はじめに
2026年平戸歴史紀行(前半)では、5月19日(火)の一日目および20(水)の二日目についてかなり詳しくお伝えした。そこで今回は21日(木)の三日目について述べていくことにする。行き先は平戸市内からは離れた所にある生月島(いきつきしま)と鄭成功記念館だ。
5月21日(木)三日目
6時半ホテルで起床。昨日の日記をつける。7時半昨日と同じ広々としたホールを兼ねた食堂で朝食をとる。今日は客の人数が少ないためか、セルフサービスではなくて、部屋ごとに料理が用意してある。食事の後、配膳の女性が平戸名物の料理のことを「じげもん」と呼び、「じげもん、うまかもん」(平戸料理は、うまいのだ)と説明してくれた。

「じげもん、うまかもん」の見本
その後仕度をして、ホテルのロビーへ移動。外は、小雨交じりのどんよりとした曇り空。本日の最初の目的地は、かなり離れた生月島(いきつきしま)なので、とても歩いてはいけない。そこで受付でタクシーを呼んでもらう。

平戸島と生月島の地図
やがてやってきたタクシーに乗り、平戸島北部を東から西へと走る。20分ほどで生月大橋を渡り、すぐ近くにある「博物館・島の館」に着く。
建物の一階は、捕鯨関係の展示で占められている。そして二階が私の関心事であるキリシタン関係の展示場になっている。平日で、しかも天候が悪いためか、人影はほとんど見られない。
平戸のキリシタン史について
海の道の中継地・平戸
個々の展示の説明に入る前に、平戸という場所について知っておく必要がある。そのため、おおむね中園成生著『かくれキリシタンとは何か』(弦書房、2015年)に基づいて、平戸のキリシタン史の概要をお伝えすることにする。
さて日本は古代から文化を中国から取り入れてきたのだが、博多と中国東南部の港町寧波(ニンポー)を結ぶ航路「大洋路」が、古代末期から中世初頭に確立した。そして平安時代の初期、遣唐使船がこの大洋路の開拓者のような役割を果たしていた。天台宗の最澄、真言宗の空海も遣唐使の時代に渡唐を果たしている。次いで中世には臨済宗の栄西、曹洞宗の道元もこの航路を利用して中国にわたり、禅宗を日本にもたらした。その際密教や禅宗の寺が、大洋路の中継地であった平戸に作られた。
宗教と並んで日中間の貿易活動も活発におこなわれた。そしてそれが盛んになったのは戦国時代であった。中国(明)ではその頃紙幣から銀による取引に変わったが、石見銀山をはじめ銀の採掘が盛んであった日本にそれを求めた。そこで活躍した中国人の私貿易商人たちこそが、当時「倭寇」と呼ばれた人々であった。1540~50年代は、彼らの活動が活発になっていた時期なのだが、その頭目が王直という人物。この王直についてはブログの前半でも紹介したが、最初中国の沿岸の島に拠点を構えていたのだが、そこを明の軍隊に攻撃され、拠点を平戸に移した。中国側が取り締まりのできない場所に拠点を構えて、大洋路の貿易をコントロールしたわけだ。当時の平戸は、まさにそういった中国人海商の活動の中心地となっていて、「西の都」といわれるほどの繁栄を謳歌していた。
キリシタン時代の到来
そのような時代に1550年、王直の手引きによってポルトガル船がやってきた。かれらが目指していたのはもちろん銀であった。ポルトガル船が平戸に入ったという報告を聞いて、前年鹿児島に上陸していたイエズス会の神父ザビエルが平戸にやってきて、ミサを行った。これが平戸ひいては長崎県におけるキリスト教の布教の始まりであった。まもなくザビエル神父の後任として、ガーゴ神父が平戸で布教を行った。
当初の平戸における布教は、鈴を持たせた修道士を街路に派遣し、日本人の言葉で教理を説かせて、関心を持った人を教会に連れてきて入信させるというかたちであった。つまり辻説法をして信者を増やしていたので、平戸という港町においては、あくまで個人の意思で入信させていたわけだ。その頃には領主の松浦(まつら)隆信もキリシタン信仰にたいして好感を抱いていたようだ。
イエズス会の過激な布教活動
