その01 ライプツィヒ書籍見本市の興隆
<フランクフルトの衰退とライプツィヒの興隆>
フランクフルトとライプツィヒ、このドイツを代表する二つの書籍見本市の衰退と興隆は、とりもなおさずドイツ出版産業の地域的・構造的変化を如実に示すものである。フランクフルト・アム・マインが、ラテン語を軸とする国際的な書籍取引の中心であったのに対して、ライプツィヒは自国語であるドイツ語の出版物を軸とした国内取引の場であった。
両者の関係を見ると、15世紀後半から16世紀いっぱいは、フランクフルトを中心とする南が、ライプツィヒを中心とした北をはるかにしのいでいた。フランクフルトは中部ドイツのマイン河畔の都市として、その南にひろがるドイツ南部の各都市やオーストリア、スイス一帯と強く結びついていた。
ドイツの二大出版都市(フランクフルトとライプツィヒ)とその周辺都市
(16-18世紀)
ところが17世紀を通じて南北がほぼ等しくなり、18世紀にはいると北の生産は、南のそれをはるかに追い越すのである。プロテスタント神学書がカトリック神学書より増えたこと、ラテン語に比べて自国語であるドイツ語が、ますます多く用いられるようになったこと、国際的な取り引きの減少、そしてドイツにおける書籍生産が南から北に移ったこと、これらの全てが、フランクフルト出版産業の衰退の直接的な原因となったのである。
そしてこれに反比例するように、ライプツィヒを中心とする北ドイツの出版産業が、大きく発展していったわけである。市(いち)形式の商売は重要性を失い、高度に資本化し、中央集権化された近代的な書籍取引制度が18世紀後半のドイツで、とりわけ北部を中心に胎動したのであった。
<初期のライプツィヒ>
ライプツィヒ市の市街図(1615年)
ライプツィヒにおける書籍印刷業は、1479年に始まって、15世紀のおわりまでには、かなり広まっていた。しかしライプツィヒが当初重きをなしたのは、むしろ販売の方面であった。当時のライプツィヒの町は、北部及び東部ドイツの商業の中心地であった。商人たちは、北西部のハンブルクや南部のニュルンベルクのほか、現在はポーランド領のブレスラウ、ポーゼン、ダンチィッヒからも、そしてさらに東北のはずれのリトアニアに近いケーニヒスベルクからも、ライプツィッヒにやってきたのだ。
ちなみにケーニヒスベルクには、18世紀後半、かのドイツの哲学者カントが住み、その地の大学で教鞭をとっていたのだ。だが、この町は第二次大戦の末期にソ連によって占領され、それ以来その状態が続いている。そして町の名前はロシア語風にカリーニングラードへと変更された。私は1999年にロシアのモスクワおよびサンクトペテルブルクを見て回った後、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアをバスで移動して数日間の滞在をした。そしてさらに、現在はロシア連邦の飛び地となっているカリーニングラードへとバスで移動した。その町では、できたばかりのカント博物館に入った。そこの館長さんはロシア人のカント研究者で、長年にわたりカント研究をしてきたが、冷戦下のソ連体制の中では冷遇されていたという。冷戦が終わって、ドイツ側の資金によって、このカント博物館は出来上がったのだ。
現在のバルト三国、ベラルーシ、ロシア連邦西部地域。
西のはずれのロシア連邦の飛び地にカリーニングラードがある。
さて先に挙げた町は、当時ドイツ文化が濃厚に浸透していたドイツ人の町だった。フランスやヴェネツィアとの取引もあるにはあったが、ライプツィッヒは本来、中東欧にまで広がっていたドイツ文化圏の中の取引の中心地であったわけである。これらの地域は、中世には、ドイツの西部や南部に比べて文化が遅れていた。しかしルターが活躍した16世紀前半頃から、次第に西部・南部ドイツを追いかけ、芸術・科学面において匹敵するようになっていた。
