ギリシア・ローマ時代の書籍文化 05

その05 ローマ時代の図書館

第一章 ローマ人の私設文庫

<ギリシア文化の影響下に生まれた私設文庫>

ローマの場合、ラテン語による執筆行為は、ギリシアより数百年遅れて始まった。それは紀元前3世紀の末ごろのことであったが、最初はギリシア語作品の書き写しのようなものであった。とりわけギリシア出身のアンドロニクスやナエウィウスなどはギリシア語作品をラテン語に翻訳する形で、執筆していた。ローマ人がギリシア人と戦争したとき、ローマへ連行されてきた捕虜の中には、高い教養を持った一連の人々がいた。今あげた二人の人物は、いわばギリシア文化の使節として、略奪した多くの美術品に勝るとも劣らない重要な存在だったわけである。

共和政時代の政治家で文筆家の大カトー(前234-前149)のように、こうした傾向がローマの古くからの習俗にとって危険なものであるとした人もいた。しかし貴族層の中には、新しい思想を熱心に受け入れ、ローマ的なものと結びつけようとした人たちもいたのだ。たとえば政治家で将軍のスキピオ・アエミリアヌス(前185-前129)は、ギリシア人の歴史家ポリュビオス(前200-前118)を友人として自分の家に受け入れていた。彼とスキピオとの間の友情が、書物を一緒に読み始めたことから生まれた事を、ポリュビオス自身その著作(『歴史』)の中で証言しているのだ。これらのことからスキピオの家には、ギリシア文学の作品をたくさん集めた私設文庫が存在していたことが推測される。

またアエミリウス・パウルスが前168年にマケドニア王ペルセウスとの戦いに勝った時、その図書館の蔵書を略奪して、文学好きの自分の息子たちに贈ったことは、先に述べたとおりである。ペルセウス王のこの蔵書は、ローマ人の手に落ちた最初のまとまった文庫だったといわれる。

<スッラの私設文庫>

同じく政治家で将軍のスッラ(前138-前78)はアテナイにおいてアペリコンの文庫を手に入れたのだが、その中にはアリストテレス及びテオフラストスの書物が含まれていたため貴重なものであった。スッラはナポリ湾北岸のクマエに別荘を持っていたが、文庫はたぶんそこへ運ばれたものと思われる。そしてその息子のファウストゥス・スッラが、父親から別荘と文庫を受け継いだ。
この息子は貴重な蔵書を自分だけで独占しなかった。そのため同時代の名高い政治家で文筆家のキケロはその別荘を訪れて、私設文庫の蔵書を読むことができたという。「私はここファウストゥスの文庫を読んで、楽しんでいる」と、キケロは前55年4月に友人のアッティクスに書き送っているのだ。そのうえキケロは後に、この文庫から貴重な書物を手に入れている。それは大浪費家のファウストゥスが金に困って、その蔵書を競売にかけることになったからである。

<ルクルスの私設文庫>

スッラの忠実な部下として小アジアに遠征した政治家で将軍のルクルス(前117-56)も、ポントスのミトラダテス王からの戦利品として持ち帰った書物によって、その別荘に私設文庫を作った。そして政界から引退した後は、学問・芸術の愛好家として生活を楽しんだ。ローマで最も富裕で食通でもあったルクルスは、上流貴族の「殿様」であった。狭苦しい雑踏と古いしきたりに縛られた首都のローマから離れて、広々とした田舎の領地で、ギリシア的理想が刻まれた生活を送ったのである。豪壮な邸宅、柱廊玄関、庭園そして美術品を展示した広々としたホールを備えた別荘で、殿様たちは公務を離れて文学や芸術三昧の暮らしを享受していたのだ。

彼らは自ら朗読したり、文学奴隷に朗読させたり、詩や散文を作ったり、客人と知的な会話を楽しんだりした。ルクルスの生涯に関するプルタルコスの記述(『対比列伝』42)を見てみよう。「書物を得ようとする彼の努力には、真剣な配慮が感じられた。彼は多くの美しい書物を集めた。・・・そしてその文庫を誰にも開放し、屋敷内のロビーやラウンジにギリシア人がいつでも入れるようにしていた。その詩神の館にやってきた人々は、日常の仕事から逃れて、一日を互いに心行くまで過ごすことができた。しばしばルクルス自身そうしたロビーにやってきて、学者たちの議論に加わったりした。」

<キケロの私設文庫>

共和制末期(前1世紀)の代表的な政治家で文筆家であったキケロは、自分の私設文庫について友人のアッティクスとの文通の中で、再三にわたって触れている。スッラやルクルスのような将軍ではなかったため、キケロは戦利品としての文庫というものを所持していなかった。そのため彼は書籍を集めるために、相当の財政的負担を負わねねばならなかった。とはいえキケロは、ローマのパラティヌスの丘の上にあった住宅のほかに、少なくとも7か所の別荘を持っていた。そしてこれらの別荘に、その蔵書を分散して保管していた。

彼が前68年にトゥスクルムの別荘を買った時、数年前からアテナイに住んでいた友人のアッテイクスに、その別荘を飾るための美術品を探してくれるよう依頼したのと同時に、私設文庫のための書物をあつらえてくれるように頼んでいる。それに対して書籍商であったアッティクスは、ギリシアの作家たちの作品をひとまとめにしてキケロに送っている。その価格は相当な額になったはずである。そのためその費用をすぐには払うことができなかったが、それらを他人に手渡さないよう懇願しているのだ。その一方前60年には、友人のパエトゥスから、その異母兄弟の蔵書をそっくり贈与されるという幸運に恵まれている。

前58年に護民官ブルケルによってキケロは追放され、同時にその財産も護民官の暴力行為の犠牲になった。ところがその翌年には戻ることができ、元老院から活動再開のための補償金が支給された。こうした成り行きの中で、彼は再び私設文庫の蔵書を増やすために精力を傾けた。その手助けをしたのは、またしても友人のアッテイクスであった。その際図書整理の専門家として、ギリシア出身の文学奴隷二人が送られた。本箱および個々の巻物につける表題ラベルの製作の際に、彼らは大変な尽力をしたが、そのことについてキケロはアッティクスに感謝の言葉を伝えている。

