第4章 その後の発展
6 第一次大戦後の路線変更
戯曲作品の大幅縮小と物語文学の増大
いまやレクラム出版社は、三代目のエルンスト・レクラムと弟のハンス・エミール・レクラムの二人によって率いられるようになった。そして以前から周到に準備されてきた路線に従って、百科文庫は戯曲作品が大幅に縮小され、代わって物語文学がどんどん採用されるようになった。百科文庫の内容の再点検の仕事は、エルンストが入社した1906年以来少しずつ行われてきたのだが、当主の交代によってそれがいよいよ本格的なものになったわけである。
つまり先代のハンス・ハインリヒによって異常なほどたくさん収録されたディレッタント的な戯曲作品が整理統合され、代わりに物語文学が積極的に採用されるようになったのである。その際1912年から始まった自動販売機による販売を考慮して、同時代の大衆文学も大いに収録されたのであった。それから十九世紀後半に活躍した写実主義作家たちの物語文学も、このころからどんどん収録されていった。それはこれらの作家たちの著作権保護期間が1910年代の末から1920年代の末にかけて切れていったという事情にもよるのである。これらの作家は、シュトルム、ケラー、C・F・マイヤー、フォンターネ、アンツェングルーバー、リールなど日本でもよく知られた人が多かった。そして死後三十年たち、その作品はすでに古典に数えられるようになっていたのだ。そのためそれらの作品は一挙に多数収録されることが多く、例えばゴットフリート・ケラーだけでも1921年に18点が百科文庫に収められている。
とはいえレクラム社としても著作権料の支払いがいらない作家だけにこだわっていたわけではなく、今や印税支払いの必要な同時代の作家にも目を向けるようになっていた。こうして同時代の一巻本の物語が、この時以来百科文庫の中の独自のジャンルとして、次第に前面に進出するようになったわけである。そのやり方としては、まず名のある同時代作家の作品へのいわば手引きとして、各々の作家から代表的な作品を一つ収録するという方法がとられた。その作業は同社編集部や幹部にとって、ある種の野心を示す機会ともなった。同時にそうして選定された作品は、学校の国語の授業などに対する規範形成にも大変役立ったのである。しかしそれまではほとんど印税のいらない作品を選定することによって成り立ってきたレクラム社の経営にとって、印税のかかる作品がどんどん増えていくことは、重大な問題であった。
それまで百科文庫は、古典作品、世界文学の名作、著作権のいらない作品などに集中することによって、伝統に忠実な姿勢を示し、同時に一つの規範を示してきた。その意味において百科文庫は、いわば過去に目を向けてきたわけである。ドイツの同時代文学がこうした伝統によって導かれた間は、このことは大した問題を生まずに済んできた。しかしドイツでも1880年代以降、時代の芸術的・精神的潮流に変化が現れ、モデルネと呼ばれる新しい運動が次第に力を増してきた。こうした美学的・イデオロギー的な新しい動きは、やがて従来の伝統的な潮流と対立し、競い合うようになった。
その際新しい運動の担い手は、逸脱と革新に賭けた。そしてこの芸術的・精神的な二重主義の登場に伴って、著作者と読者の双方のグループに分裂が起こったのである。このような新しい動きに対しては、レクラム社としてもいつまでも無視し続けることは出来ず、三代目の登場とともに収録すべき作品の整理統合の仕事に着手したわけである。モデルネとしての自然主義文学の登場以来、帝政時代に栄えていた亜流的古典主義、折衷的ディレッタンティズムそして大衆文学は、従来の地位を保てなくなった。そのためこうした種類の作品をその「文庫」の中にたくさん抱えていては、「古典叢書」とか「世界文学のパンテオン」といったイメージないし宣伝文句が脅かされるよになったのである。
このようにして行われた整理統合の結果、それまで「文庫」に収録されていたたくさんの流行に乗った喜劇作品や戯曲、あまり価値のない一幕ものや笑劇、軽い旅行記などは削除されることになった。その代わりに良質の物語文学が次第に増大し、1919年から1929年の間に、「文庫」全体のほぼ四分の一を占めるまでになったのである。
「三年にわたる再建作業」
以上述べてきた「文庫」の中身の修正作業は、とりわけ第一次大戦後の数年間の激動の時代に集中的に実施された。それは1919年から21年までの三年間を指すが、その成果をレクラム社では『三年にわたる再建作業』と題する小冊子の報告書の形で、1922年の春に発表した。この報告書の中ではまず、敗戦後の混乱と経済的な苦境の中で打ちひしがれた国民生活を立ち直らせるのに書物も重要な役割を果たすことを強調した。そしてこれからの新しい時代に適応した形でその役割を果たすべきことを、謳っている。その後そうした路線に沿うように百科文庫の内容を大幅に修正したことを明らかにしてから、一歩踏み込んで次のように述べている。
「五十年に及ぶ仕事の中には失敗もありました。しかしレクラム社の社員は百科文庫のそうした欠点を一番よく知っており、それを除去しようとの決意を固めているのです。・・・わが社の歴史の中で、今は経済的に最も困難な時期を迎えているわけですが、過去の遺産によって生きることで済まそうというのではなく、迷うことなくわれらの叢書を新たな形に作り直し、拡大し、それによって価値の高い良書が増大したという事実を示さねばならないのです。それにはこの報告書に添えられている新刊書の目録をみていだだければ十分でしょう。そこには誇るべき200点近くの作品が掲載されているのです。とりわけ同時代のドイツ人作家のグループには驚かれることでしょう。」