しかし短期的にみると、ライプツィッヒのあるザクセン王国の支配者ゲオルク侯は、ルターの宗教改革に反対して、ザクセン地方に流れ込んでいたルターの著作の出版・販売を禁止した。こうした弾圧政策のために、ライプツィヒの書籍販売は、1520代、30年代を通じて衰え、多くの書籍商はやむなく事業を廃止するまでになった。
ところが1539年にゲオルク侯が亡くなり、その跡をフリードリヒ侯が継ぐと、こんどはその逆に、ルターに反対するいかなる本も出版してはならぬ、という命令が出されたのだ。そして宗教改革を促進する出版物の刊行が奨励された。そのためライプツィヒの出版産業は再び息を吹き返し、それ以後次第に繁栄への道をたどることになった。フリードリヒ侯以後の歴代の君主は、プロテスタントを支援し、その商業活動の一環としての書籍出版業をバックアップしていったからである。
ライプツィヒ市中心部にある市場広場(1712年)
<ライプツィヒ書籍見本市の発展>
フランクフルトと同様に商業活動の中心地であったライプツィヒには、やはり早くから見本市が発達し、そこから書籍見本市も発展するようになっていた。16世紀の間はフランクフルトの影に隠れていたライプツィヒであったが、実はこの世紀の後半には、歴代君主の奨励策が実って、書籍市も主に中東欧方面を対象に着実に発展を見せていたのだ。同じく商業都市とはいえ帝国都市としてドイツ皇帝の束縛を受けていたフランクフルトとは違って、ライプツィヒは、前にも述べたように、ザクセン侯の保護の下に、自由な商業活動をすることができたのだ。
ザクセン地方に対するドイツ皇帝の検閲制度は1571年に導入されたが、ここではその検閲はフランクフルトにおけるほどには厳しく感じられていなかったようだ。検閲に対する皇帝の関心はもっぱらフランクフルト書籍見本市に向けられ、ライプツィヒのほうは、見逃されていたという事らしい。こうしてザクセン国王の保護下で、ライプツィヒ市当局は出版産業に対して、極めて好意的な態度で臨んでいたわけである。
ここでフランクフルト、ライプツィヒ両書籍見本市の勢力の消長を、その取扱い出版点数で比較してみよう。この点で見ると、1600年代の初めには早くもライプツィヒがフランクフルトを追い越していることが注目される。その後三十年戦争(1618-48年)の影響で、1620年代以降になると、両見本市の取り扱い点数はかなり減少する。そして1640年代から1660年代にかけて、ライプツィヒは一時フランクフルトを下回るが、1670年代には回復して1690年代には飛躍的な増大がみられる。それ以後のライプツィヒはフランクフルトを大きく引き離す。そしてさらに18世紀にはいると、ライプツィヒを中心とした北ドイツの出版産業は、科学の進歩、文化の発展、政治的文書のなどによって、その発展が一段と促進されるのである。
<プロテスタント書籍の出版>
次にフランクフルトとライプツィッヒという二つの書籍見本市のライバル関係を、カトリック対プロテスタントという宗教的な立場から見てみることにしよう。
まず15世紀から17世紀に かけて、ドイツ南部及び西部一帯を背後に抱え、さらに近隣のフランス、イタリアをはじめとするカトリック地域と取引のあったフランクフルトは、ラテン語によるカトリック図書の販売の中心地であった。いっぽう16世紀前半の宗教改革以降、プロテスタント系の出版社は、ライプツィヒを中心とした東部および北部ドイツ一帯で、神学的作品をはじめ、科学書などもどしどし刊行して販売していた。その際の言語としては、主として自国語であるドイツ語が用いられた。
次にカトリックとプロテスタントの宗教書に限って、その年間出版点数を比較してみよう。ここで宗教書というのは、聖書をはじめとする一般人向けの説教書や祈祷書から聖職者や学者向けの理論的な神学書までを含んでいる。こうした広い意味での宗教書について、フランクフルト、ライプツィヒ両書籍市で取引された書籍の出版点数を合計すると、16世紀半ば以降、プロテスタントの宗教書がカトリックの宗教書をうわまっている。とりわけカトリックとプロテスタント両宗派間の宗教戦争といわれている三十年戦争中の1632年以後には、その差は著しく離れていく。この年プロテスタント陣営に属するスウェーデン国王グスタフ・アドルフがこの戦争に介入して、勝利を占めたが、こうした動きと宗教書の出版との間に、相関関係がみられるのは興味深い事である。
