの中では先進的であったプロイセン王国の首都ベルリンであったが、自ら編集にあたった書評誌『ドイツ百科叢書』などを通じて、彼はドイツ全国に「知のネットワーク」を張り巡らしたのであった。その啓蒙活動は、ヨーロッパの当時の先進国であったイギリス、フランス、オランダに追いつくことを目指していた。

ニコライ自身は言論・出版活動を通じて、底辺の民衆教育の推進に力を入れていたが、民衆啓蒙が達成されるには、なおかなりの時間を要した。しかし社会の上層部を形成していた貴族や聖職者の一部は、ニコライなど中流市民や官僚・知識人の啓蒙活動に、身分の違いを越えて参加し、社会の近代化に尽くしたのであった。その結果、ニコライが晩年を迎えた19世紀の初頭のドイツの状況は、彼が活動を始めた18世紀中ごろとは、その様相をすっかり変えていた。

政治面では19世紀初めには領邦国家の数が大きく整理されたが、その体制はなお続き、ドイツの国家的統一は世紀の後半1871年の、ビスマルクによるドイツ帝国の建国にまでずれ込んだ。しかしその前半には、地域的な格差はなお見られたものの、社会の改革は進み、文化は一つの黄金時代を迎えたのであった。いっぽう経済面では1834年のプロイセン主導のドイツ関税同盟の発足によって、ドイツの経済的統一が進み、その後の政治的統一の前提ともなったわけである。また19世紀の前半に鉄道路線の建設が進み、産業革命の推進がみられたのだ。

これらの成果は、ニコライなどの啓蒙主義者たちが、長く続いてきた古い社会体制や宗教支配を打破し、新しい社会や文化が生まれる基盤を営々と築き上げたからこそ、達成できたものと言えよう。その意味でニコライたちの努力は十分報われた、といえるのではなかろうか。
とはいえニコライはそれだけではなくて、それ自体評価されるべき業績も数多く残している。その詳細について、これから順次紹介していくことにしよう。

次回のブログ「ドイツ啓蒙主義の巨人フリードリヒ・ニコライ その2」では、彼の青少年時代を取り上げることにする。

18世紀ドイツ啓蒙主義と文学市場の誕生

<啓蒙主義の影響>

ヨーロッパの十八世紀を特徴づける精神運動であった啓蒙主義は、ドイツにおいても、大きな影響を及ぼした。啓蒙主義はもともと社会に影響を及ぼすことに、その本質があった。そしてその目的を言葉や文字を通じて達成することができたのである。

その際できるだけ多数の人間に自分の考えを伝達することに、啓蒙主義者は強い関心を抱いていた。大学での講義、学問的サークルでの講演から、さらに広い層を対象とした報告と並んで、啓蒙的な内容の出版物の刊行を、そのための手段として彼らは利用した。しかしそれには一定の前提条件が必要であった。その際十七世紀から十八世紀にかけて、ドイツにおいて特徴的であった二つの読書形態が問題となる。

一つは宗教的なものと関連し、他の一つは一般的・世俗的なものと関連していた。そしてこの二つは、全く異なった機能を持っていたのだ。宗教的な書物、つまり聖書、祈祷書、説教書などを通じて、人は宗教的な感情が豊かになる。そのためにも人はこれらの書物を、繰り返し読む。ここでは集中的な読書法がみられる。それに対して世俗的な読書法は、情報の取得や娯楽の享受に仕えると同時に、非宗教的な感情を豊かにする。

啓蒙主義運動は、まさにこの第二の世俗的な読書形態の担い手を必要としていたのだ。啓蒙主義の初期つまり1720年ころまでは。世俗的な書物を読むことができる人は、ドイツではまだ極めて限られれていた。同時の代表的な読書階層は、学者ないし教養的職業人であった牧師、弁護士、医者、高級官僚などであった。それから大商人、中級・下級の官吏、宮廷貴族、将校などが続いた。これらの人々は、ドイツ全土に散らばっていたのではなく、主として政治、経済、文化の中心地、つまり宮廷都市、商業都市、大学都市などにかたまって住んでいたのだ。

初期啓蒙主義の時代の教養ある読書人の書斎

具体的には、主に北部及び東部のハンブルク、ライプツィヒ、ハレ、ベルリン、フランクフルト、ゲッティンゲン、ケーニヒスベルクなどであった。そのためこれらの都市を中心にして、啓蒙主義が広まったのであるが, その数はなお限られていた。それ以外の広範な地域にわたる農村地帯や、地方の小都市あるいは南部・西部の都市の住民、つまり農民や手工業者、小商人、賃労働者、あるいはカトリックの聖職者などは、本を読まないか、読んだとしてもほとんどが宗教書に限られていた。

<道徳週刊誌の普及>

ドイツにおいて啓蒙主義的な読書形態は、まず「道徳週刊誌」という形で現れた。これはイギリスにおいて1710年ごろに相次いで出された「ザ・タトラー」、「ザ・スペクテイター」、「ガーディアン」といった雑誌の影響を受けて、その直後から1770年ごろまで、ドイツ各地の都市で発行されたものである。

主として道徳的、教訓的な内容が盛り込まれていたためか、これらは「道徳週刊誌」という一般的な名称で導入されている。イギリスに近い北ドイツのハンブルクで、1713年に創刊されたものが皮切りになって、1746-50年の時期に頂点に達したが、その後は減少して、1770年ごろに本来の影響力を失った。個々の道徳週刊誌は短命で、局地的な読書層を対象としていた。しかしその数は、累計すると実に182点も発行されたのであった。

なかでも創刊号が、北ドイツのハンブルクで1724年1月に発行された『パトリオット』が、道徳週刊誌の代表的存在であった。

ハンブルクで発行されていた道徳週刊誌『パトリオット』の創刊号
(1724年1月)

 

道徳週刊誌の主な読者層は、大商人及び同じ階層の婦人であった。大商人は重商主義時代に自信を強めてきた大市民(ブルジョアジー)であった。彼らの精神や道徳を根底から支えていたのは、プロテスタントの労働倫理であった。そこでは節約の精神、勤勉、勤労観念、誠実さなどが、模範的な徳目として賞賛されていた。そのために収支計算、倹約、やりくり、商売繁盛などに関する記事が、当然のことのように道徳週刊誌をにぎわせていた。そしてその背後には、ドイツの初期啓蒙主義者ヴォルフの幸福の哲学などが底流として流れていた。

<啓蒙主義の第一世代>

啓蒙主義者が彼らの理念を印刷物を通じて広げていく過程で、世俗的な読書への関心を極めて明瞭な形で示していた読書階層が現れてきた。それは大学教養人の枠を越えて、大商人や官吏階級の人々にも及んでいた。たとえば1700年ごろのフランクフルトの大商人階級の書棚には、世俗的な書物としては、商業上の実用書、地理書、歴史書などが並び、さらに彼らの夫人や娘などが読んでいたと思われる料理の本、編み物の本、手紙の書き方、暦などの家庭で日常的に利用されていた書物もあった。このころのドイツの大商人や官吏階級ないしその婦女子は、もっぱら職業上ないし実用上の目的から書物を利用していたわけである。

ライプツィッヒで出版された料理の本(1745年)

ところがその後、道徳週刊誌などを通じて啓蒙主義者は、これらの人々に対して、商業道徳的な方面から、その教えを広めていった。つまり節約の精神や勤労観念に基づいた教えだったのだが、これらは商人階級の人々にとっても、容易に受け入れることができた。この階層は啓蒙主義の第一世代と名付けることができるが、その人々は大商人、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主そして彼らの妻や娘などから成っていた。

やがて1750年ごろになると、大商人の家庭の本棚には、日常的な家庭実用書や職業的な実用書の類いでは、とりわけ百科事典や商業上の文献が増えている。またそこに見られる歴史書は、個々の事件や編年史などへの興味が増大している。そして一連の歴史小説は新しいドイツ文学の前身として注目される。またあらゆる種類の地理関係の本や、旅行・冒険に関する著作が、このころのドイツの大商人の家庭で好んで読まれていたのである。つまりこのころになると、百科全書的な興味からさらに一歩進んで、哲学的・文学的内容の書物まで読むための地ならしが出来上がったわけである。

次に、そのことに触れる前に、どのようにして読書する婦女子が登場するようになったのか、見ることにしよう。

<読者としての婦女子の登場>

もともと経済合理主義の立場から発生した市民的な一般道徳観念は、同じ階層の婦女子に対しても、模範にすべきものとして推奨されていた。その際女性特有の関心領域に配慮して、幸福な結婚生活、子供に対する実際的で有意義な教育、召使との良好な関係、社交サークルでの交際の仕方、といったことも道徳週刊誌の記事になっていたのだ。

そこではたとえば、放らつで、わがままな妻、専制的で思慮の足りない母親、無分別で軽率な女性などは、その主人や子供たち、あるいは召使などに対して、ふさわしくないとして非難された。その反対に、つつましやかで、教養のある娘にこそ、良い結婚のチャンスがくる、などとされていた。

ところがそうした道徳的規範の背後には、心の内面や信心を重視するプロテスタントの一派である「敬虔主義」の流れも、重要な役割を果たしていた。そしてその影響によって、世俗的ないし娯楽的な読書というものが普及しにくい面もあった。

そのために道徳週刊誌では、市民的道徳観念を生の形で出さずに、オブラートに包んで間接的な形で伝えるという工夫がなされた。つまり婦女子向けには、私ないし私たちという形をとって、語り手が読者に語りかけるような形式が取られたのだ。信心に凝り固まったり、あるいは宗教的な硬い衣を身に着けている女性たちの心を和らげるためにも、道徳哲学的内容を、いわば文学化した形で提供するやり方が生まれたのである。

読書をする女性

その結果、教育を目的とした新しい文学が誕生することになったのである。すでに古代や中世にも、教育(教訓)的な内容の文学は、重要な役割を果たしていた。しかし啓蒙主義の時代にそれは頂点に達して、ここに寓話文学が発展する基盤が生まれたわけである。ドイツの初期啓蒙主義の代表者であったゴットシェートは、1730年に『批判的詩文学の試み』という文学理論を発表したが、その中で彼は、詩文学にきわめて明瞭な形で、社会的要請を託しているのである。

ドイツの初期啓蒙主義を代表する人物、ゴットシェートの肖像画(1744年)

<啓蒙主義の第二世代の登場と文学市場の誕生>

18世紀の後半に入ると、啓蒙主義の第一世代の後を受けて、第二世代の人々が登場してきた。彼らは職業から見ると、学生、行政機関の若い事務員そしてその友人の女性たちであった。これら第二世代の周囲には、すでにいくぶん開放的な文学的雰囲気が漂っていた。

当時、啓蒙思想は定期的に刊行される雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて、伝達されていた。またこの人たちは、ある程度娯楽的な読み物にも興味を示していた。かくしてこれらの第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀後半を通じて、世俗的書物や娯楽的書物を受け入れる主要グループを形成したわけである。

