ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その3)

第3回(最終回)は、南ドイツの古都ニュルンベルク及び大都会ミュンヘンについてお伝えする。

ハンブルクからニュルンベルクへ

7月24日(水)晴れ

午前6時半、ハンブルクのホテルで朝食。7時半、チェックアウト。そしてホテルに隣接したアルトナ駅から地下鉄でハンブルク中央駅へ移動。今日は北ドイツから南ドイツまで、かなりの長距離の鉄道の旅となる。8時28分ハンブルク中央駅発の新幹線ICE1085に乗り込む。そして予約しておいた1等の指定席に3人は座る。
ドイツの鉄道は、日本の新幹線と同じ広軌だが、1等車の場合、片側が1座席、反対側が2座席になっている。2等車の場合は、両側が2座席だ。そのため日本の新幹線の座席のように窮屈ではなく、ゆったりしている。それから昔ながらのコンパートメント式の座席もあるが、私見では最近は、日本と同じ方式が多くなっているような気がする。

列車は、3日前に北上した時とは逆に南下して、フルダ経由で約5時間で、ニュルンベルク中央駅に、13時25分に到着した。そして大きなトランクを引っ張って、駅に近いインターシティ・ホテルへ移動した。14時、そのトランクをホテルにおいて、近くのレストラン”Schwaenlein(小白鳥)”に入って昼食をとる。ここではニュルンベルク名物の小ぶりの焼ソーセージ6本に大量のサラダなどの添え物が付いた料理を注文した。飲み物としては、地元産の黒ビールを頼んだ。
ドイツに限らす、ヨーロッパの普通のレストランでは、食事の際に、昼でも夜でも、飲み物を何にするか聞かれる。久しぶりに食べたニュルンベルクの焼ソーセージは、期待通りおいしかった。

デューラー・ハウス

昼食後、旧市街をぐるりと取り囲んでいる城壁の外側を走っている市電に乗って、城壁の北側に位置している「デューラー・ハウス」へ向かった。アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、ニュルンベルク出身であるが、ドイツ・ルネッサンス絵画の完成者と言われる画家・版画家である。

ニュルンベルクは、中世末期から近世(15,16世紀)にかけて、南ドイツ有数の商工業都市として、商人や職人の経済力を基にして、文化が花開いた所である。ちなみにワグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー(親方歌手)」は、この町の親方(マイスター)であるハンス・ザックスを主人公にしているが、当時の町の雰囲気を今によく伝えている。またこの町は当時は出版都市としても名高かった。15世紀の後半、大規模な出版社を経営していたアントン・コーベルガーがその代表的人物である。彼は印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業者であった。

私はこの「デューラー・ハウス」を、1970年代前半にも訪れているが、今回その内部展示は、以前に比べ一段と工夫が施されていて、実に見応えがあった。

皇帝の城(Kaiserburg)への入り口

そのあと隣接した高台の上にある「皇帝の城]へ行こうとしたが、家内の足が痛んで高台へは登れないというので、断念する。たしかにごつごつした石畳みの道は、大変歩きにくい。その上今日も強い日差しが照りつけた猛暑日で、やむおえないことではあった。条件が良ければ、さして広くはない旧市街を歩いてみて回るのは、特に困難なことではないのだが、今日も異常な暑さなので、仕方がない。

そのため「デューラー・ハウス」近くの停留所から市電に乗って、午後6時ごろホテルに戻った。そして部屋に入り、シャワーを浴び、ゆっくり休息をとってから、一室に三人が集まって、途中で買った大きなサンドイッチを食べて、夕食とした。長旅なので、とにかく無理をして病気になったり、怪我をしたりしては、元も子もない。そのためホテルの部屋の中で、書類を整理したり、テレビを見たりして、その晩はゆったり過ごした。

ニュルンベルク二日目(近郊の町への遠足)

7月25日(木)快晴

ニュルンベルクのホテルで朝食をとる。そして今日は、長男の提案で、近郊にある小さな町「バート・ヴィンツハイム(Bad Windsheim)」へ日帰り旅行をする。
9時5分、ニュルンベルク中央駅発のローカル列車に乗って、北西方向へ向かった。そしてノイシュタインで乗り換えて、目的地に9時58分に到着。1時間足らずの行程であった。

本来はそこからバスに乗って、郊外の野外博物館へ行く予定であった。しかしじりじり照り付ける日差しの中、野外に長時間滞在するのはつらいので、計画を変更。町中にあるユニークな博物館を訪れることにした。

バート・ヴィンツハイムの郷土博物館の入り口

そこは教会を改造した建物で、一種の郷土博物館になっていた。中を見て歩くと、教会の設備はそのまま残されていて、その間に様々な展示がなされていた。全体としてカトリック勢力が優勢なバイエルン州でも、この北部のフランケン地方は、宗派的にプロテスタント地域なのだ。そのためこうした斬新なやり方で、教会の設備を刷新して、地域の活性化を図っているようだ。

木造の教会の建物のすぐ横に、コンクリートの付属の建物がつけられ、エレベーターで二階と三階へ登れるようになっている。三階まで上がってみると、教会の屋根裏の木組みの部分を見ることができて、興味深かった。

バート・ヴィンツハイムの街角

次いでこの小さな町の曲がりくねった狭い道を、少し歩いた。その途中、この写真に見られる街角があった。道の中央には噴泉があったが、19世紀のロマン主義の歌に出てくるような牧歌的な風景だ。その少し先に「コウノトリ亭」と称する一軒のレストランがあったので、その店に入って昼食をとった。ここでもたっぷりとした郷土料理とフランケン地方の地ビールを堪能することができた。