ちなみにプロテスタントの宗教書の出版において、ライプツィヒはとりわけ重要な役割を果たしていた。17世紀末から18世紀初頭にかけては、全プロテスタントの宗教書のおよそ半分を出版しているのである。これに対してカトリックの宗教書の出版量は、ほぼ同じ時期に急速に減少しているが、これはフランクフルト書籍見本市の衰退と軌を一にするものだといえよう。
またライプツィヒの出版社は、宗教書以外に、科学書をはじめ、歴史、政治、地理、詩、美術など、様々な種類の学術書を出版していたが、これらの分野でも使用言語はラテン語からドイツ語へと重心を移してるのだ。精神文化の領域でのドイツ近代化への牽引力が、ライプツィヒ書籍見本市に集約される形で見られると、考えられよう。
ライプツィヒの市庁舎付属図書館の内部(1700年ごろ)
その02 近代的書籍出版販売への転換
<統一的書籍市場の崩壊~南北への分裂>
ドイツの書籍出版活動は、先述したように、長い間書籍見本市の二大都市フランクフルトとライプツィヒを中心に行われてきた。フランクフルトは中部ドイツのマイン河畔の都市として、その南に広がる南ドイツの各地方やオーストリア、スイス一帯を支配してきた。これら広い意味での南ドイツの書籍業界は、ドイツ皇帝の支配地域にあるという意味で、「帝国書籍業界」と呼ばれていた。この地域は大ざぱにいって、宗教的にはカトリック地域で、古い伝統や習慣が温存されていた。
書物についても聖書を初め説教書、祈祷書などの宗教書が中心であった。宗教書のほかには、学者や僧侶向けのラテン語の書物が出版され続け、新しい読者層が生まれる土壌はあまりなかったのである。
いっぽう北ドイツのザクセン地方の中心都市ライプツィヒは、17世紀の末頃から、書籍見本市都市としての重要性を次第に増しつつあった。北ドイツは一般にプロテスタント地域であるが、ドイツの啓蒙主義はまさにこの北ドイツの二つの地域、つまりザクセン地方とベルリンを中心とするブランデンブルク・プロイセン地方をその故郷としていたのだ。
これらの地方では、道徳週刊誌やポピュラー哲学から、文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場には、新しい時代の息吹が感じられた。ここでは古めかしいラテン語の知識がいっぱい詰まった大型本や信心の書には、新しい読者大衆は関心を向けなくなっていた。いっぽう北ドイツで出版された啓蒙書や国民文学に対して、南ドイツの書籍業者は関心を抱いていたが、交換取引制度のために、実際上その取得が困難であった。
こうした文化的要因のほかに経済的要因もあった。18世紀のザクセン地方は、経済的観点から見て、最も目覚ましい発展を遂げた地域であった。他のどの地方よりも、ザクセン地方で、工場制手工業が発達した。こうした中で、書籍出版産業はザクセン王国政府によって奨励されてもいたことは、すでに述べたところである。
<交換取引制度の廃止>
書籍を単に物品として量的にしか扱わなかった交換取引制度は、それが抱えていた大きな欠陥から、18世紀後半に入るころには、結局廃止されることになった。そのイニシアティブをとったのは、いうまでもなくライプツィッヒをはじめとするザクセン地方の書籍業者であった。彼らは北ドイツの読者には関心のない、宗教書やラテン語の専門書を発行していた南ドイツの書籍業者との取引を好まなくなっていた。その結果彼らは交換取引を、信頼のおける商売相手であった北ドイツの書籍業者だけに限ることにした。そしてその他の業者に対しては、現金取引を要求するようになった。交換取引を拒否して現金取引を採用した書籍業者は、「正価販売業者」と呼ばれた。
