ドイツ近代出版史(8)第二次世界大戦後 1945~(その1)

第1章 戦争直後の出版界の状況

占領政策と出版界

1945年5月、壮絶なベルリン攻防戦の戦火がやみ、第二次世界大戦はヨーロッパでは終息を見た。そしてドイツは戦勝国によって占領され、アメリカ、イギリス、フランス及びソビエトという4つの占領地区に分割された。ドイツは5月8日に無条件降伏の文書に調印したが、その直後の5月12日には、出版報道活動全般に関する通達が占領軍当局から布告された。これはあらゆる形での印刷・出版活動および出版物の販売活動を、禁止するものであった。つまりこの通達によって、新聞、雑誌、書籍、小冊子、ポスター、楽譜、その他複製品などの印刷・出版・販売・宣伝などが一切、禁止されたわけである。

とはいえこの全面禁止措置は、その直後に出された追加的な通達によって変更を受け、一定の条件の下でなら、新聞、雑誌、書籍などの発行が許されることになった。つまりどの占領地区でも、出版販売活動をするにあたっては、一つ一つの出版物の発行について占領軍当局の許可を得ることによって、それが可能になったのである。これは事前検閲の措置であったのだが、長くは続かず、1945年10月には、フランス占領地区とアメリカ占領地区で、原稿の事前検閲措置は撤廃され、やがてイギリス占領地区でも1947年にはこれに倣っている。こうした許可の問題と並んで、出版社にとって当初頭が痛かったのは、深刻な紙不足の問題であった。この頃書籍の最大発行部数は5000部に抑えられ、出版社は配給という手段によって新刊書を引き渡していた。             なおソビエト占領地区(のちの東ドイツ)については、冷戦の進行につれて西側占領地区とは、断絶するようになっていったので、のちに「東ドイツにおける出版事情」の項目で述べることにする。ちなみに西側の3占領地区から西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が1949年5月に成立し、ソビエト占領地区から東ドイツ(ドイツ民主共和国)が1949年10月に成立している。

いっぽう戦勝国は戦争直後のこの時期、ドイツ国民のいわゆる「非ナチ化政策」を実行した。そしてナチ時代に発行された出版物の回収も行われた。こうした観点から連合国管理委員会は1946年5月13日に、布告第4号を出して、それを実施したのであった。この布告によると「(ナチ時代に発行された)書物、ビラ、雑誌、新聞、ナチ宣伝文書、人種理論や暴力行為扇動に関するもの、反国連の宣伝文書、軍事教育的色彩をもった教科書を含むあらゆる軍事的性格の出版物を破棄させるために、二か月以内に、連合国軍事当局ないしその他の役所に提出すべきこと」とされたのである。この布告は、出版社、公立図書館、学校内及び企業内図書館、大学図書館などを対象にして出された。とはいえこの布告が出されてしばらくたった8月10日には、学術研究用に必要な一定数の出版物は、破棄処分から救う旨の追加的布告が出された。そしてこれらの出版物は、特定の場所に保管して、連合国管理委員会の厳しい監視の下で、ドイツ人の学者や、連合国から許可を受けた人物に対して、その利用を許すこととされた。これとは別にソ連占領地区では、禁止すべき出版物の目録が発表された。1946年4月1日の一回目のリストには、書籍1万4千点、雑誌1500点が記載された。この目録はその後1947年、1948年と続けて発行された。

ここで出版社に対する営業許可に目を向けてみよう。これはアメリカ占領地区においては1945年8月、イギリス占領地区では9月、そしてフランス占領地区では10月に、それぞれ実施された。その結果1945年末にはアメリカ地区では66、イギリス地区では70、フランス地区では45の出版社が営業許可を受けたのであった。その後営業許可の件数は各地区で増えていって、1946年末には、アメリカ地区で287、イギリス地区で242、1948年6月にはフランス地区で190の出版社が営業許可を受けていた。これを西側3占領地区と西ベルリンを合わせた合計で見ると、1945年半ばから通貨改革の行われた1948年半ばまでの3年間に、およそ850の出版社が約1万5千点の書物、小冊子、並びに約千点の雑誌を発行していたことになる。

