1 1790年代の生活
長男ザムエルの自殺と幻影体験
ニコライにとって1780年代は、仕事のうえでもその人生においても、まさに黄金時代であったといえる。1781年には長男を連れて南ドイツに七か月に及ぶ大旅行を行い、その成果も着々と刊行されていった。1783年にはニコライとも縁の深かった啓蒙主義の機関誌ともいうべき『ベルリン月報』が創刊され、ニコライも所属していた代表的な啓蒙主義協会『水曜会』も設立されている。また著作活動でも、長い事続けている書評誌『ドイツ百科叢書』の編集・発行、『南ドイツ旅行記』の連続的刊行のほかに、歴史分野を中心にいくつもの作品を発表している。そしてその私生活においても、1785年には銀婚式を盛大に祝うことができた。
その日々は多忙を極めていたが、公私ともに充実した幸せな毎日であったといえよう。ところが1790年代に入った最初の年に、ニコライの私生活は一挙に暗転することになる。その大旅行にも連れて行き、長じて書籍出版の仕事を任せるなど、その将来を期待していた長男のザムエルが1790年に28歳の若さで自殺してしまったのだ。この長男は若いころからうつ病の傾向があったのだが、そのうつ病の発作で自ら命を絶ったのだ。
長男の突然の死は、ニコライに相当の衝撃を与えたようであるが、その上に積年の肉体的・心理的過労が重なって、このころから彼は幻影に悩まされるようになった。これについて孫息子で、のちに考古学者として名を挙げたグスタフ・パルタイが後年記した客観的な手記『若き日の思い出』から、見てみることにしよう。これは祖父などから聞いたものを、後で整理したものと思われる。
「ニコライはその息子カールのことで、激しく腹を立てていた。そして自殺した息子のザムエルが突然机の背後から現れた時、かっとなってしまった。彼は少なからず驚き、横に座っていた彼の妻に、彼女も亡くなったザムエルの姿を見たかと尋ねた。(これを聞いて)彼女の方はもっと驚いたが、もちろん彼女は何も見ていなかった。ニコライはその姿をしっかりと目を開いて見据えた。するとその姿は消えた。彼はこのことは、それきりで片付いたと思った。しかし幻影は繰り返し現れた。
ある時書き机に座っているとき、後ろを振り返ると、部屋の隅のソファーに死んだザムエルが座っているのが見えた。彼はそれに向かって二歩近づいた。だがその姿は座ったまま、動かなかった。さらに二歩彼は近づいたが、変わりなかった。ニコライはそのすぐそばに立ち、その姿の上に身をかがめようとした時、それは消えてなくなった。
信じられないぐらいの仕事好きのために、ニコライは初めのうちは、医者に相談する暇もなかった。また次第にそうした招かれざる客に慣れてきた。しかし時には、生きた人間が部屋に入ってきたとき、それが本物なのか似姿なのか、区別がつかないこともあったという。それでもやがて彼は幽霊を見分けるコツを見つけた。それは幽霊の方は扉を開けて出入りする時に、音を立てないという事によっていた。しまいにはその似姿は、彼と話をすることさえあったという。目の幻覚は、耳の幻聴に結びついていたのだ。
もしニコライが最終的に、体に蛭(ひる)を張って血を吸わせることによって、幽霊を撃退しなかったならば、極度に興奮して高ぶった神経のために、どこまで症状が悪化したか、知れたものではなかった。幽霊は話すことをやめ、次第に色を失ってゆき、やがて白い幽霊となってその体は半分にわかれ、胸像が空中を漂っていたという。こうして感覚器官の恐ろしい変調がなおるまでに、およそ二か月かかったという。」
ニコライはその幻影体験についての記事を、だいぶ後の1799年に、雑誌『ベルリン月報』に載せた。そしてこのことを知ったゲーテは、ニコライに対する例の恨みの気持ちを後世に残すべく、その『ファウスト』の中の「ヴァルプルギスの夜」の場面に、彼を「臀部見霊者」として登場させている。これはニコライが幻影を退治するために、臀部(おしり)に蛭(ひる)を張って治療したことを諷刺して、つけられた名称である。
突然の妻の死と次男についての悩み
