2019年7月ドイツ鉄道の旅(その3)

第3回(最終回)は、南ドイツの古都ニュルンベルク及び大都会ミュンヘンについてお伝えする。

ハンブルクからニュルンベルクへ

7月24日(水)晴れ

午前6時半、ハンブルクのホテルで朝食。7時半、チェックアウト。そしてホテルに隣接したアルトナ駅から地下鉄でハンブルク中央駅へ移動。今日は北ドイツから南ドイツまで、かなりの長距離の鉄道の旅となる。8時28分ハンブルク中央駅発の新幹線ICE1085に乗り込む。そして予約しておいた1等の指定席に3人は座る。
ドイツの鉄道は、日本の新幹線と同じ広軌だが、1等車の場合、片側が1座席、反対側が2座席になっている。2等車の場合は、両側が2座席だ。そのため日本の新幹線の座席のように窮屈ではなく、ゆったりしている。それから昔ながらのコンパートメント式の座席もあるが、私見では最近は、日本と同じ方式が多くなっているような気がする。

列車は、3日前に北上した時とは逆に南下して、フルダ経由で約5時間で、ニュルンベルク中央駅に、13時25分に到着した。そして大きなトランクを引っ張って、駅に近いインターシティ・ホテルへ移動した。14時、そのトランクをホテルにおいて、近くのレストラン”Schwaenlein(小白鳥)”に入って昼食をとる。ここではニュルンベルク名物の小ぶりの焼ソーセージ6本に大量のサラダなどの添え物が付いた料理を注文した。飲み物としては、地元産の黒ビールを頼んだ。
ドイツに限らす、ヨーロッパの普通のレストランでは、食事の際に、昼でも夜でも、飲み物を何にするか聞かれる。久しぶりに食べたニュルンベルクの焼ソーセージは、期待通りおいしかった。

デューラー・ハウス

昼食後、旧市街をぐるりと取り囲んでいる城壁の外側を走っている市電に乗って、城壁の北側に位置している「デューラー・ハウス」へ向かった。アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、ニュルンベルク出身であるが、ドイツ・ルネッサンス絵画の完成者と言われる画家・版画家である。

ニュルンベルクは、中世末期から近世(15,16世紀)にかけて、南ドイツ有数の商工業都市として、商人や職人の経済力を基にして、文化が花開いた所である。ちなみにワグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー(親方歌手)」は、この町の親方(マイスター)であるハンス・ザックスを主人公にしているが、当時の町の雰囲気を今によく伝えている。またこの町は当時は出版都市としても名高かった。15世紀の後半、大規模な出版社を経営していたアントン・コーベルガーがその代表的人物である。彼は印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業者であった。

私はこの「デューラー・ハウス」を、1970年代前半にも訪れているが、今回その内部展示は、以前に比べ一段と工夫が施されていて、実に見応えがあった。

皇帝の城(Kaiserburg)への入り口

そのあと隣接した高台の上にある「皇帝の城]へ行こうとしたが、家内の足が痛んで高台へは登れないというので、断念する。たしかにごつごつした石畳みの道は、大変歩きにくい。その上今日も強い日差しが照りつけた猛暑日で、やむおえないことではあった。条件が良ければ、さして広くはない旧市街を歩いてみて回るのは、特に困難なことではないのだが、今日も異常な暑さなので、仕方がない。

そのため「デューラー・ハウス」近くの停留所から市電に乗って、午後6時ごろホテルに戻った。そして部屋に入り、シャワーを浴び、ゆっくり休息をとってから、一室に三人が集まって、途中で買った大きなサンドイッチを食べて、夕食とした。長旅なので、とにかく無理をして病気になったり、怪我をしたりしては、元も子もない。そのためホテルの部屋の中で、書類を整理したり、テレビを見たりして、その晩はゆったり過ごした。

ニュルンベルク二日目(近郊の町への遠足)

7月25日(木)快晴

ニュルンベルクのホテルで朝食をとる。そして今日は、長男の提案で、近郊にある小さな町「バート・ヴィンツハイム(Bad Windsheim)」へ日帰り旅行をする。
9時5分、ニュルンベルク中央駅発のローカル列車に乗って、北西方向へ向かった。そしてノイシュタインで乗り換えて、目的地に9時58分に到着。1時間足らずの行程であった。

本来はそこからバスに乗って、郊外の野外博物館へ行く予定であった。しかしじりじり照り付ける日差しの中、野外に長時間滞在するのはつらいので、計画を変更。町中にあるユニークな博物館を訪れることにした。

バート・ヴィンツハイムの郷土博物館の入り口

そこは教会を改造した建物で、一種の郷土博物館になっていた。中を見て歩くと、教会の設備はそのまま残されていて、その間に様々な展示がなされていた。全体としてカトリック勢力が優勢なバイエルン州でも、この北部のフランケン地方は、宗派的にプロテスタント地域なのだ。そのためこうした斬新なやり方で、教会の設備を刷新して、地域の活性化を図っているようだ。

木造の教会の建物のすぐ横に、コンクリートの付属の建物がつけられ、エレベーターで二階と三階へ登れるようになっている。三階まで上がってみると、教会の屋根裏の木組みの部分を見ることができて、興味深かった。

バート・ヴィンツハイムの街角

次いでこの小さな町の曲がりくねった狭い道を、少し歩いた。その途中、この写真に見られる街角があった。道の中央には噴泉があったが、19世紀のロマン主義の歌に出てくるような牧歌的な風景だ。その少し先に「コウノトリ亭」と称する一軒のレストランがあったので、その店に入って昼食をとった。ここでもたっぷりとした郷土料理とフランケン地方の地ビールを堪能することができた。