<書籍発行者アッティクスの文庫>

これまでもたびたびキケロとの関連で登場してもらってきたアッティクスは、キケロとは縁戚があり、少年時代からの学友でもあった。そして古い家柄の貴族で、幅広く事業を営み、同時に学問的素養も深かった。そのため豊富な蔵書を備えた文庫を自ら所有しており、文化史的観点から見ても興味深い人物であった。ローマの七丘の一つクィリナリスにあった彼の邸宅には、文学的な素養を有し、同時に書誌学にも通じていたたくさんの奴隷が働いていた。キケロもこのアッティクスの文庫から、様々な恩恵を受けていたわけである。

キケロの兄弟クィントスは、自分のラテン語の書物を売って、ギリシア語の書籍を増やそうとした時、このアッティクスの援助を受けていた。その間の事情については、兄弟の間の文通にも表れている。

<その他の私設文庫>

もちろん当時のローマの百科全書的な大学者ウァッロも、大きな私設文庫を有していた。そしてキケロもそこの客人になったりしていた。しかしウァッロが前43年に追放の憂き目を見た時、その文庫も略奪にあったという。

帝政時代の数百年間、文学や学問に関心のあった人たちは、可能であれば、その都市の住宅または田舎の邸宅に、自分の私設文庫を持つことができた。文献上で伝えられている私設文庫の所有者だけでも、列挙すれば、次のような人たちの名前を挙げることができる。
ラテン文学第一級の詩人ヴェルギリウス、ペリシウス、シリウス・イタリクス、3世紀の無名詩人のサモニクス、顔の広い作家マルティアリスとその友人たち、さらにアヴィトス、小プリニウス及びその同時代人の学者セヴェレス、そしてアテナイオスとその「食卓の客人」ラレンシスなどである。それから注目すべきは、アウグストゥス帝の時代に活躍した建築家で建築著述者のヴィトルヴィウスが、ローマ人有力者の立派な邸宅を建てる際の設計プランの中に、当然のことながら、私設文庫を考慮に入れていたことである。

そのいっぽう多くの金持ちが知識人のふりをするために、自宅に立派な文庫をこしらえたりしていた。しかしその持ち主は邸宅に置かれていた書物をほとんど見ることをしなかったため、作家たちの格好の嘲笑の種にされていた。例えばペトロニウスの小説では、成り上がり者のトリマルヒオという金持ちが、ギリシア語とラテン語の蔵書を備えた文庫を自慢しているのだ。また2世紀にはルキアノスが、『たくさんの書物を買った無教養の人へ』という風刺的な小冊子を書いたりしている。そして哲学者のセネカは、書物の内容よりも、高価な巻物の輝く外観や象牙とヒマラヤスギでできた本棚を自慢する同時代に対して、厳しい言葉を投げかけているのだ。

ちなみにギリシア語の文庫とラテン語の文庫とを別々なものとみなすシステムは、都市ローマの公共図書館でも引き継がれた。そして古代末期になると、金持ちの教養人たちは、新しい信仰に帰依したにも関わらず、なお古い文化になじんでいた。そのため伝統的な分類のほかに第三のものとして、キリスト教の文庫というジャンルを作り出したのであった。

ローマ時代の私設文庫の蔵書規模については、古代からの伝承では、三つだけ数字が明らかになっている。まず後62年にわずか28歳で亡くなった詩人のペルシウスは、700巻の書物を残している。次いでスーダ百科事典によれば、文献学者のエパフロディトゥスは、3万巻の書物を所有していたという。いっぽう無名の詩人サモニクスは、父親から受け継いだ6万2千巻を、皇帝ゴルディアヌス二世に遺贈したという。ただこれらの数少ない事例だけからでは、一般的な結論をひきだすことは、もちろんできないが。

<ヘルクラネウムの「パピルスの館」>

紀元後79年に起きた南イタリアのヴェスヴィウス火山の噴火によって古代都市ポンペイが埋没し、その後の発掘によってその実態が解明されてきた。そのポンペイの近くにあった古代都市ヘルクラネウムもこの時埋没し、その後発掘された。そしてこの都市の一角にあった「パピルスの館」と呼ばれている別荘は、1750年代に地下の坑道の中から発見されたのである。その際豊富な美術品ならびに1800巻のパピルス文書(様々な大きさの巻物と断片)が取り出された。と同時に建物のしっかりした平面図を再現することができたのである。

     ヘルクラネウムにある「パピルスの館」の平面図。B=書庫

上の図面を見れば明らかのように、左側には左右に長く伸びたペリステュリウムと呼ばれる中庭があり、エクセドラと呼ばれる張り出しによって、右側の柱廊広間につながれている。そしてその横に居住部分のウィングが接している。これらペリステュリウムとエクセドラにおいて、数枚のパピルス文書が発見されたが、多くのパピルス文書は、右側のBと書かれた3メートル四方の小さな書庫で発見されたのだ。

発掘の状況については、イタリアの各地で古代遺品の調査にあたっていた有名なドイツ人の考古学者兼美術史学者ヴィンケルマンの報告から知ることができる。「文書保管庫に普通よく見られるように、壁の周囲には人間の高さぐらいの戸棚があった。そして部屋の中央には、両面に開かれたもう一つ別の戸棚があった。その周囲を人が歩いて回ることができた。」炭化して断片となった巻物を開いて、解読しようとする試みは、これまでたいてい失敗に終わってきた。しかし1969年になってナポリに、マルチェロ・シガンテを所長とする「ヘラクラネウム・パイルス文書研究国際センター」が設立され、パピルスを新鮮なパピルス溶液で扱うという方法が導入されてから、研究は大いに進展した。そしてパピルス文書の解読は、どんどん進むようになった。その推進役は、グリエルモ・カヴァッロで、パピルス学及び古文書学的視点から、研究が進められているわけである。