食後は再び列車に乗って、ニュルンベルクへ戻った。そして中央駅の近くにある堂々たる鉄道博物館を訪れた。この町はドイツの鉄道の発祥の地ともいえる所で、1835年、隣町のフュルトとの間にドイツ最初の鉄道が開設されたのだ。イギリスにおける鉄道開設に遅れることわずか数年ということである。それ以来、ドイツ全国津々浦々に鉄道網が張りめぐらされていったのだが、その先駆けとなったのが、ここニュルンベルクなのである。

ドイツにおける産業革命は鉄道網の発達によって促進された面が強いが、そうした輝かしい歴史の第一歩を記したという光栄を、ニュルンベルクの町は担っているのだ。館内にはそうしたドイツにおける鉄道網発達の様子が手に取るように分かる展示がなされていた。中でも注目すべきは、入り口近くにあった堂々たる機関車である。それはニュルンベルク~フュルト間の最初の列車を引っ張っていった機関車「アドラー(鷲)号」で、まさにこの博物館を代表する目玉なのだ。

レクラム百科文庫の自動販売機

博物館を出ようとした時、偶然私にとっては忘れることができないものに遭遇した。それはドイツの文庫本の元祖ともいうべき『レクラム百科文庫』の自動販売機であった。私はドイツ書籍文化史の一環として、このレクラム百科文庫の歴史を研究し、その成果として『レクラム百科文庫~ドイツ近代文化史の一側面~』という本を刊行した(1995年12月、朝文社)。その269ページに「文庫自動販売機の設置」という項目を設けて、これについて説明している。自動販売機による文庫の販売は、1912年から開始されたのであった。そして1930年代の後半まで注目されたといわれている。

そのあと家内と長男はホテルへ戻ったが、私は一人でなおニュルンベルクの旧市街を見て歩くことにした。先にも述べたが、旧市街の周囲には、城(Burg)を守るようにして、ぐるりと城壁が張り巡らされている。ドイツの多くの都市では、中世以来、城を取り巻くかなり広い囲壁の内部に、商人や職人が住んでいた。そのため元来要塞を意味していたBurg(ブルク) が町を意味するようになり、そこに住む人々(市民)は、Buerger (ビュルガー)と呼ばれるようになった。これはフランス語のブルジョアに相当するものだ。日本では「ブルジョア」は単に「金持ち」といった意味合いで使われているが、ヨーロッパでは、中世以来、商工業の担い手として、やがて都市の実権を握るようになったのだ。

19世紀に入ってドイツ語圏の大都会では、旧市街を取り巻く囲壁は町の発達を妨げるものとして取り壊されていった。しかし南ドイツの中小都市では、ここニュルンベルをはじめとして、日本人観光客に人気のあるロマンチック街道沿いのローテンブルクなど、いまだに城壁が残っているのだ。

さて私は二人と別れてから、囲壁の所々に設けられている城門の一つを潜り抜けて、旧市街に入った。そしてまず、囲壁近くにその堂々たる威容を見せている「ゲルマン国立博物館」を訪れた。40年ほど前にも一度この博物館に入ったことがあるが、当時は煉瓦造りの重厚な建造物であった。その後建物全体がぐんと拡張されたようで、コンクリートとガラス張りの新館には驚かされた。
「ゲルマン」という名称がつけられているが、その実態は、さまざまな分野の展示物を所蔵・展示している総合的な大博物館なのだ。その展示があまりに多岐にわたっているので、短時間ではとても見切れない。そうこうしているうちに、午後6時となり、閉館の時刻となって、追い出された。

そのあとは旧市街を北上して、ローレンツ教会に入った。この辺りは旧市街の中心部に近く、人々の往来が激しくなっていた。教会の中にも見るべきものはあったが、午後7時にはホテルに帰ると二人に約束したので、そそくさと出てきて、大通りを急ぎ足で南下した。そして囲壁のすぐ手前にあるマーケットに立ち寄った。そこはかつての職人たちの生活の場だったところだが、狭い小路に立ち並ぶ店を短時間で見て回った。

そして家内と長男が待つホテルへと戻った。そのあと一休みしてから、三人で外に出て、夕食をとる場所を探した。ドイツ料理には飽きていたので、この時は中央駅近くのイタリア料理店に入って、パスタ料理とイタリアワインの食事を楽しんだ。

ニュルンベルクには玩具博物館があるが、昔から玩具の生産と販売が盛んであった。70年代にドイツの放送局に勤めていた時、私は玩具見本市を取材したことがある。また12月にはドイツで最も有名なクリスマス市が立ち、日本からも大勢の観光客が押し寄せている。さらにナチスの時代には、近郊で定期的に華々しく演出された党大会が開かれていた。その様子は、今でもテレビなどを通じて繰り返し、紹介されている。その広大な広場は、なお残っていて、私も一度見に行ったことがある。そのがらんとした空間は、私の目には、まさに「つわもの共の夢のあと」のように映った。

ミュンヘン一日目

7月26日(金)晴れ

午前8時、ニュルンベルクのホテルで朝食。9時20分、チェックアウト。ニュルンベルク中央駅9時55分発のICE503に乗り込み、11時にミュンヘン中央駅に到着した。この町はバイエルン州の州都で、南ドイツ随一の大都会だが、ここへはこれまで何度か来ている。しかし最近は足が遠のいていて、1993年以来、
26年ぶりのことだ。

中央駅構内は大変な雑踏で、その中をガラガラとトランクを引きずりながら移動し、ロッカーにそれらをしまう。そしてただちに地下鉄に乗り、中心部にあるマリーエン広場で下車。そして人々の間を潜り抜けるようにして、新市庁舎前の広場に上がっていく。