食後は再び列車に乗って、ニュルンベルクへ戻った。そして中央駅の近くにある堂々たる鉄道博物館を訪れた。この町はドイツの鉄道の発祥の地ともいえる所で、1835年、隣町のフュルトとの間にドイツ最初の鉄道が開設されたのだ。イギリスにおける鉄道開設に遅れることわずか数年ということである。それ以来、ドイツ全国津々浦々に鉄道網が張りめぐらされていったのだが、その先駆けとなったのが、ここニュルンベルクなのである。

ドイツにおける産業革命は鉄道網の発達によって促進された面が強いが、そうした輝かしい歴史の第一歩を記したという光栄を、ニュルンベルクの町は担っているのだ。館内にはそうしたドイツにおける鉄道網発達の様子が手に取るように分かる展示がなされていた。中でも注目すべきは、入り口近くにあった堂々たる機関車である。それはニュルンベルク~フュルト間の最初の列車を引っ張っていった機関車「アドラー(鷲)号」で、まさにこの博物館を代表する目玉なのだ。

レクラム百科文庫の自動販売機

博物館を出ようとした時、偶然私にとっては忘れることができないものに遭遇した。それはドイツの文庫本の元祖ともいうべき『レクラム百科文庫』の自動販売機であった。私はドイツ書籍文化史の一環として、このレクラム百科文庫の歴史を研究し、その成果として『レクラム百科文庫~ドイツ近代文化史の一側面~』という本を刊行した(1995年12月、朝文社)。その269ページに「文庫自動販売機の設置」という項目を設けて、これについて説明している。自動販売機による文庫の販売は、1912年から開始されたのであった。そして1930年代の後半まで注目されたといわれている。

そのあと家内と長男はホテルへ戻ったが、私は一人でなおニュルンベルクの旧市街を見て歩くことにした。先にも述べたが、旧市街の周囲には、城(Burg)を守るようにして、ぐるりと城壁が張り巡らされている。ドイツの多くの都市では、中世以来、城を取り巻くかなり広い囲壁の内部に、商人や職人が住んでいた。そのため元来要塞を意味していたBurg(ブルク) が町を意味するようになり、そこに住む人々(市民)は、Buerger (ビュルガー)と呼ばれるようになった。これはフランス語のブルジョアに相当するものだ。日本では「ブルジョア」は単に「金持ち」といった意味合いで使われているが、ヨーロッパでは、中世以来、商工業の担い手として、やがて都市の実権を握るようになったのだ。

19世紀に入ってドイツ語圏の大都会では、旧市街を取り巻く囲壁は町の発達を妨げるものとして取り壊されていった。しかし南ドイツの中小都市では、ここニュルンベルをはじめとして、日本人観光客に人気のあるロマンチック街道沿いのローテンブルクなど、いまだに城壁が残っているのだ。

さて私は二人と別れてから、囲壁の所々に設けられている城門の一つを潜り抜けて、旧市街に入った。そしてまず、囲壁近くにその堂々たる威容を見せている「ゲルマン国立博物館」を訪れた。40年ほど前にも一度この博物館に入ったことがあるが、当時は煉瓦造りの重厚な建造物であった。その後建物全体がぐんと拡張されたようで、コンクリートとガラス張りの新館には驚かされた。
「ゲルマン」という名称がつけられているが、その実態は、さまざまな分野の展示物を所蔵・展示している総合的な大博物館なのだ。その展示があまりに多岐にわたっているので、短時間ではとても見切れない。そうこうしているうちに、午後6時となり、閉館の時刻となって、追い出された。

そのあとは旧市街を北上して、ローレンツ教会に入った。この辺りは旧市街の中心部に近く、人々の往来が激しくなっていた。教会の中にも見るべきものはあったが、午後7時にはホテルに帰ると二人に約束したので、そそくさと出てきて、大通りを急ぎ足で南下した。そして囲壁のすぐ手前にあるマーケットに立ち寄った。そこはかつての職人たちの生活の場だったところだが、狭い小路に立ち並ぶ店を短時間で見て回った。

そして家内と長男が待つホテルへと戻った。そのあと一休みしてから、三人で外に出て、夕食をとる場所を探した。ドイツ料理には飽きていたので、この時は中央駅近くのイタリア料理店に入って、パスタ料理とイタリアワインの食事を楽しんだ。

ニュルンベルクには玩具博物館があるが、昔から玩具の生産と販売が盛んであった。70年代にドイツの放送局に勤めていた時、私は玩具見本市を取材したことがある。また12月にはドイツで最も有名なクリスマス市が立ち、日本からも大勢の観光客が押し寄せている。さらにナチスの時代には、近郊で定期的に華々しく演出された党大会が開かれていた。その様子は、今でもテレビなどを通じて繰り返し、紹介されている。その広大な広場は、なお残っていて、私も一度見に行ったことがある。そのがらんとした空間は、私の目には、まさに「つわもの共の夢のあと」のように映った。

ミュンヘン一日目

7月26日(金)晴れ

午前8時、ニュルンベルクのホテルで朝食。9時20分、チェックアウト。ニュルンベルク中央駅9時55分発のICE503に乗り込み、11時にミュンヘン中央駅に到着した。この町はバイエルン州の州都で、南ドイツ随一の大都会だが、ここへはこれまで何度か来ている。しかし最近は足が遠のいていて、1993年以来、
26年ぶりのことだ。

中央駅構内は大変な雑踏で、その中をガラガラとトランクを引きずりながら移動し、ロッカーにそれらをしまう。そしてただちに地下鉄に乗り、中心部にあるマリーエン広場で下車。そして人々の間を潜り抜けるようにして、新市庁舎前の広場に上がっていく。

