15世紀末から16世紀前半の出版業

その02 ドイツ宗教改革と印刷物の普及

ルターの改革思想の急速な普及

イタリアのヴェネツィアやフランスのパリ、リヨンそしてスイスのバーゼルで、人文主義をてこに出版業が繁栄していたころ、アルプスの北のドイツでは、マルティン・ルター(1483-1546)がひき起こした宗教改革が印刷物の普及に大いに貢献することになった。

マルティン・ルターの肖像画。
同時代の画家ルーカス・クラーナハによって
1521年に描かれた銅版画

つまり同じドイツ人のグーテンベルクの発明した活字版印刷術は、そのほぼ半世紀後になって、ルターが発表したキリスト教の改革思想を広く民衆の間に急速に普及させるための、極めて有効な手段となったのである。

よく知られているように、ルターが始めたキリスト教の改革運動は、単にドイツだけではなくて、ヨーロッパ全体に激動を生み出した。そしてそのことは、印刷物の広範な普及なしには考えられなかった、といわれている。つまり印刷物こそは、当時の最先端のメディアだったわけである。

ルターの宗教改革500年祭見聞(2017年8月)

ところでルターが宗教改革を起こしたのは、1517年のことであった。そしてその500年祭が2017年にドイツの各地で、大々的に祝われたが、私はその年の8月に、その様子を見聞するために、ドイツを訪れた。その時のことは、「ルターの宗教改革500年祭見聞記(2017年8月)」と題して、写真入りで発表し、親しい人たちにメールでお送りした。詳しいことはその見聞記にゆだねることにする。その時の旅では、アイゼナハ郊外の丘の上にある「ヴァルトブルク城」(ルターがこの中で聖書を翻訳)、ルター生誕の地アイスレーベンその他ルターゆかりの地を見て歩いた。そしてその後、宗教改革の発祥の地であるヴィッテンベルクを訪れたのであるが、その時の事を、次にごく簡単に紹介する。総じてルターゆかりの場所は中部ドイツ一帯にある。

さてヴィッテンベルクは北ドイツを流れる大河エルベ川のほとりにある小さな町である。首都ベルリンの南西に位置しているので、興味のある方は地図で探していただければ幸いである。ちなみに私が愛用している昭文社の世界地図帳(2013年2版)の76ページ(中部ヨーロッパ)では、カタカナで「ルターシュタット ヴィッテンベルク」と記されている。シュタットはドイツ語で町の意味であるが、町の名称の一部にルターという文字が入っているぐらい、ドイツ人はこの町とルターとまずの結びつきを重視しているわけである。

私はまず、鉄道の駅前の特設案内所で、一人当たり19ユーロ(約2500円)の一日見学券を購入。それで市内の主な見学施設に入場できるのだ。つまりこの町は500年祭の期間中、宗教改革一色に塗りつぶされていて、町中に様々な仕掛けやプロジェクトが待ち受けているわけだ。駅前から向かい側をみると、巨大な建物が目に入り、側面に大きく「ルター聖書」と書かれていた。

ルター聖書とルターのバラが描かれた建物

近づくと、それは鉄骨組の構造物の周りを覆ったもので、上へは階段でもエレベーターでも上がれるようになっていた。恐る恐る登ってみると、ヴィッテンベルク旧市街の素晴らしい眺望が得られた。そして美しい甍(いらか)の波の一番奥に、「95か条の論題」で有名な城教会の尖塔が見えた。

 城教会の尖塔(左)            ゲートが連なる参道(右)

そこを降りると鉄道の線路沿いに、旧市街の入り口まで、人々を歓迎するための参道ができていて、鳥居のようなゲートが連なっている。そこを通りぬけて旧市街に入り、まず大きく立派な「ルターの家」に入った。

ルターの家の前(左側が私) 

そこはルターが、妻や6人の子供たちと一緒に住んでいたところだ。家の中では、ルターとその家族の日常生活の様子が、様々な模型やジオラマや絵画などを援用して、生き生きと再現、説明されていた。「見聞記」には、そのほかいろいろと詳しく書いたが、ここでは省略して、先ほど遠くからその先頭を眺めた「城教会」へと急ごう。

