随想。タリバンのアフガン支配と「カール・マイ冒険物語」

<はじめに>

周知のとおり、2021年8月15日、アフガニスタンのガニ大統領が隣国に逃亡し、アフガニスタン政府は崩壊した。そしてイスラム主義勢力の「タリバン」が、実権を握った。その後9月1日、20年という最長の戦争を終えて、アメリカ軍は撤退した。タリバンは、「占領軍」を追い出したことに祝砲をあげ、「完全な独立」を宣言した。その前後の動きについては、日々の報道で詳しく伝えられている。

これらのニュースに私は大きな衝撃を受けている。というのは、私は、ドイツ史が専門であるが、このイスラム地域にも、年来強い関心を抱いて、その歴史や地理について、多少は勉強もしてきた。そしてまたライフワークとして、「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」というイスラム地域を舞台にした作品の翻訳も行った。

そんなわけで、今回はいつもとは違った随想という形で、この150年前の物語を紹介しながら、いろいろ思うことを、書いていくことにしたい。

<物語の時代背景>

はじめに、この物語をご存じない方のために、作品と作者そして何よりも物語の時代背景と舞台となっている地域について、説明しておこう。作者は19世紀後半に活躍したドイツ人の冒険作家カール・マイ(1842-1912)である。彼は生涯に膨大な作品を書き遺しているが、その主な作品群はイスラム圏のオスマン帝国を舞台としている。そのため、これらは後世の研究者によって「オリエント・シリーズ」と呼ばれている。私はこのシリーズに属する作品を12巻にまとめて翻訳・刊行したのだが、それについては、このブログの右上の「自己紹介・戸叶勝也」をクリックして、参照していただければ幸いである。

さて作者のカール・マイが活躍した時代は、19世紀後半で、まさに1871年に成立したドイツ帝国(いわゆるビスマルク帝国)の時代に重なっていた。このころは、大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国と並んで、宰相ビスマルクによって指導され、列強の一つに加わったドイツ帝国の動きが、際立っていたころである。

そして宰相ビスマルクを追い出す形で実権を握った皇帝ヴィルヘルム二世は、大変な野心家で、「太陽の当たる場所」を求めて帝国主義政策を推進した。それは北国のドイツから見れば、南に位置する諸地域への遅ればせながらの進出であった。ドイツはアフリカや南太平洋地域へ出て、植民地化した。皇帝はドイツ語ではカイザーであるが、明治時代の日本では「カイゼル」と呼ばれ、その威張りくさった髭(ひげ)は、新聞などで「カイゼルひげ」などと書かれていた。この皇帝は、さらにイスラム教のオスマン帝国とも交渉したりして、首都のベルリンからイスタンブールをへて南のバグダードへと到達する鉄道路線の計画を立てた。数年前に私がイスタンブールへ旅したとき、カイザーの訪問にちなんだ記念碑が、今なお町の中心に立っているのを見たものである。

ところでカール・マイが書いた「オリエント・シリーズ」の舞台は、19世紀半ばのオスマン帝国である。その舞台を示したのが、下記の地図である。

 

  19世紀半ばのオスマン帝国領(主人公カラ・ベン・ネムジの冒険行路)

<イスラム教とキリスト教の対立>

上の地図を見ていただければ、大体19世紀半ばのオスマン帝国領の範囲がおわかりになろう。しかしその前に、オスマン帝国の歴史をざっと振り返ってみよう。まずこの国は1300年ごろトルコ人のオスマンが作ったイスラム教の国である。そして最盛期(17世紀)にはその領土は上の地図に書かれた範囲より広く、西は北アフリカのアルジェリアが含まれ、また北はバルカン半島の北部、現在のハンガリーあたりにまで広がっていた。そしてその境界の先には、ハプスブルク家のオーストリア帝国があったが、この帝国はオスマン帝国と対峙して、キリスト教世界の守護役を演じ、16世紀以来、幾度となく戦争を繰り返してきた、

