第5章 第二次世界大戦後の歩み
1 過渡期(1945~1948)
(1)ソヴィエト軍政下のレクラム出版社
レクラム出版社の業務再開
周知のように、1945年5月8日にドイツは無条件降伏し、その領土は米英仏ソの連合軍によって占領されることになった。そしてレクラム出版社のあったライプツィヒは、同年7月以降ソヴィエト占領地域となった。その占領統治はソヴィエト軍政本部によって行われたが、レクラム出版社はその年の9月10日に、この軍政本部からまず印刷所再開の許可を得た。ただし当面はもっぱらロシア軍事出版部の仕事に限られていた。
しかし翌年1946年3月14日になると、当主のエルンスト・レクラムはソヴィエト軍政本部から、出版社の再開の許可を取り付けた。こうして第二次大戦後初めて印刷された百科文庫が、同年4月に発送されたのである。その作品は、主としてドイツ文学の古典作品で、18世紀啓蒙主義文学の代表者レッシングの『賢者ナータン』、古典主義の代表者ゲーテの『タウリス島のイフィゲーニエ』、疾風怒濤文学の代表者シラーの『フィエスコの反乱』、19世紀の作家メーリケの『旅の日のモーツァルト』、抒情詩人として日本でも知られているハイネの『ハルツ紀行』、そして19世紀前半に活躍したロシアの詩人プ-シキンの『ドゥンブロウスキー』などであった。これらは戦災を免れた組版を使って、印刷されたものであった。
三代目当主のエルンスト・レクラムは、 戦後におけるレクラム出版社の復興を目指して、当時精力的な活動をしており、1946年8月5日には、ライプツィッヒの「ドイツ書籍商取引所組合」会長に選出されている。そしてこの困難な時期にあっても、彼はこの職務を1948年まで遂行したのであった。しかしソヴィエト占領下での出版活動が極めて困難であることを、やがて思い知らされることになるのだ。
レクラム工場の解体
その第一撃は1946年11月にやってきた。ナチス・ドイツ軍に侵略され、徹底的な略奪を受けたソヴィエトは、こおむった被害の穴埋めを目指して、賠償の一環として産業施設の押収や工場解体に着手した。この時レクラム出版社も、残存していた工場施設の大部分が、解体撤去されたのである。解体作業は翌1947年1月まで続いたが、当時の工場長がその顛末について『解体撤去報告』で詳しく記しているので、以下その一部を引用することにする。
「1946年11月3日、日曜日、私は正午頃ソヴィエト軍政本部の出版部に呼び出された。・・・軍事出版部にはすでにW・ブラントシュテッター氏とヴェーバー書店のティーレ社長が来ていた。・・・軍事出版部のチーフ、ソコロフ中尉が我々にまだ未知の将校たちを紹介してから、三つの出版社が解体撤去を受けることになったと告げた。それから彼は、解体撤去の間我々にどんな義務が課せられるのか、そしてまた解体業務の円滑な進行のために、我々が全責任を負わねばならないということを、かなり詳しく説明した。・・・我々の工場は、解体撤去隊長クルコフ少佐に委ねられることになった。・・・かなり大人数の監視部隊が工場内に残った。さらに翌日には労働者も職員も、誰一人として工場への立ち入りは禁じられることになった。
最初の数日、解体部隊の仕事は、業務帳に基づいて、すべての機械、在庫品、資材の正確な配置場所のリストを作成することであった。・・・その後ロシア軍事出版部からの指令によって、我々の専門従業員の大部分は他の印刷所や製本所に移されることになった。残りの従業員は、解体作業に従事する者をのぞいて、解雇された。この措置によってわが従業員の数は、およそ200人の労働者・職員に減少した。11月11日、ホルツ解体部長の命令によって、木箱作りに取り掛かることになった。・・・11月15日、機械の解体作業が開始された。・・・屋内での解体作業がすべて終了する前に、木箱を駅へ運ぶ仕事が始まっていた。・・・12月30日から1月8日までかかって、駅に置かれた木箱は、全て貨車に積み込まれた。それらは全部で235個あり、総重量500トンであった。・・・1947年1月9日、列車はライプツィッヒ駅を離れた。・・・
そして1月10日に、工場はロシア軍政部から我々に返還された。印刷所には16台の機械-たいていは古くなったものーと、もはや使われなくなった2台の機械が残ったが、これらは修理が必要であった。・・・ステロ印刷部門は根こそぎ解体されてしまった。・・・製本部門も100パーセント解体された。・・・目下のところ我々は再びロシア軍事出版部のために仕事をしている。しかし最初から一定量は百科文庫の生産のために、機械設備をあけてとってある。これまで百科文庫の生産のために設置してあった2台の輪転機は、同様に解体撤去されたため、われわれは粘り強い交渉をして、印刷設備の三分の一は、百科文庫のために使用することを認めさせた。・・・
ライプツィッヒ、1947年1月18日」
ライプツィッヒ・レクラム社、東独政府の信託下に
