ドイツ近代出版史(5)~1887/88-1914~

第一章 書籍出版販売界の大改革

投げ売りとその防止策

ドイツの書籍出版界全体の公の組織として1825年に「ドイツ書籍商取引所組合」が作られたが、その後も書籍販売の面では書籍の投げ売りという事が大きな問題として存在していた。これに対しては幾多の防止策が試みられたが、どれもたいした効果を上げることができなかった。それどころか出版のメッカ、ライプツィヒやベルリンでは19世紀の後半になってから、かえって投げ売りは激しさを増してきたのである。割引価格を示したカタログ広告によって、地方の書籍販売業者はますます経済的苦境に陥るようになり、事態は深刻の度合いを深めていた。

地方レベルではすでに19世紀前半に、投げ売り防止の監視機関としての地域組合ができていて、地域的にはそれなりの効果を挙げる所もあった。そしてこの地域的に実施されてきたものを、全国一律にどこにでも通用するような商習慣にせよとの要求が、1870年代になって強まってきた。1876年には「書籍販売者連盟」の委託を受けて、『その支配的慣習に基づくドイツ書籍業界の基本秩序に関する草稿』というものが世に出された。そしてその二年後の1878年には、投げ売り防止のために、多くの出版業者がアイゼナハに集合した。こうした動きを見て全国組織の「書籍商取引所組合」も行動することを決心した。そしてそのイニシアティブで、同じ年の秋にワイマールに会議が招集された。そこで人々は、当時その数を増し、その連合会へと結集するようになっていた地域組合の基盤の上に立って「書籍商取引所組合」を改革することを話し合った。

「書籍販売者連盟」では、定価制度の確立をめざしたもろもろの規定を定めていた。そしてその連盟の会長から出版社に対して1882年、投げ売り業者への割引を減らすか、もしくは全く取引をしないようにとの要請が出された。この要請には484軒の出版社が応じた。

クレーナー改革

A. クレーナーの肖像

「書籍商取引所組合」の側でこの問題に対するリーダーシップをとったのが、その会長を務めていたアドルフ・クレーナー(1836-1911)であった。彼はすでに1878年のワイマール会議にも出席して、人々の注目を集めていた人物である。クレーナーは1859年に南西ドイツのシュトゥットガルトに出版社を創立した。そして1889年には老舗の大手出版社コッタ社を手に入れ、翌年にはウニオン・ドイツ出版社を創立した。これから述べる「書籍商取引所組合」の改革は、彼の名前をとって一般に「クレーナー改革」と呼ばれているが、その10年にわたる会長としての任期(1882-1892)中の1888年に、ライプツィヒに新しい「書籍商取引所組合」の会館が建設されている。

書籍商取引所組合の新館(1888年設立)

さてクレーナーは、投げ売りを防止するために定価制度を導入する過程で、ドイツの書籍業界にそれまでいろいろ存在していた組織を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することに成功したのである。彼は1887年、「書籍商取引所組合」の総会を、フランクフルト・アム・マインに招集した。これは投げ売り業者がたくさんいたライプツィヒやベルリンを意図的に避けることによって、かれらの反対をかわすためであった。

そしてこの総会で彼は、一連の提案を行った。それは書籍商同士の交流ならびに書籍商と読者との交流に関する一般的な基準を確立することと、市町村組合及び地域組合並びに出版業者連盟及び書籍取次業者連合を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することであった。このフランクフルトの総会では、全く抵抗がなかったわけではないが、結局クレーナーの政治力によってその提案は受け入れられ、以上のことを定めた新しい規約が、翌1888年の春から効力を発することになった。

この中の最も重要な規定の一つとして、投げ売り防止のための定価制度の確立に関するものがあった。ドイツのほとんどの出版業界の団体が「書籍商取引所組合」の傘下に入ったため、会員である書籍業者としては定価制度を守らなければならなくなったわけである。これによって悪名高い投げ売りは事実上終末を迎えた。このクレーナー改革によってドイツの出版業者は大同団結し、力を合わせて業界の利益と繁栄のために尽くすことを誓い合ったのである。やがてスイスの書籍商組合の定款も、ドイツの書籍商取引所組合の規約に合わせて改訂された。そしてスイスの書籍商組合の会員は、1922年までドイツ書籍商組合の会員になることが義務付けられた。またオーストリアの書籍商組合の規約も、ドイツのそれに適合するように改訂された。

定価制度をめぐる争い

クレーナー改革によって書籍の定価制度は確立したわけであるが、1888年に発効した「書籍商取引規約」をよく読むと、割引の実施に当たって地域組合にはなおある種の逸脱の余地が残されていたのであった。そのため改革から十数年をを経た1903年の初めになって、「書籍商取引所組合」は地域組合と取り決めた販売規定の中で、原則として顧客に対する割引は撤廃するが、現金払いの時だけなにがしかの割引を認めるという考え方を示した。そして具体的な取り決めとして、現金払いの際の割り引き率を、一般個人客には2.5%、官庁に対しては5%認めることになった。

ところがこの時、この程度の割引率では「不十分である」という声が、大学関係者の間からあがってきた。それは「書籍商取引所組合」へのドイツの出版業界の権力集中に抵抗して、書物の著作者と買い手の利害を護るという基本的な立場からなされたものである。そのためドイツ大学学長会議は1903年4月14日に、「大学保護協会」というものを設立して、この問題に取り組むことになった。

その昔1716年に、書籍問題にも造詣の深かった哲学者のライプニッツは、その『プロメモリア』の中で、「学者はもはや書籍業者に依存する賃労働者ではないのに、書籍業者はそうしたことを考えずに、自分たちのことばかりにかかずらわっている」と嘆いた。そして時は下って1880年代になってゲッティンゲン大学の神学教授パウル・ル・ルガルデは、ドイツの書物は外国に比べて高価であることを非難した。さらにベルリン大学教授のF・パウルゼンも、顧客割引をめぐる争いの中で、相対的に高い書籍の価格に狙いを定めた。全体としてドイツでは書物の値段が高いが、それだけ書籍業者が利益をあげている、というのが彼の主張であった。

書籍価格をめぐる論争

こうした流れの中で、書籍業界にたいして最も徹底した批判を加えたのが、ライプツィヒ大学教授のカール・ビュッヒャーであった。彼は先の「大学保護協会」の依頼を受けて1903年、『ドイツの書籍販売と学問』と題する一文を著し、その中で「書籍商取引所組合」に対して鋭い批判の矛先を向けた。かなり長くはなるが、以下その論調の主な部分を引用することにする。

「書籍商取引所組合は新しい定款を受け入れることによって、一つの<カルテル>を結成した。そして会員に商売上の最大限の利益を保証し、お互いの自由競争を取りやめることにした。」「定款には組合の目的として、会員の福祉の増進ならびにドイツ書籍業界及びその会員の最も広範な領域での利益を代表する事がうたわれているが、これは精神労働に対する搾取である」「寄生的な中間業者(取次店、委託販売人)は、書物の生産及び販売における経済的形成に対する阻害要因である」「ドイツの書籍業界は、人々が長いこと称賛してきたような完璧な組織などではない。我が国民の経済生活に対して、十分その任務を果たしていない」「そのカルテルの輪を断ち切る必要がある。・・・それから長期的観点から、公共図書館のためにしかるべき措置をとる必要がある。そして著作者に関しては、賃労働の奴隷の水準にまで落とされないよう、対策をたてるべきである」
そしてビュッヒャーは、定価制度の撤廃と自由競争の導入によってのみ、書物の価格は引き下げられるであろう、と主張したのであった。

このカール・ビュッヒャーの『覚え書き』は外国でも出版され、またドイツでは三版を重ね、同時に激しい論争を引き起こした。個人の意見が次々と洪水のように出された。そして非難の矢面に立たされた「書籍商取引所組合」の幹部が、1903年9月25日に声明を発表して、正式な異議申し立てを行った。この声明の中で「書籍商取引所組合」は、1825年の創立以来行ってきた多くの努力と業績を数え上げて、人々に訴えた。それはまず第一に著作者及び書籍業界のために翻刻出版禁止への闘いを指導してきたこと。第二に著作権保護のために道を切り開き、あわせて国際的著作権保護のためにベルヌ条約締結を呼びかけてきたこと。第三にその出版社法において著作者及び出版社の権利を擁護し、全世界の模範となるようなドイツの出版権の基礎を作り上げたこと。そして第四に造形美術作品や写真作品などの著作権に対する保護法制定に向けていまなお尽力していることなどであった。

そして定価制度をめぐる中核的問題に対しては、「書籍商取引所組合」は次のように主張した。すなわち定価制度が撤廃された場合に生ずる価格の引き下げによって、思わぬ結果が生ずることになろう。つまり比較的大規模な書籍販売業者だけは永続的に生き残れるであろうが、小さな町の書店はつぶれることになろうし、大学町の書籍販売業者も生き残りは難しいことになろう。それゆえにこうした中小書籍販売業者の生き残りのためにも、定価制度は必要であるとしたのである。

こうした学者と出版人との争いは、一般に「書籍論争」と呼ばれているが、双方互いに一歩も譲らず、強硬な主張を繰り返したため、ついにその仲介に帝国内務省が乗り出すことになった。こうして1904年4月11-13日に、関係各界の代表が招かれて会合が開かれた。そこに集まったのは、片や役所の代表、大学教授、図書館代表、対するに「書籍商取引所組合」幹部、出版主、書籍商の代表という顔ぶれであった。しかしこの会合でも直ちには問題に決着がつかず、結局懸案の数々はその解決を、「大学保護協会」及び「書籍商取引所組合」の代表から構成された「合同委員会」に委任されることになった。

ところが同委員会が同年5月31日にライプツィヒに招集されたとき、議論の対象となったのは割引問題だけであった。この時「書籍商取引所組合」は個人客に対する割引については従来の主張を繰り返しただけであったが、図書館に対しては7.5%という統一的な割引率の用意があることを明らかにした(これは「書籍商取引所組合」が従来行ってきた5%と、反対陣営が期待した10%という数字の中間をとった妥協策であった。)こうしてまとめられた取り決めは、少なくとも追加予算のついた図書館に対しては7.5%の割引を、それ以下の規模の図書館に対しては5%の割引を認めるというものであった。この取り決めは、今日なお存在している図書館割引の基礎となったものである。

書籍の定価制度をめぐる様々な問題は、その後も絶えず蒸し返され、今日に至るまで議論はし尽くされてはいない。とりわけこの議論は、第一次大戦中とその後の大インフレの時期そして第二次大戦後に繰り返されてきた。ちなみにドイツ連邦共和国の法律では、出版物は統制・協定などによる価格の拘束の禁止の対象から除外されている。

第二章 この時代の代表的出版社とその活動

特色のある出版社

今日ではもう見られなくなったことであるが、20世紀初頭のころにはまだ、ドイツの出版社にはそれぞれ独自の個性や特色があったといわれている。つまりこの時代の出版社には「顔」があったというのだ。W・ カイザーは1958年に行った講演「現代の文学生活」の中で、第二次世界大戦後の時代と20世紀の最初の数十年とを比較して、次のように言っている。「ザムエル・フィッシャー、ゲオルク・ミュラー、アルベルト・ランゲン、オイゲン・ディーデリヒス、インゼル(などの出版社)から出版された本には、それぞれ一種の風格があり、それぞれ独自の精神的分野と結びついていた。当時の書籍市場はある程度出版社によって秩序づけられていたのである。私の家のナイトテーブルには、丁寧に編集された古い完璧なカタログが置いてある」。

この古い出版社目録について、ワイマール時代の著名の評論家クルト・トゥホルスキーは、1931年に次のように書いている。ゲオルク・ミュラー、ピーパー、フィッシャー、インゼル出版社などは、このカタログ作成のために大変な努力を払い、かなりの経費と用紙を投じたのである。・・・しかもこの努力は十分報われているのだ・・・なぜならドイツの出版界にはかつて、ある本が新刊されたときにそれを自慢にできるような時代があったからなのだ。その本はX社でしか出版することができない。Y社からそれを出すことはできない、と人々は考えていた。・・・しかし今ではもうこういうことは全くなくなっている。どんな本もどんな出版社からでも出せるのだ。ほとんどどんな本も、出版社を取り換えることができる。」

トゥホルスキーがこれを書いた1931年には、先のカイザーが言った「20世紀の最初の数十年」は終わりを告げていたのだ。

装丁に対する工夫

ところで出版社の個性や特色は、書物の外観に対して人々が抱くイメージによって決められる度合いも少なくない。こうした観点から、この時代の主な出版社が書物の装丁に対して、どのような工夫をしていたのか、見てみることにしよう。まず出版者アルベルト・ランゲン(1869-1909)は、パリに滞在中にフランスのポスター美術から影響を受けて、著名な芸術家にブックカバー用のデザインを依頼することを思いついた。こうしてドイツで、書物にカバーをかけるという習慣が生まれ、これはたちまちのうちに多くの出版社が採用するところとなった。

しかも19世紀から20世紀への転換期は、時あたかも装飾美あふれたユーゲントシュティール様式(フランスではアール・ヌーヴォー様式)の全盛期であったので、この様式を用いた装丁が目立った。その際、出版者のA・キッペンベルク(1874-1950)が言うように、この「美の貴族」を広く国民大衆のもとにもたらすことが考えられた。そのためには書物の値段を下げて、発行部数を増やすことが図られた。

この考えはもともとレクラム出版社のもので、あの有名な「レクラム百科文庫」は何の装丁もない小型の文庫の形で、今日まで出版されている。そのため値段も初期には長い事20ペニッヒにおさえられていた。

ところがこうした大量出版を、美しい装丁を施したハードカバーの本で実行したのが、J・C・エンゲルホルンであった。彼は1884年、自社発行の文学全集に赤いハードの表紙をつけて、一冊50ペニッヒで売り出した。また上等な革製の表紙の方には、75ペニッヒの値段を付けた。エンゲルホルンのこの「赤表紙」は成功をおさめたが、20世紀に入ると、時代とともに読者の趣味嗜好も変わって、こうした点から新たな競争にさらされることになった。ザムエル・フィシャー(1859-1934)が経営する出版社が1908年から出し始めた文学全集は、黄褐色の表紙が付けられたが、エンゲルホルンと区別するために、これは「黄表紙」と呼ばれた。さらにこの時代、K・R・ランゲヴィーシェの「青表紙」本も存在した。

その一方、書物の外観に特別念入りな配慮を施し、ぜいたくな造本をして、しかも発行部数を100部に抑えて、選り抜きの100人に前払いで提供する「百部刷り」の試みも見られた。これを行なったのがH・v・ヴェバーが経営するヒュペーリオン出版社で、価格が50から100マルクという高価な豪華限定版であった。

このヴェーバーの友人だったE・ローヴォルト(1887-1960)は、この企画に魅せられながらも、やや別のやり方をした。つまり美しい活字と選り抜きの紙を用いて造本しながらも、それを手ごろな値段で愛書家の手元に届けようというのであった。こうして1910年から『愛書家のための雑誌』が発行されることになった。このためにローヴォルト書店と関係の深かったドゥルグリーン印刷所が尽力した。これはちょうどレクラムが本の内容に関して行なったこと(古典の廉価版の発行)を、愛書家のために造本の分野で行ったものであるといえる。

世紀転換期の「文化出版社」

それではここでこの時代に活躍した主な出版人の横顔を紹介することにしよう。これらの出版人が19世紀末から20世紀初めにかけて創立した出版社は、今日なお存続するか、あるいは今なおその影響力を残しているのだ。これらの出版人の一人オイゲン・ディーデリヒス(1867-1930)は、これらの出版社に共通するものとして「文化出版社」という名称を付けている。これら文化出版社は、新しい市民的個人主義の導入、(帝国主義的な)ヴィルヘルム体制からの市民階級の解放、そして(1871年の)帝国創立後の戦勝祝賀気分から覚めて、より現実的で健康な時代を建設することなどに貢献したのであった。

ザムエル・フィシャーの肖像

まず取り上げなければならないのはザムエル・フィッシャーであるが、ユダヤ人の彼は1886年にベルリンに出版社を創立した。S・フィッシャー社は、まず何よりも自然主義文学の作品を手掛けたことで知られている。フィッシャー社は、良書を安く人々に提供することに尽力したが、同時に作家の個人全集を出すことによっても知られていた。フィッシャーは一人の作家を掘り出す時に、のちに全集を出すことを考えてその作家の原稿を点検したのである。

その最初の全集をフィッシャーは、北欧の作家ヘンリク・イプセンの作品でもって始めることにした。イプセンの個々の作品の出来栄えは悪くなかった。しかし初めはその作品はレクラム出版社から出されていたのだ。イプセンはレクラムとフィッシャーを競合させて、漁夫の利を占めようとしていたとみられている。そのためフィッシャー社としてはイプセンの全作品の版権を獲得するのに、かなりの出費を強いられたという。それは一種の賭けともみなされるものであったが、S・フィッシャーはあえてこの冒険をすることによって、結局は同社の永続的発展を築くことができたのであった。

こうした冒険への性向は、イプセンに限らず、フィッシャーの北欧文学全般への好みに現れていた。その結果1889年から「北欧文庫」が発行されたが、新しいドイツ文学を振興させるには、言語的にも親類関係にある北欧ものが良いと彼は考えたのであった。
とはいえフィッシャー社が最初に取り上げた外国人作家は、イプセンのほかに、当時ドイツではまだ知られていなかったフランスのエミール・ゾラとロシアのレオ・トルストイであった。そしてのちにゲアハルト・ハウプトマンやトーマス・マンといったドイツ人が同社の看板作家になったのである。

フィッシャーの冒険的・革命的な行き方とは対照的であったのが、ライプツィヒのインゼル出版社のアントン・キッペンベルクであった。その行き方は慎重そのものであったが、次の彼の言葉はそれを十分示している。「我々は当時、正しい道を知らずに、手探りで進んでいた。ところが最上の水先案内人が、実は我々の船内にいたのだ。それはゲーテであった。彼は船内から何を捨てたらよいのか、教えてくれたのであった」。インゼル出版社という名称は、同社が発行した雑誌『ディ・インゼル(島)』にちなんでつけられたもので、創立は1899年であった。同社はやがてゲーテの作品の出版社として名を成していったが、1904年に出版した『ラート・ゲーテ夫人の手紙は特筆するに値した。ゲーテ夫人の手紙が公刊されたのは、このときが初めてであった。インゼル出版社はまた、文献学的な面でも貢献した。自らゲーテ作品の熱心な収集家であったA・キッペンベルクは、文献学的に当時としては最も念入りな編集を施したゲーテ全集を出版しているのだ。

オイゲン・ディーデリヒスは、多面的な才能をもって、多様な活動をした出版人であった。彼は1896年、イタリアのフィレンツェで出版社を起こし、のちに有名なブックデザイナーとなったE・R・ヴァイスの二冊の詩集を出版した。やがて彼はドイツに戻り、ライプツィヒを経て、イエナに出版社を移した。そして彼は自分の出版社を「文学、社会科学および神智学の現代化を試みる出版社」と名付けた。ディーデリヒスは初め、「自由思想家」F・ナウマンより左に立つ社会主義者であった。こうした立場から彼は、1848年革命史を、その50周年の1898年に向けて書くよう、弁護士のハンス・ブルームに依頼した。この人物は48年のフランクフルト国民議会の代表として名高いローベルト・ブルームの息子であった。

彼の出版人としての活動を見ると、出版界に様々なアイデアを持ち込んだ人物だといえる。彼は新種の宣伝広告の方法を考えて、それを実行した。また読者に書籍購入の動機をアンケートによって尋ねるという、ドイツの出版界で最初の「市場調査」を行ったりした。さらに第一次大戦後の出版界の苦境を克服するために、様々な提案を行ったし、「出版人養成機関」の生みの親の一人でもあったのだ。

先にブックカヴァーの創案者として紹介したアルベルト・ランゲンは、1893年に出版社をパリに創立した。文芸出版社としては、北欧とフランスの作家の作品をドイツに紹介することに重点を置いていた。そうした観点から彼は、若きノルウエーの作家クヌート・ハムスンを、S・フィッシャー社から引き抜いて、その小説『神秘』を出版した。しかし出版者ランゲンの名前と切っても切れないのが、名高い諷刺週刊誌『ジンプリチシムス』であった。この絵入り週刊誌はヴィルヘルム二世時代のドイツの政治や社会を鋭いタッチで諷刺・批判したために、その関係者はたえず告訴されたり、拘留されたりした。そして雑誌は発刊禁止処分を受けたり、発行人のランゲンはこのためスイスへ逃亡しなければならないこともあった。

こうした危険があったにもかかわらず、雑誌関係者はこの週刊誌の編集発行に意欲を燃やし続けた。やがてランゲン出版社は有限会社に組織替えされたが、1907年ランゲンは新しい雑誌『三月』を創刊した。この雑誌の発行人の中には、作家のヘルマン・ヘッセもいた。ところがヘッセはもともとフィッシャー社の作家であったため、このことが契機となって、S・フィッシャーとA・ランゲンの間に気まずい雰囲気が生まれることになった。ランゲン自身は翌年の1908年に亡くなったが、やがて雑誌『三月』はメルツ出版社から発刊されることになり、その編集は後にドイツ連邦共和国初代大統領となったテオドール・ホイスが担当した。

またゲオルク・ミュラー(1877-1917)という人物が、1903年ミュンヘンに出版社を創立した。皮革の卸売り商の息子だったミュラーは、その財政基盤はしっかりしていた。若き日にヴェーバー書店で見習いとして働いた経験を生かして、のちに自分の出版社を作ったが、直ちにその事業拡大へと突き進んでいった。まずマイヤー出版社の作家の版権を買い取った。そしてS・フィッシャー社が開拓することができなかった北欧の作家ストリンドベリーのドイツ語版全集を発行した。さらにランゲン社から、そこの作家ヴェーデキントを横取りした。

このG・ミュラーと同様にベルリンのヴェーバー書店で見習いをしていた人物にラインハルト・ピーパー(1879-1953)がいた。彼はミュラーと一緒にパリへ旅行したりしたが、やがて1904年に自分の出版社をミュンヘンに創立した。ピーパー出版社はとりわけ現代美術作品の出版に力を入れた。こうしてその出版社から、エドアルト・ムンク、H・v・マレー、M・リーバーマンなどの美術家の作品が出版された。さらにM・ベックマンとE・バルラッハも出版された。そこでの絵画作品の複製の出来栄えは、素晴らしいものだった。

最後にエルンスト・ローヴォルト(1887-1960)及びクルト・ヴォルフ(1887-1963)という二人の出版人の横顔を紹介しよう。ローヴォルトは1908年に、その第一次出版社をベルリンに創立したが、最初に出版したのが、G・C・エトツァルトの抒情詩集『夏の夜の歌』であった。これは二色刷りのユーゲントシュティールの美麗本で、当時若干21歳だったローヴォルト青年の夢を実現させたものであった。その2年後の1910年、ローヴォルトは劇作家H・オイレンベルクに心惹かれることになる。オイレンベルクはこの年の11月10日、シラー生誕150周年の祝典で記念講演を行った。しかしこの時彼は国民の愛国的シラー像を打ち砕いたため、講演は抗議の声と退場する人々の騒音で包まれた。それでもローヴォルト青年はこの劇作家に近づき、その全作品を出版することを約束した。これも若き出版人の理想主義を示す逸話であった。

オイレンベルクの作品に関するローヴォルト書店の広告

その一年前の1909年から親友のクルト・ヴォルフが、匿名の株主としてローヴォルト書店を全面的に支援していた。この二人の青年はシャム双生児と一般に呼ばれていたぐらい、常に行動を共にしていた。しかし二人の性格は非常に異なっていた。そのこともあって、それまで二人三脚のようにして一緒に出版事業を営んできたローヴォルトとヴォルフの間に、1912年になって出版の方針を巡って大喧嘩が持ち上がった。その結果、社の資金面を支えてきたヴォルフが1万5千マルクをローヴォルトに渡して、作家たちの版権も手に入れた。その中にはヨハネス・ベッヒャー、マックス・ブロート、ゲオルク・ハイム、フランツ・カフカ、M・リヒノフスキー、アルノルト・ツヴァイクなど文学史上に名をのこす、そうそうたる顔ぶれがいた。そしてヴォルフは翌1913年に社名を「クルト・ヴォルフ社、ライプツィヒ」と改めて、独自の出版活動を続けることになった。

その後ヴォルフは出版事業家としての才能を発揮して、事業拡大に乗り出した。その手始めとして、1917年「百部刷り」で知られていたヒュペーリオン出版社を買い取った。そしてそれに続いていくつかの長い名称を持った出版社を創立していった。このヴォルフの出版事業を経営面から支えた人物にG・H・マイヤーがいたが、彼はヴォルフに宣伝広告の重要性を説き続けた。そしてこのマイヤーの宣伝工作が見事に功を奏したのが、1915年に出版されたグスタフ・マイリンクの幻想小説『ゴーレム』に対する宣伝活動であった。この時マイヤーは街の広告塔に真っ赤な宣伝ポスターを貼ったのであった。

いっぽう自分の出版社を失ったローヴォルトの方は、第一次大戦勃発とともに出征していったが、戦争終了とともに帰国し、再び出版活動に従事した。今度は時代の先端を行く表現主義の芸術家や作家との交際のうちに、この種の作品を出版することを狙って、1919年に第二次ローヴォルト書店を創立した。そして従来の堅い純文学作品のほかに時局ものも多数出版するなど、多角的経営によって事業を安定させていくことになった。そして「自由なる精神の試合場、書物のための公共機関」をモットーに、出版活動をつづけた。1919-1933年のワイマール共和制の時代に出版された書籍の点数は、500点余におよんだ。しかもその著者層の広さ、作品の多様性は注目に値した。右翼から左翼に至るまで多彩な顔ぶれ、大衆作家から新聞・雑誌の文芸記事の執筆者、文学史に残る作家、あるいは各界の著名人に至るまで、その執筆陣は及んでいたのだ。こうして第二次ローヴォルト書店は出版の自由を全面的に享受して、ワイマール共和国時代の代表的出版社の一つとして、繁栄を謳歌したのであった。

なおナチス時代の前半に細々と経営を続けていたローヴォルト書店も、その後半にはついに閉鎖の憂き目にあった。そして第二次大戦後になって第三次ローヴォルト書店が創立されて今日に至っている。この間の事情については後に述べることにする。

大衆向けの書籍販売

以上紹介した「文化出版社」で発行されていた書物とは別に、広範な一般大衆向けの印刷物や書物を取り扱っていた書籍販売が、世紀転換期から20世紀初めにかけての時期にも、もちろん存在した。例えば都市近郊や地方では、しばしば文房具店と製本業者が合体した店で、広範な購買層向けに、教科書、暦、青少年向け図書、料理の本、安手の娯楽シリーズ本、家庭向け小冊子などが売られていた。いっぽう鉄道の駅構内の書店も、1854年にすでにハイデルベルクに存在していたが、このころにはその数を増やしていた。またレクラム出版社では、1914年に全国1600の駅の構内に、本の自動販売機を設置した。さらに大都会のデパート内に書籍売り場が設けられるようになった。こうした動きに対抗するように一般書店でも、ショーウインドー内の書物の飾りつけに工夫をこらしたり、店内の魅力あるレイアウトなどに尽力するようになった。

レクラム百科文庫の自動販売機

第三章 国立図書館開設への動きと出版界

1848年-不幸な第一歩

ドイツでも全国的な規模の公的図書館を開設しようという動きはかなり早くからあったが、地方分権国家として国の統一(1871年)が遅れたこともあって、この運動はなかなか結実しなかった。最初の動きは1848年の三月革命のときにおこった。北独ハノーファーの出版者H・W・ハーンは、フランクフルトの国民議会執行部に宛てて、自分の出版社の出版物を提供するので、他の出版社からの献本を併せて、公の図書館を作ってほしいとの申し出を行った。やがてドイツ及びオーストリアの多くの出版社がこの動きに同調したため、国民議会では国立図書館建設への第一歩を踏み出せるものとの見込みを立てた。そしてそのための専門的な担当官が任命され、具体的な計画立案が委任された。担当官のH・プラート博士は早速、納本義務と文献目録作成に関する立法作業に取り掛かった。その際新刊書の供出と文献目録への登録によって、著作権保護期間の確定も行うことを計画した。

こうして国立図書館開設へ向けての第一歩は順調に踏み出された。しかし翌1849年に国民議会そのものが解散したことによって、この計画も挫折してしまったのである。このようにドイツにおける国立図書館建設の最初のイニシアティブは、国や政府ではなくて出版界がとったわけであるが、この傾向はずっと後まで続くことになる。

「ドイチェ・ビュッヘライ」開設へ

1848年の計画の挫折の後、1871年にドイツは統一され帝国が成立したが、このころになると再び国立図書館開設へ向けての動きが起こってきた。今度は図書館関係者のイニシアティブによるもので、既に存在していたベルリン王立図書館をドイツの帝国図書館へと昇格させようというものであった。しかし今回は政府関係者のこの問題に対する無関心から、この提案は受け入れられなかった。

こうして時が過ぎていったが、第一次大戦勃発の少し前の時期に、ドレスデンの出版主エーラーマンの主導で、全国的な規模の図書館を建設しようという提案がなされた。かれは三度にわたって自分の提案の鑑定を専門家に依頼した後、1910年になってそれを公表した。その設立の目的は、外国におけるドイツ語出版物を含め、ドイツ語の全ての出版物を集めた公共の図書館を作ることであった。そしてその集めるべき出版物の中には、芸術上の印刷物、個人的な印刷物そして官公庁の刊行物も含まれるべきことが謳われた。そしてこの図書館へはすべての出版社が自由意志によって納本することで、出版界に合意がみられることになった。

主導者のエーラーマンはこの全国的規模の図書館を、ドイツの書籍の中心都市ライプツィヒに建設することを提唱した。幸いそこの「ドイツ書籍商取引所組合」はこの計画に協力的であった。そしてこの全国的図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、この「書籍商組合」の施設として建設されることが決まった。そのうえライプツィヒ市当局とザクセン州政府もこの計画に大変協力的であった。こうしてライプツィヒ市が土地を提供、ザクセン州政府が建設費を負担、そして両者がその経常運営費を負担していくことで合意がみられた。また「書籍商組合」が書籍や出版物の収集に対して責任を負うことが定められた。

「ドイチェ・ビュッヘライ」の堂々たる外観

こうして1912年10月にこれら三者の間で契約が交わされ、「ドイチェ・ビュッヘライ」は誕生することになったのである。出版界を代表してこの交渉に携わったのは、1910-16年の間「書籍商組合」の会長を務めたベルリンの出版主カール・ジーギスムントであった。しかし期待されたドイツ帝国政府のこの事業への参加は、ついに見られなかった。そのためこの図書館は全国的な規模のものではあったが、この時点では帝国図書館とはならなかったのである。第一次大戦勃発前夜の時期でもあり、当時のドイツ帝国政府の代表者は、こうした文化的事業に関心が向かなかったのであろう。

それはともかく「ドイチェ・ビュッヘライ」は1913年の初めから、ライプツィヒの「書籍商組合」の会館の中で、業務を開始することになった。当初はその業務は、1913年1月以降に発行された出版物の収集に限ることとされた。しかし1916年になると第一次大戦中にもかかわらず、「ドイチェ・ビュッヘライ」の独自の建物の建設が開始されることになった。そして第一次大戦後の1922年になると、ワイマール共和国政府は「ドイチェ・ビュッヘライ」の共同出資者に加わることになったのである。こうしてライプツィヒの「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1945年までドイツの全地域をカヴァーする唯一の中央図書館(つまり国立図書館)の地位を保ったのである。

全国図書目録の発行

全国的規模の図書館開設の動きと並んで、総合的な図書目録整備の事業の方も進展した。ドイツでは図書目録は長い間、個々の出版社が発行したものや見本市協会の出品目録という形で存在してきた。なかでもカイザーとヒンリヒスの図書目録が、その内容が充実したものとして知られていた。このカイザーの図書目録を1914年に、「書籍商組合」の図書目録部が受け継ぎ、「ドイツ書籍目録」という名称で、その業務を続けることになった。また翌1915年には、ヒンリヒスの図書目録も受け継ぎ、同様に図書目録部が仕事を続けた。

こうして先人の多くの遺産を受け継いだ「書籍商組合」は、全国的な規模の図書目録の発行に踏み切ったのであった。この「ドイツ全国図書目録」は既刊書の総目録であったが、1921年には毎日発行される新刊書の目録も現れることになった。一方重要な価値を持つとみなされたドイツ語の学術論文や雑誌論文の目録作成・発行の業務を、「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1924年から始めることになった。これはかつてツァルンケによって創刊された「リテラーリシェ・ツェントラールブラット」を受け継いだものであった。

また1928年には「ドイツ公文書月刊目録」が発行。そして1936年には、それまでプロイセン国立図書館によって管理されていた「ドイツ大学文書年次目録」が、そして1943年には「ドイツ音楽図書目録」及び「美術図書総目録」が付け加えられた。そして年次は前後するが、1927年に「ドイチェ・ビュッヘライ」は、「ドイツ歴史図書年次報告」を開始し、さらに1930年には「歴史図書国際総目録」のドイツ語部門を引き受けることになった。

ドイツ近代出版史(4)~1825-1887/88~

大衆的な文学市場

第一章 古典作品の大衆廉価版の成功

<レクラム百科文庫>の発行

先に著作権保護の箇所で述べたように、1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別な取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅することとされた。そしてドイツの古典主義文学の代表的な作家、つまりゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントなどの作家はみな、1837年以前に死亡していたため、その著作権は1867年に消滅したのである。

ドイツのいくつかの大出版社、そして中規模の出版社も、ひそかにこの時期が来るのを待ち構えて、著作権のない古典作家の作品の廉価版を、大量出版することを計画していた。そうした中規模出版社の一つがアントン・フィリップ・レクラム(1807-1896)の出版社であった。彼は他の出版社と同様に著作権消滅のまさに当日の11月9日に、古典作品の大衆廉価版である<レクラム百科文庫>の発行に踏み切ったのであった。その前夜までに第一期の35点が用意された。その第一巻と第二巻は、それぞれゲーテの『ファウスト』第一部と第二部であった。『ファウスト第一部』は3か月のうちに1万部が売り切れたという。また翌年1868年末までに<レクラム百科文庫>は、120点出版された。

この文庫の特徴は、当時慣習となっていた配本順にシリーズ作品を全部買うというやり方に従わずに、単独で一冊づつ買うことができたことと、一冊わずか20ペニッヒという値段の安さにあった。こうしたことから伝統的な文学書出版社や学者・教養人の側からは、「三文レクラム」などとやゆされたりした。しかしレクラム側では、「知は力なり」というモットーのもとに。だんことして初期の方針を貫きとおした。いっぽう書籍販売者の側からも当初は、この種の三文文庫の販売に対して抵抗がみられたが、全般に売れ行きは好調で、この新企画は大成功であったといえる。

とはいえ各社が一斉に古典廉価版に踏み切った1867年には、当時なお中小出版社の一つであったレクラム社の動きはさして注目を浴びず、数年たってからようやく新聞・雑誌の文芸欄などで取り上げられたのだという。しかしその後脱落していった出版社が多かった中で、<レクラム百科文庫>だけは途絶えることなく発行が続けられ、今日に至っているのである。ちなみに1945年までにレクラム社は世界文学のあらゆる分野の作品7600点を発行し、その総発行部数は2億8千部にも達した。さらに第二次大戦後の発行部数の伸びは目覚ましく、1988年までに実に合わせて、7億7700部にも達しているのだ。

レクラム百科文庫の1991年の広告。
この写真の左上にレクラム出版社創立156年と書かれている。
つまり創立されたのは1835年だった。

古典の廉価版はまさにドイツの出版界における一大事件だったのだ。それまで古典文学の出版を独占的に手掛けてきたコッタ出版社をはじめとしたいくつかの出版社は、大きな損失を受けることになった。二十世紀の大手出版社のひとつローヴォルト社の社長が言うように、「レクラム百科文庫は<文学の民主化>と<書物の非神格化>に向けて最初の重要な一歩を踏み出した」ものなのであった。またドイツ社会民主党党首アウグスト・ベーベルは1908年、レクラム百科文庫の第5000号発刊に際して、「レクラム百科文庫は、すべての文化と進歩の友人から暖かい感謝の念を受けてきた」と祝辞を述べている。

さらに遠く離れた日本にもこの文庫の影響を受けて、昭和2年(1927年)、岩波茂雄が<岩波文庫>を発刊したことは周知の事実であろう。「読書子に寄すー岩波文庫発刊に際してー」という一文の中で岩波は、「吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する」と書いている。

ここでフィリップ・レクラムが古典の大衆廉価版の発行を思いついた動機について見てみよう。彼は1839年に印刷所を一軒手に入れたが、経営者としてこの印刷所の効率的な運用を考えた。その際彼は印刷所を自分の出版社のためだけに使用することを決心した。そして当時質の良い新作が見当たらなかったため、すでに評価が定まっている古典を大量に出版することを思いついた。その際この考えを技術的に可能にしたのが、当時発明されたばかりの高性能の印刷方法であったステロ版製版であった。これは新たに活字を組む必要がなく、比較的簡単に複製することができたため、経費も大幅に節約することができた。こうして翻刻版を大量出版することが技術的に可能になったため、本の販売価格を大幅に引き下げる見通しが立った。

この見通しのもとにレクラムは1858年、良質の古典としてシェークスピアの作品12巻の版権を獲得した。そして全12巻の全集を、当時としては破格の安値である1・5ターラーで大量に市場に出したのであった。この全集は大当たりをとった。さらに1865年になるとレクラムは、この全集を1巻づつ個別に(1巻を2000部づつ)販売するようになった。シェークスピアの作品を個別に売り出すというこのアイデアこそ、その後の<レクラム百科文庫>の発行の源であったのだ。

私はこの「レクラム百科文庫」にも強い関心を寄せ、研究を進めた。そして『レクラム百科文庫-ドイツ近代文化史の一側面』という著書を、1995年12月に刊行することができた(朝文社)。興味のおありの方は、この著作をお読みいただければ幸いである。

その他の古典廉価版

レクラムと同様に古典作品の著作権消滅を待って、古典作品の発行を行った出版社は沢山いた。大手のブロックハウスをはじめパイネ、プロシャスカ、ヴィニカー、ゲーベル、グローテなど小規模な出版社も加わったが、なかでも注目すべき存在が大手出版社主ヘルマン・マイヤー及びグスタフ・ヘンペルの二人であった。マイヤー社からはゲーテの詩集を皮切りに<ドイツ国民文学文庫>が出版され、ヘンペル社からは<ドイツ古典作家国民文庫>(全部で246巻)が出された。ヘンペルはその際テキストの内容が完璧であることを心掛けた。つまり著者によって最終的に認められた版を用いたのである。そのため出版人であると同時に有名なゲーテ収集家でもあったザロモン・ヒッツェルは、そのゲーテ・カタログに、ヘンペル版のゲーテ作品だけを採録している。こうした文献学的な質の高さを狙ったヘンペルのいき方は、知識と教養の普及を目指したレクラムの考え方とは、おのずから違ったものであったといえる。

いっぽう古典作品の名門出版社コッタ社も、古典の大衆廉価版を出していた。例えば1839年には廉価版のシラー全集を10万部以上売りさばいていたし、「万人向け文庫」という古典の大衆廉価版も刊行していた。また百科事典を手掛けていたマイヤー出版社もレクラムに先駆けて、古典の大衆廉価版を出している。

第二章 貸出文庫

都市型貸本業

19世紀に入るとドイツでは、数多くの経済的、社会的、技術的革新が相次いだが、これらを通じて文盲も著しく減少した。とはいえドイツにおける識字化と読書の普及には、なお地域的、階層的に格差がみられた。つまり南ドイツのカトリック地域や農村地域では遅れ、北ドイツなどの人口が増大しつつあった都市部で進んでいたのだ。しかし書物は当時なお高価な商品であり、本を買って所有できたのは金持ち層に限られていた。そのため有料で本を貸し出す広い意味での貸本業が、18世紀の末頃から生まれてきた。こうした手段によって、当時新たに読書階層にくわわってきた人々も、大きな経済的負担なしに本を読むことができたのである。こうした商業的な貸本業は、一般に<貸出文庫>と呼ばれている。ちなみに18世紀末の1799年には「貸出文庫」という題名の喜劇も登場しているぐらいなのだ。

これは18~19世紀における書籍配給システムとしての都市型商業貸本業という訳であるが、18世紀末から19世紀半ばまでがその黄金時代であった。その所在地は各領邦国家の首都、領主の城館のある都会(城下町)、商業・手工業都市などであったが、社会階層別に様々な形態の貸出文庫が存在していた。上はベルリンのボルステルの読書クラブや、ハノーファーのコルマンの貸本業のように、王侯貴族とも交流があり、もっぱら金持ちの大市民を相手にした高級施設から、下は公にはほとんど把握できない街の片隅のしがない貸本屋に至るまで、様々だったのだ。そうした小さな貸本屋は、製本業者が副業として経営していたり、手工業者や文房具店、床屋のような別種の人々によって運営されていたものもあった。

高級な施設では、保存が非常に良い新しい本が貸し出されていた。そしてシーズンごとの新刊書もあったが、それらはしばしば貸出所のスタンプすら押してなかった。それはより高級な読者の要求に譲歩してのことであった。そしてそうした本が何度も貸し出されて、古くなったり、あるいはあまり読まれなくなったりすると、二流・三流の貸本屋へと流されていったのである。

19世紀後半に活躍したドイツの大衆文学作家カール・マイ(1842-1912)は、子供のころ小遣い銭稼ぎにアルバイトをしていたボーリング場が副業として経営していた貸本所で、本を借りていたという。ここで少年マイは、半分ぼろぼろになった貸本の通俗小説を夜を徹して目を真っ赤にして読みふけったのであった。

貸し出される本の種類で見ると、読者の社会階層にはあまり関係なく、まずは文芸もの、とりわけ小説部門が圧倒的に多かった。19世紀が進行するうちにドイツでは、大市民、商人、手工業者などの間で、こうした分野での趣味嗜好が次第に接近しつつあったのだ、しかもこうした小説をこの時代には、個人が買うという事はなかったわけである。つまり小説の新刊書の買い手は、圧倒的に貸出文庫を利用していたのだ。

ちなみに当時の作家たち、G・フライターク、T・フォンターネ、P・ローゼッガーなどが書いた小説の売り上げは、当時存在していた貸出文庫も購買額にほぼ対応していたという。さらにわざわざ貸出文庫用に書かれた小説も当時は存在していたといわれているが、それもあながち例外的な存在という訳ではなかったようだ。

その多様な形態

いっぽう貸出文庫とは別に、人々が高い金を出して本を買う代わりに、安く利用できた非商業ベースの公共図書館も19世紀の初めに、国民啓蒙運動の一環として作られた。たとえばザクセン王国財務官のプロイスカーや、医者のプレープシュタインの尽力が特筆される。プレープシュタインは1837年に、福祉的性格の「図書協会」を設立したのだ。また産業家のハルコルトのようなパトロンが金を出して作られた企業図書館や教区図書館もあったが、これらは貧しい人々へ有用な知識を伝えることを狙ったものであった。しかしこの種の慈善的性格を持った公共図書館は、当時のドイツでは一般にまだわずかな関心しかひかなかった。そして圧倒的な関心は、これまで述べてきた貸出文庫の方に向けられていたのであった。

またこの種の書籍貸し出しシステムは、18・19世紀のドイツで実によく発達していた。レーゼツィルケル、レーゼ・ビブリオテーク、レーゼ・ゲゼルシャフト、レーゼ・カビネットなど、地域により時期により、様々な名称の組織が存在していた。前述したフィリップ・レクラムは、1829年父親から財産として、ライプツィヒの「リテラーリシェス・ムゼウム」というものを手に入れた。これは直訳すれば「文学博物館」となるが、実は一種の貸出文庫であって、そこにはドイツ語、フランス語、英語、イタリア語による各種文学作品の新刊本が備え付けてあった。同時にこの施設には、「ジュルナリスティクーム」と称する部屋もあって、78種類の新聞・雑誌が置いてあった。

この建物がムゼウム(博物館)と呼ばれたのは、立派な建物の中に書籍や雑誌のほかに、美術品や鉱物標本、物理化学の実験道具などが陳列展示されていたことからくるものである。レクラムが取得したこの施設は、「<読書革命>と文学市場の成立」のところで述べた「高級な読書サロン」の一種だと考えられる。これらは啓蒙主義とフランス革命の思想的産物といえるもので、その雰囲気について作家のトーマス・マンは、レクラム出版社創立百周年記念講演の中で次のように述べている。

「そのいわゆる博物館は、危険でしかも生き生きとしたところで、講演と討論と批評の場所であった。偽りと信心ぶった秩序が支配していた古き良きライプツィヒにあって、反抗的な人々がすべてそこに集まり交流した。そこでは作家や市民がわずかな会費を払って、ドイツや諸外国の新聞を読み、大規模な貸出文庫を利用し、いろいろと思索をめぐらしながら、意地の悪い喜びにふけることもできたのであった」

これを読むとこの種の「読書サロン」は、ウィーン会議後の王政復古期のドイツで、さまざまな進歩的、自由主義的思想を抱いていた人々の交流の場所であったことが分かる。それはともかく18・19世紀のドイツでは、貸本屋が書籍雑誌を賃貸で定期的に配達回収する「読書クラブ」とか「書籍回読会」とか、あるいは新聞・雑誌・書籍の共同購読のための組織である「読書組合」とか「回読クラブ」など、広い意味での「商業的貸出文庫」が花盛りだったのである。しかもこれは都市住民を対象とした都市型の書籍配給システムだったのだ。