ともあれニコライはこの幻影体験の後、元気を取り戻した。しかしその代わりに、33年間連れ添った妻が、1793年5月に全く思いもかけず突然亡くなってしまった。ニコライ60歳のときであった。その悲しみはもとより深かったことが想像されるが、そうした個人的な悲嘆の念を他人に伝えることを彼は好まなかったようだ。夫人の死に対する知人のブランケンブルクからのお悔みの手紙に対して、次のような手紙を彼は出している。
「悲しみの対象について、もうこれ以上話すことはやめましょう。・・・私は新しい状況に順応しなければなりませんし、そうすることにします。そして自分の義務を遂行しなければなりません。その義務の中には、自分がしっかりとして、健康に気を付けることも含まれています。子供たちのためにもです。・・・今こそ実践哲学を示す時です。おしゃべりではなくて、行動することです。ですからそれに向かって努力します」
その子供たちの中でもとりわけ次男のカール・アウグストは、その奇矯な性格のために、父親を悩ましていた。その放埓な生活態度が、厳格で道徳的な父親の我慢のならないところであったようだ。そうした心の悩みを、ニコライは長女のヴィルヘルミーネ宛の手紙の中で、次のように打ち明けている。妻の死から九か月ほどたった1794年2月のものである。
「昨夜はとても寝苦しい思いをした。前回私がここに滞在していた時はまだお前の弟が怠惰や放埓や無意味な浪費によって、自ら不幸になっていくことはあるまいとの希望の念を抱いていた。しかしその希望は、今やあいつの態度によって踏みにじられてしまったのだ。・・・今や私もあいつのことはあいつの運命に任せるほかはないと観念した。・・・あいつは早起きをして、勤勉に仕事をするべきだ。料理屋やコーヒー店や怪しげな店に入り浸って、飲み食いするのはやめることだ。居酒屋での得体のしれない食べ物やライン・ワインの飲み過ぎはあいつの胃をだめにする。それに金もかかることだし。・・・我が家の快適な雰囲気の中で、父親の与えるものにあいつは満足せねばならないのだ。・・・どうかこの手紙をあいつと一緒に読むように・・・」
そしてその3週間後にも彼女あてに同様な手紙を出している。「・・・私は今日カール宛に詳しい手紙を書いた。それであいつも、自分のおかしな提案がだめなことが分かるだろう。・・・あいつは好きな時だけちょっと仕事をするだけだ。そんなことではだめだ。乞食か下男にでもなるつもりなのか。・・・瀉血の効果が出てきたようなので、カールについての心配さえなければ、とても幸せなのだがね。」
しかしこの次男は独立心が強く、父親の意に反して、自らの出版社を設立し、とりわけロマン派のルートヴィッヒ・ティークの作品などを出版したりするようになった。そして相変わらず自堕落で、放埓な生活を続けたため、1799年に亡くなってしまった。
長女ヴィルヘルミーネの結婚と三男の運命
妻の死後なにかとニコライが頼りにしていた長女のヴィルヘルミーネは、1797年30歳になって、プロイセン王国の財務長官フリードリヒ・パルタイと結婚した。二人の間に数人の子供が生まれたが、幼児期を過ぎて育ったのは、息子一人と娘一人であった。この孫息子が、先に登場したグスタフ・パルタイであった。この家族は幸せな結婚生活を送っていたが、ヴィルヘルミーネは結婚六年後の1803年に亡くなってしまった。
いっぽう三男のダーフィットは、次男とは違って、官房学を学んだあと出世コースを歩んだ。つまりベルリンの行政官庁の官吏として勤務した後、地方の行政官庁の局長に昇進した。そして将来を嘱望されていたが、姉の死の翌年の1804年に馬から落ちて、不慮の死を遂げた。
このように次々と肉親に先立たれたニコライの気持ちは、孤独の深まりの中に沈んでいった。何しろ長男の死から始まって、妻、次男、長女、三男といった具合に、14年の間に自分より若い家族たちがいなくなってしまったのだから、その寂しさは計り知れないものがあったろう。とはいえこうした暗い気分を押しのけるようにして彼を支えたのは、やはり長年続けてきた精神的な仕事であった。数々の肉親の不幸にもかかわらず、彼の活力は長い事衰えなかった。70歳になっても、彼を訪れた人の目には、40歳ぐらいに見えたという。
