第一章 著作権制度の確立と<書籍商組合>の活動
周辺諸国の動き
著作権・版権に関して決定的な動きは、ドイツにおいては、19世紀に入ってから起こった。たしかに北ドイツ及び中部ドイツの大部分では、18世紀の末ごろにはもう翻刻出版は禁止されていた(プロイセン王国では1794年に、ザクセン王国では1773年に、こうした法律が制定された)。しかしドイツ全体ではそうした法律は制定されていなかった。いっぽう周辺諸国の動きを見ると、まずイギリスではアン女王時代の1709年に、著作者及び出版社に対する保護期間の制度が導入されていた。アメリカでは1781年のコネティカット事件の後、著作連邦法が成立した。ここではイギリスの判例に従って、保護期間が28年と定められた。フランスでは1777年に「永世版権」の制度が定められた。次いで1793年には著作者の複写権は死ぬまで、その相続人に対しては著作者の死後10年までと定められた。そしてオランダでも同様の動きがみられたため、ドイツの著作者たちも、こうした制度の導入を待ち望んでいた。これらの声を代表するものともなっていたのが、フリードリヒ・ペルテスが1816年に公表した『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』という文書であった。これはドイツ出版業界の実践的な基本文書ともいうべきもので、社会における出版業界の義務について述べたものであるが、この中でペルテスは出版社の版権が保護されるべきことを訴えているわけである。
ペルテスの著作『ドイツの著作物存続の条件としてのドイツ書籍業界』
翻刻出版の禁止
ドイツにおいてこの面でも先行していたのは、北ドイツのプロイセン王国であった。1794年には、書籍出版に当たっての諸権利の保護を決めた法律が定められたが、これにはベルリンの大書籍商フリードリヒ・ニコライの働きかけが大きかった。この法律の中で、翻刻出版の厳禁がうたわれ、これに従わない場合には、原出版社の申し出のうえで、翻刻本は没収または販売不能もしくは原出版社への引き渡しが定められていた。
またこの法律には著作者と出版社との関係についても、出版契約をはじめ詳細に規定されており、著作者の意見をきくことなしに翻刻出版をしてはならないことも規定されていた。ただこの権利は相続者には及ばないものとされ、どの出版社にも翻刻出版に対する版権が存在しないときは、誰でも翻刻出版できるものとした。ただしこの場合、新しい出版社は著作者の一親等の家族と、翻刻出版についての取り決めを結ぶべきことが定められていた。ただ著作者と出版社の出版契約の有効期限については、ここには何も記されていない。
ところで1815年のウィーン会議の結果生まれた「ドイツ連邦」には、オーストリア、プロイセンをはじめ大中小39の領邦国家が加盟し、全ドイツを代表する組織になっていた。そしてその代表議決機関として「ドイツ連邦議会」が設立されたが、事実上これは大国オーストリアによって牛耳られていた。しかもオーストリアは南ドイツの諸地域と同様に、翻刻出版を公然と支援していたわけである。そのため1815年連邦規約第十八条d」によって、「出版報道の自由並びに翻刻出版禁止」に関する措置が取られる見通しがいったんは出てきたものの、連邦議会はその後この措置を引き延ばしてしまった。そこでプロイセン王国は、連邦議会の枠外で事を進めることに方針を変更した。こうしてプロイセンは1827年から29年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に、個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦全領域における翻刻出版の禁止措置に、しぶしぶ踏み切ったのである。
著作権の保護