ライプツィヒの代表的な書籍業者
フィリップ・エラスムス・ライヒの肖像画(1774年)
こうした運動の先頭に立たのがライプツィヒの書籍業者フィリップ・エラスムス・ライヒであった。 彼は1760年代に、もはや欠陥だらけになっていた書籍の交換取引方式に反対して立ち上がったわけである。ライヒが導入した近代的な書籍取引の方法は、交換取引の拒否と短期クレジット方式ないし現金取引方式の採用であった。それと同時に書籍の返品を部分的ないし全面的に認めない措置、クレジットの割り引き率の低い設定、書籍価格の高い設定なども行われた。
こうしてライヒは1764年に、フランクフルト書籍見本市から最終的に撤退したのであった。
<帝国書籍業者の反応>
いま述べた一連のライヒの動きは、一般に「ライヒの改革」として知られているが、この改革は南ドイツの斜陽の帝国書籍業者にとっては、我慢のならない過酷な措置に映った。当時ドイツ全地域から書物が集まっていたライプツィヒ見本市で採用された正価販売方式は、そこに常設していた書籍業者にとって、著しく有利だったからである。
それに比べて南ドイツの書籍業者には、さまざまな困難が伴ったのである。つまり運搬用の樽を含むすべての輸送コストや旅行費用をはじめ、見本市会場での宿泊代やブースの借り上げ料、アルバイトに払う費用に至るまで、各種の見本市関連費用が重くのしかかっていたのだ。いっぽう地元の書籍業者にとっては、それらの負担はぐんと少なかったわけである。
そのために帝国書籍業者は、自分たちにとって割の合わないライプツィヒ見本市を回避する計画を立てた。そして当時めんめんと続いていた書物の翻刻出版(いわゆる海賊出版)に専念するとの脅しを、北の業者に向けてかけ始めた。それはやがて単なる脅しにとどまらず、大々的な翻刻出版の実施として現れた。フランクフルトのファレントラップやウィーンのトラットナーなどがその代表的な存在であった。その際彼らは翻刻出版はオリジナル作品の高値に対する防衛手段である、と自己弁護した。
こうして1765-85年の間には、「翻刻出版の黄金時代」が現出した。翻刻出版つまり海賊出版行為自体は、活版印刷術が発明された15世紀中ごろ以降、ずっと続けられてきたものである。著作権制度が確立するまでは、ドイツにかぎらずヨーロッパの他の国々でも、それはごく普通に行われてきた。しかし18世紀に入って、著作権に対して自覚する人が次第に現れるに及んで、この海賊出版を非難する声も高まってきた。とはいえ当時はまだ国や地域によって意識の格差が大きく、これがなくなるまでには、まだまだ長い時間を要したのである。
南ドイツの出版業界で現出した「翻刻出版の黄金時代」は、そうした過渡期における一つの目立った動きであったといえよう。そして近代的な書籍出版体制についていくことのできなかった遅れた地域において、安い価格で書物を普及させたという意味で、出版文化の側面から見れば、この翻刻出版はプラスに評価できるのである。
<翻刻出版への領邦国家の保護政策>
17,18世紀のドイツは、実質的には大小無数の領邦国家から成り立っていた。領邦国家というのは、日本における江戸時代以前に存在した藩のようなものと思えばよい。17世紀の初めに導入された書籍の交換取引制度にしても、そうした無数の国々が発行していた通貨がその内部でだけしか通用しなかったことからくるのである。
それらの領邦国家は当時、カメラリズムと呼ばれる経済政策をとっていた。それは自国の通貨をできる限り国の外に流出させないことによって、富国策を図ろうとした君主中心の考え方であった。ドイツの大小無数の領邦国家やハプスブルク家のオーストリアは、輸出入管理法及び関税の手段によって、それを可能にしていた。これはつまりドイツ内部の地域的な保護経済政策だったのだ。そして18世紀後半になってもなお、このカメラリズムがドイツの書籍出版販売に影響を及ぼしていたのである。
