16~17世紀の出版業の諸相 01

その01 印刷術とヨーロッパ各国語の形成

<中世から近世への移行と各国語の形成>

先に述べたように、活字版印刷術は宗教改革の発展に大きく貢献したのであるが、同様に印刷術は、西ヨーロッパ各国の国語の形成とその固定化に対しても、本質的な役割を果たしたのであった。

キリスト教が支配原理となっていたヨーロッパ中世の時代、千年の長きにわたって各地域の共通語としての役割を果たしていたのが、基本的に書きことばであったラテン語であった。ところが、まさに活字版印刷術が発明された15世紀半ばから、16世紀の初頭にかけて、大きな変化がみられることになったのだ。西ヨーロッパ諸国においては、それぞれの地域の民衆が話していた俗語が「書きことば」として表わされるようになったわけである。そしてそれが各国の共通語として役立てられたのであった。その際それらの書きことばは印刷物の形で人々に提供され、普及していったのである。つまり千年の長きにわたってヨーロッパの共通語としての役割を果たしてきたラテン語に代わって、この時期に、各地域の民衆が用いていた言葉がそれぞれの地域の共通語になっていったわけである。

イタリア語版『アイソポスの生涯と寓話』
(1485年、ナポリの印刷業者
トゥッポによって印刷)

こうした各国語形成の流れは16世紀の全期間を通じて続き、17世紀には西ヨーロッパ諸国の国語はほぼ結晶化されていた。それらはフランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、英語、スペイン語、ポルトガル語など今日においても用いられている言語であるが、それらの言語はそれぞれの地域に対応するようにして使われているわけである。ただしそれらの言語は、今日においては厳密にいえば「国語」とは呼ばないほうが良いと思う。というのは現在の日本人が普通に考えているようには、国家と言語は厳密に対応しているわけではないからである。たとえばスイスという国にはスイス語というものはなく、ドイツ語、フランス語、イタリア語そして少数のレト・ロマン語などが用いられている。またベルギーには、ベルギー語というものはなく、オランダ語系のフラマン語、フランス語系のワロン語、そしてドイツ語も使われているからだ。

ところでヨーロッパの中世から近世への移行を象徴するものとしては、ルネサンス、人文主義、宗教改革などがあるが、ヨーロッパ各国語の形成も、その一つの重要な要素だったといえよう。ただ各国語の形成を促したのは、もちろん活字版印刷術だけではなかった。それ以前からも、各地の宮廷書記局はさまざまな語法を一般化しようと努めていたわけで、多くの場合これらが文章語の語法になったといわれる。中央主権を推進する各国の王権が16世紀に出現して、それが強化される中で、この言語の統一も推し進められたのである。とりわけフランスやスペインの国王の政策は、この観点から見る時極めて明確であった。

それでも印刷術が果たした大きな役割には、なんら疑いはなかったといえる。先に述べたフランスのエティエンヌ一族のロベール一世やアンリ二世の著作や出版活動は、まさにフランス語の形成に大きく貢献したのであった。この二人に限らず、この時代の出版業者はこぞって、多くの領域でラテン語ではない自国の国語が発展していくように努力したわけである。

<ラテン語のゆっくりとした衰退>

16世紀はギリシア・ローマの古典古代文化が再生した時代であると同時に、中世に栄えたラテン語がその地歩を失い始めた時代でもあった。この傾向はとりわけ1530年ごろから明白となった。書籍商の顧客は、従来の聖職者や学者や高級官僚などの知識人のほかに、少しづつ俗界の人間によって占められてゆき、時にはそれが女性であったり、商人であったりした。

これらの人々の多くはもともとラテン語に縁がなかったので、宗教改革者たちは断固として近代の自国語を用いたのであった。また人文主義者たちも、広い範囲にわたって読者を獲得しようとして、自国語を援用することをいとわなかった。そのためにこの時代には、ヨーロッパ各国語で出版される書物の割合が増加していったのである。