このようにして翻刻出版の禁止措置はドイツ全土に広まったのであるが、次の段階として出版社の持つ版権保護ではなくて、書物の著作者が持つ著作権の保護の問題が浮かび上がってきた。この点についてドイツ書籍商組合は、1834年に、『ドイツ連邦加盟諸国における著作者の法的地位の確立に関する提言』と題する覚書を公表し、その中で著作権保護期間を著作者の死後30年間と定めた。しかし連邦議会はこれを無視する態度に出たため、再びプロイセン王国は独自の歩みを見せ、1837年に法律を制定した。これは『学問芸術上の著作物の所有権保護のために、翻刻出版並びに複製を禁止する法律』というもので、ここで初めて著作者の権利保護が明白に規定されたのである。またその際著作権保護期間が30年と定められたのであった。そしてドイツ連邦加盟のいくつかの国もこの法律を受け入れた。
いっぽう連邦議会はこうしたプロイセンのイニシアティブに刺激を受けながら、しぶしぶ1837年11月9日に著作権保護を取り決めたが、そこではプロイセンのものよりも弱い内容となっていた。それは保護期間を10年と定め、法律実施の日からさかのぼって20年間に発行された作品に対して有効としたのである。
次いでヘルダー、シラー、ヴィーラント、ジャン・パウル、ゲーテなど1838年以前に死亡していた作家の相続人及び出版社に対して、その「国民的な業績」ゆえに、20年間の連邦特権というものを認めた。しかしゲーテはすでに1825年に、自分の全作品に対する特権を認めるよう連邦議会に申請していた。この申請に対して、ゲーテは、この件に関しては個々の領邦国家が担当しているとの返事を受け取ったという。
それはさておき、ドイツ書籍商組合は著作権保護のさらなる推進を目指して、1841年に新たな覚書を提出したが、これを受けてザクセン王国では、30年の保護期間が導入された。そして1845年6月19日になってようやく連邦議会は、著作者の死後30年という保護期間をドイツ連邦の全領域に広げることを決定したのであった。
ここでは1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとされた。この日付は後に、ドイツの古典作家の作品の著作権保護期間に関連して注目されることになる。つまりこの日以後、これら古典作家の作品は著作権を気にすることなく、自由に大量出版できることになるのだ。その意味で極めて重要な日付になるのであるが、これについては後に詳しく述べることにする。
著作権保護の国際的動向
ここで著作権制度に関する国際的動向について一言ふれておこう。まずいくつかの国の間で二国間協定が結ばれた。例えばスイスと北ドイツ連邦の間では1869年にこの協定が結ばれている。そしてその後1886年になって、「文芸作品及び芸術作品の保護に関するベルヌの取り決め」、いわゆるベルヌ条約が発効した。この条約に加わったのは、ベルギー、フランス、イギリス、ハイチ、リベリア、スイス、スペイン、チュニスそしてドイツの各国であった。これを見るとベルヌ条約の原参加国の数が少ないことが分かるが、それには各国の出版業界のそれぞれの利害や思惑がからんでいたようである。そのためか北欧のノルウエーは1896年、デンマークは1903年、スエーデンは1904年にそれぞれ加盟している。そしてこの条約の中身は、1908年にベルリンで、1928年にローマで、1948年にブリュッセルで、そして1967年にストックホルムでそれぞれ修正されている。
王政復古期の検閲
それではここで1825年に設立された「ドイツ書籍商取引所組合」の活動に、眼を向けることにしよう。この組織が最初に取り組んだ問題は、以上述べてきた版権・著作権制度の確立と並んで、国家による検閲を廃止させることであった。ウイーン会議後のドイツは、オーストリア宰相メッテルニヒの指導の下で、いわゆる王政復古期にあった。ドイツ連邦傘下の各領邦国家では、自由が抑圧され、書籍や印刷物に対する検閲が行われていた。
1819年、ドイツ連邦はカールスバートの決議によって、詳細な検閲規定を定めた。その骨子を説明すると、検閲には、事前検閲と事後検閲の二種類あった。事前検閲は320頁以下の印刷物に適用され、これはドイツ連邦加盟各国当局の管轄とされた。いっぽう事後検閲は321頁以上の大部な書物に適用され、これはドイツ連邦の事務当局が直接担当した。つまり加盟諸国当局の出版許可がおりて出版された本であっても、この事後検閲によって発禁処分にすることができたのである。
