はじめに
5月19日(火)から22日(金)まで、長崎県北部の平戸(ひらど)へ旅行した。平戸は大航海時代の1550年ポルトガル船が入港し、また同時期にイエズス会の宣教師ザビエルが訪れてキリスト教をもたらすなど、日本が恒常的に西洋と交流を始めた場所であった。それ以来1640年ごろの鎖国までの90年間は、西洋との貿易やキリスト教(キリシタン)布教などで平戸が最も輝いた時代でもあった。ちなみに2018年7月に、平戸にある2つの遺産が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録されている。
私はこれまで長崎へは何度も行っていたが、海外貿易の先駆者であった平戸は、以前から一度は訪ねたい所であった。それが今回実現したわけであるが、わずか3泊4日の旅で、その歴史遺産のごくわずかに触れたにすぎなかった。それでも私にとっては、いろいろな意味で思い出に残る旅にはなった。
5月19日(火)晴れ 一日目
羽田空港8時45分発の航空機に乗り、10時35分ほぼ定刻に福岡空港に到着。すぐに地下鉄空港線で博多駅へ移動した。平日の午前中とはいえ、博多駅構内とその周辺は大勢の人々で、ごった返していた。そうした雑踏と強い日差しの中、ようやくのことで駅近くのHEARTSバスステーション博多にたどり着いた。そして間もなくやってきた「さつき観光平戸線」のマイクロバスに乗りこむ。乗客は5,6人。大型連休の時は満員だったという。このバスは2時間半で、平戸市の中心部にある平戸桟橋に着くという。博多からはほかに、鉄道で佐世保まで行き、松浦鉄道に乗り換えて田平平戸口まで行き、その後バスかタクシーで平戸桟橋に行く手段もあるが、こちらは乗り換えが面倒だ。

九州北西部の地図
バスは定刻の11時40分に発車。博多市内を出てからは、おおむね玄界灘に沿うようにして、九州の北部福岡県から、佐賀県を抜けて長崎県に入っていく。平戸の中心部まで2時間半だが、途中のおもな都市としては、唐津市、伊万里市、松浦市などで、最後に平戸大橋を渡って、平戸市の中心部にある平戸桟橋まで行くのだ。そのルートの途中、トイレ休憩のため、おおきなコンビニ前で駐車した。

さつき観光平戸線のHighwayバス
バスの運転手は中年のベテラン男性で、運転は危なげなく、あまり余計なことは言わない。こちらとしては、初めてのルートで窓外の景色を十分楽しむことができた。やがてバスは平戸島との間にかかる平戸大橋を渡り、目的地の平戸桟橋に到着した。
平戸市中心部の地図
この桟橋は平戸港の奥の方に位置し、1550年にポルトガル船が初めて入港した所だという。そのため近くにその入港記念碑が立っている。今は、観光案内所があり、この辺りは平戸観光の原点なのだ。 私はバスを降りて辺りを見渡した。すると向かいの高台のうえに、予約したホテルの「旗松亭(きしょうてい)」の看板が目に入った。昔松の木の下に旗を結わえて眼下を往来する船の入港、出港の合図にした場所に、ホテルが建てられたのだそうだ。ただその高台の上のホテルに、どのようにしてたどり着くのか、しばし考えた。そしてどこかに上り坂があるだろうと、あてずっぽうに下の古い町並みを歩き出した。そしてすれ違った通行人に尋ねたが、この町の者ではないので、わからないとのこと。通りには古い店はあるのだが、まるで人けがない。 しばし途方に暮れていたが、やがて高台へと通じていると思われた石段に、「オランダ塀」という表示が見えたので、その説明を読んでいた。すると一人の中高年の男性が通りがかったので、この石段はホテルに通じているか、と尋ねた。男性は「そうだ」と答えて、親切にもこちらのバッグを持ってくれて、曲がりくねった長い石段を足早にどんどん先へ進んでいった。87歳の私はその後ろをフーフー言いながらついて行き、何とかホテルの前にたどり着いた。この男性は72歳だが、健康のために毎日この辺りを歩き回っているのだという。別れ際に丁重に感謝の言葉を伝えたが、男性は会釈して離れていった。旅の始まりにこの人に会えて、幸先のよさを感じた。
私たちが登っていった石段の坂道の片側に続いていたのがオランダ塀なのだが、私が先ほど読んだ説明によると、むかしこの塀の向こう側にオランダ商館ゆかりの建物が建っていたのだそうだ。
さて男性と別れてホテルのフロントに入っていった。そしてまず係の人に、苦労して石段を登ってきたことを伝えた。すると普通の宿泊客は、桟橋の近くの観光案内所から出ている送迎バスかタクシーに乗ってくるか、あるいはマイカーでかなり先の舗装道路を通ってホテルに来るのだという。自分としては苦労したが、面白い体験もしたし、今後もホテルと下の古い町との間の短縮されたルートとして、使っていくことにした。
それはともかく広々とした本館ロビーの受付でチェックインしてから、連絡通路を通って隣の建物の9階にある客室「船泊」にはいった。電話で予約したときの説明通り、その客室からは眼下に平戸港、向かい側の丘の上に平戸城の天守閣、そして遠くに先ほどバスで渡った平戸大橋が見えるという「眺めの良い部屋」であった。大型連休や盆休みあるいは正月休みなど、人が利用する定番の時期ではないオフシーズンだったので、この部屋が取れたのであろう。

