ドイツ近代出版史(5)~1887/88-1914~

第一章 書籍出版販売界の大改革

投げ売りとその防止策

ドイツの書籍出版界全体の公の組織として1825年に「ドイツ書籍商取引所組合」が作られたが、その後も書籍販売の面では書籍の投げ売りという事が大きな問題として存在していた。これに対しては幾多の防止策が試みられたが、どれもたいした効果を上げることができなかった。それどころか出版のメッカ、ライプツィヒやベルリンでは19世紀の後半になってから、かえって投げ売りは激しさを増してきたのである。割引価格を示したカタログ広告によって、地方の書籍販売業者はますます経済的苦境に陥るようになり、事態は深刻の度合いを深めていた。

地方レベルではすでに19世紀前半に、投げ売り防止の監視機関としての地域組合ができていて、地域的にはそれなりの効果を挙げる所もあった。そしてこの地域的に実施されてきたものを、全国一律にどこにでも通用するような商習慣にせよとの要求が、1870年代になって強まってきた。1876年には「書籍販売者連盟」の委託を受けて、『その支配的慣習に基づくドイツ書籍業界の基本秩序に関する草稿』というものが世に出された。そしてその二年後の1878年には、投げ売り防止のために、多くの出版業者がアイゼナハに集合した。こうした動きを見て全国組織の「書籍商取引所組合」も行動することを決心した。そしてそのイニシアティブで、同じ年の秋にワイマールに会議が招集された。そこで人々は、当時その数を増し、その連合会へと結集するようになっていた地域組合の基盤の上に立って「書籍商取引所組合」を改革することを話し合った。

「書籍販売者連盟」では、定価制度の確立をめざしたもろもろの規定を定めていた。そしてその連盟の会長から出版社に対して1882年、投げ売り業者への割引を減らすか、もしくは全く取引をしないようにとの要請が出された。この要請には484軒の出版社が応じた。

クレーナー改革

A. クレーナーの肖像

「書籍商取引所組合」の側でこの問題に対するリーダーシップをとったのが、その会長を務めていたアドルフ・クレーナー(1836-1911)であった。彼はすでに1878年のワイマール会議にも出席して、人々の注目を集めていた人物である。クレーナーは1859年に南西ドイツのシュトゥットガルトに出版社を創立した。そして1889年には老舗の大手出版社コッタ社を手に入れ、翌年にはウニオン・ドイツ出版社を創立した。これから述べる「書籍商取引所組合」の改革は、彼の名前をとって一般に「クレーナー改革」と呼ばれているが、その10年にわたる会長としての任期(1882-1892)中の1888年に、ライプツィヒに新しい「書籍商取引所組合」の会館が建設されている。

書籍商取引所組合の新館(1888年設立)

さてクレーナーは、投げ売りを防止するために定価制度を導入する過程で、ドイツの書籍業界にそれまでいろいろ存在していた組織を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することに成功したのである。彼は1887年、「書籍商取引所組合」の総会を、フランクフルト・アム・マインに招集した。これは投げ売り業者がたくさんいたライプツィヒやベルリンを意図的に避けることによって、かれらの反対をかわすためであった。

そしてこの総会で彼は、一連の提案を行った。それは書籍商同士の交流ならびに書籍商と読者との交流に関する一般的な基準を確立することと、市町村組合及び地域組合並びに出版業者連盟及び書籍取次業者連合を、「書籍商取引所組合」の傘下に統合することであった。このフランクフルトの総会では、全く抵抗がなかったわけではないが、結局クレーナーの政治力によってその提案は受け入れられ、以上のことを定めた新しい規約が、翌1888年の春から効力を発することになった。

この中の最も重要な規定の一つとして、投げ売り防止のための定価制度の確立に関するものがあった。ドイツのほとんどの出版業界の団体が「書籍商取引所組合」の傘下に入ったため、会員である書籍業者としては定価制度を守らなければならなくなったわけである。これによって悪名高い投げ売りは事実上終末を迎えた。このクレーナー改革によってドイツの出版業者は大同団結し、力を合わせて業界の利益と繁栄のために尽くすことを誓い合ったのである。やがてスイスの書籍商組合の定款も、ドイツの書籍商取引所組合の規約に合わせて改訂された。そしてスイスの書籍商組合の会員は、1922年までドイツ書籍商組合の会員になることが義務付けられた。またオーストリアの書籍商組合の規約も、ドイツのそれに適合するように改訂された。

定価制度をめぐる争い

クレーナー改革によって書籍の定価制度は確立したわけであるが、1888年に発効した「書籍商取引規約」をよく読むと、割引の実施に当たって地域組合にはなおある種の逸脱の余地が残されていたのであった。そのため改革から十数年をを経た1903年の初めになって、「書籍商取引所組合」は地域組合と取り決めた販売規定の中で、原則として顧客に対する割引は撤廃するが、現金払いの時だけなにがしかの割引を認めるという考え方を示した。そして具体的な取り決めとして、現金払いの際の割り引き率を、一般個人客には2.5%、官庁に対しては5%認めることになった。

ところがこの時、この程度の割引率では「不十分である」という声が、大学関係者の間からあがってきた。それは「書籍商取引所組合」へのドイツの出版業界の権力集中に抵抗して、書物の著作者と買い手の利害を護るという基本的な立場からなされたものである。そのためドイツ大学学長会議は1903年4月14日に、「大学保護協会」というものを設立して、この問題に取り組むことになった。

その昔1716年に、書籍問題にも造詣の深かった哲学者のライプニッツは、その『プロメモリア』の中で、「学者はもはや書籍業者に依存する賃労働者ではないのに、書籍業者はそうしたことを考えずに、自分たちのことばかりにかかずらわっている」と嘆いた。そして時は下って1880年代になってゲッティンゲン大学の神学教授パウル・ル・ルガルデは、ドイツの書物は外国に比べて高価であることを非難した。さらにベルリン大学教授のF・パウルゼンも、顧客割引をめぐる争いの中で、相対的に高い書籍の価格に狙いを定めた。全体としてドイツでは書物の値段が高いが、それだけ書籍業者が利益をあげている、というのが彼の主張であった。

書籍価格をめぐる論争

こうした流れの中で、書籍業界にたいして最も徹底した批判を加えたのが、ライプツィヒ大学教授のカール・ビュッヒャーであった。彼は先の「大学保護協会」の依頼を受けて1903年、『ドイツの書籍販売と学問』と題する一文を著し、その中で「書籍商取引所組合」に対して鋭い批判の矛先を向けた。かなり長くはなるが、以下その論調の主な部分を引用することにする。

「書籍商取引所組合は新しい定款を受け入れることによって、一つの<カルテル>を結成した。そして会員に商売上の最大限の利益を保証し、お互いの自由競争を取りやめることにした。」「定款には組合の目的として、会員の福祉の増進ならびにドイツ書籍業界及びその会員の最も広範な領域での利益を代表する事がうたわれているが、これは精神労働に対する搾取である」「寄生的な中間業者(取次店、委託販売人)は、書物の生産及び販売における経済的形成に対する阻害要因である」「ドイツの書籍業界は、人々が長いこと称賛してきたような完璧な組織などではない。我が国民の経済生活に対して、十分その任務を果たしていない」「そのカルテルの輪を断ち切る必要がある。・・・それから長期的観点から、公共図書館のためにしかるべき措置をとる必要がある。そして著作者に関しては、賃労働の奴隷の水準にまで落とされないよう、対策をたてるべきである」
そしてビュッヒャーは、定価制度の撤廃と自由競争の導入によってのみ、書物の価格は引き下げられるであろう、と主張したのであった。

このカール・ビュッヒャーの『覚え書き』は外国でも出版され、またドイツでは三版を重ね、同時に激しい論争を引き起こした。個人の意見が次々と洪水のように出された。そして非難の矢面に立たされた「書籍商取引所組合」の幹部が、1903年9月25日に声明を発表して、正式な異議申し立てを行った。この声明の中で「書籍商取引所組合」は、1825年の創立以来行ってきた多くの努力と業績を数え上げて、人々に訴えた。それはまず第一に著作者及び書籍業界のために翻刻出版禁止への闘いを指導してきたこと。第二に著作権保護のために道を切り開き、あわせて国際的著作権保護のためにベルヌ条約締結を呼びかけてきたこと。第三にその出版社法において著作者及び出版社の権利を擁護し、全世界の模範となるようなドイツの出版権の基礎を作り上げたこと。そして第四に造形美術作品や写真作品などの著作権に対する保護法制定に向けていまなお尽力していることなどであった。

そして定価制度をめぐる中核的問題に対しては、「書籍商取引所組合」は次のように主張した。すなわち定価制度が撤廃された場合に生ずる価格の引き下げによって、思わぬ結果が生ずることになろう。つまり比較的大規模な書籍販売業者だけは永続的に生き残れるであろうが、小さな町の書店はつぶれることになろうし、大学町の書籍販売業者も生き残りは難しいことになろう。それゆえにこうした中小書籍販売業者の生き残りのためにも、定価制度は必要であるとしたのである。

こうした学者と出版人との争いは、一般に「書籍論争」と呼ばれているが、双方互いに一歩も譲らず、強硬な主張を繰り返したため、ついにその仲介に帝国内務省が乗り出すことになった。こうして1904年4月11-13日に、関係各界の代表が招かれて会合が開かれた。そこに集まったのは、片や役所の代表、大学教授、図書館代表、対するに「書籍商取引所組合」幹部、出版主、書籍商の代表という顔ぶれであった。しかしこの会合でも直ちには問題に決着がつかず、結局懸案の数々はその解決を、「大学保護協会」及び「書籍商取引所組合」の代表から構成された「合同委員会」に委任されることになった。

ところが同委員会が同年5月31日にライプツィヒに招集されたとき、議論の対象となったのは割引問題だけであった。この時「書籍商取引所組合」は個人客に対する割引については従来の主張を繰り返しただけであったが、図書館に対しては7.5%という統一的な割引率の用意があることを明らかにした(これは「書籍商取引所組合」が従来行ってきた5%と、反対陣営が期待した10%という数字の中間をとった妥協策であった。)こうしてまとめられた取り決めは、少なくとも追加予算のついた図書館に対しては7.5%の割引を、それ以下の規模の図書館に対しては5%の割引を認めるというものであった。この取り決めは、今日なお存在している図書館割引の基礎となったものである。

書籍の定価制度をめぐる様々な問題は、その後も絶えず蒸し返され、今日に至るまで議論はし尽くされてはいない。とりわけこの議論は、第一次大戦中とその後の大インフレの時期そして第二次大戦後に繰り返されてきた。ちなみにドイツ連邦共和国の法律では、出版物は統制・協定などによる価格の拘束の禁止の対象から除外されている。

第二章 この時代の代表的出版社とその活動

特色のある出版社

今日ではもう見られなくなったことであるが、20世紀初頭のころにはまだ、ドイツの出版社にはそれぞれ独自の個性や特色があったといわれている。つまりこの時代の出版社には「顔」があったというのだ。W・ カイザーは1958年に行った講演「現代の文学生活」の中で、第二次世界大戦後の時代と20世紀の最初の数十年とを比較して、次のように言っている。「ザムエル・フィッシャー、ゲオルク・ミュラー、アルベルト・ランゲン、オイゲン・ディーデリヒス、インゼル(などの出版社)から出版された本には、それぞれ一種の風格があり、それぞれ独自の精神的分野と結びついていた。当時の書籍市場はある程度出版社によって秩序づけられていたのである。私の家のナイトテーブルには、丁寧に編集された古い完璧なカタログが置いてある」。

この古い出版社目録について、ワイマール時代の著名の評論家クルト・トゥホルスキーは、1931年に次のように書いている。ゲオルク・ミュラー、ピーパー、フィッシャー、インゼル出版社などは、このカタログ作成のために大変な努力を払い、かなりの経費と用紙を投じたのである。・・・しかもこの努力は十分報われているのだ・・・なぜならドイツの出版界にはかつて、ある本が新刊されたときにそれを自慢にできるような時代があったからなのだ。その本はX社でしか出版することができない。Y社からそれを出すことはできない、と人々は考えていた。・・・しかし今ではもうこういうことは全くなくなっている。どんな本もどんな出版社からでも出せるのだ。ほとんどどんな本も、出版社を取り換えることができる。」

トゥホルスキーがこれを書いた1931年には、先のカイザーが言った「20世紀の最初の数十年」は終わりを告げていたのだ。

装丁に対する工夫

ところで出版社の個性や特色は、書物の外観に対して人々が抱くイメージによって決められる度合いも少なくない。こうした観点から、この時代の主な出版社が書物の装丁に対して、どのような工夫をしていたのか、見てみることにしよう。まず出版者アルベルト・ランゲン(1869-1909)は、パリに滞在中にフランスのポスター美術から影響を受けて、著名な芸術家にブックカバー用のデザインを依頼することを思いついた。こうしてドイツで、書物にカバーをかけるという習慣が生まれ、これはたちまちのうちに多くの出版社が採用するところとなった。

しかも19世紀から20世紀への転換期は、時あたかも装飾美あふれたユーゲントシュティール様式(フランスではアール・ヌーヴォー様式)の全盛期であったので、この様式を用いた装丁が目立った。その際、出版者のA・キッペンベルク(1874-1950)が言うように、この「美の貴族」を広く国民大衆のもとにもたらすことが考えられた。そのためには書物の値段を下げて、発行部数を増やすことが図られた。

この考えはもともとレクラム出版社のもので、あの有名な「レクラム百科文庫」は何の装丁もない小型の文庫の形で、今日まで出版されている。そのため値段も初期には長い事20ペニッヒにおさえられていた。

ところがこうした大量出版を、美しい装丁を施したハードカバーの本で実行したのが、J・C・エンゲルホルンであった。彼は1884年、自社発行の文学全集に赤いハードの表紙をつけて、一冊50ペニッヒで売り出した。また上等な革製の表紙の方には、75ペニッヒの値段を付けた。エンゲルホルンのこの「赤表紙」は成功をおさめたが、20世紀に入ると、時代とともに読者の趣味嗜好も変わって、こうした点から新たな競争にさらされることになった。ザムエル・フィシャー(1859-1934)が経営する出版社が1908年から出し始めた文学全集は、黄褐色の表紙が付けられたが、エンゲルホルンと区別するために、これは「黄表紙」と呼ばれた。さらにこの時代、K・R・ランゲヴィーシェの「青表紙」本も存在した。

その一方、書物の外観に特別念入りな配慮を施し、ぜいたくな造本をして、しかも発行部数を100部に抑えて、選り抜きの100人に前払いで提供する「百部刷り」の試みも見られた。これを行なったのがH・v・ヴェバーが経営するヒュペーリオン出版社で、価格が50から100マルクという高価な豪華限定版であった。

このヴェーバーの友人だったE・ローヴォルト(1887-1960)は、この企画に魅せられながらも、やや別のやり方をした。つまり美しい活字と選り抜きの紙を用いて造本しながらも、それを手ごろな値段で愛書家の手元に届けようというのであった。こうして1910年から『愛書家のための雑誌』が発行されることになった。このためにローヴォルト書店と関係の深かったドゥルグリーン印刷所が尽力した。これはちょうどレクラムが本の内容に関して行なったこと(古典の廉価版の発行)を、愛書家のために造本の分野で行ったものであるといえる。

世紀転換期の「文化出版社」

それではここでこの時代に活躍した主な出版人の横顔を紹介することにしよう。これらの出版人が19世紀末から20世紀初めにかけて創立した出版社は、今日なお存続するか、あるいは今なおその影響力を残しているのだ。これらの出版人の一人オイゲン・ディーデリヒス(1867-1930)は、これらの出版社に共通するものとして「文化出版社」という名称を付けている。これら文化出版社は、新しい市民的個人主義の導入、(帝国主義的な)ヴィルヘルム体制からの市民階級の解放、そして(1871年の)帝国創立後の戦勝祝賀気分から覚めて、より現実的で健康な時代を建設することなどに貢献したのであった。

ザムエル・フィシャーの肖像

まず取り上げなければならないのはザムエル・フィッシャーであるが、ユダヤ人の彼は1886年にベルリンに出版社を創立した。S・フィッシャー社は、まず何よりも自然主義文学の作品を手掛けたことで知られている。フィッシャー社は、良書を安く人々に提供することに尽力したが、同時に作家の個人全集を出すことによっても知られていた。フィッシャーは一人の作家を掘り出す時に、のちに全集を出すことを考えてその作家の原稿を点検したのである。

その最初の全集をフィッシャーは、北欧の作家ヘンリク・イプセンの作品でもって始めることにした。イプセンの個々の作品の出来栄えは悪くなかった。しかし初めはその作品はレクラム出版社から出されていたのだ。イプセンはレクラムとフィッシャーを競合させて、漁夫の利を占めようとしていたとみられている。そのためフィッシャー社としてはイプセンの全作品の版権を獲得するのに、かなりの出費を強いられたという。それは一種の賭けともみなされるものであったが、S・フィッシャーはあえてこの冒険をすることによって、結局は同社の永続的発展を築くことができたのであった。

こうした冒険への性向は、イプセンに限らず、フィッシャーの北欧文学全般への好みに現れていた。その結果1889年から「北欧文庫」が発行されたが、新しいドイツ文学を振興させるには、言語的にも親類関係にある北欧ものが良いと彼は考えたのであった。
とはいえフィッシャー社が最初に取り上げた外国人作家は、イプセンのほかに、当時ドイツではまだ知られていなかったフランスのエミール・ゾラとロシアのレオ・トルストイであった。そしてのちにゲアハルト・ハウプトマンやトーマス・マンといったドイツ人が同社の看板作家になったのである。

フィッシャーの冒険的・革命的な行き方とは対照的であったのが、ライプツィヒのインゼル出版社のアントン・キッペンベルクであった。その行き方は慎重そのものであったが、次の彼の言葉はそれを十分示している。「我々は当時、正しい道を知らずに、手探りで進んでいた。ところが最上の水先案内人が、実は我々の船内にいたのだ。それはゲーテであった。彼は船内から何を捨てたらよいのか、教えてくれたのであった」。インゼル出版社という名称は、同社が発行した雑誌『ディ・インゼル(島)』にちなんでつけられたもので、創立は1899年であった。同社はやがてゲーテの作品の出版社として名を成していったが、1904年に出版した『ラート・ゲーテ夫人の手紙は特筆するに値した。ゲーテ夫人の手紙が公刊されたのは、このときが初めてであった。インゼル出版社はまた、文献学的な面でも貢献した。自らゲーテ作品の熱心な収集家であったA・キッペンベルクは、文献学的に当時としては最も念入りな編集を施したゲーテ全集を出版しているのだ。

オイゲン・ディーデリヒスは、多面的な才能をもって、多様な活動をした出版人であった。彼は1896年、イタリアのフィレンツェで出版社を起こし、のちに有名なブックデザイナーとなったE・R・ヴァイスの二冊の詩集を出版した。やがて彼はドイツに戻り、ライプツィヒを経て、イエナに出版社を移した。そして彼は自分の出版社を「文学、社会科学および神智学の現代化を試みる出版社」と名付けた。ディーデリヒスは初め、「自由思想家」F・ナウマンより左に立つ社会主義者であった。こうした立場から彼は、1848年革命史を、その50周年の1898年に向けて書くよう、弁護士のハンス・ブルームに依頼した。この人物は48年のフランクフルト国民議会の代表として名高いローベルト・ブルームの息子であった。

彼の出版人としての活動を見ると、出版界に様々なアイデアを持ち込んだ人物だといえる。彼は新種の宣伝広告の方法を考えて、それを実行した。また読者に書籍購入の動機をアンケートによって尋ねるという、ドイツの出版界で最初の「市場調査」を行ったりした。さらに第一次大戦後の出版界の苦境を克服するために、様々な提案を行ったし、「出版人養成機関」の生みの親の一人でもあったのだ。

先にブックカヴァーの創案者として紹介したアルベルト・ランゲンは、1893年に出版社をパリに創立した。文芸出版社としては、北欧とフランスの作家の作品をドイツに紹介することに重点を置いていた。そうした観点から彼は、若きノルウエーの作家クヌート・ハムスンを、S・フィッシャー社から引き抜いて、その小説『神秘』を出版した。しかし出版者ランゲンの名前と切っても切れないのが、名高い諷刺週刊誌『ジンプリチシムス』であった。この絵入り週刊誌はヴィルヘルム二世時代のドイツの政治や社会を鋭いタッチで諷刺・批判したために、その関係者はたえず告訴されたり、拘留されたりした。そして雑誌は発刊禁止処分を受けたり、発行人のランゲンはこのためスイスへ逃亡しなければならないこともあった。

こうした危険があったにもかかわらず、雑誌関係者はこの週刊誌の編集発行に意欲を燃やし続けた。やがてランゲン出版社は有限会社に組織替えされたが、1907年ランゲンは新しい雑誌『三月』を創刊した。この雑誌の発行人の中には、作家のヘルマン・ヘッセもいた。ところがヘッセはもともとフィッシャー社の作家であったため、このことが契機となって、S・フィッシャーとA・ランゲンの間に気まずい雰囲気が生まれることになった。ランゲン自身は翌年の1908年に亡くなったが、やがて雑誌『三月』はメルツ出版社から発刊されることになり、その編集は後にドイツ連邦共和国初代大統領となったテオドール・ホイスが担当した。

またゲオルク・ミュラー(1877-1917)という人物が、1903年ミュンヘンに出版社を創立した。皮革の卸売り商の息子だったミュラーは、その財政基盤はしっかりしていた。若き日にヴェーバー書店で見習いとして働いた経験を生かして、のちに自分の出版社を作ったが、直ちにその事業拡大へと突き進んでいった。まずマイヤー出版社の作家の版権を買い取った。そしてS・フィッシャー社が開拓することができなかった北欧の作家ストリンドベリーのドイツ語版全集を発行した。さらにランゲン社から、そこの作家ヴェーデキントを横取りした。

このG・ミュラーと同様にベルリンのヴェーバー書店で見習いをしていた人物にラインハルト・ピーパー(1879-1953)がいた。彼はミュラーと一緒にパリへ旅行したりしたが、やがて1904年に自分の出版社をミュンヘンに創立した。ピーパー出版社はとりわけ現代美術作品の出版に力を入れた。こうしてその出版社から、エドアルト・ムンク、H・v・マレー、M・リーバーマンなどの美術家の作品が出版された。さらにM・ベックマンとE・バルラッハも出版された。そこでの絵画作品の複製の出来栄えは、素晴らしいものだった。

最後にエルンスト・ローヴォルト(1887-1960)及びクルト・ヴォルフ(1887-1963)という二人の出版人の横顔を紹介しよう。ローヴォルトは1908年に、その第一次出版社をベルリンに創立したが、最初に出版したのが、G・C・エトツァルトの抒情詩集『夏の夜の歌』であった。これは二色刷りのユーゲントシュティールの美麗本で、当時若干21歳だったローヴォルト青年の夢を実現させたものであった。その2年後の1910年、ローヴォルトは劇作家H・オイレンベルクに心惹かれることになる。オイレンベルクはこの年の11月10日、シラー生誕150周年の祝典で記念講演を行った。しかしこの時彼は国民の愛国的シラー像を打ち砕いたため、講演は抗議の声と退場する人々の騒音で包まれた。それでもローヴォルト青年はこの劇作家に近づき、その全作品を出版することを約束した。これも若き出版人の理想主義を示す逸話であった。

オイレンベルクの作品に関するローヴォルト書店の広告

その一年前の1909年から親友のクルト・ヴォルフが、匿名の株主としてローヴォルト書店を全面的に支援していた。この二人の青年はシャム双生児と一般に呼ばれていたぐらい、常に行動を共にしていた。しかし二人の性格は非常に異なっていた。そのこともあって、それまで二人三脚のようにして一緒に出版事業を営んできたローヴォルトとヴォルフの間に、1912年になって出版の方針を巡って大喧嘩が持ち上がった。その結果、社の資金面を支えてきたヴォルフが1万5千マルクをローヴォルトに渡して、作家たちの版権も手に入れた。その中にはヨハネス・ベッヒャー、マックス・ブロート、ゲオルク・ハイム、フランツ・カフカ、M・リヒノフスキー、アルノルト・ツヴァイクなど文学史上に名をのこす、そうそうたる顔ぶれがいた。そしてヴォルフは翌1913年に社名を「クルト・ヴォルフ社、ライプツィヒ」と改めて、独自の出版活動を続けることになった。

その後ヴォルフは出版事業家としての才能を発揮して、事業拡大に乗り出した。その手始めとして、1917年「百部刷り」で知られていたヒュペーリオン出版社を買い取った。そしてそれに続いていくつかの長い名称を持った出版社を創立していった。このヴォルフの出版事業を経営面から支えた人物にG・H・マイヤーがいたが、彼はヴォルフに宣伝広告の重要性を説き続けた。そしてこのマイヤーの宣伝工作が見事に功を奏したのが、1915年に出版されたグスタフ・マイリンクの幻想小説『ゴーレム』に対する宣伝活動であった。この時マイヤーは街の広告塔に真っ赤な宣伝ポスターを貼ったのであった。

いっぽう自分の出版社を失ったローヴォルトの方は、第一次大戦勃発とともに出征していったが、戦争終了とともに帰国し、再び出版活動に従事した。今度は時代の先端を行く表現主義の芸術家や作家との交際のうちに、この種の作品を出版することを狙って、1919年に第二次ローヴォルト書店を創立した。そして従来の堅い純文学作品のほかに時局ものも多数出版するなど、多角的経営によって事業を安定させていくことになった。そして「自由なる精神の試合場、書物のための公共機関」をモットーに、出版活動をつづけた。1919-1933年のワイマール共和制の時代に出版された書籍の点数は、500点余におよんだ。しかもその著者層の広さ、作品の多様性は注目に値した。右翼から左翼に至るまで多彩な顔ぶれ、大衆作家から新聞・雑誌の文芸記事の執筆者、文学史に残る作家、あるいは各界の著名人に至るまで、その執筆陣は及んでいたのだ。こうして第二次ローヴォルト書店は出版の自由を全面的に享受して、ワイマール共和国時代の代表的出版社の一つとして、繁栄を謳歌したのであった。

なおナチス時代の前半に細々と経営を続けていたローヴォルト書店も、その後半にはついに閉鎖の憂き目にあった。そして第二次大戦後になって第三次ローヴォルト書店が創立されて今日に至っている。この間の事情については後に述べることにする。

大衆向けの書籍販売

以上紹介した「文化出版社」で発行されていた書物とは別に、広範な一般大衆向けの印刷物や書物を取り扱っていた書籍販売が、世紀転換期から20世紀初めにかけての時期にも、もちろん存在した。例えば都市近郊や地方では、しばしば文房具店と製本業者が合体した店で、広範な購買層向けに、教科書、暦、青少年向け図書、料理の本、安手の娯楽シリーズ本、家庭向け小冊子などが売られていた。いっぽう鉄道の駅構内の書店も、1854年にすでにハイデルベルクに存在していたが、このころにはその数を増やしていた。またレクラム出版社では、1914年に全国1600の駅の構内に、本の自動販売機を設置した。さらに大都会のデパート内に書籍売り場が設けられるようになった。こうした動きに対抗するように一般書店でも、ショーウインドー内の書物の飾りつけに工夫をこらしたり、店内の魅力あるレイアウトなどに尽力するようになった。

レクラム百科文庫の自動販売機

第三章 国立図書館開設への動きと出版界

1848年-不幸な第一歩

ドイツでも全国的な規模の公的図書館を開設しようという動きはかなり早くからあったが、地方分権国家として国の統一(1871年)が遅れたこともあって、この運動はなかなか結実しなかった。最初の動きは1848年の三月革命のときにおこった。北独ハノーファーの出版者H・W・ハーンは、フランクフルトの国民議会執行部に宛てて、自分の出版社の出版物を提供するので、他の出版社からの献本を併せて、公の図書館を作ってほしいとの申し出を行った。やがてドイツ及びオーストリアの多くの出版社がこの動きに同調したため、国民議会では国立図書館建設への第一歩を踏み出せるものとの見込みを立てた。そしてそのための専門的な担当官が任命され、具体的な計画立案が委任された。担当官のH・プラート博士は早速、納本義務と文献目録作成に関する立法作業に取り掛かった。その際新刊書の供出と文献目録への登録によって、著作権保護期間の確定も行うことを計画した。

こうして国立図書館開設へ向けての第一歩は順調に踏み出された。しかし翌1849年に国民議会そのものが解散したことによって、この計画も挫折してしまったのである。このようにドイツにおける国立図書館建設の最初のイニシアティブは、国や政府ではなくて出版界がとったわけであるが、この傾向はずっと後まで続くことになる。

「ドイチェ・ビュッヘライ」開設へ

1848年の計画の挫折の後、1871年にドイツは統一され帝国が成立したが、このころになると再び国立図書館開設へ向けての動きが起こってきた。今度は図書館関係者のイニシアティブによるもので、既に存在していたベルリン王立図書館をドイツの帝国図書館へと昇格させようというものであった。しかし今回は政府関係者のこの問題に対する無関心から、この提案は受け入れられなかった。

こうして時が過ぎていったが、第一次大戦勃発の少し前の時期に、ドレスデンの出版主エーラーマンの主導で、全国的な規模の図書館を建設しようという提案がなされた。かれは三度にわたって自分の提案の鑑定を専門家に依頼した後、1910年になってそれを公表した。その設立の目的は、外国におけるドイツ語出版物を含め、ドイツ語の全ての出版物を集めた公共の図書館を作ることであった。そしてその集めるべき出版物の中には、芸術上の印刷物、個人的な印刷物そして官公庁の刊行物も含まれるべきことが謳われた。そしてこの図書館へはすべての出版社が自由意志によって納本することで、出版界に合意がみられることになった。

主導者のエーラーマンはこの全国的規模の図書館を、ドイツの書籍の中心都市ライプツィヒに建設することを提唱した。幸いそこの「ドイツ書籍商取引所組合」はこの計画に協力的であった。そしてこの全国的図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、この「書籍商組合」の施設として建設されることが決まった。そのうえライプツィヒ市当局とザクセン州政府もこの計画に大変協力的であった。こうしてライプツィヒ市が土地を提供、ザクセン州政府が建設費を負担、そして両者がその経常運営費を負担していくことで合意がみられた。また「書籍商組合」が書籍や出版物の収集に対して責任を負うことが定められた。