これによって分かるように、ライプツィッヒのレクラム出版社の施設は大きな損害を受けたのであったが、エルンスト・レクラムは、この時点ではなお自由な出版活動の再開に希望をつないでいたようである。そのために翌1948年には破壊された社屋を修繕したり、残存した機械設備を修理したり、さらに他の中部ドイツの諸都市の廃墟の中から救い出してきた機械を修理したりして、社の再建に励んだのであった。
それでもライプツィッヒでの出版活動は、なかなか思うようには進まないようであった。彼は1948年10月以降は、ベルリン=シャルロッテンブルク地域に住み、ウイークデイにライプツィッヒのレクラム社で働いていた。しかしこの間に二度にわたりソヴィエト軍政本部によって逮捕拘禁されるなどの受難が続いた。そしてついに1950年5月には、エルンスト・レクラムは、妻と共に西独南部のバート・ハイルブルンへ移転することになった。
この結果ライプツィッヒのレクラム出版社はレクラム家の手から離れ、1950年12月に東独政府の信託の下に置かれることになったのである。東独レクラム社は1953年には一時的に人民所有企業つまり国営企業となった。その後度重なる改組の後に、1958年以降、国家の資本参加によって運営されることになった。そして1963年以降は、グラフィック部門が切り離された。
一方ライプツィッヒのレクラム出版社での「レクラム」という家族名および「百科文庫」という名称は、のちにシュトゥットガルトに生まれた西独レクラム出版社から、非合法なものとみなされるようになった。その根拠としては、レクラム家の家族がすべて例外なしに西ドイツに住んでいたことがあげられた。しかし東独レクラム出版社からは、こうした抗議の声は全く無視されて、その文庫にはずっと「レクラム百科文庫」という名称が付けられていった。なおライプツィッヒのレクラム出版社の出版物を西ドイツに輸入することは、1952年以降は禁止となった。
それから22年後の1974年に、筆者は西独ケルン市にある「ドイツ海外放送」の日本語番組を担当していたが、休暇旅行でライプツィッヒを訪れた。そしてそこの書店で東独版のレクラム百科文庫を数冊購入した。その中の一冊を写真で紹介することにしよう。ドイツ啓蒙主義文学の代表者レッシングの戯曲作品『賢者ナータン』である。

レッシングの『賢者ナータン』(Lessing: Nathan der Weise)
(2)シュトゥットガルトに
新レクラム社設立(1947年)
シュトゥットガルト・レクラム社の発足
三代目当主のエルンスト・レクラムがライプツィッヒに残って、なおその出版社の再建に望みを託して尽力していた1947年の4月、アメリカ占領地区のシュトゥットガルトでは、軍政部の許可がおりて、新たに「レクラム出版有限会社」が設立された。そのイニシアティブをとったのは、1936年以降レクラム社の支配人を務めていたゴットホルト・ミュラーであった。冷戦の激化という当時の政治情勢をにらんで、エルンスト・レクラムの妹でシュトゥットガルトに住んでいたマルガレーテ・レクラムを誘って、共同出資者になったのである。
第二次大戦末期の1943年、爆撃によってその社屋におおきな損害を受けたレクラム社では、南独パッサウに避難倉庫を建て、同社の在庫や資料を避難させておいたが、これがシュトゥットガルト・レクラム社設立のための物質的な基盤となったのである。第二次大戦時の盟友であった四大国は、西側の米英仏とソヴィエト連邦との間は急速に悪化し、それぞれの占領地区間の意思の疎通も物資の流通も悪くなっていった。そのため百科文庫やその他のレクラム出版社の出版物を、西側占領地区内で販売することが、新しいレクラム社設立の当面の目標であった。
シュトゥットガルト市西部の建物内の小さな二部屋から出発した出版社であったが、まずはライプツィッヒの親会社と交渉に入り、西側占領地区における百科文庫の製造・販売並びに出版権の利用に関する許諾取り決めの締結に成功した。新会社の最初の仕事は同社があったヴュルテンベルク地区の文部省から委託されたもので、学校教材として8点の作品が出版された。そしてそれらは1947年9月から翌1948年5月にかけて、ヴュルテンベルク内の学校に配布された。いずれも文学作品であったが、そこにはシラー、ケラー、シュティフター、シュトルムといった純文学作品と、ゲルステッカー、シーズフィールド、ヴァインラント、キップリング(イギリス)などの大衆文学が入り混じっていた。
この時の百科文庫の装丁を担当したのは、新たに入社してきたA・フィンステラー教授で、表紙には同氏による線画の口絵が付けられるようになった。この口絵によって買い手は作品の中身を一目で知ることができた。これは文庫の贈り物としての性格を取り戻そうとする試みの表れと言えよう。彼はまたレクラム社の新たなマークも考案して、これが百科文庫の表紙も飾るようになった。