しかしガーゴ神父の後任として赴任したヴィレラ神父は、1558年平戸松浦氏の家臣の籠手田(こてだ)氏と計らい、その領地であった生月島、度島(たくしま)、平戸島西岸に住んでいた人たちに対して、一斉改宗という形で入信を進めた。それによって1,300人が一挙に入信している。その際彼らがそれまで信じていた仏教の寺院は教会に変えられ、仏像は異教の偶像ということで、焼かれてしまった。つまりここで、他の宗教・信仰の併存を許さない一神教としてのカトリックの姿があらわれたわけだ。
平戸では、それまでもとからあった神道や後に中国から入ってきた様々な仏教の宗派が、積み重なる形で重層的な信仰世界を作っていた。そこへほかの宗教や信仰を認めずに排斥する一神教としてのカトリックが現れ、平戸の信仰世界に大きな秩序の破壊をもたらすことになった。一斉改宗に対する仏教勢力の激しい抗議に応じる形で、松浦隆信はヴィレラ神父を追放した。しかし改宗したキリシタンの信者はそのままのこった。
そうした時起きたのが、ブログの前半で取り上げた「宮の前事件」であった。1561年、平戸の七郎宮の前で、一枚の綿布の商取引をめぐって日本人とポルトガル人がもめて、殺傷沙汰となり、ポルトガル人が13人も殺されてしまう。松浦隆信は仲裁に入ったが、ポルトガル人は平戸はもうこりごりだと、翌年長崎の大村領の港に移ってしまった。ところがその大村氏の家臣が反乱を起こし、再びポルトガル船は1564年平戸に戻ってきた。実はその前に、のちに『日本史』を執筆するなど活躍したフロイス神父が平戸の領主松浦隆信に面会し、キリシタンの布教を許してくれるよう頼んでいたのだ。領主の松浦氏はその願いを叶え、教会堂の建設を認めた。
松浦氏とイエズス会の確執
こういう状況の中で、キリシタンはさらに勢力を拡大していく。籠手田氏とともにキリシタンとなっていた一部勘解由(いちぶかげゆ)が義母を説得して、1565年に一部領の一斉改宗を実現した。これによって生月島は全島キリシタンの島になったわけだ。
キリシタンにとって非常に前向きの状況になったわけだが、前年にキリスト教の布教も許し、「天門寺」も建ったのだから、1565年の夏も、ポルトガル船は当然のように平戸へやってくるだろうと松浦隆信は思っていた。しかしその年のポルトガル船は大村領の福田港に入ってしまった。大村純忠の方が、自身もキリシタンに入信していて、キリシタンに対して融和的なところがあるという事で、福田港を入港地に選んだようなのだ。
いっぽう松浦隆信はそうした事態にたいして非常に怒り、平戸に集まっていた日本の貿易船を集め、平戸の軍勢を乗せて福田港に攻め寄せていった。しかしポルトガル船の大砲の火力に敗れて、あえなく退散する。これによって平戸松浦氏とポルトガル人およびイエズス会との反目は決定的になった。それまで平戸松浦氏は港の領主として、貿易で効率的に収入を上げていくことを領国経営の大きな柱にしていたが、その頃から周辺地域の攻略を積極的に進めるという、領土型の戦国大名の性格を強めていった。
伴天連追放令と禁教の時代
その後、1560~70年代には、籠手田領、一部領ではキリシタンが栄えていたが、平戸の他の地域では、あまりキリシタンは広がっていかなかった。さらに1587年には、豊臣秀吉が九州制圧のために博多に入ってきたとき、突如「伴天連追放令」を発令した。これによって宣教師たちは、日本国内で布教を行えず、宣教師自身も日本にとどまれないようになった。
この状況に対処するために、日本中の宣教師たちが集まって協議した場所が、生月島であった。その時、セミナリオ、コレジオというイエズス会が設立した学校も、一時的に生月島内に移転している。しかし秀吉は伴天連追放令を本気で推進しようとしたわけではないようで、その後の事態は非常にあいまいなままで進んでいった。そのため各地から集まった宣教師たちも、再び自分たちの任地に戻っていった。
