ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その4

『ドイツ百科叢書』

『ドイツ百科叢書』とは何か ?

これはフリードリヒ・ニコライによって、1765年から1805年までの40年間にわたって発行された、様々な知の領域にわたる総合的な書評誌であった。言葉を変えて言えば、当時のドイツにおける学問・芸術上のあらゆる進歩発展の歩みを、啓蒙主義の視点から概観しようとした、気宇広大な試みでもあったのだ。そして同時にニコライの名を今日に至るまで不朽ならしめている巨大な業績なのである。

この書評誌『ドイツ百科叢書』(Allgemeine deutsche Bibliothek)で取り上げられた書籍の数は、実に8万冊に及ぶという。書評者はのべ433人で、大学教授、医師、教師、牧師、その他一般的な学識者であったが、皆ニコライの忠実な友人あるいは協力者であった。

当時ドイツには統一した国家がなく、こうした学識者もその広いドイツ語圏の各地に、散在して住んでいたのであった。つまりイギリスにおけるロンドンやフランスにおけるパリのような、精神文化面でも中心的な役割を演じていた首都の存在が、ドイツには欠けていたのだ。ドイツ語圏の二大領邦国家オーストリアのヴィーンも、プロイセンのベルリンも、ともにドイツ全体の政治的・経済的・文化的な中心地ではなかったのだ。それぐらい当時のドイツ語圏の領域は、イギリス、フランスに比べても広く、多様だったわけである。

この広大な国土の各地に住んでいたドイツの知識人は、お互いの意思の疎通を図るためには、まずは郵便という手段を用いていた。そのため当時、ドイツを中心とした中央ヨーロッパ地域には、郵便馬車を用いた、非常に緊密で能率の高い郵便網が整備されていたのだ。フランクフルト・アム・マインに本拠が置かれていた帝国郵便網を使って、ドイツの知識人たちは、互いに書簡その他のやり取りをして、ドイツ全体の知的・文化的水準を高めていたわけである。

こうした状況の中で、ニコライは『ドイツ百科叢書』の編集発行という仕事を通じて、知識人の「知のネットワーク」を築き上げ、そのことを通じてそうした知的交流の中心に立ったのである、そのネットワークは、部分的にはドイツ帝国の枠を越えて、ラトヴィアのリーガやロシアのサンクト・ペテルブルクにまで及んでいた。

本書評誌の外形的側面

『ドイツ百科叢書』の各号は、厚さが平均320ページ、出版部数はおよそ2500部、そして40年間に256号に達した。この書評誌はもともと季刊誌として、つまり年に4回発行されることで始まったが、やがて新刊書の洪水のような増大という事態に直面して、年に6~8回の発行になっていった。さらに後から届いたものを収録するために、補巻も必要になった。

次にこの雑誌の形状について見てみよう。この点私は、幸いなことに、この雑誌の原本(Allgemeine deutsche Bibliothek) を直接手に取って調べられる状況にあった。つまりその原本は、私がかつて勤めていた日本大学経済学部の図書館に、貴重図書として保管されていたからだ。というよりも1995年に日本大学経済学部図書館がこの書評誌のオリジナル版全135巻を購入するにあたって、私が推薦状を書いたのが縁となって、いらい私がいつでも利用できるようになったからである。

これは本巻115巻、補巻20巻,計135巻であるが、原本の全てではないものの、その大部分を含んでいる。それぞれ1巻に雑誌の2号分が収められている。そのため各巻のページ数は、ばらつきはあるものの、600~800ページといったところである。その外観は、我々が書評誌として一般に考えているものとはかなり違っている。つまり雑誌の形状ではなくて、一見したところ立派な装丁の文学全集といった感じなのである。その判型はタテ20センチ、ヨコ13センチで、ハードカヴァー製である。ただ40年間にわたって発行され続けた雑誌であるため、表紙の材質や厚さ、紙の質などは異なっている。文字は原則としてフラクトゥーア体のドイツ文字(いわゆるヒゲ文字)である。ただしラテン語や、数は少ないがフランス語で書かれた書物の表題などは、ローマン体で印刷されている。