「ドイチェ・ビュッヘライ」の堂々たる外観

こうして1912年10月にこれら三者の間で契約が交わされ、「ドイチェ・ビュッヘライ」は誕生することになったのである。出版界を代表してこの交渉に携わったのは、1910-16年の間「書籍商組合」の会長を務めたベルリンの出版主カール・ジーギスムントであった。しかし期待されたドイツ帝国政府のこの事業への参加は、ついに見られなかった。そのためこの図書館は全国的な規模のものではあったが、この時点では帝国図書館とはならなかったのである。第一次大戦勃発前夜の時期でもあり、当時のドイツ帝国政府の代表者は、こうした文化的事業に関心が向かなかったのであろう。

それはともかく「ドイチェ・ビュッヘライ」は1913年の初めから、ライプツィヒの「書籍商組合」の会館の中で、業務を開始することになった。当初はその業務は、1913年1月以降に発行された出版物の収集に限ることとされた。しかし1916年になると第一次大戦中にもかかわらず、「ドイチェ・ビュッヘライ」の独自の建物の建設が開始されることになった。そして第一次大戦後の1922年になると、ワイマール共和国政府は「ドイチェ・ビュッヘライ」の共同出資者に加わることになったのである。こうしてライプツィヒの「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1945年までドイツの全地域をカヴァーする唯一の中央図書館(つまり国立図書館)の地位を保ったのである。

全国図書目録の発行

全国的規模の図書館開設の動きと並んで、総合的な図書目録整備の事業の方も進展した。ドイツでは図書目録は長い間、個々の出版社が発行したものや見本市協会の出品目録という形で存在してきた。なかでもカイザーとヒンリヒスの図書目録が、その内容が充実したものとして知られていた。このカイザーの図書目録を1914年に、「書籍商組合」の図書目録部が受け継ぎ、「ドイツ書籍目録」という名称で、その業務を続けることになった。また翌1915年には、ヒンリヒスの図書目録も受け継ぎ、同様に図書目録部が仕事を続けた。

こうして先人の多くの遺産を受け継いだ「書籍商組合」は、全国的な規模の図書目録の発行に踏み切ったのであった。この「ドイツ全国図書目録」は既刊書の総目録であったが、1921年には毎日発行される新刊書の目録も現れることになった。一方重要な価値を持つとみなされたドイツ語の学術論文や雑誌論文の目録作成・発行の業務を、「ドイチェ・ビュッヘライ」は、1924年から始めることになった。これはかつてツァルンケによって創刊された「リテラーリシェ・ツェントラールブラット」を受け継いだものであった。

また1928年には「ドイツ公文書月刊目録」が発行。そして1936年には、それまでプロイセン国立図書館によって管理されていた「ドイツ大学文書年次目録」が、そして1943年には「ドイツ音楽図書目録」及び「美術図書総目録」が付け加えられた。そして年次は前後するが、1927年に「ドイチェ・ビュッヘライ」は、「ドイツ歴史図書年次報告」を開始し、さらに1930年には「歴史図書国際総目録」のドイツ語部門を引き受けることになった。

ドイツ近代出版史(4)~1825-1887/88~

大衆的な文学市場

第一章 古典作品の大衆廉価版の成功

<レクラム百科文庫>の発行

先に著作権保護の箇所で述べたように、1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別な取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅することとされた。そしてドイツの古典主義文学の代表的な作家、つまりゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントなどの作家はみな、1837年以前に死亡していたため、その著作権は1867年に消滅したのである。

ドイツのいくつかの大出版社、そして中規模の出版社も、ひそかにこの時期が来るのを待ち構えて、著作権のない古典作家の作品の廉価版を、大量出版することを計画していた。そうした中規模出版社の一つがアントン・フィリップ・レクラム(1807-1896)の出版社であった。彼は他の出版社と同様に著作権消滅のまさに当日の11月9日に、古典作品の大衆廉価版である<レクラム百科文庫>の発行に踏み切ったのであった。その前夜までに第一期の35点が用意された。その第一巻と第二巻は、それぞれゲーテの『ファウスト』第一部と第二部であった。『ファウスト第一部』は3か月のうちに1万部が売り切れたという。また翌年1868年末までに<レクラム百科文庫>は、120点出版された。

この文庫の特徴は、当時慣習となっていた配本順にシリーズ作品を全部買うというやり方に従わずに、単独で一冊づつ買うことができたことと、一冊わずか20ペニッヒという値段の安さにあった。こうしたことから伝統的な文学書出版社や学者・教養人の側からは、「三文レクラム」などとやゆされたりした。しかしレクラム側では、「知は力なり」というモットーのもとに。だんことして初期の方針を貫きとおした。いっぽう書籍販売者の側からも当初は、この種の三文文庫の販売に対して抵抗がみられたが、全般に売れ行きは好調で、この新企画は大成功であったといえる。

とはいえ各社が一斉に古典廉価版に踏み切った1867年には、当時なお中小出版社の一つであったレクラム社の動きはさして注目を浴びず、数年たってからようやく新聞・雑誌の文芸欄などで取り上げられたのだという。しかしその後脱落していった出版社が多かった中で、<レクラム百科文庫>だけは途絶えることなく発行が続けられ、今日に至っているのである。ちなみに1945年までにレクラム社は世界文学のあらゆる分野の作品7600点を発行し、その総発行部数は2億8千部にも達した。さらに第二次大戦後の発行部数の伸びは目覚ましく、1988年までに実に合わせて、7億7700部にも達しているのだ。

レクラム百科文庫の1991年の広告。
この写真の左上にレクラム出版社創立156年と書かれている。
つまり創立されたのは1835年だった。

古典の廉価版はまさにドイツの出版界における一大事件だったのだ。それまで古典文学の出版を独占的に手掛けてきたコッタ出版社をはじめとしたいくつかの出版社は、大きな損失を受けることになった。二十世紀の大手出版社のひとつローヴォルト社の社長が言うように、「レクラム百科文庫は<文学の民主化>と<書物の非神格化>に向けて最初の重要な一歩を踏み出した」ものなのであった。またドイツ社会民主党党首アウグスト・ベーベルは1908年、レクラム百科文庫の第5000号発刊に際して、「レクラム百科文庫は、すべての文化と進歩の友人から暖かい感謝の念を受けてきた」と祝辞を述べている。

さらに遠く離れた日本にもこの文庫の影響を受けて、昭和2年(1927年)、岩波茂雄が<岩波文庫>を発刊したことは周知の事実であろう。「読書子に寄すー岩波文庫発刊に際してー」という一文の中で岩波は、「吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する」と書いている。

ここでフィリップ・レクラムが古典の大衆廉価版の発行を思いついた動機について見てみよう。彼は1839年に印刷所を一軒手に入れたが、経営者としてこの印刷所の効率的な運用を考えた。その際彼は印刷所を自分の出版社のためだけに使用することを決心した。そして当時質の良い新作が見当たらなかったため、すでに評価が定まっている古典を大量に出版することを思いついた。その際この考えを技術的に可能にしたのが、当時発明されたばかりの高性能の印刷方法であったステロ版製版であった。これは新たに活字を組む必要がなく、比較的簡単に複製することができたため、経費も大幅に節約することができた。こうして翻刻版を大量出版することが技術的に可能になったため、本の販売価格を大幅に引き下げる見通しが立った。

この見通しのもとにレクラムは1858年、良質の古典としてシェークスピアの作品12巻の版権を獲得した。そして全12巻の全集を、当時としては破格の安値である1・5ターラーで大量に市場に出したのであった。この全集は大当たりをとった。さらに1865年になるとレクラムは、この全集を1巻づつ個別に(1巻を2000部づつ)販売するようになった。シェークスピアの作品を個別に売り出すというこのアイデアこそ、その後の<レクラム百科文庫>の発行の源であったのだ。

私はこの「レクラム百科文庫」にも強い関心を寄せ、研究を進めた。そして『レクラム百科文庫-ドイツ近代文化史の一側面』という著書を、1995年12月に刊行することができた(朝文社)。興味のおありの方は、この著作をお読みいただければ幸いである。

その他の古典廉価版

レクラムと同様に古典作品の著作権消滅を待って、古典作品の発行を行った出版社は沢山いた。大手のブロックハウスをはじめパイネ、プロシャスカ、ヴィニカー、ゲーベル、グローテなど小規模な出版社も加わったが、なかでも注目すべき存在が大手出版社主ヘルマン・マイヤー及びグスタフ・ヘンペルの二人であった。マイヤー社からはゲーテの詩集を皮切りに<ドイツ国民文学文庫>が出版され、ヘンペル社からは<ドイツ古典作家国民文庫>(全部で246巻)が出された。ヘンペルはその際テキストの内容が完璧であることを心掛けた。つまり著者によって最終的に認められた版を用いたのである。そのため出版人であると同時に有名なゲーテ収集家でもあったザロモン・ヒッツェルは、そのゲーテ・カタログに、ヘンペル版のゲーテ作品だけを採録している。こうした文献学的な質の高さを狙ったヘンペルのいき方は、知識と教養の普及を目指したレクラムの考え方とは、おのずから違ったものであったといえる。

いっぽう古典作品の名門出版社コッタ社も、古典の大衆廉価版を出していた。例えば1839年には廉価版のシラー全集を10万部以上売りさばいていたし、「万人向け文庫」という古典の大衆廉価版も刊行していた。また百科事典を手掛けていたマイヤー出版社もレクラムに先駆けて、古典の大衆廉価版を出している。

第二章 貸出文庫

都市型貸本業

19世紀に入るとドイツでは、数多くの経済的、社会的、技術的革新が相次いだが、これらを通じて文盲も著しく減少した。とはいえドイツにおける識字化と読書の普及には、なお地域的、階層的に格差がみられた。つまり南ドイツのカトリック地域や農村地域では遅れ、北ドイツなどの人口が増大しつつあった都市部で進んでいたのだ。しかし書物は当時なお高価な商品であり、本を買って所有できたのは金持ち層に限られていた。そのため有料で本を貸し出す広い意味での貸本業が、18世紀の末頃から生まれてきた。こうした手段によって、当時新たに読書階層にくわわってきた人々も、大きな経済的負担なしに本を読むことができたのである。こうした商業的な貸本業は、一般に<貸出文庫>と呼ばれている。ちなみに18世紀末の1799年には「貸出文庫」という題名の喜劇も登場しているぐらいなのだ。

これは18~19世紀における書籍配給システムとしての都市型商業貸本業という訳であるが、18世紀末から19世紀半ばまでがその黄金時代であった。その所在地は各領邦国家の首都、領主の城館のある都会(城下町)、商業・手工業都市などであったが、社会階層別に様々な形態の貸出文庫が存在していた。上はベルリンのボルステルの読書クラブや、ハノーファーのコルマンの貸本業のように、王侯貴族とも交流があり、もっぱら金持ちの大市民を相手にした高級施設から、下は公にはほとんど把握できない街の片隅のしがない貸本屋に至るまで、様々だったのだ。そうした小さな貸本屋は、製本業者が副業として経営していたり、手工業者や文房具店、床屋のような別種の人々によって運営されていたものもあった。

高級な施設では、保存が非常に良い新しい本が貸し出されていた。そしてシーズンごとの新刊書もあったが、それらはしばしば貸出所のスタンプすら押してなかった。それはより高級な読者の要求に譲歩してのことであった。そしてそうした本が何度も貸し出されて、古くなったり、あるいはあまり読まれなくなったりすると、二流・三流の貸本屋へと流されていったのである。

19世紀後半に活躍したドイツの大衆文学作家カール・マイ(1842-1912)は、子供のころ小遣い銭稼ぎにアルバイトをしていたボーリング場が副業として経営していた貸本所で、本を借りていたという。ここで少年マイは、半分ぼろぼろになった貸本の通俗小説を夜を徹して目を真っ赤にして読みふけったのであった。

貸し出される本の種類で見ると、読者の社会階層にはあまり関係なく、まずは文芸もの、とりわけ小説部門が圧倒的に多かった。19世紀が進行するうちにドイツでは、大市民、商人、手工業者などの間で、こうした分野での趣味嗜好が次第に接近しつつあったのだ、しかもこうした小説をこの時代には、個人が買うという事はなかったわけである。つまり小説の新刊書の買い手は、圧倒的に貸出文庫を利用していたのだ。

ちなみに当時の作家たち、G・フライターク、T・フォンターネ、P・ローゼッガーなどが書いた小説の売り上げは、当時存在していた貸出文庫も購買額にほぼ対応していたという。さらにわざわざ貸出文庫用に書かれた小説も当時は存在していたといわれているが、それもあながち例外的な存在という訳ではなかったようだ。

その多様な形態

いっぽう貸出文庫とは別に、人々が高い金を出して本を買う代わりに、安く利用できた非商業ベースの公共図書館も19世紀の初めに、国民啓蒙運動の一環として作られた。たとえばザクセン王国財務官のプロイスカーや、医者のプレープシュタインの尽力が特筆される。プレープシュタインは1837年に、福祉的性格の「図書協会」を設立したのだ。また産業家のハルコルトのようなパトロンが金を出して作られた企業図書館や教区図書館もあったが、これらは貧しい人々へ有用な知識を伝えることを狙ったものであった。しかしこの種の慈善的性格を持った公共図書館は、当時のドイツでは一般にまだわずかな関心しかひかなかった。そして圧倒的な関心は、これまで述べてきた貸出文庫の方に向けられていたのであった。

またこの種の書籍貸し出しシステムは、18・19世紀のドイツで実によく発達していた。レーゼツィルケル、レーゼ・ビブリオテーク、レーゼ・ゲゼルシャフト、レーゼ・カビネットなど、地域により時期により、様々な名称の組織が存在していた。前述したフィリップ・レクラムは、1829年父親から財産として、ライプツィヒの「リテラーリシェス・ムゼウム」というものを手に入れた。これは直訳すれば「文学博物館」となるが、実は一種の貸出文庫であって、そこにはドイツ語、フランス語、英語、イタリア語による各種文学作品の新刊本が備え付けてあった。同時にこの施設には、「ジュルナリスティクーム」と称する部屋もあって、78種類の新聞・雑誌が置いてあった。

この建物がムゼウム(博物館)と呼ばれたのは、立派な建物の中に書籍や雑誌のほかに、美術品や鉱物標本、物理化学の実験道具などが陳列展示されていたことからくるものである。レクラムが取得したこの施設は、「<読書革命>と文学市場の成立」のところで述べた「高級な読書サロン」の一種だと考えられる。これらは啓蒙主義とフランス革命の思想的産物といえるもので、その雰囲気について作家のトーマス・マンは、レクラム出版社創立百周年記念講演の中で次のように述べている。

「そのいわゆる博物館は、危険でしかも生き生きとしたところで、講演と討論と批評の場所であった。偽りと信心ぶった秩序が支配していた古き良きライプツィヒにあって、反抗的な人々がすべてそこに集まり交流した。そこでは作家や市民がわずかな会費を払って、ドイツや諸外国の新聞を読み、大規模な貸出文庫を利用し、いろいろと思索をめぐらしながら、意地の悪い喜びにふけることもできたのであった」

これを読むとこの種の「読書サロン」は、ウィーン会議後の王政復古期のドイツで、さまざまな進歩的、自由主義的思想を抱いていた人々の交流の場所であったことが分かる。それはともかく18・19世紀のドイツでは、貸本屋が書籍雑誌を賃貸で定期的に配達回収する「読書クラブ」とか「書籍回読会」とか、あるいは新聞・雑誌・書籍の共同購読のための組織である「読書組合」とか「回読クラブ」など、広い意味での「商業的貸出文庫」が花盛りだったのである。しかもこれは都市住民を対象とした都市型の書籍配給システムだったのだ。

第三章 行商人販売による廉価大衆小説

十八世紀末までの書籍行商人

ここでは19世紀の後半に入ってドイツで大変な隆盛を見せた、行商人の販売する廉価大衆小説について考えてみることにしよう。ただその前に18世紀末までの書籍行商人の実態について見ておかねばならない。書籍の行商人については、これまでも述べてきたように、実は15世紀から存在していたものである。書籍商がひとりとして店を出すことができなかった小都市や集落、農村地帯に彼らは現れ、しばしば小間物や宗教画とともに、書物も売り歩いていたのである。書物といっても、相手がほとんど教養のない人々であったから、暦や年鑑、つづり字練習帳などの小冊子であった。それが16世紀前半の宗教改革時代になると、ルターの教説をはじめとするプロテスタントの新思想を印刷した小冊子を、国の隅々に至るまで配布する重要な役割を演じることになった。この書籍行商人は、フランスでも同じように活動していた。16世紀のフランスの行商人は、本を木箱に入れてひもで縛って、背中に背負って運んでいた。

ドイツではとりわけ南部地域で、同様に桶を背負って移動する人々や、それらの桶をロバ、犬、馬などの背中に縛り付けて運ばせる人々が現れた。しかしわずかな収入しかもたらさないこの商売は、当初から評判が良くなかった。また世間からは堅気の職業とはみなされず、「盗品のさばき手」、「海賊版の売り手」あるいは「みだらで、悪魔的な低俗本の販売人」などと呼ばれたりしていた。

ところでドイツでは1770年ごろ、本を読むことのできる人は全人口のわずか15%だったと見積もられている。そのためこの頃になっても、行商人が運んでいたのは、まともな書物というよりはむしろ、宗教的な内容の廉価な絵物語や絵草紙をはじめとして、騎士物語、幽霊話、殺人や死刑執行人の物語を扱った絵本などであった。18世紀末から19世紀初頭になっても事情はそれほど変わらなかったが、いま挙げた絵本のほかに、年鑑、暦、祈りと説教の書、童話、料理の本、夢占いの本などが、行商人によって売りさばかれていたのである。18世紀にはこうしたものの氾濫に対して、啓蒙主義者が眉をひそめていた。印刷物が国の隅々にまで普及していく書籍行商人のシステムそのものには反対しなかった啓蒙主義者も、運ばれた印刷物の内容について異議を唱えたのであった。そうした本能を刺激する娯楽本は、社会の風俗を乱すものであると非難したわけである。

十九世紀における廉価大衆小説の普及

さて19世紀に入ると書籍行商人は、教会や教育関係者あるいは国家当局の監督を受けるようになった。国の検閲官は書籍行商人を疑惑の目で見て、嫌がらせを行ったりしたが、彼らは神出鬼没で得体が知れず、商品を検閲するのも容易ではなかった。それでも怪奇幻想小説や荒唐無稽な冒険小説などは、風俗を乱す反国家的なものとして、厳しく取り締まりを受けた。そして南ドイツの小さな領邦国家では、この商売全体が禁止された。

そのいっぽうで、1800年ごろ以降、国民啓蒙主義的努力つまり義務教育の普及の結果として、読書する大衆が誕生したことは、すでに述べたとおりである。これらの大衆は、教育的なものだけではなくて、娯楽的な内容の書物も欲したのである。そうした要望に応じて、出版社側も大衆的な娯楽小説をどんどん出版するようになった。ところが当時なお地方の小都市や村には、書店がなかった。そこで書籍行商人は、当局の目をかいくぐって、印刷所、出版社、そして読者の間を取り持つ仲介人の役割を果たすようになったのである。読書する人の数が増しただけ、その役割は以前より増えたといえる。と同時に読み物の運搬人は、つねに情報を運搬する機能を持っていた。まだ新聞や雑誌が今日ほど発達していなかったこの時代には、彼らは遠く見知らぬ世界の情報を人々に知らせる使者の役割も担っていたのであった。

読書する労働者の出現

さて時代が下がって1850,60年代になると、読者層はさらに広がって、都市の労働者層も大衆小説の読者の列に加わることになった。同じプロテタリア的社会階層に属する人々の中でも、例えば金持ちの家で働いていた奉公人とか、仕事の少ない冬の時期に都市近郊の農場で働いていた人々は、18世紀末ごろから大衆小説の読者となっていた。しかし大部分の労働者にとって状況が根本的に変わったのは、19世紀の後半の始まりごろなのであった。その原因としては次の三つが考えられる。

① 第一の原因は、産業化の進行と近代官僚制国家体制の成立によってもたらされた初等学校教育の普及と、その結果として生じた読書能力の一般的向上

② 第二の原因は、労働集約的方法によって生じた労働時間の短縮とそれに伴う余暇時間の増大

③ 第三の原因は、資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の努力と工夫である

コルポルタージュ・ロマーン

以上述べたもろもろの要因が重なって、19世紀後半のドイツで、行商人が売りさばく廉価大衆小説が大変な隆盛を見せたわけである。それらは一般にフランス語から借りてきた「コルポルタージュ・ロマーン」という言葉で呼ばれていた。このころになると書籍行商人の足は、地方の町や村だけではなくて、大都会の隅々にまで伸びていたのであった。

その際資力のない人々に本を手軽に読ませるための出版社側の一つの工夫として、分冊販売方式というものがあった。これは長編の大衆小説を一冊の本にまとめないで、薄い小冊子の形に分冊にして、ごく短い間隔でどんどん発行して読者の手元に届けるというものであった。つまり現在の日本で見られる週刊誌の連載小説のようなもので、一回分の分量が少ないのでだれでも手軽に読めるという利点があった。しかも人々は毎回話の続きを待ち遠しく思った。そして値段も安くし、割賦払い方式も取られた。この分冊の小冊子を携えて、行商人は家々を訪ね歩いたり、酒場や人々の集まる場所に現れては、それらを売りさばいていたのである。その際ちょっとした景品やプレミアムを伴った巧みな宣伝によって購買予約を取り、知らず知らずのうちに売り上げを伸ばしていた。その景品も次第にエスカレートして、美術品の複製写真、時計、安手の装飾品、金属食器セットといったものから、さらに抽選に当たった人には別荘、小型ピアノ、偽装馬車などが贈られたりした。行商人はまた麗々しく書き立てた宣伝パンフレットも配って、別の本への興味をかき立てることも忘れなかった。

こうした出版社側の巧みな戦術に乗って、工場労働者、手工業従業員、下級役人、ボーイ、女中など、いわゆるプロレタリア階層の人々が、薄手の小冊子を手にして、読みふけったわけである。これら小冊子の一冊の値段は安かったものの、シリーズとしては100回を超すものもあったし、発行部数も多かったので、コルポルタージュ・ロマーンを発行した出版社は、総体として大変な利益をあげたのであった。格式ある伝統的な出版社がほとんど注意を向けなかった、新しい読者層(労働者)を含めた大衆的な文学市場が、このようにして19世紀後半のドイツで繁栄を謳歌したわけである。

カール・マイとコルポルタージュ・ロマーン

コルポルタージュ・ロマーンの実態をもう少しく詳しく見るために、ここで先に名前を挙げた大衆小説作家カール・マイ(1842-1912)が、その作家活動の初期にこの種の小説をたくさん書いた時の事情を、その一例として紹介することにしよう。ただしカール・マイはこの方法によって名前を売ってからは、これとは手を切り、広く一般国民を対象とした質の高い冒険小説をどんどん書き進め、ことに晩年には難解で神秘的な内容の作品にも取り組んだことを、初めにお断りしておきたい。

さてカール・マイはその初期にコルポルタージュ・ロマーンの出版社であったミュンヒマイアー社と知り合った。同社は1862年にドレスデンに設立されていたが、1882~1887年のあいだに、マイはペンネームで5編の小説をこのミュンヒマイアー社から出版した。その中の4編はそれぞれ100冊を超す分冊から成り立っていた。それら5編を合計すると実に1万250頁にもなる。これは単純に計算して、1編が2000頁ほどの長編である(一回の分冊は20頁)。なかでも巨大な作品『野ばら』は、世紀末までに合計して50万部が売れた。一般にドイツで1860~1903年の間に、年間500編のコルポルタージュ・ロマーンが出回ったといわれているが、それらの多くは匿名かペンネームで書かれていた。たいていは一冊16~24頁で、それを50回から150回に分けて販売した(値段は一冊20ペニッヒ)。

出版社はその出版を厳密に需要に応じて行い、小説の中身を短縮したり、エピソードを適当に削ったりしたため、内容を著しく損なう場合もあった。そしてそれが作家に相談なく勝手に出版社側の手で行われることもあったという。何しろ作家は出版社側からせかされて、ベルトコンベヤー風に次から次へと書き進めたので、ゆっくり推敲する暇もなかったという。そのことはカール・マイが晩年に書いた自叙伝で明らかにされている。

カール・マイ(書斎風景)

ところで私はこのカール・マイに特別の関係を持っている。その伝記『知られざるドイツの作家カール・マイ』(朝文社、2011年10月17日第一刷発行)も書いているし、彼の主要作品を翻訳したシリーズ作品『カール・マイ冒険物語。オスマン帝国を行く』全一二巻(朝文社)も刊行している。これは第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』(2013年12月初刷り発行)から第12巻『アドリア海へ』(2017年4月初刷り発行)までである。これらはこのブログの私の自己紹介欄に載せてあるので、お読みいただければ幸いである。

私は1970年代前半に西ドイツの放送局に勤めていたが、その時初めてカール・マイの存在を知った。なにしろ当時の西ドイツの新聞雑誌やテレビ、ラジオで、やたらとこの作家のことが取り上げられていたからだ。それらを通じて日本では知られていないこの作家のことに興味を抱くようになり、勤め先のケルン市の書店へ行って、その全集74巻を買い込んだのだ。そして主な作品を夢中になって読んでいった。その結果、これを日本語に翻訳して刊行したいと思うようになった。そのため南ドイツのバンベルクにあったカール・マイ出版社まで出かけて行って、社長のシュミット氏に会って、その旨伝えた。その後帰国してから、さっそく翻訳をはじめ、刊行してくれそうな出版社を捜した。幸い東京のエンデルレ書店が引き受けてくれて『カール・マイ冒険物語1~砂漠への挑戦~』(エンデルレ書店、1997年10月)から『カール・マイ冒険物語4~秘境クルディスタン~』(エンデルレ書店、1981年6月)まで全4巻が刊行された。そしてかなりの歳月を置いて、前述の朝文社から全12巻のシリーズを刊行することができた次第である。

十九世紀末の「俗悪文学」取り締まり

このように大衆向けのコルポルタージュ・ロマーンは、内容的には問題をはらみながらも、経営的には大成功を収めていったわけである。しかし19世紀も末になると、これに対する反動の動きが現れた。皇帝ヴィルヘルム二世が直接統治を始めた1890年代に始まり、第一次大戦の勃発(1914年)ごろまで続く「俗悪文学の取り締まり」が、それであった。同皇帝は就任早々、『売春婦のひも』に関する訴訟事件と関連して、風俗を乱す不道徳な書物の普及販売に対して刑罰の強化を要求した。しかしこの頃になるとこの「俗悪文学」とさげすまれた出版産業に、出版社、行商人、作家、印刷所、製紙工場など多くの人々の生活がかかわるようになっていた。そのため取り締まりといっても、そう簡単にできるものではなかった。

とはいえ俗悪文学に関する議論は世紀転換期を越えて、さらに続けられた。1905年にハンブルクの教師ヴォルガストは『われらの青少年文学のみじめな状況』という一文を発表したし、1909年図書館司書のシュルツェは『俗悪文学、その本質、その影響、それとの闘い』というものを公表した。その他文筆家やジャーナリストで、この俗悪文学攻撃に加わった人も少なくなかった。しかし反俗悪文学キャンペーンの経済的側面に目を向けてみると、それはまじめな古い出版社と新興の通俗文学出版社との間の偽装された闘争、つまり販売市場を巡る両者の間の争いといった意味合いがあったことにも注目しておく必要があろう。

実は「俗悪」という言葉は極めてあいまいな概念なのであった。いわゆる「俗悪文学」の反対者たちは、この概念を帝政時代の排外的で軍国主義的な書物には、けっしてあてはめないのであった。そしてこれら「俗悪文学と闘う闘志たち」の多くは、1914年に第一次大戦が勃発したとき、積極的な戦争支持者となったのである。

体制側から「俗悪」との烙印を押されたコルポルタージュ・ロマーンは、社会の広範な底辺を形成する人々、つまり庶民に向けて書かれた娯楽小説ではあったが、同時にそれは現状に飽き足らず、何かを求める体制批判的な性格をもひめていたのであった。こうした意味合いから読めば、次に引用する哲学者エルンスト・ブロッホの言葉もよく理解できるであろう。「コルポルタージュは常に夢見ているが、それは結局革命とその背後にある栄光を夢見ているのだ。コルポルタージュ・ロマーンは、キッチュ・リテラトゥーア(まがいもの文学)とは反対に、つねに反抗的な昼の夢の性格をそなえており、数多くの願望充足のファンタジーをもたらしている。それゆえに官憲は、無意識のうちに、その報復措置をそれらの先導的な内容にも向けたのであろう」(「この時代の遺産」、1962年。177頁)

第四章 教養娯楽雑誌

1850年以前

19世紀に入って広くドイツの一般庶民の間に普及したものに、広い意味での雑誌があった。18世紀の啓蒙主義の時代に<道徳週刊誌>なるものが普及したことはすでに述べたが、一般にドイツの雑誌文化が飛躍的な発展を示したのは、1848/49年の革命以後のことであった。それ以前の王政復古期には、言論出版活動に対して取り締まりが厳しかったため、出版物の内容も政治的なものから離れて、娯楽及び科学的な啓蒙を目指したものへと傾いていた。

例えば1833年にライプツィヒで、週刊の「ペニヒ雑誌」が創刊されたが、これは自然科学、技術などポピュラーサイエンス的記事と娯楽的記事そして宗教的な素材を織り交ぜた内容のものであった。厚さはわずか8頁で、言葉と絵を巧みに織り込んで誰でも理解できるようになっていた。そのためか創刊時ですでに発行部数は3万5千部だったが、やがて10万部にまで増加し、そのうち予約購読者は6万人を数えた。

そのいっぽうで政治的な内容の雑誌の方は、体制側からいろいろと抑圧を受けた。王政復古期の1846年に、エルンスト・カイルという出版者が月刊誌『灯台』を創刊した。しかしその政治的な内容のために、この雑誌はたえず検閲や警察の捜査を受けた。そのため彼は出版社の場所を、ハレ、マグデブルク、デッサウ、ブレーメン、ブラウンシュヴァイク、ライプツィヒといった具合に転々と移さざるを得なかったと言う。やがて1848年3月に革命がおこり、報道の自由がもたらされるに及び、一時的に政党的、宣伝的刊行物が隆盛を迎えたが、まもなく革命が失敗すると、「報道の自由」は短い間奏曲に過ぎないものとなった。

