ドイツ近代出版史(5)~1887/88-1914~

第一章 書籍出版販売界の大改革

投げ売りとその防止策

ドイツの書籍出版界全体の公の組織として1825年に「ドイツ書籍商取引所組合」が作られたが、その後も書籍販売の面では書籍の投げ売りという事が大きな問題として存在していた。これに対しては幾多の防止策が試みられたが、どれもたいした効果を上げることができなかった。それどころか出版のメッカ、ライプツィヒやベルリンでは19世紀の後半になってから、かえって投げ売りは激しさを増してきたのである。割引価格を示したカタログ広告によって、地方の書籍販売業者はますます経済的苦境に陥るようになり、事態は深刻の度合いを深めていた。

地方レベルではすでに19世紀前半に、投げ売り防止の監視機関としての地域組合ができていて、地域的にはそれなりの効果を挙げる所もあった。そしてこの地域的に実施されてきたものを、全国一律にどこにでも通用するような商習慣にせよとの要求が、1870年代になって強まってきた。1876年には「書籍販売者連盟」の委託を受けて、『その支配的慣習に基づくドイツ書籍業界の基本秩序に関する草稿』というものが世に出された。そしてその二年後の1878年には、投げ売り防止のために、多くの出版業者がアイゼナハに集合した。こうした動きを見て全国組織の「書籍商取引所組合」も行動することを決心した。そしてそのイニシアティブで、同じ年の秋にワイマールに会議が招集された。そこで人々は、当時その数を増し、その連合会へと結集するようになっていた地域組合の基盤の上に立って「書籍商取引所組合」を改革することを話し合った。

「書籍販売者連盟」では、定価制度の確立をめざしたもろもろの規定を定めていた。そしてその連盟の会長から出版社に対して1882年、投げ売り業者への割引を減らすか、もしくは全く取引をしないようにとの要請が出された。この要請には484軒の出版社が応じた。

クレーナー改革

A. クレーナーの肖像

「書籍商取引所組合」の側でこの問題に対するリーダーシップをとったのが、その会長を務めていたアドルフ・クレーナー(1836-1911)であった。彼はすでに1878年のワイマール会議にも出席して、人々の注目を集めていた人物である。クレーナーは1859年に南西ドイツのシュトゥットガルトに出版社を創立した。そして1889年には老舗の大手出版社コッタ社を手に入れ、翌年にはウニオン・ドイツ出版社を創立した。これから述べる「書籍商取引所組合」の改革は、彼の名前をとって一般に「クレーナー改革」と呼ばれているが、その10年にわたる会長としての任期(1882-1892)中の1888年に、ライプツィヒに新しい「書籍商取引所組合」の会館が建設されている。

書籍商取引所組合の新館(1888年設立)

さてクレーナーは、投げ売りを防止するために定価制度を導入する過程で、ドイツの書籍業界にそれまでいろいろ存在していた組織を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することに成功したのである。彼は1887年、「書籍商取引所組合」の総会を、フランクフルト・アム・マインに招集した。これは投げ売り業者がたくさんいたライプツィヒやベルリンを意図的に避けることによって、かれらの反対をかわすためであった。

そしてこの総会で彼は、一連の提案を行った。それは書籍商同士の交流ならびに書籍商と読者との交流に関する一般的な基準を確立することと、市町村組合及び地域組合並びに出版業者連盟及び書籍取次業者連合を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することであった。このフランクフルトの総会では、全く抵抗がなかったわけではないが、結局クレーナーの政治力によってその提案は受け入れられ、以上のことを定めた新しい規約が、翌1888年の春から効力を発することになった。

この中の最も重要な規定の一つとして、投げ売り防止のための定価制度の確立に関するものがあった。ドイツのほとんどの出版業界の団体が「書籍商取引所組合」の傘下に入ったため、会員である書籍業者としては定価制度を守らなければならなくなったわけである。これによって悪名高い投げ売りは事実上終末を迎えた。このクレーナー改革によってドイツの出版業者は大同団結し、力を合わせて業界の利益と繁栄のために尽くすことを誓い合ったのである。やがてスイスの書籍商組合の定款も、ドイツの書籍商取引所組合の規約に合わせて改訂された。そしてスイスの書籍商組合の会員は、1922年までドイツ書籍商組合の会員になることが義務付けられた。またオーストリアの書籍商組合の規約も、ドイツのそれに適合するように改訂された。

定価制度をめぐる争い

クレーナー改革によって書籍の定価制度は確立したわけであるが、1888年に発効した「書籍商取引規約」をよく読むと、割引の実施に当たって地域組合にはなおある種の逸脱の余地が残されていたのであった。そのため改革から十数年をを経た1903年の初めになって、「書籍商取引所組合」は地域組合と取り決めた販売規定の中で、原則として顧客に対する割引は撤廃するが、現金払いの時だけなにがしかの割引を認めるという考え方を示した。そして具体的な取り決めとして、現金払いの際の割り引き率を、一般個人客には2.5%、官庁に対しては5%認めることになった。

ところがこの時、この程度の割引率では「不十分である」という声が、大学関係者の間からあがってきた。それは「書籍商取引所組合」へのドイツの出版業界の権力集中に抵抗して、書物の著作者と買い手の利害を護るという基本的な立場からなされたものである。そのためドイツ大学学長会議は1903年4月14日に、「大学保護協会」というものを設立して、この問題に取り組むことになった。

その昔1716年に、書籍問題にも造詣の深かった哲学者のライプニッツは、その『プロメモリア』の中で、「学者はもはや書籍業者に依存する賃労働者ではないのに、書籍業者はそうしたことを考えずに、自分たちのことばかりにかかずらわっている」と嘆いた。そして時は下って1880年代になってゲッティンゲン大学の神学教授パウル・ル・ルガルデは、ドイツの書物は外国に比べて高価であることを非難した。さらにベルリン大学教授のF・パウルゼンも、顧客割引をめぐる争いの中で、相対的に高い書籍の価格に狙いを定めた。全体としてドイツでは書物の値段が高いが、それだけ書籍業者が利益をあげている、というのが彼の主張であった。

書籍価格をめぐる論争

こうした流れの中で、書籍業界にたいして最も徹底した批判を加えたのが、ライプツィヒ大学教授のカール・ビュッヒャーであった。彼は先の「大学保護協会」の依頼を受けて1903年、『ドイツの書籍販売と学問』と題する一文を著し、その中で「書籍商取引所組合」に対して鋭い批判の矛先を向けた。かなり長くはなるが、以下その論調の主な部分を引用することにする。

「書籍商取引所組合は新しい定款を受け入れることによって、一つの<カルテル>を結成した。そして会員に商売上の最大限の利益を保証し、お互いの自由競争を取りやめることにした。」「定款には組合の目的として、会員の福祉の増進ならびにドイツ書籍業界及びその会員の最も広範な領域での利益を代表する事がうたわれているが、これは精神労働に対する搾取である」「寄生的な中間業者(取次店、委託販売人)は、書物の生産及び販売における経済的形成に対する阻害要因である」「ドイツの書籍業界は、人々が長いこと称賛してきたような完璧な組織などではない。我が国民の経済生活に対して、十分その任務を果たしていない」「そのカルテルの輪を断ち切る必要がある。・・・それから長期的観点から、公共図書館のためにしかるべき措置をとる必要がある。そして著作者に関しては、賃労働の奴隷の水準にまで落とされないよう、対策をたてるべきである」
そしてビュッヒャーは、定価制度の撤廃と自由競争の導入によってのみ、書物の価格は引き下げられるであろう、と主張したのであった。

このカール・ビュッヒャーの『覚え書き』は外国でも出版され、またドイツでは三版を重ね、同時に激しい論争を引き起こした。個人の意見が次々と洪水のように出された。そして非難の矢面に立たされた「書籍商取引所組合」の幹部が、1903年9月25日に声明を発表して、正式な異議申し立てを行った。この声明の中で「書籍商取引所組合」は、1825年の創立以来行ってきた多くの努力と業績を数え上げて、人々に訴えた。それはまず第一に著作者及び書籍業界のために翻刻出版禁止への闘いを指導してきたこと。第二に著作権保護のために道を切り開き、あわせて国際的著作権保護のためにベルヌ条約締結を呼びかけてきたこと。第三にその出版社法において著作者及び出版社の権利を擁護し、全世界の模範となるようなドイツの出版権の基礎を作り上げたこと。そして第四に造形美術作品や写真作品などの著作権に対する保護法制定に向けていまなお尽力していることなどであった。

そして定価制度をめぐる中核的問題に対しては、「書籍商取引所組合」は次のように主張した。すなわち定価制度が撤廃された場合に生ずる価格の引き下げによって、思わぬ結果が生ずることになろう。つまり比較的大規模な書籍販売業者だけは永続的に生き残れるであろうが、小さな町の書店はつぶれることになろうし、大学町の書籍販売業者も生き残りは難しいことになろう。それゆえにこうした中小書籍販売業者の生き残りのためにも、定価制度は必要であるとしたのである。

こうした学者と出版人との争いは、一般に「書籍論争」と呼ばれているが、双方互いに一歩も譲らず、強硬な主張を繰り返したため、ついにその仲介に帝国内務省が乗り出すことになった。こうして1904年4月11-13日に、関係各界の代表が招かれて会合が開かれた。そこに集まったのは、片や役所の代表、大学教授、図書館代表、対するに「書籍商取引所組合」幹部、出版主、書籍商の代表という顔ぶれであった。しかしこの会合でも直ちには問題に決着がつかず、結局懸案の数々はその解決を、「大学保護協会」及び「書籍商取引所組合」の代表から構成された「合同委員会」に委任されることになった。

ところが同委員会が同年5月31日にライプツィヒに招集されたとき、議論の対象となったのは割引問題だけであった。この時「書籍商取引所組合」は個人客に対する割引については従来の主張を繰り返しただけであったが、図書館に対しては7.5%という統一的な割引率の用意があることを明らかにした(これは「書籍商取引所組合」が従来行ってきた5%と、反対陣営が期待した10%という数字の中間をとった妥協策であった。)こうしてまとめられた取り決めは、少なくとも追加予算のついた図書館に対しては7.5%の割引を、それ以下の規模の図書館に対しては5%の割引を認めるというものであった。この取り決めは、今日なお存在している図書館割引の基礎となったものである。

書籍の定価制度をめぐる様々な問題は、その後も絶えず蒸し返され、今日に至るまで議論はし尽くされてはいない。とりわけこの議論は、第一次大戦中とその後の大インフレの時期そして第二次大戦後に繰り返されてきた。ちなみにドイツ連邦共和国の法律では、出版物は統制・協定などによる価格の拘束の禁止の対象から除外されている。

第二章 この時代の代表的出版社とその活動

特色のある出版社

今日ではもう見られなくなったことであるが、20世紀初頭のころにはまだ、ドイツの出版社にはそれぞれ独自の個性や特色があったといわれている。つまりこの時代の出版社には「顔」があったというのだ。W・ カイザーは1958年に行った講演「現代の文学生活」の中で、第二次世界大戦後の時代と20世紀の最初の数十年とを比較して、次のように言っている。「ザムエル・フィッシャー、ゲオルク・ミュラー、アルベルト・ランゲン、オイゲン・ディーデリヒス、インゼル(などの出版社)から出版された本には、それぞれ一種の風格があり、それぞれ独自の精神的分野と結びついていた。当時の書籍市場はある程度出版社によって秩序づけられていたのである。私の家のナイトテーブルには、丁寧に編集された古い完璧なカタログが置いてある」。

この古い出版社目録について、ワイマール時代の著名の評論家クルト・トゥホルスキーは、1931年に次のように書いている。ゲオルク・ミュラー、ピーパー、フィッシャー、インゼル出版社などは、このカタログ作成のために大変な努力を払い、かなりの経費と用紙を投じたのである。・・・しかもこの努力は十分報われているのだ・・・なぜならドイツの出版界にはかつて、ある本が新刊されたときにそれを自慢にできるような時代があったからなのだ。その本はX社でしか出版することができない。Y社からそれを出すことはできない、と人々は考えていた。・・・しかし今ではもうこういうことは全くなくなっている。どんな本もどんな出版社からでも出せるのだ。ほとんどどんな本も、出版社を取り換えることができる。」

トゥホルスキーがこれを書いた1931年には、先のカイザーが言った「20世紀の最初の数十年」は終わりを告げていたのだ。

装丁に対する工夫

ところで出版社の個性や特色は、書物の外観に対して人々が抱くイメージによって決められる度合いも少なくない。こうした観点から、この時代の主な出版社が書物の装丁に対して、どのような工夫をしていたのか、見てみることにしよう。まず出版者アルベルト・ランゲン(1869-1909)は、パリに滞在中にフランスのポスター美術から影響を受けて、著名な芸術家にブックカバー用のデザインを依頼することを思いついた。こうしてドイツで、書物にカバーをかけるという習慣が生まれ、これはたちまちのうちに多くの出版社が採用するところとなった。

しかも19世紀から20世紀への転換期は、時あたかも装飾美あふれたユーゲントシュティール様式(フランスではアール・ヌーヴォー様式)の全盛期であったので、この様式を用いた装丁が目立った。その際、出版者のA・キッペンベルク(1874-1950)が言うように、この「美の貴族」を広く国民大衆のもとにもたらすことが考えられた。そのためには書物の値段を下げて、発行部数を増やすことが図られた。

この考えはもともとレクラム出版社のもので、あの有名な「レクラム百科文庫」は何の装丁もない小型の文庫の形で、今日まで出版されている。そのため値段も初期には長い事20ペニッヒにおさえられていた。

ところがこうした大量出版を、美しい装丁を施したハードカバーの本で実行したのが、J・C・エンゲルホルンであった。彼は1884年、自社発行の文学全集に赤いハードの表紙をつけて、一冊50ペニッヒで売り出した。また上等な革製の表紙の方には、75ペニッヒの値段を付けた。エンゲルホルンのこの「赤表紙」は成功をおさめたが、20世紀に入ると、時代とともに読者の趣味嗜好も変わって、こうした点から新たな競争にさらされることになった。ザムエル・フィシャー(1859-1934)が経営する出版社が1908年から出し始めた文学全集は、黄褐色の表紙が付けられたが、エンゲルホルンと区別するために、これは「黄表紙」と呼ばれた。さらにこの時代、K・R・ランゲヴィーシェの「青表紙」本も存在した。

その一方、書物の外観に特別念入りな配慮を施し、ぜいたくな造本をして、しかも発行部数を100部に抑えて、選り抜きの100人に前払いで提供する「百部刷り」の試みも見られた。これを行なったのがH・v・ヴェバーが経営するヒュペーリオン出版社で、価格が50から100マルクという高価な豪華限定版であった。

このヴェーバーの友人だったE・ローヴォルト(1887-1960)は、この企画に魅せられながらも、やや別のやり方をした。つまり美しい活字と選り抜きの紙を用いて造本しながらも、それを手ごろな値段で愛書家の手元に届けようというのであった。こうして1910年から『愛書家のための雑誌』が発行されることになった。このためにローヴォルト書店と関係の深かったドゥルグリーン印刷所が尽力した。これはちょうどレクラムが本の内容に関して行なったこと(古典の廉価版の発行)を、愛書家のために造本の分野で行ったものであるといえる。

世紀転換期の「文化出版社」

それではここでこの時代に活躍した主な出版人の横顔を紹介することにしよう。これらの出版人が19世紀末から20世紀初めにかけて創立した出版社は、今日なお存続するか、あるいは今なおその影響力を残しているのだ。これらの出版人の一人オイゲン・ディーデリヒス(1867-1930)は、これらの出版社に共通するものとして「文化出版社」という名称を付けている。これら文化出版社は、新しい市民的個人主義の導入、(帝国主義的な)ヴィルヘルム体制からの市民階級の解放、そして(1871年の)帝国創立後の戦勝祝賀気分から覚めて、より現実的で健康な時代を建設することなどに貢献したのであった。

ザムエル・フィシャーの肖像

まず取り上げなければならないのはザムエル・フィッシャーであるが、ユダヤ人の彼は1886年にベルリンに出版社を創立した。S・フィッシャー社は、まず何よりも自然主義文学の作品を手掛けたことで知られている。フィッシャー社は、良書を安く人々に提供することに尽力したが、同時に作家の個人全集を出すことによっても知られていた。フィッシャーは一人の作家を掘り出す時に、のちに全集を出すことを考えてその作家の原稿を点検したのである。

その最初の全集をフィッシャーは、北欧の作家ヘンリク・イプセンの作品でもって始めることにした。イプセンの個々の作品の出来栄えは悪くなかった。しかし初めはその作品はレクラム出版社から出されていたのだ。イプセンはレクラムとフィッシャーを競合させて、漁夫の利を占めようとしていたとみられている。そのためフィッシャー社としてはイプセンの全作品の版権を獲得するのに、かなりの出費を強いられたという。それは一種の賭けともみなされるものであったが、S・フィッシャーはあえてこの冒険をすることによって、結局は同社の永続的発展を築くことができたのであった。

こうした冒険への性向は、イプセンに限らず、フィッシャーの北欧文学全般への好みに現れていた。その結果1889年から「北欧文庫」が発行されたが、新しいドイツ文学を振興させるには、言語的にも親類関係にある北欧ものが良いと彼は考えたのであった。
とはいえフィッシャー社が最初に取り上げた外国人作家は、イプセンのほかに、当時ドイツではまだ知られていなかったフランスのエミール・ゾラとロシアのレオ・トルストイであった。そしてのちにゲアハルト・ハウプトマンやトーマス・マンといったドイツ人が同社の看板作家になったのである。

フィッシャーの冒険的・革命的な行き方とは対照的であったのが、ライプツィヒのインゼル出版社のアントン・キッペンベルクであった。その行き方は慎重そのものであったが、次の彼の言葉はそれを十分示している。「我々は当時、正しい道を知らずに、手探りで進んでいた。ところが最上の水先案内人が、実は我々の船内にいたのだ。それはゲーテであった。彼は船内から何を捨てたらよいのか、教えてくれたのであった」。インゼル出版社という名称は、同社が発行した雑誌『ディ・インゼル(島)』にちなんでつけられたもので、創立は1899年であった。同社はやがてゲーテの作品の出版社として名を成していったが、1904年に出版した『ラート・ゲーテ夫人の手紙は特筆するに値した。ゲーテ夫人の手紙が公刊されたのは、このときが初めてであった。インゼル出版社はまた、文献学的な面でも貢献した。自らゲーテ作品の熱心な収集家であったA・キッペンベルクは、文献学的に当時としては最も念入りな編集を施したゲーテ全集を出版しているのだ。

オイゲン・ディーデリヒスは、多面的な才能をもって、多様な活動をした出版人であった。彼は1896年、イタリアのフィレンツェで出版社を起こし、のちに有名なブックデザイナーとなったE・R・ヴァイスの二冊の詩集を出版した。やがて彼はドイツに戻り、ライプツィヒを経て、イエナに出版社を移した。そして彼は自分の出版社を「文学、社会科学および神智学の現代化を試みる出版社」と名付けた。ディーデリヒスは初め、「自由思想家」F・ナウマンより左に立つ社会主義者であった。こうした立場から彼は、1848年革命史を、その50周年の1898年に向けて書くよう、弁護士のハンス・ブルームに依頼した。この人物は48年のフランクフルト国民議会の代表として名高いローベルト・ブルームの息子であった。

彼の出版人としての活動を見ると、出版界に様々なアイデアを持ち込んだ人物だといえる。彼は新種の宣伝広告の方法を考えて、それを実行した。また読者に書籍購入の動機をアンケートによって尋ねるという、ドイツの出版界で最初の「市場調査」を行ったりした。さらに第一次大戦後の出版界の苦境を克服するために、様々な提案を行ったし、「出版人養成機関」の生みの親の一人でもあったのだ。

先にブックカヴァーの創案者として紹介したアルベルト・ランゲンは、1893年に出版社をパリに創立した。文芸出版社としては、北欧とフランスの作家の作品をドイツに紹介することに重点を置いていた。そうした観点から彼は、若きノルウエーの作家クヌート・ハムスンを、S・フィッシャー社から引き抜いて、その小説『神秘』を出版した。しかし出版者ランゲンの名前と切っても切れないのが、名高い諷刺週刊誌『ジンプリチシムス』であった。この絵入り週刊誌はヴィルヘルム二世時代のドイツの政治や社会を鋭いタッチで諷刺・批判したために、その関係者はたえず告訴されたり、拘留されたりした。そして雑誌は発刊禁止処分を受けたり、発行人のランゲンはこのためスイスへ逃亡しなければならないこともあった。

こうした危険があったにもかかわらず、雑誌関係者はこの週刊誌の編集発行に意欲を燃やし続けた。やがてランゲン出版社は有限会社に組織替えされたが、1907年ランゲンは新しい雑誌『三月』を創刊した。この雑誌の発行人の中には、作家のヘルマン・ヘッセもいた。ところがヘッセはもともとフィッシャー社の作家であったため、このことが契機となって、S・フィッシャーとA・ランゲンの間に気まずい雰囲気が生まれることになった。ランゲン自身は翌年の1908年に亡くなったが、やがて雑誌『三月』はメルツ出版社から発刊されることになり、その編集は後にドイツ連邦共和国初代大統領となったテオドール・ホイスが担当した。

またゲオルク・ミュラー(1877-1917)という人物が、1903年ミュンヘンに出版社を創立した。皮革の卸売り商の息子だったミュラーは、その財政基盤はしっかりしていた。若き日にヴェーバー書店で見習いとして働いた経験を生かして、のちに自分の出版社を作ったが、直ちにその事業拡大へと突き進んでいった。まずマイヤー出版社の作家の版権を買い取った。そしてS・フィッシャー社が開拓することができなかった北欧の作家ストリンドベリーのドイツ語版全集を発行した。さらにランゲン社から、そこの作家ヴェーデキントを横取りした。

このG・ミュラーと同様にベルリンのヴェーバー書店で見習いをしていた人物にラインハルト・ピーパー(1879-1953)がいた。彼はミュラーと一緒にパリへ旅行したりしたが、やがて1904年に自分の出版社をミュンヘンに創立した。ピーパー出版社はとりわけ現代美術作品の出版に力を入れた。こうしてその出版社から、エドアルト・ムンク、H・v・マレー、M・リーバーマンなどの美術家の作品が出版された。さらにM・ベックマンとE・バルラッハも出版された。そこでの絵画作品の複製の出来栄えは、素晴らしいものだった。

最後にエルンスト・ローヴォルト(1887-1960)及びクルト・ヴォルフ(1887-1963)という二人の出版人の横顔を紹介しよう。ローヴォルトは1908年に、その第一次出版社をベルリンに創立したが、最初に出版したのが、G・C・エトツァルトの抒情詩集『夏の夜の歌』であった。これは二色刷りのユーゲントシュティールの美麗本で、当時若干21歳だったローヴォルト青年の夢を実現させたものであった。その2年後の1910年、ローヴォルトは劇作家H・オイレンベルクに心惹かれることになる。オイレンベルクはこの年の11月10日、シラー生誕150周年の祝典で記念講演を行った。しかしこの時彼は国民の愛国的シラー像を打ち砕いたため、講演は抗議の声と退場する人々の騒音で包まれた。それでもローヴォルト青年はこの劇作家に近づき、その全作品を出版することを約束した。これも若き出版人の理想主義を示す逸話であった。

オイレンベルクの作品に関するローヴォルト書店の広告

その一年前の1909年から親友のクルト・ヴォルフが、匿名の株主としてローヴォルト書店を全面的に支援していた。この二人の青年はシャム双生児と一般に呼ばれていたぐらい、常に行動を共にしていた。しかし二人の性格は非常に異なっていた。そのこともあって、それまで二人三脚のようにして一緒に出版事業を営んできたローヴォルトとヴォルフの間に、1912年になって出版の方針を巡って大喧嘩が持ち上がった。その結果、社の資金面を支えてきたヴォルフが1万5千マルクをローヴォルトに渡して、作家たちの版権も手に入れた。その中にはヨハネス・ベッヒャー、マックス・ブロート、ゲオルク・ハイム、フランツ・カフカ、M・リヒノフスキー、アルノルト・ツヴァイクなど文学史上に名をのこす、そうそうたる顔ぶれがいた。そしてヴォルフは翌1913年に社名を「クルト・ヴォルフ社、ライプツィヒ」と改めて、独自の出版活動を続けることになった。

その後ヴォルフは出版事業家としての才能を発揮して、事業拡大に乗り出した。その手始めとして、1917年「百部刷り」で知られていたヒュペーリオン出版社を買い取った。そしてそれに続いていくつかの長い名称を持った出版社を創立していった。このヴォルフの出版事業を経営面から支えた人物にG・H・マイヤーがいたが、彼はヴォルフに宣伝広告の重要性を説き続けた。そしてこのマイヤーの宣伝工作が見事に功を奏したのが、1915年に出版されたグスタフ・マイリンクの幻想小説『ゴーレム』に対する宣伝活動であった。この時マイヤーは街の広告塔に真っ赤な宣伝ポスターを貼ったのであった。

いっぽう自分の出版社を失ったローヴォルトの方は、第一次大戦勃発とともに出征していったが、戦争終了とともに帰国し、再び出版活動に従事した。今度は時代の先端を行く表現主義の芸術家や作家との交際のうちに、この種の作品を出版することを狙って、1919年に第二次ローヴォルト書店を創立した。そして従来の堅い純文学作品のほかに時局ものも多数出版するなど、多角的経営によって事業を安定させていくことになった。そして「自由なる精神の試合場、書物のための公共機関」をモットーに、出版活動をつづけた。1919-1933年のワイマール共和制の時代に出版された書籍の点数は、500点余におよんだ。しかもその著者層の広さ、作品の多様性は注目に値した。右翼から左翼に至るまで多彩な顔ぶれ、大衆作家から新聞・雑誌の文芸記事の執筆者、文学史に残る作家、あるいは各界の著名人に至るまで、その執筆陣は及んでいたのだ。こうして第二次ローヴォルト書店は出版の自由を全面的に享受して、ワイマール共和国時代の代表的出版社の一つとして、繁栄を謳歌したのであった。

なおナチス時代の前半に細々と経営を続けていたローヴォルト書店も、その後半にはついに閉鎖の憂き目にあった。そして第二次大戦後になって第三次ローヴォルト書店が創立されて今日に至っている。この間の事情については後に述べることにする。

大衆向けの書籍販売

以上紹介した「文化出版社」で発行されていた書物とは別に、広範な一般大衆向けの印刷物や書物を取り扱っていた書籍販売が、世紀転換期から20世紀初めにかけての時期にも、もちろん存在した。例えば都市近郊や地方では、しばしば文房具店と製本業者が合体した店で、広範な購買層向けに、教科書、暦、青少年向け図書、料理の本、安手の娯楽シリーズ本、家庭向け小冊子などが売られていた。いっぽう鉄道の駅構内の書店も、1854年にすでにハイデルベルクに存在していたが、このころにはその数を増やしていた。またレクラム出版社では、1914年に全国1600の駅の構内に、本の自動販売機を設置した。さらに大都会のデパート内に書籍売り場が設けられるようになった。こうした動きに対抗するように一般書店でも、ショーウインドー内の書物の飾りつけに工夫をこらしたり、店内の魅力あるレイアウトなどに尽力するようになった。

レクラム百科文庫の自動販売機

第三章 国立図書館開設への動きと出版界

1848年-不幸な第一歩

ドイツでも全国的な規模の公的図書館を開設しようという動きはかなり早くからあったが、地方分権国家として国の統一(1871年)が遅れたこともあって、この運動はなかなか結実しなかった。最初の動きは1848年の三月革命のときにおこった。北独ハノーファーの出版者H・W・ハーンは、フランクフルトの国民議会執行部に宛てて、自分の出版社の出版物を提供するので、他の出版社からの献本を併せて、公の図書館を作ってほしいとの申し出を行った。やがてドイツ及びオーストリアの多くの出版社がこの動きに同調したため、国民議会では国立図書館建設への第一歩を踏み出せるものとの見込みを立てた。そしてそのための専門的な担当官が任命され、具体的な計画立案が委任された。担当官のH・プラート博士は早速、納本義務と文献目録作成に関する立法作業に取り掛かった。その際新刊書の供出と文献目録への登録によって、著作権保護期間の確定も行うことを計画した。

こうして国立図書館開設へ向けての第一歩は順調に踏み出された。しかし翌1849年に国民議会そのものが解散したことによって、この計画も挫折してしまったのである。このようにドイツにおける国立図書館建設の最初のイニシアティブは、国や政府ではなくて出版界がとったわけであるが、この傾向はずっと後まで続くことになる。

「ドイチェ・ビュッヘライ」開設へ

1848年の計画の挫折の後、1871年にドイツは統一され帝国が成立したが、このころになると再び国立図書館開設へ向けての動きが起こってきた。今度は図書館関係者のイニシアティブによるもので、既に存在していたベルリン王立図書館をドイツの帝国図書館へと昇格させようというものであった。しかし今回は政府関係者のこの問題に対する無関心から、この提案は受け入れられなかった。