『ドイツ百科叢書』全135巻(日本大学経済学部所蔵)

 

第1巻と第2巻の見開き

発行への直接の動機

ニコライが本書評誌を発行しようとした直接の動機は、その少し前にイギリスで創刊された書評誌から刺激を受けた事にあった。それは『マンスリー・レビュー』(
Monthly  Review    1749年創刊)と『クリティカル・レビュー』(Critical  Review  1756年創刊)であった。

これらイギリスの書評誌の性格について、ニコライの研究者で、18世紀の英独関係に詳しいドイツ人のB.ファビアンは次のように言っている。当時イギリスでは、おおむね特殊専門的な傾向を持った書評誌から、一般的な性格の文芸書評誌への移行が見られた。そしてこうした移行が可能になったのは、その読者がより幅広いテーマや対象をも受け入れる用意のできた教養ある階層に属していたからであるという。またこうした文芸書評誌の書評は、はじめのうちは作品の特徴や内容を要約したものが多かったが、やがて次第に独自の批評のスタイルが確立されていったという。

ニコライのイギリスへの傾倒

ニコライはごく若いころに独学で英語を学び、二十代のはじめに17世紀イギリスの詩人ミルトンの『失楽園』について文芸批評を書くなど、総じてイギリスの文芸に傾倒していた。18世紀半ばのドイツではなおラテン語やフランス語が、学識者や上流階級の間に幅をきかせていて、英語を学ぶことは一般には容易ではなかったという。当時英語の授業が行われていたのは、比較的少数の大学やアカデミーにおいてだけであった。こうした困難な状況の中で、苦心して習得した英語を通じてニコライは文芸作品のみならず、イギリス文化一般に強い関心を抱いて、イギリスの様々な文化や思想を習得していったのであった。

彼はまたイギリスの事情に通じるようになってからは、当時のヨーロッパ諸国の中で唯一、自由と寛容の国としてイギリスを高く評価するようになっていた。自分の国ドイツのみじめな状況に失望していた若きニコライは、その地にあこがれ留学することさえ真剣に考えたが、諸般の事情であきらめていたぐらいなのだ。こうしたイギリスへの傾倒から本書評誌が生まれたわけであるが、こうしたことを含めて、先のファビアンは、ニコライのことを「ドイツにおけるイギリスの発見者の一人」と呼んでいるのだ。

ヨーロッパにおける雑誌の発生

ここでヨーロッパにおける雑誌の発生に目を向けると、それは17世紀半ばのことであった。当時の学識者たちは、かなり多くの著者に様々なテーマの事柄について寄稿してもらい、出版社から定期的に発行して、一定の読者層を確保することにメリットを感じていたという。こうした考えに基づいて、1665年にロンドンで
<Philosophical Transactions>, 次いでパリで<Journal des Savants>が、そして1668年にローマで<Giornale de’Letterati>が、さらにドイツでも1682年にライプツィッヒで、パリの前掲雑誌に倣って<Acta Eruditorium>(学識者の報告)というラテン語の雑誌が創刊された。当時のドイツでは学識者の用いた言語はドイツ語ではなくて、ラテン語だったからである。これらは学識者の狭いサークルに対して、学術関係の新刊書や同時代の学者たちの生活についての情報を提供していたのである。

ドイツでは今あげた学術雑誌(Acta Eruditorium)の流れの中から、1700年ごろには、専門分化した様々な学術雑誌が生まれていった。それはつまり医学、法学、神学、歴史学などの学術雑誌であったが、それらは個別科学のその後の発展に大きく貢献し、その伝統は今日まで連綿として続いている。

その一方で、より広い観点に立った一般的な性格の文芸評論誌というものも、18世紀の前半に現れた。その一例としては、1739年創刊の<Goettingische Zeitung  von gelehrten  Sachen> を挙げることができる。ちなみにこの雑誌はその後名前を少し変えて、18世紀の伝統を今日に伝えている。