たとえばフランドル地方(現在のベルギー)の新興都市アントウエルペン(アントワープ)は商人の町であっため、そこの出版業者の顧客のある部分は、金持ちになったばかりで、ほとんど教養のない市民によって構成されていた。そのためもあってか、1500-40年にかけてアントウエルペンで出版された書物のかなりの部分が、彼らが使っていた言語であるフラマン語で書かれていたのだ。つまりその間に出版された2254点の書物のうち787点がフラマン語(35%)で、そのほか148点が近隣のフランス語、88点が英語、そしてデンマーク語、スペイン語、イタリア語がそれぞれ20点ほどで、残りの半数あまりがラテン語であった。

これほど顕著ではないにしても、西ヨーロッパの多くの都市で、同様の報告がなされている。パリの場合は、16世紀の初頭と同じ世紀の四分の三が過ぎたころとでは、フランス語の書物とラテン語の書物との割合が大きく変化しているのだ。1501年には、刊行された総数88点のうちフランス語の書物はわずかに8点(約1割)に過ぎなかった。それが1549年になると、総数332点のうちフランス語の書物は70点(約2割)となり、1575年には総数445点のうち245点(半数以上)がフランス語の書物になっていた。この四分の一世紀の間に、ラテン語とフランス語の割合が逆転したわけである。たしかにこれらの数値の中には、宗教戦争の間にばらまかれた宣伝文書やチラシなど書物とは呼べない代物が含まれてはいる。しかしフランスでの宗教戦争が終わった後でも、パリでは相変わらず過半数の出版物がフランス語で出版され続けたのである。

近代の各国語の台頭の前に、ラテン語が後退していく様子はドイツでもうかがわれた。先に述べたようにルターによる宗教改革の影響で、それまで俗語であったドイツ語の書き言葉が発達した。この時代のルターによる聖書のドイツ語への翻訳などを通じて、文章語としてのドイツ語が形成されていったといわれる。その際ルターがとりわけ注意を払ったのは、語彙(ごい)であったという。彼は、翻訳にあたって最も適切な単語を探したが、多数ある同義語の中から、民衆が使用することの最も多い単語を選び出すという選択に意を用いたのであった。こうしてルターが編み出した言語は、あらゆる分野において、近代ドイツ語の形成へと向かっていったわけである。

<イギリス及びスペインにおける事情>

16世紀の初め、いわゆる大航海時代の幕開けの時代、イギリスとスペインの両国は、ヨーロッパにおいては、なお辺境国であった。もちろんこの世紀の間に両国は大きな発展を遂げたが、印刷・出版業に関しては、この世紀を通じてもなお、「補完的」な地位にあったのだ。

当時はまだ国際語(共通語)であったラテン語の書物については、イギリス、スペイン両国とも、フランスやドイツ、イタリアといったヨーロッパの中核国で出版されたものを輸入していた。それでもイギリスにおいては、ドイツと同様に、宗教改革運動が聖書の翻訳や宗教関連書の出版を促し、そこに使われた英語が、その後のイギリス文学や文化全般に大きな影響を及ぼしたのだ。その時聖書の翻訳を刊行したのは、ウィリアム・ティンダルであり、それに続いたのがマイルズ・カヴァーデールであった。

とはいえ、何よりも国語としての英語の尊厳をイギリス人に意識させた書物は、1549年に刊行された『通常祈祷書及び秘跡の授与』ならびにスターンホールド及びホプキンズが共同で翻訳した『詩篇全書』(1567年)であった。これらの書物の大きな特徴は、なによりも使われていた語彙が、わかりやすく簡明なことにあった。たとえばあのシェークスピアが使った語彙が全作品で2万1000語にも及んだのに対して、こちらのほうは6500語であった。シェークスピアが、その高度な文学作品の中で駆使した言葉の数々は、当時の一般民衆にとっては難解な代物であったに違いない。それに比べれば、こちらのほうはわかりやすく、多くの人々に受け入れられたわけである。

