水が豊かなベルリン・ブランデンブルクの旅~2024年4月~前編

はじめに

2024年4月1日(月)から9日(火)まで、ドイツ旅行をしてきた。今回は目標を首都のベルリンとその周辺のブランデンブルク地方を見て回ることに定めた。
まずベルリンでは、この10年ほど会えなかったニコライ出版社の社長ディーター・ボイアーマン氏に再会することにした。彼は、20数年前私が『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』という著作を刊行するにあたって、大変お世話になった人物なのだ。
その後ブランデンブルク地方を少しばかり旅したのだが、そのきっかけは昨年5月のドイツ旅行の際、ふとしたことからベルリン北部のオラーニエンブルクという小さな町を訪れ、そこで手に入れた ”Die Mark BRANDENBURG”
(ブランデンブルク辺境地方)という雑誌数冊の記事に触発されたことであった。この雑誌はこの地域を対象に、その歴史、地理、文化、産業などを広く扱っているが、毎号テーマを決めて、豊富なカラー写真を取り入れて、非常に詳しく、しかも一般の人にも分かりやすく解説している。

その中の一冊に「誰がわれわれのためにdie Mark(辺境地方)を発見したのか。作家、芸術家、学者」というタイトルのものがあり、その第一に19世紀の著名な作家テオドール・フォンターネが取り上げられている。この作家は日本ではドイツ文学者によっていくつかの小説が翻訳されており、『新集。世界の文学 12
フォンターネ』で、その人物が紹介されているが、私が注目したのは『マルク・ブランデンブルク周遊記』である。そのドイツ語版は5巻にも及び、分厚いので研究者がまとめたドイツ語の縮刷版を、私は手にいれて読んできた。そしてその記述に基づいて私は今回二・三の地域を旅して歩いたわけである。

日本では一般にベルリン市の中央に立ち、テレビニュースなどでもよく出てくるブランデンブルク門とか、クラシック音楽のファンならば、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を通して、ブランデンブルクという名称を知っているぐらいだろう。

現在ブランデンブルクはドイツ連邦共和国の16の州のひとつであるが、その州都は首都ベルリンのすぐ西隣のポツダム市である。地理的には北ドイツ一帯に広がる広大な平野の一部で、おおざっぱに言って西はエルベ川、東はポーランドとの国境をなしているオーデル川にはさまれた地域である。それらの支流を含めて幾多の河川や運河が流れ、また大小無数の湖が点在するなど、豊富な水に恵まれた地方だといえよう。

     

ドイツ東部の地図
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24「ドイツ全図」
から)

今回の旅ではそのうちの二・三の地方を見て回っただけであるが、それらの地域のささやかな個人的な印象を以下に記すことにしたい。

第一日 4月1日(月)曇り
羽田からフランクフルトへ

次男が運転する車に私と見送りの家内も乗り、羽田空港に午前9時半ごろ到着。ルフトハンザ航空の受付けにトランクを預けてから、海外旅行保険を契約。その後しばらく次男と家内と歓談した後、搭乗口へ向かう。荷物検査は簡単だった。機内は満席で、両翼の上あたりの通路側の席に座る。予定より30分遅れて午前11時15分出発。飛行機は北東方向に飛ぶ。座席向かいの画面で、映画や音楽を視聴したり、コンピュウター相手にチェスの対局を楽しんだりする。相手は指し手が速く強いが、一局勝つことができた。やがてベーリング海峡を抜け、北極海上空に入ったが、グリーンランドの白い氷山の連なりが印象的。14時間の滞空時間はやはりものすごく長く、狭いエコノミークラスの座席に座っているのは、苦痛だ。
やがてノルウエー上空からデンマークを通り、ドイツに入ってフランクフルト空港に到着した。入国審査にかなり時間がかかったが、その後荷物はすぐに受け取り、出口に出る。そこでドイツ在住の長男哲也の出迎えを受け、一緒に迎えのマイクロバスでNH空港ホテルへ移動した。外はうすら寒く、まだ冬だ。ホテルに入りチェックインしたが、受付には復活祭のウサギのぬいぐるみが飾ってあった。ドイツでは先週金曜の受難日から本日月曜まで4日間、復活祭の祝日なのだ。また昨日の日曜(3月31日)から夏時間となり、日本との時差は7時間になった。
長男は今回の旅に同行するのだが、私のために往復の航空券やホテルの予約、鉄道の切符などの手配をすべてやってくれた。一息ついてから、長男が私の部屋に来て、今後の予定について相談した。