1850年以後の教養娯楽雑誌の隆盛

1850年以降になると、鉄道などの交通手段が発達して出版物の輸送が楽になった。そして法的な規制が以前に比べて弛む中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになった。それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。なかでももっとも有名であったのが『あずまや』であった。この雑誌は先のエルンスト・カイルが1853年に創刊し、以後1943年まで続いた。いっぽう同じカイルが発行していた政治的な雑誌『灯台』は、革命後の反動的風潮の中で、1851年に発行停止処分を受けた。しかし彼は検閲に反対し、報道の自由や立憲体制を求める闘いを決してあきらめなかった。そしてF・シュトレから『村の床屋』という絵入り雑誌を引き継いで、発行を続けた。この雑誌はその題名とは裏腹に政治的な主張が盛り込まれていたのだ。それはともかくこの雑誌は2万部の発行部数を得て、まずまずだった。そのいっぽう先の『灯台』の件で訴訟が行われ、カイルは9か月の拘留を受けることになった。

拘留期間が終わって出てきたとき、カイルはそれまでの急進的な考え方を改めて、まずは均質で道徳的な社会の建設を目指すようになった。こうしてカイルは『村の床屋』をやめて、『あずまや』の発行へと方向転換したわけである。この雑誌の題名は、革命の嵐の後、うるさい争いごとは避けて、静かに自分の家にある『あずまや』に引きこもって過ごしたいという市民の願望に沿うものであった。ともかくこの雑誌はよく読まれ、1870年代にはその発行部数は一時、週刊40万部にも達した。その読者層は広く分布していたが、企業経営者や商人が全体の20%を占めていた。

家庭向け雑誌『あずまや』の表紙

科学と小説

これら家庭向けの教養娯楽雑誌は毎週発行され、原則として男女の別なくあらゆる階層の人々に向けられていた。そしてそこにはあらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに現れたポピュラーサイエンスの記事は、誰にでも理解できるものであった。こうして19世紀のこの種の雑誌は、自然科学的、技術的解説に対する一般読者の願望を満たす教科書の役割をも果たそうとしていたのである。

いっぽうそこに掲載された連載小説は、宣伝価値のある有名な作家たちに、出版社が特に依頼して書いてもらったものであった。その際これらの作家にとって、この種の家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。しかも作家はそこから経済的恩恵も得ていたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、P・ラーベそしてK・マイなど当時の人気作家たちも、まずはこうした方法でその作品を発表していたのだ。

多種多様な雑誌

これら家庭向け雑誌の大きな部分を占めていたのが、キリスト教系の雑誌であった。例えば1858年創刊の『海山を越えて』とか、1864年創刊の『わが家』などがその代表といえる。いっぽうフランスのレビューのスタイルで1856年から『ヴェスターマンス・モナーツヘフト』が発刊されるようになったが、これには哲学者のディルタイも協力していた。広範な文化雑誌として百科全書的な目標を追求したこの月刊誌は、そのやや高踏的な性格のために、発行部数は1万2千部にとどまった。とはいえ忠実な固定読者をつかんでいたためか、ごく最近の1985年までこの雑誌は発行が続けられていたのである。ちなみに私も1970年代半ばの西ドイツ滞在中、この雑誌の存在を知り、その終わりまで定期購読していたのだ。その内容に満足していただけに、その廃刊は残念なことであった。

いっぽう諷刺的な内容を特徴としていた『フリーゲンデ・ブレッター』(1845-1944)は毎週発行されていた。この週刊誌はその素晴らしい木口(こぐち)木版画で知られていたが、しばしばそれは文章を凌駕したりしていた。この雑誌への寄稿者としては、みずから絵をかき文章を書いたヴィルヘルム・ブッシュや冒険小説家のF・ゲルステッカーなどがいた。また1848年にベルリンで創刊された『クラデラダッチュ』は、諷刺的でリベラルな内容に重点が置かれていた。後の『ジンプリシムス』(1896-1944)と同様に、これは皇帝ヴィルヘルム二世が支配していた1890年代から第一次大戦時(1914-18)までの体制に対する数多くのカリカチュアや、偽装した社会批判によって成り立っていた。これらの雑誌は先のコルポルタージュ・ロマーンと同じように、はじめは行商人によって配られていたが、のちには郵便によって配達されるようになった。

また市民階層の子弟に向けられた数多くの青少年向け雑誌も存在した。そうした中に1886年創刊の青少年向け絵入り雑誌『よき仲間』があった。この雑誌に、前述した大衆作家のカール・マイは、全部で8編の青少年向け作品を発表している。これらは、先のコルポルタージュ・ロマーンとは違って、じっくり時間をかけ力を入れて書かれた作品であった。いっぽう宗教的色彩のある雑誌には、このころにはもう読者もあまり見向きをしなくなっていたが、週刊のカトリック系雑誌『ドイツ人の家宝』だけは例外だった。この雑誌にもマイは数多くの作品を寄稿している。

ところでドイツでは昔から暦の形をとって、そこにいろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物が、とりわけ地方の村や町に出回っていた。その一つに人々の広範なマリア信仰をその基本に置いていた「マリア・カレンダー」というものがあった。これが19世紀後半になってもなお勢いを保っていたのだ。18世紀の啓蒙主義者たちは、これら伝統的な国民カレンダーの内容を徐々に改善していくことに成功した。その結果暦のほかにいろいろと付録が付くようになっていった。それらは読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話、そして冒険物語などであった。マリア・カレンダーは19世紀後半には数種類発行されていた。なかでも南ドイツのレーゲンスブルクのカトリック系出版社プステット社から1866年に創刊された『レーゲンスブルガー・マリーエンカレンダー』は、急速に発行を伸ばして40万部にも達している。

しかし全体の流れから見ると、19世紀後半に隆盛を極めた家庭向けの教養娯楽雑誌も、1900年ごろになると勢いがかなり衰え、代わって絵入り雑誌や新聞の文芸欄などが人気を呼ぶようになった。とはいえ雑誌そのものの発行は20世紀に入ってからも相変わらず盛んで、1880-1918年の間に,新刊の雑誌が洪水のように市場に流れ出ていたのである。

ドイツ近代出版史(3)~1825-1887/88~

第一章 著作権制度の確立と<書籍商組合>の活動

周辺諸国の動き

著作権・版権に関して決定的な動きは、ドイツにおいては、19世紀に入ってから起こった。たしかに北ドイツ及び中部ドイツの大部分では、18世紀の末ごろにはもう翻刻出版は禁止されていた(プロイセン王国では1794年に、ザクセン王国では1773年に、こうした法律が制定された)。しかしドイツ全体ではそうした法律は制定されていなかった。いっぽう周辺諸国の動きを見ると、まずイギリスではアン女王時代の1709年に、著作者及び出版社に対する保護期間の制度が導入されていた。アメリカでは1781年のコネティカット事件の後、著作連邦法が成立した。ここではイギリスの判例に従って、保護期間が28年と定められた。フランスでは1777年に「永世版権」の制度が定められた。次いで1793年には著作者の複写権は死ぬまで、その相続人に対しては著作者の死後10年までと定められた。そしてオランダでも同様の動きがみられたため、ドイツの著作者たちも、こうした制度の導入を待ち望んでいた。これらの声を代表するものともなっていたのが、フリードリヒ・ペルテスが1816年に公表した『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書であった。これはドイツ出版業界の実践的な基本文書ともいうべきもので、社会における出版業界の義務について述べたものであるが、この中でペルテスは出版社の版権が保護されるべきことを訴えているわけである。

ペルテスの著作『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』

翻刻出版の禁止

ドイツにおいてこの面でも先行していたのは、北ドイツのプロイセン王国であった。1794年には、書籍出版に当たっての諸権利の保護を決めた法律が定められたが、これにはベルリンの大書籍商フリードリヒ・ニコライの働きかけが大きかった。この法律の中で、翻刻出版の厳禁がうたわれ、これに従わない場合には、原出版社の申し出のうえで、翻刻本は没収または販売不能もしくは原出版社への引き渡しが定められていた。
またこの法律には著作者と出版社との関係についても、出版契約をはじめ詳細に規定されており、著作者の意見をきくことなしに翻刻出版をしてはならないことも規定されていた。ただこの権利は相続者には及ばないものとされ、どの出版社にも翻刻出版に対する版権が存在しないときは、誰でも翻刻出版できるものとした。ただしこの場合、新しい出版社は著作者の一親等の家族と、翻刻出版についての取り決めを結ぶべきことが定められていた。ただ著作者と出版社の出版契約の有効期限については、ここには何も記されていない。

ところで1815年のウィーン会議の結果生まれた「ドイツ連邦」には、オーストリア、プロイセンをはじめ大中小39の領邦国家が加盟し、全ドイツを代表する組織になっていた。そしてその代表議決機関として「ドイツ連邦議会」が設立されたが、事実上これは大国オーストリアによって牛耳られていた。しかもオーストリアは南ドイツの諸地域と同様に、翻刻出版を公然と支援していたわけである。そのため1815年連邦規約第十八条d」によって、「出版報道の自由並びに翻刻出版禁止」に関する措置が取られる見通しがいったんは出てきたものの、連邦議会はその後この措置を引き延ばしてしまった。そこでプロイセン王国は、連邦議会の枠外で事を進めることに方針を変更した。こうしてプロイセンは1827年から29年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に、個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦全領域における翻刻出版の禁止措置に、しぶしぶ踏み切ったのである。

著作権の保護

このようにして翻刻出版の禁止措置はドイツ全土に広まったのであるが、次の段階として出版社の持つ版権保護ではなくて、書物の著作者が持つ著作権の保護の問題が浮かび上がってきた。この点についてドイツ書籍商組合は、1834年に、『ドイツ連邦加盟諸国における著作者の法的地位の確立に関する提言』と題する覚書を公表し、その中で著作権保護期間を著作者の死後30年間と定めた。しかし連邦議会はこれを無視する態度に出たため、再びプロイセン王国は独自の歩みを見せ、1837年に法律を制定した。これは『学問芸術上の著作物の所有権保護のために、翻刻出版並びに複製を禁止する法律』というもので、ここで初めて著作者の権利保護が明白に規定されたのである。またその際著作権保護期間が30年と定められたのであった。そしてドイツ連邦加盟のいくつかの国もこの法律を受け入れた。

いっぽう連邦議会はこうしたプロイセンのイニシアティブに刺激を受けながら、しぶしぶ1837年11月9日に著作権保護を取り決めたが、そこではプロイセンのものよりも弱い内容となっていた。それは保護期間を10年と定め、法律実施の日からさかのぼって20年間に発行された作品に対して有効としたのである。

次いでヘルダー、シラー、ヴィーラント、ジャン・パウル、ゲーテなど1838年以前に死亡していた作家の相続人及び出版社に対して、その「国民的な業績」ゆえに、20年間の連邦特権というものを認めた。しかしゲーテはすでに1825年に、自分の全作品に対する特権を認めるよう連邦議会に申請していた。この申請に対して、ゲーテは、この件に関しては個々の領邦国家が担当しているとの返事を受け取ったという。

それはさておき、ドイツ書籍商組合は著作権保護のさらなる推進を目指して、1841年に新たな覚書を提出したが、これを受けてザクセン王国では、30年の保護期間が導入された。そして1845年6月19日になってようやく連邦議会は、著作者の死後30年という保護期間をドイツ連邦の全領域に広げることを決定したのであった。

ここでは1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとされた。この日付は後に、ドイツの古典作家の作品の著作権保護期間に関連して注目されることになる。つまりこの日以後、これら古典作家の作品は著作権を気にすることなく、自由に大量出版できることになるのだ。その意味で極めて重要な日付になるのであるが、これについては後に詳しく述べることにする。

著作権保護の国際的動向

ここで著作権制度に関する国際的動向について一言ふれておこう。まずいくつかの国の間で二国間協定が結ばれた。例えばスイスと北ドイツ連邦の間では1869年にこの協定が結ばれている。そしてその後1886年になって、「文芸作品及び芸術作品の保護に関するベルヌの取り決め」、いわゆるベルヌ条約が発効した。この条約に加わったのは、ベルギー、フランス、イギリス、ハイチ、リベリア、スイス、スペイン、チュニスそしてドイツの各国であった。これを見るとベルヌ条約の原参加国の数が少ないことが分かるが、それには各国の出版業界のそれぞれの利害や思惑がからんでいたようである。そのためか北欧のノルウエーは1896年、デンマークは1903年、スエーデンは1904年にそれぞれ加盟している。そしてこの条約の中身は、1908年にベルリンで、1928年にローマで、1948年にブリュッセルで、そして1967年にストックホルムでそれぞれ修正されている。

王政復古期の検閲

それではここで1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」の活動に、眼を向けることにしよう。この組織が最初に取り組んだ問題は、以上述べてきた版権・著作権制度の確立と並んで、国家による検閲を廃止させることであった。ウイーン会議後のドイツは、オーストリア宰相メッテルニヒの指導の下で、いわゆる王政復古期にあった。ドイツ連邦傘下の各領邦国家では、自由が抑圧され、書籍や印刷物に対する検閲が行われていた。
1819年、ドイツ連邦はカールスバートの決議によって、詳細な検閲規定を定めた。その骨子を説明すると、検閲には、事前検閲と事後検閲の二種類あった。事前検閲は320頁以下の印刷物に適用され、これはドイツ連邦加盟各国当局の管轄とされた。いっぽう事後検閲は321頁以上の大部な書物に適用され、これはドイツ連邦の事務当局が直接担当した。つまり加盟諸国当局の出版許可がおりて出版された本であっても、この事後検閲によって発禁処分にすることができたのである。

ただ事前検閲については、加盟各国によってその検閲の厳しさにかなりの相違がみられた。最も厳しいオーストリアから、かなり寛容なザクセン・アルテンブルクまで、その間に厳しさに様々な差異がみられた。その際とりわけ厳しい検閲の対象にされたのが、当時進歩的で過激とされていた「若きドイツ派」に属する作家の作品であった。この派の作家としては、ハイネ、グッツコウ、ラウベ、ヴィーンバルク、ムントなどの名前があげられていた。これらの作家の作品を出版した出版社、印刷業者、販売者に対しては、刑法および警察法を適用して、作品の普及を抑えようとしたのである。

「若きドイツ派」の作品を出版していたのは、ハンブルクの出版者ユリウス・カンペ(1792-1867)であった。彼はこうした検閲と終始闘い続けた代表的な出版人であるが、検閲の目を潜り抜けるために、印刷、引き渡しその他経営一般に複雑なシステムを取り入れていた。たとえば検閲の厳しくない国の印刷所にわざわざ頼んだり、事後検閲を避けるために本の厚さを320頁以下に抑えたりといった具合である。
ただ自分の作品が短縮されるのを嫌ったハインリヒ・ハイネなどは、この点で出版社側と争ったりした。そして両者は互いに新聞紙上に公開書簡を発表しあったりした。しかしこれも深刻な争いというのではなく、むしろ宣伝効果に対する暗黙の了解が、両者の間にはあったようである。この公開書簡の発表によって、検閲の実施という事実を一般に知らせることができたし、売り上げの方も促進されたのである。ハイネは自分の作品『ドイツ、冬物語』の序文(1844年9月17日付け)の中で、次のように書いている。「自分の出版社は出版を可能にするために、詩の内容を検閲する役人に対して細心の注意をもって接しなければならなかった。それでも数度にわたって、修正・変更や削除を余儀なくされたのである。」

検閲の廃止

こうした検閲を廃止させるために、書籍商組合の代表は1842年にザクセン政府当局に赴いて、ドイツ連邦が検閲の規定を大幅に緩めるよう請願した。その最終目標は、検閲の全くない完全な言論報道の自由の実現であった。そうした書籍商組合の度重なる努力は、ようやく1848年の三月革命のときになってその目標を達成することになった。ハレ新聞は1848年3月20日付の紙上で、その喜びを次のような書き出しの記事で読者に伝えた。「出版報道は自由になった。今日初めてわが新聞は検閲なしに発行されることになった。」

しかし政府当局は検閲廃止の代わりに、個々の出版物の内容に対して、印刷業者、出版社、および書籍販売人が責任を負うことを定めた。そしてその具体的措置として、出版報道業務の開始に当たって、検査、許可及び保証金の制度が導入された。とりわけ言論出版関係業種の営業活動に加えられたこうした制限措置は、その後1869年になって北ドイツ連邦加盟国領域で撤廃され、いわゆる営業の自由が導入された。そしてこの営業の自由は1872年になって、その前年に誕生したドイツ帝国の全土に拡大されたのであった。

業界専門誌の発行

ところでドイツ書籍商組合は、その設立以前から書籍取引業界の専門誌を発行する必要性を感じていたようだ。そして設立後もその発行について議論が重ねられてきたが、なかなか実現に至らなかった。そうこうしているうちに全国組織であるドイツ書籍商取引所組合とは別の「ライプツィヒ書籍商組合」が、1833年に『ドイツ書籍取引所会報』の発行を決め、翌1834年1月3日にその創刊号が世に出た。この創刊号の序文の中で、ドイツ出版業界の大立者フリードリヒ・ペルテスは、ドイツの書籍取引業界が直面している情勢についてふれ、書籍市場が本の洪水であふれていることを嘆いている。

『書籍取引所会報』創刊号の表紙

それはともかく、この会報は翌年の1835年には、ドイツ書籍商取引所組合の所有するところとなった。そして初代編集長O・A・シュルツは1839年に、『ドイツ書籍商人名録』を発行した。しかしこの会報の編集担当者は当初頻繁に入れ替わっていた。これはこの雑誌に対する外部からの規制が強く、その圧力を受けて組合内部で争いが絶えなかったことによるものとみられている。
それでも『ドイツ書籍取引所会報』は続けて発行され、やがて出版業経営上非常に有益な「新刊書目録」が掲載されることになった。この仕事はヒンリックス書店が担当した。これは当初は週に一回、1842年からは週に二回、そして1867年からは毎日掲載されるようになった。ちなみにこの年からは会報そのものも毎日発行されることになった。

書籍商組合会館の建設

この会報の発行と並んで、ドイツ書籍商組合にとって独自の会館を建設する必要性が生じてきた。会報の発行が遅れていたのも、一つには会館の設計と建設に、関係者の関心と精力が、まず注がれていたことによるといえるぐらいなのだ。
それはともかく組織ができて11年後の1836年には、ライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」の会館が落成した。これは写真に見るようにとても堂々たる立派な建物であった。

書籍商組合会館(1836年落成)

いっぽう出版人の養成所を作る必要性についても、ペルテスは1833年に提言していたが、この構想については書籍取引所会報でも1840年に取り上げられ、真剣に論じられた。そして十余年後の1852年になって、フリードリヒ・フライシャーが音頭を取って、「ライプツィヒ書籍商組合」によって実現されることになった。つまりドイツの出版の中心地に、出版人の後継者を養成するための教育施設が誕生したのであった。

書籍出版史の発行

19世紀も後半に入ると「書籍商組合」は、ドイツの書籍取引に関する歴史研究と歴史叙述に力を入れて取り組むようになった。そして1876年、出版主エドゥアルト・ブロックハウスの音頭取りで、出版史編纂のための歴史委員会が結成された。そしてその二年後の1878年から『ドイツ出版販売史記録集』が発行され始め、これは1898年までに20巻に達した。ついでに言えば第二次大戦後、フランクフルトの「書籍商組合」によって、『書籍史記録集』という題名のもとに、この仕事は受け継がれている。

いっぽうドイツの出版史の叙述の方に目を向けると、フリードリヒ・カップとヨハン・ゴルトフリードリヒという二人の学者によって、『ドイツ書籍出版史』という四巻にのぼる大著が書かれた。これは印刷術の発明から1889年までを扱ったもので、その第一巻は1886年に、ドイツ書籍商組合出版局から発行された。内容的にも非常に詳しく、今日に至るまでドイツ書籍出版史の古典といわれ、多くの研究者から今なお利用されているものである。第四巻が発行されたのは1913年であったが、その後の時代についての叙述が目下準備されている。

F・カップとJ・ゴルトフリードリヒの肖像

いずれにしてもドイツ書籍商組合は、ドイツの書籍商の単なる業界的な利益集団という枠をはるかに超えて、ドイツの出版文化を総合的に育成していく機関へと成長したのである。

第二章 出版界の多様な展開

高速印刷機の発明

印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明以来、細かな改良は加えられてきたとはいえ、基本的には以後350年間、ほぼ変わりがなかったといえる。ところが18世紀後半に始まった産業革命の影響のもとに、印刷の世界にも画期的な技術革新が訪れた。1811年、ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒが蒸気式高速印刷機を発明したが、これによって出版の世界は決定的な進歩をとげることになった。つまりこの新発明によって従来の手動印刷の10倍の印刷能力が生まれたわけで、ここに印刷物の大量生産が飛躍的に促進されたのである。

ロンドンの「ザ・タイムズ」社の社長は、このドイツ人の発明を「印刷術の発明以来書籍印刷の世界で見られた最大の改良」と呼んだ。そして新聞「ザ・タイムズ」は、1814年11月29日に、この高速印刷機を用いて初めて印刷されたのであった。ドイツ人のケーニヒが行った発明が外国で最初に認められたという事は、時代の兆候を示すものと言えよう。その後この新発明はドイツでも採用されたが、これを最初に用いたのは、大出版経営者ヨハン・フリードリヒ・コッタ(1764ー1832)であった。彼はこの高速印刷機を使って、自分が発行していた新聞『アルゲマイネ・ツァイトゥング』を印刷したわけである。

15世紀から19世紀までの印刷所の変遷

初期資本家コッタ

このコッタこそは、ドイツの出版界の新時代を代表する人物だったのだ。彼は、1659年創立の古い出版社を、1787年、23歳の時父から受け継いだが、当時朽ちかけていた同出版社を、その数年後にはヨーロッパでも有数のものに再建し直したのであった。コッタ出版社は、はじめ南西ドイツの小さな大学町テュービンゲンにあったが、1811年にはその近くの中都会シュトゥットガルトに移った。そして優れた経営手腕を示したために、彼の出版社には当時有力な著作家たちが大勢集まってきた。それはゲーテをはじめとする古典主義の作家たちであったが、そのため出版社主コッタの名前は、やがてドイツの文芸思潮の一つであるドイツ古典主義と深く結びつくことになったのである。

J・F・コッタの肖像

この伝でいくと、出版者G・A・ライマー(1776-1842)とロマン主義、時代は下るが出版者S・フィシャーと自然主義及びリアリズム、そして出版者K・ヴォルフと表現主義の文学を、それぞれ結びつけることができよう。
それはさておき、コッタは大出版経営者として、文学作品の出版だけではなく、先に挙げた新聞の発行のほか、さまざまな出版部門に触手を伸ばした。
そのためドイツ出版界全体の健全な発展に心を砕いていた前述のペルテスは、コッタが何にでも手を出すことに危惧の念を明らかにしたぐらいである。ペルテスは1816年、ドイツの出版界の現状を知り、あわせてお互いの協力態勢を作り上げる可能性を探るためにドイツ全土を視察旅行したが、その時コッタについて次のように書いているのだ。
「その個人的重要性、その粘り強さ、その富、そしてその政治的影響力のゆえに、西南ドイツの出版界はただ一人の人物の手に握られており、そのため文学的判断の公正さ、交流の活力、そして販売の効果などが損なわれる可能性もあるのだ」

ペルテスはこの時、独占態勢へ突き進む初期資本家としての姿をコッタの中に見ていたわけである。彼の出版社からは、数十年間にわたってドイツで最も重要な政治新聞の位置を占めてきた『アルゲマイネ・ツァイトゥング』や、同じく数十年間にわたって指導的立場にあった文芸雑誌『教養層のためのモルゲンブラット』が発行されていた。さらにコッタは別の経営部門にも手を出したり、政治的な活動もしたりした。こうしてコッタ出版社は、19世紀初めから半ば過ぎまで繁栄を謳歌したのであるが、1867年に古典作家の著作権消滅に伴う大量出版現象の出現によって、その独占態勢は崩れたのであった。しかしコッタ社は、その後アドルフ・クレーナーによって買い取られ、以後別の発展を見せることになる。

関税同盟と鉄道建設

19世紀の前半、ドイツの出版界をその流通面において近代化するのに大きく貢献したのが、関税同盟の結成と鉄道網の普及であった。1834年プロイセンは、南ドイツの関税同盟と中部ドイツの通商同盟の影響のもとに、全国的なドイツ関税同盟を結成した。これによってドイツでは中小領邦国家の煩わしい関税障壁が取り払われ、経済的統合への第一歩が記されたのであった。この関税同盟には、南の大国オーストリアは加盟せず、また北ドイツのハンザ諸都市メクレンブルクやハノーファーは、やや遅れて加盟した。それでもドイツ関税同盟は、決済手段の簡素化をはじめ総体として、ドイツの書籍取引の近代化に大変役立ったのである。

いっぽう鉄道建設によってもたらされる利益についても、ドイツの出版界は早くから認識していた。ドイツの鉄道網は、1835年南ドイツのニュルンベルク=ヒュルト間を皮切りに、1837年ドレスデン=ライプツィヒ間、1838年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル間、といった風にどんどん広がっていった。

これに関連してアウグスト・プリンツは、その『ドイツ書籍販売史のための素材』第二部(1855年発行)の中で次のように書いている。「昔は必要な場合には倉庫を持たねばならなかった。というのは注文してから二・三週間後になってようやく手に入るという始末だったから、いつでも取り出せ、また高い運送料の節約のために、あらかじめ沢山の在庫を用意しておく必要があったのだ。ところが今では事情は変わった。大手の書店でも教科書や古典図書は別として、ほとんど倉庫を持っていない。その他の本は残本とするか、出版社がそれを許さない場合には返本したり、春の見本市後に新たに注文しなおしている。鉄道によって通常の貨物は、三,四日のうちにドイツのどんな地域にも運搬されるのだから、時間の節約には計り知れないものがある。」

このように鉄道の普及は書籍流通面の迅速化と経費節減に役だったのであるが、同時に販売領域の拡大によって独占の危険性を減らす効果も持っていたのである。

百科事典の発行

いっぽう18世紀末に起こったいわゆる<読書革命>によって文学市場が成立し、読書層の拡大も行われたわけである。こうした読書をする教養市民層の一般的要請にこたえるようにして、19世紀前半に百科事典の出版が相次いで行われた。最初の本格的な百科事典は、1809年にF・A・ブロックハウス(1772-1823)によって発行された。ブロックハウス百科事典といえば、今日のドイツにおいてもなお発行が続けられている百科事典の古典であるが、もともとは19世紀初頭の啓蒙主義思潮の産物なのであった。次いで1824年にはピーラー、1839年にはマイヤーそして1853年にヘルダーといった具合に、様々な種類の百科事典がドイツで発行されていった。

F・A・ブロックハウスの肖像

ちなみに私は個人的に百科事典が大好きで、昔から平凡社の世界大百科事典などを好んで利用していた。そして1970年代にはその全巻を買って、自宅の本棚に入れて、何かと活用していた。またドイツ語のブロックハウス百科事典とマイヤー百科事典は、1990年代に買い揃えて、研究用に活用してきた。とはいえ2000年代に入ってインターネットが普及し、私も遅ればせながらパソコンを使うようになり、ウキペディアをこれらの紙の百科事典の代わりに利用するようになった。もちろん古いことを知りたいと思った時には、その後も従来の紙の百科事典も利用している。

さてドイツの百科事典の先鞭をつけた出版者F・A・ブロックハウスは、出版者としては異色の経歴を持つ人物であった。彼は初めイギリス相手の織物商人であったが、ナポレオンの大陸封鎖令によってその商売がうまくいかなくなり、1805年に出版業に鞍替えしたのであった。そして商売の場所もアムステルダムからドイツのアルテンブルクを経て、出版業のメッカ、ライプツィヒに移し替えた。ブロックハウスは機を見るに敏な商売人の才能を発揮して、自分の出版社を大きく伸ばしていった。
そして1813年10月、反ナポレオン解放戦争の時、大きな好機が訪れた。この時反ナポレオンのヨーロッパ同盟軍(これにはプロイセン、オーストリアをはじめとするドイツ諸国も参加した)の大本営が一時、アルテンブルクに置かれた。ブロックハウスはこの機をつかんで同盟軍の司令官に拝謁し、「同盟国側からすでに出されたか、もしくはこれから出されるニュースや公式の情報を、印刷物を通じて人々に知らせ、さらに定期刊行物を通じて世に伝える」ことへの許可を獲得したのである。こうしてブロックハウスが<ジャーナル>と名付けた『ドイチェ・ブレッター』の創刊号が発行された。そしてその数日後には、ライプツィヒ近郊で同盟軍がナポレオン軍を撃破するという大事件が起こり、そのことを伝えた号外によって『ドイチェ・ブレッター』は一躍有名となり、発行部数も4000部となった。この成功によってブロックハウス社は、A・W・シュレーゲル、T・ケルナー、F・リュッケルト、M・v・シェンケンドルフといった当時有名だった数多くの作家を獲得することができたのだ。こうしてブロックハウスは出版社の経営基盤を固めていったわけである。

書籍販売業者の増大

ところで19世紀初頭には、ドイツには書籍販売業者の数は、あわせて500軒ほどしかなかった。そのうちの大部分は人口の多い都会(その10%がライプツィヒ)に集まっていた。当時読者が書物を読むためには、書店からの購入のほかに、行商人による訪問販売や読書サロン、貸出文庫の利用など、いろいろな手段方法があったことは、すでに述べたとおりである。書籍販売業というものは、一定以上の人口、人々の知的水準の高さ、そして業務許可を受けやすい条件などがそろっている土地でだけ、やっていけたのだ。さらに1848年の三月革命以前は、地域的な法律によって、書籍販売業に対する営業許可は規制を受けていたのである。そのため19世紀の前半では、書籍販売店の網の目はドイツ全国に、ごくゆっくりしたテンポでしか広がっていかなかった。それでも1816~1830年の間に、新たに300軒が加わり、「書籍商組合」が発表した数字によれば、1834年には859軒を数えている。

1830年ごろの書店の風景

そして19世紀の中ごろには後進的なエルベ川東部の地域を含めて、ドイツ全土には人口二万人につき一軒の割合で、書籍販売業者がいた勘定になる。そしてその後の鉄道の普及、郵便網の拡充、並びに1869年の「営業の自由」の導入以後、書籍販売業者の網の目はかなりの勢いで細かくなっていったのである。

第10表 ドイツにおける書籍販売業者数の変遷

第10表がそうした発展の様子を示  している。1870年代から80年代にかけてのいわゆる「創業者時代」に、書籍業者の数が5年で約千軒づつ増えているのは、とりわけ注目されるところである。こうした書籍業者数の急増に対して、従来から存在していた古手の書籍業者は、当然のことながら苦々しい思いをしていた。1850年ごろまでに既に存在していた書籍販売者や出版社は、たいてい印刷業から発展したものであった。
しかしそれより後の出版経営者の多くは、その経歴を書籍業の見習いから始め、次第に出版社主へと上昇していったのである。そして書籍業者、読者、及び著作者の間に見られた親密な関係によって特徴づけられていたゲーテ時代の出版の世界(19世紀前半)の独特な雰囲気は、1848年以後の書籍生産の増大によって、都市化、機械化、人口増大といった大きな流れの中で、急速に失われていったのであった。