城教会の青銅製の扉の前(右側が私)

この写真の扉は、ルターの時代には木製であったが、その後消失して、現在は青銅製になっている。世界史の教科書などでは、この扉の上に有名な「95か条の論題」が書かれた、と記されている。しかし現在の研究では、それは出来事を劇的に盛り上げるための後世の作り話だという。それはともかく、この日は城教会のなかは大勢の観光客でにぎわっていた。

小冊子「95か条の論題」

いま紹介した「95か条の論題」は、ヴィッテンベルク大学で神学の教授を務めていたルターが、1517年秋に発表したもので、一般に宗教改革の発端を告げるものとされている。それは学者や僧侶向けにラテン語で書かれた神学論争の文書であった。しかしその翌年の1518年春には、ルターはこれの最も重要な項目をドイツ語で要約して、『免罪符と神の恵みに関する説教』と題した小冊子にして発表し、これが印刷されて世に出たのである。

ラテン語で書かれた「95か条の論題」

このドイツ語版は、一般向けに分かりやすく書かれた小冊子であった。前に紹介したバーゼルのヨーハン・フローベン社で印刷されたが、わずか数か月の間に売り切れてしまったという。

それは当時、カトリックの総元締めとしてのローマ教皇の権力によって、精神面のみならず、間接的ながら政治。経済。社会面でも支配を受けていたドイツ人一般の間に、広範で根強い不満が広がっていたためである。ちなみに免罪符というものは、当時ローマ・カトリック教会が教会財政をまかなうために、それを買えば罪が免除されるとして大量には発行していたものである。

免罪符売りを嘲笑した木版画(1617年)

小冊子は翌1519年2月に、同じ出版社から第2版が発行されたが、これもまた
瞬く間に品切れとなった。こうして1518-20年の間に、実に25版を重ねたことから見ても、ルターの書いた小冊子がいかに多くの人々の心をとらえたか、という事が理解できよう。

このドイツ語版と並んで、ラテン語版のほうも同じフローベン社から1518年秋に出版され、こちらも売れ行きが良かったという。フローベン社からルターにあてた手紙の中で、これがドイツ国内にとどまらず、フランス、スペイン、イタリア、オランダ、イギリスなどでも一定数、売れたことが伝えられている。同社の出版物の中で、これほどよく売れたものは、それまでにはなかったという。いうまでもなくラテン語は当時のヨーロッパの教養人であった学者・僧侶の間の共通語だったのである。

ドイツ語印刷物の増大

以上のようにして、ルターが提起した問題は、活字版印刷を通じて、より速くより広く人々の間に普及し、それをめぐる論争はどんどんその幅を広げていった。それに応じてルターの著作へのエネルギーも爆発的な勢いをつけていったという。

ルターは1520年にはいわゆる三大改革文書をあいついで書いていき、それらは直ちに出版された。その中の一つの『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』は、社販が4000部印刷されたが、わずか5日で品切れとなり、以後も15版を重ねた。

ルター著『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』の表紙(1520年)

これら三大改革文書はドイツ語で書かれたが、その読者である当時の世俗貴族が一般にあまり教養がなく、ラテン語が読めなったからであった。文化的レベルでは、貴族といっても、民衆とあまり隔たりがなかったようだ。

ルターの宣伝用小冊子

これらの宣伝用の小冊子は、外形のうえからも、従来の学者向けのラテン語文献とは異なっていた。従来の大型の二つ折り本に代わって、手軽な四つ折り本や八つ折り本が登場したのだ。また書体もラテン語用のローマン体ではなくて、ドイツ語特有の書体であるシュヴァーバッハ体が採用された。これは中世ゴシック体の変形といえる書体であった。

こうした状況の中で、当時の民衆のことばであったドイツ語の印刷物一般の出版にも、有利な状況が生まれてきた点も注目される。ちなみにドイツ語印刷物の出版点数は、ルターによる宗教改革開始の年とされる1517年には81点だったが。6年後の1523年には10倍以上の944点にまで増大しているのだ。

ドイツ語本の内容は、時代の枠を16世紀後半にまで拡大すれば、まずは教訓物語、滑稽物語、騎士道小説。そして家庭医学宝典や算術書。さらに料理宝典や植物の本、耕作に関する本、書式集、酒税法に関する本など実用書が目に付く。