第三章 行商人販売による廉価大衆小説

十八世紀末までの書籍行商人

ここでは19世紀の後半に入ってドイツで大変な隆盛を見せた、行商人の販売する廉価大衆小説について考えてみることにしよう。ただその前に18世紀末までの書籍行商人の実態について見ておかねばならない。書籍の行商人については、これまでも述べてきたように、実は15世紀から存在していたものである。書籍商がひとりとして店を出すことができなかった小都市や集落、農村地帯に彼らは現れ、しばしば小間物や宗教画とともに、書物も売り歩いていたのである。書物といっても、相手がほとんど教養のない人々であったから、暦や年鑑、つづり字練習帳などの小冊子であった。それが16世紀前半の宗教改革時代になると、ルターの教説をはじめとするプロテスタントの新思想を印刷した小冊子を、国の隅々に至るまで配布する重要な役割を演じることになった。この書籍行商人は、フランスでも同じように活動していた。16世紀のフランスの行商人は、本を木箱に入れてひもで縛って、背中に背負って運んでいた。

ドイツではとりわけ南部地域で、同様に桶を背負って移動する人々や、それらの桶をロバ、犬、馬などの背中に縛り付けて運ばせる人々が現れた。しかしわずかな収入しかもたらさないこの商売は、当初から評判が良くなかった。また世間からは堅気の職業とはみなされず、「盗品のさばき手」、「海賊版の売り手」あるいは「みだらで、悪魔的な低俗本の販売人」などと呼ばれたりしていた。

ところでドイツでは1770年ごろ、本を読むことのできる人は全人口のわずか15%だったと見積もられている。そのためこの頃になっても、行商人が運んでいたのは、まともな書物というよりはむしろ、宗教的な内容の廉価な絵物語や絵草紙をはじめとして、騎士物語、幽霊話、殺人や死刑執行人の物語を扱った絵本などであった。18世紀末から19世紀初頭になっても事情はそれほど変わらなかったが、いま挙げた絵本のほかに、年鑑、暦、祈りと説教の書、童話、料理の本、夢占いの本などが、行商人によって売りさばかれていたのである。18世紀にはこうしたものの氾濫に対して、啓蒙主義者が眉をひそめていた。印刷物が国の隅々にまで普及していく書籍行商人のシステムそのものには反対しなかった啓蒙主義者も、運ばれた印刷物の内容について異議を唱えたのであった。そうした本能を刺激する娯楽本は、社会の風俗を乱すものであると非難したわけである。

十九世紀における廉価大衆小説の普及

さて19世紀に入ると書籍行商人は、教会や教育関係者あるいは国家当局の監督を受けるようになった。国の検閲官は書籍行商人を疑惑の目で見て、嫌がらせを行ったりしたが、彼らは神出鬼没で得体が知れず、商品を検閲するのも容易ではなかった。それでも怪奇幻想小説や荒唐無稽な冒険小説などは、風俗を乱す反国家的なものとして、厳しく取り締まりを受けた。そして南ドイツの小さな領邦国家では、この商売全体が禁止された。

そのいっぽうで、1800年ごろ以降、国民啓蒙主義的努力つまり義務教育の普及の結果として、読書する大衆が誕生したことは、すでに述べたとおりである。これらの大衆は、教育的なものだけではなくて、娯楽的な内容の書物も欲したのである。そうした要望に応じて、出版社側も大衆的な娯楽小説をどんどん出版するようになった。ところが当時なお地方の小都市や村には、書店がなかった。そこで書籍行商人は、当局の目をかいくぐって、印刷所、出版社、そして読者の間を取り持つ仲介人の役割を果たすようになったのである。読書する人の数が増しただけ、その役割は以前より増えたといえる。と同時に読み物の運搬人は、つねに情報を運搬する機能を持っていた。まだ新聞や雑誌が今日ほど発達していなかったこの時代には、彼らは遠く見知らぬ世界の情報を人々に知らせる使者の役割も担っていたのであった。

読書する労働者の出現

さて時代が下がって1850,60年代になると、読者層はさらに広がって、都市の労働者層も大衆小説の読者の列に加わることになった。同じプロテタリア的社会階層に属する人々の中でも、例えば金持ちの家で働いていた奉公人とか、仕事の少ない冬の時期に都市近郊の農場で働いていた人々は、18世紀末ごろから大衆小説の読者となっていた。しかし大部分の労働者にとって状況が根本的に変わったのは、19世紀の後半の始まりごろなのであった。その原因としては次の三つが考えられる。

① 第一の原因は、産業化の進行と近代官僚制国家体制の成立によってもたらされた初等学校教育の普及と、その結果として生じた読書能力の一般的向上

② 第二の原因は、労働集約的方法によって生じた労働時間の短縮とそれに伴う余暇時間の増大

③ 第三の原因は、資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の努力と工夫である

コルポルタージュ・ロマーン

以上述べたもろもろの要因が重なって、19世紀後半のドイツで、行商人が売りさばく廉価大衆小説が大変な隆盛を見せたわけである。それらは一般にフランス語から借りてきた「コルポルタージュ・ロマーン」という言葉で呼ばれていた。このころになると書籍行商人の足は、地方の町や村だけではなくて、大都会の隅々にまで伸びていたのであった。

その際資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の一つの工夫として、分冊販売方式というものがあった。これは長編の大衆小説を一冊の本にまとめないで、薄い小冊子の形に分冊にして、ごく短い間隔でどんどん発行して読者の手元に届けるというものであった。つまり現在の日本で見られる週刊誌の連載小説のようなもので、一回分の分量が少ないのでだれでも手軽に読めるという利点があった。しかも人々は毎回話の続きを待ち遠しく思った。そして値段も安くし、割賦払い方式も取られた。この分冊の小冊子を携えて、行商人は家々を訪ね歩いたり、酒場や人々の集まる場所に現れては、それらを売りさばいていたのである。その際ちょっとした景品やプレミアムを伴った巧みな宣伝によって購買予約を取り、知らず知らずのうちに売り上げを伸ばしていた。その景品も次第にエスカレートして、美術品の複製写真、時計、安手の装飾品、金属食器セットといったものから、さらに抽選に当たった人には別荘、小型ピアノ、偽装馬車などが贈られたりした。行商人はまた麗々しく書き立てた宣伝パンフレットも配って、別の本への興味をかき立てることも忘れなかった。

こうした出版社側の巧みな戦術に乗って、工場労働者、手工業従業員、下級役人、ボーイ、女中など、いわゆるプロレタリア階層の人々が、薄手の小冊子を手にして、読みふけったわけである。これら小冊子の一冊の値段は安かったものの、シリーズとしては100回を超すものもあったし、発行部数も多かったので、コルポルタージュ・ロマーンを発行した出版社は、総体として大変な利益をあげたのであった。格式ある伝統的な出版社がほとんど注意を向けなかった、新しい読者層(労働者)を含めた大衆的な文学市場が、このようにして19世紀後半のドイツで繁栄を謳歌したわけである。

カール・マイとコルポルタージュ・ロマーン

コルポルタージュ・ロマーンの実態をもう少しく詳しく見るために、ここで先に名前を挙げた大衆小説作家カール・マイ(1842-1912)が、その作家活動の初期にこの種の小説をたくさん書いた時の事情を、その一例として紹介することにしよう。ただしカール・マイはこの方法によって名前を売ってからは、これとは手を切り、広く一般国民を対象とした質の高い冒険小説をどんどん書き進め、ことに晩年には難解で神秘的な内容の作品にも取り組んだことを、初めにお断りしておきたい。

さてカール・マイはその初期にコルポルタージュ・ロマーンの出版社であったミュンヒマイアー社と知り合った。同社は1862年にドレスデンに設立されていたが、1882~1887年のあいだに、マイはペンネームで5編の小説をこのミュンヒマイアー社から出版した。その中の4編はそれぞれ100冊を超す分冊から成り立っていた。それら5編を合計すると実に1万250頁にもなる。これは単純に計算して、1編が2000頁ほどの長編である(一回の分冊は20頁)。なかでも巨大な作品『野ばら』は、世紀末までに合計して50万部が売れた。一般にドイツで1860~1903年の間に、年間500編のコルポルタージュ・ロマーンが出回ったといわれているが、それらの多くは匿名かペンネームで書かれていた。たいていは一冊16~24頁で、それを50回から150回に分けて販売した(値段は一冊20ペニッヒ)。

出版社はその出版を厳密に需要に応じて行い、小説の中身を短縮したり、エピソードを適当に削ったりしたため、内容を著しく損なう場合もあった。そしてそれが作家に相談なく勝手に出版社側の手で行われることもあったという。何しろ作家は出版社側からせかされて、ベルトコンベヤー風に次から次へと書き進めたので、ゆっくり推敲する暇もなかったという。そのことはカール・マイが晩年に書いた自叙伝で明らかにされている。

カール・マイ(書斎風景)

ところで私はこのカール・マイに特別の関係を持っている。その伝記『知られざるドイツの作家カール・マイ』(朝文社、2011年10月17日第一刷発行)も書いているし、彼の主要作品を翻訳したシリーズ作品『カール・マイ冒険物語。オスマン帝国を行く』全一二巻(朝文社)も刊行している。これは第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』(2013年12月初刷り発行)から第12巻『アドリア海へ』(2017年4月初刷り発行)までである。これらはこのブログの私の自己紹介欄に載せてあるので、お読みいただければ幸いである。

私は1970年代前半に西ドイツの放送局に勤めていたが、その時初めてカール・マイの存在を知った。なにしろ当時の西ドイツの新聞雑誌やテレビ、ラジオで、やたらとこの作家のことが取り上げられていたからだ。それらを通じて日本では知られていないこの作家のことに興味を抱くようになり、勤め先のケルン市の書店へ行って、その全集74巻を買い込んだのだ。そして主な作品を夢中になって読んでいった。その結果、これを日本語に翻訳して刊行したいと思うようになった。そのため南ドイツのバンベルクにあったカール・マイ出版社まで出かけて行って、社長のシュミット氏に会って、その旨伝えた。その後帰国してから、さっそく翻訳をはじめ、刊行してくれそうな出版社を捜した。幸い東京のエンデルレ書店が引き受けてくれて『カール・マイ冒険物語1~砂漠への挑戦~』(エンデルレ書店、1997年10月)から『カール・マイ冒険物語4~秘境クルディスタン~』(エンデルレ書店、1981年6月)まで全4巻が刊行された。そしてかなりの歳月を置いて、前述の朝文社から全12巻のシリーズを刊行することができた次第である。

十九世紀末の「俗悪文学」取り締まり

このように大衆向けのコルポルタージュ・ロマーンは、内容的には問題をはらみながらも、経営的には大成功を収めていったわけである。しかし19世紀も末になると、これに対する反動の動きが現れた。皇帝ヴィルヘルム二世が直接統治を始めた1890年代に始まり、第一次大戦の勃発(1914年)ごろまで続く「俗悪文学の取り締まり」が、それであった。同皇帝は就任早々、『売春婦のひも』に関する訴訟事件と関連して、風俗を乱す不道徳な書物の普及販売に対して刑罰の強化を要求した。しかしこの頃になるとこの「俗悪文学」とさげすまれた出版産業に、出版社、行商人、作家、印刷所、製紙工場など多くの人々の生活がかかわるようになっていた。そのため取り締まりといっても、そう簡単にできるものではなかった。

とはいえ俗悪文学に関する議論は世紀転換期を越えて、さらに続けられた。1905年にハンブルクの教師ヴォルガストは『われらの青少年文学のみじめな状況』という一文を発表したし、1909年図書館司書のシュルツェは『俗悪文学、その本質、その影響、それとの闘い』というものを公表した。その他文筆家やジャーナリストで、この俗悪文学攻撃に加わった人も少なくなかった。しかし反俗悪文学キャンペーンの経済的側面に目を向けてみると、それはまじめな古い出版社と新興の通俗文学出版社との間の偽装された闘争、つまり販売市場を巡る両者の間の争いといった意味合いがあったことにも注目しておく必要があろう。

実は「俗悪」という言葉は極めてあいまいな概念なのであった。いわゆる「俗悪文学」の反対者たちは、この概念を帝政時代の排外的で軍国主義的な書物には、けっしてあてはめないのであった。そしてこれら「俗悪文学と闘う闘志たち」の多くは、1914年に第一次大戦が勃発したとき、積極的な戦争支持者となったのである。

体制側から「俗悪」との烙印を押されたコルポルタージュ・ロマーンは、社会の広範な底辺を形成する人々、つまり庶民に向けて書かれた娯楽小説ではあったが、同時にそれは現状に飽き足らず、何かを求める体制批判的な性格をもひめていたのであった。こうした意味合いから読めば、次に引用する哲学者エルンスト・ブロッホの言葉もよく理解できるであろう。「コルポルタージュは常に夢見ているが、それは結局革命とその背後にある栄光を夢見ているのだ。コルポルタージュ・ロマーンは、キッチュ・リテラトゥーア(まがいもの文学)とは反対に、つねに反抗的な昼の夢の性格をそなえており、数多くの願望充足のファンタジーをもたらしている。それゆえに官憲は、無意識のうちに、その報復措置をそれらの先導的な内容にも向けたのであろう」(「この時代の遺産」、1962年。177頁)

第四章 教養娯楽雑誌

1850年以前

19世紀に入って広くドイツの一般庶民の間に普及したものに、広い意味での雑誌があった。18世紀の啓蒙主義の時代に<道徳週刊誌>なるものが普及したことはすでに述べたが、一般にドイツの雑誌文化が飛躍的な発展を示したのは、1848/49年の革命以後のことであった。それ以前の王政復古期には、言論出版活動に対して取り締まりが厳しかったため、出版物の内容も政治的なものから離れて、娯楽及び科学的な啓蒙を目指したものへと傾いていた。

例えば1833年にライプツィヒで、週刊の「ペニヒ雑誌」が創刊されたが、これは自然科学、技術などポピュラーサイエンス的記事と娯楽的記事そして宗教的な素材を織り交ぜた内容のものであった。厚さはわずか8頁で、言葉と絵を巧みに織り込んで誰でも理解できるようになっていた。そのためか創刊時ですでに発行部数は3万5千部だったが、やがて10万部にまで増加し、そのうち予約購読者は6万人を数えた。

そのいっぽうで政治的な内容の雑誌の方は、体制側からいろいろと抑圧を受けた。王政復古期の1846年に、エルンスト・カイルという出版者が月刊誌『灯台』を創刊した。しかしその政治的な内容のために、この雑誌はたえず検閲や警察の捜査を受けた。そのため彼は出版社の場所を、ハレ、マグデブルク、デッサウ、ブレーメン、ブラウンシュヴァイク、ライプツィヒといった具合に転々と移さざるを得なかったと言う。やがて1848年3月に革命がおこり、報道の自由がもたらされるに及び、一時的に政党的、宣伝的刊行物が隆盛を迎えたが、まもなく革命が失敗すると、「報道の自由」は短い間奏曲に過ぎないものとなった。

1850年以後の教養娯楽雑誌の隆盛

1850年以降になると、鉄道などの交通手段が発達して出版物の輸送が楽になった。そして法的な規制が以前に比べて弛む中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになった。それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。なかでももっとも有名であったのが『あずまや』であった。この雑誌は先のエルンスト・カイルが1853年に創刊し、以後1943年まで続いた。いっぽう同じカイルが発行していた政治的な雑誌『灯台』は、革命後の反動的風潮の中で、1851年に発行停止処分を受けた。しかし彼は検閲に反対し、報道の自由や立憲体制を求める闘いを決してあきらめなかった。そしてF・シュトレから『村の床屋』という絵入り雑誌を引き継いで、発行を続けた。この雑誌はその題名とは裏腹に政治的な主張が盛り込まれていたのだ。それはともかくこの雑誌は2万部の発行部数を得て、まずまずだった。そのいっぽう先の『灯台』の件で訴訟が行われ、カイルは9か月の拘留を受けることになった。

拘留期間が終わって出てきたとき、カイルはそれまでの急進的な考え方を改めて、まずは均質で道徳的な社会の建設を目指すようになった。こうしてカイルは『村の床屋』をやめて、『あずまや』の発行へと方向転換したわけである。この雑誌の題名は、革命の嵐の後、うるさい争いごとは避けて、静かに自分の家にある『あずまや』に引きこもって過ごしたいという市民の願望に沿うものであった。ともかくこの雑誌はよく読まれ、1870年代にはその発行部数は一時、週刊40万部にも達した。その読者層は広く分布していたが、企業経営者や商人が全体の20%を占めていた。

家庭向け雑誌『あずまや』の表紙

科学と小説

これら家庭向けの教養娯楽雑誌は毎週発行され、原則として男女の別なくあらゆる階層の人々に向けられていた。そしてそこにはあらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに現れたポピュラーサイエンスの記事は、誰にでも理解できるものであった。こうして19世紀のこの種の雑誌は、自然科学的、技術的解説に対する一般読者の願望を満たす教科書の役割をも果たそうとしていたのである。

いっぽうそこに掲載された連載小説は、宣伝価値のある有名な作家たちに、出版社が特に依頼して書いてもらったものであった。その際これらの作家にとって、この種の家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。しかも作家はそこから経済的恩恵も得ていたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、P・ラーベそしてK・マイなど当時の人気作家たちも、まずはこうした方法でその作品を発表していたのだ。

多種多様な雑誌

これら家庭向け雑誌の大きな部分を占めていたのが、キリスト教系の雑誌であった。例えば1858年創刊の『海山を越えて』とか、1864年創刊の『わが家』などがその代表といえる。いっぽうフランスのレビューのスタイルで1856年から『ヴェスターマンス・モナーツヘフト』が発刊されるようになったが、これには哲学者のディルタイも協力していた。広範な文化雑誌として百科全書的な目標を追求したこの月刊誌は、そのやや高踏的な性格のために、発行部数は1万2千部にとどまった。とはいえ忠実な固定読者をつかんでいたためか、ごく最近の1985年までこの雑誌は発行が続けられていたのである。ちなみに私も1970年代半ばの西ドイツ滞在中、この雑誌の存在を知り、その終わりまで定期購読していたのだ。その内容に満足していただけに、その廃刊は残念なことであった。

いっぽう諷刺的な内容を特徴としていた『フリーゲンデ・ブレッター』(1845-1944)は毎週発行されていた。この週刊誌はその素晴らしい木口(こぐち)木版画で知られていたが、しばしばそれは文章を凌駕したりしていた。この雑誌への寄稿者としては、みずから絵をかき文章を書いたヴィルヘルム・ブッシュや冒険小説家のF・ゲルステッカーなどがいた。また1848年にベルリンで創刊された『クラデラダッチュ』は、諷刺的でリベラルな内容に重点が置かれていた。後の『ジンプリシムス』(1896-1944)と同様に、これは皇帝ヴィルヘルム二世が支配していた1890年代から第一次大戦時(1914-18)までの体制に対する数多くのカリカチュアや、偽装した社会批判によって成り立っていた。これらの雑誌は先のコルポルタージュ・ロマーンと同じように、はじめは行商人によって配られていたが、のちには郵便によって配達されるようになった。

また市民階層の子弟に向けられた数多くの青少年向け雑誌も存在した。そうした中に1886年創刊の青少年向け絵入り雑誌『よき仲間』があった。この雑誌に、前述した大衆作家のカール・マイは、全部で8編の青少年向け作品を発表している。これらは、先のコルポルタージュ・ロマーンとは違って、じっくり時間をかけ力を入れて書かれた作品であった。いっぽう宗教的色彩のある雑誌には、このころにはもう読者もあまり見向きをしなくなっていたが、週刊のカトリック系雑誌『ドイツ人の家宝』だけは例外だった。この雑誌にもマイは数多くの作品を寄稿している。

ところでドイツでは昔から暦の形をとって、そこにいろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物が、とりわけ地方の村や町に出回っていた。その一つに人々の広範なマリア信仰をその基本に置いていた「マリア・カレンダー」というものがあった。これが19世紀後半になってもなお勢いを保っていたのだ。18世紀の啓蒙主義者たちは、これら伝統的な国民カレンダーの内容を徐々に改善していくことに成功した。その結果暦のほかにいろいろと付録が付くようになっていった。それらは読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話、そして冒険物語などであった。マリア・カレンダーは19世紀後半には数種類発行されていた。なかでも南ドイツのレーゲンスブルクのカトリック系出版社プステット社から1866年に創刊された『レーゲンスブルガー・マリーエンカレンダー』は、急速に発行を伸ばして40万部にも達している。

しかし全体の流れから見ると、19世紀後半に隆盛を極めた家庭向けの教養娯楽雑誌も、1900年ごろになると勢いがかなり衰え、代わって絵入り雑誌や新聞の文芸欄などが人気を呼ぶようになった。とはいえ雑誌そのものの発行は20世紀に入ってからも相変わらず盛んで、1880-1918年の間に,新刊の雑誌が洪水のように市場に流れ出ていたのである。

ドイツ近代出版史(3)~1825-1887/88~

第一章 著作権制度の確立と<書籍商組合>の活動

周辺諸国の動き

著作権・版権に関して決定的な動きは、ドイツにおいては、19世紀に入ってから起こった。たしかに北ドイツ及び中部ドイツの大部分では、18世紀の末ごろにはもう翻刻出版は禁止されていた(プロイセン王国では1794年に、ザクセン王国では1773年に、こうした法律が制定された)。しかしドイツ全体ではそうした法律は制定されていなかった。いっぽう周辺諸国の動きを見ると、まずイギリスではアン女王時代の1709年に、著作者及び出版社に対する保護期間の制度が導入されていた。アメリカでは1781年のコネティカット事件の後、著作連邦法が成立した。ここではイギリスの判例に従って、保護期間が28年と定められた。フランスでは1777年に「永世版権」の制度が定められた。次いで1793年には著作者の複写権は死ぬまで、その相続人に対しては著作者の死後10年までと定められた。そしてオランダでも同様の動きがみられたため、ドイツの著作者たちも、こうした制度の導入を待ち望んでいた。これらの声を代表するものともなっていたのが、フリードリヒ・ペルテスが1816年に公表した『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書であった。これはドイツ出版業界の実践的な基本文書ともいうべきもので、社会における出版業界の義務について述べたものであるが、この中でペルテスは出版社の版権が保護されるべきことを訴えているわけである。

ペルテスの著作『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』

翻刻出版の禁止

ドイツにおいてこの面でも先行していたのは、北ドイツのプロイセン王国であった。1794年には、書籍出版に当たっての諸権利の保護を決めた法律が定められたが、これにはベルリンの大書籍商フリードリヒ・ニコライの働きかけが大きかった。この法律の中で、翻刻出版の厳禁がうたわれ、これに従わない場合には、原出版社の申し出のうえで、翻刻本は没収または販売不能もしくは原出版社への引き渡しが定められていた。
またこの法律には著作者と出版社との関係についても、出版契約をはじめ詳細に規定されており、著作者の意見をきくことなしに翻刻出版をしてはならないことも規定されていた。ただこの権利は相続者には及ばないものとされ、どの出版社にも翻刻出版に対する版権が存在しないときは、誰でも翻刻出版できるものとした。ただしこの場合、新しい出版社は著作者の一親等の家族と、翻刻出版についての取り決めを結ぶべきことが定められていた。ただ著作者と出版社の出版契約の有効期限については、ここには何も記されていない。

ところで1815年のウィーン会議の結果生まれた「ドイツ連邦」には、オーストリア、プロイセンをはじめ大中小39の領邦国家が加盟し、全ドイツを代表する組織になっていた。そしてその代表議決機関として「ドイツ連邦議会」が設立されたが、事実上これは大国オーストリアによって牛耳られていた。しかもオーストリアは南ドイツの諸地域と同様に、翻刻出版を公然と支援していたわけである。そのため1815年連邦規約第十八条d」によって、「出版報道の自由並びに翻刻出版禁止」に関する措置が取られる見通しがいったんは出てきたものの、連邦議会はその後この措置を引き延ばしてしまった。そこでプロイセン王国は、連邦議会の枠外で事を進めることに方針を変更した。こうしてプロイセンは1827年から29年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に、個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦全領域における翻刻出版の禁止措置に、しぶしぶ踏み切ったのである。

著作権の保護

このようにして翻刻出版の禁止措置はドイツ全土に広まったのであるが、次の段階として出版社の持つ版権保護ではなくて、書物の著作者が持つ著作権の保護の問題が浮かび上がってきた。この点についてドイツ書籍商組合は、1834年に、『ドイツ連邦加盟諸国における著作者の法的地位の確立に関する提言』と題する覚書を公表し、その中で著作権保護期間を著作者の死後30年間と定めた。しかし連邦議会はこれを無視する態度に出たため、再びプロイセン王国は独自の歩みを見せ、1837年に法律を制定した。これは『学問芸術上の著作物の所有権保護のために、翻刻出版並びに複製を禁止する法律』というもので、ここで初めて著作者の権利保護が明白に規定されたのである。またその際著作権保護期間が30年と定められたのであった。そしてドイツ連邦加盟のいくつかの国もこの法律を受け入れた。

いっぽう連邦議会はこうしたプロイセンのイニシアティブに刺激を受けながら、しぶしぶ1837年11月9日に著作権保護を取り決めたが、そこではプロイセンのものよりも弱い内容となっていた。それは保護期間を10年と定め、法律実施の日からさかのぼって20年間に発行された作品に対して有効としたのである。

次いでヘルダー、シラー、ヴィーラント、ジャン・パウル、ゲーテなど1838年以前に死亡していた作家の相続人及び出版社に対して、その「国民的な業績」ゆえに、20年間の連邦特権というものを認めた。しかしゲーテはすでに1825年に、自分の全作品に対する特権を認めるよう連邦議会に申請していた。この申請に対して、ゲーテは、この件に関しては個々の領邦国家が担当しているとの返事を受け取ったという。

それはさておき、ドイツ書籍商組合は著作権保護のさらなる推進を目指して、1841年に新たな覚書を提出したが、これを受けてザクセン王国では、30年の保護期間が導入された。そして1845年6月19日になってようやく連邦議会は、著作者の死後30年という保護期間をドイツ連邦の全領域に広げることを決定したのであった。

ここでは1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとされた。この日付は後に、ドイツの古典作家の作品の著作権保護期間に関連して注目されることになる。つまりこの日以後、これら古典作家の作品は著作権を気にすることなく、自由に大量出版できることになるのだ。その意味で極めて重要な日付になるのであるが、これについては後に詳しく述べることにする。

著作権保護の国際的動向

ここで著作権制度に関する国際的動向について一言ふれておこう。まずいくつかの国の間で二国間協定が結ばれた。例えばスイスと北ドイツ連邦の間では1869年にこの協定が結ばれている。そしてその後1886年になって、「文芸作品及び芸術作品の保護に関するベルヌの取り決め」、いわゆるベルヌ条約が発効した。この条約に加わったのは、ベルギー、フランス、イギリス、ハイチ、リベリア、スイス、スペイン、チュニスそしてドイツの各国であった。これを見るとベルヌ条約の原参加国の数が少ないことが分かるが、それには各国の出版業界のそれぞれの利害や思惑がからんでいたようである。そのためか北欧のノルウエーは1896年、デンマークは1903年、スエーデンは1904年にそれぞれ加盟している。そしてこの条約の中身は、1908年にベルリンで、1928年にローマで、1948年にブリュッセルで、そして1967年にストックホルムでそれぞれ修正されている。

王政復古期の検閲

それではここで1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」の活動に、眼を向けることにしよう。この組織が最初に取り組んだ問題は、以上述べてきた版権・著作権制度の確立と並んで、国家による検閲を廃止させることであった。ウイーン会議後のドイツは、オーストリア宰相メッテルニヒの指導の下で、いわゆる王政復古期にあった。ドイツ連邦傘下の各領邦国家では、自由が抑圧され、書籍や印刷物に対する検閲が行われていた。
1819年、ドイツ連邦はカールスバートの決議によって、詳細な検閲規定を定めた。その骨子を説明すると、検閲には、事前検閲と事後検閲の二種類あった。事前検閲は320頁以下の印刷物に適用され、これはドイツ連邦加盟各国当局の管轄とされた。いっぽう事後検閲は321頁以上の大部な書物に適用され、これはドイツ連邦の事務当局が直接担当した。つまり加盟諸国当局の出版許可がおりて出版された本であっても、この事後検閲によって発禁処分にすることができたのである。

ただ事前検閲については、加盟各国によってその検閲の厳しさにかなりの相違がみられた。最も厳しいオーストリアから、かなり寛容なザクセン・アルテンブルクまで、その間に厳しさに様々な差異がみられた。その際とりわけ厳しい検閲の対象にされたのが、当時進歩的で過激とされていた「若きドイツ派」に属する作家の作品であった。この派の作家としては、ハイネ、グッツコウ、ラウベ、ヴィーンバルク、ムントなどの名前があげられていた。これらの作家の作品を出版した出版社、印刷業者、販売者に対しては、刑法および警察法を適用して、作品の普及を抑えようとしたのである。

「若きドイツ派」の作品を出版していたのは、ハンブルクの出版者ユリウス・カンペ(1792-1867)であった。彼はこうした検閲と終始闘い続けた代表的な出版人であるが、検閲の目を潜り抜けるために、印刷、引き渡しその他経営一般に複雑なシステムを取り入れていた。たとえば検閲の厳しくない国の印刷所にわざわざ頼んだり、事後検閲を避けるために本の厚さを320頁以下に抑えたりといった具合である。
ただ自分の作品が短縮されるのを嫌ったハインリヒ・ハイネなどは、この点で出版社側と争ったりした。そして両者は互いに新聞紙上に公開書簡を発表しあったりした。しかしこれも深刻な争いというのではなく、むしろ宣伝効果に対する暗黙の了解が、両者の間にはあったようである。この公開書簡の発表によって、検閲の実施という事実を一般に知らせることができたし、売り上げの方も促進されたのである。ハイネは自分の作品『ドイツ、冬物語』の序文(1844年9月17日付け)の中で、次のように書いている。「自分の出版社は出版を可能にするために、詩の内容を検閲する役人に対して細心の注意をもって接しなければならなかった。それでも数度にわたって、修正・変更や削除を余儀なくされたのである。」

検閲の廃止

こうした検閲を廃止させるために、書籍商組合の代表は1842年にザクセン政府当局に赴いて、ドイツ連邦が検閲の規定を大幅に緩めるよう請願した。その最終目標は、検閲の全くない完全な言論報道の自由の実現であった。そうした書籍商組合の度重なる努力は、ようやく1848年の三月革命のときになってその目標を達成することになった。ハレ新聞は1848年3月20日付の紙上で、その喜びを次のような書き出しの記事で読者に伝えた。「出版報道は自由になった。今日初めてわが新聞は検閲なしに発行されることになった。」

しかし政府当局は検閲廃止の代わりに、個々の出版物の内容に対して、印刷業者、出版社、および書籍販売人が責任を負うことを定めた。そしてその具体的措置として、出版報道業務の開始に当たって、検査、許可及び保証金の制度が導入された。とりわけ言論出版関係業種の営業活動に加えられたこうした制限措置は、その後1869年になって北ドイツ連邦加盟国領域で撤廃され、いわゆる営業の自由が導入された。そしてこの営業の自由は1872年になって、その前年に誕生したドイツ帝国の全土に拡大されたのであった。

業界専門誌の発行

ところでドイツ書籍商組合は、その設立以前から書籍取引業界の専門誌を発行する必要性を感じていたようだ。そして設立後もその発行について議論が重ねられてきたが、なかなか実現に至らなかった。そうこうしているうちに全国組織であるドイツ書籍商取引所組合とは別の「ライプツィヒ書籍商組合」が、1833年に『ドイツ書籍取引所会報』の発行を決め、翌1834年1月3日にその創刊号が世に出た。この創刊号の序文の中で、ドイツ出版業界の大立者フリードリヒ・ペルテスは、ドイツの書籍取引業界が直面している情勢についてふれ、書籍市場が本の洪水であふれていることを嘆いている。

『書籍取引所会報』創刊号の表紙

それはともかく、この会報は翌年の1835年には、ドイツ書籍商取引所組合の所有するところとなった。そして初代編集長O・A・シュルツは1839年に、『ドイツ書籍商人名録』を発行した。しかしこの会報の編集担当者は当初頻繁に入れ替わっていた。これはこの雑誌に対する外部からの規制が強く、その圧力を受けて組合内部で争いが絶えなかったことによるものとみられている。
それでも『ドイツ書籍取引所会報』は続けて発行され、やがて出版業経営上非常に有益な「新刊書目録」が掲載されることになった。この仕事はヒンリックス書店が担当した。これは当初は週に一回、1842年からは週に二回、そして1867年からは毎日掲載されるようになった。ちなみにこの年からは会報そのものも毎日発行されることになった。

書籍商組合会館の建設

この会報の発行と並んで、ドイツ書籍商組合にとって独自の会館を建設する必要性が生じてきた。会報の発行が遅れていたのも、一つには会館の設計と建設に、関係者の関心と精力が、まず注がれていたことによるといえるぐらいなのだ。
それはともかく組織ができて11年後の1836年には、ライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」の会館が落成した。これは写真に見るようにとても堂々たる立派な建物であった。

書籍商組合会館(1836年落成)

いっぽう出版人の養成所を作る必要性についても、ペルテスは1833年に提言していたが、この構想については書籍取引所会報でも1840年に取り上げられ、真剣に論じられた。そして十余年後の1852年になって、フリードリヒ・フライシャーが音頭を取って、「ライプツィヒ書籍商組合」によって実現されることになった。つまりドイツの出版の中心地に、出版人の後継者を養成するための教育施設が誕生したのであった。

書籍出版史の発行

19世紀も後半に入ると「書籍商組合」は、ドイツの書籍取引に関する歴史研究と歴史叙述に力を入れて取り組むようになった。そして1876年、出版主エドゥアルト・ブロックハウスの音頭取りで、出版史編纂のための歴史委員会が結成された。そしてその二年後の1878年から『ドイツ出版販売史記録集』が発行され始め、これは1898年までに20巻に達した。ついでに言えば第二次大戦後、フランクフルトの「書籍商組合」によって、『書籍史記録集』という題名のもとに、この仕事は受け継がれている。

いっぽうドイツの出版史の叙述の方に目を向けると、フリードリヒ・カップとヨハン・ゴルトフリードリヒという二人の学者によって、『ドイツ書籍出版史』という四巻にのぼる大著が書かれた。これは印刷術の発明から1889年までを扱ったもので、その第一巻は1886年に、ドイツ書籍商組合出版局から発行された。内容的にも非常に詳しく、今日に至るまでドイツ書籍出版史の古典といわれ、多くの研究者から今なお利用されているものである。第四巻が発行されたのは1913年であったが、その後の時代についての叙述が目下準備されている。

F・カップとJ・ゴルトフリードリヒの肖像

いずれにしてもドイツ書籍商組合は、ドイツの書籍商の単なる業界的な利益集団という枠をはるかに超えて、ドイツの出版文化を総合的に育成していく機関へと成長したのである。

第二章 出版界の多様な展開

高速印刷機の発明

印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明以来、細かな改良は加えられてきたとはいえ、基本的には以後350年間、ほぼ変わりがなかったといえる。ところが18世紀後半に始まった産業革命の影響のもとに、印刷の世界にも画期的な技術革新が訪れた。1811年、ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒが蒸気式高速印刷機を発明したが、これによって出版の世界は決定的な進歩をとげることになった。つまりこの新発明によって従来の手動印刷の10倍の印刷能力が生まれたわけで、ここに印刷物の大量生産が飛躍的に促進されたのである。

ロンドンの「ザ・タイムズ」社の社長は、このドイツ人の発明を「印刷術の発明以来書籍印刷の世界で見られた最大の改良」と呼んだ。そして新聞「ザ・タイムズ」は、1814年11月29日に、この高速印刷機を用いて初めて印刷されたのであった。ドイツ人のケーニヒが行った発明が外国で最初に認められたという事は、時代の兆候を示すものと言えよう。その後この新発明はドイツでも採用されたが、これを最初に用いたのは、大出版経営者ヨハン・フリードリヒ・コッタ(1764ー1832)であった。彼はこの高速印刷機を使って、自分が発行していた新聞『アルゲマイネ・ツァイトゥング』を印刷したわけである。

15世紀から19世紀までの印刷所の変遷

初期資本家コッタ

このコッタこそは、ドイツの出版界の新時代を代表する人物だったのだ。彼は、1659年創立の古い出版社を、1787年、23歳の時父から受け継いだが、当時朽ちかけていた同出版社を、その数年後にはヨーロッパでも有数のものに再建し直したのであった。コッタ出版社は、はじめ南西ドイツの小さな大学町テュービンゲンにあったが、1811年にはその近くの中都会シュトゥットガルトに移った。そして優れた経営手腕を示したために、彼の出版社には当時有力な著作家たちが大勢集まってきた。それはゲーテをはじめとする古典主義の作家たちであったが、そのため出版社主コッタの名前は、やがてドイツの文芸思潮の一つであるドイツ古典主義と深く結びつくことになったのである。

J・F・コッタの肖像

この伝でいくと、出版者G・A・ライマー(1776-1842)とロマン主義、時代は下るが出版者S・フィシャーと自然主義及びリアリズム、そして出版者K・ヴォルフと表現主義の文学を、それぞれ結びつけることができよう。
それはさておき、コッタは大出版経営者として、文学作品の出版だけではなく、先に挙げた新聞の発行のほか、さまざまな出版部門に触手を伸ばした。
そのためドイツ出版界全体の健全な発展に心を砕いていた前述のペルテスは、コッタが何にでも手を出すことに危惧の念を明らかにしたぐらいである。ペルテスは1816年、ドイツの出版界の現状を知り、あわせてお互いの協力態勢を作り上げる可能性を探るためにドイツ全土を視察旅行したが、その時コッタについて次のように書いているのだ。
「その個人的重要性、その粘り強さ、その富、そしてその政治的影響力のゆえに、西南ドイツの出版界はただ一人の人物の手に握られており、そのため文学的判断の公正さ、交流の活力、そして販売の効果などが損なわれる可能性もあるのだ」

ペルテスはこの時、独占態勢へ突き進む初期資本家としての姿をコッタの中に見ていたわけである。彼の出版社からは、数十年間にわたってドイツで最も重要な政治新聞の位置を占めてきた『アルゲマイネ・ツァイトゥング』や、同じく数十年間にわたって指導的立場にあった文芸雑誌『教養層のためのモルゲンブラット』が発行されていた。さらにコッタは別の経営部門にも手を出したり、政治的な活動もしたりした。こうしてコッタ出版社は、19世紀初めから半ば過ぎまで繁栄を謳歌したのであるが、1867年に古典作家の著作権消滅に伴う大量出版現象の出現によって、その独占態勢は崩れたのであった。しかしコッタ社は、その後アドルフ・クレーナーによって買い取られ、以後別の発展を見せることになる。

関税同盟と鉄道建設

19世紀の前半、ドイツの出版界をその流通面において近代化するのに大きく貢献したのが、関税同盟の結成と鉄道網の普及であった。1834年プロイセンは、南ドイツの関税同盟と中部ドイツの通商同盟の影響のもとに、全国的なドイツ関税同盟を結成した。これによってドイツでは中小領邦国家の煩わしい関税障壁が取り払われ、経済的統合への第一歩が記されたのであった。この関税同盟には、南の大国オーストリアは加盟せず、また北ドイツのハンザ諸都市メクレンブルクやハノーファーは、やや遅れて加盟した。それでもドイツ関税同盟は、決済手段の簡素化をはじめ総体として、ドイツの書籍取引の近代化に大変役立ったのである。

いっぽう鉄道建設によってもたらされる利益についても、ドイツの出版界は早くから認識していた。ドイツの鉄道網は、1835年南ドイツのニュルンベルク=ヒュルト間を皮切りに、1837年ドレスデン=ライプツィヒ間、1838年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル間、といった風にどんどん広がっていった。

これに関連してアウグスト・プリンツは、その『ドイツ書籍販売史のための素材』第二部(1855年発行)の中で次のように書いている。「昔は必要な場合には倉庫を持たねばならなかった。というのは注文してから二・三週間後になってようやく手に入るという始末だったから、いつでも取り出せ、また高い運送料の節約のために、あらかじめ沢山の在庫を用意しておく必要があったのだ。ところが今では事情は変わった。大手の書店でも教科書や古典図書は別として、ほとんど倉庫を持っていない。その他の本は残本とするか、出版社がそれを許さない場合には返本したり、春の見本市後に新たに注文しなおしている。鉄道によって通常の貨物は、三,四日のうちにドイツのどんな地域にも運搬されるのだから、時間の節約には計り知れないものがある。」

このように鉄道の普及は書籍流通面の迅速化と経費節減に役だったのであるが、同時に販売領域の拡大によって独占の危険性を減らす効果も持っていたのである。

百科事典の発行

いっぽう18世紀末に起こったいわゆる<読書革命>によって文学市場が成立し、読書層の拡大も行われたわけである。こうした読書をする教養市民層の一般的要請にこたえるようにして、19世紀前半に百科事典の出版が相次いで行われた。最初の本格的な百科事典は、1809年にF・A・ブロックハウス(1772-1823)によって発行された。ブロックハウス百科事典といえば、今日のドイツにおいてもなお発行が続けられている百科事典の古典であるが、もともとは19世紀初頭の啓蒙主義思潮の産物なのであった。次いで1824年にはピーラー、1839年にはマイヤーそして1853年にヘルダーといった具合に、様々な種類の百科事典がドイツで発行されていった。

F・A・ブロックハウスの肖像

ちなみに私は個人的に百科事典が大好きで、昔から平凡社の世界大百科事典などを好んで利用していた。そして1970年代にはその全巻を買って、自宅の本棚に入れて、何かと活用していた。またドイツ語のブロックハウス百科事典とマイヤー百科事典は、1990年代に買い揃えて、研究用に活用してきた。とはいえ2000年代に入ってインターネットが普及し、私も遅ればせながらパソコンを使うようになり、ウキペディアをこれらの紙の百科事典の代わりに利用するようになった。もちろん古いことを知りたいと思った時には、その後も従来の紙の百科事典も利用している。

さてドイツの百科事典の先鞭をつけた出版者F・A・ブロックハウスは、出版者としては異色の経歴を持つ人物であった。彼は初めイギリス相手の織物商人であったが、ナポレオンの大陸封鎖令によってその商売がうまくいかなくなり、1805年に出版業に鞍替えしたのであった。そして商売の場所もアムステルダムからドイツのアルテンブルクを経て、出版業のメッカ、ライプツィヒに移し替えた。ブロックハウスは機を見るに敏な商売人の才能を発揮して、自分の出版社を大きく伸ばしていった。
そして1813年10月、反ナポレオン解放戦争の時、大きな好機が訪れた。この時反ナポレオンのヨーロッパ同盟軍(これにはプロイセン、オーストリアをはじめとするドイツ諸国も参加した)の大本営が一時、アルテンブルクに置かれた。ブロックハウスはこの機をつかんで同盟軍の司令官に拝謁し、「同盟国側からすでに出されたか、もしくはこれから出されるニュースや公式の情報を、印刷物を通じて人々に知らせ、さらに定期刊行物を通じて世に伝える」ことへの許可を獲得したのである。こうしてブロックハウスが<ジャーナル>と名付けた『ドイチェ・ブレッター』の創刊号が発行された。そしてその数日後には、ライプツィヒ近郊で同盟軍がナポレオン軍を撃破するという大事件が起こり、そのことを伝えた号外によって『ドイチェ・ブレッター』は一躍有名となり、発行部数も4000部となった。この成功によってブロックハウス社は、A・W・シュレーゲル、T・ケルナー、F・リュッケルト、M・v・シェンケンドルフといった当時有名だった数多くの作家を獲得することができたのだ。こうしてブロックハウスは出版社の経営基盤を固めていったわけである。

書籍販売業者の増大

ところで19世紀初頭には、ドイツには書籍販売業者の数は、あわせて500軒ほどしかなかった。そのうちの大部分は人口の多い都会(その10%がライプツィヒ)に集まっていた。当時読者が書物を読むためには、書店からの購入のほかに、行商人による訪問販売や読書サロン、貸出文庫の利用など、いろいろな手段方法があったことは、すでに述べたとおりである。書籍販売業というものは、一定以上の人口、人々の知的水準の高さ、そして業務許可を受けやすい条件などがそろっている土地でだけ、やっていけたのだ。さらに1848年の三月革命以前は、地域的な法律によって、書籍販売業に対する営業許可は規制を受けていたのである。そのため19世紀の前半では、書籍販売店の網の目はドイツ全国に、ごくゆっくりしたテンポでしか広がっていかなかった。それでも1816~1830年の間に、新たに300軒が加わり、「書籍商組合」が発表した数字によれば、1834年には859軒を数えている。

1830年ごろの書店の風景

そして19世紀の中ごろには後進的なエルベ川東部の地域を含めて、ドイツ全土には人口二万人につき一軒の割合で、書籍販売業者がいた勘定になる。そしてその後の鉄道の普及、郵便網の拡充、並びに1869年の「営業の自由」の導入以後、書籍販売業者の網の目はかなりの勢いで細かくなっていったのである。

第10表 ドイツにおける書籍販売業者数の変遷

第10表がそうした発展の様子を示  している。1870年代から80年代にかけてのいわゆる「創業者時代」に、書籍業者の数が5年で約千軒づつ増えているのは、とりわけ注目されるところである。こうした書籍業者数の急増に対して、従来から存在していた古手の書籍業者は、当然のことながら苦々しい思いをしていた。1850年ごろまでに既に存在していた書籍販売者や出版社は、たいてい印刷業から発展したものであった。
しかしそれより後の出版経営者の多くは、その経歴を書籍業の見習いから始め、次第に出版社主へと上昇していったのである。そして書籍業者、読者、及び著作者の間に見られた親密な関係によって特徴づけられていたゲーテ時代の出版の世界(19世紀前半)の独特な雰囲気は、1848年以後の書籍生産の増大によって、都市化、機械化、人口増大といった大きな流れの中で、急速に失われていったのであった。