ミュンヘンの新市庁舎

この新市庁舎はネオゴッシック様式の建物で、1867年~1909年に建てられた。このマリーエン広場辺り一帯は、ミュンヘンの中でも、一番人気のあるところだ。三人はまずは人ごみを掻き分けるようにして、新市庁舎の中に入り、長い行列に並んでエレベーターに乗り込んだ。降りたところは高さ85mの展望塔の上部であった。この広場周辺は何度も来ているが、塔の上に上がったのは、初めてだ。大都会ミュンヘンのたたずまいを眺望するのに、ここは格好の場所なのだ。

仕掛け時計の人形

そのあとエレベーターで下へ降りて、再びマリーエン広場に出た。12時5分前だ。広場には、前にも増して大勢の人々が集まっている。人々は、新市庁舎正面に取り付けてある仕掛け時計と2階と3階の人形たちを、じっと見ているのだ。正午の時報が鳴り出すと、まず3階の騎士たちがぐるぐる回りながら、正面に出てきては背後に消えていった。次いで2階の町民たちが踊りながら回転して、背後に消えていった。今回はちょうどタイミングよく、この仕掛け時計と人形の踊りを見ることができた。

このイベントが終わると、人々は三々五々、広場を離れていった。我々三人も、すぐ近くの聖母教会の中に入っていった。この教会の2本の塔はミュンヘンのシンボルになっているが、内部はステンドグラス以外は質素だ。そのあと、ミュンヘンで最も古く、11世紀前半からあったペーター教会の中を見学した。この方は内部が大変装飾的で、数多くの人間の彫像が見事だ。

外に出ると、ヴィクトアーリエン市場にぶつかった。たくさんの屋台では、新鮮な野菜、果物、肉類その他の食品などが売られている。市場のそばの一軒のレストランに入り、昼食をとった。外は人々の雑踏でうるさいが、一歩店の中に入ると静かで、バイエルン風の肉料理と本場の地ビールを大ジョッキで堪能する。日本ではドイツビールと言えば、ミュンヘンのビールが最もよく知られているが、自分としてはドイツ各地の地ビールを味うことを楽しみにしている。

食後は、イーザル門を通り抜けて、イーザル川の畔に出た。ミュンヘン市内を流れているイーザル川の名前は、日本ではほとんど無名だが、大河ドナウの支流で、ドイツとオーストリアの国境付近で合流しているのだ。

イーザル川での水遊び

今日もまた、じりじりと太陽が照りつける猛暑の一日で、この暑さをしのぐためか、人々はさして幅の広くない川の中で、水遊びをしている。こちらもできることなら、一緒に川の中に入りたいぐらいだ。ただ、そうもいかないので、三人は近くの山岳博物館の中に入った。

ミュンヘンは南ドイツの中でもかなり南部にあって、町の南には大小の湖が点在している。そしてさらにその南には、オーストリアとの国境をなしているバイエルン・アルプスが、東西に横たわっている。その最高峰はツーク・シュピッツェと言い、ドイツで最も高い山で、高度は3千メートル弱だ。その山頂へは北麓の中腹から空中ケーブルが通じていて、一挙に到達できる。三十数年ほど前に、その空中ケーブルに乗ったことがある。山頂の反対側は、もうオーストリア領なのだ。

この山岳博物館自体はあまり見るべきものがなかった。それで長居はせずに、市電に乗ってミュンヘンの中心部を通り抜けて、中央駅にたどり着いた。そしてロッカーの中からトランクなどを取り出して、地下鉄で市内の西方にあるイビス・ホテルへ移動した。そして途中で買ったサンドイッチ、サラダ、飲み物を、ホテルの部屋で食べて、夕食にした。

ミュンヘン二日目(ローゼンハイムへ小旅行)

7月27日(土) 晴れ

今日は、ミュンヘンの東南部に位置している町ローゼンハイムへ日帰りの小旅行。
ホテルから地下鉄でミュンヘン中央駅へ移動し、ローカル列車に乗り込んだ。そしてほどなくローゼンハイム駅に到着した。駅の周辺はのどかな雰囲気で、ここまで来るともう、アルプスも近い。同時にオーストリア国境もまじかだ。駅前でタクシーを拾い、ただちに中心街から離れた所にある「イン博物館」へ向かった。

イン博物館の外観

そこはイン(Inn)川の畔にある郷土博物館だ。イン川を中心に、この地域で昔から営まれてきた産業や人々の生活について展示した博物館なのだ。館内には人影がなく、受付の老人も手持無沙汰の感じ。それだけにとても親切に、いろいろとこちらの質問に答えてくれた。

このイン川は、源をスイス・アルプスに発し、オーストリア領を通って、やがて南ドイツに入り、このローゼンハイムの町の中を流れているわけだ。そしてさらに北東方向へと向かい、パッサウで大河ドナウに合流している。全長517Kmで、途中にはスイスのサン・モリッツや、かつて冬期オリンピックが開かれたオーストリアのインスブルックなどがある。

展示を通じて知ったことだが、イン川はアルプス周辺のこの地方の人々にとって、昔から物資を運ぶ重要な交通路になっていた。そして素朴な木造の平底船によって、穀物、ワイン、食用油、岩塩、たばこその他が運搬されていたという。館内にはその平底船の等身大の精巧な模型が置かれていて、とても興味深かかった。

平底船の模型

川下への航行には労力を必要とせず楽だが、急流を通過するときは危険が伴った。いっぽう川上への航行は、動力を使わない時代には、人間や動物が川の両側で船を引っ張らねばならなかったという。有名な「ボルガの舟歌」を描いた絵画を思い出し、おもわずその歌の一節を口ずさんでみたくなった。ただし歌詞がうろ覚えだったので、歌うことはやめにした。

