ギリシア・ローマ時代の書籍文化 04

その04 ギリシアにおける図書館

図書館(文庫)と文書保管所

古代において「図書館」という概念がどのように理解されていたか、という事について、帝政ローマ時代(後2世紀)のラテン語文法学者のフェストゥスは、その大型の辞書の中で、次のように述べている。「ギリシア人にとっても我々(ローマ人)にとっても、bibliothecae(ビブリオテカ)という言葉は、多数の書物という意味と、これらの書物を保管しておく場所という意味の両方を指していた」。この後のほうの意味は、今日の「図書館」に相当するといえようが、実際には立派な建造物ではなくても、単に専門文献を含む文学的著作物のコレクションの保管所といった意味合いのものも指していたようだ。つまり日本語の「文庫」に相当するものだったといえよう。

いっぽう国家・行政・商業に関連した記録文書を保管するための「文書保管所」というものも、すでに古代に存在していた。これらの記録文書は、神の保証を受けた聖域の中にあった神殿に保管されるか、もしくはそれぞれの機関の建物の中に保管されていた。こうした文書保管所のことをギリシア語でarcheion(アルケイオン)と呼んでいたが、この言葉から後に、ドイツ語のArchiv(アルヒーフ)や英語のarchive(アーカイブ)が生まれた。現在ではアルヒーフは、公文書館とか古文書館とか、さらにフィルム、ビデオ、テープなど様々な種類の記録集ないしその保管所まで指す言葉にもなっている。英語のアーカイブも、しばしば複数形のアーカイブズで、同様の用い方をされている。そしてコンピュータ用語として、インターネットなどで、データなどの長期保管場所の意味で使われているという。

僭主たちの図書コレクション

帝政ローマ時代の随筆家ゲッリウスによれば、ギリシアで最初の図書コレクション(文庫)を作ったのは、前6世紀の僭主ペイシストラトスだとされている。後にそれはアテナイ人によって拡張されたが、前480年にペルシア王クセルクセスによってアテナイが攻略されたとき、その図書コレクションは略奪された。しかし前300年ごろ、それはセレウコス朝のニカノル王によって取り戻されたという。

また帝政ローマ時代に活躍したギリシア人の著作家アテナイオスも、その著作『食卓の賢人たち』の中で、ペイシストラトスは、もう一人の僭主ポリュクラテスとともに、偉大なる書物収集家であると語っている。ただその規模は、後のヘレニズム時代(前3~1世紀)の図書館と比べれば、ずっと小さいものではあったが、その存在を疑うことはできないとされている。

その主要な作品についてみると、ホメロスの詩歌(『イリアス』、『オデュッセイア』)を初めとして、叙事詩人ヘシオドスの作品(『労働と日々』、『神統記』)、初期イオニアの哲学者たちの著作、そしてさらに当時花開いていた抒情詩などであったと思われる。ペイシストラトスの家族は後にアテナイから追放されたが、彼の書物コレクションは引き続き拡張されていった。その内容は主として公共の祝祭の際に歌われたり、演じられたりした詩歌や演劇を書物の形にまとめたものであったと思われる。

もう一人の僭主ポリュクラテスの輝ける王宮には、医学者のデモケデスや、アナクレオン、イビュコスなどの「モダンな」詩人たちが集まっていた。アリストテレスによって「詩神の友」と呼ばれたヒッパルコス(ペイシストラトスの息子)は、抒情詩人のラスコスやシモニデスそしてアナクレオンもアテナイへ呼び寄せた。その際それらの詩人たちは、君主たちに彼らの詩作を献呈したものと思われる。当時そうした抒情詩や叙事詩は朗読されていただけではなく、書物(巻子本)の形に編纂されて読まれていたことは、少し後の時代の壺絵に描かれていることから、わかるのである。

アテナイ市民の個人文庫

先にも述べたように、少なくともアテナイでは書籍取引が前5世紀の後半に確立していた。ここで書籍取引というのは、書物が買われることを意味する。かくしてアテナイ市民のかなりの家庭には、ちょっとした書物のコレクションが存在していたことが、十分考えられるのだ。そして家庭によっては書物の収集が熱を帯びていて、かなり大量の書物が集められ、その結果「個人文庫」と呼べるほどのものもあったと想像できる。

そうした実例として、ソクラテスの弟子エウテュデモスを挙げることができる。これに関連して、先生と弟子の間で交わされた会話に耳を傾けてみよう。
「エウテュデモスよ、お前は本当に賢人とみなされる人たちから、たくさんの書物を集めたのかね。それに対してエウテュデモスは、ゼウスに誓ってそうですと答えた。続いてソクラテスは、私もできる限りたくさんの書物を集め続けるつもりだ、と述べた」(クセノポン『ソクラテスの思い出』)

またアテナイの最高執政官として前403年にイオニア式アルファベットをアテナイに導入したエウクレイデスも、大規模な書籍の収集をしていたものと見られている。このことは、先のアテナイオスの著書『食卓の賢人たち』の中で述べられているのだが、そこには三大悲劇詩人のひとりエウリピデスの名前も挙げられている。この作家について、喜劇作家のアリストファネスは、「彼の悲劇にはあまりも多く書物の上での知識が盛り込まれている」、と皮肉っている。