こうして時が過ぎていったが、第一次大戦勃発の少し前の時期に、ドレスデンの出版主エーラーマンの主導で、全国的な規模の図書館を建設しようという提案がなされた。かれは三度にわたって自分の提案の鑑定を専門家に依頼した後、1910年になってそれを公表した。その設立の目的は、外国におけるドイツ語出版物を含め、ドイツ語の全ての出版物を集めた公共の図書館を作ることであった。そしてその集めるべき出版物の中には、芸術上の印刷物、個人的な印刷物そして官公庁の刊行物も含まれるべきことが謳われた。そしてこの図書館へはすべての出版社が自由意志によって納本することで、出版界に合意がみられることになった。

主導者のエーラーマンはこの全国的規模の図書館を、ドイツの書籍の中心都市ライプツィヒに建設することを提唱した。幸いそこの「ドイツ書籍商取引所組合」はこの計画に協力的であった。そしてこの全国的図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、この「書籍商組合」の施設として建設されることが決まった。そのうえライプツィヒ市当局とザクセン州政府もこの計画に大変協力的であった。こうしてライプツィヒ市が土地を提供、ザクセン州政府が建設費を負担、そして両者がその経常運営費を負担していくことで合意がみられた。また「書籍商組合」が書籍や出版物の収集に対して責任を負うことが定められた。

「ドイチェ・ビュッヘライ」の堂々たる外観

こうして1912年10月にこれら三者の間で契約が交わされ、「ドイチェ・ビュッヘライ」は誕生することになったのである。出版界を代表してこの交渉に携わったのは、1910-16年の間「書籍商組合」の会長を務めたベルリンの出版主カール・ジーギスムントであった。しかし期待されたドイツ帝国政府のこの事業への参加は、ついに見られなかった。そのためこの図書館は全国的な規模のものではあったが、この時点では帝国図書館とはならなかったのである。第一次大戦勃発前夜の時期でもあり、当時のドイツ帝国政府の代表者は、こうした文化的事業に関心が向かなかったのであろう。

それはともかく「ドイチェ・ビュッヘライ」は1913年の初めから、ライプツィヒの「書籍商組合」の会館の中で、業務を開始することになった。当初はその業務は、1913年1月以降に発行された出版物の収集に限ることとされた。しかし1916年になると第一次大戦中にもかかわらず、「ドイチェ・ビュッヘライ」の独自の建物の建設が開始されることになった。そして第一次大戦後の1922年になると、ワイマール共和国政府は「ドイチェ・ビュッヘライ」の共同出資者に加わることになったのである。こうしてライプツィヒの「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1945年までドイツの全地域をカヴァーする唯一の中央図書館(つまり国立図書館)の地位を保ったのである。

全国図書目録の発行

全国的規模の図書館開設の動きと並んで、総合的な図書目録整備の事業の方も進展した。ドイツでは図書目録は長い間、個々の出版社が発行したものや見本市協会の出品目録という形で存在してきた。なかでもカイザーとヒンリヒスの図書目録が、その内容が充実したものとして知られていた。このカイザーの図書目録を1914年に、「書籍商組合」の図書目録部が受け継ぎ、「ドイツ書籍目録」という名称で、その業務を続けることになった。また翌1915年には、ヒンリヒスの図書目録も受け継ぎ、同様に図書目録部が仕事を続けた。

こうして先人の多くの遺産を受け継いだ「書籍商組合」は、全国的な規模の図書目録の発行に踏み切ったのであった。この「ドイツ全国図書目録」は既刊書の総目録であったが、1921年には毎日発行される新刊書の目録も現れることになった。一方重要な価値を持つとみなされたドイツ語の学術論文や雑誌論文の目録作成・発行の業務を、「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1924年から始めることになった。これはかつてツァルンケによって創刊された「リテラーリシェ・ツェントラールブラット」を受け継いだものであった。

また1928年には「ドイツ公文書月刊目録」が発行。そして1936年には、それまでプロイセン国立図書館によって管理されていた「ドイツ大学文書年次目録」が、そして1943年には「ドイツ音楽図書目録」及び「美術図書総目録」が付け加えられた。そして年次は前後するが、1927年に「ドイチェ・ビュッヘライ」は、「ドイツ歴史図書年次報告」を開始し、さらに1930年には「歴史図書国際総目録」のドイツ語部門を引き受けることになった。

ドイツ近代出版史(4)~1825-1887/88~

大衆的な文学市場

第一章 古典作品の大衆廉価版の成功

<レクラム百科文庫>の発行

先に著作権保護の箇所で述べたように、1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別な取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅することとされた。そしてドイツの古典主義文学の代表的な作家、つまりゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントなどの作家はみな、1837年以前に死亡していたため、その著作権は1867年に消滅したのである。

ドイツのいくつかの大出版社、そして中規模の出版社も、ひそかにこの時期が来るのを待ち構えて、著作権のない古典作家の作品の廉価版を、大量出版することを計画していた。そうした中規模出版社の一つがアントン・フィリップ・レクラム(1807-1896)の出版社であった。彼は他の出版社と同様に著作権消滅のまさに当日の11月9日に、古典作品の大衆廉価版である<レクラム百科文庫>の発行に踏み切ったのであった。その前夜までに第一期の35点が用意された。その第一巻と第二巻は、それぞれゲーテの『ファウスト』第一部と第二部であった。『ファウスト第一部』は3か月のうちに1万部が売り切れたという。また翌年1868年末までに<レクラム百科文庫>は、120点出版された。

この文庫の特徴は、当時慣習となっていた配本順にシリーズ作品を全部買うというやり方に従わずに、単独で一冊づつ買うことができたことと、一冊わずか20ペニッヒという値段の安さにあった。こうしたことから伝統的な文学書出版社や学者・教養人の側からは、「三文レクラム」などとやゆされたりした。しかしレクラム側では、「知は力なり」というモットーのもとに。だんことして初期の方針を貫きとおした。いっぽう書籍販売者の側からも当初は、この種の三文文庫の販売に対して抵抗がみられたが、全般に売れ行きは好調で、この新企画は大成功であったといえる。

とはいえ各社が一斉に古典廉価版に踏み切った1867年には、当時なお中小出版社の一つであったレクラム社の動きはさして注目を浴びず、数年たってからようやく新聞・雑誌の文芸欄などで取り上げられたのだという。しかしその後脱落していった出版社が多かった中で、<レクラム百科文庫>だけは途絶えることなく発行が続けられ、今日に至っているのである。ちなみに1945年までにレクラム社は世界文学のあらゆる分野の作品7600点を発行し、その総発行部数は2億8千部にも達した。さらに第二次大戦後の発行部数の伸びは目覚ましく、1988年までに実に合わせて、7億7700部にも達しているのだ。

レクラム百科文庫の1991年の広告。
この写真の左上にレクラム出版社創立156年と書かれている。
つまり創立されたのは1835年だった。

古典の廉価版はまさにドイツの出版界における一大事件だったのだ。それまで古典文学の出版を独占的に手掛けてきたコッタ出版社をはじめとしたいくつかの出版社は、大きな損失を受けることになった。二十世紀の大手出版社のひとつローヴォルト社の社長が言うように、「レクラム百科文庫は<文学の民主化>と<書物の非神格化>に向けて最初の重要な一歩を踏み出した」ものなのであった。またドイツ社会民主党党首アウグスト・ベーベルは1908年、レクラム百科文庫の第5000号発刊に際して、「レクラム百科文庫は、すべての文化と進歩の友人から暖かい感謝の念を受けてきた」と祝辞を述べている。

さらに遠く離れた日本にもこの文庫の影響を受けて、昭和2年(1927年)、岩波茂雄が<岩波文庫>を発刊したことは周知の事実であろう。「読書子に寄すー岩波文庫発刊に際してー」という一文の中で岩波は、「吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する」と書いている。

ここでフィリップ・レクラムが古典の大衆廉価版の発行を思いついた動機について見てみよう。彼は1839年に印刷所を一軒手に入れたが、経営者としてこの印刷所の効率的な運用を考えた。その際彼は印刷所を自分の出版社のためだけに使用することを決心した。そして当時質の良い新作が見当たらなかったため、すでに評価が定まっている古典を大量に出版することを思いついた。その際この考えを技術的に可能にしたのが、当時発明されたばかりの高性能の印刷方法であったステロ版製版であった。これは新たに活字を組む必要がなく、比較的簡単に複製することができたため、経費も大幅に節約することができた。こうして翻刻版を大量出版することが技術的に可能になったため、本の販売価格を大幅に引き下げる見通しが立った。

この見通しのもとにレクラムは1858年、良質の古典としてシェークスピアの作品12巻の版権を獲得した。そして全12巻の全集を、当時としては破格の安値である1・5ターラーで大量に市場に出したのであった。この全集は大当たりをとった。さらに1865年になるとレクラムは、この全集を1巻づつ個別に(1巻を2000部づつ)販売するようになった。シェークスピアの作品を個別に売り出すというこのアイデアこそ、その後の<レクラム百科文庫>の発行の源であったのだ。

私はこの「レクラム百科文庫」にも強い関心を寄せ、研究を進めた。そして『レクラム百科文庫-ドイツ近代文化史の一側面』という著書を、1995年12月に刊行することができた(朝文社)。興味のおありの方は、この著作をお読みいただければ幸いである。

その他の古典廉価版

レクラムと同様に古典作品の著作権消滅を待って、古典作品の発行を行った出版社は沢山いた。大手のブロックハウスをはじめパイネ、プロシャスカ、ヴィニカー、ゲーベル、グローテなど小規模な出版社も加わったが、なかでも注目すべき存在が大手出版社主ヘルマン・マイヤー及びグスタフ・ヘンペルの二人であった。マイヤー社からはゲーテの詩集を皮切りに<ドイツ国民文学文庫>が出版され、ヘンペル社からは<ドイツ古典作家国民文庫>(全部で246巻)が出された。ヘンペルはその際テキストの内容が完璧であることを心掛けた。つまり著者によって最終的に認められた版を用いたのである。そのため出版人であると同時に有名なゲーテ収集家でもあったザロモン・ヒッツェルは、そのゲーテ・カタログに、ヘンペル版のゲーテ作品だけを採録している。こうした文献学的な質の高さを狙ったヘンペルのいき方は、知識と教養の普及を目指したレクラムの考え方とは、おのずから違ったものであったといえる。

いっぽう古典作品の名門出版社コッタ社も、古典の大衆廉価版を出していた。例えば1839年には廉価版のシラー全集を10万部以上売りさばいていたし、「万人向け文庫」という古典の大衆廉価版も刊行していた。また百科事典を手掛けていたマイヤー出版社もレクラムに先駆けて、古典の大衆廉価版を出している。

第二章 貸出文庫

都市型貸本業

19世紀に入るとドイツでは、数多くの経済的、社会的、技術的革新が相次いだが、これらを通じて文盲も著しく減少した。とはいえドイツにおける識字化と読書の普及には、なお地域的、階層的に格差がみられた。つまり南ドイツのカトリック地域や農村地域では遅れ、北ドイツなどの人口が増大しつつあった都市部で進んでいたのだ。しかし書物は当時なお高価な商品であり、本を買って所有できたのは金持ち層に限られていた。そのため有料で本を貸し出す広い意味での貸本業が、18世紀の末頃から生まれてきた。こうした手段によって、当時新たに読書階層にくわわってきた人々も、大きな経済的負担なしに本を読むことができたのである。こうした商業的な貸本業は、一般に<貸出文庫>と呼ばれている。ちなみに18世紀末の1799年には「貸出文庫」という題名の喜劇も登場しているぐらいなのだ。

これは18~19世紀における書籍配給システムとしての都市型商業貸本業という訳であるが、18世紀末から19世紀半ばまでがその黄金時代であった。その所在地は各領邦国家の首都、領主の城館のある都会(城下町)、商業・手工業都市などであったが、社会階層別に様々な形態の貸出文庫が存在していた。上はベルリンのボルステルの読書クラブや、ハノーファーのコルマンの貸本業のように、王侯貴族とも交流があり、もっぱら金持ちの大市民を相手にした高級施設から、下は公にはほとんど把握できない街の片隅のしがない貸本屋に至るまで、様々だったのだ。そうした小さな貸本屋は、製本業者が副業として経営していたり、手工業者や文房具店、床屋のような別種の人々によって運営されていたものもあった。

高級な施設では、保存が非常に良い新しい本が貸し出されていた。そしてシーズンごとの新刊書もあったが、それらはしばしば貸出所のスタンプすら押してなかった。それはより高級な読者の要求に譲歩してのことであった。そしてそうした本が何度も貸し出されて、古くなったり、あるいはあまり読まれなくなったりすると、二流・三流の貸本屋へと流されていったのである。

19世紀後半に活躍したドイツの大衆文学作家カール・マイ(1842-1912)は、子供のころ小遣い銭稼ぎにアルバイトをしていたボーリング場が副業として経営していた貸本所で、本を借りていたという。ここで少年マイは、半分ぼろぼろになった貸本の通俗小説を夜を徹して目を真っ赤にして読みふけったのであった。

貸し出される本の種類で見ると、読者の社会階層にはあまり関係なく、まずは文芸もの、とりわけ小説部門が圧倒的に多かった。19世紀が進行するうちにドイツでは、大市民、商人、手工業者などの間で、こうした分野での趣味嗜好が次第に接近しつつあったのだ、しかもこうした小説をこの時代には、個人が買うという事はなかったわけである。つまり小説の新刊書の買い手は、圧倒的に貸出文庫を利用していたのだ。

ちなみに当時の作家たち、G・フライターク、T・フォンターネ、P・ローゼッガーなどが書いた小説の売り上げは、当時存在していた貸出文庫も購買額にほぼ対応していたという。さらにわざわざ貸出文庫用に書かれた小説も当時は存在していたといわれているが、それもあながち例外的な存在という訳ではなかったようだ。

その多様な形態

いっぽう貸出文庫とは別に、人々が高い金を出して本を買う代わりに、安く利用できた非商業ベースの公共図書館も19世紀の初めに、国民啓蒙運動の一環として作られた。たとえばザクセン王国財務官のプロイスカーや、医者のプレープシュタインの尽力が特筆される。プレープシュタインは1837年に、福祉的性格の「図書協会」を設立したのだ。また産業家のハルコルトのようなパトロンが金を出して作られた企業図書館や教区図書館もあったが、これらは貧しい人々へ有用な知識を伝えることを狙ったものであった。しかしこの種の慈善的性格を持った公共図書館は、当時のドイツでは一般にまだわずかな関心しかひかなかった。そして圧倒的な関心は、これまで述べてきた貸出文庫の方に向けられていたのであった。

またこの種の書籍貸し出しシステムは、18・19世紀のドイツで実によく発達していた。レーゼツィルケル、レーゼ・ビブリオテーク、レーゼ・ゲゼルシャフト、レーゼ・カビネットなど、地域により時期により、様々な名称の組織が存在していた。前述したフィリップ・レクラムは、1829年父親から財産として、ライプツィヒの「リテラーリシェス・ムゼウム」というものを手に入れた。これは直訳すれば「文学博物館」となるが、実は一種の貸出文庫であって、そこにはドイツ語、フランス語、英語、イタリア語による各種文学作品の新刊本が備え付けてあった。同時にこの施設には、「ジュルナリスティクーム」と称する部屋もあって、78種類の新聞・雑誌が置いてあった。

この建物がムゼウム(博物館)と呼ばれたのは、立派な建物の中に書籍や雑誌のほかに、美術品や鉱物標本、物理化学の実験道具などが陳列展示されていたことからくるものである。レクラムが取得したこの施設は、「<読書革命>と文学市場の成立」のところで述べた「高級な読書サロン」の一種だと考えられる。これらは啓蒙主義とフランス革命の思想的産物といえるもので、その雰囲気について作家のトーマス・マンは、レクラム出版社創立百周年記念講演の中で次のように述べている。

「そのいわゆる博物館は、危険でしかも生き生きとしたところで、講演と討論と批評の場所であった。偽りと信心ぶった秩序が支配していた古き良きライプツィヒにあって、反抗的な人々がすべてそこに集まり交流した。そこでは作家や市民がわずかな会費を払って、ドイツや諸外国の新聞を読み、大規模な貸出文庫を利用し、いろいろと思索をめぐらしながら、意地の悪い喜びにふけることもできたのであった」

これを読むとこの種の「読書サロン」は、ウィーン会議後の王政復古期のドイツで、さまざまな進歩的、自由主義的思想を抱いていた人々の交流の場所であったことが分かる。それはともかく18・19世紀のドイツでは、貸本屋が書籍雑誌を賃貸で定期的に配達回収する「読書クラブ」とか「書籍回読会」とか、あるいは新聞・雑誌・書籍の共同購読のための組織である「読書組合」とか「回読クラブ」など、広い意味での「商業的貸出文庫」が花盛りだったのである。しかもこれは都市住民を対象とした都市型の書籍配給システムだったのだ。

第三章 行商人販売による廉価大衆小説

十八世紀末までの書籍行商人

ここでは19世紀の後半に入ってドイツで大変な隆盛を見せた、行商人の販売する廉価大衆小説について考えてみることにしよう。ただその前に18世紀末までの書籍行商人の実態について見ておかねばならない。書籍の行商人については、これまでも述べてきたように、実は15世紀から存在していたものである。書籍商がひとりとして店を出すことができなかった小都市や集落、農村地帯に彼らは現れ、しばしば小間物や宗教画とともに、書物も売り歩いていたのである。書物といっても、相手がほとんど教養のない人々であったから、暦や年鑑、つづり字練習帳などの小冊子であった。それが16世紀前半の宗教改革時代になると、ルターの教説をはじめとするプロテスタントの新思想を印刷した小冊子を、国の隅々に至るまで配布する重要な役割を演じることになった。この書籍行商人は、フランスでも同じように活動していた。16世紀のフランスの行商人は、本を木箱に入れてひもで縛って、背中に背負って運んでいた。

ドイツではとりわけ南部地域で、同様に桶を背負って移動する人々や、それらの桶をロバ、犬、馬などの背中に縛り付けて運ばせる人々が現れた。しかしわずかな収入しかもたらさないこの商売は、当初から評判が良くなかった。また世間からは堅気の職業とはみなされず、「盗品のさばき手」、「海賊版の売り手」あるいは「みだらで、悪魔的な低俗本の販売人」などと呼ばれたりしていた。

ところでドイツでは1770年ごろ、本を読むことのできる人は全人口のわずか15%だったと見積もられている。そのためこの頃になっても、行商人が運んでいたのは、まともな書物というよりはむしろ、宗教的な内容の廉価な絵物語や絵草紙をはじめとして、騎士物語、幽霊話、殺人や死刑執行人の物語を扱った絵本などであった。18世紀末から19世紀初頭になっても事情はそれほど変わらなかったが、いま挙げた絵本のほかに、年鑑、暦、祈りと説教の書、童話、料理の本、夢占いの本などが、行商人によって売りさばかれていたのである。18世紀にはこうしたものの氾濫に対して、啓蒙主義者が眉をひそめていた。印刷物が国の隅々にまで普及していく書籍行商人のシステムそのものには反対しなかった啓蒙主義者も、運ばれた印刷物の内容について異議を唱えたのであった。そうした本能を刺激する娯楽本は、社会の風俗を乱すものであると非難したわけである。

十九世紀における廉価大衆小説の普及

さて19世紀に入ると書籍行商人は、教会や教育関係者あるいは国家当局の監督を受けるようになった。国の検閲官は書籍行商人を疑惑の目で見て、嫌がらせを行ったりしたが、彼らは神出鬼没で得体が知れず、商品を検閲するのも容易ではなかった。それでも怪奇幻想小説や荒唐無稽な冒険小説などは、風俗を乱す反国家的なものとして、厳しく取り締まりを受けた。そして南ドイツの小さな領邦国家では、この商売全体が禁止された。

そのいっぽうで、1800年ごろ以降、国民啓蒙主義的努力つまり義務教育の普及の結果として、読書する大衆が誕生したことは、すでに述べたとおりである。これらの大衆は、教育的なものだけではなくて、娯楽的な内容の書物も欲したのである。そうした要望に応じて、出版社側も大衆的な娯楽小説をどんどん出版するようになった。ところが当時なお地方の小都市や村には、書店がなかった。そこで書籍行商人は、当局の目をかいくぐって、印刷所、出版社、そして読者の間を取り持つ仲介人の役割を果たすようになったのである。読書する人の数が増しただけ、その役割は以前より増えたといえる。と同時に読み物の運搬人は、つねに情報を運搬する機能を持っていた。まだ新聞や雑誌が今日ほど発達していなかったこの時代には、彼らは遠く見知らぬ世界の情報を人々に知らせる使者の役割も担っていたのであった。

読書する労働者の出現

さて時代が下がって1850,60年代になると、読者層はさらに広がって、都市の労働者層も大衆小説の読者の列に加わることになった。同じプロテタリア的社会階層に属する人々の中でも、例えば金持ちの家で働いていた奉公人とか、仕事の少ない冬の時期に都市近郊の農場で働いていた人々は、18世紀末ごろから大衆小説の読者となっていた。しかし大部分の労働者にとって状況が根本的に変わったのは、19世紀の後半の始まりごろなのであった。その原因としては次の三つが考えられる。

① 第一の原因は、産業化の進行と近代官僚制国家体制の成立によってもたらされた初等学校教育の普及と、その結果として生じた読書能力の一般的向上

② 第二の原因は、労働集約的方法によって生じた労働時間の短縮とそれに伴う余暇時間の増大

③ 第三の原因は、資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の努力と工夫である

コルポルタージュ・ロマーン

以上述べたもろもろの要因が重なって、19世紀後半のドイツで、行商人が売りさばく廉価大衆小説が大変な隆盛を見せたわけである。それらは一般にフランス語から借りてきた「コルポルタージュ・ロマーン」という言葉で呼ばれていた。このころになると書籍行商人の足は、地方の町や村だけではなくて、大都会の隅々にまで伸びていたのであった。

その際資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の一つの工夫として、分冊販売方式というものがあった。これは長編の大衆小説を一冊の本にまとめないで、薄い小冊子の形に分冊にして、ごく短い間隔でどんどん発行して読者の手元に届けるというものであった。つまり現在の日本で見られる週刊誌の連載小説のようなもので、一回分の分量が少ないのでだれでも手軽に読めるという利点があった。しかも人々は毎回話の続きを待ち遠しく思った。そして値段も安くし、割賦払い方式も取られた。この分冊の小冊子を携えて、行商人は家々を訪ね歩いたり、酒場や人々の集まる場所に現れては、それらを売りさばいていたのである。その際ちょっとした景品やプレミアムを伴った巧みな宣伝によって購買予約を取り、知らず知らずのうちに売り上げを伸ばしていた。その景品も次第にエスカレートして、美術品の複製写真、時計、安手の装飾品、金属食器セットといったものから、さらに抽選に当たった人には別荘、小型ピアノ、偽装馬車などが贈られたりした。行商人はまた麗々しく書き立てた宣伝パンフレットも配って、別の本への興味をかき立てることも忘れなかった。

こうした出版社側の巧みな戦術に乗って、工場労働者、手工業従業員、下級役人、ボーイ、女中など、いわゆるプロレタリア階層の人々が、薄手の小冊子を手にして、読みふけったわけである。これら小冊子の一冊の値段は安かったものの、シリーズとしては100回を超すものもあったし、発行部数も多かったので、コルポルタージュ・ロマーンを発行した出版社は、総体として大変な利益をあげたのであった。格式ある伝統的な出版社がほとんど注意を向けなかった、新しい読者層(労働者)を含めた大衆的な文学市場が、このようにして19世紀後半のドイツで繁栄を謳歌したわけである。

カール・マイとコルポルタージュ・ロマーン

コルポルタージュ・ロマーンの実態をもう少しく詳しく見るために、ここで先に名前を挙げた大衆小説作家カール・マイ(1842-1912)が、その作家活動の初期にこの種の小説をたくさん書いた時の事情を、その一例として紹介することにしよう。ただしカール・マイはこの方法によって名前を売ってからは、これとは手を切り、広く一般国民を対象とした質の高い冒険小説をどんどん書き進め、ことに晩年には難解で神秘的な内容の作品にも取り組んだことを、初めにお断りしておきたい。

さてカール・マイはその初期にコルポルタージュ・ロマーンの出版社であったミュンヒマイアー社と知り合った。同社は1862年にドレスデンに設立されていたが、1882~1887年のあいだに、マイはペンネームで5編の小説をこのミュンヒマイアー社から出版した。その中の4編はそれぞれ100冊を超す分冊から成り立っていた。それら5編を合計すると実に1万250頁にもなる。これは単純に計算して、1編が2000頁ほどの長編である(一回の分冊は20頁)。なかでも巨大な作品『野ばら』は、世紀末までに合計して50万部が売れた。一般にドイツで1860~1903年の間に、年間500編のコルポルタージュ・ロマーンが出回ったといわれているが、それらの多くは匿名かペンネームで書かれていた。たいていは一冊16~24頁で、それを50回から150回に分けて販売した(値段は一冊20ペニッヒ)。

出版社はその出版を厳密に需要に応じて行い、小説の中身を短縮したり、エピソードを適当に削ったりしたため、内容を著しく損なう場合もあった。そしてそれが作家に相談なく勝手に出版社側の手で行われることもあったという。何しろ作家は出版社側からせかされて、ベルトコンベヤー風に次から次へと書き進めたので、ゆっくり推敲する暇もなかったという。そのことはカール・マイが晩年に書いた自叙伝で明らかにされている。

カール・マイ(書斎風景)

ところで私はこのカール・マイに特別の関係を持っている。その伝記『知られざるドイツの作家カール・マイ』(朝文社、2011年10月17日第一刷発行)も書いているし、彼の主要作品を翻訳したシリーズ作品『カール・マイ冒険物語。オスマン帝国を行く』全一二巻(朝文社)も刊行している。これは第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』(2013年12月初刷り発行)から第12巻『アドリア海へ』(2017年4月初刷り発行)までである。これらはこのブログの私の自己紹介欄に載せてあるので、お読みいただければ幸いである。

私は1970年代前半に西ドイツの放送局に勤めていたが、その時初めてカール・マイの存在を知った。なにしろ当時の西ドイツの新聞雑誌やテレビ、ラジオで、やたらとこの作家のことが取り上げられていたからだ。それらを通じて日本では知られていないこの作家のことに興味を抱くようになり、勤め先のケルン市の書店へ行って、その全集74巻を買い込んだのだ。そして主な作品を夢中になって読んでいった。その結果、これを日本語に翻訳して刊行したいと思うようになった。そのため南ドイツのバンベルクにあったカール・マイ出版社まで出かけて行って、社長のシュミット氏に会って、その旨伝えた。その後帰国してから、さっそく翻訳をはじめ、刊行してくれそうな出版社を捜した。幸い東京のエンデルレ書店が引き受けてくれて『カール・マイ冒険物語1~砂漠への挑戦~』(エンデルレ書店、1997年10月)から『カール・マイ冒険物語4~秘境クルディスタン~』(エンデルレ書店、1981年6月)まで全4巻が刊行された。そしてかなりの歳月を置いて、前述の朝文社から全12巻のシリーズを刊行することができた次第である。

十九世紀末の「俗悪文学」取り締まり

このように大衆向けのコルポルタージュ・ロマーンは、内容的には問題をはらみながらも、経営的には大成功を収めていったわけである。しかし19世紀も末になると、これに対する反動の動きが現れた。皇帝ヴィルヘルム二世が直接統治を始めた1890年代に始まり、第一次大戦の勃発(1914年)ごろまで続く「俗悪文学の取り締まり」が、それであった。同皇帝は就任早々、『売春婦のひも』に関する訴訟事件と関連して、風俗を乱す不道徳な書物の普及販売に対して刑罰の強化を要求した。しかしこの頃になるとこの「俗悪文学」とさげすまれた出版産業に、出版社、行商人、作家、印刷所、製紙工場など多くの人々の生活がかかわるようになっていた。そのため取り締まりといっても、そう簡単にできるものではなかった。

とはいえ俗悪文学に関する議論は世紀転換期を越えて、さらに続けられた。1905年にハンブルクの教師ヴォルガストは『われらの青少年文学のみじめな状況』という一文を発表したし、1909年図書館司書のシュルツェは『俗悪文学、その本質、その影響、それとの闘い』というものを公表した。その他文筆家やジャーナリストで、この俗悪文学攻撃に加わった人も少なくなかった。しかし反俗悪文学キャンペーンの経済的側面に目を向けてみると、それはまじめな古い出版社と新興の通俗文学出版社との間の偽装された闘争、つまり販売市場を巡る両者の間の争いといった意味合いがあったことにも注目しておく必要があろう。

実は「俗悪」という言葉は極めてあいまいな概念なのであった。いわゆる「俗悪文学」の反対者たちは、この概念を帝政時代の排外的で軍国主義的な書物には、けっしてあてはめないのであった。そしてこれら「俗悪文学と闘う闘志たち」の多くは、1914年に第一次大戦が勃発したとき、積極的な戦争支持者となったのである。