とはいえ、こうした新しい読書層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって行われたわけではない。その担い手となったメディアである出版物の生産、販売の領域における変化もまた、それに貢献したのである。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版及び販売の側面に影響を及ぼしたといえるのだ。つまりこれらの二つの側面の相互影響の中で、新しい文学的発展への基盤が生じたわけである。ことばを変えて言えば、読書層の拡大と文学市場の誕生という問題が生まれたのである。

18世紀における読書傾向の世俗化を示す一つの手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数を比較する方法が考えられる。書籍見本市カタログに掲載された書籍によって、ラテン語の書物が占める割合の時代的変化をみてみよう。1650年にはまだ71パーセントを占めていたが、1740年には27パーセントに減少し、さらに1770年には14パーセントになり、1800年にはわずか4パーセントにまでなっているのだ。この数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段に変わったことを如実に示しているのだ。

以上述べてきた読者層の著しい拡大と読書傾向の世俗化を指す言葉として、「読書革命」という事が、専門家の間で言われている。人々が広い階層にわたって読書するようになったことを示しているわけだが、この「読書革命」と並んで、「たくさん書くこと」も当時進行していた。つまり広い意味での「もの書き」(作家)の数が、このころドイツで著しく増大したのだ。1773-87年の15年間だけでも、その数は三千人から六千人にふえている。1790年にはドイツには平均して四千人に一人の割合で、著作者がいた計算になる。

ドイツにおける無名の読者大衆の成立については、当時の知識人からは一種の社会的事件として受け止められていたようだ。それは深く「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行を意味していた。

<読書クラブと貸出文庫>

次に世俗化され、量産されるようになった書物が、どのようにして読者のもとに届いていたのかを見てみることにしよう。書店で本を買う以外にも、行商人による個別販売など、古くから書籍の流通には、さまざまなやり方があった。ところが18世紀後半から19世紀にかけて目立つ存在になったのが、読書クラブと貸出文庫であった。

まず地方の名士や有力者に対する読書のための施設として、「読書クラブ」というものが18世紀後半になって現れた。これは元来フランスから来たもので、読書サロンといった高級な感じの施設であった。それでも同世紀の末にかけて、この読書クラブはドイツ全域で花開いた。そのうえこのクラブは単に書物を読むだけではなく、教養と財産がある人々が集まる一種の社交の場でもあった。人々はそこで新聞・雑誌や新刊書を読んでは、互いに意見を交換しあったりした。

そこでは啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になった。そしてさらにその場所は、「遊んだり、踊ったり、食事をしたりする所」としても利用されるようになった。こうした社交施設であったために、会費も見わめて高く、一般庶民にとっては高根の花であった。

これに対して広く国民各層が実際に本を読むのに利用したのが、貸出文庫であった。これは要するに、金をとって一定期間本を貸し出す貸本屋であった。18世紀前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。あのルソーも子供のころにジュネーヴの悪名高い貸本屋から、よい本、悪い本取りまぜて、店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすベて読んでしまったという。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィッヒのことであった。そして18世紀の末ころになると、この貸出文庫はドイツ全国に普及するようになった。このころになると、うまくいけば貸本業のほうが、書店で書物を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あったのが、5年後の1806年には4000冊にふえていた。また北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫はそれ以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その形態は都市の規模や性格により、またその所在地によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したために、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から、立派な建物の貸出図書館まで、いろいろあったわけである。その意味では貸出文庫は、最も民主的な図書貸出施設であったといえる。

貸出文庫を訪れたのは、「読書する大衆」だけではなくて、上層の人々もいた。しかしそこに共通していたのは、貸し出されていた書物の中身が、主として小説か戯曲だったという点である。それも古典として後世に残るような高級な文学作品ではなくて、今日ではほとんど忘れられているドイツの大衆小説であった。さらにウォルター・スコットやJ ・F ・クーパーなど英米の人気作家の翻訳ものも混じっていた点が注目される。

ドイツの初期大衆小説の代表ともいわれるのが、ミラー作『ジークヴァルト』(1776年)であった。この作品は「お涙ちょうだい」的な感傷主義の小説であった。

ミラー作『ジークヴァルト』の表紙

ともあれ18世紀後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってからさらに読書層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、18世紀後半からずっと大きな文学市場を形成してきたのである。

17~18世紀のドイツ出版業

その01 ライプツィヒ書籍見本市の興隆

<フランクフルトの衰退とライプツィヒの興隆>

フランクフルトとライプツィヒ、このドイツを代表する二つの書籍見本市の衰退と興隆は、とりもなおさずドイツ出版産業の地域的・構造的変化を如実に示すものである。フランクフルト・アム・マインが、ラテン語を軸とする国際的な書籍取引の中心であったのに対して、ライプツィヒは自国語であるドイツ語の出版物を軸とした国内取引の場であった。

両者の関係を見ると、15世紀後半から16世紀いっぱいは、フランクフルトを中心とする南が、ライプツィヒを中心とした北をはるかにしのいでいた。フランクフルトは中部ドイツのマイン河畔の都市として、その南にひろがるドイツ南部の各都市やオーストリア、スイス一帯と強く結びついていた。

ドイツの二大出版都市(フランクフルトとライプツィヒ)とその周辺都市
(16-18世紀)

ところが17世紀を通じて南北がほぼ等しくなり、18世紀にはいると北の生産は、南のそれをはるかに追い越すのである。プロテスタント神学書がカトリック神学書より増えたこと、ラテン語に比べて自国語であるドイツ語が、ますます多く用いられるようになったこと、国際的な取り引きの減少、そしてドイツにおける書籍生産が南から北に移ったこと、これらの全てが、フランクフルト出版産業の衰退の直接的な原因となったのである。

そしてこれに反比例するように、ライプツィヒを中心とする北ドイツの出版産業が、大きく発展していったわけである。市(いち)形式の商売は重要性を失い、高度に資本化し、中央集権化された近代的な書籍取引制度が18世紀後半のドイツで、とりわけ北部を中心に胎動したのであった。

<初期のライプツィヒ>

ライプツィヒ市の市街図(1615年)

ライプツィヒにおける書籍印刷業は、1479年に始まって、15世紀のおわりまでには、かなり広まっていた。しかしライプツィヒが当初重きをなしたのは、むしろ販売の方面であった。当時のライプツィヒの町は、北部及び東部ドイツの商業の中心地であった。商人たちは、北西部のハンブルクや南部のニュルンベルクのほか、現在はポーランド領のブレスラウ、ポーゼン、ダンチィッヒからも、そしてさらに東北のはずれのリトアニアに近いケーニヒスベルクからも、ライプツィッヒにやってきたのだ。

ちなみにケーニヒスベルクには、18世紀後半、かのドイツの哲学者カントが住み、その地の大学で教鞭をとっていたのだ。だが、この町は第二次大戦の末期にソ連によって占領され、それ以来その状態が続いている。そして町の名前はロシア語風にカリーニングラードへと変更された。私は1999年にロシアのモスクワおよびサンクトペテルブルクを見て回った後、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアをバスで移動して数日間の滞在をした。そしてさらに、現在はロシア連邦の飛び地となっているカリーニングラードへとバスで移動した。その町では、できたばかりのカント博物館に入った。そこの館長さんはロシア人のカント研究者で、長年にわたりカント研究をしてきたが、冷戦下のソ連体制の中では冷遇されていたという。冷戦が終わって、ドイツ側の資金によって、このカント博物館は出来上がったのだ。

現在のバルト三国、ベラルーシ、ロシア連邦西部地域。
西のはずれのロシア連邦の飛び地にカリーニングラードがある

さて先に挙げた町は、当時ドイツ文化が濃厚に浸透していたドイツ人の町だった。フランスやヴェネツィアとの取引もあるにはあったが、ライプツィッヒは本来、中東欧にまで広がっていたドイツ文化圏の中の取引の中心地であったわけである。これらの地域は、中世には、ドイツの西部や南部に比べて文化が遅れていた。しかしルターが活躍した16世紀前半頃から、次第に西部・南部ドイツを追いかけ、芸術・科学面において匹敵するようになっていた。

しかし短期的にみると、ライプツィッヒのあるザクセン王国の支配者ゲオルク侯は、ルターの宗教改革に反対して、ザクセン地方に流れ込んでいたルターの著作の出版・販売を禁止した。こうした弾圧政策のために、ライプツィヒの書籍販売は、1520代、30年代を通じて衰え、多くの書籍商はやむなく事業を廃止するまでになった。

ところが1539年にゲオルク侯が亡くなり、その跡をフリードリヒ侯が継ぐと、こんどはその逆に、ルターに反対するいかなる本も出版してはならぬ、という命令が出されたのだ。そして宗教改革を促進する出版物の刊行が奨励された。そのためライプツィヒの出版産業は再び息を吹き返し、それ以後次第に繁栄への道をたどることになった。フリードリヒ侯以後の歴代の君主は、プロテスタントを支援し、その商業活動の一環としての書籍出版業をバックアップしていったからである。

ライプツィヒ市中心部にある市場広場(1712年)

<ライプツィヒ書籍見本市の発展>

フランクフルトと同様に商業活動の中心地であったライプツィヒには、やはり早くから見本市が発達し、そこから書籍見本市も発展するようになっていた。16世紀の間はフランクフルトの影に隠れていたライプツィヒであったが、実はこの世紀の後半には、歴代君主の奨励策が実って、書籍市も主に中東欧方面を対象に着実に発展を見せていたのだ。同じく商業都市とはいえ帝国都市としてドイツ皇帝の束縛を受けていたフランクフルトとは違って、ライプツィヒは、前にも述べたように、ザクセン侯の保護の下に、自由な商業活動をすることができたのだ。

ザクセン地方に対するドイツ皇帝の検閲制度は1571年に導入されたが、ここではその検閲はフランクフルトにおけるほどには厳しく感じられていなかったようだ。検閲に対する皇帝の関心はもっぱらフランクフルト書籍見本市に向けられ、ライプツィヒのほうは、見逃されていたという事らしい。こうしてザクセン国王の保護下で、ライプツィヒ市当局は出版産業に対して、極めて好意的な態度で臨んでいたわけである。

ここでフランクフルト、ライプツィヒ両書籍見本市の勢力の消長を、その取扱い出版点数で比較してみよう。この点で見ると、1600年代の初めには早くもライプツィヒがフランクフルトを追い越していることが注目される。その後三十年戦争(1618-48年)の影響で、1620年代以降になると、両見本市の取り扱い点数はかなり減少する。そして1640年代から1660年代にかけて、ライプツィヒは一時フランクフルトを下回るが、1670年代には回復して1690年代には飛躍的な増大がみられる。それ以後のライプツィヒはフランクフルトを大きく引き離す。そしてさらに18世紀にはいると、ライプツィヒを中心とした北ドイツの出版産業は、科学の進歩、文化の発展、政治的文書のなどによって、その発展が一段と促進されるのである。