プラトンの文庫

ソクラテスの弟子でアテナイの哲学者プラトンも膨大な文庫を所持していたことが、多くの証言から明らかである。この哲学者は、入手困難な珍しい書籍でも、必要とあれば大枚を払っても手に入れようとした、と言われている。彼がピュタゴラス学派のフィロラオスの著作を購入したことも、知られている。さらにその弟子ヘラクレイデスを通じて、イオニアの町コロポンからアンティマコスの詩作を手に入れようとした。それから演技の身振りに関する研究のために、それまでアテナイでは無視されていたソフロンの戯曲作品を、わざわざシチリアから取り寄せている。ついでに言えば、プラトンはソフロンの身振り・物まねをとても高く評価していて、これらの書物を死の床の枕の下にまでおいていた、という。

ちなみにこのプラトンは、真に実在するのは善や美という観念(イデア)で、現実世界はその観念がいろいろな形をとって現れたものにすぎないとする「イデア論」を唱えた。そしてアテナイ郊外にあった英雄アカデモスをまつる聖域に、「アカデメイア」という学園を建て、たくさんの弟子を養成した。ここから学術、文芸、美術の殿堂を意味するアカデミーという言葉が生まれたのだ。

アリストテレスの文庫がたどった数奇な運命

アカデメイアでプラトンに学んだアリストテレス(前384-前322)も膨大な文庫を所持していたことは、間違いない。なぜなら彼の研究の仕方や学問上の著作物、そしてとりわけ彼によって創立された学園「リュケイオン」における教育・研究上の手法にとって、豊かな資料の収集が前提となっていたことは確かだからである。かくしてすでに何度も引用してきたアテナイオスの著作の中でも、アリストテレスは「偉大なる書籍収集家」と呼ばれているのだ。

<アリストテレス文庫の変転>

さてアリストテレスの死(前322年)の後、彼の弟子テオフラストスが「リュケイオン学園」運営の後継者となり、同時に「アリストテレス文庫」も引き継いだ。その後テオフラストスは彼の死後のことを、遺言の形で、次のようにするよう命じた。それはつまり庭園を含む学園の建物は、ストラトンおよびネレウスをはじめとした弟子の集団が受け継ぐこと。そしてのちに取得した書物やテオフラストス自身のコレクションを加えた「アリストテレス文庫」は、ネレウスが引き継ぐこと、というものであった。この遺言によって、ネレウスはストラトンではなくて自分がリュケイオンの学園長に選ばれたもの、と考えた。そして引き継いだ文庫とともに、小アジアのトロアスという町に移ってしまった。つまりこれによってアテナイのリュケイオン学園は、建物だけ残って、アリストテレスの原著作を含めた基本的な研究手段はなくなってしまったのだ。

いっぽうネレウスの死後、その文庫は故郷の町スケプシスの遺産相続人によって引き継がれた。しかしこの相続人は精神的な事柄に特別な関心を持たない人物であった。そのためそれらの書物は鍵をかけて建物の中に保管されることになった。そしてそれ以後アリストテレス文庫は顧みられることがなくなった。

ところがその地域を支配していたペルガモンの国王たちが、独自の図書館建設のために熱心に書物を探していることを、遺産相続人は知った。そして自分が管理している文庫が奪われることを心配して、文庫を地下の横穴の中に隠した。そしてそれらの書物は長い間、湿気と虫によって傷んだまま放置されていたのであった。

<アリストテレス文庫、再びアテナイへ。そして恣意的な改変>

その後時がたって、書誌学者のアペリコンという人物が、これらの書物を大量に買い取ることになった。そしてそれらの書物を再びアテナイに持ち帰り、写本を作らせることになった。その際彼は、巻子本の原本に生じていた傷んで判読できない部分を、まったく恣意的に埋め合わせていった。

先に述べた事情によって、「リュケイオン学園」に残ったアリストテレスの後継者の弟子たちは、彼らの先生の著作をわずかしか利用できなかったわけである。しかしそのあとの人々は、アペリコンが作った写本によって、確かに「彼らのアリストテレス」の全作品を利用することができたのであった。とはいえ、それらはひどく改変された内容のものであった。このアペリコンという人物は、(書物の内容に興味を示す)愛書家というよりも、書物を収集することに強い関心を持っていたコレクション・マニアともいうべき人物であったようだ。ついでに言えば、彼はまた、アテナイのメトロオンにあった文書館から、国家的決議に関するオリジナル文書を盗んだこともあるのだ。

<アリストテレス文庫、ローマへ。そして学問的な改訂>

さてこのアペリコンが死んだ直後に、ローマの将軍で政治家のスッラがアテナイの町を征服した。それは前86年のことであったが、アペリコンの文庫も戦利品として、スッラはローマへ持ち帰った。そしてやがてそれらの「アリストテレス文庫」は、文法学者のテュラニオンのもとに落ち着くことになった。
そしてこの文法学者は、この文庫に属していた書籍の中身をじっくり吟味して、学問的な改訂を加えていった。こうして一度は恣意的に改変された「アリストテレス文庫」は、内容的に元の形によみがえったのであった。そしてこれはのちにアリストテレスの作品目録を編纂する時に役に立った。アリストテレスは、哲学だけではなく諸学を集大成したことから「万学の祖」と呼ばれている。そして生前すでに弟子たちに多大な影響を与えていた大学者であったが、その作品はのちのイスラーム哲学や中世ヨーロッパの哲学・神学に大きな影響を与えた。その後さらに近代ヨーロッパにまでその学問。思想は脈々と受け継がれていったのだ。その意味で古典の継承という問題を考える場合、テキストをじっくり吟味していく文献学の存在が極めて大きいわけである。