第二日 4月2日(火)曇り・小雨
フランクフルトからベルリンへ

ホテルで午前6時ごろ起床。昨日の長旅で疲れてはいたが、いつものように夜中に3,4回目が覚め、トイレへ。7時20分長男とともに、一階の朝食会場へ。セルフサービスだが、朝食中、窓から大きな飛行機がすれすれに飛行するのを目撃。8時15分チェックアウト。ホテルのバスで再び空港へ。そしてSバーン(電車)でフランクフルト中央駅へ移動する。時間があるので、構内ラウンジでゆったりドイツ語の新聞を読みながら、休憩。
そしてプラットフォームの先端の場所で10:13発のICE(特急)を待つ。かなり遅れて列車は到着したが、ドイツでは珍しくはない。指定席に座って、やがて列車は悠然と出発した。フルダを経由して、ドイツの「心臓部」と呼ばれるチューリンゲン地方を西から東へそして北東へと移動。つまりアイゼナハ、ゴータ、エアフルト、ワイマールからハレを通ってベルリンヘ向かうのだ。地図を広げて確かめながら、車窓の景色を楽しんだ。

車中で地図を広げている私

途中風力発電用の風車や太陽光パネルをたくさん見る。そして列車は南からベルリン中央駅の地下フォームに15時15分に到着した。中央駅から、去年の旅でも利用したU5の地下鉄に乗り、マグダレーナ駅で下車。広々とした大通りを歩いて、
NHBerlinCityOstホテルに入る。中央駅から東へ向かい13の停留所で20分という便利さだ。NHホテルはドイツ全国にあるチェーン組織のホテルだが、ベルリン中心部にある店はやはり高く、割安のここのホテルを長男は予約したわけだ。去年の5月も今年もユーロに対して円安で、何かと節約しなければならないのだ。
チェックインして、一休みしてから隣のイタリア料理店で昼と夜の中間の食事をとる。その後近くのスーパーに入り、家内に頼まれたドイツの日常品や土産物を買う。
長い空の旅とその後の鉄道旅行で、やはり体は疲れていたので、明日の準備をしてから早めにベッドに入る。

第三日 4月3日(水)曇り・小雨
「ニコライ・ハウス」訪問

朝6時半起床。7時テレビニュースを見る。7時半長男と一緒に一階の食堂へ行き、朝食をとる。セルフサービスだが、席はゆったりとしていて、食事をしながら長男と8時過ぎまで歓談する。9時ホテルを出て、曇り空で寒々とした中、地下鉄に乗り、都心部の「博物館島駅」で下車。ウンター・デン・リンデン大通りを横切り、かつてのプロイセン王国のベルリン王宮の外観を再建したフンボルト・フォーラムの横を歩いて9時半過ぎ、「ニコライ・ハウス」に到着した。ニコライ出版社の社長ボイアーマン氏(Beuermann)と、ここで会う約束をしていたのだ。約束の時間よりやや早く着いたが、建物の中でしばらく待つ。

やがてボイアーマン氏が現れ、10年ぶりの再会を果たす。まずは館内で記念の写真を撮る。

ボイアーマン氏と私の二人の写真

次いで「ニコライ・ハウス」の館長をしている女性のショイアーマン((Scheuermann)さんが現れた。7,8年前に館長に就任したという彼女とは初めての出会いであったので、自己紹介を兼ねて、二十年ほど前に刊行した『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』を献呈した。それから日本からの土産として能の舞扇をプレゼントした。

舞扇を広げて見ているショイアーマンさん

ボイアーマン氏には同様の舞扇と観世流の能楽師の舞台写真のカレンダー及び能楽に関する英文の本を贈呈した。そして自分が趣味として能楽関連の謡曲を習っていることも説明した。

その後館長のショイアーマンさんが、「ニコライ・ハウス」の内部を案内してくれることになったが、その前に建物の正面に出て、ブリュダー街13番地のこの家がたどってきた歴史的経緯を説明してくれた。この建物にニコライの名前がついているのは、18世紀の成功した出版業者で作家のフリードリヒ・ニコライが1787年から死亡した1811年まで住んでいたことによるのだ。この場所は旧プロイセン王国のベルリン王宮のすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人々や馬車で大変賑わっていた。1730年に王国の大臣によって建てられた大邸宅をニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そして晩年の24年間を過ごしたこの邸宅は、当時ベルリンの精神的な中心の一つであり続けた。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたという。
ニコライ死亡の後には、この建物は別人のものになったが、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。第二次大戦では部分的に損傷を受けたが、大したことはなく、東独時代には党の事務所として使われていたという。