ただ事前検閲については、加盟各国によってその検閲の厳しさにかなりの相違がみられた。最も厳しいオーストリアから、かなり寛容なザクセン・アルテンブルクまで、その間に厳しさに様々な差異がみられた。その際とりわけ厳しい検閲の対象にされたのが、当時進歩的で過激とされていた「若きドイツ派」に属する作家の作品であった。この派の作家としては、ハイネ、グッツコウ、ラウベ、ヴィーンバルク、ムントなどの名前があげられていた。これらの作家の作品を出版した出版社、印刷業者、販売者に対しては、刑法および警察法を適用して、作品の普及を抑えようとしたのである。
「若きドイツ派」の作品を出版していたのは、ハンブルクの出版者ユリウス・カンペ(1792-1867)であった。彼はこうした検閲と終始闘い続けた代表的な出版人であるが、検閲の目を潜り抜けるために、印刷、引き渡しその他経営一般に複雑なシステムを取り入れていた。たとえば検閲の厳しくない国の印刷所にわざわざ頼んだり、事後検閲を避けるために本の厚さを320頁以下に抑えたりといった具合である。
ただ自分の作品が短縮されるのを嫌ったハインリヒ・ハイネなどは、この点で出版社側と争ったりした。そして両者は互いに新聞紙上に公開書簡を発表しあったりした。しかしこれも深刻な争いというのではなく、むしろ宣伝効果に対する暗黙の了解が、両者の間にはあったようである。この公開書簡の発表によって、検閲の実施という事実を一般に知らせることができたし、売り上げの方も促進されたのである。ハイネは自分の作品『ドイツ、冬物語』の序文(1844年9月17日付け)の中で、次のように書いている。「自分の出版社は出版を可能にするために、詩の内容を検閲する役人に対して細心の注意をもって接しなければならなかった。それでも数度にわたって、修正・変更や削除を余儀なくされたのである。」
検閲の廃止
こうした検閲を廃止させるために、書籍商組合の代表は1842年にザクセン政府当局に赴いて、ドイツ連邦が検閲の規定を大幅に緩めるよう請願した。その最終目標は、検閲の全くない完全な言論報道の自由の実現であった。そうした書籍商組合の度重なる努力は、ようやく1848年の三月革命のときになってその目標を達成することになった。ハレ新聞は1848年3月20日付の紙上で、その喜びを次のような書き出しの記事で読者に伝えた。「出版報道は自由になった。今日初めてわが新聞は検閲なしに発行されることになった。」
しかし政府当局は検閲廃止の代わりに、個々の出版物の内容に対して、印刷業者、出版社、および書籍販売人が責任を負うことを定めた。そしてその具体的措置として、出版報道業務の開始に当たって、検査、許可及び保証金の制度が導入された。とりわけ言論出版関係業種の営業活動に加えられたこうした制限措置は、その後1869年になって北ドイツ連邦加盟国領域で撤廃され、いわゆる営業の自由が導入された。そしてこの営業の自由は1872年になって、その前年に誕生したドイツ帝国の全土に拡大されたのであった。
業界専門誌の発行
ところでドイツ書籍商組合は、その設立以前から書籍取引業界の専門誌を発行する必要性を感じていたようだ。そして設立後もその発行について議論が重ねられてきたが、なかなか実現に至らなかった。そうこうしているうちに全国組織であるドイツ書籍商取引所組合とは別の「ライプツィヒ書籍商組合」が、1833年に『ドイツ書籍取引所会報』の発行を決め、翌1834年1月3日にその創刊号が世に出た。この創刊号の序文の中で、ドイツ出版業界の大立者フリードリヒ・ペルテスは、ドイツの書籍取引業界が直面している情勢についてふれ、書籍市場が本の洪水であふれていることを嘆いている。
『書籍取引所会報』創刊号の表紙
それはともかく、この会報は翌年の1835年には、ドイツ書籍商取引所組合の所有するところとなった。そして初代編集長O・A・シュルツは1839年に、『ドイツ書籍商人名録』を発行した。しかしこの会報の編集担当者は当初頻繁に入れ替わっていた。これはこの雑誌に対する外部からの規制が強く、その圧力を受けて組合内部で争いが絶えなかったことによるものとみられている。
それでも『ドイツ書籍取引所会報』は続けて発行され、やがて出版業経営上非常に有益な「新刊書目録」が掲載されることになった。この仕事はヒンリックス書店が担当した。これは当初は週に一回、1842年からは週に二回、そして1867年からは毎日掲載されるようになった。ちなみにこの年からは会報そのものも毎日発行されることになった。