さらに英語散文の記念碑的作品と呼ばれている『欽定訳聖書』が、時の国王ジェームズ一世の命によって1611年に完成した。これはイギリスの近代散文の発展に大きな影響を及ぼしたといわれているものである。また16世紀には、イギリスへはフランスやスペインなどの大陸からたくさんの書物が流れ込み、それらの多くは英語に翻訳されていた。と同時にギリシア・ローマの古典作品も、どんどん翻訳されていた。そしてフランス語、スペイン語、ラテン語から成句類を借り入れて、英語は言語として豊かになっていったのである。しかしそれらの豊富な語彙は、日本人にとっては、英語学習の難しさに結びついていると、私は考えている。

いっぽうスペインでは、15世紀の末にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合併して、スペイン王国が生まれている。それはコロンブスが新大陸の近くの島にたどり着いた1492年に先立つころのことであった。まさに大航海時代の幕開けのころであったが、ヨーロッパにおいては、そのスペイン王国はイスラム勢力を追い払った直後の時代で、まだ強国ではなかった。そしてまだ統一国家の実態ができていない頃であった。

その片割れのアラゴン王国についての記録が残っているので、次に紹介する。この王国では1501-10年に、ラテン語で25点、スペイン語で15点の書物が出版された。それに続く30年間には、ラテン語が115点、スペイン語が65点刊行された。そして次の1541-50年には、ラテン語が14点と減少し、逆にスペイン語の出版物が72点へと増えている。ここでもラテン語の衰退が如実にみられるのだ。

その02 この時代の書籍取引

<書籍の発行部数>

活字版印刷術が発明されてから2-30年間の草創期にあっては、まだ書物の市場が十分には組織化されていなかったために、一点あたりの発行部数もささやかなものであった。たとえば1469年、ヨハネス・シュパイヤーは、ヴェネツィアで、古代ローマの作家キケロの『親しき者への手紙』を、わずか100部しか刷っていない。また1471年にフィレンツェの修道院で出版された作品も、同じく100部であった。

さらに1471年にフェラーラで、200部印刷されたことが記録に残っている。そしてイタリアに印刷術をもたらしたドイツ人印刷工のスヴェインハイムとパナルツの二人は、一点あたり275部から300部を印刷していたが、それらの本の売れ行き不振を、時の教皇に訴えている。

ところが先にも述べた、ニュルンベルクを本拠地とした国際的な出版業者アントン・コーベルガーが大活躍を始めた1480年ごろから、書籍市場は組織化され始め、それに伴い書物の価格が低下し、平均発行部数も急速に伸びるようになった。

書誌学者ヘーブラーによると、このころから平均発行部数が400部から500部になったという。さらにコーベルガーのような幾人かの大出版業者の場合は、このころすでに発行部数1500点を達成していたという。しかしその後は長い間、発行部数はこの程度で固定化していたようだ。ちなみに人文主義者エラスムスが著わした『痴愚神礼賛』の初版(1515年)の発行部数は1800部であった。

宗教改革者ルターのドイツ語訳聖書の初版発行部数が4000部だったのは、まさに例外といえた。16-17世紀を通じて、2000部を超えた書籍といえば、はじめから固定客が見込めた宗教書か教科書に限られていたようだ。

<書物の輸送と販路>

当時の印刷・出版業者は、自分の居住地だけでは買い手を確保することができなかった。そのために互いに離れ離れになっていた印刷・出版業者同士で書物を送りあって、販路を確保していた。その際、産業革命以前のヨーロッパでは、書物の輸送手段としては、水路を船で運ぶか、もしくは陸路を荷車で、または人間が背負って運ぶしかなかった。写本ではないにせよ、印刷された書物もまだまだ高価で、貴重な商品であった。そして同時に重くかさばるものでもあった。そのために輸送費がしばしば書物の価格に跳ね返った。

そこで少しでも重さとかさばりを少なくするために、書物は「未製本のまま」で輸送される場合も少なくなかった。もちろん製本されて運ばれる場合もあったが。そうした印刷された紙は船倉でぬれたり、雨風で台無しになる危険にさらされていた。

未製本の刷り紙は、一定数を束にして箱に詰められた。また荷造りした貨物である梱(こり)にして紐をかける場合もあった。そうした書物の梱や製本された書籍は、雨風や水に濡れるのを防ぐために、木樽の中に詰める必要があった。