江戸時代になると、本格的な禁教の時代を迎えることになった。平戸藩では1599年に松浦隆信が亡くなり、隆信の子である鎮信(しげのぶ)は、父の葬儀に籠手田氏、一部氏が参列するように命じた。ところが当時のキリシタンは、ほかの宗教の儀礼に参加することは、信仰を捨てることだと考えた。しかし参列を拒否するという事は、平戸松浦氏にたいして弓を引くかたちになる。そのためかれらは第三の道として、キリシタン信仰を守ったまま領地を捨てて長崎へ向かう道を選んだ。
こうして籠手田氏、一部氏と、彼らに従った800人ほどの信者は長崎に退去した。そして残った大勢の信者たちは、平戸松浦氏の直接の支配を受けるようになった。そうした状況の中で、教会堂や十字架は壊され、かわりに仏教寺院や神社が再興ないし新造されていった。その波乱の時代にあってもキリシタンの信仰を指導していたガスパル西玄可は、1609年に生月島の黒瀬の辻で処刑された。
その後徳川幕府が禁教令を1614年に出し、禁教、弾圧は激しくなった。1622年には平戸地域でひそかに宣教を行っていたイエズス会のカミロ神父がとらえられ、平戸瀬戸に面した田平(たびら)の焼罪(やいざ)と呼ばれる場所で、火あぶりの刑になった。その時、平戸に入港していたオランダ・イギリス連合艦隊の乗組員が見物に来ていた。
さらにこの年、カミロ神父の宣教活動を助けた地元の信者たちが、生月島の東の沖合にある中江の島などで処刑されている。そしてその二年後には、この信者たちの家族もとらえられて処刑された。さらに1645年にも生月島や平戸西岸の集落でキリシタン信者が見つかり処刑されている。ただ、だいたいこの時期で直接的な弾圧は終わり、その後は絵踏みや宗門改めのように、制度的な禁教に移行していった。
生月島の信者の経済活動
その後200年以上の間、生月島では表面的にはキリシタン信仰は禁止されていたが、信者の信仰はそのままずっと継続されていた。彼らは今日潜伏キリシタンと呼ばれているのだ。
その一方で生月島では捕鯨やマグロの定置網漁、港をつくる石工の活動などが盛んにおこなわれるようになる。その活動範囲は島の外にまで及んでいた。たとえば生月島の石工は、江戸時代の後期には山口県辺りまで出かけ、築港工事にたづさわっていたことが記録で確認できる。かれらは潜伏キリシタンの信者であったが、辺鄙な島にこもって信仰を続けていたわけでも、貧しかったわけでもなかった。捕鯨業などは、江戸時代においては鉱山とともに最大規模の産業だったのだ。こうした捕鯨業などが生み出す大きな経済力は周辺地域にも波及し、潜伏キリシタン信者も集落や家、信仰組織を維持することができたという側面があったのだ。
明治時代に入るころから、カトリックの再布教が行われるようになったが、のちに長崎の外海(そとめ)地方から移住してきた人たちは、カトリックに合流していった。しかし生月島ではほとんどの人たちが、潜伏キリシタンの信仰を継続している。このひとたちのことを「かくれキリシタン」と呼んでいる。
なぜそうなったのか? この人たちは先祖の人たちを祀る仏壇を、カトリックになるとどうしても破棄しなければならない。しかしご先祖様がこの信仰を命がけで守ってきたので、ちゃんと祀れなくなると悪いことが起きるに違いないと、考えたようだ。つまりご先祖様の祭祀をこれまで通りに続けてゆくためには、以前からの潜伏キリシタンのかたちを継続する必要があったわけだ。
かくれキリシタンとは何か
あらためて定義すると、禁教時代に信仰をひそかに続けていた人々を「潜伏キリシタン」と呼び、明治初めに禁教が解かれた後もなお、それまでの信仰を継続していった人々のことを「かくれキリシタン」と呼んでいる。
かくれキリシタン信仰における二つの系統
長崎県のかくれキリシタン信仰には、生月・平戸系のかくれキリシタン信仰と、外海(そとめ)・浦上系のかくれキリシタン信仰の二つの大きな系統があり、両系統の信仰のかたちはかなり異なっている。外海・浦上系のかくれキリシタン信仰の信者は、長崎市の北方の外海地方と長崎市の東の郊外の浦上などに分布しており、外海地方の信者は、江戸時代後期に五島や平戸に移住している。