書籍商組合会館の建設
この会報の発行と並んで、ドイツ書籍商組合にとって独自の会館を建設する必要性が生じてきた。会報の発行が遅れていたのも、一つには会館の設計と建設に、関係者の関心と精力が、まず注がれていたことによるといえるぐらいなのだ。
それはともかく組織ができて11年後の1836年には、ライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」の会館が落成した。これは写真に見るようにとても堂々たる立派な建物であった。
書籍商組合会館(1836年落成)
いっぽう出版人の養成所を作る必要性についても、ペルテスは1833年に提言していたが、この構想については書籍取引所会報でも1840年に取り上げられ、真剣に論じられた。そして十余年後の1852年になって、フリードリヒ・フライシャーが音頭を取って、「ライプツィヒ書籍商組合」によって実現されることになった。つまりドイツの出版の中心地に、出版人の後継者を養成するための教育施設が誕生したのであった。
書籍出版史の発行
19世紀も後半に入ると「書籍商組合」は、ドイツの書籍取引に関する歴史研究と歴史叙述に力を入れて取り組むようになった。そして1876年、出版主エドゥアルト・ブロックハウスの音頭取りで、出版史編纂のための歴史委員会が結成された。そしてその二年後の1878年から『ドイツ出版販売史記録集』が発行され始め、これは1898年までに20巻に達した。ついでに言えば第二次大戦後、フランクフルトの「書籍商組合」によって、『書籍史記録集』という題名のもとに、この仕事は受け継がれている。
いっぽうドイツの出版史の叙述の方に目を向けると、フリードリヒ・カップとヨハン・ゴルトフリードリヒという二人の学者によって、『ドイツ書籍出版史』という四巻にのぼる大著が書かれた。これは印刷術の発明から1889年までを扱ったもので、その第一巻は1886年に、ドイツ書籍商組合出版局から発行された。内容的にも非常に詳しく、今日に至るまでドイツ書籍出版史の古典といわれ、多くの研究者から今なお利用されているものである。第四巻が発行されたのは1913年であったが、その後の時代についての叙述が目下準備されている。
F・カップとJ・ゴルトフリードリヒの肖像
いずれにしてもドイツ書籍商組合は、ドイツの書籍商の単なる業界的な利益集団という枠をはるかに超えて、ドイツの出版文化を総合的に育成していく機関へと成長したのである。
第二章 出版界の多様な展開
高速印刷機の発明
印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明以来、細かな改良は加えられてきたとはいえ、基本的には以後350年間、ほぼ変わりがなかったといえる。ところが18世紀後半に始まった産業革命の影響のもとに、印刷の世界にも画期的な技術革新が訪れた。1811年、ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒが蒸気式高速印刷機を発明したが、これによって出版の世界は決定的な進歩をとげることになった。つまりこの新発明によって従来の手動印刷の10倍の印刷能力が生まれたわけで、ここに印刷物の大量生産が飛躍的に促進されたのである。
ロンドンの「ザ・タイムズ」社の社長は、このドイツ人の発明を「印刷術の発明以来書籍印刷の世界で見られた最大の改良」と呼んだ。そして新聞「ザ・タイムズ」は、1814年11月29日に、この高速印刷機を用いて初めて印刷されたのであった。ドイツ人のケーニヒが行った発明が外国で最初に認められたという事は、時代の兆候を示すものと言えよう。その後この新発明はドイツでも採用されたが、これを最初に用いたのは、大出版経営者ヨハン・フリードリヒ・コッタ(1764ー1832)であった。彼はこの高速印刷機を使って、自分が発行していた新聞『アルゲマイネ・ツァイトゥング』を印刷したわけである。
15世紀から19世紀までの印刷所の変遷
初期資本家コッタ