書籍業者が本を樽詰めにしているところ。
背後の道具は製本機と思われる。
(1698年の銅版画。ドイツのレーゲンスブルク)

とはいえ、それほどまでに用心しても、書物が目的地に着いた時には水をかぶっているか、破損していることが、まれではなかったという。しかも書物の入った樽は、目的地に着くまでに何度も輸送手段を変える場合も少なくなかった。現在ならトラックでなんの困難もなく運べるような西ヨーロッパの比較的狭い地域の輸送でも、当時は大変なことだったのだ。

フランドル地方(現在のベルギー)のアントウエルペン(アントワープ)の書籍商が、パリへ書物を送る場合は、普通は専門の運搬人が陸路を荷車で送っていた。しかし船のほうが大量に運搬できるために、時として、船でイギリス海峡から少し入った港町ルーアンまで運んで行って、そこからセーヌ川の平底船に引き継がれて、運ばれることもあった。

ヨーロッパ西部の地図

またアントウエルペンから南フランスのリヨンあての書物は、たまにはリヨン直行の輸送人にゆだねられることもあった。しかし通常は、先ほどのルートでまずパリまで運ばれて、そのあとはリヨンの書籍商の代理人が引き取って、最終目的地であるリヨンへと、水上や陸路の運搬手段で送っていた。

あとで項を改めて詳しく紹介するが、16世紀後半から17世紀にかけて活動したアントウエルペンの大出版業者プランタンの場合、スペイン向けの書物は、まずルーアンかブルターニュ地方のどこかの港に運ばれ、そこからスペインの港へと運搬されていた。(ヨーロッパ西部の地図参照) そしてスペインからさらに大西洋を横断して、アメリカ大陸まで向かう場合もあった。プランタン社の販路は実に広く、ノルウエーのベルゲンやバルト海南岸のダンツィヒにまで及んでいた。その際同社の人々は、船の出港のタイミングを絶えず気にかけ、嵐を心配し、海賊が出るのを恐れていたという。

いっぽう陸路の場合も困難は大きかった。南仏リヨンの書籍商がイタリア方面へ書物を輸送する時、荷車でアルプスを越えるときの苦労は並大抵のものではなかったという。(ヨーロッパ西部の地図参照)

さらに、様々な輸送手段を用いる場合には、荷物の積み替えに対して、十分な対策を準備しておく必要があった。現場では積み替え作業をする人が文字を読めないため、代わりに大樽に絵文字を書いて目的地を表していた。しかしそれが紛らわしい場合もあって、書籍商の人が現場監督する必要があった。さもないと手違いが起こって、目的地につかない時もあったという。

こうした理由から、一般に印刷・出版業は、外部との交通・通信が容易な港町や、大商業都市に発達したわけである。

<この時代の取引方法
ー書物の交換と為替手形>

これまで述べてきたように、苦労を重ねて書物が取引先に届いたとして、その代金の支払いはどのようにして行われていたのであろうか? 当時の銀行組織は、このような取引にはほとんど適合していなかったという。

貨幣による現金払いはまず不可能であった。当時、外国や遠隔地に住む書籍商が、書籍を受け取るたびに送金するのは容易ではなかったのだ。そのために17世紀末まで広く用いられていた方法は、書物の交換と為替手形であって、普通はその両者が組み合わされていたらしい。

つまり書籍商は、書物を受け取ったときは支払うべき金額を帳簿に控えた。そして書物を送ったときは、取引先が支払うべき金額を帳簿に記入した。しかしその決済は通常かなり長い期間をおいて行われ、債務者は差し引き残高を、三者間の決済という方法で精算していた。

例えば、パリのAはアントウエルペンのBから書物を余計に受け取っているために、Bの債務者ということになる。いっぽうこのAはブリュッセルのCに多数の書物を送っていたので、Cの債権はAに委譲される。その際アントウエルペンとブリュッセルは近隣の都市で直接接触できるので、この三者間の決済はうまくいくというわけである。