啓蒙のメディアとしての雑誌

こうした一般的な評論誌は18世紀も後半に入ると、さらにその輪を広げ、ニコライが編集発行に携わった数点の雑誌を始めとして、啓蒙主義のメディアとして、様々な発展を見せるようになった。それらは1750年ごろにはじまり、1780年代にその最盛期に達し、18世紀の末になって新しい形へと変質していったのである。それは外部の世界に対して影響力を行使することを重要視した啓蒙主義の活動であった。

その時代は、著作家や時事評論家やその他の学識者が、雑誌への寄稿者または編集者としてその真価を発揮した数十年間であった。そしてそれはまた啓蒙への一般的な努力が、著作者をして雑誌への支援へと突き動かした数十年間でもあった、と言われている。なかでもレッシング、ヤコービ、ボイエ、ヴィーラント、リヒテンベルク、ゲーディケ、ビースターといった人々がその代表であったが、わがニコライもその重要な一員であったのだ。

それが18世紀末の時点でどのような評価を受けていたのか、同時代の証言に耳を傾けることにしよう。1790年、二人の教師ボイトラー及びグーツムーツは、『ドイツ重要雑誌事項索引』という出版物を刊行したが、これは「現在までに至るこの世紀に現れたすべての定期刊行物に関する理路整然たる文献目録」なのである。その前書きには次のように書かれていた。

「雑誌というものは、人間の知識の宝庫となった。そこには人間精神を全体として用いるための、計り知れない宝物が詰まっている。何かのテーマについて知りたいと思うものは誰でも、安心してこの知識の宝庫に逃げ込むことができる。そして間違いなく豊かな気持ちで、満足して戻ってこられるのだ」

この二人は18世紀における出版界の発展について、結論を出したのだ。つまり彼らははじめて雑誌というものが、啓蒙のメディアとして、いかに不可欠の存在になったかということを示したのである。その前書きにはさらに、いかに人々が雑誌の公益的目的を認識するようになったかという点について、次のように書かれている。

「それまでもっぱら学者たちの所有物として書物の中に蓄えられていたものが、今や雑誌というものを通じて一般にもたらされるようになった。それは国民の大部分が理解することも読むこともできず、また読もうとも思わなかった知識だったのだ。それらが今や国民が理解できる一般的な言葉に移し替えられたのだ。そしてそれらは、すべての人々が使える小額通貨になったわけである。」

ニコライがその編集発行に携わった『ドイツ百科叢書』も、こうした啓蒙のメディアの中の一つの大きな柱であったことは、言うまでもない。ただここで言われている「すべての人々」というのは、当時の実態としては、庶民を含めた国民全体を指すものではなく、少数のエリート層つまり様々な職業の有識者であったことに、注意しなければならない。そのことは当時刊行されていたこの種の個々の雑誌の発行部数が3千部程度であったことからも理解されよう。ちなみに当時のドイツの総人口は、ざっと2千万人であった。

『ドイツ百科叢書』の発行計画

本書評誌がどのようなものであるべきか、という点については、創刊号の冒頭に掲載された序文の中に、編集者であったニコライ自身の筆で詳しく書かれている。そこで次にこの創刊号の序文を紹介しることにしよう。