部屋からの平戸港の眺め
一休みした後、まだ明るい午後の日差しの中、散歩がてらホテルから一番近くにある博物館「平戸オランダ商館」を目指して、ホテルを出た。すると玄関のわきに「昭和天皇およびほかの皇族方のご宿泊記念碑」というものを見かけた。これだけ大勢の皇族方がこのホテルに泊まるわけは何かと考えた。その時思いついたのは、平戸の歴代の藩主の最後に当たるのか、幕末時に松浦(まつら)家の藩主の息女が時の孝明天皇に侍し、明治天皇を生んだという史実であった。これは私の推測であるが、ホテルとしては、宣伝もかねて天皇陛下やその他の皇族方のご宿泊所という事を強調しているのだろう。私としては事前にこうしたことは知らずに、このホテルの立地の良さを考えて予約したのだが。

昭和天皇他皇族方の宿泊記念碑
さてホテルを離れ、再び先ほどの石段を今度は下りて。下の道路に出た。そして平戸湾に面した場所に建っている平戸オランダ商館に入る。


平戸オランダ商館(復元)の正面中央部分(A)
平戸オランダ商館(復元)の正面全体(B)
この写真は建物の正面を写したものであるが、2011年に復元された建築物で、もともとは平戸オランダ商館の倉庫だという。いまでは4世紀の時を経てよみがえった大航海時代の建造物である。当時の平戸藩主松浦(まつら)隆信はオランダとの交易を歓迎して、商館建設の許可を与えたという。それは1609年のことであったが、やがて貿易額が増加して、石造の倉庫が建設されることになった。その中で最大のものが1639年築造のものであった。しかしこの倉庫は西暦年号を建物に使用していることを理由に、江戸幕府から破壊を命じられた。
この命令は、鎖国令の時代に出されたいわば言いがかりであるが、上の写真(A)の上部にアルファベットを組み合わせた文字の両側に1639という年号が見える。アルファベットのVとOCを組み合わせた記号は「連合オランダ東インド会社」の頭文字である。これは1602年、特権的商人団によって設立された会社であった。香辛料貿易を独占し、ジャワをはじめとするオランダの東インド経営推進の中心となった。
先の幕府の破壊命令に続いて、オランダ商館は1641年に長崎の出島に移転させられたわけである。日本の鎖国の始まりの時期である。
さて復元された平戸オランダ商館の建物は、現在博物館として利用されている。その展示は主として平戸とオランダの交易の歴史を伝えるものとなっている。たとえば平戸藩主松浦家に伝来したヨーロッパ風の南蛮甲冑や桃山時代に欧州で大変人気を博した南蛮漆器あるいは1600年に日本に漂着したオランダ船リーフデ号の模型。さらにオランダ船の船首飾木像と伝えられるものなどである。そして注目すべきものは、初代及び第三代の平戸オランダ商館長ジャック・スペックスの肖像画である。この人物は極めて困難な初期の日蘭交流の推進に努力したと言われる。彼は後にジャワ島のバタヴィア(今日のジャカルタ)にあった東アジア全体を統括する東インド総督を務め、イギリスなどとのし烈な競争でオランダを有利な方向に導いた人物であった。