ついでに言えば文法学者のテュラニオンは、小アジア出身のギリシア人地理学者ストラボン(前64-後21、その「地理誌」は、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジア・インドの、史実から伝説までを記した史料的地誌)の先生で、同時にローマの代表的な政治家キケロ、カエサル、文人アティックスといった人達の友人でもあった。

<「アリストテレスの書物」の意味するもの>

ここではひとつのエピソードをご紹介することにしよう。後200年ごろ活躍したギリシアの著作家(主著:「食卓の賢人たち」)アテナイオスが伝えるところでは、エジプトのプトレマイオス二世フィラデルフォスは、アリストテレス及び後継者テオフラストスの書物を、ネレウスから買い取り、アレクサンドリアへ運ばせたという。この時テオフラストスの後継ぎであったネレウスは、かなりの苦境に立たされていた。一方ではネレウスは、アリストテレスの著作をエジプト王に渡すつもりはなかった。しかし他方では強力なエジプト王の使者を、冷たくあしらうわけにはいかなかった。そこで彼はしぶしぶ「アリストテレスの書物」の全てもしくは大部分を、エジプト王に売ったのであった。とはいえここで言う「アリストテレスの書物」というのは、実はアリストテレスによって書かれた書物ではなくて、アリストテレス文庫に所属していた書物であったのだ。ネレウスは「アリストテレスの書物」という言葉が持つ二重の意味を巧みに利用して、その場を切り抜けたというわけである。

いずれにしてもアリストテレスが自ら執筆し、公にした初期の著作の数々は、とてもよく知られていたし、注目もされていた、という事を古代の文献は明らかにしているのだ。それに対してアリストテレス及びその弟子たちによってリュケイオン学園の授業用に編纂された研究者向けの作品は、前1世紀のローマの著作家で政治家のキケロの時代以後になって初めて評価され、利用もされるようになったのである。それらは文法学者テュラニオンが編纂した改訂版を通じて、あるいは哲学者のアンドロニコスの研究以降になって初めて、人々の手に入るようになったのである。

アテナイにおける諸学園の文庫

前にも話したが、ネレウスがアリストテレス及びテオフラストスの文庫を携えて、引越しをしてしまった後、リュケイオン学園に書物のない状態が長く続いたわけではなかった。ストラトンがリュケイオン学園の学園長を引き継いだ後、再び書物が集められたからである。その次の学園長になったリュコンは、それらを引き継いだ。その際ストラトンは自分が書いた著作以外の作品をリュコンに遺贈することを、遺言に書いたのであった。

この事は後3世紀前半ごろのギリシアの科学史家ラエルティオスによって記録されているのだ。彼は多くの哲学者の伝記を著しているが、その中にそれぞれの哲学者が残した遺言の言葉を収録している。これは古代の書物や図書館のことを知るための重要な史料になっているのだ。

例えば快楽主義の哲学者エピクロス(前341-271)は、有名なkeposと呼ばれる庭園付きの邸宅の中に、哲学の学園を作っている。そしてその中に自分の文庫を作っているのだ。科学史家ラエルティオスはエピクロスについて、次のように書いている。「彼は第一級の多作家だ。彼によって著された巻子本の数は300巻に上るのだ。その著書の数の点では、すべての人を凌駕している。ちなみにエピクロス派の哲学である<快楽主義>というのは、瞬間的な肉体の快楽ではなくて、持続する精神的な快楽を得ることである」と。

プラトンの「アカデメイア学園」、アリストテレスの「リュケイオン学園」そしてエピクロスの学園など、アテナイにおける諸学園の文庫は、これらの機関が教育・研究のためにもっぱら必要とした書物のコレクションであった。決して公共的な性格を有していたわけではなかった。つまりそれらは国家的な施設ではなかったのである。

その組織のメンバーは私法上、一つの団体を形成していたのだが、その際そこの学園長は不動産の所有者であり、同時に文庫の所有者でもあった。ただしアリストテレスは、よそから来た在留外人として、土地の所有を許されていなかった。

そこで最大の価値が置かれていた授業や学問的な対話は、庭園の中や散歩の途上、あるいは柱廊を逍遥しながら行われた。そのためそこの文庫にとっては、まさに必要とされたときに手に取ることができる簡単な保管所があれば、十分なのであった。

アレクサンドリアの「ムセイオン」及び「付属図書館」

          古代アレクサンドリア市街図

    プトレマイオス一世ソテルの肖像がついたドラクマ銀貨

                 アレクサンドロス大王が東方遠征で獲得した地域

かのアレクサンドロス大王はその東方遠征の途上、前331年にナイル川のデルタ河口に一つの都市を作ろうとして、アレクサンドリアという名前を付けた。しかし大王は大帝国建設の途中、前323年に突然死亡したため、その武将プトレマイオス一世ソテルがアレクサンドリアを中心とするエジプト地域を引き継いだ。そしてそこを都として、プトレマイオス王朝を建国したのであった。                  その初代ソテルは、幼いころマケドニア王国のペラの宮廷でアレクサンドロスとともに、アリストテレスから直接指導を受けたといわれる。そのため長じてもなお、この国王は狭義のアリストテレス学派である逍遥学派への崇敬の念が強かった。そこへ逍遥学派の学徒であったファレロンのデメトリオスという人物が、その文化顧問として呼ばれたのであった。広い学識と多才ぶりが高く評価されてのことであった。