建物正面前での記念写真(ボイアーマン氏、ショイアーマンさんと私)

正面の壁に貼られたニコライ顕彰板。この家にはフリードリヒ・ニコライ(1733年3月18日-1811年1月8日)が、1787年からその死亡まで住んでいた。この作家、歴史家、批評家、出版業者は「ベルリン啓蒙主義」の代表的存在である。

実は私がこの建物を訪れたのは初めてのことではなく、1999年にボイアーマン氏が連れて行ってくれていたのだ。その時のことは私の研究書『ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ』(2001年2月、朝文社)の中に書き込むことができた(190頁~192頁)。その時建物の内部もざっと見せてもらったが、かなり荒れた感じで、この時点ではまだ内部の整備が十分ではなかった、という印象を私は抱いていた。
その後2011年に「ドイツ文化財保護財団」が、「ニコライ・ハウス」の管理を引き受けたという事で、その頃から建物の外装や内装を修復する作業が急速に進んだようだ。

さてショイアーマン館長はその後、建物の中の案内をしてくれた。一階入り口から二階へ上がるときの木製階段はニコライが住んでいた時に使用していたものだが、その後部分的に損傷があったものの、今では立派に修復されている。

修復された見事な手すりつきの木製階段

その階段を上がって広々とした部屋に案内されたが、そこでは時折ニコライにちなんだコンサートや朗読会が開かれているという。例えば昨年2023年3月18日には、ニコライ生誕290周年を記念した講演会と音楽会が開かれている。このイベントはニコライ・ハウス友好協会の会長でもあるボイアーマン氏が主催しているのだ。私の本にも書いたことだが、ニコライは大の音楽好きで、その最良の歳月には自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身ヴィオラを演奏することもあったという。

さらに二階には大きな会議室もあり、その隣にはニコライ関連の主な書籍を陳列した小型の図書館があった。その中央には彼の主要業績の一つであった『ドイツ百科叢書135巻』のオリジナル本が飾ってあった。またニコライの胸像も見えた。

ニコライ関連の展示品。『ドイツ百科叢書』とニコライの胸像

「ニコライ・ハウス」の中庭

そのほかニコライ関連で様々なものが、あるいは壁面に、あるいはガラス・ケースの中に展示されていた。例えばニコライが『南ドイツ旅行記』を書くための取材旅行で使用した馬車と距離測定器の細密画など、私の本の中でも使わせてもらったものが目に留まった。さらに二階のいくつかの部屋から部屋へと巡り歩いていた時に窓の外の中庭の景観が見えたが、後で階下に降りた時に実際に歩いて見た。

こうして「ニコライ・ハウス」の案内は終わった。この建物について書くことはまだまだたくさんあるが、きりがないのでこの辺にしておきたい。

その後ボイアーマン氏の案内で、ショイアーマンさん、私そして長男が、近くのフンボルト・フォーラムの中のレストランに招待され、昼食をとりながら、さらに歓談を続けた。そしてお二人には別れを告げ、ベルリン市内を遊覧船で見て回るために、長男と私は近くの船着き場に向かった。

ベルリン・ウンター・デン・リンデン周辺
(「地球の歩き方」ドイツ2023~24。300頁)

この地図をご覧になっても分かるように、私たちがいた「ニコライ・ハウス」は、ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)のすぐ近くにある。そしてシュプレー川をはさんで反対側にあるニコライ地区はベルリン発祥の地域といわれ、東独時代の1980年代から注目されるようになった。そして1230年建造のニコライ教会を中心とした地域にはいくつかの由緒ある料理店やカフェが復活し、その流れは統一後に加速され、今では観光客もたくさん訪れる地区になっている。私はドイツ統一後の早い時期に、このニコライ地区に行き、有名なレストランで食事をしたことがある。