序 文

ここにドイツ人の読者に、『ドイツ百科叢書』の第一号をお届けします。これは年に4回、ほぼ同じ厚さの本として発行されます。2号で1巻となりますが、各巻には有名なドイツの著作家の肖像画が添えられます。
この第一号には、編集者の意図するところでは、1764年に発行された最新の著作物に関して、一般的な情報が盛り込まれるはずです。つまりここでは、ドイツで新たに発行されたすべての書物や関連した出来事について、情報を提供しようというわけです。いくつかの重要な著作物、とりわけドイツのオリジナル作品は詳しく書評されることになりますが、その書評を通じて読者は、その作品の全体像について、正しい概念を得ることができるでしょう。重要度が低い著作物や翻訳ものは、短い評価が添えられます。学位論文、個々の説教書、その他の小冊子については、掲載しません。
この計画の気宇広大さのゆえに、その完全な遂行の前に立ちはだかっている幾多の困難につきましては、あらかじめ予想しています。だからと言って編集者は、この事業から決してしり込みする者ではありません。これらの著作物はドイツの数多くの都市に、場合によっては書店が一軒もないような都市に、散在しているのです。したがって新刊本の存在やその価値について、信頼すべき情報が得られることは、読者にとって大変有益なことに違いないと思います。・・・
この目的を達成するためには、編集者は労力も費用も惜しむものではありません。まさにそのためにこそ、この定期刊行物に協力してくれる優秀な人材を探し求めてきたのです。・・・その結果かなりの数の学識者のみならず、その作品があまねく知られているような人までも、この仕事に協力を表明してくださったのです。とはいえあらゆる学問領域の書評に対して、本格的な協力者を満足のいく形で集められたわけではありません。・・・
私たちの計画の規模の大きさと起こりうる様々な困難とを認識されている諸兄は、直面しているいろいろな課題を一度に達成できないとしても、大目に見ていただけることと願っています。例えばこの第一号では、法学に関する書評がありませんが、それは今後の号で取り戻せるはずです。・・・・
最後になりますが、読者諸兄の協力と賛同の気持ちだけが、もっぱら読者のために捧げれれている一つの事業の存続を保証してくれるのです。そのために私どもは、読者諸兄からそうした賛同を得るべく、なお一層尽力していく所存です。

ベルリン、1765年4月20日」

編集方針と編集上の苦労

ニコライは1765年4月の創刊号を出してからも、その協力者たちとたえず連絡を取り、彼らに再三再四手紙や回状を送っていた。そうしたものの一つに、「『ドイツ百科叢書』への協力者各位」(1776年12月12日)がある。そこにはニコライの編集方針が極めて具体的に書き連ねてあり、さらに批評の対象となる書物の入手方法から原稿送付の仕方を経て、郵便料金の精算の仕方まで48項目にわたって、実際的な指示が記されている。その中から重要と思われるものを選んで、次に紹介することにする。これを読むと、18世紀後半のドイツにおける書籍雑誌の出版実務に関連したもろもろの事柄や、雑誌編集の様々な苦労が手に取るようにわかって興味深い。

『ドイツ百科叢書』への協力者各位

「『ドイツ百科叢書』の執筆者全員にあてられた備忘録」
~もっぱらこの事業の外面的処置について~

1 幾多の協力者が迅速にして誠実にその書評原稿をお送りくださっていることには深甚なる感謝をささげるものですが、・・・多くの協力者の原稿の遅れが本誌の発行に次のような害悪を及ぼしていることにも、注意を喚起したいと思います。つまりそれによって多くの書物の紹介が著しく遅れ、読者の不興を買うこと、原稿不足によって、ある号の発行が行えなくなること、そしてそれによって書評誌全体が不完全なものになることです。
しばしば繰り返し督促状を送っても、効果がない場合も多いのです。これは全く割に合わない仕事ですが、この仕事をこれまでなさってくださったのは、一人の尊敬すべき学識者です。この学者としても一流の人が、この仕事のためにいかに多くの時間を費やしているかという事、そしてその時間をもっと有益な仕事に振り向けることもできたという事を、期限を守らない協力者の方々は、とくとお考え下さいますよう。

2 幾多の協力者の方々は安請け合いし、いくつもの分野を引き受ける方もおられます。ところが原稿は送ってこないのです。いったん引き受けると約束した人には、(書評対象の)本を送ってしまいますので、別の人に頼むわけにいきません。
原稿の到着をを待つ側の心配や、督促その他にかかる費用のことも考えてください。