<プロテスタント書籍の出版>

次にフランクフルトとライプツィッヒという二つの書籍見本市のライバル関係を、カトリック対プロテスタントという宗教的な立場から見てみることにしよう。

まず15世紀から17世紀に かけて、ドイツ南部及び西部一帯を背後に抱え、さらに近隣のフランス、イタリアをはじめとするカトリック地域と取引のあったフランクフルトは、ラテン語によるカトリック図書の販売の中心地であった。いっぽう16世紀前半の宗教改革以降、プロテスタント系の出版社は、ライプツィヒを中心とした東部および北部ドイツ一帯で、神学的作品をはじめ、科学書などもどしどし刊行して販売していた。その際の言語としては、主として自国語であるドイツ語が用いられた。

次にカトリックとプロテスタントの宗教書に限って、その年間出版点数を比較してみよう。ここで宗教書というのは、聖書をはじめとする一般人向けの説教書や祈祷書から聖職者や学者向けの理論的な神学書までを含んでいる。こうした広い意味での宗教書について、フランクフルト、ライプツィヒ両書籍市で取引された書籍の出版点数を合計すると、16世紀半ば以降、プロテスタントの宗教書がカトリックの宗教書をうわまっている。とりわけカトリックとプロテスタント両宗派間の宗教戦争といわれている三十年戦争中の1632年以後には、その差は著しく離れていく。この年プロテスタント陣営に属するスウェーデン国王グスタフ・アドルフがこの戦争に介入して、勝利を占めたが、こうした動きと宗教書の出版との間に、相関関係がみられるのは興味深い事である。

ちなみにプロテスタントの宗教書の出版において、ライプツィヒはとりわけ重要な役割を果たしていた。17世紀末から18世紀初頭にかけては、全プロテスタントの宗教書のおよそ半分を出版しているのである。これに対してカトリックの宗教書の出版量は、ほぼ同じ時期に急速に減少しているが、これはフランクフルト書籍見本市の衰退と軌を一にするものだといえよう。

またライプツィヒの出版社は、宗教書以外に、科学書をはじめ、歴史、政治、地理、詩、美術など、様々な種類の学術書を出版していたが、これらの分野でも使用言語はラテン語からドイツ語へと重心を移してるのだ。精神文化の領域でのドイツ近代化への牽引力が、ライプツィヒ書籍見本市に集約される形で見られると、考えられよう。

ライプツィヒの市庁舎付属図書館の内部(1700年ごろ)

その02 近代的書籍出版販売への転換

<統一的書籍市場の崩壊~南北への分裂>

ドイツの書籍出版活動は、先述したように、長い間書籍見本市の二大都市フランクフルトとライプツィヒを中心に行われてきた。フランクフルトは中部ドイツのマイン河畔の都市として、その南に広がる南ドイツの各地方やオーストリア、スイス一帯を支配してきた。これら広い意味での南ドイツの書籍業界は、ドイツ皇帝の支配地域にあるという意味で、「帝国書籍業界」と呼ばれていた。この地域は大ざぱにいって、宗教的にはカトリック地域で、古い伝統や習慣が温存されていた。

書物についても聖書を初め説教書、祈祷書などの宗教書が中心であった。宗教書のほかには、学者や僧侶向けのラテン語の書物が出版され続け、新しい読者層が生まれる土壌はあまりなかったのである。

いっぽう北ドイツのザクセン地方の中心都市ライプツィヒは、17世紀の末頃から、書籍見本市都市としての重要性を次第に増しつつあった。北ドイツは一般にプロテスタント地域であるが、ドイツの啓蒙主義はまさにこの北ドイツの二つの地域、つまりザクセン地方とベルリンを中心とするブランデンブルク・プロイセン地方をその故郷としていたのだ。

これらの地方では、道徳週刊誌やポピュラー哲学から、文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場には、新しい時代の息吹が感じられた。ここでは古めかしいラテン語の知識がいっぱい詰まった大型本や信心の書には、新しい読者大衆は関心を向けなくなっていた。いっぽう北ドイツで出版された啓蒙書や国民文学に対して、南ドイツの書籍業者は関心を抱いていたが、交換取引制度のために、実際上その取得が困難であった。

こうした文化的要因のほかに経済的要因もあった。18世紀のザクセン地方は、経済的観点から見て、最も目覚ましい発展を遂げた地域であった。他のどの地方よりも、ザクセン地方で、工場制手工業が発達した。こうした中で、書籍出版産業はザクセン王国政府によって奨励されてもいたことは、すでに述べたところである。

<交換取引制度の廃止>

書籍を単に物品として量的にしか扱わなかった交換取引制度は、それが抱えていた大きな欠陥から、18世紀後半に入るころには、結局廃止されることになった。そのイニシアティブをとったのは、いうまでもなくライプツィッヒをはじめとするザクセン地方の書籍業者であった。彼らは北ドイツの読者には関心のない、宗教書やラテン語の専門書を発行していた南ドイツの書籍業者との取引を好まなくなっていた。その結果彼らは交換取引を、信頼のおける商売相手であった北ドイツの書籍業者だけに限ることにした。そしてその他の業者に対しては、現金取引を要求するようになった。交換取引を拒否して現金取引を採用した書籍業者は、「正価販売業者」と呼ばれた。

ライプツィヒの代表的な書籍業者
フィリップ・エラスムス・ライヒの肖像画(1774年)

こうした運動の先頭に立たのがライプツィヒの書籍業者フィリップ・エラスムス・ライヒであった。 彼は1760年代に、もはや欠陥だらけになっていた書籍の交換取引方式に反対して立ち上がったわけである。ライヒが導入した近代的な書籍取引の方法は、交換取引の拒否と短期クレジット方式ないし現金取引方式の採用であった。それと同時に書籍の返品を部分的ないし全面的に認めない措置、クレジットの割り引き率の低い設定、書籍価格の高い設定なども行われた。
こうしてライヒは1764年に、フランクフルト書籍見本市から最終的に撤退したのであった。

<帝国書籍業者の反応>

いま述べた一連のライヒの動きは、一般に「ライヒの改革」として知られているが、この改革は南ドイツの斜陽の帝国書籍業者にとっては、我慢のならない過酷な措置に映った。当時ドイツ全地域から書物が集まっていたライプツィヒ見本市で採用された正価販売方式は、そこに常設していた書籍業者にとって、著しく有利だったからである。

それに比べて南ドイツの書籍業者には、さまざまな困難が伴ったのである。つまり運搬用の樽を含むすべての輸送コストや旅行費用をはじめ、見本市会場での宿泊代やブースの借り上げ料、アルバイトに払う費用に至るまで、各種の見本市関連費用が重くのしかかっていたのだ。いっぽう地元の書籍業者にとっては、それらの負担はぐんと少なかったわけである。

そのために帝国書籍業者は、自分たちにとって割の合わないライプツィヒ見本市を回避する計画を立てた。そして当時めんめんと続いていた書物の翻刻出版(いわゆる海賊出版)に専念するとの脅しを、北の業者に向けてかけ始めた。それはやがて単なる脅しにとどまらず、大々的な翻刻出版の実施として現れた。フランクフルトのファレントラップやウィーンのトラットナーなどがその代表的な存在であった。その際彼らは翻刻出版はオリジナル作品の高値に対する防衛手段である、と自己弁護した。

こうして1765-85年の間には、「翻刻出版の黄金時代」が現出した。翻刻出版つまり海賊出版行為自体は、活版印刷術が発明された15世紀中ごろ以降、ずっと続けられてきたものである。著作権制度が確立するまでは、ドイツにかぎらずヨーロッパの他の国々でも、それはごく普通に行われてきた。しかし18世紀に入って、著作権に対して自覚する人が次第に現れるに及んで、この海賊出版を非難する声も高まってきた。とはいえ当時はまだ国や地域によって意識の格差が大きく、これがなくなるまでには、まだまだ長い時間を要したのである。

南ドイツの出版業界で現出した「翻刻出版の黄金時代」は、そうした過渡期における一つの目立った動きであったといえよう。そして近代的な書籍出版体制についていくことのできなかった遅れた地域において、安い価格で書物を普及させたという意味で、出版文化の側面から見れば、この翻刻出版はプラスに評価できるのである。

<翻刻出版への領邦国家の保護政策>

17,18世紀のドイツは、実質的には大小無数の領邦国家から成り立っていた。領邦国家というのは、日本における江戸時代以前に存在した藩のようなものと思えばよい。17世紀の初めに導入された書籍の交換取引制度にしても、そうした無数の国々が発行していた通貨がその内部でだけしか通用しなかったことからくるのである。

それらの領邦国家は当時、カメラリズムと呼ばれる経済政策をとっていた。それは自国の通貨をできる限り国の外に流出させないことによって、富国策を図ろうとした君主中心の考え方であった。ドイツの大小無数の領邦国家やハプスブルク家のオーストリアは、輸出入管理法及び関税の手段によって、それを可能にしていた。これはつまりドイツ内部の地域的な保護経済政策だったのだ。そして18世紀後半になってもなお、このカメラリズムがドイツの書籍出版販売に影響を及ぼしていたのである。

書籍の取引が領邦国家の境を越えて行われるとき、交換取引方式ならば自国の通貨が外部に流出しないので、カメラリズムの政策に支障がなかった。ところが18世紀の60年代になってライプツィヒの書籍業者が始めた現金取引方式が、領邦国家のカメラリズム的地域経済政策に障害を及ぼすことになったのである。とりわけ南ドイツやオーストリアの書籍業者がライプツィヒ見本市で取引しようとすると、それらの書籍業者が属する領邦国家の通貨を国外に流出させることになるからであった。こうした理由からそれら領邦国家の君主は、自国の通貨が流出することのない翻刻出版を支援するようになったわけである。

この翻刻出版に最も熱心であったのは、オーストリアであった。18世紀の半ば、オーストリアの書籍出版量は、極めて少なく、もっぱら北ドイツ方面から輸入せざるを得ない状況にあった。このために例えばザクセン地方のドレスデンの出版業者ヴァルターは、1765年の一年間に、オーストリアの書籍業者との取引で、4万グルデン以上の儲けを手にしたといわれる。そうした状況を放置しておけば、オーストリアの金はどんどん国外に流出する一方であったのだ。

そのためにオーストリア女帝マリア・テレジアは、書籍業者トラットナーに対して、経済合理性の立場から、熱心に翻刻出版を奨励したのである。同様の保護策を南ドイツのバーデン辺境伯も、その所領内の書籍業者シュミーダーに対してとっていた。

また北ドイツの啓蒙思想を南ドイツやオーストリアの僻遠の地に広めるのに、翻刻出版は願ってもない存在であった。啓蒙専制君主であったオーストリア皇帝ヨーゼフ二世にとっては、自分が抱いていた啓蒙主義思想の普及にたいして、翻刻版こそは不可欠の要素であったのだ。

<近代的書籍取引への転換>

以上述べてきたように、南ドイツ・オーストリア地域では翻刻出版の黄金時代が現出したのであったが、これも永遠には続かなかった。やがて帝国書籍業者の間から、ライプツィヒの現金取引と従来の交換取引の間の妥協案ともいうべき「条件取引制度」が生まれてきたのだ。