またベルリン王宮について一言付け加えると、この旧プロイセン王国の王宮は、18世紀初頭に建造された。そして第一次大戦後に王国が消滅した後も存続していたが、第二次大戦末期の空爆で被害を受け、戦後東独政府によって取り壊された。そしてその跡地に「共和国宮殿」と称するガラス張りの建物が作られた。その後ドイツが再統一された後は、空き家になっていた。ところがやがて昔の王宮を再建すべしという保守派の声が上がり、それに反対する革新勢力との間で議論が起こり、一般市民へのアンケートも行われた。その結果、妥協策として、王宮のファサードや中庭の一部が復元されたが、その内部は博物館ないしギャラリーとして使われることになった。そしてその名称も、19世紀前半に活躍した知識人フンボルト兄弟の名前にちなんで、「フンボルト・フォーラム」となったわけである。

いっぽう「ブランデンブルク」という名称は、12世紀に、東方植民を進める中で神聖ローマ皇帝が成立させた「ブランデンブルク辺境伯領」という領邦に起源がある。そして15世紀の1415年以降、元来南ドイツ出身のホーエンツォレルン家の領土になった。またドイツ騎士団の団長が新教(ルター派)に改宗し、領地を世俗化して「プロイセン公国」を作り、1618年、ブランデンブルク選帝侯国と合併して、同君連合を形成した。そして17世紀後半、実力者の大選帝侯のもとで、大いに実力をつけ、その息子が1701年プロイセン公国を王国に格上げした。やがてフリードリヒ2世(大王)の時、ヨーロッパの列強の一角を占める強国となった。その後19世紀の後半には宰相ビスマルクの時、ドイツを統一して、1871年プロイセン王国を中核にした「ドイツ帝国」ができあがったわけである。それ以来その首都のベルリンは、ヨーロッパ有数の大都市に成長したのであった。

シュプレー川遊覧船

歴史の話がやや長くなったが、長男の案内で私はニコライ地区の川べりにある遊覧船の乗り場に着いた。シュプレー川遊覧船は冬季には運休していたが、3月末の復活祭の祝日から運航を開始した。私たちはStern(シュテルン社)の船に乗ることになった。往復1時間半のコースで、値段は約22ユーロ(3630円)だ。

コースはベルリンのど真ん中(中心街)の北側に沿っている。これまで陸の側から見てきた建物をおおむね裏側から見るわけだ。出発点はベルリン発祥の地であるニコライ地区である。それでは往復1時間半の船旅で、私が注目した場所を写真で紹介していくことにしよう。最初の橋をくぐると左側にベルリン大聖堂が見えてくる。大聖堂を横から見たのが次の写真である。

ベルリン大聖堂のアップの写真

大聖堂を過ぎたあたりで、反対側を走る遊覧船が見えた。

反対側をすれ違った遊覧船

大聖堂の後、二本の川に挟まれた先端の地点に立つのがボーデ博物館だ。

ボーデ博物館
(博物館島の先端に立っている)

そこを過ぎ2本、橋をくぐったところにSバーン(電車)のフリードリヒ・シュトラーセ駅が鉄橋の上にかかるようにしてあるが、ちょうど電車が停車していた。この駅は冷戦中、ドイツ(ベルリン)が分断されていた時、東側にあり、西ベルリンから東ベルリン地区に観光客などが訪れる時、この駅の改札口に検問所があった。24時間滞在できるビザをその場で発行してもらって、私は二・三度東ベルリン地区に入ったことがある。検問所での検査は極めて厳しかった。西側の新聞雑誌や本などは持参できなかった。それはもう30年以上前のことなのだが。

フリードリヒ・シュトラーセ駅に停車している電車

その先1本橋をくぐると、左側にドイツ連邦議会議事堂が見えてくる。私はこの建物に去年5月に入ったが、その裏側から見るのは初めてだ。

ドイツ連邦議会議事堂を裏側から見たもの

それから2本橋をくぐると、右側にベルリン中央駅が見えてくる。川の側から見るのは初めてだ。

ベルリン中央駅をやや離れた地点から見たもの

中央駅の先、左側に広大なティアガルテンの公園が広がっている。その途中で船はUターンして元のニコライ地区の船着き場に戻った。あいにく曇りから小雨模様になってきたので、それ以上町中を見て歩くのはやめて、地下鉄に乗り、ホテルに戻って休息をとった。そして午後7時、長男が私の部屋にやってきて、サンドイッチをぱくつきながら、明日の行程の打ち合わせをした。