またこの博物館では、平戸オランダ商館の建設を許可した松浦家28代藩主の隆信(宗陽)の功績を紹介する特別展も、この時開かれていた。隆信は父が早世したため、1603年に12歳の若さで藩主となった。そしてその時代、オランダ、イギリスの船が相次いで来航し、彼は海外貿易を積極的に推進していった。そのため平戸はこの頃「西のみやこ」と称されるほど、もっとも繁栄した時を迎えていた。ちなみに平戸オランダ商館長はこの松浦隆信と緊密な交流を続けたと言われる。
そうした展示の数々に私は夢中になっていたが、5時半の閉館に伴い、後ろ髪をひかれるようにして博物館を出た。その時、昼間の好天が嘘のように、小雨が降りだしていた。そのため周辺のオランダ公園、オランダ井戸、オランダ埠頭などは、大急ぎで見て回ることになった。そうして再び「オランダ塀」の手前の石段を急いで駆け上って、ホテルに戻った。
そして部屋に入って、約1時間ほど、昼間のほぼ休みのない活動によって生じた疲れを癒した。午後7時、6階の連絡通路を渡り、本館4階に着き、さらに渡り廊下を通って「浪漫亭」4階のお食事処「美湾」に入る。そして窓際の席に座る。あたかも夕暮れ時で、海越しの遠くの丘の中腹辺りに灯火(ともしび)がいくつも見えて、幻想的な風景だ。広い部屋にほかには二組の客がいるだけだ。途中見かけた団体客は、別のホールで食事をしているという。そのため話し声などは一切聞こえてこない。給仕の女性が運んでくるのは、平戸特産のあご(トビウオ)や天然ヒラメ、平戸牛などがメインだ。そのほか食べきれないぐらいの料理を、生ビールや日本酒を飲みながら、時間をかけてゆっくり堪能していく。
地元の言葉で、「じげもん、うまかもん」というのだそうだ。
こうして平戸の旅の一日目は終わった。
5月20日(水)晴れ 2日目
午前6時半起床。8時本館3階の「牡丹」の間へ。ここは宴会場も兼ねている広いホールだ。客はまばら。バイキング形式の朝食。各種鮮魚類、肉類、サラダ、果物、ごはん、みそ汁そして最後にコーヒーを飲む。今日もいろいろ見て歩くので、やはり腹ごしらえは必要だ。
昨夕の小雨もやんでいて、今朝は快晴の青空。9時リュックを背負って、ホテルを出る。今日はホテルの人から教わった車も通れる緩やかなう回路の坂道を、明るい気分で降りていく。やがて海ぞいの道に出て、昨日立ち寄ったオランダ商館の前を通り過ぎる。そして平戸桟橋の先にある平戸港交流広場に着く。そこは駐車場になっていて、たくさんの車がとまっている。その中をかき分けるようにして、進んでいくと、道路わきにこちらを向いて銅像が立っている。脇に書いてある説明によると、その人物は鄭成功(ていせいこう)だという。中国人の父親と日本人の母親の間に平戸で生まれ、のちに父親に呼ばれて大陸に渡り、清(しん)に滅ぼされたばかりの明(みん)を再興すべく戦った英雄なのだ。またこの人物は17世紀初めに占領されていた台湾をオランダの手から取り戻したことでも知られている。さらに江戸時代に、近松門左衛門によって作られた「国姓爺(こくせんや)合戦」を通じて、当時の日本人に知られていたのだ。彼が生まれた場所は、平戸島の少し南東にあり、現在鄭成功記念館が建っていて、明日訪ねるので、詳しくはその時紹介することにする。