小さな書庫で発見されたパピルス文書の中身は、もっぱらギリシアのエピクロス派の哲学に関するもので、それらは大きく二つのグループに分類されている。一つは前3世紀から前2世紀にかけてのエピクロス及びその弟子たちの巻物であった。もう一つの大きなグループは、ガダラのフィロデモスの数多くの論文であった。このフィロデモスは前1世紀のエピクロス派の哲学者で、カンパーニャ地方に滞在していたことが確認されている。そしてこの人物の著作物の中からは、断片的なメモ、草稿から完成度のことなる様々な作品に至るまで、いろいろ見つかっている。そのためその部屋はフィロデモスの仕事部屋ではないかといわれているのだ。

フィロデモスはエピクロス及びその弟子たちの初期の作品を、たぶんアテナイでまとめて手に入れて、その別荘に運んだとみられている。またこの別荘のほかの場所で発見されたパピルス文書の中には、ギリシア語で書かれた、フィロデモスより後の時代の著作が数点と、わずかながらラテン語の作品が含まれていた。そしてそこには前31年にアントニウスとオクタヴィアヌスの間で行われた「アクティウムの海戦」を謡った詩もあったのだ。
このパピルスの館には、当時の習慣に従って、ギリシア語の書物とは別にラテン語の書物を保管した場所も作られていたことが、十分想像される。さらにフィロデモスの特別な仕事部屋のほかに、様々なテーマのギリシア語文庫が存在していたものと思われる。この別荘におけるさらなる発掘が期待されるところである。

<私設文庫の目録作成>

ところでこれらの私設文庫を整理分類するために、目録の作成が行われた。そうした目録はラテン語で  index(インデックス)と呼ばれた。これらのカタログは、ギリシア・ヘレニズム時代の「ピナケス」のような作り方がなされていた、と想像される。つまりそれらは単なるアルファベット順の著者別目録ではなく、書物の内容別の目録だったようだ。そうしたものとして例えば、悲劇作家の目録とか哲学者の目録などへの言及を我々は知っている。その際同じ著者の作品は、普通時代順に並べられている。小プリニウスは叔父の大プリニウスの作品を整理するにあたって、書かれた順に作品を並べて目録を作っていく、と述べているのだ。ともあれ個々の詩人の著作目録が普及し、例えば喜劇作家のブラウトゥスの作品目録などは、様々な文献学者によって作成されている、とゲッリウスは述べているのだ。

第二章 首都ローマにおける公共図書館

<カエサルの公共図書館設立計画>

共和制末期の混乱に終止符を打ち、独裁者になったのがユリウス・カエサル(前100年ー前44年)であった。そのカエサルが首都ローマに、最初の公共図書館を設立する計画を立てたのである。この図書館は、それまで私設文庫で行われていた習慣に従い、ギリシア語文庫とラテン語文庫の部屋を分けて作り、蔵書はできる限り広範に集めるべきとされた。そしてその図書館が公共のものであり、限られた学者層だけが利用できる(アレクサンドリアのムセイオンの図書館のような)ものであってはならないともされた。

その際独裁官カエサルは、書物の調達や整理分類の仕事を、ギリシア人の文献学者ないし作家ではなくて、ローマ人の偉大な学者ウァッロに委託した。ウァッロはそれまでに文庫について三巻にわたる専門書を書いていた人物であった。そこにカエサルの、ローマという国に対する愛国心が読み取れるのである。つまり新興のラテン文学をギリシア文学と肩を並べる同等の存在とみなしたわけである。
しかし独裁官カエサルが前44年に暗殺されてしまったため、この公共図書館設立の大計画は実現しなかった。そしてウァッロも身の危険にさらされたのであった。

その後、首都ローマの最初の公共図書館の設立者として、ポッリオという人物が歴史にその名を刻むことになった。ポッリオ(前76-前4)はカエサルの側近であったが、カエサル亡き後も、前40年に執政官にまで昇進した。そしてその翌年にはマケドニアに遠征し、イリュリア人を打ち負かして、ローマへ勝利の凱旋を行った。文献資料が伝えるところによれば、その時の戦利品を基にして、彼は前39年に図書館を設立することができたという。戦利品であった書物は、のちのトラヤヌス広場の近くにあった建物の一部をなしていたアトリウム・リベルタティスに運び込まれた。そしてポッリオはその建物を見事に改築して、立派な図書館にしたのであった。建物の中には、当時なお生存していたウァッロの彫像ならびに過去の偉大な著作者たちの彫像が飾られた。

<アウグストゥス帝の公共図書館設立>

首都ローマにおける第二の公共図書館は、カエサルの甥で、ローマ帝国の事実上の初代皇帝であったアウグストゥス帝(前63-後14年)がパラティヌス丘の上に建てたものである。そこには様々な私的な部屋の数々や、公共的性格の部屋を含んだアウグストゥスの館のほかに、前28年に建てられた豪華なアポロン・パラティヌス神殿と柱廊玄関施設があった。そしてこの柱廊玄関の東側に、二つの図書館の建物が接していた。ここでもギリシア文庫とラテン文庫が、別々の建物に収蔵されたのであった。

図書館が神殿や支配者の宮殿近くに建てられたのは、アレクサンドリアやペルガモンの場合と同じであったが、守護神はアテナ女神ではなくて、アウグストゥスによってとりわけ崇拝されていたアポロン神であった。この図書館の創設にあたっては、アウグストゥスはギリシア出身の詩人で、属州の総督を務めていたポンペイウス・マケルに全権を委任した。そしてパラティヌス図書館長の職は、文献学者のユリウス・ヒュギヌスに委嘱された。この人物は同時に多くの生徒に授業をしたり、時として友人の世話になったりして生活を支えていたという。つまり図書館長職というものには、あまり高給が支払われなかったようだ。そして図書館の下位の職務は、皇帝の奴隷たちによって遂行されていたのだ。