4 受け取りました原稿が、直ちに次の号に掲載されないこともあります。私としましては、常に2~3号分の原稿の在庫がほしいのです。さもないと印刷所との関係で、本誌を切れ目なく定期的に発行していくことが困難になります。

7 一般に質の高い本は少なく、質の悪い本が多いものです。ですから内容の良くない本を引き受けたからといって、別の本に乗り換えるのは無理です。そういう場合には、短評で済ましてくださって結構です。

9 私としましては書評の分量については、特に基準を設けません。とはいえざっと見積もって、一つの書評は16頁以内でお願いします。特に重要な本の場合は、その限りではありませんが。

12 ・・・たいていの読者が求めているのは、その本の全体的で忠実な紹介だと思われます。と同時に単なるダイジェストではなく、的確な評価をつけることも必要です。

14 似たような内容の数冊の本を、一つの書評として取り上げることも、有益でしょう。それによってページ数の節約が図られますし、また読者の方も似たような本を互いに比較することができるからです。

16 長い表題(半ページから一ページに及ぶ)は短くさせていただきます。書評のはじめに記すべき項目は、著者の氏名、身分・職業、印刷地、出版業者、判型、出版年、ページ数としてください。

18 多くの書評には、原著者の書いていることと、評者の書いたこととの区別がはっきりしないものがあります。原著者の言葉を引用する時は、引用符をつけて区別してください。

22 書評原稿はきれいな字で書くか、もしくは清書してからお送りください。それによって多くの誤植が避けられます。ゴタゴタした手書き原稿は、植字工にとっても校正係にとっても、大変面倒なものです。

31 私宛に原稿の小包を送られる場合には、印刷物と上書きして、郵便馬車がとまる場所に出してください。さもないと手紙用の料金を請求されますから。

35 書評用に受け取られた本は、書評原稿と一緒に受取人払いで、私宛に郵便馬車で送り返してください。あるいはライプツィヒ見本市の会場で返してくださっても結構です。また別に日時を取り決めて、返してくださっても結構です。

36 返送用の書物は、包装用布とわらで包んでくださいますよう。また内側に包む紙は、色刷りですと本が汚れてしまいます。

ベルリン、1776年12月12日  フリードリヒ・ニコライ 」

編集発行の実務と刊行の経過

以上みてきた書評者各位への回状によって、この事業を恒常的に続けていくことの困難さについて、ご理解いただけたかと思う。みずから無類の勤勉な人間であったニコライは、書評を依頼された人の中に、怠惰であったり、いい加減であったりという人が含まれていることについて、当初はかなり過小評価していたようだ。皆、自分と同じように勤勉に仕事をしてくれるものと、期待しすぎたようである。

それでもニコライは持ち前の粘り強さで、この大事業をやり遂げたのであるが、多忙なニコライは編集助手として、F・G・リュトケ牧師の助けを得ていた。この人物はベルリンのニコライ教会の牧師であったが、書評原稿の整理やそれに伴う様々な事務的な仕事を引き受けていた。さらにニコライの長男ザムエルも、不定期ではあったが、この雑誌の編集の仕事を手伝っていた。一方印刷の方は、たいていはヴィッテンベルクにおいて、ニコライのもぅ一人の友人で歴史家のJ・M・シュレックの監督のもとに行われていた。

次に刊行の経過についてみると、当初は季刊雑誌として年4回発行というペースで始まったが、新刊書の発行ラッシュという状況の中で、雑誌創刊4年後には早くも6回発行ということになった。何しろ新刊書の年間発行点数は、1763年に1360点であったものが、1805年には4181点に増大しているのだ。1770年発行の第11巻第1号では181点の書物が書評されているが、年間6号の発行として、ざっと一年に1100点も書評されているわけである。大変な努力といわねばなるまい。そして新刊書発行の圧力に押されて、その後は年に、7号、8号、10号、12号、13号、14号と増え続け、ついに1791年には17号にまで達している。そのピークには月刊誌以上のペースだったといえる。さらに1771年以降は、ほぼ5年おきに補巻が発行されているのだ。

