サンクト・ペテルブルク見聞記
今回はモスクワに次いで、サンクト・ペテルブルク滞在の日々についてお伝えする。
9月5日(日)曇り後晴れ 第6日(サンクト・ペテルブルク)
サンクト・ペテルブルクの市街図
前夜23時55分モスクワ発の寝台車に乗り、朝の8時20分サンクト・ペテルブルクのモスクワ駅に到着。迎えの車で町の東部、ネヴァ川の畔にあるホテル・モスクワへ移動。チェックインして部屋に入る。すぐに昨日からの旅の汚れを風呂で洗い流す。そして衣類をいくつか洗濯する。そのあと机に向かって、昨日の日記をつける。この町は18世紀の初めにピョートル大帝によって、ロシア北西部のバルト海に面した場所に作られた都だ。
ホテル・モスクワの外観
一休みした後、ホテルの向かいにあるアレクサンドル・ネフスキー修道院を散歩する。修道院の隣にあるチフヴィン墓地には、ロシアの文学者や音楽家が多く埋葬されている。ドストエフスキー、チャイコフスキー、ボロジン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフなど、日本でも名の知られた人たちだ。
ドストエフスキーの墓
チャイコフスキーの墓
ボロジンの墓
ムソルグスキーの墓
リムスキー・コルサコフの墓
この墓地を散策した後、修道院の大寺院に入る。中の壁面にはいたる所、イコンが飾られ、壮麗な雰囲気が漂っていた。記念の土産物に、本サイズのイコンを一つ買う(150ルーブル)。
その後ホテルに戻り、寝台車で配られた弁当を食べる。食休みした後、再び外出する。ホテルの建物の端の方にあるメトロの入り口から入って、エスカレーターで深い地下へと降りていく。そして地下鉄二つ目の「ネフスキー大通り駅」で降りる。
ネフスキー大通り、観光客を乗せた馬車
そして大通りに面して建つカザン聖堂にはいる。19世紀初めの建造という堂々たる寺院だ。
カザン聖堂
次いでネフスキー大通りの突き当りにある元老院広場を散策する。その一角に、堂々たる「聖堂の騎士像」が立っている。この町の生みの親であるピョートル大帝の雄姿だ。
青銅の騎士像(ピョートル大帝)
そして大ネヴァ川の川岸通りの一軒の屋外カフェーで一休みする。対岸にはいくつか博物館が立っている。これらの建物や宮廷橋を眺めながら、ビールを飲む。次いで川岸に沿ってトロイツキー橋まで歩く。ネヴァ川の対岸に要塞がみえる。要塞見物は後にして、いまはこちら側のマルス広場を抜け、クローヴィ聖堂脇の運河に沿って、出発点のネフスキー大通りに戻る。その後地下鉄でホテルに戻り、2階のレストランで夕食をとる。一階の食堂では団体客がいくつか円卓を囲んで会食をしている。そこでは楽団が時折演奏をしている。
9月6日(月)快晴 第7日(サンクト・ペテルブルク)
8時起床。朝食。その後部屋に戻り、昨日の日記をつける。9時半ごろ外出。メトロに乗り、一つ目の「ヴァスターニャ駅」で降りる。そして昨日の朝着いたモスクワ駅の構内に入り、改めて見て回る。次いでネフスキー大通りを西に進み、100番地の観光ツアーの出発点を捜したが、見つからず。やむなく通りを先に進み、エカテリーナ女帝像の立つアレキサンドリヤ広場で立ち止まる。この女帝はドイツ北部の領主の娘であったが、18世紀半ば、結婚したロシア皇帝を追い出して女帝になった人物なのだ。啓蒙主義を信奉し、西欧の先進文化を積極的に導入したが、その反面ポーランド分割に加わり領土を奪いとるなど、冷厳な側面ももっていた。
エカテリーナ女帝像
次いでトヴォールという名前のデパートに入る。また51番地の民芸品店で土産物の目星を付ける。次いで大通りを渡り、プーシキン像を見てから、その奥にある「ロシア博物館」に入る。とても立派な建物だ。まず13世紀ごろから15・6世紀のロシアの古い宗教画を見る。次いで18~19世紀の新しい絵画を見る。
2時半ごろ博物館を出て、近くの店で軽食をとる。その後運河にかかるアニーチコフ橋の畔から遊覧船に乗る。サンクト・ペテルブルクには、ネヴァ川にそそぐ形で何本もの運河が縦横無尽に通っている。そのため「北のヴェネチア」とも呼ばれているほどの「水の都」なのだ。私の乗った遊覧船は、フォンタンカ運河、モイカ運河と進み、ネヴァ川に出て、再び運河の元の発着点に着くのだ。その間ロシア語のガイドがしゃべり続けていた。
スパース・ナ・クラヴィー聖堂脇の運河
スパース・ナ・クラヴィー聖堂(壁面のモザイク画に注目!)