この時代は様々な障害のために一冊の本を作るにも、通常よりはるかに多くの時間を必要としていた。また書籍取次の世界にも新しい状況が生まれてきた。戦前ドイツの書籍取次のセンターであったライプツィヒはソ連占領地区となってしまったため、西側の3占領地区には新たに数多くの書籍販売の中心地が生まれることになった。しかしそれぞれの占領地区の間の交流は、かなり難しい情勢にあったのだ。

この戦後三年間ほどの出版界の状況を要約すると、書籍供給の少なさに対して、一般読者の需要の高まりが目立った時期であったといえる。この読書への飢えは、ナチスの時代に一般のドイツ人が、特定の種類の書物以外の書物(国内・国外を問わず)から遮断されていたことへの反動といえる。とりわけ国外の書物に対する飢えは大きかった。そしてこうした動きにいち早く対応したのが、第三次ローヴォルト書店の始めた「ローヴォルト輪転機小説」であった。これがどんなものであるのか、『ナチス通りの出版社』(人文書院、1989年発行、219~220頁)に詳しく書かれているので、引用させていただく。

「何しろ戦後、焼け跡、闇市の時代である。用紙はもとより、製本用の厚紙、クロス、また糸や仮綴じ用の縫糸、製本用の膠(にかわ)、その上包装用の材料まで不足していた。そこでまず新聞用紙にできる限り多くの文字を組み、輪転機を使って大量に印刷することによって組版代を節約し、また書物の規格を新聞の半分の大きさに変え、留め金を使用せず貼り合わせて綴じることによって製本工程を不要にし、包装材を倹約した。こうして本のコストは安くなった。普通の本の約350ページの小説が、”輪転機小説”では、32ページになり、50ペニッヒの値段で販売できた。一本の葉巻が闇市で4~8マルクの時代である。二巻本は1マルク、三巻本で1・5マルク、各巻はそれぞれ10万部出版、画期的発行部数であった。最初に出された「ロ・ロ・ロ叢書」(ローヴォルト輪転機小説の叢書)の内訳は、アラン=フールニエ『モーヌの大将』、J・コンラッド『台風』、ヘミングウェイ『武器よさらば』、トゥホルスキー『グリプスホルム城』、ジッド『法王庁の抜け穴』、プリーヴィエ『スターリングラード』であった。以後、四年間に29点の作品で、約300万部が印刷されている。こうして現代世界文学の小型版が、貧しい青年の手にも渡るようになった。こうして書物は、形式ではなくその実質が重視される商品となり、大衆の中に浸透しはじめる」

このローヴォルト輪転機小説こそは、すべて物資が欠乏していた時代に、活字に飢えていた人々を狙って発射された「ヒット商品」なのであった。しかし全般的に見て当時のドイツの出版界は、なお不振をかこっていたのである。輸入するには外貨が不足し、輸出するには質の良くない紙に印刷されたドイツの書物は適していなかったのである。

通貨改革と出版業界

西側三占領地区では、1948年6月21日、通貨改革が実施された。従来の通貨の価値は10分の1に引き下げられ、新しいドイツ・マルクが導入された。と同時に統制経済から市場経済への大胆な転換を企てる措置がとられた。基本的な食糧や生活必需品を除いて、他の全ての物資は、通貨改革をきっかけに自由価格制のもとにおかれた。配給制は次第になくなっていき、それまで倉庫に蓄えられていた商品が、市場に出回るようになってきた。市場経済への転換は、ドイツ人の営利活動を刺激する上で決定的な成功をおさめ、西ドイツ地域の工業生産は通貨改革以後、目に見えて急上昇し始めた。

ここに始まる西ドイツ経済の復興は、のちに「ドイツ経済の奇跡」と呼ばれたほど順調なものであったが、ドイツの出版界にとっては、事情はそう簡単なものではなかったのである。人々は手持ちの金を、まずは衣料をはじめとする生活必需品のために使ったため、書物に対する需要は伸び悩んだ。通貨改革後、一時的にではあれ貧しくなった人々にとって、書物の値段は多くの場合高すぎたのである。そのうえ紙代の値上げに伴う本代の値上げは、ますます本から人々を遠ざけた。公共図書館の予算も横ばいか、わずかに増えた程度であったので、この方面における書物の需要も通貨改革前とさして変わりなかった。