このように本誌は順調に発展していったのであるが、1786年にフリードリヒ大王が死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世(在位1786~1797)がその後継者になるに及んで、変調をきたすことになった。この人物は性格的に弱く、神秘主義に傾倒していたため、側室たちやお気に入りの取り巻きが政治を牛耳ることになった。そして次第に反動的な風潮が強まり、出版物への検閲の強化という事態のもとに、この雑誌も何度か発行停止の危険に見舞われた。そしてついに1792年からは、その発行を北ドイツのキール在住の出版者K・E・ボーンに任せることになった。それは手元のバックナンバーによれば、第107巻からである。これ以後本書評誌は『新ドイツ百科叢書』と称するようになったが、編集自体はニコライが依然として引き受けていた。そのため内容の点では継続性が保たれたわけだが、その後状況が好転して、1800年からは再びニコライ出版社が引き取り、1805年の最終巻まで自ら発行を続けたのであった。

啓蒙の仲介者としてのニコライの功績

『ドイツ百科叢書』は、この時代の知のあらゆる領域についての紹介と報告によって、特徴づけられていた。この中で書評の対象として取り上げられた書物は、神学、法学、医学、文学、哲学・教育学、文献学、理学・博物学、歴史学・地理学、美術、家政学、音楽など広範な分野にわたっていた。

そこで注目されるのは、とりわけ初期のころに神学書が多い事である。啓蒙主義者のニコライが目指したものは、何よりも宗教支配の打破という事であたから、キリスト教を学問的に批判する立場から、神学書が書評の対象として大きく取り上げられたものと思われる。これに関連してニコライ研究者のジヒェルシュミットは、次のように書いている。
「もちろん道徳家のニコライは、そのライフワークの発行に倫理的な意図も結び付けていた。ハイネは『ドイツ百科叢書』を、ニコライ及びその仲間が、迷信家、イエズス会士、宮廷の取り巻き連中などと闘った雑誌と呼んでいる。・・・ニコライはこの雑誌の中で、とりわけカトリック正統主義と敬虔主義とに対して、断固たる闘いを行った。そのため60年代、70年代においては、神学の著作物が彼の関心の中心を占めていた。自由な合理主義宗教に関する事柄を社会の中で代表するためだけにも、ニコライは編集という重労働を引き受けたのである」

ここで取り上げられているハイネは、わが国では一般に抒情的な詩人として知られているが、実は少年時代にフランス革命の思想的洗礼を受けた戦闘的な文学者で、のちにパリに亡命したコスモポリタンだったのだ。

それはともかく、ニコライは先に挙げた様々な知の分野に対して、書評者の手持ちがあった。そしてそうした400人を超す学識者たちは、広大なドイツ帝国のあらゆる地域に散在して住んでいたのだが、彼らは一部を除いて、最後までニコライのこの啓蒙的な偉業を支援し続けたのであった。

それはまさに壮大な「知のネットワーク」であったといえようが、このネットワークをニコライはどのようにして築き上げていったのであろうか。「一年のうち4か月は、自分のスタンドがある(ライプツィヒ)書籍見本市や北ドイツの歳の市を訪ね歩いていた」ほど旅行好きなニコライであったから、こうした旅行のたびにドイツ各地に住んでいた友人たちを直接訪ねたこともあったろう。あるいは筆まめなニコライは、手紙のやり取りを通じて、絆を強めていたものとも考えられる。これに関連してドイツ書籍史の専門家ゴルトフリードリヒは、「彼の冷静な性格並びに時代と人間とを巧みに利用した、確実で断固とした組織力」という指摘を行っている。