やがて19世紀の半ばに蒸気船が導入されると、この点はぐっと改善されたという。博物館で入手した蒸気船を描いた絵ハガキには、1854年という年号が書かれている。

イン川の畔

「イン博物館」を出てから、すぐ近くを流れているイン川の畔に沿って、しばらく散歩した。この辺りは、ローゼンハイム市の郊外にあって、なんとものどかな風景であった。時計を見るとすでに昼時になっていたので、町の中心までかなりの道のりを歩いて行って「木槌亭」という一軒のレストランに入った。ここでも外の席は満員であったが、室内に入ると客が少なく、テーブル席もたっぷり空いていた。しかも外の騒音もあまり聞こえず、落ち着いた雰囲気であった。ドイツ人は,日の長い夏の季節には、太陽の下で過ごすのが好きなようで、たいていの料理屋は、夏には室内ががらがらなのだ。

「木槌亭」の外のテーブル席

今日は土曜日のせいか、町の中心部は、人でいっぱいだ。大道芸人の周りには、人だかりがしていた。帰路、アイスクリームを食べながら、ローゼンハイム駅へと向かった。そして再びローカル線の列車に乗り、午後4時ごろミュンヘン中央駅に戻った。

家内は暑さのために疲れたといって、長男の付き添いでホテルへ戻っていった。こちらは、せっかくの機会で、まだ時間もあったので、中央駅北部の美術館へ向かった。しかし目指す古代美術館は、閉鎖中だったので、近くの近現代美術館に入った。そこではドイツ表現主義の一派「青騎士」グループのカンディンスキーやフランツ・マルクなどの絵画を見て回った。
そして中央駅から地下鉄に乗って、やや離れた所にあるイビス・ホテルに戻った。

ミュンヘンからケルンへ

7月28日(日)曇りのち雨

昨日までの猛暑から一転して、今日は曇天のやや涼しい気候になった。ミュンヘンのホテルで、朝食をとり、チェックアウト。タクシーで中央駅へ向かった。この駅は現在工事中で、外壁の装飾などは隠れていて、中央駅としてのたたずまいは感じられない。その構内を大勢の人々が、忙しそうに動き回っている。この点は、東京の新宿駅とか渋谷駅などとあまり変わりがない。

今日は長男が住むケルンまでの長旅だ。9時28分発のICE61号に乗ったが、列車は西北方面へ向かって走り出した。そしてアウクスブルク、ウルムといった南ドイツの都会を通って、西南ドイツの大都会シュトゥットガルトに着いた。さらに列車は西北へ進み、ライン川畔の町マンハイムに、12時28分に到着した。

この間、前方と斜め向かいの席には、ドイツ人の祖母、両親、姉一人、男児二人の大家族が陣取っていた。そして男の悪ガキ二人が、通路を走り回ったり、寝そべったり、大声を発したり、傍若無人の振る舞いを重ねていた。親も祖母も特に叱ったりする風もなく、周囲の人たちも知らん顔。こちらとしては、困惑はしていても、直接注意するわけにもいかず、迷惑千万であった。1970年代にはじめて西ドイツに赴任した時は、他人の子供であっても、迷惑行為に対しては厳しく叱責する大人がいて、感心したものだ。今回目撃したのが特別なケースなのかどうか知らないが、ドイツの列車の中で初めて体験したことであった。

ライン中流域の渓谷を走る

我々三人は、マンハイム駅でケルン行の特急に乗り換えたが、それによってようやくこの悪ガキ共と別れることができ、ほっとした。そして列車は少し先のマインツからは、ライン川中流域の風光明媚な渓谷の中を走ることになった。マインツからリューデスハイム、コブレンツそしてボン、ケルン辺りまでの間は、いわゆるライン川観光の遊覧船がゆっくり動いているのだが、汽車のほうは谷底の狭いところを川の両岸に沿って走っている。

その間、崖の上には中世以来の古城の数々が見え隠れしている。また岸辺からの斜面にはワイン畑が広がっている。それからまた、歌にもよまれ、日本人にもよく知られているローレライの断崖絶壁もある。このあたり、ラインの流れは曲がりくねっていて、しかも急流である。伝説によれば、このローレライの断崖の上に、一人の乙女が座って、歌を歌っていたが、流れを進んでいた船乗りがその美声に聞きほれるあまり、かじ取りを間違えて岩にぶつかり、命を落としたという。

私が長期滞在していた1970年代や80年代には、日本人へのサービスとして、断崖の下のところに、ドイツ語と並んで日本語のカタカナで「ローレライ」と書かれた看板が取り付けてあった。その後その看板は取り外され、”Lorelei”
というドイツ語の看板だけが残っている。

やがて列車は15時5分、ケルン中央駅に到着した。そして小雨降る中、ただちにタクシーに乗り込み、長男の自宅に戻った。ゆっくり休んでから、夜には長男手作りのスパゲッティとビールの食事をとった。

ケルン滞在(ドイツ最後の日)

昨夜はたっぷり寝て、今朝は午前7時に起床。8時過ぎ簡単な朝食。
11時過ぎ,133番のバスに乗って、旧市街のホイマルクトで下車する。そのあたりから中央駅や大聖堂までがケルンの中心街だ。近くの大型電気店「ザトゥルン」に入り、CD音楽カセットやパソコンなどを見て歩く。そのあと趣のあるレストランや居酒屋が集中しているアルターマルクト地区へ移動した。

そして我々三人が訪れたのは、その中の老舗の居酒屋”Brauhaus Sion(ブラウハウス・ジオン)であった。ここはケルン産のビール(Sion)を醸造している店の直営酒場(レストラン)なのだ。この店で我々は、私が昔務めていた放送局の同僚である吉田慎吾さんと鈴木陽子さんに会って、会食したわけである。もう一人ベルリン在住の同僚永井潤子さんが来る予定であったが、連日の猛暑のために体調を崩して、急きょキャンセルになった。