2 晩年の十年の生活
右目の失明
とはいえ、二人の子供を相次いで失ったニコライはその翌年の1805年には、眼病にかかり右目を失明することになった。その間の事情を、同年7月に書かれたニコライの手紙はよく伝えている。「沢山の仕事による疲れが出たり、この二年間に二人の愛する子供を失うなど家庭に不幸が重なり、私自身1803年の秋に重病にかかりました。それがもとで右目を完全に失明し、左目はとても弱まっています。そのためものを読んだり、書いたりすることができなくなりました」
そのためこの後著述の仕事に当たっては、ニコライは口述筆記の方法をとらざるを得ないことになった。また残った左目をいたわるために、できる限り緑に囲まれた生活を医者から勧められた。そしてニコライはこれに従った。このころになると肉親としては、次女のシャルロッテ・マカリアと二人の孫、そして娘婿のフリードリヒ・パルタイだけしかいなくなってしまった。次女はベルリン合唱協会の歌手をしていたが、母親がいなくなってからは、ニコライのために家事を切り盛りしていた。そして二人の孫も祖父の家に一緒に住んでいた。そんな関係から、孫息子のグスタフ・パルタイは最晩年のニコライの日常生活を、まじかで見ていたわけである。そこで彼が伝える祖父の様子を見てみることにしよう。
「彼(祖父)の部屋はそのため緑色に塗り替えられた。ソファーや椅子にも緑色のカヴァーがかけられ、夕食時には祖父は緑色のナイトガウンを着ていた。昼食時には、明るい灰色の上着、黒色の短いズボン、裾のついたチョッキ姿以外の祖父を見たことがなかった。私が知る限り、祖父は鬘(かつら)をつけていなかった。そして灰色のパウダーをふった髪の毛を額からすき上げ、後頭部は袋鬘なしで、ややきつめの弁髪に束ねていた」
晩年の交友と著作活動
そうしたなかでもニコライは、友人知人との交際は続けており、相変わらずその邸宅に客人を招待していた。春に桃の花やあんずの花が満開になるころ、あるいは桜の花が温室の中で花びらを開くとき、客人を招いたひと時には、日ごろの悩みや憂いは、一時的にせよ消えていたに違いない。しかしニコライは決して家の中にばかり閉じこもっていたわけではなく、最後までベルリンの文化生活に活動的に加わっていたのだ。とりわけ音楽に対しては、自分の子供たちと同じように熱心であった。定期的に音楽会に通っていたし、昔ながらに自宅に名のあるヴィルトゥオーゾを招いて、家庭音楽会を開いていた。そこでは自らはヴィオラを演奏した。また二人の娘が会員だったベルリン合唱協会には、多大な量の楽譜や音楽図書を遺贈している。
さらにベルリン劇場とは、友人のラムラーやエンゲルが総監督をしていた関係から、親しく付き合っていた。そして時間の空いた夜には、相変わらず所属のクラブや協会で過ごすのを常としていた。しかし妻の死後、家事を切り盛りしていた次女のシャルロッテ・マカリアは、作家のJ・F・リフォリッツとの結婚を望んでいたが、この男が大言壮語家だという理由で、父親の許可を得られないでいた。そして彼女は消耗性疾患によって、1808年に亡くなってしまった。最後の子供の死であった。
こうした家族の不幸の数々を忘れるためにも、ニコライは最晩年に至るまで、あれこれと著作上の計画を立てていた。過去六十年間のドイツ文学史の取りまとめ、その協力者についての詳しい紹介を含めた『ドイツ百科叢書の歴史』、長年携わってきたケルト語に関する論文、そしてギリシア音楽や観相学の研究からプロイセン王国の地方の学校制度の創設者E・v・ロホウへの追悼文の執筆、といった具合にその知的好奇心はまさにとどまる所を知らなかった。彼の精神は最後まで衰えることなく動いていて、夜中にも何か思いつくと、それを白墨で石販に書きつけた。その石販の上には糸が張ってあり、暗闇でもそこまで歩いて行けるようになっていた。
公共奉仕とフランス軍によるベルリン占領