ミュンヘンの新市庁舎

この新市庁舎はネオゴッシック様式の建物で、1867年~1909年に建てられた。このマリーエン広場辺り一帯は、ミュンヘンの中でも、一番人気のあるところだ。三人はまずは人ごみを掻き分けるようにして、新市庁舎の中に入り、長い行列に並んでエレベーターに乗り込んだ。降りたところは高さ85mの展望塔の上部であった。この広場周辺は何度も来ているが、塔の上に上がったのは、初めてだ。大都会ミュンヘンのたたずまいを眺望するのに、ここは格好の場所なのだ。

仕掛け時計の人形

そのあとエレベーターで下へ降りて、再びマリーエン広場に出た。12時5分前だ。広場には、前にも増して大勢の人々が集まっている。人々は、新市庁舎正面に取り付けてある仕掛け時計と2階と3階の人形たちを、じっと見ているのだ。正午の時報が鳴り出すと、まず3階の騎士たちがぐるぐる回りながら、正面に出てきては背後に消えていった。次いで2階の町民たちが踊りながら回転して、背後に消えていった。今回はちょうどタイミングよく、この仕掛け時計と人形の踊りを見ることができた。

このイベントが終わると、人々は三々五々、広場を離れていった。我々三人も、すぐ近くの聖母教会の中に入っていった。この教会の2本の塔はミュンヘンのシンボルになっているが、内部はステンドグラス以外は質素だ。そのあと、ミュンヘンで最も古く、11世紀前半からあったペーター教会の中を見学した。この方は内部が大変装飾的で、数多くの人間の彫像が見事だ。

外に出ると、ヴィクトアーリエン市場にぶつかった。たくさんの屋台では、新鮮な野菜、果物、肉類その他の食品などが売られている。市場のそばの一軒のレストランに入り、昼食をとった。外は人々の雑踏でうるさいが、一歩店の中に入ると静かで、バイエルン風の肉料理と本場の地ビールを大ジョッキで堪能する。日本ではドイツビールと言えば、ミュンヘンのビールが最もよく知られているが、自分としてはドイツ各地の地ビールを味うことを楽しみにしている。

食後は、イーザル門を通り抜けて、イーザル川の畔に出た。ミュンヘン市内を流れているイーザル川の名前は、日本ではほとんど無名だが、大河ドナウの支流で、ドイツとオーストリアの国境付近で合流しているのだ。

イーザル川での水遊び

今日もまた、じりじりと太陽が照りつける猛暑の一日で、この暑さをしのぐためか、人々はさして幅の広くない川の中で、水遊びをしている。こちらもできることなら、一緒に川の中に入りたいぐらいだ。ただ、そうもいかないので、三人は近くの山岳博物館の中に入った。

ミュンヘンは南ドイツの中でもかなり南部にあって、町の南には大小の湖が点在している。そしてさらにその南には、オーストリアとの国境をなしているバイエルン・アルプスが、東西に横たわっている。その最高峰はツーク・シュピッツェと言い、ドイツで最も高い山で、高度は3千メートル弱だ。その山頂へは北麓の中腹から空中ケーブルが通じていて、一挙に到達できる。三十数年ほど前に、その空中ケーブルに乗ったことがある。山頂の反対側は、もうオーストリア領なのだ。

この山岳博物館自体はあまり見るべきものがなかった。それで長居はせずに、市電に乗ってミュンヘンの中心部を通り抜けて、中央駅にたどり着いた。そしてロッカーの中からトランクなどを取り出して、地下鉄で市内の西方にあるイビス・ホテルへ移動した。そして途中で買ったサンドイッチ、サラダ、飲み物を、ホテルの部屋で食べて、夕食にした。

ミュンヘン二日目(ローゼンハイムへ小旅行)

7月27日(土) 晴れ

今日は、ミュンヘンの東南部に位置している町ローゼンハイムへ日帰りの小旅行。
ホテルから地下鉄でミュンヘン中央駅へ移動し、ローカル列車に乗り込んだ。そしてほどなくローゼンハイム駅に到着した。駅の周辺はのどかな雰囲気で、ここまで来るともう、アルプスも近い。同時にオーストリア国境もまじかだ。駅前でタクシーを拾い、ただちに中心街から離れた所にある「イン博物館」へ向かった。

イン博物館の外観

そこはイン(Inn)川の畔にある郷土博物館だ。イン川を中心に、この地域で昔から営まれてきた産業や人々の生活について展示した博物館なのだ。館内には人影がなく、受付の老人も手持無沙汰の感じ。それだけにとても親切に、いろいろとこちらの質問に答えてくれた。

このイン川は、源をスイス・アルプスに発し、オーストリア領を通って、やがて南ドイツに入り、このローゼンハイムの町の中を流れているわけだ。そしてさらに北東方向へと向かい、パッサウで大河ドナウに合流している。全長517Kmで、途中にはスイスのサン・モリッツや、かつて冬期オリンピックが開かれたオーストリアのインスブルックなどがある。

展示を通じて知ったことだが、イン川はアルプス周辺のこの地方の人々にとって、昔から物資を運ぶ重要な交通路になっていた。そして素朴な木造の平底船によって、穀物、ワイン、食用油、岩塩、たばこその他が運搬されていたという。館内にはその平底船の等身大の精巧な模型が置かれていて、とても興味深かかった。