1948年になると新会社も軌道に乗り始めたが、この年には大判の本8点が出版された。それらは多様な性格の一般書といったもので、『ルカによる福音書中のクリスマス物語』(フィンステラーの木版画入り)、オイゲン・ディーゼル著『ディーゼル。人間、作品、運命』、E・レーツロープ著『ゲーテの生涯』などであった。そして同年8月15日にはシュトゥットガルト・レクラム社で最初の百科文庫シリーズ17点が出版され、書店に発送された。これらはレッシング、シラー、シュティフター、ハウプトマン、シュテファン・ツヴァイク, ヘルマン・ヘッセ、スティーブンソン、ロンドン、ベルゲングリューンなど、内外の文学作品であった。しかしこのときにはまだ新生レクラム社の長期的な出版計画は立てられていなかった。
新社屋の完成
その前提になるのは、出版社の安定した経営ということになるが、レクラム社の場合廉価な文庫本を永続的に発行し続けるためには、創業者のアントン・フィリップ・レクラムが考えたように、合理的な仕組みの上に立てられた生産体制の確立がやはり必要であった。そのためには戦前のライプツィッヒ・レクラム社のように、印刷、製本、倉庫なども自前で賄わねばならなかったのだ。結局この方針は貫かれ、1950年7月にはシュトゥットガルト市北部のメンヒ通り31番地に、独自の社屋が借用されることになった。

シュトゥットガルトのレクラム出版社(1950年)
かつてのライプツィッヒの宮殿のような建物とは比ぶべくもないが、ここには文庫の生産に必要な施設は、一通りそろっていたわけである。なかでも特筆すべきは、マン社によって百科文庫用に設計された輪転機が導入されたことであった。この機械はきわめて合理的に設計されていて、文庫の印刷、折りたたみ、裁断、製本などの工程が、すべて自動的に行われるようになっていた。その翌年植字作業場には、リオンタイプの植字機が設置され、稼働することになった。さらに同年8月以降になると、同じ建物の中で、独自の発送が行われることになった。この印刷・製本工場および出版社の編集部門には、かつてのライプツィッヒのレクラム社で働いていた従業員もかなりみられた。
2 シュトゥットガルトでの新路線の開始
(1949~1966年)
こうしてシュトゥットガルト・レクラム社の再建の仕事は、経営面でしだいに軌道に乗るようになってきたのであった。
(1)四代目当主ハインリヒ・レクラムに
よる指導
ハインリヒ・レクラムの登場

四代目当主ハインリヒ・レクラム
1948年11月15日、レクラム出版社の創業者のひ孫で、エルンスト・レクラムの息子ハインリヒ・レクラムが、シュトゥットガルト・レクラム社に入社した。後に四代目となるこの人物は、1910年にライプツィッヒで生まれた。ブレスラウ、ミュンヘン、ライプツィッヒの各大学で、ドイツ語、ドイツ文學、哲学、経済学を学んだあと、1937年に博士号取得。その後ケーニヒスベルクの出版社で書籍販売の実地訓練を積んでから、第二次世界大戦の勃発により終戦まで兵役に就く。アメリカ軍の捕虜から帰還した後、なお国内の印刷所や出版社で実地の修業を重ねてから、1946年1月以降ライプツィッヒ・レクラム社の責任ある社員となった。シュトゥットガルト・レクラム社に移ってからは、しばらくの間編集部員として百科文庫の拡充に取り組んだ後、1949年12月から経営幹部となった。
そしてこのハインリヒ・レクラムによって、百科文庫の長期的な出版計画に関する基本方針が打ち出された。彼は第二次世界大戦後、世界及びドイツ国内を取り巻く環境が一変したことを十分認識していた。第二次世界大戦末期には百科文庫はおよそ7600ナンバーに達していたが、戦後の再建に当たって彼が考えたことは、物質的にはなお荒廃していても、精神的なものへの要請が強かった終戦後の時期は、同社の伝統に即して世界文学の廉価版を復活させるのにかえって好都合であろうという事であった。当時はなおそのための経営的な基盤は整っていず、短期的な視点にたてば、よく売れる流行作品や実用書を中心にしていく方が良かったと思われる。しかし四代目当主としての強烈な自覚からか、先祖の出版理念に忠実に、百科文庫をいわば<教養文庫>として再建していくことこそが自分に課せられた使命であると思ったのである。
新路線の展開
こうした基本方針に基づいて、1949年からまずはドイツの古典文学作品と世界文学作品を、戦前のものを基礎として復刻させていくことになった。そこでは18世紀の啓蒙主義から19世紀のブルジョア・リアリズムにいたるドイツ文学、そしてイギリス、フランス、スカンディナヴィア、ロシアなどの世界文学、さらにプラトンからニーチェまでの哲学作品、それから独特の伝統をもったオペラ・テキストなどが再び日の目を見るようになったのである。こうして続く5年間の間に、44シリーズ、360ナンバーが一か月から二か月の間隔で、市場に出されていったのである。