この移住の原因について行われた調査によると、江戸時代の外海地方で人口の急激な増加が起き、その増加を食い止めるために大村藩が分家を禁じる法令を出した。それに反発した外海地方の人たちが平戸藩領などに逃げ出したり、五島藩と大村藩で協定を結んで、五島への移住を進めていったという。そして外海系住民の移住地においても、潜伏キリシタンの信仰は継続されていった。
かくれキリシタン信者の信仰の様相
生月島のかくれキリシタン信者の方の家には、様々な信仰対象が祀られている。そこには弘法大師、先祖のお仏壇、かくれキリシタンの組のご神体である御前様、それからお伊勢様とも呼ばれている神社の氏神様などがある。ただこれらの全てが、かくれキリシタン信仰と結びつているわけではない。これらの祭壇は、それぞれの信仰・宗教の枠組みの中でおまつりされている。かくれキリシタン信仰と結びついているのは御前様だが、先祖様(仏壇)にもオラショ(祈り)を唱えることがあるという。
次に地域の中を見ても、生月島内には神道、仏教、かくれキリシタン、カトリックなどにかかわる聖地や信仰施設が点在していて、地域の中でも様々な宗教や信仰が併存していることが分かる。例えば「お直り」という行事はかくれキリシタンの行事だが、「祇園祭」は神道、「お巡り」は仏教、「須古踊り」は民俗行事として行われている。
つまりかくれキリシタン信仰や仏教、神道というものが併存しているかたちで、各々きちんと区分し、使い分けて信仰しているのだ。このことを中園氏は次のような譬え話で説明している。「多くの日本人は正月には初もうでのために神社をお参りしますが、その後親戚の葬式でお寺にいくこともあります。そのときに誰かから『あんたは神社に行っていたのだから、かくれ神道なのか』と言われるようなことはないと思います。日本人というのは本来、いろいろな宗教・信仰を併存させながらやってきたのです」
かくれキリシタン信仰のための組織
生月島のかくれキリシタン信仰の場合は、「津元」とか「垣内」と呼ばれている組があり、それらは大体20~30軒とか40~50軒で構成されている。この津元・垣内は一つの集落の中に複数(3つとか9つ)ある。また津元・垣内の中には「小組」と呼ばれている、およそ4~5軒で構成されている下部組織がある。つまり集落単位の大きな組、集落の中に複数ある津元・垣内という中くらいの組、そして下部組織の小組という具合に、大中小三つの組が存在するわけだ。
「慈悲の組」-大組の起源」
集落単位の大きな組は、キリシタン時代の宣教師報告の中に出てくる「慈悲の組」がその起源になっている。この組では慈悲役といわれる役職者が何人か選ばれていて、教会堂管理や信者の指導、それから信者が亡くなった場合の世話や洗礼まで執り行っていたのだ。この慈悲役が現在のかくれキリシタンの御爺役ー「爺さん」とか「爺役」「水の役」ともいわれるーにつながっている。御爺役の務めは洗礼が主だが、信仰の指導や葬式をつかさどっている場合がある。
「慈悲の小組」ー小組の起源」
この組では「お札」と呼ばれるご神体をお祀りしていて、毎月一回とか年数回、日曜日に、組に属する家の人が宿に集まり、お札を引いて吉凶を占う「おしかえ」という行事が行われている。そのお札は、一枚の親札と十五枚の木札は一セットになっており、十五枚の方は「ロザリオの玄義」と言って、マリアの生涯を十五の場面として観想する修業や祈りにかかわりがあるものと考えられている。ある宣教師報告には、日曜日に信者たちが一人の家に集まり、説教についていろいろ話し合っていたとある。これは1570年代の状況である。
「信心会の導入ー中組の起源」
その後1580年代以降になると、「信心会」という新しい組が導入される。この組は、最初の時期には、集落や教会に結びつかない信者の組織であった。1581年に長崎に作られたのが最初のもので、会員100名と会長1人で構成された任意の組織であった。1591年に大村にできた組織は、会員3000人という非常に大きな組織であった。その目的は、マリア様を信心するとか、洗礼者ヨハネを信心するといったものであった。
