ドイツの冒険作家 カール・マイ

カール・マイ研究

カール・マイ評価の逆転~非難攻撃から客観的評価へ~

カール・マイが著した作品を客観的に研究しようという動きは、その死後あまり時のたたない時期に始まった。その先駆となったのが、カール・マイ出版社の創立者であったオイヒャー・シュミットであった。マイの晩年に法律家としてその弁護にあたったシュミットは、マイの名声と名誉を復活させるために、「カール・マイを弁護する」という文章を著した。そしてそれを小冊子の形で、1918年に刊行した。そこで彼はマイへの変わらぬ信頼の念を表明するのと同時に、マスコミなどからの不当な罵詈雑言を排除し、世間の誤解を解くことに尽力した。

その直接のきっかけとなったのは、ウィーンの文学史家アントン・ベッテルハイムが、その前年に編集刊行した『死亡したドイツ人作家の略伝』であった。その中にカール・マイについても書かれていたが、そこには憎しみと非難攻撃の言葉が満ち満ちていた。つまりそれはドイツ文学史研究の信ぴょう性を疑わせるような調子に彩られていたのだ。それに対してシュミットは、別の出版社経営者のワルター・ド・グリュテアの協力を得て、事実関係に関する十分な証拠書類を取り揃えて、力強い反ぱくを加えたのであった。

もう一人、手ごわいマイの敵として、F・アヴェナリウスという雑誌発行人がいた。この人物は、マイの生前から激しいマイ攻撃を展開していたが、その死後も信じられないぐらいに事実関係を無視した非難中傷を、自分の雑誌を通じて続けていた。それらは度を越したものであったので、シュミットも反撃に立ち上がったのである。それが先に紹介した小冊子『カール・マイを弁護する』であったが、これが功を奏して、アヴェナリウス陣営は総崩れとなって、とどめを刺されたといわれる。その皮肉たっぷりの反撃の文章の一部を、次に引用することにする。

「アヴェナリウス氏は将来有名になるであろう。彼は第一に商売人であるが、第二に模倣的な(人まねの)批判の言葉を吐いている。しかしそれは決して創造的な才能を示すものではない。したがって彼は、死んでしまえば、すぐに忘れ去られてしまう類いのちっぽけな人物なのだ。しかるにその名前は後世に残るものと、私は信じている。つまり後世の人は、彼の名前を、カール・マイの思い出とともに、見出すことになるであろう。」

次いでマイ弁護に乗り出したのは、革新派の教育学者ルートヴィヒ・グルリットであった。彼は同僚の学者の反対を押し切って、1919年に『カール・マイに対して正当な評価を』と題する書物をものして、マイ擁護に一つの貢献をなしたのだ。

これらのマイ擁護運動のおかげで、大小数十にのぼる新聞雑誌を巻き込んでのカール・マイ騒動は、かなりの程度鎮静化し、反対派の言動にも、変化がみられるようになった。その一例としてベルリンで発行されていた代表的な日刊紙「ベルリーナー・ターゲブラット」の論調の変化を取り上げよう。この新聞ははじめ文学史家ベッテルハイムの側についていて、1918年5月16日の朝刊では、次のように書いていた。

「『死亡したドイツ人作家の略伝』のような学問的著作にあっては、事実がゆがめられているなどという事は、ありえないことである。この作家に対する訴訟は、もしそれが特別な文学的意義を持った作家に関するものならば、その生涯と業績についての供述が事実に基づいたものであり、しかも冷静な調子で語られて、はじめて、有罪かどうかの判定を下すことができるわけである」

これに対して、カール・マイ出版社のシュミット氏の要請で協力に乗り出したド・グリュテア氏は、同新聞社に必要で十分な資料を提出した。それに基づいて新聞社側は、『死亡したドイツ人作家の略伝』が含むものは、単に死んだカール・マイに対してだけではなくて、現在生きている人々にとっても侮辱を意味するものであることを理解した。そしてそれ以後、同新聞のマイに対する論調は、肯定的なものに変化したのであった。それから数週間後には、ドイツの出版界のみならず言論界にも大きな影響力を持っていたライプツィヒの『ドイツ書籍取引所会報』も、ド・グリュテア氏側についた。こうした動きを通じて、『死亡したドイツ人作家の略伝』は、権威を失い、その普及が阻止されたのであった。

バッタグリアによる批判的マイ評価

続いて登場したのが、ウィーンの歴史家で社会学者のオットー・フォルスト・バッタグリアである。彼は1931年、初めての本格的なマイ研究書ともいうべき『カール・マイ~ある人生、ある夢』を著した。これはノーベル文学賞を受賞した20世紀ドイツの代表的な作家トーマス・マンの称賛を勝ち得たほどのものであった。