しかし互いに遠隔地である場合や、取引相手がもっと増えた場合には、複雑さがまして、危険を伴ったようだ。例えば二国間の通商が中断すると、支払いができなくなり、倒産に追い込まれる出版業者も出てきた。それを防ぐために、書籍商たちは倒産のおそれのある同業者に資金を出して、救うという方法をとったという。

以上述べてきたやり方は、互いに離れたところに住んでいた出版業者が書物を取引するという、いわば卸の段階の話である。

<書籍市場の組織化>

それでは次に印刷業者ないし出版業者は、どのようにして書物を買い手に販売していたのであろうか。そのためには書籍販売人というものが必要であった。この書籍販売人は印刷・出版業者の委託を受けて、大小さまざまな都市を訪ね歩き、書物を買ってくれそうな客を一人も残さず、探し出そうとした。そのため彼らは書籍移動販売人とも呼ばれていた。

彼らが訪ねた場所は、人々が多く集まる教会、市庁舎、ラテン語学校から居酒屋まで、さまざまであった。彼らは持参した書物の一覧表を印刷したビラを携えており、泊まる宿の名前と住所を書き添えて、人々に配ったり、目立つ場所に掲示したりした。

このようにして買い手に密着した販売方法によって成果を上げた場合、そうした代理販売人は何度もその町を訪れるようになり、ついにはそこに常駐するようになった。そしてその町で書籍店を開くようになった。こうして大出版業者が刊行した書物を一般の客に売ることを専門とする小売りの書籍商が、ヨーロッパの多くの都市に現れたのであった。

そしてヨーロッパ各地を結ぶ書籍市場が、急速に組織化されていったのである。マインツのペーター・シェッファーやヴェネツィアのニコラ・ジェンソンなどの、ごく初期の印刷・出版業者も、すでにこうした販売網を利用していた。そしてリヨンのバルテルミー・ビュイエやニュルンベルクのアントン・コーベルガーが、1485年以前に極めて広範な取引網を持っていたことについては、すでに述べたとおりである。こうして1490年ごろには、書物の取引網はヨーロッパ各地に、くまなく張りめぐらされていたのである。

その03 書籍取引の場としての書籍市

<大市(おおいち)から書籍市(いち)へ>

ヨーロッパの中世にあっては、物資の大規模な取引の場として、大市というものが発達していた。そしてすでに写本の時代から、書物はそうした大市で売られていた。この習慣は例えばパリ地方の大市や、英国のスターブリッジの大市で長く続いていた。

その際、書物は移動販売人によって、他の商品と一緒に売られていたのだ。たとえば1462年には、ある大市で、一人の移動販売人によって、聖書2冊、祈祷書15冊、大砲20門が売られたことが記録に残っている。しかし活字版印刷術が発明されて、書物の生産が増大するに及んで、そうした販売人は、その扱う商品を書物だけに限定するようになった。

大市に出向いてくる商人には特権が与えられていたので、商品の輸送は楽だった。またそこには両替商が姿を見せていたので、取引がしやすく、人がたくさん集まるために、書物はよく売れた。こうして主要な大市は、書籍商と印刷・出版業者の落ち合う場所となった。そこでは定期的に会うことができたし、決済したり、借金を返済したりすることもできた。

さらにそこには活字鋳造人や活字父型彫刻師まで来ていたので、必要な印刷用資材を買うこともできた。そして各地からやってきた出版業者は、互いに共通の問題を論じ、近刊書を予告し、書籍商と取引条件を決めることもできたのであった。つまりそこはもはや様々な物資を扱う大規模な市としての大市(おおいち)ではなくて、書籍関係者だけが一堂に会する大規模な「書籍市(いち)」になっていたのだ。このような書籍市としては、とりわけ南フランスのリヨンとドイツのフランクフルト及びライプツィッヒが著名であった。