<ムセイオンの誕生>

デメトリオスは逍遥学派の理念を実現するものとして、「ムセイオン」と称する総合的な学術研究センター及びその付属の大図書館を、アレクサンドリアに建設することを提言し、それが承認されたわけである。この研究機関では、当時の学問全てが奨励された。それらは数学、博物学(動物学及び植物学)、天文学、物理学、医学そして文献学などであった。
ちなみに「ムセイオン(Museion)」という名称は、アテナイからの土産物であった。なぜならプラトンのアカデメイア学園やアリストテレスのリュケイオン学園の中心部には、文芸や学術をつかさどる女神たち「ムーサイ」の神殿が建っていたからだ。そしてこの言葉は、のちにミュージアム(博物館)の語源にもなったのだ。

前25年にアレクサンドリアを訪ねたストラボンによると、王宮のすぐ近くに建っていた「ムセイオン」には、リュケイオン学園において逍遥学派(ペリパトス学派)という名称のもとになった(逍遙する散歩道)が作られていた。そして談論風発の学者たちのために作られた、三方を柱廊によって囲まれた広場が続き、最後に会員達の食堂として使われていた大ホールがあったという。

ムセイオンの会員は、はじめプトレマイオス朝の王、のちにローマ皇帝によって任命された。この学術機関にはヘレニズム王朝の新しい時代精神がみなぎっていて、会員達には、最適な条件のもとに自由闊達な研究活動が許されていた。また、税の免除、住宅の貸与そして糧食及び固定給支給という形で、その身分が保証されていた。
同時にこれらの学者たちの緊密な共同体は、騒がしく、いらいらした雰囲気をあちこちにまき散らしていてもいた。そのため風刺詩人のティモンなどは彼らのことを、籠の中に閉じ込められて、餌を与えられるときに争ってばかりいる鳥にも似た「本の人々」などとからかっているのだ。

この学者共同体の長は国王によって任命された官僚であったが、同時に女神ムーサイ神殿の神官職もかねていた。またムセイオンの財政を担当していた財政官はtamiasと呼ばれていた。そして付属図書館の司書は極めて重要な役割を果たしていた。

<付属図書館の設立>

学術研究機関ムセイオンを設立したとき、初代プトレマイオス一世ソテルは、付属図書館も併設した。そして二代目のフィラデルフォスはこの図書館の拡張に多大な尽力を払った。その目標はすべての文献を一堂に集めるという野心的な試みであったのだ。それはあらゆる時代の、あらゆる民族の書物を集め、外国語の書籍はギリシア語に翻訳すべしというものであった。この翻訳活動の一つの実例が、いわゆる七十人訳聖書であったが、これはヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳する事業であった。

図書館の蔵書の拡充に関する取り組みについては、先に述べたネレウスからの「アリストテレスの書物」の購入が、そのよい実例である。また今日の我々の目から見ればまさに過激だと思われるようなことまで行われたのだ。それはアレクサンドリア港に停泊していた船の中に積まれていた書物を、系統だって捜索したことである。書物が十分興味深いと思われた場合には、それは直ちに押収され、元の持ち主に対しては、大急ぎで写し取った写本のほうを返したのであった。そしてこのようにして図書館にもたらされた書物は、「船よりもたらされた(書物)」と書かれた特別な部屋に収められた。

もう一つの実例は、アテナイで前330年代に行われた国営写本を、15タラントンの補償金を払って借用したという話だ。それらは前5世紀の三大悲劇詩人の作品を政治家のリュクルクルゴスの命令によって公式に写し取られた写本であったが、国王フィラデルフォスによってアレクサンドリアの図書館のために借用された。そして写本が製作された後で、写本のほうが返却され、オリジナル作品はアレクサンドリアにとどめ置かれたという。

これが果たして真実なのか、あるいは競合相手のペルガモン図書館による悪意ある作り話なのか、分からない。しかしいずれにしてもこの話は、アレクサンドリア人のあまりに過度な収集熱を示す証言だといえよう。そしてこれらの書物が切望されたのは、そのテキストの内容によることもさることながら、その由来(ブランド)の持つ名声によるものでもあったのだ。またそうした状況は、偽造者によって悪用されたりしたこともあった。

<所蔵図書は49万巻>

初期ヘレニズム時代の史料に基づいて研究を行ったビザンツの学者ツェツェスから我々は、プトレマイオス二世フィラデルフォス時代の付属図書館の所蔵図書の数を知ることができる。それによれば1巻で完結している小規模な巻子本が9万巻、数巻に及ぶ大規模な巻子本が40万巻あった。合計して49万巻であるが、たとえばヘロドトスの『歴史』は9巻に及ぶ大規模なものであった。
この49万巻の巻子本は当時としては最大規模のものであった。しかしこの数字からは作品の数を知ることはできない。1巻の中にいくつもの作品が収録されている場合もあれば、一つの作品が数巻に及ぶものもあったからだ。また同じ本が2巻以上ある複本もかなりあった可能性もある。

<歴代の図書館長>

ビザンツのスーダ百科事典やパピルス文書などから、我々は歴代の図書館長の名前を知っている。それによれば、はじめの百数十年の間、著名な学者、作家、詩人が館長職を占めていた。それを列挙すると、初代がゼノドドス(前285-270)
二代目がアポロニオス・ロディオス(前270-245)、三代目がエラトステネス(前245-204)、四代目ビザンツのアリストファネス(前204-189
)、五代目アポロニオス・エイドグラフォス(前189-175)、そして六代目アリスタルコス(前175-145)と続いた。