こうした変化は、数多くの中小出版社や古本業者を不安にさせた。従来は出版業というものは、ほんの少人数でもできたもので、1850年ごろまではまだ出版者は自分以外の労働力として数人の手伝いがいれば十分なのであった。しかし1860年代に入ると、書籍業者の多くは新しい状況へと適応するために、その経営を根本から変革しなければならなかったのだ。書物の生産(出版)と配給(販売)は、以後どんどんと分化していく傾向が見られた。
たとえばシュトゥットガルトの老舗の出版販売業者メッツラーの場合は、1858年に、純粋な出版業者となったが、この時印刷部門も切り離された。また古く、特定の地域に限定されていた出版社は、近代的な専門企業へと脱皮が迫られた。というのは1800~1850年の間に、書物の生産は著しく増大し、販売業者や出版社は、とても全体を概観することなどできなくなっていたからである。

ちなみにドイツにおける新刊書の年間出版点数は、1800年に3000点であったものが、1834年には一万4000点に増えていた。このため著名な出版社でも、それぞれ特色ある専門分野をもって出版に当たるようになっていたわけである。例えばユストゥス・ペルテス社はもっぱら歴史や神学に、ヴァイトマン社は古典文献学に、そしてフイーヴェーク社は自然科学に、といった具合に。そして鉄道網の発達に見合ってベーデカー社は旅行案内書の専門店となったのである。ちなみに私も古本の赤い表紙のベーデカーの旅行案内書(ドイツ語で書かれた)を、神田の古本屋で見つけて、いまだに大切に持っている。
前述したコッタ社のようないくつかの大出版社だけが、精神科学ないし文学全般に及ぶ出版を手掛けることができたのである。

書籍流通の合理化

ここで書籍流通面における具体的な改善策や合理化策に、眼を向けてみよう。19世紀の前半、本を買いたい人は書籍販売業者(書店)に注文するのが普通であった。そして書籍販売業者は、在庫があればすぐに渡せるが、ない場合には、該当する本の出版社に注文カードを送り、それを受けた出版社が書籍販売業者に本を送るということになっていた。
ところが大きな出版社は、書店と直接こうした取引をせずに、自分のところの出版物の販売を、傘下の販売委託者に任せたり、あるいは独立の書籍取次業者に委託していたりした。この場合、書籍販売業者は、こうした取次業者に注文カードを送って、そこから本を受け取ることになる。ライプツィヒのような出版のメッカでは、こうした取次業者や販売委託者の数がもともと多かったが、19世紀の後半に入ってその数はますます増大した。

第11表(取次業者と販売委託者の数)

第11表は主な出版地における取次業者と販売委託者の数を示している。取次業者は多くの出版社の出版物を扱っている企業であり、販売委託者は特定の出版社の傘下に入っているものである。この表から分かるように、ライプツィヒには出版物の仲介業者がたくさんいたわけであるが、1842年「ライプツィヒ書籍商組合」の会長F・フライシャーは、「ライプツィヒ注文センター」というものを設立した。これは図書注文カードの簡素化を狙ったものである。つまりこのセンターで注文カードを一括して受け付けて、それをさらに取次業者や販売委託者あるいは出版社に回送するわけである。ここでは単に注文カードの取り扱いだけではなくて、請求書に基づく代金の決済も行っていた。これが第一次世界大戦後の1922年には、「書籍取引精算協同組合」という全国組織にまで発展し、第二次世界大戦後には、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に新たにこれが設立されている。

19世紀後半における書籍販売簡素化の動きの中で、もう一つ注目すべきことは、現金扱い専門の取次業者の発生であった。この種の会社の最初のものは、1852年にライプツィヒに設立されたルイ・ツァンダー社であった。このころなおドイツの出版社の多くは、自社の出版物をたいていは「仮とじ」のままで販売していた。そこでこの新たに生まれた取次業者は、仮とじ本を自分のところで製本してそうした完成本を自己の倉庫に保管していた。

製本についてみると、このころ従来の手による製本から機械による製本へと、移行したことが注目される。こうした機械製本の導入後は出版社も自らの采配で、自分のところの出版物を製本させるようになった。それ以後、現金扱いの取次業者はわざわざ製本する必要がなくなり、引き続き独立した書籍取次業者として仕事を続けていった。

いっぽう書籍業者にとって経費節減に役だったのが、図書注文カードと書籍小包の送付が、印刷物扱いとされ、一般の郵便物より割安の料金になったことである。これは1871年10月28日のドイツ帝国郵便法の規定によるものであった。ドイツ全土に書籍をこうした割安の値段で送れることは、書籍業界の合理化・近代化を大いに促進することになった。

投げ売り防止の試み

ところで書籍業界の恒常的組織設立へのそもそもの動機の一つに、書籍の投げ売りを防止することがあった。しかし1825年に「書籍商組合」が設立された後も、投げ売りの問題はいっこうになくならなかった。たしかに古い交換取引制度から条件取引制度へと転換した際に、定価制度が導入されはしたが、これが全面的に守られたわけではなかったのだ。これまで何度も紹介してきた書籍商ペルテスは1816年に公表した文書の中で、ドイツ全土で一律に定価制度が守られるべきことを訴えていた。

それに続いて「書籍商組合」の設立に先立つ1821年に、二人の出版者ドゥンカーとフンボルトは、出版業者の地域組合を設立することによって、投げ売り防止の監視機関にすることを提案した。この呼びかけに応じて、まずライプツィヒに1832年、この種の地域組織ができた。そしてそれに続いてシュトゥットガルト、テューリンゲン、ラインラント・ヴェストファーレン、南西ドイツ地域、ポンメルン、ベルリン、メクレンブルク、ブランデンブルクの各地域に、同種の地域組合が生まれた。そしてこれらの組織は、顧客割引つまり投げ売りの防止を、各出版業者に向かって訴えかけたが、あまり効果はなかったという。

「書籍商組合」は、1852年に改定した規定の中に投げ売りの禁止措置を入れたが、これも駄目であった。しかし書籍の投げ売り競争が続いたために、19世紀の中ごろには書籍販売業者は、次第に支払い困難に陥っていった。そのため書籍販売業者は1863年、独自の「書籍販売者連盟」を設立した。これは出版社からの不当な干渉や恣意を排除して、自分たちの一般的な利益を護ることを狙ったものであった。ここで投げ売りつまり割引販売には、出版社から書籍販売者にわたるときの出版社割引と、書籍販売者から顧客にわたる時の顧客割引の二つが存在した。しかしこの二つの問題はともに簡単に禁止できるような性質のものではなく、なおも尾を引くことになった。そして投げ売りの禁止と定価制度の確立は、ようやく1887年の<クレーナーの改革>によって、実現を見たのである。

ドイツ近代出版史(2)18世紀半ばから1825年まで

第四章 <読書革命>と文学市場の成立

新しい読者層の誕生

ドイツの出版界が古い交換取引から近代的な取引方法へと転換する過程で、忘れてならないのが、読者層の拡大と文学市場の成立という問題である。ここには「読書革命」という文化的要因と「文学市場」の成立という経済的要因が、密接にからみあっている。つまり文学を中心とする読書や書物の世界に、需要と供給という経済原則が登場してきたという事である。

ドイツにおける啓蒙主義の普及は、18世紀の後半に入るとその第二段階に至った。世紀の前半には、いわば啓蒙主義の第一世代と名付けることができる人々が、従来とは違った新しい読書階層を形成したのであった。その人たちは、世俗的な書物に永続的な関心を示していた商人階級をはじめとして、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主、そして商人の妻や娘などの一部からなっていた。

ところが世紀の後半になると、この人たちの息子たちや娘たちから成る新しい読者層の第二世代が登場してきた。彼らは、職業から見れば、学生、行政機関の若い事務員、商業従事者そしてその友人の女性たちであったが、これら第二世代の周囲には、すでにやや開放的な文学的雰囲気が漂っていた。当時、啓蒙思想は定期的に刊行されていた雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて伝達されていたからである。またこの人たちはある程度、娯楽的読み物にも興味を示していた。かくしてこれら第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀の後半を通じて、世俗的書物や娯楽的読み物を受け入れる主要グループを形成していたわけである。

とはいえ、こうした新しい読者層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって、なされたわけではない。その担い手となったメディアである出版業界における生産、販売の変化もまた、それに貢献したのであった。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版および販売の側面に影響を及ぼした、といったほうが良い。つまりこれら二つの側面の相互影響の中に、新しい文学的発展への基盤が生まれることになったのである。

ここで18世紀における読書傾向の世俗化を示す手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数の比較をしてみよう。その際R・ヴィットマンが行った見本市カタログに基づいた計算を手掛かりにすることにする。ただし18世紀後半になっても隆盛を見せていた翻刻版は、書籍見本市のカタログに掲載されていないので、ここでは除外する。

これによると西暦1700年の見本市カタログに掲載された書籍の総点数は、年間950点であったが、1800年になると年間4000点に増大しており、この100年間の合計は17万点と推定されている。
次にこの中でラテン語の書物が占める割合の時代的変化を調べてみると、

1650年・・・・・・71%
1740年・・・・・・27%
1770年・・・・・・14%
1800年・・・・・・ 4%

となっている。

つまりこの数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段にかわったことを、如実に示しているわけである。その際発行された書物のジャンルにも大きな変化が生じたことも注目される。1740年にはまだ発行された書物のほぼ半分が神学的・宗教的内容であったのに、1800年にはわずか10%強に減少しているのだ。(1740年の時点で、ラテン語の割合が27%となっているが、このころにはドイツ語で書かれた宗教書が多かったのだ)。法学および医学関係の書籍は、この間コンスタントに5~8%を占めていたが、宗教関係の書籍の減少に反比例するように、文学の割合が伸びている。文学作品は1740年には5%だったが、1800年には20%を超えている。とりわけ小説の伸びが著しかった。

いっぽう18世紀の末ごろになると、ドイツ語圏の書籍(新刊書)の発行地域の分布は、圧倒的に北ドイツが優位を占めるようになっていた。これを1780-1782年の時期に関してみると、

北ドイツ・・・・・・・70%
南ドイツ・・・・・・・19%
オーストリア・・・・・ 7%
スイス・・・・・・・・ 3%

となる。この数字からも北ドイツの優位は明らかであるが、新刊書の六分の一が出版のメッカ、ライプツィヒ市から発行されていたことを付け加えておきたい。ライプツィヒがドイツの著作家の世界の中心でもあったことを考えれば、この優位は何ら不思議なことではなかろう。<読書革命>と並行して、<たくさん書くこと>も進行していたのだ。1773~1787年の15年間だけでも、ドイツにおける著作者の数は、3000人から6000人に増大した。そして1790年には平均して4000人に一人の割合で著作者がいた勘定になる。もちろんこれには地域差がみられ、辺境のオストプロイセン地域では9400人に一人の割合であったが、ライプツィヒのあったザクセン王国では2700人に一人の割合であった。これがライプツィヒ市になるとその集中度は著しく、住民170人に一人が著作者であった。ちなみにプロイセン王国の王都ベルリンでは675人に一人、ウイーンでは8000人に一人の割合であった。

ところで1795年、ドイツ人の文学社会学者ともいうべきJ・G・ハインツマンなる人物は、当時のドイツにおける無名の読者大衆の成立に関して、注目すべき比較をもって、その社会的・文化的意義を明らかにしている。

「この世ができてから、ドイツにおける小説愛好の習慣とフランスの革命の二つほど、奇妙な現象は、いまだかつて存在したことはなかった。この二つの極端な現象は、ほぼ並行して成長してきたものである」

ここではフランス革命の担い手となる大衆の登場を、ドイツの読者大衆の登場と重ね合わせているわけであるが、その比較の是非はともかく、それほどこの<読書革命>は、当時のドイツの知識人から社会的事件として受け止められていたという事であろう。そこでは深く沈潜する「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行がみられた。                     ただこの<読書革命>の進行は、同じドイツ語圏の中でも地域によって、その度合いが異なっていたようである。北部、中部、南部、オーストリア、スイスなどと分けた場合にどうであったのか、ドイツ人の専門家の間でもまだ十分研究されていないようである。ただごくおおざっぱに言って、北ドイツでは18世紀の半ばにすでに新しい読者層が形成されていたのに対して、南ドイツではまだであったことが知られている。そしてその50年後にはこの北の優位に追いつき、かなり統一的な読書習慣(ないし嗜好)がドイツの書籍市場を支配するようになっていことも知られている。

しかしどのようにしてこの<読書革命>が南ドイツで遂行されたのかという点になると、専門的研究はまだあまり進んでいないようである。ただここで前述した翻刻本が、南ドイツの読者に対して、読むことへの渇望を充足させたことは間違いないようである。そこで次に翻刻本の普及と読者層の拡大の関係について少し考えてみよう。

翻刻本の普及と読者層の拡大

まず翻刻本の異常なまでの成功の決定的理由は、その価格の安さにあった。当時のドイツ人読者大衆の大部分にとって、この値段こそが書物を購入する際の決め手であった。読書と教養に飢えていた当時の中流階層の人々ですら、オリジナル作品8~10冊で我慢しようとしたか、それとも翻刻本を40~50冊購入しようとしたか、答えはおのずから明らかであろう。
オーストリアの有名な医者アントン・フォン・シュテルクは1790年に、廉価な翻刻本の医学書を通じて、同地域の医者や医者の卵が医学の知識を習得したことを証言している。そしてそれによって辺境地域の住民の健康改善に著しく貢献したことを強調している。また学校の教員、金持ちの家の家庭教師、村の司祭、学生などあまり収入の良くないインテリ予備軍にとっても、翻刻本を購入するか、それとも全く書物を手にしないか、どちらか一つの選択しか残されていなかったのである。安い書物を所有し、それを読むことこそが、人々の読書能力の涵養を可能にしたわけである。読書文化の初歩段階にあって、翻刻本の利用が果たした役割を低く見ることは、決してできない。

ただ一口に翻刻本の普及といっても、その黄金時代である1765~85年のころと、それ以降とでは、出版された書物の傾向にかなりの相違がみられたことに、注意する必要がある。この時期に活躍した翻刻版業者の第一世代と呼ばれるトラットナー、シュミーダーなどが、啓蒙期の純文学作家の全集の発行など、外観・内容ともに質の高い出版活動をしていたことは、前回のブログの第三章「翻刻出版の花盛り」のところで述べたとおりである。

ところが1785~90年ころになると、翻刻本業者は純文学に目を向けなくなっていった。その頃現れてきたゲーテ、シラーの古典主義文学は一種の「高空飛行」を行っており、それについて行けたのは、ごく少数の読者だけであった。この古典主義とそれに続くロマン主義の詩文学に翻刻本業者はもはや関心を示さなくなった。先には啓蒙主義の純文学作品をシリーズの形で出版したシュミーダーは、1790年以降にはもはや古典主義文学やジャン・パウル、ティークなどのロマン主義文学は翻刻出版しなかった。

その代わりに後期啓蒙主義のポピュラーな哲学者や歴史家に目を向けるようになった。純文学はこのころになると、社会的、政治的な解放を目指していた一般市民層から離れて、人の内面へと向かっていたからである。啓蒙主義に強く傾いていたこれら翻刻本業者の第一世代にとって、純文学はもはや有益な活動分野ではなくなってきたわけである。

ちょうどこのころ第二世代の翻刻本業者が新しい計画を携えて登場してきた。この世代の業者は、偉大なる啓蒙主義から古典主義、ロマン主義へと続くドイツの純文学を敬遠した。そして営業上永続的な成功が見込まれる大衆的な作品に目を向けるようになった。名のある作家の野心的な全集の代わりに、ヴァリスハウザー社の「ウイーン叢書」のような大衆小説シリーズが登場してきた。そして翻刻出版は次第に投機的な傾向を強め、粗製乱造の気味を加えていった。かくして翻刻本業者の名前は質の低い出版業者の代名詞となっていったのである。また名前すら明らかにしない匿名の翻刻本出版社も出現するようになった。

高級な読書サロン

ここではオリジナル版であれ、翻刻版であれ、世俗化され量産されるようになった書物と、人々はどのように接触していたのか、見てみることにしたい。
新しい読書層の誕生といっても、18世紀も末ごろになると、社会階層的に見れば、上流階層から都市の小市民階層まで広範に広がっていた。地方都市の名士ともいうべきヒルデスハイムのギムナジウムの校長K・H・フレマーは、1780年に次のように書いている。「今から60年前には、本を買う人間といえば学者と相場が決まっていた。ところが今日では本を多少なりとも読むことができない婦人を見つけるのは容易ではなくなっているぐらいだ。読書する人は今ではあらゆる身分にわたり、都会であろうと地方であろうと見受けることができる」
ただこの言葉は地方の校長先生の個人的な印象を述べたもので、統計的にはあまり信頼できるものではないと、私には思われる。

とはいえこうした状況の中で、町や村の名士や有力者が利用していた読書のための施設として、レーゼカビネットとかレーゼゲゼルシャフトといわれるものが生まれてきた。これらは元来フランスから来たもので、「読書サロン」といった感じの施設であった。例えばフランスのアルザス地方の町コルマールは、ドイツ人もたくさん住んでいたところであったが、この町に1769年からこの読書サロンがあった。ここでは教養も財産もある人達が毎月のように集まっては、ドイツ語やフランス語の本を批評しあったという。

あるレーゼ・カビネット(18世紀後半)

こうしたサロンは18世紀の半ばから末ごろにかけて、ドイツ全域で花開いた。書店は人々のために読書室を設け、そこに新刊書や新聞・雑誌類を置いていた。そうした場所を人々は、好んでムゼウム(博物館)とも呼んだりしていた。人々はそこにやってきて、新しく出た本を読んだり、互いに意見を交換しあったりした。そしてこの場所は「遊んだり、踊ったり、食事をしたりするところ」としても利用されるようになった。つまりここは読書サロンとはいいながら、もっと幅の広い総合的な社交の場でもあったのだ。

現に西南ドイツのシュトゥットガルトにあった読書サロンの1795年の規約には、次のように書かれている。「何びとも読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心を満足させるため、あるいは多様な知識の普及のため、さらに趣味嗜好を洗練させるため、そして社交生活の喜びのために、もっとも目的に叶った手段が提供され、それらによって計り知れない利益が得られるのだ」。こうした高級なサロンであったために、その会費もきわめて高かった。そのため一般庶民にとっては高嶺の花の存在で、もっぱら特権身分の人のために作られていた。そして啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になっていた。

1791年、北ドイツの都会ブレーメンには36の読書サロンがあり、併せて2340人の会員がいたといわれる。これほど多くの会員がいなくても、同じようなサロンは、リューベック、ベルリン、フランクフルト(オーダー)、ヴィッテンベルク、ゲッティンゲン、マインツ、シュパイヤー、ヴュルツブルク、カールスルーエ、シュトゥットガルト、ウルム、レーゲンスブルク、ほかにもあった。そしてこの読書サロンは、もっと小さな田舎町にまで広がっていった。その会員には、それぞれの地域の名士であった、司教や牧師、学校の教師や地区参事会会員などがなっていた。農民や労働者は、こうした読書サロンに入ることはできなかったのである。

都市の貸出文庫

「読書サロン」が社会の上層を占める人々の社交と教養の場所であったのに対して、広く国民各層が実際に本を読むのに好んで利用したのが「貸出文庫」であった。これはは要するに本を一定期間、金をとって貸し出す貸本屋であった。18世紀の前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。啓蒙主義の思想家ルソーも子供のころ、ジュネーヴの悪名高い貸本屋から、良い本、悪い本取り交ぜて店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすべて読んでしまったことが、例の『懺悔録』に書いてある。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィヒでのことであった。その少し後の1772年ミュンヘンの宮廷顧問官付き書記官J・A・クレーツは、自分が経営していた書店を移転した際に、店にあった本を人々に貸し出すことを明らかにした。しかしこの新しい試みは、借りた人が本を汚したり、返さなかったりして、結局失敗に終わったという。

とはいえ18世紀の末ごろになると貸出文庫は、ドイツでも次第に盛んになってきた。そのころには、うまくいけば貸本業のほうが書店で本を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あった本が、1806年には4000冊に増えていた。また南ドイツの小さな大学都市ランツフート在住のザンデルスキーの貸出文庫の書物は、1814年の1200冊から1820年には2526冊になっていた。さらに北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫は以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その種類は都市の規模や性格により、またその所在した地区によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したため、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から立派な建物の貸し出し図書館まで、いろいろあったわけである。その意味で貸出文庫は、最も民主的な図書貸出し施設であったのだ。

ところでロマン主義の作家ハインリヒ・フォン・クライストは、1800年9月14日付けの婚約者宛の手紙の中で、南ドイツのヴュルツブルクの貸出文庫を訪れた時の模様を次のように書いている。

「ある町の文化の度合い、ないしそこに支配的な趣味嗜好の度合いを、いち早くしかも正確に知ることができるのは、なんといっても貸出文庫をおいてほかにはないでしょう」

その貸出文庫を訪れたのは法律家、商人、既婚の女性などであったが、そこにはヴィーラント、シラー、ゲーテなど当時の高級文学の作品は置いてなかった。そこでクライストが見たのは、当時流行していた大衆文学作品ともいうべき騎士物語ばかりだったという。

同じくロマン派の作家ヴィルヘルム・ハウフも、4000~5000冊の本を持つ、ある貸出文庫を利用していた客の読書態度などについて、興味深い分析をしている。

① 貸出文庫の本は睡眠薬の代わりである。
② 緊迫感にとんだ最初の部分は夜のうちに読んでおいて、翌朝その続きを読む。
③ ジャン・パウルはお呼びでなく、代わりにクラーマーの『エラスムスの陰謀家』とかクラウレンの作品が好まれる。
④ 読者は若い女性が多い。
⑤ 貴族も召使も同様に、ヒルデブランドの『ヘルフェンシュタイン城』や『火を吹く復讐の剣』といった騎士物語を読む。
⑥ 軍人はウォルター・スコットの作品を読みたがる。スコットはドイツで6万部も出回っている。
⑦ スコットのドイツ語版は、チームワークによる「シェーラウ」の翻訳工場で翻訳されている。

ハウフやクライストが、子細に観察したように、貸出文庫を訪れていたのは「読書する大衆」だけではなく、上層の人々もいたのである。またここにやって来たのは年配の人間だけではなくて、若者もいた。ロマン派の詩人アイヒェンドルフも若き日には、ルソーと同様に故郷ラティボアーの貸出文庫に出向いて、手当たり次第に読んでいたのである。クライストやハウフの証言からも断片的に明らかになったことだが、18世紀の末から19世紀を通じてドイツで栄えた貸出文庫の中身は、主として小説か戯曲であったようだ。

これをブレーメンのガイスラー貸出文庫が1829年に刊行したカタログによって詳しく見てみることにしよう。ここでもやはりその扱っている本の種類からいって一番多いのが小説で、二番目が戯曲であった。その他の分野、歴史、政治、紀行文、詩、地誌、年鑑、児童文学、ジャーナル、月刊誌などは、これにくらべれば、ぐっと比重が低かった。小説の中では、クライストも書いていたように、騎士物語や盗賊物語が多かった。

そこにはイギリス人のウオルター・スコットやアメリカ人のクーパーなど英米の人気作家の翻訳物が混じっている点が注目される。そのほかの作家は今日ではほとんど忘れ去られたドイツの大衆小説作家であった。

しかし18世紀の後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってさらに読者層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、以後大きな文学市場を形成していくのである。

第五章 <書籍商組合>結成への道

ライプツィヒの「書籍商取引所」の誕生

前回のブログ「ドイツ近代出版史【1】18世紀半ばから1825年まで」の第一章「近代的書籍出版販売への転換」のところで述べたように、現金取引方式および条件取引制度の成立、さらに委託販売方式の導入などによって、ドイツの書籍出版販売業界は18世紀の末に、近代化へ向けて力強い歩みを示し始めた。書物は、古い交換取引の時代のように物々交換されるのではなく、貨幣によって支払われることになった。

条件取引制度というのは、次のようなシステムであった。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内にその代金の精算を行う(初めは春と秋の年2回であったが、やがて秋の精算はなくなり、春の復活祭の時期だけに行われるようになった)。そしてこの期間に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については店頭価格の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

その際問題となったのがライプツィヒでの精算業務のやり方であった。精算したいと思っている書籍業者は、ライプツィヒ市内の様々な場所で相手を探さねばならないという、厄介な問題があったのだ。こうした精算業務の簡素化・統一化のために、ライプツィヒの書籍業者G・J・ゲッシェンは、1791年に取引事務所を開設しようという考えに取りつかれた。しかしこの考えはその一年後に、同じくライプツィヒの書籍業者P・G・クンマーによって実現されることになった。彼はライプツィヒ市内のリヒターという喫茶店の三階を事務所として借りたわけである。

しかしこの場所は見本市会場からやや遠いところにあったので、ポツダムの書籍業者K・C・ホルヴァートは、同じ目的のために書籍街の中にあった大学の建物を借りた。そして彼はこの建物を家賃をとって業界仲間にまた貸しした。この建物の中で初めて支払業務が行われたのは1797年のことであったが、その対象はライプツィヒ以外の書籍業者であった。ライプツィヒの書籍業者は、こうした施設を使用することを初めはためらっていた。しかしやがて利用者が増えていったため、いつしかこの建物は見本市の開催中、「書籍商取引所」と呼ばれるようになった。(1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」という名称も、これに由来するのだ)。

出版業界体質改善の動き

いっぽう18世紀から19世紀への変わり目ごろ、ドイツの書籍出版量及び書籍業者の数は著しく増大した。このため書籍販売面での互いの競争が激化し、個々の書籍商の中には「投げ売り」つまりダンピングによって商売を乗り切ろうとするものも出てきた。顧客割引率を従来の10%から25%さらに50%にまでして、何とか商品としての書物を売りさばこうとしたのである。

こうした動きを憂慮したホルヴァートは、1802年の春の見本市に向けて一つの改革案を提出した。そこで彼は、顧客割引率の制限、新規の業者に対するクレジット保証の制限、見本市決済のための特定の為替相場の導入などを提案した。この提案に対しては40人の書籍業者が賛意を示した。なかでもゲッシェン(1752-1828)は、『書籍販売に関する私見』という文書の形で、これに応えた。この中で彼は「顧客割引率はせいぜい10%が限度であり、できることなら廃止すべきである。非書籍商に割引を認めることは無意味な投げ売り以外の何ものでもない。書籍業者のあいだでも、割引率は33・3%を超えるべきではない」と記し、商人としての尊厳と道徳心に訴えた。そして書籍取引所組合の設立を説き、「その組合のための資金と品位と持続性を手に入れよう」と呼びかけた。ちなみにゲッシェンは、作家シラーの友人でもあり、その作品を出版したライプツィヒの名門出版社の主であった。

G・J・ゲッシェンの肖像

このゲッシェンの提案と真っ向から対立したのが南独エアランゲンの書籍商パルムの提案であった。そこで彼は古い交換取引に戻ることを主張したが、他のほとんどの書籍商は交換取引に反対の態度を示していたので、一人孤立することになった。ともあれ19世紀の初めには出版業界の体質改善に対して多くの書籍業者が強い関心を示すようになり、改革のための集会まで開かれる運びとなった。そして1803年に開かれた二回目の集会で、30人の委員からなる新しい委員会が結成された。

ところがドイツにおいて書籍商の組織を結成しようという動きは、ナポレオン戦争によって、ひとまず頓挫することになった。ナポレオン軍との戦いの敗北によって、1806年8月、神聖ローマ帝国は消滅し、ドイツ語圏地域は西・南地域にできたライン連邦、東北部に領土を縮小させられたプロイセン王国、そしてオーストリア帝国に分割された。そしてナポレオン支配下のドイツの出版界は、書物の輸出や国内取引に対する妨害や厳しい検閲によって、一時的にではあれ、全体として大損害を被ったのであった。ニュルンベルクの書籍商パルムは反仏的なビラ『深い恥辱の底にあるドイツ』を発行したために、ナポレオンの命令によって射殺された。またハンブルクの書籍商ペルテスは1811年1月、知人に宛てた手紙の中で「全体として希望の片鱗すらうかがうことができません」と述べている。

ナポレオン戦争後の状況

しかし1813年の解放戦争の結果ナポレオン軍が敗北し、ナポレオンがパリに逃げ帰るに及んで、フランスによるドイツ支配は終わりを告げた。そして翌年のナポレオン失脚の後を受けて、ヨーロッパ各国の王侯や政治家たちはウィーンに集まって、戦後のヨーロッパの新秩序について協議することになった。こうした新しい情勢に呼応して、ドイツの書籍商たちのあらたな協力態勢への動きが、再び始まった。

1814年4月春のライプツィヒ書籍見本市において、6人の代表からなる委員会が再び結成された。この6人とは、ライプツィヒ出身のクンマー、フォーゲル、リヒター、ワイマール出身のベルトゥーフ、テュービンゲン出身のコッタ、そしてリガ出身のハルトクノッホであった。この委員会はドイツ書籍業界の関心事をウィーン会議(1814・15年)に持ち出すことによって、全ドイツ的な問題にしようと目論んだ。

いっぽう神聖ローマ帝国の解体後、統一組織を欠いたままになっていたドイツ諸国の再組織の問題も、ウィーン会議の重要議題の一つであった。結局これは大中小39の領邦国家を集めた緩い組織としての「ドイツ連邦」の結成によって決着を見ることになった。書籍商委員会を代表してコッタ及びベルトゥーフの二人は、ウィーン会議に働きかけて、新しく生まれるドイツ連邦の在り方を定める連邦規約の中に、ドイツ書籍業界の関心事を織り込むことに成功した。その結果、連邦規約第18条に、次のような文章が挿入されることになった。

「連邦議会はその最初の会議において、出版の自由に関する指令並びに翻刻出版に対する作家及び出版主の権利の確保に関する指令の作成に従事するであろう」

そしてこのための公聴会が連邦議会において開かれる見通しも、その際明らかになった。そうした期待の中でハンブルクの書籍商ペルテスは1816年匿名で、『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書を発表した。この中でペルテスは、翻刻出版を激しく糾弾した。しかし書籍業界にとっては最大の関心事であったにもかかわらず、連邦議会での審議は遅々として進まなかった。

そこでいくつかの出版社は、自らイニシアティブをとって動き出した。例えば中部ドイツのハレの4つの出版社は、1816年いかなる翻刻出版も拒否することを約束した。また西南ドイツのハイデルベルクの出版主モールは、次の春の見本市で翻刻出版業者とのあらゆる関係を絶つよう、ドイツの書籍商に要請した。さらに1817年に結成された「ドイツ書籍商選考委員会」は、翻刻出版をはじめとするもろもろの問題の解決に向けて取り組むよう委任を受けた。こうした情勢の中で、出版社の版権や著作者の著作権を保護しようという考えが、次第に具体化してきた。そして1819年2月に連邦議会に提出された法案の中には、10年ないし15年の保護機関が定められていた。

しかしウィーン会議後のドイツを牛耳っていたオーストリアの宰相メッテルニヒは、旧体制を守るために反動的な政策をとることも辞さなかった。そして1819年8月のカールスバートの決議によって、大学法や扇動者取締法などと並んで、厳しい出版法が定められた。これによると新聞・雑誌そして320頁以下の出版物はすべて、厳重な検閲のもとに置かれることになった。
こうして出版の自由は踏みにじられ、同時に精神的財産(知的所有権)の保護という考え方も大きく後退することになった。

いっぽうこれとは別に、南独ニュルンベルクの書籍商レヒナーは、1806年以来ライプツィヒから離れてニュルンベルクに独自の書籍見本市を設立する考えを抱き、その線に沿った動きを示していた。そして1819年この考えを関係者の前に持ち出し、人々の議論に供した。しかしこの計画は、同じニュルンベルクの同業者カンペ、マインベルガー、シュラークなどの反対にあって挫折した。

ところがニュルンベルク見本市設立計画は1822年になって、別の方面から再び持ち出された。今度の計画は書籍商ではなくてバイエルン王国学士院の事務総長シュリヒテグロルからのものであった。この人物はニュルンベルクの書籍商と、見本市プロジェクトをめぐって交渉を行った。その際書籍商側はバイエルン教科書出版会社の廃止を持ち出した。またバイエルン政府も度重なる審議の後、書籍見本市設立に関する報告書を提出したりしたが、なかなか結論を得るに至らなかった。

「書籍商組合」の結成

そうこうするうちにライプツィヒでは、ライプツィヒ以外の書籍商を中心に、先にホルヴァートが明らかにしていた書籍取引所の設立へむけて急展開を見せはじめていた。先の「ドイツ書籍商選考委員会」がそのイニシアティブをとったのだが、こうした取引所を必要としない地元のライプツィヒの書籍業者はいぜんとして冷淡な態度をとり続けていた。そのためこうした態度に対しては外部の書籍商からはげしい非難の声が上がり、結局ニュルンベルクの書籍商フリードリヒ・カンペ(1777-1848)の指導の下に、1825年4月30日、「ドイツ書籍商取引所組合」が設立されたのであった。この名称はドイツ語の表記を正確に訳したものであるが、日本語の文脈の中では分かりにくいので、今後は「ドイツ書籍商組合」ないし単に「書籍商組合」と表記していく。

この日「取引所規約」には、ライプツィヒの書籍業者6人及び外部の書籍業者93人が署名した。この93人のうち70人が北・東部からの、そして23人が南・西部からの業者であった。またこの組合には外国人も会員として加盟できることも定められた。初代の会長(任期1825-28)にはカンペが就任し、その他の幹部としてライプツィヒ外の書籍業者ホルヴァートなど3人が選ばれた。

F・カンペ(「書籍商組合」の創立者)の肖像

こうして「ドイツ書籍商組合」は、ドイツの出版界全体の公の組織となったのである。この組織には、出版界に確固たる秩序を築き、書籍取引の際に生ずる誤解を取り除き、書籍業界の利害を守るべき任務が課せられた。そして長期的な展望のもとに、ドイツの出版界全体をリードしていくことも、新たに生まれた書籍商組合の使命の一つとなった。
この組織は「よそ者」であるニュルンベルクの書籍商カンペの断固たる措置によって、最終的に出来上がったのであった。このカンペはすでに1819年にニュルンベルク書籍見本市設立計画に反対していたが、1825年12月にバイエルン国王ルートヴィッヒに謁見したときにも、改めてニュルンベルクのプロジェクトに反対する態度を明らかにしたのだ。

それはともかく「書籍商組合」の設立によって、ドイツの書籍出版販売の世界は、「疾風怒濤の時代」に終わりをつげ、新しい時代へと踏み出していったのである。個々の企業の商業上の利害を超えて成立したこのドイツ出版界の大同団結には、ドイツの政治的統一(1871年)よりはるかに先行した大きな意義が与えられねばなるまい。

ドイツ近代出版史(1)~18世紀半ばから1825年まで~

第一章 近代的書籍出版販売への転換

統一的書籍市場の崩壊

ドイツの書籍出版販売活動は長い間、書籍見本市の二大都市フランクフルト・アム・マインとライプツィヒを中心に行われてきた。フランクフルトは中部ドイツのマイン川畔の帝国直属都市として、15世紀以来その南に広がるドイツの各地域つまりバイエルン、シュヴァーベン、フランケン、オーバーラインの諸地方やオーストリア、スイス一帯を書籍出版販売面で支配してきた。この南ドイツの書籍業界は、ドイツ皇帝の支配地域にあるという意味で、「帝国書籍業界」とも呼ばれてきた。この地域はおおざっぱに言って、宗教的にはカトリック地域で、古い伝統や習慣がいつまでも温存されていた。そしてどちらかというと言語・文学的文化というよりは、むしろ音楽的・造形的文化に傾いていた。そして書物については聖書を初め説教書、祈祷書などの宗教書が中心であった。宗教書のほかには学者や僧侶向けのラテン語の書物が出版され、帝国書籍委員会の意地の悪い厳しい検閲が、依然として続いていた。

いっぽう北ドイツのザクセン地方の中心都市ライプツィヒは、17世紀の末頃から、見本市都市としての重要性を次第に増しつつあった。そして北ドイツにおける書籍出版販売は、ますますライプツィヒを中心に動くようになっていた。北ドイツは一般にプロテスタント地域であるが、ドイツの啓蒙主義はまさにこの北ドイツの二つの地域、つまりザクセン地方とベリリンを中心とするブランデンブルク=プロイセン地方をその故郷としていたのだ。

この地方では道徳週刊誌やポピュラー哲学から文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場にはいたる所で新しい時代の息吹が感じられた。この地域では古めかしいラテン語の知識がいっぱい詰まっていた大型の信心の書には、新しい読書大衆はもはや関心を向けなくなっていた。啓蒙主義運動の担い手ゴットシェートや国民的人気の高かったゲラートが住んでいたのもザクセン地方であった。こうした文化的要因のほかに経済的要因もあった。18世紀のザクセン地方は経済的観点から見て、ドイツで最も目覚ましい発展を遂げていた地方であった。とりわけ工場制手工業が発展していた。こうした状況の中で、書籍出版販売業はザクセン王国政府によって奨励されていたのだ。

この時代になっても書籍取引の方法としては、なお交換方式が続けられていたが、この方式は書物の外観や内容を無視してきたため、その欠陥が次第に我慢できないほどに露呈されてきた。この傾向はとりわけ南ドイツ地域で著しかった。その際南で出版された書物は南の地域では売れても、北へはあまり出ることがなかった。南ドイツのカトリック地域では依然としてラテン語で書かれた学術書や宗教書がもっぱら出版されていた。いっぽう北ドイツのプロテスタント地域では、ドイツ語で書かれた道徳週刊誌や各種ジャーナル、政治パンフレットや啓蒙主義的な国民文学などもどんどん出版されていた。

そして書物の質も北では南より良かった。このため南北間で書物が交換取引されたとしても、一対二ないし一対三もしくは一対四で交換されていた。その結果公刊された南ドイツの出版物が北ドイツで販売される可能性はほとんどなくなっていた。そのうえ北ドイツの読者は、南ドイツで出版されたラテン語の専門書や宗教書には関心がなかったのだ。そのいっぽう北ドイツで出版された啓蒙書や国民文学に対して南ドイツの書籍業者は関心を抱いていたが、交換取引方式のために実際上その取得が困難になっていた。
こうした状況の中で、ドイツの書籍市場は次第に南北への分裂の度合いを強め、18世紀の半ばには、その二分化は決定的ともいえる段階に達していたのだ。

交換取引制度の廃止

書籍を単に物品として量的にしか扱わなかった交換取引制度は、それが抱えていた大きな欠陥から、18世紀の後半に入るころ、結局廃止されることになった。そのイニシアティブをとったのは、いうまでもなくライプツィッヒをはじめとするザクセン地方の書籍業者であった。かれらは北ドイツの読者には関心のない宗教書やラテン語の専門書を発行していた南ドイツの書籍出版販売業者との取引を好まなくなっていた。その結果彼らは交換取引を、信頼のおける商売相手である北ドイツの書籍業者だけに限ることにした。そしてその他の業者に対しては、現金取引を要求するようになった。

交換取引を拒否して現金取引を採用した書籍業者には「正価販売業者」という名称が与えられた。彼らは取り扱う書物を交換取引商品と現金取引商品の二つに分けたのである。正価販売業者の中でももっとも代表的な人物が、フィリップ・E・ライヒ(1717-1787)であった。ライヒはライプツィッヒの代表的な書籍出版販売店ヴァイトマン社に1746年に入社し、やがて経営責任者になり、さらに1762年には同社の共同出資者となった。彼は1760年代に、もはや欠陥だらけになっていた書籍の交換取引方式に反対して立ち上がったのである。そして現金取引または半年で16~25%の割引をする短期クレジット方式を導入した。この短期クレジット方式は、ライプツィヒ見本市に出品・参加していた中部・北部ドイツの友好的な書籍業者に適用された。そしてこれらの業者に対して十分な報酬を支払った最初のドイツの出版社経営者になったのであった。ここに長らく自然経済である交換取引方式に退行していたドイツの書籍販売方式は、北ドイツでは1760年代に再び貨幣経済を基礎とする近代的な取引方法に代わったのである。

ライヒの改革

ライヒが導入した近代的な書籍取引の方法は、交換取引の拒否と短期クレジットないし現金取引方式の採用であった。それに伴って書籍の返品を部分的ないし全面的に認めない措置、クレジットの低い割引率の設定そして書物の価格の高い設定なども同時に行われた。これら一連のライヒの動きは、書籍販売史上「ライヒの改革」として知られているが、南ドイツの斜陽の帝国書籍業者にとっては、我慢のでいない過酷な措置に映った。当時ドイツ全地域から書物が集まっていたライプツィッヒ見本市で採用された正価販売方式は、そこに常駐していた書籍業者にとって著しく有利だったからである。南ドイツの書籍業者には、運搬用の樽を含むすべての輸送コスト、業者の旅行費用、見本市に伴う宿泊費、ブースの借り上げ料、アルバイト要員費用などをひっくるめての見本市の総経費が掛かった。それに対して地元の書籍業者にとっては、それらの負担はぐんと低かったのだ。

しかし自らの改革を断行することに熱心で、南ドイツの書籍業者のことをあまり考えなかったライヒは、いわば南への挑戦として、1764年にフランクフルト見本市から最終的に撤退したのであった。ライヒはその際「自らと同僚業者の撤退によって、フランクフルト見本市を葬った」と述べている。同見本市はその後も存続はしたが、もはや往年の存在価値は失われていた。ちなみに新しいフランクフルト国際書籍見本市が生まれたのは、西ドイツが誕生した1949年のことであった。

ライヒは自らの改革を貫徹すべく、1764年に「ドイツ書籍販売組合」の設立を計画した。そしてこの計画を「ライプツィッヒ見本市を訪れる書籍業者への通知状」の中で明らかにした。そこでの最高原則は、この組合に加盟する者は書籍取引を現金によってのみ行うべきで、また互いに翻刻出版は行わず、そうした業者との取引は最小限に抑えるべきであるというものであった。ライヒのこの計画に対しては、ザクセン王国政府やライプツィッヒ市当局そしてライプツィヒ大学から疑念が出された。しかしそれから5年たった1769年になって、ようやくザクセン国王の許可が下りた。それによって南ドイツの翻刻版書籍業者は、事実上ライプツィッヒ見本市から締め出されたのであった。

帝国書籍業者の反撃

これに対する帝国書籍業者側の反応には素早いものがあった。先に警告していた通り、彼らは北ドイツで出版された書籍の計画的な翻刻出版を、大々的に実施し始めたのである。翻刻出版を全面的に禁じたザクセン国王の布令も、その王国の外では通用しなかった。北ドイツの書籍業者からは海賊出版業者と非難されたこれら翻刻版出版業者の指導的存在は、フランクフルトのファレントラップ及びウィーンのトラットナーであった。このトラットナーはこれに先立つ1752年に、ライプツィヒの書籍業者に対して、「ウィーンからライプツィヒへの旅行費用その他もろもろの経費が掛かるから」という理由で、33・3%の割引を要求し、これが叶えられない場合には翻刻出版を行うと警告していたのだ。

そのうえ彼はオーストリア女帝マリア・テレジアから、翻刻出版に対する皇帝特権を授けられていた。ちなみにトラットナーが女帝から受けとった手紙には次のような一文もあった。

「親愛なるトラットナーよ、わが国家の原理は書物を盛んに流通させることにある。書物はすべからく大いに印刷されるべきである。ただオリジナル作品が現れるまでは、翻刻出版を行うべきである」

こうした皇帝特権に支えられたトラットナーやフランクフルトのファレントラップなどの帝国書籍業者は、翻刻出版はオリジナル作品の高値に対する防衛手段なのであると弁護した。このようにして翻刻出版は、南ドイツからオーストリアにかけて、以後大々的に行われることになった。そして1765年~1785年の間にかけて、「翻刻出版の黄金時代」が現出したのである。これに対して学者や作家は、おおむね理論的には非難していたものの、実際には価格調整役として容認していたようである。

そしてやがて帝国書籍業者の間から、ライプツィヒの現金取引と従来からの交換取引との間の妥協案ともいうべき「条件取引制度」が生まれてきた。その仕組みはざっと次のようになる。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間(春と秋の2回)にその代金を精算する。ただその期間内に売れなかった書籍は返品され、売れた書籍については店頭価格(定価)の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

帝国書籍業者はこうした条件を提示してライプツィヒの書籍業者とと折り合いをつけようとした。そして1788年南ドイツ及びスイスの19の書籍業者は「ニュルンベルクの最終決議」の中で、いま述べた条件のもとにライプツィッヒ見本市に参加したいと申し入れた。そして精算の時は春の見本市の時だけとした。この申し入れをライプツィヒ側は受け入れることになった。

その背景としては、すでに18世紀の半ばから北部及び東部ヨーロッパ地域との書籍取引において、ライプツィヒがベルリンとの競争にさらされていたという事情もあった。それらの地域の書籍業者には、従来のようなライプツィヒ経由ではなくて、ベルリンを通じて商売をする傾向が強まっていたのだ。ベルリンでは、例えば著名な劇作家レッシングの友人であった書籍商兼作家のフリードリヒ・ニコライが多面的な商売を通じて成功を収めていた。
このように18世紀後半の最後の三分の一の期間は、書籍出版販売業界にとっても、まさに「疾風怒濤の時代」なのであった。しかし近代的書籍出版販売制度の確立までには、なお幾多の紆余曲折を重ねることになる。

純粋な書籍販売業者の出現

この過程にあって一つ付け加えておきたいことは、帝国書籍業者が提案し北ドイツの書籍業者も受け入れることになった「条件取引制度」は、結局はドイツ全体の書籍業界に新たな確固たる基盤を築いたという事である。この新しい制度は18世紀から19世紀に変わるころ、完成したのであった。そしてこれは出版部門を持たない「純粋な書籍販売業者」の出現を促した。古い交換取引のやり方では、これは不可能であった事なのだ。