いっぽう強い公共奉仕の観念から、慈善行為に対しても彼は大きな関心を抱いていた。将来を目指して向上に努めていた職人たちに、しばしば彼は金銭的な援助をしている。例えば友人のボイエからその義理の弟が病気療養後、旅に出る費用に困っていることを耳にしたニコライは、匿名で千ターラーの金を送っている。
また1806年にベルリンがフランス軍の占領を受けた時、ニコライの心は怒りに満ちていたが、高額納税者であったニコライは、その市民的義務観念から他の市民の負担を少しでも和らげるために、かなりの財産を犠牲に供している。さらに占領軍の執政官が軍税の導入に際して、ニコライを見逃した時、愛国者の実を示して、最後の二万ターラーを差し出したのであった。そしてその遺言状の中には、一万八千ターラーにものぼる様々な慈善行為のことが書かれていた。
このように同胞に対する連帯感から進んで経済的な負担を買って出ていたニコライであったが、それでもプロイセンの敗北とフランス軍のベルリン占領は、愛国者ニコライの気持ちを十分滅入らせるものがあった。彼にとってナポレオンによる占領支配は、不道徳と支配欲そのものに思われた。こうした彼の欲求不満をうかがわせる手紙が残っている。それはニコライの友人の哲学者ズルツァーの娘婿で、ニコライの肖像画をたくさん描いていた画家のグラッフにあてた1809年2月付けの手紙である。
「貴君は今ザクセンにお住まいですが、ここにいるより数等幸せです。ここでは至る所、悲惨が蔓延しています。よくなる兆候は全くありません。貴君は健康で、素晴らしい芸術作品と取り組んでいられる由、何よりです。・・・この二年間の不幸な歳月、重ぐるしい抑圧を耐え忍ぶには、学問や文学が最も良い薬になります。とはいえ騒々しさや心配の種そして家の中の不祥事などが次々と起こり、わが精神は自由とは言いかねます。それでも弱気は禁物です」
ニコライの死と葬儀
この手紙のおよそ二年後の1811年の新年、フランスによるプロイセン支配は依然として続いていた。しかし音楽好きのニコライの家では、劇作家で劇場監督のイフラントの指揮によって、新年のセレナーデが演奏された。この時はまだ元気であったニコライであったが、翌日の日曜日の夕食時には、彼はいつものおしゃべりができない状態になった。そして長い闘病生活に苦しむこともなく、一週間後の1月8日、ニコライは静かに息を引き取ったのである。その年の3月で78歳になるところであった。当時としては長生きであったといえよう。
ベルリンの全エリート市民によって野辺の送りが行われた。ところがこの埋葬式の様子は、孫のグスタフ・パルタイの報告によれば、極めて異常だったようだ。その報告は次のように伝えている。
「きわめて具合の悪い印象が残った。近隣の全ての乞食どもが、家の前に集まってきた。あのように名高い人物が埋葬されるのだから、人だかりは普通より大きかったという訳だ。・・・我々は家から葬送車まで、ぽかんと口を開けて見とれる貧乏人の一群によって押されて行ったのだが、その時私の体に戦慄が走った。これら目のくぼんだ青白い連中が、我々を襲ってきて殺されるのではないかと思ったからだ。葬送のミサが行われたマリア教会では、事態はもっと腹立たしかった。二階席に至るまですべての空間が、気味の悪い連中によって占拠されたのだ。連中はがやがや騒ぎながら、ベンチの上によじ登ったり、いろいろ無作法なことを働いた。こんな状況では礼拝することなど論外であった。これら乱暴者たちがどんな暴力行為をしでかすか、私の心は心配でいっぱいだった。」
この異常なミサの後、遺体はルイーゼンシュタット教会まで運ばれ、そこの北壁近くに埋葬された。その墓の傍らでは、監督教区長ハンシュタインが弔辞をのべた。ニコライと縁の深いベルリン合唱協会は、彼のために1月22日に聖霊祭を執り行った。そこではティートゲスの詩にツェルターが曲を付けた追悼の音楽が演奏された。
ニコライの妻及び5人の子供たちがすべて先立っていて、後に残ったのは娘婿のパルタイと二人の孫だけであった。ニコライの遺産を受け継いだのは、その二人の孫であった。