ニコライは、その40年にわたる書評誌の編集発行の仕事を終えるにあたって、その最終巻の前書きの中で、自分の仕事について次のように自負している。「ドイツ百科叢書によって、無関心や無関心からくる無知から読者が本当に目覚めたとするならば、それこそ私が目指したものなのです。・・・自分は真実と無党派性と有用な知識の普及を求めてきたのだという気持ちこそが、私に力を与えてくれたのです。・・・」
そして彼はそうした人々の意識の変革に、自分は貢献したのだという正当な思いのうちに、その回顧を次のように締めくくっている。「私はこの仕事に対して朗らかな勇気をもって、私の人生の最大にして最善の部分を捧げてきたのです。・・・私はこれまでの人生を、決して無駄に生きてきた、とは思っていません。なぜならわが同胞の最善の人々は、次のことを知っているからです。つまりこの仕事は、ドイツにおける学問知識の進歩発展の途上にあって、異端迫害者、盲目的信仰、書きなぐり、細事拘泥、知ったかぶりの不遜などの減少のために、そしてその反対に理性的自由と人間的で分別のある文化の増大のために、良い影響を与えてきたという事を。」

本書評誌に対する同時代の反応

ベルリン啓蒙主義の機関誌ともいうべき『ベルリン月報』の編集者であったJ・E・ビースターは、ニコライに対する追悼文の中で、この書評誌の功績を次のように称えている。
「われらが祖国ドイツに関する、このように大規模で、あらゆる地域に大きな影響を及ぼした作品は、よその国には全く見られないものである。今初めてドイツは、文献(著作物という意味)の面で、いったい何が起きているのかという事を、知ったわけである。ドイツはそのことを知り、それによって互いにより緊密に結ばれるようになった。その任務は決して小さくはなかったし、また当時全く新しいものでもあった。その任務とは、百マイルも離れた所で印刷された一冊の書物に、ドイツ全土に住んでいる著名人を結び付けることであった。・・・またそれは、それぞれの地域の学問の現状に関する情報を集めることでもあったのだ。」

ニコライの同志であったビースターは、まだ統一国家のなかったドイツにあって、本誌が文化・思想面で、全ドイツ共通の基盤を作り上げるのに貢献するものだという事を、強調しているわけである。

その一方、伝統的・保守的な立場の人々の目には、『ドイツ百科叢書』は一方的な判断によって、刊行されるすべての書物をいわば独裁的に裁定していく巨大な「批評機関」であると、映っていたようだ。そのためそうした敵陣営からは、ニコライに向けてあらゆる種類の誹謗中傷、侮辱が加えられたという。とりわけこれらは啓蒙専制君主フリードリヒ大王の死後に起きた、潮流の変化の中で行われた。そうした時代背景について、ジヒェルシュミットは次のように書いている。

「ニコライがその考えを妨害されずに広めることができたのは、とりわけフリードリヒ大王時代のリベラルな雰囲気のおかげであった。・・・国王に対するニコライの尊敬の念は、王の死に至るまで続いた。・・・実際どれだけ大きな恩恵をこの国王に負っていたかという事を、国王の死後まもなく彼の雑誌がその敵たちによって厳しく弾圧されたとき、ニコライは感じたのであった。人々はニコライ及びその仲間たちを、反逆者、国王の敵、ジャコバン派の手先などと非難した。フランス革命の恐ろしい有様を伝え聞いた人々の耳には、そうした非難は受け入れやすくなっていた。かつてのニコライの友であり、『ドイツ百科叢書』の協力者でもあった国務大臣ヴェルナーも、背教者の不誠実を地で行くように、この雑誌を迫害した。雑誌は1794年4月17日の閣議決定で、プロイセン地域において発禁処分となった。」

実際の話、大王在世中の1775年には、国王勅令によって招集された枢密院の決議によって、『ドイツ百科叢書』は有益な作品である、と宣言されたことを考える時、時代の変化という事を思わざるを得ない。本書評誌が発刊されていた1765年から1805年までの40年間は、極めて変化の激しい時代であった。その最初の20年間にはプロイセン王国の興隆がみられ、同書評誌は『ベルリン月報』とともに、ベルリンをドイツ啓蒙主義の中心にした。そして1770年代末から1780年代初めにかけて、その最盛期をむかえたのである。このことはその発行部数が最大になったことにも現れている。そしてこの時期本書評誌の編集発行人は、ドイツの「学識者共和国」においても、また故郷の町ベルリンにおいても、最も影響力の大きな人物であったのだ。