鄭成功の銅像
さて広場の中のすこし先に若い娘の銅像が立っていた。それは「ジャガタラ娘像」だという。そしてその横に説明書きがあったので、つぎに紹介しよう。
「17世紀初頭、平戸にオランダ商館、イギリス商館が設置され、三浦按針(ウイリアム・アダムズ)をはじめ多数の外国人が往来し、繁栄を極めた。
しかし幕府の鎖国政策とキリシタン弾圧は、島原の乱の1637(寛永14)年以降、ますます激しくなり、1639(寛永16)年、平戸、長崎の外国人に関係のある婦女子32名がジャガタラに追放された。そして平戸から出航した彼女たちは二度と日本に帰れなかったのである。
この像は、ジャガタラより望郷の念をジャガタラ文に託した娘の姿をしのび、1965(昭和40)年に建立した。
平戸市」
少し補足すると、ここに出ているジャガタラという地名は現在のインドネシアのジャカルタのことである。当時この場所はオランダの東アジア支配の拠点であった。そして「ジャガタラ」に追放された婦女子のことを「ジャガタラ娘」と呼んでいたのだ。はじめ彼女たちには文通は禁じられていたが、1660年代になって許され、送った手紙が「ジャガタラ文」である。この手紙を、私は昨日訪れた平戸オランダ商館(博物館)の展示物として見たばかりである。

ジャガタラ娘像
それから余談になるが、ジャガタラ娘の一人である「ジャガタラお春」を題材にした歌謡曲「長崎物語」が戦前の1939(昭和14)年に公開された。この曲は戦後になっても懐かしのメロディーとして、しばしばラジオなどで流され、私も何度か聞いたことがある。たしか「赤い花なら曼殊沙華(まんじゅしゃげ)、オランダ屋敷に雨が降る、濡れて泣いてるジャガタラお春、未練の汽笛が、ああー・・・」といった歌詞だったと思う。
こんな曲が戦前のこの時期に作られて、流行したのは、南洋へと拡張していた当時の日本の軍国主義の風潮に関連しているのではないかと、私は思っているのだが。
ところで平戸港交流広場には、「ジャガタラ娘像」の隣に、時代としてはずっと古い「ポルトガル船入港碑」が立っていた。船の模型が石の土台の上に置かれ、その下に次のような説明が書かれていた。
「一五五0年ポルトガル船平戸入港四五O周年を記念して平戸市民が前マカオ総督ヴァスコ・ロシァ・ヴァエイラ将軍の協力を得て建立す
平成十三年春
松浦四十一世 章」

ポルトガル船入港碑の模型
さらにその隣に「ポルトガル船入港」という記念板があり、そこには次のように書かれている。
「1550(天文19)年に来航したポルトガル船は、1564(永禄7)年長崎福田港を寄港地とするまでの間、ほぼ毎年平戸に来航していた。ここ入港比定地は、1561(永禄4)年宮の前事件と呼ばれる、ポルトガル船員と平戸住民との間に起こった紛争事件の現場でもある。
平戸市」
そしてこの宮の前事件については、この交流広場に立つポルトガル船入港碑からほど遠くない通りに、詳しい説明文を書いた記念板が張ってあった。
「ポルトガル船来航のころ、この付近は波打ち際の浅瀬で、陸側の広場では商品の取引が行われていた。
1561年、些細(ささい)な行き違いから、ポルトガル船員の多くの死傷者を出す事件が発生した。この地が当時平戸の氏神「七郎宮」の前であったことから、<宮の前事件>と呼ばれている。
平戸英国商館設置400周年記念事業」
またこの宮の前事件の場所から少し離れ、古い通りから引っ込んだ場所に、次のような内容の銘板が見られた。

「ポルトガル船来航」の表示
「1550年、王直の手引きによりポルトガル船来航の時領主松浦隆信は一行を歓迎し、貿易とその条件であるキリスト教の布教を認めた。貿易の拠点が大村領福田港に移る1565年までの間に13隻の商船が来航し、貿易港平戸は大いに賑わったとされる。
平戸英国商館設置400周年記念事業」
ここに出てくる王直(~1559)という人物は、当時南シナ海から東シナ海にかけて海賊のような貿易活動をしていた。そのため後期倭寇を代表する中国系海賊のリーダーだと言われている。平戸との縁は深く、市内に「王直屋敷・天門寺跡」とう史跡がある。
いっぽう「ポルトガル船来航」の銘板のすぐ近くに、司馬遼太郎の『韃靼(だったん)疾風録』からの引用の言葉が銘板のなかに書かれていた。
「平戸はほとんどが山坂である。
宮ノ前とよばれるわずかな平地ばかりは石垣を組みあげ、土で嵩(かさ)あげされ、石畳でかためられて、ポルトガルの港市でいうところの取引広場(コメルシオ)になっていて、笹の葉で編んだ帆の福建船も、アンペラ帆の浙江船も、あるいは綿布の帆をもつ南蛮・紅毛の船も、ここに横付けされる。
司馬遼太郎の韃靼疾風録より」