平底船の模型

川下への航行には労力を必要とせず楽だが、急流を通過するときは危険が伴った。いっぽう川上への航行は、動力を使わない時代には、人間や動物が川の両側で船を引っ張らねばならなかったという。有名な「ボルガの舟歌」を描いた絵画を思い出し、おもわずその歌の一節を口ずさんでみたくなった。ただし歌詞がうろ覚えだったので、歌うことはやめにした。

やがて19世紀の半ばに蒸気船が導入されると、この点はぐっと改善されたという。博物館で入手した蒸気船を描いた絵ハガキには、1854年という年号が書かれている。

イン川の畔

「イン博物館」を出てから、すぐ近くを流れているイン川の畔に沿って、しばらく散歩した。この辺りは、ローゼンハイム市の郊外にあって、なんとものどかな風景であった。時計を見るとすでに昼時になっていたので、町の中心までかなりの道のりを歩いて行って「木槌亭」という一軒のレストランに入った。ここでも外の席は満員であったが、室内に入ると客が少なく、テーブル席もたっぷり空いていた。しかも外の騒音もあまり聞こえず、落ち着いた雰囲気であった。ドイツ人は,日の長い夏の季節には、太陽の下で過ごすのが好きなようで、たいていの料理屋は、夏には室内ががらがらなのだ。

「木槌亭」の外のテーブル席

今日は土曜日のせいか、町の中心部は、人でいっぱいだ。大道芸人の周りには、人だかりがしていた。帰路、アイスクリームを食べながら、ローゼンハイム駅へと向かった。そして再びローカル線の列車に乗り、午後4時ごろミュンヘン中央駅に戻った。

家内は暑さのために疲れたといって、長男の付き添いでホテルへ戻っていった。こちらは、せっかくの機会で、まだ時間もあったので、中央駅北部の美術館へ向かった。しかし目指す古代美術館は、閉鎖中だったので、近くの近現代美術館に入った。そこではドイツ表現主義の一派「青騎士」グループのカンディンスキーやフランツ・マルクなどの絵画を見て回った。
そして中央駅から地下鉄に乗って、やや離れた所にあるイビス・ホテルに戻った。

ミュンヘンからケルンへ

7月28日(日)曇りのち雨

昨日までの猛暑から一転して、今日は曇天のやや涼しい気候になった。ミュンヘンのホテルで、朝食をとり、チェックアウト。タクシーで中央駅へ向かった。この駅は現在工事中で、外壁の装飾などは隠れていて、中央駅としてのたたずまいは感じられない。その構内を大勢の人々が、忙しそうに動き回っている。この点は、東京の新宿駅とか渋谷駅などとあまり変わりがない。

今日は長男が住むケルンまでの長旅だ。9時28分発のICE61号に乗ったが、列車は西北方面へ向かって走り出した。そしてアウクスブルク、ウルムといった南ドイツの都会を通って、西南ドイツの大都会シュトゥットガルトに着いた。さらに列車は西北へ進み、ライン川畔の町マンハイムに、12時28分に到着した。

この間、前方と斜め向かいの席には、ドイツ人の祖母、両親、姉一人、男児二人の大家族が陣取っていた。そして男の悪ガキ二人が、通路を走り回ったり、寝そべったり、大声を発したり、傍若無人の振る舞いを重ねていた。親も祖母も特に叱ったりする風もなく、周囲の人たちも知らん顔。こちらとしては、困惑はしていても、直接注意するわけにもいかず、迷惑千万であった。1970年代にはじめて西ドイツに赴任した時は、他人の子供であっても、迷惑行為に対しては厳しく叱責する大人がいて、感心したものだ。今回目撃したのが特別なケースなのかどうか知らないが、ドイツの列車の中で初めて体験したことであった。

ライン中流域の渓谷を走る

我々三人は、マンハイム駅でケルン行の特急に乗り換えたが、それによってようやくこの悪ガキ共と別れることができ、ほっとした。そして列車は少し先のマインツからは、ライン川中流域の風光明媚な渓谷の中を走ることになった。マインツからリューデスハイム、コブレンツそしてボン、ケルン辺りまでの間は、いわゆるライン川観光の遊覧船がゆっくり動いているのだが、汽車のほうは谷底の狭いところを川の両岸に沿って走っている。

その間、崖の上には中世以来の古城の数々が見え隠れしている。また岸辺からの斜面にはワイン畑が広がっている。それからまた、歌にもよまれ、日本人にもよく知られているローレライの断崖絶壁もある。このあたり、ラインの流れは曲がりくねっていて、しかも急流である。伝説によれば、このローレライの断崖の上に、一人の乙女が座って、歌を歌っていたが、流れを進んでいた船乗りがその美声に聞きほれるあまり、かじ取りを間違えて岩にぶつかり、命を落としたという。

私が長期滞在していた1970年代や80年代には、日本人へのサービスとして、断崖の下のところに、ドイツ語と並んで日本語のカタカナで「ローレライ」と書かれた看板が取り付けてあった。その後その看板は取り外され、”Lorelei”
というドイツ語の看板だけが残っている。

やがて列車は15時5分、ケルン中央駅に到着した。そして小雨降る中、ただちにタクシーに乗り込み、長男の自宅に戻った。ゆっくり休んでから、夜には長男手作りのスパゲッティとビールの食事をとった。

ケルン滞在(ドイツ最後の日)

昨夜はたっぷり寝て、今朝は午前7時に起床。8時過ぎ簡単な朝食。
11時過ぎ,133番のバスに乗って、旧市街のホイマルクトで下車する。そのあたりから中央駅や大聖堂までがケルンの中心街だ。近くの大型電気店「ザトゥルン」に入り、CD音楽カセットやパソコンなどを見て歩く。そのあと趣のあるレストランや居酒屋が集中しているアルターマルクト地区へ移動した。