しかしその後ドイツには、疾風怒濤、古典主義、ロマン主義、観念論など新しい思想や文芸の潮流が相次いで起こり、次第に啓蒙主義は新しい世代から見捨てられるようになっていった。かつて『ドイツ百科叢書』は思想と知識のフォーラムとして、ドイツ啓蒙主義のために統合的な役割を果たした。しかし1780年代後半以降、その影響力は色あせるようになっていった。それは特に神学の分野においてその使命を達成してしまったからだともいえる。本書評誌は長い間、世俗世界における教会の支配と闘い、宗教的寛容を生まずたゆまず訴え続けてきた。しかしその要請がようやく達成されたとき、啓蒙主義はとりわけ若い世代にとって魅力を失ったわけである。

とはいえニコライが1805年に『ドイツ百科叢書』の廃刊を告げた時、ハンブルクのある新聞は、40年にわたる彼の苦労をねぎらって、その功績を次のように称えたのであった。
「40年間続いてきた『ドイツ百科叢書』が今年で 廃刊となる。ドイツの最も重要な学識者たちによって支持されてきた、あらゆる観点から言って極めて重要なこの雑誌は、1765年の創刊以来、啓蒙主義の普及とドイツにおけるあらゆる文化・学問の振興に、計り知れない影響を及ぼしてきた。この雑誌を創刊し編集発行してきた人物は、苦労の多い仕事を倦まずたゆまず勤勉にこなし、その人生の最良の歳月を捧げてきた。そしてそれによって自ら未来に対して不滅の記念碑を築いたのである。」

本書評誌に対する後世の評価

本誌への後世の評価はいろいろあるが、全体としてドイツ啓蒙主義を代表する機関誌として、高い評価が与えられている。その中で主なものをいくつか選んで、次に紹介しよう。
まず19世紀ドイツの歴史家のF・C・シュロッサーは、その『18世紀の歴史』の中で次のように述べている。「ニコライはフランスのディドローやダランベールに倣って、ドイツ流のやり方で、知のあらゆる領域にわたって、新しい啓蒙主義を広めようとしたのである。」
次いで現代ドイツの歴史家で、ニコライ研究家でもあるH・メラーは、ニコライの業績に対して厳正な態度で臨み、批判すべき点は批判しているが、全体として彼を高く評価している一人である。彼はその分厚い研究書の中で、次のように書いている。「『ドイツ百科叢書』は紛れもなく、その多面性、書評者の精神的性向、その情報の規模と質の点で、フランス啓蒙主義の<百科全書>に対抗せんとするものであった。同書評誌は、ニコライやその多くの協力者の考えでは、ドイツにおいて「神学・哲学革命」を引き起こしたのである」
最後にニコライ研究者ジヒェルシュミットの言葉を紹介して、この項目を閉じることにしよう。{ニコライの広い視野は、いずれにしても当時のドイツ文学(学識全般)の狭い辺境的枠組み、つまり(教会の塔あら見渡せる程度の狭い範囲)を越えて注がれていた。ドイツの学識社会の近親交配に対して、彼が常に警告の声を発していたことは、ドイツ社会に対する彼の少なからぬ貢献であった。基本的に言って、彼の『ドイツ百科叢書』は、ドイツ人にとって、(当時欠けていた)精神的な首都の役割を、数十年年間にわたって果たしていたのだ。」

いずれにしてもニコライは、本書評誌の編集者であることを通じて、実践的啓蒙主義のオルガナイザー、宣伝家そして普及者として、ドイツにおいて唯一無二の地位を獲得したのである。