司馬遼太郎の『韃靼疾風録』からの引用の言葉
私は平戸旅行の少し前、偶然この小説を、神保町の古本屋で手にした。そしてぱらぱらとめくり、冒頭に平戸という文字をみて、すぐに買って読み始めた。中公文庫上・下巻の長編だが、上巻の16ページにこの引用の言葉が書かれているのだ。物語は長いので、とても要約は出来ないが、ざっと次のようになる。主人公の庄助は平戸の下級役人の息子で、偶然平戸島に漂着した娘と知り合った。彼女は清(しん)朝の太祖ヌルハチ(1559~1626)の数ある息子たちの一人の娘であったのだ。そしていわば平戸藩主の命令で、庄助はこのお姫様を故郷の満州・女真の地に送り届けることになる。清朝は中国東北地方からおこった女真族の王朝であったが、庄助はあまり予備知識なしにその地に入り込むことになる。そして物語ではその後の波乱万丈の半生が描かれてるのだ。
司馬遼太郎はその際、この女真(満州)の人々のことを韃靼人と呼んでいるのだ。ちなみに主人公の庄助は、明朝末期,清朝が誕生する激動の時代をこの地で過ごしたのだが、中国南部に旅行した時、平戸出身の若き日の鄭成功に一度だけ出会っているのだ。
また余談になるが、韃靼という言葉から、19世紀のロシアの作曲家ムソルグスキーが作曲した「展覧会の絵」の中の『韃靼人の踊り』を思い出した。韃靼という言葉はタタールを中国語に音訳したものだそうだ。そしてタタールは、13,14世紀のモンゴル帝国のいわば遺産のように、占領されたロシアからヨーロッパにかけて広まった概念のようだ。その意味で極めて漠然としたものらしい。さらに世界史の世界では、「タタールのくびき」という言葉がしられている。「これはロシア(キエフ公国)が、モンゴルのきびしい支配下におかれたことを意味する表現。ロシアの発展が遅れた原因とされる」(世界史B用語集、山川出版社、2004年発行)。
司馬遼太郎の小説のことはこれぐらいにして、この後私は坂道を登って、平戸ザビエル記念教会を目指した。その途中、瑞雲寺と光明寺という仏教寺院があり、これら寺院に重なるようにして、記念教会の尖塔が見えた。この場所はたしかに写真を撮るのに適していて、旅行案内書などには「寺院と教会の見える風景」として大いに紹介されている。そのせいもあってか、坂道の途中にさしかかると、10人ほどの日本人グループが、ガイドの説明をきくために集まっていた。

寺院と教会の見える風景
次いでこの坂道を登り切って右折したところに、平戸ザビエル記念教会があった。山の中腹に建っているので、下からの眺めが抜群だ。次の写真はこの教会の手前にある聖母マリア像などを前景にしたものだ。

平戸ザビエル記念教会の外観(手前に聖母マリア像)
ここで聖母マリア像について説明すると、南フランスのピレネー山脈の山麓にあるルルドという名もないところに住んでいた少女ベルナレッタに1858年、聖母マリアが現れたという。この年の2月11日から4月7日まで合計18回にわたって出現したという。「ルルドの奇跡」と呼ばれるものだが、その後この地は、全世界から多くの信徒が訪れているという。そのことが日本にも影響を与えて、カトリックの盛んなところでは、聖母マリアを再現しているようだ。
さてこの平戸ザビエル記念教会は1931(昭和6)年に建設された教会だという。モスグリーンと白色の取り合わせが、すがすがしい印象を与えている。周囲の景色や遠景を十分に堪能してから、教会の内部に入っていった。ほかには誰もいない。