<リヨン書籍市>

初期のころに最も重要な書籍市であったのは、リヨンであった。当時この都市は、国際的な大市の開催地であった。リヨンの大市が栄えたのは、まず何より商業活動にとっての立地条件の良さにあったといえよう。リヨンはその頃フランス王国の南東の国境近くにあって、イタリアに接していた。そしてスイスを経由してドイツとも結ばれていた。もちろん北のパリへも道は通じていたし、トゥールーズを経由して、南のスペイン・ポルトガル方面へも道は開かれていたのである。まさに物資の集散地として、理想的な位置にあったわけである。(ヨーロッパ西部の地図参照)

リヨンには、絹製品や香料をはじめとして、当時のヨーロッパで取引されていた商品は、すべて入ってきていた。コメ、アーモンド、香辛料そしてイタリア・ポルトガル・中近東産の薬用・染色用植物なども、ここを通ってフランス全土に流れていったのだ。

歴代のフランス国王と市当局は、商業活動を振興させるために、そこへ出向いてくるすべての商人に、最大限の特権を与えた。こうして年に4回、それぞれ2週間にわたって、商人たちが荷車をひかせて、この町に押し寄せてきたのだ。取引の中心地は、ソーヌ川にかかる橋の上とサン・ニジェ教会周辺の路地界隈であった。

リヨンの大市はやがて書籍市としても大規模なものになっていった。リヨンの印刷業者と書籍商のほとんどは、メルシエール街に店を構えていた。そして彼らは書籍市での取引の中心に位置していたのだが、そこに集まった書籍関係者には外国人も多かった。ちなみに1500年以前にこの町で営業していた49人の内訳をみると、フランス人が20名、ドイツ人が22名、イタリア人が5名、ベルギー人が1名、スペイン人が1名となっていた。

様々な物資の集散地であったリヨンは、書物の国際的な集散地の一つでもあった。リヨンの書籍商は、当時イタリア、スイス、ドイツなどで大量に出版されていた書物を輸入していたばかりか、それらの書物の海賊版を平気で作っていた。そしてそれらの書物をさらにフランスやスペインへ発送する交渉もそこで行われていた。

その一方、リヨンで印刷された書物とりわけ大部の法律書を、イタリア、ドイツ、スペインへと送る商談も進められていた。さらに民衆でごった返していたこの書籍市では、挿絵の入った暦、占いの本、薄手の民衆本なども売られていた。とくにラブレーの『ガルガンチュア大年代記』が大当たりして、聖書が9年間もかかった部数を上回る量が、わずか2か月で売れたという。

以上のような書物の売買の陰では、先に述べたような支払方法が行われていた。つまり売買の後に支払いという段になると、成立した商取引はおおかた債権相殺の形で決済された。ただ為替の取引がある場合には、純然たる商取引の後にそれは行われた。つまり2-3日の間に支払いをすべき者によって、為替手形の引き受けが行われた。それが終わると、商人の代表が寄り集まって、他の場所で支払われる為替手形の支払期限と次回の書籍市までの公定利率が決められた。そして3日後に、過去の債権の決済が、現金払いあるいは相殺の形で行われたのである。

こうした金融取引にひかれて、イタリア人の銀行家をはじめとして、大勢の銀行家がリヨンにやってきた。この伝統は書籍市が衰退した後まで残り、そののちこの町はフランス最大の銀行業の中心地となったのである。

16世紀前半に大いに栄えたリヨンの書籍出版業は、この世紀の中ごろになると、カトリック陣営からの対抗宗教改革の運動の余波を受けて、衰退し始めた。リヨンの書籍商と出版業者の大半は新教のカルヴァン派を信仰していたために、カトリック側からいろいろ迫害を受けるようになった。そのため彼らは、こうした迫害をのがれ、落ち着いて仕事ができる場所を求めた。その場所が、リヨンから近く、カルヴァンがその教えを広めていた町ジュネーヴであった。

書籍出版業者がいなくなって仕事にあぶれたリヨンの職人たちも、やがてジュネーヴへ向かうようになった。かくして、かつて栄えたリヨンの書籍出版業も、16世紀の後半から徐々に衰退していったのであった。

次回は、「その04 フランクフルト書籍見本市の繁栄」について、お伝えする。