その後外観の面でも百科文庫が一新したことが述べられている。
「百科文庫の外観に対してもわが社では、綿密な配慮を払ってきました。判型は大きくなりましたが、ポケット版という便利さが失われないようにしました。そしてより読みやすい組み版を目指して、わが社ではおよそ15年前から、それ以前に比べてより大きな活字を選び、行間も広く開けるようにしてきました。最近では多くの古い作品も新しく印刷する際には、こうしたやり方で刷新されています。」
このように内容外観ともに百科文庫が一新されたことを述べた後、こうした動きが一般からも広く認められつつあることを示すために、いくつかの新聞、雑誌の反応を掲載している。その中から革新政党ながら、ワイマル時代となり今や政権党になっている社会民主党の機関誌『フォーアヴェールツ』のものを、次に紹介しよう。ちなみに社会民主党は、十九世紀後半に作られたときから「知識は力である」として教育(教養)に重点を置いてきた政党なのである。
「今や六千巻を越えているレクラム百科文庫こそ、最古の廉価な叢書である。この叢書はしばしば称賛されてきたし、この<文化的業績>に対しては最大限の言葉も用いられてきた。しかし時としてレクラムにケチをつける人もいた。とはいえ今日ではこうした文句ももはや当を得たものではなくなっている。レクラム本の印刷の仕方、装丁、外観は今では十分満足のいくものであり、目がちらちらして読みにくいという事はない。賢明で目的意識を持った方針のもと、百科文庫の刷新と拡大が実施されてきたが、その内容もしだいに異なった様相を呈してきている。多くの古い<本>が削除され、新しい良書が増えている。
シュトルム、アンツェングルバー、ケラーなど解禁されたドイツ人作家、ドストエフスキー、ゴーリキ、ストリンドベリーなどの偉大な外国人作家、フィービッヒ、フランク、シュミットボン、シェーファーなどの現存作家、そしてヴント、オイケンなどの哲学者から、はてはマルクスやラサールなどの社会主義者まであるのだ。それだけではなくて、さらに価値ある特別シリーズも発刊されている。公民的な作品ではまずは古くて重要な学者たち(リスト、 ヘーゲル、ダールマン、プーゼンドルフなど)、そして自然科学書。ここでは新しく専門家向けに翻訳されたダーウィンなどのやや古いものからアルブリヒの極めて有用な植物学の本やランブレヒトの生の発展史などの素晴らしいオリジナル作品までそろっている。さらにオストヴァルトは光学への入門書を書いているし、、メッサーシュミットなど著名な研究者もこのシリーズのために新たに本を書いている。レクラムを軽々しく見ることはもはやできないのだ。新しい展開へ向けて、あらゆる方面で再検討が行われ、持続的な努力がみられる。」
狂乱インフレの時代
ドイツの経済は第一次大戦の末期から低迷を続けていたが、戦後になると種々の要因が重なって、敗戦国ドイツの物価はじりじりと上昇の一途をたどった。そして通貨暴落の速度は、1922年の後半に入るとどんどん上がっていった。狂乱インフレの開始であるが、やがて出版界としても書物の値段を従来の物価上昇割増率では調整できないほどに、貨幣価値の下落は激しくなった。「ドイツ書籍商取引所組合」は、それぞれの出版主によって確定された基本価格(百科文庫は一冊三十ペニヒ)の倍数に当たる数字を「取引所会報」に時々刻々発表することによって、これに対応した。しかし最後の段階では印刷物では間に合わなくなり、ヴォルフ電報局を通じて、発表されたという。その度合いがいかに激しいものであったのか、次に見てみよう。
1922年9月13日には、キー数字の倍率は従来の60倍になった。そして12月27日には6千倍に、1923年6月21日には6300倍に、8月11日には30万倍に、9月7日には240万倍に11月20日には6600億倍に、そして11月22日にはついに1兆千億倍にも達した。この倍率に応じて百科文庫の値段も上がっていったのだが、その最終段階の価格は3300億マルクであった。この時点になってようやくドルを基軸としたレンテンマルクが導入されて、この狂乱インフレは終息したのであった。そして百科文庫一冊の値段は40ペニヒに固定された。他の諸物価と同様に、この狂乱インフレの時代の百科文庫の値段は、ただ一度だけの例外的に法外なものであったのだ。
百科文庫以外のさまざまな企画
さしもの狂乱インフレも終息し、ドイツの社会は1924年から20年代末までの短い相対的安定期を迎えた。こうした社会情勢を反映して、レクラム社も順調な発展を見せるようになった。そしてこの時期には本来の百科文庫のほかにも、様々なシリーズ企画が続出した。その先駆者として1910年に発刊された<ヘリオス古典作家シリーズ>が、1920年にE・R・ヴァイスのデザインによる新しい装丁に改められて刊行された。これは総クロース装の豪華な造りの本で、一冊2.75マルクで売られた。また4.5マルクの半革製のさらに上等なものも同時に出された。

ヘリオス古典作家シリーズ
このシリーズの内容面に目を向けると、その解説は同時代の著名な作家に委託された。たとえば19世紀後半に活躍したT・フォンターネの六巻本はトーマス・マンの解説で、A・v・D・ヒュルスホフ一巻はリカルダ・フーフの解説により、G・ケラー八巻とK・F・マイヤー四巻はM・ライヒナーの解説と編集によって刊行されたのであった。このシリーズは好評で、第二次大戦終了時まで刊行が続けられた。同様に1924年以降、<ヘリオス作品集>という名称のもとに、古典作家及び人気作家の個別作品が大型版で発行されていった。例えばゲーテの『詩と真実』、『イタリア紀行』、『詩集』、『親和力』、レッシングの『ハンブルク演劇論』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などであった。さらに<レクラム長編小説集>というシリーズも刊行された。
