16~17世紀の出版業の諸相

その05 カトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の出版業

<対抗宗教改革の動き>

16世紀の半ば頃、ヨーロッパのカトリック勢力は様々な側面で、プロテスタント勢力との対決姿勢を鮮明にして、対抗宗教改革の動きを活発化していた。カトリック国のスペインに、イエズス会が生まれ、世界中にその影響力を伸ばし始めていくのも、このころのことであった。

そのためにヨーロッパの各地で、カトリックとプロテスタントの抗争は激しさを増して、ついには宗教戦争に突入する地域も見られた。当時ヨーロッパを支配していた大勢力であったハプスブルク家のスペイン国王やオーストリア皇帝そしてフランス国王は、ともにカトリックの強力な支持者であったため、ヴァチカンの教皇と結託して、プロテスタント教徒を弾圧するのにあたって、あの手この手を用いていた。彼らはプロテスタント思想の普及を妨げるために、プロテスタント系の出版物に対する検閲を厳しくしたり、規制を強化したりしていた。

<教会及び国家による検閲と規制の強化>

教会と国家というヨーロッパ中世を支配していた二大勢力は、活字版印刷術の普及によって、危険で好ましくない思想が急速に広まることをいち早く察知した。そしてこれに対して、検閲という手段をもって対抗したのであった。

たとえば1479年に時の教皇は、ケルン大学に、異端書籍の印刷者、購入者、読者を起訴する権限を与えた。ついで1485年には、マインツ大司教が書籍の検閲に関する布告を発している。さらに1487年の教皇教書は、「カトリックの教えに反し、神に逆らうような」書物は、すべて焼き払うようにと書いていた。次いで1517年に宗教改革の火ぶたを切ったマルティン・ルターに対して、教皇は皇帝と力を合わせて弾圧に乗り出し、ルターの全ての著作の発行停止という措置にでた。

ルターの著書を燃やしているところ(16世紀の木版画)

しかしこうした検閲や規制の強化措置は、あまり効果を上げることができなかった。ルターによって書かれた小冊子やパンフレットが、広く人々の間に浸透していったことについては、すでに述べたとおりである。当時ドイツでは、おおざっぱに言って、国の半分の地域にルターの教えを支持する勢力が広がっていたからである。

それでも1547年に、プロテスタント側のシュマルカルデン同盟との戦争に、皇帝カール五世が大勝利を収めると、皇帝からの規制は再び強まった。その翌年「帝国警察規則」が布告され、印刷に対する完全な管理権を皇帝が握ることが明らかにされた。その後もこうした布告や規則は、繰り返し出されたが、期待したほどの効果は上げられなかったようである。

<帝国書籍委員会の専横>

この委員会は1524年に書籍検閲の控訴法廷として、皇帝のおひざ元のヴィーンの宮廷内に設置された。しかし初期のころはこの委員会は、さしたる活動をしていない。ところが1555年にそれがイエズス会に委任されてからは、うるさい存在となったのである。このイエズス会というのは、1534年にイグナチウス・ロヨラらによって創立された組織であったが、その後ローマ教皇によって認可され、対抗宗教改革で大きな役割を果たした戦闘的な集団であった。

たとえば1567年、皇帝に対する誹謗文書が出た時、イエズス会の差し金で、皇帝は印刷者に対して厳罰を下すよう、フランクフルト市参事会に命令した。その結果この不幸な男は鎖につながれて、ヴィーンに護送されたのである。同委員会はさらにその2年後には、市参事会に対して、市を訪れるすべての書籍商への出版許可の有無を検査し、かつ過去5年間に出版された書物を調査するよう命令した。そして書籍一点につき一冊を献本として提出するよう命じた。そしてこの調査がきっかけとなって、1579年には帝国書籍委員会は、フランクフルトに移ったのである。

この後イエズス会は同委員会を牛耳ることによって、これを対抗宗教改革運動の一部に組み込んだのである。その委員はフランクフルトの書店を訪ねては、下劣で扇動的な文書の流布を抑えた。そしてまた皇帝の出版許可を検査し、不法出版物を押収し、献本集めの監督を行った。そして先に述べた献本要求をエスカレートさせていった。

その献本は、三十年戦争中の1621年には3冊、1648年には4冊、そして1666年には、ついに6冊までになった。このような献本の要求はすべて書籍商の負担となっていた。とりわけ大型の高価な書物で何巻にもわたるような場合、6冊もの献本を無償で行うことは、書籍商にとってかなりの損失を意味していた。

フランクフルトの大市ないし書籍市は、たしかに皇帝の許可と保護によって発展してきた。そのためにこの町は帝国都市とも呼ばれてきた。しかし住民の宗派を見ると、プロテスタント2万人、カトリック5千人、ユダヤ人3千人という人口構成で、プロテスタントが優勢な都市であった。そのためにイエズス会側のこうした態度は、耐え難いものであった。