この本の著者は、マイに対して限りない愛情を注ぎながらも、盲目的な礼賛に陥らずに、終始批判的・客観的な筆致を忘れていない。同書の中で著者は、カール・マイを「偉大なる夢の実現者」とみなし、この夢想家の生涯を描くのと並んで、その作品を批判的に詳細に論じている。さらにその筆は、マイの犯罪者の素質と作品との関係にも及んでいる。そして最後にマイの作品が社会に与えた影響と評価の問題にまで触れている。ちなみに本書は、第二次大戦後、社会情勢とマイを取り巻く状況の変化を考慮して、大幅に手が加えられ、1966年にあらたに『カール・マイ~ある人生の夢、ある夢想家の人生』という題名のもとに刊行されている。

哲学者ブロッホによる熱烈なマイ賛歌

      エルンスト・ブロッホ著『希望の原理第一巻』

同じころドイツの高名な哲学者エルンスト・ブロッホによる熱烈なカール・マイ賛歌が現れた。この哲学者は、その主著『希望の原理』(日本語版も刊行)などを通じて、日本の知識人の間にも知られている人物である。このブロッホは1929年3月31日(マイの命日の翌日)付けの日刊紙『フランクフルター・ツァイトゥング』紙上に、「夢の市場」なる一文を寄せた。そしてそこでマイに対する熱烈な賛歌をうたい上げたのである。そこでブロッホは次のように書いている。

「カール・マイはドイツの物語作家の中で最も優れた者の一人である。・・・この人物が作家になったなり方には先例がない。つまり彼は監獄の中ですでに書き始めていたのである。・・・彼が描いたのは、花のような夢ではなく、野生の夢つまり人の心をとらえて離さないメルヒェンなのであった。」

ちなみにブロッホは、この文章を書いた時より以前の学生時代に「カール・マイとヘーゲルがあるだけだ。その間にあるすべてのものは、みな不純な混ざりものだ!」と叫んだという(『希望の原理第一巻」(白水社、1982年4月、649ページ、「あとがきにかえて」)。

          エルンスト・ブロッホの肖像

さらに彼は処女論文集の表題を「砂漠への挑戦」としているし、生涯で全著作を読んだのはカール・マイだけだ、と語っているという。またブロッホは同じく『希望の原理第一巻』の第三部(移行)鏡の中の願望像(陳列品、童話、旅、映画、舞台)の二七「歳の市、サーカス、童話、民衆小説における、もっとましな空中楼閣」の冒頭に、カール・マイの自伝『わが生涯と苦闘』の中からの引用を掲げている。

「それから、私たちは寝に行きました。けれども私は眠らずに目を覚ましていました。どのようにして助けを求めようかと考えました。思案の末に私は決心しました。以前読んだ本の題名に『シエラ・モレナの盗賊窟あるいは困った人たちの天使』というのがありました。父が帰宅して眠ってしまうと、私はベッドを抜け出し、こっそり部屋を出て、服を着ました。それから一枚の紙片に、<血で手を汚すような事はしないでください。僕はスペインへ行って、助けを呼んできます>と書きました。私はこの紙片をテーブルの上に置くと、かちかちのパンを一切れポケットに突っ込み、九柱戯用の小遣い数グロッシェンをもって、階段を駆け下りました。そして扉を開き、もう一度誰にも聞こえないようにしくしく泣きながら、深く息を吸い込みました。それから足音を忍ばせて広場を下り、裏通りを抜けて、ルングヴィッツ通りへ出ました。この道がリヒテンシュタインやツヴィッカウを経て、苦難の救い主である高貴な盗賊の国スペインへ続いているのです」

このエピソードについて一言補足しておく。マイが14歳で国民学校を卒業する時、その後の進路決定について、貧しい両親が話し合っていた。父親は自分が身を粉にして働いて、師範学校の学費を稼ぐといって部屋を出ていった。そうした話し合いを、息子のマイは部屋の片隅で、スペインを舞台にした盗賊騎士の物語を読みながら聞いていたわけである。

ところで本筋に戻ると、ブロッホが新聞紙上に掲載した、先の決定的な一文によって、長い間マイを縛っていた呪縛が解かれ、再びマイの上昇が始まった。人々は再びマイについて、自由に語ることができるようになった。そして青少年や庶民の間だけではなくて、教養ある階層の中でも、マイを話題にすることが可能になったのである。

第二次大戦後、マイの本格的研究始まる

しかしただ一つドイツ文学史の中では、戦前には、まだマイの名前は取り上げられていなかったのである。マイの再評価のために尽力してきた文学研究者のハインツ・シュトルテは、それまでドイツで編纂されてきた文学史の本を子細に点検してきたが、「二三の例外を除いて、マイの名前を載せているものはない」と言っている。そして彼が1936年、カール・マイについて学位論文を書き、提出したとき、受けた反応は、肩をすぼめたり、眉をしかめたり、首を横に振ったりする、といった体のものだったという。そしてさらに「まさに人跡未踏の地に単身降り立った思いであった。カール・マイを博士論文にするなどとは、だいぶ頭がおかしいのではないか、と思われた」とも、告白しているぐらいである。