いっぽう西側三占領地区の境界線の開放によって、新たに進出してきた大規模な書籍業者のために、それまで地域的な活動に限られていた小規模な小売書店や取次店などは、重要性を失って、不振をかこったり、倒産したりした。とりわけ中間に立つ書籍取次業が、いくつかの大都市(ハンブルク、ケルン、フランクフルト、シュトゥットガルト、ミュンヘン)に集中するようになって、出版業界全体の合理化が促進されることになった。通貨改革前には、占領軍政府の甘い営業許可のために、経験不足で未熟な者まで書籍業者になったりしていたのだ。つまり適正規模の二倍ほどの書籍業者が、その時期には営業していたといわれる。

書籍出版量の低下は、書籍の販売にとっても不安定要因となった。そして通貨改革後の一時期、書籍販売業者の間に強い不安感が広がった。この時期、多くの出版社は宣伝や引き渡しに当たって、書籍販売人を通じないで直接買い手と取引した。出版社に言わせれば、それは多くの書籍販売業者が機能を停止していたからとった措置ということになる。ただこうした混乱によって、重要な出版物が読者の手元に届かないこともみられたのだ。とにかくこの時代の書籍業者が置かれていた状況は、一般にみじめなものであった。書店主のH・クリーマンは1949~53年の時期を振り返って、書籍販売業者の多くは熟練労働者よりもはるかに低い水準にあった、と証言している。さらに別の書店主は、1954年になってもなお、書籍販売店の収益率が極めて低いことを報告している。

そして客観的に見て、こうした状況を打開するには、業界の体質改善、合理化が必要なことも認められていた。一般の書籍販売店は、旅行書専門店、通信販売店、書籍と雑誌の販売店などとの競争に立たされ、ますます苦しい状況に追い込まれていた。その反面、戦争直後の混乱期にはなお吸引力をもっていた商業ベースによる「貸出文庫」などは、書籍供給が順調に行われるようになると、次第にその魅力を失っていった。その代わりに人々が次第に利用するようになっていったのが、数を増していった公共図書館であった。

いっぽう外国との書籍の売買は、戦争直後は外貨不足のために極めて低調であった。1948年9月になって外国の書籍の輸入のために外貨払いが自由化されたが、経済情勢が緊迫していたために、事情はあまり変わらなかった。事態が進展しだしたのは、書物、雑誌、楽譜の郵便による小額輸入(一件100マルクまで)に関する特別措置が、1952年3月1日に導入されてからのことであった。またドイツの書籍の輸出にとっては、1951年初めにアメリカのファーミントン計画とつながりができたことが重要であった。これはアメリカ合衆国コネティカット州のファーミントン市にちなんで名付けられたプロジェクトで、外国の学術書のアメリカへの輸入促進を図って設立されたものであった。

第2章 西ドイツにおける出版界の諸相

(1)出版界の組織

東から西への移行

ドイツ出版界の中心都市ライプツィヒは、戦争直後の国際政治の荒波に翻弄されることになった。はじめこの出版都市は、アメリカ軍によって占領された。しかし連合国側の占領地に対する取り決めに従って、アメリカ軍が撤退し、代わってソビエト軍が入ってきた。この変更は1945年7月1日に行われた。ところがそれに先立つ6月5日に、「ライプツィヒ書籍商組合行動委員会」とアメリカ占領軍との間で、「書籍商組合」の支部を、連合軍支部のあったフランクフルトないしヴィースバーデンに設置されることが取り決められた。そしてその支部長にはライプツィヒのディーテリヒ出版社のW・クレム博士が、そして支配人にはG・K・シャウアー博士が就任した。この時の取り決めによれば、ヴィースバーデン支部の設立によって、ライプツィヒの「書籍商組合」の活動に支障をきたすといったものではなく、新設の支部はライプツィヒの本部の下部組織になるというものであった。

しかしこの取り決め締結の一か月後には、前述したように占領地区の確定が行われ、ライプツィヒはソビエト地区となったわけである。そしてその後、西側三戦勝国とソビエトとの関係が日に日に冷却していったため、ライプツィヒのいくつかの大出版社はヴィースバーデン(フランクフルトの隣町)へと移転した。それらの出版社とは、ブロックハウス、ブライトコップ・ヘルテル、ディーテリヒ、インゼル、ティーメである。さらにその少し後に、ハラソヴィッツ、ヒールゼマン、レクラムなどの大手出版社がライプツィヒから、そしてE・ディーデリヒスがイエナから、西側地域へと移った。