こうした変化は、数多くの中小出版社や古本業者を不安にさせた。従来は出版業というものは、ほんの少人数でもできたもので、1850年ごろまではまだ出版者は自分以外の労働力として数人の手伝いがいれば十分なのであった。しかし1860年代に入ると、書籍業者の多くは新しい状況へと適応するために、その経営を根本から変革しなければならなかったのだ。書物の生産(出版)と配給(販売)は、以後どんどんと分化していく傾向が見られた。
たとえばシュトゥットガルトの老舗の出版販売業者メッツラーの場合は、1858年に、純粋な出版業者となったが、この時印刷部門も切り離された。また古く、特定の地域に限定されていた出版社は、近代的な専門企業へと脱皮が迫られた。というのは1800~1850年の間に、書物の生産は著しく増大し、販売業者や出版社は、とても全体を概観することなどできなくなっていたからである。

ちなみにドイツにおける新刊書の年間出版点数は、1800年に3000点であったものが、1834年には一万4000点に増えていた。このため著名な出版社でも、それぞれ特色ある専門分野をもって出版に当たるようになっていたわけである。例えばユストゥス・ペルテス社はもっぱら歴史や神学に、ヴァイトマン社は古典文献学に、そしてフイーヴェーク社は自然科学に、といった具合に。そして鉄道網の発達に見合ってベーデカー社は旅行案内書の専門店となったのである。ちなみに私も古本の赤い表紙のベーデカーの旅行案内書(ドイツ語で書かれた)を、神田の古本屋で見つけて、いまだに大切に持っている。
前述したコッタ社のようないくつかの大出版社だけが、精神科学ないし文学全般に及ぶ出版を手掛けることができたのである。

書籍流通の合理化

ここで書籍流通面における具体的な改善策や合理化策に、眼を向けてみよう。19世紀の前半、本を買いたい人は書籍販売業者(書店)に注文するのが普通であった。そして書籍販売業者は、在庫があればすぐに渡せるが、ない場合には、該当する本の出版社に注文カードを送り、それを受けた出版社が書籍販売業者に本を送るということになっていた。
ところが大きな出版社は、書店と直接こうした取引をせずに、自分のところの出版物の販売を、傘下の販売委託者に任せたり、あるいは独立の書籍取次業者に委託していたりした。この場合、書籍販売業者は、こうした取次業者に注文カードを送って、そこから本を受け取ることになる。ライプツィヒのような出版のメッカでは、こうした取次業者や販売委託者の数がもともと多かったが、19世紀の後半に入ってその数はますます増大した。

第11表(取次業者と販売委託者の数)

第11表は主な出版地における取次業者と販売委託者の数を示している。取次業者は多くの出版社の出版物を扱っている企業であり、販売委託者は特定の出版社の傘下に入っているものである。この表から分かるように、ライプツィヒには出版物の仲介業者がたくさんいたわけであるが、1842年「ライプツィヒ書籍商組合」の会長F・フライシャーは、「ライプツィヒ注文センター」というものを設立した。これは図書注文カードの簡素化を狙ったものである。つまりこのセンターで注文カードを一括して受け付けて、それをさらに取次業者や販売委託者あるいは出版社に回送するわけである。ここでは単に注文カードの取り扱いだけではなくて、請求書に基づく代金の決済も行っていた。これが第一次世界大戦後の1922年には、「書籍取引精算協同組合」という全国組織にまで発展し、第二次世界大戦後には、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に新たにこれが設立されている。

19世紀後半における書籍販売簡素化の動きの中で、もう一つ注目すべきことは、現金扱い専門の取次業者の発生であった。この種の会社の最初のものは、1852年にライプツィヒに設立されたルイ・ツァンダー社であった。このころなおドイツの出版社の多くは、自社の出版物をたいていは「仮とじ」のままで販売していた。そこでこの新たに生まれた取次業者は、仮とじ本を自分のところで製本してそうした完成本を自己の倉庫に保管していた。

製本についてみると、このころ従来の手による製本から機械による製本へと、移行したことが注目される。こうした機械製本の導入後は出版社も自らの采配で、自分のところの出版物を製本させるようになった。それ以後、現金扱いの取次業者はわざわざ製本する必要がなくなり、引き続き独立した書籍取次業者として仕事を続けていった。

いっぽう書籍業者にとって経費節減に役だったのが、図書注文カードと書籍小包の送付が、印刷物扱いとされ、一般の郵便物より割安の料金になったことである。これは1871年10月28日のドイツ帝国郵便法の規定によるものであった。ドイツ全土に書籍をこうした割安の値段で送れることは、書籍業界の合理化・近代化を大いに促進することになった。

投げ売り防止の試み

ところで書籍業界の恒常的組織設立へのそもそもの動機の一つに、書籍の投げ売りを防止することがあった。しかし1825年に「書籍商組合」が設立された後も、投げ売りの問題はいっこうになくならなかった。たしかに古い交換取引制度から条件取引制度へと転換した際に、定価制度が導入されはしたが、これが全面的に守られたわけではなかったのだ。これまで何度も紹介してきた書籍商ペルテスは1816年に公表した文書の中で、ドイツ全土で一律に定価制度が守られるべきことを訴えていた。

それに続いて「書籍商組合」の設立に先立つ1821年に、二人の出版者ドゥンカーとフンボルトは、出版業者の地域組合を設立することによって、投げ売り防止の監視機関にすることを提案した。この呼びかけに応じて、まずライプツィヒに1832年、この種の地域組織ができた。そしてそれに続いてシュトゥットガルト、テューリンゲン、ラインラント・ヴェストファーレン、南西ドイツ地域、ポンメルン、ベルリン、メクレンブルク、ブランデンブルクの各地域に、同種の地域組合が生まれた。そしてこれらの組織は、顧客割引つまり投げ売りの防止を、各出版業者に向かって訴えかけたが、あまり効果はなかったという。

「書籍商組合」は、1852年に改定した規定の中に投げ売りの禁止措置を入れたが、これも駄目であった。しかし書籍の投げ売り競争が続いたために、19世紀の中ごろには書籍販売業者は、次第に支払い困難に陥っていった。そのため書籍販売業者は1863年、独自の「書籍販売者連盟」を設立した。これは出版社からの不当な干渉や恣意を排除して、自分たちの一般的な利益を護ることを狙ったものであった。ここで投げ売りつまり割引販売には、出版社から書籍販売者にわたるときの出版社割引と、書籍販売者から顧客にわたる時の顧客割引の二つが存在した。しかしこの二つの問題はともに簡単に禁止できるような性質のものではなく、なおも尾を引くことになった。そして投げ売りの禁止と定価制度の確立は、ようやく1887年の<クレーナーの改革>によって、実現を見たのである。

ドイツ近代出版史(2)18世紀半ばから1825年まで

第四章 <読書革命>と文学市場の成立

新しい読者層の誕生

ドイツの出版界が古い交換取引から近代的な取引方法へと転換する過程で、忘れてならないのが、読者層の拡大と文学市場の成立という問題である。ここには「読書革命」という文化的要因と「文学市場」の成立という経済的要因が、密接にからみあっている。つまり文学を中心とする読書や書物の世界に、需要と供給という経済原則が登場してきたという事である。

ドイツにおける啓蒙主義の普及は、18世紀の後半に入るとその第二段階に至った。世紀の前半には、いわば啓蒙主義の第一世代と名付けることができる人々が、従来とは違った新しい読書階層を形成したのであった。その人たちは、世俗的な書物に永続的な関心を示していた商人階級をはじめとして、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主、そして商人の妻や娘などの一部からなっていた。

ところが世紀の後半になると、この人たちの息子たちや娘たちから成る新しい読者層の第二世代が登場してきた。彼らは、職業から見れば、学生、行政機関の若い事務員、商業従事者そしてその友人の女性たちであったが、これら第二世代の周囲には、すでにやや開放的な文学的雰囲気が漂っていた。当時、啓蒙思想は定期的に刊行されていた雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて伝達されていたからである。またこの人たちはある程度、娯楽的読み物にも興味を示していた。かくしてこれら第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀の後半を通じて、世俗的書物や娯楽的読み物を受け入れる主要グループを形成していたわけである。

とはいえ、こうした新しい読者層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって、なされたわけではない。その担い手となったメディアである出版業界における生産、販売の変化もまた、それに貢献したのであった。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版および販売の側面に影響を及ぼした、といったほうが良い。つまりこれら二つの側面の相互影響の中に、新しい文学的発展への基盤が生まれることになったのである。

ここで18世紀における読書傾向の世俗化を示す手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数の比較をしてみよう。その際R・ヴィットマンが行った見本市カタログに基づいた計算を手掛かりにすることにする。ただし18世紀後半になっても隆盛を見せていた翻刻版は、書籍見本市のカタログに掲載されていないので、ここでは除外する。

これによると西暦1700年の見本市カタログに掲載された書籍の総点数は、年間950点であったが、1800年になると年間4000点に増大しており、この100年間の合計は17万点と推定されている。
次にこの中でラテン語の書物が占める割合の時代的変化を調べてみると、

1650年・・・・・・71%
1740年・・・・・・27%
1770年・・・・・・14%
1800年・・・・・・ 4%

となっている。

つまりこの数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段にかわったことを、如実に示しているわけである。その際発行された書物のジャンルにも大きな変化が生じたことも注目される。1740年にはまだ発行された書物のほぼ半分が神学的・宗教的内容であったのに、1800年にはわずか10%強に減少しているのだ。(1740年の時点で、ラテン語の割合が27%となっているが、このころにはドイツ語で書かれた宗教書が多かったのだ)。法学および医学関係の書籍は、この間コンスタントに5~8%を占めていたが、宗教関係の書籍の減少に反比例するように、文学の割合が伸びている。文学作品は1740年には5%だったが、1800年には20%を超えている。とりわけ小説の伸びが著しかった。

いっぽう18世紀の末ごろになると、ドイツ語圏の書籍(新刊書)の発行地域の分布は、圧倒的に北ドイツが優位を占めるようになっていた。これを1780-1782年の時期に関してみると、

北ドイツ・・・・・・・70%
南ドイツ・・・・・・・19%
オーストリア・・・・・ 7%
スイス・・・・・・・・ 3%

となる。この数字からも北ドイツの優位は明らかであるが、新刊書の六分の一が出版のメッカ、ライプツィヒ市から発行されていたことを付け加えておきたい。ライプツィヒがドイツの著作家の世界の中心でもあったことを考えれば、この優位は何ら不思議なことではなかろう。<読書革命>と並行して、<たくさん書くこと>も進行していたのだ。1773~1787年の15年間だけでも、ドイツにおける著作者の数は、3000人から6000人に増大した。そして1790年には平均して4000人に一人の割合で著作者がいた勘定になる。もちろんこれには地域差がみられ、辺境のオストプロイセン地域では9400人に一人の割合であったが、ライプツィヒのあったザクセン王国では2700人に一人の割合であった。これがライプツィヒ市になるとその集中度は著しく、住民170人に一人が著作者であった。ちなみにプロイセン王国の王都ベルリンでは675人に一人、ウイーンでは8000人に一人の割合であった。

ところで1795年、ドイツ人の文学社会学者ともいうべきJ・G・ハインツマンなる人物は、当時のドイツにおける無名の読者大衆の成立に関して、注目すべき比較をもって、その社会的・文化的意義を明らかにしている。

「この世ができてから、ドイツにおける小説愛好の習慣とフランスの革命の二つほど、奇妙な現象は、いまだかつて存在したことはなかった。この二つの極端な現象は、ほぼ並行して成長してきたものである」

ここではフランス革命の担い手となる大衆の登場を、ドイツの読者大衆の登場と重ね合わせているわけであるが、その比較の是非はともかく、それほどこの<読書革命>は、当時のドイツの知識人から社会的事件として受け止められていたという事であろう。そこでは深く沈潜する「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行がみられた。                     ただこの<読書革命>の進行は、同じドイツ語圏の中でも地域によって、その度合いが異なっていたようである。北部、中部、南部、オーストリア、スイスなどと分けた場合にどうであったのか、ドイツ人の専門家の間でもまだ十分研究されていないようである。ただごくおおざっぱに言って、北ドイツでは18世紀の半ばにすでに新しい読者層が形成されていたのに対して、南ドイツではまだであったことが知られている。そしてその50年後にはこの北の優位に追いつき、かなり統一的な読書習慣(ないし嗜好)がドイツの書籍市場を支配するようになっていことも知られている。

しかしどのようにしてこの<読書革命>が南ドイツで遂行されたのかという点になると、専門的研究はまだあまり進んでいないようである。ただここで前述した翻刻本が、南ドイツの読者に対して、読むことへの渇望を充足させたことは間違いないようである。そこで次に翻刻本の普及と読者層の拡大の関係について少し考えてみよう。

翻刻本の普及と読者層の拡大

まず翻刻本の異常なまでの成功の決定的理由は、その価格の安さにあった。当時のドイツ人読者大衆の大部分にとって、この値段こそが書物を購入する際の決め手であった。読書と教養に飢えていた当時の中流階層の人々ですら、オリジナル作品8~10冊で我慢しようとしたか、それとも翻刻本を40~50冊購入しようとしたか、答えはおのずから明らかであろう。
オーストリアの有名な医者アントン・フォン・シュテルクは1790年に、廉価な翻刻本の医学書を通じて、同地域の医者や医者の卵が医学の知識を習得したことを証言している。そしてそれによって辺境地域の住民の健康改善に著しく貢献したことを強調している。また学校の教員、金持ちの家の家庭教師、村の司祭、学生などあまり収入の良くないインテリ予備軍にとっても、翻刻本を購入するか、それとも全く書物を手にしないか、どちらか一つの選択しか残されていなかったのである。安い書物を所有し、それを読むことこそが、人々の読書能力の涵養を可能にしたわけである。読書文化の初歩段階にあって、翻刻本の利用が果たした役割を低く見ることは、決してできない。

ただ一口に翻刻本の普及といっても、その黄金時代である1765~85年のころと、それ以降とでは、出版された書物の傾向にかなりの相違がみられたことに、注意する必要がある。この時期に活躍した翻刻版業者の第一世代と呼ばれるトラットナー、シュミーダーなどが、啓蒙期の純文学作家の全集の発行など、外観・内容ともに質の高い出版活動をしていたことは、前回のブログの第三章「翻刻出版の花盛り」のところで述べたとおりである。

ところが1785~90年ころになると、翻刻本業者は純文学に目を向けなくなっていった。その頃現れてきたゲーテ、シラーの古典主義文学は一種の「高空飛行」を行っており、それについて行けたのは、ごく少数の読者だけであった。この古典主義とそれに続くロマン主義の詩文学に翻刻本業者はもはや関心を示さなくなった。先には啓蒙主義の純文学作品をシリーズの形で出版したシュミーダーは、1790年以降にはもはや古典主義文学やジャン・パウル、ティークなどのロマン主義文学は翻刻出版しなかった。

その代わりに後期啓蒙主義のポピュラーな哲学者や歴史家に目を向けるようになった。純文学はこのころになると、社会的、政治的な解放を目指していた一般市民層から離れて、人の内面へと向かっていたからである。啓蒙主義に強く傾いていたこれら翻刻本業者の第一世代にとって、純文学はもはや有益な活動分野ではなくなってきたわけである。

ちょうどこのころ第二世代の翻刻本業者が新しい計画を携えて登場してきた。この世代の業者は、偉大なる啓蒙主義から古典主義、ロマン主義へと続くドイツの純文学を敬遠した。そして営業上永続的な成功が見込まれる大衆的な作品に目を向けるようになった。名のある作家の野心的な全集の代わりに、ヴァリスハウザー社の「ウイーン叢書」のような大衆小説シリーズが登場してきた。そして翻刻出版は次第に投機的な傾向を強め、粗製乱造の気味を加えていった。かくして翻刻本業者の名前は質の低い出版業者の代名詞となっていったのである。また名前すら明らかにしない匿名の翻刻本出版社も出現するようになった。

高級な読書サロン

ここではオリジナル版であれ、翻刻版であれ、世俗化され量産されるようになった書物と、人々はどのように接触していたのか、見てみることにしたい。
新しい読書層の誕生といっても、18世紀も末ごろになると、社会階層的に見れば、上流階層から都市の小市民階層まで広範に広がっていた。地方都市の名士ともいうべきヒルデスハイムのギムナジウムの校長K・H・フレマーは、1780年に次のように書いている。「今から60年前には、本を買う人間といえば学者と相場が決まっていた。ところが今日では本を多少なりとも読むことができない婦人を見つけるのは容易ではなくなっているぐらいだ。読書する人は今ではあらゆる身分にわたり、都会であろうと地方であろうと見受けることができる」
ただこの言葉は地方の校長先生の個人的な印象を述べたもので、統計的にはあまり信頼できるものではないと、私には思われる。

とはいえこうした状況の中で、町や村の名士や有力者が利用していた読書のための施設として、レーゼカビネットとかレーゼゲゼルシャフトといわれるものが生まれてきた。これらは元来フランスから来たもので、「読書サロン」といった感じの施設であった。例えばフランスのアルザス地方の町コルマールは、ドイツ人もたくさん住んでいたところであったが、この町に1769年からこの読書サロンがあった。ここでは教養も財産もある人達が毎月のように集まっては、ドイツ語やフランス語の本を批評しあったという。

あるレーゼ・カビネット(18世紀後半)

こうしたサロンは18世紀の半ばから末ごろにかけて、ドイツ全域で花開いた。書店は人々のために読書室を設け、そこに新刊書や新聞・雑誌類を置いていた。そうした場所を人々は、好んでムゼウム(博物館)とも呼んだりしていた。人々はそこにやってきて、新しく出た本を読んだり、互いに意見を交換しあったりした。そしてこの場所は「遊んだり、踊ったり、食事をしたりするところ」としても利用されるようになった。つまりここは読書サロンとはいいながら、もっと幅の広い総合的な社交の場でもあったのだ。

現に西南ドイツのシュトゥットガルトにあった読書サロンの1795年の規約には、次のように書かれている。「何びとも読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心を満足させるため、あるいは多様な知識の普及のため、さらに趣味嗜好を洗練させるため、そして社交生活の喜びのために、もっとも目的に叶った手段が提供され、それらによって計り知れない利益が得られるのだ」。こうした高級なサロンであったために、その会費もきわめて高かった。そのため一般庶民にとっては高嶺の花の存在で、もっぱら特権身分の人のために作られていた。そして啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になっていた。

1791年、北ドイツの都会ブレーメンには36の読書サロンがあり、併せて2340人の会員がいたといわれる。これほど多くの会員がいなくても、同じようなサロンは、リューベック、ベルリン、フランクフルト(オーダー)、ヴィッテンベルク、ゲッティンゲン、マインツ、シュパイヤー、ヴュルツブルク、カールスルーエ、シュトゥットガルト、ウルム、レーゲンスブルク、ほかにもあった。そしてこの読書サロンは、もっと小さな田舎町にまで広がっていった。その会員には、それぞれの地域の名士であった、司教や牧師、学校の教師や地区参事会会員などがなっていた。農民や労働者は、こうした読書サロンに入ることはできなかったのである。

都市の貸出文庫

「読書サロン」が社会の上層を占める人々の社交と教養の場所であったのに対して、広く国民各層が実際に本を読むのに好んで利用したのが「貸出文庫」であった。これはは要するに本を一定期間、金をとって貸し出す貸本屋であった。18世紀の前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。啓蒙主義の思想家ルソーも子供のころ、ジュネーヴの悪名高い貸本屋から、良い本、悪い本取り交ぜて店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすべて読んでしまったことが、例の『懺悔録』に書いてある。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィヒでのことであった。その少し後の1772年ミュンヘンの宮廷顧問官付き書記官J・A・クレーツは、自分が経営していた書店を移転した際に、店にあった本を人々に貸し出すことを明らかにした。しかしこの新しい試みは、借りた人が本を汚したり、返さなかったりして、結局失敗に終わったという。

とはいえ18世紀の末ごろになると貸出文庫は、ドイツでも次第に盛んになってきた。そのころには、うまくいけば貸本業のほうが書店で本を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あった本が、1806年には4000冊に増えていた。また南ドイツの小さな大学都市ランツフート在住のザンデルスキーの貸出文庫の書物は、1814年の1200冊から1820年には2526冊になっていた。さらに北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫は以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その種類は都市の規模や性格により、またその所在した地区によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したため、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から立派な建物の貸し出し図書館まで、いろいろあったわけである。その意味で貸出文庫は、最も民主的な図書貸出し施設であったのだ。

ところでロマン主義の作家ハインリヒ・フォン・クライストは、1800年9月14日付けの婚約者宛の手紙の中で、南ドイツのヴュルツブルクの貸出文庫を訪れた時の模様を次のように書いている。

「ある町の文化の度合い、ないしそこに支配的な趣味嗜好の度合いを、いち早くしかも正確に知ることができるのは、なんといっても貸出文庫をおいてほかにはないでしょう」

その貸出文庫を訪れたのは法律家、商人、既婚の女性などであったが、そこにはヴィーラント、シラー、ゲーテなど当時の高級文学の作品は置いてなかった。そこでクライストが見たのは、当時流行していた大衆文学作品ともいうべき騎士物語ばかりだったという。

同じくロマン派の作家ヴィルヘルム・ハウフも、4000~5000冊の本を持つ、ある貸出文庫を利用していた客の読書態度などについて、興味深い分析をしている。

① 貸出文庫の本は睡眠薬の代わりである。
② 緊迫感にとんだ最初の部分は夜のうちに読んでおいて、翌朝その続きを読む。
③ ジャン・パウルはお呼びでなく、代わりにクラーマーの『エラスムスの陰謀家』とかクラウレンの作品が好まれる。
④ 読者は若い女性が多い。
⑤ 貴族も召使も同様に、ヒルデブランドの『ヘルフェンシュタイン城』や『火を吹く復讐の剣』といった騎士物語を読む。
⑥ 軍人はウォルター・スコットの作品を読みたがる。スコットはドイツで6万部も出回っている。
⑦ スコットのドイツ語版は、チームワークによる「シェーラウ」の翻訳工場で翻訳されている。

ハウフやクライストが、子細に観察したように、貸出文庫を訪れていたのは「読書する大衆」だけではなく、上層の人々もいたのである。またここにやって来たのは年配の人間だけではなくて、若者もいた。ロマン派の詩人アイヒェンドルフも若き日には、ルソーと同様に故郷ラティボアーの貸出文庫に出向いて、手当たり次第に読んでいたのである。クライストやハウフの証言からも断片的に明らかになったことだが、18世紀の末から19世紀を通じてドイツで栄えた貸出文庫の中身は、主として小説か戯曲であったようだ。

これをブレーメンのガイスラー貸出文庫が1829年に刊行したカタログによって詳しく見てみることにしよう。ここでもやはりその扱っている本の種類からいって一番多いのが小説で、二番目が戯曲であった。その他の分野、歴史、政治、紀行文、詩、地誌、年鑑、児童文学、ジャーナル、月刊誌などは、これにくらべれば、ぐっと比重が低かった。小説の中では、クライストも書いていたように、騎士物語や盗賊物語が多かった。

そこにはイギリス人のウオルター・スコットやアメリカ人のクーパーなど英米の人気作家の翻訳物が混じっている点が注目される。そのほかの作家は今日ではほとんど忘れ去られたドイツの大衆小説作家であった。

しかし18世紀の後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってさらに読者層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、以後大きな文学市場を形成していくのである。

第五章 <書籍商組合>結成への道

ライプツィヒの「書籍商取引所」の誕生

前回のブログ「ドイツ近代出版史【1】18世紀半ばから1825年まで」の第一章「近代的書籍出版販売への転換」のところで述べたように、現金取引方式および条件取引制度の成立、さらに委託販売方式の導入などによって、ドイツの書籍出版販売業界は18世紀の末に、近代化へ向けて力強い歩みを示し始めた。書物は、古い交換取引の時代のように物々交換されるのではなく、貨幣によって支払われることになった。

条件取引制度というのは、次のようなシステムであった。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内にその代金の精算を行う(初めは春と秋の年2回であったが、やがて秋の精算はなくなり、春の復活祭の時期だけに行われるようになった)。そしてこの期間に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については店頭価格の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

その際問題となったのがライプツィヒでの精算業務のやり方であった。精算したいと思っている書籍業者は、ライプツィヒ市内の様々な場所で相手を探さねばならないという、厄介な問題があったのだ。こうした精算業務の簡素化・統一化のために、ライプツィヒの書籍業者G・J・ゲッシェンは、1791年に取引事務所を開設しようという考えに取りつかれた。しかしこの考えはその一年後に、同じくライプツィヒの書籍業者P・G・クンマーによって実現されることになった。彼はライプツィヒ市内のリヒターという喫茶店の三階を事務所として借りたわけである。

しかしこの場所は見本市会場からやや遠いところにあったので、ポツダムの書籍業者K・C・ホルヴァートは、同じ目的のために書籍街の中にあった大学の建物を借りた。そして彼はこの建物を家賃をとって業界仲間にまた貸しした。この建物の中で初めて支払業務が行われたのは1797年のことであったが、その対象はライプツィヒ以外の書籍業者であった。ライプツィヒの書籍業者は、こうした施設を使用することを初めはためらっていた。しかしやがて利用者が増えていったため、いつしかこの建物は見本市の開催中、「書籍商取引所」と呼ばれるようになった。(1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」という名称も、これに由来するのだ)。

出版業界体質改善の動き

いっぽう18世紀から19世紀への変わり目ごろ、ドイツの書籍出版量及び書籍業者の数は著しく増大した。このため書籍販売面での互いの競争が激化し、個々の書籍商の中には「投げ売り」つまりダンピングによって商売を乗り切ろうとするものも出てきた。顧客割引率を従来の10%から25%さらに50%にまでして、何とか商品としての書物を売りさばこうとしたのである。

こうした動きを憂慮したホルヴァートは、1802年の春の見本市に向けて一つの改革案を提出した。そこで彼は、顧客割引率の制限、新規の業者に対するクレジット保証の制限、見本市決済のための特定の為替相場の導入などを提案した。この提案に対しては40人の書籍業者が賛意を示した。なかでもゲッシェン(1752-1828)は、『書籍販売に関する私見』という文書の形で、これに応えた。この中で彼は「顧客割引率はせいぜい10%が限度であり、できることなら廃止すべきである。非書籍商に割引を認めることは無意味な投げ売り以外の何ものでもない。書籍業者のあいだでも、割引率は33・3%を超えるべきではない」と記し、商人としての尊厳と道徳心に訴えた。そして書籍取引所組合の設立を説き、「その組合のための資金と品位と持続性を手に入れよう」と呼びかけた。ちなみにゲッシェンは、作家シラーの友人でもあり、その作品を出版したライプツィヒの名門出版社の主であった。

G・J・ゲッシェンの肖像

このゲッシェンの提案と真っ向から対立したのが南独エアランゲンの書籍商パルムの提案であった。そこで彼は古い交換取引に戻ることを主張したが、他のほとんどの書籍商は交換取引に反対の態度を示していたので、一人孤立することになった。ともあれ19世紀の初めには出版業界の体質改善に対して多くの書籍業者が強い関心を示すようになり、改革のための集会まで開かれる運びとなった。そして1803年に開かれた二回目の集会で、30人の委員からなる新しい委員会が結成された。

ところがドイツにおいて書籍商の組織を結成しようという動きは、ナポレオン戦争によって、ひとまず頓挫することになった。ナポレオン軍との戦いの敗北によって、1806年8月、神聖ローマ帝国は消滅し、ドイツ語圏地域は西・南地域にできたライン連邦、東北部に領土を縮小させられたプロイセン王国、そしてオーストリア帝国に分割された。そしてナポレオン支配下のドイツの出版界は、書物の輸出や国内取引に対する妨害や厳しい検閲によって、一時的にではあれ、全体として大損害を被ったのであった。ニュルンベルクの書籍商パルムは反仏的なビラ『深い恥辱の底にあるドイツ』を発行したために、ナポレオンの命令によって射殺された。またハンブルクの書籍商ペルテスは1811年1月、知人に宛てた手紙の中で「全体として希望の片鱗すらうかがうことができません」と述べている。

ナポレオン戦争後の状況

しかし1813年の解放戦争の結果ナポレオン軍が敗北し、ナポレオンがパリに逃げ帰るに及んで、フランスによるドイツ支配は終わりを告げた。そして翌年のナポレオン失脚の後を受けて、ヨーロッパ各国の王侯や政治家たちはウィーンに集まって、戦後のヨーロッパの新秩序について協議することになった。こうした新しい情勢に呼応して、ドイツの書籍商たちのあらたな協力態勢への動きが、再び始まった。

1814年4月春のライプツィヒ書籍見本市において、6人の代表からなる委員会が再び結成された。この6人とは、ライプツィヒ出身のクンマー、フォーゲル、リヒター、ワイマール出身のベルトゥーフ、テュービンゲン出身のコッタ、そしてリガ出身のハルトクノッホであった。この委員会はドイツ書籍業界の関心事をウィーン会議(1814・15年)に持ち出すことによって、全ドイツ的な問題にしようと目論んだ。

いっぽう神聖ローマ帝国の解体後、統一組織を欠いたままになっていたドイツ諸国の再組織の問題も、ウィーン会議の重要議題の一つであった。結局これは大中小39の領邦国家を集めた緩い組織としての「ドイツ連邦」の結成によって決着を見ることになった。書籍商委員会を代表してコッタ及びベルトゥーフの二人は、ウィーン会議に働きかけて、新しく生まれるドイツ連邦の在り方を定める連邦規約の中に、ドイツ書籍業界の関心事を織り込むことに成功した。その結果、連邦規約第18条に、次のような文章が挿入されることになった。

「連邦議会はその最初の会議において、出版の自由に関する指令並びに翻刻出版に対する作家及び出版主の権利の確保に関する指令の作成に従事するであろう」

そしてこのための公聴会が連邦議会において開かれる見通しも、その際明らかになった。そうした期待の中でハンブルクの書籍商ペルテスは1816年匿名で、『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書を発表した。この中でペルテスは、翻刻出版を激しく糾弾した。しかし書籍業界にとっては最大の関心事であったにもかかわらず、連邦議会での審議は遅々として進まなかった。