また特に注目すべきものとして<若きドイツ作家>というシリーズが1927年から発刊されるようになった。オレンジ色の表紙に跳躍している若駒を付けたこのシリーズは、無名な人物を含む若い作家にチャンスを与えようというもので、レクラム社の若き編集者エルンスト・ザンダーが企画を担当した。文学の新潮流に敏感な編集者によって選ばれたこのシリーズには、意欲的な作品が数多く収録され、文芸の専門家たちから好評を博したが、様々な理由から長続きはせず、現在では見つけるのが困難な稀こう本になっている。
いっぽうドイツでも開始されて間もないラジオ放送の中でオペラの中継が普及してきたのをとらえて、1926年には人々から最も愛好されていたオペラやジングシュピールの台本を収録した<レクラム・ラジオ文庫>全十六巻が発刊された。当時出されていた広告には次のように書かれていた。「お聴きですか? あなたの本箱には最新のものが欠けています。それはレクラム・ラジオ文庫です。モーツァルト、ワーグナー、ロルツィングほかが、エレガントな2マルク80ペニヒの全集で手に入ります。オペラを見るためには常に完全なテキストが必要です。ゲーテやシラーと同様に、音楽の古典もあなたの本棚にお収め下さい」
さらに<レクラム実用知識>というシリーズも発行され、実用書の販売に努めたが、これらは旅行用読み物などと一緒に、書籍通信販売の分野でも扱われた。それからまた主として海外に住むドイツ人を対象に、<レクラム輸出文庫>というものも刊行された。

レクラム輸出文庫
その広告には次のように書かれていた。「レクラム輸出文庫は、堅牢なブリキ製の箱に50冊の短編小説を収めています。価格は20マルク。ブリキ製の箱は持ちやすく、雨やほこり、虫に対して安全です。熱帯地方にお住いのドイツ人にとっては、50冊の最高の本を安全に保管できるこの箱は、大変便利かと思われます。」
百科文庫の<件名・見出し語総目録>の発行
レクラム百科文庫は、その長い歴史の中で、その時々の必要に応じて特定の分野の作品の目録が発行され、読者に提供されてきた。しかし「文庫」に収録された全作品を掲載した総目録の類いは、それまで発行されてこなかった。このことに気づいたレクラム社では、創刊からほぼ60年経った1926年に526頁にも上る<件名・見出し語総目録>を発行した。これには1867年の第1ナンバーから1926年の6590ナンバーが収録されている。10年ほどのちの1935年末に110頁にのぼる追加版が発行されたが、これには7310ナンバーまで収録された。
これがどんなものであるのか、当時ドイツで最大級の図書館であった「ドイチェ・ビュッヘライ」のH・ウレンダール館長が説明しているので、その説明を引用することにしよう。
「一つの文庫が大きくなればなるほど、それだけ在庫の宝物の秘密を解き明かすカタログが必要となる。レクラム百科文庫にはこれまでそうしたものが欠けていた。現在まで出ているカタログは個々の分野について記載してあるだけで、不十分だ。しかし数年にわたる編集作業を経て、今や全作品の件名目録と見出し語目録が完成した。これは図書館についての専門的な知識がなくても、実際の経験さえ積めば誰でも使えるものだ。極めて分かりやすい使用法が考えられており、書店の人にも、一般の人にも簡単に使えるようになっている。このカタログはアメリカの十字カタログ方式に従って編纂されており、著者名とタイトル名が見出し語としてアルファベット順に並べてある。それに加えて、作品を内容的に包含したジャンル別の見出し語ものっているのだ。」
レクラム出版社創立百周年記念式典(1928年)
レクラム出版社は1928年10月1日に創立百周年を迎え、ライプツィッヒの旧劇場で記念式典が大々的に行われた。クライストの作品『ロベール・ジスカール』が演じられ、文壇の大御所ゲアハルト・ハウプトマンが貴賓席に座り、レクラム社と因縁の深いトーマス・マンが記念演説を行った。この演説はレクラム出版社にとってもまた一般のドイツ人にとっても、大変意義のある貴重なものなので、少し長くなるがその主な部分を引用しつつ、紹介することにしよう。マンはその中で、「教養あるドイツが、・・・一つの功労ある出版社の記念日をその記念日にしたのです。」と総括的に述べている。そしてその記念演説の中で、マンは、その事業の基盤を精神の友の上に据えている一つの出版社の理想像を描き、ドイツ人に向かって精神への信頼を訴えた。そして<最高の教養はどこから来たのか。もしそれが市民に由来するのでないとすれば>というゲーテの言葉を引用した。さらにマンはレクラム出版社の歴史を語り、その創立者のアントン・フィリップ・レクラムの思い出を語った。

演説中のトーマス・マン
「当時この若き出版人が行ったことの中に、確信という要素がありました。それはーー古き良きドイツの外来語を使うことにしますがーー理想主義だったのです。そしてこの理想主義こそは若者の持つ原動力であり、彼がその家族に残したものなのでした。この理想主義について、さらに詳しくお話ししましょう。それは当初から社会的な性格を持つものでした。彼は国民、広範な民衆に精神の普及、精神への信頼というものを通じて、貢献しようとしました。彼は、美は限られた人々のものである、という立場をとりませんでした。彼は畏敬の念などは持たずに、この美を多くの、まさに多くの全ての人々に、<大きな恐怖なしに>行き渡らせようとしたのです。無知の基盤を掘り崩そうとするとき、災いを引き起こすかもしれません。掘り崩されるよう求められた無知は、もうほとんどそれを必要としません。それでもなお無知はそれを要求するというのが、この出版者の確信であり、計算であったのです。