シュトゥットガルト・レクラム社がこうした新路線に踏み出した翌年の1950年に、西ドイツの出版界に革命的ともいえる新しい動きが現れた。それは老舗の出版社ローヴォルト社の「ロロロ・ポケットブック」の登場であった。これは第二次世界大戦後ドイツを占領したアメリカ、イギリスのポケットブックないしペーパー・バックスの影響を受けて生まれた、新しいタイプの廉価文庫本であった。これは判型としては、レクラム百科文庫や日本の文庫本より大きく、新書版のサイズである。このアングロサクソン風ポケットブックはその後、フィッシャー、ウルシュタイン、ヘルダー、リスト、デーテーファオ、ハイネ、ズーアカンプ、インゼルなどの各出版社が、それぞれ発行するようになり、花盛りとなった。
レクラム百科文庫はこうした新たな競争に直面して、一層その性格を際立たせる必要に迫られた。そうしなければ、戦後になって以前にもまして大衆化の色合いを強めるようになった西ドイツ社会で、この廉価文庫本の古典が生き延びていくことは、おそらく困難なことであったろう。大きな発行部数、均一判型、均一価格、各巻の番号つけ、そして携帯に便利なこと。こうした特徴は、レクラム百科文庫と各種ポケットブックに共通した要素であった。
それでは両者に異なった要素とは、いったい何だったのであろうか。それは一口で言えば、本の中身つまり出版される本の内容にあったといえる。
新しいタイプのポケットブックは、例外は除いて、買い手からおおむね消費財として扱われた。それに対してレクラム百科文庫は、戦前の伝統に即して、一度収録した作品は常に在庫を備えていて、いつでも再版して読者の要望に応えられるようにしたのだ。また再建の過程で、首尾一貫した出版計画を堅持した点でも、百科文庫は他の廉価版と際立た違いを示していた。そのために戦前には、かなりのシェアーを占めていた娯楽文学や実用書の類いは、少なくともこの再建の間は排除され、もっぱら文学、哲学、精神科学の分野に集中されることになった。そして1920年代のレクラム百科文庫に顕著に見られた、キオスクや鉄道駅構内での販売などは放棄された。その代わりに、学校、大学など教育機関との結びつきが、以前とは比べ物にならないくらい強化された。
百科文庫再建に当たっての新機軸
内外の文学、哲学、精神科学の各分野の作品を再び収録するにあたって、レクラム社としてもまずは戦前の組み版を基にして復刻していったわけであるが、その際戦前の版を機械的に印刷しなおしたわけではなかった。つまり新しい時代の読者のために、古典作品といえどももう一度新しい眼で見直して、批判的な再検討を加えたのであった。外国文学の場合には、新たに翻訳しなおしたり、国内文学の場合でも少なくとも新しい解説や後書きをつけくわえる、という事をしたのであった。とりわけ学校の生徒や大学生を相手にする場合には、こうした配慮が重要な意味を帯びてくるのであった。
そして時とともに、こうした戦前のものの復刻版ではなくて、戦後新たに収録された作品の割合が次第に増えることになった。このような新刊は、1948年には48ナンバーのうち4ナンバーに過ぎなかったが、1952年になると70ナンバーのうち20ナンバーを占めるようになり、1960年にはほぼ半分にも達したのである。
またレクラム社としては、戦後の再建作業がしだいに軌道に乗っていくにつれて、収録すべき作品の出版計画にも余裕を見せるようになった。そのことは同社が読者とのつながりを深めるために1951年から発行するようになったっ広報用小冊子『出会い』の中の文章にもみられる。この頃レクラム出版社の周囲には、19世紀後半の百科文庫創刊直後に見られたような、熱心な読者層による一つの精神共同体のようなものが形成されていたようである。これは教育、学術、詩作、芸術などの各分野に強い関心を持っていた人々の集まりであったが、『出会い』はこうした人々によって読まれていたわけである。1952年、レクラム出版社は百科文庫を拡充していくにあたって、その新しい目標設定について、この『出会い』の中で次のように説明している。
「我々の再建作業の成功により、役割領域の拡大が可能になっています。つまりユニヴァーサル性への要請は、われらの時代に適合した形態において、段階的に新しく満たされるべきでありましょう。とりわけ過去のいきいきとした作品と並んで、すべての文明国の多様な問題や新たな潮流の中に、現代というものを考慮していかねばなりません。こうした拡大の流れは、時を越えて生き延びてその有効性を示しているものに限られるべきです。とはいえ上品な娯楽や真のユーモアがなおざりにされてはなりません」
レクラム出版社としては、その主たる読者層を、学校や大学ないしは学問の世界に生きる知識層に移した感があるが、決してその対象を狭い領域の人々に限ったわけではなかった。例えば教育といっても、何も学校教育だけが教育というわけではなく、ドイツではすでに戦前から生涯教育や継続教育といった観点から、成人教育にも力が入れられていた。この傾向は第二次世界大戦後にはさらに強まり、若者への継続教育は、様々な職業分野に広まっていった。例えば鉄鋼業界でも若いセールスマン用の職業訓練に関連して、様々な試みが行われていた。そうした職業訓練用の専門紙が、レクラム社の再建に注目して、1951年に次のような文章を形成しているので、次に引用する。