第四日 4月4日(木)晴後小雨
シュプレーヴァルトへの日帰りの旅

6時過ぎ起床。7時朝食。8時、ホテルを出て、最寄りのSバーン(電車)の駅まで歩く。そして一つ目のオストクロイツ(Ostkreuz)駅で、コットブス行きの列車に乗る。ちなみにベルリンには戦前から周辺を取り巻くようにして環状電車の路線ができていた。オストクロイツというのはその環状線の東側で、ほかの路線と交差する要衝の駅という意味である。同様にして南にはズュートクロイツ駅そして西にはヴェストクロイツ駅がある。ただ北のノルトクロイツ駅というものはない。

列車はベルリンから南東部に広がる湖沼地方のシュプレーヴァルト(Spree-wald)を通って、コットブスへ走っていった。この辺りはベルリン市内を蛇行しているシュプレー川の上流地域に当たっている。その中心の町リュッベナウ(
Luebbenau)を過ぎたあたりから駅名にドイツ語とヴェンド語が併記されているのに気づいた。ヴェンド語はこの辺り一帯にかなり昔から住んでいる西スラブ系の少数民族ヴェンド人の言葉なのだ。たとえばドイツ語のRadduschとヴェンド語のRadusが併記されているのだ。

コットブス駅のプラットフォーム

やがて終点の駅コットブス(Cottbus、ヴェンド語でChosebuz)に到着した。見た所、普通の東部ドイツの中都市の駅である。駅は市の南に位置しているが駅前に市電が走っていて、旧市街に通じている。早速その市電に乗り込み、10分ぐらいで旧市街の中央広場(Altmarkt)で降りる。そしてその一角にある聖ニコライ教会に入る。14世紀に建立された後期ゴシック様式のレンガ造りの教会だ。この辺りはニーダーラウジッツ地方と呼ばれているが、この地域最大の教会だそうだ。教会の塔は55メートルあり、塔の上からは緑豊かなコットブスの町が素晴らしい眺めだと、案内書には書いてあるが、歩いて石段を上るのは苦痛なので、やめておく。その代わりに教会の内部をゆっくり見て歩く。星形の丸天井、説教壇、雪花石膏をちりばめた主祭壇など、見事なつくりだ。

聖ニコライ教会の外観

教会を出てから旧市街の東側を流れるシュプレー川を捜して、町中を動き回る。地図を見ながら歩いたのだが、やがて川にたどり着いた。平らな土地をゆっくり流れているが、川幅は狭く、あまり見栄えはよくない。しかし、いたる所木々の緑に覆われていて、散歩するには向いていて、穏やかな気分になれた。

緑に覆われたシュプレー川

その後狭い石畳の道を歩いて、旧市街の中ほどにあるヴェンド博物館に入った。この狭い旧市街には、そのほか市立博物館、ブランデンブルク薬事博物館、シュプレー技術博物館などいろいろ案内書には書いてあるが、時間がないのでこのヴェンド博物館だけを見ることにする。

ヴェンド博物館の外観

入り口から入って受付で料金を払い、荷物をロッカーにしまう。するとすぐ近くの場所で動画が流れていて、席に座ってしばらく見ることにする。ヴェンド人の若者が激しく動いて伝統的な踊りを踊っている。それから美しい民族衣装に身を包んだ男女の若者が、互いに手を組んで歩いていく場面が続いた。女性は白く大きな帽子をかぶり、真っ白で透明な衣装に、赤、緑、黄色など鮮やかな色の帯を締めている。男の方は皆、黒いスーツに山高帽をかぶっている。

華麗な衣装のヴェンド人男女による踊り

そのあとガラス・ケースの中や、壁に貼った展示物などを見て歩いたが、そこにはヴェンド人の風俗習慣や独特の歴史や文化などが、様々な形で紹介されている。その中にはヴェンド語で書かれた聖書もあった。それから19世紀、20世紀のヴェンド人の学者、作家、知識人も紹介されていた。それらの展示は詳しすぎるほどで、丁寧に読んでいくにはとても時間が足りない。ただ、ちょうど復活祭の時期だったので、それに関連して、色とりどりの卵を作っている写真や、実物の卵が売り物として置かれていたのが印象的であった。聞けばヴェンド人は昔から復活祭の卵作りに、熱心に取り組んでいるとのことだ。