とはいえ店内は客が少なく、静かな環境の中で、五人は午後1時から5時ごろまで、さまざまな話題を巡ってお喋りを楽しんだ。この二人とは、これまで私がケルンを訪ねると必ずと言っていいほど、しばしば会ってきた仲で、一昨年2017年8月にも、別の居酒屋で会っている。この時は放送局の上司のドイツ人クラウス・アルテンドルフさん及び旧同僚の佐々木洋子さんとそのドイツ人のご主人も出席していて、賑やかであった。アルテンドルフさんは2014年4月に85歳を迎え、それを祝って放送局の旧同僚がおおぜい集まって祝賀会が開かれた。それから数えてもう5年が過ぎ、90歳の高齢で、今年の会食には出てこられなかったのだ。

ケルンの居酒屋での会食(2017年8月)

左から家内、長男、鈴木さん、吉田さん、アルテンドルフ氏

左からアルテンドルフ氏、ケーベルレ氏、佐々木さん、戸叶            

日本への帰国

本日はドイツ滞在の最終日だ。長男の家で午前7時半過ぎに起床。遅い朝食の後、帰国の準備を始めた。大きなトランクやリュックサックに荷物を詰めていく。いろいろ詰めなおしたりした後、結局私のトランクの重量は23キログラム、家内のは20キログラムで、航空機に預ける制限重量の中に納まった。

13時過ぎ、三人はタクシーでケルン中央駅へ向かった。そして14時55分発の列車ICE109号で、フランクフルト空港駅へ移動した。鉄道駅でも空港でも、最近はすべて自動化していて、機械操作を正しくすれば、いとも簡単に済んでしまう。ただ今回は幸い長男がすべて手続してくれたのでよかったが、そうでなかったら困難に陥ってしまったかもしれない。昔私が一人で旅行して回っていた時は、こうした自動化はまだなく、言葉によって問題は解決していたのだ。

それはともかく、そうした手続きを済ませた長男とは、フランクフルト空港駅で別れた。家内と私は二つのトランクをカウンターに預け、出国手続きをしてから、出発ロビー内の免税店などに立ち寄り、お土産を買い足し、搭乗口近くの待合場所についた。
そして18時10分発のルフトハンザ機に乗り込んだ。機内は日本人を中心にほぼ満席。私の隣の席の日本人S氏とすぐに話を始めたが、その人は大学と高校で数学を教えているという。そして今回は数学者の足跡をたどって、イタリアの各地を旅してきたという。私も自己紹介をして、これまでのヨーロッパ滞在中のことを、いろいろお喋りした。そのため機内でも退屈することなく、過ごすことができた。

11時間の長旅の後、翌31日(水)の正午過ぎ、無事羽田空港に到着した。日本を出発した7月16日(火)には日本はまだ梅雨のさなかで、羽田も雨だったが、本日は梅雨が終わり、猛暑の真夏になっていた。預けた荷物を受け取ってから、タクシーで世田谷の自宅に戻った。

 

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その2)

第2回は北ドイツの港町で、旧ハンザ同盟都市のリューベック及びハンブルクについてお伝えする。

フルダからリューベックへ

7月21日(日) 晴れ

朝食後、フルダのイビス・ホテルでチェックアウト。そしてタクシーでフルダ駅へ。9時4分発のICE886号に乗り、ドイツ中央部を北上する。はじめトンネルの多い中部山岳地帯を通り抜け、やがて北ドイツ平原に出る。そして見本市でよく知られた中都会ハノーファー(日本ではハノーバーと言われている)に到着。ニーダーザクセン州の州都だが、第一次大戦以前、ハノーファー王国の都だった。

この王朝からは、18世紀の初め、血縁者が、イギリス国王ジョージ一世として迎えられている。本人は英語ができず、ドイツ滞在が多かったため、その治世、王に代わって行政を担当する首相と内閣の制度が発達したといわれている。「王は君臨すれども統治せず」をモットーとしていた当時のイギリスの政治家にとっては、政治にくちばしを入れられなかったので、都合がよかったのだろう。『世界史用語集』によれば、ハノーヴァー朝(1714~1917)は、その後実に2世紀余りにわたって続いたのだ。

この間、この地域はイギリスと親しい関係になり、さまざまな分野で先進的なイギリス文化や制度が、導入されていったという。たとえば同王国のゲッティンゲン大学は、イギリスからの先端的な文化の導入や人事面での交流があって、当時のドイツの一流大学へと発展した。明治以降、日本からも多くの学生・研究者がゲッティンゲン大学へ留学しているのだ。

さて話は横道にそれたが、列車は12時半に大都会ハンブルクの中央駅に到着した。そして13時4分発のローカル列車に乗り換えて、その北東部にある港町リューベックへ向かった。そしてその中央駅に13時48分に着いた。港町と言っても、この町はバルト海のリューベック湾には直接面してはいず、トラーヴェ川を少し遡った所に位置している。

とはいえ中世後期には、バルト海を中心に北ドイツ、ポーランド、ロシア、スカンディナヴィア地域の諸都市から、さらにライン川をさかのぼった所にあるケルンそして北海に通じたハンブルクや、かなり西のロンドンなどの都市にまで広がって、国際交易のための「ハンザ同盟」の盟主だったのが、このリューベックなのだ。そのため「ハンザ都市リューベック」という称号を持ち、いまなおその伝統を誇りにしているわけである。

さてわれわれ三人は、中央駅のコインロッカーに大きな荷物をしまい、身軽になって、昼食をとるために旧市街へ向かった。そこは中央駅から歩いて行ける距離にあるが、四方を運河で取り囲まれた中の島の上に位置している。この点第1回でお話ししたストラスブールに似ているといえよう。その地域に入る少し手前に、リューベックの象徴としてよく知られ、紙幣の図柄にもなっている「ホルステン門」が見事な姿を見せていた。