イスラム教のオスマン帝国は、西暦14世紀初めから、20世紀初めの第一次大戦時まで、およそ600年にわたり、キリスト教の西ヨーロッパと対峙してきたわけである。とはいえ互いに戦争ばかりしていたわけではなく、文化を含めて、様々な面で関係を保ち、東のオスマン側が西のヨーロッパに影響を与えてきた。例えば18世紀のモーツァルトのトルコ行進曲は、日本人にもなじみのものだろう。この曲は、太鼓をたたいて整然と進軍していく、オスマン軍の勇ましい姿を描写したものと思われる。またチューリップという名前は、その形がトルコ人がかぶっていたターバンに似ているというので、つけられたものだ。さらに真偽のほどはわからないが、16世紀あるいは17世紀に、オーストリア帝国の首都ウィーンをオスマン軍が包囲して、その後撤退したときに、陣営の中に残されたコーヒーがヨーロッパに初めて伝わったなどといわれている。

カール・マイ冒険物語の時代は、19世紀半ばの、帝国の末期に当たっていた。そしてその勢力は衰え、領土も減少していた。しかしその時点においてもオスマン帝国領には、発祥の地であるアナトリアと対岸の首都イスタンブールを中核として、なおバルカン半島南部地域並びにアラビア地域が属していた。これらの地域を含めて、オスマン帝国は、当時のヨーロッパ人から、自分たちのすぐ東にある地域という意味で「近東」と呼ばれたのだ。

<近東について>

これに関連して、カール・マイ冒険物語第6巻「バグダードからイスタンブールへ」の第5章(158頁)には、「近東」に関する興味深い話が、出てくるので、次に紹介したい。

今しも二人の男がイスタンブールの旅館「ドゥ・ペスト」の一室に座って、宿の  主人のついだ素晴らしい酒を飲みながら、思案気な顔つきでタバコをふかしていた。・・・・
「サー、近東問題をどう考えるね?」
「それは問題というよりは、感嘆符を伴った事柄ですな」
灰色の男は再び口を閉じ、眼を開け、”賢者の格言”を直ちに理解しなければならない、といった顔つきをした。この灰色の男はデービッド・リンゼイ卿で、褐色の男は私(注:物語の主人公カラ・ベン・ネムジ)だったのだ。私は一度たりとも真面目に政治に取り組んだことはなかった。そのためトルコ、バルカンなどを巡る政治上の問題は、私にとって恐怖と嫌悪の対象だったのだ。その概念を説明できる人は、この質問にも答えられるであろう。しかし近東問題だとか、いわゆる”病人”が持ち出されると、どんなにぎやかな社交の席でも、私は直ちに沈黙せざるを得なくなるのだ。私は政治医学を学んだわけではないので、この病人の症状についてとやかく言うことは出来ないのだ。しかしその地域を旅している私の素人考えでも、とても健康だとは呼べないことは確かだ。 (注:”ボスフォラス海峡の病人”と、かつて強大であったオスマン帝国も、19世紀にはヨーロッパの列強諸国から、馬鹿にされていたのだ)

ところで第一次世界大戦にオスマン帝国は敗北し、その領土は大幅に削減された。その中核地域は、トルコ共和国として生まれ変わった。しかし、その南部のアラビア地域にあった領土は、列強のイギリスとフランスによって、都合よく線引きされて、いくつもの国家が作られた。それが現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、パレスチナそしてサウディアラビアの一部などである。ペルシア湾岸のアラブ首長国連邦、クエートその他の小さな国々は、それより後になって生まれたのだ。そしてそれらの地域の中でも石油が出る地域や国は、エネルギーの供給地として脚光を浴びることになったわけである。

これらのアラビア地域はやがて「中東」と呼ばれるようになった。ヨーロッパから見て「近東」より遠いが、インド、中国そして日本など「極東」などと区別するために、その中間の東の国々という意味で「中東」と名付けられたのであろう。いずれにしても、19世紀以来のヨーロッパ中心の考えを反映した命名に違いない。