新たに動き出したドイツ書籍業界の新時代にあって、純粋な書籍販売業者の第一号とみなされるのが、フリードリヒ・C・ペルテス(1772-1843)であった。彼は北ドイツのハンブルクに書店を設立したのだ。このペルテスはドイツ語圏の出版人の中でも最も重要な人物の一人であるが、書籍商として成功を収めた後、出版業者としても1822年から中部ドイツのゴータで営業を始め、大きな成果を上げている。彼はまたナポレオン軍のハンブルク占領に対して、闘争を指揮するなど、政治の世界に身を投じたこともある。

しかし何といってもドイツの近代的書籍出版販売制度の確立に対する貢献が最も大きいといえる。後にドイツにおける著作権制度の確立に寄与したし、「ドイツ書籍商取引所組合」の共同設立者の一人でもあった。さらに書籍業者の専門的な養成研修機関の設立構想を、すでに1833年に発表するなど、出版業界が抱える基本的問題について幾多の論文も世に問うている。

委託販売方式の成立

条件取引制度成立の結果として、さらに書物の委託販売方式が生まれた。これは書籍見本市の開催都市ライプツィヒに従来あった、書籍を保管する倉庫管理業から生まれたものである。つまり交換取引の時代、ライプツィヒ以外の書籍出版販売業者は、見本市に出品する書物(製本されていない全紙の形)の倉庫をそれぞれ持っていたわけである。そしてその倉庫を管理する業者も当然存在した。

ところが条件取引制度の成立によって、こうした倉庫業は必要なくなった。しかし個々の出版業者が自ら販売業務をやるのは人手や経費・労力などの点から容易ではないので、こんどはすべての販売業務を代行してくれる人が必要となった。そこで生まれたのが従来倉庫管理業をやっていた人たちを主とした委託販売人であった。この書籍委託販売業は、今日ある書籍取次業の先駆的形態といえる。これら委託販売業者は、従来からあった倉庫を、出版社から受け取った書物を一時的に保管しておくための倉庫へと転用したわけである。こうしてライプツィヒには、出版社と書店との間の直接的取引を代行する書籍取次業者が生まれたのである。そしてこれによって、交換取引の時代に結合していた出版業と書籍販売業とが、はっきり分離することになった。

正価販売方式の導入、委託販売方式の成立そして純粋な出版業者の出現によって、ドイツの出版業界は、資本主義的経済原理に基づいて全面的に機能するようになった。書物は最終的に商品となったのである。何が生産され販売されるべきかは、需要と供給の関係によって決まることになった。資本主義的な書籍市場が生まれ、出版業者は企業家に昇格した。そして新たな生産と販売の方式は、読者大衆や製品である「書物」自体にも、それから著者の社会的地位や出版業者との関係にも影響を及ぼすことになった。

委託販売方式の確立によって、従来のように新刊書は書籍見本市の開催中とかその後ではじめて出版されるという事はなくなり、一年中いつでも出版できることになった。そして金と商品の交換はそれまでよりもずっと早まり、継続的なものとなった。また流通期間の短縮によって、資本のより多くの部分は同時に付加価値の生産を行うようになった。投下資本が再び取り戻され、付加価値が実現する度合いは、それまでよりもずっと早くなった。変わらない生産条件の下で生産は上昇し、供給が増大した。18世紀の最後の三分の一の期間に、書物の生産は著しく増大したのである。

作家の自主出版の試み

以上みてきたようなドイツ出版業の近代化の過程における一つのエピソードに学者や作家の「自主出版」の試みがあるので、ここで少しふれておきたい。18世紀後半になって、激しく揺れる書籍業界の動きの中で、著作者の中には、より堅固な地盤を求める者もあらわれてきた。つまりそれまでよりも安定した収入を確保するために、著作者自らの出版社を作ろうとする動きである。

この作家の自主出版社は、作家自身により良い収入をもたらすことが期待されたが、同時に販売業者を通さないという流通機構の簡素化によって読者にも書物を相対的に安く提供できるはずだという考えのもとに作られた。具体的にはこれは自分の作品を、予約注文と部分的な前払いの基礎の上に立って、自主出版社から発行するというものであった。名声があり読者によって熱心な支持を受け、しかもその名前が市場価値を持っていた作家の場合は、この考えを実行に移すことができた。

この試みで最も有名なのは、F・G・クロップシュトックであった。この作家はその作品『学者の共和国』(1772-73)と『救世主』(1779-81)の出版に当たってこれを行った。その他の著名な作家としては、ヴィーラント、レッシング、ゲーテ、シラーなども、時としてこうした自主出版の試みを行ったりした。

作家のレッシングはその著作『ハンブルク演劇論』(1767-69)の中で、自主出版に対する作家の権利を自信をもって次のように訴えている。

「作家が自分の頭の中から考え出したものを、儲かる仕事に結びつけようとしたからと言って、悪く取られることはないであろう」

こうした自主出版の試みの背後には、経済的な自立を得ることによって同時に、知的・道徳的な自由も獲得したいという作家たちの切実な念願もあったのだ。当時はなお作家や学者は一般に、自分の書いた著作物だけで生活していける状態にはなかった。学者は大学に、そして作家はほかに官職をもったり、パトロンを抱えたりして物質的生活を支えていたのである。学者や作家の自主出版の試みは、結局は挫折せざるを得なかった。この事業をかなり長期的に継続することができたのは、ヴィーラントぐらいのものだった。

作家がパトロンや官職との結びつきを絶って、自由と独立を獲得することは後に可能となったが、それはなお出版社とのつながりにおいてのみ可能であったのだ。その際作家は読者の要望に合わせなければ、長期間にわたる経済的な独立は望めなかった。つまり市場経済的圧力を受けることになったのだ。

レッシングと親しかったベルリンの作家兼書籍業者のフリードリヒ・ニコライは、先のレッシングの『ハンブルク演劇論』の宣伝広告文に中で、この作家を擁護した。しかしニコライは同時にレッシングが過小評価した書籍販売上の専門知識の欠如こそが、自主出版社を挫折させた原因であったことを、指摘しているのだ。

先に紹介した書籍業者のライヒの場合は、この問題に対して経営者としての立場からもっと厳しく臨んだ。彼は『ある書籍業者の思い付き』と題する冊子の中で、次のように述べている。

「まず何よりも書籍出版販売業というものが不可欠な存在であることを、人は認めねばならない。作家が一、二冊の作品を出版し販売することと、書籍出版販売業を経営して維持していくこととは、おのずから別の事柄である。自分の研究室や書斎で考えたことをそのまま実行に移そうとする人には、書籍業というものへの正しい認識が欠けている。クロップシュトック氏の(学者の)共和国の代わりに、書籍業者の共和国を作ったらどうであろうか? 有用な商品をオリジナルより正確で美しく翻刻出版して、半分の値段で読者に提供したらどうであろうか?」

これは正価販売制度を取り入れて、近代的な書籍出版販売制度を確立しようと尽力していた改革者ライヒの、自主出版と翻刻出版への痛烈な皮肉の言葉ととれよう。ライヒの言葉どおり、クロップシュトックの『学者の共和国』は、自主出版された翌年の1774年には、翻刻版が発行されたのである。この翻刻版業者からクロップシュトックに報酬が支払われなかったことは言うまでもない。いっぽうライプツィヒという地の利を生かして、自ら断行した新しい書籍販売制度によって経営業績を上げたライヒが、自らの出版社のために書いてくれた著作者に対しては、十分な報酬を支払ったことも付け加えておきたい。

第二章 18世紀後半の出版業者と出版物

18世紀後半は一般に後期啓蒙主義の時代と呼ばれている。「ライヒの改革」を通じてドイツの北部や東部一帯を中心に、出版界はすでに近代的な書籍出版販売体制へと転換していた。そしてこの時期には、書物の出版量が飛躍的に増大し、同時に出版業者が啓蒙主義文学の普及を促していた。

それではこの時期には、いったいどれくらいの出版社がどんな場所で出版活動に携わり、またどんな種類の出版物をどれくらいの規模で発行していたのであろうか。このことを明らかにするために、自ら啓蒙主義の著作家でもあったベルリンの書籍業者フリードリヒ・ニコライ(1733-1811)の在庫目録を利用することにしよう。ここでは18世紀ドイツの書籍史研究家パウル・ラーベの研究に基づいて見てゆくことにする。

この在庫目録は1787年3月26日付け、291頁、書籍点数5492点である。目録は24の専門分野に分類され、著者別と項目別にアルファベット順に並べられている。さらにそこには本の大きさ(判)、発行地、出版社名、価格が記載されている。これは書物を求める客のために作られた非常に有益なニコライ書店の在庫目録であった。1787年の発行ではあるが、1780年代の新刊書だけではなく、70年代、60年代のもの、時として50年代の本も載せられている。当時の書籍市場の継続性は今日では想像つかないくらい長かったから、50年代の本も決して古くはなかったのだ。しかしその主なものは1763-1787年の間のほぼ四分の一世紀に発行されたものが対象となっている。この種の在庫目録は当時の他の出版社からも発行されていたが、ニコライ書店の目録ほど完備したものはない。そこには18世紀のドイツの教養人が求めていた書物の最も重要な題名が記載されているのだ。

つまりドイツの啓蒙主義の著作家たちの代表的作品が網羅されているわけだ。ただこの目録はプロイセン王国の王都ベルリンに住んでいた教養人を対象としたものであるから、ここから直ちに当時のドイツ全体の傾向を引き出すことはできない。とはいえこの目録を見れば、当時の書籍市場に出回っていた書物の多様さに、まず強い印象を受けざるを得ない。そしてまた啓蒙主義の刻印をいたる所に見て取ることができる。ただしニコライはドイツの北部から東部にかけて手広く販売網を広げていたから、それらの傾向はベルリンだけではなく、ライプツィヒを含めた中北部ないし東部ドイツの読書傾向をそこに読み取ることは可能であろう。またこの在庫目録が対象とした18世紀後半の四分の一世紀は、あたかも南ドイツ・オーストリア地域における翻刻本の黄金時代と重なっていたことを想起してほしい。

18世紀後半の出版物

それでは次に、この在庫目録の内容を24の専門分野別に見ていくことによって、18世紀後半のドイツの出版物について瞥見することにしよう。(全部で5492点)

① 道徳、哲学(176点)
ここには主に啓蒙主義哲学者の作品が採録されている。そしてイマヌエ  ル・カント、モーゼス・メンデルスゾーン、クリスティアン・ヴォルフなどの名前が見える。
② 神学(306点)
ここにも啓蒙主義作家の作品がみられる。
③④ 歴史(477点)
非常に広範なグループ。なかでも「プロイセン・ブランデンブルクの祖国史」が、ニコライ書店の所在地ベルリンとの関連で、107点と多い。またプロイセンをヨーロッパ列強の一つに押し上げた七年戦争の終了(1763年)後に新しく発行された歴史文学も注目される。そのほか世界史、伝記、個々の国々・地域・都市に関する地誌、古代・中世・近世の事件史、主な雑誌などが、ここに含まれている。
⑤⑥ 地理と統計(347点)
ここには旅行記(紀行文)192点も含まれている。
⑦ 理学、博物誌、化学、鉱山学(598点)
当時のポピュラー・サイエンスの分野の重要な論文がすべて。また18世紀に淵源をもつ自然科学上の専門文献も。
⑧ 商業、マニュファクチャー、技術、法律、国家学、警察学、財政学(191点)
これは実用的な啓蒙主義文献ともいうべきジャンル。
⑨ 家政学、農業、林業、造園(267点)
これは日常的な実用書。
⑩⑪⑫ 純文学(625点)
ここは⑩詩、⑪演劇、⑫小説の三つに分けられてる。詩の部門では、当時の重要な詩人が勢ぞろいしている。ゲラート、ゲーテ、ハラー、ヤコービ、クロップシュトック、レッシング、シュレーゲル、ヴィーラントなど。演劇及び小説は大部分が、作品別に分類されている。
⑬ 音楽(239点)
実用音楽上の文献と音楽史に関する論文。
⑭ 文芸批評、美術評論(156点)
レッシングに関するP・バイレの作品やヴィンケルマンに関するA・R・メングスの評論などが注目される。
⑮ ドイツ言語学(55点)
⑯ 児童教育、授業、娯楽(216点)
ここには教育学上の文献、当時使用されていた教科書、子供向け雑誌などが含まれている。
⑰ 1760年代、70年代の道徳週刊誌(22点)
すでに道徳週刊誌の時代は過ぎていたが、ニコライはここに採録。多くは復刻版。
⑱ 定期刊行物(53点)
ジャーナル、月刊誌、評論誌など。点数が少ないのは、当時も今日と同様に、雑誌類の保管が難しかったためであろう。
⑲ 様々なジャンル(262点)
ほかのどの項目にも入らないもの。例えば暇つぶしの本とかフリーメーソンに関する本など。
⑳ 軍事学(132点)
ベルリンの書店の特色ともいえる項目。プロイセン軍部の将校や貴族が客。
㉑ ギリシア・ローマの古典文献(274点)
啓蒙主義の時代に、ギリシア・ローマの古典作品が重要な意味を持っていたことの反映。
㉒ ギリシア・ローマ古典文献のドイツ語訳の作品(220点)
ギリシア語、ラテン語が読めない一般読書人が対象。
㉓ 現代諸語の娯楽文学のドイツ語訳の作品(243点)
主として英語、フランス語、イタリア語。
㉔ ドイツで印刷されたか、もしくは入手することができた外国語の書籍(650点)

さて、この目録の中身は、啓蒙時代における書物の買い手の関心のありかを示している。と同時にそこに記載されている書物の題名は、18世紀後半における書物出版の重点の置き方についても伝えているといえる。このニコライ書店の在庫目録を見ると、書物の採録に当たって、書籍見本市のカタログには見られれない特色がうかがえる。つまりそこには自ら啓蒙主義の著作家でもあり、啓蒙思想を広く普及させようと考えていた出版人ニコライの気持ちが反映されているのである。そしてこれは、啓蒙時代に先進地域であったドイツ中北部の書籍出版の一般的傾向をも代表するものと解釈できよう。

18世紀後半におけるドイツの出版社所在地

ニコライ書店の在庫目録を子細に眺め、収録点数一点までの出版社の所在地を調べてみると、その多様なことは驚くぐらいである。その数は全部で105か所にも及んでいるが、これは当時のドイツの小国分立状態に、まさに対応したものと言えよう。しかし1815年のウィーン会議の結果、こうした状態はかなり整理統合され、出版界にもその影響は及んだ。その結果1815年以降になるとドイツの出版社分布図は大きく塗り変えられたわけであるが、今はその前の状況を見ることにしよう。

さて在庫目録から出版社の数が三つ以上の都市を選んで、順番に並べたのが次の表である。

ドイツの出版社所在都市(出版社数の順)

出版社所在都市名    出版社の数    収録点数
1.ベルリン         25     859
2.ライプツィヒ       24    1321           3.フランクフルト      15      175
4.ニュルンベルク      15      154
5.ウィーン         13      123
6.ハレ           10      237
7.ハンブルク          9     176
8.コペンハーゲン        6      36
9.ゲッティンゲン        5     143
10.ブレスラウ          5     121
11.バーゼル          5      67
12.シュトラースブルク     5      35
13.アウクスブルク       5      31
14 チューリヒ         4     137
15.ケーニヒスベルク      4      22
16.ドレスデン         3     175
17.ブラウンシュヴァイク    3      62
18.エルフルト         3      24
19.ヴィッテンベルク      3      17
20.ミュンヘン         3      14
21.イェーナ          3      13
22.アルトナ          3      10

この表によると、105か所のうち、三つ以上の出版社があった都市は、わずか22か所しかないことが分かる。これは一都市に一つないし二つの出版社しかない所が、いかに多かったという事を逆に示しているわけである。また出版社の数と収録点数が比例関係にないことが分かる。これが著しいのが、とりわけフランクフルト、ニュルンベルク、ウィーンといった南ドイツ・オーストリアの古い都市である。これらの都市には当時なお沢山の出版社が存在していたが、その収録点数は、ライプツィヒ及びベルリンに比べると、極めて少ないことが分かる。これらの都市の出版社はこの時期にはあまり新刊書の出版をせずに、主としてドイツ中北部の出版社のオリジナル作品を翻刻出版していたからである。とはいえこれら三都市は何といっても伝統的な出版都市で、他の都市に比べればなおこの時期にも、新刊書をかなり出版していた事実も否めない。これと肩を並べているのが、中北部のハレ、ハンブルク、ドレスデン、ゲッティンゲン、ブレスラウそしてスイスのチューリヒである。

以上のことをもう一度まとめてみよう。出版社の数及び新刊書発行点数という二つの観点から、18世紀後半期の上位10位までの出版都市を、上から順に並べたのが次の表である。

十大出版都市(ニコライ在庫目録から見た)

1.ライプツィヒ 2.ベルリン 3.フランクフルト 4.ニュルンベルク
5.ウィーン 6.ハレ 7.ハンブルク 8.ゲッティンゲン 9.ブレスラウ 10.ドレスデン

いっぽうライプツィッヒ見本市カタログに載せられた新刊書の点数から上位10位までの出版都市をランク付けしたものが、次の表である。

十大出版都市(見本市カタログから見た)

1.ライプツィヒ 2.ベルリン 3.フランクフルト 4.ハレ 5.ニュルンベルク 6.ゲッティンゲン 7.ハンブルク 8.ウィーン 9.ブレスラウ 10.ドレスデン

ここでも見本市都市ライプツィヒの優位には確固たるものがある。次いでプロイセン王国の王都ベルリンが、プロイセン啓蒙主義のセンターとしての気をはいている。また古い商業都市フランクフルト、ニュルンベルク、ハンブルクは、啓蒙主義文献の仲介者としての役割を果たしている。そして新しい精神と啓蒙思想の牙城であったハレ、ゲッティンゲンといった大学都市も、出版面で啓蒙思想を普及することに貢献したことが分かる。当時翻刻出版が隆盛を極めていたウィーンも、新刊書の発行点数でかなりの地位を占めていたことが注目される。これは啓蒙専制君主ヨーゼフ二世の意向によって、新刊書を通じても啓蒙思想の普及が図られていたことを示すものと言えよう。

第三章 翻刻出版の花盛り

先に述べたように、ドイツの書籍出版販売界は18世紀から19世紀への変わり目ごろ、近代化への転換を遂げた。ところが北ドイツの出版界の近代化へ向けての改革運動に対して、南ドイツの帝国書籍業者は翻刻出版の大々的実行をもって応じたのであった。この翻刻出版の黄金時代は1765-1785年の二十年間といわれている。翻刻出版は北ドイツの書籍業者からは、「海賊出版」行為だとして非難されていたが、それ自体ドイツの出版文化に対してはマイナス面ばかりをもたらしたわけではなかった。そこでここでは、この時代の翻刻出版が抱えていた様々な問題を、その功罪を含めて考えてみることにしよう。

さて1785年6月28日付けのフランスの新聞「ジュルナール・ジェネラール・ドゥ・リューロップ」の記事は、書籍の海賊出版が18世紀にあっては、全ヨーロッパ的な現象であったことを示している。またイギリスのオリジナル出版社は、フランスのオリジナル出版社と同じ立場から、オランダやアイルランドに海賊出版社がいることを考慮に入れねばならなかったという。

またこのころドイツのフランクフルトで「翻刻出版業者年鑑」というものが発行されているのである。これはフランクフルトを盟主とする帝国書籍業者の間に、当時いかに多くのものが翻刻出版に携わっていたかという事を示す有力な証拠物件である。そしてこのころの南ドイツ・オーストリア一帯ほど、人々の文化的・社会的生活の発展にとって、書籍の翻刻出版が重要な意味もっていた所はほかになかったのである。ある意味では「翻刻出版の黄金時代」には、ドイツ書籍業界全体が、この問題を中心に動いていたと言えるぐらいなのである。翻刻出版は数十年間にわたって、法律家の学術論文の対象となったり、告発者と弁護者の間でパンフレットによる激しい論争が繰り広げられたり、文芸雑誌の繰り返される討論のテーマとなったりしたのだ。

翻刻出版の黄金時代

ライプツィヒを中心とするザクセン地方の書籍業者による、帝国書籍業者に対する「宣戦布告」によって、翻刻出版の黄金時代(1765-1785)は現出した。当時の帝国書籍業界の大部分にとっては、この翻刻出版こそは生き残るための「希望の星」だったのだ。実際問題としてライプツィヒの出版社が出してきた価格および取引の条件は、帝国書籍業界にとっては、とてものめるものではなかった。そのため帝国書籍業者たちは、北ドイツで出版された書籍を基にして原出版社に断りなしに新たな版型を作り、印刷をするという翻刻出版に踏み出していったのである。

同時にこれら翻刻出版社は、従来の書籍販売のルートである見本市に代わって、新たな販売方法を開発した。常駐の書籍販売商のいない地域では、彼らは製本業者、小規模書籍商そして小さな町や村をとことこ歩いて回る行商人をつかまえた。そのほか村の司祭、宮廷の家庭教師、学校の校長先生さらに学生にまで、書物の販売を委託した。この方法はことのほか成功を収めた。その結果翻刻本は、わずか数年の間に、従来の書籍商が決して入り込むことができなかったような、はるか遠方の片田舎にまで浸透するようになった。安い価格と最良の書物の選択が読者をひきつけた。それまで一生本を買うことなど考えもしなかった人も次第にちょっとした本の収集をするようになった。それまでは高価なゆえに「高嶺の花」だった書物を、ドイツの片田舎の人々が手にするようになったのだ。彼らは初めは翻刻版のちょっとした文庫に手を触れ、それらを通じて読書の習慣を身につけていった。しかしそれだけにはとどまらず、彼らの書物への熱望はますます強まっていった。そしてそれとともに彼らの読書への趣味・嗜好は一般的に洗練されていった。これは一口に「読書革命」といわれているもので、これについては後にもう一度詳しく見ることにしたい。

さてこうした読者層の拡大を背景に、翻刻出版はその黄金時代を迎えたわけであるが、次にそうした出版に携わっていた人々のことに触れることにしよう。前述した1765-85年という僅か20年の間に、ウィーンのトラットナー、フランクフルトのファレントラップ、そして南西ドイツ、カールスルーエのシュミーダーといった翻刻出版の「王様たち」が、大々的に翻刻出版のシリーズ・プロジェクトを展開した。中でもシュミーダーは、その名前から後に海賊出版することがドイツ語でschmiedernとも呼ばれるようになったぐらい、関係者や研究者の間では、悪い意味で有名な存在である。

とはいえこのシュミーダーもトラットナーと並んで、その出版プロジェクトを通じて、一種の国民教育的意図を実現しようとしていたことは認めねばなるまい。つまり彼は1774年、啓蒙期ドイツ文学の全集を企画・編纂したのであるが、そこには百科全書的な概観が与えられた。当時需要はなおわずかなものであったにもかかわらず、作家の選定に当たっては完璧を期したといわれる。シリーズのタイトルは「ドイツ作家・詩人選集」というものであったが、それは啓蒙期ドイツ文学の優れた概観を提供していた。これとは別にシュミーダーは、通俗作家や評価の低い作家の作品も扱ったりしていた。こうして1780年ごろ、シュミーダーの翻刻出版活動の第一段階は終わった。

純文学に対する読者の要望はオーストリア地域でも高まり、それへの充足が同様に翻刻出版の形で行われた。先に挙げたトラットナーは1765年、シュミーダーに先立ち純文学作家の作品の翻刻出版に踏み切り、以後次々に出版していった。ところがトラットナーは20年後の1785年には、非文学的で百科全書的な内容のシリーズ出版を企画した。そのプログラムは「学問のあらゆる分野を含む書物の廉価な調達によるオーストリア帝国における読書の一般的普及に関する計画」という、物々しいタイトルをもっていた。この1785年という年は翻刻出版の黄金時代の終末期に当たっていたが、このころになるとオーストリアの読書大衆は北ドイツ文学の代用品に飽きが来ていたのかもしれない。

とはいえ1765年のトラットナーの、そしてとりわけ1774年のシュミーダーの文学全集計画は、「読者の嗜好におもねっただけの安手の海賊出版」という、従来しばしば行われてきた非難が、必ずしも当たらないことを示している。そこで翻刻出版の対象となった作品はむしろ評価の定まったものであり、逆に翻刻出版されないような書物はオリジナル版の購入にも値しないものだ、という認識すら出てきた。こうして啓蒙期の優れたドイツ文学の作品は、南ドイツやオーストリアにあっても、関心のある人にはいつでも手に入れることができたのであった。

さて今までは南ドイツやオーストリアにおける翻刻出版について述べてきたが、北ドイツ地域でも、南ほど盛んではなかったにせよ、翻刻出版は行われていたのである。そしてこの北ドイツにおける翻刻出版こそは、北のオリジナル出版社にとって危険な要素とみられていたわけである。北ドイツ地域にも、正価販売の書籍が高すぎて手に入らない人々がたくさんいたからである。そのためこの層の人々が安い翻刻版に飛びつくのは、いわば当然のことであった。

たとえばウィーンの翻刻出版の王様と呼ばれたトラットナーは、東北ドイツのマグデブルクにヘヒテル、そしてヴォルフェンビュッテルにマイスナーという代理店を持っていた。また北ドイツのハンブルクのある郵便局員は、シュミーダーやフライシュハウアーの翻刻版を売っていた。そして東北ドイツ、ザクセン地方のドレスデンのタバコ業者は、手に入る翻刻版の100点を超すリストを、自分の店で配っていた。さらにこうした類いの翻刻版についての広告は、北ドイツのインテリ向けの雑誌の中にもみられた。こうした翻刻版の普及によって北ドイツのオリジナル出版社は、確かに利益の一部を奪われた。しかしそれは経営の存立を脅かすほどのものではなかった。とはいえ中北部のドイツ一帯へのへの翻刻本の進出によって、ライヒが始めた正価販売方式(返品権のない現金払いと低い割引率)を長期にわたって存続させていくことは困難になった。かくして帝国書籍業界が提示し、発展させた条件販売方式を、やがて中北部ドイツの書籍業者も採用することになったわけである。

ところで反対陣営から絶えず非難されていた翻刻版業者の法外な利益という事も、実際は事実に反するようである。常に引き合いに出される例のトラットナーは、200人の従業員と37台の印刷機を所有した企業主であったが、その活動の多くはオリジナル出版社としての業務に当てられていた。またベルリンの書籍業者F・ニコライは、彼の翻刻版業務が全体の出版活動のごく一部しか占めていないことを明らかにしている。さらに「翻刻版業界の帝王」などと呼ばれていたシュミーダーも、実はその経営は小規模なものであった。かれは1808年に出版業ををやめることになるが、その後の生活は決して贅沢なものではなかったという。そして1827年、彼は小さな王国の下級官房職員として死んだ。

翻刻出版に対する学者・作家の反応

それでは当時の学者や作家はこの翻刻出版の問題をどのように見ていたのだろうか。時代は少しさかのぼるが、17世紀バロック時代の小説家グリンメルスハウゼンは、その代表作『ジンプリツィシムスの冒険』の第四版の中で、海賊出版に対して異議を申し立てている。同様に教養あるシュヴァルツブルクの宰相フリッチュも、1675年に世に出した小冊子の中で海賊出版を非難している。
しかしイエナ大学法学部が1722年11月に出した鑑定書の中では、「何人も政府から特権をが認められない以上、著者も出版社も他人に対して翻刻出版を禁止する権利はない」との見解が示されている。この見解に従って南ドイツ、チュービンゲンのある印刷・出版業者は1744年、ヴュルテンベルクの領主から一定の条件付きで、翻刻出版の認可を受けている。

ところが海賊出版に対する評価には、時の経過とともに根本的な変化がみられるようになった。当初は印刷業者または出版業者だけが、海賊版の被害者だとみなされていた。しかしその後、精神的所有権に関する教説(今日問題となっている<知的所有権>の萌芽とみられる)が、相次いで出されることになった。つまり作品に対する著作者及び出版者の所有権は、その対価として作品の使用権をも含むものだ、とする考え方である。そしてこの考え方から海賊版に反対しているのである。ゲッティンゲン大学法学部教授G・C・リヒテンベルクになると、海賊版論難の調子は高まり、「闇印刷屋」とか「泥棒」といった表現すら用いているのだ。

いっぽう文学者のG・A・ビュルガーは、著者及び出版社のための保護機関を設立する計画を立てたが、これは実現しなかった。先にも紹介した作家のレッシングは「海賊出版業者は、自ら種をまかないで収穫だけをさらっていく者であり、その行為は恥ずべきである。ただドイツにはこの問題を解決するための有効な法律が存在しない」と嘆いている。さらに時代が下って1785年になると、哲学者のカントが『ベルリーナー・モナーツヘフト』という雑誌の中で、「海賊出版社の不法行為について」という文書を書いている。1791年には同じく哲学者のフィヒテが同様の試みをしている。また宮廷付き図書館司書のカイザーなる男は、レーゲンスブルクで発行された文書の中で次のように述べている。

「海賊出版社はリスクをもっぱら原出版社に負わせている。ある作品の成功の見通しがついた時に、海賊出版社はやってきて、原出版社から利潤の上前をはねているのだ。そして彼らは、結局失敗した投機には手を出さずに済んでいるのだ」

これに対して今日でもよく聞かれる海賊版擁護論もあった。それはつまり、海賊版によって書物ができる限り廉価に市場に出回ることは結構なことだし、社会的観点から見ても有益なことである、という考え方であった。この考えを表明したのは、A・F・v・クニッゲであった。彼は思想の所産が普及することに対しては、何人も異議をさしはさむことはできないとした。またC・S・クラウゼはルターを思わせるような考えを1783年に表明している。そして作家にとってその思想が、たとえ翻刻版を通じてであれ、広まることはむしろ望ましい事だと述べている。

1760年代の翻刻には、外観内容ともにオリジナル版と肩を並べるか、時には凌駕する者さえあったことは事実である。ところが1770年代も末になると、海賊版は全体として造本の点で見劣りし、魅力を失っていった。これは主として値段が安いことからくるのであるが、灰色のたるんだ紙の使用、粗末な造本、スペースを節約した印刷、そして数多くの誤植から、時として文章の意味さえ違ってくるものもあった。また元のテキストを自由に短縮したり、切断したりしての出版もあった。

このようなこと全てに対して、少なからぬ作家がふんげきしたのも無理からぬことであった。なぜなら彼らはその頃まさに目覚め始めた作家的自意識をないがしろにされたと感じ、また自分たちの精神的産物の不可侵性を無視されたと感じたからであった。

ところがこうしたあらゆるマイナス面にもかかわらず、翻刻出版には大きなプラス面があったことも、ここで繰り返し強調しておきたい。それはこの翻刻版を通じて初めて、北ドイツの作家たちの作品が、南ドイツないしオーストリア方面に知られるようになったのであり、そのことによって彼らは、当時急激に増大していた「新しい読者層」を獲得することができたからであった。

海賊出版がドイツで禁止され、近代的な版権・著作権の概念が確立するのは、ようやく1830年になってからのことなのである。

領邦国家の保護政策と翻刻出版

以上みてきたような翻刻出版の隆盛を考える場合に見落としてならないことは、国家の保護政策が果たした役割である。17,18世紀のドイツは、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国との間に複雑な関係があったが、実質的には大小無数の領邦国家から成りたっていたわけである。17世紀初めに導入された書籍の交換取引にしても、そうした無数の国々が発行していた通貨が、その内部でだけしか通用しなかったことからくるわけである。

それからドイツの領邦国家は17世紀にはいると重商主義思想の一変形ともいえるカメラリズムを、国家の政策の中心に据えるようになった。これは自国の通貨をできるかぎり国の外に流出させないことによって、富国策を図ろうとした当時の君侯中心の考え方であった。ドイツの大小無数の領邦国家やハプスブルク家のオーストリアは、輸出入管理法及び関税という手段によって、これを可能にしていた。これはつまりドイツ内部の地域的保護政策であるが、18世紀の後半になってもなお、このカメラリズムがドイツの書籍出版販売に影響を及ぼしていたのである。

書籍の取引が国と国との境を越えて行われるとき、17世紀初めから続いてきた交換取引の方式ならば、自国の通貨が外部に流出しないので、カメラリズムの政策にとって支障がなかった。ところが18世紀の60年代に入ってライプツィヒの書籍業者が始めた現金取引が、領邦国家のカメラリズム的地域経済政策に障害を及ぼすことになったのである。とりわけ南ドイツやオーストリアの書籍業者がライプツィヒ見本市で取引しようとすると、それら書籍業者が属する領邦国家の通貨を国外に流出させることになるからであった。こうした理由からそれらの国の君侯は、自国の金が流れ出ていくことがない翻刻出版を支援するようになったわけである。そうした君侯の意向を察知した翻刻出版業者の一人は、自分のところの君侯に次のような申し出をしている。

「翻刻出版というものは、帝国の諸国にとって極めて大きな政治的重要性を有する事業であります。(北ドイツで)重要な書物が出版されますと、様々なルートを通って金はザクセンへと流出します。しかし(翻刻出版を採用すれば)金は帝国内にとどまり、ザクセンとの貿易収支のうえで、私どもが失うことはないのです。つまり住民に食料を供給し、君侯の金庫には金を流し込むような新しい事業を起こす必要があるのです」

自国の住民が外国の独占業者からだまされたり、甘い汁を吸われたりするのを未然に防ぎ、「適正な」商品価格を維持することは、当時の領邦国家の当然の義務と考えられていた。こうした考えから、北ドイツのプロイセン王国政府ですら、1765年に次のような見解を表明しているわけである。

「もしある書物の本来の出版社が買い手を著しく傷つけた場合には、翻刻出版は許されるべきである」

こうした見解にもとづいて、ベルリン在住の書籍業者パウリは、作家ゲラートの作品の翻刻出版を許された。

とはいえ翻刻出版に最も熱心であったのは、オーストリアであった。18世紀半ばオーストリア書籍出版量は極めて少なく、もっぱら北ドイツ方面から輸入せざるを得ない状況にあった。このため例えばザクセン地方、ドレスデンの書籍業者C・G・ヴァルターは、1765年一年間に、オーストリアの書籍業者との取引で、4万グルデン以上の儲けを手にしたという。こうした状況を放置しておけば、オーストリアの金はどんどん国外に流出する一方であった。

そのため自国の書籍業者を翻刻出版へと誘うことは、まさに経済的理性の命ずるところであったのだ。啓蒙専制君主であったオーストリア女帝マリア・テレジアは、書籍業者トラットナーと初めて会見したとき、次のように言ったという。

「トラットナーよ、書物を生み出すことこそが、わが国家の原理です。それなのに目下わが国には、書物は少ないのです。ですから書物はどんどん印刷されるべきでしょう。オリジナル作品が出てくるまでは、翻刻出版を行ったらよいのです。翻刻出版するのです!」

こうして自国の翻刻出版を保護するために、オーストリア政府は該当する作品のオリジナル版の輸入を、意図的に許可しなかったのである。
同様の保護をバーデン辺境伯は、その所領内のカールスルーエ在住の例の書籍業者シュミーダーに与えたのである。さらに当時経済状態が部分的に極めて劣悪だった帝国直属都市(たとえばロイトリンゲンのような)にとっては、翻刻出版は「背に腹は代えられぬ」ものだったようだ。

国家の重商主義政策にとって、文化政策も一役買った。国家の財政負担をかけずに啓蒙思想を僻遠の地にまで広めるのに、翻刻出版は願ってもない存在だったのだ。マリア・テレジアの後継者のオーストリア皇帝ヨーゼフ二世にとっては、自分の抱いていた啓蒙思想の普及にとって、翻刻出版こそは不可欠の要素だった。彼は国内の学者陣営からの激しい攻撃をものともせずに、これを推進したのであった。
このヨーゼフ二世と同じ考えから、先のバーデン辺境伯やバンベルク司教、ヴュルツブルク司教などの啓蒙的諸侯は、翻刻出版を支持したのであった。南ドイツの大きな領邦国家のなかでは、ヨーゼフ二世の啓蒙思想が及んでいなかったバイエルン王国だけは事情が違っていて、そこにはわずかな例外は除いて、組織だった翻刻出版産業は見当たらなかった。

一般に南ドイツの帝国領域内の領邦国家の中では、いわゆる海賊版に対する苦情や訴えは、国から認めてもらえなかった。当時のドイツにあっては、そうした領邦国家こそが権力の保持者であったからである。そのため翻刻出版に対する保護も領邦国家の君主が認めればよいのだが、逆にそれは領邦を越えた書籍取引には役に立たなかった。こうした領邦主権の中では、改革派の書籍業者に対するザクセン王国政府の特権付与も、南ドイツのヴュルテンベルク王国における翻刻出版を妨げるものではなかったのである。

 

2023年5月ドイツ鉄道の旅

はじめに

私はほぼ4年ぶりにドイツ旅行をしてきた。前回はコロナ前の2019年7月 にドイツへ行っている。今回は2023年5月19日から6月2日までの、およそ2週間の滞在であった。準備段階の2月にはドイツ入国に当たって、コロナ書類の提出は不要になっていた。いっぽう日本の水際対策はなお厳しく、帰国したとき空港で、ワクチン接種証明書(3回以上)を見せろとか、質問票に答えよとか、うるさい手続きが待ち構えていた。しかし5月初めにこの厳しい措置は撤廃されることになった。

今回は家内とともに、ドイツ在住の長男に会い、3人でドイツ国内を2週間たらず、鉄道で動き回ることにした。そのため長男が長年住んでいるケルン市の旅行社に頼んで、往復の航空便(ルフトハンザ)を予約してくれた。個人旅行なのでもちろんエコノミークラスで席は窮屈だが、慣れている。また各地で泊まるホテルも予約し、鉄道の切符も主要な路線については買っておいてくれた。 ただ円安のため、日本からドイツへ行くのは、ずいぶん高くついたが、やむおえなかった。ホテルについては4年前に比べて安いところを選んで、節約した。

第一日 5月19日(金)曇り
羽田-フランクフルト

8時10分、相模原市に住んでいる次男が、世田谷の家に車で迎えに来てくれた。重いトランクなどを積んで、車は羽田空港へ向かった。この日はちょうどG7広島サミットの開幕日であったが、それとは関係なく、環七通りから羽田空港までの道路は大変混んでいた。それでもなんとか国際線の第3ターミナルの駐車場にたどり着いた。
チェックインは昨日オンラインで座席も取れていたので、すぐにルフトハンザのカウンターで旅券を見せて大きな荷物を預けることができた。出発までに十分時間の余裕があり、国際線ロビーで海外旅行保険(15日間)の契約をした。

11時ごろ次男と別れ、搭乗手続きをする。そして11時半機内に入る。二人は中ごろの窓際席とその隣に座る。機内はほぼ満席であったが、日本人の姿は少ない。これまでも慣れてはいたが、エコノミークラスの座席は、やはり大変窮屈だ。隣の通路側に外国人が座り、すぐにパソコンを取り出し、何やら仕事を始めだした。そのためトイレに行くときは、面倒であった。
それはともかく、ロシアのウクライナ侵攻で、ロシア上空は飛べないため、アラスカから北極海上空を通り、ノルウエー上空から南下してドイツのフランクフルトまで、14時間の旅だ。ロシア(シベリア)経由より2時間ほど長い。機内では文庫本を読もうとしたが、照明が暗く、眼が疲れる。幸い席の前の画面に、コンピュータ・チェスを見つけ、初めて人のいない対局を行った。コンピュータの反応は素早く、こちらが指すと、すぐに反応する。しかも的確な指し手で、何度指しても負けてばかりだ。それでも有り余る時間の暇つぶしにはもってこいであった。

やがてルフトハンザ機は、現地時間の20時ごろフランクフルト空港に到着した。出国審査を終え、預けたトランクを受け取ってから、出口のところで、長男の出迎えを受けた。空港の周辺は晴れていて、午後8時でも明るかった。そして空港駅でドイツの新幹線ICEに乗ってケルンへ移動。その時気が付いたのだが、空港内でもその後の列車の中でも、マスクをしている人はいなかった。もともとドイツではマスク着用の習慣がなかったので、その義務から解放されると、きれいさっぱりマスクはしていないのだ。こちらもその習慣に従って、ドイツ滞在中はマスクをしないで過ごした。ケルン中央駅に着いてから、タクシーで長男の家に入った。こうして一日目の長旅は終わった。

第二日 5月20日(土)曇り
ケルン滞在

午前7時ごろ、目を覚ます。長男が作ってくれたドイツ式朝食(コーヒー、ハムやチーズをのせたドイツ・パン、サラダ、目玉焼き)をとる。そのあと朝の散歩をする。私が昔勤務していたドイツ海外放送の建物が、偶然長男の家に近い所にあったが、ドイツ統一後、この放送局はボンへ移動した。しかしその後もこの建物は空き家となっていたが、最近取り壊されたので、その跡地を見に行った。そこは今後一般向けの中層の集合住宅が立つ予定だという。

ケルン市南部霊園内の来住さん(ドイツ海外放送日本語課の昔の同僚)の墓

そのあと長男の案内で、南墓地へ向かう。ケルン市の南に位置しているこの霊園は広大な敷地を持っている。その一角にある墓が目当てなのだが、それはドイツ海外放送の日本語課で一緒に仕事をしていた同僚で数年前に亡くなった男性のものだ。平らな墓石には、ただ「来住KISHI」とだけ刻まれていた。ついでながらその霊園には、第一次世界大戦で亡くなったドイツ人の墓があり、また第二次大戦後の占領時代にケルン地域を管理していたイギリス人の墓地もあった。
長男の家に戻ってからは、明日からの旅の準備をしたりして過ごす。

第三日 5月21日(日)晴れ
ベルリン一日目

午前6時起床。朝食をとってから、タクシーでケルン中央駅へ向かう。そして8時48分発ベルリン行きの新幹線ICEに乗り込む。北ドイツの大平原を走り、中都会ハノーファーを経由して、およそ4時間半、ベルリン中央駅に13時27分に到着。列車で移動中、天気は曇りから次第に晴れてきて、ベルリンに着いた時は暑いぐらい。立体的な中央駅構内は、大変な人込みだ。

長男の案内に従って新しい地下鉄に乗り、12番目の、旧東ベルリン地区(リヒテンベルク)にあるマグダレーナ駅で下車する。そして広々とした大通りを歩いて、“NH Berlin City Ost”ホテルに入る。ここは旧東ベルリン地区でも、やや東の方にある新しいホテルだ。NH ホテルは全国的なチェインホテルで、コロナ前の2017年には、ベルリンの中心部にあるNHホテルに泊まったことがある。内部の設備などは両者ともあまり変わっていないが、予約した長男の話では、今回のホテルは都心部から離れているため、かなり割安なのだという。

円安で日本人にとってはすべて高くなっている今回のドイツ旅行であるから、私にとってホテル代が安いのはありがたいことだ。そしてこれまで知らなかった、この地区のことを知る良い機会にもなっている。しかも都心部まで直通の新しい地下鉄に乗って、かなり短時間で行けるのだ。

午後3時、ホテルに隣接するイタリア料理店で、遅い昼食をとる。そのあと地下鉄で、都心部へ出ることにした。そして「連邦議会駅(Bundestag)」で下車した。地上に出ると、そこは有名なブランデンブルク門から連邦議会、首相官邸、議員会館などが、まさに踵(きびす)を接して立ち並んでいるところだ。日本で言えば、永田町や霞が関界隈に相当する地区だ。そのあたりにはシュプレー川が蛇行していて、景観に色を添えている。中央駅も近く、ブランデンブルク門からは、「ウンター・デン・リンデン」大通りが通じている。そして門の西側には、「ティアガルテン」と呼ばれる広大な公園が横たわっている。そこは18世紀にはプロイセン王国の王侯貴族が狩猟していたところなのだ。

連邦首相官邸前にて

さて日曜日の良く晴れた午後、広々としたこの地区の芝生に寝そべったり、ベンチに座ったりしている家族ずれや若者たちの姿が見える。私たち3人はまず首相官邸前の鉄柵の前まで行って、官邸を眺めた。この建物の主であるショルツ首相は普段はこの奥で執務しているわけだが、今はG7広島サミットに参加していて留守なのだ。

連邦議事堂の正面

次いで我々はその向かい側に立つ連邦議事堂のわきにある見学コースの入口へと向かった。長男の予約のおかげで、三人は一群の人々と一緒に議事堂の内部に入ることができた。といっても議事が行われるホールではなくて、その上に後からつけられたガラス製の透明な半球状の部分に上がり、さらにらせん状にぐるぐる回っているスロープを上っていくのだ。そして屋上に出ると、そこからは四方八方、ベルリン中心街を俯瞰できるのだ。そこはまさに格好の展望台になっていて、素晴らしい眺めを満喫できた。

連邦議事堂の上にとりつけらた半球状の構築物

議事堂の屋上からの眺め。左手にブランデンブルク門が見える。

そのあと再び地下鉄に乗り、中央駅で、円からユーロへ必要分だけ両替した。そしてサンドウィッチや飲み物を買い込んで、ホテルに戻り、部屋の中で簡単な食事をした。

第四日 5月22日(月)晴れ
ベルリン二日目

朝6時起床。ホテルの浴室でシャワーを浴び、旅の汚れを落とす。そのあとテレビの早朝ワイドショウ番組“MoMa”を見る。8時、3人そろって一階へ。廊下を通って、たどり着いたのは、昨日の午後食事をしたイタリア料理店であった。ビュッフェ方式で、自分で好きなものを選ぶのだ。ドイツパン、チーズ、ハム、卵焼き、サラダ、果物、ジュースそしてコーヒーを取り揃え、たっぷりした朝食を楽しむ。

ベルリン大聖堂(ウンター・デン・リンデン大通り)右側にテレビ塔

一休みしてから、地下鉄5号線に乗り、博物館島駅で下車。目の前にどっしりとした構えを見せているベルリン大聖堂に入る。ここは19世紀後半のドイツ帝国の時代に建てられたプロテスタントの教会。帝国の中心を占めていたプロイセンの代表的建築である。そしてプロイセン王国の王朝であったホーエンツォレルン家の墓所ともなっており、地下には王族の関係者94人のお棺が並んでいる。