その仕組みはざっと次のようなものである。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内に(春と秋の二回)、その代金を精算する。その期間内に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については、店頭価格(定価)の33・3パーセントの割引価格で支払うというものであった。

帝国書籍業者は、以上のような条件取引の提案を行い、ライプツィヒの書籍業者も結局それを受け入れたのであった。このようにして生まれた「条件取引制度」は、やがてドイツ全体の書籍業界に、新たな確固たる基盤を築いたのであった。この新しい制度は18世紀から19世紀に変わるころに完成した。そしてそれは出版部門を持たない「純粋な書籍販売業者」の出現を促したのであった。

さらに条件取引制度の成立の結果として、書物の委託販売方式が生まれた。これは書籍見本市都市ライプツィヒにあった、書籍を保管する倉庫の管理業から出てきたものである。ライプツィヒ以外の書籍業者は、見本市に出品する書物の倉庫を、それぞれ持っていたのだが、条件取引制度の誕生によって、そうした倉庫業は必要ではなくなった。しかし個々の出版業者が自ら販売業務をやるのは、人手や経費・労力などの点で容易ではなかった。そこですべての販売業務を代行してくれる人が必要となったわけである。

こうして生まれたのが、それまで倉庫管理業をやっていた人たちを中心にした委託販売人であった。これらの委託販売業者は、従来からあった倉庫を、出版社から受け取った書物を、一時的に保管しておくための倉庫へと転用したわけである。

こうしてライプツィヒには、出版社と書店との間の取引を代行する書籍取次業が生まれたのである。そしてこれによって、交換取引の時代に結合していた出版業と書籍販売業とが、はっきり分離することになった。

正価販売方式の導入、委託販売方式の成立、そして純粋な書籍販売業者の出現によって、ドイツの出版業界は、資本主義的経済原理に基づいて、全面的に機能するようになったのである。それは19世紀の初めのことであった。

16~17世紀の出版業の諸相(06)

オランダ出版業の発展ほか

<オランダにおける出版業のはじまり>

16世紀の後半、現在のオランダ・ベルギーを中心としたネーデルラント地方を支配していたのが、スペイン・ハプスブルク家であった。その圧政に抵抗した北部7州の新教徒は1568年に独立戦争を開始し、1581年に独立を宣言。そして1609年の休戦条約で事実上独立を達成してスペイン=ハプスブルク家の支配を脱した。それに先立ち、比較的カトリック教徒が多かった南部10州(現在のベルギーに相当)はこの戦争から脱落し、その後もスペインの支配を受け続けた。

独立戦争の中心となって戦ったのが、北部7州の中で最も有力なホラント州であった。ちなみに戦国時代末期に日本にやってきたのが、この「ホラント州」の人々だったのだ。そのため当時の日本人はその人々を「オランダ人」と呼びならわし、ネーデルラントではなくて、オランダという呼び名が、日本では定着したわけである。ちなみに「ネーデルラント」というのは低地を意味している。

さて、スペインの支配を脱した北ネーデルラントつまりオランダでは、政治、経済、社会、文化なと、すべての面で、新興国家の勢いがみられた。印刷・出版業もその例にもれず、印刷工房の数が増え、ホラント州がプロテスタント系出版業の中心地となった。                                                                                                とりわけオランダ独立運動の指導者オラニエ公ウィレムが1575年に大学の設立を奨励したり、エルゼヴィール家が開業したりしたライデンにおいて、印刷・出版業がまず起こったのであった。

<エルゼヴィール家の開業>

エルゼヴィール家の開祖ルイス・エルゼヴィール(1542-1617)は、前にも述べたカトリック・ルネサンス時代の代表的な出版業者プランタンの印刷所に勤め、プランタン社の経営術を身に着けた人物であった。

生まれて間もないライデン大学では、神学と並んで文献学が君臨していた。そうした状況を反映して、エルゼヴィール家では、やがてヨーロッパのすべての教養人が探し求めていたギリシア・ローマの古典作家の書物を数多く出版するようになった。当時、同家は出版業、製本業、書籍販売業に従事していた。同家の最初の出版物は1583年に刊行されたが、本格的な出版部門の展開は1592年以降のことであった。創業者のルイスはまた、印刷されたカタログをもとにしてオークションを催したりした。

ルイスが亡くなった1617年、彼の事業所は二人の息子マッティースとボナヴェントゥラによって引き継がれた。そして1625年にマッティースは息子のアブラハムに、自分の株を売り渡した。またこの年にはルイスの孫のイサクが所有していた印刷所が吸収合併された。ボナヴェントゥラとアブラハムによる経営は1652年まで続いたが、この期間がエルゼヴィール家の黄金時代であったといえる。

同家の印刷物は一般に「エルゼヴィリアーナ」と呼ばれていたが、なかでも学生向けの小型本シリーズは大成功を収めた。そのほか『共和国』のシリーズや、コルネイユなどのフランス文学の出版を通じて、エルゼヴィール家の出版物は、ヨーロッパ中に知れ渡った。

エルゼヴィール家の出版物の表紙。ラテン語の書物。印刷社標章が付いている。(1662年)

こうしてライデンのエルゼヴィール家本店は、ライデン大学の公設印刷所に指定されたのであった(1620-1712)。この間、支店がオランダ国内のハーグ(1590-1665)及びアムステルダム(1638-81)に設立され、17世紀の後半にユトレヒト(1667-75)にも設けられた。そしてさらに国外の主要都市フランクフルト、ヴェネツィア、パリ、ロンドンに、その代理店が開設された。

これらの数多くの支店、代理店の中で、ライデン本店に次いで重要な地位を占めていたのが、アムステルダム店であった。ここではデカルト、コメニウス、ホッブズなど、同時代の代表的な思想家の著作を刊行したり、ギリシア・ローマの古典作品などを出版することによって、名声を得ていた。

いうまでもなくデカルト(1596-1650)の名前は、皆さんもよくご存知かと思われるが、「われ思う、ゆえにわれあり」は有名な『方法序説』の中の一節で、合理主義哲学の出発点となった、といわれている。私も若い時に『方法序説』は読んでみたが、正直言ってよくわからなかった。それはともかく、デカルトは、その研究活動の大部分をオランダで行っていたのだ。当時のフランスはこの思想家にとって束縛の多い住みにくい国だったようだ。これを裏返して言えば、当時のオランダは世界に向かって開かれた自由な国だった、という事であろう。

それからホッブズ(1588-1679)はイギリスの哲学者・社会思想家で、経験論や唯物論を説いた人だ。その名前は、日本の人文・社会学者の間では、よく知られている。もう一人のコメニウス(1592-1670)は、教育学者として日本でも、その名前だけは知られている人物だ。しかしどんな人物であるのかという点については、専門家以外には広がりがない、というのが実情であろう。今回調べてみると、当時のボヘミア王国(現在のチェコ)出身で、民衆の間に大きな勢力を持っていたボヘミア兄弟団の僧侶・長老という人物である。三十年戦争(1618-48)の渦中に、ハプスブルク家の圧迫を受けて、兄弟団の人々とともに国外に追放された。その後生涯をポーランドその他の地域で送り、祖国の解放を最大の念願として、国際的な平和運動を策した。そしてそのためには学校教育が重要との認識のもとに、学校教育の体系づくりに生涯をささげた人物だと言う。

コメニウスは、その際、あらゆる思想と学問とを調和的に統一した<パンソフィア>を学ぶべきとした。そして一般向けに易しく解説した絵入り教科書『世界図絵』が刊行され、これはそのご世界各地に普及したといわれる。

ライデンのエルゼヴィール本店の印刷物(『共和国』シリーズ)の表紙(1632年)

ライデンの本店は1652年以降、アブラハムの息子ダニエルによって、ついで1655年以降はボナベントゥラの息子ヤンによって引き継がれた。しかしこの時代にはもはや黄金時代の輝きは見られなくなった。ヤンはその事業の再編を行なったが、その結果書籍販売部門は売り渡され、印刷部門だけが残った。そしてその印刷所は、ヤンの息子アブラハム二世によって1712年まで営まれたのであった。

いっぽう17世紀の中ごろ、同家の活字父型彫刻師として活躍したのがクリストフェル・ヴァン・ダイク(1601-69)であった。彼は1647年ごろからアムステルダムに活字鋳造所を設立して、本格的な活動を開始した。このヴァン・ダイクは、質の高い活字父型を彫ることのできた彫刻師として、オランダが初めて自国に持つことのできた人物であった。このあとも優れた活字父型彫刻師として、アントン・ジャンソンやニコラス・キシュなどが続くが、オランダ活字はやがて海を渡って、イギリスの活字に大きな影響を与えていくことになるのだ。

<地図出版社ブロウ家>

      ウィレム・ヤンスゾーン・ブロウの肖像画

いっぽうアムステルダムでは、ウィレム・ヤンスゾーン・ブロウが、地図帳と大型地図を専門とする強大な印刷工房を開設した。大航海時代の海洋国家オランダに、いかにもふさわしい部門の印刷所であった。

ブロウ社から出版された地図帳の一部。アジアと日本も描かれている(アムステ ルダム 1650年)

この人物は出版業に乗り出す前に、天文学者のティコ・ブラーエの協力のもとに、様々な天文機械を作っていた。がんらい技術者であったブロウはやがて印刷機の製作にも手を染め、印刷機を頑丈にするための工夫をして、その大幅な改良に成功した。この「オランダ式」印刷機は、次第にネーデルラント全体に広がり、その性能の良さはたちまち評判になったという。そしてこの印刷機は、イギリスにまで普及していったのである。

こうして優れた性能の印刷機を備えることができたブロウ印刷工房は、ドイツのコーベルガー家、フランドル地方のプランタン家、パリ王立印刷所などと並ぶ、ヨーロッパ有数の規模を誇る印刷所となったのである。しかも16世紀後半から17世紀にかけて世界の海へと乗り出していったオランダの印刷・出版業者として、最もふさわしい、地図の製作・出版の分野で、ブロウ家は計り知れないほど大きな仕事を成し遂げたのであった。

<オランダ出版業発展の一般的状況>

ここではオランダ人の『黄金の世紀』である17世紀に栄えた出版業の、一般的な発展状況についてみていくことにしよう。
自由を愛し、技芸と精神の所産を尊重するこの国の商人にとって、書物の出版と取引ほど、ぴったりしたものはなかったのだ。小国ながらその地理的な位置の良さから、オランダの芸術家や文化人、科学者たちは、周辺の国々の知識人、教養人と絶えず交流を重ねていた。多かれ少なかれ、お互いに無視しあっていたイギリス、フランス、ドイツ三国の知識人たちとも、それぞれ関係があったことから、やがてオランダ人は彼らの間の仲介者として働くようになった。当時オランダで無数の新聞が出されていたことも、こうした動きと関係があったのだ。