生月島にも信心会があったことは、1609年に殉教した西玄可の記録で確認できる。この人物は山田村にあった「聖母の信心会」の頭を務めていて、西が処刑される前に、ある聖画の前にひれ伏して拝んだという記述も残されている。
「島の館の展示」の紹介
以上平戸のキリシタンの歴史およびかくれキリシタン信仰について、かなり詳しくお伝えしてきた。これからは「島の館」の2階にある展示室について、私が見たもの、聞いたものについて、お伝えすることにしよう。

かくれキリシタンの祈り、オラショ
部屋に入ると、お祈りの言葉が聞こえてきた。人がいるわけではなく、録音テープが流されていたのだ。それはキリシタン信仰の行事で唱えられる「オラショ」というお祈りなのであった。生月島では、信者が集まって「一通り」というお祈りの形を、全員で大体30分ほどかけて唱えるのだそうだ。今日なお、かくれキリシタンの信者が住んでいる壱部(いちぶ)集落ではこの「一通り」をすべて暗誦する形でおこなっているという。
オラショの中に、歌われるオラショ「グルリヨーザ」というものがある。これはイベリア半島で16世紀に歌われていたグレゴリア聖歌が原曲だという。イベリア半島ではその後、歌われなくなって楽譜だけ残っていたのを、音楽史の皆川達夫氏が見つけて、生月島の「グルリヨーザ」の原曲だという事を確認したという。また、日本において1600年に出版された「どちりなきりしたん」のオラショと今日のオラショが同じ祈りであることも確認できる。
部屋の両側にはガラス・ケースに入った展示品と、壁の部分に書かれた説明書きがびっしりと並んでいる。その中に「オコンタツ様」と呼ばれている十字架の形をしたものがあった。

オコンタツ様(十字架)
これは本来はロザリオ(数珠)の一部をなすもの。信者の「戻し(葬儀)」の際、親父役が遺体の頭上にこのコンタツをかざし、「オコンタツ様を戴かせ奉るは今ばかり」と唱えたという。
その隣に「メダイ」と「オコクラ」と呼ばれるものが見えた。メダイとはキリスト、マリアや諸聖人などをしるしたメダルのこと。このメダイは、キリシタン時代に伝わった古いものと思われる。かくれキリシタンの信徒は、メダイをご神体として、オコクラと呼ばれる木の小祠に収めて祀っている。

メダイとオコクラ
次いでガラス・ケースの中に、様々な種類の徳利の形をした水入れが見えた。「お水瓶」と呼ばれているが、その中には「聖水」が入れてあるのだ。生月島のかくれキリシタンでは、1622年と24年に信者が処刑された中江ノ島という聖地で「お水」を採取して「サンジョワン様」と呼んでいるという。この水は、お祓いや「お授け(洗礼)」などの時に使われるが、病気の際には薬として飲むこともあるという。
様々な種類の徳利のような形をした「お水瓶」
また壁にはこの聖水を採取する「お水取り」の様子を写した写真が飾られていた。生月島のほとんどの集落では、中江ノ島にわたり、岸壁の前でオラショを唱えるあいだに沁み出てきた水を集めるという。

岸壁の前で聖水を採取する信者たち
また別のガラス・ケースには、「オテンペンシャ(お道具)」と呼ばれる、たくさんの小縄の片方を束ねて握れるようにしたご神体がかざってあった。「屋祓い」という家のお祓いの時はこれを振って祓い、「風離し」と呼ばれる病気直しの行事の時は、これで病人の体をたたいて、病の原因である「わるいカゼ」を払い出すという。
このオテンペンシャというのは、キリシタン信仰で苦行に用いられた鞭のこと。「ペニテンシア」というポルトガル語が語源で、「悔い改める」という意味だという。