彼が欲したのは大量販売でしたが、それは馬鹿値によって可能になったものです。しかしこの馬鹿値は計算上、大量販売つまり安全な売り上げを通じて、初めて可能になるのです。そして問題は需要というわけです。レクラムはこの需要を確信しました。良きもの、知識・教養、美、あるいは節度ある娯楽への、ドイツの一般大衆の飢えというものを、彼は信じていました。そして意図的に手に入れ、効果あらしめた確信は、裏切られることはなかったのです。その出版社は強固な基盤を築き、彼は金を稼ぎ、その社会的な理想主義が商売のうえでも賢明であったことが、証明されました」
そしてトーマス・マンは、その記念演説の終わり近くで、レクラムのための新しい標語を見つけ出しました。「フィレンツェの芸術家がロレンツォ・デ・メジチのために刻んだメダルの表にはこの人物の肖像が、そしてその裏にはモーセの肖像が描かれています。そしてその面には、彼が岩を砕いて水を取り出す様が描かれ、そこには<人々が水を飲むために>という銘が刻まれています。私たちが今日お祝いしている出版社はその創立の日に、そのモットーとしてこの言葉を選ぶことができるでしょう」
この時レクラム出版社はまさに第二の黄金時代を迎えていた、と言えよう。しかしそのわずか二・三年後には早くも難局に直面することになったのである。
7 第三帝国時代の百科文庫
1930年代初めのレクラム社の財政危機
1929年秋に起きた世界恐慌は、30年代初めになるとドイツの経済に深刻な影響を及ぼし始めた。そのあおりを受けてレクラム出版社も大きな財政危機に陥り、百科文庫の売り上げは著しく減少した。それはレクラム社内部の経営上の失策によるところも多少はあったようだが、主な原因はやはり一般的な経済的困窮によるものであったようだ。1928年10月に創立百周年を大々的にに祝って、まだほんの二・三年後のことだったのだ。研究者のマイナー女史はこの点について、次のように記している・
「貧しくなった国民は緊急には必要でない、どんな本も見合わせるようになった。売り上げは落ち、発行部数は減った。1932年1月1日の緊急指令第4号によって、一冊の価格を35ペニヒに値下げせざるを得なくなった時、その困難はさらに増した。それは百科文庫にとって、自分自身の力ではたちゆかず、元手を食いつぶすことによって生き延びていた、経済的に最も厳しい時代であった。当時新刊書の刊行は、最低の水準に落ち込んでいた」
百科文庫にとって更なる困難は、著作権法の新規定によってもたらされた。つまり1934年12月に、著作権保護期間がそれまでの30年から50年に延長されたことによるものである。これは従来から著作権料の必要のない作品に多く依存していた百科文庫にとっては、そうした作品が著しく減少することを意味していたのだ。
レクラム社の財政困難は、百科文庫の新刊点数から推し量ることができる。第一次大戦以前や1920年代には、新刊書の年間点数は、しばしば100ナンバーを越していたが、1935年には、わずか25ナンバーにまで下がってしまっていた。20年代末からの変遷を見ると、
1929年ーー100ナンバー、30年--70ナンバー、31年--63ナンバー、32年ーー22ナンバー、33年--34ナンバー、34年--57ナンバー、35年--25ナンバーとなっている。
レクラム社の財政困難の原因としては、さらに営業面での失策があげられる。それはつまりカタログ配布による宣伝広告が不十分であったことと、自動販売機の不調によるものであった。レクラム社の元社員は、これに関連して次のように語っている。「それに加えて、かつては年間百万枚は送付されていたカタログ配布が減少したことがあげられます。売上げ高は、配布されたカタログの数によって左右されるものと、私は思っています。現在の読者は、百科文庫の多くの古い作品を知りません。カタログを通じて知るのです」
いっぽう1936年以降レクラム社の支配人として社の再建に力を尽くしたゴットホルト・ミュラーは「レクラム社の財政立て直し」について次のように述べている。
「特に手痛い損失は自動販売機部門で起こった。そこには一定数の修理工がいて、すべての大きな鉄道駅構内に設置されていた自動販売機の修理に当たっていたが、多くの機械はすぐに壊れてしまうので、無駄であった。こうして自動販売機部門は大きな赤字を残すことになった。この商売がもう十年以上にわたってレクラム社の経営に損失をもたらすことが明らかになったので、即座にすべての自動販売機の撤去を決断した。」

百科文庫自動販売機
ナチス体制への組み込み
周知のとおり、1933年1月30日、ヒトラーが政権を掌握した。そして極めて短時日のうちに、ドイツのほとんどすべての領域が、ナチスの支配体制のもとに組み込まれていった。出版の分野も例外ではなかった。つまり他の全ての出版社と同様に、レクラム社もナチスの文化政策の強制下で運営されることになったのだ。その大衆的な人気と名声と大きな影響力のために、ナチスとしてはレクラム出版社を自分たちの直接の支配下に置きたいと思い、同社をのどから手が出るほど欲しがったのだ。しかし創立以来リベラルな市民意識によって特徴づけられてきたレクラム社は、その伝統的な力によって、全体主義的な危険思想に抵抗する実体を持っていた。そのため出版社をナチ党の直接的な影響と干渉にさらすことは、防ぐことができた。そして従来どおり出版社はレクラム一族の所有にとどまった。