体制側から「俗悪」との烙印を押されたコルポルタージュ・ロマーンは、社会の広範な底辺を形成する人々、つまり庶民に向けて書かれた娯楽小説ではあったが、同時にそれは現状に飽き足らず、何かを求める体制批判的な性格をもひめていたのであった。こうした意味合いから読めば、次に引用する哲学者エルンスト・ブロッホの言葉もよく理解できるであろう。「コルポルタージュは常に夢見ているが、それは結局革命とその背後にある栄光を夢見ているのだ。コルポルタージュ・ロマーンは、キッチュ・リテラトゥーア(まがいもの文学)とは反対に、つねに反抗的な昼の夢の性格をそなえており、数多くの願望充足のファンタジーをもたらしている。それゆえに官憲は、無意識のうちに、その報復措置をそれらの先導的な内容にも向けたのであろう」(「この時代の遺産」、1962年。177頁)

第四章 教養娯楽雑誌

1850年以前

19世紀に入って広くドイツの一般庶民の間に普及したものに、広い意味での雑誌があった。18世紀の啓蒙主義の時代に<道徳週刊誌>なるものが普及したことはすでに述べたが、一般にドイツの雑誌文化が飛躍的な発展を示したのは、1848/49年の革命以後のことであった。それ以前の王政復古期には、言論出版活動に対して取り締まりが厳しかったため、出版物の内容も政治的なものから離れて、娯楽及び科学的な啓蒙を目指したものへと傾いていた。

例えば1833年にライプツィヒで、週刊の「ペニヒ雑誌」が創刊されたが、これは自然科学、技術などポピュラーサイエンス的記事と娯楽的記事そして宗教的な素材を織り交ぜた内容のものであった。厚さはわずか8頁で、言葉と絵を巧みに織り込んで誰でも理解できるようになっていた。そのためか創刊時ですでに発行部数は3万5千部だったが、やがて10万部にまで増加し、そのうち予約購読者は6万人を数えた。

そのいっぽうで政治的な内容の雑誌の方は、体制側からいろいろと抑圧を受けた。王政復古期の1846年に、エルンスト・カイルという出版者が月刊誌『灯台』を創刊した。しかしその政治的な内容のために、この雑誌はたえず検閲や警察の捜査を受けた。そのため彼は出版社の場所を、ハレ、マグデブルク、デッサウ、ブレーメン、ブラウンシュヴァイク、ライプツィヒといった具合に転々と移さざるを得なかったと言う。やがて1848年3月に革命がおこり、報道の自由がもたらされるに及び、一時的に政党的、宣伝的刊行物が隆盛を迎えたが、まもなく革命が失敗すると、「報道の自由」は短い間奏曲に過ぎないものとなった。

1850年以後の教養娯楽雑誌の隆盛

1850年以降になると、鉄道などの交通手段が発達して出版物の輸送が楽になった。そして法的な規制が以前に比べて弛む中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになった。それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。なかでももっとも有名であったのが『あずまや』であった。この雑誌は先のエルンスト・カイルが1853年に創刊し、以後1943年まで続いた。いっぽう同じカイルが発行していた政治的な雑誌『灯台』は、革命後の反動的風潮の中で、1851年に発行停止処分を受けた。しかし彼は検閲に反対し、報道の自由や立憲体制を求める闘いを決してあきらめなかった。そしてF・シュトレから『村の床屋』という絵入り雑誌を引き継いで、発行を続けた。この雑誌はその題名とは裏腹に政治的な主張が盛り込まれていたのだ。それはともかくこの雑誌は2万部の発行部数を得て、まずまずだった。そのいっぽう先の『灯台』の件で訴訟が行われ、カイルは9か月の拘留を受けることになった。

拘留期間が終わって出てきたとき、カイルはそれまでの急進的な考え方を改めて、まずは均質で道徳的な社会の建設を目指すようになった。こうしてカイルは『村の床屋』をやめて、『あずまや』の発行へと方向転換したわけである。この雑誌の題名は、革命の嵐の後、うるさい争いごとは避けて、静かに自分の家にある『あずまや』に引きこもって過ごしたいという市民の願望に沿うものであった。ともかくこの雑誌はよく読まれ、1870年代にはその発行部数は一時、週刊40万部にも達した。その読者層は広く分布していたが、企業経営者や商人が全体の20%を占めていた。

家庭向け雑誌『あずまや』の表紙

科学と小説

これら家庭向けの教養娯楽雑誌は毎週発行され、原則として男女の別なくあらゆる階層の人々に向けられていた。そしてそこにはあらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに現れたポピュラーサイエンスの記事は、誰にでも理解できるものであった。こうして19世紀のこの種の雑誌は、自然科学的、技術的解説に対する一般読者の願望を満たす教科書の役割をも果たそうとしていたのである。

いっぽうそこに掲載された連載小説は、宣伝価値のある有名な作家たちに、出版社が特に依頼して書いてもらったものであった。その際これらの作家にとって、この種の家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。しかも作家はそこから経済的恩恵も得ていたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、P・ラーベそしてK・マイなど当時の人気作家たちも、まずはこうした方法でその作品を発表していたのだ。

多種多様な雑誌

これら家庭向け雑誌の大きな部分を占めていたのが、キリスト教系の雑誌であった。例えば1858年創刊の『海山を越えて』とか、1864年創刊の『わが家』などがその代表といえる。いっぽうフランスのレビューのスタイルで1856年から『ヴェスターマンス・モナーツヘフト』が発刊されるようになったが、これには哲学者のディルタイも協力していた。広範な文化雑誌として百科全書的な目標を追求したこの月刊誌は、そのやや高踏的な性格のために、発行部数は1万2千部にとどまった。とはいえ忠実な固定読者をつかんでいたためか、ごく最近の1985年までこの雑誌は発行が続けられていたのである。ちなみに私も1970年代半ばの西ドイツ滞在中、この雑誌の存在を知り、その終わりまで定期購読していたのだ。その内容に満足していただけに、その廃刊は残念なことであった。

いっぽう諷刺的な内容を特徴としていた『フリーゲンデ・ブレッター』(1845-1944)は毎週発行されていた。この週刊誌はその素晴らしい木口(こぐち)木版画で知られていたが、しばしばそれは文章を凌駕したりしていた。この雑誌への寄稿者としては、みずから絵をかき文章を書いたヴィルヘルム・ブッシュや冒険小説家のF・ゲルステッカーなどがいた。また1848年にベルリンで創刊された『クラデラダッチュ』は、諷刺的でリベラルな内容に重点が置かれていた。後の『ジンプリシムス』(1896-1944)と同様に、これは皇帝ヴィルヘルム二世が支配していた1890年代から第一次大戦時(1914-18)までの体制に対する数多くのカリカチュアや、偽装した社会批判によって成り立っていた。これらの雑誌は先のコルポルタージュ・ロマーンと同じように、はじめは行商人によって配られていたが、のちには郵便によって配達されるようになった。

また市民階層の子弟に向けられた数多くの青少年向け雑誌も存在した。そうした中に1886年創刊の青少年向け絵入り雑誌『よき仲間』があった。この雑誌に、前述した大衆作家のカール・マイは、全部で8編の青少年向け作品を発表している。これらは、先のコルポルタージュ・ロマーンとは違って、じっくり時間をかけ力を入れて書かれた作品であった。いっぽう宗教的色彩のある雑誌には、このころにはもう読者もあまり見向きをしなくなっていたが、週刊のカトリック系雑誌『ドイツ人の家宝』だけは例外だった。この雑誌にもマイは数多くの作品を寄稿している。

ところでドイツでは昔から暦の形をとって、そこにいろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物が、とりわけ地方の村や町に出回っていた。その一つに人々の広範なマリア信仰をその基本に置いていた「マリア・カレンダー」というものがあった。これが19世紀後半になってもなお勢いを保っていたのだ。18世紀の啓蒙主義者たちは、これら伝統的な国民カレンダーの内容を徐々に改善していくことに成功した。その結果暦のほかにいろいろと付録が付くようになっていった。それらは読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話、そして冒険物語などであった。マリア・カレンダーは19世紀後半には数種類発行されていた。なかでも南ドイツのレーゲンスブルクのカトリック系出版社プステット社から1866年に創刊された『レーゲンスブルガー・マリーエンカレンダー』は、急速に発行を伸ばして40万部にも達している。

しかし全体の流れから見ると、19世紀後半に隆盛を極めた家庭向けの教養娯楽雑誌も、1900年ごろになると勢いがかなり衰え、代わって絵入り雑誌や新聞の文芸欄などが人気を呼ぶようになった。とはいえ雑誌そのものの発行は20世紀に入ってからも相変わらず盛んで、1880-1918年の間に,新刊の雑誌が洪水のように市場に流れ出ていたのである。

ドイツ近代出版史(3)~1825-1887/88~

第一章 著作権制度の確立と<書籍商組合>の活動

周辺諸国の動き

著作権・版権に関して決定的な動きは、ドイツにおいては、19世紀に入ってから起こった。たしかに北ドイツ及び中部ドイツの大部分では、18世紀の末ごろにはもう翻刻出版は禁止されていた(プロイセン王国では1794年に、ザクセン王国では1773年に、こうした法律が制定された)。しかしドイツ全体ではそうした法律は制定されていなかった。いっぽう周辺諸国の動きを見ると、まずイギリスではアン女王時代の1709年に、著作者及び出版社に対する保護期間の制度が導入されていた。アメリカでは1781年のコネティカット事件の後、著作連邦法が成立した。ここではイギリスの判例に従って、保護期間が28年と定められた。フランスでは1777年に「永世版権」の制度が定められた。次いで1793年には著作者の複写権は死ぬまで、その相続人に対しては著作者の死後10年までと定められた。そしてオランダでも同様の動きがみられたため、ドイツの著作者たちも、こうした制度の導入を待ち望んでいた。これらの声を代表するものともなっていたのが、フリードリヒ・ペルテスが1816年に公表した『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書であった。これはドイツ出版業界の実践的な基本文書ともいうべきもので、社会における出版業界の義務について述べたものであるが、この中でペルテスは出版社の版権が保護されるべきことを訴えているわけである。

ペルテスの著作『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』

翻刻出版の禁止

ドイツにおいてこの面でも先行していたのは、北ドイツのプロイセン王国であった。1794年には、書籍出版に当たっての諸権利の保護を決めた法律が定められたが、これにはベルリンの大書籍商フリードリヒ・ニコライの働きかけが大きかった。この法律の中で、翻刻出版の厳禁がうたわれ、これに従わない場合には、原出版社の申し出のうえで、翻刻本は没収または販売不能もしくは原出版社への引き渡しが定められていた。
またこの法律には著作者と出版社との関係についても、出版契約をはじめ詳細に規定されており、著作者の意見をきくことなしに翻刻出版をしてはならないことも規定されていた。ただこの権利は相続者には及ばないものとされ、どの出版社にも翻刻出版に対する版権が存在しないときは、誰でも翻刻出版できるものとした。ただしこの場合、新しい出版社は著作者の一親等の家族と、翻刻出版についての取り決めを結ぶべきことが定められていた。ただ著作者と出版社の出版契約の有効期限については、ここには何も記されていない。

ところで1815年のウィーン会議の結果生まれた「ドイツ連邦」には、オーストリア、プロイセンをはじめ大中小39の領邦国家が加盟し、全ドイツを代表する組織になっていた。そしてその代表議決機関として「ドイツ連邦議会」が設立されたが、事実上これは大国オーストリアによって牛耳られていた。しかもオーストリアは南ドイツの諸地域と同様に、翻刻出版を公然と支援していたわけである。そのため1815年連邦規約第十八条d」によって、「出版報道の自由並びに翻刻出版禁止」に関する措置が取られる見通しがいったんは出てきたものの、連邦議会はその後この措置を引き延ばしてしまった。そこでプロイセン王国は、連邦議会の枠外で事を進めることに方針を変更した。こうしてプロイセンは1827年から29年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に、個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦全領域における翻刻出版の禁止措置に、しぶしぶ踏み切ったのである。

著作権の保護

このようにして翻刻出版の禁止措置はドイツ全土に広まったのであるが、次の段階として出版社の持つ版権保護ではなくて、書物の著作者が持つ著作権の保護の問題が浮かび上がってきた。この点についてドイツ書籍商組合は、1834年に、『ドイツ連邦加盟諸国における著作者の法的地位の確立に関する提言』と題する覚書を公表し、その中で著作権保護期間を著作者の死後30年間と定めた。しかし連邦議会はこれを無視する態度に出たため、再びプロイセン王国は独自の歩みを見せ、1837年に法律を制定した。これは『学問芸術上の著作物の所有権保護のために、翻刻出版並びに複製を禁止する法律』というもので、ここで初めて著作者の権利保護が明白に規定されたのである。またその際著作権保護期間が30年と定められたのであった。そしてドイツ連邦加盟のいくつかの国もこの法律を受け入れた。

いっぽう連邦議会はこうしたプロイセンのイニシアティブに刺激を受けながら、しぶしぶ1837年11月9日に著作権保護を取り決めたが、そこではプロイセンのものよりも弱い内容となっていた。それは保護期間を10年と定め、法律実施の日からさかのぼって20年間に発行された作品に対して有効としたのである。

次いでヘルダー、シラー、ヴィーラント、ジャン・パウル、ゲーテなど1838年以前に死亡していた作家の相続人及び出版社に対して、その「国民的な業績」ゆえに、20年間の連邦特権というものを認めた。しかしゲーテはすでに1825年に、自分の全作品に対する特権を認めるよう連邦議会に申請していた。この申請に対して、ゲーテは、この件に関しては個々の領邦国家が担当しているとの返事を受け取ったという。

それはさておき、ドイツ書籍商組合は著作権保護のさらなる推進を目指して、1841年に新たな覚書を提出したが、これを受けてザクセン王国では、30年の保護期間が導入された。そして1845年6月19日になってようやく連邦議会は、著作者の死後30年という保護期間をドイツ連邦の全領域に広げることを決定したのであった。

ここでは1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとされた。この日付は後に、ドイツの古典作家の作品の著作権保護期間に関連して注目されることになる。つまりこの日以後、これら古典作家の作品は著作権を気にすることなく、自由に大量出版できることになるのだ。その意味で極めて重要な日付になるのであるが、これについては後に詳しく述べることにする。

著作権保護の国際的動向

ここで著作権制度に関する国際的動向について一言ふれておこう。まずいくつかの国の間で二国間協定が結ばれた。例えばスイスと北ドイツ連邦の間では1869年にこの協定が結ばれている。そしてその後1886年になって、「文芸作品及び芸術作品の保護に関するベルヌの取り決め」、いわゆるベルヌ条約が発効した。この条約に加わったのは、ベルギー、フランス、イギリス、ハイチ、リベリア、スイス、スペイン、チュニスそしてドイツの各国であった。これを見るとベルヌ条約の原参加国の数が少ないことが分かるが、それには各国の出版業界のそれぞれの利害や思惑がからんでいたようである。そのためか北欧のノルウエーは1896年、デンマークは1903年、スエーデンは1904年にそれぞれ加盟している。そしてこの条約の中身は、1908年にベルリンで、1928年にローマで、1948年にブリュッセルで、そして1967年にストックホルムでそれぞれ修正されている。

王政復古期の検閲

それではここで1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」の活動に、眼を向けることにしよう。この組織が最初に取り組んだ問題は、以上述べてきた版権・著作権制度の確立と並んで、国家による検閲を廃止させることであった。ウイーン会議後のドイツは、オーストリア宰相メッテルニヒの指導の下で、いわゆる王政復古期にあった。ドイツ連邦傘下の各領邦国家では、自由が抑圧され、書籍や印刷物に対する検閲が行われていた。
1819年、ドイツ連邦はカールスバートの決議によって、詳細な検閲規定を定めた。その骨子を説明すると、検閲には、事前検閲と事後検閲の二種類あった。事前検閲は320頁以下の印刷物に適用され、これはドイツ連邦加盟各国当局の管轄とされた。いっぽう事後検閲は321頁以上の大部な書物に適用され、これはドイツ連邦の事務当局が直接担当した。つまり加盟諸国当局の出版許可がおりて出版された本であっても、この事後検閲によって発禁処分にすることができたのである。

ただ事前検閲については、加盟各国によってその検閲の厳しさにかなりの相違がみられた。最も厳しいオーストリアから、かなり寛容なザクセン・アルテンブルクまで、その間に厳しさに様々な差異がみられた。その際とりわけ厳しい検閲の対象にされたのが、当時進歩的で過激とされていた「若きドイツ派」に属する作家の作品であった。この派の作家としては、ハイネ、グッツコウ、ラウベ、ヴィーンバルク、ムントなどの名前があげられていた。これらの作家の作品を出版した出版社、印刷業者、販売者に対しては、刑法および警察法を適用して、作品の普及を抑えようとしたのである。

「若きドイツ派」の作品を出版していたのは、ハンブルクの出版者ユリウス・カンペ(1792-1867)であった。彼はこうした検閲と終始闘い続けた代表的な出版人であるが、検閲の目を潜り抜けるために、印刷、引き渡しその他経営一般に複雑なシステムを取り入れていた。たとえば検閲の厳しくない国の印刷所にわざわざ頼んだり、事後検閲を避けるために本の厚さを320頁以下に抑えたりといった具合である。
ただ自分の作品が短縮されるのを嫌ったハインリヒ・ハイネなどは、この点で出版社側と争ったりした。そして両者は互いに新聞紙上に公開書簡を発表しあったりした。しかしこれも深刻な争いというのではなく、むしろ宣伝効果に対する暗黙の了解が、両者の間にはあったようである。この公開書簡の発表によって、検閲の実施という事実を一般に知らせることができたし、売り上げの方も促進されたのである。ハイネは自分の作品『ドイツ、冬物語』の序文(1844年9月17日付け)の中で、次のように書いている。「自分の出版社は出版を可能にするために、詩の内容を検閲する役人に対して細心の注意をもって接しなければならなかった。それでも数度にわたって、修正・変更や削除を余儀なくされたのである。」

検閲の廃止

こうした検閲を廃止させるために、書籍商組合の代表は1842年にザクセン政府当局に赴いて、ドイツ連邦が検閲の規定を大幅に緩めるよう請願した。その最終目標は、検閲の全くない完全な言論報道の自由の実現であった。そうした書籍商組合の度重なる努力は、ようやく1848年の三月革命のときになってその目標を達成することになった。ハレ新聞は1848年3月20日付の紙上で、その喜びを次のような書き出しの記事で読者に伝えた。「出版報道は自由になった。今日初めてわが新聞は検閲なしに発行されることになった。」

しかし政府当局は検閲廃止の代わりに、個々の出版物の内容に対して、印刷業者、出版社、および書籍販売人が責任を負うことを定めた。そしてその具体的措置として、出版報道業務の開始に当たって、検査、許可及び保証金の制度が導入された。とりわけ言論出版関係業種の営業活動に加えられたこうした制限措置は、その後1869年になって北ドイツ連邦加盟国領域で撤廃され、いわゆる営業の自由が導入された。そしてこの営業の自由は1872年になって、その前年に誕生したドイツ帝国の全土に拡大されたのであった。

業界専門誌の発行

ところでドイツ書籍商組合は、その設立以前から書籍取引業界の専門誌を発行する必要性を感じていたようだ。そして設立後もその発行について議論が重ねられてきたが、なかなか実現に至らなかった。そうこうしているうちに全国組織であるドイツ書籍商取引所組合とは別の「ライプツィヒ書籍商組合」が、1833年に『ドイツ書籍取引所会報』の発行を決め、翌1834年1月3日にその創刊号が世に出た。この創刊号の序文の中で、ドイツ出版業界の大立者フリードリヒ・ペルテスは、ドイツの書籍取引業界が直面している情勢についてふれ、書籍市場が本の洪水であふれていることを嘆いている。

『書籍取引所会報』創刊号の表紙

それはともかく、この会報は翌年の1835年には、ドイツ書籍商取引所組合の所有するところとなった。そして初代編集長O・A・シュルツは1839年に、『ドイツ書籍商人名録』を発行した。しかしこの会報の編集担当者は当初頻繁に入れ替わっていた。これはこの雑誌に対する外部からの規制が強く、その圧力を受けて組合内部で争いが絶えなかったことによるものとみられている。
それでも『ドイツ書籍取引所会報』は続けて発行され、やがて出版業経営上非常に有益な「新刊書目録」が掲載されることになった。この仕事はヒンリックス書店が担当した。これは当初は週に一回、1842年からは週に二回、そして1867年からは毎日掲載されるようになった。ちなみにこの年からは会報そのものも毎日発行されることになった。

書籍商組合会館の建設

この会報の発行と並んで、ドイツ書籍商組合にとって独自の会館を建設する必要性が生じてきた。会報の発行が遅れていたのも、一つには会館の設計と建設に、関係者の関心と精力が、まず注がれていたことによるといえるぐらいなのだ。
それはともかく組織ができて11年後の1836年には、ライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」の会館が落成した。これは写真に見るようにとても堂々たる立派な建物であった。

書籍商組合会館(1836年落成)

いっぽう出版人の養成所を作る必要性についても、ペルテスは1833年に提言していたが、この構想については書籍取引所会報でも1840年に取り上げられ、真剣に論じられた。そして十余年後の1852年になって、フリードリヒ・フライシャーが音頭を取って、「ライプツィヒ書籍商組合」によって実現されることになった。つまりドイツの出版の中心地に、出版人の後継者を養成するための教育施設が誕生したのであった。

書籍出版史の発行

19世紀も後半に入ると「書籍商組合」は、ドイツの書籍取引に関する歴史研究と歴史叙述に力を入れて取り組むようになった。そして1876年、出版主エドゥアルト・ブロックハウスの音頭取りで、出版史編纂のための歴史委員会が結成された。そしてその二年後の1878年から『ドイツ出版販売史記録集』が発行され始め、これは1898年までに20巻に達した。ついでに言えば第二次大戦後、フランクフルトの「書籍商組合」によって、『書籍史記録集』という題名のもとに、この仕事は受け継がれている。

いっぽうドイツの出版史の叙述の方に目を向けると、フリードリヒ・カップとヨハン・ゴルトフリードリヒという二人の学者によって、『ドイツ書籍出版史』という四巻にのぼる大著が書かれた。これは印刷術の発明から1889年までを扱ったもので、その第一巻は1886年に、ドイツ書籍商組合出版局から発行された。内容的にも非常に詳しく、今日に至るまでドイツ書籍出版史の古典といわれ、多くの研究者から今なお利用されているものである。第四巻が発行されたのは1913年であったが、その後の時代についての叙述が目下準備されている。

F・カップとJ・ゴルトフリードリヒの肖像

いずれにしてもドイツ書籍商組合は、ドイツの書籍商の単なる業界的な利益集団という枠をはるかに超えて、ドイツの出版文化を総合的に育成していく機関へと成長したのである。

第二章 出版界の多様な展開

高速印刷機の発明

印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明以来、細かな改良は加えられてきたとはいえ、基本的には以後350年間、ほぼ変わりがなかったといえる。ところが18世紀後半に始まった産業革命の影響のもとに、印刷の世界にも画期的な技術革新が訪れた。1811年、ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒが蒸気式高速印刷機を発明したが、これによって出版の世界は決定的な進歩をとげることになった。つまりこの新発明によって従来の手動印刷の10倍の印刷能力が生まれたわけで、ここに印刷物の大量生産が飛躍的に促進されたのである。

ロンドンの「ザ・タイムズ」社の社長は、このドイツ人の発明を「印刷術の発明以来書籍印刷の世界で見られた最大の改良」と呼んだ。そして新聞「ザ・タイムズ」は、1814年11月29日に、この高速印刷機を用いて初めて印刷されたのであった。ドイツ人のケーニヒが行った発明が外国で最初に認められたという事は、時代の兆候を示すものと言えよう。その後この新発明はドイツでも採用されたが、これを最初に用いたのは、大出版経営者ヨハン・フリードリヒ・コッタ(1764ー1832)であった。彼はこの高速印刷機を使って、自分が発行していた新聞『アルゲマイネ・ツァイトゥング』を印刷したわけである。

15世紀から19世紀までの印刷所の変遷

初期資本家コッタ

このコッタこそは、ドイツの出版界の新時代を代表する人物だったのだ。彼は、1659年創立の古い出版社を、1787年、23歳の時父から受け継いだが、当時朽ちかけていた同出版社を、その数年後にはヨーロッパでも有数のものに再建し直したのであった。コッタ出版社は、はじめ南西ドイツの小さな大学町テュービンゲンにあったが、1811年にはその近くの中都会シュトゥットガルトに移った。そして優れた経営手腕を示したために、彼の出版社には当時有力な著作家たちが大勢集まってきた。それはゲーテをはじめとする古典主義の作家たちであったが、そのため出版社主コッタの名前は、やがてドイツの文芸思潮の一つであるドイツ古典主義と深く結びつくことになったのである。

J・F・コッタの肖像

この伝でいくと、出版者G・A・ライマー(1776-1842)とロマン主義、時代は下るが出版者S・フィシャーと自然主義及びリアリズム、そして出版者K・ヴォルフと表現主義の文学を、それぞれ結びつけることができよう。
それはさておき、コッタは大出版経営者として、文学作品の出版だけではなく、先に挙げた新聞の発行のほか、さまざまな出版部門に触手を伸ばした。
そのためドイツ出版界全体の健全な発展に心を砕いていた前述のペルテスは、コッタが何にでも手を出すことに危惧の念を明らかにしたぐらいである。ペルテスは1816年、ドイツの出版界の現状を知り、あわせてお互いの協力態勢を作り上げる可能性を探るためにドイツ全土を視察旅行したが、その時コッタについて次のように書いているのだ。
「その個人的重要性、その粘り強さ、その富、そしてその政治的影響力のゆえに、西南ドイツの出版界はただ一人の人物の手に握られており、そのため文学的判断の公正さ、交流の活力、そして販売の効果などが損なわれる可能性もあるのだ」

ペルテスはこの時、独占態勢へ突き進む初期資本家としての姿をコッタの中に見ていたわけである。彼の出版社からは、数十年間にわたってドイツで最も重要な政治新聞の位置を占めてきた『アルゲマイネ・ツァイトゥング』や、同じく数十年間にわたって指導的立場にあった文芸雑誌『教養層のためのモルゲンブラット』が発行されていた。さらにコッタは別の経営部門にも手を出したり、政治的な活動もしたりした。こうしてコッタ出版社は、19世紀初めから半ば過ぎまで繁栄を謳歌したのであるが、1867年に古典作家の著作権消滅に伴う大量出版現象の出現によって、その独占態勢は崩れたのであった。しかしコッタ社は、その後アドルフ・クレーナーによって買い取られ、以後別の発展を見せることになる。

関税同盟と鉄道建設

19世紀の前半、ドイツの出版界をその流通面において近代化するのに大きく貢献したのが、関税同盟の結成と鉄道網の普及であった。1834年プロイセンは、南ドイツの関税同盟と中部ドイツの通商同盟の影響のもとに、全国的なドイツ関税同盟を結成した。これによってドイツでは中小領邦国家の煩わしい関税障壁が取り払われ、経済的統合への第一歩が記されたのであった。この関税同盟には、南の大国オーストリアは加盟せず、また北ドイツのハンザ諸都市メクレンブルクやハノーファーは、やや遅れて加盟した。それでもドイツ関税同盟は、決済手段の簡素化をはじめ総体として、ドイツの書籍取引の近代化に大変役立ったのである。

いっぽう鉄道建設によってもたらされる利益についても、ドイツの出版界は早くから認識していた。ドイツの鉄道網は、1835年南ドイツのニュルンベルク=ヒュルト間を皮切りに、1837年ドレスデン=ライプツィヒ間、1838年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル間、といった風にどんどん広がっていった。

これに関連してアウグスト・プリンツは、その『ドイツ書籍販売史のための素材』第二部(1855年発行)の中で次のように書いている。「昔は必要な場合には倉庫を持たねばならなかった。というのは注文してから二・三週間後になってようやく手に入るという始末だったから、いつでも取り出せ、また高い運送料の節約のために、あらかじめ沢山の在庫を用意しておく必要があったのだ。ところが今では事情は変わった。大手の書店でも教科書や古典図書は別として、ほとんど倉庫を持っていない。その他の本は残本とするか、出版社がそれを許さない場合には返本したり、春の見本市後に新たに注文しなおしている。鉄道によって通常の貨物は、三,四日のうちにドイツのどんな地域にも運搬されるのだから、時間の節約には計り知れないものがある。」

このように鉄道の普及は書籍流通面の迅速化と経費節減に役だったのであるが、同時に販売領域の拡大によって独占の危険性を減らす効果も持っていたのである。

百科事典の発行

いっぽう18世紀末に起こったいわゆる<読書革命>によって文学市場が成立し、読書層の拡大も行われたわけである。こうした読書をする教養市民層の一般的要請にこたえるようにして、19世紀前半に百科事典の出版が相次いで行われた。最初の本格的な百科事典は、1809年にF・A・ブロックハウス(1772-1823)によって発行された。ブロックハウス百科事典といえば、今日のドイツにおいてもなお発行が続けられている百科事典の古典であるが、もともとは19世紀初頭の啓蒙主義思潮の産物なのであった。次いで1824年にはピーラー、1839年にはマイヤーそして1853年にヘルダーといった具合に、様々な種類の百科事典がドイツで発行されていった。