次に私が注目したのは、「お掛け絵」と呼ばれる、掛け軸仕立てになっている聖画であった。いろいろな種類の絵があるが、大体1590年代ぐらいから信心組に配られた聖画がもとになっている。このころセミナリヨ(小神学校)に画学舎ー絵を制作する工房ーが作られ、ここでたくさんの聖画が作られたと言われている。そこで描かれたのは、まず救世主キリスト、それから聖母子像。聖母子像は、三日月を踏み、おさな子を左抱きにして立つ姿が基本。聖母は着物姿で、三日月の代わりに日月を配しているのもある。ロザリオに囲まれた「ロザリオの聖母子」というのもある。そして「聖母子と二聖人」だが、聖母子の下に、イエズス会の創始者ロヨラとザビエルを配したものが代表的だ。さらに大天使ガブリエルが聖母に神の子の懐胎を告げる「受胎告知」のお掛け絵もある。最後にキリストに洗礼を授けた聖人「洗礼者ヨハネ」もあるが、生月島ではサンジュアンと呼ばれているという。
そのほとんどが、日本風の姿かたちに描かれているのが面白い。

8枚のお掛け絵(聖人たちが描かれている)
以上、「島の館」の展示物について、ざっと紹介してきた。そのほかかくれキリシタンの年中行事や彼らの農耕儀礼について、先に引用した中園成生氏の『かくれキリシタンとは何か』に依拠して、すこしお伝えしておこう。
生月島の津元・垣内では、年間を通じてたくさんの行事が行われているが、そのなかには「ご産待ち」とか「ご誕生日」というクリスマスに由来する行事、「上がり様」という復活祭に由来する行事などキリスト教起源であることが確実な行事がある。その一方で元旦の「初詣り」のような,一見民俗行事のようなものもあり、「田祈祷」や「作前」など、農業に関係した行事も多くある。
さらに雨ごいや魔よけのために野を祓うなど、農業に関係した行事もあるが、これにはキリシタン関連のものもある。それらの農耕儀礼は禁教時代に独自に始まったものではない。キリシタンの布教時代に、キリシタンの行事として行われていたのだ。1596年のフロイスの報告によると、天草では田んぼに水を引く際に「池祭り」という行事を、もともと修験道の山伏を呼んでおこなっていたという。ところがそれではまずいので、キリシタンの行事としてやろうということになり、諸聖人の祈祷と使徒信経(ケレド)をとなえたところ、水は何ら支障なく水路に伝って流れたとある。つまり以前は、異教の行事としてやられていた池祭りを、キリシタンの行事としてやるようになったわけである。
鄭成功記念館
生月島の島の館での「かくれキリシタン」関連の展示を見終わって一階のロビーに戻る。外を見ると雨が降り続いている。そこでタクシーを呼んで、鄭成功(ていせいこう)記念館へと移動する。生月大橋を渡って平戸島の北部を東へ20分ほど走ると、目的地に到着した。そこは島の東北海岸の川内地区にある。

真っ赤な柱の鄭成功廟
そこに真っ赤な柱と瓦屋根の「鄭成功廟」が建っていた。建物の正面奥には、鄭成功の堂々たる座像が目に入った。濃緑色の衣装をまとった、その坐像をまず参拝してから、右隣に建つ鄭成功記念館に入る。入り口手前には鄭成功母子像が立っている。手にしたパンフレットには、「鄭成功記念館は、東アジアの英雄鄭成功が7歳まで育った世界に一つしかない生家を再現するとともに、鄭成功の偉業を顕彰し、後世に伝えるために再現されたものです」と書かれている。私が建物に入ったとき、後ろから二人の中年男性が入ってきて、管理人の女性と話し出した。

記念館の中で話をする管理人の女性と中年の男性
ここで鄭成功の人となりをざっと紹介しておこう。中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に、1624年7月に平戸で誕生。幼名を福松という。
わずか7歳で単身海を渡り、21歳の時、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、人々は彼を「国姓爺」(こくせいや)と呼んだ。爺というのは老人という意味ではなく、殿あるいは様とでもいうような尊称だという。ともあれ鄭成功は明の皇帝のために「抗清復明」を旗印に清朝と不利な戦いを続けた。やがて台湾に侵攻し、強固な要塞ゼーランディア城を築いてその地を支配していたオランダ人を追放した。そしてそこに政府を設け、法律を定め、開拓を行い、民を養った。こうして時運の挽回を図ったが、病に倒れ1662年、39歳で亡くなった。その後を息子鄭経が受け継ぎ、20年間父の業績をおおいに発展させた。