記念教会の内部
教会の内部は奥にずっと伸びているが、入り口の少し先にロープが張ってあって、中の方には入っていけない。この写真に写っている前方左手の人物は、もちろん本物の人間ではなくて、ザビエルの姿を再現したものだ。献堂40周年を記念して作られたものだという。また入り口左手に、いろいろと絵ハガキや記念品が売られていた。私はその品々を記念に買って、料金をボックスに入れた。
教会を出ると、二、三人がやってきて、遠くの景色を見たりして、話をしていた。私は先ほどの道を、今度は下りていき、正宗寺の横を通り過ぎて、16世紀の藩主松浦隆信(宗陽)の墓の前に来た。その墓を拝んでから、曲がりくねった道を降りていった。
そして再び平地に出て、古い町並みが続く「歴史の道」を歩いた。その一角に「平戸イギリス商館の主な輸入品」と題した銘板が目に入った。そこには次のように書かれていた。
「生糸・毛織物、毛皮をはじめいろいろな商品が輸入され、高額な価格の中国の生糸、絹織物、インドの絹、木綿、麻織物、羅紗、毛織物、鮫皮等の比較類、磁器、ガラス器、南洋の丁子、胡椒、砂糖、象牙、水牛、伽羅、酒類、薬品、ほかにオウムなどの動物も持ち込まれた。
日本からは金、銀、銅の地金、陶器、屏風、米、麦ほかが輸出された
平戸英国商館400周年事業 平戸ロータリークラブ」

平戸イギリス商館の主な輸入品
この辺りには平戸イギリス商館に関係する史跡や記念館がたくさん残っている。たとえばイギリス商館跡、三浦按針(あんじん)終焉の地、按針の館、イギリス商館記念碑などである。三浦按針といえばウイリアム・アダムズ(1564~1620)の日本名である。この人物は最初に日本に渡来したイギリス人で、世界史の教科書にも載っている有名人だ。彼は1598年、5隻から成るオランダの東洋探検船隊に 乗り組んだが、彼が水先案内したリーフデ号だけが1600年に、現在の大分県の地に漂着した。その知らせを知った徳川家康は彼を大阪城で接見し、江戸日本橋に屋敷を与えた。そして家康の外交顧問として厚遇した。アダムズは17世紀初頭から日本貿易に参加したオランダ、イギリス両国のために尽力した。そして平戸にイギリス商館が設けられると、その館員となり、安南、シャムに渡航したり、貿易に従事したりしたが、1620年に平戸で死んだ。そのため三浦按針終焉の地という史跡が遺されているわけである。
次いで私は幸橋(オランダ橋)を渡って平戸城を目指した。この橋は1702年に築造された石の橋だが、オランダ商館建造に携わった石工が架橋技術を伝えたと言われる。