ラテン図書館の蔵書の重点は、明らかに法律関係の書物に置かれていた。とはいえそこには、同時代の文学作品も欠けてはいなかった。つまり当時の代表的な作家のホラティウスの作品は収蔵されていたわけである。ただ皇帝の不興を買って追放された詩人のオヴィディウスの著作は受け入れを拒否されていた。

いっぽうパラティヌス図書館には、有名な詩人や雄弁家の彫像あるいはアポロン神像などが飾られていたが、この建物は元老院の会議室としても使われていた。ところがネロ帝(在位:後54-68)ないしティトゥス帝(在位:後79-81)の時、この図書館は柱廊玄関を含めてすべて大火の犠牲になった。そしてドミティアヌス帝(在位:後81-96)によって再建された。その時同皇帝はアレクサンドリアに人を派遣して、書物の筆写を行わせ、図書館の所蔵書物にしたという。そののちこの新図書館は、後191年コンモドゥス帝の時に火事に会い、さらに後363年、アポロン神殿が炎上したとき、最終的に消失したという。

アウグストゥス帝の下では、もう一つ図書館が設立された。それは皇帝の姉君をたたえて「ポルティウス・オクタヴィアエ」と称した、四角いホール状の建物であったが、そこには名高い美術品が収蔵されていた。またそこに収められた書物は、ダルマティア征服の際の戦利品であった。この図書館の落成式は、前23年に亡くなった息子のマルケルスを記念して、姉君オクタヴィアによって、執り行われた。その初代館長には文法学者のガイウス・メリススが皇帝によって任命された。ここもやはりギリシア文庫とラテン文庫に分かれていた。

<ティベリウス帝の公共図書館>

第二代皇帝ティベリウスの下でも、公共図書館が造営された。それは神格化されたアウグストゥス帝のためにティベリウス帝によって建てられた神殿の近くに設けられた。そしてその名も「アウグストゥス神殿図書館」とか「新神殿図書館」とかと呼ばれることになった。その場所はフォルム・ロマーヌムの中の南に位置していた。この図書館も後79年に焼失し、のちに第11代ドミティアヌス帝(後81-96)の時に再建された。

ところでローマ帝国初期の公共図書館の収蔵図書選定にあたって、皇帝個人の文学的嗜好によって左右されるところがあったことを、スエトニススのティベリウス帝伝の記述が明らかにしている。「彼(ティベリウス帝)はエウフォリオン、リアヌス、パルテニウスを模範にして、ギリシア風の詩を書いていた。彼はこれらの詩人たちが大変気に入っていたので、公共図書館の中でも、それらの詩人の著作や肖像を、古典期の著名な著作家たちの間において、飾っていた。そのため数多くの学者たちは、できる限りたくさんこれらの作家について注釈して、ティベリウス帝にそれらを献呈していたのだ」

<平和神殿域内の公共図書館>

後75年に皇帝ヴェスパシアヌスは、平和神殿の落成を祝った。

        平和神殿と図書館ホール。復元された平面図。

上の図に見られるように、平和神殿の広大な敷地内には、平和の女神の聖域のほかに、二つの図書館ホール(公共図書館)が存在していた。その図書館の熱心な利用者であった作家のゲッリウスによれば、そこで彼は古い時代の文法学者の珍しい著作を閲覧することができたという。後191年、この平和神殿は、図書館ともども火災に見舞われたが、その際古代ローマ最大の医学者ガレノス(後130-200)の医学書も焼失した。この神殿の再建は、第21代セヴェルス帝(後193-211)のもとで行われた。この再建された平和神殿は、後4世紀の歴史家マルケリスによって、首都ローマの素晴らしい豪華建築物と呼ばれているのだ。またほぼ同時期の『ヒストリア・アウグスタ』の中でも、そこの図書館について触れられている。
前にも述べたように、とりわけこの平和神殿周辺の道路や小道には、数多くの書籍商が集まっていた。そして図書館で、ある著作を読んだ後その購買を決めた図書館利用者は、そのすぐ近くで自分の希望が叶えられたのであった。

<トラヤヌス帝の公共図書館>

トラヤヌス帝(在位:後98-117)は、ダマスクス出身の宮廷建築家アポロドロスの傑作ともいうべき巨大な公共広場の一角に、ローマで最も重要な図書館の一つを作った。この大建築プロジェクトを実現させるためには、カピトリヌスの丘とクィリナリスの丘を結んでいた丘の鞍部を平らにする必要があった。そのためポッリオが首都で最初の公共図書館を設立した場所であったリベルタティス・アトリウムも取り壊された。その際ポッリオの図書館の収蔵図書が、新しいトラヤヌス図書案に移し替えられた、という事も十分考えられる。

         トラヤヌス帝の図書館。復元された平面図。

上の図に見られるように、二つの図書館のあいだには、皇帝のダキア戦役の記念レリーフのついたトラヤヌス記念柱が建てられた。またこの二つの図書館には、それぞれギリシア文庫とラテン文庫の書物が収蔵されていたわけである。ただし建物のレンガに、後123年という刻印が刻まれていることから、その完成は次の皇帝ハドリアヌス帝の時であったことが推測される。そのことは、その正式名称が「神として崇拝すべき(つまり死せる)トラヤヌス帝の図書館」であることからも分かるのである。

この図書館の利用者の中に、またしても作家のゲッリウスの名前が登場する。彼はそこで元来別の文書を探していたのだが、思いがけず古い時代の法務官の告示(法令集)が手に入った、と書いているのだ。そしてトラヤヌス帝をたたえる神殿にちなんで「トラヤヌス神殿図書館」と記している。

<首都ローマのその後の公共図書館>

これまで首都ローマの代表的な公共図書館をいくつか紹介してきたが、全体としてその数は幾つぐらいあったのであろうか。コンスタンティヌス一世(在位:後306-337)の時代のローマ市に関する記述によれば、公共図書館の数は28を下らなかったようだ。ただしこの中には大きな浴場施設内の図書館も含まれていると思われるが。