このコッタこそは、ドイツの出版界の新時代を代表する人物だったのだ。彼は、1659年創立の古い出版社を、1787年、23歳の時父から受け継いだが、当時朽ちかけていた同出版社を、その数年後にはヨーロッパでも有数のものに再建し直したのであった。コッタ出版社は、はじめ南西ドイツの小さな大学町テュービンゲンにあったが、1811年にはその近くの中都会シュトゥットガルトに移った。そして優れた経営手腕を示したために、彼の出版社には当時有力な著作家たちが大勢集まってきた。それはゲーテをはじめとする古典主義の作家たちであったが、そのため出版社主コッタの名前は、やがてドイツの文芸思潮の一つであるドイツ古典主義と深く結びつくことになったのである。
J・F・コッタの肖像
この伝でいくと、出版者G・A・ライマー(1776-1842)とロマン主義、時代は下るが出版者S・フィシャーと自然主義及びリアリズム、そして出版者K・ヴォルフと表現主義の文学を、それぞれ結びつけることができよう。
それはさておき、コッタは大出版経営者として、文学作品の出版だけではなく、先に挙げた新聞の発行のほか、さまざまな出版部門に触手を伸ばした。
そのためドイツ出版界全体の健全な発展に心を砕いていた前述のペルテスは、コッタが何にでも手を出すことに危惧の念を明らかにしたぐらいである。ペルテスは1816年、ドイツの出版界の現状を知り、あわせてお互いの協力態勢を作り上げる可能性を探るためにドイツ全土を視察旅行したが、その時コッタについて次のように書いているのだ。
「その個人的重要性、その粘り強さ、その富、そしてその政治的影響力のゆえに、西南ドイツの出版界はただ一人の人物の手に握られており、そのため文学的判断の公正さ、交流の活力、そして販売の効果などが損なわれる可能性もあるのだ」
ペルテスはこの時、独占態勢へ突き進む初期資本家としての姿をコッタの中に見ていたわけである。彼の出版社からは、数十年間にわたってドイツで最も重要な政治新聞の位置を占めてきた『アルゲマイネ・ツァイトゥング』や、同じく数十年間にわたって指導的立場にあった文芸雑誌『教養層のためのモルゲンブラット』が発行されていた。さらにコッタは別の経営部門にも手を出したり、政治的な活動もしたりした。こうしてコッタ出版社は、19世紀初めから半ば過ぎまで繁栄を謳歌したのであるが、1867年に古典作家の著作権消滅に伴う大量出版現象の出現によって、その独占態勢は崩れたのであった。しかしコッタ社は、その後アドルフ・クレーナーによって買い取られ、以後別の発展を見せることになる。
関税同盟と鉄道建設
19世紀の前半、ドイツの出版界をその流通面において近代化するのに大きく貢献したのが、関税同盟の結成と鉄道網の普及であった。1834年プロイセンは、南ドイツの関税同盟と中部ドイツの通商同盟の影響のもとに、全国的なドイツ関税同盟を結成した。これによってドイツでは中小領邦国家の煩わしい関税障壁が取り払われ、経済的統合への第一歩が記されたのであった。この関税同盟には、南の大国オーストリアは加盟せず、また北ドイツのハンザ諸都市メクレンブルクやハノーファーは、やや遅れて加盟した。それでもドイツ関税同盟は、決済手段の簡素化をはじめ総体として、ドイツの書籍取引の近代化に大変役立ったのである。
いっぽう鉄道建設によってもたらされる利益についても、ドイツの出版界は早くから認識していた。ドイツの鉄道網は、1835年南ドイツのニュルンベルク=ヒュルト間を皮切りに、1837年ドレスデン=ライプツィヒ間、1838年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル間、といった風にどんどん広がっていった。
これに関連してアウグスト・プリンツは、その『ドイツ書籍販売史のための素材』第二部(1855年発行)の中で次のように書いている。「昔は必要な場合には倉庫を持たねばならなかった。というのは注文してから二・三週間後になってようやく手に入るという始末だったから、いつでも取り出せ、また高い運送料の節約のために、あらかじめ沢山の在庫を用意しておく必要があったのだ。ところが今では事情は変わった。大手の書店でも教科書や古典図書は別として、ほとんど倉庫を持っていない。その他の本は残本とするか、出版社がそれを許さない場合には返本したり、春の見本市後に新たに注文しなおしている。鉄道によって通常の貨物は、三,四日のうちにドイツのどんな地域にも運搬されるのだから、時間の節約には計り知れないものがある。」