この近東と中東を合わせて、中近東とよばれることもある。第二次大戦後も、ある時期までは「中近東を行く」といった紀行文やテレビ番組があった。しかし最近ではこの言葉はあまり聞かれなくなった、と思われるが、どうであろうか。

<物語の概要>

次に「カール・マイ冒険物語」の概要について、簡単に紹介していこう。キリスト教徒であるドイツ人のカラ・ベン・ネムジはイスラム教徒のアラビア人召使ハジ・ハレフ・オマール(ハジはメッカ巡礼者に与えられる肩書)を従えて、広大なオスマン帝国の領域内を、馬にまたがって移動していく。そして行く先々で、冒険の数々が展開される。その行路は、先に示した地図をご覧になればお分かりいただけよう。

ドイツ人の主人公カラ・ベン・ネムジは、武力にも知力にも優れ、母語であるドイツ語のほかに、英語、フランス語などのヨーロッパの言語はもとより、現地の言葉であるアラビア語、トルコ語、ペルシア語から、クルド語までできるスーパーマンである。職業は一応「物書き」で、旅する地域の文化や風土を探求するために、その語学力を駆使して、現地の人々と積極的に交わっていく。単なる冒険家というのではなく、「異文化理解」をモットーとした文化人類学者の側面も発揮したりしている。

ただマイは流行作家であったため、自分の足で現地を訪ねて物語を書く時間的余裕はなかった。19世紀後半にあって、売れっ子の作家が遠い「オスマン帝国」の地を探訪することはできなかった。そのため自分の書斎に集めた膨大な書籍や百科事典、あるいは各種の精密な地図や探検家、学者の調査報告書などを基にして、書いている。その点、司馬遼太郎のやり方に、似ているといえる。また司馬と同様、ドイツではマイは「国民的作家」呼ばれているのだ。

さて主人公はオスマン帝国の各地を移動する際に、召使と二人だけの孤独な一匹オオカミというわけではなかった。実はうまく立ち回って、「オスマン帝国」の皇帝(スルタン)から、特別なビザが与えられている。水戸黄門ではないが、現地の悪党などとやりあうときには、そのスルタンのビザが「葵の御紋」として、ものをいうのだ。

<物語の発端>

まず北アフリカのアルジェを出発した主人公と召使は、チュニジアの塩砂漠での冒険の後、サハラ砂漠の北のはずれを通って、ナイル河に到達する。そこでは地元の有力者のハーレムにとらわれていた美女を救い出す。次いで紅海を船で渡って、対岸のアラビア半島にある港町ジッダに上陸する。そして主人公は、ヨーロッパ人にとっては禁断の、イスラム教の聖地メッカに入る。そこの中心施設カーバ神殿を見た後、異教徒であることが発覚し追跡されたが、ほうほうの体で逃げ延びる。

その後、舞台はメソポタミアのティグリス河へと移る。そこではアラビア人の部族争いで、一方の陣営の参謀に収まって、勝利に導く。そんなことができるのも、アラビア語が達者で、現地事情にも通じているからだ。「アラビアのロレンス」を思わせるものがある。主人公は さらにティグリス河をさかのぼって、上流の大都会モスルのトルコ人代官の屋敷に入り込む。このモスルは数年前、凶悪なイスラム過激派「イスラム国」によって、一時占領され、壊滅的な破壊を受けた所だ。その後アメリカ軍などによってイスラム国は滅ぼされたが、瓦礫となった町並みは依然として、無残な姿を見せている。