遊覧船が運河から大ネヴァ川に出たところ
遊覧船を降りてから、再びネフスキー大通りを進んで、とある土産物店に入る。そこで私の趣味のチェスの駒を捜す。いろいろ見てから鉛製の重厚な駒が見つかる。ロシア軍兵士とトルコ軍兵士が対戦するものだ。272ドルと値段は高いが、ロシア土産としては最高のものだ。その後公園の片隅のベンチの上で対局している人の姿を偶然見かけた。ロシアでは、学校の授業にもチェスがあるほどで、大のチェス好きの国民なのだ。ある時期にはチェスの世界チャンピオンやグランドマスターを輩出していたのだ。
公園のベンチでチェスの対局
その後、「ホテル・ヨーロッパ」の付属のレストラン「サトコ」で食事をして、8時過ぎホテルに戻った。
9月7日(火)快晴 第8日(サンクト・ペテルブルク)
8時ごろ起床。朝食後、今日の計画を立てる。そして旅券をホテルの受付で返してもらってから、ホテル内の劇場サービス係りのところで、相談する。その結果、今晩8時から始まる「エルミタージュ劇場」でのバレー公演と明日の夜の同じ劇場でのショーの切符を購入した。
エルミタージュ国立美術館
いったん部屋に戻り仕度を整えてから、地下鉄で市の中心部へ移動。そして徒歩で、ネヴァ川ほとりに立つ「エルミタージュ国立美術館」へ向かう。広々とした宮殿広場を突っ切り、川岸通りの入り口から入る。入場料は、外国人は250ルーブル、ロシア人は15ルーブルとなっている。ずいぶん大きな格差だが、仕方ない。案内書を手に、まず1階を見て回る。エジプト、ギリシア、ローマの彫像などが所狭しと展示してある。次いで2階に上がると、イタリア、スペイン、オランダなど西ヨーロッパの絵画が展示されている。日本語を含めて、英語、独語、仏語などのガイドに案内された観光客でいっぱいだ。ドイツとロシアの絵画を見てから、1階に降り、軽食をとる。元気を回復してから、3階に上がり19・20世紀のフランス絵画を見る。さいごに東洋美術の展示を見る。日本の美術品では、「根付(ねつけ」が目立っていた。これは煙草入れなどの紐の端につけて帯にはさみ、落ちないようにする細工物だが、欧米などでは美術品として高く評価されているのだ。東洋部門では、そのほか中国とインドの美術品が展示されている。結局この美術館には、10時40分から15時40分まで滞在していた。
さすがに疲れたが、強い西日の中をホテルへ戻り、風呂に入って元気を回復する。そして18時、再びホテルを出て、メトロで中心街へ向かう。腹がすいていたので偶然入った店が、案内書にも出ていた「文学カフェ」であることに気づく。この幸運に気分を良くして、そこのロシア料理を満喫した。20時過ぎ、エルミタージュ劇場に入る。小さな劇場だが、館内は豪華だ。中身はいくつかのバレーのさわりを、続けて見せるものだ。主として外国人向けの出し物と見えて、日本人の姿も多かった。とにかく肩の凝らない楽しい見世物だ。
9月8日(水)快晴 第9日(サンクト・ペテルブルク)
7時過ぎ起床。8時朝食。10時前ホテルを出て、メトロに乗り二つ目で乗り換え。「ゴーリカフスカヤ駅」で下車。そこはネヴァ川の向こう側で、眼前にモスクが聳えている。その建物は無視して、「ピョートル小屋博物館」へ歩いていく。そこは宮殿が完成するまでピョートル大帝が住んでいたという小さな家だ。
