私は家内とドイツ在住の長男とともに、2019年7月16日から31日まで、ドイツ各地を鉄道で旅行した。以下3回に分けて旅の模様をお伝えする。第1回は、フランスのアルザス地方及び中部ドイツのフルダ。第2回は北ドイツの港町で旧ハンザ同盟都市のリューベックとハンブルク。そして第3回は南ドイツの古都ニュルンベルクと大都会ミュンヘンについてお話していく。
東京からドイツのケルンへ
7月16日(火) この日東京は朝からどんよりとした梅雨空。午前9時、家内と私は迎えのタクシーに大きなトランク2つを載せ、世田谷の自宅を出て、羽田空港へ向かった。9時40分ごろ、国際線ターミナルに到着。ANAの受付に荷物を預け、海外旅行保険の手続きをした。そして構内をしばらく散歩してから、出国手続きをして、出発ロビーへ向かった。窓ガラスの外には、しきりと雨が降り続いていた。
やがて案内アナウンスに従って、ANA(NH223便)の機内に入る。中型機ながら、機内はすいていて、エコノミークラスの座席は半分ほどしか埋まっていなかった。それだけ快適だったのだが、7月16日(火)が、まだ学校の夏休みに入っていないためかと思った。
午前11時15分出発。それから12時間の空の旅だ。日本海を越え、ユーラシア大陸北方のロシア連邦の上空をひたすら西へと進んでいった。その間イヤホーンを耳に入れて、座席の前に設置された画面で、2時間ほどの映画を3本見たり、音楽を聞いたり、あるいは新聞雑誌を読んだりして過ごした。その間に2回の食事と飲み物のサービスを受けた。
途中特に問題もなく、同じ日の午後4時過ぎ、ドイツのフランクフルト空港に到着。入国手続きをし、預けた荷物を受け取ってから、空港内のロビーで長男の出迎えを受けた。今回はケルン大学で宇宙物理の研究員をしている長男の休暇に合わせて、以後2週間、主としてドイツ各地を鉄道に乗って、3人で旅をしたわけである。汽車の切符や宿泊するホテルの予約などは、すべて長男が手配してくれた。
18:09フランクフルト空港駅出発のICE104号(ドイツの新幹線)に乗車。19:05ケルン中央駅到着。ただちにタクシーでケルン市の西郊にある長男の家へ直行。夏時間ということもあって、夏のドイツはまだまだ明るく、日没は午後10時ごろだ。長男の手作りの夕食をとって、その日は彼の家に泊まる。
7月17日(水) この日はそのまま彼の家に滞在して、これからの2週間弱の旅の支度を整える。特に外出もせず。テレビを見たり、3人で雑談したりして、のんびりと休息を取る。3度の食事は長男が作ってくれる。
ストラスブール市内見物
7月18日(木)晴れ
朝食後3人は迎えのタクシーに乗り、ケルン中央駅へ向かう。汽車に乗ってフランスのストラスブールへ行くのだ。8時55分、ケルン中央駅からICE103号に乗り込み、南下してカールスルーエ駅に10時58分着。そこで乗り換えて、11時32分発のICE9574号(パリ行)で、ライン川の西側にあるストラスブールへ向かう。この新幹線はパリ行きだ。ちなみにパリはストラスブールの真西500キロほどの距離だという。
列車はライン川の東側の平地を、しばらく南下した。やがてある地点で西へと曲がり、すぐにライン川を渡ると、そこはもうフランス領のストラスブール(Strasbourg)である。ドイツ語ではシュトラースブルク(Strassburg)というが、フランス東部のアルザス地方の中心都市だ。車中では切符の検札はあるが、国境を越えるからと言って、旅券の検査はない。
ご存知の方もいらっしゃることと思われるが、このアルザスと隣のロレーヌ地方は、近世に入って、ドイツ領とフランス領の間を何度も行き来してきたところだ。中世には神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)領であったが、17世紀の後半太陽王ルイ14世の時代に、フランス王国領に組み込まれた。その後19世紀に入り、1871年ビスマルクがドイツを統一したとき、フランスのナポレオン三世を倒して、アルザス・ロレーヌ地方をドイツ第二帝国領に併合した。その後第一次世界大戦でドイツは敗北し、この地方は戦後のヴェルサイユ条約に従って、再びフランス領になった。しかしこの条約に対するドイツ人の恨みの気持ちは強く、ヒトラーが第二次世界大戦を起こすと、またもやこの地方は(フランスの他の地方とともに)ドイツ占領下におかれた。そしてドイツの敗北とともに、フランス領となって、今日に至っている。