後4世紀末に、歴史家アミアヌス・マルケリヌスは、その時代に良風美俗や古い文化が失われたと嘆いているのだが、その中で図書館についても触れている。「以前には学問の保護奨励に携わっていた数少ない家々は、今や気晴らしや退屈しのぎの営みに満たされ、そこからは歌や弦楽器をかき鳴らす音が響いてくる。そしてしまいには学者の代わりに歌い手を、雄弁家の代わりに道化師を呼んでくるといった始末だ。図書館は墓場と同様に、永遠に閉鎖されてしまった。」

このアミアヌスの記述は、ローマの公共図書館がこの時代にその門戸を永遠に閉ざしてしまったことを示すものとして、古代の図書館に関するたいていの著述に引用されてきた。しかしこの見解は訂正する必要がある。そこでアミアヌスは公共図書館について全く触れずに、元老院階級の金持ちの私設図書館について述べているわけである。しかも彼が描いた状況は過度に暗い。
ところがこうした上流階級に属した人々の中にも、古典文化の遺産を意識的に保存していた人もいたのだ。例えばシュマンクスとその仲間たちの存在を思い浮かべることができる。その際彼らはますますエリート化し、当時増え続けていたキリスト教信者の大衆からは、ほとんど共感を得られなかった。つまりこうした階級の人々の間で、異教的精神文化の遺産が、いわば遅咲きの花となって咲いていたわけである。しかしこれらのエリートの古典作家の著作物保存への努力によって、ホメロスやヴェルギリウスといった作家の作品の豪華冊子本のいくつかを、今日われわれは見ることができるのである。

ローマの公共図書館の一つが後5世紀になってもなお活動していたが、それはトラヤヌス広場の図書館であった。前にも述べたように、アポリナリスは、後450年ごろ、そこに立っていた著作家たちの彫像の中の一つを手に入れたのである。とはいえその直後に、都市ローマの一般的な窮乏化によって、古い公共図書館は終末を迎えることになった。

<キリスト教の図書館>

ローマにおいて古い皇帝の図書館が後5世紀まで存続していたとしても、新設のものはもうなかった。このころになるとキリスト教会だけが、精神的ならびに物質的財産を所有していたのだ。そうしたキリスト教の図書館は、もちろん意図的に、その蔵書の中身をキリスト教に合致したものにしていたことは言うまでもない。ただしその蔵書の分量はわずかで、主として聖書に限られていたと思われる。そしてそれらの書物は教会の内部に保管されていたのであろう。そうした実例としては、ノラのバウリヌスがカンパーニャ司教座のフェリックス・バジリカの中に作った図書館を挙げることができる。

しかし初期の教皇の伝記集に伝えられていることだが、教皇ヒラリス(在位:後461-468)が教皇宮殿の近くの洗礼堂のわきに建てた図書館は、そうしたものではなかった。そこには二つの図書館つまりラテン文庫とギリシア文庫の二つがあったが、それは都市ローマにあった皇帝の公共図書館の伝統を受け継いだものであったのだ。

後6世紀になると、そこからあまり遠くない現在のサンクタ・サンクトゥルム礼拝堂の地下の発掘によって見つかった、新しい図書館が建てられた。その発掘の際に、読書する聖アウグスティヌスを描いたフレスコ画の断片が発見された。古代末期及び中世には、ラテラノ大聖堂周辺には、歴代教皇の宮殿や仕事部屋があった。教皇ヒラリスの図書館及びサンクタ・サンクトゥルムの地下の図書館は、さしずめ後のヴァチカン図書館の先駆的存在だったわけである。もう一つ別の、少し規模の大きな図書館が、カウェリウスの丘の聖ジョバンニ・エ・パオロ教会近くに建てられた。この建物はその一部が現存している。

第三章 ローマ帝国の各地における図書館

<イタリア地域の図書館>

帝政時代、公共図書館の設立は首都のローマに限られてはいなかった。イタリアに関して言えば、例えばヘルクレス・ヴィクトル聖域であるティヴォリに、図書館があった。この聖域の施設については、すでに共和制の時代から知られていたが、図書館はもっと後になってから作られたようだ。そのことについては、例のゲッリウスがここを訪れた時の様子を書き残している。(『アッティカの夜話』) ゲッリウスはその図書館でアリストテレスの著作を借り出したという。

帝政初期の政治家で著作家の小プリニウス(後61-113)は、ドミティアヌス帝の時代に、生まれ故郷のコモ市に対して公共図書館の設立基金を出し、その落成式には市民に向かって演説している。小プリニウスに対する記念碑には、図書館の運用資金として10万セステルティウス、建物及び内部施設の費用として100万セステルティウスを拠出したことが記されている。これだけの巨額の費用が掛かった建物であったが、残念ながら現存していない。

比較的小さな諸都市においても、民間人の基金提供によって、図書館が設立されたことは、ウォルシーの碑文によって明らかである。その碑文には、建物だけではなくて、書物や飾られていた彫像についても記されている。また北イタリアのピエモンテ地方のデルトーナには、前22年という早い時期に、図書館が作られているのだ。さらに「ビブリオテカ・マティディアーナ」という名称の図書館が作られたが、その名称からトラヤヌス帝の妹マティディアの寄付によるものと思われる。この図書館のホールでは、市参事会の会議も開かれていたという。
ただこうした散発的で、いわば偶然われわれが知ることになった碑文史料や文字史料だけからでは、イタリア諸都市の公共図書館が実際には、どのくらい存在していたのかを、明らかにすることはできないが。