このように鉄道の普及は書籍流通面の迅速化と経費節減に役だったのであるが、同時に販売領域の拡大によって独占の危険性を減らす効果も持っていたのである。
百科事典の発行
いっぽう18世紀末に起こったいわゆる<読書革命>によって文学市場が成立し、読書層の拡大も行われたわけである。こうした読書をする教養市民層の一般的要請にこたえるようにして、19世紀前半に百科事典の出版が相次いで行われた。最初の本格的な百科事典は、1809年にF・A・ブロックハウス(1772-1823)によって発行された。ブロックハウス百科事典といえば、今日のドイツにおいてもなお発行が続けられている百科事典の古典であるが、もともとは19世紀初頭の啓蒙主義思潮の産物なのであった。次いで1824年にはピーラー、1839年にはマイヤーそして1853年にヘルダーといった具合に、様々な種類の百科事典がドイツで発行されていった。
F・A・ブロックハウスの肖像
ちなみに私は個人的に百科事典が大好きで、昔から平凡社の世界大百科事典などを好んで利用していた。そして1970年代にはその全巻を買って、自宅の本棚に入れて、何かと活用していた。またドイツ語のブロックハウス百科事典とマイヤー百科事典は、1990年代に買い揃えて、研究用に活用してきた。とはいえ2000年代に入ってインターネットが普及し、私も遅ればせながらパソコンを使うようになり、ウキペディアをこれらの紙の百科事典の代わりに利用するようになった。もちろん古いことを知りたいと思った時には、その後も従来の紙の百科事典も利用している。
さてドイツの百科事典の先鞭をつけた出版者F・A・ブロックハウスは、出版者としては異色の経歴を持つ人物であった。彼は初めイギリス相手の織物商人であったが、ナポレオンの大陸封鎖令によってその商売がうまくいかなくなり、1805年に出版業に鞍替えしたのであった。そして商売の場所もアムステルダムからドイツのアルテンブルクを経て、出版業のメッカ、ライプツィヒに移し替えた。ブロックハウスは機を見るに敏な商売人の才能を発揮して、自分の出版社を大きく伸ばしていった。
そして1813年10月、反ナポレオン解放戦争の時、大きな好機が訪れた。この時反ナポレオンのヨーロッパ同盟軍(これにはプロイセン、オーストリアをはじめとするドイツ諸国も参加した)の大本営が一時、アルテンブルクに置かれた。ブロックハウスはこの機をつかんで同盟軍の司令官に拝謁し、「同盟国側からすでに出されたか、もしくはこれから出されるニュースや公式の情報を、印刷物を通じて人々に知らせ、さらに定期刊行物を通じて世に伝える」ことへの許可を獲得したのである。こうしてブロックハウスが<ジャーナル>と名付けた『ドイチェ・ブレッター』の創刊号が発行された。そしてその数日後には、ライプツィヒ近郊で同盟軍がナポレオン軍を撃破するという大事件が起こり、そのことを伝えた号外によって『ドイチェ・ブレッター』は一躍有名となり、発行部数も4000部となった。この成功によってブロックハウス社は、A・W・シュレーゲル、T・ケルナー、F・リュッケルト、M・v・シェンケンドルフといった当時有名だった数多くの作家を獲得することができたのだ。こうしてブロックハウスは出版社の経営基盤を固めていったわけである。
書籍販売業者の増大
ところで19世紀初頭には、ドイツには書籍販売業者の数は、あわせて500軒ほどしかなかった。そのうちの大部分は人口の多い都会(その10%がライプツィヒ)に集まっていた。当時読者が書物を読むためには、書店からの購入のほかに、行商人による訪問販売や読書サロン、貸出文庫の利用など、いろいろな手段方法があったことは、すでに述べたとおりである。書籍販売業というものは、一定以上の人口、人々の知的水準の高さ、そして業務許可を受けやすい条件などがそろっている土地でだけ、やっていけたのだ。さらに1848年の三月革命以前は、地域的な法律によって、書籍販売業に対する営業許可は規制を受けていたのである。そのため19世紀の前半では、書籍販売店の網の目はドイツ全国に、ごくゆっくりしたテンポでしか広がっていかなかった。それでも1816~1830年の間に、新たに300軒が加わり、「書籍商組合」が発表した数字によれば、1834年には859軒を数えている。