確かに献本要求に黙って応じた者もいたが、プロテスタントのザクセン地方の書籍商たちは、同地を支配していた選帝侯に苦情を申し入れた。しかし皇帝との和を乱したくない選帝侯からの支持は得られなかった。またヴェネツィアの書籍業者たちの反対の声を高かった。それにもかかわらず、皇帝はそうした声に耳を貸さず、書籍委員会の横暴ぶりは激しさを増すばかりであった。

こうした圧迫が17世紀の間に書籍業者たちの足を、フランクフルト書籍市から遠ざけさせる大きな原因となったのである。1625年以降は、フランス人がほとんど姿を現さなくなった。ヴェネツィアの書籍商も来なくなり、他の国からの書籍業者の訪問もなくなっていった。最後に残っていたオランダの書籍商たちも不当な献本要求に抗議したのち、1701年にはついにフランクフルト書籍市から撤退することになったのであった。

<出版業におけるカトリック・ルネッサンス>

いっぽう対抗宗教改革運動は、プロテスタント陣営を弾圧することにだけ情熱を燃やしていたわけではなかった。広く民衆の間に再びカトリック信仰をよみがえらせることにも力を入れていたのである。その手段としては、やはり出版業を通じて、カトリック・ルネッサンスを実現しようとしていたのである。

イエズス会はヨーロッパ中に多数のコレージュを開き、その近くに印刷工場の開設を促した。またヨーロッパのカトリック圏全域に、多くの修道院が出現して、書物集めに力を注ぐようになった。さらに民衆のカトリック信仰が復活し、それに伴って宗教文学というジャンルが生まれた。そしてこうしたことが相まって、宗教書の出版が発展を示すようになった。こうした変化は、カトリック・ルネッサンス運動の影響が表れ始めた1570年ごろから起こった。典礼書のテクストを統一し、それらをローマの慣習に合わせるために、改訂することがトリエント公会議で決定された。

これによってカトリック系の出版業の復興が促進された。そしてカトリック教会またはカトリック諸侯の支援を受けていた大出版業者は、これらの書物の独占出版権を手に入れて、事業を著しく発展させたのであった。その典型がプランタン・モレトゥス家であった。それについてはこの後、詳しく述べることにする。

当時のヨーロッパのカトリック圏の大中心地といえば、ことごとく宗教ルネサンスの中心地であった。すなわちドイツでの印刷業は南部諸都市と西部のケルンで、活況を取り戻した。またフランドル地方でも、スペインに再度征服されてから対抗宗教改革の砦となったアントウェルペンでは、プランタンの義理の息子モレトゥスが、おおいに商売を発展させた。つまりトリエント公会議の決定に従って改訂された教会用の書物を、彼は長期にわたって大量に出版して、それらを全ヨーロッパとアメリカに流布させていたのである。

フランスでは教会とイエズス会の庇護を受けて、クラモワジーとその共同事業者がパリの出版業界を牛耳っていた。そしてリヨンの出版業界も、やはりイエズス会のおかげで、1620年から幾分勢いを取り戻した。ヴェネツィアも同様で、またパオロ・マヌツィオが教皇庁の側で開業していたローマでも、カトリック関係の書物の印刷が中心になっていった。

<アントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタン(1520-89)>

カトリック・ルネッサンスの時代に、時代の流れを巧みに利用して、アントウェルペンで大出版業者として大々的な商売を展開したのが、クリストファー・プランタンとその義理の息子やヤン・モレトゥスであった。

アントウェルペンはフランドル地方(現在のベルギー)の商業都市として、15世紀後半から急速に発展していた。そして書籍・出版業も栄えていた。この町へフランス人のクリストファー・プランタンが移り住んだのは、1548年か49年のことであった。

クリストファー・プランタンの肖像画(1572年)

1550年にアントウェルペンの市民権を得たプランタンは、しばらくの間製本と皮細工を商売としていたが、その商売は大いに成功した。その後1555年に「愛の家」という宗派から資金援助を受けて、印刷業と出版業を開業した。そして2年後には、金のコンパスに「労働と不変」という言葉を添えた、有名な印刷者標章を定めた。以後それは同社のシンボル・マークとなった。

印刷者標章として採用されたシンボル・マーク(1557年)

印刷・出版業者として初めは苦労したプランタンであったが、1559年にカール五世の葬儀に関連して出版した立派な書物によって、その名声を確立した。ところが1562年に異端の書物が、彼の印刷所から発見されたことから、一時彼はパリに身を隠した。しかしその潔白が証明され、翌年にはアントウェルペンへ戻ることができた。