このモスルから主人公と召使は、クルディスタンの山岳地帯へと、分け入っていく。そこにはイェジディと呼ばれる少数民族が住んでいた。彼らはキリスト教の一宗派の信仰を守っていたので、同じくキリスト教徒の主人公カラ・ベン・ネムジは、大いに親近感を抱く。しかしかれらはその特異な宗教儀式を実践していたため、周囲のイスラム教徒から、「悪魔崇拝者」と呼ばれ、迫害されていた。思えばそうした迫害は現代でも行われたのだ。例の「イスラム国」はシリア、イラクにまたがる地域を一時支配したが、その時イェジディ(ヤジディ)の女性たちは「イスラム国」の兵士によってレイプされたり、残酷な被害を受けたりした。これはまだわずか数年前のことで、国際的な非難を浴びたものだ。

さて主人公が分け入った山岳地帯はクルディスタンと呼ばれているが、そこには主流の民族として、イスラム教徒のクルド人が住んでいた。この民族は現在なおトルコ、イラク、シリアそしてイランの広大な地域に、散在して居住しているのだ。その人口はざっと三千万人といわれる。そのため「国家を持たない最大の少数民族」として、話題になっている。

さらにその山岳地帯には、ネストリウス派のキリスト教徒も住んでいた。この一派は遠く中国でも布教を行ったが、そこでは景教と呼ばれている。このあたりの山岳地帯は、まさに民族と宗教のるつぼであった。そしてイスラム教徒のクルド人とキリスト教ネストリウス派の人々は、互いに抗争を繰り広げていた。そこでも主人公はその抗争に介入して、両者の代表と知り合って、和解と融和に努めている。

また物語の地の文章で、主人公は、当時この地域に入り込んでキリスト教の布教活動をしていたアメリカ人牧師のことを批判している。つまりその牧師は複雑な地域事情や宗教事情を知らないため、その布教に成功していないのだとしているわけだ。これは150年前の19世紀半ばのことだが、20,21世紀のアメリカは、「世界の警察官」を自任して、各地にアメリカ流の自由と民主主義を根付かせようとして失敗を繰り返してきているわけだ。今回のアフガニスタンからの軍事撤退も、しかりだと私は思っている。

<タリバンとイスラム法>

ところで現在アフガニスタンで国の統治を始めようとしているタリバンは、女性の権利について、「イスラム法の範囲内で尊重する」と主張している。そのイスラム法(シャリーア)については、物語の主人公はこう述べている。「自分が関与した裁判で、裁判官はシャリーアを、都合よく恣意的に使っているのだ」と。

この法律について、イスラム学者の松山洋平氏は最近の新聞のインタビュー記事で、次のように述べている(朝日新聞、21.8.27朝刊)

「人間の行為に関するイスラム教の決まり事のことだ。刑法や商法などにあたる規定のほか、礼拝の方法や巡礼の手順、衣服や排せつの決まり事といった日常の問題も扱われる。イスラム教初期の7世紀から存在する」。また同氏は「古典的な解釈において、男女の不平等や、(むち打ちなどの)身体刑が存在することが、国際的に問題視されている」とも述べている。

<クルディスタンからイスタンブールへ>

再び物語に戻ることにしよう。主人公と召使はクルディスタンを離れ、東側のペルシア(現在のイラン)との国境に連なっているザグロス山脈に沿って南下していく。その途中、偶然シーア派イスラム教徒のペルシア人亡命貴族と知り合う。この人物は、メソポタミア地域にあるシーア派の聖地(ナジャフ)へ向かう途中だったのだ。主人公はこの亡命貴族と意気投合して、バグダードまで同行する。

この辺りは、歴史的経緯からイスラム教のスンニ派とシーア派の両派が混在している地域で、現在はイラクである。独裁者サダム・フセインは政治的思惑からスンニ派を優遇していた。しかし2000年代初めのイラク戦争で、アメリカ軍によって殺された。その後できたイラク政権は、シーア派の隣国イランと関係が近く、シーア派優遇策をとるようになった。ただ一時は「イスラム国」の支配を受けたりして、このテロリスト集団の国が撲滅された後も、イラクの地はなお混乱を極めている。