1945年秋になると『書籍取引所会報・フランクフルト版』の発行がアメリカ軍当局によって許可されることになった。そしてその第一号が10月6日に発行された。はじめ会報の発行所はヴィースバーデンにあったが、1946年4月1日にフランクフルトに移った。
いっぽう当初支部として発足したヴィースバーデンの「書籍商組合」は、次第に独自の活動を見せるようになった。その際新たな方針として、「中央集権ではなくて地方分権を」という基本的な考え方が、支配人のG・K・シャウアー博士によって打ち出された点が注目される。これはナチ時代の中央集権への反省から出てきた考えといえるが、地方分権は後に生まれたドイツ連邦共和国の指導的理念でもあるのだ。またこの考えに沿うような形で、1945年8月にはハンブルクに「北ドイツ書籍商連盟」が設立された。そして西側三占領地区には、書籍商の地域的連合体がいくつも生まれた。さらにヴィースバーデンの「書籍商組合」支部は、1945年10月9日にはフランクフルトに移転した。また1946年10月29日には南ドイツ書籍商の州連合代表が集まって「アメリカ占領地区書籍商作業共同体」が結成されることになった。同様にして北ドイツとライン地方の書籍商が集まって「イギリス占領地区書籍商作業共同体」が結成された。翌1947年には南西ドイツのフランス占領地区でも、同じ動きが見られた。

その間アメリカ地区とイギリス地区では、1946年9月5日に経済面での統合に関する協定が締結された。この協定の精神に即してアメリカおよびイギリス両地区の書籍商作業共同体は、数回にわたって会議を開いた。そして紙の配給、外国との取引、目前に迫っていた通貨改革及び後進育成などの諸問題について話し合った。さらにこうした緊密な協力の基盤のうえに、1948年5月13日、二つの地区の組織が統合されて、「ドイツ出版・販売者連合作業共同体」(本部フランクフルト)が結成されたのである。その規約第二条によれば、新たに生まれたこの組織は、全ドイツを包含する「書籍商組合」の前身である、と位置づけされていた。そうした意味合いからこの共同体は、『書籍取引所会報・フランクフルト版』の発行を行うと同時に、全国的規模の図書館の設立とその文献目録発行の準備に取り掛かった。

西側における全国組織の誕生

その後米英情報機関の要請によって、この「作業共同体」は、1948年10月31日に「ドイツ出版・販売者連合取引所組合」と改称された。そして会長には、前の「共同体」の時と同じV・クロスターマンが選出された。その後1949年9月にフランス地区の、そして1950年3月には西ベルリンの書籍商団体がこれに合流した。この時、この組織は昔の「書籍商組合」の伝統にのっとって、将来政治情勢が許せば、全ドイツ地域の書籍取引所組合になるべきことが、改めて確認された。そうした願望を示す一つの具体的な動きが、1948年に発行された『ドイツ出版関係者住所録』であった。これはこの種のものとしては第二次大戦後に発行された最初のものであったが、ソビエトを含む4占領地区(つまり全ドイツ)の出版社、書店、取次店を収録したものであった。これの編集に当たったカルスタインイェンは、「東西両陣営の緊張が著しく高まっている現時点にあって、まごうかたなき協力の証しを示すものとして二重に高く評価されてしかるべきである」と述べている。

1952年4月1日、「ドイツ書籍・楽譜・雑誌全協議会」が設立された。この傘下には、ドイツ出版・販売者連合取引所組合、ドイツ駅構内書店組合、ドイツ書籍・新聞・雑誌卸売組合、ドイツ・ブッククラブ組合、旅行・書籍通信販売組合、貸出文庫組合連合、広告・雑誌販売組合、ドイツ楽譜販売組合、ドイツ音楽書出版社組合、ドイツ古書・グラフィック販売組合、ドイツ教材組合、ブッククラブ作業共同体などの諸団体が入っていた。また1953年には、先の「ドイツ出版販売者連合取引所組合」の独自の会館が、フランクフルト市の中心街にあるゲーテの生家の隣に建てられた。