とはいえナチスによる政治的な監視は極めて厳しく、従来の意味での検閲という言葉を無意味にするぐらい、極端に過酷なものであった。ナチス当局の意向に反すれば、紙の配給停止が直ちに実施されるぐらいで、出版社として生き延びようとすれば、あくまで表面上はその意向に従っていかねばならなかったのだ。
まず初めにユダヤ人の作家ならびにナチス体制にとって好ましくない著作者の作品を、百科文庫から除外させざるを得ないことになった。つまり十九世紀のベルネ、ハイネ、ラサールなどが、そして二十世紀では、ハインリヒ・マン、トーマス・マン、クラーブント、シュニッツラー、ヴァッサーマン、ヴェルフェル、アルノルト・ツヴァイク、シュテファン・ツヴァイクなどが削除されたのだ。ヴェルフェルの場合など、1932年になってその短編小説が「文庫」に収録されたばかりであった。これらはすべて目録から削除されただけではなくて、実際に裁断し、つぶしにしなければならなかった。これらはまた、1933年5月に行われた、あの野蛮極まりない「焚書事件」の犠牲となって、燃やされたりした。
その選定に当たったのは、反ユダヤ主義の文学史家で作家でもあった、アドルフ・バルテルスであった。この人物は百科文庫には特別のかかわりを持っていて、1918年に世界文学史に関する三巻の作品が収録されている。ただこの本には反ユダヤ主義的な論調は全く見られず、レクラム社としても彼を特に珍重したわけではなかった。とはいえ1933年にナチスの依頼を受けて上述の選定を行い、ユダヤ人作家やナチスにとって好ましからざる著作家が百科文庫から排除されたことに満足する旨の発言を、ナチスの機関誌に発表したのであった。バルテルスはしつこい性格の人物であったと見え、1938年になってもなお、百科文庫の中に好ましからざる作家の名前をみいだして、排除しているのだ。
さらに1943年のカタログの中には、次にあげる作家が戦争との関連や政治的な理由から、公式に認められない作家として指定され、その大部分は注文票の中に「引き渡し不能」と書かれて排除された。その作家とはディケンズ、ドストエフスキー、ファラーダ、グラースブレンナー、ゴンチャロフ、ヘルマン・ヘッセ、レールモントフ、ミキーエヴィッチ、プーシキン、トルストイ、チェーホフなどであった。
このようにして古典作家や同時代の重要な作家が排除されたことによって、百科文庫は全体としてその質を著しく落とすことになってしまった。それまでは新刊書を収録するにあたって、さまざまな政治的立場を持った著作家を選定することに十分な配慮がなされていた。こうすることによって百科文庫は時代精神に対応してきたのである。ところがナチスの登場によって、もしレクラム社が生き延びようとすれば、このようなバランスのとれた出版計画を維持していく事は、もはや不可能になったのである。そして窮余の策として、ナチス宣伝省の指令に反して、いつかまた適当な機会に市場に出すことを考えて、たとえば貨車二台分のハイネの作品を倉庫に隠したりした。そこには三代目の当主エルンスト・レクラムの創業者譲りの反骨の精神と、新しい支配人G・ミュラーのしぶとい経営者魂を見て取ることができよう。
ここでユダヤ人でもなければ、ナチスによって好ましからざる作家とも指定もされず、むしろ長い間ドイツ人から国民的作家として愛好されてきたフリードリヒ・シラーの戯曲作品『ヴィルヘルム・テル』をめぐるエピソードについて見てみることにしよう。研究者のマイナー女史によれば、「この作品は1941年までに総発行部数534万部で、百科文庫の中でも最も売れ行きの良いものであった。」という。それは「この作品が長い間小学校の国語のテキストに指定されてきたこと、舞台でよく上演されてきたこと、そして読書サークルで好んで取り上げられてきたこと、つまり自由なドイツ精神のシンボルとみなされて、広く愛好されてきたためであった」といわれる。
しかし独裁者ヒトラーはこの作品を好んでいなかった。ただこのような作品を公然とブラックリストに載せて排除することは、さすがのヒトラーもできなかったと見え、腹心の部下を使ってひそかに工作した。その結果『ヴィルヘルム・テル』は1942年以降、劇場での上演や学校教材としての取り扱いが禁じられることになった。しかし百科文庫での発行はとくに禁じられることもなく、そのためか1943年に、10万部もこの作品が出版されているのである。ただしそうした状況の下で、いったいどんな読者層をねらったのかは、不明である。
いっぽうこの『ヴィルヘルム・テル』は、その一般的人気と知名度のために、外国における反ドイツ派のグループによって模倣制作され、偽装作品としてドイツ帝国内に持ち込まれた。つまりレクラム百科文庫第711ナンバーと称して、この戯曲からの抜粋を転載したものが、そっくりの装丁のもとに作られたのである。そこでは明らかに、シラーの原作から独裁体制及び独裁者に反対する詩句が選ばれて、転載されていたわけである。ただ抜粋であったため、原作に比べて分量的にもはるかに少なく、原作を読んだことがある人が手に取れば、直ちに両者の違いは見分けることができたという。シラーの作品からはこのほか『ヴァレンシュタイン』も使われていた。