そして我々三人が訪れたのは、その中の老舗の居酒屋”Brauhaus Sion(ブラウハウス・ジオン)であった。ここはケルン産のビール(Sion)を醸造している店の直営酒場(レストラン)なのだ。この店で我々は、私が昔務めていた放送局の同僚である吉田慎吾さんと鈴木陽子さんに会って、会食したわけである。もう一人ベルリン在住の同僚永井潤子さんが来る予定であったが、連日の猛暑のために体調を崩して、急きょキャンセルになった。

とはいえ店内は客が少なく、静かな環境の中で、五人は午後1時から5時ごろまで、さまざまな話題を巡ってお喋りを楽しんだ。この二人とは、これまで私がケルンを訪ねると必ずと言っていいほど、しばしば会ってきた仲で、一昨年2017年8月にも、別の居酒屋で会っている。この時は放送局の上司のドイツ人クラウス・アルテンドルフさん及び旧同僚の佐々木洋子さんとそのドイツ人のご主人も出席していて、賑やかであった。アルテンドルフさんは2014年4月に85歳を迎え、それを祝って放送局の旧同僚がおおぜい集まって祝賀会が開かれた。それから数えてもう5年が過ぎ、90歳の高齢で、今年の会食には出てこられなかったのだ。

ケルンの居酒屋での会食(2017年8月)

左から家内、長男、鈴木さん、吉田さん、アルテンドルフ氏

左からアルテンドルフ氏、ケーベルレ氏、佐々木さん、戸叶            

日本への帰国

本日はドイツ滞在の最終日だ。長男の家で午前7時半過ぎに起床。遅い朝食の後、帰国の準備を始めた。大きなトランクやリュックサックに荷物を詰めていく。いろいろ詰めなおしたりした後、結局私のトランクの重量は23キログラム、家内のは20キログラムで、航空機に預ける制限重量の中に納まった。

13時過ぎ、三人はタクシーでケルン中央駅へ向かった。そして14時55分発の列車ICE109号で、フランクフルト空港駅へ移動した。鉄道駅でも空港でも、最近はすべて自動化していて、機械操作を正しくすれば、いとも簡単に済んでしまう。ただ今回は幸い長男がすべて手続してくれたのでよかったが、そうでなかったら困難に陥ってしまったかもしれない。昔私が一人で旅行して回っていた時は、こうした自動化はまだなく、言葉によって問題は解決していたのだ。

それはともかく、そうした手続きを済ませた長男とは、フランクフルト空港駅で別れた。家内と私は二つのトランクをカウンターに預け、出国手続きをしてから、出発ロビー内の免税店などに立ち寄り、お土産を買い足し、搭乗口近くの待合場所についた。
そして18時10分発のルフトハンザ機に乗り込んだ。機内は日本人を中心にほぼ満席。私の隣の席の日本人S氏とすぐに話を始めたが、その人は大学と高校で数学を教えているという。そして今回は数学者の足跡をたどって、イタリアの各地を旅してきたという。私も自己紹介をして、これまでのヨーロッパ滞在中のことを、いろいろお喋りした。そのため機内でも退屈することなく、過ごすことができた。

11時間の長旅の後、翌31日(水)の正午過ぎ、無事羽田空港に到着した。日本を出発した7月16日(火)には日本はまだ梅雨のさなかで、羽田も雨だったが、本日は梅雨が終わり、猛暑の真夏になっていた。預けた荷物を受け取ってから、タクシーで世田谷の自宅に戻った。

 

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その2)

第2回は北ドイツの港町で、旧ハンザ同盟都市のリューベック及びハンブルクについてお伝えする。

フルダからリューベックへ

7月21日(日) 晴れ

朝食後、フルダのイビス・ホテルでチェックアウト。そしてタクシーでフルダ駅へ。9時4分発のICE886号に乗り、ドイツ中央部を北上する。はじめトンネルの多い中部山岳地帯を通り抜け、やがて北ドイツ平原に出る。そして見本市でよく知られた中都会ハノーファー(日本ではハノーバーと言われている)に到着。ニーダーザクセン州の州都だが、第一次大戦以前、ハノーファー王国の都だった。

この王朝からは、18世紀の初め、血縁者が、イギリス国王ジョージ一世として迎えられている。本人は英語ができず、ドイツ滞在が多かったため、その治世、王に代わって行政を担当する首相と内閣の制度が発達したといわれている。「王は君臨すれども統治せず」をモットーとしていた当時のイギリスの政治家にとっては、政治にくちばしを入れられなかったので、都合がよかったのだろう。『世界史用語集』によれば、ハノーヴァー朝(1714~1917)は、その後実に2世紀余りにわたって続いたのだ。

この間、この地域はイギリスと親しい関係になり、さまざまな分野で先進的なイギリス文化や制度が、導入されていったという。たとえば同王国のゲッティンゲン大学は、イギリスからの先端的な文化の導入や人事面での交流があって、当時のドイツの一流大学へと発展した。明治以降、日本からも多くの学生・研究者がゲッティンゲン大学へ留学しているのだ。

さて話は横道にそれたが、列車は12時半に大都会ハンブルクの中央駅に到着した。そして13時4分発のローカル列車に乗り換えて、その北東部にある港町リューベックへ向かった。そしてその中央駅に13時48分に着いた。港町と言っても、この町はバルト海のリューベック湾には直接面してはいず、トラーヴェ川を少し遡った所に位置している。