F・A・ブロックハウスの肖像

ちなみに私は個人的に百科事典が大好きで、昔から平凡社の世界大百科事典などを好んで利用していた。そして1970年代にはその全巻を買って、自宅の本棚に入れて、何かと活用していた。またドイツ語のブロックハウス百科事典とマイヤー百科事典は、1990年代に買い揃えて、研究用に活用してきた。とはいえ2000年代に入ってインターネットが普及し、私も遅ればせながらパソコンを使うようになり、ウキペディアをこれらの紙の百科事典の代わりに利用するようになった。もちろん古いことを知りたいと思った時には、その後も従来の紙の百科事典も利用している。

さてドイツの百科事典の先鞭をつけた出版者F・A・ブロックハウスは、出版者としては異色の経歴を持つ人物であった。彼は初めイギリス相手の織物商人であったが、ナポレオンの大陸封鎖令によってその商売がうまくいかなくなり、1805年に出版業に鞍替えしたのであった。そして商売の場所もアムステルダムからドイツのアルテンブルクを経て、出版業のメッカ、ライプツィヒに移し替えた。ブロックハウスは機を見るに敏な商売人の才能を発揮して、自分の出版社を大きく伸ばしていった。
そして1813年10月、反ナポレオン解放戦争の時、大きな好機が訪れた。この時反ナポレオンのヨーロッパ同盟軍(これにはプロイセン、オーストリアをはじめとするドイツ諸国も参加した)の大本営が一時、アルテンブルクに置かれた。ブロックハウスはこの機をつかんで同盟軍の司令官に拝謁し、「同盟国側からすでに出されたか、もしくはこれから出されるニュースや公式の情報を、印刷物を通じて人々に知らせ、さらに定期刊行物を通じて世に伝える」ことへの許可を獲得したのである。こうしてブロックハウスが<ジャーナル>と名付けた『ドイチェ・ブレッター』の創刊号が発行された。そしてその数日後には、ライプツィヒ近郊で同盟軍がナポレオン軍を撃破するという大事件が起こり、そのことを伝えた号外によって『ドイチェ・ブレッター』は一躍有名となり、発行部数も4000部となった。この成功によってブロックハウス社は、A・W・シュレーゲル、T・ケルナー、F・リュッケルト、M・v・シェンケンドルフといった当時有名だった数多くの作家を獲得することができたのだ。こうしてブロックハウスは出版社の経営基盤を固めていったわけである。

書籍販売業者の増大

ところで19世紀初頭には、ドイツには書籍販売業者の数は、あわせて500軒ほどしかなかった。そのうちの大部分は人口の多い都会(その10%がライプツィヒ)に集まっていた。当時読者が書物を読むためには、書店からの購入のほかに、行商人による訪問販売や読書サロン、貸出文庫の利用など、いろいろな手段方法があったことは、すでに述べたとおりである。書籍販売業というものは、一定以上の人口、人々の知的水準の高さ、そして業務許可を受けやすい条件などがそろっている土地でだけ、やっていけたのだ。さらに1848年の三月革命以前は、地域的な法律によって、書籍販売業に対する営業許可は規制を受けていたのである。そのため19世紀の前半では、書籍販売店の網の目はドイツ全国に、ごくゆっくりしたテンポでしか広がっていかなかった。それでも1816~1830年の間に、新たに300軒が加わり、「書籍商組合」が発表した数字によれば、1834年には859軒を数えている。

1830年ごろの書店の風景

そして19世紀の中ごろには後進的なエルベ川東部の地域を含めて、ドイツ全土には人口二万人につき一軒の割合で、書籍販売業者がいた勘定になる。そしてその後の鉄道の普及、郵便網の拡充、並びに1869年の「営業の自由」の導入以後、書籍販売業者の網の目はかなりの勢いで細かくなっていったのである。

第10表 ドイツにおける書籍販売業者数の変遷

第10表がそうした発展の様子を示  している。1870年代から80年代にかけてのいわゆる「創業者時代」に、書籍業者の数が5年で約千軒づつ増えているのは、とりわけ注目されるところである。こうした書籍業者数の急増に対して、従来から存在していた古手の書籍業者は、当然のことながら苦々しい思いをしていた。1850年ごろまでに既に存在していた書籍販売者や出版社は、たいてい印刷業から発展したものであった。
しかしそれより後の出版経営者の多くは、その経歴を書籍業の見習いから始め、次第に出版社主へと上昇していったのである。そして書籍業者、読者、及び著作者の間に見られた親密な関係によって特徴づけられていたゲーテ時代の出版の世界(19世紀前半)の独特な雰囲気は、1848年以後の書籍生産の増大によって、都市化、機械化、人口増大といった大きな流れの中で、急速に失われていったのであった。

こうした変化は、数多くの中小出版社や古本業者を不安にさせた。従来は出版業というものは、ほんの少人数でもできたもので、1850年ごろまではまだ出版者は自分以外の労働力として数人の手伝いがいれば十分なのであった。しかし1860年代に入ると、書籍業者の多くは新しい状況へと適応するために、その経営を根本から変革しなければならなかったのだ。書物の生産(出版)と配給(販売)は、以後どんどんと分化していく傾向が見られた。
たとえばシュトゥットガルトの老舗の出版販売業者メッツラーの場合は、1858年に、純粋な出版業者となったが、この時印刷部門も切り離された。また古く、特定の地域に限定されていた出版社は、近代的な専門企業へと脱皮が迫られた。というのは1800~1850年の間に、書物の生産は著しく増大し、販売業者や出版社は、とても全体を概観することなどできなくなっていたからである。

ちなみにドイツにおける新刊書の年間出版点数は、1800年に3000点であったものが、1834年には一万4000点に増えていた。このため著名な出版社でも、それぞれ特色ある専門分野をもって出版に当たるようになっていたわけである。例えばユストゥス・ペルテス社はもっぱら歴史や神学に、ヴァイトマン社は古典文献学に、そしてフイーヴェーク社は自然科学に、といった具合に。そして鉄道網の発達に見合ってベーデカー社は旅行案内書の専門店となったのである。ちなみに私も古本の赤い表紙のベーデカーの旅行案内書(ドイツ語で書かれた)を、神田の古本屋で見つけて、いまだに大切に持っている。
前述したコッタ社のようないくつかの大出版社だけが、精神科学ないし文学全般に及ぶ出版を手掛けることができたのである。

書籍流通の合理化

ここで書籍流通面における具体的な改善策や合理化策に、眼を向けてみよう。19世紀の前半、本を買いたい人は書籍販売業者(書店)に注文するのが普通であった。そして書籍販売業者は、在庫があればすぐに渡せるが、ない場合には、該当する本の出版社に注文カードを送り、それを受けた出版社が書籍販売業者に本を送るということになっていた。
ところが大きな出版社は、書店と直接こうした取引をせずに、自分のところの出版物の販売を、傘下の販売委託者に任せたり、あるいは独立の書籍取次業者に委託していたりした。この場合、書籍販売業者は、こうした取次業者に注文カードを送って、そこから本を受け取ることになる。ライプツィヒのような出版のメッカでは、こうした取次業者や販売委託者の数がもともと多かったが、19世紀の後半に入ってその数はますます増大した。

第11表(取次業者と販売委託者の数)

第11表は主な出版地における取次業者と販売委託者の数を示している。取次業者は多くの出版社の出版物を扱っている企業であり、販売委託者は特定の出版社の傘下に入っているものである。この表から分かるように、ライプツィヒには出版物の仲介業者がたくさんいたわけであるが、1842年「ライプツィヒ書籍商組合」の会長F・フライシャーは、「ライプツィヒ注文センター」というものを設立した。これは図書注文カードの簡素化を狙ったものである。つまりこのセンターで注文カードを一括して受け付けて、それをさらに取次業者や販売委託者あるいは出版社に回送するわけである。ここでは単に注文カードの取り扱いだけではなくて、請求書に基づく代金の決済も行っていた。これが第一次世界大戦後の1922年には、「書籍取引精算協同組合」という全国組織にまで発展し、第二次世界大戦後には、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に新たにこれが設立されている。

19世紀後半における書籍販売簡素化の動きの中で、もう一つ注目すべきことは、現金扱い専門の取次業者の発生であった。この種の会社の最初のものは、1852年にライプツィヒに設立されたルイ・ツァンダー社であった。このころなおドイツの出版社の多くは、自社の出版物をたいていは「仮とじ」のままで販売していた。そこでこの新たに生まれた取次業者は、仮とじ本を自分のところで製本してそうした完成本を自己の倉庫に保管していた。

製本についてみると、このころ従来の手による製本から機械による製本へと、移行したことが注目される。こうした機械製本の導入後は出版社も自らの采配で、自分のところの出版物を製本させるようになった。それ以後、現金扱いの取次業者はわざわざ製本する必要がなくなり、引き続き独立した書籍取次業者として仕事を続けていった。

いっぽう書籍業者にとって経費節減に役だったのが、図書注文カードと書籍小包の送付が、印刷物扱いとされ、一般の郵便物より割安の料金になったことである。これは1871年10月28日のドイツ帝国郵便法の規定によるものであった。ドイツ全土に書籍をこうした割安の値段で送れることは、書籍業界の合理化・近代化を大いに促進することになった。

投げ売り防止の試み

ところで書籍業界の恒常的組織設立へのそもそもの動機の一つに、書籍の投げ売りを防止することがあった。しかし1825年に「書籍商組合」が設立された後も、投げ売りの問題はいっこうになくならなかった。たしかに古い交換取引制度から条件取引制度へと転換した際に、定価制度が導入されはしたが、これが全面的に守られたわけではなかったのだ。これまで何度も紹介してきた書籍商ペルテスは1816年に公表した文書の中で、ドイツ全土で一律に定価制度が守られるべきことを訴えていた。

それに続いて「書籍商組合」の設立に先立つ1821年に、二人の出版者ドゥンカーとフンボルトは、出版業者の地域組合を設立することによって、投げ売り防止の監視機関にすることを提案した。この呼びかけに応じて、まずライプツィヒに1832年、この種の地域組織ができた。そしてそれに続いてシュトゥットガルト、テューリンゲン、ラインラント・ヴェストファーレン、南西ドイツ地域、ポンメルン、ベルリン、メクレンブルク、ブランデンブルクの各地域に、同種の地域組合が生まれた。そしてこれらの組織は、顧客割引つまり投げ売りの防止を、各出版業者に向かって訴えかけたが、あまり効果はなかったという。

「書籍商組合」は、1852年に改定した規定の中に投げ売りの禁止措置を入れたが、これも駄目であった。しかし書籍の投げ売り競争が続いたために、19世紀の中ごろには書籍販売業者は、次第に支払い困難に陥っていった。そのため書籍販売業者は1863年、独自の「書籍販売者連盟」を設立した。これは出版社からの不当な干渉や恣意を排除して、自分たちの一般的な利益を護ることを狙ったものであった。ここで投げ売りつまり割引販売には、出版社から書籍販売者にわたるときの出版社割引と、書籍販売者から顧客にわたる時の顧客割引の二つが存在した。しかしこの二つの問題はともに簡単に禁止できるような性質のものではなく、なおも尾を引くことになった。そして投げ売りの禁止と定価制度の確立は、ようやく1887年の<クレーナーの改革>によって、実現を見たのである。

ドイツ近代出版史(2)18世紀半ばから1825年まで

第四章 <読書革命>と文学市場の成立

新しい読者層の誕生

ドイツの出版界が古い交換取引から近代的な取引方法へと転換する過程で、忘れてならないのが、読者層の拡大と文学市場の成立という問題である。ここには「読書革命」という文化的要因と「文学市場」の成立という経済的要因が、密接にからみあっている。つまり文学を中心とする読書や書物の世界に、需要と供給という経済原則が登場してきたという事である。

ドイツにおける啓蒙主義の普及は、18世紀の後半に入るとその第二段階に至った。世紀の前半には、いわば啓蒙主義の第一世代と名付けることができる人々が、従来とは違った新しい読書階層を形成したのであった。その人たちは、世俗的な書物に永続的な関心を示していた商人階級をはじめとして、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主、そして商人の妻や娘などの一部からなっていた。

ところが世紀の後半になると、この人たちの息子たちや娘たちから成る新しい読者層の第二世代が登場してきた。彼らは、職業から見れば、学生、行政機関の若い事務員、商業従事者そしてその友人の女性たちであったが、これら第二世代の周囲には、すでにやや開放的な文学的雰囲気が漂っていた。当時、啓蒙思想は定期的に刊行されていた雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて伝達されていたからである。またこの人たちはある程度、娯楽的読み物にも興味を示していた。かくしてこれら第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀の後半を通じて、世俗的書物や娯楽的読み物を受け入れる主要グループを形成していたわけである。

とはいえ、こうした新しい読者層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって、なされたわけではない。その担い手となったメディアである出版業界における生産、販売の変化もまた、それに貢献したのであった。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版および販売の側面に影響を及ぼした、といったほうが良い。つまりこれら二つの側面の相互影響の中に、新しい文学的発展への基盤が生まれることになったのである。

ここで18世紀における読書傾向の世俗化を示す手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数の比較をしてみよう。その際R・ヴィットマンが行った見本市カタログに基づいた計算を手掛かりにすることにする。ただし18世紀後半になっても隆盛を見せていた翻刻版は、書籍見本市のカタログに掲載されていないので、ここでは除外する。

これによると西暦1700年の見本市カタログに掲載された書籍の総点数は、年間950点であったが、1800年になると年間4000点に増大しており、この100年間の合計は17万点と推定されている。
次にこの中でラテン語の書物が占める割合の時代的変化を調べてみると、

1650年・・・・・・71%
1740年・・・・・・27%
1770年・・・・・・14%
1800年・・・・・・ 4%

となっている。

つまりこの数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段にかわったことを、如実に示しているわけである。その際発行された書物のジャンルにも大きな変化が生じたことも注目される。1740年にはまだ発行された書物のほぼ半分が神学的・宗教的内容であったのに、1800年にはわずか10%強に減少しているのだ。(1740年の時点で、ラテン語の割合が27%となっているが、このころにはドイツ語で書かれた宗教書が多かったのだ)。法学および医学関係の書籍は、この間コンスタントに5~8%を占めていたが、宗教関係の書籍の減少に反比例するように、文学の割合が伸びている。文学作品は1740年には5%だったが、1800年には20%を超えている。とりわけ小説の伸びが著しかった。

いっぽう18世紀の末ごろになると、ドイツ語圏の書籍(新刊書)の発行地域の分布は、圧倒的に北ドイツが優位を占めるようになっていた。これを1780-1782年の時期に関してみると、

北ドイツ・・・・・・・70%
南ドイツ・・・・・・・19%
オーストリア・・・・・ 7%
スイス・・・・・・・・ 3%

となる。この数字からも北ドイツの優位は明らかであるが、新刊書の六分の一が出版のメッカ、ライプツィヒ市から発行されていたことを付け加えておきたい。ライプツィヒがドイツの著作家の世界の中心でもあったことを考えれば、この優位は何ら不思議なことではなかろう。<読書革命>と並行して、<たくさん書くこと>も進行していたのだ。1773~1787年の15年間だけでも、ドイツにおける著作者の数は、3000人から6000人に増大した。そして1790年には平均して4000人に一人の割合で著作者がいた勘定になる。もちろんこれには地域差がみられ、辺境のオストプロイセン地域では9400人に一人の割合であったが、ライプツィヒのあったザクセン王国では2700人に一人の割合であった。これがライプツィヒ市になるとその集中度は著しく、住民170人に一人が著作者であった。ちなみにプロイセン王国の王都ベルリンでは675人に一人、ウイーンでは8000人に一人の割合であった。

ところで1795年、ドイツ人の文学社会学者ともいうべきJ・G・ハインツマンなる人物は、当時のドイツにおける無名の読者大衆の成立に関して、注目すべき比較をもって、その社会的・文化的意義を明らかにしている。

「この世ができてから、ドイツにおける小説愛好の習慣とフランスの革命の二つほど、奇妙な現象は、いまだかつて存在したことはなかった。この二つの極端な現象は、ほぼ並行して成長してきたものである」

ここではフランス革命の担い手となる大衆の登場を、ドイツの読者大衆の登場と重ね合わせているわけであるが、その比較の是非はともかく、それほどこの<読書革命>は、当時のドイツの知識人から社会的事件として受け止められていたという事であろう。そこでは深く沈潜する「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行がみられた。                     ただこの<読書革命>の進行は、同じドイツ語圏の中でも地域によって、その度合いが異なっていたようである。北部、中部、南部、オーストリア、スイスなどと分けた場合にどうであったのか、ドイツ人の専門家の間でもまだ十分研究されていないようである。ただごくおおざっぱに言って、北ドイツでは18世紀の半ばにすでに新しい読者層が形成されていたのに対して、南ドイツではまだであったことが知られている。そしてその50年後にはこの北の優位に追いつき、かなり統一的な読書習慣(ないし嗜好)がドイツの書籍市場を支配するようになっていことも知られている。

しかしどのようにしてこの<読書革命>が南ドイツで遂行されたのかという点になると、専門的研究はまだあまり進んでいないようである。ただここで前述した翻刻本が、南ドイツの読者に対して、読むことへの渇望を充足させたことは間違いないようである。そこで次に翻刻本の普及と読者層の拡大の関係について少し考えてみよう。

翻刻本の普及と読者層の拡大

まず翻刻本の異常なまでの成功の決定的理由は、その価格の安さにあった。当時のドイツ人読者大衆の大部分にとって、この値段こそが書物を購入する際の決め手であった。読書と教養に飢えていた当時の中流階層の人々ですら、オリジナル作品8~10冊で我慢しようとしたか、それとも翻刻本を40~50冊購入しようとしたか、答えはおのずから明らかであろう。
オーストリアの有名な医者アントン・フォン・シュテルクは1790年に、廉価な翻刻本の医学書を通じて、同地域の医者や医者の卵が医学の知識を習得したことを証言している。そしてそれによって辺境地域の住民の健康改善に著しく貢献したことを強調している。また学校の教員、金持ちの家の家庭教師、村の司祭、学生などあまり収入の良くないインテリ予備軍にとっても、翻刻本を購入するか、それとも全く書物を手にしないか、どちらか一つの選択しか残されていなかったのである。安い書物を所有し、それを読むことこそが、人々の読書能力の涵養を可能にしたわけである。読書文化の初歩段階にあって、翻刻本の利用が果たした役割を低く見ることは、決してできない。

ただ一口に翻刻本の普及といっても、その黄金時代である1765~85年のころと、それ以降とでは、出版された書物の傾向にかなりの相違がみられたことに、注意する必要がある。この時期に活躍した翻刻版業者の第一世代と呼ばれるトラットナー、シュミーダーなどが、啓蒙期の純文学作家の全集の発行など、外観・内容ともに質の高い出版活動をしていたことは、前回のブログの第三章「翻刻出版の花盛り」のところで述べたとおりである。

ところが1785~90年ころになると、翻刻本業者は純文学に目を向けなくなっていった。その頃現れてきたゲーテ、シラーの古典主義文学は一種の「高空飛行」を行っており、それについて行けたのは、ごく少数の読者だけであった。この古典主義とそれに続くロマン主義の詩文学に翻刻本業者はもはや関心を示さなくなった。先には啓蒙主義の純文学作品をシリーズの形で出版したシュミーダーは、1790年以降にはもはや古典主義文学やジャン・パウル、ティークなどのロマン主義文学は翻刻出版しなかった。

その代わりに後期啓蒙主義のポピュラーな哲学者や歴史家に目を向けるようになった。純文学はこのころになると、社会的、政治的な解放を目指していた一般市民層から離れて、人の内面へと向かっていたからである。啓蒙主義に強く傾いていたこれら翻刻本業者の第一世代にとって、純文学はもはや有益な活動分野ではなくなってきたわけである。

ちょうどこのころ第二世代の翻刻本業者が新しい計画を携えて登場してきた。この世代の業者は、偉大なる啓蒙主義から古典主義、ロマン主義へと続くドイツの純文学を敬遠した。そして営業上永続的な成功が見込まれる大衆的な作品に目を向けるようになった。名のある作家の野心的な全集の代わりに、ヴァリスハウザー社の「ウイーン叢書」のような大衆小説シリーズが登場してきた。そして翻刻出版は次第に投機的な傾向を強め、粗製乱造の気味を加えていった。かくして翻刻本業者の名前は質の低い出版業者の代名詞となっていったのである。また名前すら明らかにしない匿名の翻刻本出版社も出現するようになった。

高級な読書サロン

ここではオリジナル版であれ、翻刻版であれ、世俗化され量産されるようになった書物と、人々はどのように接触していたのか、見てみることにしたい。
新しい読書層の誕生といっても、18世紀も末ごろになると、社会階層的に見れば、上流階層から都市の小市民階層まで広範に広がっていた。地方都市の名士ともいうべきヒルデスハイムのギムナジウムの校長K・H・フレマーは、1780年に次のように書いている。「今から60年前には、本を買う人間といえば学者と相場が決まっていた。ところが今日では本を多少なりとも読むことができない婦人を見つけるのは容易ではなくなっているぐらいだ。読書する人は今ではあらゆる身分にわたり、都会であろうと地方であろうと見受けることができる」
ただこの言葉は地方の校長先生の個人的な印象を述べたもので、統計的にはあまり信頼できるものではないと、私には思われる。

とはいえこうした状況の中で、町や村の名士や有力者が利用していた読書のための施設として、レーゼカビネットとかレーゼゲゼルシャフトといわれるものが生まれてきた。これらは元来フランスから来たもので、「読書サロン」といった感じの施設であった。例えばフランスのアルザス地方の町コルマールは、ドイツ人もたくさん住んでいたところであったが、この町に1769年からこの読書サロンがあった。ここでは教養も財産もある人達が毎月のように集まっては、ドイツ語やフランス語の本を批評しあったという。

あるレーゼ・カビネット(18世紀後半)

こうしたサロンは18世紀の半ばから末ごろにかけて、ドイツ全域で花開いた。書店は人々のために読書室を設け、そこに新刊書や新聞・雑誌類を置いていた。そうした場所を人々は、好んでムゼウム(博物館)とも呼んだりしていた。人々はそこにやってきて、新しく出た本を読んだり、互いに意見を交換しあったりした。そしてこの場所は「遊んだり、踊ったり、食事をしたりするところ」としても利用されるようになった。つまりここは読書サロンとはいいながら、もっと幅の広い総合的な社交の場でもあったのだ。

現に西南ドイツのシュトゥットガルトにあった読書サロンの1795年の規約には、次のように書かれている。「何びとも読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心を満足させるため、あるいは多様な知識の普及のため、さらに趣味嗜好を洗練させるため、そして社交生活の喜びのために、もっとも目的に叶った手段が提供され、それらによって計り知れない利益が得られるのだ」。こうした高級なサロンであったために、その会費もきわめて高かった。そのため一般庶民にとっては高嶺の花の存在で、もっぱら特権身分の人のために作られていた。そして啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になっていた。

1791年、北ドイツの都会ブレーメンには36の読書サロンがあり、併せて2340人の会員がいたといわれる。これほど多くの会員がいなくても、同じようなサロンは、リューベック、ベルリン、フランクフルト(オーダー)、ヴィッテンベルク、ゲッティンゲン、マインツ、シュパイヤー、ヴュルツブルク、カールスルーエ、シュトゥットガルト、ウルム、レーゲンスブルク、ほかにもあった。そしてこの読書サロンは、もっと小さな田舎町にまで広がっていった。その会員には、それぞれの地域の名士であった、司教や牧師、学校の教師や地区参事会会員などがなっていた。農民や労働者は、こうした読書サロンに入ることはできなかったのである。

都市の貸出文庫

「読書サロン」が社会の上層を占める人々の社交と教養の場所であったのに対して、広く国民各層が実際に本を読むのに好んで利用したのが「貸出文庫」であった。これはは要するに本を一定期間、金をとって貸し出す貸本屋であった。18世紀の前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。啓蒙主義の思想家ルソーも子供のころ、ジュネーヴの悪名高い貸本屋から、良い本、悪い本取り交ぜて店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすべて読んでしまったことが、例の『懺悔録』に書いてある。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィヒでのことであった。その少し後の1772年ミュンヘンの宮廷顧問官付き書記官J・A・クレーツは、自分が経営していた書店を移転した際に、店にあった本を人々に貸し出すことを明らかにした。しかしこの新しい試みは、借りた人が本を汚したり、返さなかったりして、結局失敗に終わったという。

とはいえ18世紀の末ごろになると貸出文庫は、ドイツでも次第に盛んになってきた。そのころには、うまくいけば貸本業のほうが書店で本を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あった本が、1806年には4000冊に増えていた。また南ドイツの小さな大学都市ランツフート在住のザンデルスキーの貸出文庫の書物は、1814年の1200冊から1820年には2526冊になっていた。さらに北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫は以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その種類は都市の規模や性格により、またその所在した地区によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したため、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から立派な建物の貸し出し図書館まで、いろいろあったわけである。その意味で貸出文庫は、最も民主的な図書貸出し施設であったのだ。

ところでロマン主義の作家ハインリヒ・フォン・クライストは、1800年9月14日付けの婚約者宛の手紙の中で、南ドイツのヴュルツブルクの貸出文庫を訪れた時の模様を次のように書いている。

「ある町の文化の度合い、ないしそこに支配的な趣味嗜好の度合いを、いち早くしかも正確に知ることができるのは、なんといっても貸出文庫をおいてほかにはないでしょう」

その貸出文庫を訪れたのは法律家、商人、既婚の女性などであったが、そこにはヴィーラント、シラー、ゲーテなど当時の高級文学の作品は置いてなかった。そこでクライストが見たのは、当時流行していた大衆文学作品ともいうべき騎士物語ばかりだったという。

同じくロマン派の作家ヴィルヘルム・ハウフも、4000~5000冊の本を持つ、ある貸出文庫を利用していた客の読書態度などについて、興味深い分析をしている。

① 貸出文庫の本は睡眠薬の代わりである。
② 緊迫感にとんだ最初の部分は夜のうちに読んでおいて、翌朝その続きを読む。
③ ジャン・パウルはお呼びでなく、代わりにクラーマーの『エラスムスの陰謀家』とかクラウレンの作品が好まれる。
④ 読者は若い女性が多い。
⑤ 貴族も召使も同様に、ヒルデブランドの『ヘルフェンシュタイン城』や『火を吹く復讐の剣』といった騎士物語を読む。
⑥ 軍人はウォルター・スコットの作品を読みたがる。スコットはドイツで6万部も出回っている。
⑦ スコットのドイツ語版は、チームワークによる「シェーラウ」の翻訳工場で翻訳されている。

ハウフやクライストが、子細に観察したように、貸出文庫を訪れていたのは「読書する大衆」だけではなく、上層の人々もいたのである。またここにやって来たのは年配の人間だけではなくて、若者もいた。ロマン派の詩人アイヒェンドルフも若き日には、ルソーと同様に故郷ラティボアーの貸出文庫に出向いて、手当たり次第に読んでいたのである。クライストやハウフの証言からも断片的に明らかになったことだが、18世紀の末から19世紀を通じてドイツで栄えた貸出文庫の中身は、主として小説か戯曲であったようだ。

これをブレーメンのガイスラー貸出文庫が1829年に刊行したカタログによって詳しく見てみることにしよう。ここでもやはりその扱っている本の種類からいって一番多いのが小説で、二番目が戯曲であった。その他の分野、歴史、政治、紀行文、詩、地誌、年鑑、児童文学、ジャーナル、月刊誌などは、これにくらべれば、ぐっと比重が低かった。小説の中では、クライストも書いていたように、騎士物語や盗賊物語が多かった。

そこにはイギリス人のウオルター・スコットやアメリカ人のクーパーなど英米の人気作家の翻訳物が混じっている点が注目される。そのほかの作家は今日ではほとんど忘れ去られたドイツの大衆小説作家であった。

しかし18世紀の後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってさらに読者層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、以後大きな文学市場を形成していくのである。

第五章 <書籍商組合>結成への道

ライプツィヒの「書籍商取引所」の誕生

前回のブログ「ドイツ近代出版史【1】18世紀半ばから1825年まで」の第一章「近代的書籍出版販売への転換」のところで述べたように、現金取引方式および条件取引制度の成立、さらに委託販売方式の導入などによって、ドイツの書籍出版販売業界は18世紀の末に、近代化へ向けて力強い歩みを示し始めた。書物は、古い交換取引の時代のように物々交換されるのではなく、貨幣によって支払われることになった。

条件取引制度というのは、次のようなシステムであった。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内にその代金の精算を行う(初めは春と秋の年2回であったが、やがて秋の精算はなくなり、春の復活祭の時期だけに行われるようになった)。そしてこの期間に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については店頭価格の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

その際問題となったのがライプツィヒでの精算業務のやり方であった。精算したいと思っている書籍業者は、ライプツィヒ市内の様々な場所で相手を探さねばならないという、厄介な問題があったのだ。こうした精算業務の簡素化・統一化のために、ライプツィヒの書籍業者G・J・ゲッシェンは、1791年に取引事務所を開設しようという考えに取りつかれた。しかしこの考えはその一年後に、同じくライプツィヒの書籍業者P・G・クンマーによって実現されることになった。彼はライプツィヒ市内のリヒターという喫茶店の三階を事務所として借りたわけである。