このように名作の抜粋という形をとったもののほかに、単に百科文庫の表紙だけを用いて、中身は全く別のプロパガンダであった、というものもあった。第一次大戦と同様に第二次大戦でも、敵国陣営はこの文庫の表紙を好んで用いた。その一例を挙げれば、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件後の処刑に関連して、英米のプロパガンダ当局は飛行機や風船を使って『ドイツ国民の名において』と題する文書をばらまいたが、その表紙に百科文庫が使われていたのだ。つまり百科文庫の外観は、ナチスに反対する抵抗運動側の非合法文書にとって、とりわけ愛好されたカムフラージュの手段であったわけである。国民の全ての階層にとって、百科文庫の人気、その普及度、その小さな形、そして製作するのが容易な点などは、偽装文書の製作や普及にとって、極めて有利な特性となっていた。このようにか破壊活動的な文書にレクラム文庫が利用されたことに対しては、レクラム社側としては、せめて嫌悪の念ぐらいは表明すべきであったと思われるが、実際にはそうしていないのだ
学校への宣伝活動の強化
この時代、レクラム社は学校への宣伝活動を強化していた。学校の生徒こそは、以前から最も重要な購読者のグループになっていたからである。そしてその宣伝に当たって、レクラム社はやはり商売上の配慮を優先させて、時代の脚光を浴びていたナチス的な作品を全面に押し出していた。その学校向けの見本カタログは、故意に新しい教育に対する百科文庫の意義を喚起していた。そうした見本カタログの一つに、「新生ドイツにおける学校用」と題したものがある。その中では著者はナチス的な言葉遣いを繰り返し用い、とりわけヒトラーの言葉をふんだんに引用している。
またナチス的な新しい教育と、伝統的で古典主義的な教育・教養の概念を比較して、ナチス教育担当者は、この際伝統を捨てて、新しい教育に取り組むべきだとの主張がだされた。つぎにそうした主張をいくつか引用することにしよう。「我々は祖国に関連したことで、ドイツ精神についてあまり多く語るべきではない。野蛮さへのある種の勇気こそ、文化に対する政治的な要請である」「ナチス国家に生きるわれらドイツ人教師は、古典主義の文化理念を、新しいドイツ人の民族的な人生観に照らして再検討せよとの要請から逃れることはできない」「古典主義の人間の理想は、もはや我々のものではない。我々は、国語の時間にそうしたものに対して重要な位置を与えないような勇気を示さねばならない」
こうしたナチス教育担当者からの圧力は、古典を重要な柱に据えてきた百科文庫にとっては、確かにやっかいなものであったに違いない。これによってかなりの古典作家の作品が、事実上読者の手元に届かないという事態も生まれた。さらに古典作品の解説の中に、ナチス的な色彩が入りこんだりもした。しかし商売上の観点に立つ限り、百科文庫に対するナチス色の濃い宣伝は、苦しい状態が続いていたレクラム社全体の財政状況を改善したことは確かである。
この時代特有の百科文庫作品
この時代に排除された作品があった反面、この時代だけに特有な作品も見られた。その最初にはまず『いかにしてアドルフ・ヒトラーは総統になられたか』を挙げねばなるまい。これはヒトラーの演説及びその他の材料を集めたもので、1933年に初版が出され、1936年の第6版までに10万4千部発行された。ただこれは党の公式の要望に沿ったものではなく、著者チェヒ・ヨッヒベルクが自己の功名心に駆られて書いたものであった。そのため一時は突撃隊員の個別訪問販売によって売り上げを伸ばしたものの、党の審査委員会によって著者がペテン師であることが暴かれ、この本は書店及びレクラム社によって大量に押収された。もっぱら利益だけを狙って書かれた、粗雑で無責任な本であるとされたのだ。これによってレクラム社は金銭的にも損失をこおむると同時に、出版社としても信用を落とすことになった。そのためこの本はやがてレクラムの目録から削除された。不幸な事件ではあった。
このほかにもその題名からナチスとの近似性が見て取れる作品がいくつか百科文庫に入っていた。またそれ以外にも、間違いなくナチス的な思考の産物が隠されていると思われる作品もあったが、全体としては1933年以後のナチス的世界観ないしナチス的教化を含んだ著作物は、百科文庫の中で決して多くはなかった。いっぽうナチス独裁政権が発令した法律は、百科文庫の中に『ヒトラー法典』として、ヒトラーの演説と合わせて一巻に収められている(第7250ナンバー)。これを帝政時代のヴィルヘルム二世の演説集十二巻と比べれば、極めて抑制したものと言えよう。
さらに新しい作品ではなくて、従来から百科文庫に収められていた古典作品などに対して、一定のナチス的ないし民族主義的な色彩をもった解説が、当時強要されたようだ。このいわゆる「ナチス的まえがき」が百科文庫の中で、実際にはどの程度の役割を果たしていたのか、調べた人がいる。その人物クラウス・トレーガーによると、「あきらかにそこにナチス的ないし民族主義的な調子の解説を発見した」という。しかし彼は同時に次のことを付け加えている。「とはいえレクラム社及びその学問的協力者の大部分の人々の名誉のために次のことを言っておかねばならない。つまり彼らは純粋に作品の背景史的説明に固執するか、もしくはそこへ逃避することによって、ドイツ国民文学に対する伝統的な義務を、少なくとも隠れたやり方で守ろうとした、という事である」
以上の事柄と関連があることだが、1934年作家のヘルマン・ヘッセは、1929年に刊行された『世界文学入門』を、ある政治的意図のもとに書き換えてくれるようにとのレクラム社からの注文を、拒絶した。その断りの手紙の中で、この作家は次のように述べている。「・・・書籍目録の修正、例えばユダヤ人作家の削除が行われてはならない、という事をここで私ははっきりと条件付けせざるを得ません。貴殿はそうした一連の作品の削除が望ましいと示唆されています。貴殿の立場は理解できますが、それは私の立場ではありません。この点に関しては、妥協の余地は私にはないのです。」