しかしそのあとは一人の無名な軍人によって館長職が占められることになった。それは国王プトレマイオス・エウエルゲテス二世の反ギリシア的な政策によって、アリスタルコスをはじめとする学者たちがアレクサンドリアを追われることになったからである。その後、前120-80年の間は、再び一連の文法学者の名前がパピルス文書に挙げられているが、彼らは明瞭に図書館長とは記されていない。
いずれにしてもアリスタルコスがいなくなってからは、図書館長の地位の低下は紛れもないものとなった。

<蔵書の系統的な整理分類>

ムセイオンの付属図書館に課せられた課題は、できる限り完璧な形で書物を収集し、それらを系統立てて整理分類することであった。館長を初めとして多くの学者が総動員されて、分野別に著作者が分類され、その名前や作品がアルファベット順に並べられた。そして新たな写本が入ってきたときは、慎重に吟味して、適切な分類項目の中に仕分けされたのであった。

そうした分類作業に当たっては、文学についてはゼノドドスが叙事詩を、アレクサンドロス・アイトレウスが悲劇とサテュロス劇を、そしてリュコフロンが喜劇を担当するといった具合であった。それらの作業を総合してカリマコスが、その『ピナケス』(表札ないし看板)という120巻に及ぶ記念碑的作品の中で,全ギリシア文学の一覧表的な外観を作り上げたのであった。

この『ピナケス』は全体としては消失してしまっているが、のちの作家の引用に基づいて、そのある程度の姿かたちを知ることができる。それによれば、まずすべての文学は、叙事詩、抒情詩、雄弁術、戯曲などに分類された。そしてそれぞれの項目の中で、著作者がアルファベット順に並べられた。また個々の著作者には、簡単な経歴が添えられた。それからたぶんアルファベット順に並べられた作品が、その表題、書き出しの言葉、総行数をつけて並べられた。そうした作業によって、著作者の観点から言っても、その作品の観点からいっても、確固とした年代順の骨組みを利用できる点が重要であった。

これによって演劇の一般的な上演記録、とりわけアテナイの演劇の公式講演記録、そしてまた大オリュンピア競技会、イストミア競技会、ピュティア競技会などの優勝者のリストを知ることができたのである。それらはまた例えば、懸賞詩歌の年月日を特定する際にも重要であった。そうした詩歌はしばしば、スポーツ競技会の勝者のために書かれたからである。例えば抒情詩人のピンダロス(前518-446)の詩がよく知られている。さらに普通は地理学者ないし数学者として知られているエラトステネスの名前が、オリュンピア競技会の優勝者のリストに載せられていることが、わかるのだ。

このカリマコスの仕事の補足改訂に尽力したのが、アリストファネスであったが、この二人によって作られた『ピナケス』は、単にアレクサンドリア図書館の書物を探すためのカタログであるにとどまらず、ギリシア文学史の基盤を形成した偉大なる総合文献目録でもあったのだ。

<古典の改訂版の作成>

それに続いて次世代の学者たちが、次の段階へと一歩踏み出した。最初の段階では、文学テキストの筆写や伝承にあたって、正確な字句内容にはあまり価値が置かれなかった。そのせいで同じ作品でも、互いに食い違った内容のものや、語句の勝手な挿入や省略が行われたテキストが、世に出回ったりしていた。そのため、次世代の研究者たちは、著者のオリジナルな字句内容に立ち戻ることを、その課題としたのであった。
かくしてテキストの比較検討が行われ、古典の新しい版が作成されたのである。そしてレベルの高い読者のために本文批評や、とりわけ注釈をつけた版も作られたのだ。

この事については先に「書物の普及」の話の中で、ホメロスの詩歌を取り上げて、述べたことがある。その際前2世紀以降のパピルス文書が実際に発見された事によって、テキストの統一がアレクサンドリア図書館における文献学的な作業のたまものであったことも、述べている。
ローマ帝政時代の終わりに至るまで、文法的な問題の処理と並んで、注釈書の作成が、古代文献学の主要な課題であり続けた。エジプトにおけるパピルス文書の発掘物が、それに対する直接的な証拠となっているのだ。

<アレクサンドリアの図書館のその後の運命>

古代の他の図書館とは比べものにならないくらい、アレクサンドリアのムセイオン付属図書館は、現代においてもなお我々の気持ちを強く引き付けるものがある。この古代文献の巨大にして完璧なコレクションは、古代ローマの最大の人物であったユリウス・カエサルによって焼かれてしまった、と古来言われ続けてきた。

しかしこの昔からの言い伝えを、もう一度厳密に検証しなおしたカンフォーラは、カエサルの名誉を回復する形で、別の結論に達したという。カンフォーラが強調しているように、前48/47の冬に行われたアレクサンドリアの戦いで実際に炎上したのは、港湾地域にあった倉庫の建物であった。その中には当時穀物のほかに、(輸出用に指定されていた)4万巻の巻子本が置かれていた。しかし王宮内に設立されていた「ムセイオン」及び、その付属図書館は、この時燃やされることはなかったのだ。

古代アレクサンドリア市街図(モスタファ・エル=アバディ著『古代アレクサンドリアの図書館』P.19、中公新書) ここでブルケイオン地区内のムーゼイオンと記されているのが「ムセイオン」