出版人の養成機関の設立

第二次大戦終了直後の1946年、ライン・ヴェストファーレン地区の出版・販売者連合が、この地域の中心都市ケルンに出版人養成学校を設立した。この職業学校の授業内容としては、見習い期間の終了までに年間6週間のコース受講を義務付け、卒業に当たって試験を課すことにした。やがてこの出版人養成学校は、1952年、「連合取引所組合」によって引き継がれた。西ドイツの教育行政は州に任せられていたため、州によってその教育の仕方が異なっていたが、全国組織である「取引所組合」の傘下に入ることによって、出版人の養成という任務は全国的なものになったと言えよう。そして1954年、出版・販売者は、一定の見習い期間を要求される職業として国家から認められることになったのである。その際仕事の内容・修業過程・待遇などを示した独自の職業案内が提示された。これは社会の進展につれて修正が加えられ、1973年と1979年に、新しい要項が出された。また1962年にフランクフルト市のゼックバッハ地区に、「ドイツ出版・販売者養成学校」の新校舎が落成した。

いっぽう出版界の幹部のための継続教育コースとして、「第一回ドイツ出版人ゼミナール」が1968年に開かれた。翌1969年には職業教育法が公布されたが、これは書籍出版・販売の実務においてしばしば見られてきた欠陥を修正し、全体的な教育を統一するための良いきっかけになった。1972年になると、出版・販売者養成学校と出版人ゼミナールのちょうど中間形態として、「ドイツ出版販売専門学校」が設立された。これには数か月にわたるコース受講が義務付けられた。また「ドイツ出版・販売者養成学校」には、やがて実に様々な職業教育の科目が設けられるようになって、外国人でもこの教育を受けることができるようになっている。さらに出版人の社会的地位を向上させるものとして、出版社員の職務内容などを示した職業案内が、1981年に法律の形で提示された。そして1987年から88年にかけての冬学期にはミュンヘン大学内の「ドイツ文献学研究所」に、出版学の講座が設けられた。

出版界のその他の活動

書籍流通面における動きとして、1953年に「書籍商清算協同組合」がフランクフルト市に再建されたことが注目される。これは1922年に、書籍取引の合理化策として、ライプツィヒに設立されたものであったが、これが第二次世界大戦後に復活したものである。そして戦後には外国の書籍販売商も、この機関を利用できるようになった。このように第二次世界大戦後の西ドイツの出版界はかなり国際化したことが注目されるが、ドイツの出版業者のイニシアティブにより、1956年には「国際書籍販売連合労働共同体」(1976年に「国際書籍商連盟」と改称)が設立された。そして1959年には「ロンドン決議」というものを採択して、国際的レベルでの「書籍の自由な流通」や定価制度の維持などを訴えた。

いっぽう国内の書籍取引を電子式データ処理システムによって合理化していこうという動きが出てきたが、その前提として書籍取引上の流通番号というものが、1964年に導入された。さらに図書館及び出版業界にとって膨大な量の書物を合理的に処理してゆくための手段として、すでにイギリス、アメリカで用いられていた国際標準図書番号(ISBN)が、1969年に採用されることになった。同様に雑誌に対しては、国際標準連載番号(ISSN)が作られている。そしてこのISBNの印は、以後西ドイツで出版される書物には必ず記載されるようになった。

また毎日のように出版され、市場に出回っていく膨大な量の書物を年間でまとめた「年次図書目録(VLB)」が、出版連合有限会社の出版局によって、1971年から発行されることになった。これは後に述べる「ドイチェ・ビブリオテーク」(第二次世界大戦後フランクフルト市に設立された全国規模の図書館)が発行する図書目録と「書籍取次業者カタログ」とを結ぶ仲介の役割を果たすものである。ちなみにこのVLBには、1971年には3200社の書物30万7000点が記載されていたが、1988年には7717社の書物48万1500点に増えている。ただし1988年版には、全ドイツ語圏つまり西ドイツ、東ドイツ、オーストリア、スイスの出版社から発行された書物が記載されているのだ。1987年には、教科書に対しても同様の目録が発行されるようになり、1988年版には、220社の4万点が記載されている。