しかし結局この本は、この時以降発刊停止となり、戦後の1948年になって元のままふたたび出版された。
さらに『ゲーテ選集』をめぐっても、レクラム社と選者との間で新たなやり取りがあった。1927年百科文庫のためにオーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクがゲーテの詩の中からいくつかを選び、それに序文をつけて刊行された。しかしこの作家はユダヤ人であったため、ナチスによって国外追放され、そのためこの作品は以後出せないことになった。この時レクラム社ではロンドンに亡命中の作家に、選者の名前及び序文なしに発行することへの承諾を求め、これは本人から快く承諾された。その後ナチスの御用学者と見られていたハインツ・キンダーマンにゲーテの詩の選定を依頼して、これを1939年に出版した。しかしその前書きは、ナチス的概念規定と作家からの引用を並列することによって、ドイツ人作家をナチス体制に組み込もうとする様々な試みの一つの典型といえるものであった。
外観上の変更–装丁、活字–
1867年、1917年に次いで、1936年に百科文庫に対して三回目の装丁変更が行われた。この時の変更は、もっぱらレクラム社内部の人材によって行われた。その特徴について、当時のドイツのブック・デザインの専門紙は次のように述べている。
「・・・これはいかなる装飾的な要素も拒絶した、警句的な簡素さによって特徴づけられている。ペン画風の活字は、現代の書籍印刷の中で最も注目すべき変化の一つだと言えよう。

新しい装丁の百科文庫(1936年以降)
いっぽう狭く限られた紙面の中に、できる限りたくさんの読み物を提供しようという考えから、レクラム百科文庫の組版は数十年間を通じて、ぎっしり詰まったものになっていた。ところが今回新しい表紙に変更されたのに伴って、組版もややゆったりしたものになった。・・・」
この記述によって、おおかたこの時の装丁の変更についてお判りいただけたことと思うが、これは第二次大戦後の1967年になって、西ドイツのブックデザイン専門紙によって、再び高く評価されたのであった。この専門紙は改訂版の特徴について述べた後で、次のように結んでいる。「これはナチス支配の時代を通じて、内容的には保守的な立場を守り通した百科文庫の美学的な水準を示すものであった」
百科文庫は1940年代になって、活字の修正をもう一度行ったが、今度は美学的見地からではなくて、総統指令によるものであった。1941年1月、ヒトラーはそれまでドイツの出版物で使用されていたドイツ文字(フラクトゥーア)の使用を禁止し、ローマン体の文字の一般的な導入を指令したのである。これは現在世界中で、ごく普通に見られるローマ字の活字である。この指令に基づいてドイツ帝国内では発行されていた新聞・雑誌の類いは、この年のうちにローマン体に変更されていった。ただ書物の場合には、この修正はそうすぐには実施されなかったようだ。
この指令の根拠は、戦争によるヨーロッパの征服事業が頂点に達した1941年という時点で、第三帝国(当時のドイツの体制)を対外的に宣伝するという観点にあったようだ。つまりドイツによって征服されたヨーロッパ各地域の国民が、ドイツ語の本や雑誌、とりわけナチスのプロパガンダ文書などを読めるようにとの配慮からのものであったと思われる。同時に伝統的なドイツ文字であるフラクトゥーアに嫌悪感を抱いていた独裁者の個人的な好みも、そこには含まれていたようだ。
それではこの総統指令に対してレクラム社は、どのように対応したのであろうか。この点についてマイナー女史は次のように記している。
「総統指令によって、ほぼ75年間百科文庫で用いられてきた、馴染みのあるフラクトゥーア体は、やや背後に退いた。そしてドイツ的精神を外国に知らせるべきものとされた作品は、今や優先的にローマン体に変えられることになった。まず最初にローマン体で印刷された作品は、W・ツィークラー著『1939年、いかに戦争は勃発したか』であった。第7440ナンバーのこの作品は、愛書家にとっては珍味といえる。これは最初はフラクトゥーア体で植字され、印刷された。そして後の版でローマン体で印刷されたのだ。ドイツ文字とラテン文字の両方で出版されたことを自慢できる本がほかにあるであろうか」
第二次世界大戦の勃発と百科文庫
1939年9月、第二次世界大戦が勃発したが、レクラム社では、第一次世界大戦の時と同様に「携帯用野戦文庫」を大々的に発行した。その具体的な状況について、マイナー女史は、1942年に発行された本の中の「レクラムと戦争」という項目の中で次のように述べている。
「現在の戦争で百科文庫は再び兵士のために、全面的サービスを行っている。再び携帯用野戦文庫(本箱に似た頑丈な箱を丈夫な紐で縛り、その中に百冊の異なった文庫本を収めたもの)が、その真価を発揮しているのだ。陸軍、空軍、海軍や官庁、党本部などが、それらをどんどん購入している。部隊から部隊へ、船から船へ、空軍基地から空軍基地へとそれらは動き回っている。まさに実用この上ない移動・貸出図書館になっているのだ。・・・」