<西部地域の図書館>

図書館の存在に対する文字資料の数の点で、イタリア地域よりもさらに少ないのが、ローマ帝国のラテン語を話す西部地域であった。それでも豊かで、高い文化水準にあったガリアや北アフリカの大都市に図書館があったことは間違いない。ローマに次いでラテン語を話す最大の都市であったカルタゴの場合、『黄金のロバ』を書いた作家のアプレイウス(後123ころー?)によって、図書館の存在が確認されている。この作家は魔術に関する容疑で起こされた裁判に際しての弁明演説の中で、公共図書館において魔術についての書物を見つけたと語っているのだ。

北アフリカ地域には、アプレイウスが訪れたものを含めて、いくつかの公共図書館が存在していたことが知られている。なかでもアルジェリアのタムガディの図書館は幸運に恵まれたケースといえよう。碑文にはロガティアヌスと称する市民が、自分の町の図書館の建物のために、40万セステルティウスの基金を出したことが記されている。この建物は実際の発掘によって、その構造が調査されているのだ。

それに対して現在のチュニジアにあったブッラ・レギアの建物の場合は、図書館といわれているが、実際にその目的に使用されたかどうか、実証されていない。また小規模な図書館(図書室)ならば、ギュムナシオン(学校)にもあった。そしてこれへの基金を拠出した帝政時代の富裕な市民が北アフリカにもいたことは、しばしば碑文を通じて伝えられている。

<旧ギリシア地域の図書館>

うち続く災厄と苦難の後に、今やローマ帝国の支配下にはいることになった旧ギリシア地域の諸都市にも、「ローマの平和」が新たな興隆をもたらした。これら豊かな地域が再び経済的・軍事的危機に見舞われるようになった後3世紀までは、文化領域においてもレヴェル・アップを図るために、皇帝と富裕な市民たちが気前の良さを競い合ったのであった。かくしてこの地域では、劇場、ギュムナシオン、高等教育機関と並んで、図書館もその新設が続いたのであった。

アウグストゥス帝の神殿、貴重な奉納物、そして図書館を擁した聖域であった、アレクサンドリアのセバステイオンは別として、コス島出土の碑文は、ギリシア地域における図書館建設に対する初期帝政時代の史料の一つである。基金の拠出者として、ガイウス・ステルティニウス・クセノポンの名前が記されている。この人物はクラウディウス帝(在位:後41-54)の侍医であるが、この皇帝の暗殺に加わったとされている。彼は次のネロ帝の時、有名なアスクレピオス聖域のあった故郷のコス島に戻った。そこで彼は医術の神の神官及び慈善家として務める傍ら、「皇帝及び住民のために、自分の懐から図書館設立の基金を出した」という。しかしその建物は、今日まで発掘によって実証はされていない。

同様のことが現在のアルバニア領のドゥラッゾにあった図書館に当てはまる。この図書館建設のために、フラヴィウス・アエリミアヌスと称するトラヤヌス帝の将校が17万セステルティウスを出した。ただその建物の完成を、この将校は剣闘士の闘技をもって祝ったといわれている。

さらにこのトラヤヌス帝(在位:後98-117)の時代には、雄弁家クリュソストモスによって、小アジアのブルサに図書館が建てられている。われわれはこの図書館については、小プリニウスが小アジア地方の長官時代に、皇帝トラヤヌスにあてて書いた手紙を通じて知っているのだ。当時この図書館をめぐって法律上の争いが起きたのだが、それは図書館内の列柱に囲まれた中庭に、この雄弁家が妻と息子のために墓を作ったのは、不遜なことだというわけである。ちなみに図書館内にはトラヤヌス帝の彫像があった。

またギリシア有数の都市コリントスの図書館は、その設立の日付が不明である。基金拠出者のファウォリヌスは先の雄弁家クリュソストモスの弟子であったが、その活躍の時期はハドリアヌス帝(在位:後117-138)の時代であった。その図書館はおそらくギュムナシオン内の図書館だったろうと推測されている。そしてこの雄弁家がコリントスを最初に訪ねた時、町の人々は図書館の中に彼の彫像を置くことによって、たたえたという。しかし10年後に彼が再び訪ねた時には、その彫像は外されていた。そのことを知ってファウォリヌスは、そうした栄誉のはかなさを嘆いたといわれている。

<アテナイの図書館>

アゴラ(広場)周辺でのアメリカ隊の発掘によって、その存在が確認されたアテナイの図書館は、まちがいなくトラヤヌス帝(在位:後98-117)の時代のものであった。アッタロスの列柱廊の南にある古代末期の防壁の中から、再利用された建築資材として、碑文入りの梁が発見された。その碑文によれば、ムーサイの殿堂の祭司を自称していたパンタイノスという人物が自分の息子、娘ともども、「外側の列柱廊、中庭、図書並びに内部設備を含めた図書館」のために私財を投じて寄付したのだという。図書館創立の年号は、皇帝の称号からいって後102年以前になる。

いっぽう古代の「旅行案内人」といわれるパウサニアス(後115-?)は、アテナイについて極めて詳しく記述しているのだが、このパンタイノス図書館については、全く触れていないのだ。そしていま述べた碑文がなかったら、建物のわずかばかりの残存物だけでは、図書館であることを認識できなかったであろう。古代の図書館に関する我々の認識は、このように現在まで残ったものがあるかないかといった、偶然性に依存しているわけである。

<アテナイのハドリアヌス帝の図書館>

その規模からいってそれほど目立たないパンタイノス図書館を、パウサニアスは単に見過ごしただけだと思われる。それに対して、ローマ皇帝の中でも極めつけのギリシア愛好者であったハドリアヌス帝の記念碑的な図書館については、パウサニアスもはっきりと敬意を表して述べている(『ギリシア案内記』)。とはいえアテナイにおいてはこの図書館は、なお建物の残存物がかなりみられるとはいえ、オリュンピエイオン、ハドリアヌス門、ゼウス神殿及びヘラ神殿を伴ったパンヘリオンなど、市がハドリアヌス帝の恩恵を被っている巨大建築物の中の一つに過ぎないのだ。アクロポリスの北に位置しているこの図書館は、同皇帝のアテナイ滞在中の後132年に建てられたが、孤立してはいなかった。それは隣接した講義室、列柱廊とエクセドラを伴った広い中庭などとともに、記念碑的な複合建築物を形成していたのだ。