しかしこの場所は見本市会場からやや遠いところにあったので、ポツダムの書籍業者K・C・ホルヴァートは、同じ目的のために書籍街の中にあった大学の建物を借りた。そして彼はこの建物を家賃をとって業界仲間にまた貸しした。この建物の中で初めて支払業務が行われたのは1797年のことであったが、その対象はライプツィヒ以外の書籍業者であった。ライプツィヒの書籍業者は、こうした施設を使用することを初めはためらっていた。しかしやがて利用者が増えていったため、いつしかこの建物は見本市の開催中、「書籍商取引所」と呼ばれるようになった。(1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」という名称も、これに由来するのだ)。

出版業界体質改善の動き

いっぽう18世紀から19世紀への変わり目ごろ、ドイツの書籍出版量及び書籍業者の数は著しく増大した。このため書籍販売面での互いの競争が激化し、個々の書籍商の中には「投げ売り」つまりダンピングによって商売を乗り切ろうとするものも出てきた。顧客割引率を従来の10%から25%さらに50%にまでして、何とか商品としての書物を売りさばこうとしたのである。

こうした動きを憂慮したホルヴァートは、1802年の春の見本市に向けて一つの改革案を提出した。そこで彼は、顧客割引率の制限、新規の業者に対するクレジット保証の制限、見本市決済のための特定の為替相場の導入などを提案した。この提案に対しては40人の書籍業者が賛意を示した。なかでもゲッシェン(1752-1828)は、『書籍販売に関する私見』という文書の形で、これに応えた。この中で彼は「顧客割引率はせいぜい10%が限度であり、できることなら廃止すべきである。非書籍商に割引を認めることは無意味な投げ売り以外の何ものでもない。書籍業者のあいだでも、割引率は33・3%を超えるべきではない」と記し、商人としての尊厳と道徳心に訴えた。そして書籍取引所組合の設立を説き、「その組合のための資金と品位と持続性を手に入れよう」と呼びかけた。ちなみにゲッシェンは、作家シラーの友人でもあり、その作品を出版したライプツィヒの名門出版社の主であった。

G・J・ゲッシェンの肖像

このゲッシェンの提案と真っ向から対立したのが南独エアランゲンの書籍商パルムの提案であった。そこで彼は古い交換取引に戻ることを主張したが、他のほとんどの書籍商は交換取引に反対の態度を示していたので、一人孤立することになった。ともあれ19世紀の初めには出版業界の体質改善に対して多くの書籍業者が強い関心を示すようになり、改革のための集会まで開かれる運びとなった。そして1803年に開かれた二回目の集会で、30人の委員からなる新しい委員会が結成された。

ところがドイツにおいて書籍商の組織を結成しようという動きは、ナポレオン戦争によって、ひとまず頓挫することになった。ナポレオン軍との戦いの敗北によって、1806年8月、神聖ローマ帝国は消滅し、ドイツ語圏地域は西・南地域にできたライン連邦、東北部に領土を縮小させられたプロイセン王国、そしてオーストリア帝国に分割された。そしてナポレオン支配下のドイツの出版界は、書物の輸出や国内取引に対する妨害や厳しい検閲によって、一時的にではあれ、全体として大損害を被ったのであった。ニュルンベルクの書籍商パルムは反仏的なビラ『深い恥辱の底にあるドイツ』を発行したために、ナポレオンの命令によって射殺された。またハンブルクの書籍商ペルテスは1811年1月、知人に宛てた手紙の中で「全体として希望の片鱗すらうかがうことができません」と述べている。

ナポレオン戦争後の状況

しかし1813年の解放戦争の結果ナポレオン軍が敗北し、ナポレオンがパリに逃げ帰るに及んで、フランスによるドイツ支配は終わりを告げた。そして翌年のナポレオン失脚の後を受けて、ヨーロッパ各国の王侯や政治家たちはウィーンに集まって、戦後のヨーロッパの新秩序について協議することになった。こうした新しい情勢に呼応して、ドイツの書籍商たちのあらたな協力態勢への動きが、再び始まった。

1814年4月春のライプツィヒ書籍見本市において、6人の代表からなる委員会が再び結成された。この6人とは、ライプツィヒ出身のクンマー、フォーゲル、リヒター、ワイマール出身のベルトゥーフ、テュービンゲン出身のコッタ、そしてリガ出身のハルトクノッホであった。この委員会はドイツ書籍業界の関心事をウィーン会議(1814・15年)に持ち出すことによって、全ドイツ的な問題にしようと目論んだ。

いっぽう神聖ローマ帝国の解体後、統一組織を欠いたままになっていたドイツ諸国の再組織の問題も、ウィーン会議の重要議題の一つであった。結局これは大中小39の領邦国家を集めた緩い組織としての「ドイツ連邦」の結成によって決着を見ることになった。書籍商委員会を代表してコッタ及びベルトゥーフの二人は、ウィーン会議に働きかけて、新しく生まれるドイツ連邦の在り方を定める連邦規約の中に、ドイツ書籍業界の関心事を織り込むことに成功した。その結果、連邦規約第18条に、次のような文章が挿入されることになった。

「連邦議会はその最初の会議において、出版の自由に関する指令並びに翻刻出版に対する作家及び出版主の権利の確保に関する指令の作成に従事するであろう」

そしてこのための公聴会が連邦議会において開かれる見通しも、その際明らかになった。そうした期待の中でハンブルクの書籍商ペルテスは1816年匿名で、『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書を発表した。この中でペルテスは、翻刻出版を激しく糾弾した。しかし書籍業界にとっては最大の関心事であったにもかかわらず、連邦議会での審議は遅々として進まなかった。

そこでいくつかの出版社は、自らイニシアティブをとって動き出した。例えば中部ドイツのハレの4つの出版社は、1816年いかなる翻刻出版も拒否することを約束した。また西南ドイツのハイデルベルクの出版主モールは、次の春の見本市で翻刻出版業者とのあらゆる関係を絶つよう、ドイツの書籍商に要請した。さらに1817年に結成された「ドイツ書籍商選考委員会」は、翻刻出版をはじめとするもろもろの問題の解決に向けて取り組むよう委任を受けた。こうした情勢の中で、出版社の版権や著作者の著作権を保護しようという考えが、次第に具体化してきた。そして1819年2月に連邦議会に提出された法案の中には、10年ないし15年の保護機関が定められていた。

しかしウィーン会議後のドイツを牛耳っていたオーストリアの宰相メッテルニヒは、旧体制を守るために反動的な政策をとることも辞さなかった。そして1819年8月のカールスバートの決議によって、大学法や扇動者取締法などと並んで、厳しい出版法が定められた。これによると新聞・雑誌そして320頁以下の出版物はすべて、厳重な検閲のもとに置かれることになった。
こうして出版の自由は踏みにじられ、同時に精神的財産(知的所有権)の保護という考え方も大きく後退することになった。

いっぽうこれとは別に、南独ニュルンベルクの書籍商レヒナーは、1806年以来ライプツィヒから離れてニュルンベルクに独自の書籍見本市を設立する考えを抱き、その線に沿った動きを示していた。そして1819年この考えを関係者の前に持ち出し、人々の議論に供した。しかしこの計画は、同じニュルンベルクの同業者カンペ、マインベルガー、シュラークなどの反対にあって挫折した。

ところがニュルンベルク見本市設立計画は1822年になって、別の方面から再び持ち出された。今度の計画は書籍商ではなくてバイエルン王国学士院の事務総長シュリヒテグロルからのものであった。この人物はニュルンベルクの書籍商と、見本市プロジェクトをめぐって交渉を行った。その際書籍商側はバイエルン教科書出版会社の廃止を持ち出した。またバイエルン政府も度重なる審議の後、書籍見本市設立に関する報告書を提出したりしたが、なかなか結論を得るに至らなかった。

「書籍商組合」の結成

そうこうするうちにライプツィヒでは、ライプツィヒ以外の書籍商を中心に、先にホルヴァートが明らかにしていた書籍取引所の設立へむけて急展開を見せはじめていた。先の「ドイツ書籍商選考委員会」がそのイニシアティブをとったのだが、こうした取引所を必要としない地元のライプツィヒの書籍業者はいぜんとして冷淡な態度をとり続けていた。そのためこうした態度に対しては外部の書籍商からはげしい非難の声が上がり、結局ニュルンベルクの書籍商フリードリヒ・カンペ(1777-1848)の指導の下に、1825年4月30日、「ドイツ書籍商取引所組合」が設立されたのであった。この名称はドイツ語の表記を正確に訳したものであるが、日本語の文脈の中では分かりにくいので、今後は「ドイツ書籍商組合」ないし単に「書籍商組合」と表記していく。

この日「取引所規約」には、ライプツィヒの書籍業者6人及び外部の書籍業者93人が署名した。この93人のうち70人が北・東部からの、そして23人が南・西部からの業者であった。またこの組合には外国人も会員として加盟できることも定められた。初代の会長(任期1825-28)にはカンペが就任し、その他の幹部としてライプツィヒ外の書籍業者ホルヴァートなど3人が選ばれた。

F・カンペ(「書籍商組合」の創立者)の肖像

こうして「ドイツ書籍商組合」は、ドイツの出版界全体の公の組織となったのである。この組織には、出版界に確固たる秩序を築き、書籍取引の際に生ずる誤解を取り除き、書籍業界の利害を守るべき任務が課せられた。そして長期的な展望のもとに、ドイツの出版界全体をリードしていくことも、新たに生まれた書籍商組合の使命の一つとなった。
この組織は「よそ者」であるニュルンベルクの書籍商カンペの断固たる措置によって、最終的に出来上がったのであった。このカンペはすでに1819年にニュルンベルク書籍見本市設立計画に反対していたが、1825年12月にバイエルン国王ルートヴィッヒに謁見したときにも、改めてニュルンベルクのプロジェクトに反対する態度を明らかにしたのだ。

それはともかく「書籍商組合」の設立によって、ドイツの書籍出版販売の世界は、「疾風怒濤の時代」に終わりをつげ、新しい時代へと踏み出していったのである。個々の企業の商業上の利害を超えて成立したこのドイツ出版界の大同団結には、ドイツの政治的統一(1871年)よりはるかに先行した大きな意義が与えられねばなるまい。

ドイツ近代出版史(1)~18世紀半ばから1825年まで~

第一章 近代的書籍出版販売への転換

統一的書籍市場の崩壊

ドイツの書籍出版販売活動は長い間、書籍見本市の二大都市フランクフルト・アム・マインとライプツィヒを中心に行われてきた。フランクフルトは中部ドイツのマイン川畔の帝国直属都市として、15世紀以来その南に広がるドイツの各地域つまりバイエルン、シュヴァーベン、フランケン、オーバーラインの諸地方やオーストリア、スイス一帯を書籍出版販売面で支配してきた。この南ドイツの書籍業界は、ドイツ皇帝の支配地域にあるという意味で、「帝国書籍業界」とも呼ばれてきた。この地域はおおざっぱに言って、宗教的にはカトリック地域で、古い伝統や習慣がいつまでも温存されていた。そしてどちらかというと言語・文学的文化というよりは、むしろ音楽的・造形的文化に傾いていた。そして書物については聖書を初め説教書、祈祷書などの宗教書が中心であった。宗教書のほかには学者や僧侶向けのラテン語の書物が出版され、帝国書籍委員会の意地の悪い厳しい検閲が、依然として続いていた。

いっぽう北ドイツのザクセン地方の中心都市ライプツィヒは、17世紀の末頃から、見本市都市としての重要性を次第に増しつつあった。そして北ドイツにおける書籍出版販売は、ますますライプツィヒを中心に動くようになっていた。北ドイツは一般にプロテスタント地域であるが、ドイツの啓蒙主義はまさにこの北ドイツの二つの地域、つまりザクセン地方とベリリンを中心とするブランデンブルク=プロイセン地方をその故郷としていたのだ。

この地方では道徳週刊誌やポピュラー哲学から文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場にはいたる所で新しい時代の息吹が感じられた。この地域では古めかしいラテン語の知識がいっぱい詰まっていた大型の信心の書には、新しい読書大衆はもはや関心を向けなくなっていた。啓蒙主義運動の担い手ゴットシェートや国民的人気の高かったゲラートが住んでいたのもザクセン地方であった。こうした文化的要因のほかに経済的要因もあった。18世紀のザクセン地方は経済的観点から見て、ドイツで最も目覚ましい発展を遂げていた地方であった。とりわけ工場制手工業が発展していた。こうした状況の中で、書籍出版販売業はザクセン王国政府によって奨励されていたのだ。

この時代になっても書籍取引の方法としては、なお交換方式が続けられていたが、この方式は書物の外観や内容を無視してきたため、その欠陥が次第に我慢できないほどに露呈されてきた。この傾向はとりわけ南ドイツ地域で著しかった。その際南で出版された書物は南の地域では売れても、北へはあまり出ることがなかった。南ドイツのカトリック地域では依然としてラテン語で書かれた学術書や宗教書がもっぱら出版されていた。いっぽう北ドイツのプロテスタント地域では、ドイツ語で書かれた道徳週刊誌や各種ジャーナル、政治パンフレットや啓蒙主義的な国民文学などもどんどん出版されていた。

そして書物の質も北では南より良かった。このため南北間で書物が交換取引されたとしても、一対二ないし一対三もしくは一対四で交換されていた。その結果公刊された南ドイツの出版物が北ドイツで販売される可能性はほとんどなくなっていた。そのうえ北ドイツの読者は、南ドイツで出版されたラテン語の専門書や宗教書には関心がなかったのだ。そのいっぽう北ドイツで出版された啓蒙書や国民文学に対して南ドイツの書籍業者は関心を抱いていたが、交換取引方式のために実際上その取得が困難になっていた。
こうした状況の中で、ドイツの書籍市場は次第に南北への分裂の度合いを強め、18世紀の半ばには、その二分化は決定的ともいえる段階に達していたのだ。

交換取引制度の廃止

書籍を単に物品として量的にしか扱わなかった交換取引制度は、それが抱えていた大きな欠陥から、18世紀の後半に入るころ、結局廃止されることになった。そのイニシアティブをとったのは、いうまでもなくライプツィッヒをはじめとするザクセン地方の書籍業者であった。かれらは北ドイツの読者には関心のない宗教書やラテン語の専門書を発行していた南ドイツの書籍出版販売業者との取引を好まなくなっていた。その結果彼らは交換取引を、信頼のおける商売相手である北ドイツの書籍業者だけに限ることにした。そしてその他の業者に対しては、現金取引を要求するようになった。

交換取引を拒否して現金取引を採用した書籍業者には「正価販売業者」という名称が与えられた。彼らは取り扱う書物を交換取引商品と現金取引商品の二つに分けたのである。正価販売業者の中でももっとも代表的な人物が、フィリップ・E・ライヒ(1717-1787)であった。ライヒはライプツィッヒの代表的な書籍出版販売店ヴァイトマン社に1746年に入社し、やがて経営責任者になり、さらに1762年には同社の共同出資者となった。彼は1760年代に、もはや欠陥だらけになっていた書籍の交換取引方式に反対して立ち上がったのである。そして現金取引または半年で16~25%の割引をする短期クレジット方式を導入した。この短期クレジット方式は、ライプツィヒ見本市に出品・参加していた中部・北部ドイツの友好的な書籍業者に適用された。そしてこれらの業者に対して十分な報酬を支払った最初のドイツの出版社経営者になったのであった。ここに長らく自然経済である交換取引方式に退行していたドイツの書籍販売方式は、北ドイツでは1760年代に再び貨幣経済を基礎とする近代的な取引方法に代わったのである。

ライヒの改革

ライヒが導入した近代的な書籍取引の方法は、交換取引の拒否と短期クレジットないし現金取引方式の採用であった。それに伴って書籍の返品を部分的ないし全面的に認めない措置、クレジットの低い割引率の設定そして書物の価格の高い設定なども同時に行われた。これら一連のライヒの動きは、書籍販売史上「ライヒの改革」として知られているが、南ドイツの斜陽の帝国書籍業者にとっては、我慢のでいない過酷な措置に映った。当時ドイツ全地域から書物が集まっていたライプツィッヒ見本市で採用された正価販売方式は、そこに常駐していた書籍業者にとって著しく有利だったからである。南ドイツの書籍業者には、運搬用の樽を含むすべての輸送コスト、業者の旅行費用、見本市に伴う宿泊費、ブースの借り上げ料、アルバイト要員費用などをひっくるめての見本市の総経費が掛かった。それに対して地元の書籍業者にとっては、それらの負担はぐんと低かったのだ。

しかし自らの改革を断行することに熱心で、南ドイツの書籍業者のことをあまり考えなかったライヒは、いわば南への挑戦として、1764年にフランクフルト見本市から最終的に撤退したのであった。ライヒはその際「自らと同僚業者の撤退によって、フランクフルト見本市を葬った」と述べている。同見本市はその後も存続はしたが、もはや往年の存在価値は失われていた。ちなみに新しいフランクフルト国際書籍見本市が生まれたのは、西ドイツが誕生した1949年のことであった。

ライヒは自らの改革を貫徹すべく、1764年に「ドイツ書籍販売組合」の設立を計画した。そしてこの計画を「ライプツィッヒ見本市を訪れる書籍業者への通知状」の中で明らかにした。そこでの最高原則は、この組合に加盟する者は書籍取引を現金によってのみ行うべきで、また互いに翻刻出版は行わず、そうした業者との取引は最小限に抑えるべきであるというものであった。ライヒのこの計画に対しては、ザクセン王国政府やライプツィッヒ市当局そしてライプツィヒ大学から疑念が出された。しかしそれから5年たった1769年になって、ようやくザクセン国王の許可が下りた。それによって南ドイツの翻刻版書籍業者は、事実上ライプツィッヒ見本市から締め出されたのであった。

帝国書籍業者の反撃

これに対する帝国書籍業者側の反応には素早いものがあった。先に警告していた通り、彼らは北ドイツで出版された書籍の計画的な翻刻出版を、大々的に実施し始めたのである。翻刻出版を全面的に禁じたザクセン国王の布令も、その王国の外では通用しなかった。北ドイツの書籍業者からは海賊出版業者と非難されたこれら翻刻版出版業者の指導的存在は、フランクフルトのファレントラップ及びウィーンのトラットナーであった。このトラットナーはこれに先立つ1752年に、ライプツィヒの書籍業者に対して、「ウィーンからライプツィヒへの旅行費用その他もろもろの経費が掛かるから」という理由で、33・3%の割引を要求し、これが叶えられない場合には翻刻出版を行うと警告していたのだ。

そのうえ彼はオーストリア女帝マリア・テレジアから、翻刻出版に対する皇帝特権を授けられていた。ちなみにトラットナーが女帝から受けとった手紙には次のような一文もあった。

「親愛なるトラットナーよ、わが国家の原理は書物を盛んに流通させることにある。書物はすべからく大いに印刷されるべきである。ただオリジナル作品が現れるまでは、翻刻出版を行うべきである」

こうした皇帝特権に支えられたトラットナーやフランクフルトのファレントラップなどの帝国書籍業者は、翻刻出版はオリジナル作品の高値に対する防衛手段なのであると弁護した。このようにして翻刻出版は、南ドイツからオーストリアにかけて、以後大々的に行われることになった。そして1765年~1785年の間にかけて、「翻刻出版の黄金時代」が現出したのである。これに対して学者や作家は、おおむね理論的には非難していたものの、実際には価格調整役として容認していたようである。

そしてやがて帝国書籍業者の間から、ライプツィヒの現金取引と従来からの交換取引との間の妥協案ともいうべき「条件取引制度」が生まれてきた。その仕組みはざっと次のようになる。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間(春と秋の2回)にその代金を精算する。ただその期間内に売れなかった書籍は返品され、売れた書籍については店頭価格(定価)の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

帝国書籍業者はこうした条件を提示してライプツィヒの書籍業者とと折り合いをつけようとした。そして1788年南ドイツ及びスイスの19の書籍業者は「ニュルンベルクの最終決議」の中で、いま述べた条件のもとにライプツィッヒ見本市に参加したいと申し入れた。そして精算の時は春の見本市の時だけとした。この申し入れをライプツィヒ側は受け入れることになった。

その背景としては、すでに18世紀の半ばから北部及び東部ヨーロッパ地域との書籍取引において、ライプツィヒがベルリンとの競争にさらされていたという事情もあった。それらの地域の書籍業者には、従来のようなライプツィヒ経由ではなくて、ベルリンを通じて商売をする傾向が強まっていたのだ。ベルリンでは、例えば著名な劇作家レッシングの友人であった書籍商兼作家のフリードリヒ・ニコライが多面的な商売を通じて成功を収めていた。
このように18世紀後半の最後の三分の一の期間は、書籍出版販売業界にとっても、まさに「疾風怒濤の時代」なのであった。しかし近代的書籍出版販売制度の確立までには、なお幾多の紆余曲折を重ねることになる。

純粋な書籍販売業者の出現

この過程にあって一つ付け加えておきたいことは、帝国書籍業者が提案し北ドイツの書籍業者も受け入れることになった「条件取引制度」は、結局はドイツ全体の書籍業界に新たな確固たる基盤を築いたという事である。この新しい制度は18世紀から19世紀に変わるころ、完成したのであった。そしてこれは出版部門を持たない「純粋な書籍販売業者」の出現を促した。古い交換取引のやり方では、これは不可能であった事なのだ。

新たに動き出したドイツ書籍業界の新時代にあって、純粋な書籍販売業者の第一号とみなされるのが、フリードリヒ・C・ペルテス(1772-1843)であった。彼は北ドイツのハンブルクに書店を設立したのだ。このペルテスはドイツ語圏の出版人の中でも最も重要な人物の一人であるが、書籍商として成功を収めた後、出版業者としても1822年から中部ドイツのゴータで営業を始め、大きな成果を上げている。彼はまたナポレオン軍のハンブルク占領に対して、闘争を指揮するなど、政治の世界に身を投じたこともある。

しかし何といってもドイツの近代的書籍出版販売制度の確立に対する貢献が最も大きいといえる。後にドイツにおける著作権制度の確立に寄与したし、「ドイツ書籍商取引所組合」の共同設立者の一人でもあった。さらに書籍業者の専門的な養成研修機関の設立構想を、すでに1833年に発表するなど、出版業界が抱える基本的問題について幾多の論文も世に問うている。

委託販売方式の成立

条件取引制度成立の結果として、さらに書物の委託販売方式が生まれた。これは書籍見本市の開催都市ライプツィヒに従来あった、書籍を保管する倉庫管理業から生まれたものである。つまり交換取引の時代、ライプツィヒ以外の書籍出版販売業者は、見本市に出品する書物(製本されていない全紙の形)の倉庫をそれぞれ持っていたわけである。そしてその倉庫を管理する業者も当然存在した。

ところが条件取引制度の成立によって、こうした倉庫業は必要なくなった。しかし個々の出版業者が自ら販売業務をやるのは人手や経費・労力などの点から容易ではないので、こんどはすべての販売業務を代行してくれる人が必要となった。そこで生まれたのが従来倉庫管理業をやっていた人たちを主とした委託販売人であった。この書籍委託販売業は、今日ある書籍取次業の先駆的形態といえる。これら委託販売業者は、従来からあった倉庫を、出版社から受け取った書物を一時的に保管しておくための倉庫へと転用したわけである。こうしてライプツィヒには、出版社と書店との間の直接的取引を代行する書籍取次業者が生まれたのである。そしてこれによって、交換取引の時代に結合していた出版業と書籍販売業とが、はっきり分離することになった。

正価販売方式の導入、委託販売方式の成立そして純粋な出版業者の出現によって、ドイツの出版業界は、資本主義的経済原理に基づいて全面的に機能するようになった。書物は最終的に商品となったのである。何が生産され販売されるべきかは、需要と供給の関係によって決まることになった。資本主義的な書籍市場が生まれ、出版業者は企業家に昇格した。そして新たな生産と販売の方式は、読者大衆や製品である「書物」自体にも、それから著者の社会的地位や出版業者との関係にも影響を及ぼすことになった。

委託販売方式の確立によって、従来のように新刊書は書籍見本市の開催中とかその後ではじめて出版されるという事はなくなり、一年中いつでも出版できることになった。そして金と商品の交換はそれまでよりもずっと早まり、継続的なものとなった。また流通期間の短縮によって、資本のより多くの部分は同時に付加価値の生産を行うようになった。投下資本が再び取り戻され、付加価値が実現する度合いは、それまでよりもずっと早くなった。変わらない生産条件の下で生産は上昇し、供給が増大した。18世紀の最後の三分の一の期間に、書物の生産は著しく増大したのである。

作家の自主出版の試み

以上みてきたようなドイツ出版業の近代化の過程における一つのエピソードに学者や作家の「自主出版」の試みがあるので、ここで少しふれておきたい。18世紀後半になって、激しく揺れる書籍業界の動きの中で、著作者の中には、より堅固な地盤を求める者もあらわれてきた。つまりそれまでよりも安定した収入を確保するために、著作者自らの出版社を作ろうとする動きである。

この作家の自主出版社は、作家自身により良い収入をもたらすことが期待されたが、同時に販売業者を通さないという流通機構の簡素化によって読者にも書物を相対的に安く提供できるはずだという考えのもとに作られた。具体的にはこれは自分の作品を、予約注文と部分的な前払いの基礎の上に立って、自主出版社から発行するというものであった。名声があり読者によって熱心な支持を受け、しかもその名前が市場価値を持っていた作家の場合は、この考えを実行に移すことができた。

この試みで最も有名なのは、F・G・クロップシュトックであった。この作家はその作品『学者の共和国』(1772-73)と『救世主』(1779-81)の出版に当たってこれを行った。その他の著名な作家としては、ヴィーラント、レッシング、ゲーテ、シラーなども、時としてこうした自主出版の試みを行ったりした。

作家のレッシングはその著作『ハンブルク演劇論』(1767-69)の中で、自主出版に対する作家の権利を自信をもって次のように訴えている。

「作家が自分の頭の中から考え出したものを、儲かる仕事に結びつけようとしたからと言って、悪く取られることはないであろう」

こうした自主出版の試みの背後には、経済的な自立を得ることによって同時に、知的・道徳的な自由も獲得したいという作家たちの切実な念願もあったのだ。当時はなお作家や学者は一般に、自分の書いた著作物だけで生活していける状態にはなかった。学者は大学に、そして作家はほかに官職をもったり、パトロンを抱えたりして物質的生活を支えていたのである。学者や作家の自主出版の試みは、結局は挫折せざるを得なかった。この事業をかなり長期的に継続することができたのは、ヴィーラントぐらいのものだった。

作家がパトロンや官職との結びつきを絶って、自由と独立を獲得することは後に可能となったが、それはなお出版社とのつながりにおいてのみ可能であったのだ。その際作家は読者の要望に合わせなければ、長期間にわたる経済的な独立は望めなかった。つまり市場経済的圧力を受けることになったのだ。

レッシングと親しかったベルリンの作家兼書籍業者のフリードリヒ・ニコライは、先のレッシングの『ハンブルク演劇論』の宣伝広告文に中で、この作家を擁護した。しかしニコライは同時にレッシングが過小評価した書籍販売上の専門知識の欠如こそが、自主出版社を挫折させた原因であったことを、指摘しているのだ。

先に紹介した書籍業者のライヒの場合は、この問題に対して経営者としての立場からもっと厳しく臨んだ。彼は『ある書籍業者の思い付き』と題する冊子の中で、次のように述べている。

「まず何よりも書籍出版販売業というものが不可欠な存在であることを、人は認めねばならない。作家が一、二冊の作品を出版し販売することと、書籍出版販売業を経営して維持していくこととは、おのずから別の事柄である。自分の研究室や書斎で考えたことをそのまま実行に移そうとする人には、書籍業というものへの正しい認識が欠けている。クロップシュトック氏の(学者の)共和国の代わりに、書籍業者の共和国を作ったらどうであろうか? 有用な商品をオリジナルより正確で美しく翻刻出版して、半分の値段で読者に提供したらどうであろうか?」

これは正価販売制度を取り入れて、近代的な書籍出版販売制度を確立しようと尽力していた改革者ライヒの、自主出版と翻刻出版への痛烈な皮肉の言葉ととれよう。ライヒの言葉どおり、クロップシュトックの『学者の共和国』は、自主出版された翌年の1774年には、翻刻版が発行されたのである。この翻刻版業者からクロップシュトックに報酬が支払われなかったことは言うまでもない。いっぽうライプツィヒという地の利を生かして、自ら断行した新しい書籍販売制度によって経営業績を上げたライヒが、自らの出版社のために書いてくれた著作者に対しては、十分な報酬を支払ったことも付け加えておきたい。

第二章 18世紀後半の出版業者と出版物

18世紀後半は一般に後期啓蒙主義の時代と呼ばれている。「ライヒの改革」を通じてドイツの北部や東部一帯を中心に、出版界はすでに近代的な書籍出版販売体制へと転換していた。そしてこの時期には、書物の出版量が飛躍的に増大し、同時に出版業者が啓蒙主義文学の普及を促していた。