上記の市街図をご覧になればお分かりいただけると思うが、倉庫と図書館及びムセイオンはかなり離れている。このアレクサンドリア戦争の少しあとエジプトを旅行したギリシア人地理学者のストラボンは、ムセイオンについてはわずかな記述しか残していない。しかも彼はこの施設が何らかの損傷を受けたとは、まったく書いていないのだ。

ところでローマ皇帝クラウディウスは学識のある人物で、ギリシア語とエトルリア語で、エトルリア人の歴史20巻とカルタゴの歴史8巻を著した。そして「アレクサンドリアには古い図書館とは別に、彼の名前の付いた新しい図書館も作られた。さらに毎年特定の日々に、エトルリアの歴史とカルタゴの歴史について図書館内のホールで朗読する催しが開かれた」(スエトニウス『クラウディウス伝』42)という。ただこの図書館のその後の運命については、何も分かっていない。

ただスエトニウスが伝えるところでは、ローマ帝政時代においてもなお、ムセイオンは依然として高い威信を維持していて、支配者の著作を受け入れ、その朗読が行われていたという。そしてまたムセイオンとその会員のことは、いろいろな著作やパピルス文書や碑文の中で、引き続き触れられていた。またハドリアヌス帝は彼の先生であるフェスティヌスをムセイオン館長ならびに付属図書館の館長に任命している。

先の研究者カンフォーラによれば、ムセイオン付属図書館の実際の終焉をもたらしたのは、紀元後3世紀に、パルミュラの女王ゼノピアとアウレリアヌス帝(在位:後270-275)との間に行われた戦争であったという。この時アレクサンドリアでは古い王宮のあったブルケイオン地区が破壊され、付属図書館も焼け落ちたのであった。しかし少し離れたところに位置していたムセイオンの施設は、このときも破壊をまぬかれたという。

ビザンツのスーダ百科事典に掲載されていたムセイオン最後の会員は、アレクサンドリアのテオンという人物であった。彼は著名な数学者で、後415年にキリスト教徒によって殺された学識ある女性ヒュパティアの父親であった。

<セラペイオン図書館>

上に述べたアウレリアヌス帝の時代に行われた付属図書館の破壊の後、アレクサンドリアの学者たちは、主としてセラペイオン図書館を利用していたようだ。その図書館は、上に掲げたアレクサンドリア市街図のなかの左側にあるラコティス・エジプト人地区の下のほうに書かれている「セラペウム」の中に建てられた。このセラペウムというのは、プトレマイオス三世エウエルゲテスによって開発された地区で、その中心に、エジプト人とその土地のギリシア人とを統合する意図のもとに国王によって建設された「セラペイオン神殿」があった。そしてその場所に作られたのが、「セラペイオン図書館」であった。

この図書館は、ムセイオン付属図書館がもっぱら研究者向けの学術図書館であったのとは違って、一般の人々にも公開されていた。そしてその蔵書は、42800巻の巻子本であった。49万巻を誇った「ムセイオン付属図書館」に比べれば、はるかに少なかったわけである。「セラペイオン図書館」は、一般に「娘(の施設)」と呼ばれていた。このアレクサンドリア第二の図書館に関しては、これぐらいのことしか、知られていない。

そして後391年、キリスト教徒の司教テオフィロス指揮下の熱狂的な集団が、異教の神が祭られているセラペイオン神殿を破壊したとき、その図書館も滅んだのであった。イギリスの歴史家エドワード・ギボンは、有名な『ローマ帝国衰亡史』の中で、この悲しい出来事について感動的に叙述している。

それはそれとして、「娘」は「母」よりも120年余り長生きしたわけである。ここで疑問になるのは、のちの時代になって、これらの図書館の元来の蔵書のうち、どれぐらいが残っていて、人々が利用できたのかという事である。それらが創立されて以来、すでに500年以上の歳月がたっていた。古代の文献については、時としてきわめて古い巻子本のことが伝えられることがある。しかしこれらの図書館のかなりの数の作品は、歳月の破壊力によって、損傷を受けたろう事は、容易に想像できる。その場合、系統的に新たなパピルスの上に写し直しが行われたものと思われるのだ。

ヘレニズム諸王朝の図書館

アレクサンドリアのムセイオン付属図書館は、プトレマイオス朝に大きな名声を与えた。そしてヘレニズム時代(前3~前1世紀)の他の王朝支配者たちにも、大きな刺激を与えたものと思われる。かくしてペルガモンにも、立派な図書館が建てられたわけである。そしてまたセレウコウス朝の首都アンティオキアにも図書館が建てられたが、そこは一般の人々にも公開されていたという。その館長には、アンティオコス王(在位:前223-前187)によって、カルキス出身の詩人エウフォリオンが任命された。

またローマの将軍パウルスが前168年にマケドニア王ペルセウスと戦って倒した時、戦利品としてそこにあった文庫本をローマに持ち帰った。そして文学好きの息子たちに分け与えたという。このことを伝えているプルタルコス(「対比列伝」アエミリウス編28)は、「国王の書物」という言い方をしているので、それらはペルセウス王の個人的な文庫であったかもしれない。これらの書物はすでにアンティゴノス・ゴナタス王(在位:前276-前239)の時代のさかのぼり、同王はその宮殿に詩人や学者たちを集めていた、という事を書いている現代の研究書もあるが、それはもちろん推測にすぎない。