ゲ・ド・バルザック、テオフィール・ド・ヴィヨンそして前述したデカルトのように、オランダに来て仕事をするフランス人も少なくなかった。オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッソウの宮廷では、フランス語が話され、ハーグの書店にはフランス書が大量におかれていた。

しかも国民の大半が新教徒であるカルヴァン派に属していたこの国には、迫害があるたびにカトリック国フランスから、同じカルヴァン派の信者が逃れてきた。特にルイ14世の時代に、それまで新教徒にも旧教徒とほぼ同じ権利を与えていた「ナントの勅令」が廃止された(1685年)。このときもカルヴァン派信者が大量に亡命したわけである。そしてデポルト、ユグタンといったフランス出身の大出版者は、オランダでフランス人作家と再会したのであった。こうして17世紀末からアムステルダムは、パリに次いでフランス語書籍の第二の中心地になっていったのである。

いっぽうロッテルダムのレールス家のようなオランダの大書籍商は、パリで出版されたフランスの最良の作家の作品を海賊版にした。そしてその見事に組織された取引網を利用して、西はロンドンから東はベルリンに至るヨーロッパ全土に売りさばいていたのであった。

この時代には著作権や版権というものがまだなかったので、どの国でもこうした海賊版は、大手をふるって通用していたわけである。この商売は18世紀になってフランス語が国際語になるにつれて、ますます発展した。そしてオランダの書籍商は、フランドルやスイスの出版業者とともに、当時のフランスのいわば反体制派ともいうべき「百科全書派」の最良の支援者になったのである。

<17世紀半ば以降のヨーロッパは、出版不況の時代に>

1640年から1660年にかけて、オランダを除いたヨーロッパの出版業界には、全体として大きな変化が訪れていた。それは一つにはカトリック・ルネサンスの偉大な時代の幕が下りたことによる。宗教書専門の富裕な出版業者は、以前のように容易には出版物を、さばけなくなった。そして教父の著作のような記念碑的な書物の売れ行きが、落ち込んだ。また宗教戦争の間に略奪にあった修道院に向けて復元された書物も、今や一通りそろってしまった。

その一方フランスでは、国家の栄光を称えるのと同時に、国家によってカトリック教を広めるための手段として、文芸を発展させるという措置が取られた。それはつまりルイ13世治下の1640年に、枢機卿リシュリューによって、パリのルーヴル宮殿内に、王立印刷局が設立されたことを指すのだ。

その反面、このころラテン語を知らない読者や女性の読者向けの世俗文学や通俗書が、フランス、スペイン、イギリスで流行し、やがてオランダでも同じことが起きた。またそれまでラテン語での出版が主流だった学術書が、各国語で印刷され始めた。そして最初の新聞も誕生している。ただこれらの動きは、出版業者にとっては、大規模な利益にはつながらなかったのだ。

こうして書籍市場が細分化の方向に向かう中で、出版業界の経営危機が広まったのである。たとえばかつてカトリック・ルネサンスの時代に大いに栄えたアントウェルペンの出版業が日ごとに衰えを増し、大出版者プランタンの後継者モレトゥスは、いつでも必ず売れる教会典礼用の書物だけを印刷し、販売していた。

またドイツのケルン、フランスのルーアンやリヨンの書籍商にとっては、生き延びるための手段として、もはや海賊版の出版しか残されていなかったのだ。そしてリヨンでは完全な集中化現象が起こった。つまりアニソン社がこの町で唯一の大出版業者となって、パリの同業者に仮借ない競争を挑んでいたわけである。

老舗の出版都市ヴェネツィアの出版業も衰え始めた。ドイツでも三十年戦争(1618-48)の影響で、1620年ころをピークに、出版業も低迷期に入った。フランクフルト書籍見本市での書物取扱量は、前にも述べたとおり、とりわけこの戦争の後半の時期(1631-45)に落ち込んでいる。戦争終了後はいくぶん活気を取り直したが、外国人にとってもドイツ人にとっても、この書籍市はもはや出会いの場ではなくなっていた。

フランスでは、1650年ころから数十年に及ぶ激しい商戦が始まった。そしてパリで印刷されて多少とも当たった書物の海賊版を系統的に作り、邪魔な相手を倒産に追い込む業者も出てきた。その犠牲者となったのが、例えばアントワーヌ・ベルチエだった。この人物はかつてリヨンに見切りをつけてパリで開業し、スペインの書籍商と活発に取引をしていたのだが、この時破産に追い込まれたのである。

そのほか狙われた書籍業者の中には、パリの最大手のクールベ、クラモワジー、デブレなどがいた。フランスではそれまで二百年間にわたって、印刷工房がどんどん増え続けてきただけに、この出版不況を乗り切るのは難しかった。どんな村にも印刷工房の一つくらいはあったのだが、その親方といえば、このころ公式文書、つづり字練習帳、初等教科書から、しばしば誹謗文書まで印刷して生き延びていたのであった。

パリでは1644年には印刷工房の数は75あった。そして印刷機は181台備え付けてあった。ところがこの出版不況の時代には、その半分は、断続的にしか動いていなかったのだ。こうした事態を打開するために、フランス当局は1666年にいくつかの印刷工房を閉鎖させた。そして新しい親方の任命と工房の新設を禁止した。それ以降も印刷工房の数は、1789年のフランス大革命まで、厳しく制限されたのである。

<この時代のドイツの書籍取引>

この時代にヨーロッパ各地で行われていた書籍取引のやり方は、「書物の交換と為替手形の利用」であった。この方式はドイツでは17世紀の初めから18世紀中ごろまで、用いられていた。この時代には宗教上の新旧両勢力の対立が激化する中で、ドイツが無数の領邦国家に分立する傾向が強まったことと、この取引方法の発展との間に密接な関係がみられた。

これらの領邦国家では、フランスに倣って、経済史で言う重商主義の一種「カメラリズム」が採用されていた。その経済政策によれば、金(きん)はできるだけ国内にとどめ置くべきだとされていた。そして外国製品に対して金を支出することが、極力抑えられていた。またそうした領邦国家では、ちょうど日本の江戸時代の藩札のように、自分の領内でしか通用しない通貨を発行していた。

そのために領邦国家の枠を越えた取り引きでの為替決済は、きわめて複雑だったと想像される。このために領邦の枠を越えた書籍卸売り業者間の取引には、直接現金を用いないで、書物や印刷物を交換し合う方法が、便利だったわけである。とはいえ、すべての場合に書物と書物の交換だけで済んだいたわけではなかった。当然差し引き勘定が生じたが、これはかなり長い期間をおいて、為替決済という形で処理された。

この交換取引の大きな利点は、経営資本に対する投資が、比較的少なくて済んだ点にもあった。そして「この時代のドイツの書籍取引は、いわばただ一つの巨大な協同組合的出版社とその支店網によって、運営されていた」とも言われるぐらいなのである。

そうした組織の中で、互いによく知り合った同業者仲間は、円滑な書籍取引ができたのである。そして当時のドイツは、一つの国家にまとまっていなかったが、ドイツ文化圏ないしはその影響が及んでいた地域は、今日のドイツの領域よりはるかに広かったのである。現在の国家で言えば、オーストリア、スイス、ハンガリー、チェコ、ポーランド、バルト三国から北欧に及んでいたことを忘れてはならない。

そのために当時はただこの方法を通じて、ドイツ文化圏内の全ての書物が滑らかに循環していた。そして細かに枝分かれした協同組合的な販売網を通じて、互いに遠く離れたドイツ東北部のケーニヒスベルクやスイスのバーゼル、あるいは北欧のデンマークや東南部のブダペストといった所にまで、書物が届けられたのであった。

このように幾多の領邦国家が分立していたドイツを中心とした地域において、書物を摩擦なく流通させることができたのが、交換取引制度なのであった。しかし時とともに人々は、この交換取引制度にも、様々な欠陥や不利な点があることに気づくようになった。つまり書物がその内容や造本などに関係なく、単にモノとして量的に取引されたことから生じたマイナス面にである。

17世紀後半、かの有名なドイツの哲学者ライプニッツは、これに関連して次のように書いている。
「ドイツで出版されている本は、しばしばその外観、内容ともに極めて劣悪である。ところが本がそのように劣悪でも、売れ行きのほうはよいのだ。なぜなら書籍販売業者が互いに結託して、交換取引しているからだ。経営規模が一定の水準に達していさえすれば、その出版社から発行された書物は、一定限度売れるものなのだ」

こうした状況の中で、ドイツのフランクフルト書籍見本市にも影響が現れた。この書籍見本市は15世紀半ばから16世紀を通じ、さらに17世紀前半ごろまで、ヨーロッパにおいて、書籍取引の中心的な役割を果たしていた。しかしその後発展目覚ましいオランダの出版界で真摯に、念入りに本づくりをしていた人々が、総じてお粗末なドイツの書籍との交換に大いなる不満を示した。そしてこの見本市から撤退してしまった。同様にフランスやイギリスなどの書籍業者も、フランクフルトから離れていったのだ。

しかしドイツの領邦国家体制に適合していたために、書物の交換取引制度は、なお18世紀半ば過ぎまで存続したのであった。

 

16~17世紀の出版業の諸相

その05 カトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の出版業

<対抗宗教改革の動き>

16世紀の半ば頃、ヨーロッパのカトリック勢力は様々な側面で、プロテスタント勢力との対決姿勢を鮮明にして、対抗宗教改革の動きを活発化していた。カトリック国のスペインに、イエズス会が生まれ、世界中にその影響力を伸ばし始めていくのも、このころのことであった。

そのためにヨーロッパの各地で、カトリックとプロテスタントの抗争は激しさを増して、ついには宗教戦争に突入する地域も見られた。当時ヨーロッパを支配していた大勢力であったハプスブルク家のスペイン国王やオーストリア皇帝そしてフランス国王は、ともにカトリックの強力な支持者であったため、ヴァチカンの教皇と結託して、プロテスタント教徒を弾圧するのにあたって、あの手この手を用いていた。彼らはプロテスタント思想の普及を妨げるために、プロテスタント系の出版物に対する検閲を厳しくしたり、規制を強化したりしていた。

<教会及び国家による検閲と規制の強化>

教会と国家というヨーロッパ中世を支配していた二大勢力は、活字版印刷術の普及によって、危険で好ましくない思想が急速に広まることをいち早く察知した。そしてこれに対して、検閲という手段をもって対抗したのであった。

たとえば1479年に時の教皇は、ケルン大学に、異端書籍の印刷者、購入者、読者を起訴する権限を与えた。ついで1485年には、マインツ大司教が書籍の検閲に関する布告を発している。さらに1487年の教皇教書は、「カトリックの教えに反し、神に逆らうような」書物は、すべて焼き払うようにと書いていた。次いで1517年に宗教改革の火ぶたを切ったマルティン・ルターに対して、教皇は皇帝と力を合わせて弾圧に乗り出し、ルターの全ての著作の発行停止という措置にでた。

ルターの著書を燃やしているところ(16世紀の木版画)

