ドイツの冒険作家 カール・マイ(05)

その05 冒険物語の足跡をたどって(3)

今回は「冒険物語の足跡をたどって」の3回目で、トルコのヨーロッパ側にある古都エディルネをとりあげる。この町は現在、ギリシアとブルガリアとの国境すぐ近くに位置している。しかしオスマン帝国の時代、1361年に征服してから1453年にイスタンブールに移るまでの約90年間、帝国の二番目の首都として栄えた所である。

トルコのエディルネ旅行(2018年5月)

カール・マイの冒険物語では、第7巻『ブルガリア南部にて』の中の第1章「エディルネにて」が、物語の舞台となっている。
マイは、第1章の冒頭で次のように書いている。

<物語の叙述>

「トルコ人がエディルネと称しているアドリアノープルは、イスタンブールに次いで重要なオスマン帝国の古都である。この町に、ムラト一世からメフメト二世に至るまでのスルタンが宮廷を置いていたが、このメフメト二世が一四五三年に、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、そこに首都を移したわけである。これがイスタンブールなのであるが、その後も多くのスルタン、とりわけメフメト四世などは、好んで古都エディルネに滞在したものである。

この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集する真っただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に二五Oの窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ。

我々はキルク・キサリからやって来たのだが、はるか遠くからセリミエ・ジャーミイの尖塔が見えていた。このエディルネの町は、遠くから見ていると華麗な姿を示しているが、トルコの他のどの都会と同様に、町に入った途端に、その美しさは失われるのだ。」

物語の主人公カラ・ベン・ネムジは、盗賊団の一味を追跡して、仲間とともにイスタンブールを離れ、このエディルネにたどり着いたわけである。そしてダマスカスの宝石商アファラー及びイスタンブールの若き商人イスラの案内で、アファラーの兄の大商人フラムの大邸宅に入る。その後、次のような叙述が続いている。(10ページ)

「我々が探し求めていたフラムは、ムラド二世のモスクであるユチュ・シェリフェリ・ジャーミイの近くに住んでいた。我々は美しい大理石を敷き詰めたテラス状の前庭を進んでいった。七十本の柱で支えられた二十四の小丸屋根は、スミルナ攻略の際に略奪されたヨハネ騎士団の宝物をもとにして建てられたものである。
我々は賑やかな街路を通って、三階建の家の前にたどり着いた。この家に、我々は世話になることになっていたのだ。」

この後、フラムの大邸宅の内部の描写になる。(11ページ)

「イスラはヤクブ・アファラーとともに、主人の書斎へと向かった。・・・・我々は小さなホールほどもある部屋へ案内された。その前面は柱で支えられた広間になっており、三方の壁面には青地に金色でコーランの言葉が書かれていた。我々は、緑色のビロード製の長椅子に腰を下ろした。めいめいに水煙管(みずぎせる)と銀製の三脚つきカップに入れたコーヒーが出された。それだけでも、この家の豊かさが分かるというものである」

そしていよいよこの家の主人が現れた。

「祝福のしるしに両手を上げながら、主人はあいさつした。
『わが家にようこそお出でくださった。ここはまた、あなた方の家でもあります』
フラムは、我々一人ひとりにあいさつして回ってから、二人の親類とともに腰を下ろした。

『あなたのことは、私がよく知っていることを、おそらくあなたはご存じないでしょうな、先生?』と、主人は私に向かって言った。
『イスラが、あなたのことをよく話してくれましてな。あれは、あなたのことが好きなのじゃ。それで、まだ会わないうちから、あなたは私の心を占めていたのです。』

こうした挨拶の後、追跡している悪党が、名前と身分を偽って、フラム宅の居候になっていることが判明した。そしてその悪党バルード・エル・アマサトは、主人の厳しい尋問と追及の結果、正体を現し、つかまってしまう。その後、この町の顔役であるフラムは、この悪党を町の裁判所で裁判にかける手続きを取ることになった。
それに続く場面を、次に引用する。(22ページ)