もう一人のローマの将軍ルクルスは、黒海に臨む小アジアの国家ポントゥスの国王ミトラデス4世との戦いに勝ち、その戦利品としてこの国王の文庫をローマに持ち帰った。それは大きな箱に入った医学書で、最終的な勝者となったポンペイウスが自分のものにして、ラテン語に翻訳させたのであった(プリニウス『博物誌』)。しかしこうした文献によって推測できる実例よりはるかに数の多い「国王の文庫」が、実際には存在していたはずである。

こうした仮設の正しさへと我々を導くのは、例えばヘレニズム世界のはるか辺境に位置していたアフガニスタン北東部のギリシア植民都市アイ・ハヌムの宮殿にあった書物が発掘されたことにもよる。その建物は前2世紀に、ギリシア=バクトリア王エウクラティデス統治下に建てられたが、ほどなくして暴力的に破壊されたものであった。その破壊された層の泥の中から、パピルス製や羊皮紙製の巻物が発見されたが、それらのテキストは部分的には解読することができた。それらはギリシアの哲学的対話や戯曲の断片であるが、その文字形態は前3-前2世紀のエジプトのパピルス文書に極めて近いものである。

ローマの建築著作家ヴィトルヴィウス(「建築十書」)はギリシア人の住宅の構成要素として、図書館を考慮に入れている。その際彼はヘレニズム時代の王の宮殿を思い描いていたと思われる。そこから我々としては、そうした宮殿の中にたくさんの書物を入れることのできた、広々とした図書館があった、と想像できるのだ。

ペルガモン図書館

アレクサンドリアの図書館に次いでヘレニズム時代で最も注目すべき存在は、間違いなくペルガモン図書館であった。アレクサンドロス大王の死後、帝国はいくつかの地域に分かれて統治されたが、その一つが小アジアの西岸に作られたペルガモン王国であった。後継者の一人フィレタイロス(在位:前281-263)はペルガモン王国の最初の支配者として、王朝の基礎を固めた。その際巨額の銀を取得することによって、王国の財政的基盤を確立することができた。

かくして彼及びその後継者たちは、活発な文化政策を展開することができたのであった。その際彼らがライヴァルとみなしたのは、強大で財政力豊かなエジプトのプトレマイオス王朝であった。やがて後を継いだアッタロス家諸王(前241-前133)の文化政策は、その支配領域の内外に様々な建物を建てただけでなく、美術品の収集や図書館の建設にまで及んだのである。

ペルガモン図書館の基礎を作ったのは、アッタロス家の初代国王アッタロス一世(前241-前197)であった。図書館の建物は、女神アテナ・ポリアスの聖域にあった。次いで二代目の国王エウメネス二世は、その事業を継承し、さらに発展させていった。この点についてローマの建築史家ヴィトルヴィウスは、その「建築十書」の中で次のように書いている。「アッタロス家の王たちは文学の魅力に取りつかれて、それを享受するためにペルガモン図書館を建てたのだ」

この図書館は、「ムセイオン」の共同体のために作られたアレクサンドリア図書館とは違って、広く学問や文学に興味を抱いていた人々が利用できるように、という意図のもとに作られたものであった。いっぽう書物を集め、蔵書を増やすという熱意の点では、ペルガモンの支配者たちも、エジプトの先輩たちに負けてはいなかった。例えば「アリストテレスの書物」を彼らの図書館で所蔵しようとした時の事については、すでに述べた。またエジプトのパピルスがペルガモンに運ばれないという事態が発生したが、ペルガモンのエウメネス二世とエジプトのプトレマイオス六世との間の、図書館をめぐるライヴァル関係に、その原因を求めたローマの学者もいた。

とはいえ蔵書の分量に関しては。ペルガモン図書館はアレクサンドリア図書館に太刀打ちできなかったのだ。ペルガモン図書館は、なんといってもアレクサンドリア図書館のあとに建てられたわけであり、アッタロス三世(在位:前138-前133)の死後、ペルガモンはローマの属州にされてしまった。そのためその図書館は以前と同じような保護を受けることはできなくなったと思われる。

<ペルガモンにおける文献学的・学術的活動>

とはいえ、ペルガモンにおいても蔵書は豊富にあったため、熱心な文献学的活動が行われていた。アレクサンドリアでカリマコスがやったように、ペルガモン図書館の場合にも、「ピナケス」(標札ないし看板)の形で、批判的な書籍目録が作成された。その構成と形態において、このペルガモン図書館のピナケスは、あらゆる点で、カリマコスのものに対応したものであった。ただそれらは古代の文献史料には、常に匿名でしか引用されていないので、我々としてはこの重要な文献学的業績の編纂者の名前を挙げることができないのだ。

いっぽうペルガモンにおいても、偽の書物を除去し、古典の作家や雄弁家の本物の作品を確保しようとする努力がなされていた。そしてテキスト批判も行われていた。アレクサンドリアの文献学者たちは、アリストテレスの思考法に根差した合理的な方法に基づいて、もしある個所や言葉が同じ作家の他の部分に対応していなかったり、独自の慣習がみられなかったりした場合には、それらは真正なものではない、と断じられた。それに対してストア派の影響を受けていたペルガモンの人々は、まさに暗く、尋常ではない個所に隠された、比喩的な意味を探して、それらを真正なものとしたのである。しかしアレクサンドリアとペルガモンの間の文献学上の論争は、終わることがなかった。そうしたことは、古典の注釈の中で、今日なおみられることだが。