このように現代においては、この地方はまったく精彩を欠いているが、古代にはシュメール文明やその後のバビロニア文明などが栄えていたのだ。そのため物語の中で、主人公は聖書に登場する「バベルの塔」があった古代バビロンの廃墟に立ち寄った。そしてはるかな古代に思いをはせた。しかしそれに先立ちシーア派教徒の巡礼の葬列を、好奇心から見物に行った主人公と召使は、この廃墟でペストを発症して瀕死の憂き目にあった。死者を運ぶ葬列からは、死臭が立ち込め、非衛生極まりないものと、描かれている。幸いユーフラテス河の支流の静かな場所で、ゆっくり静養して、やがて二人は元気を回復した。ただコロナ禍の現在、物語のこの部分を読み返すと、身につまされるものがある。

その後シリアの古都ダマスカスへ向かった主人公と召使は、途中で知り合った宝石商の屋敷に招かれる。それに先立って、次のような街並みの描写がつづいている。

「背後にはアンティレバノン山脈の絵のような山並みが天に向かってそそり立ち、前方にはイスラム教徒が誇りにしている天国のようなダマスカス平野が広がっている。その平野には果実をつけた樹々が茂り、花が咲き乱れ、その間を縫うようにして大小八本の川が流れている。そしてこの広々とした緑の園の背後には、荒野を旅して疲れ果てた巡礼者たちにとって、まるで蜃気楼のように、ダマスカスの街並みが浮かび上がってくるのだ。」
(第6巻「バグダードからイスタンブールへ」第3章ダマスカスにて。57頁)

実にロマンに満ち溢れた街並みの描写だが、これが19世紀半ばのシリアの古都の本当の姿かどうかはわからない。たぶん美化しすぎていることはないのであろう。しかし私が思うのは、2011年の「アラブの春」によって始まったシリアの内戦のことである。独裁的なアサド大統領の政権を倒そうとした反体制派は欧米の支援を受けて、はじめは優勢で一時はアサド大統領は追い詰められ、倒される寸前までいった。しかしシリアに基地をもつロシア軍の強力な軍事支援によって徐々に盛り返した。とはいえトルコなどの支えで、反体制派もすぐには容易に絶滅するまでには至っていない。いっぽう長引く戦火によって発生した数多くのシリア難民は、周辺の国々から果ては遠いヨーロッパにまで逃れ、その受け入れを巡ってEUの国々に大きな問題が生じたわけである。

ここでも小国の紛争にいくつかの大国が介入することによって、問題がこじれ、国土が荒廃し、普通の人々の犠牲が大きくなったのだ。シリア内戦の場合は、単純にイスラム教勢力とキリスト教勢力の戦いではなくて、もっと複雑に絡み合っているわけだ。

カール・マイが描く19世紀のダマスカスの美しい町並みは、今はもはや残っていないのだろうか。一度専門家の話を聞いてみたいものだ。あるいは古都ダマスカスをいつか訪れてみたいという私の夢は、幻想にすぎないのだろうか。

それはともかく、主人公と召使は、その後ダマスカスの宝石商とともに、宝石泥棒を追跡して、古代ローマのバールベク遺跡にたどり着く。そこでの活劇の後、再び逃亡した泥棒の後を追って、一行は地中海沿岸のベイルートから船に乗って、イスタンブールへ向かう。そして盗賊団追跡の過程で、当時「魔都」と呼ばれた大都会の暗黒面がさまざまに描かれ、その中での冒険活劇が犯罪小説的な色合いを帯びてくるのだ。

ここまでが長い長い物語の前半である。後半には主人公のカラ・ベン・ネムジと召使いのハジ・ハレフ・オマールは、悪党団の親分を追跡して、バルカン半島の南部を東から西へと移動していく。そしてその親分を打ちとった後、最後にアドリア海に到達して、物語は終局を迎える。

まだまだ書きたいことは山ほどあるが、きりがないので、今回の随想はこの辺で終わりにしたい。