とはいえ中世後期には、バルト海を中心に北ドイツ、ポーランド、ロシア、スカンディナヴィア地域の諸都市から、さらにライン川をさかのぼった所にあるケルンそして北海に通じたハンブルクや、かなり西のロンドンなどの都市にまで広がって、国際交易のための「ハンザ同盟」の盟主だったのが、このリューベックなのだ。そのため「ハンザ都市リューベック」という称号を持ち、いまなおその伝統を誇りにしているわけである。

さてわれわれ三人は、中央駅のコインロッカーに大きな荷物をしまい、身軽になって、昼食をとるために旧市街へ向かった。そこは中央駅から歩いて行ける距離にあるが、四方を運河で取り囲まれた中の島の上に位置している。この点第1回でお話ししたストラスブールに似ているといえよう。その地域に入る少し手前に、リューベックの象徴としてよく知られ、紙幣の図柄にもなっている「ホルステン門」が見事な姿を見せていた。

ホルステン門

三人はこの門の傍らを通り過ぎて、運河にかかった橋を渡って島の中に入った。そして左折して運河に面した一軒の魚料理店に入った。店の名前は「Seewolf
(おおかみうお)」という。時刻は午後2時半で、店内に客の姿はなかった。しかし尋ねてみると、営業しているという。
三人は席について、まず地元の生ビールを注文。食事のほうはそれぞれ別の魚料理を頼んだ。私は衣つきのタラ料理だが、添え物は好物のジャーマンポテト。ビールにぴったりだ。空腹を十二分に満たしてくれた。店内にはいたるところに、海に関連した品々が置かれていた。また天井からはいろいろな漁具や船の模型などがつりさげられ、まさに港町の雰囲気を堪能できた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”の店の人は素朴で、親切。ドイツ語でこの辺りのことをいろいろ尋ねてみたが、北ドイツ人の特性と言えるのかどうか、静かな調子で淡々と答えてくれた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”

食後には、近くの比較的狭い通りを散歩する。そこは石畳を敷き詰めた道だが、風情はあるものの、でこぼこしていて歩きにくい。とはいえ道路の両側には、北ドイツ特有の茶色ないし黒色の煉瓦造りの数階建ての建物が立ち並んでいる。

煉瓦造りの数階建の建物

その一角にマリーエン教会があったので、中に入る。この教会の目玉は天文時計と立派なパイプオルガンだ。そのオルガンは何故か”Totentanzorgel(死者の舞踏オルガン)と呼ばれている。そして北ドイツ地域の代表的なオルガンだということを、事前に、オルガン奏者でもある家内の実兄の馬淵久夫さんから聞いていた。またバロック音楽の作曲家ブクステフーデが、この教会のオルガンを弾いていたという事も、聞いていた。そのため家内は教会内の売店で、ブクステフーデが演奏した作品を収録したCDを買い求めた。

マリーエン教会の天文時計

マリーエン教会を出ると、日曜の午後という事で、あたりは大勢の人で混雑していた。教会の隣には、見上げると空高くそびえ立つ建造物が建っていた。その建物にはいくつもの尖塔があり、その下に円形がくりぬかれている造形が、特徴と言えよう。大変印象的だ。それがリューベックの市庁舎なのだ。

リューベックの市庁舎

市庁舎前の広場も、人々でごったがえしていた。長男の提案で、その市庁舎の中には入らずに、二・三軒先にある聖ペトリ教会へと向かった。そして教会の塔を、エレベーターで上って行った。そこからの眺めは、旧市街全体を十分見下ろせるばかりでなくて、ホルステン門や遠くの市街地まで、まさに眺望絶佳であった。

そのあと旧市街を離れ、先ほどは傍らを通り過ぎたホルステン門に入っていった。
門の内部は博物館になっていて、昔の人々の暮らしに関連した品々が展示してあった。三階建になっていて、狭い石段を上って、それらの展示を一通り見て回った。

そのあとリューベック中央駅構内のロッカーにしまっておいた、大きなトランクを引き出して、タクシーで町はずれのイビス・ホテルに入った。夕食は、そとで買ったサンドイッチやサラダ、飲み物をホテルの部屋で取った。そして一日の疲れをいやすため、早めに就寝した。

リューベック二日目

7月22日(月)小雨 イビス・ホテルで8時半、朝食。9時半、ホテルを出て、タクシーで、島の一番北の旧市街はずれにある「ハンザ博物館」へ直行する。この博物館は、運河の北側と島の内部を結ぶ城門のすぐ近くにある元修道院の建物を改造して2015年に開設されたばかりだ。ハンザ同盟に関連した本格的な博物館である。中の展示は豊富で、いろいろと体験することができる「体験型の博物館」だ。

ハンザ同盟は、『世界史用語集』によれば、リューベックを盟主として、13世紀後半から発展したもので、ハンザは「商人の仲間」の意味。1358年に明確に都市同盟の形をとった。加盟都市は100を超え、共通の貨幣・度量衡・取引法を決め、陸海軍を維持し、国王や諸侯に対抗して北海・バルト海一帯を制圧した。しかし、主権国家体制が成立し始めた16世紀以降次第に衰え、17世紀初めには、ほぼ実体を失った。
展示を見終わって、博物館の中にあるレストランで昼食をとった。

博物館を出ると、小雨が降りだしてきた。今回の旅行で初めて雨傘を取り出して、石畳の狭い道を移動していった。そして「ヴィリー・ブラント・ハウス」に入った。この町出身のブラントは、1969年から1974年まで、社会民主党の党首として、自由民主党との連立政府で、西ドイツの首相を務めた人物である。
この「ハウス」では、ブラントの生涯と業績を詳しく説明した展示がなされていた。彼の最大の業績は、米ソの冷戦体制のはざまにあって、ソ連、ポーランド、東独、チェコスロヴァキアとの間に、それぞれ条約を結んで、東西間の融和と緊張緩和を図ったことである。その政策は新東方政策として歴史に名を残している。そしてその功績によって、ノーベル平和賞を受賞した。