次いでシュプレー川をはさんで対岸に位置している「DDR(旧東ドイツ)博物館」に入る。1949年から1990年まで存続していた東ドイツという国に住んでいた人々の日常生活の様々な側面を具体的な展示によって示している博物館なのだ。例えば東ドイツで庶民が利用していた「トラバント(愛称トラビ)」が展示してあり、私も車に乗り、座り心地などを確認した。西ドイツ製の車に比べれば、おもちゃみたいな存在であったが、この車を手に入れることは当時の東ドイツの庶民には大変だったようだ。館内には若者たちの姿も多く見られた。

東独博物館内の展示の一つ、「トラバント」

そのあとウンター・デン・リンデン大通りに面した「ジャガイモ料理の専門店」に入る。天気が良いので店の前のテーブルに座っている人が多かったが、我々は広々とした静かな店内の席をえらんだ。ジャガイモ料理にもいろいろあるようだが、自分としては油で焼き上げたブラート・カルトッフェルと肉団子の料理にした。ただその分量が多いのには、ある程度予想できたこととはいえ、へきえきした。それでも好きなドイツビールとともに、堪能することができた。

再建された旧王宮の正面(ファサード)

午後は大通りの反対側にある「フンボルト・フォーラム」を訪ねる。この場所には戦前、王宮が立っていたが、第二次大戦で被災。その後東ドイツ政府によって取り壊され、人民議会の建物が建てられた。ところが東独の消滅により、これは空き家となった。その後この場所に王宮を再建する計画ができ、いろいろ議論があったが、再建工事が始まった。とはいえ装飾的で威厳のある王宮の外観は再建されたが、内部の空間はフォーラムとして、いろいろな展示に利用されることになったのだ。それが総合文化施設「フンボルト・ファーラム」なのだ。フンボルトというのは19世紀前半に活躍した学者のフンボルト兄弟にちなんで名づけられたものだ。

第五日 5月23日(火)曇り
ベルリン三日目

6時過ぎ起床。8時朝食。9時過ぎホテルを出て、地下鉄に乗り、アレキサンダープラッツ駅で下車する。ここは東独時代には東ベリリン地区の交通の要衝で、下町的雰囲気を持つ所であった。そして今でもベルリン中心街へと続く、入り口のような地点にある。
その広場の一角にある総合電機店ザトゥルンに入って店内を物色する。次いで地上を走るSバーン駅構内でATM機を見つけ、クレジットカードでユーロを必要分おろす。

博物館島内の旧ナショナルギャラリー

次いでSバーンのハッケーシャー・マルクト駅へ移動した。そこからは博物館島が近いので、石畳の道を歩いて、その一角にある旧ナショナルギャラリーへ向かった。ギリシア古典様式の堂々たる外観の建物だ。とはいえ展示されているのは、18~19世紀のヨーロッパの美術品だ。まず一階のドイツ人の彫刻作品を見る。
次いで3階に移動して、18~20世紀のロマン主義、表現主義、象徴主義の作品を見ていく。私が特に注目したのは、19世紀前半に活躍したドイツロマン主義の代表的な画家K・D・フリードリヒであった。かなり昔東京で開かれた彼の個展を見てから、この画家に関心を抱いてきたからだ。北ドイツのバルト海に浮かぶリューゲン島の寒々とした断崖絶壁を描いた作品があるが、その舞台を知ろうとわざわざ現地へ見に行ったぐらいだ。また19世紀前半の代表的なドイツ人建築家シンケルの数多くの絵画作品も展示されていて、興味深いものがあった。

そのあとハッケーシャーマルクト駅近くのレストランに入る。昨日の失敗に懲りて、注文したのは分量の少ないジャガイモスープとベルリンのビール。スープの中には肉も豆も入っていて、ちょうどよい。

その店でゆっくり休んだあと、電車に乗って比較的近いところにあるシナゴーグ(ユダヤ人教会)を訪れる。統一後修復された建物の外観は金色燦然としている。やや引き締まった気持ちで扉を開けると、中に入るのに空港の検査のように厳重で、持ち物もロッカーにしまわなければならない。
中に人の姿は少なく、ゆっくり鑑賞できた。とはいえ観光客がみられるのは教会堂そのものではなく、この建物にまつわる悲劇に関する展示が中心だった。見終わってからベルリンのユダヤ人の元祖ともいうべき18世紀の啓蒙思想家モーゼス・メンデルスゾーンに関する本を買う。私が研究している同時期のベルリンの出版業者で啓蒙主義者フリードリヒ・ニコライの親しい友人だったからだ。

第六日 5月24日(水)晴れ
ベルリン四日目

オラーニエンブルク城博物館

この日はベルリンを少し離れ、日帰りでブランデンブルク州の小さな町オラーニエンブルクへ出かける。
9時ホテルを出て、地下鉄でベルリン中央駅へ。そこから北のシュトラールズント行きの列車に乗り、一時間足らずでオラーニエンブルク駅で下車。タクシーで少し離れた所にあるオラーニエンブルク城博物館に着く。そしてそこの展示によって、主として17世紀からのブランデンブルク・プロイセンの発展の歴史がよく理解できた。この地域には12世紀に辺境伯領としてブランデンブルク選帝侯国というものが創設された。しかし17世紀までは辺境にある、小さな勢力でしかなかった。ところが三十年戦争(1618~48)のころから大選帝侯と呼ばれている人物の大活躍によって、この国が大いに発展した様子が博物館の展示によって具体的に示されているのだ。大選帝侯の妻はオランダ出身で、彼女の影響も強かったという。当時夫妻はオラーニエンブルク城にも住んでいて、その息子、のちのプロイセン王国初代のフリードリヒ一世もこの城で育ったという。それ以前の1618年に前身のプロイセン公国とブランデンブルク選帝侯国が合併して、同君連合を形成していた。この辺りの歴史はかなりややこしいのだが、ともあれ大選帝侯はのちの18、19世紀を通じてのプロイセンの発展の基盤を築いた人物だったわけである。

オラーニエンブルク城博物館の付属のレストラン

博物館を出てから、城に付属したレストランの上等な雰囲気の中で、昼食をとる。そのあと城の周囲に流れているハーフェル川の岸辺に腰かけて、しばらく美しい景色を楽しむ。水が澄んでいて、とてもきれいだ。19世紀のドイツの作家T・フォンターネはブランデンブルク地方をこよなく愛していて、いろいろ紀行文を書いている。暇ができたら読んでみたいと思っている。
夕方、同じルートを通ってベルリンへ戻った。

第七日 5月25日(木)
ベルリンからドレスデンへ

ベルリンのホテルで最後の朝食をとる。そしてチェックアウトして、何度も往復した地下鉄5号線に乗って、中央駅へ。構内のロッカーに荷物をしまって、ふたたび地下鉄で博物館島駅で下車。歩いて「ニコライ・ハウス」に着く。
ここは私が研究してきた18世紀の出版業者で啓蒙主義者のフリードリヒ・ニコライが住んでいた家なのだ。建物正面の壁面に貼られたプレートには、この建物の歴史的いわれとニコライが晩年のかなり長い年月を過ごしたことが書かれている。東独時代には党の事務所として使われていたが、統一後には歴史遺産に指定されている。ベルリンの地図には、「ニコライ・ハウス」として記載されているものもある。

「ニコライ・ハウス」の外観と私

「ニコライ・ハウス」の沿革を記した銘板、左下の人物がニコライ

その後3人はベルリン発祥の地と言われているニコライ地区を訪れた。先の「ニコライ・ハウス」から歩いて行けるほどの距離にあるのだが、その中心に1230年建造のニコライ教会が建っているのだ。そしてこの教会の周辺には、しゃれたカフェやレストランが立ち並んでいる。その中の一軒のビアホールでベルリン最後の食事とビール”Berliner Pilsner”を楽しんだわけである。

そして再びベルリン中央駅に戻り、14時40分発プラハ行きの特急列車に乗り込んだ。列車は2時間余りでドレスデン中央駅に17時7分に到着。そこで下車して駅前のIntercity Hotel Dresdenに向かった。チェックインしてから6階の部屋に入り、窓から外を見ると、道路を挟んだ向かい側の眼下に中央駅が見えた。そして行ったり来たりする列車の動きまで見えて、興味深かった。

この町にはこれまで何度も来ていて、旧市街に集中している名所旧跡の類いはすでに見ている。それでも駅の周辺には手ごろなレストランがないので、しばらく休憩してから市電に乗って旧市街に向かった。そして長男がスマホて当たりをつけていた”Freiberger Schankhaus”という店に入った。そこは期待通りの良い店で、満足のいくものであった。その店から帰った後、明日の行程に備えて早寝した。

第八日 5月26日(金)晴れ
マイ生誕地訪問

今日は私が長年取り組んでいるドイツの冒険作家カール・マイの生誕地を訪ねた。そこはドレスデンの西に位置する中都会ケムニッツの西側にあるホーエンシュタイン・エルンストタールという小さな町である。これまで私はこのマイ生誕地を二度訪れている。最初は2010年の夏、マイの評伝執筆の最終的資料を集めるために、マイの生家兼博物館を訪ねたのだ。その時同博物館のノイベーアト館長が親切に対応してくれ、評伝は『知られざるドイツの冒険作家カール・マイ』として2011年10月に刊行された。二度目はその翌年の2012年3月末に開かれた「カール・マイ没後百年祭」の記念行事に参加するため、マイ生家に赴いた時である。この時は評伝と並んで、私が訳したマイの冒険物語4巻も、外国語によるマイ作品として展示されていた。

その後マイ生家の隣に立派な博物館が開設されたとの知らせが届いたので、今回のドイツ旅行の中に新しいマイ博物館訪問を組み込んだわけである。

「ホーエンシュタイン・エルンストタール駅」

さて我々3人は8時51分ドレスデン発の列車に乗り込んだ。そして1時間余り後の10時10分に、目指すホーエンシュタイン・エルンストタール駅に到着した。3人はやや上り坂の道を歩いて、10分ほどで目的地に着いた。古い生家の隣に接して、真新しいモダンな建物が建っている。そこがあたらしいマイ博物館なのだ。

「カール・マイ・ハウス」の外観。左側の建物はマイの生家

ノイベーアト館長はあいにく休暇を取っていて不在であったが、代わりにシュタインメッツ氏が対応してくれた。この人物とは11年前の没後百年祭の時に短時間ながら会っていたし、その後もクリスマスカードのやり取りや、その時々の新しい情報をネットを通じて、提供してくれていたので、すでに親しい存在であった。

三階建ての新博物館内部は、中年のドイツ人女性がにこやかな笑みを浮かべながら、案内してくれた。1階部分は天井が高く広々としていて、マイ関連の大型の展示物が飾られていた。さらに二階、三階と様々な関連の品々が、丁寧な解説入りで展示されていた。また私がマイ研究者であることに配慮してくれて、一般の見物客には見せないところにも案内してくれた。そこは外国語に翻訳されたマイ作品を並べたコーナーであった。その一角に日本語に翻訳されたマイ作品及び私が書いた評伝もあった。日本語版はエンデルレ書店発行の8巻と朝文社発行の12巻(「カール・マイ冒険物語 オスマン帝国を行く」)その他である。

「カール・マイ・ハウス」内の書庫。日本語版の書物と私

博物館と隣の三階建ての生家は行き来できるようになっている。生家の方には、以前と同じように、織物工の父親が使っていたと思われる機織り機や手つくろいしていた母親が用いていた椅子などが展示されていた。三階建てとはいえ、間口が狭い木造の家は、両親と祖母そして大勢の子供たちが住むにはぎりぎりの感じだ。
この生家の裏口と博物館の裏口に続く空間は、緩やかな斜面となっていて、その広々とした土地は芝生となっている。その裏側の景観は、道路に面した表側とは違った趣があった。

カール・マイの生家(右)と博物館(左)

こうして博物館と生家を見て回った後、一階の広々としたロビーの中ごろにテーブルと椅子が用意されて我々三人とシュタインメッツ氏及び案内の女性が席を占めた。そしてドイツケーキとコーヒーが出されて、一同様々な話題を巡って歓談した。ドイツケーキは大型で、たっぷりしているので、二個も食べれば結構空腹を満たすことができた。シュタインメッツ氏はその時初めて、自分の個人的なことを語り、やっている仕事について説明した。長男は話に半分ぐらい加わりながら、いろいろな場面で写真を撮ってくれた。そして撮った写真を後で送ってくれるよう、頼まれてもいた。

こうして4時間余りに及ぶマイ博物館訪問を終えることになったが、別れ際にシュタインメッツ氏は、自分が編集して2016年にカール・マイ出版社から刊行された作品を贈呈してくれた。彼はカール・マイ学会の会員で長年マイの研究に携わってきたそうだ。

マイ博物館を離れ、再び元来た道をたどってホーエンシュタイン・エルンストタール駅にたどり着いた。そして1時間余りのちにドレスデンに戻った。そして駅前のホテルの部屋で十分休息をとってから、夕暮れ時に市電に乗って旧市街へ出て、”Dresden  1900″という名前の酒場に入った。そこには1900年ごろのドレスデンを再現したようなレトロな品々が壁面に飾られていた。さらに奥の空間にはおそらく1900頃使われていたと思われる市電が一台置かれていて、その周辺にもテーブル席があり、座っている人の姿も見えた。まあ旧市街にはいろいろな店があるものだ。ドイツ統一後30数年になるが、旧東独時代とは違った、古き良きドイツの町への郷愁に浸る人もふえているのだろうか?

第九日 5月27日(土)晴れ
国境の町ゲルリッツ

この日はドレスデンから列車で東へ一時間余りのところにある小さな町ゲルリッツGoerlitzへ日帰り旅行をした。そこはポーランドとの国境の町なのだ。
ドレスデン中央駅で午前8時29分発の私鉄TLXに乗り、ゲルリッツへ向かう。土曜日のせいか車内は満員。沿線には風力発電用の風車がたくさん見られた。列車は10時10分にゲルリッツ駅に到着した。

旅行案内書によると、この町はかつて塩や麻の取引で栄えたという。そうしたことを知るために、駅前から市電に乗って「歴史文化博物館」に向かう。郷土博物館で、この地域の歴史的・文化的発展の様子を、石器時代から現代までたどった展示がなされていた。建物自体なかなか重厚で品格があった。

「文化歴史博物館」

その後旧市街へ向かったが、その入り口ともいうべき所に、白壁の美しいライヒェンバッハ塔が目に留まった。あいにく塔は閉鎖されていて、上からの展望はかなわなかった。その右側にはオーバーマルクトという細長い広場があった。そこには美しい建物の正面ファサードが立ち並んでいたが、かつて塩や麻の取引を営んでいた商人の家や取引所だったという。そこを進むと町の中心的な建築物である市庁舎もあった。そしてさらにその先のやや小高い地点に、ルター派の教区教会であるペーター教会がそそり立っていた。

ペーター教会と川に突き出た所に建つレストラン「ミューレ」

そしてその下の川沿いに一軒のレストランが横たわっていた。3人は “Muehle”(ミューレ=水車小屋)と称する、その店に入って昼食をとった。店の名物らしい Zander という名前の川魚をフライで揚げたものを食べ、Landskronという生ビールを飲んだ。その川はナイセ川で、対岸はもうポーランドなのだ。

ナイセ川(左がドイツ領、右がポーランド領)

現代史の教科書に出てくるオーデル川の支流ナイセ川なのだ。第二次世界大戦末期にソ連のスターリンの強力な要請で連合国が取り決めた「オーデル・ナイセ線」というポーランドとドイツとの国境をなす川の一部なのだ。この川が冷戦時代には、「鉄のカーテン」の一部を形成していたのだが、冷戦が終わって三十数年たち、今は平和そのものだ。もちろん今も戦闘が続いているウクライナから、そう遠くに位置しているわけではないのだが。
ついでながら帰国してから見たNHKのEテレの番組「ドイツ語講座」の中で、このゲルリッツが登場したのには、驚いた。これまで知らなかったからだ。

私は東欧革命直後の1991年に、ベルリンの東にあるフランクフルト・アン・デア・オーデルの町を訪れたことがある。そこもオーデル川を渡ればもうポーランドである。その時両岸にかかる「平和の橋」を渡ってポーランド側に行ったのである。そのことを思い出して今回も、ナイセ川を渡ってポーランド側にいってみた。ナイセ川は川幅が狭く、すぐに向こう側にたどり着いた。国境を越えたわけだが、別に検問所があるわけでもなく、日本で言えば気軽に隣町へ行ったという程度のことだ。

ポーランドはEU(ヨーロッパ連合)の加盟国なのだ。ただし通貨はユーロではなく、ズロチである。橋を渡ったすぐのところに観光客用の土産物店があり、中に入ると品物はズロチでもユーロでも買うことができた。また近くにタバコ店があったが、同じタバコでもドイツ側のゲルリッツの店で買うよりも、かなり割安なのでタバコ好きは橋を渡っていくという。

ナイセ川の対岸にあるポーランド領の町(ポーランド語で書かれている)

第十日 5月28日(日)晴れ
ドレスデンからフランクフルトへ

エルベ川を渡る鉄道線路、背後にはドレスデンの旧市街

今朝は早起きし、ホテルの部屋でサンドイッチと飲み物で、簡単な腹ごしらえ。午前7時半ホテルのチェックアウトをする。8時10分ドレスデン発の新幹線ICE に乗り、フランクフルト・アム・マインへ向かう。一等車に乗ったのだが、さすがに車両全体が広々として、座席も余裕があるので快適だ。途中美しい景色が続く中、風力発電用の風車が、4年前に比べてもかなり増えている感じだ。この路線は何度も通ったことがあるが、中部ドイツの中小の町を経由していくのだ。ライプツィヒ、ワイマール、エアフルト、ゴータ、アイゼナッハ、フルダなど歴史好きにはよく知られたところなのだ。そして地理的に言って、ドイツの心臓部に位置している。

やがて特急列車は12時42分大都会フランクフルトの中央駅に到着した。この駅はすべての列車が行きどまりになっている”Kopf-bahnhof”と呼ばれている。ある独和辞典には、これは「頭端式駅」と書かれている。この方式の駅はフランクフルトに限られていない。駅構内はさすがに人々でごった返している。また駅の外は車でいっぱいだ。

3人は駅のすぐ隣にある Intercity Hotel に赴いたが、まだチェック・インはできない時刻なので、フロントにトランクを預けて、市電に乗って、マイン川をはさんで旧市街と反対側のザクセンハウゼン地区へ向かった。そしてその地域で名物のリンゴ・ワインを飲ませる店に入った。ドイツでは5月には、新鮮なアスパラガスがおいしいといわれているので、大ぶりの白いアスパラガスを8本添えたカツレツの料理を注文した。子供も飲めるリンゴジュースはドイツではどこにでもあるが、リンゴ・ワインの方はやはりこの地区の特産のようだ。

フランクフルト市内のリンゴ酒場

マイン河畔に建つ欧州中央銀行の建物と私

食後、市電に乗ってマイン川のほとりへと移動した。ある橋のほとりに立つと、斜め向かいの反対側にガラス張りの高層ビルが目に留まったが、それが欧州中央銀行の建物なのだ。フランクフルトは近世初めから商業・金融の町として知られているが、現代においてヨーロッパ経済の中核を占めているドイツの中のこの町が、EU金融の中心機関の所在地に選ばれたわけである。有名なロスチャイルド家の始まりはフランクフルトのユダヤ人街に住んでいた金貸しが、ナポレオン戦争の時に大儲けをして、財産の基盤を築いたといわれている。その元祖の人物は店の看板を赤く塗っていたためドイツ語でRot(赤い)Schild(看板)と呼ばれていた。そして5人の息子たちはそれぞれパリ、ロンドン、ウイーン、ミラノそしてフランクフルトに店を構えた。ロスチャイルドはロンドンに渡った息子が、英語読みされるようになって後にその一族の通り名となったのだ。

以上のように金融とユダヤ人は密接なかかわりがあるが、旧ユダヤ人街が取り壊されたあとの遺跡が、最近発掘されたというので、市電に乗ってそこへ向かった。その場所は旧市街の東のはずれにあり、『ユダヤ人街記念館」として、ユダヤ人墓地の隣に立っていた。そこの展示によって、フランクフルトに住んでいたユダヤ人の歴史的経緯がよく分かった。

第十一日 5月29日(月)晴れ
フランクフルトからケルンへ

午前8時。フランクフルトのインターシティ・ホテルで朝食。その後チェック・アウト。大きな荷物をホテルのフロントに預けて、バスでドイツ連邦銀行の貨幣博物館へ向かう。事前には都心部にあるものとばかり思っていたが、西北の住宅地にあった。堂々たる建物だ。6年前に建てられたという。一般市民向けに分かりやすく貨幣について、その歴史的経緯から説明している。祭日のせいか子供連れもきている。

ドイツ連邦銀行付属の「貨幣博物館」の外観」

もともとは朝日新聞の「1923年のドイツのハイパー・インフレ」に関する記事に触発されて、この博物館を訪れたものだ。確かにこのことを説明したコーナーもあり、札束の山で子供が遊んでいたり、紙幣をいっぱいリュックサックに詰め込んで買い物をしたりしている写真も展示されていた。第一次大戦後のインフレが1923年秋にはピークに達したが、1兆マルクまでうなぎ上りしたとき、レンテン・マルクが発行されて、魔法のようにインフレが収まったという。

1923年のドイツのハイパー・インフレを示す札束の山と私

ひととおり展示を見た後、博物館内のビュッフェで軽食をとる。そしてバスに乗って元来た道を中央駅までもどる。持参したフランクフルトの地図が古いので、中央駅構内の書店で新しいのを買う。

フランクフルトへは30年ほど前に、ドイツの書籍出版の歴史を研究していた時、しばしば来ていたのだ。ここには有名なフランクフルト国際書籍見本市の常設会場があるし、その歴史は15・16世紀までたどれるぐらい古い。また15世紀に印刷術を発明したグーテンベルクもすぐ近くのマインツで活躍していたのだ。そんなことから、ここにはドイツを中心にヨーロッパ全体の書籍出版の歴史に関する文書館も存在するわけだ。

15府15分フランクフルト中央駅発の新幹線ICEに乗り、ケルンへ移動。タクシーで長男の家に17時ごろ到着した。ドイツ国内の旅行は一周して、振出しに戻ったのである。

第十二日 5月30日(火)晴れ
ケルン滞在

今日は休息日。長男の家で起床。彼は早起きして近くのスーパーで、食料品を買ってきて、朝食を作ってくれる。
その後は家にいて、時々テレビを見たり、『地球の歩き方ドイツ』を、改めて読んで、今まで見落としていたドイツに関する実際的知識を習得したりする。昼食も夕食も長男が作ってくれたドイツ料理をドイツビールとともに楽しむ。

第十三日 5月31日(水)晴れ
ケルンで旧友に再会

朝7時起床。朝食。10時半、長男の家の最寄りのバス停からバスに乗り、旧市街のホイマルクトで下車。4年ぶりに賑やかな街並みを散歩する。あちこちにクレーンが林立していて、各所で建築工事が行われている。
そんな雑踏を逃れるようにして、大聖堂に入って一息つく。3人が人々に交じって座席に着くと、正午のミサが始まった。信徒でなくても誰でもその進行を自由に見ることができるのだ。大聖堂はケルン中央駅のすぐ前にあって、観光局も大勢、自由に出入りしている。ケルンに住んでいるときはめったに入ることはなかったのに、旅行者となると別の気分になるものだ。改めて大聖堂の壁のステンドグラスの美しさに見入ってしまった。

12時半、すぐ近くの有名なビヤホール”Frueh am Dom”に入り、ドイツ海外放送の日本語課の昔の同僚2人に、4年ぶりに再会する、吉田さんという私と同世代(80代)の男性と鈴木さんという中年の女性の二人だ。私はフランクフルトでも食べた白色のアスパラガスを添えた肉料理を食べた。飲み物はケルン産の生ビール(ケルシュ)と決まっている。グラスは0.2リットルの小さく、細長いものなので、普通は何杯もお代わりする仕組みとなっている。その時ビールを運んでくるボーイさんは、ビールの下敷きに斜めの線を入れて、客が何杯飲んだか、数えるというお面白い習慣がある。もちろん強制ではないので、別の飲み物を注文することもできる。

食後、吉田さんが運転する車で、ボンの中央霊園へ向かう。一昨年亡くなった、ドイツ海外放送日本語課長アルテンドルフさんの墓参りが目的だ。霊園入り口でローソクと花を買い、吉田さん先導で、皆で手分けして墓を捜したのだが、ついに見つからなかった。アルテンドルフさんの親族から電話で聞いた吉田さんのメモが唯一の手掛かりであったが、駄目であった。その後彼はボンに用事があるというので別れ、鈴木さんと一緒に電車とバスを乗り継いで、ケルンの長男の家に戻った。

第十四日 6月1日(木)~第十五日 6月2日(金)  ドイツ~日本帰国

ケルンの長男の家で7時前起床。軽い朝食をとって8時45分、タクシーでケルン中央駅へ移動。2週間のドイツ旅行も今日が最後だ。10時10分発の新幹線ICE でフランクフルト空港駅へ向かう。長男の先導で空港内を動き回り、すべて自動式でチェックインした。長男が要領よくやってくれたから速やかに済んだが、高齢の2人だけではとても無理だと、つくづく思った。トランクをカウンターに預けてから、駅構内の「パウラーナー」というレストランで、ドイツ最後の食事を楽しむ。

13時30分の少し前に搭乗口で長男と別れて、出国審査に臨んだ。そしてルフトハンザ機に乗り込む。機内の乗客は7~8割で往便が満員だったのに比べると、機内にやや余裕があった。今回も私は座席の前の画面で、コンピュータ・チェスを楽しんだ。
ルフトハンザ機はフランクフルト・アム・マイン空港を飛び立つと、やがてバルカン半島上空を通り、次いで戦闘が続いているウクライナ南部のすぐ南の黒海上空から中央アジアの国々、中国そして最後に朝鮮半島の韓国側上空を飛んで、日本列島に至り、やがて羽田空港に無事着陸した。

羽田近辺はあいにくの土砂降り。タクシーで世田谷の自宅に着くまで、車のワイパーが動きっぱなしであった。こうしてほぼ2週間にわたる今回のドイツ旅行は終わった。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その10(最終回)孤独な晩年の生活

1 1790年代の生活

長男ザムエルの自殺と幻影体験

ニコライにとって1780年代は、仕事のうえでもその人生においても、まさに黄金時代であったといえる。1781年には長男を連れて南ドイツに七か月に及ぶ大旅行を行い、その成果も着々と刊行されていった。1783年にはニコライとも縁の深かった啓蒙主義の機関誌ともいうべき『ベルリン月報』が創刊され、ニコライも所属していた代表的な啓蒙主義協会『水曜会』も設立されている。また著作活動でも、長い事続けている書評誌『ドイツ百科叢書』の編集・発行、『南ドイツ旅行記』の連続的刊行のほかに、歴史分野を中心にいくつもの作品を発表している。そしてその私生活においても、1785年には銀婚式を盛大に祝うことができた。

その日々は多忙を極めていたが、公私ともに充実した幸せな毎日であったといえよう。ところが1790年代に入った最初の年に、ニコライの私生活は一挙に暗転することになる。その大旅行にも連れて行き、長じて書籍出版の仕事を任せるなど、その将来を期待していた長男のザムエルが1790年に28歳の若さで自殺してしまったのだ。この長男は若いころからうつ病の傾向があったのだが、そのうつ病の発作で自ら命を絶ったのだ。

長男の突然の死は、ニコライに相当の衝撃を与えたようであるが、その上に積年の肉体的・心理的過労が重なって、このころから彼は幻影に悩まされるようになった。これについて孫息子で、のちに考古学者として名を挙げたグスタフ・パルタイが後年記した客観的な手記『若き日の思い出』から、見てみることにしよう。これは祖父などから聞いたものを、後で整理したものと思われる。

「ニコライはその息子カールのことで、激しく腹を立てていた。そして自殺した息子のザムエルが突然机の背後から現れた時、かっとなってしまった。彼は少なからず驚き、横に座っていた彼の妻に、彼女も亡くなったザムエルの姿を見たかと尋ねた。(これを聞いて)彼女の方はもっと驚いたが、もちろん彼女は何も見ていなかった。ニコライはその姿をしっかりと目を開いて見据えた。するとその姿は消えた。彼はこのことは、それきりで片付いたと思った。しかし幻影は繰り返し現れた。

ある時書き机に座っているとき、後ろを振り返ると、部屋の隅のソファーに死んだザムエルが座っているのが見えた。彼はそれに向かって二歩近づいた。だがその姿は座ったまま、動かなかった。さらに二歩彼は近づいたが、変わりなかった。ニコライはそのすぐそばに立ち、その姿の上に身をかがめようとした時、それは消えてなくなった。

信じられないぐらいの仕事好きのために、ニコライは初めのうちは、医者に相談する暇もなかった。また次第にそうした招かれざる客に慣れてきた。しかし時には、生きた人間が部屋に入ってきたとき、それが本物なのか似姿なのか、区別がつかないこともあったという。それでもやがて彼は幽霊を見分けるコツを見つけた。それは幽霊の方は扉を開けて出入りする時に、音を立てないという事によっていた。しまいにはその似姿は、彼と話をすることさえあったという。目の幻覚は、耳の幻聴に結びついていたのだ。

もしニコライが最終的に、体に蛭(ひる)を張って血を吸わせることによって、幽霊を撃退しなかったならば、極度に興奮して高ぶった神経のために、どこまで症状が悪化したか、知れたものではなかった。幽霊は話すことをやめ、次第に色を失ってゆき、やがて白い幽霊となってその体は半分にわかれ、胸像が空中を漂っていたという。こうして感覚器官の恐ろしい変調がなおるまでに、およそ二か月かかったという。」

ニコライはその幻影体験についての記事を、だいぶ後の1799年に、雑誌『ベルリン月報』に載せた。そしてこのことを知ったゲーテは、ニコライに対する例の恨みの気持ちを後世に残すべく、その『ファウスト』の中の「ヴァルプルギスの夜」の場面に、彼を「臀部見霊者」として登場させている。これはニコライが幻影を退治するために、臀部(おしり)に蛭(ひる)を張って治療したことを諷刺して、つけられた名称である。

突然の妻の死と次男についての悩み

ともあれニコライはこの幻影体験の後、元気を取り戻した。しかしその代わりに、33年間連れ添った妻が、1793年5月に全く思いもかけず突然亡くなってしまった。ニコライ60歳のときであった。その悲しみはもとより深かったことが想像されるが、そうした個人的な悲嘆の念を他人に伝えることを彼は好まなかったようだ。夫人の死に対する知人のブランケンブルクからのお悔みの手紙に対して、次のような手紙を彼は出している。

「悲しみの対象について、もうこれ以上話すことはやめましょう。・・・私は新しい状況に順応しなければなりませんし、そうすることにします。そして自分の義務を遂行しなければなりません。その義務の中には、自分がしっかりとして、健康に気を付けることも含まれています。子供たちのためにもです。・・・今こそ実践哲学を示す時です。おしゃべりではなくて、行動することです。ですからそれに向かって努力します」

その子供たちの中でもとりわけ次男のカール・アウグストは、その奇矯な性格のために、父親を悩ましていた。その放埓な生活態度が、厳格で道徳的な父親の我慢のならないところであったようだ。そうした心の悩みを、ニコライは長女のヴィルヘルミーネ宛の手紙の中で、次のように打ち明けている。妻の死から九か月ほどたった1794年2月のものである。

「昨夜はとても寝苦しい思いをした。前回私がここに滞在していた時はまだお前の弟が怠惰や放埓や無意味な浪費によって、自ら不幸になっていくことはあるまいとの希望の念を抱いていた。しかしその希望は、今やあいつの態度によって踏みにじられてしまったのだ。・・・今や私もあいつのことはあいつの運命に任せるほかはないと観念した。・・・あいつは早起きをして、勤勉に仕事をするべきだ。料理屋やコーヒー店や怪しげな店に入り浸って、飲み食いするのはやめることだ。居酒屋での得体のしれない食べ物やライン・ワインの飲み過ぎはあいつの胃をだめにする。それに金もかかることだし。・・・我が家の快適な雰囲気の中で、父親の与えるものにあいつは満足せねばならないのだ。・・・どうかこの手紙をあいつと一緒に読むように・・・」

そしてその3週間後にも彼女あてに同様な手紙を出している。「・・・私は今日カール宛に詳しい手紙を書いた。それであいつも、自分のおかしな提案がだめなことが分かるだろう。・・・あいつは好きな時だけちょっと仕事をするだけだ。そんなことではだめだ。乞食か下男にでもなるつもりなのか。・・・瀉血の効果が出てきたようなので、カールについての心配さえなければ、とても幸せなのだがね。」

しかしこの次男は独立心が強く、父親の意に反して、自らの出版社を設立し、とりわけロマン派のルートヴィッヒ・ティークの作品などを出版したりするようになった。そして相変わらず自堕落で、放埓な生活を続けたため、1799年に亡くなってしまった。

長女ヴィルヘルミーネの結婚と三男の運命

妻の死後なにかとニコライが頼りにしていた長女のヴィルヘルミーネは、1797年30歳になって、プロイセン王国の財務長官フリードリヒ・パルタイと結婚した。二人の間に数人の子供が生まれたが、幼児期を過ぎて育ったのは、息子一人と娘一人であった。この孫息子が、先に登場したグスタフ・パルタイであった。この家族は幸せな結婚生活を送っていたが、ヴィルヘルミーネは結婚六年後の1803年に亡くなってしまった。

いっぽう三男のダーフィットは、次男とは違って、官房学を学んだあと出世コースを歩んだ。つまりベルリンの行政官庁の官吏として勤務した後、地方の行政官庁の局長に昇進した。そして将来を嘱望されていたが、姉の死の翌年の1804年に馬から落ちて、不慮の死を遂げた。

このように次々と肉親に先立たれたニコライの気持ちは、孤独の深まりの中に沈んでいった。何しろ長男の死から始まって、妻、次男、長女、三男といった具合に、14年の間に自分より若い家族たちがいなくなってしまったのだから、その寂しさは計り知れないものがあったろう。とはいえこうした暗い気分を押しのけるようにして彼を支えたのは、やはり長年続けてきた精神的な仕事であった。数々の肉親の不幸にもかかわらず、彼の活力は長い事衰えなかった。70歳になっても、彼を訪れた人の目には、40歳ぐらいに見えたという。

2 晩年の十年の生活

右目の失明

とはいえ、二人の子供を相次いで失ったニコライはその翌年の1805年には、眼病にかかり右目を失明することになった。その間の事情を、同年7月に書かれたニコライの手紙はよく伝えている。「沢山の仕事による疲れが出たり、この二年間に二人の愛する子供を失うなど家庭に不幸が重なり、私自身1803年の秋に重病にかかりました。それがもとで右目を完全に失明し、左目はとても弱まっています。そのためものを読んだり、書いたりすることができなくなりました」

そのためこの後著述の仕事に当たっては、ニコライは口述筆記の方法をとらざるを得ないことになった。また残った左目をいたわるために、できる限り緑に囲まれた生活を医者から勧められた。そしてニコライはこれに従った。このころになると肉親としては、次女のシャルロッテ・マカリアと二人の孫、そして娘婿のフリードリヒ・パルタイだけしかいなくなってしまった。次女はベルリン合唱協会の歌手をしていたが、母親がいなくなってからは、ニコライのために家事を切り盛りしていた。そして二人の孫も祖父の家に一緒に住んでいた。そんな関係から、孫息子のグスタフ・パルタイは最晩年のニコライの日常生活を、まじかで見ていたわけである。そこで彼が伝える祖父の様子を見てみることにしよう。

「彼(祖父)の部屋はそのため緑色に塗り替えられた。ソファーや椅子にも緑色のカヴァーがかけられ、夕食時には祖父は緑色のナイトガウンを着ていた。昼食時には、明るい灰色の上着、黒色の短いズボン、裾のついたチョッキ姿以外の祖父を見たことがなかった。私が知る限り、祖父は鬘(かつら)をつけていなかった。そして灰色のパウダーをふった髪の毛を額からすき上げ、後頭部は袋鬘なしで、ややきつめの弁髪に束ねていた」

晩年の交友と著作活動

そうしたなかでもニコライは、友人知人との交際は続けており、相変わらずその邸宅に客人を招待していた。春に桃の花やあんずの花が満開になるころ、あるいは桜の花が温室の中で花びらを開くとき、客人を招いたひと時には、日ごろの悩みや憂いは、一時的にせよ消えていたに違いない。しかしニコライは決して家の中にばかり閉じこもっていたわけではなく、最後までベルリンの文化生活に活動的に加わっていたのだ。とりわけ音楽に対しては、自分の子供たちと同じように熱心であった。定期的に音楽会に通っていたし、昔ながらに自宅に名のあるヴィルトゥオーゾを招いて、家庭音楽会を開いていた。そこでは自らはヴィオラを演奏した。また二人の娘が会員だったベルリン合唱協会には、多大な量の楽譜や音楽図書を遺贈している。

さらにベルリン劇場とは、友人のラムラーやエンゲルが総監督をしていた関係から、親しく付き合っていた。そして時間の空いた夜には、相変わらず所属のクラブや協会で過ごすのを常としていた。しかし妻の死後、家事を切り盛りしていた次女のシャルロッテ・マカリアは、作家のJ・F・リフォリッツとの結婚を望んでいたが、この男が大言壮語家だという理由で、父親の許可を得られないでいた。そして彼女は消耗性疾患によって、1808年に亡くなってしまった。最後の子供の死であった。

こうした家族の不幸の数々を忘れるためにも、ニコライは最晩年に至るまで、あれこれと著作上の計画を立てていた。過去六十年間のドイツ文学史の取りまとめ、その協力者についての詳しい紹介を含めた『ドイツ百科叢書の歴史』、長年携わってきたケルト語に関する論文、そしてギリシア音楽や観相学の研究からプロイセン王国の地方の学校制度の創設者E・v・ロホウへの追悼文の執筆、といった具合にその知的好奇心はまさにとどまる所を知らなかった。彼の精神は最後まで衰えることなく動いていて、夜中にも何か思いつくと、それを白墨で石販に書きつけた。その石販の上には糸が張ってあり、暗闇でもそこまで歩いて行けるようになっていた。

公共奉仕とフランス軍によるベルリン占領

いっぽう強い公共奉仕の観念から、慈善行為に対しても彼は大きな関心を抱いていた。将来を目指して向上に努めていた職人たちに、しばしば彼は金銭的な援助をしている。例えば友人のボイエからその義理の弟が病気療養後、旅に出る費用に困っていることを耳にしたニコライは、匿名で千ターラーの金を送っている。

また1806年にベルリンがフランス軍の占領を受けた時、ニコライの心は怒りに満ちていたが、高額納税者であったニコライは、その市民的義務観念から他の市民の負担を少しでも和らげるために、かなりの財産を犠牲に供している。さらに占領軍の執政官が軍税の導入に際して、ニコライを見逃した時、愛国者の実を示して、最後の二万ターラーを差し出したのであった。そしてその遺言状の中には、一万八千ターラーにものぼる様々な慈善行為のことが書かれていた。

このように同胞に対する連帯感から進んで経済的な負担を買って出ていたニコライであったが、それでもプロイセンの敗北とフランス軍のベルリン占領は、愛国者ニコライの気持ちを十分滅入らせるものがあった。彼にとってナポレオンによる占領支配は、不道徳と支配欲そのものに思われた。こうした彼の欲求不満をうかがわせる手紙が残っている。それはニコライの友人の哲学者ズルツァーの娘婿で、ニコライの肖像画をたくさん描いていた画家のグラッフにあてた1809年2月付けの手紙である。

「貴君は今ザクセンにお住まいですが、ここにいるより数等幸せです。ここでは至る所、悲惨が蔓延しています。よくなる兆候は全くありません。貴君は健康で、素晴らしい芸術作品と取り組んでいられる由、何よりです。・・・この二年間の不幸な歳月、重ぐるしい抑圧を耐え忍ぶには、学問や文学が最も良い薬になります。とはいえ騒々しさや心配の種そして家の中の不祥事などが次々と起こり、わが精神は自由とは言いかねます。それでも弱気は禁物です」

ニコライの死と葬儀

この手紙のおよそ二年後の1811年の新年、フランスによるプロイセン支配は依然として続いていた。しかし音楽好きのニコライの家では、劇作家で劇場監督のイフラントの指揮によって、新年のセレナーデが演奏された。この時はまだ元気であったニコライであったが、翌日の日曜日の夕食時には、彼はいつものおしゃべりができない状態になった。そして長い闘病生活に苦しむこともなく、一週間後の1月8日、ニコライは静かに息を引き取ったのである。その年の3月で78歳になるところであった。当時としては長生きであったといえよう。

ベルリンの全エリート市民によって野辺の送りが行われた。ところがこの埋葬式の様子は、孫のグスタフ・パルタイの報告によれば、極めて異常だったようだ。その報告は次のように伝えている。

「きわめて具合の悪い印象が残った。近隣の全ての乞食どもが、家の前に集まってきた。あのように名高い人物が埋葬されるのだから、人だかりは普通より大きかったという訳だ。・・・我々は家から葬送車まで、ぽかんと口を開けて見とれる貧乏人の一群によって押されて行ったのだが、その時私の体に戦慄が走った。これら目のくぼんだ青白い連中が、我々を襲ってきて殺されるのではないかと思ったからだ。葬送のミサが行われたマリア教会では、事態はもっと腹立たしかった。二階席に至るまですべての空間が、気味の悪い連中によって占拠されたのだ。連中はがやがや騒ぎながら、ベンチの上によじ登ったり、いろいろ無作法なことを働いた。こんな状況では礼拝することなど論外であった。これら乱暴者たちがどんな暴力行為をしでかすか、私の心は心配でいっぱいだった。」

この異常なミサの後、遺体はルイーゼンシュタット教会まで運ばれ、そこの北壁近くに埋葬された。その墓の傍らでは、監督教区長ハンシュタインが弔辞をのべた。ニコライと縁の深いベルリン合唱協会は、彼のために1月22日に聖霊祭を執り行った。そこではティートゲスの詩にツェルターが曲を付けた追悼の音楽が演奏された。

ニコライの妻及び5人の子供たちがすべて先立っていて、後に残ったのは娘婿のパルタイと二人の孫だけであった。ニコライの遺産を受け継いだのは、その二人の孫であった。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その9 歴史研究者ニコライ

1 啓蒙主義と歴史研究

従来の見解とそれへの反論

「歴史は啓蒙の先頭に立って松明を掲げて進む」
ニコライはその晩年に当たる1806年に、こう書いている。ドイツにおいては、十九世紀から二十世紀前半にかけて、「啓蒙主義は非歴史的である」といわれ続けてきた。これは十九世紀初頭のロマン主義やランケを開祖とする歴史学派などによって広められてきた見解であるが、その影響力は強く後を引き、現代の歴史家ホルスト・メラーによれば、今なお多くの歴史学ハンドブックや一般の個別論文の中に、この見解は残っているという。

しかし歴史哲学者E・トレルチュは十九世紀末に発表した論文「啓蒙主義」の中で、十八世紀や十九世紀のフランスやイギリスと並んでドイツにおいても、歴史研究や歴史叙述が行われていたことを明らかにしている。そこではとりわけゲッティンゲン学派のガッテラー、シュレーツァー、ヘーレン、マイナース、ミヒァーエーリス、シュビットラーなどの名前があげられている。そして十七世紀の自然法学者プーフェンドルフによって歴史が神学から解放された後を受けて、彼らは新しい理念を歴史資料に適用していった、と述べている。

そして「もし啓蒙主義を非歴史的だと呼ぶとするならば、それは啓蒙主義が歴史をそれ自体ではなくて、それに基づいて行う立証や攻撃の手段として、あるいは政治的・道徳的教訓のために研究していたという、ただそのためだけからだと言えよう。この意味において歴史研究は著しい影響力を周囲に及ぼしてきたのだ。啓蒙主義は・・・それまで知られていなかったか、注目されていなかった世界を発見し、歴史の予測できない時代を切り開き・・・」と、トレルチュは続けているのだ。

続いて二十世紀前半には、メラーによれば、三人の歴史家ないし思想家「ディルタイ、マイネッケ、カッシーラーその他の偉大な人物による理念的解釈を通じて、十八世紀に目覚めた歴史的意識は新たなる再評価を体験した。それにもかかわらずとりわけ啓蒙主義にたいしてはなお<非歴史的>という厳しい裁断が下され続けた」という。

しかし現代の歴史家ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、トレルチュがあげたゲッティンゲン学派のことをディルタイが高く評価していたとして、次のように述べているのだ。{それゆえにヴィルヘルム・ディルタイは、イギリスの啓蒙主義に連なることによって人間と世界を歴史的に見ることに寄与したゲッティンゲン学派の功績を強調して以下のように書いている。<十八世紀後半を通じてゲッティンゲン学派の人々から、歴史的学問にとっておおきな影響力を持った、相互に連関した一連の研究が生まれている。イギリス及びフランスの啓蒙主義の仕事がここで、ドイツの大学の研究活動が持つ学問的でまとまりのある体系的なやり方で、推し進められたのであった>。またヴァイグルは同書で「歴史的思考なるものは、ロマン派の世代が発見したというように記述されることが多いが、実際にはロマン派の世代がゲッティンゲン学派の啓蒙主義から学んだものなのである」とも書いている。

啓蒙主義と歴史との強い結びつきについては、現代の歴史家ユルゲン・コッカも、その『歴史と啓蒙』という書物の中で強調している。そこでは冒頭に掲げたニコライの言葉を引用した後、次のように述べられている。「我々の多くが歴史のプロ・ゼミナールで学んだかもしれないものとは逆に、いっぽうでは歴史は多くの(すべてのではないが)啓蒙思想家にとって中心的意義を持っている。・・・歴史学は、十九世紀の歴史主義の所産にすぎないといったものではなく、啓蒙とりわけ後期啓蒙の所産なのである。歴史学の創設者を探す際には、クラデニウスやガッテラー、シュレーツァー、イグナーツ・シュミットのような歴史家たち、ヴィーコやヘルダーのような思想家たち、メーザーやニコライのような実際家たち、ギボン、ヴォルテールあるいはファーガソンといった西欧からの影響を見落としてはならない。近年の史学史研究がそのことをあきらかにしている」