ギリシア本土にはほかにも図書館の存在が確認されている。例えばゲッリウスは港町パトラスの図書館を訪れ、そこにラテン初期の詩人アンドロニクスの「オデュシア」の写本を見つけた(『アッテイカ夜話』)。そこに古代ローマ文学の宝物があったという事は、パトラスという所が属州アカエアのローマ総督の所在地で、同時にローマ市民の植民市であったことを考えれば、それほど驚くべきことではないのだ。ギリシア北部のフィリピもローマ市民の植民市であった。後2世紀のある碑文によれば、そこである慈善家が図書館の建物に基金を出したのだが、その建物の一部は現存している。

<ギリシアの聖域内の図書館>

都市と同様に比較的大きなギリシアの聖域が、後2世紀に新たな花盛りを迎えた。当時再び知識人たちがたびたび訪れる集会所となっていたデルポイにも、図書館が建てられたが、おそらくギュムナシオンの付属図書館であったろう。ルフスという人物の寄付によって、エピダウロスにあった有名なアスクレピオス(治療の神として広く信仰されていた)の聖域も、図書館で飾ることができた。

エピダウロス、コスに次いで後2世紀に図書館が作られた第三のアスクレピオス聖域がペルガモンにもあった。そこでの基金拠出者は、ある裕福な婦人フラウィア・メリテネであった。ペルガモン市参事会及び市民は、この慈善家に感謝して記念碑を建てた。またドイツの発掘隊の調査によって、図書館のホールに、同じメリテネからの贈り物であった「神ハドリアヌス」の彫像が発見された。

また各地のアスクレピオス聖域には、医科大学も作られていた。それらの施設は一義的に、現代のサナトリウムに匹敵するような医療施設だった。そのためこうしたアスクレピオス聖域の図書館は、医学の専門書というよりは、むしろ保養客のための「読み物」を備えていたものと思われる。

<エペソスのケルスス図書館>

小アジア西岸にあるエペソスにも、ローマの属州アシアの州都として栄えていた時に、ある民間人の寄付によって建てられた図書館がある。この図書館の建物本体は、古代の図書館の中では最も保存状態が良いとみなされている。

エペソスのケルスス図書館の正面。その壁面などに基金拠出者に関する碑文が記されている

とりわけ豪華な建物正面の柱の上に水平におかれた角材の上の大きな碑文、並びに建物奥の壁面に詳しく書かれた碑文によって、我々は次のことを知っている。つまりティベリウス・ユリウス・アクィラ・ポレマエアヌスが、「その全ての装飾、奉納品、書物とともに、私財を投じて、ケルスス図書館を」、その父ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌスをたたえるために、建てたという事を。この建築物の完成前に亡くなった息子のアクィラは、遺言によってその相続人に、利子付きで2万5千デナリウスを遺した。この金で書物を買い、図書館員の給料を払い、ケルススの誕生日の祝祭日に、図書館内のケルスス及び他の家族の彫像を花輪で飾るようにとの遺言であった。

ケルスス及びその家族は、ローマ市民権を持ったギリシア人で、帝国貴族階級の頂点にまで上り詰めた一族であった。ケルススは後92年に執政官に、そして106年または107年に属州アシアの総督になり、114年に亡くなった。その息子のアクィラは後110年に執政官になった。20世紀の初め、この図書館の発掘調査の時、ケルススの徳をあらわす四つの女性の彫像が発見された。それはソフィア(賢さ)、アレテ(有能さ)、エピステーメ(知識)、エイノア(分別)の四つである。それらの彫像はかつてそこに置かれていたのだが、今では建物正面の壁のくぼみの中に、その複製が設置してある。また外側の階段のわきの所には、かつてケルススの騎馬像が置かれていた。

それから図書館内部の半地下の場所に、ケルススの大きな石棺が置かれている。この巨大な箱は、その大きさからみてすでに建築作業の初めに、その場所に持ち込まれたものに違いない。つまりこの図書館は、最初からケルススを称える施設として計画されたものなのである。

<東部地域のその他の図書館>

いっぽうコリントス及びデルポイの図書館は、ギュムナシオンの中にあった、と推測されてきた。同様のことが、小アジアのキリキア地方の町ハリカルナッソスの図書館に当てはまる。後127年、町の有力者たちは、今日では無名の偉人である詩人のロンギニアヌスに対して、「その様々な詩作の披露を通じて老人を楽しませ、若者を益したというので」、度重なる栄誉を与え続けた。彼はハリカルナッソスの市民権を授与されただけではなく、法律に記された最高の栄誉を受けた。そしてその銅像を町の最も目立つ場所やムーサイの聖域あるいはギュムナシオンの中の「ホメロス」の彫像の横に建ててもらったのであった。さらに彼の著作を図書館に正式に収めることも決定された。

また医者で詩人のシデ出身のマルケルスに対しては、もっと大きな栄誉が与えられた。この人物は動物、植物、鉱物の治療効果に関する42巻に上る教訓詩を著しているのだが、ハドリアヌス帝及びアントニヌス・ピウス帝が、この作品をローマ市の図書館に収蔵するよう指示したのであった。さらに富裕な同時代人で、マルケルスの同僚であったヘラクレイトスに対しては、「医学的詩作のホメロス」という尊称のついた記念碑が建てられた。そして彼の作品の写本を、故郷の町及びアレクサンドリア、ロドス、アテナイに向けて贈り物にしたのであった。そしてこれらの書物は間違いなくそれぞれの町の公共図書館に届いた。