「トルコの裁判所の判決は、あまり時間をかけずに出るのがふつうであった。そこで我々は判決が下されるまで、この地で待つことにした。そのため我々には、エディルネを見物する時間が生まれたのである。
翌朝、我々はセリムとムラドのモスクそしてトルコの神学校を見学した。それから有名なアリ・パシャのバザールも訪れた。そして最後に、町のそばを流れているトゥンジャ川の船くだりを楽しんだ。」

<私の旅行記の記述>

ブログの「04 冒険物語の足跡をたどって(2)」の中で、私は、2018年5月に参加した「山田寅次郎が愛したイスタンブルを訪ねる」と称する山田寅次郎研究会の記念ツアーについての旅行記(イスタンブール旅行)から、数か所引用した。
今回も同じ旅行記の中から、エディルネに関する部分を、次に引用することにする。

「5月18日(金)曇りのち晴れ
今日はトルコ滞在最後の日だ。午前6時前起床。6時半朝食。7時半、ホテルのロビーに全員集合。荷物をバスに乗せ、イスタンブールを離れ、北西部のブルガリアとギリシア国境近くの古都エディルネへ向かう。そこはイスタンブールに移る前、およそ90年間、オスマン帝国の二番目の首都だったところだ。
バスははじめマルマラ海に沿って、緑の多い田園地帯を走った。約3時間の道のりで、途中トイレ休憩などを取りながら、10時半ごろエディルネの町に到着。町のシンボルともいうべき世界遺産のセリミエ・モスクへ向かう。

壮麗なセリミエ・モスク

この町には私は特別強い関心を抱いていて、ぜひ訪れたいと思っていたので、今回のツアーの行程の中に組み込まれていたことは、何と言ってもありがたかった。私が翻訳してきた「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」の第7巻『ブルガリア南部にて』の冒頭に、エディルネが登場するので、少し引用する。
(この引用部分は、今回のブログの<物語の叙述>の中でも引用しているが、この町の叙景部分だけを次に引用する)

「この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集するまっただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には、高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に250の窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ」

セリミエ・モスクの内部ホール

カール・マイがこの作品を書いたのは、19世紀後半のことであるが、それから百数十年の歳月を経た今日でも、モスクのたたずまいは全く変わりがないといえよう。ただこのモスクの周辺一帯は、観光客を乗せた車であふれかえっていて、我々を乗せたバスも駐車場を探すのに、一苦労であった。世界遺産に指定されているこの大建造物は、ミマール・スィナンが80歳の時に注文を受け、6年の歳月の後、1575年に完成した。
今朝イスタンブールを離れた時は曇天であったが、エディルネでは快晴になっていて、強い日差しの中を一行はバスを降りて、人ごみの中を抜けて建物の中に入った。そして靴を脱ぎ、女性はスカーフのようなものをかぶり、広々とした空間の中央で腰を下ろし、ガイドのフーリエさんの詳しい解説に、一同耳を傾けた。
スィナンはこの建物を自らの最高傑作と言い続けたそうだが、その言葉からは、老建築家が晩年になってその完成に心血を注いだ情熱のほどが、ひしひしと伝わってきた。スィナンは16世紀という時代において、実に98歳という長寿に恵まれたという。90歳の北斎をも凌駕しているのだ。モスクの外の広場の一角に、この建築家の黒色の銅像が目に入った。

ミマール・スィナンの銅像

次いで一行を乗せたバスは町の南へと移動し、物語の中にも描かれているトゥンジャ川の畔にあるトルコ料理店<ハネダン・エディルネ>へ向かい、そこで一同昼食をとった。川の向こうのかなり離れたところにセリミエ・モスクが見えている。この川にはゴミが浮かび、川自体狭く、汚れている。一般の民家や商店、道路などを含めた街並みは、観光用のモスクなどの壮麗な建造物と比べて、一段と見劣りしているといわざるを得ない。
カール・マイが物語の中でまさに指摘している通りだ。

トルコ料理店「ハネダン」