そこでいくつかの出版社は、自らイニシアティブをとって動き出した。例えば中部ドイツのハレの4つの出版社は、1816年いかなる翻刻出版も拒否することを約束した。また西南ドイツのハイデルベルクの出版主モールは、次の春の見本市で翻刻出版業者とのあらゆる関係を絶つよう、ドイツの書籍商に要請した。さらに1817年に結成された「ドイツ書籍商選考委員会」は、翻刻出版をはじめとするもろもろの問題の解決に向けて取り組むよう委任を受けた。こうした情勢の中で、出版社の版権や著作者の著作権を保護しようという考えが、次第に具体化してきた。そして1819年2月に連邦議会に提出された法案の中には、10年ないし15年の保護機関が定められていた。

しかしウィーン会議後のドイツを牛耳っていたオーストリアの宰相メッテルニヒは、旧体制を守るために反動的な政策をとることも辞さなかった。そして1819年8月のカールスバートの決議によって、大学法や扇動者取締法などと並んで、厳しい出版法が定められた。これによると新聞・雑誌そして320頁以下の出版物はすべて、厳重な検閲のもとに置かれることになった。
こうして出版の自由は踏みにじられ、同時に精神的財産(知的所有権)の保護という考え方も大きく後退することになった。

いっぽうこれとは別に、南独ニュルンベルクの書籍商レヒナーは、1806年以来ライプツィヒから離れてニュルンベルクに独自の書籍見本市を設立する考えを抱き、その線に沿った動きを示していた。そして1819年この考えを関係者の前に持ち出し、人々の議論に供した。しかしこの計画は、同じニュルンベルクの同業者カンペ、マインベルガー、シュラークなどの反対にあって挫折した。

ところがニュルンベルク見本市設立計画は1822年になって、別の方面から再び持ち出された。今度の計画は書籍商ではなくてバイエルン王国学士院の事務総長シュリヒテグロルからのものであった。この人物はニュルンベルクの書籍商と、見本市プロジェクトをめぐって交渉を行った。その際書籍商側はバイエルン教科書出版会社の廃止を持ち出した。またバイエルン政府も度重なる審議の後、書籍見本市設立に関する報告書を提出したりしたが、なかなか結論を得るに至らなかった。

「書籍商組合」の結成

そうこうするうちにライプツィヒでは、ライプツィヒ以外の書籍商を中心に、先にホルヴァートが明らかにしていた書籍取引所の設立へむけて急展開を見せはじめていた。先の「ドイツ書籍商選考委員会」がそのイニシアティブをとったのだが、こうした取引所を必要としない地元のライプツィヒの書籍業者はいぜんとして冷淡な態度をとり続けていた。そのためこうした態度に対しては外部の書籍商からはげしい非難の声が上がり、結局ニュルンベルクの書籍商フリードリヒ・カンペ(1777-1848)の指導の下に、1825年4月30日、「ドイツ書籍商取引所組合」が設立されたのであった。この名称はドイツ語の表記を正確に訳したものであるが、日本語の文脈の中では分かりにくいので、今後は「ドイツ書籍商組合」ないし単に「書籍商組合」と表記していく。

この日「取引所規約」には、ライプツィヒの書籍業者6人及び外部の書籍業者93人が署名した。この93人のうち70人が北・東部からの、そして23人が南・西部からの業者であった。またこの組合には外国人も会員として加盟できることも定められた。初代の会長(任期1825-28)にはカンペが就任し、その他の幹部としてライプツィヒ外の書籍業者ホルヴァートなど3人が選ばれた。

F・カンペ(「書籍商組合」の創立者)の肖像

こうして「ドイツ書籍商組合」は、ドイツの出版界全体の公の組織となったのである。この組織には、出版界に確固たる秩序を築き、書籍取引の際に生ずる誤解を取り除き、書籍業界の利害を守るべき任務が課せられた。そして長期的な展望のもとに、ドイツの出版界全体をリードしていくことも、新たに生まれた書籍商組合の使命の一つとなった。
この組織は「よそ者」であるニュルンベルクの書籍商カンペの断固たる措置によって、最終的に出来上がったのであった。このカンペはすでに1819年にニュルンベルク書籍見本市設立計画に反対していたが、1825年12月にバイエルン国王ルートヴィッヒに謁見したときにも、改めてニュルンベルクのプロジェクトに反対する態度を明らかにしたのだ。

それはともかく「書籍商組合」の設立によって、ドイツの書籍出版販売の世界は、「疾風怒濤の時代」に終わりをつげ、新しい時代へと踏み出していったのである。個々の企業の商業上の利害を超えて成立したこのドイツ出版界の大同団結には、ドイツの政治的統一(1871年)よりはるかに先行した大きな意義が与えられねばなるまい。

ドイツ近代出版史(1)~18世紀半ばから1825年まで~

第一章 近代的書籍出版販売への転換

統一的書籍市場の崩壊

ドイツの書籍出版販売活動は長い間、書籍見本市の二大都市フランクフルト・アム・マインとライプツィヒを中心に行われてきた。フランクフルトは中部ドイツのマイン川畔の帝国直属都市として、15世紀以来その南に広がるドイツの各地域つまりバイエルン、シュヴァーベン、フランケン、オーバーラインの諸地方やオーストリア、スイス一帯を書籍出版販売面で支配してきた。この南ドイツの書籍業界は、ドイツ皇帝の支配地域にあるという意味で、「帝国書籍業界」とも呼ばれてきた。この地域はおおざっぱに言って、宗教的にはカトリック地域で、古い伝統や習慣がいつまでも温存されていた。そしてどちらかというと言語・文学的文化というよりは、むしろ音楽的・造形的文化に傾いていた。そして書物については聖書を初め説教書、祈祷書などの宗教書が中心であった。宗教書のほかには学者や僧侶向けのラテン語の書物が出版され、帝国書籍委員会の意地の悪い厳しい検閲が、依然として続いていた。

いっぽう北ドイツのザクセン地方の中心都市ライプツィヒは、17世紀の末頃から、見本市都市としての重要性を次第に増しつつあった。そして北ドイツにおける書籍出版販売は、ますますライプツィヒを中心に動くようになっていた。北ドイツは一般にプロテスタント地域であるが、ドイツの啓蒙主義はまさにこの北ドイツの二つの地域、つまりザクセン地方とベリリンを中心とするブランデンブルク=プロイセン地方をその故郷としていたのだ。

この地方では道徳週刊誌やポピュラー哲学から文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場にはいたる所で新しい時代の息吹が感じられた。この地域では古めかしいラテン語の知識がいっぱい詰まっていた大型の信心の書には、新しい読書大衆はもはや関心を向けなくなっていた。啓蒙主義運動の担い手ゴットシェートや国民的人気の高かったゲラートが住んでいたのもザクセン地方であった。こうした文化的要因のほかに経済的要因もあった。18世紀のザクセン地方は経済的観点から見て、ドイツで最も目覚ましい発展を遂げていた地方であった。とりわけ工場制手工業が発展していた。こうした状況の中で、書籍出版販売業はザクセン王国政府によって奨励されていたのだ。

この時代になっても書籍取引の方法としては、なお交換方式が続けられていたが、この方式は書物の外観や内容を無視してきたため、その欠陥が次第に我慢できないほどに露呈されてきた。この傾向はとりわけ南ドイツ地域で著しかった。その際南で出版された書物は南の地域では売れても、北へはあまり出ることがなかった。南ドイツのカトリック地域では依然としてラテン語で書かれた学術書や宗教書がもっぱら出版されていた。いっぽう北ドイツのプロテスタント地域では、ドイツ語で書かれた道徳週刊誌や各種ジャーナル、政治パンフレットや啓蒙主義的な国民文学などもどんどん出版されていた。

そして書物の質も北では南より良かった。このため南北間で書物が交換取引されたとしても、一対二ないし一対三もしくは一対四で交換されていた。その結果公刊された南ドイツの出版物が北ドイツで販売される可能性はほとんどなくなっていた。そのうえ北ドイツの読者は、南ドイツで出版されたラテン語の専門書や宗教書には関心がなかったのだ。そのいっぽう北ドイツで出版された啓蒙書や国民文学に対して南ドイツの書籍業者は関心を抱いていたが、交換取引方式のために実際上その取得が困難になっていた。
こうした状況の中で、ドイツの書籍市場は次第に南北への分裂の度合いを強め、18世紀の半ばには、その二分化は決定的ともいえる段階に達していたのだ。

交換取引制度の廃止

書籍を単に物品として量的にしか扱わなかった交換取引制度は、それが抱えていた大きな欠陥から、18世紀の後半に入るころ、結局廃止されることになった。そのイニシアティブをとったのは、いうまでもなくライプツィッヒをはじめとするザクセン地方の書籍業者であった。かれらは北ドイツの読者には関心のない宗教書やラテン語の専門書を発行していた南ドイツの書籍出版販売業者との取引を好まなくなっていた。その結果彼らは交換取引を、信頼のおける商売相手である北ドイツの書籍業者だけに限ることにした。そしてその他の業者に対しては、現金取引を要求するようになった。

交換取引を拒否して現金取引を採用した書籍業者には「正価販売業者」という名称が与えられた。彼らは取り扱う書物を交換取引商品と現金取引商品の二つに分けたのである。正価販売業者の中でももっとも代表的な人物が、フィリップ・E・ライヒ(1717-1787)であった。ライヒはライプツィッヒの代表的な書籍出版販売店ヴァイトマン社に1746年に入社し、やがて経営責任者になり、さらに1762年には同社の共同出資者となった。彼は1760年代に、もはや欠陥だらけになっていた書籍の交換取引方式に反対して立ち上がったのである。そして現金取引または半年で16~25%の割引をする短期クレジット方式を導入した。この短期クレジット方式は、ライプツィヒ見本市に出品・参加していた中部・北部ドイツの友好的な書籍業者に適用された。そしてこれらの業者に対して十分な報酬を支払った最初のドイツの出版社経営者になったのであった。ここに長らく自然経済である交換取引方式に退行していたドイツの書籍販売方式は、北ドイツでは1760年代に再び貨幣経済を基礎とする近代的な取引方法に代わったのである。

ライヒの改革

ライヒが導入した近代的な書籍取引の方法は、交換取引の拒否と短期クレジットないし現金取引方式の採用であった。それに伴って書籍の返品を部分的ないし全面的に認めない措置、クレジットの低い割引率の設定そして書物の価格の高い設定なども同時に行われた。これら一連のライヒの動きは、書籍販売史上「ライヒの改革」として知られているが、南ドイツの斜陽の帝国書籍業者にとっては、我慢のでいない過酷な措置に映った。当時ドイツ全地域から書物が集まっていたライプツィッヒ見本市で採用された正価販売方式は、そこに常駐していた書籍業者にとって著しく有利だったからである。南ドイツの書籍業者には、運搬用の樽を含むすべての輸送コスト、業者の旅行費用、見本市に伴う宿泊費、ブースの借り上げ料、アルバイト要員費用などをひっくるめての見本市の総経費が掛かった。それに対して地元の書籍業者にとっては、それらの負担はぐんと低かったのだ。

しかし自らの改革を断行することに熱心で、南ドイツの書籍業者のことをあまり考えなかったライヒは、いわば南への挑戦として、1764年にフランクフルト見本市から最終的に撤退したのであった。ライヒはその際「自らと同僚業者の撤退によって、フランクフルト見本市を葬った」と述べている。同見本市はその後も存続はしたが、もはや往年の存在価値は失われていた。ちなみに新しいフランクフルト国際書籍見本市が生まれたのは、西ドイツが誕生した1949年のことであった。

ライヒは自らの改革を貫徹すべく、1764年に「ドイツ書籍販売組合」の設立を計画した。そしてこの計画を「ライプツィッヒ見本市を訪れる書籍業者への通知状」の中で明らかにした。そこでの最高原則は、この組合に加盟する者は書籍取引を現金によってのみ行うべきで、また互いに翻刻出版は行わず、そうした業者との取引は最小限に抑えるべきであるというものであった。ライヒのこの計画に対しては、ザクセン王国政府やライプツィッヒ市当局そしてライプツィヒ大学から疑念が出された。しかしそれから5年たった1769年になって、ようやくザクセン国王の許可が下りた。それによって南ドイツの翻刻版書籍業者は、事実上ライプツィッヒ見本市から締め出されたのであった。

帝国書籍業者の反撃

これに対する帝国書籍業者側の反応には素早いものがあった。先に警告していた通り、彼らは北ドイツで出版された書籍の計画的な翻刻出版を、大々的に実施し始めたのである。翻刻出版を全面的に禁じたザクセン国王の布令も、その王国の外では通用しなかった。北ドイツの書籍業者からは海賊出版業者と非難されたこれら翻刻版出版業者の指導的存在は、フランクフルトのファレントラップ及びウィーンのトラットナーであった。このトラットナーはこれに先立つ1752年に、ライプツィヒの書籍業者に対して、「ウィーンからライプツィヒへの旅行費用その他もろもろの経費が掛かるから」という理由で、33・3%の割引を要求し、これが叶えられない場合には翻刻出版を行うと警告していたのだ。

そのうえ彼はオーストリア女帝マリア・テレジアから、翻刻出版に対する皇帝特権を授けられていた。ちなみにトラットナーが女帝から受けとった手紙には次のような一文もあった。

「親愛なるトラットナーよ、わが国家の原理は書物を盛んに流通させることにある。書物はすべからく大いに印刷されるべきである。ただオリジナル作品が現れるまでは、翻刻出版を行うべきである」

こうした皇帝特権に支えられたトラットナーやフランクフルトのファレントラップなどの帝国書籍業者は、翻刻出版はオリジナル作品の高値に対する防衛手段なのであると弁護した。このようにして翻刻出版は、南ドイツからオーストリアにかけて、以後大々的に行われることになった。そして1765年~1785年の間にかけて、「翻刻出版の黄金時代」が現出したのである。これに対して学者や作家は、おおむね理論的には非難していたものの、実際には価格調整役として容認していたようである。

そしてやがて帝国書籍業者の間から、ライプツィヒの現金取引と従来からの交換取引との間の妥協案ともいうべき「条件取引制度」が生まれてきた。その仕組みはざっと次のようになる。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間(春と秋の2回)にその代金を精算する。ただその期間内に売れなかった書籍は返品され、売れた書籍については店頭価格(定価)の33・3%の割引価格で支払うというものであった。

帝国書籍業者はこうした条件を提示してライプツィヒの書籍業者とと折り合いをつけようとした。そして1788年南ドイツ及びスイスの19の書籍業者は「ニュルンベルクの最終決議」の中で、いま述べた条件のもとにライプツィッヒ見本市に参加したいと申し入れた。そして精算の時は春の見本市の時だけとした。この申し入れをライプツィヒ側は受け入れることになった。

その背景としては、すでに18世紀の半ばから北部及び東部ヨーロッパ地域との書籍取引において、ライプツィヒがベルリンとの競争にさらされていたという事情もあった。それらの地域の書籍業者には、従来のようなライプツィヒ経由ではなくて、ベルリンを通じて商売をする傾向が強まっていたのだ。ベルリンでは、例えば著名な劇作家レッシングの友人であった書籍商兼作家のフリードリヒ・ニコライが多面的な商売を通じて成功を収めていた。
このように18世紀後半の最後の三分の一の期間は、書籍出版販売業界にとっても、まさに「疾風怒濤の時代」なのであった。しかし近代的書籍出版販売制度の確立までには、なお幾多の紆余曲折を重ねることになる。

純粋な書籍販売業者の出現

この過程にあって一つ付け加えておきたいことは、帝国書籍業者が提案し北ドイツの書籍業者も受け入れることになった「条件取引制度」は、結局はドイツ全体の書籍業界に新たな確固たる基盤を築いたという事である。この新しい制度は18世紀から19世紀に変わるころ、完成したのであった。そしてこれは出版部門を持たない「純粋な書籍販売業者」の出現を促した。古い交換取引のやり方では、これは不可能であった事なのだ。

新たに動き出したドイツ書籍業界の新時代にあって、純粋な書籍販売業者の第一号とみなされるのが、フリードリヒ・C・ペルテス(1772-1843)であった。彼は北ドイツのハンブルクに書店を設立したのだ。このペルテスはドイツ語圏の出版人の中でも最も重要な人物の一人であるが、書籍商として成功を収めた後、出版業者としても1822年から中部ドイツのゴータで営業を始め、大きな成果を上げている。彼はまたナポレオン軍のハンブルク占領に対して、闘争を指揮するなど、政治の世界に身を投じたこともある。

しかし何といってもドイツの近代的書籍出版販売制度の確立に対する貢献が最も大きいといえる。後にドイツにおける著作権制度の確立に寄与したし、「ドイツ書籍商取引所組合」の共同設立者の一人でもあった。さらに書籍業者の専門的な養成研修機関の設立構想を、すでに1833年に発表するなど、出版業界が抱える基本的問題について幾多の論文も世に問うている。

委託販売方式の成立

条件取引制度成立の結果として、さらに書物の委託販売方式が生まれた。これは書籍見本市の開催都市ライプツィヒに従来あった、書籍を保管する倉庫管理業から生まれたものである。つまり交換取引の時代、ライプツィヒ以外の書籍出版販売業者は、見本市に出品する書物(製本されていない全紙の形)の倉庫をそれぞれ持っていたわけである。そしてその倉庫を管理する業者も当然存在した。

ところが条件取引制度の成立によって、こうした倉庫業は必要なくなった。しかし個々の出版業者が自ら販売業務をやるのは人手や経費・労力などの点から容易ではないので、こんどはすべての販売業務を代行してくれる人が必要となった。そこで生まれたのが従来倉庫管理業をやっていた人たちを主とした委託販売人であった。この書籍委託販売業は、今日ある書籍取次業の先駆的形態といえる。これら委託販売業者は、従来からあった倉庫を、出版社から受け取った書物を一時的に保管しておくための倉庫へと転用したわけである。こうしてライプツィヒには、出版社と書店との間の直接的取引を代行する書籍取次業者が生まれたのである。そしてこれによって、交換取引の時代に結合していた出版業と書籍販売業とが、はっきり分離することになった。

正価販売方式の導入、委託販売方式の成立そして純粋な出版業者の出現によって、ドイツの出版業界は、資本主義的経済原理に基づいて全面的に機能するようになった。書物は最終的に商品となったのである。何が生産され販売されるべきかは、需要と供給の関係によって決まることになった。資本主義的な書籍市場が生まれ、出版業者は企業家に昇格した。そして新たな生産と販売の方式は、読者大衆や製品である「書物」自体にも、それから著者の社会的地位や出版業者との関係にも影響を及ぼすことになった。

委託販売方式の確立によって、従来のように新刊書は書籍見本市の開催中とかその後ではじめて出版されるという事はなくなり、一年中いつでも出版できることになった。そして金と商品の交換はそれまでよりもずっと早まり、継続的なものとなった。また流通期間の短縮によって、資本のより多くの部分は同時に付加価値の生産を行うようになった。投下資本が再び取り戻され、付加価値が実現する度合いは、それまでよりもずっと早くなった。変わらない生産条件の下で生産は上昇し、供給が増大した。18世紀の最後の三分の一の期間に、書物の生産は著しく増大したのである。

作家の自主出版の試み

以上みてきたようなドイツ出版業の近代化の過程における一つのエピソードに学者や作家の「自主出版」の試みがあるので、ここで少しふれておきたい。18世紀後半になって、激しく揺れる書籍業界の動きの中で、著作者の中には、より堅固な地盤を求める者もあらわれてきた。つまりそれまでよりも安定した収入を確保するために、著作者自らの出版社を作ろうとする動きである。

この作家の自主出版社は、作家自身により良い収入をもたらすことが期待されたが、同時に販売業者を通さないという流通機構の簡素化によって読者にも書物を相対的に安く提供できるはずだという考えのもとに作られた。具体的にはこれは自分の作品を、予約注文と部分的な前払いの基礎の上に立って、自主出版社から発行するというものであった。名声があり読者によって熱心な支持を受け、しかもその名前が市場価値を持っていた作家の場合は、この考えを実行に移すことができた。

この試みで最も有名なのは、F・G・クロップシュトックであった。この作家はその作品『学者の共和国』(1772-73)と『救世主』(1779-81)の出版に当たってこれを行った。その他の著名な作家としては、ヴィーラント、レッシング、ゲーテ、シラーなども、時としてこうした自主出版の試みを行ったりした。

作家のレッシングはその著作『ハンブルク演劇論』(1767-69)の中で、自主出版に対する作家の権利を自信をもって次のように訴えている。

「作家が自分の頭の中から考え出したものを、儲かる仕事に結びつけようとしたからと言って、悪く取られることはないであろう」

こうした自主出版の試みの背後には、経済的な自立を得ることによって同時に、知的・道徳的な自由も獲得したいという作家たちの切実な念願もあったのだ。当時はなお作家や学者は一般に、自分の書いた著作物だけで生活していける状態にはなかった。学者は大学に、そして作家はほかに官職をもったり、パトロンを抱えたりして物質的生活を支えていたのである。学者や作家の自主出版の試みは、結局は挫折せざるを得なかった。この事業をかなり長期的に継続することができたのは、ヴィーラントぐらいのものだった。

作家がパトロンや官職との結びつきを絶って、自由と独立を獲得することは後に可能となったが、それはなお出版社とのつながりにおいてのみ可能であったのだ。その際作家は読者の要望に合わせなければ、長期間にわたる経済的な独立は望めなかった。つまり市場経済的圧力を受けることになったのだ。

レッシングと親しかったベルリンの作家兼書籍業者のフリードリヒ・ニコライは、先のレッシングの『ハンブルク演劇論』の宣伝広告文に中で、この作家を擁護した。しかしニコライは同時にレッシングが過小評価した書籍販売上の専門知識の欠如こそが、自主出版社を挫折させた原因であったことを、指摘しているのだ。

先に紹介した書籍業者のライヒの場合は、この問題に対して経営者としての立場からもっと厳しく臨んだ。彼は『ある書籍業者の思い付き』と題する冊子の中で、次のように述べている。

「まず何よりも書籍出版販売業というものが不可欠な存在であることを、人は認めねばならない。作家が一、二冊の作品を出版し販売することと、書籍出版販売業を経営して維持していくこととは、おのずから別の事柄である。自分の研究室や書斎で考えたことをそのまま実行に移そうとする人には、書籍業というものへの正しい認識が欠けている。クロップシュトック氏の(学者の)共和国の代わりに、書籍業者の共和国を作ったらどうであろうか? 有用な商品をオリジナルより正確で美しく翻刻出版して、半分の値段で読者に提供したらどうであろうか?」

これは正価販売制度を取り入れて、近代的な書籍出版販売制度を確立しようと尽力していた改革者ライヒの、自主出版と翻刻出版への痛烈な皮肉の言葉ととれよう。ライヒの言葉どおり、クロップシュトックの『学者の共和国』は、自主出版された翌年の1774年には、翻刻版が発行されたのである。この翻刻版業者からクロップシュトックに報酬が支払われなかったことは言うまでもない。いっぽうライプツィヒという地の利を生かして、自ら断行した新しい書籍販売制度によって経営業績を上げたライヒが、自らの出版社のために書いてくれた著作者に対しては、十分な報酬を支払ったことも付け加えておきたい。

第二章 18世紀後半の出版業者と出版物

18世紀後半は一般に後期啓蒙主義の時代と呼ばれている。「ライヒの改革」を通じてドイツの北部や東部一帯を中心に、出版界はすでに近代的な書籍出版販売体制へと転換していた。そしてこの時期には、書物の出版量が飛躍的に増大し、同時に出版業者が啓蒙主義文学の普及を促していた。

それではこの時期には、いったいどれくらいの出版社がどんな場所で出版活動に携わり、またどんな種類の出版物をどれくらいの規模で発行していたのであろうか。このことを明らかにするために、自ら啓蒙主義の著作家でもあったベルリンの書籍業者フリードリヒ・ニコライ(1733-1811)の在庫目録を利用することにしよう。ここでは18世紀ドイツの書籍史研究家パウル・ラーベの研究に基づいて見てゆくことにする。

この在庫目録は1787年3月26日付け、291頁、書籍点数5492点である。目録は24の専門分野に分類され、著者別と項目別にアルファベット順に並べられている。さらにそこには本の大きさ(判)、発行地、出版社名、価格が記載されている。これは書物を求める客のために作られた非常に有益なニコライ書店の在庫目録であった。1787年の発行ではあるが、1780年代の新刊書だけではなく、70年代、60年代のもの、時として50年代の本も載せられている。当時の書籍市場の継続性は今日では想像つかないくらい長かったから、50年代の本も決して古くはなかったのだ。しかしその主なものは1763-1787年の間のほぼ四分の一世紀に発行されたものが対象となっている。この種の在庫目録は当時の他の出版社からも発行されていたが、ニコライ書店の目録ほど完備したものはない。そこには18世紀のドイツの教養人が求めていた書物の最も重要な題名が記載されているのだ。

つまりドイツの啓蒙主義の著作家たちの代表的作品が網羅されているわけだ。ただこの目録はプロイセン王国の王都ベルリンに住んでいた教養人を対象としたものであるから、ここから直ちに当時のドイツ全体の傾向を引き出すことはできない。とはいえこの目録を見れば、当時の書籍市場に出回っていた書物の多様さに、まず強い印象を受けざるを得ない。そしてまた啓蒙主義の刻印をいたる所に見て取ることができる。ただしニコライはドイツの北部から東部にかけて手広く販売網を広げていたから、それらの傾向はベルリンだけではなく、ライプツィヒを含めた中北部ないし東部ドイツの読書傾向をそこに読み取ることは可能であろう。またこの在庫目録が対象とした18世紀後半の四分の一世紀は、あたかも南ドイツ・オーストリア地域における翻刻本の黄金時代と重なっていたことを想起してほしい。

18世紀後半の出版物

それでは次に、この在庫目録の内容を24の専門分野別に見ていくことによって、18世紀後半のドイツの出版物について瞥見することにしよう。(全部で5492点)

① 道徳、哲学(176点)
ここには主に啓蒙主義哲学者の作品が採録されている。そしてイマヌエ  ル・カント、モーゼス・メンデルスゾーン、クリスティアン・ヴォルフなどの名前が見える。
② 神学(306点)
ここにも啓蒙主義作家の作品がみられる。
③④ 歴史(477点)
非常に広範なグループ。なかでも「プロイセン・ブランデンブルクの祖国史」が、ニコライ書店の所在地ベルリンとの関連で、107点と多い。またプロイセンをヨーロッパ列強の一つに押し上げた七年戦争の終了(1763年)後に新しく発行された歴史文学も注目される。そのほか世界史、伝記、個々の国々・地域・都市に関する地誌、古代・中世・近世の事件史、主な雑誌などが、ここに含まれている。
⑤⑥ 地理と統計(347点)
ここには旅行記(紀行文)192点も含まれている。
⑦ 理学、博物誌、化学、鉱山学(598点)
当時のポピュラー・サイエンスの分野の重要な論文がすべて。また18世紀に淵源をもつ自然科学上の専門文献も。
⑧ 商業、マニュファクチャー、技術、法律、国家学、警察学、財政学(191点)
これは実用的な啓蒙主義文献ともいうべきジャンル。
⑨ 家政学、農業、林業、造園(267点)
これは日常的な実用書。
⑩⑪⑫ 純文学(625点)
ここは⑩詩、⑪演劇、⑫小説の三つに分けられてる。詩の部門では、当時の重要な詩人が勢ぞろいしている。ゲラート、ゲーテ、ハラー、ヤコービ、クロップシュトック、レッシング、シュレーゲル、ヴィーラントなど。演劇及び小説は大部分が、作品別に分類されている。
⑬ 音楽(239点)
実用音楽上の文献と音楽史に関する論文。
⑭ 文芸批評、美術評論(156点)
レッシングに関するP・バイレの作品やヴィンケルマンに関するA・R・メングスの評論などが注目される。
⑮ ドイツ言語学(55点)
⑯ 児童教育、授業、娯楽(216点)
ここには教育学上の文献、当時使用されていた教科書、子供向け雑誌などが含まれている。
⑰ 1760年代、70年代の道徳週刊誌(22点)
すでに道徳週刊誌の時代は過ぎていたが、ニコライはここに採録。多くは復刻版。
⑱ 定期刊行物(53点)
ジャーナル、月刊誌、評論誌など。点数が少ないのは、当時も今日と同様に、雑誌類の保管が難しかったためであろう。
⑲ 様々なジャンル(262点)
ほかのどの項目にも入らないもの。例えば暇つぶしの本とかフリーメーソンに関する本など。
⑳ 軍事学(132点)
ベルリンの書店の特色ともいえる項目。プロイセン軍部の将校や貴族が客。
㉑ ギリシア・ローマの古典文献(274点)
啓蒙主義の時代に、ギリシア・ローマの古典作品が重要な意味を持っていたことの反映。
㉒ ギリシア・ローマ古典文献のドイツ語訳の作品(220点)
ギリシア語、ラテン語が読めない一般読書人が対象。
㉓ 現代諸語の娯楽文学のドイツ語訳の作品(243点)
主として英語、フランス語、イタリア語。
㉔ ドイツで印刷されたか、もしくは入手することができた外国語の書籍(650点)

さて、この目録の中身は、啓蒙時代における書物の買い手の関心のありかを示している。と同時にそこに記載されている書物の題名は、18世紀後半における書物出版の重点の置き方についても伝えているといえる。このニコライ書店の在庫目録を見ると、書物の採録に当たって、書籍見本市のカタログには見られれない特色がうかがえる。つまりそこには自ら啓蒙主義の著作家でもあり、啓蒙思想を広く普及させようと考えていた出版人ニコライの気持ちが反映されているのである。そしてこれは、啓蒙時代に先進地域であったドイツ中北部の書籍出版の一般的傾向をも代表するものと解釈できよう。

18世紀後半におけるドイツの出版社所在地

ニコライ書店の在庫目録を子細に眺め、収録点数一点までの出版社の所在地を調べてみると、その多様なことは驚くぐらいである。その数は全部で105か所にも及んでいるが、これは当時のドイツの小国分立状態に、まさに対応したものと言えよう。しかし1815年のウィーン会議の結果、こうした状態はかなり整理統合され、出版界にもその影響は及んだ。その結果1815年以降になるとドイツの出版社分布図は大きく塗り変えられたわけであるが、今はその前の状況を見ることにしよう。

さて在庫目録から出版社の数が三つ以上の都市を選んで、順番に並べたのが次の表である。

ドイツの出版社所在都市(出版社数の順)