ところが時代が変わって、第二次大戦後になると、主として西ドイツで、マイを学位論文や国家試験のテーマにする学生が現れてきたのである。その際興味深いのは、文学研究者のみならず、社会学者や文学心理学者、とりわけ精神分析の専門家が、マイを格好の研究対象として取り上げていることである。

作家アルノ・シュミットの登場

作家で評論家のアルノ・シュミットは、1963年、『シタラ、そこに至る道~カール・マイの本質、作品および影響に関する研究』という大部の書物を著した。これは批判的文学分析の代表例とみなすことができるもので、その手法を通じてシュミットは、ドイツの一文学現象に光を当てたわけである。この研究において彼は、精密なテキスト解釈と精神分析的手法を援用して、カール・マイの世界ならびに登場人物が、非日常的規模のエロス抑圧の産物として理解されることを示した。

彼は意識下のマイを、ホモ・セクシャルであると断定し、またドイツ最後の神秘主義者(後期の作品に基づいて)である、とも決めつけている。シュミットはさらに彼一流の皮肉や嘲笑を盛んに飛ばしているが、そのため篤実なマイ研究者の反発を買ったりした。その反面、マイ作品にしばしば登場する誇張されたユーモアを楽しんでいる節もうかがえる。

しかしマイ作品の華やかな表面の裏に、実はそれまでほとんど誰も気が付かなかった、ある種の<魂の風景>が隠されていることを如実に示した点にこそ、彼の功績であるといえよう。アルノ・シュミットのこの研究書は、世に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。そこで彼が用いた批判的文学分析の手法は、その後マイ研究の有力な手段として一般化していった。この点は注目すべきことである。

カール・マイ学会」の誕生(1969年)

かくしてこのような機運に乗って、戦前では考えれれなかったほど活発に、各方面にわたって、マイ研究は進展してきた。そして1969年には、ハンブルクで、文学研究団体としての「カール・マイ学会(Karl May Gesellschaft)が誕生した。この学会は、様々な分野の学者ならびにマイ愛好者が集まって、情報と研究の交換を行う学際的な学会なのである。

マイの故郷エルンストタールで開かれたカール・マイ学会の総会に参加した会員達
(1999年)

年一回の『年報』と季刊の『報告』が発行され、総会シンポジウムが隔年に開かれている。場所はカール・マイゆかりの地が選ばれ、4日間ほどの日程で、かなり大規模な催しとなっている。私自身もこの学会の存在を知った1980年以降学会員になって、総会シンポジウムにも数回参加してきた。1990年のドイツ再統一以降は、東ドイツ地域にまで拡大された。この旧東独地域こそは、マイが生まれ育ち、作家として活動し続けた所だったのである。そのため再統一後には、もちろんマイが成功してから住み続けたラーデボイルのすぐ近くの大都会ドレスデンでも、生まれ故郷のエルンストタールでも、総会シンポジウムが開かれている。そして2012年3月には、マイ没後百年祭を記念して、ドレスデンでシンポジウムが開かれたが、これには私も参加した。

その学会活動は年を追って活発さを増し、そうした研究の一つの集大成として、1987年に、実に内容の濃い浩瀚な研究書が刊行された。それが『カール・マイ・ハンドブック』(Karl-May-Handbuch)である。小型版だが、751ページと分厚い本である。ドイツのクレーナー出版社(シュトゥットガルト)から発行されている。学会の主たる研究者をまさに総動員しての分担執筆で、カール・マイの全てを、余すところなく明らかにしている。私もマイ研究にあたり、この本に大いに世話になっているので、次にその目次を紹介することを通じて、大体の内容をお伝えすることにしよう。

     『カール・マイ・ハンドブック』の見返しとマイの肖像

『カール・マイ・ハンドブック』
発行者ゲルト・ユーディング 編集者ラインハルト・チャプケ
目 次
まえがき
序 言
時代背景と伝承
A 三月前期と第一次大戦の間
B 文学的伝統
C 一九世紀における文学市場
人物と人生を取り巻く事情
A 伝記研究の歴史
B マイの生涯
C 年表(誕生から逝去まで)
作 品
A テキスト
B 内容の展開と散文形式
C 個々の作品
1.世界冒険物語
2.青少年向け作品
3.分冊販売小説と初期長編物語
4.初期の作品
a   ユーモレスク
b 村の物語
c 旅行冒険物語
5.G・フェリーの作品の翻案
6.自伝的文章
7.論文、講演その他の記録
8.戯曲「バベルと聖書」
9.抒情詩
10.断片、草稿、習作
社会的影響と評価
A   カール・マイ批判とマイ受容
B 作品への加筆および改訂
C オーストリア、スイス、東ドイツにおけるカール・マイ
D 翻訳版
E 戯曲化
F 映画化
G 音楽化
H 商業的利用
I マンガ、絵物語
J 博物館、記念館、展示
K カール・マイ出版社
L カール・マイ研究機関とその展望