ローマ帝政時代には、伝統的な中心地と並んで、ほかの地域も名声を博するようになった。例えばキリキア地方のタルソスは、文法、雄弁術、哲学で知られ、ベイルートは法学の大学で知られていた。それらの地域では、おそらくそうした学問に対応した図書館が存在していたはずである。
リュディア地方のニュサにも、そうした高度な学問センターの一つがあった。この大学で学んだギリシア人の歴史家兼地誌家であったストラボン(前64-後23)は、その町に関する記述では図書館については触れていない。しかしその後ニュサには図書館が生まれ、今日なお建物のかなりの部分が残っているのだ。たぶん後3世紀にユリウス・アフリカヌスが書いているアルケイオンが、それであると思われる。

<キリスト教の神学者オリゲネスとカエサレア図書館>

特別な種類の図書館が、パレスティナの地にあった「カエサレア・マリティマ」であった。初期の最も重要なキリスト教神学者オリゲネスは、長年故郷の町アレクサンドリアで活動していたが、その地の司教と意見が衝突した。そして後231年に、パレスティナの港町で、精神文化の中心地としても知られていたカエサレアへ移住したのであった。その地でオリゲネスは、従来の異教哲学の手法を用いて、神学上、解釈学上の教職活動を活発に繰り広げた。そのため異教徒の代表を含めて数多くの生徒が、各地から彼のもとに集まってきた。

彼の授業の基盤は、実に豊富な独自の著作物と並んで、アレクサンドリアで習得した精緻を極めた文献学を用いた聖書解釈であった。オリゲネスの最大の業績の一つは、ヘブライ語のテキストと5つの主要言語による翻訳を含んだ6言語による聖書解釈である「ヘクサブラ」であった。豊かな文献に基づいた、そうした授業には、速記者、筆記者、校正者を抱えた独自の筆写工房が不可欠であった。オリゲネスがデキウス帝のもとで行われた拷問によって後253年に命を落とすまで、主として彼の著作を中心とする内容豊かな文庫が形成されたのであった。

カエサレアの学校とりわけその図書館は、しばしの停滞期間を経たのち、3世紀の末から4世紀の初め、つまり長老パンフィロス及びその弟子で、有名な「教会史」の著者であったエウセビオスの時代に、新たな興隆を体験した。個人的に良い関係にあったコンスタンティヌス大帝(在位:306-337)から、エウセビオスは、コンスタンティノポリスの教会のために、50巻の聖書をカエサレアの筆写工房で製作するよう委託された。

パンフィロスの下で3万巻を下らないと言われた図書館の蔵書は、エウセビオスによって、伝統的な「ピナケス」という表題を付けたカタログが作られて整理された。そして4世紀の末頃、司教エウゾイオスは、図書館に収蔵されていた古いパピルス文書の巻子本を、羊皮紙の冊子本に作り直させた。
首都ローマや帝国のその他の諸都市にあった公共図書館とは違って、オリゲネスによってカエサレアに設立された図書館は、その神学校の付属施設として永続的に存立していった。多かれ少なかれ「内部の人たち」によって独占的に利用されていたカエサレア図書館は、昔のアレクサンドリアのムセイオン図書館のやり方を引き継いでいたわけである。

古代末期に、とりわけ帝国の東方で栄えていた修道僧の共同体の多くには、時として書き写すために友人や信仰仲間に貸し出すことはあっても、一義的には自分たちで使用するための書籍コレクションがあった。
その一方書籍の普及という観点から、一般に開放された文庫もあったのだ。そうしたものは比較的大規模な教会によって作られていった。例えばカンパニア地方のノラ近傍のフェリックス・バジリカは、そうした図書館を持っていた。ノラの司教バウリヌスは5世紀の初めに、この教会を建てたのだが、同時に優れた詩人でもあった同司教は、詩の形で次のような言葉を残している。

「法つまり神の言葉について熟慮し、聖なる意思を持てる者は、
ここに膝まづき、聖なる書物にその注意を向けること可なり」

つまりこの教会を訪れたものすべてに対して、信仰の書、とりわけ聖書を読む機会が与えられていたわけである。

<コンスタンティノポリス帝立図書館>

コンスタンティヌス大帝はボスフォラス海峡に臨むギリシアのビュザンティオンを、コンスタンティノポリスという新しい名称のもとに後330年、帝国東半分の首都に定めた。その時この「新しいローマ」は古いローマと、政治面、文化面で同等であるべき、あるいは古いローマを凌駕すべきものとされた。

この地の最初の大規模な図書館は、その息子コンスタンティウス二世(在位:337-361)のもとで設立されたようである。357年1月1日に行われた皇帝の執政官職就任の儀式の際、雄弁家のテミスティオスは長い賛辞を述べた。その中には、それまで私設文庫に散在していたギリシアの詩人、哲学者、文法家の著作物を書き写し、それらの作品の消滅を防ぐために、書写工房を設立すべく、コンスタンティウス帝は国家の金を投じた、ということが述べられているのだ。そうした委託は事実上、図書館建設を意味しているわけである。雄弁家の言葉からは、さらにこの図書館が何よりも、コンスタンティノポリスの大学の利益に供すべきものだったことが分かる。

後361年に新しい首都に住むことになった異教の皇帝ユリアヌスは、自ら高い文学的教養を備えた人物であったが、この図書館に書物を寄贈しただけではなくて、新しい建物の建設のために寄付を行っている。さらにヴァレンス帝は後372年に、筆写人の数を、ギリシア文献に対して4人、ラテン文献に対して3人と定めたが、そのほか数人の補助員もつけた。その際筆写の仕事の中身は、古いパピルスの巻物を、新たに羊皮紙の冊子に書き写すことであった。

こうして12万冊の蔵書を所蔵するようになったコンスタンティノポリスの帝立図書館であったが、やがて後473年に焼けてしまった。その直後に新しい図書館が建てられたが、その蔵書数は神学書を含めて36,500冊にすぎなかった。そしてこの図書館もレオ帝治下の後726年に崩壊した。
コンスタンティノポリスの帝立図書館は、かつてアレクサンドリアのムセイオン図書館がしたような、すべての文献を集め保存することを目指した、古代世界の人々の最後の試みだったのだ。