ピョートル小屋(小屋の外側をレンガ造りの建物が覆っている)
ピョートル大帝の書斎を窓越しに見た所
ピョートル大帝の書斎(机上のパイプは大帝が使用していたもの)
書斎の内部(ひじ掛け椅子は大帝自ら作ったもの)
大帝は若い時、ドイツ、オランダ、イギリスなど西欧の国々を見て回り、先進文化や、とりわけ造船、建築、都市計画、工芸など、物作りを自ら習得していた。小屋の中に展示されている、肘掛け椅子などは、自ら作ったものだ。
巡洋艦オーロラ号(ロシア革命の始まりを告げて冬宮殿に発砲したという)
次いでピョートル大帝の小屋近くのネヴァ川に停泊している「巡洋艦オーロラ号」に乗り込む。この船は由緒あるもので、1905年の日本海海戦に加わり、また1917年のロシア革命のとき、この地でその口火を切ったともいわれている。
巡洋艦オーロラ号の船内で
入場料は無料で、上甲板に上がると、英語を話す水平に呼び止められ、操縦室に案内された。いろいろ説明を受けた後、オーロラの名前入りの水平帽(ソ連のマーク入り)を25ドルで買わされた。高いとは思ったが、記念になると思って買ったのだ。
次いで川岸に沿って戻り、橋を渡り、「ペトロパウロフスク要塞」に入る。ただその中心に立つ聖堂は、水曜のため入れず、明日再び訪れることにする。そして小ネヴァ川にかかる「旧取引所橋」を渡り、ヴァシリエフスキー島に入る。
ヴァシリエフスキー島上のスフィンクス
ロストラの灯台柱
(ピンク色の柱が目立っている。小船が柱を貫いている奇妙な造形物だ)
その島の岬の灯台下の野外スナックで、軽食をとる。その灯台は「ロストラの灯台柱」と呼ばれているが、ロストラとは船首の意味だそうで、1810年建造だ。次いで近くにある海軍博物館と民族学博物館を見て回る。この町と海とのつながりが興味深い。ピョートル大帝がこの町を作ってから300年の歴史だ。ロシアの近代史は、このサンクト・ペテルブルクと切っても切れない縁があるのだ。川岸を西へと進み、シュミット中尉橋を渡る。この先はやがてフィンランド湾になっているのだ。フィンランドの首都ヘルシンキは、ここからさほど離れていない。ニコライ聖堂をのぞいてから、サドーヴァヤ通りを経て、ネフスキー通りに出る。そこから地下鉄に乗りホテルに戻る。Mから2通、ファックスが届いている。リトアニアで日本人が暴行されたことが書かれている。
9月9日(木)快晴 第10日(サンクト・ペテルブルク、夜遅くタリンへ)
朝食後、M宛に詳しいロシアだよりをFax で送る。詳しい内容を伝えるには、電話よりも文章の方が良い。
その後、荷物をトランクに詰め込むのに一苦労する。土産物が増えてしまったからだ。その苦労を何とかしのいで、荷物を地下のクロークに預けて、午前11時ごろホテルを出る。昨日と同じメトロの経路をたどって、ペトロパウロフスク要塞に入る。
ペトロパウロフスク要塞の外壁(手前に大ネヴァ川)
要塞に入る橋の上を行く観光客
橋を渡って、中心部に立っている大聖堂に入る手前に、イヴァノフ門がある。もう一つのペトロフ門とともに、壮麗なたたずまいを見せている。
イヴァノフ門
ペトロフ門(壁面に双頭の鷲とレリーフ)
門をくぐって大聖堂の中に入る。その内部は豪華なシャンデリアと大理石の柱が印象的だ。