しかしこうした検閲や規制の強化措置は、あまり効果を上げることができなかった。ルターによって書かれた小冊子やパンフレットが、広く人々の間に浸透していったことについては、すでに述べたとおりである。当時ドイツでは、おおざっぱに言って、国の半分の地域にルターの教えを支持する勢力が広がっていたからである。

それでも1547年に、プロテスタント側のシュマルカルデン同盟との戦争に、皇帝カール五世が大勝利を収めると、皇帝からの規制は再び強まった。その翌年「帝国警察規則」が布告され、印刷に対する完全な管理権を皇帝が握ることが明らかにされた。その後もこうした布告や規則は、繰り返し出されたが、期待したほどの効果は上げられなかったようである。

<帝国書籍委員会の専横>

この委員会は1524年に書籍検閲の控訴法廷として、皇帝のおひざ元のヴィーンの宮廷内に設置された。しかし初期のころはこの委員会は、さしたる活動をしていない。ところが1555年にそれがイエズス会に委任されてからは、うるさい存在となったのである。このイエズス会というのは、1534年にイグナチウス・ロヨラらによって創立された組織であったが、その後ローマ教皇によって認可され、対抗宗教改革で大きな役割を果たした戦闘的な集団であった。

たとえば1567年、皇帝に対する誹謗文書が出た時、イエズス会の差し金で、皇帝は印刷者に対して厳罰を下すよう、フランクフルト市参事会に命令した。その結果この不幸な男は鎖につながれて、ヴィーンに護送されたのである。同委員会はさらにその2年後には、市参事会に対して、市を訪れるすべての書籍商への出版許可の有無を検査し、かつ過去5年間に出版された書物を調査するよう命令した。そして書籍一点につき一冊を献本として提出するよう命じた。そしてこの調査がきっかけとなって、1579年には帝国書籍委員会は、フランクフルトに移ったのである。

この後イエズス会は同委員会を牛耳ることによって、これを対抗宗教改革運動の一部に組み込んだのである。その委員はフランクフルトの書店を訪ねては、下劣で扇動的な文書の流布を抑えた。そしてまた皇帝の出版許可を検査し、不法出版物を押収し、献本集めの監督を行った。そして先に述べた献本要求をエスカレートさせていった。

その献本は、三十年戦争中の1621年には3冊、1648年には4冊、そして1666年には、ついに6冊までになった。このような献本の要求はすべて書籍商の負担となっていた。とりわけ大型の高価な書物で何巻にもわたるような場合、6冊もの献本を無償で行うことは、書籍商にとってかなりの損失を意味していた。

フランクフルトの大市ないし書籍市は、たしかに皇帝の許可と保護によって発展してきた。そのためにこの町は帝国都市とも呼ばれてきた。しかし住民の宗派を見ると、プロテスタント2万人、カトリック5千人、ユダヤ人3千人という人口構成で、プロテスタントが優勢な都市であった。そのためにイエズス会側のこうした態度は、耐え難いものであった。

確かに献本要求に黙って応じた者もいたが、プロテスタントのザクセン地方の書籍商たちは、同地を支配していた選帝侯に苦情を申し入れた。しかし皇帝との和を乱したくない選帝侯からの支持は得られなかった。またヴェネツィアの書籍業者たちの反対の声を高かった。それにもかかわらず、皇帝はそうした声に耳を貸さず、書籍委員会の横暴ぶりは激しさを増すばかりであった。

こうした圧迫が17世紀の間に書籍業者たちの足を、フランクフルト書籍市から遠ざけさせる大きな原因となったのである。1625年以降は、フランス人がほとんど姿を現さなくなった。ヴェネツィアの書籍商も来なくなり、他の国からの書籍業者の訪問もなくなっていった。最後に残っていたオランダの書籍商たちも不当な献本要求に抗議したのち、1701年にはついにフランクフルト書籍市から撤退することになったのであった。

<出版業におけるカトリック・ルネッサンス>

いっぽう対抗宗教改革運動は、プロテスタント陣営を弾圧することにだけ情熱を燃やしていたわけではなかった。広く民衆の間に再びカトリック信仰をよみがえらせることにも力を入れていたのである。その手段としては、やはり出版業を通じて、カトリック・ルネッサンスを実現しようとしていたのである。

イエズス会はヨーロッパ中に多数のコレージュを開き、その近くに印刷工場の開設を促した。またヨーロッパのカトリック圏全域に、多くの修道院が出現して、書物集めに力を注ぐようになった。さらに民衆のカトリック信仰が復活し、それに伴って宗教文学というジャンルが生まれた。そしてこうしたことが相まって、宗教書の出版が発展を示すようになった。こうした変化は、カトリック・ルネッサンス運動の影響が表れ始めた1570年ごろから起こった。典礼書のテクストを統一し、それらをローマの慣習に合わせるために、改訂することがトリエント公会議で決定された。

これによってカトリック系の出版業の復興が促進された。そしてカトリック教会またはカトリック諸侯の支援を受けていた大出版業者は、これらの書物の独占出版権を手に入れて、事業を著しく発展させたのであった。その典型がプランタン・モレトゥス家であった。それについてはこの後、詳しく述べることにする。

当時のヨーロッパのカトリック圏の大中心地といえば、ことごとく宗教ルネサンスの中心地であった。すなわちドイツでの印刷業は南部諸都市と西部のケルンで、活況を取り戻した。またフランドル地方でも、スペインに再度征服されてから対抗宗教改革の砦となったアントウェルペンでは、プランタンの義理の息子モレトゥスが、おおいに商売を発展させた。つまりトリエント公会議の決定に従って改訂された教会用の書物を、彼は長期にわたって大量に出版して、それらを全ヨーロッパとアメリカに流布させていたのである。

フランスでは教会とイエズス会の庇護を受けて、クラモワジーとその共同事業者がパリの出版業界を牛耳っていた。そしてリヨンの出版業界も、やはりイエズス会のおかげで、1620年から幾分勢いを取り戻した。ヴェネツィアも同様で、またパオロ・マヌツィオが教皇庁の側で開業していたローマでも、カトリック関係の書物の印刷が中心になっていった。

<アントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタン(1520-89)>

カトリック・ルネッサンスの時代に、時代の流れを巧みに利用して、アントウェルペンで大出版業者として大々的な商売を展開したのが、クリストファー・プランタンとその義理の息子やヤン・モレトゥスであった。

アントウェルペンはフランドル地方(現在のベルギー)の商業都市として、15世紀後半から急速に発展していた。そして書籍・出版業も栄えていた。この町へフランス人のクリストファー・プランタンが移り住んだのは、1548年か49年のことであった。

クリストファー・プランタンの肖像画(1572年)

1550年にアントウェルペンの市民権を得たプランタンは、しばらくの間製本と皮細工を商売としていたが、その商売は大いに成功した。その後1555年に「愛の家」という宗派から資金援助を受けて、印刷業と出版業を開業した。そして2年後には、金のコンパスに「労働と不変」という言葉を添えた、有名な印刷者標章を定めた。以後それは同社のシンボル・マークとなった。

印刷者標章として採用されたシンボル・マーク(1557年)

印刷・出版業者として初めは苦労したプランタンであったが、1559年にカール五世の葬儀に関連して出版した立派な書物によって、その名声を確立した。ところが1562年に異端の書物が、彼の印刷所から発見されたことから、一時彼はパリに身を隠した。しかしその潔白が証明され、翌年にはアントウェルペンへ戻ることができた。

帰国後数年間は4人の共同経営者とともに、印刷・出版業を営んだ。この4人の協力関係は5年間続き、その間に実に260点もの作品が刊行されたのであった。これは年間およそ50点ということになるが、当時として驚異的な多さといえた。内容的には、それらは古典作品のポケット版、ヘブライ語聖書、祈祷書、豊富な図解入りの解剖学書などであった。

プランタン社のヘブライ語聖書(1566年)

<五か国語聖書の編纂及び刊行>

その後1567年には、共同経営を解散して、プランタンは再び一人で印刷・出版業を経営することになった。このころ彼は科学的で信頼できる大規模な聖書の編纂と出版を企画した。そのための資金は、当時フランドル地方を支配していたスペイン国王フェリペ二世からから得られることになった。この国王はカトリック信仰がとても厚く、この事業に強い関心を示した。そして偉大な古典研究家アリアス・モンタヌスを、その編集顧問としてプランタン社に送った。こうして詳細な付録が付いた五か国語による聖書が、1568年ら73年にかけて、全八巻で刊行された。

プランタン社の最高傑作、五か国語聖書(1568~73年)

この五か国語というのは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、シリア語そしてカルデア語またはアラミア語であった。そして付録というのは、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、ギリシア語の文法、語彙、それから古いヘブライの慣習を記したものであった。この五か国語聖書の出版こそ、後世にまで残るプランタン社の最高の業績であった。ともかくフェリペ二世からの信頼が厚く、1570年には「王室御用印刷者」という称号が与えられたのである。

さらにプランタンはスペイン国王から、スペイン及びその植民地において、祈祷書、ミサ典書、時祷書などを独占的に販売する権利を得た。そしてこれによって同社の富の基礎は築かれたのであった。プランタン社は、フェリペ二世のために、何千何万というミサ典書、日課祈祷書、日課書、交唱聖歌集などを出版し、国王はそれらをスペイン国内や海外の植民地へ向けて販売させていたのだ。

<黄金時代のプランタン社(1568-76)>

この時期プランタン社の印刷・出版事業は頂点に達していた。1574年には全部で16台もの印刷機が稼働し、そこでは70人ほどが働いていた。フランスのエティエンヌ家でさえ印刷機は4台だったことを考えると、プランタン社の規模の大きさが分かろうというものである。

プランタン社の出版物は、宗教書だけではなかった。彼はその時代のもっともすぐれた科学研究書の刊行にも力を入れた。その中にはドトネウス、クルシウス、ロベリウスによる植物学の本も含まれていた。さらに彼は自ら編纂した初めてのオランダ語の辞書も出版した。

ロベリウスによる植物学の本(1581年)

しかしオランダの独立運動に関連して、オランダの南部にあっフランドル地方も、やがて戦乱の影響を被ることになった。1567年アントウェルペンにスペイン軍がやってきた。プランタン社は略奪は免れたものの、その出版活動に悪い影響が出て、生産量はかなり落ちた。1577年には印刷機は、5台が働いていただけだった。その後この数は増えたが、二度と10台をこえることはなかった。

こうして出版物の量は最盛期に比べて落ちはしたが、その質は保たれていた。戦時にもかかわらず、極めて重要な作品が、依然としてプランタン社の印刷機から生まれていた。それらはアブラハム・オルテリウスの地図、ラ・ヘレのミサを含む楽譜、ギッチャルディンによるオランダの歴史及び地理の研究書、人文主義者ユストゥス・リプシウスの著作などである。