説明が長くなってしまったが、そうこうするうちに列車は12時13分、ストラスブール中央駅に到着した。トランクを引きずりながら、駅前広場に出ると、真夏の太陽がさんさんと降り注いでいた。幸い長男が予約したIbisホテルは駅前にあり、すぐに冷房の良く効いたホテルの中に逃げ込むことができた。日本を出発する前から、フランスの猛暑のことはニュースを通じて知っていたが、その暑さがまだ続いていたのだ。チェックインをし、荷物を部屋の中に移し、一休みした。
ストラスブール旧市街の地図
しかし昼時だったので、部屋には長居せずに、外に食べに行くことにした。中央駅のすぐ近くに、運河にぐるっと取り囲まれるようにして旧市街がある。その運河はライン川に通じていて、中世以来交易のルートになってきたのだ。その旧市街の西南地域に、”Petite France” (小フランス)と呼ばれている一角がある。
我々3人はその地域へ向かって歩いて行ったが、やがて運河を渡ると趣のある地区が現れた。そこには小さな運河が張り巡らされ、優雅な建物が軒を連ねていた。そのあたり一帯には緑も多く、家々は美しい草花で飾られている。また運河には小さな遊覧船の姿が見えた。
その中の一軒のレストラン”Lami Schutz”(ラミ・シュッツ)に入ることにした。建物の周囲は緑に囲まれ、屋外にもテーブルと椅子が並べられていた。そこは小さな運河に面していた。午後1時ごろであったが。幸いその店は込み合っていなかった。運河の反対側の店などは、大勢の人でごった返していたが。3人が座ったテーブルには大きなパラソルが立ててあって、ちょうどうまい具合に強い日差しを遮ってくれていた。幸先の良いスタートだなと感じた。
(屋外レストランの食卓と料理)
3人はまず飲み物として、それぞれ白ワイン(Verre Riesling),四分の一Lを注文した。次いで食べ物として、この店の特別ランチのコース料理を頼んだ。はじめに出てきた野菜と肉を混ぜたサラダは美味で、分量もたっぷり。メインディッシュはカスラー(肉)料理だが、添え物としてドイツ料理でよく出てくる[酢漬のキャベツ(Sauerkraut)]がついていた。人によって好き嫌いはあろうが、私などはドイツ料理で、この添え物には慣れていて、すんなり口に入ってくるのだ。こんなところにもドイツとフランスの中間にあるアルザス地方独特の味があるといえよう。周りを見渡すと、人々は真夏の昼下がりを、のんびりとたっぷり楽しんでいる様子だ。
(グーテンベルクの立像)
食後には旧市街の雑踏の中を散歩して、やがてグーテンベルクの銅像が立っている広場に出た。この銅像を見るのは二度目のことだ。私はドイツの印刷出版の歴史を研究しており、今から20数年前にも、この活版印刷術の父の足跡を訪ねて、一人でストラスブールへ来ているのだ。
グーテンベルクは、西暦1400年ごろ、ドイツのライン川の畔の町マインツで生まれたのだが、若き日に金属加工の技術を習得するために、ライン川をさかのぼって、このストラスブールにやって来たのだ。そこで習得した金属加工の技術を基にして、鉛などの活字を作ったわけである。そして活版印刷術を発明し、その後のヨーロッパの文化や社会の革新・発展に大きく貢献したことは、高校の世界史の教科書にも書かれているところである。19世紀以降、活版印刷術の父としてのグーテンベルクの評価と名声は定まり、それに伴ってフランスでもこの人物は顕彰されるようになったのだ。
そのあとこの町の観光の目玉となっている大聖堂に入り、その中にある有名な天文時計を見る。次いでトラムに乗って、旧市街からやや離れたところにあるヨーロッパ議会を訪れた。ご存知のようにEU(ヨーロッパ連合)の主要機関はベルギーのブリュッセルにあるが、立法機関であるヨ-ロッパ議会の建物は、ベルギーからかなり離れたストラスブールに置かれたのだ。19世紀以来、ヨーロッパの覇権をかけてフランスとドイツは戦ってきた。しかし第二次世界大戦後には、独仏融和を目指しヨーロッパ共同体が生まれ、今日のEUへと発展したわけである。
そして独仏融和のいわばシンボルとして、両国の間を行ったり来たりしてきたアルザス地方のストラスブールにヨーロッパ議会が設置された。去る5月このヨーロッパ議会の議員の選挙が行われたばかりで、日本でもかなり大きく報道されたので、皆様も、ご存じのことと思われる。ちなみにEUの執行機関であるヨーロッパ委員会の新しい委員長として、ドイツの国防大臣フォン・デア・ライエン女史が、このヨーロッパ議会によって承認されたのが、一昨日(16日)の夕方であった。就任は今年の11月であるが、そのニュースをドイツ到着後に、長男の家のテレビで知ったばかりで、その意味でもヨーロッパ議会の建物を見られたことは、私としてはひとしお感慨深いものがある。ドイツの放送では、メルケル首相に次いでドイツの女性が国際機関のトップに選ばれたことを大きく報じていた。