それではこの時期には、いったいどれくらいの出版社がどんな場所で出版活動に携わり、またどんな種類の出版物をどれくらいの規模で発行していたのであろうか。このことを明らかにするために、自ら啓蒙主義の著作家でもあったベルリンの書籍業者フリードリヒ・ニコライ(1733-1811)の在庫目録を利用することにしよう。ここでは18世紀ドイツの書籍史研究家パウル・ラーベの研究に基づいて見てゆくことにする。

この在庫目録は1787年3月26日付け、291頁、書籍点数5492点である。目録は24の専門分野に分類され、著者別と項目別にアルファベット順に並べられている。さらにそこには本の大きさ(判)、発行地、出版社名、価格が記載されている。これは書物を求める客のために作られた非常に有益なニコライ書店の在庫目録であった。1787年の発行ではあるが、1780年代の新刊書だけではなく、70年代、60年代のもの、時として50年代の本も載せられている。当時の書籍市場の継続性は今日では想像つかないくらい長かったから、50年代の本も決して古くはなかったのだ。しかしその主なものは1763-1787年の間のほぼ四分の一世紀に発行されたものが対象となっている。この種の在庫目録は当時の他の出版社からも発行されていたが、ニコライ書店の目録ほど完備したものはない。そこには18世紀のドイツの教養人が求めていた書物の最も重要な題名が記載されているのだ。

つまりドイツの啓蒙主義の著作家たちの代表的作品が網羅されているわけだ。ただこの目録はプロイセン王国の王都ベルリンに住んでいた教養人を対象としたものであるから、ここから直ちに当時のドイツ全体の傾向を引き出すことはできない。とはいえこの目録を見れば、当時の書籍市場に出回っていた書物の多様さに、まず強い印象を受けざるを得ない。そしてまた啓蒙主義の刻印をいたる所に見て取ることができる。ただしニコライはドイツの北部から東部にかけて手広く販売網を広げていたから、それらの傾向はベルリンだけではなく、ライプツィヒを含めた中北部ないし東部ドイツの読書傾向をそこに読み取ることは可能であろう。またこの在庫目録が対象とした18世紀後半の四分の一世紀は、あたかも南ドイツ・オーストリア地域における翻刻本の黄金時代と重なっていたことを想起してほしい。

18世紀後半の出版物

それでは次に、この在庫目録の内容を24の専門分野別に見ていくことによって、18世紀後半のドイツの出版物について瞥見することにしよう。(全部で5492点)

① 道徳、哲学(176点)
ここには主に啓蒙主義哲学者の作品が採録されている。そしてイマヌエ  ル・カント、モーゼス・メンデルスゾーン、クリスティアン・ヴォルフなどの名前が見える。
② 神学(306点)
ここにも啓蒙主義作家の作品がみられる。
③④ 歴史(477点)
非常に広範なグループ。なかでも「プロイセン・ブランデンブルクの祖国史」が、ニコライ書店の所在地ベルリンとの関連で、107点と多い。またプロイセンをヨーロッパ列強の一つに押し上げた七年戦争の終了(1763年)後に新しく発行された歴史文学も注目される。そのほか世界史、伝記、個々の国々・地域・都市に関する地誌、古代・中世・近世の事件史、主な雑誌などが、ここに含まれている。
⑤⑥ 地理と統計(347点)
ここには旅行記(紀行文)192点も含まれている。
⑦ 理学、博物誌、化学、鉱山学(598点)
当時のポピュラー・サイエンスの分野の重要な論文がすべて。また18世紀に淵源をもつ自然科学上の専門文献も。
⑧ 商業、マニュファクチャー、技術、法律、国家学、警察学、財政学(191点)
これは実用的な啓蒙主義文献ともいうべきジャンル。
⑨ 家政学、農業、林業、造園(267点)
これは日常的な実用書。
⑩⑪⑫ 純文学(625点)
ここは⑩詩、⑪演劇、⑫小説の三つに分けられてる。詩の部門では、当時の重要な詩人が勢ぞろいしている。ゲラート、ゲーテ、ハラー、ヤコービ、クロップシュトック、レッシング、シュレーゲル、ヴィーラントなど。演劇及び小説は大部分が、作品別に分類されている。
⑬ 音楽(239点)
実用音楽上の文献と音楽史に関する論文。
⑭ 文芸批評、美術評論(156点)
レッシングに関するP・バイレの作品やヴィンケルマンに関するA・R・メングスの評論などが注目される。
⑮ ドイツ言語学(55点)
⑯ 児童教育、授業、娯楽(216点)
ここには教育学上の文献、当時使用されていた教科書、子供向け雑誌などが含まれている。
⑰ 1760年代、70年代の道徳週刊誌(22点)
すでに道徳週刊誌の時代は過ぎていたが、ニコライはここに採録。多くは復刻版。
⑱ 定期刊行物(53点)
ジャーナル、月刊誌、評論誌など。点数が少ないのは、当時も今日と同様に、雑誌類の保管が難しかったためであろう。
⑲ 様々なジャンル(262点)
ほかのどの項目にも入らないもの。例えば暇つぶしの本とかフリーメーソンに関する本など。
⑳ 軍事学(132点)
ベルリンの書店の特色ともいえる項目。プロイセン軍部の将校や貴族が客。
㉑ ギリシア・ローマの古典文献(274点)
啓蒙主義の時代に、ギリシア・ローマの古典作品が重要な意味を持っていたことの反映。
㉒ ギリシア・ローマ古典文献のドイツ語訳の作品(220点)
ギリシア語、ラテン語が読めない一般読書人が対象。
㉓ 現代諸語の娯楽文学のドイツ語訳の作品(243点)
主として英語、フランス語、イタリア語。
㉔ ドイツで印刷されたか、もしくは入手することができた外国語の書籍(650点)

さて、この目録の中身は、啓蒙時代における書物の買い手の関心のありかを示している。と同時にそこに記載されている書物の題名は、18世紀後半における書物出版の重点の置き方についても伝えているといえる。このニコライ書店の在庫目録を見ると、書物の採録に当たって、書籍見本市のカタログには見られれない特色がうかがえる。つまりそこには自ら啓蒙主義の著作家でもあり、啓蒙思想を広く普及させようと考えていた出版人ニコライの気持ちが反映されているのである。そしてこれは、啓蒙時代に先進地域であったドイツ中北部の書籍出版の一般的傾向をも代表するものと解釈できよう。

18世紀後半におけるドイツの出版社所在地

ニコライ書店の在庫目録を子細に眺め、収録点数一点までの出版社の所在地を調べてみると、その多様なことは驚くぐらいである。その数は全部で105か所にも及んでいるが、これは当時のドイツの小国分立状態に、まさに対応したものと言えよう。しかし1815年のウィーン会議の結果、こうした状態はかなり整理統合され、出版界にもその影響は及んだ。その結果1815年以降になるとドイツの出版社分布図は大きく塗り変えられたわけであるが、今はその前の状況を見ることにしよう。

さて在庫目録から出版社の数が三つ以上の都市を選んで、順番に並べたのが次の表である。

ドイツの出版社所在都市(出版社数の順)

出版社所在都市名    出版社の数    収録点数
1.ベルリン         25     859
2.ライプツィヒ       24    1321           3.フランクフルト      15      175
4.ニュルンベルク      15      154
5.ウィーン         13      123
6.ハレ           10      237
7.ハンブルク          9     176
8.コペンハーゲン        6      36
9.ゲッティンゲン        5     143
10.ブレスラウ          5     121
11.バーゼル          5      67
12.シュトラースブルク     5      35
13.アウクスブルク       5      31
14 チューリヒ         4     137
15.ケーニヒスベルク      4      22
16.ドレスデン         3     175
17.ブラウンシュヴァイク    3      62
18.エルフルト         3      24
19.ヴィッテンベルク      3      17
20.ミュンヘン         3      14
21.イェーナ          3      13
22.アルトナ          3      10

この表によると、105か所のうち、三つ以上の出版社があった都市は、わずか22か所しかないことが分かる。これは一都市に一つないし二つの出版社しかない所が、いかに多かったという事を逆に示しているわけである。また出版社の数と収録点数が比例関係にないことが分かる。これが著しいのが、とりわけフランクフルト、ニュルンベルク、ウィーンといった南ドイツ・オーストリアの古い都市である。これらの都市には当時なお沢山の出版社が存在していたが、その収録点数は、ライプツィヒ及びベルリンに比べると、極めて少ないことが分かる。これらの都市の出版社はこの時期にはあまり新刊書の出版をせずに、主としてドイツ中北部の出版社のオリジナル作品を翻刻出版していたからである。とはいえこれら三都市は何といっても伝統的な出版都市で、他の都市に比べればなおこの時期にも、新刊書をかなり出版していた事実も否めない。これと肩を並べているのが、中北部のハレ、ハンブルク、ドレスデン、ゲッティンゲン、ブレスラウそしてスイスのチューリヒである。

以上のことをもう一度まとめてみよう。出版社の数及び新刊書発行点数という二つの観点から、18世紀後半期の上位10位までの出版都市を、上から順に並べたのが次の表である。

十大出版都市(ニコライ在庫目録から見た)

1.ライプツィヒ 2.ベルリン 3.フランクフルト 4.ニュルンベルク
5.ウィーン 6.ハレ 7.ハンブルク 8.ゲッティンゲン 9.ブレスラウ 10.ドレスデン

いっぽうライプツィッヒ見本市カタログに載せられた新刊書の点数から上位10位までの出版都市をランク付けしたものが、次の表である。

十大出版都市(見本市カタログから見た)

1.ライプツィヒ 2.ベルリン 3.フランクフルト 4.ハレ 5.ニュルンベルク 6.ゲッティンゲン 7.ハンブルク 8.ウィーン 9.ブレスラウ 10.ドレスデン

ここでも見本市都市ライプツィヒの優位には確固たるものがある。次いでプロイセン王国の王都ベルリンが、プロイセン啓蒙主義のセンターとしての気をはいている。また古い商業都市フランクフルト、ニュルンベルク、ハンブルクは、啓蒙主義文献の仲介者としての役割を果たしている。そして新しい精神と啓蒙思想の牙城であったハレ、ゲッティンゲンといった大学都市も、出版面で啓蒙思想を普及することに貢献したことが分かる。当時翻刻出版が隆盛を極めていたウィーンも、新刊書の発行点数でかなりの地位を占めていたことが注目される。これは啓蒙専制君主ヨーゼフ二世の意向によって、新刊書を通じても啓蒙思想の普及が図られていたことを示すものと言えよう。

第三章 翻刻出版の花盛り

先に述べたように、ドイツの書籍出版販売界は18世紀から19世紀への変わり目ごろ、近代化への転換を遂げた。ところが北ドイツの出版界の近代化へ向けての改革運動に対して、南ドイツの帝国書籍業者は翻刻出版の大々的実行をもって応じたのであった。この翻刻出版の黄金時代は1765-1785年の二十年間といわれている。翻刻出版は北ドイツの書籍業者からは、「海賊出版」行為だとして非難されていたが、それ自体ドイツの出版文化に対してはマイナス面ばかりをもたらしたわけではなかった。そこでここでは、この時代の翻刻出版が抱えていた様々な問題を、その功罪を含めて考えてみることにしよう。

さて1785年6月28日付けのフランスの新聞「ジュルナール・ジェネラール・ドゥ・リューロップ」の記事は、書籍の海賊出版が18世紀にあっては、全ヨーロッパ的な現象であったことを示している。またイギリスのオリジナル出版社は、フランスのオリジナル出版社と同じ立場から、オランダやアイルランドに海賊出版社がいることを考慮に入れねばならなかったという。

またこのころドイツのフランクフルトで「翻刻出版業者年鑑」というものが発行されているのである。これはフランクフルトを盟主とする帝国書籍業者の間に、当時いかに多くのものが翻刻出版に携わっていたかという事を示す有力な証拠物件である。そしてこのころの南ドイツ・オーストリア一帯ほど、人々の文化的・社会的生活の発展にとって、書籍の翻刻出版が重要な意味もっていた所はほかになかったのである。ある意味では「翻刻出版の黄金時代」には、ドイツ書籍業界全体が、この問題を中心に動いていたと言えるぐらいなのである。翻刻出版は数十年間にわたって、法律家の学術論文の対象となったり、告発者と弁護者の間でパンフレットによる激しい論争が繰り広げられたり、文芸雑誌の繰り返される討論のテーマとなったりしたのだ。

翻刻出版の黄金時代

ライプツィヒを中心とするザクセン地方の書籍業者による、帝国書籍業者に対する「宣戦布告」によって、翻刻出版の黄金時代(1765-1785)は現出した。当時の帝国書籍業界の大部分にとっては、この翻刻出版こそは生き残るための「希望の星」だったのだ。実際問題としてライプツィヒの出版社が出してきた価格および取引の条件は、帝国書籍業界にとっては、とてものめるものではなかった。そのため帝国書籍業者たちは、北ドイツで出版された書籍を基にして原出版社に断りなしに新たな版型を作り、印刷をするという翻刻出版に踏み出していったのである。

同時にこれら翻刻出版社は、従来の書籍販売のルートである見本市に代わって、新たな販売方法を開発した。常駐の書籍販売商のいない地域では、彼らは製本業者、小規模書籍商そして小さな町や村をとことこ歩いて回る行商人をつかまえた。そのほか村の司祭、宮廷の家庭教師、学校の校長先生さらに学生にまで、書物の販売を委託した。この方法はことのほか成功を収めた。その結果翻刻本は、わずか数年の間に、従来の書籍商が決して入り込むことができなかったような、はるか遠方の片田舎にまで浸透するようになった。安い価格と最良の書物の選択が読者をひきつけた。それまで一生本を買うことなど考えもしなかった人も次第にちょっとした本の収集をするようになった。それまでは高価なゆえに「高嶺の花」だった書物を、ドイツの片田舎の人々が手にするようになったのだ。彼らは初めは翻刻版のちょっとした文庫に手を触れ、それらを通じて読書の習慣を身につけていった。しかしそれだけにはとどまらず、彼らの書物への熱望はますます強まっていった。そしてそれとともに彼らの読書への趣味・嗜好は一般的に洗練されていった。これは一口に「読書革命」といわれているもので、これについては後にもう一度詳しく見ることにしたい。

さてこうした読者層の拡大を背景に、翻刻出版はその黄金時代を迎えたわけであるが、次にそうした出版に携わっていた人々のことに触れることにしよう。前述した1765-85年という僅か20年の間に、ウィーンのトラットナー、フランクフルトのファレントラップ、そして南西ドイツ、カールスルーエのシュミーダーといった翻刻出版の「王様たち」が、大々的に翻刻出版のシリーズ・プロジェクトを展開した。中でもシュミーダーは、その名前から後に海賊出版することがドイツ語でschmiedernとも呼ばれるようになったぐらい、関係者や研究者の間では、悪い意味で有名な存在である。

とはいえこのシュミーダーもトラットナーと並んで、その出版プロジェクトを通じて、一種の国民教育的意図を実現しようとしていたことは認めねばなるまい。つまり彼は1774年、啓蒙期ドイツ文学の全集を企画・編纂したのであるが、そこには百科全書的な概観が与えられた。当時需要はなおわずかなものであったにもかかわらず、作家の選定に当たっては完璧を期したといわれる。シリーズのタイトルは「ドイツ作家・詩人選集」というものであったが、それは啓蒙期ドイツ文学の優れた概観を提供していた。これとは別にシュミーダーは、通俗作家や評価の低い作家の作品も扱ったりしていた。こうして1780年ごろ、シュミーダーの翻刻出版活動の第一段階は終わった。

純文学に対する読者の要望はオーストリア地域でも高まり、それへの充足が同様に翻刻出版の形で行われた。先に挙げたトラットナーは1765年、シュミーダーに先立ち純文学作家の作品の翻刻出版に踏み切り、以後次々に出版していった。ところがトラットナーは20年後の1785年には、非文学的で百科全書的な内容のシリーズ出版を企画した。そのプログラムは「学問のあらゆる分野を含む書物の廉価な調達によるオーストリア帝国における読書の一般的普及に関する計画」という、物々しいタイトルをもっていた。この1785年という年は翻刻出版の黄金時代の終末期に当たっていたが、このころになるとオーストリアの読書大衆は北ドイツ文学の代用品に飽きが来ていたのかもしれない。

とはいえ1765年のトラットナーの、そしてとりわけ1774年のシュミーダーの文学全集計画は、「読者の嗜好におもねっただけの安手の海賊出版」という、従来しばしば行われてきた非難が、必ずしも当たらないことを示している。そこで翻刻出版の対象となった作品はむしろ評価の定まったものであり、逆に翻刻出版されないような書物はオリジナル版の購入にも値しないものだ、という認識すら出てきた。こうして啓蒙期の優れたドイツ文学の作品は、南ドイツやオーストリアにあっても、関心のある人にはいつでも手に入れることができたのであった。

さて今までは南ドイツやオーストリアにおける翻刻出版について述べてきたが、北ドイツ地域でも、南ほど盛んではなかったにせよ、翻刻出版は行われていたのである。そしてこの北ドイツにおける翻刻出版こそは、北のオリジナル出版社にとって危険な要素とみられていたわけである。北ドイツ地域にも、正価販売の書籍が高すぎて手に入らない人々がたくさんいたからである。そのためこの層の人々が安い翻刻版に飛びつくのは、いわば当然のことであった。

たとえばウィーンの翻刻出版の王様と呼ばれたトラットナーは、東北ドイツのマグデブルクにヘヒテル、そしてヴォルフェンビュッテルにマイスナーという代理店を持っていた。また北ドイツのハンブルクのある郵便局員は、シュミーダーやフライシュハウアーの翻刻版を売っていた。そして東北ドイツ、ザクセン地方のドレスデンのタバコ業者は、手に入る翻刻版の100点を超すリストを、自分の店で配っていた。さらにこうした類いの翻刻版についての広告は、北ドイツのインテリ向けの雑誌の中にもみられた。こうした翻刻版の普及によって北ドイツのオリジナル出版社は、確かに利益の一部を奪われた。しかしそれは経営の存立を脅かすほどのものではなかった。とはいえ中北部のドイツ一帯へのへの翻刻本の進出によって、ライヒが始めた正価販売方式(返品権のない現金払いと低い割引率)を長期にわたって存続させていくことは困難になった。かくして帝国書籍業界が提示し、発展させた条件販売方式を、やがて中北部ドイツの書籍業者も採用することになったわけである。

ところで反対陣営から絶えず非難されていた翻刻版業者の法外な利益という事も、実際は事実に反するようである。常に引き合いに出される例のトラットナーは、200人の従業員と37台の印刷機を所有した企業主であったが、その活動の多くはオリジナル出版社としての業務に当てられていた。またベルリンの書籍業者F・ニコライは、彼の翻刻版業務が全体の出版活動のごく一部しか占めていないことを明らかにしている。さらに「翻刻版業界の帝王」などと呼ばれていたシュミーダーも、実はその経営は小規模なものであった。かれは1808年に出版業ををやめることになるが、その後の生活は決して贅沢なものではなかったという。そして1827年、彼は小さな王国の下級官房職員として死んだ。

翻刻出版に対する学者・作家の反応

それでは当時の学者や作家はこの翻刻出版の問題をどのように見ていたのだろうか。時代は少しさかのぼるが、17世紀バロック時代の小説家グリンメルスハウゼンは、その代表作『ジンプリツィシムスの冒険』の第四版の中で、海賊出版に対して異議を申し立てている。同様に教養あるシュヴァルツブルクの宰相フリッチュも、1675年に世に出した小冊子の中で海賊出版を非難している。
しかしイエナ大学法学部が1722年11月に出した鑑定書の中では、「何人も政府から特権をが認められない以上、著者も出版社も他人に対して翻刻出版を禁止する権利はない」との見解が示されている。この見解に従って南ドイツ、チュービンゲンのある印刷・出版業者は1744年、ヴュルテンベルクの領主から一定の条件付きで、翻刻出版の認可を受けている。

ところが海賊出版に対する評価には、時の経過とともに根本的な変化がみられるようになった。当初は印刷業者または出版業者だけが、海賊版の被害者だとみなされていた。しかしその後、精神的所有権に関する教説(今日問題となっている<知的所有権>の萌芽とみられる)が、相次いで出されることになった。つまり作品に対する著作者及び出版者の所有権は、その対価として作品の使用権をも含むものだ、とする考え方である。そしてこの考え方から海賊版に反対しているのである。ゲッティンゲン大学法学部教授G・C・リヒテンベルクになると、海賊版論難の調子は高まり、「闇印刷屋」とか「泥棒」といった表現すら用いているのだ。

いっぽう文学者のG・A・ビュルガーは、著者及び出版社のための保護機関を設立する計画を立てたが、これは実現しなかった。先にも紹介した作家のレッシングは「海賊出版業者は、自ら種をまかないで収穫だけをさらっていく者であり、その行為は恥ずべきである。ただドイツにはこの問題を解決するための有効な法律が存在しない」と嘆いている。さらに時代が下って1785年になると、哲学者のカントが『ベルリーナー・モナーツヘフト』という雑誌の中で、「海賊出版社の不法行為について」という文書を書いている。1791年には同じく哲学者のフィヒテが同様の試みをしている。また宮廷付き図書館司書のカイザーなる男は、レーゲンスブルクで発行された文書の中で次のように述べている。

「海賊出版社はリスクをもっぱら原出版社に負わせている。ある作品の成功の見通しがついた時に、海賊出版社はやってきて、原出版社から利潤の上前をはねているのだ。そして彼らは、結局失敗した投機には手を出さずに済んでいるのだ」

これに対して今日でもよく聞かれる海賊版擁護論もあった。それはつまり、海賊版によって書物ができる限り廉価に市場に出回ることは結構なことだし、社会的観点から見ても有益なことである、という考え方であった。この考えを表明したのは、A・F・v・クニッゲであった。彼は思想の所産が普及することに対しては、何人も異議をさしはさむことはできないとした。またC・S・クラウゼはルターを思わせるような考えを1783年に表明している。そして作家にとってその思想が、たとえ翻刻版を通じてであれ、広まることはむしろ望ましい事だと述べている。

1760年代の翻刻には、外観内容ともにオリジナル版と肩を並べるか、時には凌駕する者さえあったことは事実である。ところが1770年代も末になると、海賊版は全体として造本の点で見劣りし、魅力を失っていった。これは主として値段が安いことからくるのであるが、灰色のたるんだ紙の使用、粗末な造本、スペースを節約した印刷、そして数多くの誤植から、時として文章の意味さえ違ってくるものもあった。また元のテキストを自由に短縮したり、切断したりしての出版もあった。

このようなこと全てに対して、少なからぬ作家がふんげきしたのも無理からぬことであった。なぜなら彼らはその頃まさに目覚め始めた作家的自意識をないがしろにされたと感じ、また自分たちの精神的産物の不可侵性を無視されたと感じたからであった。

ところがこうしたあらゆるマイナス面にもかかわらず、翻刻出版には大きなプラス面があったことも、ここで繰り返し強調しておきたい。それはこの翻刻版を通じて初めて、北ドイツの作家たちの作品が、南ドイツないしオーストリア方面に知られるようになったのであり、そのことによって彼らは、当時急激に増大していた「新しい読者層」を獲得することができたからであった。

海賊出版がドイツで禁止され、近代的な版権・著作権の概念が確立するのは、ようやく1830年になってからのことなのである。

領邦国家の保護政策と翻刻出版

以上みてきたような翻刻出版の隆盛を考える場合に見落としてならないことは、国家の保護政策が果たした役割である。17,18世紀のドイツは、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国との間に複雑な関係があったが、実質的には大小無数の領邦国家から成りたっていたわけである。17世紀初めに導入された書籍の交換取引にしても、そうした無数の国々が発行していた通貨が、その内部でだけしか通用しなかったことからくるわけである。

それからドイツの領邦国家は17世紀にはいると重商主義思想の一変形ともいえるカメラリズムを、国家の政策の中心に据えるようになった。これは自国の通貨をできるかぎり国の外に流出させないことによって、富国策を図ろうとした当時の君侯中心の考え方であった。ドイツの大小無数の領邦国家やハプスブルク家のオーストリアは、輸出入管理法及び関税という手段によって、これを可能にしていた。これはつまりドイツ内部の地域的保護政策であるが、18世紀の後半になってもなお、このカメラリズムがドイツの書籍出版販売に影響を及ぼしていたのである。

書籍の取引が国と国との境を越えて行われるとき、17世紀初めから続いてきた交換取引の方式ならば、自国の通貨が外部に流出しないので、カメラリズムの政策にとって支障がなかった。ところが18世紀の60年代に入ってライプツィヒの書籍業者が始めた現金取引が、領邦国家のカメラリズム的地域経済政策に障害を及ぼすことになったのである。とりわけ南ドイツやオーストリアの書籍業者がライプツィヒ見本市で取引しようとすると、それら書籍業者が属する領邦国家の通貨を国外に流出させることになるからであった。こうした理由からそれらの国の君侯は、自国の金が流れ出ていくことがない翻刻出版を支援するようになったわけである。そうした君侯の意向を察知した翻刻出版業者の一人は、自分のところの君侯に次のような申し出をしている。

「翻刻出版というものは、帝国の諸国にとって極めて大きな政治的重要性を有する事業であります。(北ドイツで)重要な書物が出版されますと、様々なルートを通って金はザクセンへと流出します。しかし(翻刻出版を採用すれば)金は帝国内にとどまり、ザクセンとの貿易収支のうえで、私どもが失うことはないのです。つまり住民に食料を供給し、君侯の金庫には金を流し込むような新しい事業を起こす必要があるのです」

自国の住民が外国の独占業者からだまされたり、甘い汁を吸われたりするのを未然に防ぎ、「適正な」商品価格を維持することは、当時の領邦国家の当然の義務と考えられていた。こうした考えから、北ドイツのプロイセン王国政府ですら、1765年に次のような見解を表明しているわけである。

「もしある書物の本来の出版社が買い手を著しく傷つけた場合には、翻刻出版は許されるべきである」

こうした見解にもとづいて、ベルリン在住の書籍業者パウリは、作家ゲラートの作品の翻刻出版を許された。

とはいえ翻刻出版に最も熱心であったのは、オーストリアであった。18世紀半ばオーストリア書籍出版量は極めて少なく、もっぱら北ドイツ方面から輸入せざるを得ない状況にあった。このため例えばザクセン地方、ドレスデンの書籍業者C・G・ヴァルターは、1765年一年間に、オーストリアの書籍業者との取引で、4万グルデン以上の儲けを手にしたという。こうした状況を放置しておけば、オーストリアの金はどんどん国外に流出する一方であった。

そのため自国の書籍業者を翻刻出版へと誘うことは、まさに経済的理性の命ずるところであったのだ。啓蒙専制君主であったオーストリア女帝マリア・テレジアは、書籍業者トラットナーと初めて会見したとき、次のように言ったという。

「トラットナーよ、書物を生み出すことこそが、わが国家の原理です。それなのに目下わが国には、書物は少ないのです。ですから書物はどんどん印刷されるべきでしょう。オリジナル作品が出てくるまでは、翻刻出版を行ったらよいのです。翻刻出版するのです!」

こうして自国の翻刻出版を保護するために、オーストリア政府は該当する作品のオリジナル版の輸入を、意図的に許可しなかったのである。
同様の保護をバーデン辺境伯は、その所領内のカールスルーエ在住の例の書籍業者シュミーダーに与えたのである。さらに当時経済状態が部分的に極めて劣悪だった帝国直属都市(たとえばロイトリンゲンのような)にとっては、翻刻出版は「背に腹は代えられぬ」ものだったようだ。

国家の重商主義政策にとって、文化政策も一役買った。国家の財政負担をかけずに啓蒙思想を僻遠の地にまで広めるのに、翻刻出版は願ってもない存在だったのだ。マリア・テレジアの後継者のオーストリア皇帝ヨーゼフ二世にとっては、自分の抱いていた啓蒙思想の普及にとって、翻刻出版こそは不可欠の要素だった。彼は国内の学者陣営からの激しい攻撃をものともせずに、これを推進したのであった。
このヨーゼフ二世と同じ考えから、先のバーデン辺境伯やバンベルク司教、ヴュルツブルク司教などの啓蒙的諸侯は、翻刻出版を支持したのであった。南ドイツの大きな領邦国家のなかでは、ヨーゼフ二世の啓蒙思想が及んでいなかったバイエルン王国だけは事情が違っていて、そこにはわずかな例外は除いて、組織だった翻刻出版産業は見当たらなかった。

一般に南ドイツの帝国領域内の領邦国家の中では、いわゆる海賊版に対する苦情や訴えは、国から認めてもらえなかった。当時のドイツにあっては、そうした領邦国家こそが権力の保持者であったからである。そのため翻刻出版に対する保護も領邦国家の君主が認めればよいのだが、逆にそれは領邦を越えた書籍取引には役に立たなかった。こうした領邦主権の中では、改革派の書籍業者に対するザクセン王国政府の特権付与も、南ドイツのヴュルテンベルク王国における翻刻出版を妨げるものではなかったのである。

 

中欧見聞録(後編)

はじめに

「中欧見聞録」前編では、ポーランドのワルシャワ、クラクフ、ザコパネ及びハンガリーのデブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウベントなどを旅した記録をご紹介した。