ヴィッテンベルクの繁栄

ルターの登場によって、当時小さな田舎町にすぎなかったヴィッテンベルクは一挙に国際的な学者・僧侶の論争の中心地になった。同時に印刷および書籍販売の世界にも、ルターは大きな影響を与え、そこに巨大な変化を起こしたのであった。そのためヴィッテンベルクは、それ以後100年以上にわたって、ドイツの印刷及び書籍販売の一つの中心地になったのである。

この町には1502年フリードリヒ選帝侯によって大学が設立されたが、大学そのものは印刷出版界に対して、さしたる役割を果たさなかった。ライプツィッヒの印刷御者W.シュテッケルがここで印刷所を開いたが、わずか2年しか続かなかった。

ところが1508年になって、ラウ・グルーネンベルクと称する印刷業者が来るに及んで、この町の印刷事情は大きく変わることになった。ルターが1523年までに公表したものは、この印刷業者によって出版されたが、その活字版印刷の能力は不十分で、その仕事ぶりは粗雑であった。そのためルターはこのことを嘆いて、次のように述べている。

「もしそうした不注意な印刷の結果、ほかの印刷業者がオリジナル版の誤りを何倍かに拡大してしまうとすれば、そこにはいかに大きな危険が生ずることか。そうした場合には、著者が払った多大な努力は水泡に帰すことになろう」

この「ほかの印刷業者が・・・」という事は、海賊版に関連したことなのだ。19世紀の前半に著作権の制度ができるまでは、ドイツでは海賊版はごく普通のことであったのだ。このこともあってルターはライプツィッヒの著名な印刷業者メルヒオール・ロッター社が1519年末にヴィッテンベルクに開設した支社とも関係を持つようになった。そして三大改革文書のうち、『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』と『教会のバビロン捕囚について』を、このロッター社から刊行したのである。

ルターによる聖書の翻訳とその出版

ロッター社とのつながりの中で、今日にまで最も広範な影響力を保ち続けてきたルターの仕事といえば、なんといっても聖書のドイツ語への翻訳とその出版である。聖書のドイツ語への翻訳そのものは、すでに中世にも行われていた。ところが当時は、まだ写本で、その数量はごく限られていたため、一般にはほとんど普及していなかった。

そして15世紀後半になって、シュトラースブルクのヨハネス・メンテリンによって、ドイツ語訳聖書が印刷出版された。その際その100年ほど前にバイエルン地方で翻訳された、質の点でいろいろ問題のあるテキストが使用された。とはいえその後もルター訳が現れるまでは、そのテキストに基づいて13回にわたってほかの出版社からも刊行されたのであった。

さてルターがヴァルトブルク城内で、1521年12月中旬から翌年3月までのわずか11週間という信じられないほどの短期間に行った新約聖書のドイツ語への翻訳は、1522年9月にヴィッテンベルクで印刷・出版されたのであった。印刷所は前述のメルヒオール・ロッター社、出版社はデ-リング・クラーナハ社であった。初版の発行部数は3000部と推測されている。これは瞬く間に売り切れ、3か月後の同年12月に第2版が発行された。そしてルターの新約聖書は、1522年ー33年の間に、高地ドイツ語で14回、低地ドイツ語で7回印刷された。そしてルターの生存中に,合わせて10万部以上出版されるという、当時としては破格のベストセラーになったのである。さらに数多くの海賊版も出たため、実際の数はもっと多かったといえる。

このルター版新約聖書は、ルターがエラスムスの忠告に従って、ギリシア語のオリジナル・テキストからドイツ語に翻訳したものであった。そしてそのドイツ語のテキストは、当時まだ地域によってさまざまであったドイツ語表現に対して、一つの基準を作ったものとして、文化史の面でも高く評価されているものである。

その後ルターは旧約聖書の翻訳にも取り掛かり、1534年になって新約聖書と旧約聖書を合わせたものが、ハンス・ルフト社によって印刷・出版された。これは1534-1626年の間に、都合84版を重ねるという息の長い大ベストセラーになったのである。