ニコライと歴史研究のつながりについて

ユルゲン・コッカはさらにニコライと歴史研究とのつながりについて、次のように述べている。「人は、社会の理性的な進歩を人類史的な尺度で期待しただけではなく、まさしくそれらすべてを通じて促進しようと欲したのである。すでにライプニッツとダランベールまたはニコライとメーザーは、有益で現在にかかわりを持つ、すぐれて批判的な歴史学を要求したのだ。・・・人は現代への歴史の批判的なかかわりを要求したが、現代のために歴史を手段化し歪曲することを求めはしなかった。そして歴史学について、社会-文明史という意味での極めて広い概念が抱かれていた。・・・後年に歴史主義が試みたような政治史への矮小化とは、啓蒙期の歴史はいまだ遠く離れていた」

以上利用してきたコッカやヴァイグルあるいはメラーの著作は、1970年代から1990年代にかけて刊行されたものであるが、ドイツ啓蒙主義に対する再評価の動きは、1960年代から西ドイツや西欧の研究者の間で見られるようになった「ドイツ十八世紀史見直し」の中で、全般的に行われてきたものである。ドイツの文学史や一般の歴史概説書の中ではなお啓蒙主義を非歴史的なものとする見解や叙述がみられるものの、すでに専門の歴史学者の間では「歴史と啓蒙」の深いつながりについては、常識化してきたといえよう。

このような流れの中で、従来ほとんど顧みられることのなかった歴史研究者としてのニコライの業績についても、研究する動きが出てきたわけである。そのなかでもドイツの歴史学者ホルスト・メラーは、この点について最も詳しい研究を遺している。この人物は1974年刊行の大著『プロイセンの啓蒙主義、出版者、ジャーナリスト、歴史叙述者フリードリヒ・ニコライ』のなかで、620頁のうち200頁を「啓蒙と歴史」の項目に費やしている。そしてさらに1983年には、そのダイジェスト的な単独の論文「歴史家としてのフリードリヒ・ニコライ」を発表している。私としては、このメラーの著作によって、ニコライの歴史研究者としての側面を知ったわけである。
以下の叙述では、ニコライが遺した歴史叙述に関する業績に基づいて、「歴史研究者としてのニコライ」について、さまざまな側面から考察していくことにする。

2 ニコライの歴史関連著作

ニコライが遺した作品を見渡すと、そのほとんどすべての著作の中に、歴史的テーマに対する所見や、歴史に対する際立った関心をうかがわせるような、ささやかな研究がみられる。そして啓蒙的思考の奥深くに歴史が定着していることについて、そうした所見や研究のなかでいろいろな言明が行われているのだ。これらの研究は、時間的にはまず地誌的な研究と重なった形で行われている。それは1770年代後半に始まり、1780年代、1790年代と続けられ、晩年の1806年の著作をもって終了している。

これらの歴史関連著作を内容別に分類すると、大きく四つの分野に分けられよう。
① ベルリン・ブランデンブルクの歴史的地誌
ー『王都ベルリン及びポツダム並びにそこにあるすべての珍しい事物についての
叙述』第二版(1779)、第三版(1786)の中の序章「ベルリンの
歴史」
② フリードリヒ大王に関する研究
ー『プロイセン国王フリードリヒ二世およびその周辺の人物に関する逸話並び
にすでに公刊されている逸話の訂正』(1788)
ー 『フリードリヒ大王に関するツィンマーマン氏の断編についての率直な所
見』(1791-92)
③ テンプル騎士団、薔薇十字団およびフリーメーソンに関する研究
ー 『テンプル騎士団に対してなされた弾劾並びにその秘密に関する試論。フ
リーメーソンの成立についての付論を添えて』(1782)
ー 『薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関するいくつかの所見。
このテーマに関する宮廷顧問官ブーレ氏の。いわゆる歴史的・批判的研究
に触発されて』(1806)
④ 文化史上及び言語史上の著作
ー 『古代及び現代における鬘(かつら)の使用について。一つの歴史的研究
』(1801)

次に以上の歴史関連著作の概要を、順次見ていくことにしよう。

(1)ベルリン・ブランデンブルクの歴史的地誌
『王都ベリリン及びポツダムについての叙述』の第二版
序章「ベルリンの歴史」

ニコライの歴史研究の初期段階にあっては、地誌的な研究を補完するような形で進められた。それは初版の序章として書かれた、ベルリン地域の淵源からニコライの時代までの歴史に関するごく短い素描であった。その後広範で徹底的な史料研究に乗り出し、十年後の1779年に内容的に全面的に書き換えて、第二版を刊行した。

社会・経済史的叙述

ここでは十二世紀におけるベルリン入植からニコライの時代までの発展の歴史が、様々な史料や文献に基づいて詳細に跡付けされている。ベルリン入植は西部ドイツ地域の人々による東方植民の一環として行われたものであるが、その後の移住の発展とそれに結びついたブランデンブルク・プロイセンの経済的興隆の様子が、詳しく叙述されている。それは政治・外交史的なものではなくて、「社会・経済史」的なものであった。

そこで彼はキリスト教会が実施し、保管していた住民の婚姻・誕生・死亡に関する諸記録など統計的記録を主たる史料として用いた。そして歴代の君主による重商主義的「植民政策」を肯定的に評価している。その際ニコライは、教会記録簿に基づいて一般的な人口発展のモデルを作り出した、ベルリンの牧師で統計学者のジュースミルヒの手法を用いたのだ。しかしニコライはそれぞれの歴史的背景との関連でこうした統計データを分析できるようにするために、たとえば人口数を戦争、疫病、凶作、物価高騰などと結びつけて、歴史事象の因果関係を説明している。

またニコライは史料を入手するにあたって、その豊富な人的ネットワークを利用することができた。その間の事情について彼は次のように説明している。
「その後の十年間に私はわが町の歴史や現状についての知識を深めるために、努力を重ねてきた。その際ヘルツベルク大臣閣下のご厚意により、王立文書館を使用する許可が得られた。さらにあらゆる身分の愛国者の方々が、ベルリンに関する様々なことどもについて、熱心に情報をお寄せくださった。かくして私は、1779年に二巻の新しい版を刊行することができたのである」

史料収集と編纂の仕事

ニコライの歴史に対する強い関心は、やがてまたベルリン地誌との関連でべつの発展をみせた。それは十七世紀の大選帝侯以後の「芸術家・職人一覧」を独立した書物として刊行させたのである。それは歴史叙述というよりは、史料の収集と編纂の仕事であったが、それらは現在なお史料的価値を有するものがすくなくない。史料収集の苦労についてニコライは次のように書いている。{それらの情報を私は、王立文書館史料、ベルリン所在の様々な教会の記録簿、市民の古い記録簿、その他の手書き及び印刷の史料を通じて集め、さらに部分的には自ら芸術作品を見に行くことによって収集したのであった」

ニコライの「ベルリンの歴史」は、可能な限り多くの史料を方法論的に正確に使用し、その基盤の上に立って、一つの時代の生活全般を広範にとらえようとした点に、特徴があった。その意味でこの作品は「十八世紀の模範的な地域史の一つに数えられるばかりでなく、ドイツの歴史叙述上の画期的な業績の一つにも数えられる」と、現代の歴史家メラーは高く評価しているのだ。そしてそうした十八世紀の地域史の傑作として、そのほかニコライの友人メーザーが書いた『オスナブリュック史』及びゲッティンゲン学派のシュピットラーによって著された『ハノーファー侯国史』を挙げている。

(2)フリードリヒ大王に関する研究

これに関連してニコライは1788年から1792年にかけて、前述した二冊の著作つまり『プロイセン国王フリードリヒ二世及びその周辺の人物に関する逸話並びにすでに公刊されている逸話の訂正』(以下『フリードリヒ大王に関する逸話』と省略)、及び『フリードリヒ大王に関するツィンマーマン氏の断編についての率直な所見』(以下『ツィンマーマン氏の断編についての所見』と省略)を公刊した。この二つの著作は互いに緊密な関連を持ったものであるが、まず『フリードリヒ大王に関する逸話』の方から、取り上げていくことにする。

A 『フリードリヒ大王に関する逸話』

本作品の成立の経緯

こらは1788年3月にまず第一分冊が刊行されてから順次発行が続けられ、1792年3月の第六分冊をもって完了している。この著作はフリードリヒ大王(1712-1786)に関する逸話をニコライ自身が収集した部分と、それ以前に出回っていた逸話を訂正した部分とからなっている。その成立の経緯については、ニコライが第一分冊の前書きに書いているところから、明らかである。

それによると1787年7月ニコライが転地療養のために滞在していたヴェーザー川流域の保養地ピュルモントで、滞在客がそろってフリードリヒ大王ゆかりのケーニヒスベルゲへ出かけた時、人々がめいめいその前年に亡くなった大王をしのんで、様々な逸話を披露したという。それ以前から大王に強い関心を抱いていたニコライは、そうした逸話の多くが間違ったものであることに気づき、それらを訂正していった。それを聞いていたニコライの長年の友人で宮廷顧問官のツィンマーマン氏は、大王についての逸話をまとめ、あわせて世に出ている間違った逸話を訂正して一冊の書物にしたらどうかと、ニコライに提案したという。その時ニコライは時間的な余裕がなかったためあきらめていた。しかしその時の提案はいつまでも彼の脳裏に焼き付き、やがて多忙な出版社の仕事の合間を盗んで、それを実行することにしたのであった。

ニコライの大王への敬愛の念

ベルリンに生まれ育ったニコライは、若い時からこの大王を敬愛して、その行為や性格に強い関心を抱いていたという。「フリードリヒ大王が統治していた時代は、わが青春の幸せな歳月であり、また熟年の黄金時代でもあった。私が精神の陶冶と世界認識に関して身に着けたいと思っていたことを、私はこの時代に、大王の率直で偏見のない思考法の影響の下で獲得したのである」。このように「前書き」の中で青春を振り返り、国王による思想の自由の保証をニコライは称揚したのであった。そして本文の中では、七年戦争(1756-63)および戦後の時代の苦しい状況の下で大王が成し遂げたことどもを、社会経済的な側面を含めて記述しているのだ。

その際彼は、そうした大王の統治の偉大な実績が世にほとんど知られていないことを嘆いている。つまり世の多くの人々は大王のことを戦争に強い、単なる軍人だと思っているというのだ。しかし注意深く観察していたニコライにとっては、大王は戦時における軍事的才能や英雄的な勇気と並んで、平和時には国家の繁栄と人々の福祉の増大に尽力を惜しまない善行の人だったのだ。さらに人間味があり、ユーモアを解する人物で、フルートを吹き、作曲もする文化人であり、さまざまな著作をものする哲人ないし思想家でもあったのだ。

逸話の出所の吟味~史料批判の厳しさ~

ところでニコライは逸話の真実性を高めるために、その出所を慎重に吟味した。つまり史料批判にも彼は厳しかったのだ。その際彼は、国王の周辺に長いこといて、国王のことをとてもよく知っていた三人の男と親しくしていたことを、明らかにしている。その三人とは、音楽家のクヴァンツ、ダルジャン侯爵そしてイツィリウス大佐であった。「前書き」の中で三人のことが。次のように書かれている。「クヴァンツは1734年に国王の面識を得て、1740年以降(戦時を除いて)毎日二~三時間国王の部屋にいた。・・・この老人から私はとても注意深く話を聞き、いろいろ質問し、それにたいして非常に詳しい回答をえていた。・・・国王の音楽にまつわる逸話をクヴァンツ及びその音楽仲間からとても詳しく聞いていたが、それらはハンブルク在住のエマヌエル・バッハを除いて、おそらく現存する誰からの話より詳しいといえるだろう。ダルジャン侯爵はその治世の初めから国王の話相手で、王の信頼の厚い人物であった。イツィリウス大佐はちょうど七年戦争の危機の時期に王の周りにいたが、戦争によってひっ迫した財政を立て直そうという時でもあり、当時進行中の諸計画に彼は参画していた。・・・この三人から私は、国王の本当の性格について多くの事例との関連の中で、光を与えてくれた実に様々なことを聞いたのである」。

この三人以外からもニコライは多くの人々にいろいろ尋ね、さらに関連した書物や手書きメモや文書に当たって、ちょっとした逸話でもそれが真実であるかどうか検証に努め、叙述に際してはその出典を明示している。彼の「真実への愛好癖」は、それ以前に世に出回っていた逸話を放置しておくことができず、それらをできる限りの範囲で取り上げ、間違った個所を指摘し訂正しているわけである。

逸話の概要

  『フリードリヒ大王に関する逸話』への挿絵(コドヴィエツキー作)

うした逸話の中身を見ていくことにしよう。ニコライが集めた逸話の数は94に及び、訂正した逸話は29に達している。彼が収集した逸話は多岐にわたっているが、あえてそれらを分類してみると、おおむね次のようになろう。
イ 七年戦争中の大王の生活を示すもの。陣営でのエピソードなど。
「ロイテンの戦いの勝利の後、国王が陥った二重の危機」、「行軍中の兵士た
ちが疲れた時に行われた国王の演説」、「ナッサウ竜騎兵隊創設に関する
国王の勅令」、「国王がライプツィヒの陣営で犬に餌をあげているときの
ダルジャン侯爵との会見」
ロ 国王の民衆に対する公正さ、やさしさを示すもの
「農場経営の失敗により追放された入植者を、国王が呼び戻した話」、「ある
貴族の夫人が、借金返済の件で国王に裁きを願い出た話」、「食器を壊した
り、客にスープをかけてしまった召使への優しい思いやり」など。
ハ 国王の統治に関するもの
「学校教育に関して自ら出した勅令」、「ハレの孤児院や教育施設の視察」
「裁判の短縮及び迅速化についての大臣との会話」、「イギリス艦隊を巡っ
ての部下との議論」など。
ニ 国王の知性・学識並びにユーモア・機知を示すもの
「教父の全作品についての国王の冗談半分の思い付き」、「国王は地上における
神の似姿であるとの考えについての、国王の愉快な思い付き」、「神聖ローマ
帝国に存在する三つの宗教に関する国王の見解」、「国王自筆の、様々な欄外
の書き込み」、「国王、無限小や微分計算について尋ねる」、「(ローマの)
トラヤーヌス帝と大王の手紙の類似性」など。
ホ 著名人との交際
「哲学と宗教についてのズルツァーとの対話」、「モーゼス・メンデルスゾー
ン、国王からポツダムへ招請される」、「ゴットシェート教授との対話」、
「イギリス公使との対話」
ヘ 国王周辺の人々について
「ダルジャン侯爵ほか数人の国王の話相手の横顔」、「ブラウンシュヴァイク
公爵未亡人にあてた国王の手紙」、「ダルジャン侯爵のフランスへの旅とそ
れに続く彼の死」、「イツィリウス大佐の人間模様」、「クヴァンツ、国王
に仕えることになる」
ト サン・スーシー宮殿を巡る話
「国王、新宮殿内に天井画を描かせる」、「庭師、庭園内の大理石彫刻の苔を
はがそうとする」、「宮殿内の小さな城壁の修理」、「サン・スーシー新宮
殿の造営について」
チ 国王の乗馬について
「国王の乗馬法、乗馬の数、馬の調教の仕方」、「自分の馬に名前をつける時
の国王の癖」、「国王、何度も馬もろともに倒れる」、「怠け者の白馬」、
「普段着の国王が乗るコサック馬」、「戦争中に国王の馬が受けた災難」など
リ 音楽をめぐる話
「国王のフルート演奏」、「国王の作曲」、「フルート演奏の際に見られる
国王とクヴァンツとの意見の相違」、「プロイセン王国の最初の二人の国王
時代の音楽状況」など
ヌ 大王の皇太子時代の逸話
「皇太子として父王の前でフルート演奏して、驚かせる」、「1730年のフ
リードリの逃亡と逮捕に関する信頼できる情報」、「フリードリヒ、キュス
トリンの官署で事務官として執務」、「「キュストリンの官署の長、皇太子
のために便宜を図り、先王により解雇される」

B  『ツィンマーマン氏の断編についての所見』

本作品成立の経緯

これは前述の『大王の逸話』を順次刊行していた途中に、ニコライの長年の友人であったスイス人の著作家リッター・フォン・ツインマーマンが世に出した『フリードリヒ大王の生涯・統治・性格に関する断編』(1790)を読んで、その書評として自ら編集した書評誌『ドイツ百科叢書』に掲載したものを、その後独立した書物の形で刊行したものである。ツインマーマンはハノーファー侯国在住のイギリス王の宮廷顧問官兼侍医をつとめていたが、フリードリヒ大王の死の直前に、その相談相手になっていた。そして前述したように、ニコライに「逸話」を書くよう勧めた人物であった。この時の彼の意図がどのようなものか定かではないが、この伝記を刊行してからは、ニコライ及びその周辺の<ベルリン啓蒙派>の人々との仲は、悪くなってしまった。

ニコライの本著作がどのようにして生まれたのか、その経緯についてニコライは次のように述べている。「フリードリヒ大王に関するリッター・フォン・ツィンマーマン氏の断編は、刊行された時ドイツ人の間にセンセーションを巻き起こしました。この著者の著名さ、手に入れた素晴らしい諸史料、彼の他の書物にも見られた膨大な量の新しい情報は、当然のことながら世の注目を浴びたのです。そしてとりわけプロイセン王国以外に住む、少なからぬ読者は、今やこの断編こそは、フリードリヒ大王の生涯に解明の光を与えるもの、と信じたのです。しかしやがてよその国よりも多くの事情を知ることができ、十分検証しることができるプロイセン王国に住む多くの読者の間から、疑問の声が発せられようになりました。さらに『ノイエ・ドイチェ・ムゼウム』(1790)やビュッシング氏の著作の中でも、たくさんの間違いや矛盾が指摘されるようになりました。またベルリンの諸官庁の方々から、自分たちの部局に関係して、その人たちが最もよく知っている事柄について、少なからぬ誤りがみられるという指摘が私の手元に届きました。そして『ドイツ百科叢書』の書評の形で、それらを報告したいとの希望が伝えられました。そこで私としては感謝の念をもって、この申し出を受け入れたのです」

これでわかるよに、本作品はここで言及されている官吏のほか影響力のある政治家など多くの人々の所見を、ニコライが編集者としてまとめたものであったのだ。しかし本文の中では、「我々は」とか「編集者は」という表現が用いられて、所見を寄せた人の名前は記載されていない。そして作品の構成や史料の吟味・補完などはニコライ自身で行っている。

本作品の内容

本著作はツィンマーマン氏の三巻に昇る作品について、「第一章 断編の概観、目的及び史料について」から始まって、「第三十二章 フリードリヒ大王の、なお十分には解明されていない側面・・・について」に至るまで、原文の章立てに即して、一つ一つ大変詳しい批評と所見を掲載している。そして第一部、第二部合わせて321頁にも及び、巻末には人名索引までついている。つまりこの作品は通常の意味での書評の枠をはるかに超えて、ニコライ自身の歴史観や歴史方法論まで織り込んだフリードリヒ大王時代のブランデンブルク・プロイセンの歴史研究となっているのだ。

ニコライはまず、「第一章 断編の概観、目的及び資料について」の個所で、ツィンマーマンの原文の四~五ページから次のように引用している。「民間伝承によるでもなく、ベルリンの酒場に取材したものでもなく、第一次史料から入手したことに基づいて、あのように偉大な対象について何か書くということは、全く他意のない試みなのである。・・・私はフリードリヒ大王の生涯からこの断編において、記憶すべき事柄を取り上げるが、それらの大部分は書物や外国の伝承に基づくものではない。それらはフリードリヒの手書きの手紙、彼の近くで彼とともに生活していた高貴な人々からのとても多くの手書きのメモ類、彼の事業への参画者からの口頭による情報、そして長年彼の話相手であった大臣に対する私の書簡による質問への回答などから成っている。これら全ての情報や事実を、私は人々がフリードリヒの驚くべき性格について、いささかなりとも誤解しないという、唯一の目的に向けて用いていく所存である」

この一次史料に基づいた叙述という姿勢そのものは素晴らしいものとして認めたニコライは、それにもかかわらずツィンマーマンの作品には、いたるところで時、名称、場所などを含めて、事実誤認や不正確な表現、一見して分かる誤りが多いと述べ、その理由ともいうべきことを次のように記している。{歴史に対して豊富な史料を見つけ出すことは、とても価値のあることだ。しかし史料を十分評価するためには、それにふさわしい知識と才能を持たねばならない。・・・史料だけでは、まだ歴史叙述者になれないのだ」。「彼自身の知識や判断力や厳密さの不足、たくましい想像力や過剰な感情移入そしておそらく彼のうぬぼれや気性の激しさなどが、素晴らしい史料を適切な形で用いることを妨げているのであろう」。

このようにツィンマーマンを批判する一方、ニコライは一般にフリードリヒ二世及びその時代について書こうとする歴史叙述者が満たさねばならない前提条件を次のように提示している。「フリードリヒ大王の生涯について書こうとする者は、まずすべてのヨーロッパ諸国の歴史と統計に関する知識を持たねばならない。とりわけその長い在位期間中に王が直接衝突した国々についての知識が重要である。・・・また商業、工業、マニュファクチャー、工場とかかわりがあると思われる事柄について、把握していなければならない」

この言葉から分かることだが、ニコライが目指した歴史叙述の在り方は、先に「ベルリンの歴史」で実行したような人口学的・統計学的な手法による社会経済史的な叙述であったのだ。

社会経済史関連でのニコライの見解披瀝

ニコライは続く第二章から第三十二章まで、ツィンマーマンの作品の誤りについて、彼の協力者の指摘を具体的に記すのと同時に、原作のテーマに即してそれらに対する自らの評価や所見を、かなり詳しく述べている。例えば第二章の父王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世に関する箇所では、軍人王ないし兵隊王などと呼ばれ、とかく評判が悪かったこの国王に対して、ニコライは大変肯定的な評価を与えている。「国家行政における秩序と著しい節倹、個々に見られた有益な勤勉の促進、とりわけマニュファクチャーの奨励は、フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の大きな功績であった」。この後ニコライは、この国王が家屋、教会、橋梁の建設を支援し、沼沢地帯の開墾を促進し、農業と王領地経営の改善を進め、とりわけプロイセン領リトアニアに再び入植を行ったことを、この国王のさらなる業績であった、と称賛しているのだ。

このようにニコライはツィンマーマンの原作に対する所見という形から出発しながら、書評の枠組みをはるかに超えて、社会経済史上の様々な領域に関して、自らの見解を披歴しているわけである。そこには国家の経済・社会政策の重要分野がほとんど網羅されている。そうしたニコライの研究成果は、フリードリヒ二世の歴史に関する第一級の歴史家ラインハルト・コーザーが言うように、あるいは最近の研究水準との比較が示すように、事実に即していて大変価値があるものなのだ。

その際上に述べた領邦君主は、当時一般的であったと思われる宮廷生活の価値基準ではなくて、労働と達成された業績という啓蒙化された市民身分の「職業倫理」によって、その価値が判断されたのであった。ニコライのような啓蒙市民は、聖職者や貴族あるいは教会や政治権力の干渉からすでに自由を獲得していた。そしてこうした観点から、フリードリヒ大王のような啓蒙専制君主は<国家第一の僕>となったわけである。この場合専制君主ではあっても、原則として批判可能な存在となり、君主はその業績によって評価されたのであった。

いっぽうニコライは、一国における経済的・文化的進歩は、単に君主の功績に属するものでない事も、強調した。それはニコライの歴史叙述の重点が、君主と戦争の歴史から、経済・社会・精神の歴史へと移っていたことにも示されていると言えよう。こうして歴史叙述の中に、君主だけではなくて、臣下(一般民衆)も登場してきたのである。この意味でニコライはずっと以前の1774年に、『ドイツ百科叢書』に「改革者ヴォルテール」と題する書評を掲載して、民衆の登場を強調しているのが注目されるのだ。

ヴォルテールにせよニコライにせよ、これらの著作家たちは宮廷歴史家ではなくて、彼ら自身の身分(市民身分)の業績を歴史の中に探し求めて、叙述したのであった。こうした関心領域の拡大は、歴史方法論の決定的進歩と手を携えるようにして行われたのであった。

(3)テンプル騎士団などに関する研究

  A    「テンプル騎士団、薔薇十字団およびフリーメー
     ソン研究」

 本作品成立の経緯

本著作の正式な表題は『テンプル騎士団に対してなされた弾劾並びにその秘密に関する試論。フリーメーソンの成立についての付論を添えて』(1782)である。ニコライ自身その会員であったことがあり、のちに脱会したフリーメーソン協会の成立とテンプル騎士団との関連を探ろうとしたことが、本著作執筆の動機であったという。

ニコライの時代、フリーメーソンの起源としてテンプル騎士団の名前を挙げる書物もたくさんあり、そのことを口にする人も少なくなかったという。そうしたことが契機となってニコライは本書を書くことになったのであるが、その本論の部分で彼はテンプル騎士団の歴史を叙述したのではなく、十四世紀初頭に起きたその悲劇的結末にまつわる事情を研究したわけである。専門家によれば、約二百年に及んだ騎士団の歴史そのものよりも、異常な結末を迎えた同騎士団の最後に関する研究の方が盛んなのだそうであるが、ニコライもそれに倣ったものと思われる。というよりもむしろ強制的に廃絶された後の騎士団の運命や、地下で連綿と続けられてきたといわれる動きとフリーメーソンの成立との関連に、ニコライは強い関心を寄せて本書を執筆したようである。
ちなみに二十世紀イタリアの作家ウンベルト・エーコが書いた『フーコーの振り子』という作品は、私も読んだが、まさにテンプル騎士団のその後の運命にまつわるミステリー風の物語なのである。

本論に入る前にまずニコライとフリーメーソンとの関係について、簡単に触れておきたい。プロテスタント正統主義の立場に立っていたニコライは、1781年に行った南ドイツ及びオーストリア地域への大旅行の際に、カトリック教会というものに初めて肌で感じるほど生々しい形で接触した。以前からカトリックに批判的であったニコライは、この時以来その神学上のカトリック批判を強め、とりわけ戦闘的なイエズス会にその批判の矛先を向けるようになった。イエズス会は1773年にローマ教皇クレメンス四世によって廃止に追い込まれたが、ニコライの見解によれば、その廃止以後一般社会から身を隠しながらも、秘密のヴェールに包まれた部分の多かったフリーメーソン協会にひそかに潜入して、そこに広まっていた秘密儀式に携わるようになっていた、というのだ。

ニコライが所属していたのは、ベルリンにあった「三つの地球儀」というロッジであった。当時ヨーロッパ中に広まっていたフリーメーソン協会は、ロッジと呼ばれる支部によってその実態はかなり異なっていたようだ。ニコライは自分が所属していたロッジでの経験から、この教会内部では厳密な会則に従った階層的な構造が支配していたことを明らかにしている。この高度位階制といわゆる「未知の上位者」への絶対的服従といった協会内部の秘密主義は、本来あるべき啓蒙主義の公開への要請という根本原理に反するものだ、というのがニコライの立場であった。彼の眼には、位階制や絶対服従は、公平な批判、真理の探究そして健全な理性の普及などを、妨げるものに見えたのだ。そして秘密保持のヴェールの陰に隠れて闇の力が結束して、啓蒙に戦いを挑んでいるようにも見えたのだ。

ところでフリーメーソンの起源を巡っては、古来様々なことが言われているが、1717年にロンドンに「思弁的」フリーメーソン団が誕生する以前には、いわゆる「実践的」フリーメーソン団として、数多くの中世的な同業・同職組合との関係が指摘されている。その一つに「フラン・メチエ」と呼ばれる同業信心会があったが、これの発生にあずかって力があったのが「テンプル騎士団」であったという。この騎士団は十字軍の時代の1118年に聖地防衛を目的としてエルサレムに設立された。そしてその周辺に城砦を作ったり、教会を建てたり、道路や橋梁の建設に従事したりした。

その間に彼らは東方の建築術をこととする諸集団と密接な関係を結んだ。そしてやがて習得した建築術を西方のヨーロッパへともたらした。こうしてヨーロッパのいたるところでテンプル騎士団は、ギルドや同職組合に入り込み、重要な役割を果たすようになった。そして石工(メーソン)、大工、モルタル職人などはほとんど全員、テンプル騎士団の領地に居を構えるようになった。「実践的」フリーメーソンの中核に「石工(メーソン)」の組合があったことは、一般的に認められている。この点にもフリーメーソンの起源としてテンプル騎士団の名前が出てくる所以があったと言えるのではなかろうか。

テンプル騎士団の悲劇的結末

西暦1307年10月、フランス在住のテンプル騎士団全員が逮捕されるという事件が発生した。推測と強い疑惑に基づいて行われたこの逮捕に続いて、命令を出したフランス王フィリップ四世の宣言文がパリで配布され、一般公衆に逮捕命令書に盛られた告発事項を知らせている。これらの告発事項は、テンプル騎士たちの背教、猥褻な典礼,男色、偶像崇拝などの罪状を連ねたものである。この告発に基づいて、テンプル騎士たちに対する異端審問官による尋問や教皇クレメンス五世による裁判などが行われる。そしてヴィエンヌ公会議が開かれ、1312年フィリップ四世の強い要請によって、テンプル騎士団の廃止とその財産をヨハネ騎士団に移すことが決定される。その際騎士団長ジャック・ド・モレー以下数人の幹部が火刑に処せられ、それ以前の拘留中に行われた拷問によって多数の騎士が命を落としている。

以上がテンプル騎士団の悲劇的な結末の概要であるが、こうした残虐な仕打ちは、十八世紀の啓蒙主義者にとっては、中世的な非人道的な行為の典型的な例とみなされた。たとえばトマジウスやヘルダーもこの問題に取り組み、非人道的な裁判を非難して、騎士団を弁護する論調を展開している。

啓蒙主義者ニコライも、本著作において騎士たちに科せられた数々の罪状を分析し、検討しているのだが、その際ニコライが取った態度は、批判・実証的な歴史研究者としての態度だった。つまりニコライは歴史研究に当たっては、啓蒙的道徳的判断を排除し、党派性や感情移入を拒否して、歴史認識の客観性を保とうとしたのであった。そのためにここでニコライが行った分析や叙述は、イデオロギー的・道徳的評価がもたらす影響への批判にもなっているのだ。

とはいえ啓蒙主義者ニコライにとっては、人道主義の絶対的要請というものも無視することはできなかった。そうした微妙なバランスの上に立って、彼はこの問題を論じていったのであった。

騎士団弾劾に対するニコライの所見

ニコライは本著作の第一部の前半で、騎士団員に向けられた非難・告発の一つ一つを取り上げて、子細に検討し適切な所見を述べている。そこでニコライは、極めて特殊なまさに骨董品的な、深く細部に立ち入った興味と関心を示している。この研究を通じてニコライは、カトリックの教義の歴史に対する驚くべき知識を披露してもいるのだ。

付論『フリーメーソンの起源』

第二部の後半でニコライは、本作品執筆への動機づけとなったフリーメーソンの起源についての研究を、付論の形で掲載している。当時フリーメーソンの上層部によって、フリーメーソンは廃絶されたテンプル騎士団と直接関係があった、という主張がなされていた。彼らは秘密主義と神話形成の力によって、自分たちの影響力を拡大するために、一つの伝説を作り上げようとしていたわけである。こうした動きに触発されて、ニコライもその起源を研究しようという気持ちになったのである。

この論文のはじめにニコライは、その少し前に亡くなった友人のレッシングが書いたフリーメーソン談話『エルンストとファルク』を取り上げている。そこでは暗号化された形ではあるが、「新しいテンプル騎士団員」が話題となっていたからである。ニコライによれば、その中でレッシングは、テンプル騎士団の組織はその後ずっと存続してきたが、その組織から十七世紀末に建築家クリストファー・レンによってフリーメーソン協会が創設されたと主張しているという。それに対してニコライは、テンプル騎士団の後継の秘密組織が何らかの重要な意図なしに、四百年間も存続してきたとは、自分にはとうてい考えられないとしている。

そして十七世紀のロンドンで何かが発見されたとするならば、それは古い組織を模範にして新たに創設されたものと考える方が、自然であるとしている。続けてニコライは自分で集めた史料を基に、十七世紀のイギリスに焦点を合わせた自己の研究成果を明らかにしている。そして建築家レンに先立ち、古典古代の研究者アシュモールがすでに1646年にフリーメーソン協会に加入していたと記述している。この人物はイギリス国王チャールズ二世の寵臣で、薔薇十字思想を非常に礼賛していた。そうした秘儀参入者たちが自然の秘密を探求し、霊的にソロモンの館を建築することを目的とする結社を、1646年にロンドンに組織したという。

テンプル騎士団とフリーメーソンをつなぐ薔薇十字団

ここからニコライはテンプル騎士団とフリーメーソンをつなぐ存在として、この薔薇十字思想ないし薔薇十字団というものに注目し、「フリーメーソンの起源を詳しく知るには、私としては別の、これもとても有名な薔薇十字団の起源を探る必要がある」と述べている。この後ニコライは、南西ドイツ、ヴュルテンベルク出身の神学生アンドレーエを薔薇十字思想の生みの親だとして、1616年に発表された彼の小説『1459年のクリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚』に触れ、そこに現れた薔薇十字思想について詳しく解説している。

当時のドイツは、カトリックとプロテスタントの両勢力が激しく対立し、三十年戦争が勃発する前夜の状況にあった。このころ起きた薔薇十字団騒動については、実にたくさんの文書や史料が遺されていたが、ニコライは「アンドレーエの書いた著作及び薔薇十字文書の多くを読んだ。そして・・・私のようにしようとする者は、アンドレーエがこの協会を道徳的・政治的意図から、一つの詩(虚構)として考えたことを理解するに違いない。しかし彼の詩(虚構)は多くの同時代人によって真実として受け止められ、各人が自分流のやり方で解釈し、その結果一部に全くばかげた事態が発生したのであった」。全く真摯な情熱をもって教会を改革しようとして薔薇十字思想の普及を考えていた若き善良な神学者アンドレーエは、自分が著した著作が思いもかけぬ熱狂と反発を引き起こしたことにおどろいた。そして自分への迫害も痛切に感じたため、自分の計画を取り下げ、薔薇十字騒動から身を引いた。しかし一度世の中に広められたその思想は消えることはなく、様々な形で後世に影響を及ぼすことになったのである。

ニコライは薔薇十字思想の中核にパラケルススの思想や錬金術的ないし占星術的思考があったことに触れた後、この思想がやがてイギリスにわたって、当時の政治や宗教とのかかわりの中で、やがてフリーメーソンへとつながっていく道程を、先のアシュモールの役割や1660年の<ロイヤル・ソサエティ>(王立協会)の創立に絡めて詳述している。
ニコライはその後の薔薇十字思想の流れを、大きく四ないし五のグループに分けているが、イギリスへの影響の点で重要な人物として、ミヒァエル・マイヤーとロバート・フラッドの二人を挙げている。マイヤーはドイツ皇帝ルドルフの侍医で錬金術師であったが、その思想はアンドレーエのものとはかなり違っていて、神秘主義の装いをより強く持っていた。もう一人フラッドはロンドンの医者であったが、その思想はパラケルススの医学とグノーシスの哲学に自らの物理学的要素を加味したものであった、とニコライは述べている。

次にニコライは近代哲学の先覚者の一人であったフランシス・ベーコンを登場させている。そして自然科学の進歩に壮大な夢を託したユートピア物語『ニュー・アトランティス』のあらすじを紹介して、自然研究の場としてのソロモンの館に関する記述が当時、一般に大きな注目を浴びたことを指摘している。次いでこのベーコンの思想が薔薇十字の思想とまじりあって、十七世紀半ばのイギリスの内乱の時代に多くの知識人に強い影響を及ぼした、としている。当時のイギリスの知識人の多くは、革命や凄惨な戦乱の渦中にあって、神秘的でほとんどグノーシス的な哲学思想を胸に抱いていたという。占星術や呪術はなお人々の心を強くとらえていた。そうした情勢の中で当時唯一の実験的な科学であった化学も、こうした色彩に彩られていたのだ。

学者の教えや実験は、錬金術師の具象的な比喩をもって初めて当時の人々の理解が得られたという。薔薇十字思想の原典といわれるアンドレーエの『化学の結婚』も、錬金術に深くかかわっている。この事からも分かるように、自然科学研究という近代への第一歩は、なお薔薇十字思想に結集していた中世的な神秘主義的彩りを媒介して、初めて記されたわけである。

フリーメーソンへの歩み

こうして前述したアシュモールは、占星術師、医師、数学者、聖職者などを集めて、霊的にソロモンの館を建築することを目的とする結社をロンドンで組織したわけである。この後ニコライはこの知識人の組織がフリーメーソンへと発展していく経緯について、次のように述べている。「ロンドンで市民権を有する者はだれでも、何かのギルドに属していなければならないことは、周知の事実である。・・・この協会の何人かの会員は石工(メーソン)のギルドに属していた。このことによって彼らはその会合の場所として、石工のギルド会館(メーソンズ・ホール)を利用する機会を得た。そしてその他の会員も石工のギルドに加入し、<フリー・アンド・アクセプティッド・メーソン>と称し、石工ギルドのシンボルを用いた。ここではフリーという英語は、誰かがある協会またはギルドの会員としての権利を有している、という意味なのである。・・・アクセプティッドという言葉は、この特別の協会が石工ギルドによって受け入れられたことを意味しているのだ。このようにして後に有名になったフリーメーソンという言葉は、元来偶然生まれたものなのだ」

このようにしてフリーメーソンの、いわば原型が誕生したわけであるが、初期のうちはあくまでも石工職人ないし自然研究者の、とらわれのない会合の場であったことを、ニコライは強調している。しかし同時にこの団体に集まった人々は、政治的には、反議会の王党派であったため、クロムエルを中心とした清教徒・議会派と、チャールズ一世を中心とした王党派の間の政治的争乱に彼らも巻き込まれた経緯が、その後かなり詳しく叙述されている。しかし様々な紆余曲折を経て、1660年に王政復古がなり、チャールズ二世が即位するの及んで、この王党派の組織であるフリーメーソンから、自然研究を目的としたアカデミー(ロイヤル・ソサエティ)(王立協会)が生まれることになったわけである。

そしてこのころになると、自然研究をひそかに行う傾向が強かった初期の会員の多くは死亡し、新しい世代の会員の考えは以前とは著しく違うものになっていったという。その表れとして、ひそかな研究という事を好まなかった建築家のクリストファー・レンが、1663年にフリーメーソン協会の上級監督者、1666年に本部長代行そして1685年には本部長の地位についていることがあげられる。つまりニコライはここで、従来の秘密のヴェールを脱いで、より開かれた組織へと変質したことを強調しているのだ。そして1723年にフリーメーソン憲章が、有名な物理学者で本部長代行であったデザギュリエによって書かれ、さらに1725年にパリにフランス最初の支部が設立されたことを記している。そしてこれ以後この協会は大々的に発展し、それに伴い著しい変貌をとげていった、との記述でニコライのフリーメーソン成立史は終わっている。

第二部の概要 

続いてニコライはその翌年の1783年に、その第二部を刊行している。これは三章からなっているが、まず第一章「テンプル騎士団の秘密に関するアントン氏の研究について」は、ヴィーラント編集の雑誌『ドイツ・メルクール』に掲載されたニコライ作品への批判的論文に対する再批判である。第二章「テンプル騎士団への弾劾及びその秘密に関しての匿名氏の反論について」は、同じ雑誌に掲載された別の論文へのニコライの対応である。そして第三章「フリーメーソン協会の成立に関する匿名氏の反論について」は、同じ匿名の人物に対するこのテーマに関する再批判である。ここではこれらの著作の内容に立ち入ることは避けるが、ニコライに限らず啓蒙期の知識人の間では、こうした論争が絶えず行われていた、という事だけをここでは述べておくことにしよう。

ニコライがこれらの著作を発表したとき、彼はまだフリーメーソン協会の会員であった。それだけに彼に対する圧力は、陰に陽にいろいろあったようであるが、それだけに一層歴史研究に当たっての客観性への彼の努力は、称賛さるべきであろう。ニコライの試みはフリーメーソン史の「脱神話化」にひとしく、その意味で「啓蒙的目標」を追求したものであったと言えよう。

   B   『 薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関
   する所見』

本作品成立の経緯

『薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関する所見』

これは先の著作が刊行されてから実に23年後になって発表されたものであるが、ニコライはこの作品の成立事情について、その序文の中で詳しく述べている。まず本書の正式な表題は『薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関するいくつかの所見。このテーマに関する宮廷顧問官ブーレ氏の、いわゆる歴史的・批判的研究に触発されて』(1806年)である。この副題の中に本書執筆の動機が示されているわけである。

ただ執筆に至るまでにニコライは、多少の紆余曲折を経験している。そうした事情について序文の中で記している。それによるとブーレ氏の著作が1804年の秋に刊行されたとき、ニコライはすでにこのテーマについては知り尽くしているので、わざわざ読むことはしなかったという。そして少し後になってこれへの書評が出た時はさすがに目を通した。そしてブーレ氏が自分の本をいろいろ利用しておきながら、あたかもそれを本人の自説であるかのように述べ、あまつさえ自分に対して論争を挑んでいることを知った。それでもブーレ氏の本を精読するのは時間の無駄であるので、あえてしなかったという。その理由としてニコライは、次のような譬えを用いている。「文学の世界には、乳を飲ませてくれた乳母のことを、後になって殴りつけるようなぶしつけな子供がいるものだ!」

しかしその後、『ドイツ百科叢書』の協力者の一人から、このまま放置しておくとブーレ氏が行っているニコライ非難を認めてしまうことになるので、まずいのではないかと言われ、ニコライもようやく重い腰を上げたという事である。こうしてニコライは1805年の10月末になってブーレ氏の著作を読み、自分に向けられた非難・攻撃が思っていた以上だったのに驚いて、本作品を書いたという訳である。この作品は本文180頁とかなりな分量のうえ、さらに88か所に詳細な註が、67頁にわたってついている。一度取り組んだ仕事は中途半端に済ませないニコライの粘液質の性格が、そこにはよく表れているといえよう。

執筆の動機とブーレ氏への反論

ニコライはブーレ氏の著作への批判ないし所見を述べる前に、まずその本文の50ページほどを費やして、どのような動機から自分がこのテーマに取り組むようになり、その後長年にわたって、いかに深くこの問題を研究してきたかということについて詳述している。その冒頭で彼は、1781年の南ドイツ旅行の際にミュンヒエンのアカデミーの会員に推薦されたことのお礼として、それまでの研究をまとめて『テンプル騎士団に対してなされた弾劾に関する試論』を提出したことを記している。またその付論として添えられた『フリーメーソン成立史』が生まれたのも、アクチュアルな動機によることが明らかにされている。つまり自分が所属していたフリーメーソン協会の中に、とりわけ1775年ごろから「未知の上位者への盲目的服従」や「秘密教団」的色彩が強化されるようになったことに、危機感を抱いてその源をたどることを決意して書いたというわけである。その後ニコライの筆はこれらの著作の具体的な内容に触れながら、当時彼の周辺で目に付いた「黄金薔薇十字団」のことにも及んでいる。

そしていよいよニコライはブーレ氏の著作に対して、具体的に反論を加えていく。そこでは、このテーマについては自分は第一人者であるという自信に満ち溢れ、微に入り細を穿ったやり方で、個々の問題に深く立ち入っている。それはまさに圧巻といえるものであるが、ここではそれに触れることはできない。ただそこで展開されているブーレ氏の作品に対する批判の重点は、「自ら称している歴史的・批判的研究」に向けられていて、それがいかにその名に値しないかを、これでもか、これでもかといった調子で検証しているのだ。
長年歴史研究に携わったニコライであったが、円熟の境に達した晩年に書かれた本作品の中には、彼の歴史方法論が十二分に記されていることは、注目に値しよう。

(4) 文化史上及び言語史上の著作

『古代及び近代における鬘(かつら)の使用について』

『古代及び近代における鬘(かつら)の使用について』の見開き

ニコライは言語の歴史にも興味を持っていて、様々な機会に散発的にその成果を発表しているが、まとまった著作にはなっていないので、ここでは彼の文化史上の主著ともいうべき『古代及び近代における鬘(かつら)の使用について。一つの歴史研究』(1801)を取り上げることにする。

この作品はもっぱらニコライ自身の資料研究から生まれたものである。その扱う時代は、ギリシア・ローマの古典古代時代から、ヨーロッパの中世・近世を経て、彼が生きていた十八世紀末までとなっている。史料としては、ギリシア・ローマの学者・作家の著作、キリスト教の教父たちが遺した言葉や説教、教会会議の決議、中世の記録史料、領邦君主の勅令や税に関する指令などの文字資料のほかに,硬貨やメダル、記念碑に描かれた図像などが用いられている。

そしてこれらの図像は本書の中に掲載されていて、本文への読者の理解を助けている。この作品は、歴史事実に対するニコライの「骨董的」ともいうべき、細部に対する強い興味と関心によって彩られている。そのためか、本文126頁,註224頁項目53頁、図像66点・17頁という構成になっている。

ギリシア・ローマ時代

まず前半のギリシア・ローマ時代については、我々にもおなじみの学者や作家、皇帝、英雄などが、いろいろ登場している。アリストテレス、クセノフォン、アリストファネス、トゥキディデス、オヴィディウス、ヴィルギリウス、ホラティウス、アプレイウス、キケロ、イシドールなどである。これら古代の作家や学者の著作から、頭髪や鬘に関連した叙述がギリシア語とラテン語のままで引用され、さらにラテン語の聖書の記述も援用しながら、それらに自らのコメントを記し、叙述を進めている。またカエサル、ネロ、カリグラといった皇帝たちが描かれた硬貨の図像も用いられている。そうしたコメントや叙述の中から興味深いものをいくつか拾い上げて、ご紹介することにしよう。