(ヨーロッパ議会の建物)
アルザス欧州日本学研究所訪問
7月19日(金)晴れ
午前7時、ホテル・イビスで朝食。8時半、ストラスブール中央駅へ。8時51分発のバ-ゼル行の列車に乗り込み、9時21分コルマール(Colmar)で下車。駅では、旧知のレギーネ・マティアス女史が出迎えてくれる。このドイツ人女性は、ボーフム大学を三年前に定年退職した日本学研究者だ。私が日本大学経済学部に在職していた1998年、彼女と協力して、両大学間に留学生交換制度を作り上げた。毎年一年間、日本人とドイツ人の学生2~3人が、相手の大学へ留学するというもので、21年経った現在もなお、この制度は続いている。
さて我が家の3人はマティアス女史の運転する車で、アルザスの平原を走り、やがてキーンツハイムという小さな村にある元修道院の建物に到着した。この中に
CEEJA(アルザス欧州日本学研究所)があるのだ。同じく日本学研究者のご主人エーリヒ・パウアーさんとともに、長年収集した日本学関連の蔵書をこの研究所に譲渡し、日本人の同僚や研究者から寄贈された文献資料を加えて、研究所の一角に『日本図書館』を作ったわけである。元修道院の広い建物には、数年前まで成城学園の小・中学校があったという。
(アルザス欧州日本学研究所の建物)
建物前で車から降りた3人は、久しぶりにパウアーさんの出迎えを受けた。私はその昔、マティアスさんとパウアーさんの結婚式に参列したことがあるが、それ以来の旧知の間柄なのだ。敷地内にはいくつか建物があり、その中のかなり広い場所をパウアー、マティアス両氏が使用して、『日本図書館』を作っているわけだ。膨大な文献資料はまだ未整理のものも多く、今なお現在進行形であり、二人の生涯の仕事だという。また研究所の中には、ほかの人々も仕事をしていた。
私たちは広大な敷地内を順次案内してもらった。そして目玉の『日本図書館』にも入った。まだ未完成だが、すでに欧州の日本学研究者を中心に、日本からも、我々3人のように、関心を抱いた関係者が視察に訪れているという。
未整理資料を我々に見せてくれるパウアー氏
一通り施設を見せてもらった後、眺めの良い二階の部屋でお茶とケーキで一服し、さまざまな話題を巡って話し合い、旧交をあたためた。さらにパウアー、マティアス両氏が住んでいる居間にも案内された。二人はドイツのマールブルク近郊に家を持っていて、今のところは随時、車で往復している。将来はアルザスに移住する予定だという。居間の一角にある本棚には、マティアスさんも大のファンだというドイツの冒険作家カール・マイ関連の本が並べてあり、その中には私が彼女に贈呈した日本語訳の「カール・マイ冒険物語」全12巻も置かれていた。
(パウアー、マティアス両氏の居間で、私と家内も)
12時半、近くのレストランへ移動し、5人でテーブルを囲む。そこでもアルザス料理とアルザスの白ワインを堪能しながら、さらに歓談を続けた。その際最近のドイツ事情を、さまざまな側面にわたって聞かせてもらう。二人は日本語が上手で、時にドイツ語を交えて、主として互いに日本語で会話した。
この昼食の後、パウアー氏と別れ、マティアスさんの運転する車で、近くのカイザースベルクにある『アルベルト・シュヴァイツァー博物館』へ案内された。アフリカの聖者として日本でも知られている人物の生家を改造したものだ。オルガン奏者としても名高く、館内には彼が弾いていたオルガンも展示されていた。シュヴァイツアーは医者として長年アフリカで人々の命を救う活動をしていたが、人類の平和を祈願して、幅広い啓蒙活動にも従事していたという。
そのあとマティアスさんは、ヴォージュ山脈の前に続いている小高い丘の上へ連れて行ってくれた。丘の上から東のほうを眺めると、ぼーっとかすむようにして、ライン川の向こうの[黒い森」(Schwarzwald)が見えた。そこはもうドイツ領で、南北に長く続く丘陵地帯だ。モミの木が群生していて、遠くから見ると黒く見えるので「黒い森」と呼ばれているのだ。また我々が上った丘の上の斜面には、たくさんの墓が立ち並んでいた。十字架の形をしたものが多かったが、中には形の違うユダヤ人の墓とイスラム教徒の墓が混じっていた。第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ人に占領されていたこの地方で反抗する戦いが起こり、多くの人が死んだ、ユダヤ人やイスラム教徒の人たちは、フランス解放のためにフランスの植民地から駆り出されたのだという。