いっぽう電子式データ処理法を用いた出版業界の合理化措置はさらに進展を見せ、1972年には「書籍取引計算センター有限会社」というものが設立された。この会社は「書籍商清算協同組合」の精算業務、「年次図書目録」及び「ドイツ出版関係者住所録」用のデータバンク業務などをはじめ、ドイツの出版業界のあらゆる会計業務まで引き受けている。

(2)書籍の生産と出版市場

出版市場の拡大

1948年の通貨改革の後、個々のケースではなお不振と変動が見られたものの、全体としては、西ドイツにおける書籍生産量は著しい上昇をみせていった。「ドイツ出版販売取引上組合」(フランクフルト)が1951年以降毎年発行してきた小冊子『数字に見る書籍と書籍取引』によれば、年間の総出版点数は、1951年の1万4094点から、1971年には4万2957点に伸びている。この20年間に約三倍の伸びが見られたわけである。これを1970年の時点で、主要国間の出版点数の国際比較をしたものが次の表である。

出版点数の国際比較(1970年)

国 名     出版点数

アメリカ    79,530
ソビエト    78,899
西ドイツ    45,369
イギリス    33,441
日  本    31,249
フランス    22,935
スペイン    19,717
東ドイツ     5,243
(国連統計)

これを見てもすでに西ドイツが世界有数の出版国に復興していたことが分かる。当然のことながら、1950年代から60年代にかけての経済成長が、出版界にもよい影響を及ぼした結果とみることができる。この間大学やその他の教育・研究機関がどんどん設立されていくのにつれて、新たな書籍需要が生じた。そして順調な経済情勢の下で、出版社側の巧みな宣伝攻勢に乗って書物を自ら買う人の数も増大していったのだ。

こうした明るい数字にもかかわらず、出版社や書店が置かれた状況は、必ずしも良いわけではなかった。それは1973年末の石油危機以前にすでに見られたことである。あのマクルーハンの「書物には未来はない、書物はやがて消滅するであろう」という不吉な予言とも関連して、出版界に不安が広がった。これに対して1973年に開かれた出版関係者の集会で、大手ズーアカンプ出版社のS・ウンゼルト社長は、当時あちこちで聞かれた不吉な予言に敢然と立ち向かった。そして「書物は死んでもいないし、病んでもいない。書物は将来もコミュニケーションの媒体であり続けるであろう」と訴えた。また社会学者のW・リュエッグは、再三再四「書物は他の情報伝達手段によってとって代わられることはなく、ただ補完されるだけである」ことを強調した。

いっぽう西ドイツの出版界で顕著にみられるようになってきた傾向が、集中という現象であった。つまり少数の大出版コンツェルンの独占ないし寡占傾向が、集中という現象であった。つまり少数の大出版コンツェルンの独占が、年とともに強まってきたのである。とりわけ注目すべきは、ベルテルスマン・グループとホルツブリンク・グループという二大出版コンツェルンの存在である。伝統を誇ってきたドイツの出版社もやがて資本の力に負けて、こうした二大巨大出版コンツェルンの傘下に入っていったのである。例えば1786年創立のフィーヴェーク出版社はベルテルスマン・グループに吸収されたし、これより規模は小さいが、文学出版社の名門インゼル出版社は、ズーアカンプ出版社に合併された。

また17にのぼる教科書出版社が「学校教育情報作業共同体」に統合された。1974年の時点で見ると、売り上げが一番多かったのは、大衆的・保守的な新聞・雑誌を発行していて、世論形成にも大きな影響力をもっていたシュプリンガー・コンツェルン(1億マルク)で、次いでベルテルスマン・コンツェルン(8700万マルク)そしてE・クレット社と続く。

こうした集中化の一方、西ドイツには、様々な種類の零細出版社が数多く存在していた。その数は専門家によって、1970年代の初めには、150から200ぐらいあったと見積もられているが、これらの中には、短命に終わる出版社もあった。またこれらの零細出版社の中には、個性的・趣味的出版を手掛けるもの、特定の政治的・イデオロギー的な出版をめざすもの、書物の世界に新たな実験をもとめるものなど、実に多種多様な出版社が含まれている。これらは自主出版の形をとるか、集団的な編集方法をとるかしている。特定の政治的・イデオロギー的な傾向をもった出版社は、初めから利益を上げることは目的とせず、経済的な犠牲を払ってでも、その政治目的を達成することを目指しているわけである。