出版社所在都市名    出版社の数    収録点数
1.ベルリン         25     859
2.ライプツィヒ       24    1321           3.フランクフルト      15      175
4.ニュルンベルク      15      154
5.ウィーン         13      123
6.ハレ           10      237
7.ハンブルク          9     176
8.コペンハーゲン        6      36
9.ゲッティンゲン        5     143
10.ブレスラウ          5     121
11.バーゼル          5      67
12.シュトラースブルク     5      35
13.アウクスブルク       5      31
14 チューリヒ         4     137
15.ケーニヒスベルク      4      22
16.ドレスデン         3     175
17.ブラウンシュヴァイク    3      62
18.エルフルト         3      24
19.ヴィッテンベルク      3      17
20.ミュンヘン         3      14
21.イェーナ          3      13
22.アルトナ          3      10

この表によると、105か所のうち、三つ以上の出版社があった都市は、わずか22か所しかないことが分かる。これは一都市に一つないし二つの出版社しかない所が、いかに多かったという事を逆に示しているわけである。また出版社の数と収録点数が比例関係にないことが分かる。これが著しいのが、とりわけフランクフルト、ニュルンベルク、ウィーンといった南ドイツ・オーストリアの古い都市である。これらの都市には当時なお沢山の出版社が存在していたが、その収録点数は、ライプツィヒ及びベルリンに比べると、極めて少ないことが分かる。これらの都市の出版社はこの時期にはあまり新刊書の出版をせずに、主としてドイツ中北部の出版社のオリジナル作品を翻刻出版していたからである。とはいえこれら三都市は何といっても伝統的な出版都市で、他の都市に比べればなおこの時期にも、新刊書をかなり出版していた事実も否めない。これと肩を並べているのが、中北部のハレ、ハンブルク、ドレスデン、ゲッティンゲン、ブレスラウそしてスイスのチューリヒである。

以上のことをもう一度まとめてみよう。出版社の数及び新刊書発行点数という二つの観点から、18世紀後半期の上位10位までの出版都市を、上から順に並べたのが次の表である。

十大出版都市(ニコライ在庫目録から見た)

1.ライプツィヒ 2.ベルリン 3.フランクフルト 4.ニュルンベルク
5.ウィーン 6.ハレ 7.ハンブルク 8.ゲッティンゲン 9.ブレスラウ 10.ドレスデン

いっぽうライプツィッヒ見本市カタログに載せられた新刊書の点数から上位10位までの出版都市をランク付けしたものが、次の表である。

十大出版都市(見本市カタログから見た)

1.ライプツィヒ 2.ベルリン 3.フランクフルト 4.ハレ 5.ニュルンベルク 6.ゲッティンゲン 7.ハンブルク 8.ウィーン 9.ブレスラウ 10.ドレスデン

ここでも見本市都市ライプツィヒの優位には確固たるものがある。次いでプロイセン王国の王都ベルリンが、プロイセン啓蒙主義のセンターとしての気をはいている。また古い商業都市フランクフルト、ニュルンベルク、ハンブルクは、啓蒙主義文献の仲介者としての役割を果たしている。そして新しい精神と啓蒙思想の牙城であったハレ、ゲッティンゲンといった大学都市も、出版面で啓蒙思想を普及することに貢献したことが分かる。当時翻刻出版が隆盛を極めていたウィーンも、新刊書の発行点数でかなりの地位を占めていたことが注目される。これは啓蒙専制君主ヨーゼフ二世の意向によって、新刊書を通じても啓蒙思想の普及が図られていたことを示すものと言えよう。

第三章 翻刻出版の花盛り

先に述べたように、ドイツの書籍出版販売界は18世紀から19世紀への変わり目ごろ、近代化への転換を遂げた。ところが北ドイツの出版界の近代化へ向けての改革運動に対して、南ドイツの帝国書籍業者は翻刻出版の大々的実行をもって応じたのであった。この翻刻出版の黄金時代は1765-1785年の二十年間といわれている。翻刻出版は北ドイツの書籍業者からは、「海賊出版」行為だとして非難されていたが、それ自体ドイツの出版文化に対してはマイナス面ばかりをもたらしたわけではなかった。そこでここでは、この時代の翻刻出版が抱えていた様々な問題を、その功罪を含めて考えてみることにしよう。

さて1785年6月28日付けのフランスの新聞「ジュルナール・ジェネラール・ドゥ・リューロップ」の記事は、書籍の海賊出版が18世紀にあっては、全ヨーロッパ的な現象であったことを示している。またイギリスのオリジナル出版社は、フランスのオリジナル出版社と同じ立場から、オランダやアイルランドに海賊出版社がいることを考慮に入れねばならなかったという。

またこのころドイツのフランクフルトで「翻刻出版業者年鑑」というものが発行されているのである。これはフランクフルトを盟主とする帝国書籍業者の間に、当時いかに多くのものが翻刻出版に携わっていたかという事を示す有力な証拠物件である。そしてこのころの南ドイツ・オーストリア一帯ほど、人々の文化的・社会的生活の発展にとって、書籍の翻刻出版が重要な意味もっていた所はほかになかったのである。ある意味では「翻刻出版の黄金時代」には、ドイツ書籍業界全体が、この問題を中心に動いていたと言えるぐらいなのである。翻刻出版は数十年間にわたって、法律家の学術論文の対象となったり、告発者と弁護者の間でパンフレットによる激しい論争が繰り広げられたり、文芸雑誌の繰り返される討論のテーマとなったりしたのだ。

翻刻出版の黄金時代

ライプツィヒを中心とするザクセン地方の書籍業者による、帝国書籍業者に対する「宣戦布告」によって、翻刻出版の黄金時代(1765-1785)は現出した。当時の帝国書籍業界の大部分にとっては、この翻刻出版こそは生き残るための「希望の星」だったのだ。実際問題としてライプツィヒの出版社が出してきた価格および取引の条件は、帝国書籍業界にとっては、とてものめるものではなかった。そのため帝国書籍業者たちは、北ドイツで出版された書籍を基にして原出版社に断りなしに新たな版型を作り、印刷をするという翻刻出版に踏み出していったのである。

同時にこれら翻刻出版社は、従来の書籍販売のルートである見本市に代わって、新たな販売方法を開発した。常駐の書籍販売商のいない地域では、彼らは製本業者、小規模書籍商そして小さな町や村をとことこ歩いて回る行商人をつかまえた。そのほか村の司祭、宮廷の家庭教師、学校の校長先生さらに学生にまで、書物の販売を委託した。この方法はことのほか成功を収めた。その結果翻刻本は、わずか数年の間に、従来の書籍商が決して入り込むことができなかったような、はるか遠方の片田舎にまで浸透するようになった。安い価格と最良の書物の選択が読者をひきつけた。それまで一生本を買うことなど考えもしなかった人も次第にちょっとした本の収集をするようになった。それまでは高価なゆえに「高嶺の花」だった書物を、ドイツの片田舎の人々が手にするようになったのだ。彼らは初めは翻刻版のちょっとした文庫に手を触れ、それらを通じて読書の習慣を身につけていった。しかしそれだけにはとどまらず、彼らの書物への熱望はますます強まっていった。そしてそれとともに彼らの読書への趣味・嗜好は一般的に洗練されていった。これは一口に「読書革命」といわれているもので、これについては後にもう一度詳しく見ることにしたい。

さてこうした読者層の拡大を背景に、翻刻出版はその黄金時代を迎えたわけであるが、次にそうした出版に携わっていた人々のことに触れることにしよう。前述した1765-85年という僅か20年の間に、ウィーンのトラットナー、フランクフルトのファレントラップ、そして南西ドイツ、カールスルーエのシュミーダーといった翻刻出版の「王様たち」が、大々的に翻刻出版のシリーズ・プロジェクトを展開した。中でもシュミーダーは、その名前から後に海賊出版することがドイツ語でschmiedernとも呼ばれるようになったぐらい、関係者や研究者の間では、悪い意味で有名な存在である。

とはいえこのシュミーダーもトラットナーと並んで、その出版プロジェクトを通じて、一種の国民教育的意図を実現しようとしていたことは認めねばなるまい。つまり彼は1774年、啓蒙期ドイツ文学の全集を企画・編纂したのであるが、そこには百科全書的な概観が与えられた。当時需要はなおわずかなものであったにもかかわらず、作家の選定に当たっては完璧を期したといわれる。シリーズのタイトルは「ドイツ作家・詩人選集」というものであったが、それは啓蒙期ドイツ文学の優れた概観を提供していた。これとは別にシュミーダーは、通俗作家や評価の低い作家の作品も扱ったりしていた。こうして1780年ごろ、シュミーダーの翻刻出版活動の第一段階は終わった。

純文学に対する読者の要望はオーストリア地域でも高まり、それへの充足が同様に翻刻出版の形で行われた。先に挙げたトラットナーは1765年、シュミーダーに先立ち純文学作家の作品の翻刻出版に踏み切り、以後次々に出版していった。ところがトラットナーは20年後の1785年には、非文学的で百科全書的な内容のシリーズ出版を企画した。そのプログラムは「学問のあらゆる分野を含む書物の廉価な調達によるオーストリア帝国における読書の一般的普及に関する計画」という、物々しいタイトルをもっていた。この1785年という年は翻刻出版の黄金時代の終末期に当たっていたが、このころになるとオーストリアの読書大衆は北ドイツ文学の代用品に飽きが来ていたのかもしれない。

とはいえ1765年のトラットナーの、そしてとりわけ1774年のシュミーダーの文学全集計画は、「読者の嗜好におもねっただけの安手の海賊出版」という、従来しばしば行われてきた非難が、必ずしも当たらないことを示している。そこで翻刻出版の対象となった作品はむしろ評価の定まったものであり、逆に翻刻出版されないような書物はオリジナル版の購入にも値しないものだ、という認識すら出てきた。こうして啓蒙期の優れたドイツ文学の作品は、南ドイツやオーストリアにあっても、関心のある人にはいつでも手に入れることができたのであった。

さて今までは南ドイツやオーストリアにおける翻刻出版について述べてきたが、北ドイツ地域でも、南ほど盛んではなかったにせよ、翻刻出版は行われていたのである。そしてこの北ドイツにおける翻刻出版こそは、北のオリジナル出版社にとって危険な要素とみられていたわけである。北ドイツ地域にも、正価販売の書籍が高すぎて手に入らない人々がたくさんいたからである。そのためこの層の人々が安い翻刻版に飛びつくのは、いわば当然のことであった。

たとえばウィーンの翻刻出版の王様と呼ばれたトラットナーは、東北ドイツのマグデブルクにヘヒテル、そしてヴォルフェンビュッテルにマイスナーという代理店を持っていた。また北ドイツのハンブルクのある郵便局員は、シュミーダーやフライシュハウアーの翻刻版を売っていた。そして東北ドイツ、ザクセン地方のドレスデンのタバコ業者は、手に入る翻刻版の100点を超すリストを、自分の店で配っていた。さらにこうした類いの翻刻版についての広告は、北ドイツのインテリ向けの雑誌の中にもみられた。こうした翻刻版の普及によって北ドイツのオリジナル出版社は、確かに利益の一部を奪われた。しかしそれは経営の存立を脅かすほどのものではなかった。とはいえ中北部のドイツ一帯へのへの翻刻本の進出によって、ライヒが始めた正価販売方式(返品権のない現金払いと低い割引率)を長期にわたって存続させていくことは困難になった。かくして帝国書籍業界が提示し、発展させた条件販売方式を、やがて中北部ドイツの書籍業者も採用することになったわけである。

ところで反対陣営から絶えず非難されていた翻刻版業者の法外な利益という事も、実際は事実に反するようである。常に引き合いに出される例のトラットナーは、200人の従業員と37台の印刷機を所有した企業主であったが、その活動の多くはオリジナル出版社としての業務に当てられていた。またベルリンの書籍業者F・ニコライは、彼の翻刻版業務が全体の出版活動のごく一部しか占めていないことを明らかにしている。さらに「翻刻版業界の帝王」などと呼ばれていたシュミーダーも、実はその経営は小規模なものであった。かれは1808年に出版業ををやめることになるが、その後の生活は決して贅沢なものではなかったという。そして1827年、彼は小さな王国の下級官房職員として死んだ。

翻刻出版に対する学者・作家の反応

それでは当時の学者や作家はこの翻刻出版の問題をどのように見ていたのだろうか。時代は少しさかのぼるが、17世紀バロック時代の小説家グリンメルスハウゼンは、その代表作『ジンプリツィシムスの冒険』の第四版の中で、海賊出版に対して異議を申し立てている。同様に教養あるシュヴァルツブルクの宰相フリッチュも、1675年に世に出した小冊子の中で海賊出版を非難している。
しかしイエナ大学法学部が1722年11月に出した鑑定書の中では、「何人も政府から特権をが認められない以上、著者も出版社も他人に対して翻刻出版を禁止する権利はない」との見解が示されている。この見解に従って南ドイツ、チュービンゲンのある印刷・出版業者は1744年、ヴュルテンベルクの領主から一定の条件付きで、翻刻出版の認可を受けている。

ところが海賊出版に対する評価には、時の経過とともに根本的な変化がみられるようになった。当初は印刷業者または出版業者だけが、海賊版の被害者だとみなされていた。しかしその後、精神的所有権に関する教説(今日問題となっている<知的所有権>の萌芽とみられる)が、相次いで出されることになった。つまり作品に対する著作者及び出版者の所有権は、その対価として作品の使用権をも含むものだ、とする考え方である。そしてこの考え方から海賊版に反対しているのである。ゲッティンゲン大学法学部教授G・C・リヒテンベルクになると、海賊版論難の調子は高まり、「闇印刷屋」とか「泥棒」といった表現すら用いているのだ。

いっぽう文学者のG・A・ビュルガーは、著者及び出版社のための保護機関を設立する計画を立てたが、これは実現しなかった。先にも紹介した作家のレッシングは「海賊出版業者は、自ら種をまかないで収穫だけをさらっていく者であり、その行為は恥ずべきである。ただドイツにはこの問題を解決するための有効な法律が存在しない」と嘆いている。さらに時代が下って1785年になると、哲学者のカントが『ベルリーナー・モナーツヘフト』という雑誌の中で、「海賊出版社の不法行為について」という文書を書いている。1791年には同じく哲学者のフィヒテが同様の試みをしている。また宮廷付き図書館司書のカイザーなる男は、レーゲンスブルクで発行された文書の中で次のように述べている。

「海賊出版社はリスクをもっぱら原出版社に負わせている。ある作品の成功の見通しがついた時に、海賊出版社はやってきて、原出版社から利潤の上前をはねているのだ。そして彼らは、結局失敗した投機には手を出さずに済んでいるのだ」

これに対して今日でもよく聞かれる海賊版擁護論もあった。それはつまり、海賊版によって書物ができる限り廉価に市場に出回ることは結構なことだし、社会的観点から見ても有益なことである、という考え方であった。この考えを表明したのは、A・F・v・クニッゲであった。彼は思想の所産が普及することに対しては、何人も異議をさしはさむことはできないとした。またC・S・クラウゼはルターを思わせるような考えを1783年に表明している。そして作家にとってその思想が、たとえ翻刻版を通じてであれ、広まることはむしろ望ましい事だと述べている。

1760年代の翻刻には、外観内容ともにオリジナル版と肩を並べるか、時には凌駕する者さえあったことは事実である。ところが1770年代も末になると、海賊版は全体として造本の点で見劣りし、魅力を失っていった。これは主として値段が安いことからくるのであるが、灰色のたるんだ紙の使用、粗末な造本、スペースを節約した印刷、そして数多くの誤植から、時として文章の意味さえ違ってくるものもあった。また元のテキストを自由に短縮したり、切断したりしての出版もあった。

このようなこと全てに対して、少なからぬ作家がふんげきしたのも無理からぬことであった。なぜなら彼らはその頃まさに目覚め始めた作家的自意識をないがしろにされたと感じ、また自分たちの精神的産物の不可侵性を無視されたと感じたからであった。

ところがこうしたあらゆるマイナス面にもかかわらず、翻刻出版には大きなプラス面があったことも、ここで繰り返し強調しておきたい。それはこの翻刻版を通じて初めて、北ドイツの作家たちの作品が、南ドイツないしオーストリア方面に知られるようになったのであり、そのことによって彼らは、当時急激に増大していた「新しい読者層」を獲得することができたからであった。

海賊出版がドイツで禁止され、近代的な版権・著作権の概念が確立するのは、ようやく1830年になってからのことなのである。

領邦国家の保護政策と翻刻出版

以上みてきたような翻刻出版の隆盛を考える場合に見落としてならないことは、国家の保護政策が果たした役割である。17,18世紀のドイツは、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国との間に複雑な関係があったが、実質的には大小無数の領邦国家から成りたっていたわけである。17世紀初めに導入された書籍の交換取引にしても、そうした無数の国々が発行していた通貨が、その内部でだけしか通用しなかったことからくるわけである。

それからドイツの領邦国家は17世紀にはいると重商主義思想の一変形ともいえるカメラリズムを、国家の政策の中心に据えるようになった。これは自国の通貨をできるかぎり国の外に流出させないことによって、富国策を図ろうとした当時の君侯中心の考え方であった。ドイツの大小無数の領邦国家やハプスブルク家のオーストリアは、輸出入管理法及び関税という手段によって、これを可能にしていた。これはつまりドイツ内部の地域的保護政策であるが、18世紀の後半になってもなお、このカメラリズムがドイツの書籍出版販売に影響を及ぼしていたのである。

書籍の取引が国と国との境を越えて行われるとき、17世紀初めから続いてきた交換取引の方式ならば、自国の通貨が外部に流出しないので、カメラリズムの政策にとって支障がなかった。ところが18世紀の60年代に入ってライプツィヒの書籍業者が始めた現金取引が、領邦国家のカメラリズム的地域経済政策に障害を及ぼすことになったのである。とりわけ南ドイツやオーストリアの書籍業者がライプツィヒ見本市で取引しようとすると、それら書籍業者が属する領邦国家の通貨を国外に流出させることになるからであった。こうした理由からそれらの国の君侯は、自国の金が流れ出ていくことがない翻刻出版を支援するようになったわけである。そうした君侯の意向を察知した翻刻出版業者の一人は、自分のところの君侯に次のような申し出をしている。

「翻刻出版というものは、帝国の諸国にとって極めて大きな政治的重要性を有する事業であります。(北ドイツで)重要な書物が出版されますと、様々なルートを通って金はザクセンへと流出します。しかし(翻刻出版を採用すれば)金は帝国内にとどまり、ザクセンとの貿易収支のうえで、私どもが失うことはないのです。つまり住民に食料を供給し、君侯の金庫には金を流し込むような新しい事業を起こす必要があるのです」

自国の住民が外国の独占業者からだまされたり、甘い汁を吸われたりするのを未然に防ぎ、「適正な」商品価格を維持することは、当時の領邦国家の当然の義務と考えられていた。こうした考えから、北ドイツのプロイセン王国政府ですら、1765年に次のような見解を表明しているわけである。

「もしある書物の本来の出版社が買い手を著しく傷つけた場合には、翻刻出版は許されるべきである」

こうした見解にもとづいて、ベルリン在住の書籍業者パウリは、作家ゲラートの作品の翻刻出版を許された。

とはいえ翻刻出版に最も熱心であったのは、オーストリアであった。18世紀半ばオーストリア書籍出版量は極めて少なく、もっぱら北ドイツ方面から輸入せざるを得ない状況にあった。このため例えばザクセン地方、ドレスデンの書籍業者C・G・ヴァルターは、1765年一年間に、オーストリアの書籍業者との取引で、4万グルデン以上の儲けを手にしたという。こうした状況を放置しておけば、オーストリアの金はどんどん国外に流出する一方であった。

そのため自国の書籍業者を翻刻出版へと誘うことは、まさに経済的理性の命ずるところであったのだ。啓蒙専制君主であったオーストリア女帝マリア・テレジアは、書籍業者トラットナーと初めて会見したとき、次のように言ったという。

「トラットナーよ、書物を生み出すことこそが、わが国家の原理です。それなのに目下わが国には、書物は少ないのです。ですから書物はどんどん印刷されるべきでしょう。オリジナル作品が出てくるまでは、翻刻出版を行ったらよいのです。翻刻出版するのです!」

こうして自国の翻刻出版を保護するために、オーストリア政府は該当する作品のオリジナル版の輸入を、意図的に許可しなかったのである。
同様の保護をバーデン辺境伯は、その所領内のカールスルーエ在住の例の書籍業者シュミーダーに与えたのである。さらに当時経済状態が部分的に極めて劣悪だった帝国直属都市(たとえばロイトリンゲンのような)にとっては、翻刻出版は「背に腹は代えられぬ」ものだったようだ。

国家の重商主義政策にとって、文化政策も一役買った。国家の財政負担をかけずに啓蒙思想を僻遠の地にまで広めるのに、翻刻出版は願ってもない存在だったのだ。マリア・テレジアの後継者のオーストリア皇帝ヨーゼフ二世にとっては、自分の抱いていた啓蒙思想の普及にとって、翻刻出版こそは不可欠の要素だった。彼は国内の学者陣営からの激しい攻撃をものともせずに、これを推進したのであった。
このヨーゼフ二世と同じ考えから、先のバーデン辺境伯やバンベルク司教、ヴュルツブルク司教などの啓蒙的諸侯は、翻刻出版を支持したのであった。南ドイツの大きな領邦国家のなかでは、ヨーゼフ二世の啓蒙思想が及んでいなかったバイエルン王国だけは事情が違っていて、そこにはわずかな例外は除いて、組織だった翻刻出版産業は見当たらなかった。

一般に南ドイツの帝国領域内の領邦国家の中では、いわゆる海賊版に対する苦情や訴えは、国から認めてもらえなかった。当時のドイツにあっては、そうした領邦国家こそが権力の保持者であったからである。そのため翻刻出版に対する保護も領邦国家の君主が認めればよいのだが、逆にそれは領邦を越えた書籍取引には役に立たなかった。こうした領邦主権の中では、改革派の書籍業者に対するザクセン王国政府の特権付与も、南ドイツのヴュルテンベルク王国における翻刻出版を妨げるものではなかったのである。

 

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その09 後期作品の特徴

研究者による高い評価

カール・マイは「オリエント大旅行」のさなか、その内面にそれまで経験したことのないほどの大きな衝撃を受けたわけである。想像力の限りを尽くして営々と築きあげてきた自らの虚構の世界と、自分の目で見た現実の世界との間に、この時亀裂が生じたからである。そしてその頃外部から、前期作品の文学的な質を問う声も出てきたことも加わって、マイはその作風を大きく変えることになった。

こうして生まれた後期の作品は数こそ少ないのだが、その文学的な質は研究者の間で高く評価されているのだ。後期の作品には、「銀獅子の帝国 3・4」、「そして地上に平和を」、戯曲「バベルと聖書」、「アルディスタンとジニスタン 1・2」、「ヴィネトゥー 4」そして自叙伝「わが生涯と苦闘」などがある。

『そして地上に平和を』

これらの作品は、自叙伝は別として、現実の地理的背景を持たない象徴的な内容の物語になっている。とはいえ前期作品の主なジャンルであった世界冒険物語の基本的な性格は、依然として受け継がれている。つまり見知らぬ場所の風景や環境の描写を背景にして旅の冒険が展開されているわけである。しかし地球上のある地域から出発しながら、その舞台はいつの間にか作者が頭の中で作り出した架空の地域に変貌したり、あるいは初めから遠い星の世界で物語が展開されたりしている場合もある。そのため物語の世界が、神話の国のような幻想性と神秘的な雰囲気を漂わせているのだ。

象徴的な作品「アルディスタンとジニスタン 1・2」

ここでは1909年に刊行された後期を代表する最大の作品「アルディスタンとジニスタン1・2」の内容を詳しく紹介することを通じて、後期作品の特徴を明らかにしていきたい。この作品はそれまで読者の間で人気の高かった世界冒険物語に属する作品とは違って、文学的により高度な精神的レベルへと自分の創造力を転化させようとしたものである。そのため作家のアルノ・シュミットは、この作品及び「銀獅子の帝国3・4」を、<ドイツの高級文学>を豊かにするものとして大変高く評価しているのだ。同時に彼はこれらの作品を通じて、マイを「ドイツ最後の神秘主義者」と呼んでいる。またジェームズ・ジョイス作品のドイツ語訳者であり、「カール・マイ学会」の主要メンバーでもあるハンス・ヴォルシュレーガーも、後期作品において前面に出ている哲学的思考に注目する一方、それらは美的感覚に満ちた作品だと称賛しているのだ。

さてこの作品の舞台はこの地球の上ではなく、伝説の星「シタラ」に設定されている。そしてその星の上に、アルディスタン、メルディスタンそしてジニスタンという地域を作り出し、そこに作家の頭脳から自由自在に紡ぎだされた地理や風土や人々を登場させている。とはいえ主要な人物としては、前期作品の世界冒険物語に再三再四登場させてきた、読者におなじみの人物たちが、従来とは全く違った姿で現れているのだ。つまり「オリエント・シリーズ」の主役たち、カラ・ベン・ネムジ、ハジ・ハレフ・オマール、マラー・ドゥリメーそしてシャカラの四人である。

物語の素材をシュールレアリズム化させるにあたってマイは、偉大なる先人作家たちの作品から強い刺激を受けたものと思われる。すなわちダンテの「神曲」、トーマス・モアの「ユートピア」、バンヤンの寓意物語「天路歴程」、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」そしてニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などである。

物語のあらすじ

『アルディスタンとジニスタン』第一巻の表紙

宇宙船「誕生号」に乗って星の国「シタラ」に到着したカラ・ベン・ネムジとその従者ハレフの二人は、この「星の花の国」の年老いた伝説的な女帝マラー・ドゥリメーを訪れた。そして高台の上にある彼女の宮殿の客人となる。女帝の支配領域は、広々とした低湿地と荒野の国アルディスタン及び明るい高地にある、豊饒と美と清潔の国ジニスタンの二つである。アルディスタンは暴力人間の国であり、ジニスタンは高貴な人々の住む国である。その一方の国から他方の国へ行くには、その中間に横たわっているメルディスタンつまりほとんど道らしい道がなく、岩がごろごろしている地峡地帯を通過しなけれならない。ちなみにこれらの国の「スタン」という語尾は、中東イスラム圏のアフガニスタンとかパキスタンといった国々の名称をほうふつとさせるものがある。

それはともかくこの「メルディスタン」の中心に「クルブ」という心の森があり、その森の中に人の魂を鍛える「魂の鍛練場」がある。そこへ入った者はさまざまな拷問によって試練を受ける。この試練に耐えられなかった者は、深い奈落の底にある沼沢地へと突き落とされる。いっぽう耐え忍んだ者は、あらゆる悪の要素や低劣な要素を清められて、高貴で威厳のある存在として人間性の国であるジニスタンへ送り込まれる。

さて女帝マラー・ドゥリメーは、アルディスタンとジニスタンの間に戦争が勃発したとの知らせを受ける。すると彼女は和平への特使として、カラ・ベン・ネムジとハジ・ハレフを、アルディスタンの支配者のところへ派遣する。この専制君主はアラブの首長に倣ってエミールを称している。この人物はその国民を苦しめ、虐待し、人権などは全く認めない。そして人々が逃げ出さないように、軍隊によって国境を厳しく監視させている。カラ・ベン・ネムジの使命は、この暴君の良心に訴えて、講和を結ばせ、ジニスタンで行われているような社会的公正と善良さに基づいた統治へと導くことであった。

主人公とハレフはその旅の途上、じめしめとした低湿地に住む巨人族ウスールに出会うが、策略を用いて巨人たちを退治して、手なずけた。ついで隣接した砂漠の国チョバンを通って、アルディスタンの暴君が邸宅を構えているアルドの町へ向かった。そしてその暴君と会見した。ところがちょうどその滞在中に、その地で謀反が起こった。「パンター(豹)」という名前の王子が、日頃圧政に苦しんでいたイスラム教徒の民衆の力を利用して、クーデターを起こしたのである。その結果、それまで忠実な家来だと思っていたパンターによって暴君は誘拐され、荒野の真っただ中にある「死者の町」に閉じ込められてしまう。そしてそのあおりを受けて、主人公とハレフもその廃墟の要塞都市に幽閉されることになった。

そこに長い間囚われの身となり、苦痛のうちに過ごすことになったアルディスタンの暴君は、やがて自分が犯してきた誤りに気が付いて、悔い改める気持ちになっていった。しかし新しい支配者となったパンターはかつての主人に対して、なんら同情の念を示すことなく、厳しい監視の目を光らせていた。そしてジニスタン軍との戦いに備えて、軍備の増強を図っていた。

いっぽう奇妙なことに、かつての暴君も主人公主従も、この「死者の町」の地底の闇の中で、囚われの身ながら、それぞれ一定の行動の自由を得ていた。そのため両者は様々な対話を行い、暴君も過去の数々の悪行を深く反省していく。そして主人公及び暴君がそれぞれ頭の中で考えたことが、あるいは独白の形であるいは対話の形で、延々と展開されてもいる。とはいえ優れた物語作家としてのカール・マイは、この作品においてもやはり複雑極まりないストーリー展開を繰り広げている。

第一巻、第二巻あわせて1200ページを超す長編小説でもあり、この場でそれらについて詳しく紹介していく余裕はないので、その結末へと急ぐことにしよう。やがてカラ・ベン・ネムジはその強力な精神的な影響力を発揮して、暴君を新しい人間へと生まれ変わらせるのに成功した。つまりクルプの森の中にある「魂の鍛練場」で、暴君は鍛えられて再生したのである。そして巨人族のウスールやチョバンやキリスト教徒民衆の支援を受けたうえ、さらにジニスタンの支配者から送られてきた援軍の力を借りて、ついにパンターを撲滅して、再びそこの支配者に返り咲いたのであった。こうしてかつての暴力支配者はいまや威厳と公正さを身に着けた「平和の君主」となり、アルディスタンの幸せのために尽力することになった。

この結末をもって二巻にわたる長編のユートピア小説は終わりを迎えた。しかしその長さにかかわらず、この物語は内容的には未完の書になっている。その結びの言葉は次のようになっている。

「我々はさらに歩みを続け、深く山々に分け入っていく。そしてその道はジニスタ
ンへとつながっている。我々はさらに高い目標に向かって、歩みを続けていくの
である。」

『アルディスタンとジニスタン』第二巻の表紙

物語の中に秘められた寓意

ところでマイは作品を文学的に高度で、精神的なものへと高めようとして、冒険物語に、より深い意味と比喩性を与えようとした。そして意識的に新しいスタイル、つまり登場人物の行動や物語の舞台あるいは小道具の寓意化と暗号化を試みた。かつて主人公を自分自身と同一視して痛烈な批判を受けたため、作者はこの作品では主人公である「私」を、「人類の魂」とか「世界平和の理念」といったものへの寓意化に機能転化したのである。