帰国後数年間は4人の共同経営者とともに、印刷・出版業を営んだ。この4人の協力関係は5年間続き、その間に実に260点もの作品が刊行されたのであった。これは年間およそ50点ということになるが、当時として驚異的な多さといえた。内容的には、それらは古典作品のポケット版、ヘブライ語聖書、祈祷書、豊富な図解入りの解剖学書などであった。

プランタン社のヘブライ語聖書(1566年)

<五か国語聖書の編纂及び刊行>

その後1567年には、共同経営を解散して、プランタンは再び一人で印刷・出版業を経営することになった。このころ彼は科学的で信頼できる大規模な聖書の編纂と出版を企画した。そのための資金は、当時フランドル地方を支配していたスペイン国王フェリペ二世からから得られることになった。この国王はカトリック信仰がとても厚く、この事業に強い関心を示した。そして偉大な古典研究家アリアス・モンタヌスを、その編集顧問としてプランタン社に送った。こうして詳細な付録が付いた五か国語による聖書が、1568年ら73年にかけて、全八巻で刊行された。

プランタン社の最高傑作、五か国語聖書(1568~73年)

この五か国語というのは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、シリア語そしてカルデア語またはアラミア語であった。そして付録というのは、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、ギリシア語の文法、語彙、それから古いヘブライの慣習を記したものであった。この五か国語聖書の出版こそ、後世にまで残るプランタン社の最高の業績であった。ともかくフェリペ二世からの信頼が厚く、1570年には「王室御用印刷者」という称号が与えられたのである。

さらにプランタンはスペイン国王から、スペイン及びその植民地において、祈祷書、ミサ典書、時祷書などを独占的に販売する権利を得た。そしてこれによって同社の富の基礎は築かれたのであった。プランタン社は、フェリペ二世のために、何千何万というミサ典書、日課祈祷書、日課書、交唱聖歌集などを出版し、国王はそれらをスペイン国内や海外の植民地へ向けて販売させていたのだ。

<黄金時代のプランタン社(1568-76)>

この時期プランタン社の印刷・出版事業は頂点に達していた。1574年には全部で16台もの印刷機が稼働し、そこでは70人ほどが働いていた。フランスのエティエンヌ家でさえ印刷機は4台だったことを考えると、プランタン社の規模の大きさが分かろうというものである。

プランタン社の出版物は、宗教書だけではなかった。彼はその時代のもっともすぐれた科学研究書の刊行にも力を入れた。その中にはドトネウス、クルシウス、ロベリウスによる植物学の本も含まれていた。さらに彼は自ら編纂した初めてのオランダ語の辞書も出版した。

ロベリウスによる植物学の本(1581年)

しかしオランダの独立運動に関連して、オランダの南部にあっフランドル地方も、やがて戦乱の影響を被ることになった。1567年アントウェルペンにスペイン軍がやってきた。プランタン社は略奪は免れたものの、その出版活動に悪い影響が出て、生産量はかなり落ちた。1577年には印刷機は、5台が働いていただけだった。その後この数は増えたが、二度と10台をこえることはなかった。

こうして出版物の量は最盛期に比べて落ちはしたが、その質は保たれていた。戦時にもかかわらず、極めて重要な作品が、依然としてプランタン社の印刷機から生まれていた。それらはアブラハム・オルテリウスの地図、ラ・ヘレのミサを含む楽譜、ギッチャルディンによるオランダの歴史及び地理の研究書、人文主義者ユストゥス・リプシウスの著作などである。

ラ・ヘレのミサを含む楽譜

<その後のプランタン>

スペインの侵略後、アントウェルペンは決定的に反逆者の立場をとらざるを得なくなった。そのためにプランタンも困難な状況に陥ることになった。かつての「王室御用印刷所」は、反逆勢力の指導者たちの訪問を受け、反スペイン側の文書を印刷していた。その一方スペイン側の公式文書も印刷していた。また宗教改革者ヘンドリク・ヤンセン・バーレフェルトとの友情も、このころから続いていた。この人物は、アントウェルペンに残って、その著作をプランタン社から匿名で出していたのだ。

その後も戦火は衰えず、プランタン社はアントウエルペンにとどまっているのが、困難になった。そんな時ライデン在住の人文主義者リプシウスからの誘いがあって、1583年にその地に新設された大学の印刷社として赴任することになった。自らは依然としてカトリック信者にとどまっていたが、カルヴァン派の人々からも、丁重に扱われた。

ライデンで印刷された最初の近代的海図帳の表紙(1585年)

ところがプランタンはライデンでは居心地の悪さを感じて、1585年8月、永久にオランダを捨てるつもりで、伝統的なカトリックの町であるドイツのケルンに移った。しかしちょうどその頃アントウェルペンがスペイン軍から解放されたことを知って、急遽彼はこの第二の故郷に戻った。そして1589年に亡くなるまで、そこで印刷・出版業を続けたのであった。