「特徴ある装丁を持ったこの小さな文庫は、授業中の読み物として必要不可欠なものであるが、のちには継続教育の資料としてすべての若者に対して、彼らの一般教養の欠陥部分を補うのに役立つのだ。そればかりではなく、さらに娯楽に対しても、現代作家を知る上でも、そしてまた比較的古い好きな作家と再会する上でも、切望されているのだ。それらは成長しつつある世代の人々の引き出しや小さな本箱の中だけではなくて、文学や学問あるいは経済の世界で名のある人々の本箱にも収められているのだ」
百科文庫拡充方針の中で、戦後の特徴として挙げられるものに、以上のほかに、各種文化・芸術部門の案内書の出版がある。すでに戦前のかなり早い時期から、オペラやオペレッタの案内書は、シリーズで出されていた。それが1950年になって再び「レクラム・オペラ案内」が、ハンドブック版として刊行されることになった。これは1928年のライプツィッヒ版をもとにして、拡充・改編されたものである。そしてこれらは後に百科文庫版でも出されるようになった。さらに「演劇案内」や「コンサート案内」も刊行されていった。
「レクラム・コンサート案内」は1952年から発刊されたもので、500にのぼる協奏曲、交響曲、組曲、序曲、バレー曲などを解説している。そしてバッハからヒンデミットに至る偉大な音楽家の作品の特徴や生涯の略歴を添えている。この案内シリーズは、さらに「映画案内」「歌曲案内」、「放送劇案内」、「室内楽案内」から「スポーツ案内」にまで広がっていった。
(2)レクラム出版社創立125周年記念(1953年)以降
エルンスト・レクラムの死
1953年10月にレクラム出版社は創立125年を迎えることになったが、それに先立つ3月6日、第三代当主のエルンスト・レクラム(1876~1953)が死去した。第二次世界大戦後も数年間は、ライプツィッヒでレクラム社の再建を目指して奮闘したものの、ソヴィエト占領と社会主義体制の進行の中で、自由な出版活動ができず、1950年以降は南独バイエルン地方の田舎で余生を過ごしていたのであった。1906年に入社して以来、すでに第一次世界大戦以前から百科文庫を新時代に即した方向へ導くのにおおいに貢献し、1920年代にその第二の黄金時代を現出させたのが、このエルンスト・レクラムなのであった。
また第三代当主の死の直後にあたる3月31日、シュトゥットガルト・レクラム社の創立者であったゴットホルト・ミュラーが、同社の支配人の地位を捨ててレクラム出版社を去っていった。これ以降、第四代当主のハインリヒ・レクラムが単独でレクラム出版社を率いていくことになった。
創立125周年(1953年)
この年の10月1日、レクラム出版社は創立125周年を迎えたが、広報用小冊子『出会い』の中で、ハインリヒ・レクラムは、第二次世界大戦後の同社の再建の模様について、次のように記している。
「土地も建物も金もない状態の中で、西側で新たに出発することが容易でなかったことは、それらの年月に最初から始めねばならなかった人々にとっては、だれの目にも明らかなことであった。しかしながらレクラムという名前は、古い友人たちを再び自分の周りに集めるのに十分な実態と魅力を備えていた。とにかく我々はシュトゥットガルトにおいて、個人や役所から受けたものと言えば、支援という言葉だけであった。
まず初めは百科文庫の小型本のための新式の特製印刷機を注文することであった。なぜなら庶民的な価格と結びついた急速な再建は、最新の技術的手段によってのみ達成できるという事は、私の曽祖父が経験したことだったのだから。機械がアウクスブルクからやってきたとき、もちろんそれを雨風にさらしておくことはできなかった。我々はその回りに家を建てねばならなかったのだ。かくして我々は再びレクラム・ハウスに入ったのである。それは小さいながら、最新式の機械を備えた徹底的に合理化された工場なのであった。まず最初に我々は、学校や教養世界の要請に従って、ギリシア・ローマや古典期の世界文学の最も重要な作品を取り揃えねばならなかった。この分野については、今ではおよそ550ナンバーそろったので、大体十分だと言える。その後我々は個別面での拡充に取り掛かり、現代作品を集めてから、さらに古い時代へと向かった。
このようにしてわが文庫は、再び再建されただけではなく、新しい作品を加えることによって、以前の状態を上回る規模に成長しつつあるのだ」
いっぽう創立125周年を記念して、1953年から1955年にかけて、記念版として、5シリーズ、66ナンバーが表紙絵つき、カラー・エナメルのボール紙表装で出版された。

フランクフルト国際書籍見本市内のレクラム・ブース(1953年)