書籍の取引が領邦国家の境を越えて行われるとき、交換取引方式ならば自国の通貨が外部に流出しないので、カメラリズムの政策に支障がなかった。ところが18世紀の60年代になってライプツィヒの書籍業者が始めた現金取引方式が、領邦国家のカメラリズム的地域経済政策に障害を及ぼすことになったのである。とりわけ南ドイツやオーストリアの書籍業者がライプツィヒ見本市で取引しようとすると、それらの書籍業者が属する領邦国家の通貨を国外に流出させることになるからであった。こうした理由からそれら領邦国家の君主は、自国の通貨が流出することのない翻刻出版を支援するようになったわけである。
この翻刻出版に最も熱心であったのは、オーストリアであった。18世紀の半ば、オーストリアの書籍出版量は、極めて少なく、もっぱら北ドイツ方面から輸入せざるを得ない状況にあった。このために例えばザクセン地方のドレスデンの出版業者ヴァルターは、1765年の一年間に、オーストリアの書籍業者との取引で、4万グルデン以上の儲けを手にしたといわれる。そうした状況を放置しておけば、オーストリアの金はどんどん国外に流出する一方であったのだ。
そのためにオーストリア女帝マリア・テレジアは、書籍業者トラットナーに対して、経済合理性の立場から、熱心に翻刻出版を奨励したのである。同様の保護策を南ドイツのバーデン辺境伯も、その所領内の書籍業者シュミーダーに対してとっていた。
また北ドイツの啓蒙思想を南ドイツやオーストリアの僻遠の地に広めるのに、翻刻出版は願ってもない存在であった。啓蒙専制君主であったオーストリア皇帝ヨーゼフ二世にとっては、自分が抱いていた啓蒙主義思想の普及にたいして、翻刻版こそは不可欠の要素であったのだ。
<近代的書籍取引への転換>
以上述べてきたように、南ドイツ・オーストリア地域では翻刻出版の黄金時代が現出したのであったが、これも永遠には続かなかった。やがて帝国書籍業者の間から、ライプツィヒの現金取引と従来の交換取引の間の妥協案ともいうべき「条件取引制度」が生まれてきたのだ。
その仕組みはざっと次のようなものである。書籍業者は自分のところで出版した新刊書を互いに送りあい、一定期間内に(春と秋の二回)、その代金を精算する。その期間内に売れなかった書籍は返品され、売れた書物については、店頭価格(定価)の33・3パーセントの割引価格で支払うというものであった。
帝国書籍業者は、以上のような条件取引の提案を行い、ライプツィヒの書籍業者も結局それを受け入れたのであった。このようにして生まれた「条件取引制度」は、やがてドイツ全体の書籍業界に、新たな確固たる基盤を築いたのであった。この新しい制度は18世紀から19世紀に変わるころに完成した。そしてそれは出版部門を持たない「純粋な書籍販売業者」の出現を促したのであった。
さらに条件取引制度の成立の結果として、書物の委託販売方式が生まれた。これは書籍見本市都市ライプツィヒにあった、書籍を保管する倉庫の管理業から出てきたものである。ライプツィヒ以外の書籍業者は、見本市に出品する書物の倉庫を、それぞれ持っていたのだが、条件取引制度の誕生によって、そうした倉庫業は必要ではなくなった。しかし個々の出版業者が自ら販売業務をやるのは、人手や経費・労力などの点で容易ではなかった。そこですべての販売業務を代行してくれる人が必要となったわけである。
こうして生まれたのが、それまで倉庫管理業をやっていた人たちを中心にした委託販売人であった。これらの委託販売業者は、従来からあった倉庫を、出版社から受け取った書物を、一時的に保管しておくための倉庫へと転用したわけである。
こうしてライプツィヒには、出版社と書店との間の取引を代行する書籍取次業が生まれたのである。そしてこれによって、交換取引の時代に結合していた出版業と書籍販売業とが、はっきり分離することになった。
正価販売方式の導入、委託販売方式の成立、そして純粋な書籍販売業者の出現によって、ドイツの出版業界は、資本主義的経済原理に基づいて、全面的に機能するようになったのである。それは19世紀の初めのことであった。