書籍市場調査

かつて1914年、名門出版社のE・ディーデリヒス社が、読者の購買と動機を調べるために、アンケート調査を行ったことがある。しかしこれはまだ市場調査と呼べるものではなく、しかも一出版社がおこなったものにすぎなかった。今日的な意味での書籍市場の調査は、第二次大戦後になって始められものである。1952年連合取引所組合は、その内部に<市場分析>部門を設けた。そして1952年から毎年『数字に見る書籍と書籍取引』という小冊子並びに『書籍取引の社会学及び経済問題のための資料』が、そこから発行されるようになった。

また1958年には、先のベルテルスマン出版社の委託を受けて、大手の世論調査研究所エムニドが、西ドイツにおける最初の大規模な書籍市場調査を行った。その後ベルテルスマン社は、1961年になると独自の「書籍市場調査研究所」を設立した。ここでは書物の買い手や読者の行動から書籍の販売経路、宣伝広告、広告媒体、メディア、競合媒体に関する調査さらにイメージに至るまで、実に多様なマーケティング・リサーチが行われた。そしてその結果は一般にも公表された。しかしこの研究所は1974年に閉鎖された。

これと並んで大手アレンスバッハの世論調査研究所に委託した読書と本の買い手の行動に関する最初の調査結果を、「取引所組合」は1968年に発表している。この種の調査はその後も続けて行われているがその結果は毎回出版物の形で公表されている。いっぽう宗教書に関する市場調査が、「カトリック出版連合」と「福音派出版聯合」によって、1968年に行われたことがある。

こうした調査の中では、本の買い手である読者の生態に関する調査がますます重要性を増してきているが、その結果は本の売り上げという観点から出版業者が活用しているだけではない。この「読者調査」は、出版物の受容および読者の生態に関する社会学的な関心からも、大いに利用されている点が注目される。しかしその反面、これらの書籍市場調査が偏っていて、読書傾向の一面を示すにすぎない、との批判の声が出版社の一部からあがっていることも付け加えておきたい。

いっぽうこの書籍市場調査の結果を活用したりして行われる書籍の宣伝広告合戦は、近年ますます激しさを増してきている。とりわけ売り上げが大きいベストセラーつくりのため広告宣伝費は、年を追って増大してきている。こうした出版業界における派手な広告宣伝戦は、今日先進国に共通の現象なので多言を要しないが、このような現象に対しては、立場によってさまざまな評価があることは言うまでもない。書籍市場における大衆化の波は、日本同様ドイツでも激しさを加えつつあるのだ。

書籍の価格

日本でも書籍は、いわゆる再販契約の対象商品に指定されている。これは商品の信用維持や販路統制のために、販売業者は生産者(出版業者)があらかじめ指定した卸・小売価格以下で販売しないという契約で、公正取引委員会が指定する商品に限って認められているものである。これによって書籍の定価制度が守られているものである。ドイツではこの問題を巡って19世紀いらい、長い経緯があることは、私もすでに述べてきたところである。そして1888年のクレーナー改革以来の伝統に基づき、また「取引所組合」の新たな努力の結果、第二次大戦後も書籍の定価制度は存続することとなった。

これを具体的に見ると、1957年西ドイツではカルテル法(日本の独占禁止法に相当するものが発布されたが、書籍にたいしては例外措置がみとめられ、再販商品として価格維持(定価制度)が守られたのである。

この例外措置は1973年の「競争制限排除法」でも認められた。書籍の価格維持は、ドイツの隣国オーストリアとスイスにも存在するが、スェーデンやフランスなどでは、この価格制度は撤廃された。
書籍の定価制度は、西ドイツでは、書籍販売店が定価で売ったことを立証する「返り証」を出版社に送り返すことによって、その実施が具体的に監視されていた。ただこうした業務そのものを「取引所組合」が行うことはカルテル法によって禁止されていたので、これを信託事務所に委託していた。一方、「取引所組合」の粘り強い努力によって、書籍に対する売上税は、1961年通常の4%から1・5%に引き下げられた。この税制上の特別措置は1968年に「付加価値税」が西ドイツに導入されたときも、なお維持されていた。

なお「西ドイツにおける出版界の諸相」は、次回のブログでも、紹介していく予定である。