鄭成功の名前は江戸時代の日本人にも広く知れ渡ったが、それは近松門左衛門の浄瑠璃劇『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)を通じてであった。近松はフィクションであることを示すために「姓」を「性」にしたのだという。また主人公の名前を「和藤内」(わとうない)としている。
次は父親の鄭芝龍について。中国福建省南安の出身で、海商として活躍する中、20歳で平戸にわたり田川マツと結婚し、2子をもうけた。平戸藩主から可愛がられ、日本・台湾を拠点に東アジア最大の海商集団の頭領となった。後に明朝の誘いに応じて帰順すると、大将軍に任命された。やがて清が台頭し明王が危機に瀕したとき、清朝に投降。しかし幽閉の身となって、1661年処刑された。
川内町には千里ガ浜という海岸があるが、母のマツは貝拾いにいった際、にわかに産気づき、浜の大石にもたれて鄭成功を生んだ、と伝えられている。千里ガ浜にはそのことを記念して、鄭成功児誕石が置かれ,観光の名所の一つになっている。1645年鄭成功の招きでマツは中国の泉州にわたる。しかしやがて清の攻撃により泉州は陥落し、自害した。
鄭成功記念館を出た時、まだ雨が降り続いていた。そのため周辺の名所である鄭成功児誕石や千里浜鄭成功記念公園などを見るのは省略して、タクシーで平戸市内へ戻った。ちょうど空腹だったので、市内の食堂に入って、遅い昼食をとった。そして雨が止んだので、市内の海岸通りを歩いて、松浦史料博物館に向かった。やがてゆるい坂道と石段を上がって、その博物館にたどり着いた。

松浦史料博物館の外観
この博物館は松浦家39代の当主から寄贈された史資料を展示することを目的に、1893(明治26年)に設立された。建物は鶴ヶ峰邸と称して建てられた当主の私邸をそのまま使用したという。
博物館敷地周辺は、鎌倉時代の平戸松浦氏の本拠地であった。またオランダ、イギリスとの貿易時代には、藩主の邸宅が置かれていた。そしてこの頃ウイリアム・アダムズをはじめ各国の要人が出入りした歴史ある場所であった。
さて広々とした館内には、豪華な展示物が見られた。たとえば室町末期の鎧兜は、豊後の戦国大名大友宗麟から松浦家当主鎮信に贈られたもの。あるいは江戸初期の絵師狩野探幽の筆になる「狂獅子図屏風」、18世紀初頭に来航した台湾船の精密な写生図「異国船絵巻」、江戸末期に松浦家に輿入れした女性が乗っていた豪華絢爛たる「駕籠」、そのた数え上げていったらきりがないほどであった。
これら展示品をざっと見終えてから、受付で様々な関連資料を買い求めて、博物館を後にした。それから近所の店で弁当とビール缶を買って、例のオランダ塀の横の石段を登って、ホテルに入る。部屋で着替えをしてから、11階の展望大浴場「倭寇の湯」で、ゆっくり昼間の疲れをとる。その後は部屋に戻って、テレビを見ながら、弁当を食べビールを飲む。湯上りのいっぱいは、やはりうまい。
5月22日(木)曇り 四日目
午前6時、ホテルで起床。7時朝食。8時過ぎフロントで、チェックアウト。ホテルの送迎車に乗り、平戸港の桟橋で降りる。8時40分、さつき観光平戸線のマイクロバスに乗り、三日余りを過ごした平戸の町を離れる。往路と同じルートを走って博多へ向かう。乗客は少なく、途中トイレ休憩。11時25分下車。
19時15分の福岡発羽田着の航空便を予約していたので、それまでの時間を利用して、小倉経由で門司へ行き、関門海峡のフェリーで、対岸の下関へ行く。門司と下関の港付近つまり関門海峡の港の風景をたっぷり堪能した。
そして19時15分福岡発の航空機で21時ごろ羽田に到着。タクシーで22時過ぎ、東京の家に帰りつく。

































































































