『アルディスタンとジニスタン』は極めて複雑な内部構造をとっているため、そこに描写された外的行動や個々の登場人物あるいは様々に起こる出来事の中から、作者が用意した寓意を読み取るのは、一般の読者にとって容易ではない。またそうした寓意のために、ストーリーの持つ首尾一貫性や実際の行動が示す緊張感が損なわれているというマイナス面もある。そのため前期の世界冒険物語を夢中になって読んできた読者の多くが、後期の作品から離れていったのであった。

そのいっぽうで作者が仕掛けた寓意をめぐって、多くの研究者が様々な解釈を発表してきた。しかし物語に登場するいろいろな人物や出来事あるいは「天使の像」、各種の建築物、様々な風景などが持つ寓意を解き明かすことは容易ではないのだ。とはいえこの作品を覆いつくしている謎めいた神秘的な雰囲気こそが、詩的な魅力となっているわけである。先に挙げた研究者のヴォルシュレーガーによれば、この作品に含まれている解き明かすことのできない謎と非合理性は、作者が若いころに受けた、精神分析で言う、「精神的外傷」に基づいているという。

マイはまた、寓意の意味を解くカギを、別の作品「銀獅子の帝国3・4」や自伝の中に収められた「シタラの伝説」あるいは死の直前にウィーンで行った講演「高貴な人間の住む天空に向かって」などに隠しておいた。そうした暗示に従えば、この作品には、二つのテーマが隠されていることが分かる。一つは個々人の存在と生成の問題ならびに野蛮な暴力人間から高貴な人間への発展の問題である。もう一つは、いつか本格的な戦争が始まるかもしれないという不安を解消して、世界の恒久平和を確立することが重要である、という作者の強い願望の念である。これはこの作品が書かれた1909年という年が、第一次世界大戦勃発(1914年)前の局地的紛争や小競り合いに彩られた不安に満ちた時代であったことと関係があろう。

この作品に登場している人物は、生成発展する現実の出来事の中に積極的に関与し、行動し、政治的な動きも見せるのである。そうした中で、結局は、「精神」の具現者であるカラ・ベン・ネムジによって計画されてきた「世界平和の理念の確立」という目標に向かって、すべての人々が動いていったわけである。

神秘主義のヴェールに包まれた詩的な作品

とはいえ、そうした過程にあって、魔術めいて神秘的な地下の冥府の力が働いていた。主人公一行は、巨人族の住む低湿地帯から二つの海に挟まれた狭い地峡地帯を通り過ぎ、乾いた砂漠地帯へと入っていく。そしてそこにそそり立つ巨大な天使像の中に、大きな地下の泉を発見する。その後神秘的な「死者の町」に入った一行は、罠にはまって地下の奥深くに閉じ込められる。

その後も波乱万丈のストーリーが展開されていくのだが、一連のファンタジーに満ちた叙述を通して、作者マイは「夢見がちな」世界の光景を描き上げている。そうした叙述は、言語表現の上で極めて洗練された境地に達している。その意味で『アルディスタンとジニスタン』は、マイのポエジーつまり詩的な能力が頂点に達した作品だという事ができよう。1200ページを超えた長編の叙事詩でありながら、そこには抒情詩的な魅力もふんだんに含まれているのだ。

この遠い「星の花の国」シタラで展開される恍惚の物語を書いていたころ、マイは新聞・雑誌などによる非難攻撃の矢面に立たされ、また長くつらい裁判にも巻き込まれていた。この物語が、初め『ドイツ人の家宝』という雑誌に掲載されたとき、長年この雑誌を通じてマイ作品を愛読してきた一般読者の多くは、この作品に対して苦情を訴える手紙を寄せたのであった。つまり難解過ぎてついていけないというわけなのだが、そうした苦情は殺到して、ついには雑誌の予約購読を取り消す人も現れた。こうして『ドイツ人の家宝』の発行部数は減り、出版社はマイに対して、こうした難解な実験はやめるように警告した。とはいえこの作品の掲載は、最後まで続けられはした。

前期の数々の冒険物語の愛読者が、後期作品を敬遠するという事情は、マイの生前の時代も現在も変わりない。そのいっぽうでマイ作品を研究している人々、とりわけ1969年に西ドイツで設立された「カール・マイ学会」に所属する研究者によって、マイの後期作品がいわば再発見されて、高く評価されるようになったわけである。この学会は、マイの全ての作品を取り上げて、批判的・学問的な研究の対象にしてるもので、けっして後期作品だけを扱っているわけであはない。

しかし先に挙げた現代作家アルノ・シュミットや、「カール・マイ学会」所属の評論家ヴォルシュレーガーなどの努力を通じて、今日、ドイツの読書界で、カール・マイの後期作品は、ドイツの高級文学の流れの中に置いていいもの、という評価が定着しいているのだ。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その07 その社会的影響(カール・マイ現象)

 「社会現象」になったカール・マイ

カール・マイはその生涯に膨大な分量の作品を書きあげた作家であったが、その影響は、単なる文学的な次元を超えて、広く社会的な性質を帯びていた。

戦後の西ドイツを代表する高級週刊誌『シュピーゲル』(社会を反映する<鏡>という意味)は、1960年代に、マイに関して特集記事を組んだ。そこでは、カール・マイは単なる人気作家であるにとどまらず、社会全体に広範な影響を及ぼしてきた、ひとつの「社会現象」である、と指摘された。この週刊誌は、そのレベルが非常に高く、広く政治、経済、社会、文化にわたって、鋭い論調を展開してきた。その主な読者層は、広範なエリート層であるが、この特集記事は、社会批判的な立場から、カール・マイを高く評価するものであった。そのためマイの作品を読んだことのないインテリ層に対しても、改めてこの作家への関心を呼び起こしたのであった。
1990年のドイツ再統一後も、この雑誌は健在である。

       ドイツの高級週刊誌『シュピーゲル』の表紙
2012年3月19
日号(カール・マイ特集号ではない)

しかしこの『シュピーゲル』の特集記事に先立ち、「カール・マイが一つの社会現象である」と言い出したのは、マイの先駆的な研究者であるハインツ・シュトルテであった。このブログの「カール・マイの生涯」の中でも述べたように、マイがその成功の頂点にあったころ、熱狂的なファンの間で幾つもの愛好会が作られていた。彼らはインディアンやアラビアの酋長の格好をしてマイを取り囲んで楽しんでいた。

また戦後の西ドイツ(再統一後には東独)でも、子供たちはマイの西部ものの影響で、カーニヴァルの仮装にインディアンの衣装を好んで身に着けたりしている。さらに北独のバート・ゼーゲベルクやエルスペでは、マイの作品を基に、毎年野外劇が演じられている。私も1983年に、子供たちを連れてその野外劇を見に行ったものである。またマイ作品の映画化やテレビ化(ビデオやDVDでも)は、数えきれないほど。また耳で聞くドラマの形で、数多くのレコード(CD)も販売されている。物語の主人公やわき役などのフィギュアや関連グッヅも、本屋に置かれ、その大衆的人気にこたえている。

いっぽう本来の書物のほうも、ドイツでは広く国民の間に浸透していて、復活祭やクリスマスのプレゼントとして、子供たちに贈られているのだ。さらに青少年時代に読んだカール・マイ作品は、家庭の書棚に数多く並べられていて、大人になってから読み直されているという。つまりマイの作品は、聖書に次ぐほどの人気なのだ。

カール・マイ出版社から刊行されている「バンベルク版」全集は、私が入手した1970年代半ばには74巻であったが、2009年には93巻に達している。またマイ没後50年たった1963年以降は、その著作権が消滅したため、廉価なポケット・ブックの全集も、様々な出版社から発行されている。それらを合計すれば、総発行部数はいったいどれほどになるのであろうか。

他方、外国語への翻訳に目を向けると、すでにマイ生前の1883年にフランス語に翻訳されたが、その後英語、オランダ語、スペイン語、チェコ語、イタリア語、ロシア語など周辺のヨーロッパ諸国の言語にも、次々と翻訳されていった。そして遠く中国語やわが日本語(私および他の3人の翻訳者による)にも翻訳されている。2006年現在で、合計35か国語に翻訳・刊行されているのだ。

     中国語版のマイ作品(第6巻)の表紙(1999年発行)

19世紀の他の多くのドイツの大衆作家がいまや忘却の彼方に消え去っているのに比べて、マイが今日なお、生前にもまして広く世界で読み継がれているのは、まさに驚嘆すべきことであろう。こうした作品受容の広がりと、それに付随したもろもろの社会的現象を含めて、一口に「カール・マイ現象」と呼ばれているわけである。

 カール・マイへの評価(賛否両論)

以上述べてきた絶大な人気の傍ら、ドイツでは昔から、青少年に与える教育面での影響が、一般に問題とされてきた。この点に関しては、これまで肯定と否定、賛成と反対の意見が真っ向から対立してきたといえる。先に挙げたマイ研究者シュトルテは、1970年ごろに書いたものの中で、次のように述べている。
「この数十年間ドイツでは、評論家、ジャーナリスト、政治家、教育学者、教師、図書館司書など、ありとあらゆる人々が、マイをめぐって賛否両論を表明してきた。そして新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどを通じて、再三再四論争が繰り返されてきた。そこで反対陣営が強調しているのは、マイに夢中になって勉強をおろそかにすることへの心配である。彼らはマイとその作品から、まるで悪魔のように遠ざけようとしてきた。それにもかかわらず青少年は、あるいは教室の片隅で、あるいは家のどこかで、夢中になってマイ作品を読みふけったのである」

マイに対する評価は、青少年への教育的影響に限らず、その全般にわたって、賛否両論が対立してきた。それを図式化すると、次のようになる。ある人が「天分ある青少年向け作家」といえば、他の人は「青少年をだめにする人間だ」と答える。左派からは「帝国主義の産物」と批判されるかと思えば、右派からは「ドイツ魂の典型」と称えられる。また「真の長編作家」と呼ばれる反面、「生まれながらの犯罪者」と非難される。「労働者階級の敵」という声には、「時代の枠を抜け出したプロレタリア」という反論がなされる。「三文小説の文士」という人もいれば、「千夜一夜物語に匹敵する物語作家だ」とほめちぎる人もいる。そして「ナチス突撃隊の教師」という言葉には、「世界平和運動と平和主義の先駆者」という言葉が返される。「素朴な国民的作家」という軽蔑的な言葉が発せられると、「いやマイこそはドイツ文学最後の偉大な神秘主義者だ」という反論が出てくる、といった具合なのだ。

 「マイは現代のメルヒェン作家」

以上、マイに対する賛否両論を標語として列挙してきたが、ここでマイを偉大なる「現代のメルヒェン作家」と称揚している先駆的なマイ研究者ハインツ・シュトルテの肯定的評価をご紹介することにしよう。彼は「犯罪とファンタジー」について、次のように考察しているのだ。

「かつて放浪者として警察の追及を受けた教師の犯罪と、のちの作家の華麗な冒険の世界との間には、直接的な関係が存在するのだ。両者は同じ精神的源流から流れてくるものである。・・・生まれながらの詩人作家そして自分の抱いた夢のとりことなった人物は、しばしば犯罪の暗闇へと道を踏み誤ることがある。・・・天才的な空想力の持ち主である詩人は、市民社会や無味乾燥で制約の多い職業生活に適応する能力を欠いているため、しばしば打ちひしがれる。

そうした例は、かのホメロスに始まり、シェイクスピア、クライスト、ヘッベルからトーマス・マンにいたるまで、枚挙にいとまがない。・・・新しいフランス抒情詩の偉大なる開拓者であるフランソア・ヴィヨンは、一連の天才的犯罪者の先鞭をつけた人物でもあった。偉大なるセルヴァンテスは悲喜劇的な騎士ドン・キホーテに関するヴィジョンを、牢獄の中で手に入れた。カサノヴァはヴェネチアの獄舎に入れられた。マルキ・ド・サドはかの悪名高いバスチーユ監獄に、ドストエフスキーはシベリアの<死の家>にいたが、これらはいずれも世界文学の有名な一章に属することである。

同様にしてカール・マイも、夢想家で精神的な夢遊病者そして極めて創造力にとんだイマジネーションの持ち主であった。それは地獄への道を踏むべく運命づけられていた。しかしその天才的な夢見る力は、成熟するに及んで、文学創造という正しい道を見出すことができたのである。・・・マイの書いた物語の多くは、かつては素晴らしく驚きに満ちていたが、その後世界の変転と技術的進歩によって、はるかに追い抜かれてしまったかに見える。すでに人類は月にまで到達してしまった。それなのにマイの冒険談の中では、人々は自動車も電話も通信機も知らないのだ。人々は馬やラクダにまたがって、苦労して旅をした。連発式ヘンリー銃が魔法の兵器として、驚きをもって受け取られていた。それにもかかわらず、これら全ては決して古びてはいず、読者の空想力を十分かき立てるのに役立っているのである。この事はどのように説明されるべきであろうか。

カール・マイは、時の流れに流されないものを作り出すのに成功したのだ。それはまさしく<メルヒェン(童話)>と呼ぶことができよう。・・・かつて民衆向けの童話は、夕べの一家団欒の中心として、糸つむぎ部屋の中や村の菩提樹の下で、口から口へ、世代から世代へと読み継がれていった。しかしこうした世界は今や、はるか過去のものになった。技術や交通といった現代生活のあらゆる形式が、古き良き時代の共同体にとってかわった。そして民衆向け童話は語られなくなった。

しかし民衆向け童話が消えたところに、民衆(国民)文学が登場してきた。古典作家たちの高級な作品と昔の民衆向け童話のちょうど中間の領域に、民衆(国民)文学が現れたのだ。そこではかつてのメルヒェンが、新しい衣装をまとって存続することが許されたのだ。カール・マイの緑色版を眺めていると、すでにその表紙の絵から、そこに登場する世界が童話の世界であることが分かる。この文学ないし精神の中間領域において、カール・マイは<民衆(国民)作家>になったのである。彼において古い<童話の魂>は、今一度、その驚くべき性能を発揮したのである」

忘却の危機からマイ復活へ~カール・マイ出版社の歩み~

1912年3月、カール・マイが死んだとき、その大衆的人気は地に落ちていた。そしてそのままいけば、他の大衆作家と同じように、永遠に忘れ去られる運命にあったかもしれない。その運命を大きく変え、作品を永続化させる契機をつくったのが、若き法律家オイヒャー・シュミットであった。子供のころからの熱心なマイ愛読者であったシュミットは、新聞・雑誌などを通じて非難攻撃され、また裁判沙汰に巻き込まれていた晩年の作家を、何とかして救いたいと思っていた。

       オイヒャー・シュミット(1884-1951)

その意思を伝えるために彼はマイに手紙を出し、1910年の夏つまり作家の死の二年前に、ラーデボイルの屋敷を訪れた。そしてその翌年マイはクラーラ夫人と一緒に、シュトゥットガルトのシュミットの家に出向いた。その時作家は直々に「あなたに私の作品のすべてを出版してほしい」と頼んだ。この言葉がカール・マイ出版社誕生の契機だったと言えるのだ。そして同出版社のその後の尽力がなければ、今日の「カール・マイ・ルネッサンス」は考えられなかったかもしれない。

1910年、マイ作品の年間の総発行部数は7万7千部だったが、1911年には3万6千部に減り、1913年には1万4千部へと谷を下る勢いであった。当時マイ作品の多くは、フライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行されていたが、その有能な出版社主をもってしても、この退潮を食い止めることができなかった。

こうした状況の中で、夫の死後、未亡人のクラーラ・マイは、先にシュミットに向かって夫が語った言葉を思い出した。そしてその実現の手立てを相談した。その結果、フェーゼンフェルト、マイ未亡人そしてシュミットの三人で「カール・マイ出版社」が、1913年7月、ラーデボイルに設立された。その経営責任者としてシュミットが同社を切り盛りしていくことになったのである。

この若き経営者はその販売戦略として、拡大方針を打ち出した。それはフェーゼンフェルト社から刊行されていた緑色の装丁のフライブルク版『世界冒険物語』全33巻を基本にして、他のもろもろの作品や未発表原稿を、その中に取り入れて、新たにラーデボイル版の「カール・マイ全集」を作るというものであった。しかし翌年に始まった第一次大戦のため、印刷用の紙不足となり、全集刊行は困難な状況に陥った。それでもシュミットは新たな全集の第34巻として、マイが晩年に書いた自伝「わが生涯と苦闘」を、「私」というタイトルで1916年に刊行した。この自伝には、マイが当時陥っていた精神的苦境と時間不足のために、かなりの誤りが含まれていたため、それらを修正する作業が行われた。そして第35巻から第41巻までは、以前ウニオンドイツ出版社から出されていた「青少年向け作品」が収録された。その版権取得にあたっては、かなりの高額を支払ったという。

その後1920年代になって、カール・マイの人気は回復していった。そしてすでに高齢となっていたフェーゼンフェルトは、出版社から身を引き、それ以後はオイヒャー・シュミットが、名実ともに出版社を率いていくことになった。彼は同社の仕事を手伝っていたカタリーナ・バルテルと、1921年に結婚した。彼女は夫の死去まで忠実に出版社の業務を補佐していった。そしてこの結婚から生まれた4人の息子たちのうち3人は、それぞれ一定の年齢に達してからは、出版社の仕事に従事していったのである。1920年代は、インフレと経済危機の時代であったにもかかわらず、マイ作品の売れ行きは上昇傾向をたどった。そして新しい作品を全集の中に取り入れていく作業は、順調に進んでいった。

1933年1月にヒトラーが政権を握って、第三帝国の時代になった。ヒトラー自身熱烈なカール・マイの愛読者であったが、出版社にとってはこのことはかえって面倒なことだったようだ。それでも社主のオイヒャー・シュミットは、持ち前の巧みな才覚と外交的手腕を発揮して、ナチス側からほとんど邪魔されずに、同社を運営していくことができたという。そして第二次大戦が勃発した1939年には、全集は65巻に達したのであった。

しかし大戦末期の1943年には、マイ作品の製作(印刷や製本)を行っていた出版都市ライプツィヒへの連合国側の爆撃が激しさを増した。そして関連施設や書物を保管していた倉庫も著しい損傷を受けた。さらにカール・マイ出版社のあるラーデボイルに近い大都会ドレスデンも、1945年2月に大爆撃を受け、その町の倉庫に保管されていたマイ作品の多くは損なわれてしまった。

 第二次大戦後のカール・マイ出版社

それらの都市があったドイツ東部地方は、戦後ソ連によって占領されたが、カール・マイはソ連流の社会主義体制に合わない存在となった。カール・マイ出版社はマイ作品の発行を許可してくれるよう、あの手この手を尽くしたが、許可は得られなかった。

長男のヨアヒムは書籍販売の専門教育を受けていたが、1945年に出版社の幹部社員になった。彼は直ちにドイツ西部地区への移転を考え、父親オイヒャーの生まれ故郷バンベルクに、1947年7月、まずはカール・マイ出版社の支社を設立した。そしてそこで、伝統ある緑色の装丁の「カール・マイ全集」の発行を行うことになった。1951年7月、創立者のオイヒャー・シュミットが事故でなくなった。そのためヨアヒムが社長に就任した。

その後東ドイツの社会主義体制がずっと続く見通しになったので、ラーデボイルに残っていた出版社の機能を廃止し、カール・マイ出版社はバンベルクだけになった。そこでは戦前にラーデボイル版として発行されていた65巻のマイ作品が受け継がれた。そのうえで、いろいろな雑誌などに掲載されていた作品や未発表原稿などを基に、第66巻以降の刊行が続けられた。

その際文学的な才能に恵まれていた四男のローラントが、文章の修正作業に当たった。こうして第66巻から第70巻までが刊行された。いっぽう三男のロタールは、長男のヨアヒムを補佐する形で経営に参画した。そして販売や版権問題の面で、尽力した。

1960年には姉妹会社のウスタッド社が、カール・マイ出版社に合併された。さらにラーデボイルでマイがその晩年を過ごした邸宅「ヴィラ・シャターハンド」の総財産、とりわけ貴重なマイの図書室と書斎を、カール・マイ出版社が獲得した。そしてそれらはバンベルクの出版社のそばに建てられた「カール・マイ博物館」の中に、移築された。(これらはドイツ再統一後の1994年に再びラーデボイルの邸宅の中に戻された。

          バンベルクのカール・マイ博物館の外観

    博物館内に移築された図書室(書棚及びマイと妻クラーラの胸像)

1960年、ウィーンのカール・ユーバーロイター出版社が版権を得て、廉価なポケットブック版によって、「カール・マイ全集」と同じ内容の全集を出版し始めた。これによってマイ作品の普及はさらに進んだ。いっぽうカール・マイ出版社の伝統的な緑色の全集は、74巻に達した。私がカール・マイの存在を知って、書店から全巻を購入したのは、この74巻だったのだ。

さらに1970年代から80年代にかけて、「カール・マイ全集」のほかに、昔のウニオン出版社の青少年向け作品や、そのたの個別作品のリプリント版が刊行されていった。そしてフライブルク版全33巻のオリジナルテキストのリプリント版が、新たな校閲と解説をつけて、1982年から84年にかけて発行された。それらはマイ研究者や熱烈なマイ愛好者向けの豪華限定版であった。

ドイツ再統一の年1990年に四男ローラントが死去し、その後長男ヨアヒムが高齢のため経営から手を引いた。そして三男のロタールが社長になり、その息子のベルンハルトが補佐する形で、1993年に出版社に入った。この年から二人の共同作業によって、いろいろな雑誌に掲載されていた作品や未発表の原稿、そして幾多の関連資料や往復書簡などを編集して、「カール・マイ全集」の中に収録する作業が急ピッチで進められていった。

2003年7月、カール・マイ出版社の創立90周年を祝う祝賀行事が、バンベルクのホテルにおいて、大々的に行われた。そこでは記者会見、スライドやフィルムの上映、マイ作品のオークション、研究者によるシンポジウム、展示会のほか、大勢の招待客を集めて、盛大な祝賀パーティーが開かれた。その席で社長のロタール・シュミットは、90年にわたる同社の歴史を振り返って、挨拶を行った。その際父オイヒャーが苦難の渦中にあったマイを助け、弁護したことにより、作家の遺志を受け継ぐ形で出版社を設立したことを強調した。そしてロタールの息子ベルンハルトは、同社の未来への展望を語ったのである。

2010年の夏、私は全く久しぶりに、南ドイツの古都バンベルクに、カール・マイ出版社を訪れ、旧知のロタール及びベルンハルト・シュミット父子に再会して、旧交をあたためた。

 ロタール(右)及びベルンハルト(左)シュミット父子と私(中央)

その前年の2009年には、「カール・マイ全集」は93巻に達した。そしてカール・マイ没後百周年の記念行事が、2012年3月に盛大に行われた。これに私も参加したが、その時の様子について、ブログの01「没後百年祭に参加して」で、詳しく報告している。その少し前にロタール・シュミットはなくなった。そのためこの時は、息子のベルンハルトと再会した。そして彼の主催によって、2013年にカール・マイ出版社の創立百周年が大々的に祝われたのであった。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(06)

その06 全作品の概観

カール・マイはそのおよそ35年におよぶ作家活動(1875-1910)を通じて、実に膨大な作品を執筆した。そしてその多くを当時存在したあらゆる出版メディアに、次々と発表していった。その間に書いた作品は、その種類が多岐にわたっていたのと同時に、発表の仕方や発表の場もさまざまであった。それは、とりわけ19世紀ドイツにおける出版物の出版及び販売の方法と深くかかわりがあった。そして世紀半ばからの産業革命の進展や政治・社会体制の変革とも連動していたのだ。

ところでマイの場合、大衆作家としては珍しく、その死後も忘却のかなたに葬り去られることはなく、生前未発表・未整理の原稿を含めて、おおむね全ての作品が発刊されてきた。そのため現在我々は、ほぼすべての作品を概観できる状況にあるのだ。その際手掛かりになるのは、もっぱらマイの作品を刊行している「カール・マイ出版社」の全集及び同社が所有している膨大な資料、ならびに「カール・マイ学会」が刊行している定期的な小冊子や年報(学会誌)そしてその集大成ともいえる「カール・マイ・ハンドブック」などである。

そこで私としては、その膨大な作品を、出版メディアとのかかわりにおいて形態的に分類して、概観することにしたい。ただその前に、マイが手掛けた作品が、いったいどんなジャンルのものであったのか、一応分類して、一瞥することにする。

ジャンル別の作品の分類

1 世界冒険物語
a   波乱万丈の冒険物語
b   象徴主義的な後期の作品
2 青少年向け冒険物語
3 分冊販売長編小説及び初期長編小説
4 初期の小品と単独の物語
a 滑稽小説、ヨーロッパの歴史物語
b マイの故郷の村の物語
c  その他の冒険小説
5 戯曲、抒情詩、音楽作品
6 自伝的作品

出版メディア別ないし刊行形態別の分類

第1節 雑誌、民衆カレンダー、新聞

まずカール・マイが作家活動を開始したころのドイツの雑誌文化に目を向けてみよう。1848年の三月革命以降、ドイツでは交通手段が発達し、また法的な規制が緩む中で、数多くのポピュラーな娯楽雑誌が市場に出回るようになった。これらの非政治的な週刊の家庭向け雑誌は、読者に娯楽と教養を提供していたが、やがてその発行部数をぐんぐん伸ばしていった。それらの雑誌は、はじめ行商人によって配達されていたが、後にはこれは郵便に代わった。

そこにはポピュラー・サイエンスの記事、なぞなぞ、連載小説、読者からの便りなどが掲載され、イラストや写真がふんだんに盛り込まれていた。そして連載小説はこれらの雑誌の中核的存在に位置付けられ、宣伝価値のある有名な作家に執筆を依頼していた。当時の慣習として、家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、作家の評判を傷つけることにならなかった。そして作家に、経済的な利益をもたらすものであったのだ。

マイは社会的活動を始めた初期のころ、これらの雑誌の編集に携わっていたが、自らの作品もそこに掲載してもらっていた。『ドイツ家庭雑誌』に6編、『立坑と精錬所』に1編、『炉端での夕べのひと時』に3編そして『楽しいひと時』に12編の作品が掲載された。また雑誌編集者をやめてフリーの作家になってからは、作品の数は急速に増え、1880年までの3年間に46編も掲載された。

それらの作品の内容は、ジャンル別分類の4「初期の小品」に属するものである。そこのb「村の物語」というのは、マイの生まれ故郷である東部ドイツのエルツ山地の村を題材とした短編の物語である。それらは明るく、牧歌的な環境の中で展開されており、おおむね軽快でユーモアに満ちたものになっている。こうした要素は当然のことながら、滑稽小説の中心を占めているが、のちに執筆するようになった長編の冒険物語の中にも、波乱万丈の活劇や背景の情景描写などと程よいバランスで織り込まれている。

やがてマイにとって重要な位置を占めるようになったのが、南独レーゲンスブルクのプステット社から発行されていたカトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』であった。この雑誌は北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して、1874年に創刊されたものであった。
ここでドイツにおける宗教事情を一瞥すると、16世紀における宗教改革以降、幾多の騒乱を経て、おおむね南部・西部地域がカトリック、東部・北部地域がプロテスタントという風に、色分けされるようになった。マイは東部ドイツで生まれ、元来プロテスタントの家系であったが、やがてカトリックに傾いていったのである。

     カトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』

さて、それまでいくつかの雑誌を転々としてきたマイであったが、1879年に『ドイツ人の家宝』を発行していたプステット社との間に、永続的な契約を結んだ。そして1899年まで、マイはかねて計画していたジャンル「世界冒険物語」に属する作品を次々と発表していったのである。やがてそれらの物語は人気と評判を呼び、マイ及び雑誌の名前は宗派の垣根を越えてドイツ全国に知れ渡るようになった。
それらはジャンル別の作品分類では、1世界冒険物語のa波乱万丈の冒険物語に相当するものである。

いっぽう1890-1909年の間、マイは作品発表の場として、「民衆カレンダー」とか「マリア・カレンダー」とか呼ばれていた印刷物を利用していた。これは16世紀に起源をもつマリア信仰を基にした地方農民向けの出版物であった。日付を伝える本来の「暦」としての目的のほかに、読者の要望に応じて、薬の処方箋や農業上の助言、さらに歌謡、逸話、冒険物語などが掲載されていたのだ。プステット社からも、「マリア・カレンダー」が刊行されていて、マイはこれにも自分の作品を発表していた。

           マリア・カレンダーの表紙

一方、19世紀から20世紀への転換期のころから、マイの作品とその人物をめぐって盛んに論争が繰り広げられていたが、そうした渦中にあって日刊新聞や週刊新聞が、マイにとって重要な発言の場となった。彼は論争及び自己弁護の文章を、こうした新聞に発表したのである。またマイに好意的であった新聞には、晩年に書かれた「世界冒険物語」が掲載たりもした。その一つとして最晩年の作品「ヴィネトゥー4」が、「アウクスブルガー・ツァイトゥング」に連載されたのが注目される(1909-10年)。

第2節 分冊販売小説

マイはその創作活動の比較的初期の一時期(1882-87年)、ドレスデンのミュンヒマイヤー社から5巻に上る大長編小説を、分冊販売小説の形で発表した。(ペンネームまたは匿名で)。これはドイツ語で「コルポルタージュ・ロマーン」と呼ばれているもので、1冊が大八つ折判で平均24ページという薄い小冊子を、毎週連載小説の形で発行していくものである。そしてその連載は100回以上の分冊になって続いたため、それが完結すれば、1巻が全部で2400ページにのぼる大長編小説になったのである。

主として経済的な生活保障の観点からマイが大量生産した「コルポルタージュ・ロマーン」は、元来は行商人が村の奥までは配達して歩いていた娯楽本を指していた。そしてこの方式が19世紀に、フランスからドイツに入ってきて、マイがせっせと分冊販売小説を書いていた1880年代は、この書籍行商業の最盛期にあたっていたのである。ちなみに1860年から1903年の間に、ドイツ全土で、年間500編の分冊販売小説が出回っていたといわれる。

次にマイが書いた5巻の小説の題名、発行期間及び分冊の回数を記すと、以下のようになる。1『森のバラまたは地の果てまでの追跡』(1882-84年、109回)、2『放蕩息子または哀れな君主』(1883-85年、101回)、3『槍騎兵の恋』(1883-85年、108回)、4『ドイツの心、ドイツの英雄』(
1885-87年、109回)、5『幸運への道』(1886-87年、109回)。