ルター訳新約・旧約聖書。
1534年にハンス・ルフト社から印刷・出版されたもの

このルター訳新約・旧約聖書も、初版発行の翌年には早くも海賊版が出されたが、それ以後にも様々な出版社からこうした海賊出版が繰り返された。こうしたルター人気によって、教会の神父や学者たちの著作はおろか、それまで人気のあった人文主義者エラスムスさえ、影が薄れてしまった。ルターを出版しなければ古い出版社といえども経営が危うくなったほどだという。その逆にルターを出版することによって、新しくエネルギッシュな多くの出版社が誕生したのであった。

「ルターの新約聖書が出てからというもの、出版業全体が全くルターによって支配されるようになった」
とエラスムスもこぼしているぐらいである。

カトリック側の聖書翻訳と出版

以上みてきたように、マルティン・ルターが翻訳したドイツ語版聖書は、それ以後100年にわたって、ドイツのプロテスタント教徒の「家庭の書」となった。
ドイツでは、1517年にルターが宗教改革を行った後、旧来のカトリック信仰を維持した地域とあらたなプロテスタント信仰に乗り換えた地域とに分裂した。
そのためこの二つのキリスト教信仰に基づいて、精神・文化面のみならず、政治・社会面でも大きく二つの勢力に分かれたのである。

つまり16世紀前半以降のドイツ社会は、カトリック陣営とプロテスタント陣営に分かれて、対立していったわけである。そのことを知っていないと、カトリック側の聖書翻訳と出版という動きも、よく理解できない。

さてルターに基づくプロテスタント陣営の動きに対抗するようにして、カトリック陣営でも、同様の聖書翻訳と出版が行われた。例えば、当時北ドイツのザクセン公国を支配していたゲオルク大公は、カトリックの信奉者であったが、この大公の指示に従って、司祭のヒエロニムス・エムザーが、まず新約聖書の翻訳を行った。その際エムザーは、ずっと以前にヘブライ語からラテン語に翻訳されていた、いわゆる「ウルガタ聖書」からドイツ語への翻訳を行ったのである。それは重訳だったわけである。

これは1527年にドレスデンのシュテッケル出版社から発行されたが、その後カトリック地域のケルンやフライブルクでも何度か版を重ねて出版され、その動きは18世紀に至るまで続いた。しかしこれは旧約聖書を欠いていたため、コブレンツのドミニコ派修道院長のヨハネス・ディーテンベルガーが、新旧両約聖書のカトリック版作成に乗り出した。その際彼は新約聖書は先のエムザー訳を引き継いだ。そして旧約聖書のほうは、ルター訳のほか、ヘツァー・デング及びツュルヒャーが訳していた聖書を合わせて仕上げた。出版はケルンのクヴェンテル社、印刷はマインツのペーター・ヨルダン社であった。

これは初版が1534年に出版された後、16世紀の間に17版を重ねた。そしてさらに18世紀に至るまで、このディーテンベルガー版は100版を重ね、プロテスタントのルター約聖書に対抗する形で、カトリックの家庭で読み継がれたという。

印刷物の普及と書籍行商人の活躍

ルターをはじめとする当時の宗教改革者は、活字版印刷を一つの奇跡ないし神からの贈り物と考えていたようだが、同時に彼らは、印刷物が国中に広がっていった、その速度に驚嘆の念を抱いていたという。当時としては短い三か月以内に、印刷物はドイツ帝国の隅々にまでいきわたっていたのであるが、その頃の交通事情の悪さや、物資の運搬配達に伴う様々な困難さを考えて、驚いたのであろう。

当時印刷物を読者の手元に届けるうえで大いに貢献したのが、書籍行商人であった。彼らは書籍移動販売人とも呼ばれているが、遠いところからやってきて、町や村の週市を訪れたり、学校に潜り込んだり、一軒一軒戸口をたたいて個別訪問したりして、精力的に印刷物や書物を売りさばいていたのだ。

ルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』は、初版4000部のあと、実に15版を重ねたが、これなども書籍行商人の存在なしには考えられないことであった。彼らは印刷物や書籍を背中に担いで、ドイツの各地を渡り歩いていたわけであるが、この移動販売システムは、その後も19世紀に至るまで続いていたという。