また第二次世界大戦後の1949年に再開され、年と共に盛んになってきたフランクフルト国際書籍見本市にはレクラム出版社も、1953年の秋から参加することになった。戦後急速に近隣の西ヨーロッパをはじめとする国際世界との関係を緊密にしていた西ドイツであったため、この見本市にも1950年にはもう外国の出版社が100社も加わっていた。そして1953年、レクラム出版社は会場の「ドイツ工芸館」の一角に自前のブースを持つことができた。そこでは国際出版連合会長のスタンレー・アンウイ卿と書籍商組合会長のA・ゲオルギー氏から、ハインリヒ・レクラム社長に対して創立125周年へのお祝いの言葉が贈られたのであった。
また1957年には、レクラム百科文庫の表紙が再び変更されることになった。今回もフィンステラー教授が担当したが、戦争直後の1947年に同教授によってデザインされた線画の口絵つきの表紙は、作品ごとにわざわざこれを描かねばならず、手間がかかっていた。そのため出版点数の増大に対応するため、口絵はなくして大文字活字による表紙となった。

全く装飾のないレクラム百科文庫の表紙。
『新古今和歌集』
(SHINKOKIN-WAKASHU )
新たな分野としての美術作品
戦前レクラム百科文庫の中では造形美術は、いわば継子扱いされてきたと言えよう。これにはいくつかの理由が考えられるが、最も重要な理由としては、まず第一に音楽に比べて一般のドイツ人にとって造形美術は馴染みにくかったこと、第二に美術作品はどうしても図版や写真など視覚的な要素が必要となるが、小型の廉価文庫本はこれに向いていないと考えられたことなどがあげられよう。
その意味ではハインリヒ・レクラムの主導で1956年から刊行され始めた「造形美術作品研究」のシリーズは、当初からかなりの冒険的な試みであったと言えよう。結論から言えば、このシリーズは1975年まで二十年間続いた後、採算が取れずに終わってしまった。しかし文化的な観点から見れば決して無意味な事業だったわけではない。戦後の再建に一通りのめどがついた時、19世紀以来のレクラム出版社の教育理念を全力で継承しようと考えていた四代目当主は、自分としてもこの意味での新たな要素を付け加えようとの強い野心に駆られたと思われる。本人もこれに触れて、「このシリーズをわが百科文庫に取り入れることは、これまで主として文学的叢書の傾向が強かった文庫に、間違いなく新たな役割を切り開くことになるかもしれないからであった」と述べているのである。
この考えに取りつかれた四代目当主は、それまでにはなかった「絵入り百科文庫」というものを構想し、美術図版一枚とテキスト二枚という組み合わせを考えた。そしてこのシリーズの全体の責任編集者としてハンブルク美術館長K・G・ハイゼ教授を選んで、この仕事の遂行を依頼したのであった。ハイゼ教授は引き受けたものの、当初から内容的に高い水準をレクラム社側に突き付けた。これは売る立場からはかなり難点があったため、両者の交渉は難航した。しかしどうしてもこの企画を通したかったハンリヒ・レクラムは、これを自らの仕事にして、原稿審査を自ら行い、制作は個人秘書のブラハフォーゲルに任せるというやり方をとった。
「造形美術作品研究」シリーズは、その表題からも分かるように、一般向けの分かりやすい美術案内というよりは、むしろ美術の専門家が、ある芸術家の個別作品に焦点を当てて、徹底的に分析するという高度な内容のものであった。つまり大学の美術専攻のゼミナール学生向けのものであったといえる。本の構成としては、写真図版、美術史的説明、そして手紙・報告・芸術家の経歴などの記録部分の三部構成になっていた。そして図版は16枚、テキスト30頁とし、価格が普通の百科文庫の倍になるため、通し番号として9千番台が当てられ、その頭にBがつけられた。このシリーズは1971年までに、全部で149ナンバー刊行された。編者としては初めはハイゼ教授が担当し、1965年以降はレクラム社の美術担当原稿審査員ヴンドゥラムが引き継いだ。
内容としては、古今の一流の造形美術家の一つの作品を選んで、堀り下げていくという方法がとられていた。ちなみに第一期の美術家の名前を見てみると、アルトドルファー、バルラッハ、マイスター・ベルトラム、マネ、メンツェル、ミケランジェロ、ムンク、ピカソ、ラファエル、リーメンシュナイダー、ルーベンス、ヴェラスケスなどとなっている。
発行部数は作品によって2万部から1万2千5百部の間であったが、実際には最初はその半分しか発送しなかった。その中でも個々の作品の売れ行きは、知名度に左右された。そしてこのシリーズは、やはり後になるにしたがって売れ行きが減少していった。そのため社内でも経営上の観点からこれの継続に不安の念を示す声が強かったが、そのたびに四代目当主がレクラム社の内部の声を抑えてきたのであった。そして販売を促進するために、あの手この手が打たれたが、結局は売れ行きの向上にはつながらなかった。この間にも例えば高級週刊新聞『ディ・ツァイト』の文芸欄によって、このシリーズは「モザイクの美術史」として高く評価されたりしたが、やはり売れ行きの方はじり貧であった。そしてレクラム社としてもついに1971年には本シリーズの刊行を打ち切り、1975年以降は販売も中止となった。