まずローマの詩人マリニウスの占星術風の詩の一部が引用され、「プレアデス星団(すばる)の下に生まれた人は、鬘をかぶるよう定められていた」と歌われているが、この習慣はギリシアから来たものではないかとニコライは疑問を呈している。また同時代のドイツ人ヴィンケルマンが「エジプトのイシス神の頭部を描いた図像から、これこそ史上初の鬘についての図版である」と書いているのを引用して、自分もそれを信じるとしてその図像を掲載している。さらにローマ人の場合、鬘は禿頭を隠すためだけではなく、皇帝ネロやカリグラなど有名人が顔を悟られないために使用していたとも書いている。そしてローマの仇敵カルタゴにも鬘は知られていて、歴史家ポリュビオスによれば、ハンニバルは鬘をたくさん持っていて、やはり変装用に用いていたとしている。

いっぽうローマ人の女性は髪型にも大変気を使っていて、たいていの女性が正真正銘の鬘をかぶっていたという。その際彼女らはゲルマン女性の金髪をたいへん好んでいて、それらを取り寄せていたという。そして「公娼はブロンドの鬘、堅気の娘や中年女性は褐色や黒色の鬘をかぶっていたとの説をしばしば見受けるが、そうしたことを立証する史料は見当たらない」としてニコライはその説を退けている。

語源的考察と中世

次いでニコライは十八世紀当時「鬘」を意味していた”Perrucke” という言葉がいつごろから使われていたかという語源的考察に入り、「この言葉が十六世紀以前に使用されていたと考えることは難しい」としている。言葉の歴史にも強い興味を抱いていたニコライは、この語源的考察に16ページも費やしている。

この後ニコライの筆は中世に入る。そこではビザンティンの僧侶ゾナラスの言葉を引用して、「この時代オリエントのキリスト教徒は好んで鬘をかぶるために、髪の毛の多くを刈り取った。とりわけそれは男性に多く見られた。ある者は自分の黒髪 を金色ないし金褐色に染めた。そしてそれを真夏には漂白するために、太陽にさらした」と書いている。いっぽう十三世紀のスコラ哲学者アレキサンダー・フォン・ハレスは、鬘の使用に強く反対しているが、当時フランスやその他の国々で、たぶん鬘が使用されていたのであろうと書かれている。

近 世

やがてニコライの筆は近世に進み、十六世紀にはオランダ、フランス、ドイツなどでは男性が鬘をかぶることはたぶんなかったようだ、と書いている。そしてこの時代の男性は一般に髪を短くしていたが、エラスムス、カルヴァン、ツヴィングリをはじめとする学者方は、縁なし帽子をかぶっていたとして、それらの図版を掲載している。それに対して十六世紀から十八世紀にかけて、ヨーロッパの女性の間では、鬘が用いられていたとしている。そして十六世末にイギリスのエリザベス女王は、65歳の時金髪の鬘をかぶっていたと述べられている。

その後ニコライは、男性の間で鬘の使用が流行するようになったのには、何か特別なきっかけがあったに違いないと考察し、それは十六世紀の最後の四分の一の時期に起こったと書いている。それはフランス国王アンリ三世が、性病にかかって髪の毛の多くを失ったため、それを隠すために鬘をかぶったことが、きっかけであったと述べている。それからニコライはイギリス、スペイン、イタリア、フランス、オランダ、北ドイツにおける事情を考察した後、十七世紀後半のルイ十四世の時代に、鬘の栄光の時代が訪れ、国王自らがかぶり、それを宮廷人が真似をし、かくして鬘をかぶる習慣は、ヨーロッパ中に広がっていったとしている。

十七・十八世紀のドイツ

最後の部分でニコライは、自分の国ドイツにおける鬘事情について詳述している。この時期の鬘の使用は、十七世紀の最後の三分の一の時期に、フランスから南ドイツやイギリスに普及し、さらにイギリスから特別な関係にあった北ドイツのハノーファーやブラウンシュヴァイク地方に移っていったという。ベリリンにおいては、1675年以降、政治家、法学者、医者などがとても大きな鬘をかぶっている図版が存在するが、十七世紀にはまだほとんどすべての牧師や学校教師は鬘を使用していない。ところが十八世紀の最初の四半世紀には、ドイツの全プロテスタント地域(主として北部及び東部)において、すべての聖職者、学校教師が鬘をかぶるようになっていた。

この傾向は当然のことながら、地位や身分が高まるほど、早い時期に見られる。すでに1656年に、プロイセン大選帝侯の鬘姿が硬貨に刻まれているが、彼はたぶんその妃ルイーゼ・アンリエッテの影響を受けて、この流行を取り入れたのであろう、とニコライは述べている。そしてその息子たちカール・エーミール、フリードリヒ(のちのプロイセン王国初代国王フリードリヒ一世)、ハインリヒなどは、二歳から十歳の間に鬘をかぶせられていたのだ。幼少のころから鬘をかぶっていたフリードリヒ一世は、成人後の肖像画でも立派な鬘姿で描かれている。またプロイセンの宮廷にしばしば出入りしていた有名なが学者ライプニッツも、大きくて立派な鬘をかぶっていたわけである。

こうした伝統を破ったのが、軍人王と呼ばれていたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世であった。彼は1713年の国王就任の日に、鬘をかぶっていた88人の侍従及びその他大勢の宮仕えの人々を解任し、自らもその数か月後に鬘を脱ぎ捨てた。そして質素な軍服に身を包み、髪は束ねて後ろで黒紐で結んだ。この弁髪は当時、国王としては全く異常な姿であったため、ヨーロッパ中で注目を浴びたという。この国王はさらに1717年にには、従来からあった鬘税を廃止した。これに関連してニコライは、「大きな鬘と一緒にフリードリヒ・ヴィルヘルム一世は、その他すべての奢侈と儀式も捨て去った。それらは莫大な時間と金を費やすものであったから、国土改革以上に重視されたものであろう」とのコメントをつけている。とはいえ彼の統治下にあっても、あらゆる身分の男性はなお、鬘をつけたままであった。

そしてその後のフリードリヒ二世の統治前半には、プロイセン国の男性は若者に至るまで鬘をかぶるのが普通であったという。1740年にはハレ大学では、教授といわず学生といわず、鬘をつけていない者を探すのは大変であったのだ。またプロイセンの軍人の間では、七年戦争(1756-63)のころまでは先代国王によって導入された小さな弁髪鬘がん見られたが、大臣や政府高官は大きく立派な鬘をつけていた。ニコライの知人のフルート奏者クヴァンツは、1720年には立派な鬘をつけていたが、1760年にはプロイセン国王の首席音楽奏者として、当時フランスから伝わってきた、後ろに垂らした髪を袋になったリボンで包む「袋鬘」をかぶっていたという。その後ニコライの筆は、フランス革命時に見られた髪型の流行の変化に触れ、それをもって「鬘の歴史」の結びとしている。

3   ニコライの歴史方法論

前述したように、歴史研究者としてのニコライの側面に注目して、最も詳しい研究を遺したのが現代ドイツの歴史学者ホルスト・メラーであった。その中でもメラーが特に力を入れて取り組んだのが、ニコライの歴史方法論であった。メラーはニコライの歴史関連著作について具体的に触れた後、彼の歴史方法論について、実に整然と体系立てて分析・説明している。そこでここでは、メラーの分析を要約した形で、紹介していくことにする。

1) 史料批判と解釈

メラーはまず、「史料」の価値及びその評価方法に関するニコライの見解をただしている。それによると、すべての歴史著作の中でニコライは、集中的に資料研究を行ったという。そしてその一例として次のような具体例が挙げられている。「テンプル騎士団及びフリーメーソンに関する彼の研究を、事実に即さず、十分な史料的知識なしに攻撃したヘルダーに対して、ニコライは次のように反論した。<・・・根拠なき啓蒙、記録史料なしの研究的啓蒙は、啓蒙などではない>と」。

またテンプル騎士団の歴史研究に関してニコライに先行していた著作家たちのやり方を、彼は次のように批判したという。「ニコライは次にあげる言葉の中で、彼独自の原則をまとめている。<もし真実の歴史を述べようとするならば、歴史的証拠を出せないものについては、確実なこと以外には、主張してはならない。推測や仮説は歴史的証拠ではない。それらは史料不足の場合には、歴史の暗闇の中に何らかの痕跡を見出す手がかりになるかもしれないが、それは他の確実な情報と一致する限りにおいて、有効なのだ>」。

次いでメラーはこれに関連して次のように述べている。「要するにこの文章はニコライの歴史叙述の本質を表明しているものである。歴史著作の基礎としての同時代史料、特殊なコンテキストにおけるそれらの解釈、史料によって証明できるものと単なる憶測や仮説との違い、そして年代研究と因果関係の分離。これらもろもろの問題点は、たしかに同時代史料に権威を与えるものではあるが、それでもって学問的歴史叙述の諸問題が解決された、と彼が考えていたわけではない。むしろ彼は現代歴史学のさらなる構成要素である次の点も認識していたのである。つまりまず第一に徹底した<史料批判>、そして第二に<史料解釈>の問題を論じたのである」

この関連でメラーはさらに続けている。「ニコライがその<フリードリヒ二世の逸話>及び<ツィンマーマン氏に関する所見>の中で、出来事に直接関与した同時代人に部分的に依拠せざるを得なかった。そしていくつかの逸話の真実性について、直ちにその出所を調べた時、証人の供述の持つ問題性を認識した。それらは一般に後から勝手に付け加えられたり、あるいは削られたりして、結局は雪だるま式に膨らむか、霞のように消え去るかして、確かなものは何も残らないのだ。<ツィンマーマンに関する所見>の中で、彼は例えば文体調査を援用したり、性格上の特徴を考えたりして、ある歴史上の人物の特定の供述が、ツィンマーマンが主張したように、本当に本人の口から出たものかどうか、調べようと試みた。そしてツィンマーマンは史料評価に当たって、<慎重に、歴史批判の立場から作品に取り組まねばならなかったし、少なくともいわゆる信頼性に対する彼の理由付けを明瞭に表明するか、もしくは信頼できるものではない、と表明すべきであったのだ>と非難した。史料批判に対する同様の発言は、ニコライの歴史著作のいたるところに見られる」

(2) 仮説の構築

次いでメラーは史料が不足した状況での仮設構築の問題を扱っている。「ニコライがその独自の研究において、とりわけフリーメーソンとテンプル騎士団の歴史に関する研究において、しばしば指摘しているように、史料を巡る状況はしばしば、調査すべき問題に対して間違いなく一次史料から説明できるとは限らないので、歴史家は類推を含めた仮説の構築を必要とするのだ。ここでは史料評価に対するのと同様に、その仮説は立証された事実や確実な史料と矛盾してはならない、という原則が当てはまる。史料研究と仮設構築を結び付けるニコライのやり方は、次の引用の中に表明されている。

<人は様々な原則の蓋然性と非蓋然性について、既知の事柄との慎重なる比較によって、判断することができる。とはいえ全く記録史料がなく、純粋に仮設だけから成り立っている歴史というものは、まずないと言いていい。(しかし)記録史料のみによって構築された歴史というものも、ごくわずかか、あるいはまったくないとも言える。・・・もし昔のことや新しいことについて、二、三の信頼すべき語り手の供述が食い違っていたとするならば、その時は最も蓋然性の高いものを選ぶか、もしくは様々な情報を総合しようとすべきではないのか? それはただ仮説を検証することを通じてのみ可能なのだ。仮説の価値は疑う余地がない。しかもまさにそこでこそ、本当の史料批判が適用されねばならないのだ。

(3) 説明と理解

さらにメラーはニコライの歴史叙述の根本に触れて、次のように書いている。
「ニコライにとっては常に、物事が如何にして生起したか、それはどのようなものであったか、歴史的人物の行動はどのような動機でなされたか、そしてその動機はどのように説明されうるか、という事が問題なのであった。これはまさにのちのランケの歴史研究に対する批判実証的な基本的態度と共通するものだといえよう。メラーはさらに論を進めている。
「これらの問題 に関しては、彼は実用的手法の信奉者であったが、これこそは啓蒙的歴史叙述の不可欠の要素だったのであり、またこれはポリュビオス(古代ギリシアの歴史家)が創り出していたものでもあった。・・・その目的は、歴史上の出来事の原因とその内的連関を発見することであった。そしてさらに実用的歴史叙述は、後世の人々に教訓を与えることを課題としていた。歴史にこうした目的を与えることについては、ニコライのほかにも、何人かの名前を挙げるとすれば、カント、メーザー、ガッテラー、ヨハネス・ミュラーなども、このことを公言していたのである」。

次いでメラーは、ニコライが歴史上の出来事の因果関係の分析だけでは満足せずに、歴史上の人物が抱いていた意図というものにも注目したことに触れている。それはその人物の行動を説明すると同時に、歴史的対象を時間的へだたりと、未知のものの個別的相違に基づいて「理解」するためだという。その意味でニコライは、ツィンマーマンに対して、まさにフリードリヒ大王の視点に立たねばならない、としたのだ。その関連でメラーは次のように続けている。

「・・・テーマを経済史的・人口史的問題ならびに宗教史的・文化史的問題に拡大することによって、原因と結果のシェーマでは部分的にしかとらえることができなかった歴史的生活や個別的状況の複合体が生まれたのである。・・・過去のなかには数多くの歴史的主体と名の知れない原因が存在し、数多くの歴史的問題とあまりにも多くの未知の存在があった。原因と結果のカテゴリーの助けによる単なる因果論では、個々の原因を十分説得力を持って説明することはできないのだ。・・・なぜならその超時間的・論理的性格は、歴史の特殊性を適切に表現するのに向いていないからだ。

・・・ニコライは、彼の著作の数多くの個所で、時代的制約に縛られた自己の基準を、過去の時代に適用することを批判した。例えばフランス人のミラボーはその著書『プロイセン王朝』の中で、フリードリヒ大王の経済政策を、その重商主義的原理によらないで、自己の重農主義的前提に立って判断したため、誤解したのだと、ニコライは非難している」。

この後メラーは次のような言葉で、この項目を結んでいる。「疑いなくニコライは、歴史の独自性や・・・歴史はそれ自体の価値を持つという考えを理解していた人物であった。そしてそのことによって、彼は新しい認識に道を開いたのであった。<それが次第次第に現在に至るまでどのように変化してきたのか、そしてまた各時代の習俗やその段階的発展あるいは急激な変化など>を把握しようとした彼の努力は、歴史的思考の二つの決定的な前提ー歴史事象の特殊性と全体性ーを把握すべくニコライを運命づけたのであった」。

(4) 客観性の原理

メラーは、この客観性の原理をニコライが歴史叙述の義務的目標とみなしていたとして、次のように述べている。「研究対象に対する時間的な距離がニコライの歴史的思考において、質的な距離になった。この認識からニコライの歴史研究の最後の中核的思考は刺激を受けたのだが、それはつまり客観性の原理なのである。・・・ニコライは歴史叙述者に対して、次のように要求した。<歴史叙述者は、抑制された想像力と並んで勤勉さ、真実への愛好そして公平さを持たねばならない。こうしたことこそが、その者にとって、正しい情報を探し出し、慎重に点検し、その後で出来事を、いかにそれが本当にこれらの情報によって規定されているのか、厳密に叙述し、その際それに何か付け加えたり、差し引いたりしないことに役立つのだ>

この文章によってニコライはすでに、ランケが後に歴史叙述の役割として規定したこと、つまり<それは元来どうであったか>という事を叙述するという立場に近づいていたのだ」。ニコライがこのことを強調したのは、当時啓蒙主義陣営の内部でも外部でも、言論活動や学問研究の場において、客観的というよりも党派的な実例がことかかない、といった状況にあったからである。

そのためこの時代の歴史研究の内部で、そもそもこうした要求を掲げたこと自体が重要なのである、と述べてメラーはこの点を高く評価している。しかし同時にニコライが客観性の基準を問題にしなかったことを、彼の哲学的思考の限界が示されたものとして、次のように批判しているのだ。「いかなる経験的認識も認識対象の外にある前提によって規定されているという事、そしてまた<真理への愛>や<公平さ>への要求だけでは<客観的>認識を保証するには不十分であることを、ニコライは考えなかった。・・・カントの認識批判を跡付けることは、ニコライには不可能であった。彼は生涯カントと論争を続けたが、熟考の不十分な経験主義の信奉者であり続けた」

このように哲学的思考がニコライの弱点であった事を指摘したメラーであったが、それが歴史研究者としての資格の欠如を意味するものでない事は、メラーも十分認めている。そこには歴史家と哲学者の立場の相違という、根本的な問題が横たわっているのだ。同じ歴史家であるメラーはこの点を十分理解していて、最後にこの項目を次のように結んでいる。「客観性基準についての立ち入った議論には欠けていたものの、ニコライがそもそもこの要求を掲げたこと、中でも彼がその客観性をその研究と原理的言及の中で、実際的作業のためのに明らかにし、未来志向的基準を含んだ方法論の構築とむすびつけたことこそは、歴史叙述の学問性にとって大きな収穫であったのだ」。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その8 ニコライとベルリン啓蒙主義

1 ニコライにとっての啓蒙主義~人間中心主義~

ベルリン啓蒙主義の中心人物ニコライ

ここではベルリン啓蒙主義運動の中心人物としてのニコライの思想の特徴とその具体的な啓蒙活動について見ていくことにする。
周知のように、啓蒙主義は十七世紀から十八世紀にかけてイギリス及びフランスを中心として展開され、その他のヨーロッパ諸国へも及んでいった壮大な思想運動であった。スイスの啓蒙主義研究者ウルリヒ・イム・ホーフはその特徴を、次のように簡潔に記している。「啓蒙は、理論を実践へと移し、批判を改良・改革する行動へと移すのだ。教育においても、家政においても、思想的な興隆においても、そしてまた政治においてもである。啓蒙は絶対主義を解明的なものにし、北アメリカとフランスに、大きな共和国を生み出した。啓蒙は、バロック、宗教上の正統主義、反宗教改革に対する反動である」

この啓蒙主義は十七世紀末にドイツへももたらされたが、当時のドイツはまだ単独の国民国家になっていず、その長い歴史と伝統の中で、さまざまな特徴を持った領邦国家と都市に分かれていた。こうした事情からドイツの場合、啓蒙主義と一口に言っても、その様相は地域によって、著しく異なっていた。
ちなみにエンゲルハルト・ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、ドイツの啓蒙主義をいくつかの都市の分けて、その多彩な実態を紹介している。同氏によれば、「啓蒙主義の様子は国によって変化するばかりではなく、特にドイツ語圏に関しては、感動的なまでに見ることができるが、都市によって種々さまざまである」と述べている。そして同書では、ライプツィッヒ、ハレ、ハンブルク、チューリヒ、ケーニヒスベルク、ベルリン、ゲッティンゲンそしてウィーンといった具合に分けて、ドイツの啓蒙主義の多様な姿が叙述されているのだ。

そこではベルリンの啓蒙主義は、その第六章で、「ベルリン、分割された首都」として紹介されている。そしてその冒頭には次のように書かれている。「ベルリンにおける啓蒙の中心人物は出版業者のフリードリヒ・ニコライで、彼の雑誌がベルリンをドイツ啓蒙主義の中心にしたのである。ボイエの日記は、この啓蒙主義者グループの密度の濃い交際ぶりを反映している。・・・すでにこの時期において、このグループとユダヤ人との緊密な関係がはっきりとわかる。つまり楕円形の環の二つの中心をなすのは、<ユダヤ人>のメンデルスゾーンと<ドイツ人>のニコライであり、・・・」

啓蒙運動の推進者

ヴァイグルは前述の著作が扱う時代として、「十七世紀末のライプツィッヒから始まり、一七八十年代のヨーゼフ二世の治下で、短期ではあったが啓蒙が隆盛を極めたウィーンで終わる」としている。ニコライが著作家として活躍した期間はかなり長く、一七五十年代半ばから一八一O年ごろにまで及んでいる。しかしその活動の頂点は一七八O年代にあった、と言って差支えなかろう。
ニコライの著作家ないし思想家としての業績について本格的な大著を著した歴史家のホルスト・メラーは、これに関連して次のように記している。

「このころは全ヨーロッパ的観点に立てば、啓蒙が終末期を迎え、それに続く時代が迫っていた時期であった。したがって啓蒙の最も独自性の強い時期ではなかったのである。別の言葉で言えば、一七八O年の啓蒙主義者は、他のアクチュアルな潮流から強い影響を受けていない場合、あるいはカントのように啓蒙自体を克服した場合を除けば、啓蒙という精神的潮流の遺産相続人だったのだ。それだけに啓蒙思想の所産が守られ、同時代人によって理解ないし評価されることが大切だったのである」

たしかにニコライ自身は独自の啓蒙思想を考え出したわけではなかった。その啓蒙哲学は、十七世紀末から十八世紀前半に活躍したK・ヴォルフなどの啓蒙哲学者の書いたものを折衷したものであった。しかし若き日に文芸評論家として出発したニコライは、それ以前に支配的だったゴットシェートの啓蒙的文学理論の解体に貢献しているのだ。また中年以降幾多の著作を発表し続けた「歴史解釈」の分野では、啓蒙の諸原理を単に受け継いだにとどまらず、はるかにそれを越えたのであった。
とはいえ啓蒙家としてのニコライの本質は、できる限り広範囲の人々に啓蒙主義を普及させ、具体的に社会変革を促すことにあったというよう。

十八世紀の最後の三分の一の期間に、ドイツでは、その精神的潮流の大転換が行われた。それまでのかなりゆっくりした精神の歩みは、このころになって急にそのテンポを速めだしたのである。ニコライ自身の精神的形成はすでに一七五O年代に行われ、一七七O年代には啓蒙主義者としてその名はドイツ中に知れわたっていた。しかも啓蒙思想はこの時代になってもなお国民のごく一部にしか浸透しておらず、政治や経済あるいは社会の情勢は、旧態依然たるものだったのだ。そのためニコライにとっては、新しい精神の潮流を追い求めるよりも、従来からの啓蒙主義をできる限り広く深く浸透させ、具体的に社会に影響を及ぼして改革を推進することの方が重要だったのだ。

たしかにニコライの時代には啓蒙「思想」に対して疑問を呈する潮流も強まっていたが、その一方で啓蒙「運動」の方は、具体的な成果もあげていたのだ。この点について歴史家のユルゲン・コッカは次のように記している。「その運動は時として革命的だったが、たいていの場合は改革を志向しており、頂点に達したのは十八世紀後半のことであって、様々な生活領域に深い影響を残した。すなわち農奴制の廃止や端緒的なユダヤ人解放、アメリカ合衆国やフランスにおける人権宣言や最初の憲法、フンボルトの大学、そこで間もなく力強く開花した諸科学。ライン川以東でも封建制を徐々に終結させ、絶対主義を抑制し、市民社会に道を開いた様々な法改革は、いずれも啓蒙の所産であった」

人間中心主義

これによって分かることは、啓蒙運動がもたらしたものは、一口で言えば近代市民社会だという事である。ヨーロッパ中世はキリスト教が支配していた社会であったが、そうした宗教支配は近世に入ってもなお根強く残り、それを打倒すべしという啓蒙思想が生まれたのはようやく十七世紀のことであった。啓蒙主義以前には、真実の基準はもっぱらキリスト教の神学ないし形而上学によって決められていた。啓蒙主義者は真実の認識権限をそれらから取り上げて、その基盤を人間に置き換えたのであった。ニコライの場合もこれが当てはまるが、メラーによれば、ニコライは啓蒙という概念を「状態」ではなくて、「過程」として理解していたという。そして「啓蒙は一般に、宗教的、精神的、政治的、社会的な潮流であり、…その最も具体的な敵は、一貫して教会権力と教会の後見人である。啓蒙の仲介人は、支配的で伝統的な偏見から自らを解放し、生の全基準を、真実、思慮分別、自然らしさという三つの点に照らし合わせて、点検するものである」

啓蒙論争

1783年、創刊間もない『ベルリン月報』において展開された有名な啓蒙論争においても、人間中心主義が議論の中核を占めた。この雑誌はベルリン啓蒙主義の、いわば機関誌的存在へと発展していくが、この時の論争のきっかけを作ったのは、教会上級役員会会員ツェルナーであった。彼は同誌において、次のような呼びかけを行った。「啓蒙とは何か? これは真実とは何かという問いかけと同じくらい重要なものだが、この質問に対しては、本当は啓蒙活動を始める前に答えておかねばならないことであった。しかるにこの問いかけに対しては、どこにも私は答えを見出していないのだ」

この問いかけに対しては、イマヌエル・カントとユダヤ人の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの二人が、同じ雑誌にそれぞれ回答を寄せている。まずカントは、これまでしばしば引用されてきた有名な言葉でもって、応えている。「啓蒙とは人間が自ら招いた自己の未成年状態から脱却することである」。この冒頭の定義に続いてカントは、人間に対して自ら悟性つまり思考力を用いよという課題を与えている。しかしこうした思考力を公共の場で使用できるのはさしあたり学識者に限られる、と彼は考えていたのだ。とはいえカントは、十八世紀末のドイツの一般的状況を、啓蒙に向かって進行中と見ていたようだ。

この点は彼の次の文章にも現れている。「もし今、我々は啓蒙された時代に生きているのか、と問われたら、その答えは、そうではないが、確かに啓蒙されつつある時代に生きているのだ、ということになる。…また一般的な啓蒙、つまり人間自身に責任のある未成年状態からの脱出の妨げになるものが次第に少なくなってゆくこと、これについてははっきりした印があるのだから、この点では今の時代は啓蒙の時代なのである・・・」
いっぽうメンデルスゾーンの方は、「啓蒙とは何かという問いについて」という論文の中で、「常に人間が下す決定こそが、我々すべての努力の基準であり、また目標である、と私は考えている」と記している。そして彼にとって啓蒙は、教育の一要素であったのだ。

人権と社会改革

この時代のあらゆる問題は、それが人権に関するものであれ、社会的、経済的、宗教的、政治的な問題であれ、すべて啓蒙に対して人間的な問題設定をもって、答えられている。そして教会とりわけカトリック教会との論争を通じて、次第に彼岸(あの世)は此岸(この世)に優先権を与えるようになってきたのである。啓蒙主義の人間学は、明白に人間中心的なものである。これはもちろんニコライだけに当てはまるものではなく、およそ啓蒙主義者にとって人間こそはすべての事物の基準だったのである。そこからすべての人間的事物への関心が生じたわけである。

ニコライは出版業者という職業柄、一年のうち四分一に当たる期間を旅で過ごしていたが、その旅行の間、興味を引く様々な人々やいろいろな事物を観察することを、何よりも楽しみにしていたという。またニコライは当時秘密結社の傾向を強めていた「フリーメーソン」に加入したことに関連して、それが「人間の研究」に役立ったことを挙げている。

さらに人間に対する強い関心から、人権の問題が出てくる。アメリカ独立革命やフランスの大革命で高らかに宣言された人権は、ドイツの啓蒙主義者にとっても重要なことであったのだ。この点についてニコライは次のように記している。「啓蒙の人権面での要求で重要なことは、身分上ないしツンフト上の規制から免れた(裸の人間)であることである。社交性は精神の啓蒙に対して、重要な一歩をしるすものである」。
啓蒙が目指したもう一つの大切なことは、人間の幸福をこの世に実現することであった。そのために人間が住んでいる世界や社会を、あるべき方向に改革することこそが啓蒙の大きな役割となったのである。

啓蒙主義者の考えによれば、当時の哲学や国家には、人間の幸福を実現すべき任務がある、とされていたのだ。十七世紀の哲学者ライプニッツは、「世界は万物照応の普遍的秩序(予定調和)の原理のもとに、無限の発展・永遠の進歩の途上にある」として、すべて神の善意に委ねるよう説いた。しかし十八世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、その哲学的風刺小説『カンディード』の中で、「この世は、ライプニッツが主張するようには、決して可能な限り最善なものではない。現存する世界よりも良い世界を作り出す必要がある」と述べているのだ。改革こそは生のあらゆる領域において、啓蒙の主たる基準になったのであり、ニコライにとって社会改革は自ら目指すべきおおきな目標になったのである。

2 宗教と教育

ニコライの宗教観

前にも述べたように、啓蒙はあの世(彼岸)のことよりも、この世(此岸)のことに優先権を置くようになったのであるが、それは決して彼岸やそれを扱う宗教ないし神学を否定したり、それらに対して無関心になったりしたわけではなかった。啓蒙主義者が批判したのは、むしろこの世におけるその代表者を自任してきたキリスト教会や聖職者なのであった。ニコライの場合は、批判の対象はとりわけカトリック教会の位階制(ヒエラルヒー)とプロテスタント正統主義であった。そのため宗教や神学はいかにあるべきかという事が、啓蒙全体の中心テーマだったのだ。
そしてそれらはニコライが書いた人気小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』や『南ドイツ旅行記』においても、中核的なテーマとなっていたのだ。またカントの『啓蒙とは何か』という論文においても、同様に宗教は中核的な問題であったのだ。さらに「もし神が存在しないとするならば、それは作られねばならない」というのが、ヴォルテールの考えであったのだ。

ニコライは最終的には、「神は我々が客観的に何ら認識することのできない超越した存在である」としている。ロックの思想を受け継いだ啓蒙主義者たちは、結局超越的なものの認識は断念して、この世における神の実効性を大幅に制限したのであった。ニコライも宗教的無関心には反対しており、宗教の新たな役割を道徳と教育の分野に求めている。「真の宗教は健全なる良識と調和せねばならず、そのただ一つの目的は人間の幸福と神の愛なのである」。ニコライは宗教を人間中心的なものにし、市民身分的な道徳・価値観によって、その仲介を行ったのである。その際ニコライにとってその試みは、プロテスタントの教えの中で成功している。というのは、彼の考えによれば、プロテスタントの教えには多分に人間の本性に帰するところが多く、また書かれたもの(聖書)と理性に基づいているからである。

教育能力への信頼性と現状への嘆き

ところで啓蒙的人間中心主義の中核は、人間の教育能力への信頼性の中にある。啓蒙主義者の進歩思想、その実践そして改革への努力は、そこから栄養をとっているのである。しかし人間は形成可能であるという命題は、(洗脳も可能である)という否定的な意味合いでも当てはまるのだ。そのため当時のドイツ、とりわけ南部および西部で盛んであったカトリック教会の活動並びに当時積極的に展開されていた教会主導の教育政策というものが、対決すべき存在として、ニコライの時事評論の中で一つの重要な位置を占めているのだ。なぜならニコライもカントの啓蒙に関する見解に同意して、その時代が啓蒙された時代にあるわけではなく、なお啓蒙されつつある時代なのだ、と考えていたからだ。とはいえこのことは、逆にこの時代はなお心の啓蒙には程遠いという事も意味していたのだ。

人々を取り巻く環境や教育あるいは長く続いてきた歴史的経緯によって、人間の行動は規定されているのだから、数百年にわたる偏見や慣習を、真理との直接対決によって直ちに変えられるなどという事は、土台無理なことである。これについてニコライは「迷信と坊主の権力が数百年にわたって結託して、人間の良識を抑圧してきたために、それが今いかにひどい状況になっているのか、知れば知るほど情けない」と書いているのだ。

それでもニコライは飽くことなくカトリック教会への批判を続けていった。彼に言わせれば、カトリックの学校での長年にわたる劣悪な教育や「形式的な宗教上の訓練」が人々の性質に強い刻印を記してきたために、そこでは啓蒙がほとんど浸透していないということになる。そしてカトリックの僧侶の生活様式を自然に反したものと非難し、のちに(1796年)に修道院の修道院の世俗(国有)化に、はっきり賛成している。
人間は無意味な宗教的訓練の代わりに、自らの幸福と社会の福祉を向上させるために行動すべきであり、同時に良き市民的秩序のために尽力すべきである、とニコライは強調しているのだ。

社会的存在としての人間

ところでニコライや教育学者のペスタロッチなどの人間中心主義者は、人間は純粋に理性的な存在ではなく、一人の人間にとって理性と感情とを分離することなど、無理なことだとみなしていた。そのためニコライはカントに反対して、その倫理学は「人間の本性」に向いていないとした。そしてさらに次のように続けている。「現実に行動する人間は、その純粋理性という抽象概念を、その実践理性という抽象概念から区別することはできない。そしてしばしば純粋理性の代わりに、不純な主観的理性に従うのである。総じて人間の精神力というものは、行動する際には一緒に作用しあうのであって、決して別々に作用することはないのである」。さらにニコライは人間を、本来の自然な人間と、文化や歴史、社会などの産物としての人間という風に区別して考えている。そしてニコライにとっては、社会的存在としての人間だけが問題なのであった。彼にとっては「自然な人間」というものは、あくまでもひとつの虚構にすぎなかったのである。

いっぽうニコライの時代に先駆けて、すでに敬虔主義のある分野で、「社会的存在としての人間」という考え方への方向転換の動きが、見られるようになっていた。それはすなわちキリスト教を人間的なものにしようという試みであった。そこからキリスト教が「教え」ではなくて、「生活」なのだという考え方が生まれてきたのである。こうした考え方の延長線上に立って、ニコライは従来の不毛な空理空論や教条主義を拒否したのであった。

そのことによって、教会権力に体現されてきた過去からの解放と、寛容への要求という二つのことが現れてきた。教条主義はそれまで思想の自由を狭め、それによって啓蒙の普及を妨げてきたわけである。そして「宗教が人間を支配する手段になってからというもの、人間にとって本来は有益であった性質を、宗教は失ってしまったのである」。けっきょくニコライは、宗教の支配要求に対して、(宗教上の)寛容の原理を対置したのであったが、彼の場合信仰の自由は、自然法的に理由付けされている。「寛容の真の根源は、各人が信仰の問題で、自分の心情に従って行動する権利を有している、というところにあるのだ」。

啓蒙主義者と啓蒙専制君主との同盟

ところでニコライが生きていた時代のベルリンは、プロイセン王国の王都であり、そこには一般に啓蒙専制君主として知られているフリードリヒ大王が統治していた。そのためベルリン啓蒙主義を考えるうえでは、このプロイセンの政治体制との関係が重要な要素となってくる。ニコライはこの大王をたいへん尊敬していて、基本的にはフリードリヒ二世の考え方に同調している。そこから「少なくとも宗教上の考え方は、決して強制されてはならない。もし国家の良き市民であるならば、誰でも欲するところに従って信仰せよ!」というニコライの文章は、フリードリヒ大王の言葉といってもおかしくないのである。

長い間伝統的な権威として人々を支配してきたキリスト教会は、啓蒙専制君主にとっても煙たい存在であり、その力が衰えることは望ましい事であった。そこで教会の権威に対抗して、啓蒙主義者と啓蒙専制君主との同盟が成立したわけである。しかしそこでは思想や信仰の自由は許されたが、政治的行動の自由まで許されたわけではなかった。このことは大王の「好きなだけ議論せよ、ただし服従せよ!」という言葉に端的に表されていた。現存の政治体制を批判したり、攻撃したりすることまでは、啓蒙主義者もできなかったのである。

啓蒙と教育の密接な関係

実は啓蒙と教育とは、切っても切れない関係にある。啓蒙とは、長期にわたる教育のプロセスだといわれているぐらいなのだ。これに関連してニコライは「人間の考えというものは、その外見とは異なって、命令や禁止によって変えることはできないのだ。人はその思考力を啓蒙しなければならないが、このことは実はそれを禁止することよりも難しいのだが」と書いている。そして教育のプロセスには、経済的・社会的条件が伴わねばならないことも、ニコライははっきり認識していた。人々のものの考え方を変えるためには、人々を取り巻く外的条件も変えねばならない、というわけである。

また啓蒙のプロセスはすでに子供の時に始まっているのであるから、ニコライは、従来からの教育法や学校の現状に対して、厳しい批判の目を向けたのであった。そして彼の友人たちのうちの啓蒙主義的(汎愛的)教育家カンペ、トラップ、レーゼヴィッツ、ロホウ、バーゼドウ、ザルツマンなどの教育理念や実践活動を支援して、自分の書評誌や著作の中で、大いに宣伝したのであった。かれらはルソーの『エミール』の影響を受けて、母国語教育、自然科学の授業に力を入れ、教科書を子供の受け入れ能力に見合ったものにせよと要求して、それらを実現していったのであった。

とりわけバーゼドウによって1774年にデッサウに設立された汎愛主義的教育施設は、彼らの理想を実現した模範学校であった。知識の有用性、生活への実際的準備、そして批判的思考などが、この学校の基本理念であった。「将来の世代をより良きものにするために、この学校において若者はより良き人間へと教育されるのである」とニコライは書いている。啓蒙家にとって未来という次元は、人間が教育可能で、教化の見込みがあるという意味を含んでいるのだ。

ニコライは具体的には、当時ドイツの多くの領邦国家に存在していた民衆学校の信じられないぐらい哀れな状況を批判してやまなかった。また孤児院や子供向けの教育施設での実情を目撃して、「子供は機械のように扱われている」として、その「軍隊調の教育」を弾劾している。彼に言わせれば、「ちょうど兵士が国家のために犠牲にされているように、子供は軍隊式の教育の犠牲になっている」というわけえある。そして「子供は本来持っている素質や能力を伸ばすべきであり、民衆学校の暴力的なやり方は、子供の発展を阻害するものである」としている。

いっぽう高等教育についてもニコライは、ヴィーン大学の例を取り上げて、発言している。そこでの授業については、まず根本的なこと、つまり自由に考えるという姿勢が欠けていることを指摘している。彼によれば「そうした姿勢があってこそ思考の恒常的発展が可能になり、それによって学問の進歩も促進される。大学の主な目的は、若者が勤勉に学問を習得して、それを国家にとって役に立たせることだ」ということになる。とはいえニコライは単なる実用主義だけに固執していないことを、しばしば明らかにしている。彼はいかなる種類の研究も軽蔑していないことを明言し、例えばヴィーン大学にギリシアに関する研究を導入することに賛意を示しているのだ。

成熟した市民社会のための民衆教育

以上述べてきたニコライの学校・教育制度批判の根底には、彼の思考の中に含まれている社会的次元というものが、重要な位置を占めていることが分かる。つまり彼が考えていたのは、当時の国民の大多数を占めていた一般民衆への教育つまり国民教育なのであった。そしてその指導理念は、ペスタロッチと同様に、人間中心的な教育原理であった。
それは一時代後の古典主義の教育理念やヴィルヘルム・フォン・フンボルトの新人文主義とは、はっきり区別されるものであった。古典主義や新人文主義にあっては、高貴な人間性の持ち主へと個人を教育ないし陶冶することが理想であった。そこでは一人一人の個人が、高度な教養を身につけ、人格を錬磨し、高い文化を形成していくことが求められた。その際純粋に精神的なものこそが本来的に価値が高いものとされていた。しかし現実にこうした教育を受けることができたのは、一部の選ばれた者つまりエリートだけであった。そして実際にドイツでは十九世紀に入って、こうした古典主義的・新人文主義的なエリート教育が行われ、ドイツ特有の教養市民層というものが形成されていったわけである。その結果、エリートではない大多数の国民ないし民衆は、こうした教育の理想から必然的に抜け落ちたのであった。

これに対してニコライが唱えていた啓蒙的教育論が目指したものは、一般民衆に対して実生活中心の教育を施し、一人一人の個人の幸福が社会の公益の枠内で実現されるような、成熟した市民社会の形成なのであった。しかしイギリス、フランス、オランダなどの西ヨーロッパ諸国に比べて、政治・社会・経済の各方面で遅れていたドイツでは、その後の歴史が示すように、なお成熟した市民社会の形成、あるいは自由や民主主義の精神の浸透は、容易に実現しなかったのである。

とはいえニコライをはじめとする啓蒙主義者が目指した民衆への実践的な教育は、長い時間の経過の中で徐々に社会の底辺にまで浸透していき、紆余曲折を重ねながら、最終的には第二次世界大戦後の西ドイツで、成熟した市民社会を実現させたのであった。その意味で、十九世紀から二十世紀前半までドイツのエリート社会を支配してきた古典主義ないし新人文主義の理念が色あせた二十世紀後半のドイツ大衆社会において、啓蒙主義のかつての教育的実践が、再びその影響力とアクチュアルな意義をもって、社会の前面に登場してきたのだといえよう。ここにニコライの今日的意義がある、と私は考えているのだ。

3 批判と認識原理

啓蒙と批判

批判こそは啓蒙を理解するためのキーワードであり、批判の基本原理は啓蒙主義の基本原理でもある。啓蒙主義者ニコライの全業績は、批判という視点のもとに眺められる、と言っても過言ではない。十七世紀フランスの哲学者であり、亡命ユグノーであったピエール・ベールの『歴史批評事典』(1696~1697)からカントの諸批判に至るまで、啓蒙と批判とは切っても切れない関係にあった。ベールの場合には、批判はまだ国家に干渉されない「文芸共和国」に限って用いられている。しかしヴォルテール、カント、ニコライその他の場合になると、批判は公共的すなわち政治的意味合いを持つようになる。

ここではニコライにとっての批判の意味づけを、カントの場合と比べることによって、その考え方の違いについて見てみることにしたい。その際その内容ではなくて、主に批判の概念及びこの言葉を用いた意図が問題になる。まずニコライにとって批判は、進歩の原動力なのである。彼によれば、「批判は、よからぬ状況を公然と非難することによって、その廃止に貢献するわけである」。そして批判は真実の発見手段としてプラスに働くものであるが、その勢いと効果を上げるために、批判は公共のメディアに頼ることになる。カントの『純粋理性批判』の前書きからの次の文章は、ニコライの意図と全く同じものである。「我々の時代は、すべてはそれに従属しなければならない批判の本来の時代である。宗教はその神聖さを通じて、律法はその威厳を通じて、一般に批判から逃れようとする。しかしその時には彼らは正当な疑惑を呼び起こすことになる。その場合彼らは、自由にして公共の試練に耐えられるもののみに理性が認める、偽りのない尊敬の念を要求することはできないのだ」

しかしそのすぐ後の個所で、両者の基本的な違いが明らかになる。カントの場合には、批判はあらゆる経験と切り離されて、獲得しようとするすべての認識に注視して、批判を理性能力一般へと拡大した。ところがニコライの場合には、批判は認識の理論を目的にするものではなくて、啓蒙の実践そのものなのである。そのため批判に関する定義または批判の理論がニコライには欠けていて、それによって批判そのものがイデオロギー(空理空論)化する危険性をはらんでいたのだ。つまりある時点に来て、批判が不十分になり、批判はその機能を停止するという危険性があったのだ。ニコライ及びその同志は、批判について吟味することなしに、実態化した人間の良識というものを、いわば金科玉条としてすべての分野に押し広げていったのであるが、そのため反対派からその根底を突かれたのであった。

ニコライの認識原理

ここではニコライの認識原理に目を向けることにしよう。これはいわば彼のアキレス腱なのであるが、認識に到達する途上にあって、ニコライはその論理的な前提を明らかにしていないからだ。彼は認識を理論的に考察せずに、漠然と人間の認識は様々な要素によって規定されていると考えた。それらはつまり出身、教育、身分、経済状況、宗教、歴史などである。彼の考えによれば、観察と経験は実生活に向けて精神を形成することになる。そのため対象を具体的に観察することが必要となる。彼にとっては認識は経験を通じてのみ可能となるのだ。主観的誤謬の要素は、経験的実験的手段によって除去されねばならない。ひとつの経験が確固たるものになる前に、極めて様々な状況の下で繰り返されねばならない。そしてあらゆる状況においてそれは厳密に観察されねばならないのだ。真理に至る唯一の道など存在しない。思考のあらゆる可能な結果を、唯一の原理に還元しようとするのは誤りである。

神学及び哲学における独断的な主張は、歴史によってもっとも確実に相対化されるであろう。さらにすべての経験的なものを冷笑的な軽蔑の目で眺め、経験がすべてである現象界ではほとんど何も寄与することができないカント派の人々を、次のような譬えでニコライは批判した。「彼らは靴というものは足に合わせて作らねばならないことを忘れて、先験的なフォーマルな靴を作るのだ」

形而上学の拒否と敬虔主義の導入は、そもそもイギリスのロックの遺産なのだが、ニコライはそれをそっくりそのまま受け継いだのである。この点について歴史家のH・メラーは次のように述べている。「ニコライの場合、認識理論はロックの影響の下で、認識心理学となった。哲学史的に見れば、ニコライはロックによって導入された啓蒙的認識論の中の経験主義的感覚論的分派理論とライプニッツ=ヴォルフ路線から導き出された合理主義理論を折衷している」
どうやらこの経験主義的感覚論的分派理論というのは、経験という現象自体を原理的に突き詰めたものではなかったようだ。そのためニコライとその同志は、反対派から「経験の形而上学」だと批判されたのであった。

とはいえニコライにとっては、そうした理論の問題や原理の問題よりは、現実の社会や人間の方が重要なのであった。つまりニコライはカントの「批判哲学」それ自体に反対しているわけではなく、その哲学が「他の学問や現実世界の出来事」に乱用されることを、何とか防ごうとしたわけである。そうすることによって、彼のいう「健全な良識の権利」を救おうとしたのである。

ところでニコライとしてもカントの批判哲学は、ずいぶん研究もした。しかしそれはニコライに、カントの経験への反省を追体験させることにはならなかった。カントの「我々全ての認識は経験とともに始まるとしても、認識がすべて経験に起因するというわけではない」という『純粋理性批判』の中の一文は、ついにニコライによって受け入れられなかったのである。経験を越えて進む認識を、人は何故持っているのかという点を、カントは説明しようとしたのであるが、こうしたことをニコライは把握しなかったのだ。そのためニコライはカントによって、「先験性」の持つ意味を理解していないと非難されたのだ。