私はブラントが西独の首相を務めていた時期にほぼ重なる1971年10月から1974年末までの三年間、NHKから派遣されてケルンのドイチェ・ヴェレ(ドイツ海外放送)の日本語番組を担当していた。その時、毎日のようにラジオのニュースや番組などで、ドイツを中心としてヨーロッパ全般の政治・経済・社会・文化などに関して、日本の聴取者に知らせていた。そんなこともあって、ブラントのことは三年間、常に私の関心の的であった。

1972年のことだったと思うが、西ドイツで総選挙が行われた時、ブラントは私が住んでいたケルン市の中心にある広場で、演説を行った。その時私は広場の聴衆の一人として、彼独特の ゆっくりとした、粘り気のある話ぶりに、すぐ近くで接したわけである。また新聞、テレビ、ラジオでは、毎日のようにブラントをめぐる話題に触れていたのだ。
私はその後1983年4月から1986年3月まで、三年間再び同じ放送局で仕事をした。その時は保守系のキリスト教民主同盟のコール首相の時代で、政治ばかりでなく、さまざまな面で、70年代とは違っていた。

さてブラント・ハウスを出てすぐ近くに、西ドイツの作家でノーベル賞を受賞したギュンター・グラスの家もあった。彼もリューベックの出身である。革新系の政治信条の持ち主かどうか、詳しいことは知らないが、ブラントの選挙を応援していたのだ。作品としては『ブリキの太鼓』が代表作と言われ、映画化もされていて、私もその映画を日本で見ている。しかし時間の関係で、その家はパスして、近くにある「ブッデンブローク・ハウス」に入った。                 この建物は「マン兄弟博物館」とも呼ばれているが、ドイツの有名な作家ハインリヒ・マンと弟のトーマス・マンの記念館なのだ。ノーベル賞作家のトーマス・マンは、名高い小説「ブッデンブローク家の人々」を書いているが、彼の親や祖父やさらに数代先の先祖も、リューベックの商人で、市の有力市民なのであった。その代々の家が「ブッデンブローク・ハウス」なのである。マン兄弟はこの祖父母の家を、しばしば訪れていたという。

ドイツを代表する知識人・作家の博物館だけあって、訪れる人は多く、その中には若者たちも少なくなかった。またその展示は実に豊富で、短時間ではとても見切れないものであった。

そこを出てしばらくすると、昨日も見た市庁舎の前の広場が現れた。晴れていたらトラーヴェ川の河口でバルト海に面しているトラーヴェミュンデまで遠出したいと思っていたが、あいにく小雨が降り続いていたので、残念ながらその計画は断念することにした。
そしてそれ以上石畳の狭い道を雨の中歩くのは、決して楽ではないので、早めにホテルに戻って休息した。

そのあと元気を回復したので、夕方の5時半ごろ再び外へ出て、歩いて中央駅周辺へ向かった。そして駅前のイタリアレストランに入って、今回初めてスパゲッティー料理を口にした。味も大変よく、分量もたっぷりしていて、十分満足した。そしてホテルに戻って、早めに就寝した。

ハンブルク見物

7月23日(火)晴れ

今日は再び天気が良くなった。7時起床。8時半ホテルをチェックアウトして、タクシーでリューベック中央駅へ。9時8分リューベック発のローカル列車に乗り、ハンブルク中央駅に9時51分着。そして近郊電車(S-Bahn)に乗り換えて、ハンブルク・アルトナ駅へ移動した。そして駅に隣接した所にある「インターシティ・ホテル」に入った。チェック・インして部屋に入り、荷物を置いて、身軽になって、ただちにハンブルク市内観光へ出掛ける。

ハンブルクはドイツ第二の人口の大都会。これまで何度も訪れたことがある。リューベックと同様に、中世以来の「ハンザ同盟都市」であることが、今でもこの町の誇りとなっている。ドイツ有数の大河であるエルベ川の河口近くの港町であるが、北海に面したその河口からは70キロほどさかのぼった地点に港としての機能が集まっている河川港である。

リューベックはユトランド半島の東側のバルト海に面していたため、16世紀の大航海時代の幕開けとともに大西洋に国際交易の重点が移り、次第に没落していった。それに反して同じハンザ同盟都市であったハンブルクは、大西洋に近い北海に面していたこともあって、その後もうまく立ち回って、貿易を中心に発展してゆき、ドイツ有数の大都会になって、今日に至っている。

私が初めてドイツを訪れたのは1971年秋であった。日本からの飛行機はアラスカのアンカレッジで一度乗り換え、北極上空を飛んでスカンディナヴィア半島を越えて、ハンブルクに到着した。飛行機が空港近くで高度を下げ始め、ハンブルク市が窓の外に見えてきたとき、緑あふれる森の中に赤褐色の屋根の住宅が見事にその色をそろえていた。日本のように建物の色彩がバラバラでなく、実に程よく調和していて、なんと美しいのだろうと感激したものである。

さて今回のハンブルク観光はわずか一日の行程であるため、目的地を港湾地区の見物に絞ることにした。我々三人はホテル近くの停留所からバスに乗って、その港湾地区へ向かった。最初に訪れたのは、エルベ川に面した所に立っている音楽ホール
「エルプ・フィルハーモニー」であった。2017年1月に開館したばかりで、昔の赤レンガ倉庫の上部に,波の形をイメージした総ガラス張りの構造物を載せた、大変ユニークな外観になっている。夏場のため、この時期は演奏会は開かれていないが、開館以来すでにハンブルクの新名所になっていて、この日も大勢の人々が建物を見物するために、押し寄せ、周辺からもうごった返していた。