今回の後編では、北イタリアのトリエステ、スロヴェニアの首都リュブリアーナおよびチェコスロヴァキアのブラティスラヴァ、プラハ、カルロヴィ・ヴァリについて、ご紹介することにする。

北イタリアのトリエステ

アドリア海北東部のトリエステ及びリュブリアーナ

8月21日: 5日間にわたるブダペスト滞在を終え、東駅からオーストリアのク ラーゲンフルトを経て、イタリア北東部のトリエステへ向かう。列車の都合でクラーゲンフルトに一泊した後、ユーロシティに乗り、オーストリア国境の町フィラッハからイタリアへと入る。途中列車はアルプスの折り重なる山並みの間の狭い土地を縫うようにして南下していく。時に道路と並行し、時に清流を横切り、また短いトンネルを十数回にわたってくぐりながら、列車は次第に下降していく。左手には切り立った峨峨たる山頂も見えたが、やがてアルプスを最終的に潜り抜けたかと思うと、もうそこは北イタリアの平野であった。

ウディネで列車をローカル線に乗り換え、ようやく目的地のトリエステに到着した。ここはアドリア海の北岸に面し、ユーゴのスロヴェニア共和国との国境の町である。ここを訪れた目的は、トリエステがかつてオーストリア・ハンガリー帝国の海への玄関口だったので、現在どの程度その痕跡が残っているものか、知りたいことにあった。

午後4時近く中央駅に降り立つと、強烈な日差しが照り付け、朝方セーターが必要だったクラーゲンフルトとは大違い。ベルリンの旅行社で予約したホテルの名前を告げてタクシーに乗り込んだが、着いた所は駅から西へ20キロも離れたドゥイノという海べりの小さな町のホテルであった。駅で100マルクを両替えして74,000リラを受け取ったが、タクシー代に37,000リラ(50マルク)、そして薄っぺらな市街地図に8,000リラ(9.3マルク)取られ、イタリアの物価高にびっくりする。おまけにトリエステ見物に不便極まりない所へ連れていかれ、一時は途方に暮れたが、結局二泊の予定を一泊にちじめ、トリエステ見物は翌日の午前中だけにする。そして一時はあきらめていたスロヴェニア共和国の首都リュブリアーナへ、午後から行くことに決心する。

8月23日: トリエステは数時間かけて、海を一望のもとに望む丘の上の城や港の周辺一帯を見て回った。しかしそこにはハプスブルク時代の面影を残すものは、これといって何一つなかった。しかし『中欧の復活』にも書かれている通り、ウィーン風カフェーハウスの老舗「サンマルコ」の再開、トリエステとリュブリアーナを結ぶ運河を建設するプロジェクト、アルペン・アドリア同盟など、最近ではイタリアも中欧諸国との結びつきを強めつつあるので、今後の成り行きではこのトリエステの町がどのような役割を果たすことになるのか、興味深いところではある。またこの港がアドリア海を通って、ユーゴのクロアチア共和国の海岸諸地域とも結ばれていることを、港周辺の散歩で確認した。その意味でイタリアは今後、オーストリアやドイツと協力して、スロヴェニアやクロアチアの西側への組み込みに積極的な姿勢を示すことが予想される。

そのスロヴェニアの首都リュブリアーナ行きを決心させたのは、ドゥイノのモーテルのフロントの女性だった。幸いこの女性はドイツ語を話し、いろいろ親切に教えてくれたので、ついでにスロヴェニア情勢について尋ねたところ、もう戦争は終わり、今では平和なので旅行は問題ない、との返事が戻ってきた。こうして午後1時40分の列車でトリエステ中央駅を出発して、リュブリアーナへ向かう。

スロヴェニアの首都リュブリアーナ

列車はアドリア海の真夏の太陽が照り付けるトリエステから、次第にカルスト台地の石灰岩がごろごろしている山地へと入り、やがてかなり広々とした盆地につく。そこにリュブリアーナがあったのだが、わずか3時間の行程であった。しかし気候風土はアドリア海岸一帯とはまるで違い、もうそこはアルプスの国なのだ。現にこの国では「アルプスの南側にある国」として、バルカンのセルビアその他と違って、中欧に属することを売り込んでいるのだ。

スロヴェニアは1991年6月末から7月初めにかけて、セルビア軍と戦ったが、この戦争は幸い短期間で終わり、戦火は隣のクロアチアに移ったわけである。リュブリアーナの町を散歩中、本屋のショーウインドーで、『スロヴェニアを巡る戦争、1991年6月26日~7月8日』という写真入りのドキュメントを見かけた。本屋に入り、この本をぱらぱらめくってみたが、分厚い立派な体裁の書物で、戦況その他が詳しく叙述されていた。スロヴェニア語、独語、英語の3種類が出ていたが、独立を宣言したスロヴェニアがそのことを、ヨーロッパや世界に向けてアピールした本なのである。

さて時間は前後するが、中央駅で降りてから案内書に書いてあった代表的なホテルの中で一番駅に近いコンパス・ホテルに入り、空き室を訪ねたところ、一人部屋が簡単に取れた。普段ならドイツ,オーストリアをはじめ、西ヨーロッパ諸国から大量に観光客が押し寄せる時期なのだが、戦争の終了を知らないために、ぐっと減っているのだ。

ホテルで一休みしてから、夕暮れのリュブリアーナの町へ散歩に出る。街並みは一見してオーストリアの町とそっくりであることに気づく。市域は狭いので、見てまわるのに時間がかからない。オペラハウス、博物館、美術館が集まっている地区を歩いてから、旧市街との境をなす川のほとりに着く。すでに日はとっぷりと暮れて、旧市街の中心を占める丘の上にある城の時計台が照明されて、美しく浮かび上がって見える。そして川辺のレストランは、夏の宵を楽しむ人々で賑わっている。私もそうしたレストランの野外テラスで食事をとる。

たっぷり飲み食いし酔い心地の中で、請求書を見てその安さにびっくりする。イタリアの物価高に逃げ出してきたばかりのことでもあり、なおさらのことであったのだ。ちなみにユーゴでは近年ものすごいインフレで、桁数のやたらと多い紙幣を発行してきたが、少し前にデノミを実施して、桁数の少ない新紙幣に切り替えた。しかし古い紙幣もまだ出回っている。

現に私もホテルでマルクをユーゴ通貨のディナールに交換したが、新旧の紙幣を混ぜて渡されたので、一瞬頭が混乱した。その時の説明では、桁数の多い紙幣例えば
100,000ディナールは、0を4つ取って10ディナールに読み替えよ、というのであった。その後スロヴェニアでは独自の通貨を発行したと伝えられているが、新旧のディナール札はどうなったのであろうか。

スロヴェニア、オーストリア、チェコ・スロヴァキアあたりの地図

チェコスロヴァキアのブラティスラヴァ

僅か一泊とはいえ大変印象深かったリュブリアーナ滞在を終え、昼過ぎに出発して、こんどは南から北へとオーストリアのウィーンに向かう。途中、マリボルやグラーツを経由しての路線だが、クラーゲンフルト~フィラハ~ウディーネの路線ほど険しい山中を走るというものではなかった。地図を見ると、マリボル辺りでアルプスの東端が終わって、ハンガリーに続く平原が始まろうとしている。列車はオーストリア東部を北上して、6時間半かかってウィーンに到着した。この町には二泊したが、ここでの体験は省略して、チェコスロヴァキアのブラティスラヴァへと進むことにする。

8月26日:このスロヴァキアの大都会はドナウ川に面した町なので、ウィーンからドナウ汽船を利用することにした。午前8時45分高速の遊覧船は大きな橋の傍らの発着所を出発し、ドナウ川を東へと向かう。もうこの辺りは平地で、両岸は緑の生い茂る所ばかりで少々退屈したが、わずか1時間でブラスティラヴァに到着した。船着き場の建物の中で旅券の検査。ビザは必要だったが、通貨の強制交換制度はなくなったと見えて、何の指示もなかった。しかしチェコの通貨コルナは必要なので、5日分としてとりあえず200マルクを交換する。

1981年にプラハを訪れた時に比べて係の人の態度が柔らかく、愛想がよくなっている。直ちにタクシーをつかまえて、予約しておいたホテル・フォーラムへ向かった。そこは旧市街の北の端に位置し、ブラスティラヴァで最高級のホテル。ひときわ目立つ所に建っている。一泊87ドル=148マルクとさすがに高いが、設備はよい。

一休みしてから旧市街見物に出かける。今まで幾つとなく見てきた旧市街と比べると、格段に見劣りする。泊まったホテルの豪華さと釣り合いが、取れていない。かつては素晴らしかったと思われる古い建物が老朽化して薄汚れ、観光用に目玉となるいくつかの記念建造物を除いては、ひどい状態にある。各所で工事中の足場が組まれ、空き家や崩れかかった家もある。案内書に書かれているような「落ち着いた雰囲気」どころではなく、はなはだすさんだ感じだ。

次いで旧市街の端にある丘の上の城へ登ってみる。この城も修築中で、中に入れない。長く放置されたままになってきた旧市街の由緒ある建物や城など、今ようやく改修工事に手が付けられたといったところだ。ただ丘の上からの眺望だけは文句なしに素晴らしい。ドナウ川の向こうには高層の住宅団地がたくさん立ち並び、市街地のかなたには工場の煙突群が林立しているのが見える。ハンガリーのエステルゴムの大聖堂横から対岸のスロヴァキアを眺めた時も、工場施設が目に付いた。しかも両者ともかなり旧式な重工業施設のようである。ここはチェコではなくて、スロヴァキアなのだ。最近になってチェコ(プラハ)の中央政府に対するスロヴァキア側の不平不満の声が時に報道されているが、この辺りの実情を見た者には、こうした不満の声(分離独立ないし大幅な自治の要求)もよく理解できる。

8月27日:翌日ホテルでの朝食時、日本人のビジネスマンと同席し、いろいろ話す。日本企業のドイツ支社に勤務していて、東欧諸国へは仕事で出張するとのこと。この日も朝9時からドナウ川の船上で、ビジネスの会合があるとのこと。チェコスロヴァキアへの日本企業の参入は、これからのようだ。

この人と別れて、朝食後大急ぎでタクシーに乗り、ブラスティラヴァの中央駅に駆けつける。ちょうど朝のラッシュ時に当たり、駅構内は大混乱。中央駅といっても、小さく粗末な建物で、しかも工事中のためここも荒れていて、終戦後の上野駅といった感じだ。

チェコのプラハ

午前9時過ぎ列車は西へ400キロ離れたプラハへ向け発車。この日は朝からどんより曇っていて、憂鬱な気分。車窓の景色もハンガリーに比べると、やや自然が荒れた感じだ。この区間は特に工業地帯はないらしいが、建物が老朽化した印象をあたえる。ようやくのことで3時過ぎに列車はプラハ本駅に到着した。

空腹を感じたので構内レストランへ入る。室内は堂々たるホールで、柱にはユーゲントシュティル風の女性像が描かれているが、テーブルや椅子などの調度品が粗末きわまわりなく、安食堂の感じだ。かつては豪華だったホールを、大衆用の食堂として長年使ってきたのであろう。もちろん党役員などはこんな所を利用しなかったであろう。後に述べるようにブルタバ(ドイツ語でモルダウ)河畔や旧市街の広場に立ち並ぶ優雅な建造物は、きちんとした改造が施され、以前にもまして光り輝いている。観光客が集まる所だから当然の措置であろうが、その他の建物は取り残されているのだ。さて駅の構内食堂では、粗末な身なりの人々が、ほとんどすべてビールの大ジョッキを傾けている。私もビールと簡単な肉料理を注文した。出てきたビールは、さすがピルゼンなど本場も近いだけあって、大変うまい。ただしナイフやフォークなどは、日本でも終戦直後には見られた安手のアルマイト製だった。

食後表に出てタクシーに乗り、予約したトランジット・ホテルへ行くように告げる。旅行社のリストには住所と1泊100マルク程度と書いてあるが、返事が届いていないので、とにかくホテルに行くよう指示されていたのだ。しかしホテルは本駅からかなり離れた郊外にあり、しかもホテルというよりは粗末きわまりない木賃宿といった所であった。だまされたように感じながらも、確かに予約だけは通じている。部屋には粗末なベッドと洗面台に壊れかかった衣装戸棚があるだけで、一泊の値段も朝食なしで1,700円とめちゃくちゃに安い。それだけに水回りの設備から、壁紙、ドアの取っ手に至るまで、粗末極まりない。ブラスティラヴァのホテルが最高級であっただけに、天国から地獄へ堕ちた思いがした。

プラハはもともとホテルが少ないところへ、改革以来トゥーリストが殺到して市内にホテルをとるのは難しいとは聞いていたが、その通りなのだ。つまりチェコの庶民が利用する宿屋を紹介されたというわけだ。しかし私にとっては、チェコスロヴァキアの庶民の生活水準の一端を知るうえで、大変貴重な経験ができた点、ありがたいと思っている。

さて宿にいても仕方がないので、教えてもらったバスと地下鉄を乗り継いで、30分ぐらいで都心部に出る。地下鉄の駅を上がると、ベルベット革命のときに大集会が開かれた目抜きのバーツラフ大通りへ出る。さすがにこの辺りは観光客でいっぱいだ。そこから古い石畳の道を幾つも通って、ブルタバ河畔に着く。そこには「5月1日橋」という名前の、川中島をはさんで架かった、とても趣のある優雅な橋があった。

斜め向かいの丘には王城が聳え、隣には有名なカレル橋が見える。橋を渡ってから、川に沿ってカレル橋まで歩いていく。あたりの川岸には、柳の木が並んでブルタバの川面にその姿を映していて、とてもロマンティックな景色だ。カレル橋に着くと、案内書の説明通りに、周囲の風景を描いた絵を自分で売っている人、土産物売り、あるいは橋の欄干に寝そべっている若者たちの姿が見え、その間を縫うようにして大勢の観光客が往来している。

橋の欄干には一定の間隔を置いて、それぞれ15の彫像が立っている。これは映画やテレビなどで幾度となく紹介されてきたプラハの代表的な風景なのだが、近づいてよく見ると、これらの彫像には鳩の糞やクモの巣が付いていて、かなりすすけた印象を与える。写真やフィルムに撮るときは、離れた所からシルエットにして浮かび上がらせれば、こうした汚れは隠されてしまうのだ。

ともかく夏も終わりの午後7時半、落日に映えるカレル橋とブルタバ川そしてその背後に控えた丘の上の城の眺めは、やはり一級品の名画だ。しかしブダペストのドナウ河畔の眺めが、スケールも大きく、あくまで華やかにきらきらと輝いているのに対して、ここプラハのブルタバ河畔は、もう少し抑制のきいた、渋くしっとりとした、いぶし銀の美しさといえよう。

8月28日:翌朝くだんの安宿の食堂に出向く。ここは朝食が別料金で、しかもバター、チーズ、ハム、ソーセージ、ジャム、卵、コーヒー、ジュースなどに、一つ一つ値段がついている。メニューに載ったこれらの品を全部注文しても、たいした値段にはならない。こうした節約した質素なやり方は、今回の旅行でももちろんこのプラハの安宿でしか経験していない。

二日目もバスと地下鉄を利用して旧市街に出て、昨日見なかった地域を中心に探索を続ける。そして夜になって旧市街の一角の大きなアーケードの中にあるLucerna
Bar を訪れる。Barといっても日本流の小さな店ではなくて、キャバレーかナイトクラブといった感じだ。ここで「ボヘミアン・ファンタジー」というディナーつきのショーを見る。もちろん外国人観光客用の催し物で、英・独・仏・伊・スペイン語を自由自在に操る男性が司会をして、ボヘミアの民族色を強く打ち出した歌や踊りを見せるものだ。ブダペストの初老のバスガイドの女性といい、ここプラハの男性司会者といい、小国には時として舌を巻くような語学の達人がいるものだ。

地下三階の大きなホールの平土間にテーブルが並び、食事をしながらショーを見る仕組みになっている。私が同席した相手はカナダ人の父子で、父親はカナダ西部のヴィクトリア近くに住む海洋学者で、北海道大学、東北大学、京都大学の同僚を訪ねるために、すでに何度も日本へ行ったことがあるという。偶然とはいえ、とても良い同席者を得たことと、チェコ産のシャンパンに快い酔いが回って、話に弾みがつく。

チェコ西部のカルロヴィ・ヴァリ

 

プラハ、カルロヴィヴァリ周辺

8月29日:翌日はチェコスロヴァキア最後の滞在地であるカルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語ではKarlsbad カールスバート)へ向かう。ここは言うまでもなく西ボヘミア(チェコ西部)にある世界的に名の通った温泉保養地で、ゲーテ、シラー、ベートーベン、ゴーゴリ、ショパンなどが訪れ、またメッテルニヒ主導の反動的なカールスバート決議がなされた場所としても知られている。18世紀以来ハプスブルク帝国支配下の高級温泉保養地として、ヨーロッパ中の王侯貴族や有名人を集めてきたこの場所が、現在どうなっているのか知りたくて、カルロヴィ・ヴァリへ向かったわけである。

朝9時半、プラハのターミナルから出発したバスは、全席指定で、満席だった。バスはボヘミアのゆるやかな丘陵地帯を快調に飛ばし、二時間ほどで目的地に到着した。バスターミナルで市内バスに乗り換え、美しい森の中を通って目指すグランドホテル・プップにたどり着く。このホテルは当温泉でも歴史が古く、最高級のレベル。昨日のプラハの安宿とは雲泥の差だ。地獄から再び天国に昇った感がある。

5階の部屋に入り、窓から外を眺めると、眼下には清流が流れ、この川に沿って両側に色とりどりのファサードを持った建物がずっと並んでいる。川のそばには湯が出る所もあり、見たところ日本の山間の温泉街に地形的には似た点もある。しかし両側に立ち並ぶ優雅で堂々とした建造物などのため、全く違った雰囲気を醸し出している。それはかつて王侯貴族が訪れた時代をしのばせるもので、ここばかりはほとんどの建物が修復を終えていて、鮮やかな色彩を見せている。

天気が悪くやや肌寒い感じもするが、ホテルにいてもつまらないので、川に沿って町の方角へ降りるようにして散歩する。やがて案内書にもある湯元の建物に着く。ヨーロッパには温泉の湯を飲む治療法があるが、そうした飲料用の温泉がそれぞれ温度を変えて、5本ほど湧き出ている。これらは建物の中のホールのような所にあり、温度は50度から70度のものまである。近くで飲むためのコップを数種類売っていたが、私はその中から陶器製の花模様の取っ手付きのコップを買って、みなと同じように飲んでみる。これは周辺のカルロヴィ・ヴァリ山塊に源を持つ鉱泉で、飲用のほかにももちろん浴用にも用いられ、そのための立派なKurhaus(クーアハウス)もある。

こうしたクーアハウスは、以前ドイツ西部のBaden Baden(バーデン・バーデン)で十分堪能したことがあるので、今回は入らず、代わりに温水の水泳プールに入る。プールは坂道を上がった高台の上にあり、そこからは対岸の家々や眼下の川の流れがよく見える。カルロヴィ・ヴァリの主なホテルや施設、公園、クーアハウス、土産物店などは、たいていこの川の両側にある。

日暮れが近づき、再び川に沿ってゆっくりホテルに戻る。そして今回の中欧の旅の最後を飾る夜の食事は、グランドホテル・プップの豪華なレストランでとることにする。食事といいピルゼンのビールといい、申し分のないものであった。

食後は部屋に戻り、テレビのスイッチをつけると、ドイツ語の放送が2~3局みられる。そこで久しぶりにZDF(ドイツ第二テレビ)のニュース番組”Heute”を見る。ここはもうドイツとの国境も近く、チェコの中でも最もドイツ的な所であることを、改めて確認する。やはりKarlsbad(カールスバート)なのだ。ホテルをはじめ土産物屋からさまざまな施設に至るまで、たいていの所でドイツ語が通用した。

8月30日:カルロヴィ・ヴァリの最高級ホテルで二度にわたり食事をし、ゆったりとした温泉気分を満喫して、翌朝はすっきりした気分で、この温泉保養地をあとにすることができた。バスは再び低い丘がうち続くボヘミアの緑野を疾走して、プラハのターミナルに到着した。そこから地下鉄に乗り換えて、鉄道の本駅へ向かう。こうして三週間にわたるわが中欧の旅に終わりをつげ、列車はいよいよ隣国ドイツのドレスデンへ向けて発車した。

最後にチェコスロヴァキアについて、感想を一言述べるとすると、チェコ地域とスロヴァキア地域の間の大きな格差、並びに観光への重点的な力の投入と庶民の生活水準の予想外の低さ、ということになろうか。(完)

中欧見聞録(前編)

はじめに

1991年8月から9月にかけて2か月間、中欧諸都市とドイツを旅行した。このうち中欧領域の旅は3週間であったが、この地域とドイツ・オーストリア地域との関係が現在どうなているのかこの目で確かめてみたい、というのが旅の目的であった。かつて広い意味でのドイツ(ハプスブルクのオーストリアを含めての)の影響圏にあったこの中欧に対しては、加藤雅彦氏の『中欧の復活』などによって私自身強く啓発され、深い関心を寄せるようになった。

この中欧という概念は1989年の「東欧」の大崩壊以降、日本でも一般に紹介されるようになったが、まだわが国では定着していない。また「中欧」自体が復活したばかりであり、今後徐々に定着していくことが期待されるが、はげしく揺れ動く現在のヨーロッパ情勢の中では、いまだはっきりとした実体として把握することは困難である。

しかし長い目で見れば今後少しづつ「中欧」は固まってくるように思われる。つまり従来東へ向かわされていた「中欧」地域の姿勢は、今やかなり明白にロシア離れをして、西へ向かっていることは間違いなく、その際もっとも近いドイツ・オーストリア地域との関係が少しづつ深まってきている点も疑いを入れない。しかしそれはなお政府レベルないし「上」のレベルの動きであって、日常のレベルや文化面でどんなつながりが生じているのかは明らかではない。

こうした点を少しでも自分の目で確認してみたいというのが、前述した通り、私の今回の旅の目的であった。ただし僅か3週間という短い旅ではあり、以下の印象記も時間的。空間的に極めて限られた個人的な体験記に過ぎないことを、あらかじめお断りしておく。そしてその目的がどれほど達成されたかもよくわからないが、何かの参考にはなるのではないかと思い、できるだけ具体的に多少の感想を交えてつづった次第である。

「中欧見聞録」を掲載した『ドイツ研究』(日本ドイツ学会機関誌)第13号
1992年1月10日発行

旅を始める前に

今回私は加藤氏の助言などを受けて、中欧諸都市を鉄道で旅行したが、その範囲は『中欧の復活』(NHKブックス594)で述べられている小中欧に相当する地域にほぼ見合っている。同書によれば小中欧とは、旧ハプスブルク帝国の領域つまりオーストリア、ポーランド南部、ソ連ウクライナの一部、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアの北西部、イタリアの東北部を指すものとされている。

当初の計画ではこれらの地域に含まれる中心的都市を鉄道でくまなく回るつもりであった。しかし現在の政治情勢や各国鉄道事情、ホテル事情などの制約を受けて、三週間ていどでこれら地域をすべて回ることは不可能であることが明らかとなった。そのため今回はソ連ウクライナの一部、ルーマニア北西部そしてユーゴ北部のザグレブは割愛せざるを得なかった。

この結果私が実際に旅した諸都市は次のような所である。まずベルリンを出発点としてポーランドの首都ワルシャワに向かい、そこから本来の小中欧に属する地域へと移った。以下訪れた都市名と国名を時間的推移に従って列挙しよう。クラクフ(ポーランド南部)、ザコパネ(ポーランド南部)、デブレツェン(ハンガリー東部)、ブダペスト(ハンガリー西部)、クラーゲンフルト(オーストリア南部)、トリエステ(イタリア東北部)、リュブリャーナ(ユーゴスラヴィア北部)、ウイーン(オーストリア東部)、ブラティスラヴァ(チェコスロヴァキア東部)、プラハ(チェコスロヴァキア西部)、カルロビヴァリ(チェコスロヴァキア西部)。

今回の中欧旅行に先立ち、各都市のホテル予約をベルリンのAlexsanderplatz(アレキサンダー広場)にあるEuropaische  Reiseburo Gmbh(ヨーロッパ旅行社)に手紙で依頼した。ここは旧東独時代の国営旅行社で、旧東欧地域への旅行には最適と聞いていたのであるが、いつまでたっても返事が来ず、ベルリン在住の東京新聞特派員辻通男氏(学会員)を通じて調べてもらったところ、同旅行社では現在東欧地域のホテル斡旋はしていないという。やむなく辻氏を通じて、やはりベルリンにある別の旅行社に依頼して、ようやく予定目的地の大部分の宿泊所を予約してもらった次第である。

また通貨もドイツ・マルクを携帯して、それぞれの国で必要に応じて交換していった。実際に泊まった所は各国の一流ホテルが多く、こうした所や買い物に当たっても大きな店では、クレジット・カードが通用した。、また旧社会主義国に属するポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアではなおビザが必要であったが、各国通貨への一定額の強制交換制度は、すでに撤廃されていた。さらに従来西ヨーロッパ地域でのみ通用していた鉄道のユーレイルパスが、近年になってハンガリー、そして1991年1月から旧東独地域にも適用されるようになったので、今回の旅行に当たっても、ハンガリー、オーストリア、イタリア、旧東独地域などに対しては、このユーレイルパスを活用した。

中部ヨーロッパ地域の地図(昭文社の世界地図帳、2013年2版)

ポーランド(ワルシャワ、クラクフ、ザコパネ

8月8日:さて前置きが長くなったが、わが中欧の旅はベルリン中央駅を出発点とした。かつて東ベルリンの OSTBAHNHOF(東駅)と呼ばれていたこの駅は、今や大ベルリンの  HAUPTBAHNHOF(中央駅)に衣替えして、東西ヨーロッパを結ぶ要衝の駅へと脱皮しつつある。しかし現状においてはなお首都の表玄関というには、その実体は淋しすぎる。ともあれ列車は北ドイツからポーランドへかけての大平原を一路東へ向かって進行。どこまで行っても平らな土地で、森と林と畑が延々と続き、時折小さな町が現れては消えていく単調な景観。しかも手入れの良く行き届いた西ドイツの美しい風景とは比べようもない、どこかうら淋しい景色だ。国境での40分ほどの停車時間のほか、途中思わぬ場所での徐行、停車があり、結局ベルリンからワルシャワまで9時間かかって、ようやく到着。

ワルシャワ中央駅のホームは地下にあり、下車した途端に大変な混雑に巻き込まれ、盗難の心配などで思わず緊張。構内の両替所で100DM=620,000ズオティ(ZT) を交換。この数字を見てもお分かりの通り、ポーランドは大変なインフレなのだ。しかしマルクから交換すれば、大変使いでがある。すぐに駅前のタクシーに乗り込んで、予約したGRAND  HOTEL に入る。都心部にある四つ星のホテルで、人々の目に付くフロントや諸設備は立派だが、全体として古くなっており、風呂場の水回りも古くさく、貧弱。それでも長旅の疲れをいやすべく、まずは風呂につかって汗を流す。

さっぱりしたところで5時過ぎ、ホテルを出て町を散歩。中央駅前にそそり立つスターリンの遺産として評判の悪い豪華けんらんたる「文化科学宮殿」の中のレストランに入る。メニューはポーランド語とロシア語で書かれていて、ウェイトレスとは何とか英語で話が通じた。ドイツ語はワルシャワではまだ通用していないようだ。しかし料理の方はグラーシュスープ、シャシュリック料理、チェコ産ビール、コーヒーで 82,000ZT つまり1,000円ほどで、かなり安いといえる。

8月9日:ワルシャワは二泊なので翌日は朝早くから一日中、旧市街を中心に見て回る。まずホテルから地図を頼りに旧市街へと向かったが、途中コペルニクスとヴィシンスキー枢機卿の立像が目に入る。旧市街の入り口のザムコピイ広場には、首都をクラクフからワルシャワへと移したジギスムント三世王の、塔のように高い記念像が立っている。普通、観光客が見て回る所は、ワルシャワ市全体から見ればごく一部の旧市街の一角が中心になっている。広場から一歩入ると右手にワルシャワで最も古いといわれる聖ヨハネ教会があり、中に入ってみる。教会に入る時ポーランドの人は素早く十字を切り、また中に入ってから中央祭壇に向かって片膝を地面につけて礼をする人が多い。また子供の一群も入ってきたが、皆しつけが良く、小さな女の子が膝を軽く折って十字を切る様子はなんとも愛らしい。さらに祭壇に向かって熱心に祈りを捧げている人もいた。カトリック国といわれるポーランドだけあって、教会にくる人々の姿勢が真剣なのには、心打たれれる。最近のドイツではあまり見かけない風景ではなかろか?