大聖堂の内部
そしてそこにはピョートル大帝以降の歴代ロシア皇帝の棺が並べてあり、壮観だ。別の一角には最後の皇帝ニコライ二世の棺がある。私が訪ねた前年の1998年に設置されたという。この皇帝は1917年の革命で命を落としている。
歴代皇帝の棺
その後付属の施設も見て歩いたが、ある場所から城壁の外に出る。川までの間は砂浜になっているが、そこからの眺望は抜群だ。
要塞の外壁とその手前の砂浜
壮麗な大聖堂の内部とは対照的な荒々しい光景だが、要塞内部にはかつて監獄があって、囚人が入れられていたという。
川向こうの要塞見物を終えてから、再びトロイツキー橋を渡ってこちら側に戻り、広々とした夏の庭園を散歩する。
夏の庭園。
広い散歩道の両側に白い彫像
その後元老院広場の近くにあるイサク聖堂へ急ぐ。午後5時前に到着し、まずは螺旋(らせん)階段を上って塔の上に出る。とても良い眺めだ。
イサク聖堂展望台からの眺め
次いでらせん階段を降り、改めて正面入り口から聖堂の内部に入る。入場料は200ルーブルと高い。聖書に基づいた数多くの壁画があるが、19世紀前半の新しいものだという。とはいえ建物は世界で3番目に大きな聖堂で、19世紀前半に建造されている。
対岸から見たイサク聖堂
すでに日も暮れてきたので、午後8時、ホテルに戻る。そしてロビーで絵葉書に3通、便りを書く。9時半に迎えの車で市の南西部のワルシャワ駅へ移動する。うら寂しい雰囲気に包まれた駅で、薄暗いプラットフォームに停車している寝台車に乗り込む。二段式ベッドの下の部分が私の指定席になっている。列車は西隣のエストニアの首都タリン行きだ。
10時25分に、列車は静かに動き出す。こちらは昼間いろいろ動き回って疲れていたので、11時ごろ就寝。そして突然激しくドアをたたく音で、起こされる。腕時計を見ると午前2時になっている。エストニアとの国境に着いたらしく、ロシア側の出国審査が始まったのだ。その審査は厳しく、まず持ち物をすべてあけるよう言われ、中のものを念入りに調べられる。こちらは寝ぼけ眼で対応せざるを得なかったが、荷物検査は無事に終わり、やれやれと思っていたら、再びドアをたたく音。今度はいきなり大きな猛犬が入り込んできて、こちらの体や荷物の周辺を嗅ぎまわってから、出ていった。薬物などの検査だったらしい。その後しばらくして3回目の検査となった。今度は二人の係員による現金の申告書の検査で、まず出国時の現金申告書を見せた後、入国時に渡されたはずの申告書を見せろという。それをどこかへ紛失したというと、急に態度が厳しくなり、その書類がなければ、出国を許さないという。しばらく押し問答をした後、手持ちの現金の1割を出せば許してやるという。結局手持ちのドルとマルクの1割をとられて、決着した。その金はきっと係員が着服したのだと、思った。
エストニア側の入国審査は問題なく、列車は再び動き出したが、このハプニングでもう眠ることはできなかった。5日間のサンクト・ペテルブルク滞在は、楽しいものであったが、最後の出国時のいやな体験が、後味の悪い思い出として残ることになった。
(次回の1999年ロシア・バルト三国の旅はその3回目で、バルト三国の北の国エストニアと真ん中の国ラトヴィアの見聞記をお伝えします)