ホルステン門

三人はこの門の傍らを通り過ぎて、運河にかかった橋を渡って島の中に入った。そして左折して運河に面した一軒の魚料理店に入った。店の名前は「Seewolf
(おおかみうお)」という。時刻は午後2時半で、店内に客の姿はなかった。しかし尋ねてみると、営業しているという。
三人は席について、まず地元の生ビールを注文。食事のほうはそれぞれ別の魚料理を頼んだ。私は衣つきのタラ料理だが、添え物は好物のジャーマンポテト。ビールにぴったりだ。空腹を十二分に満たしてくれた。店内にはいたるところに、海に関連した品々が置かれていた。また天井からはいろいろな漁具や船の模型などがつりさげられ、まさに港町の雰囲気を堪能できた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”の店の人は素朴で、親切。ドイツ語でこの辺りのことをいろいろ尋ねてみたが、北ドイツ人の特性と言えるのかどうか、静かな調子で淡々と答えてくれた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”

食後には、近くの比較的狭い通りを散歩する。そこは石畳を敷き詰めた道だが、風情はあるものの、でこぼこしていて歩きにくい。とはいえ道路の両側には、北ドイツ特有の茶色ないし黒色の煉瓦造りの数階建ての建物が立ち並んでいる。

煉瓦造りの数階建の建物

その一角にマリーエン教会があったので、中に入る。この教会の目玉は天文時計と立派なパイプオルガンだ。そのオルガンは何故か”Totentanzorgel(死者の舞踏オルガン)と呼ばれている。そして北ドイツ地域の代表的なオルガンだということを、事前に、オルガン奏者でもある家内の実兄の馬淵久夫さんから聞いていた。またバロック音楽の作曲家ブクステフーデが、この教会のオルガンを弾いていたという事も、聞いていた。そのため家内は教会内の売店で、ブクステフーデが演奏した作品を収録したCDを買い求めた。

マリーエン教会の天文時計

マリーエン教会を出ると、日曜の午後という事で、あたりは大勢の人で混雑していた。教会の隣には、見上げると空高くそびえ立つ建造物が建っていた。その建物にはいくつもの尖塔があり、その下に円形がくりぬかれている造形が、特徴と言えよう。大変印象的だ。それがリューベックの市庁舎なのだ。

リューベックの市庁舎

市庁舎前の広場も、人々でごったがえしていた。長男の提案で、その市庁舎の中には入らずに、二・三軒先にある聖ペトリ教会へと向かった。そして教会の塔を、エレベーターで上って行った。そこからの眺めは、旧市街全体を十分見下ろせるばかりでなくて、ホルステン門や遠くの市街地まで、まさに眺望絶佳であった。

そのあと旧市街を離れ、先ほどは傍らを通り過ぎたホルステン門に入っていった。
門の内部は博物館になっていて、昔の人々の暮らしに関連した品々が展示してあった。三階建になっていて、狭い石段を上って、それらの展示を一通り見て回った。

そのあとリューベック中央駅構内のロッカーにしまっておいた、大きなトランクを引き出して、タクシーで町はずれのイビス・ホテルに入った。夕食は、そとで買ったサンドイッチやサラダ、飲み物をホテルの部屋で取った。そして一日の疲れをいやすため、早めに就寝した。

リューベック二日目

7月22日(月)小雨 イビス・ホテルで8時半、朝食。9時半、ホテルを出て、タクシーで、島の一番北の旧市街はずれにある「ハンザ博物館」へ直行する。この博物館は、運河の北側と島の内部を結ぶ城門のすぐ近くにある元修道院の建物を改造して2015年に開設されたばかりだ。ハンザ同盟に関連した本格的な博物館である。中の展示は豊富で、いろいろと体験することができる「体験型の博物館」だ。

ハンザ同盟は、『世界史用語集』によれば、リューベックを盟主として、13世紀後半から発展したもので、ハンザは「商人の仲間」の意味。1358年に明確に都市同盟の形をとった。加盟都市は100を超え、共通の貨幣・度量衡・取引法を決め、陸海軍を維持し、国王や諸侯に対抗して北海・バルト海一帯を制圧した。しかし、主権国家体制が成立し始めた16世紀以降次第に衰え、17世紀初めには、ほぼ実体を失った。
展示を見終わって、博物館の中にあるレストランで昼食をとった。

博物館を出ると、小雨が降りだしてきた。今回の旅行で初めて雨傘を取り出して、石畳の狭い道を移動していった。そして「ヴィリー・ブラント・ハウス」に入った。この町出身のブラントは、1969年から1974年まで、社会民主党の党首として、自由民主党との連立政府で、西ドイツの首相を務めた人物である。
この「ハウス」では、ブラントの生涯と業績を詳しく説明した展示がなされていた。彼の最大の業績は、米ソの冷戦体制のはざまにあって、ソ連、ポーランド、東独、チェコスロヴァキアとの間に、それぞれ条約を結んで、東西間の融和と緊張緩和を図ったことである。その政策は新東方政策として歴史に名を残している。そしてその功績によって、ノーベル平和賞を受賞した。

私はブラントが西独の首相を務めていた時期にほぼ重なる1971年10月から1974年末までの三年間、NHKから派遣されてケルンのドイチェ・ヴェレ(ドイツ海外放送)の日本語番組を担当していた。その時、毎日のようにラジオのニュースや番組などで、ドイツを中心としてヨーロッパ全般の政治・経済・社会・文化などに関して、日本の聴取者に知らせていた。そんなこともあって、ブラントのことは三年間、常に私の関心の的であった。