エルプ・フィルハーモニーの外観

その人ごみに交じって、1階の入り口から長いエスカレーターに乗って、上階へ上った。そこは演奏会場の手前の広々としたロビーになっていて、ガラス張りのため、窓際に近づくと、外の景色への眺望がすばらしい。窓際に沿って移動していくと、ハンブルク市内の街並みがよく見え、また反対側に回ると、眼下に広々としたエルベ川の景観が目に入ってきた。

フィルハーモニーから見たエルベ川

あいにく演奏会場への扉は閉まっていたが、その音響設計には、日本人の豊田泰久氏が携わったという。本当はその音楽ホールも見たかったのだが、それはまたの機会にという事にして、ロビーの一角の土産物コーナーへ向かった。そして記念にブラームスの「交響曲3・4番」が収録されているCDなどを買い求めた。演奏は北ドイツ放送局管弦楽団。ブラームスはハンブルクの出身で、その音楽は北ドイツの重々しい風土を反映しているといえよう。私の大好きな作曲家だ。フランスの女流作家フランソワーズ・サガンに「ブラームスはお好き?」という作品があるが、フランス人の中にもブラームスが好きな人は、少なくないと見える。

「エルプ・フィルハーモニー」を出てから、歩いて港湾地区の一角に集まっているポルトガル料理店の中の一軒の店”Casa Madeira”に入る。どこの国でも港には世界各国の船乗りなどが立ち寄るものだが、この地区には昔からポルトガル人が集まって、一つのコロニーを形成しているらしい。先日ある新聞記事で、16世紀にスペイン・ポルトガルで、カットリック教徒以外のユダヤ人などが、迫害された時、このハンブルクにもかなりのユダヤ人(ポルトガル人)が逃げてきたという事を読んだ。その事と、このポルトガル人コロニーとどんな関係があるのか、調べてみたら面白いだろう、と思った。

この店では三人とも、イカのグリル料理とポルトガル産のビールを注文した。先にリューベックでも魚料理を食べたが、やはり港町にふさわしいものと言えよう。味も分量も満足のいくものであった。ただ一般に内陸部に住む多数派のドイツ人の庶民はあまり魚を食べないようだ。たとえば私が住んでいた内陸部のライン川の畔の都会ケルンで、1970年代、80年代に付き合っていたドイツ人の庶民の中には、魚を食べたことがないといった人も結構たくさんいた。                昼食の後は「エルプ・フィルハーモニー」近くの桟橋から無料の遊覧船に乗って、しばらくエルベ川の両岸の景色を楽しんだ。その船は5分ばかりで、別の桟橋に着いた。そこには、かなり大きな三本マストの帆船が停泊していた。

帆船”Rickmer Rickmers(リックマー・リックマース)号

その船は観光用の博物館になっていて、一人5ユーロ(625円)で、内部を詳しく見て歩くことができるようになっていた。その入場券には、”Museumsschiff   Rickmer Rickmers(博物館船リックマー・リックマース)”と書かれていて、さらに「ハンブルクの浮かぶ象徴」とも付け加えてあった。リックマーは、代々この帆船の持ち主だった一族の名前なのだ。内部の展示を見ていくと、リックマー家が、貿易商人として、19世紀から20世紀にかけて活動してきた様子が、つぶさに分かるようになっていた。

聖ミヒャエル教会

次いで我々は、「水上から見たハンブルクの目印」と言われている聖ミヒャエル教会に入った。北海からエルベ川をさかのぼって数十キロ進んだ地点に立っている、この教会を見た船乗りたちは、ハンブルクの港に着いたことを実感するのだそうだ。
そのあと三人は港湾地区から地下鉄に乗って、ハンブルク市の中心部へ移動した。市の中心には大小二つのアルスター湖があって、緑豊かな地域だが、湖の周辺には高級ホテルや高級レストランが立ち並んでいる。大都会のど真ん中に、これだけ広々とした湖がある風景は、ドイツの他の都市には見当たらない。

その一角に風格のある、壮麗な市庁舎(Rathaus)が建っている。ドイツでは昔からこの市庁舎は、どの町でも、国王や領主から独立した豊かな経済力を持った市民階級が、町の権力を象徴する建物として、誇りにしてきた建造物なのだ。
その近くの屋外カフェーに我々は席を占めた。そして暑さしのぎに、冷たい飲み物を飲みながら一息入れた。昨日リューベックでは小雨が降っていたためかやや涼しかったが、今日のハンブルクでは、再び晴天となり、暑さのほうもぶり返してきたのだ。その暑さをしのぐには、冷たい飲み物だけではなく日陰にいることが肝要だ。幸いわれわれのテーブル席は大きなパラソルによっておおわれていた。そして湖から吹いてくる涼しい風に当たりながら、堂々たる市庁舎を眺めることができた。

アルスター湖畔のカフェ、背後に市庁舎

市内見物はそれぐらいにして、我々はホテルに戻って、一休みした。そして午後7時15分、アルトナ駅近くのレストラン”Schweinske”に入り、夕食をとった。奇妙な名前の店だが、Schwein はドイツ語で豚のことだ。料理のメニューを見ると、やはりポーク料理が目に付いた。そのためこちらもその中の一つを注文し、生ビールをたっぷり飲みながら、ハンブルクの夜を過ごした。