その34年間にわたる活動期間にクリストファー・プランタンは、実に2450点もの出版物(そのうち書籍は1850点)を刊行した。プランタンはカトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の最も重要で、最大規模の印刷・出版業者だったのである。

<プランタンの後継者ヤン・モレトゥス(1543-1610)>

プランタンは5人の娘を遺したが、そのうちの3人は彼の助手ないし協力者と結婚した。長女のマーガレットは、東洋語の専門家ラフェレンジウスと結婚したが、この人物は1585年にライデンのプランタン印刷所を引き継いだ。

そして次女のマルティーヌは、ヤン・モレトゥスと1570年に結婚した。彼は才能ある男で、1557年に14歳でプランタン印刷所に勤め始めていた。そしてその才能を見込まれたモレトゥスは、プランタンの右腕として働いたが、とりわけ事業経営の面で第一人者となった。

プランタンは遺言で、アントウェルペンの家と印刷所(オフィチナ・プランタニア)を、モレトゥスに残した。そして以後モレトゥス家の子孫が代々、プランタン・モレトゥス印刷所を引き継いでゆくことになったのである。

その初代のヤン・モレトゥスは、前任者に劣らない熱意とエネルギーで、印刷・出版事業を推進していった。彼はカトリック・ルネッサンスの出版者として、もっぱら祈祷書や宗教書を刊行していった。その反面、当時オランダ南部に台頭してきた人文主義の印刷・出版業者が、古典書や科学書を出版するようになったために、この方面からは撤退せざるを得なかった。

プランタンはまず本の内容に重きを置いたが、モレトゥスのほうはとりわけ書物の外観に注意を払った。そのために初代ヤン・モレトゥスのもとでは、プランタン印刷所は、その書物の外観の美しさと優雅さとで、国際的な名声を保ったのである。

ヤン・モレトゥスによって出版されたオランダ語聖書の表紙(1599年)

<モレトゥスの息子たちの活動とその後>

ヤン・モレトゥスは1610年に亡くなり、その二人の息子バルタザール一世(1574-1641年)とヤン二世(1576-1618)がその後を継いだ。しかし実質的には長男のバルタザール一世が主導権を握っていた。彼は非常に豊富な知識と知性を持っていて、すべての点でモレトゥス家の中で最も優れた人物であった。彼はその時代の主な芸術家や学者と交際があった。こうした環境の中で、プランタン・モレトゥス出版社は、再び文化の中心地になった。なかでも彼は画家のピーター・ルーベンスの親友であった。バルタザールはこの友人に、自分の印刷所で出版するものの押し絵や口絵のデザインを依頼した。巨匠ルーベンスはこの方面でもすぐれた作品を残しており、それがまたプランタン・モレトゥス出版社の評判を高めたのであった。バルタザール一世は独身のまま1641年に他界した。

その後を継いだのは、弟の息子バルタザール二世(1615-74年)であった。彼は依然として独占的な宗教書の出版に力を注ぎ、それによって一家の富の増大を図った。しかし彼の死後、同印刷所は不振となった。それでもその後継者は昔から与えられていた特権を利用して、スペイン及びその植民地向けにミサ典書や祈祷書の再発行を続けた。しかしこの特権も18世紀の半ばに消滅し、以後出版量は激減した。

バルタザール二世の息子バルタザール三世(1646-96年)は、1692年に貴族に列せられたが、モレトゥス家の人々にとって、印刷所はもはや生計のもとではなくなっていた。すでに十分金持ちになっていた彼らは、その資金を土地などに投資して、ますます増やしていた。18世紀後半からは、モレトゥス家は先祖を敬う意味で印刷所を保持していたにすぎない。

1867年、同印刷所はアントウェルペン市が買い取って、それ以後その建物は「プランタン・モレトゥス印刷博物館」となった。この博物館には、立派な印刷機をはじめとする印刷関係の器具類、活字箱にいっぱい詰まった各種の活字、その他印刷関連の資料などが、実に豊富に保管されていて、今なお一般に公開されているのだ。

この「プランタン・モレトゥス印刷博物館」を、私は2005年の夏に訪れた。これまで何度も繰り返し述べてきたアントウェルペン市は、日本ではこれまで普通、英語風にアントワープと呼ばれている。しかし私が所持している世界地図帳(昭文社、2002年)の74頁には、ベルギーの首都ブリュッセルの北部にある大都会として、はっきりアントウェルペンと記されている。そして赤字で大きくそのわきに「プランタン・モレトゥス印刷博物館」とも記されている。つまりこの博物館は現在、この都市を代表する存在になっているのだ。

「プランタン・モレトゥス印刷博物館」の内部。
印刷機と活字箱に詰まった活字

次回は「オランダ出版業の発展とその他の国の出版業の低迷」について、述べることにしたい。