教会からさらに進むと旧市街の中心地MARKTPLATZ(市場の立つ広場)がある。その広場の一角にある歴史博物館に入り、第二次大戦時における ワルシャワ市への爆撃と戦後の復興の様子を描いたドキュメンタリーフィルムを見る。ワルシャワはナチスドイツ軍によってほぼ完全に破壊し尽くされたが、中世の面影を残す美しい旧市街の街並みを、戦後、市民が一致協力して汗水たらして再建した様子が同フィルムに描かれていて、心打たれる。旧西ドイツにも戦災で破壊された街並みを昔通りに復興した町は数多くあるが、ヨーロッパに共通する市民精神なのであろうか? またこのフィルムは事実を淡々とした調子で伝えていて、ドイツを非難するような感じは、そこにはなかった。

ワルシャワの旧市街は小高い丘の上にあり、やや離れた所にビスワ川の光った川面が見える。中世さながらの童話の国のような旧市街から坂道を降りていくと、そこはもう大型トラックがブンブン走り過ぎていく現実の大都会だ。川は増水していて茶色に濁り、今にもあふれんばかり。

しかしワルシャワの市内も、他のヨーロッパの都会と同様に緑は多く、公園もかなり数多くある。なかでも市の南方にあるワジェンキ公園は、18世紀後半にポーランド王によって作られたものと言われ、緑の小道が縦横に走り、横に細長い池ではボートでのんびり遊ぶ人の姿も見られる。かつての王侯貴族の離宮の庭が、今では市民の憩いの場になっているのだ。真夏のためか女性の着ているものが薄く、肉感的で着こなしも洒落ている。若い男女の生態は自由奔放の感がある。もちろん中央駅前広場の青空市では、独特の形をした開閉式の屋台が無数ともいえるほど立ち並び、むんむんとした生活の熱気にあふれる光景が展開されていたことも、付け加えておかねばなるまい。

8月10日:2日間のワルシャワ滞在が終わり、列車で南部の古都クラクフへ向かう。途中、平原から次第に低い丘陵地帯へと入り、周囲の景色が立体的に変化の富んだものへと変わっていく。この路線はポーランドでも幹線の一つで、座席の作り方はベルリン–ワルシャワ間より良いが、ドイツの二等車並み。3時間ほどで着いたクラクフの中央駅はワルシャワに比べればずっと小さく、駅前も雑然としていて、バスターミナルやタクシーの列、それに人々の雑踏などで、その周辺では、とても古都のたたずまいを感じることはできない。

ポーランド第三の都市だけあって、現在の市域はかなり広く、周囲には工業施設も見られる。ここでもやはり観光名所は全体のごく一部なのだ。そのため予約してもらったホテルは旧市街はおろか新市街からもかなり離れた郊外にあった。ホテル自体は最新式の設備で気持ち良いのだが、旧市街見物にはバスやタクシーを使わねばならない。

ホテルで一休みしてから、それでもバスに乗って旧市街へと向かう。やがてそこの中央にあるMARKTPLATZ(市場の立つ広場)にたどり着く。広場の真ん中に横に長い織物会館の建物があるが、広場自体は旧市街のものよりずっと広い。しかし周囲の建物はあまり装飾的なものはなく、全般に平凡といえる。また織物会館の一部に工事用の足場が付いていたり、反対側の角近くに木製の仮設舞台が組み立てられていたりして、案内書の記述とは違って、雑ぱくで、ほこりっぽいという第一印象を受けた。道路にも各所に水溜まりができたり、石畳が土に埋まっていたりで、ベルギーはブリュッセルのグランプラス(建物に囲まれた大きな広場)やブルージュの壮麗な広場に比べれば、ずっと見劣りする。

この町は戦災に会わなかったと聞くが、古い建物や施設の保守整備が立ち遅れているようだ。この点は首都ワルシャワの方がずっと進んでいる。さて織物会館の1階はアーケードになっていて、土産物屋が軒を連ねているが、並んでいる商品は全体として安っぽく、買う気になれない。広場の一角にあるマリア教会に入ると、折りしも結婚式の最中で、前方の席には司祭と新郎新婦のほかに関係者が陣取り、その後方には敬虔なカトリック信者らしい一般の人々や、筆者のような観光客が見物している。こうした風景はその後ハンガリーでも目撃したが、このような開かれた結婚式は格式張らないで、とても好ましく思えた。

8月11日:翌日はチェコ国境に近いポーランド人の休暇保養地ザコパネへの日帰り旅行をする。全般として広大な平原の国ポーランドにあって、ベスギデイサン山脈の麓一帯は夏なお涼しい避暑地なのだ。クラクフ駅前のバスタ-ミナルを出発し、周囲の工場地帯を抜けるとやがてあたりは田園地帯となり、ゆるやかな丘陵地帯を上がったり下がったり、景色はバイエルン南部やオーストリアに似てくる。ベルリンからワルシャワへ向かう時の平坦な土地柄とはずいぶん違う。ザコパネはポーランドで最も南に位置した高原の町で、背後には2000メートル級の山並みが見えている。

南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンあたりに雰囲気が似ている。途中、別荘風の家々が点々としている。鉄道の駅前にあるバスターミナルで下車。折りしも列車が到着して、駅の出口からは人々がどっと吐き出されてくる。駅前からは広々とした並木道が四方八方に通じていて、いかにも高原の保養地といった感じ。少し町を歩くと外に開かれた形の教会堂で日曜の昼のミサが行われており、中に入り切れない人々が外で立ったままミサに参列していた。

そのまま歩いて見て回ろうとしたが、思い直して駅前に戻ると観光用の馬車がいたので、話しかけると御者のじいさんがドイツ語で返事をしてきたので、たちまち話はまとまり1時間かけて町を一周回ってもらうことにする。ちょうど日曜日のせいか子供連れの家族や若者のグループ、中年夫婦に老人たちといったふうに、様々な年齢層の人々が歩いている。昨今の軽井沢や清里のように若者たちに占領されているといったことは決してない。ポーランドはなお生活水準が低く、経済は低迷していると言われているが、人々の暮らしはのんびりしていて、生活を楽しんでいる様子がうかがえる。

8月12日:クラクフ三日目は夜行列車でハンガリーのデブレツェンへ向かうので、ホテルをチェックアウトした後中央駅に荷物を預けて、もう一日旧市街を見物する。まず旧市街入り口の外側に立つ大きな彫像が目にとまったが、その台座にGrunwaldという文字が見えた。案内書によればこれはドイツ語のTannenbergのことで、1410年ポーランド軍がドイツ騎士団を破った所として史上名高い地名だ。つまりこの彫像はこの戦いで戦功をあげた祖国の英雄というわけだ。

ついで小雨の降る中を旧市街の端の丘の上に立つWawel 城へと向かう。下から見上げる城郭はなかなか立派なもの。坂を上って城の構内に入ると、眼下にビスワ川が蛇行している風景が目に入る。城の前庭や中庭は大勢の観光客でいっぱいだが、ポーランド王が1683年ウィーン郊外のトルコ軍陣営から奪ってきたという天幕や略奪品を飾った宝物館ともなっている城の内部への扉は堅く閉まっていて、あかない。ヨーロッパでは博物館や城の内部を見学しようという時、よくこういう目にあうものだ。

やむなく旧市街に戻ったが、そこの一軒の祭礼用具専門店で、清楚な顔立ちのマリアの石膏像をみやげに買う。その店でローマ法王の顔が入った小旗が飛ぶように売れているので、理由を英語で尋ねたところ、若い女性が、明日法王ヨハネ・パウロ二世がやってくるからだと答えてくれた。中央広場に建てられた仮設舞台や数多くの鉄柵は、法王歓迎用のものだったのだ。ちなみに法王はこの町の近くの出身だし、クラクフのヤギェウォ大学を出ている。法王にはまた数日後にハンガリーですれ違うことになる。

僅か5日という短いポーランド滞在であったが、初めての訪問という事もあって筆者にとっては、新鮮で強烈な印象が残った。小中欧も北の端に位置し、かつてハプスブルク王朝下にあったクラクフではあるが、今日その跡を具体的に見つけ出すことは難しい。14世紀から300年にわたってポーランド王国の首都であり、18世紀末からオーストリア支配下に入ったとはいえ、1866年の普墺戦争でオーストリアが敗れてからは、生活のあらゆる分野においてポーランド化が認められた所であるから、それは当然のことであろう。

それよりはむしろつい最近社会主義を脱却したばかりのこの国で見た、人々の宗教との結びつきの方に深い感銘を受けた。日常生活における強い消費生活への欲求と伝統回帰の姿こそ、ポーランドをはじめ、のちに訪れるハンガリー、チェコスロヴァキアでも感じた最も強い筆者の印象であった。

ハンガリー(デブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウクニー)

8月13日: さてクラクフを夜行列車で出発した筆者は、スロヴァキア東部を通って翌朝ハンガリー東部の町デブレツェンに到着した。直ちに案内書に載っている、この町第一のホテル Aranybika (黄金の牛)に赴き、空き室を尋ねたところ、幸いにも空いた部屋があり、セセッション様式の優雅なホテルで三泊することができることとなった。ホテルに荷物を預けて早速市内見物に出かける。

まずホテルのすぐ近くにあるカルヴィニスト大教会へ。ドイツ語の説明書によれば、St.Andreas Kirche(聖アンドレアス教会) とあり、新教の教会と書かれている。萌黄色の外壁に二本の塔が聳え、落ち着いた重厚な感じを与える建物だ。教会前の広場には反ハプスブルク闘争の指導者コシュート(Kossuth  Lajos) の立像が立っている。1849年5月、ハプスブルク支配からの解放闘争の最中に、この教会の中でハンガリー議会が開かれたという。そしてここで独立宣言のテキストが起草され、コシュートによって読み上げられたという。教会内部は座席がタテの方向だけでなく両翼にもついており、これなら議会場としても使えたことが、十分納得できる。ポーランドでカトリック教会の装飾過多ともいえる、きらびやかな内装をいやというほど見せつけられた後だけに、この新教教会の純白の内装は、誠に清楚な感じを人に与える。もう一度1944年のソ連軍による解放の時の計2回、ハンガリーの臨時政府が置かれたことが案内書に書かれている。

教会を離れ、市電の通る大通りをどこまでも真っすぐ進んでいくと、やがて広大な市民の森にたどり着いた。ウイークデーだというのに、池でボートを漕ぐ者、ベンチでお喋りしたり散歩したりする者、そして近くのプールにやってくる者などさまざま。森の中にはドイツの Kurhaus のような建物も見られた。ハンガリーは16世紀の前半から150年間、オスマン・トルコの支配を受けたため、国中の各所にトルコ風の温泉やプールがあるのだ。

夜はホテルの裏手のナイトクラブを訪れる。2時間ほどバンドの演奏とミラーボールのきらめく光の中で、アルコールを傾けた後、12時ごろからショーが始まった。期待にたがわず素晴らしく可愛らしく、同時になかなか妖艶な女の子たちが、きびきびとまた雰囲気たっぷりに踊ってみせる。かなり官能的で、しかもくどくはない。おまけに料金が、おそらく東京やパリでは考えられないくらいに安いのだ。

8月14日:翌日ハンガリーの大平原 Puszta  の中心地ホルトバジー へと汽車に乗って向かう。駅から7,8分すると賑やかな所に出て、ドイツ語の表示からそこが観光の基地であることを知る。観光客も大勢おり、みやげ物屋も立ち並ぶ中で、「Pusztaを2時間、馬車で見て回りませんか?」というドイツ語の宣伝文句が目に入る。英語やフランス語はなくて、ドイツ語だけなのだ。その理由は明らかで、ここを訪れる観光客の中心が、ドイツ人かオーストリア人だからだ。他の観光客にならってドイツ語でこの遊覧馬車を申し込む。ただ馬車の乗り場はそこから2キロ離れた所にあるという。一瞬ずいぶん遠い所だと思ったが、他の観光客のほとんどはマイカーでそこまで飛ばしている。こちらはタクシーに乗るにもタクシーの姿は見えず、仕方なく田舎道を歩いて乗り場まで行く。

そこには大きな駐車場があり、観光客でごった返している。近くにはホテルや民宿も点々としている。午後2時、二十台ぐらいの馬車に皆が乗り始め、次々と出発していく。一台の馬車には20人ぐらい乗っている。ハンガリーの大平原は地域的にかなりの広がりをを持っているが、そこには現在なお羊・馬の放牧にしか使えない荒地 Puszta が、あちこちに点在している。そうしたものの一つが現在筆者がいるホルトバジーにあるのだ。疾走する馬を追う牧童、水飲み場で馬に水をやっている風景、羊のいる大きな小屋そして水牛の大群などを見ながら、馬車は荒地のデコボコ道をガタガタ揺れながら、進んでいく。その揺れ方はものすごく、身体が跳び上がらんばかりになることもある。御者のほかにガイドも馬車に乗っているが、使う言葉はもちろんドイツ語である。筆者の馬車にはフランス人の家族もいたが、父親はドイツ語ができるので、奥さんや子供たちに通訳していた。

やがて Puszta 観光のハイライトがやってくる。カウボーイならぬ馬追いの牧童が正装して現れ、観光客にいろいろサービスするのだ。あるいはスナップ写真の対象としてポーズをとったり、あるいは馬車の回りを20頭ばかりの馬を追って疾走して見せたり、はたまた馬を地面の上に横たえさせて、そのうえでバーン、バーンとピストルのような音をたてながら、鞭を振り回したりする。

こうして2時間足らずの馬車観光は終わり、こちらは2キロの田舎道を元の方向へと戻る。そこには博物館があり、この大草原での人々の昔からの暮らしぶりが展示されていて、興味深かった。ハンガリー語とドイツ語の説明がついていた。その博物館の向かいに Tscharda (チャルダ)と呼ばれる茶屋があり、そこの屋外テラスで一休みする。こうしたチャルダでは、日暮れともなればジプシー音楽の哀愁に満ちたメロディーが聞かれる所なのだ。

建物の壁には、ハンガリーの国民的詩人で1848/49年の革命の際に活躍したSandor  Petoefi  (サンドル・ペテフィ)の肖像がはめ込まれている。博物館で買ったドイツ語の説明付きの Puszta 写真集には、その詩人の美しい詩がドイツ語訳で掲載されていた。デブレツェンへ戻る車中でこの写真集を読んで過ごしたが、そこには Puszta の四季折々の自然の豊かさが描写されていた。そして「Pusztaは文明化した社会の真っただなかに浮かぶ陸の大きな孤島だ」とも書かれていた。

8月16日:ハンガリー東部の町デブレツェンで三日間過ごした後、列車で首都のブダペストへと向かう。この時からユーレイルパスを使い始めたのだが、デブレツェンの駅の窓口の女性はこのパスのことを知らず、しかもハンガリー語しか話せないので、仕方なく身振りとドイツ語を交えて日付とスタンプのことを説明して、むりやりスタンプを押してもらう。3時間足らずでブダペスト西駅へ到着。首都だけあってさすがに賑やかだ。駅の構内は極めて広く、奥行きが深い。また鉄枠とガラスでできた正面ファサードはなかなか洒落ている。

ただ駅前大通りは車が多く、大変な渋滞ぶり。この大通りはブダペスト目抜き通りの一つで、以前はレーニン通りと呼ばれていたものが、改革以来Erzsebet(エルゼベート)通りと変わっている。古い赤枠の道路表示の上に、黒枠で新しい通りの名前が書いてある。町の第一印象は、混沌とした活気と華やかさという事だ。夏のこととて道行く女性が肌をあらわにしており、大変肉感的な感じ。ミニスカートも多く、色とりどりにユニークで、しかも魅力的。着こなしの大胆さには、ついこちらの目も平静さを失いかねない。

午後1時ころ、先の大通りに面した Grand Hotel Royalに入り、一休みしてから町の見物に出る。ブダペストへは1984年にドイツから車で入ったことがあるが、その時と比べても町は格段に賑やかになっている。まずホテルを起点にペスト側の繁華街を、Erzebet通りからAndrassy通りへと曲がる。このAndrassyは19世紀ハンガリーの著名な政治家の名前で、彼はハンガリーの繁栄はオーストリアとの結合が良いと主張した現実主義者だという。

周知のとおりハンガリーは1867年にオーストリアとの間に、オーストリア=ハンガリー二重帝国を作り、以来かなりの独立性を獲得したのと同時に、オーストリアとも強い友好関係に立った。Andrassyはこの時代に活躍したしたわけだが、現在のブダペストの美しい街並みや建造物は、19世紀後半から世紀転換期にかけて作られたものと言う。さてブダペスト随一の美しいAndrassy通りに面した国立オペラ劇場は、ウィーンのStaatsoper(国立オペラ)に比べても遜色のない堂々たる建物で、1884年の建造だ。

またそこからほど遠からぬ所に立つセント・イシュトバーン大聖堂は工事中であったが、中に入ってみる。これもウィーンのStephans Dom(シュテファン大聖堂)に負けない壮麗な建築物で、やはり19世紀後半に建てられたという。この大聖堂の鐘は昨年ドイツからの寄付で新しく設置されたことが、写真入りで説明してある。また1989年夏から秋にかけて国外移住を希望する東独市民に通行許可を与えたハンガリー政府の措置が、最終的にドイツ統一へと結びついたことに感謝する旧西ドイツのコール首相の言葉もそこには掲示されていた。

大聖堂を出てからしばらく歩くとやがてドナウ川の川岸に着く。対岸にはブダの丘が聳え、右手には名高い鎖橋が見える。このあたりに来るとさすがに観光客であふれかえっている。鎖橋の所まで来ると、警官が立ちはだかって、そこから先は通行禁止だという。言葉が通じなかったのでよくわからなかったが、どうも法王の来訪に備えてのものらしい。このことは後に別の筋から確認された。

ドナウの川岸から一歩裏通りに入ると、歩行者天国もあり、一帯に華やかな商店やレストランが立ち並んでいる。ここもトゥーリストでいっぱいだ。さらに歩いて、やがて筆者の泊まっているホテルのあるErzsebet大通りへと戻る。そこで偶然以前から一度入ってみたいと思っていた有名な”Cafe-Restaurant Hungaria”を見つける。

ちょうど外装工事中で足場が組まれ、外側は混乱した印象を与えているが、一歩内部に入ると別世界。思っていた通りの華麗で重厚な室内装飾に満足して、中央の階段を下りて昔から”Tiefwasser”(水底)と呼ばれていたレストランにたどり着く。1894年に建てられ、当時は New York と呼んでいて、当時の著名人が大勢集まったという因縁のある店なのだ。食前酒にトカイワイン、次いでスープ、サラダ、コイのフライ、食後にコーヒーというコースで、ざっと三千円程度なのだから、割安といえよう。もちろん味の方も大満足であった。

また数年前西ドイツに住んでいた時、西ドイツのテレビ番組でこの”Hungaria”からの中継を放送していたのを思い出す。詳しい内容は忘れたが、西ドイツとハンガリーとの関係について、ドイツ側のインタビュアーがハンガリー市民にいろいろ尋ねていたことを覚えている。

8月17日:翌日はドナウベント一日トゥアーに参加する。ドナウベントとは日本の案内書に書いてある表記で、ハンガリー語では Dunaukanyar,ドイツ語ではDonauknieという。ベントは英語のBend(湾曲)のことなのだ。つまりブダペストの北方でドナウ川が東西から南北の方向へと大きく湾曲している一帯のことを指すわけだ。石灰岩の低い山々がドナウ川に迫る景勝の地でもあり、9~10世紀にハンガリー建国の舞台となった所だという。

ドナウ川が東西から南北方向へ曲がっているドナウベント周辺

さて朝の9時から夕方6時までの日帰り トゥアーのバスは、市内の有名ホテルから集まった外国人を乗せて、ブダペストの都心部から出発。ガイドは感じの良い初老のハンガリー女性だが、独語、英語、イタリア語が堪能で、同じことをこの三か国語でいちいち繰り返し説明してくれる。その手際の良さと内容の濃い話ぶりには、全く舌を巻くばかりだ。現在のハンガリーの社会情勢や政治情勢まで説明してくれたのだから。

バスはまずブダペストから20キロ離れたセンテンドレ(Szentendre)に到着。この町はドナウ川の岸辺から丘の中腹にかけて発達しており、坂道を上るとたちまち中世風の美しい街並みにぶつかる。ここは17世紀後半にオスマントルコによってバルカン半島から追われてきたセルビア人によって築かれた町で、小さな地域にセルビア正教の教会4,カトリック教会2,新教会1が立っている。風光明媚な土地柄に魅かれて集まってきたのか、この町は今では若き芸術家が大勢住む所となっている。

コヴァーチ・マルギット(Kovacs  Margit) 陶芸美術館に入ってみたが、宗教的題材のものも含めて、ヒューマンな暖かい眼差しで作られた作品が多かった。またこの町には華やかで女性好みの人形や刺繡、民族衣装を売っている土産物店も多く、家々の壁も含めて、全体としてカラーフルで色彩豊かな町だ。

次いでバスは60キロ離れたエステルゴム(Esztergom) の町に着く。ここでの見ものは何といってもハンガリー最大といわれる大聖堂(Basilika)だ。丘の上に高く聳えたち、その堂々たる姿は周囲を圧倒している。この大聖堂は初代ハンガリー王イシュトヴァーン一世の創建になるものと言われ、以後ハンガリー・キリスト教の総本山となっている所だ。

聞けば昨日ローマ法王がこの大聖堂を訪れた後、ヘリコプターでヴィシェグラードまで飛び、そこから船でブダペストへ向かったという。昨日ドナウ岸辺で見た交通規制は、法王来訪に備えてのものであったのだ。クラクフに次いで二度目の法王とのすれ違いだ。現在の大聖堂は1825年に建設が始まり、ベートーベンがその落成を祝して鎮魂ミサ曲の指揮を申し出たが、工事が遅れ落成したのはその没後の1856年。このため落成祝いには際しては、ハンガリー人のリストのエステルゴム・ミサ曲が演奏されたという。聖堂内部の宝物館には、金細工や法衣、織物などのコレクションがあった。

大聖堂見物後、丘の下のレストランで昼食をとったが、その時そのトゥアーに参加した人々が、ドイツ人、オーストリア人、イタリア人、イギリス人、フランス人、それに日本人(筆者1人)と、国際色豊かな顔ぶれであることを、あらためて確認する。現在アメリカ人はヨーロッパにはあまり来ていないようだ。

エステルゴムのあたりでドナウ川はハンガリーとチェコスロヴァキアの国境となっているが、大聖堂横手から対岸のスロヴァキアが見える。工場の煙突が林立し、ごみごみした灰色の建造物が密集しているさまは、ゆるやかな丘の斜面に別荘風の家々が点々としているハンガリー側の牧歌的な風景と対照的だ。後に訪れたスロヴァキアの首都 ブラティスラヴァの郊外も工業地帯となっていたが、これらは遅れた重厚長大産業の典型のように思えた。

ドナウベント第三の訪問地はドナウ川を眼下に望む 丘の上の廃墟の古城だ。ここはヴィシェグラードといい、先のセンテンドレとエステルゴムの中間に位置している。この辺りでドナウ川は東西から南北へと大きく湾曲している。16,17世紀にトルコ軍がウィーンに迫ったとき、この城でも攻防戦が行われたという。しかし1683年トルコ軍の最終的なウィーン攻略が失敗して退却してからは、この城も役割を終え、以後廃墟になったという。現在この城は廃墟とはいえ、石壁や石の床などが残っている。そしてここからは大きく屈曲するドナウ川の雄大な眺めが、手に取るように見て取れる。

8月19日:次の日は雨が降ったので、ホテルにこもって原稿書きに専念する。そして翌々日は再び快晴となり、ブダペストの観光名所の一つである英雄広場を訪れる。中央に高さ36mの天使像が聳え、その足元にマジャール部族の首長だったアールバートと6人の部族長の騎馬像がある。そして周囲には、ハンガリーに貢献した歴代の王や英雄の像が半円形に並んでいる。建国一千年を記念して1896年に作り始め、1929年に完成したといわれるが、バチカンのサンピエトロ寺院前の広場と同じぐらい広々とした壮大な広場だ。

この広場に続いて市民公園があり、そこには温泉、動物園、植物園、遊園地があって、市民の憩いの場となっている。この日はハンガリーの祭日に当たっていたらしく、市民公園は大変な賑わいを見せていた。そして広場の一角にはまたもや仮設舞台が作られ、広場からその周辺一帯は鉄柵で仕切られていたが、法王歓迎用であることは言うまでもない。

公園の一角にあるトルコ風呂セーチェニ温泉に入ろうとしたが、その日は女性専用だというので、川向こうのルダシュ温泉へ向かう。オスマントルコ支配150年の影響でハンガリーにトルコ風呂が多いことは先にも書いた通り。ブダペストにも数多くあるが、ルダシュ温泉は400年の歴史を誇る由緒正しい所という。建物の中央が丸屋根になっていて、外観内装とも以前訪れたイスタンブールのトルコ風呂と同じ感じだ。

温度の異なるいくつかの蒸し風呂に入ってから、八角形の大きな湯舟を中心に周囲に小さな4つの湯舟がある。中央ドームの下の風呂場に入る。中央のは36度、周囲のは28度から42度まである。こうして蒸し風呂と湯風呂を何度か往復した後、屈強な男が石鹸で体をごしごしこすりつけるマッサージを受ける。

8月20日:ブダペスト最後の日、まず国立博物館を訪れる。ハンガリーの歴史にまつわる展示が実に多岐にわたっていて、興味深いものがあったが、中でも見ものは有名な聖イシュトヴァーン一世の王冠であった。改革後ハンガリーでは、それまでの赤い星、ハンマー、麦の穂をあしらった社会主義リアリズム風の紋章から、この王冠をあしらった国家紋章へと、国民投票によって変更した。社会主義離れと伝統回帰を示す象徴的出来事といえよう。

ついで川向こうのブダの丘の上にある歴史博物館へと向かう。ここは沢山ある博物館群の一つだが、天候にも恵まれた丘の上は、観光客で賑わっている。ここからは対岸のペストの街並みが一望のもとに見渡せる。博物館群から王宮、漁夫の砦、マーチャーシ教会にかけての一帯は、トゥーリストが最も多く集まるブダペスト観光のメッカだ。屋外の仮設舞台では弦楽四重奏団が、ハンガリーの歌も交えて、民族音楽をたっぷり聴かせてくれる。さらに別の場所では民族舞踊が披露され、人垣でいっぱい。その少し先の丘の端の門に差しかかった時、道路わきに人垣ができ、警官の姿が見えたが、しばらくして法王を乗せた黒い車が通り過ぎていった。

人垣が崩れてからタクシーに乗り、ドナウ川に浮かぶ川中島のマルガレータ島へ行く。この島は古代ローマ時代から人々の保養の地となってきたという。島全体が緑に覆われ、車もシャットアウトされているのだ。広々とした「リゾートセンター」になっているわけである。太陽がさんさんと降り注ぐ真夏の午後のこと、公園の一角にある広々としたプールに入り、暑さをしのぐ。ポーランドでもそうであったが、ここハンガリーではなお一層のんびりとした時を過ごす人の姿を多く見かける。西欧や日本に比べて、経済や生活水準は低いのかもしれないが、日本などよりはよほど生活を楽しんでいるように見受けられる。

夜になってドナウ河畔の最も華やかなプロムナードに面した劇場へ行き、オペレッタコンサートを聴く。対岸のブダの丘や鎖橋が夜空に赤々と浮かび上がり、やはり心を浮き立たせる美しさだ。開演は8時半。隣席には可愛らしい中国人の女性。向こうから英語で話しかけてきたので尋ねると、外国貿易の仕事をするために北京からブダペストにやってきたところだという。コンサートはレハール、カルマン、ヨハン・シュトラウスの曲がびっしり組まれ、楽団のほかに女性歌手3人、男性歌手2人。皆ハンガリー人。歌と踊りを交えてのウィーン風オペレッタの雰囲気がそのまま再現されていて、実に楽しい。オーストリア・ハンガリー帝国時代へのノスタルジーがひしひしと感じられ、聴衆の方も年輩のひとから中年にかけて、多くの人が陶然として聴きいっていた。

しかし途中で楽しいハプニングが起きた。対岸の丘から9時-9時半にかけて花火が打ち上げられるので、コンサートをその間中止して、劇場の廊下の窓から見物してくださいとの粋な計らいがあったのだ。一同大喜び。見れば劇場前の広場や川岸のプロムナードは見物客でぎっしり埋まっている。こちらはいわば特等席を与えらたわけだが、ブダの丘やゲレルトの丘が夜間照明の上にさらに花火の光で、煌々と夜空に浮かび上がり、華麗なる陶酔の30分間ではあった。筆者にとってはブダペスト最後の夜への楽しい贈り物であった。

かなり以前から始まっているハンガリーの市場経済化へのさまざまな試みが、最近では必ずしもうまくいってない事など、マスコミの報道で知ってはいたが、首都ブダペストをはじめとする各地での外国人観光客誘致の動きは、以前にもまして活発になっている。ご多分に漏れず日本人観光客の姿もブダペストではずいぶん大勢見かけたが、なおビザが必要とはいえ、ユーレイルパスが有効なことなど、西側体制への組み込みは、ますます拍車がかかっていくことであろう。オーストリアやドイツとの交流は、すでに日常茶飯事化している。こうした交流を通じて中欧の中でもハンガリーが一番早く、西側に組み込まれていくことと思われる。(前編の終わり)

後編では、イタリア東北部のトリエステ、ユーゴ北部のリュブリアーナ、スロヴァキアのブラティスラヴァ、チェコの首都パラハそしてチェコ西部のカルロヴィ・ヴァリを旅します。