1972年のことだったと思うが、西ドイツで総選挙が行われた時、ブラントは私が住んでいたケルン市の中心にある広場で、演説を行った。その時私は広場の聴衆の一人として、彼独特の ゆっくりとした、粘り気のある話ぶりに、すぐ近くで接したわけである。また新聞、テレビ、ラジオでは、毎日のようにブラントをめぐる話題に触れていたのだ。
私はその後1983年4月から1986年3月まで、三年間再び同じ放送局で仕事をした。その時は保守系のキリスト教民主同盟のコール首相の時代で、政治ばかりでなく、さまざまな面で、70年代とは違っていた。

さてブラント・ハウスを出てすぐ近くに、西ドイツの作家でノーベル賞を受賞したギュンター・グラスの家もあった。彼もリューベックの出身である。革新系の政治信条の持ち主かどうか、詳しいことは知らないが、ブラントの選挙を応援していたのだ。作品としては『ブリキの太鼓』が代表作と言われ、映画化もされていて、私もその映画を日本で見ている。しかし時間の関係で、その家はパスして、近くにある「ブッデンブローク・ハウス」に入った。                 この建物は「マン兄弟博物館」とも呼ばれているが、ドイツの有名な作家ハインリヒ・マンと弟のトーマス・マンの記念館なのだ。ノーベル賞作家のトーマス・マンは、名高い小説「ブッデンブローク家の人々」を書いているが、彼の親や祖父やさらに数代先の先祖も、リューベックの商人で、市の有力市民なのであった。その代々の家が「ブッデンブローク・ハウス」なのである。マン兄弟はこの祖父母の家を、しばしば訪れていたという。

ドイツを代表する知識人・作家の博物館だけあって、訪れる人は多く、その中には若者たちも少なくなかった。またその展示は実に豊富で、短時間ではとても見切れないものであった。

そこを出てしばらくすると、昨日も見た市庁舎の前の広場が現れた。晴れていたらトラーヴェ川の河口でバルト海に面しているトラーヴェミュンデまで遠出したいと思っていたが、あいにく小雨が降り続いていたので、残念ながらその計画は断念することにした。
そしてそれ以上石畳の狭い道を雨の中歩くのは、決して楽ではないので、早めにホテルに戻って休息した。

そのあと元気を回復したので、夕方の5時半ごろ再び外へ出て、歩いて中央駅周辺へ向かった。そして駅前のイタリアレストランに入って、今回初めてスパゲッティー料理を口にした。味も大変よく、分量もたっぷりしていて、十分満足した。そしてホテルに戻って、早めに就寝した。

ハンブルク見物

7月23日(火)晴れ

今日は再び天気が良くなった。7時起床。8時半ホテルをチェックアウトして、タクシーでリューベック中央駅へ。9時8分リューベック発のローカル列車に乗り、ハンブルク中央駅に9時51分着。そして近郊電車(S-Bahn)に乗り換えて、ハンブルク・アルトナ駅へ移動した。そして駅に隣接した所にある「インターシティ・ホテル」に入った。チェック・インして部屋に入り、荷物を置いて、身軽になって、ただちにハンブルク市内観光へ出掛ける。

ハンブルクはドイツ第二の人口の大都会。これまで何度も訪れたことがある。リューベックと同様に、中世以来の「ハンザ同盟都市」であることが、今でもこの町の誇りとなっている。ドイツ有数の大河であるエルベ川の河口近くの港町であるが、北海に面したその河口からは70キロほどさかのぼった地点に港としての機能が集まっている河川港である。

リューベックはユトランド半島の東側のバルト海に面していたため、16世紀の大航海時代の幕開けとともに大西洋に国際交易の重点が移り、次第に没落していった。それに反して同じハンザ同盟都市であったハンブルクは、大西洋に近い北海に面していたこともあって、その後もうまく立ち回って、貿易を中心に発展してゆき、ドイツ有数の大都会になって、今日に至っている。

私が初めてドイツを訪れたのは1971年秋であった。日本からの飛行機はアラスカのアンカレッジで一度乗り換え、北極上空を飛んでスカンディナヴィア半島を越えて、ハンブルクに到着した。飛行機が空港近くで高度を下げ始め、ハンブルク市が窓の外に見えてきたとき、緑あふれる森の中に赤褐色の屋根の住宅が見事にその色をそろえていた。日本のように建物の色彩がバラバラでなく、実に程よく調和していて、なんと美しいのだろうと感激したものである。

さて今回のハンブルク観光はわずか一日の行程であるため、目的地を港湾地区の見物に絞ることにした。我々三人はホテル近くの停留所からバスに乗って、その港湾地区へ向かった。最初に訪れたのは、エルベ川に面した所に立っている音楽ホール
「エルプ・フィルハーモニー」であった。2017年1月に開館したばかりで、昔の赤レンガ倉庫の上部に,波の形をイメージした総ガラス張りの構造物を載せた、大変ユニークな外観になっている。夏場のため、この時期は演奏会は開かれていないが、開館以来すでにハンブルクの新名所になっていて、この日も大勢の人々が建物を見物するために、押し寄せ、周辺からもうごった返していた。

エルプ・フィルハーモニーの外観

その人ごみに交じって、1階の入り口から長いエスカレーターに乗って、上階へ上った。そこは演奏会場の手前の広々としたロビーになっていて、ガラス張りのため、窓際に近づくと、外の景色への眺望がすばらしい。窓際に沿って移動していくと、ハンブルク市内の街並みがよく見え、また反対側に回ると、眼下に広々としたエルベ川の景観が目に入ってきた。

フィルハーモニーから見たエルベ川

あいにく演奏会場への扉は閉まっていたが、その音響設計には、日本人の豊田泰久氏が携わったという。本当はその音楽ホールも見たかったのだが、それはまたの機会にという事にして、ロビーの一角の土産物コーナーへ向かった。そして記念にブラームスの「交響曲3・4番」が収録されているCDなどを買い求めた。演奏は北ドイツ放送局管弦楽団。ブラームスはハンブルクの出身で、その音楽は北ドイツの重々しい風土を反映しているといえよう。私の大好きな作曲家だ。フランスの女流作家フランソワーズ・サガンに「ブラームスはお好き?」という作品があるが、フランス人の中にもブラームスが好きな人は、少なくないと見える。