これとほぼ並行して1957年からは、もう少し一般向けの「レクラム美術案内」というシリーズが刊行され始めた。これは「造形美術作品研究」のような専門家用の完璧な記念碑的著作と、多忙な旅行者のための短い美術案内書とのちょうど中間を行くものであった。すべての素材についての深い知識に基づいて、重要な文化財が選ばれ、対象物の形態的な特徴と歴史的な関連について、詳しい説明が加えられている。そのため大学、文化財保護、博物館関係の著名な美術史家が編集者として選ばれた。そしてこれらの専門家の手によって、対象となる文化財が綿密に調査しなおされ、その成果がこのシリーズに盛り込まれた。その意味で一般向けとはいえ、その水準はかなりのものであったと言えよう。
国別の編成となっていて、まずドイツは地域別に6巻が刊行され、続けて近隣ヨーロッパ諸国つまりオーストリア、スイス、イタリア、フランス、トルコ、デンマークが刊行されていった。
(3)シュトゥットガルトの新社屋完成
【1961年】以降
新社屋完成
戦後メンヒ通り31番地の社屋に入ってからほぼ10年すると、業務の順調な発展に応じて印刷などの工場設備の拡充、並びに百科文庫の在庫保管用の倉庫の拡大が必要になってきた。そのため1959年12月には、その隣の敷地に新社屋を建設するための定礎式が行われた。そしてこの建物は翌翌年1961年5月5日に完成し、その落成式が行われた。この時来賓として招待されたバーデン・ヴュルテンベルク州のシュトルツ文部大臣、ドイツ言語文学アカデミーのカサック会長そしてレクラム出版社の長年の顧問ビュヒナー氏が、それぞれ記念の演説を行った。

レクラム出版社の新社屋(1961年)
百科文庫の発展~収録作品の高級化~
この間百科文庫の発行は順調な伸びを示し、再建10年後の1959年には戦前の復刻版を含めて、千ナンバーに達した。そしてこの間の発行部数は4,500万部を超えた。一方百科文庫の一冊の値段は、6年間60ペニヒに据え置かれていた。しかし諸般の事情により、この年65ペニヒへと値上げされることになった。そして1961年には70ペニヒ、1962年7月には80ペニヒとなった。
いっぽう収録された作品の面では、全体に高級化の傾向が見られた。つまり文学については、戦前のものに註をつけ、文献表示をし、新たに書かれた「後書き」などを入れた、原典批判版がふえていった。また外国文学の場合は新しく翻訳し直したものが次第に数を増していった。そしてこれらが、昔のものの単なる復刻版を数のうえで凌駕するようになっていったのだ。
こうした流れの中で、従来おろそかにされてきたアジア文学にも目が向けられるようになった。1964年からはユネスコとの協力のもとに「ユネスコ・シリーズ」としてアジア文学の代表的な作品が刊行され始めた。これには『唐時代の中国詩人』、ジェラルディン・ルーミン著『東洋の詩集』、『リグ・ヴェーダ詩集』、そして日本の『新古今和歌集』及び『更級日記』ほかが収められた。このほか日本文学から百科文庫に収録された作品は、川端康成の『伊豆の踊子』、『竹取物語』および江戸川乱歩ほか数人の推理小説作家の作品を集めた『日本の推理小説』である。

『日本の推理小説(Japanische Kriminalgeschichten) 』
ドイツ文学でも従来は軽視されてきた16,17そして18世紀前半の文学作品にも目が向けられるようになった。そして1965年には、グリューフィウスの『死にゆくパピニアヌス』、ローエンシュタインの『クレオパトラ』、ビーダーマンの『ツェノドクスス』という三つのバロック戯曲が収録された。これらは百科文庫のバロック文学への進出を告げるものであった。この時代の文学はドイツの一般市民にとってはもともとなじみの薄いものであった。そしてその後も広範な層への普及を期待したわけではなく、大学の文学専攻のゼミナール学生に焦点を合わせたものであった。戦後レクラム出版社ではギムナジウムをはじめとする中等教育機関への進出を、戦前とは比べ物にならないほど熱心に行ってきたが、いまやその矛先は大学や少数の人文的関心の高いエリートへと向けられるようになったわけである。その結果ドイツの大学の文学授業やゼミナールのカリキュラムの多くを、百科文庫が賄う事も可能になったのであった。これはレクラムの戦後における新しい発展だったといえる。
こうした意図に沿って本の中身も、さきほど述べたように、「歴史的・原典批判版」の性格を持つようになった。そして作品によってはその表紙にこの言葉をはっきりと明示したものもあった。さらに最先端の文学理論がとりいれられ、作品受容に関する説明が付け加えられたことによって、学問的な利用価値が増したのであった。またこれらの編集作業に当たっては、西ドイツの学者だけではなくて、スイス、オーストリア、デンマーク、オランダ、イギリス、ポーランド、そしてアメリカの大学のドイツ文学者も加わったことが注目される。