4 啓蒙の社会的担い手

国家と社会とを分離する意識の欠如

十八世紀になってもドイツにはなお一つの国民国家というものが成立していず、ドイツは大中小三百あまりの領邦国家の寄り合い所帯なのであった。そのためドイツでは、国家とか社会のことを明確に人々の意識に乗せるという動きが、なかなか生まれてこなかった。ドイツで「国家」と「社会」とを明確に分離する意識が出てくるのは、ようやく十九世紀に入ってからのことであった。
つまり十八世紀のドイツの多くの啓蒙主義者にはまだ、これを区別する意識がなかったのである。フランスにおいて第三身分によって担われ、絶対主義国家と意識的に対立関係にあった、相対的に閉鎖的な「市民社会」は、ニコライの時代のプロイセンには、まだ出来上がっていなかったのである。前に述べたようにプロイセンでは啓蒙主義は絶対主義と部分的な協力関係にあったわけである。

そもそも国家と社会に関する問題は、イギリスとフランスの啓蒙思想家ロック、モンテスキュー、ルソーなどによって徹底的に研究された。とはいえ多くの啓蒙主義者は、当初は非政治的な『文芸共和国」を形成していたが、やがて時とともに政治的な影響力を及ぼすようになった。そして文芸的・言論的討論の中から生まれてきた「公衆」は、次第に国家権力と並ぶ第二の「公的」権力を形成するようになった。ただしこの「公衆」はなお国民一般をさすものではなく、一部の「学識者の共和国」であったのだ。

しかしこの共和国は自然法を基盤として、人間の原則的な平等を出発点としたものであった。そしてこれは「公益性」と結びついて、新たな社会的価値を持つようになった。つまり古い身分制の「宮廷社会」とは正反対の「市民社会」というものが想定されるようになったのだ。こうした動きは先進的なイギリス、フランスからドイツへも入ってきた。そしてその結果として、変貌した社会的・精神的現実に見合った新しい「社会」概念が芽生えることになったのである。こうした動きの中で、啓蒙主義者の思考の中には、社会的諸グループの問題が視野に入り、さらに啓蒙の社会的基盤を問う動きも出てきたのである。

啓蒙の社会的担い手

一般に啓蒙主義の社会的担い手は、旧体制下の第三身分、つまり市民身分であったと思われている。フランス革命前の旧体制下では、中世以来の身分的区分けが残っていて、第一身分の聖職者、第二身分の貴族にたいして、都市商業ブルジョワジーが第三身分と呼ばれていた。ドイツにおいてもこのフランスでの身分的区分が用いられているので、ここでも第三身分という言葉を使うことにする。

さてドイツにおける啓蒙主義の担い手であるが、結論から先に言えば、実は第三身分に限られていたわけではなかったのだ。たとえばニコライは彼が所属していた月曜クラブや水曜会といった啓蒙主義協会に関連して、次のように述べている。「思慮があり、立派な人物であれば、身分や宗教その他のことには関係なく、これらの会員になれるのだ」。実際彼が所属していた啓蒙主義協会の構成員について調べてみると、第三身分以外の人もたくさんいたことが分かる。それにはとりわけ二つの理由があった。その第一は、啓蒙主義が持っていた普遍的な人道主義の意図ないし理想からくるものである。その第二は啓蒙の主たる担い手たるブルジョワジーとしても、目的達成のためには同盟者を獲得する必要があった、ということである。

ニコライも所属していたフリーメーソン協会には、君主や貴族、市民などが混在していて、まさに身分の垣根を越えた会員構成を示していた。そしてそのことは、啓蒙主義が人間一般に共通した全社会的なものであって、単なる一身分の運動ではないという風に、他の身分の人々からも見なされていた、ということも示しているのだ。というよりもむしろ啓蒙主義教会内部における身分の同権を、啓蒙主義は目指していたわけである。

同権の受益者~第三身分の上層部~

そしてこの各身分の同権という考え方から、まず第三身分の上層部にいた人々が実際に利益を得たのである。たとえばプロイセン国家の行政部門では、貴族身分出身の高級官僚と並んで、ブルジョア身分出身の高級官僚が一緒に仕事をしていたわけである。また国家の法律を作成し、運用する人々の間にたくさんのフリーメーソン会員がいたことが、レッシングの『エルンストとファルク』の中に記されている。このころドイツでも、都市商業ブルジョワジーの中で社会的上昇を成し遂げた人々は、啓蒙主義協会に加わって、生まれながらの王侯貴族や聖職者の一部と、対等の付き合いをしていたのである。その意味で彼らは「精神の貴族」などと呼ばれたりしている。

ニコライは職業としては成功した出版業者つまり都市商業ブルジョワジーだったのだが、その多彩な著作活動によって啓蒙主義の普及に貢献することを通じて、精神貴族の一員になったわけである。ちなみに「伝統的な社会的閉鎖性の中に閉じこもっていた中間身分ではなくて、精神の貴族及び生まれながらの貴族こそが、進歩の本来の担い手であった」という見方もあるのだ。ここでいう中間身分というのは、都市の小商人や手工業者を指すものと思われる。そしてここでは進歩の担い手と啓蒙の担い手とは同義と考えられる。いっぽう啓蒙の担い手とか受け取り手について考える場合、中世以来の古い「第三身分」とか「市民身分」あるいは「中間身分」といった概念だけでは、十分その実態を把握することはできない。そこで担い手や受け取り手の社会階層や職業などについて、もっと厳密に見ていく必要があるのだ。

啓蒙から除外されていた階層

まず当時、啓蒙の担い手でないのはもちろんのこと、その受け手ですらなかったのが、「第三身分」の下に位置していた一般民衆であった。数のうえでは国民の中の圧倒的多数が、これに属していたといえる。ニコライはその人気小説『ノートアンカー』の中で、「二万人の学識者と二千万人の一般大衆」という事を言っているが、当時の一般民衆には啓蒙主義の書物や雑誌は高級すぎて、高根の花であった。たしかに当時無学文盲な人の割合は相対的に減少し、文字を読める人が増大したために、いわゆる「読書革命」という現象がドイツで起きていた。しかしこうした人々が当時読んでいたものと言えば、イギリス、フランスからの翻訳本を含めた悪漢・犯罪小説などの大衆小説や娯楽作品の類いであった。啓蒙主義者が期待したような教育的・啓蒙的著作物ではなかったのである。

「多くの民は、残念ながら信心だけに凝り固まっている」というニコライの見方は、彼がその大旅行を通じて見聞した南ドイツのカトリック地域だけに当てはまるものではなかった。プロテスタントのベルリンの1770年代における状況も、それと大差なかったようだ。

そうした下層民に日常的に接触し、かれらに直接影響を及ぼしていたのは、小説『ノートアンカー』にも登場しているような、教会の説教壇から呼びかけていた牧師たちであった。その大部分はあまり学識や教養のないルター正統派ないし敬虔主義の牧師たちであった。彼ら牧師たちは啓蒙主義とは無縁な存在であったようだ。クニッゲのような時代批判的な啓蒙主義の著作家は、これらプロテスタントの牧師の大部分を、啓蒙主義の支持者の中には数えていない。南部や西部に比べて当時進んでいたドイツの東部や北部ですら、こうした状況にあったのであるから、ドイツの一般民衆への啓蒙はほとんど絶望的な事態にあったことが、よく理解できよう。

啓蒙の受け取り手拡大への努力

とはいえ民衆啓蒙への地道な努力は、十八世紀を通じて続けられていた。たとえば同じプロテスタントの聖職者の中にも、学識や教養を身につけた神学者もいて、啓蒙主義の立場から活動していた。ニコライと関係の深い「水曜会」の会員構成や彼が編集していた『ドイツ百科叢書』の協力者のリストを見れば、このことはすぐわかる。しかし彼らの絶対数は少なく、当時の先端的存在だったようだ。ドイツ啓蒙神学の第二段といわれる「ネオロギー(新解釈)」などは、その重要な成果と言われる。さらにドイツのプロテスタント神学者は、イギリスにおけるほどではなかったが、世俗的著作の普及に際しても、大きな貢献をしたといわれる。こうした著作の普及及び道徳週刊誌をはじめとする雑誌の増大を通じて、十八世紀の半ばから後半にかけて、批判的な内容のかなりの水準の本や雑誌を読むことができる「読書階層」が一定程度成立していたのだ。まさにこの読書階層こそが、啓蒙の普及にとって前提条件であったのだ。

当時二千万人と推定されているドイツの総人口のうち、本来の読書階層である学識者の数をニコライは二万人とみているのだが、これは総人口のわずか0・1%に過ぎない。ニコライはこの読書階層の拡大を目指して、啓蒙的な著作や雑誌を通じて、高度の内容の知識・学問をできる限り平易に多くの人々に提供したわけである。

いっぽう十八世紀の半ばから末にかけてドイツ各地に生まれた読書協会ないし読書サロンを通じても、新しい読書階層が形成されていったのだ。こうしたクラブは場所によって細かい点では異なっていたが、共通点の方が多かった。それがどんなものであったのか、1795年のシュトゥットガルトの読書サロンの規約をみてみよう。「何人も読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心の満足のため、多様な知識の普及のため、趣味嗜好を洗練させるため、そしてさらに社交生活の喜びにために、もっとも目的に叶った手段が提供され、計り知れない利益が得られるのだ」

ベルリンにおける啓蒙の度合いは他の地域より大きかったが、そのために当然のことながら、読書協会も大いに発達していた。そしてこうした教養ある読書階層は当時の世論を形成し、その他の一般大衆の間では数十年後になってようやく根を下ろした行動の規範や社会的・精神的目標設定を、先取りしていたのである。

啓蒙の担い手の職業

次に啓蒙主義の担い手つまり啓蒙思想の普及・宣伝者の職業について見ていくことにしよう。厳密な職業分類はなかなか難しいが、おおざっぱに言ってそれは学識者、言論人、中級・高級官僚及び啓蒙的原理を自己のものとした聖職者などである。これを全体として実証するのは容易ではないが、一つのモデル・ケースによって、考察することはできる。それは十八世紀の最後の三分の一の時代における啓蒙主義の最も重要な雑誌であった『ベルリン月報』(1783~1796)の協力者(寄稿者)の身分上・職業上の所属を調べることによってである。

そのリストを見ると、寄稿者の数はおよそ三百人であったが、そのうちほぼ四分の一が、この時期の全部または一時期ベルリンに住んでいたことが分かる。次に彼らの職業であるが、このリストに記された肩書から、すべてを明瞭に分類することは困難である。この雑誌には匿名の記事もあり、その場合は属性はわからない。また何人かの寄稿者は、一つないし二、三の論文を発表したにすぎず、これらの人をここに含めるべきかという問題もある。それから著作家というグループを設定しようとすると、この雑誌への寄稿者の大半は広い意味での著作家なので、この分類は無意味となる。また職業や専門についての記述が重複していたり、途中で変わったりしていることもある。さらに教員と書いてある場合、大学教授なのかそれ以外なのか、はっきりしない。

ともかくこうした留保付きで、大体の傾向を見ていくことにしたい。まず一番大きなグループは、間違いなく大学教授やその他の教員で、その数は80人であるが、その中にはギムナジウム校長やギムナジウム教授が含まれている。その次に大きなグループは、中級及び高級官僚約60人、それから高位聖職者20人と牧師・説教者30人を合わせて聖職者50人である。そのほか高級将校が約10人、商人・銀行家が5人、書籍商2人、手工業親方1人、それからほかに職業を持っていない「独立の」著作家が10~15人ということになる。

この分類から分かることは、公的職業についている人の割合が圧倒的に多いのに対して、「独立の」著作家の数が極めて少ないという事である。当時のドイツには、それだけで生計を維持していけるような独立した存在の著作家が、まだ少なかったことが分かる。そしてまた実業的な職業の人はきわめてわずかだった。

一方職業的観点から離れてみると、貴族身分に属する人が45人もいて、そのうち5人が女性であること及びユダヤ人が10人もいたことも注目される。

彼らが目指したもの

以上の叙述から分かるように、啓蒙の担い手たちの体制的な色彩や、貴族の参加などから見て、啓蒙主義者が目指していたものは、反体制運動ではなかった、と結論づけてもよいであろう。前述の諸グループの社会構成、意図、活動などを考慮に入れれば、活動的な啓蒙家たちが、国家や社会、宗教などの改革を目指していたことが確認されるのだ。ニコライを含めたベルリン啓蒙主義の担い手たちは、啓蒙思想の所産を大衆化、一般化する試みを行った。そして啓蒙的な言論人(ジャーナリスト)は、啓蒙主義者の輪を広げようと努力した。ニコライは「ドイツの学識者(著作家)は自分のためにだけ書いている」と主張してやまなかった。ベルリンの啓蒙主義者たちはそうした「象牙の塔」に閉じこもったやり方には、満足できなかったのである。彼らの言動の中には、文学を含む社会的な実践に結びつく可能性もあった。しかしそうした方向に向けた彼らの努力は、ついに成功しなかったのである。

5 啓蒙主義協会からロマン派サロンへ

両グループの比較

ここでは水曜会などの啓蒙主義協会の特徴をより鮮明にするために、それより一時代後のロマン派サロンと、様々な観点から比較してみることにする。まず啓蒙主義協会は会員の数、種類、身分などの組織の点でも、またその意図や目標設定の点でも、ロマン派サロンに比べて、より閉鎖的であった。その会員の数は限られていたし、とりわけ水曜会の場合は、その会合の在り方、会員・テーマの設定、協会の目標設定などの点で、すべて堅固な形がとられていた。また啓蒙主義協会の会員は皆、名を成していた人々であり、水曜会の場合は国家的・社会的に影響力の強い人々であった。

ロマン派のサロンにもそうした人がいなかったわけではないが、その会員は一般により若く、1770年代生まれの人が多かった。そのためその多くは、職業上、社会生活上、まだ駆け出しで、彼らは貴族社会の成員でもなかった。啓蒙主義協会にも文学者はいたことはいたが、その数はわずかだった。それに比べてロマン派のサロンでは、文学者や芸術家の数がはるかに多かった。そしてそのサロンは、知的な女性たちの独擅場であった。

啓蒙主義協会は、国家、社会、法律、教育などの分野で実践的改革にとりくんでいた男たちの集まりで、そこには女性の姿は見られなかった。サロンの方は、フランスの伝統を取り入れたものであり、その中身も言葉もそれに合わせ、しばしば外国人とりわけフランス人がたくさん見られた点に特徴がある。さらに十八世紀ドイツの宮廷におけるフランス文化の影響を受けた団体と、ある種の共通性を持っていた。つまりロマン派のサロンは、フランス百科全書派の啓蒙思想の所産並びに終末を迎えた宮廷的伝統という二重の伝統の中にあったのだ。そしてそれは啓蒙思想の克服ないし放棄あるいはとりわけ市民的・プロイセン的ベルリンからの方向転換を意味していた。

ロマン派のサロンは、啓蒙主義協会に比べて、会員数、会員の社会的地位、出身国、会合の形態などから見て、はるかに緩やかな構造を持っていた。そして会合に当たって、そのたびごとに何かテーマを決めて議論することもなかった。つまり大勢集まって談笑するパーティーなのであった。そこには貴族とりわけ上級貴族やユダヤ人そして女性の姿もたくさん見られた。ベルリンの十八世紀末のサロンは、金持ちの美しいユダヤ人女性なしには考えられなかったぐらいである。たとえばユダヤ人の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンは啓蒙主義協会に属していたが、その娘のドロテーア・ファイトは、ベルリンのロマン派サロンの花形だったのだ。

啓蒙主義の尽力の賜物

ここに十八世紀ドイツの身分制社会では社会の表面に出ることができなかったユダヤ人と女性とが、華やかな表舞台に飛び出してきたのであった。しかしそれこそはベルリン啓蒙主義の尽力の賜物だったといえよう。ドイツの他の領邦国家に比べて、多少寛容であったフリードリヒ大王時代の啓蒙絶対主義プロイセンに置ける状況が、そうしたことを許したわけである。ベルリン啓蒙主義はユダヤ人と女性の解放をもたらし、その成果をベルリンのロマン派サロンが享受したという事である。

それではこうしたロマン派サロンに顔を出すことができる条件とは、いったいなんであったのか? それは一言で言えば、「教養」であった。そこでは古くからの人種的、身分的、宗教的相違というものは、たいして重要ではなかった。それに代わって新しい社交の場であったロマン派のサロンへの加入条件は、文学的・芸術的な教養だったのだ。そのため貴族であれ、市民であれ、またドイツ人であれ、ユダヤ人であれ、フランス人であれ、さらに男性であれ、女性であれ、等しく文学的・芸術的教養という資格を身に着けていれば、このサロンに入ることができたのである。こうした教養はもちろん本来的な個々人の才能による部分もあったが、それは後天的に身に着けることもできたわけである。その意味で、人種、身分、宗教といった生まれながらにして決まっているものよりは、個人の努力による部分も大きかったといえるであろう。

個人の内面に向かったロマン派サロン

後天的な個人の努力によって社会的な進出を図るという意味では、学識と教養を武器にして社会階層の上昇を図ることができた後の教養市民層の先駆けであったと言えなくもない。しかしロマン派サロンが意図的にそうした状況を作り出したわけではなかった。彼らはけっして市民社会を前進させたのではなく、国民全体から見ればごく一部の人々にすぎなかったのだ、本格的な市民解放への動きは、ようやく1815年のヴィーン会議後になって見られるのであるが、ロマン派サロンがそれを促進したわけではなかった。たしかにサロンの中ではフランス革命のような世界政治的大事件に対しては、啓蒙主義者よりも肯定的な見方がなされ、発言もされていたが、さりとて彼らが具体的な行動に出ることはなかったのである。

啓蒙主義の人道的・人権的意図はサロンによって受け継がれたが、その中の社会的要素は部分的に拒絶されたのである。彼らは、啓蒙主義者にとって極めて重要な要素であった「公益的」テーマや活動について、話し合うことをしなかった。そうしたことよりも、ポエジー、個性、独創性といったことに強い関心を抱き、それらこそ自分たちが追い求めるべき理想であるとしたのであった。ロマン派サロンは、啓蒙主義グループに比べて、外面へではなく内面へ、社会的参加ではなく個人的問題に閉じこもる方向を、意図的にとった。例えば結婚については、啓蒙主義者の社会的・市民的慣習から距離をとるようになった。啓蒙主義者にとっては社会的有意性が行動の原理であったが、ロマン派の人々にとっては、個人の可能性や権利が行動の主な動機となったのであった。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その7 熟年期の生活と交友

1 ニコライの家族関係と交友

結婚生活

フリードリヒ・ニコライは兄の突然の死によって書店を継いだ二年後の1760年12月12日に27歳で結婚することになった。相手は、かつてプロイセン国王の侍医を務めた生理学・病理学博士のS・シャールシュミット教授の娘エリザベート・マカリア・シャールシュミットであった。片や国王との関係が深いベルリンの名士、片やベルリン有数の出版社の跡継ぎという事もあってか、両家の結婚の祝いは盛大であったようだ。その時の婚礼の模様については、版画となって残されている。夫人はとても良い教育を受けていて、教養豊かな女性だったので、ニコライの伴侶としては申し分のない人物と言えた。

ニコライ夫人の肖像

そして結婚二年後の1762年には、長男ザムエルが生まれている。この長男は11歳の時、父の40歳を祝って自ら描いた水彩画にフランス語の言葉を添えたものを贈っている。また19歳の時には、前にも述べたように、父親について7か月に及ぶ南ドイツ旅行に同行している。これは父親のいわば助手としての旅行であった。長男誕生の5年後の1767年10月には、長女のヴィルヘルミーネが生まれた。

その後ニコライ夫妻の間には6人の子供が生まれたが、これら8人のうち3人は幼児のうちに死に、息子3人と娘2人が育った。ニコライは書籍商という仕事柄一年のうち四分の一は旅行に費やしていたが、エリザベート・マカリアとの結婚生活はとても幸せなものだったという。それは出版業者として富を蓄えた、ベルリンの大市民のものであった。ニコライの家族の群像を、今日の我々にもっともよく残してくれているのが、ベルリンの女流画家テールブッシュによって1780年に描かれた油絵である。これは結婚後20年たった時のものであるが、広々としたサロン風の居間に、家族が勢ぞろいしたものである。前列左に座っているのがニコライ、その右に夫人、ニコライの右手奥に立っているのが長男、そして夫人の右に立っているのが長女で、右奥に夫人の母親がいる。あと三人小さな子供の姿も見える。そこには落ち着いた一家の主人として、大勢の家族に囲まれているニコライの姿が見事に描かれている。

ニコライ一家を描いた油絵(テールブッシュ作、1780年)

銀婚式の祝い

その5年後の1785年12月12日、ニコライ夫妻の銀婚式が盛大に祝われた。この時フリードリヒ・ニコライは52歳であったが、さまざまな意味で、その人生の頂点に立っていたといえる。祝いのテーブルには、夫妻の友人・知人が百人ほど集まった。ニコライと親しかったベルリン啓蒙主義の同志たちが多かった。その際友人・知人たちは夫妻に、「結婚・家庭カレンダー」というものを献上した。この印刷物の表紙には、先にテールブッシュが描いた家族の油絵を、コドヴィエツキが銅版画にしたものが刷り込まれていた。カレンダーは両開きになっていて、その左側には家族及び友人・知人たちの生年月日が印刷されていて、右側にはニコライ家のお祝い事が刷り込まれていた。

「結婚・家庭カレンダー」

このカレンダーは結婚した日の翌日である12月13日の土曜日から始まっていて、この日はニコライ家の所帯のはじまりと書かれている。15日の月曜には、ニコライ氏はクラブに出席、夫人は社交の会に出かけるとある。さらに19日の金曜にはコルシカという所でアマチュア・コンサートが開かれ、ニコライ氏は長男とともにヴァイオリンを演奏すると書かれている。そして20日の土曜日はニコライ家の小清掃日だが、ニコライ氏の部屋だけは例外とされている。またこの日には親友たちがニコライ家で夕食をとることも書いてある。そのあとは自由に書き込めるように、空欄となっている。

またこのカレンダーとは別に、ニコライ家の家族、親族、友人・知人たちからの祝いの言葉や詩句などを集めた印刷物も残されている。これらにはニコライの仕事のうえでの協力者たちの名前も書きこまれている。これらの人々とはニコライは、その書評誌『ドイツ百科叢書』への原稿依頼を通じて知り合ったものと思われる。いずれも18世紀後半に活躍したドイツ精神界の代表者たちであった。

ブリューダー街の大邸宅への移転

ニコライはポスト街にあった自分の生家に長いこと住みながら、その商売の方はベルリン城の斜め向かいにあったシュテックバーンの店で営んでいた。しかし1787年、54歳の年になってブリューダー街13番地の家を買い取った。そして晩年の24年間をこの大邸宅で過ごすことになった。そこはベルリン城からすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人や馬車でたいへん賑わっていた。そして「英国王」とか「パリ市」といった名前の有名なホテルも建っていた。そこにはさらにフリーメソンのワイン酒場や、かつてニコライが若いころレッシングやメンデルスゾーンとしょっちゅう出会っていた、かのワインレストラン「バウマンスヘーレ」もあった。

1800年ごろのブリューダー街の賑わいを描いた絵画

1730年に大臣フォン・クニュハウゼンによって建てられ、ツェルターによって大祝祭用に整備されたこの大邸宅を、ニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そしてそれ以来1811年に亡くなるまで、この家に住み続けたのだ。しかし妻や子供たちより長生きしたニコライが死亡した後は、この建物は別人の手に移った。とはいえこの建築物自体はその後の幾星霜を経ても生き残り、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。

そしてこの建物は第一次・第二次世界大戦を生き延びた。さらに東独時代を経て、ドイツ再統一後再び首都となったベルリン中心部ウンター・デン・リンデン大通りの裏手に立っているのだ。この建物を私は1999年に訪れた。それはニコライの名前を引き継いだ出版社の社長ボイアーマン氏の案内によるものであった。建物の正面には、ここに住んだ歴代の居住者の氏名と居住期間とを記した記念銘板がはめ込まれている。しかし同時にそこには大きな文字で「ニコライ・ハウス」と記されたレリーフも見え、ベルリンの市街地図にはこの「ニコライ・ハウス」も記載されている。

1999年のニコライ・ハウスの入り口前(私が撮影したもの)

再びニコライの時代に話を戻すと、その大邸宅は当時のベルリンの精神的な中心の一つでもあったのだ。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたのであった。後にニコライと対立するようになったフリードリヒ・シラーですら、ベルリン滞在中に妹に次のように書き送っているのだ。「ベルリンに到着してすぐ、私は固定収入を当てにすることができるようになりました。というのは、ここで文学界の帝王といわれているニコライへの推薦状を、さしあたり受けたからです。この人物は、頭脳ある人物を注意深く引き付け、事前に評価し、それによってドイツの学識界全体に巨大な影響力を有しているのです」

ブリューダー街十三番地の邸宅の文化的雰囲気については、訪問したすべての人々によって証言が残されている。ニコライはそこに蔵書一万六千巻以上の私的図書館を有していたいただけではなく、数多くの愛書家向きの貴重書やおよそ六千八百枚に上る版画(グラフィック)も所蔵していた。さらに数多くの楽譜も持っていたが、その中には後に王立図書館に遺贈された、選り抜きのものも含まれていた。

社交家ニコライ

音楽が好きだったニコライはその最良の歳月には、自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身、ヴィオラを演奏することもあった。ちなみに次女のシャルロッテ・マカリアは、ベルリン合唱協会所属の歌手になっていた。ニコライの家は社交サロンになっていたわけであるが、そこにはニコライの交際の広さを反映して、さまざまな分野の人々が訪れていたのだ。

そうした一例として、はるか遠方からやってきた客人との交際について、一つのエピソードをご紹介しよう。1784年から1786年にかけて、バルト地方の町ミタウ(現在ラトヴィア領)から二人の女性がはじめてドイツ旅行に出かけた。一人は牧師の娘ゾフィー・ベッカー、もう一人はその友人の作家エリーザ・フォン・デア・レッケといった。二人は数多くのドイツの作家や芸術家と会っていたが、ベルリンではニコライ家も訪れ、その家族とも親しくなった。ちなみに当時ラトヴィアのリーガやミタウはドイツ系の書店もあるなど、ドイツ文化圏に属していたのだ。二人のうちの一人フォン・デア・レッケはニコライ家を訪問したときの様子を、次のように記している。

「ニコライ氏の家を私はしばしば訪れました。・・・彼は家族に囲まれて幸せに暮らしていました。仕事の重圧にもかかわらず、精神活動があのように活発な人を、私はまだ見たことがありません。夜、選ばれた友人たちのサークルのテーブルについているとき、この人物は申し分のない社交家ぶりを発揮しています。ここでは様々な話題をめぐって、知的世界の重要な発見や最新の出来事を知ることができます。ニコライ氏はその抜群の記憶力で、いろいろな分野での博識ぶりを示し、会話に豊かな材料を提供しています。彼はとても早口にしゃべり、しばしば本題から外れて様々なエピソードへと脱線します。これは彼の豊富な知識の、くめども尽きせぬ泉からほとばしり出てくるのです。このことは、知識欲があり長く沈黙を守れる人にとっては、楽しい事です。」

女流作家フォン・デア・レッケの肖像

その優雅な振る舞いでニコライの仲間たちからも注目されていた、女流作家のフォン・デア・レッケは、ニコライ夫人をはじめ家族全員と、その後も親しく交際を続けていた。そして知り合ってからだいぶ時間がたった1793年5月、彼女はニコライ夫人にあてて親しげな手紙を出した。しかしその数日前にニコライ夫人は死去していたのであった。

ちなみにこの女流作家に対しては、ロシアの女帝エカチェリーナから自筆の手紙が寄せられている。エカチェリーナ女帝はニコライとも、商売上、文学上の関係があったが、この1788年6月付けの手紙は、女流作家から贈られた二つの作品に対する礼状であった。これは同じ年に『ベリリン月報』に掲載された。

「フォン・デア・レッケ夫人、貴女から贈られた二番目の作品は、一番目と同様に、私にとってとても楽しいものでした。両方とも真実に深く感ずる心と同時に啓蒙化された広範な精神の刻印が感ぜられます。十八世紀末だというのに、数千年来理性に反し、分別ある人々から誤りだとされている見解が、新たに広まっているのは本当に嘆かわしい事です。・・・」

いっぽうニコライは出版業者として、当時中央ヨーロッパで最大の規模を誇っていたライプツィッヒ書籍見本市を、春と夏二回訪れていた。そして温泉湯治のためにヴェーザー川流域の保養地ピュルモントに17回も行っている。さらにマルク・ブランデンブルクのシェーンアイヒェルに住んでいた友人の牧師の客人として、その牧師館を訪れている。これに関連してニコライは1794年11月に、長女のヴィルヘルミーネにあてて次のような手紙を書いている。「昨日無事到着しました。今日は一日中持参した書物や書類の整理に追われていました」

そしてニコライ自身もベルリンの郊外に別荘を持っていて、そこで家族と一緒に夏の時期を過ごすのを常としていた。商売上の必要があるときは、ニコライだけ町中へ出かけていた。この郊外の別荘を訪れた客人の中には、翻訳家のJ・J・ボーデ、化学者のM・B・クラープロートそして地理学者で大旅行家のアレキサンダー・フンボルトなどがいた。

2 啓蒙主義の同志との交友

友人たちへの追悼の辞

ニコライはもともと友情への高度の才能というものを有していた。そして死んだ友人に対しても彼はなお崇敬の念を持ち続け、しばしば追悼の辞をしたためている。例えばまだ二十代後半の1760年には、友人のエヴァルト・フォン・クライストが七年戦争で戦死したとき、ニコライは早速「エヴァルト・フォン・クライストの追憶」という文章を書き、これを出版している。これは同じ年のうちに第二版が出され、新しいスタイルの伝記のモデルとして長い間評価されてきた。この作品の特別な意義は、それ以前にゴットシェートによって書かれていた大時代で、悲壮な調子と比べてみた時、示されたといえる。ニコライの追憶の書の、心のこもった、悲壮に陥らない人間的な調子は、信頼すべき史料に基づいて読者の前に提示された伝記的なデータとともに、すくなからず人々を驚かせた。

長生きしたニコライは多くの啓蒙主義の同志を見送っているが、同様の追悼の辞をその人の伝記としてささげた相手は何人もいる。それらは『祖国のために死ぬことについて』でデビューし、雑誌「文学書簡」の共同編集人であったが、1767年に亡くなったトーマス・アプト、若いころからのニコライの同志でユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン、そしてオスナブリュック在住の歴史家・思想家でニコライとは互いに尊敬しあっていたユストゥス・メーザーであった。とりわけメーザーの伝記は分量的にも長く、力の入ったもので、作品としても優れたものであった。

さらにその死亡に当たって追悼文を捧げた相手は、文芸学者J・J・エンゲル、啓蒙的神学者としてニコライが高く評価していたW・A・テラーそして神学者のJ・A・エバーハルトの三人であった。ニコライの追悼の辞は、賛辞だけでおおわれていたわけではなく、特にエンゲルの場合などは、もっと己を持して業績をあげるべきであったと、厳しく批判もしている。とはいえこれらの著作者たちに対しては、出版者としてニコライは、それぞれの全集を出すなどによって、その友情に報いたのであった。

月曜クラブ

ニコライの交友関係にとってとりわけ重要であったのが、この月曜クラブとのちに述べる水曜会であった。さらに1780年代まではフリーメーソンのベルリン支部「三つの地球儀」の会員でもあり、また「啓明結社」にも所属していたが、さしたる活動はしていない。

そこでまず「月曜クラブ」であるが、これはスイスの神学者ヨーハン・ゲオルク・シュルトヘスによって1749年にベルリンで設立された協会で、会員数は二十四人に制限されていた。そして会員の補充に当たっては、現会員の黒白の球による秘密投票によって決められた。このクラブにニコライは若いころレッシングに誘われて入会したのであるが、死ぬまでこのクラブに所属し、最後には最長老としての役割を果たした。その会員は身分としては貴族と大市民であったが、職業は高級官僚、学識者、文筆家、芸術家などであった。一口に言って、彼らは当時のベルリンの精神貴族であったといえよう。

ニコライが支払った月曜クラブ会費に対する領収書(1792年)

大市民であったニコライは、その交友を通じてプロイセン王国の高級官僚と深く結びついていた。その縁でニコライの子供たちは、婚姻を通じて高級官僚と結ばれていた。長男ザムエルは司法官僚クラインの娘と、自ら官僚の道を進んだ三男ダーフィットは枢密財務官アイヒマンの娘と、そして長女のヴィルヘルミーネは財務局長パルタイと結婚している。

次にニコライ五十五歳の時つまり1788年における月曜クラブの会員を列挙してみる。まずプロイセン王国の後の国務大臣ヴェルナー、警察長官アイゼンベルク、上級宗教局顧問官シュパルディング、同ツェルナー、司法官僚クライン及びバウムガルテン、次いで教会上級役員会会員テラー、王立図書館司書ビースター、ギムナジウム校長ゲーディケ、博物館長フォン・オルファース、王立国民劇場総監督エンゲル、さらに通俗哲学の代表者ズルツァー、文筆家のラムラー、彫刻家シャードー、銅版画家マイル、音楽家クヴァンツ、ベルリン合唱協会会長ツェルターそしてフォン・ゲルラッハなどであった。さらにこの時点では故人となっていた文筆家のレッシングとアプトの名前も忘れることはできない。

会合は毎週月曜日に、レストラン内の集会室で開かれたが、各会員は自由に友人を連れてくることができたため、しばしば外部の学識者が客人となっていた。ひとびとは夕方の6時と7時の間に集まり、8時に食事をして、10時に散会した。このクラブの目的といえば、ただ自由に屈託のない会話を交わすだけだった。とはいえ会員の中にはこのクラブでゲームをやりたいという強い欲求を持つ者もいたが、そこではチェスだけが許されたという。つまりそこでは、互いによく知り合った、啓蒙的な志を抱いたベルリンの精神貴族たちが、一緒に食事をしながら、様々な話題を巡って歓談し、中にはチェスを楽しむ者もいたというわけである。その意味で「月曜クラブ」は、会員資格の点でかなり厳しい、閉鎖的な高級クラブであったといえよう。ちなみにこのクラブでは政治的論議はなされなかったが、「文芸的公共性」への志向があったことは明らかだったといわれる。

水曜会

ニコライは、もう一つベルリンにあった「水曜会」の会員でもあった。このクラブの元来の名称は「啓蒙友の会」というが、その設立はずっと遅く、1783年のことであった。会員数は当初は12人であったが、のちに24人になった。とはいえこちらの方は排他的な秘密結社といった性格を持っていた。そしてその会員は高級官僚と学識者であった。

最盛期の会員の名前を挙げると、プロイセン王国の国務大臣フォン・シュトゥルーエンゼー、枢密法律顧問官スヴァレツ、枢密財務顧問官ゼレ、国王侍医メーゼン、司法官僚クライン、教会上級役員ディートリヒ、同テラー、王立図書館司書ビースター(会の秘書役)、軍事顧問官ドーム、軍事・王領地顧問官ジープマン、カンマー裁判所判事ベネッケ、さらにギムナジウム校長ゲーディケ、上級宗教局顧問ツェルナー、同シュパルディング、王立国民劇場総監督エンゲル、大学教授シュミット、説教師ゲープハルト、そしてアーヴィング及びニコライであった。またメンデルスゾーンは名誉会員であった。後に枢密顧問官フォン・ゲッキングおよび大学教授マイヤーの二人が加わった。これらの会員は、① 司法・行政の高級官僚、② 聖職関係の官僚、③ 哲学者・万能学識者・ジャーナリストに分けられるという。ニコライがこの③に属することは、言うまでもない。

「ベルリン水曜会」の前身は、同じベリリンに1749年に作られた月曜クラブである」と西村稔氏は『文士と官僚』の中で述べられている。確かに会員の顔ぶれを見れば、両クラブに重複して所属している人もかなり見られる。西村氏は先の著書の中で、「月曜クラブの文芸的論議への限定が、水曜会の発足に向かわせたのでないか」と推測されているのだ。とはいえ水曜会の成立とともに、月曜クラブが消滅したわけでもなかった。両クラブの性格の違いを考えれば、このことは理解できよう。

水曜会の実態

さて水曜会の会員は、順番にそれぞれの邸宅に集まり、誰かがかならず自分の論文を読み、その後で討議が行われたという。つまり「月曜クラブ」のような自由な会話を楽しむといった集まりではなくて、いわばプロイセン王国の非公式な審議会といった性格を持っていたようである。そのため国家の「顕職にある高官」や学識者が、外部へは非公開の形で集まり、秘密裏に講演を聴き、議論がなされたようだ。その間の事情を、会員の一人でのちにニコライの伝記を書いたフォン・ゲッキングが、一般的な形で次のように述べている。

「会は毎水曜日の6時に、会員の一人の家で順番に開かれた。そしてその家の主人が一つの論文を読んだ。それはたいていは国家行政、財務行政、立法あるいは思弁的もしくは実際的哲学に関するもので、文学は極めてまれであった。朗読がおわると、めいめいの会員は偶然に座った順番に、それについて自分の意見を述べていった」「私としてはこの会が良い影響を及ぼした例について、いくつか紹介できるが、ここではその中の一つについて述べるにとどめよう。それはプロイセン一般ラント法が、ある程度この会から恩義を受けているという事である。つまりこれに深くかかわったスヴァレツは、そのアイデアの多くの部分を、この会を通じて修正したのである」

ちなみに枢密法律顧問官スヴァレツはプロイセン王太子(のちのフリードリヒ・ヴィルヘルム三世)への御前講義を受け持っていた。その彼も王太子の前でよりも、はるかに踏み込んだ、次のような見解を水曜会では示すことができたのだ。「この一般法典では、公正と不正について、堅固にして永続的な基本原則を定めねばならない。この法典はとりわけ本来の基本法がない国においては、ある程度その代わりを果たすべきものである。つまりこれは立法者自身にとっても、それに違反してはならない諸原則を含んでいるのである」

またニコライと縁戚にあった司法官僚クラインは1790年に出した『自由と所有権~フランス国民公会に関する八つの対話』の中で、対話形式で七人の人物を登場させ、自由な論議こそ政治問題に関しても真理性を保証するものだとしている。そしてこの本の登場人物を提供したのは、水曜会であることを認めている。

これに関連して現代の歴史家のH・メラーは次のように書いている。「スヴァレツとクラインという、この時代のプロイセンの最も影響力をもった国制理論家は、政治的自由と市民的自由とを理論的に区別することを要請した。政治的自由はフランス革命の後になっても獲得できなかったが、市民的自由の方はますます明瞭に認識されるようになった。パリで起こった出来事を聞きながら、人々はフランス革命について、あたかもドイツで起きている出来事であるかのように議論した。その意義を人々は、不可欠の人権の確保にあると見ていた。」

ところで一般ラント法制定への過程において、「最も注目に値するのは、本来の学者ではないけれども、真の実践的哲学の勉学に身を捧げている人々に、意見が求められたという事である」。さらに「いわゆる学識者身分には属さないが、読書と熟慮によって自分の分別を磨き、市民生活の様々な仕事の中で、豊かな知識と経験を集積したひとびとにも、意見の開陳が求められた」という。このように一国の立法作業の過程で、法律の専門家にだけ任せておくのではなく、広く公衆の代表にまで意見聴取を行ったことは、この時期のプロイセンの法典が、まさに「啓蒙主義的思想の所産であり、自然法の成文化といわれる」所以をなすものだといえよう。ここにニコライのような法律家以外の様々な分野の精神貴族の集まりであった水曜会の面目躍如たるものがあったわけである。

ところでこの会の秘書役であったビースターが1783年にモーゼス・メンデルスゾーン宛に出した手紙が残っているが、そこからも水曜会について貴重な情報が得られる。
「そしてここで私は貴殿にもう一つ提案があります。少し前に設立された学識者の協会では、会員の数を増やす試みをしましたが、その時貴殿は断られました。・・・そこで当協会としては別の要望をお伝えしたいと思います。・・・実は当協会において行われます講演は、単にそこで話して終わるのではなくて、さらに熟考していただくために、すべての会員にその原稿が回覧された後、会員の記名の判定を受けて返却されます。そこで貴殿にお願いしたいことは、重要な講演につきまして、貴殿の意見を聞かせていただきたいという事です。その際講演会原稿はカプセルに入れてお送りします。・・・その場合貴殿は当協会の名誉会員になられるのです。」

結局メンデルスゾーンはこの要望を受け入れて、名誉会員になった。この時の手紙には、協会会員の氏名と規約が添えられていた。その規約の第三条と第四条は、会員の秘密保持に関するものである。「第三条 用心のために氏名の代わりに、数字を記されたし。この回状のリストの末尾に、その数字を書かれたし。第四条 用心のためには十分な措置をとることが必要なので、部外の人間には・・・論文(の内容)を知らせてはならない」。これを読むと極度の秘密保持が図られていたことが分かる。講演原稿は会員だけがそのカギを所持していたカプセルにしまわれて、回覧されていたわけである。

啓蒙主義協会としての「水曜会」の役割

ニコライ自身も後になると様々な機会に、この会について発言している。
「会員達は興味深い学問的な話題について分別ある議論を交わしたが、それは親しく意見を交換することを通じて、互いに精神を啓蒙しあい、それらを通じていくつかの概念をおのずから明瞭にし、かつ公平公正な点検を行うことを目指したのである。・・・すべての会員は正真正銘、真実の友である。したがって各人は自分が真実だと思ったことを、有無を言わせぬ断定によったり、内面の声に耳を傾けたりするのではなくて、理由を明らかにすることによって、主張したのである。」
そこではニコライはこの会の秘密結社的側面には触れずに、その明るい面だけを強調している。

それはともかく、水曜会が様々な意味合いにおいて、啓蒙主義を特徴づける存在であったことは間違いない。まず第一に、一国の政策を決定することにつながるような重要な事項について、責任ある人々が強い好奇心をもって、活発に議論を重ね、互いに批判しあいながら真実に近づくという、そのやり方はまさに啓蒙主義の特徴であったからだ。第二に、そこには単なる知的興味ではなくて、実際的な問題への具体的対処という啓蒙主義的な志向がみられるからだ。そして第三に、影響力のある同志が、一つのグループに集まろうとする意志が認められるからである。

結局この「水曜会」は、社会や国家に対して影響力を行使し、改革を推進していくという啓蒙主義の実践を表明しているものだといえよう。しかしその運営については、極度の秘密保持が図られていたわけである。その最も大きな理由としては、革新的啓蒙主義官僚が、政府内の保守派ないし反対派に対して極めて強い警戒心をいだいていたことがあげられる。

プロイセン国家の当時の状況

水曜会の会員達は、その行動の基準として公益性を掲げ、公共のために意味ある行動を目指した。しかしその活動に当たっては、公共性の原理にそむいた「秘密保持」の行動とらざるを得なかったのである。それはこの協会にはプロイセン国家の高級官僚がかなりの比重を占めていて、その談合はいわば非公式の政府審議会といった様相を呈していたからである。

とはいえ会員達の意識は、あくまでも国家の外側に身を置いて、国家を改革することをめざしたのである。たとえば「一般ラント法」制定の意図に見られるように、この協会は国家や体制に反対してことを進めていたわけではなく、ただその絶対主義的なやり方に反対したのであった。つまり国家権力の中枢部にいて、旧来の硬直したあり方を改革すべきだと考えていた高級官僚の中の進歩派ないし改革派の人々が、一種の隠れ蓑として「水曜会」というものを作り、政府の内部では議論できない本質的な問題について、様々な分野の啓蒙的学識者を含めて自由に討論し、実りある結論を出そうとしていたわけである。しかし政府の中には、絶対主義的なやり方を続けていくべきだと考える保守派ないし守旧派もいて、自由な改革論議が政策に反映されることに、脅威を感じていたのである。

とはいえ「水曜会」の秘密保持のやり方が極めて用心深かったためか、クラブ結成三年後の1786年に啓蒙主義に理解のあったフリードリヒ大王が亡くなり、神秘主義に傾倒していたフリードリヒ・ヴィルヘルム二世(在位1786-1797)が王位を継いだ後も、特に弾圧されることはなかった。新王は性格的に弱く、側室たちやお気に入りの取り巻きが政治を牛耳る傾向が強かったといわれるが、それだけいっそう水曜会としては、秘密結社的側面を維持しなければならなかったのであろう。

しかし新王が傾倒した「黄金薔薇十字団」や「フリーメーソン」も、同じく秘密結社的傾向の強い団体であった。とりわけ黄金薔薇十字団の方は、はっきりと反啓蒙主義的な神秘主義団体なのであった。つまり水曜会とこれらの団体とでは、その志向や目的などでは、全く異質な存在なのであった。ところが一般の社会から身を隠すという点では、両者は同じになってしまった。とりわけ公共性を重視していた啓蒙主義協会にとっては、このこと自体がやはり大きな矛盾であった、と言わざるを得ない。絶対主義国家のやり方に反対して公共性を唱えていた啓蒙主義協会が、公共性に反して秘密主義をとっていくという矛盾に満ちた態度をいつまでも続けていくことは、個々の会員にとっても耐えられない事であったと思われる。

皮肉なことに、反動的で秘密結社を容認していたフリードリヒ・ヴィルヘルム二世の時代には存続できた「水曜会」であったが、1797年に開明的なフリードリヒ・ヴィルヘルム三世が後をついで、その翌年の1798年に秘密結社禁止令を出すに及んで、ついに「水曜会」は1800年の5月、会員の多数の決定によって、みずからその組織を解散したのであった。

この年ニコライは67歳になっていた。ニコライと啓蒙主義の同志たちはみな、それまでフリードリヒ大王とともに、多かれ少なかれ、ヨーロッパの中でのプロイセン国家の興隆、その首都ベルリンの名声の上昇と啓蒙の中心地としての誇りなどを共有してきた。その意味でこの年の「水曜会」の解散は、ベルリン啓蒙主義の終焉を告げる、一つの象徴的な出来事であったのかもしれない。