この頃出されたレクラム社の宣伝パンフレットを見ると、これらの野戦文庫の価格や購買の仕方が丁寧に説明してある。そしてその表紙には様々な場所で、軍人、兵士たちがそれらを受け取っている場面が写真入りで掲載されている。そしてこれらが、25年前の第一次大戦の時「携帯用野戦文庫」を愛読したある兵士からの熱心な要望に沿って、再び発行されたものであることも、そこには書かれている。当時百科文庫一冊の値段は35ペニヒだったので、携帯用野戦文庫は百冊で35ライヒス・マルクであった。

百科文庫と兵士たち。「兵士たちはレクラム文庫を読んでいる」と書かれている。
いっぽう戦争が長引き、紙不足が深刻化したとき、それへの応急対策として戦時郵便特別版が発行された。これはわずか20頁の簡単な印刷物で、厚地の表紙もなく、大部分は製本もしてなかった。そして家族から戦地の兵士へ送る普通の郵便物の中へ入れることができるように工夫されていた。この戦時特別版は1944年まで、45巻出版された。内容的には古典及び現代の作家のもので、部分的には百科文庫に収められた作品の抜粋が使用された。その価格は10ペニヒで、のちに15ペニヒとなった。
戦地に発送された、これら様々な種類の「文庫」は、財政面でレクラム社を潤すことになった。第二次世界大戦後、東独レクラム社の財政を担当していたクレッチマーが明らかにしたところでは、不調をかこっていた30年代のあと、40年代に入ると、レクラム社は再び利益を上げるようになったという。その利益は、1940年に41万7千マルク、41年に82万5千マルク、そして42年に93万5千マルクといった具合に増えていったのである。ちなみに百科文庫の総発行部数は、1942年に2億7千3百万部そして終戦の1945年に、およそ2億8千万部に達していた。
ただこうした利益の増大は、もっぱら古い作品の再販という形での発行部数の増大に負っていた。新刊点数の方は、40年代に入ってからも30年代半ばとあまり変わりなく、年間30ナンバー前後を低迷していたのだ。
百科文庫創刊七十五周年
ただ1942年だけは、例外的に47ナンバーと戦時中にしては突出していた。その理由はこの年に百科文庫が創刊七十五周年を迎え、それを記念して同年5月に、記念シリーズとして一挙に20ナンバーの新刊本が発行されたからであった。その内容を見てみると、戦時中であるにもかかわらず、 百科文庫がドイツの市民文学の伝統になお忠実であったことが示されている。この時百科文庫は7500ナンバーに達していたが、記念すべきその第7500ナンバーには、ドイツ古典主義文学の代表の一人フリードリヒ・ヘルダーリンの作品『エンペドクレスの死』が選ばれた。その前書きはフリードリヒ・ゼーバスが書いているが、それは文学的に大変優れたものであったのと同時に、時代の政治的なにおいをどこにも感じさせないものであった。とはいえこの20ナンバーの中には、わずかながら時代状況に妥協したと思われる作品も含まれていた。
またこの記念すべき年には、百科文庫の意義がジャーナリズムの世界で注目され、称賛された。そして七十五周年の記念事業として、アンネマリー・マイナー女史の『レクラム、七十五周年記念百科文庫の歴史』が、レクラム社から発行された。この本は、筆者もこれまでしばしば引用してきたが、それまでで最も広範で、内容豊富、データもぎっしり詰まっている、レクラム出版社及びレクラム百科文庫に関する歴史書なのである。外観は百科文庫と同じ判型で、320頁。 レクラム社や百科文庫に関する資料の多くが、第二次大戦末期に行われたライプツィッヒ大空襲の際に、灰燼に帰してしまったため、戦後の研究の多くはこの書に依存するところが大きいのである。
いっぽうこの七十五周年は、1917年の五十周年が第一次大戦中であったように、第二次大戦の最中であったため、外部の人を招いての大々的な記念式典のようなものは行われなかった。1928年のレクラム出版社創業百周年の時のような華やかな式典は、遠慮せざるを得ない状況だったのだ。
大破局
既に戦局はドイツにとって不利に展開しており、1943年にはいるとライプツィッヒ市への連合軍による空爆も繰り返されるようになった。7月、10月、12月と三度にわたる空爆によって、レクラム出版社の建物は三分の一以上が破壊された。その時の詳しい様子について、マイナー女史は、戦後の1953年のレクラム社創立百二十五年記念講演の中で、次のように述べている。
「それからライプツィッヒの書籍商街への空襲が行われるようになったのです。1943年10月、1500万冊の本を収納していた中央倉庫とともに、レクラム社の建物が爆撃にあいました。それらの本を横に一列に並べれば、11キロメートルにもなり、重さは9千ツェントナー(4万5千キログラム)にもなったでしょうか。これら貴重な在庫が焼けてしまったのです。その2か月後にライプツィッヒ全体で3千万冊から5千万冊が焼け、インゼル通りに面したこの町で最もモダンな新しい植字室が焼け落ち、さらに火の手は包装室や事務室へ移っていったのです。ただ印刷所のあった建物は、無事に残りました」

上・下とも 爆撃を受けたレクラム社の建物(1943年)
社主のエルンスト・レクラムは、こうした悲惨な状況に対しても、決然とした態度を見せた。そして応急処置として新たな植字室を作り、焼け残った印刷所で、その後も百科文庫の印刷を続行した。しかしライプツィッヒの本社屋がいつまた爆撃を受けるかもしれないという恐れがあった。そこで翌1944年には、大型本の在庫や出版社の資料は、部分的に南ドイツのパッサウやその他の場所に疎開した。そしてこの年の7月には、本社屋の自家発電装置が爆破された。こうした破局的な状況の中でも、印刷所での仕事はなお続けられた。しかしそれ以外の出版社の活動は、戦争の最後の数か月には完全にストップしてしまったのである。