ラ・ヘレのミサを含む楽譜

<その後のプランタン>

スペインの侵略後、アントウェルペンは決定的に反逆者の立場をとらざるを得なくなった。そのためにプランタンも困難な状況に陥ることになった。かつての「王室御用印刷所」は、反逆勢力の指導者たちの訪問を受け、反スペイン側の文書を印刷していた。その一方スペイン側の公式文書も印刷していた。また宗教改革者ヘンドリク・ヤンセン・バーレフェルトとの友情も、このころから続いていた。この人物は、アントウェルペンに残って、その著作をプランタン社から匿名で出していたのだ。

その後も戦火は衰えず、プランタン社はアントウエルペンにとどまっているのが、困難になった。そんな時ライデン在住の人文主義者リプシウスからの誘いがあって、1583年にその地に新設された大学の印刷社として赴任することになった。自らは依然としてカトリック信者にとどまっていたが、カルヴァン派の人々からも、丁重に扱われた。

ライデンで印刷された最初の近代的海図帳の表紙(1585年)

ところがプランタンはライデンでは居心地の悪さを感じて、1585年8月、永久にオランダを捨てるつもりで、伝統的なカトリックの町であるドイツのケルンに移った。しかしちょうどその頃アントウェルペンがスペイン軍から解放されたことを知って、急遽彼はこの第二の故郷に戻った。そして1589年に亡くなるまで、そこで印刷・出版業を続けたのであった。

その34年間にわたる活動期間にクリストファー・プランタンは、実に2450点もの出版物(そのうち書籍は1850点)を刊行した。プランタンはカトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の最も重要で、最大規模の印刷・出版業者だったのである。

<プランタンの後継者ヤン・モレトゥス(1543-1610)>

プランタンは5人の娘を遺したが、そのうちの3人は彼の助手ないし協力者と結婚した。長女のマーガレットは、東洋語の専門家ラフェレンジウスと結婚したが、この人物は1585年にライデンのプランタン印刷所を引き継いだ。

そして次女のマルティーヌは、ヤン・モレトゥスと1570年に結婚した。彼は才能ある男で、1557年に14歳でプランタン印刷所に勤め始めていた。そしてその才能を見込まれたモレトゥスは、プランタンの右腕として働いたが、とりわけ事業経営の面で第一人者となった。

プランタンは遺言で、アントウェルペンの家と印刷所(オフィチナ・プランタニア)を、モレトゥスに残した。そして以後モレトゥス家の子孫が代々、プランタン・モレトゥス印刷所を引き継いでゆくことになったのである。

その初代のヤン・モレトゥスは、前任者に劣らない熱意とエネルギーで、印刷・出版事業を推進していった。彼はカトリック・ルネッサンスの出版者として、もっぱら祈祷書や宗教書を刊行していった。その反面、当時オランダ南部に台頭してきた人文主義の印刷・出版業者が、古典書や科学書を出版するようになったために、この方面からは撤退せざるを得なかった。

プランタンはまず本の内容に重きを置いたが、モレトゥスのほうはとりわけ書物の外観に注意を払った。そのために初代ヤン・モレトゥスのもとでは、プランタン印刷所は、その書物の外観の美しさと優雅さとで、国際的な名声を保ったのである。

ヤン・モレトゥスによって出版されたオランダ語聖書の表紙(1599年)

<モレトゥスの息子たちの活動とその後>

ヤン・モレトゥスは1610年に亡くなり、その二人の息子バルタザール一世(1574-1641年)とヤン二世(1576-1618)がその後を継いだ。しかし実質的には長男のバルタザール一世が主導権を握っていた。彼は非常に豊富な知識と知性を持っていて、すべての点でモレトゥス家の中で最も優れた人物であった。彼はその時代の主な芸術家や学者と交際があった。こうした環境の中で、プランタン・モレトゥス出版社は、再び文化の中心地になった。なかでも彼は画家のピーター・ルーベンスの親友であった。バルタザールはこの友人に、自分の印刷所で出版するものの押し絵や口絵のデザインを依頼した。巨匠ルーベンスはこの方面でもすぐれた作品を残しており、それがまたプランタン・モレトゥス出版社の評判を高めたのであった。バルタザール一世は独身のまま1641年に他界した。

その後を継いだのは、弟の息子バルタザール二世(1615-74年)であった。彼は依然として独占的な宗教書の出版に力を注ぎ、それによって一家の富の増大を図った。しかし彼の死後、同印刷所は不振となった。それでもその後継者は昔から与えられていた特権を利用して、スペイン及びその植民地向けにミサ典書や祈祷書の再発行を続けた。しかしこの特権も18世紀の半ばに消滅し、以後出版量は激減した。

バルタザール二世の息子バルタザール三世(1646-96年)は、1692年に貴族に列せられたが、モレトゥス家の人々にとって、印刷所はもはや生計のもとではなくなっていた。すでに十分金持ちになっていた彼らは、その資金を土地などに投資して、ますます増やしていた。18世紀後半からは、モレトゥス家は先祖を敬う意味で印刷所を保持していたにすぎない。

1867年、同印刷所はアントウェルペン市が買い取って、それ以後その建物は「プランタン・モレトゥス印刷博物館」となった。この博物館には、立派な印刷機をはじめとする印刷関係の器具類、活字箱にいっぱい詰まった各種の活字、その他印刷関連の資料などが、実に豊富に保管されていて、今なお一般に公開されているのだ。

この「プランタン・モレトゥス印刷博物館」を、私は2005年の夏に訪れた。これまで何度も繰り返し述べてきたアントウェルペン市は、日本ではこれまで普通、英語風にアントワープと呼ばれている。しかし私が所持している世界地図帳(昭文社、2002年)の74頁には、ベルギーの首都ブリュッセルの北部にある大都会として、はっきりアントウェルペンと記されている。そして赤字で大きくそのわきに「プランタン・モレトゥス印刷博物館」とも記されている。つまりこの博物館は現在、この都市を代表する存在になっているのだ。

「プランタン・モレトゥス印刷博物館」の内部。
印刷機と活字箱に詰まった活字

次回は「オランダ出版業の発展とその他の国の出版業の低迷」について、述べることにしたい。

16~17世紀の出版業の諸相

その04 フランクフルト書籍見本市の繁栄

<大市(おおいち)の伝統>

書籍市の町としてはリヨンよりやや遅れて発達したが、やがてこれを追いこしたのが、ドイツのフランクフルトであった。今日のドイツにおいて、フランクフルト(アム・マイン)は、ドイツの最大の金融都市としてドイツ連邦銀行の所在地になっている。そればかりではなく、EUヨーロッパ連合の金融機関である欧州中央銀行の所在地でもあるのだ。そして株に関心のある方にとっては、フランクフルト証券取引所の名前はよく知られていよう。

このフランクフルトは、実は中世の昔から商業都市として、重要な存在だったのだ。その証(あかし)が、これからご紹介するフランクフルトの大市(おおいち)なのだ。印刷術の発明よりはるか昔に、すでにフランクフルトでは、毎年春と秋に大市が開かれていた。そしてここへはドイツ全土はおろか、ヨーロッパ各地から商人たちが集まってきていたのだ。

交易のための制度としての市(いち)は、キリスト教の影響が強かった中世にあっては、教会行事と結びついて発生した。そして毎日あるいは毎週開かれていた普通の市とは別に、年に二回、大市が教会の大きな祭礼の時期を中心に開催されていたのだ。

大勢の群衆があつまる祭式や祈禱が終わった後に、社交と取引のための時間がやってきた。ちなみに大市ないし見本市を表すドイツ語のメッセという言葉は、キリスト教のミサからきているという。このメッセつまり見本市は、現代のドイツにおいても取引の手段として、様々な産業の分野に分かれて、各地で盛んにおこなわれている。その影響を受けて、今日の日本においても、このメッセという言葉は「幕張メッセ」といった具合に使われているのだ。

ところでフランクフルトの大市に対して、1240年皇帝フリードリヒ二世によって特権が与えられた。つまり大市に集まるすべての商人、旅行者、訪問者に対してドイツ帝国が特別の保護を与えたわけである。その後のフランクフルトの発展は目覚ましく、とりわけ15世紀半ば以降、ケルンに次いでライン川流域で最も重要な商業都市になった。

その理由としては、まず第一にフランクフルトが交通の要衝にあったことがあげられる。同市はライン川との合流点からほんのわずかさかのぼったマイン河畔に位置している。そのため東西南北あらゆる方面と結ばれていたのだ。西側へはライン川を下って、フランス、フランドル地方、オランダと、東へはボヘミア(現在のチェコ)やオーストリアと、南へはライン川をさかのぼってスイス、さらにアルプスを越えてイタリアと、そして北ドイツ方面とは、優れた郵便サービス網で結ばれていたのだ。

当時フランクフルトは、その市の規模の大きさのために、「ドイツ人の市場」とか、「ドイツの七不思議のひとつ」とか呼ばれていた。そこで取引されていた商品も多種多様で、まさに国際的な雰囲気をかもし出していた。ここでは英国とネーデルラントのラシャ商人が出会い、東洋産の香料や南ヨーロッパ産のワインやドイツ諸都市の加工品が売られていた。

さらにバルト海沿岸都市を中心としたハンザ同盟都市の魚類、馬、ホップ、金属、ボヘミアのガラス製品、シュタイアーマルク地方の鋼鉄、銀、錫、テューリンゲン地方の銅、ウルム地方の亜麻、アルザス地方のワイン、シュトラースブルクのラシャ、金銀細工品、イタリアのワインや油など。そしてヨーロッパ以外の産品の売買の取り決めも行われていた。

<書籍市の発達>

やがて活字版印刷術が発明されて、初期の印刷・出版業者は、自分たちの製品である書物を売るために、フランクフルトにやってきた。また先に述べたように、マインツからはフストやシェッファーが訪れたし、1478年からはバーゼルのヴェンスラーやアマーバッハもしばしば訪れて、イタリアの書籍商と出会ったりしていた。

さらにニュルンベルクのコーベルガーは、1493年から1509年までこの町を訪れた。とりわけⅠ498-1500年にかけては、連続して春・秋6回の書籍市に参加している。1506年コーベルガーが泊まっていた宿屋の主人は、書物を並べたり保管できるようにと、彼のために常設の店を建てた。こうしてコーベルガーはフランクフルトに居ながらにして、バーゼルの書籍商たちと盛んに取引を行ったのであった。

このようにフランクフルトは書籍商の町として急速に発達したのだが、この町での印刷・出版業の始まりは、かなり遅かった。旅回りの活字製作者兼印刷者であったクリスティアン・エーゲノルフがこの町にやってきて、市参事会の支援を受けて、印刷所を開いた1530年が始まりであった。しかし、それ以後フランクフルトの印刷・出版業は順調に発達していったのである。

<ヨーロッパの書籍センター>

ドイツの二大出版都市フランクフルトとライプツィッヒを中心にした地域
(16~18世紀)

やがてフランクフルト書籍市に足を運ぶ書籍商たちの数は、年を追って増大していった。マールブルク、ライプツィッヒ、ヴィッテンベルク、テュービンゲン、ハイデルベルクなどのドイツの都市ばかりではなくて、近隣のヨーロッパ諸国からも書籍関係者が姿を見せるようになった。イタリア、スイス、オーストリア、フランス、イギリス、オランダ、フランドル、ハンガリーなどの諸国からである。