幸橋(オランダ橋)
この橋を渡ったすぐ右手に「イギリス商館記念碑」が立っていた。

イギリス商館記念碑
そしてその隣に次のような説明が、日本文と英文によって記されていた。
「1927(昭和2)年、『英国商館遺址之碑』は英国商館が平戸の地に設置されたことや、日本と英国の友好の扉を開いた関係者をしのび、その大いなる功績をたたえるため、英国商館が設置されていただろう対岸のこの地に建立されたものです。また、記念碑は日本在住の英国商人を中心に寄せられた寄付により建立され、同年5月29日駐日英国大使による『英国商館遺址之碑除幕式』が、多くの来賓の出席のもと、盛大に挙行されました。
(以下省略)
2013年10月26日 平戸市、平戸英国商館設置400周年記念事業実行委員会」
この記念碑を見てから、すぐ隣にある平戸市役所に入った。その一階では職員が仕事をしていた。私は特に用事はなかったが、ちょうどお腹がすいていたので、地下室への階段を下りて、食堂に入った。職員でなくても食べられると言うので、疲れをとることも兼ねて、食堂椅子に座り、カレーライスを食べた。
こうして元気を取り戻してから、再び歩き出した。今度の行き先は、山道を少し上った所にある真言宗の最教寺である。この寺は、弘法大師空海が唐から帰国した際に立ち寄り、護摩をたいたと伝えられている。そしてその霊宝館では海外貿易全盛期に当時の藩主たちが寄進した美術品が展示されているというので、ぜひ見たいと思ったのだ。しかしあいにく閉館中だったので、それら藩主の松浦隆信(道可)及び鎮信(法印)の墓を拝んだ。そして鮮やかな朱色の三重塔を見た。
それらを一通り見てから、大通りを渡って、再び平戸市役所のわきに戻ってきた。そして反対側の道をぐるりと回るようにして、平戸城への登り口にやってきた。そこから見ると平戸港をはさんで反対側の桟橋近くに船の往来が見え、さらに白亜の平戸オランダ商館が見事なたたずまいを見せていた。
その地点から平戸城へ登る山道が続いていて、数人の人々が上がっていった。私もその後をついて山道を登り、ようやくのことで天守閣前の広場にたどり着いた。そこには一軒の茶屋があって、席に座った人々がアイスキャンディーをしゃぶりながら、雑談していた。私もそのグループに入り、腰をおろした。聞けば男2人、女3人の中年のグループで、長野県の松本から大型の車でやってきたという。5人で動けば、航空機の運賃にせよ、鉄道運賃にせよかなり費用がかさむので、節約したそうだ。
こうして一休みしてから、このグループに別れを告げ、一人で天守閣へ登っていった。その入り口で料金を払って入手した案内のしおりには、次のように書かれていた。「江戸幕府の初期、松浦家二十六代の鎮信(しげのぶ)は、この地に城を建てた。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交があった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うため、せっかく建てた城を焼却して、平戸6万1700石を守った。
しかしその百年後、三十代藩主は城の再建を開始。城は1718年に完成した。そして明治6年に廃城になった。再び時は移り、昭和37年、平戸市によって城が復元され、平成の大改修を経て、今日に至った。」
この築城の経緯をざっと読んでから、木製の階段を足を踏みしめながら上がっていった。3階にはドラマチックシアター「築城物語~26代と29代の鎮信が語る」が、映像と音声で紹介されていた。そして最上階の5階の外側に出て、眼下の城の一部と平戸港を見下ろした。

平戸城天守閣から平戸港を見下ろしたもの
天守閣を降り、小さな広場にでてから、再び往路と同じ坂道と石段を下って平地に出る。そして再び幸橋を渡って、海際の道を歩いて桟橋近くに行く。そのあたりに平戸出身の作詞家 藤浦恍の歌碑が立っていた。

平戸出身の作詞家藤浦恍の「平戸のうた」
「平戸のうた
虹のつつじは「きりしま」「ひらど」 昔なつかし カピタン様の 国へたよりの 押し花が 海のむこうの ジャガタラ国の 土にこばれて咲いたげな ほんと咲いたげな
藤浦恍先生 生誕百周年記念」
テレビ初期のころ、私はクイズ番組で、頬のこけた面長のこの作詞家の姿をみたことがある。またここにも先ほど触れたジャガタラが登場している。
その後近くの焼き鳥屋で串焼きを買い、さらにコンビニでおにぎりとビールを買った。そしてオランダ塀に沿って続く石段を登って、夕方の6時ごろホテルに着いた。部屋に入ってから、汗をかいた下着を脱ぎ、ゆかたに着替えてから、11階の展望大浴場「倭寇の湯」に入る。それから再び部屋に戻って、外で買った串焼きとおにぎりとビールで夕食にする。その後はテレビ番組を見たり、ものの整理をしたり、明日の準備をしたりして、はやめにベッドに入る。
3日目は、生月島(いきつきしま)の博物館「島の館」を訪ね、明治以降この地につづいてきた「隠れキリシタン」の実態を探った。ちなみに江戸時代の禁教期に信仰を捨てなかったひとびとのことは「潜伏キリシタン」と呼んでいる。その後中国人の父と日本人の母の間に平戸で生まれた、東アジアの英雄鄭成功記念館を訪れた。ブログ後半では、この人物について、関連したさまざまなことどもをお伝えする。