彩りの美しい復活祭の卵

ここで案内書に従って、少しばかりコットブスの歴史を紐解くと、シュプレーの周辺には西スラブ系の民族が住んでいて、すでに8世紀には定住の集落があったという。そして1156年にはドイツのシュタウフェン朝によって、一人の城市の司令官が任命されたという文書が残っている。また13世紀にはシュプレー川の渡河地点に商人の集落がつくられた。1405/06年以降、織物業やリンネル織物業があったことが文書によって知られている。そして1701年にフランスから移ってきたユグノー(新教徒)によってもたらされた絹紡績業が、今日の繊維産業の基礎を築いた。
いっぽう17世紀前半の三十年戦争(1618-48年)による事態の急激な悪化は、世紀後半、大選帝侯の努力によってかなり埋め合わせがなされた。そして1726-30年に、新しい市街地が建設された。その後第二次大戦後の東独政権の下1952年に、コットブスはこの地域の中心都市となった。さらに再統一の1990年10月3日以降、ブランデンブルク州第二の都市になった。

なお入手した資料の中には、Wende(ヴェンド人)のほかに、Sorbe(ソルビア人)とも書かれていて、この二つの言葉は、西スラブ系の二つの少数民族のことが混同して用いられているようだ。

このヴェンド博物館にはもっと滞在したかったが、次の予定地のリュッベナウに移動するために時間がなく、やむなく博物館を後にする。そして近くのレストランで食事をしてから、再び市電に乗って鉄道のコットブス駅へ移動する。こうして元来た路線を戻るようにして、シュプレーヴァルトの中心の町リュッベナウ(Luebbenau)へ移動した。

駅前は閑散としていて、町の中心地まで小雨の中を歩いていく。うすら寒くなってきて、徒歩は快適ではない。やがて商店などが立ち並ぶ中心街にたどり着いたが、復活祭の過ぎたただの週日で、しかも雨ふりのせいか人々の姿があまり見当たらない。ここは水郷で観光地なのだが、今日は船着き場は雨のため閉鎖されていて、小舟は運航していない。

小舟の乗り場には運航停止の表示。船にはシートがかぶされている

代わりにシュプレーヴァルトの絵葉書によって、小舟に乗ってシュプレー川遊覧を楽しんでいる様子を、次に示しておく。

シュプレー川遊覧船で楽しむ観光客(絵葉書)

船に乗れなかったので、周辺を歩いていると、「シュプレー川の自然景観保存館」が目についたので、中に入ってみる。川や湖、森や林、そこに生息する動物や鳥たちや植物などを、いかに保護していくかという事が、様々な具体的な展示で説明されている。

この地方の女性の民族衣装

同時にこの地域の自然の、時代による移り変わりについても説明されている。

シュプレーヴァルトの自然の移り変わり

19世紀後半に活躍したドイツの作家テオドール・フォンターネは、前にも述べたように、マルク・ブランデンブルク地方を旅して歩き、「周遊記」を書いたわけだが、もちろんシュプレーヴァルト地方も訪れて、詳しい紀行文を書いている。その分量はかなりのものになるが、少数民族ヴェンド人についても詳しく触れている。フォンターネの時代にはまだ一般の人々が観光して歩く習慣がなかった。フォンターネはこの地域を動き回るにあたって、知り合いの有力者が雇った専用の小舟に、数人の仲間と一緒に乗っているのだ。そして詳しい紀行文を遺しているわけだが、「マルク・ブランデンブルク周遊記」は、ドイツ語版で5巻に及ぶ大著なので、その中身を簡単に紹介することはできない。自分としてはその縮刷版を読んで、旅の参考にしているわけである。

天気さえよかったら、このシュプレーヴァルトをゆっくり船で遊覧したかったのだが、それが叶わなかったので、日が暮れないうちにベルリンへ戻ることにした。

なおこのシュプレーヴァルト訪問をもって、今回の旅行記の前半は終わりにして、残りの4月5日以降の後半の予定を記しておく。5日(金)は、ベルリン市内のフォンターネの墓を訪ねた後、ポツダムのサン・スーシー公園内の新宮殿へ移動する。6日(土)には、ベルリン北西部にあるフォンターネの誕生の地ノイルッピンへの日帰り旅行をする。そして7日(日)には再びポツダムへ行き、ハーフェル(Havel)湖の遊覧船に乗ることにする。