第3節 青少年向け雑誌

これは雑誌の一種には違いないが、マイにとって特別な意味を持っていたので、ここに一項を設けて扱うことにする。具体的には青少年向けの絵入り雑誌『よき仲間』が、これに該当する。この雑誌はシュトゥットガルトのシュペーマン出版社から1887年1月に創刊されたものである。その編集方針として、青少年に健全な読み物を提供することが示されていた。そしてこの編集方針に沿って、当時人気上昇中の作家カール・マイに、この雑誌への連載が委嘱されたわけである。

             雑誌『よき仲間』の表紙

この時初めてマイは作家としての使命を自覚したという。つまり元教師であったこの作家は、青少年のために教育的で、しかも無味乾燥に陥らない作品を書くことが自分に課せられた使命ではないかと考えたのである。それ以後彼は、分冊販売書小説の執筆はやめ、これに全力を注いだのであった。こうして1887年から1897年までの間に、いくつかの短編作品のほかに合計8編に上る、いわゆる「青少年向け作品」が、雑誌『よき仲間』に掲載されたのであった。

この一連の作品は質的に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられるものである。これらの作品は外国を舞台とした旅行冒険物語であるが、主人公が三人称になっている点が、「世界冒険物語」とは異なっている。そのため研究者の間で、「青少年向け作品」というジャンルに分類されているものである。

それらの作品を列挙すると次のようになる。(1)『熊狩人の息子』、(2)『リヤノ・エスタカードの幽霊』、(3)『名誉をかけた誓い』、(4)『奴隷の隊商』、(5)『シルバー湖の宝』、(6)『インカの遺産』、(7)『石油王子』、(8)『黒いムスタング』。これらの作品は、内容もさることながら、挿絵画家ヴァイガントの描いた魅力的な挿絵によっても評判を呼んだ。

1890年、シュペーマン出版社は他の二つの出版社と合併して「ウニオン・ドイツ出版社」を設立した。同社は引き続き青少年向け雑誌『よき仲間』を発行し続けた。そしてマイ作品の評判が良かったため、先の青少年向け作品8編は、雑誌への連載が終わると順次書物の形で刊行されていったのである。これら8冊の本は、前述した挿絵と並んで、色彩豊かな表紙絵並びに赤色の総クロス装丁の美しい外観を呈していて、「ウニオン版」としてポピュラーになった。

第4節 個人全集の発行

 1 フライブルク版

1891年、作家マイにとって大きな転機が訪れた。それは個人全集の発行という大きな出来事であった。マイ49歳のことであった。それはフライブルクの出版社主フェーゼンフェルトとの出会いを契機としていた。この若き出版人は雑誌『ドイツ人の家宝』に連載されていた世界冒険物語の中の、とりわけ「オリエント・シリーズ」にいたく感激した。そしてこの雑誌を中心に、それまで各種雑誌にばらばらに発表されていた世界冒険物語を、個人全集『カール・マイ世界冒険物語』の形で発行していくことを決意した。そしてこの計画は翌1892年から実施に移された。

フェーゼンフェルトはこの全集を発行するにあたって、作家マイ及び自社の評判を高めるための用意周到な工夫を凝らした。なかでも造本には知恵を絞った。緑色のハード・カバーの背表紙に唐草模様をあしらい、金色の文字を付し、表紙には各巻の内容にふさわしい色彩豊かな絵を載せて、全体として上品な装丁に仕立てた。それは従来の読み捨ての娯楽読み物というよりは、むしろ高級文学のイメージを与えるものであった。そのため読者層も従来より広がり、マイの名声は大いに高まった。これがマイ最初の「フライブルク版個人全集」であるが、緑色の装丁のため、一般に「緑色の全集」と呼ばれている。

         緑色の装丁のフライブルク版個人全集

一方、それまで雑誌に発表されてきた作品をこの全集に収めるにあたって、一巻ごとの物語の長さが調整された。そして作品の題名も一巻ごとに新たに付け直された。またこの全集のためにマイが新たに書き下ろした作品もいくつかある。かくしてこの個人全集は、彼がオリエント大旅行に出かける1899年までに、27巻に達した。大旅行後はマイが外部との争いに巻き込まれたため、全集の刊行は休止した。しかし晩年の象徴主義的な内容の冒険物語6編を組み込んで、、マイが亡くなる2年前の1910年に、6巻が追加されて、フライブルク版個人全集は全33巻をもって完結した。

この33巻の題名を列挙すると、次のようになる。(カッコ内の数字は発行年)

(1)砂漠とハーレムを越えて(1892年)、(2)荒野のクルジスタン    (1892年)、(3)バグダードからイスタンブールへ(1892年)、(4)
バルカンの峡谷にて(1892年)、(5)スキペタール人の国を通って(1892年)、(6)ジュート(1892年)、(7)~(9)赤い紳士ヴィネトゥー1~3(1893年)、(10)オレンジとナツメヤシ(1893年)、(11)太平洋にて(1894年)、(12)ラプラタ河にて(1894年)、(13)アンデス山中にて(1894年)、(14)(15)(19)オールド・シュアーハンド1~3(1894-1896年)、(20)~(22)サタンとイシャリオット1~3(1896-1897年)、(23)見知らぬ道で(1897年)、(24)クリスマス(1897年)、(25)彼岸にて(1899年)、(26)~(29)銀獅子の帝国にて1~4(1898-1903年)、(30)そして地上に平和を(1904年)、(31)~(32)アルディスタンとジニスタン1~2(1905年)、(33)ヴィネトゥー4(1910年)

これとは別に、今日の我々から見て非常に魅力的なのは、その内容にふさわしく、ち密な出来栄えの挿絵が豊富に入った絵入り全集が、同じくフェーゼンフェルト社から、1907-1912年に発行されていることである。内容的には、先のフライブルク版の1~30巻を収めたものであるが、各巻の順番は部分的に異なっている。この全集は青色の表紙の装丁で、先の「緑色の全集」と区別している。

 2 ラーデボイル版

1912年にマイが死亡し、その翌年の1913年に「カール・マイ出版社」が、ラーデボイルに設立された。そして「フライブルク版」は、新しいシリーズのタイトル「カール・マイ全集」のもとに継続発行されていった。この全集はマイ未亡人の同意のうえで、同社の社主オイヒャー・シュミットが作家の遺志をついで、マイの全作品を個人全集の形にまとめたものである。そのためフライブルク版には収録されていなかった数多くのマイの作品が順次、収録・出版されていった。そして第二次世界大戦勃発の1939年には、「ラーデボイル版」全65巻になった。それはまずフライブルク版の1~33巻に相当する世界冒険物語を基本としていた。その上に、ウニオン版の青少年向け作品8巻、分冊販売小説15巻、初期の村の物語
や歴史小説7巻、そしてさらに自伝及び詩作品、戯曲の2巻が追加収録されたものである。

このラーデボイル版の発行にあたって、言語面及び内容面で、かなり大幅な編集の手が加えられたことが注目される。具体的には、外国語の引用の誤りの修正、過度に使用されていた外国語の削減、卑猥な表現の除去ならびに全作品の外面的な統一と規格化などである。こうした大幅な編集作業の狙いは、「マイの作品は低俗で汚辱に満ちた文学である」とする、晩年に行われた非難攻撃から作家マイを救うという点にあった。

こうした編集の度合いは、とりわけ分冊販売小説と晩年の作品に著しかったが、カール・マイ出版社は、このラーデボイル版をなお、オリジナル版と称し続けた。その理由として同社は、マイ未亡人クラーラが1930年に行った説明を引き合いに出している。それは「カール・マイ出版社が行っている編集作業は、作家マイが生前出来なかったことを代行してくれているもので、作家自身が行ったのと同じである」というものであった。

 3 バンベルク版

第二次大戦後ラーデボイルが東ドイツ領に組み込まれたため、カール・マイ出版社は西ドイツのバンベルクへ移転した。そしてその地で引き続き全集の補完作業を続けていった。2009年現在、それは93巻に達している。これがバンベルク版であるが、書物の体裁や編集方針は、戦前のラーデボイル版をそのまま引き継いでいる。そしてラーデボイル版、バンベルク版ともに、書物の装丁として、緑色のハード・カバーに唐草模様というフライブルク版の格調の高さをそのまま踏襲している。このバンベルク版が、現在ドイツの一般書店に並べられているカール・マイ全集の正統版である。

     バンベルク版個人全集の表紙(第1巻 砂漠を越えて)

このほかマイ生前のオリジナル版(カール・マイ出版社による編集の手が加えられていない)へのマイ研究者ないしマイ愛好家の熱心な要望に応えて今日、それらの再販やリプリント版が発行されている。各種雑誌に発表された作品や、様々な単行本が数多くリプリントされて、発行されているわけである。その中でもとりわけ注目されるのは、前に述べたフライブルク版全33巻の完全復刻版の刊行である(1982-84年)。これは内容、装丁ともに完璧なものと言え、マイ研究者や愛好家の期待に十分こたえたものと言える。

さらにマイの死後50年たった1962年以降は、その著作権が消滅したこともあって、廉価なポケット・ブック版のマイ全集も、各種発行されている。この中でパヴラク出版発行の全集74巻(1976-78年)は高い評価を得ているが、そのほかは、造本が粗雑であったり、ミスプリが目立ったりといった欠点が多い。

第5節 単行本

マイの青少年向け作品が雑誌『よき仲間』に発表された後、書物の形でも順次発行されていったことは、すでに述べた。このほかにもマイの作品は、全集ではなくて単行本の形でも、1879-1912年の間に、数おおく出版されている。

なかでも注目すべきは、マイの個人全集を最初に出したフライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行された単行本のことである。それらは内容的にみて、それまでマイが書いてきた小説や物語とは違ったものであった。マイの数少ない詩作品「アヴェ・マリア」と「忘れな草」に作者自身が曲をつけた楽譜入りの本が『厳かな響き』と題して、1896年に出版されたのである。

          楽譜入りの本『厳かな響き』の表紙

また1900年には、オリエント大旅行の文学的成果として生まれた、詩と警句を集めた詩集『天国の思想』が発行された。さらに同社からは、1902年に、論争の渦中にあったマイが自己弁護のために書いた『教育者としてのカール・マイ』及び『カール・マイの真相』が出された。
そして1906年には、マイ唯一の戯曲作品『バベルと聖書~アラビア幻想』が刊行されている。この二幕の戯曲は、当時ヨーロッパで展開されていた、バベルつまり古代バビロンとバイブル(聖書)との関連に関する論争に触発されて書かれたものである。

一方、1907年には、一連のエルツ地方の村の物語がまとめて単行本となり、また1910年にはマイの自伝『わが生涯と苦闘』が、フェーゼンフェルト社から出版されたのであった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(05)

その晩年(1900~1912)

 後期作品の執筆

後期作品の特徴は、すでにオリエント大旅行の直前に書いていた『彼岸にて』にもみられるように、隣人愛と平和主義という新しい理念に基づくものであった。もはや男性の英雄ではなくて、祖母の姿に似せて作られた人間精神の象徴ともいうべき女性マラー・ドゥリメーが、中心的存在になった神話的な作品群であった。
そして日常生活の面でも、カール・マイは、新しい生き方をするようになった。オールド・シャターハンドやカラ・ベン・ネムジといった英雄的主人公になりすますという生活態度は捨て去り、またそうした衣装も片づけられた。そしてその館「ヴィラ・シャターハンド」の中を飾り立てていた家具調度類も整理された。

帰国後の最初の作品であった『そして地上に平和を』(1901年5月~9月)は、オリエント大旅行の印象を生かしたものであった。そこには帝国主義及び植民地主義に対する強い反対ならびに人種主義的、宗教的優越意識への断固たる拒否の態度が貫かれている。そして世界の人々を結び付けている連帯の理念と平和主義の教義が延々と展開されているのだ。また当時中国の山東半島へドイツが進出し、キリスト教の布教を行っていたが、それに対する反感から武装蜂起した義和団の反乱というトピックも取り上げられている。そして反乱に対する八か国共同出兵とそれによる残酷な弾圧が厳しく批判されているのだ。

(左)小説『そして地上に平和を』
(右)ノーベル平和賞受賞者ベルタ・フォン・ズットナー女史

 ノーベル平和賞受賞者ズットナー女史との出会い

いっぽうこの作品は、のちの1905年にノーベル平和賞を受賞したベルタ・フォン・ズットナー女史(1843-1914年)とマイとを結びつけることになった。その年の10月、このウィーン出身の作家・ジャーナリストはドレスデンにおいて講演を行ったが、その時マイは彼女と知り合い、自著の『そして地上に平和を』を献呈した。それが縁となって彼女とはその後死ぬまで、いわば「平和主義思想」の同志として親交を重ねたのであった。ズットナー女史はのちにマイにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「あなたは平和の問題やその他のことで、私の思想上の同志です。”上へ向かって高く!”こそ、私たちに共通した合言葉です」

マイの平和主義思想はさらに、第一次大戦前のヨーロッパの平和主義運動とも接点を見出したのである。マイのこの著作を知った、フランスの平和主義を代表する雑誌『法を通じての平和』の編集者から、マイに対して1907年初め、独仏の接近への方策に関して質問状が寄せられた。それに対するマイの回答を短くまとめて、次に紹介しよう。
「1.フランスとドイツの接近の試みは願ってもないことです。・・・誤った道に導かれていないドイツ人はだれしも、フランス人を評価し、尊敬しています。2.フランスとドイツは、20世紀の入り口の門を支える二つの女神の柱にならなければなりません。3.それを達成する一つの試みとして、私は次のことを提案します。それは廉価な週刊誌を両国で発行することです。その雑誌のただ一つの目標は、フランスとドイツの住民を互いに心の内面で結びつけることです。そのために同じ内容の記事をフランス語とドイツ語で発行することです。」

またカール・マイの宗教的信条の面でも、この時期に大きな変化が見られた。北東ドイツのザクセン地方に住んでいたマイの先祖は代々プロテスタントであったが、彼自身はレッシングやヘルダーなどの影響を受けて、一種の啓蒙的キリスト教の立場に立っていた。ところがヴァルトハイム刑務所の教理教師コホタとの接触とそこでのカトリックの礼拝実践、そしてさらにカトリック系の雑誌『ドイツ人の家宝』への寄稿を通じて、やがてカトリックへと接近することになった。そのため「世界冒険物語」をせっせと執筆していたころは、マイはカトリックの作家とみなされていたのだ。

しかしオリエント大旅行の後に、事情は再び変わることになった。今や彼は超宗派で反教義の立場にたって、愛のキリスト教をを唱えるようになったのだ。それは狭い意味で信心に凝り固まる立場を、拒否するものであった。その一方で自分は確固たるキリスト者であると主張していた。しかし後期作品の中で展開されている宗教哲学は、オカルト的、神智学的、神秘主義的要素ならびに他の宗教からの影響をも示しているのだ。

 この時期のマイの私生活

ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。このころ妻エマとの結婚生活は、マイにとって大きな負担になっていたようだ。二人は精神面で結びつくところがほとんどなかった。エマはマイの作品を読もうとはせず、その思考世界にも関心を持とうとはしなかった。そのため読者やファンからの手紙への返事などで、多忙な夫の手伝いをしなかった。さらに彼女は、自分が交際していた女友達を家に連れてきたりしていたが、マイはそれが仕事の邪魔になると感じて、不愉快な思いをしていたという。

こうしたことが重なって、すでにオリエント旅行の途上でも、少なからず好意を感じていた友人の妻クラーラ・プレーンにマイは接近したりしていた。そしてその夫のリヒアルト・プレーンが1901年2月に腎臓病で床に臥せ、やがて死亡した。そのあとクラーラはマイの秘書として雇われることになった。彼女はエマ・マイの名前で、読者からの手紙に返事を書く仕事を任されたのである。そのためもあって、マイとエマとの関係はますます悪化し、しまいにはエマに殺されるのではないかという被害妄想に陥り、彼女が調理した食事を食べなくなった。

後期作品の傑作のひとつ『銀獅子の帝国にて、第3巻』が完成したのをチャンスととらえたマイは、1902年夏、はエマとクラーラという二人の女性を連れて、しばし転地療養の旅へと出かけた。その旅の途中、マイはエマに対して離婚の話を持ち出し、自分はクラーラと結婚すると伝えた。その条件として、年額3000マルクの金を毎年エマに支払うことが提示された。そしてそのことを裁判所に訴え、その訴えは裁判所によって認められた。その後カール・マイは1903年3月30日に、正式にクラーラと結婚することになったのである。

                                         結婚後のマイとクラーラ夫人

この結婚生活は、とても幸せなものだったという。クラーラも性格の上で難しい側面を持ってはいたが、マイを深く愛し、また尊敬もしていた。そして生活面でも精神面でも、カールを強く支えていた。彼女はマイの作品を理解していたため、そのあと起きた裁判でも彼を強力に支援し続けたのであった。とりわけ情緒面でマイをやさしく支えたが、それなしにはマイはその後の歳月を生き延びることはできなかったと思われる。

 マイに加えられた非難攻撃

カール・マイは晩年の10年間、様々な種類の非難攻撃にさらされた。初期のころ各種雑誌や分冊販売誌に発表していた作品が、ほじくり出されて、俗悪で青少年に悪い影響を与えてきた、という非難のキャンペーンを一斉に受けたのであった。それらは主として、彼が経済的な窮状を逃れるために、1880年代の前半から半ばにかけて執筆し、ミュンヒマイヤー社発行の分冊販売誌に匿名で発表した大量の物語に関するものである。それらは推敲する暇もないほど急がされて書いたため、内容的に冗長で、装飾過多で、ぞんざいな出来栄えのものであった。ただ報酬は大変よかったという。
これらは匿名で発表されたのだが、実名が明らかになれば、評判を落とすことは明らかであったので、マイはひた隠しにしていたのだ。

ところがミュンヒマイヤー社の経営をその後引き継いだアダルベルト・フィッシャーという人物が、いわば金儲け目的でそれらの長編小説を、今度はカール・マイという実名を出して、発行しようとしたのである。大人気作家マイの名前を出せば、大きな利益を得られることは間違いない、と踏んでのことであった。オリエント大旅行の最中にそのことを知ったマイは、旅先からフィッシャーに対して発行を差し止めるよう伝えた。しかしマイの前科を知っていたフィッシャーは、マイがそれ以上強くは反対しないだろうと考えて、発行を強行したのであった。

              『絵入りカール・マイ全集』の中の一つ「放蕩息子」の挿絵

こうして全五巻の分冊販売小説が、今度は二十五巻に分けられ、大々的な宣伝広告のもとに『絵入りカール・マイ全集』として刊行されたわけである。旅行から帰ったマイはフィッシャーと何度か話しあって、発行停止を申し出たが、無駄であった。そして弱気になったマイは、1903年2月に、自分の前科を世間に公表しないことを条件に、発行継続を認めてしまったのであった。

しかしその分冊販売長編小説がもとで、青少年に不道徳的な悪影響を与えた作家であるとの非難が、各方面から起こったのである。そのためマイは妥協を後悔して、1905年に再びフィッシャーに発行停止を申し入れた。これも無視されたが、この経営者が1907年に死亡したタイミングで、後継の経営者に対して訴訟を起こした。その結果、分冊販売小説には第三者によってかなり手が加えられたというマイの申し立てが1907年10月に認められて、それ以後それらの作品からマイの名前は削除されることになった。この成果を勝ち取るまでに、実に7年もの歳月がかかったのである。

次に各方面からの批判キャンペーンに目を向けることにしよう。これは彼のオリエント大旅行中に始まり、以後断続的にマイの最晩年に至るまで続いたのであった。
1890年代の成功の絶頂期には起らなかったことが、鳴り物入りの宣伝広告を通じて刊行された『絵入りカール・マイ全集』によって、たぶんに「ねたみ・そねみ」の気分に彩られて、批判・非難の嵐が巻き起こされたのである。それらの批判の基調は、「清らかな世界冒険物語のかたわら、不倫とも不道徳とも言えるような
俗悪小説を書いて、青少年に悪影響を与えてきた」というものであった。

すでにマイのオリエント大旅行中の1899年に『フランクフルター・ツァイトゥング』の文芸欄では、「世界をくまなく旅行してきた世界漫遊者である、とのマイの主張は欺瞞である」と書かれていた。その後、以前はマイのことを高く評価していたカトリック系のジャーナリストによって、「マイは敬虔なカトリック信者を装ってきたが、実はプロテスタント信者なのだ」と指摘された。そして「いっぽうでカトリック系の家庭雑誌ではカトリックの立場にたって、敬虔なタッチで冒険物語を書きながら、同時に性的な描写を含み、不倫や不道徳に満ちた長編小説をカール・マイはたくさん書いていたのだ」と非難された。つまりマイは道徳的・文学的二重人格の持ち主である、というのだ。

この非難の根拠になっている不倫や不道徳な描写については、マイ自身は、「ミュンヒマイヤー社側が、販売効果を狙って、第三者に書き加えさせたものだ」と主張している。1880年代にマイが書いて同社に渡したオリジナル原稿を、同社はその後も公表していないので、この点は明らかではない。しかし『絵入りカール・マイ全集』を読んでも、そうした問題の箇所は量的に少なく、現代の視点から見れば全く無害なものである。それにもかかわらず、非カトリック陣営に属する保守主義者や国家主義者からも、誹謗中傷はやまなかった。

こうした各方面からの攻撃に対してカール・マイは沈黙していたわけではなく、盛んに防戦に努めていた。それは新聞への寄稿、新聞・雑誌への広告、パンフレットの配布、裁判関連の文書、数多くの名誉棄損の訴えなどを通じて行われたものであった。そしてそれらは一定の成果を上げ、マイを支持する賛成派の人々も少なくなかったのだ。彼らは革新派の社会民主党員、数多くの反体制派の人々、前衛の作家・芸術家たち、そしてカトリック伝統派の人たちであった。彼ら支持者たちは、言論発表の機会をマイにいろいろと与え続け、講演会なども用意した。

 名誉回復(1907年)

                                              雑誌『ドイツ人の家宝』

そうしたこともあって1907年には、カール・マイは多くの新聞雑誌に対して、おおむねその名誉を回復することができた。そしてその年の9月には、例の雑誌『ドイツ人の家宝』も、昔の同社の人気作家に再び接近してきたのである。その結果、1907年11月から、マイ最後の大長編小説「アルディスタンとジニスタン」が、その雑誌に掲載され始めた。それはマイが渾身の力を振り絞って取り組んだ大長編の物語で、後期作品の中でも最も代表的な作品といえるものとなった。そのころ彼は健康面でも元気を取り戻していたため、この大作の執筆にあたることができたのであった。

       北米旅行へ向かう船中にて。(左)マイ(右)後列右から2人目がマイ

そうした執筆の合間をぬうようにして1908年の晩夏に、マイは妻クラーラとともに、かねてからの北米旅行に出たのであった。9月5日「ブレーマー・ロイド社」の汽船でドイツを出発し、16日にニュー・ヨークに到着した。そこに一週間滞在した後、アルバーニ、バッファローを経てナイアガラの滝を見物した。その後カナダ側のクリントン・ハウスに宿泊した。そこからタスカロラ・インディアンの住む地域へ向かい、さらに五大湖周辺をトロント、デトロイト、モントリオールという具合に移動した。

10月5日には、マサチューセッツ州のローレンスで金持ちになって住んでいた旧友のペッファーコルンに再会した。そしてその町のドイツ系アメリカ人を前にして、講演を行った。それは「人間に関する三つの問題~我々は何者か? 我々はどこから来たのか? 我々はどこへ行くのか?」と題する講演であったが、大好評を博した。そのあとはローレンスを基地にして各地へ赴いたが、それらは主として休養を兼ねたものであった。そして11月にはボストン、ニュー・ヨークを経て大西洋を渡ってイギリスへ移動した。そこでは主としてロンドンで二週間を過ごしてから、マイ夫妻は12月初めに故郷の家に戻ったのである。

この二回目の海外旅行はオリエント大旅行のような、人生の転機を画すといった性質のものではなかった。またそれは広大なアメリカ合衆国のごく一部を動いたものに過ぎず、マイの作品の舞台になっている大西部にも行かなかったのである。それはすでに老境に入った人物の、息抜きの観光旅行であったのだ。

旅から戻ったマイは仕事を再開して、翌年の1909年6月には、雑誌に連載していた「アルディスタンとジニスタン」の最終原稿を書きあげた。そしてその夏、推敲の手を加えて、同年のクリスマスにはその作品は書物の形で刊行された。この著作は、童話的に場所と時間の制約のないユートピア風にして、人類の歴史を暴力から平和への発展としてとらえて、描いたものである。

そして1909年12月10日には南ドイツのアウクスブルクで、この作品に関連して、「人類の魂の故郷 シタラ」と題する講演を行った。地元の新聞によれば、会場は感激した聴衆であふれかえる大盛況で、隣接したカフェーまで人の群れでいっぱいになったという。その中にマイ作品の熱心な読者で、のちの大作家のブレヒトもいたと思われる。

 最晩年

この時期マイは再び大きな不幸に見舞われた。彼の最晩年を苦しめたのは、ルドルフ・レビウスという執念深い、ある種の政治ジャーナリストであった。はじめは社会民主党に属していたが、のちに転向して反社会民主主義、反ユダヤ主義、国家社会主義の立場に立つようになった人物である。雑誌編集者であった1904年春、この男はマイに接近してきて、かなりの額の借金を請求し、その見返りに支援を申し出た。その要求をマイは拒絶したが、その後もレビウスは半ば脅迫をちらつかせながら、要求を繰り返した。それに対してマイは法的手段に訴えて、その要求を退けることができた。

しかし執念深いこの人物は、その後マイと離婚してヴァイマルに一人寂しく住んでいたエマ・ポルマーを訪ねて、マイとの結婚生活や離婚した時の事情を探り出した。そしてさらにマイの故郷エルンストタールにも行って、その若き日の犯罪行為を調べ上げた。そしてその結果が出版物として公表された。そこではマイは「生まれながらの犯罪者」と呼ばれていた。それに対してマイは再び法的手段をとって、レビウスを名誉棄損で訴えた。ところが1910年4月に行われたベルリン・シャルロッテンブルクの裁判所での公判では、レビウスに無罪判決が下された。これはマイを犯罪者として公的に認めたことになり、マイは破滅的な衝撃を受けることになったのである。レビウスがまき散らした害毒は広くマスコミや世間に浸透し、いまや再びマイに対するかつての誹謗中傷の炎が燃え上がった。そのため彼の本の売れ行きのほうも、激減することになった。

こうした世間からの非難攻撃に対する弁明と反撃そして自己反省と自戒の書としてマイは、自伝『わが生涯と苦闘』を、それこそ最後の力を振り絞って書きあげ、これが1910年10月に刊行された。しかしこのころには心身ともに疲れ果てていたことが、自伝の中でも述べられている。「一年前から夜になると眠れなくなった。・・・そして絶えず激しい神経の痛みをを感ずるようになっている。・・・できることなら死んでしまいたいものだ。」そして1910年のクリスマスに肺炎に襲われ、1911年には病気と心身の衰えで仕事をすることができない状態になった。そのため医師の強い勧告を受けて、5月から6月にかけて妻のクラーラに伴われて、ラディウム療養のためにカールスバートに出かけ、その後さらに南チロルのホテルでのんびり過ごした。こうした長期療養のおかげで、その健康状態は一時的に回復した。

その年の12月初めマイは先のベルリン・シャルロッテンブルクの判決に対する控訴審手続きのための文書147ページを書きあげた。そしてその控訴審裁判がベルリン・モアビットの裁判所で、1911年12月18日に開かれた。レビウス側の検事が、マイの生き方は常軌を逸した奇行に満ちていると非難したのに対して、エーレッケ裁判長は次のように述べた。「しかし犯罪というものは、一人の作家によって作り上げられた奇抜な事柄などではないのだ。私はマイ氏を作家だと思っている」 この時マイは、この理解に満ちた裁判長によって救われたのであった。先の判決は取り消され、レビウスに対しては重度の侮辱罪によって罰金100マルクが課せられた。

 ウィーンでの最後の講演

このようにしてマイはその最晩年において、その名誉を回復することができたのであった。そして世間の風向きもマイに対して暖かいものに変わった。1912年2月1日には、ウィーン在住の作家ローベルト・ミュラーによるマイ擁護のエッセイが公表された。ウィーン文学・音楽アカデミーの責任者でもあったこの作家は、さらにマイに対して、その70歳の誕生記念にウィーンで講演してくれるよう依頼した。この講演依頼の目的は、マイの個人的・文学的名声を再び世の人々の前で明白に回復することであった。当時マイの体調は思わしくなく、医者からは長旅をしないよう勧告されていたが、それを振り切って彼はウィーンに向かったのである。

                        ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」

1912年2月22日、ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」の二千人以上にのぼる聴衆を前にして、マイは二時間以上にわたって(途中脱力状態の発作で短時間中断したが)話をしたのであった。その演題は「高貴な人間の住む天空に向かって」というものであった。このテーマはジニスタンへ向かって上昇しようと懸命に努力してきたマイ自身のことを表している。平和主義運動の担い手ベルタ・フォン・ズットナー女史もやってきて、事前にホテルでマイに会ってから、講演を聴いたのである。彼女の願いを入れて、マイはその講演の中で、最新作『人間の高貴な思想』からの引用もしている。「高貴な人間」という概念も彼女から借りたものであった。そこでは平和の理念が語られたほか、自らの人生の告解も行われた。

この講演は彼の公的人生の最後の成功を画するものとなった。ウィーンの新聞はこのことを詳しく報じた。「彼は歓呼の声で迎えられた。そして最後に、ぎごちなく、頼りなげに、そして明らかに驚いた感じで、みなへの感謝の言葉を述べた。拍手は十倍に強まった。少年たちが席から立ちあがって、彼らにヴィネトゥーをプレゼントしてくれた人物にあいさつした。講演が終わると、拍手は鳴りやまず、退場しようとしたマイの周りを人々が取り囲んだ。」
そうした人々の暖かいまなざしの中で、マイは感極まって「いつまでも変わらぬ心で私のことを!」と叫んだのである。

 ウィーンのカール・マイとクラーラ夫人。生前最後の写真(1912年3月20日)

そのあと3月の冷雨の中、風邪をひいて熱を帯びた体で、彼はラーデボイルの家へ戻った。しかし病床に就くことはなく、クラーラとの結婚記念日である3月30日には再び元気を取り戻したかに見えた。しばらくの間彼は静かに時を過ごし、半ば眠ったようにして、自分が作り出した人物たちと話をしていたという。そして夜の8時ごろ、カール・マイはただ一人妻のクラーラに付き添われて、息を引き取った。
「勝利だ! 大勝利だ! バラが・・・赤いバラだ」
これがその最後の言葉だった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。