こうして出版された作品がどのようなものであったのか、次にそのうちのいくつかを挙げることにしよう。まず18世紀後半のジャコバン派紀行文学に属するゲオルク・ファルスター著『ニーダーライン観察考』、18世紀中ごろの敬虔主義の内面的な感情生活を合理主義と結合しようとした作家ゲラート著『優しい姉妹たち』、18世紀前半における高山風景の最初の文学的描写といわれるハラー著『アルプス』、ゲーテ周辺の詩人のひとりライゼヴィッツ著『ユーリウス・フォン・タレント』、ロマン派のティーク著『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』、18世紀後半に激しいギリシア憧憬にとらわれたハインゼ著『アルディンゲッロ』などであった。
文学ジャンルの拡大
1960年代の中ごろから1979年代の後半にかけて、それまでは売上困難のために発行されてこなかった、あまり一般的とは言えない傾向の文学作品やジャンルにまで、目が向けられるようになっていった。たとえば1966年から67年にかけて『若きドイツ。テキストと記録』及び『ドイツ三月前期』というものが刊行されたが、これらはレクラム社の創業者の草創期でもあった1815年から1850年までの民衆解放的文学に対して、新たな関心を呼び起こしたものである。ここではベルネ、フライリヒラート、グロースブレンナー、ハイネ、ヴェーアトなどの、その後「忘れ去られていた」作品が掘り起こされた。
このような試みは、従来の固定化した文学的基準を打破するために貢献したのである。そしてさらに対象となる時代とジャンルの枠組みを超えて次々に百科文庫の中に収められていったのである。それらがどのようなものであったのか知っていただくために、次にそのタイトル名と刊行年を列挙することにする。
『15,16世紀のカーニヴァル劇』(1973)、『ドイツ人人文主義者のラテン語詩』(1967)、『マイスターザング(職匠歌)』(1965)、『ベーグニッツシェーファー。ニュルンベルクのバロック詩』(1968)、『啓蒙主義の風刺作品』(1975)、『ゲッティンゲンの苑』(1968)、『感傷主義』(1976)、
『若きドイツ。テキストと記録』(1966)、『ドイツの三月前期。テキストと記録』(1967)、『ドイツのミッヒェル。48年の革命喜劇』(1971)、『ベルリンの街角文学、1848,49年。革命時代のユーモアに富んだ諷刺的パンフレット』(1977)、
『自然主義の理論』(1973)、「自然主義の一幕もの」(1973)、『自然主義の散文』(1973)、『自然主義から現代までのドイツの大都会叙情詩』(1973)、
『ユーゲントシュテイールの叙情詩』(1964)、『ユーゲントシュテイールの一幕ものと小さな戯曲』(1974)、
『表現主義の理論』(1976)、『表現主義の詩』(1966)、『表現主義の一幕ものと小さな戯曲』(1968)、『表現主義の散文』(1970)、『ベルリン・ダダ』(1977)、
『原初から1914年までのドイツ労働者文学』(1977)、『ドイツ労働者詩。1910~1933』(1974)、『ドイツ・プロレタリア=革命的文学作品』(1974)、『1961年以降の労働世界の作品』(1974)、『ルポルタージュ』(1976)、『ドイツ亡命文学、1933~45年』(1977)、『1960年以降のドイツの詩』(1972)、『コンクレート・ポエジー』(1972)、
次いで時代を越えたジャンル別のアンソロジーとして、
『ドイツの逸話集』(1976)、『ドイツの箴言集』(1978)、『ドイツのバラード集』(1968)、『ドイツの警句集』(1969)、『ドイツのなぞなぞ』(1972)、『ドイツのナンセンス・ポエジー』(1978)、『カレンダー物語集』(1977)、
外国文学から、
『ギリシアの叙情詩集』(1964)、『ギリシアの諷刺劇集』(1970)、『ヨーロッパのバラード集』(1968)、『古英語の叙情詩集』(1972)、『イギリスのバロック詩集』(1971)、『現代イギリスの叙情詩集』(1976)、『イギリスのソネット集』(1970)、『アメリカの叙情詩集。17世紀から現代まで』(1974)、『アメリカの実験的散文集』(1977)、『フランスの幻想物語集』(1977)、『現代ポーランドの叙情詩集』(1973)、『現代ルーマニアの叙情詩集』(1973)。









































































































































