1830年ごろの書店の風景
そして19世紀の中ごろには後進的なエルベ川東部の地域を含めて、ドイツ全土には人口二万人につき一軒の割合で、書籍販売業者がいた勘定になる。そしてその後の鉄道の普及、郵便網の拡充、並びに1869年の「営業の自由」の導入以後、書籍販売業者の網の目はかなりの勢いで細かくなっていったのである。
第10表 ドイツにおける書籍販売業者数の変遷
第10表がそうした発展の様子を示 している。1870年代から80年代にかけてのいわゆる「創業者時代」に、書籍業者の数が5年で約千軒づつ増えているのは、とりわけ注目されるところである。こうした書籍業者数の急増に対して、従来から存在していた古手の書籍業者は、当然のことながら苦々しい思いをしていた。1850年ごろまでに既に存在していた書籍販売者や出版社は、たいてい印刷業から発展したものであった。
しかしそれより後の出版経営者の多くは、その経歴を書籍業の見習いから始め、次第に出版社主へと上昇していったのである。そして書籍業者、読者、及び著作者の間に見られた親密な関係によって特徴づけられていたゲーテ時代の出版の世界(19世紀前半)の独特な雰囲気は、1848年以後の書籍生産の増大によって、都市化、機械化、人口増大といった大きな流れの中で、急速に失われていったのであった。
こうした変化は、数多くの中小出版社や古本業者を不安にさせた。従来は出版業というものは、ほんの少人数でもできたもので、1850年ごろまではまだ出版者は自分以外の労働力として数人の手伝いがいれば十分なのであった。しかし1860年代に入ると、書籍業者の多くは新しい状況へと適応するために、その経営を根本から変革しなければならなかったのだ。書物の生産(出版)と配給(販売)は、以後どんどんと分化していく傾向が見られた。
たとえばシュトゥットガルトの老舗の出版販売業者メッツラーの場合は、1858年に、純粋な出版業者となったが、この時印刷部門も切り離された。また古く、特定の地域に限定されていた出版社は、近代的な専門企業へと脱皮が迫られた。というのは1800~1850年の間に、書物の生産は著しく増大し、販売業者や出版社は、とても全体を概観することなどできなくなっていたからである。
ちなみにドイツにおける新刊書の年間出版点数は、1800年に3000点であったものが、1834年には一万4000点に増えていた。このため著名な出版社でも、それぞれ特色ある専門分野をもって出版に当たるようになっていたわけである。例えばユストゥス・ペルテス社はもっぱら歴史や神学に、ヴァイトマン社は古典文献学に、そしてフイーヴェーク社は自然科学に、といった具合に。そして鉄道網の発達に見合ってベーデカー社は旅行案内書の専門店となったのである。ちなみに私も古本の赤い表紙のベーデカーの旅行案内書(ドイツ語で書かれた)を、神田の古本屋で見つけて、いまだに大切に持っている。
前述したコッタ社のようないくつかの大出版社だけが、精神科学ないし文学全般に及ぶ出版を手掛けることができたのである。
書籍流通の合理化
ここで書籍流通面における具体的な改善策や合理化策に、眼を向けてみよう。19世紀の前半、本を買いたい人は書籍販売業者(書店)に注文するのが普通であった。そして書籍販売業者は、在庫があればすぐに渡せるが、ない場合には、該当する本の出版社に注文カードを送り、それを受けた出版社が書籍販売業者に本を送るということになっていた。
ところが大きな出版社は、書店と直接こうした取引をせずに、自分のところの出版物の販売を、傘下の販売委託者に任せたり、あるいは独立の書籍取次業者に委託していたりした。この場合、書籍販売業者は、こうした取次業者に注文カードを送って、そこから本を受け取ることになる。ライプツィヒのような出版のメッカでは、こうした取次業者や販売委託者の数がもともと多かったが、19世紀の後半に入ってその数はますます増大した。
第11表(取次業者と販売委託者の数)