精神的なセンターとしてのペルガモン図書館は、数多くの学者たちに豊かな活動の場を与えた。次にそうした人々の名前をいくつか列挙することにしよう。まずアッタロス二世がローマ駐在公使の役を委嘱したマロスのクラーテスは、偉大なるホメロス学者として名を成した。ついでカリストス出身のアンティゴノスは、哲学者及び芸術家の伝記を書いた。イリオン出身のポレモンは、各地の地誌を書いて有名になった。またペルゲ出身のアポロニオスは、著名な数学者兼天文学者であったし、ビトンは軍事技術の専門的著者であった。さいごにアテナイオス(「食卓の賢人たち)によれば、カッサンンドレイア出身のアルテモンは、図書館及び書籍収集の専門書を初めて書いたという事だが、残念ながらその著作は現存していないのだ。

ギュムナシオン付属図書館

ヘレニズム時代の支配者たちが彼らの宮廷に建てた大図書館の話はこれくらいにして、次に学校施設としてのギュムナシオン付属図書館についてみてゆくことにしよう。我々はすでに前4世紀の喜劇作家アレクシスの作品の断片の中で、教師用ないし学校用図書館というものの存在を知ったわけである。これらギュムナシオン付属図書館は国家の管理下にある図書館として、ヘレニズム時代になって初めて登場したものであった。

そうしたギュムナシオンの一つに、後2世紀の地理学者で旅行家のパウサニアスが言及しているアテナイのプトレマイオンがあった。パウサニアスの言葉によれば、この施設はエジプト王プトレマイオス六世(在位:前181ー前145)の寄付によって建てられたものであった。このプトレマイオンおよびその付属図書館については、前2世紀から前1世紀にかけて、数多くの碑文に記されている。それらによれば、市民の決議に基づいてエフェーボス(18歳から20歳の若者)たるものは、学校を卒業するときに、百巻の書物を寄付しなければならなかったのだ。こうした碑文の断片が明らかにしているところでは、このようにしてもたらされた書物の中には、エウリピデスの作品やホメロスのイリアスも含まれてたという。アクロポリスの北に建っていたというプトレマイオンの建物は、これまでのところその場所は確認されていない。

アテネの臨海地区ピレウスにおいて、前100頃の碑文の断片が発見されたが、それはある書籍目録の一部をなすものであった。ただそれは、図書館を建設するにあたっての寄付趣意書とそこに記された寄贈図書一覧なのではないかといわれている。そしてこれもあるギュムナシオンの付属図書館なのであった。またその碑文には、ホメロス、アッティカの悲劇作家、喜劇作家アンフィス、ニコマコス、メナンドロスなどの作品や、哲学者、雄弁家たちの著作も記されているのだ。

さらに数多くの碑文の断片に記された書籍目録が、ロードス島で発見されている。前2世紀ころのこの目録には、雄弁家や歴史家の作品の名前が記されているが、図書館建設のための寄付に関する市民の決議を記した碑文の断片もあった。これらの寄付を受け取ったのはギュムナシオンの幹部だった。また隣接するコス島でも、同様の図書館建設について伝える前2世紀の碑文が出てきている。

豪華船中の図書館

古代においても豪華船の中で人々が旅のよすがを過ごすための図書館があったのだ。それはイタリア半島の南にあるシチリア島のシュラクサイのヒエロン王(在位:前269-前215)が建造させた船であった。この「シュラコシア」と称する、古代にしては巨大な貨物船は、その上甲板に旅客を収容できるように設計された、豪華な貨客船だった。そこには船室のほかに、本物の植物を配した遊歩道、体育室、アフロディテ神殿、ならびに余暇のつれずれを過ごすための図書を備えた部屋まであった。

しかし西地中海海域にはこのような巨大な船を停泊させることができる港がなかったため、ヒエロン王はプトレマイオス三世エウエルゲテスへの贈り物として、その船をエジプトへと航行させたという。こうした話は、モシオンという人物が書いたものを、例のアテナイオスがその『食卓の賢人たち』の中で、長々と引用しているのだ。

ギリシアの成人用図書館

我々がこれまで、そのいくつかを知ることができた文献や碑文は、結局のところ偶然我々のところに届いた実例にすぎない。それでもヘレニズム時代のギリシアの都会では、どこにでも存在したものだったことが、そうした史料によって漠然と分かるのである。おおくの場合それらの図書館は、エフェーボス(18歳から20歳までの若者)用の図書館であった。

ロードスのような「大学都市」では、かなりの数のギュムナシオン付属図書館が、大学からの要請にも応えられる態勢を整えていた。たとえばニュサ出身のアリストデモスのような人物は、午前中は大学レベルの修辞学を教え、午後の遅くにはエフェーボス用に文法を教えるという風に、二種類の授業を受け持っていたのだ。ロードスの書籍目録には実際に古典の科目については、エフェーボス段階を超えるようなものも記載されている。

ところがヘレニズム時代の幾つかの都市においては、ギュムナシオンの授業のための図書館のほかに、広く文学や学問に関心のある一般教養人が利用できるような図書館も存在した。ストラボンがその『地理書』で記しているスミュルナの図書館がその一例である。これに関連して前2世紀の歴史家のポリュビオスは、年代記編集者のティマイオスとの論争の中で、次のように述べている。「書物から知識をくみ取るものは艱難辛苦に耐える必要もなく、危険からも離れていられる。ただたくさんの記録史料を備えている図書館を探せばいいのだ。そしてそこで静かに座って、知りたいと思っていることを、書物の中に求めればいいのだ。そして先人の過ちを静かに確認することもできるのだ。」