とりわけ大書籍業者アルドゥス・マヌティウスがいたヴェネツィアとの間には、いつも活発な取引があった。記録に現れるヴェネツィアとの最初の取引は1498年のことで、フランクフルトの教会参事会員ヨーハン・ローバッハは、その日記につぎのように書いている。
「1498年の秋市において、教皇の認可のもとに出版されたるゴットフリート著『製錬に関する監督実習』を、2フロ-リンにて購入。ヴェネツィアにて印刷されしマインツ市便覧一巻を、製本せしむ』

フランクフルト書籍市で扱われていたものは、なおラテン語の書物が中心だった。当時のラテン語はヨーロッパ諸国の学者・聖職者の共通語であったから、ラテン語の書物はそのまま各国に持ち帰られて、翻訳することなしにそのまま読まれたのである。

ヨーロッパの書籍センターとしてのフランクフルトの役割は、16世紀も半ばになると、ますます鮮明になっていった。1540年からはパリのジャック・デュ・ピュイ一世が、そして間もなくロベール・エティエンヌも毎回訪れるようになった。そして1557年の秋市には、書籍商がリヨンから2名、パリから4名、ジュネーヴから2名、アントウェルペンから5名、そのほかユトレヒト、アムステルダム、ルーヴァンからもやってきた。

1569年の秋市には、地元のフランクフルトから17名、ヴェネツィアから3名、リヨンから4名、ジュネーヴから5名といった具合に、合計87名の書籍商が集まってきている。彼らは当然のことながら、出かけてこられなかった同僚の要件も携えてきていた。現代の目から見ると、これらの数字はわずかなものに思われようが、当時の交通事情は、前にも述べたように、今日とは比較にならないぐらい悪かったことを考慮する必要がある。またこうした外国からの商売人にとって、フランス語やラテン語を知っている地元の人は大変重宝がられた。訪問者の多くはドイツ語を話せなかったからである。

フランクフルト書籍市には、書籍商だけではなくて、書籍に関係したあらゆる業種の人々が大勢やってきた。校正係、活字鋳造人、活字父型彫刻師、組み版工、木版工、製本工などであった。そのためそこに集まった同業者は、必要な場合には、かれらから印刷用資材を直接買うこともできた。さらに様々な国や地域から、多くの学者たちもやってきて、出版者にあったり、最新の書物を手に入れたりしていた。

つまりフランクフルト書籍市はこのころ、ヨーロッパの知的生活の一大中心地となっていたのだ。フランスからの有力な書籍商アンリ・エティエンヌは、1574年にこの書籍市を訪れたが、その後フランクフルト市の市長及び参事会にあてて、賛辞の言葉を送っている。彼はその中で、
「空に輝く綺羅星のごとく、そこにはきわめて多くの品物であふれています」と述べているのだ。そして「皆さんは、フランクフルトと呼ばれているドイツの都市にいるのではなくて、かつて全ギリシアで最も栄えた都、文芸活動の最も華やかであった都、つまりアテネにいるのだと思われることでしょう」と付け加えている。

フランクフルト書籍市はこうして16世紀後半から17世紀前半にかけて、ドイツ語の印刷物の普及の一大中心地であるのと同時に、ラテン語書籍の国際市場となっていたのである。この時期は、日本で言えば、戦国末期から江戸時代の初期に相当する時代であった。いっぽう目を現代に向けると、第二次大戦後の西ドイツで復活したフランクフルトの書籍市が、「フランクフルト国際書籍見本市」と呼ばれているように、当時の西ヨーロッパ世界での国際市場だったのだ。

あとで詳しく紹介するアントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタンは、そこで大規模な取引を行い、店舗も構えていた。そして書籍市が開かれるたびに、自ら出向くか、娘婿のヨハネス・モレトゥスをそこに差し向けていた。またイギリスの書籍商たちも姿を見せていた。彼らはそこで、自国で転売するために、大陸で印刷された書物を仕入れていたのだ。1617年には、書籍商ジョン・ビルがロンドンで、フランクフルト書籍市の書籍目録を定期的に復刻する事業を開始さえした。

<フランクフルトの本屋街>

フランクフルトの本屋街の近く。マイン川岸に横付けされた船から、
印刷した紙や製本された本を詰めた樽を積み下ろしているところ

ここでフランクフルトの神保町ともいうべき「本屋通り」をのぞいてみよう。この通りとそれに続く近辺、つまりマイン川とレオナルド教会の間の一帯が、書籍取引の中心地であった。ここに書籍商たちは仮小屋や、ときには常設の店舗を設け、その上に店主の名前を入れた看板を掲げていた。これらの仮小屋の中には、毎年賃貸しされるものもあれば、町の財産として公的に所有されているものもあった。

店の扉や窓には、新刊書を告げるポスターが貼られていたが、より組織的な商売は店や小屋の中で行われていた。また戸外の通りでは、呼び売り屋が新刊書のタイトルを大声で叫んで、通行人に売りつけようとしていた。また行商人が暦、版画、三文小説、新しい歌謡集そして時事問題を扱った小冊子などを売り歩いていた。

書籍商人たちは、春秋二回の書籍市の開催期間が、飛び切り忙しかった。まず第一に樽詰めで送られてきた未製本あるいは製本された本を樽の中から取り出さねばならなかった。それらは時にひどく傷んでいたり、しばしば落丁も見られた。これは発送の段階で、店員が倉庫で刷り紙を選んで一冊づつまとめる時に起こる手違いによるものである。

樽から取り出された本は書店の棚に並べられ、リストとつき合わされた。その際落丁があれば、不足ページを請求しなければならなかった。ついで書籍商は同業者が準備した新刊書のリストを急いで検討し、どの本を何部買うか決めた。そして製本されずに届けられた印刷紙の場合は、製本工に依頼して製本してもらわなければならなかった。

さらに旧刊本の交換を行ったり、返品を受けたり、また印刷中の近刊本の予告を準備したりした。そして出版者でもあった彼らは、最後に自分のところの書物を、よその出版者や一般の客に売らねばならなかったのである。

そのために書籍市で再会した出版者同士は、互いに最新の情報交換を行った。現在どんな本を印刷中なのかとか、これからどんな本を印刷する計画なのか、といったことを互いに話し合い、次回の書籍市のために注文したりしたわけである。

<書籍見本市の目録発行>

書物の目録そのものは、書写の時代から存在していた。しかし活字版印刷術が生まれて間もなくの1470年ころ、大出版業者の代理販売人は、提供できる書物の目録を、最初は手書きで、のちには印刷物として作成するようになった。そしてこれらの書籍目録は、フランクフルトの書籍見本市で、しばしば配布されていた。

しかしやがて書籍商たちは、書籍市に出展する書物の総目録を作成することが、商売上有益であることに気が付いた。そうした要請にこたえて、1564年アウクスブルクの書籍商ゲオルク・ヴィラーは、書籍市に出品される書物のリストを作り、フランクフルト書籍市目録として発行したのである。この書籍市目録は、1592年まで毎年、春市・秋市ごとに定期的に、四つ折り判で発行されていた。やがてヨハン・ザウアーも1567年から書籍市出品目録を発行するようになった。

さらにフランクフルト在住の出版業者ファイアーアーベントによっても、こうした書籍目録が作られ、さらに1590年にはペーター・シュミットが、フランクフルト書籍市に出品されるすべての書物の完全な目録を作成しようと試みた。しかしそれらはいずれも一書籍商の私的な企てであって、それぞれ貴重なものではあったが、完全無欠なものというわけではなかった。

実際、フラックフルト市当局が、1596ー97年の目録の中に、記載の間違いを発見したことがあった。そのために市当局はそれ以後私的に書籍市目録を作ることを禁止した。その代わりに翌年から市当局が自らの責任において、公式の書籍目録の発行を行うことになったのである。

フランクフルト書籍見本市の最初の公式書籍目録の表紙(1598年)。
ラテン語とドイツ語で書かれている。

こうして1598年に「総合書籍目録」となずけられたフランクフルト書籍見本市の秋市の最初の公式書籍目録が刊行されたわけである。そしてこれは書籍市が始まるときに、参加者に配布されたのである。

<フランクフルト書籍市での書籍取扱量の推移>

ここにフランクフルト書籍市で取り扱われていたドイツ語、ラテン語及びその他の外国語で書かれた書物の、1561年から1735年まで五年間の年平均発行点数の推移を示した統計表がある。これは書籍市目録にもとづくものであるが、当時発行されていた全ての書物を含むものではない。この書籍市に出品されなかった書物もあったからである。とはいえこの統計表からは、当時取り扱われていた書物の量のおおよその傾向を読み取ることはできる。

書物取り扱い量の推移
(出典:J.W.トンプソン著・箕輪成男訳『出版産業の起源と発達』出版同人
1974年。102-103頁)

この表からは、ラテン語の書物がピークを示すのが、1616-20年の時期であることが、まず読み取れる。この傾向は16世紀後半からこの時期までは着実に伸びを示していた。ところが次の1621-25年に入ると、減少に転じ、以後多少の伸縮はあるものの、ラテン語の書物はゆっくり衰退していくのが分かる。

17世紀の初めの20年間は、ドイツ語やその他の外国語の書物も増えている。総体としてドイツにおける書籍取引が頂点を示すのは、三十年戦争(1618-48年)直前のこの時期であったのだ。三十年戦争はドイツ社会の様々な面に、計り知れない損害をもたらしたが、ドイツの書籍産業もその被害をまともに受けたわけである。

三十年戦争中の1631年に出されたチラシ。
戦争による荒廃をなげいたもの

<フランクフルト書籍見本市の衰退>

この統計表によれば、フランクフルト書籍市での書籍取扱量は、とりわけ三十年戦争の後半の時期(1631-45年)に落ち込んでいる。戦争中の不安定期には、多くの書籍商がこの書籍市に来るのをやめていた。しかし戦争が終わってフランクフルト書籍市は、いくぶん活気を取り戻した。

とはいえフランクフルトとの取引を再開しようとしない書籍商も少なくなく、とりわけ外国人の書籍商は、めったに来なくなった。もはやここは書籍の国際市場ではなくなり、そればかりか、やがてドイツ人出版業者たちにとっても、重要な出会いの場ではなくなっていくのである。書籍市に出品される書物も一年一年少なくなり、その目録も年を追って薄くなっていった。

とはいえ、そこでの書籍取扱量は、そのごも一進一退を続け、急激に減少したわけではなかった。しかし総体として、三十年戦争の後遺症は重く、戦争直前のピークに戻ることはなかった。そして17世紀の後半には、その地位を、同じドイツのライプツィッヒ書籍見本市に譲ることになったのである。とりわけ1690年代にはライプツィッヒはフランクフルトを大きく引き離し、それ以後さらに大きく発展していくのである。
ライプツィッヒの発展の模様については、のちにまた詳しく述べることにする。