第11表は主な出版地における取次業者と販売委託者の数を示している。取次業者は多くの出版社の出版物を扱っている企業であり、販売委託者は特定の出版社の傘下に入っているものである。この表から分かるように、ライプツィヒには出版物の仲介業者がたくさんいたわけであるが、1842年「ライプツィヒ書籍商組合」の会長F・フライシャーは、「ライプツィヒ注文センター」というものを設立した。これは図書注文カードの簡素化を狙ったものである。つまりこのセンターで注文カードを一括して受け付けて、それをさらに取次業者や販売委託者あるいは出版社に回送するわけである。ここでは単に注文カードの取り扱いだけではなくて、請求書に基づく代金の決済も行っていた。これが第一次世界大戦後の1922年には、「書籍取引精算協同組合」という全国組織にまで発展し、第二次世界大戦後には、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に新たにこれが設立されている。
19世紀後半における書籍販売簡素化の動きの中で、もう一つ注目すべきことは、現金扱い専門の取次業者の発生であった。この種の会社の最初のものは、1852年にライプツィヒに設立されたルイ・ツァンダー社であった。このころなおドイツの出版社の多くは、自社の出版物をたいていは「仮とじ」のままで販売していた。そこでこの新たに生まれた取次業者は、仮とじ本を自分のところで製本してそうした完成本を自己の倉庫に保管していた。
製本についてみると、このころ従来の手による製本から機械による製本へと、移行したことが注目される。こうした機械製本の導入後は出版社も自らの采配で、自分のところの出版物を製本させるようになった。それ以後、現金扱いの取次業者はわざわざ製本する必要がなくなり、引き続き独立した書籍取次業者として仕事を続けていった。
いっぽう書籍業者にとって経費節減に役だったのが、図書注文カードと書籍小包の送付が、印刷物扱いとされ、一般の郵便物より割安の料金になったことである。これは1871年10月28日のドイツ帝国郵便法の規定によるものであった。ドイツ全土に書籍をこうした割安の値段で送れることは、書籍業界の合理化・近代化を大いに促進することになった。
投げ売り防止の試み
ところで書籍業界の恒常的組織設立へのそもそもの動機の一つに、書籍の投げ売りを防止することがあった。しかし1825年に「書籍商組合」が設立された後も、投げ売りの問題はいっこうになくならなかった。たしかに古い交換取引制度から条件取引制度へと転換した際に、定価制度が導入されはしたが、これが全面的に守られたわけではなかったのだ。これまで何度も紹介してきた書籍商ペルテスは1816年に公表した文書の中で、ドイツ全土で一律に定価制度が守られるべきことを訴えていた。
それに続いて「書籍商組合」の設立に先立つ1821年に、二人の出版者ドゥンカーとフンボルトは、出版業者の地域組合を設立することによって、投げ売り防止の監視機関にすることを提案した。この呼びかけに応じて、まずライプツィヒに1832年、この種の地域組織ができた。そしてそれに続いてシュトゥットガルト、テューリンゲン、ラインラント・ヴェストファーレン、南西ドイツ地域、ポンメルン、ベルリン、メクレンブルク、ブランデンブルクの各地域に、同種の地域組合が生まれた。そしてこれらの組織は、顧客割引つまり投げ売りの防止を、各出版業者に向かって訴えかけたが、あまり効果はなかったという。
「書籍商組合」は、1852年に改定した規定の中に投げ売りの禁止措置を入れたが、これも駄目であった。しかし書籍の投げ売り競争が続いたために、19世紀の中ごろには書籍販売業者は、次第に支払い困難に陥っていった。そのため書籍販売業者は1863年、独自の「書籍販売者連盟」を設立した。これは出版社からの不当な干渉や恣意を排除して、自分たちの一般的な利益を護ることを狙ったものであった。ここで投げ売りつまり割引販売には、出版社から書籍販売者にわたるときの出版社割引と、書籍販売者から顧客にわたる時の顧客割引の二つが存在した。しかしこの二つの問題はともに簡単に禁止できるような性質のものではなく、なおも尾を引くことになった。そして投げ売りの禁止と定価制度の確立は、ようやく1887年の<クレーナーの改革>によって、実現を見たのである。