そのあとコルマール市に移動し、マティアスさんと別れた。そして市内の「ウンターリンデン博物館」に入った。見るべきものはいろいろあったが、なかでも中世ドイツのグリューネワルトの祭壇画に、圧倒的な印象を受けた。この博物館を最後にして、コルマールと別れ、再び列車に乗りストラスブールへと戻った。
フルダ大聖堂見学
7月20日(土)晴れ
午前7時。ストラスブール駅前のホテル・イビサで朝食。8時半、ホテルをチェック・アウト。そしてすでに日の照りつけている駅前広場を通りぬけて、ストラスブール中央駅に入る。古典様式の格式ある駅舎は、すっぽりガラス製の構造物によって、おおわれている。駅舎の壁面や柱には見事な装飾が施されているのだが、人々の往来や雑踏に紛れて、ゆっくり鑑賞している余裕がなかった。
9時11分発の列車に乗りこみ、ドイツのフランクフルト中央駅で乗り換え、12時10分には、中部ドイツの小さな町フルダの駅に到着した。この町は冷戦時代には東西の境界線近くに位置していた。しかし統一後は、東のライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンなどへ向かう鉄道の幹線に組み込まれるようになり、私は何度もこのフルダ駅を通過したことがあった。
今回はまだ訪れたことがないフルダ大聖堂を見たいと思って、この町に一泊することにしたのだ。時間を節約するために、駅構内のロッカーに大きな荷物を入れ、身軽になってフルダの町見物へと歩き出した。とはいえ今日も真夏の暑さで、強い日差しが照りつけている。駅前からゆるやかな下り坂になっているメインストリートを歩いて、人々の込み合う通りに面した一軒のレストランにまず入る。
”Schwarzer Hahn” (黒い雄鶏)と称する、この料理屋の店の奥まで入っていくと、外の雑踏や喧騒がまるで嘘のように、聞こえなくなった。広々とした店内にはちらほら客がいるのだが、快適そのものだ。肉料理を注文したのだが、出てきた料理の分量に多さに驚く。
腹ごしらえができたところで、いよいよお目当ての大聖堂へ向かう。西暦8世紀の初め、ライン川の東にはゲルマン民族が住んでいて、住民は古くからの自然崇拝の習慣を維持していた。そこへローマ法王の委託を受けた聖ボニファティウスがイングランドからキリスト教の布教にやって来た。そしてここフルダの近くで、神が宿っているとされ、住民の信仰の対象となっていた大きな樫(かし)の木を、聖ボニファティウスは斧で切り倒した。はじめ神の祟りがあるのではないかと住民は恐れおののいていたが、何事もなかったので、やがてキリスト教を信じるようになったという。そしてその地にドイツで最初のキリスト教の教会堂が建てられた。
十字架をかざす聖ボニファティウスの立像
我々は大聖堂に着くとまず隣接した所に立っている地味なミヒャエル教会を見て、この教会と大聖堂について詳しく説明してある小冊子を入手した。それから大聖堂に入ったのだが、現在立っている建物は、18世紀初めに建て直されたバロック様式の華麗な教会堂なのだ。地下には聖ボニファティウスをまつった堂々たる霊廟があった。黒大理石とアラバスター(雪花石膏)を用いたもので、その品格と威厳に圧倒された。ちなみにボニファティウスは、ここでの布教の後、北の北海岸のネーデルランドの地でも、布教活動を行っていた。しかし志半ばで、異教徒によって殺され、その遺骨はフルダの教会堂にほおむられた。そして以後、殉教者として崇拝されているわけである。
フルダ大聖堂の外観
これに関連してドイツ在住の日本人の友人で、敬虔なるカトリック教徒である吉田慎吾氏から、今回次のようなメールをいただいた。
「フルダにおいでになるなら、ドイツにキリスト教を布教して殺害された聖ボニファティウスの墓にお参りすることを、お勧めします。実はこの人の骨のほんの小さな一部(レリクエ)が東京・小岩のカトリック教会に安置されているのです。分骨の世話をしてくださったのは、当地(ケルン)の故マイスナー枢機卿で、私が帰国の時に持ち帰って、東京教区にお渡ししたものです」
この話を私は今回初めて知って、ドイツ旅行の最後にケルンで吉田さんに会った時、さらに詳しく聞くことができた。
フルダの町の別のところも見て回った後、午後の7時過ぎイビス・ホテルに入った。そして旅の疲れをいやした。