「エルプ・フィルハーモニー」を出てから、歩いて港湾地区の一角に集まっているポルトガル料理店の中の一軒の店”Casa Madeira”に入る。どこの国でも港には世界各国の船乗りなどが立ち寄るものだが、この地区には昔からポルトガル人が集まって、一つのコロニーを形成しているらしい。先日ある新聞記事で、16世紀にスペイン・ポルトガルで、カットリック教徒以外のユダヤ人などが、迫害された時、このハンブルクにもかなりのユダヤ人(ポルトガル人)が逃げてきたという事を読んだ。その事と、このポルトガル人コロニーとどんな関係があるのか、調べてみたら面白いだろう、と思った。

この店では三人とも、イカのグリル料理とポルトガル産のビールを注文した。先にリューベックでも魚料理を食べたが、やはり港町にふさわしいものと言えよう。味も分量も満足のいくものであった。ただ一般に内陸部に住む多数派のドイツ人の庶民はあまり魚を食べないようだ。たとえば私が住んでいた内陸部のライン川の畔の都会ケルンで、1970年代、80年代に付き合っていたドイツ人の庶民の中には、魚を食べたことがないといった人も結構たくさんいた。                昼食の後は「エルプ・フィルハーモニー」近くの桟橋から無料の遊覧船に乗って、しばらくエルベ川の両岸の景色を楽しんだ。その船は5分ばかりで、別の桟橋に着いた。そこには、かなり大きな三本マストの帆船が停泊していた。

帆船”Rickmer Rickmers(リックマー・リックマース)号

その船は観光用の博物館になっていて、一人5ユーロ(625円)で、内部を詳しく見て歩くことができるようになっていた。その入場券には、”Museumsschiff   Rickmer Rickmers(博物館船リックマー・リックマース)”と書かれていて、さらに「ハンブルクの浮かぶ象徴」とも付け加えてあった。リックマーは、代々この帆船の持ち主だった一族の名前なのだ。内部の展示を見ていくと、リックマー家が、貿易商人として、19世紀から20世紀にかけて活動してきた様子が、つぶさに分かるようになっていた。

聖ミヒャエル教会

次いで我々は、「水上から見たハンブルクの目印」と言われている聖ミヒャエル教会に入った。北海からエルベ川をさかのぼって数十キロ進んだ地点に立っている、この教会を見た船乗りたちは、ハンブルクの港に着いたことを実感するのだそうだ。
そのあと三人は港湾地区から地下鉄に乗って、ハンブルク市の中心部へ移動した。市の中心には大小二つのアルスター湖があって、緑豊かな地域だが、湖の周辺には高級ホテルや高級レストランが立ち並んでいる。大都会のど真ん中に、これだけ広々とした湖がある風景は、ドイツの他の都市には見当たらない。

その一角に風格のある、壮麗な市庁舎(Rathaus)が建っている。ドイツでは昔からこの市庁舎は、どの町でも、国王や領主から独立した豊かな経済力を持った市民階級が、町の権力を象徴する建物として、誇りにしてきた建造物なのだ。
その近くの屋外カフェーに我々は席を占めた。そして暑さしのぎに、冷たい飲み物を飲みながら一息入れた。昨日リューベックでは小雨が降っていたためかやや涼しかったが、今日のハンブルクでは、再び晴天となり、暑さのほうもぶり返してきたのだ。その暑さをしのぐには、冷たい飲み物だけではなく日陰にいることが肝要だ。幸いわれわれのテーブル席は大きなパラソルによっておおわれていた。そして湖から吹いてくる涼しい風に当たりながら、堂々たる市庁舎を眺めることができた。

アルスター湖畔のカフェ、背後に市庁舎

市内見物はそれぐらいにして、我々はホテルに戻って、一休みした。そして午後7時15分、アルトナ駅近くのレストラン”Schweinske”に入り、夕食をとった。奇妙な名前の店だが、Schwein はドイツ語で豚のことだ。料理のメニューを見ると、やはりポーク料理が目に付いた。そのためこちらもその中の一つを注文し、生ビールをたっぷり飲みながら、ハンブルクの夜を過ごした。

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その1)

私は家内とドイツ在住の長男とともに、2019年7月16日から31日まで、ドイツ各地を鉄道で旅行した。以下3回に分けて旅の模様をお伝えする。第1回は、フランスのアルザス地方及び中部ドイツのフルダ。第2回は北ドイツの港町で旧ハンザ同盟都市のリューベックとハンブルク。そして第3回は南ドイツの古都ニュルンベルクと大都会ミュンヘンについてお話していく

東京からドイツのケルンへ

7月16日(火) この日東京は朝からどんよりとした梅雨空。午前9時、家内と私は迎えのタクシーに大きなトランク2つを載せ、世田谷の自宅を出て、羽田空港へ向かった。9時40分ごろ、国際線ターミナルに到着。ANAの受付に荷物を預け、海外旅行保険の手続きをした。そして構内をしばらく散歩してから、出国手続きをして、出発ロビーへ向かった。窓ガラスの外には、しきりと雨が降り続いていた。

やがて案内アナウンスに従って、ANA(NH223便)の機内に入る。中型機ながら、機内はすいていて、エコノミークラスの座席は半分ほどしか埋まっていなかった。それだけ快適だったのだが、7月16日(火)が、まだ学校の夏休みに入っていないためかと思った。
午前11時15分出発。それから12時間の空の旅だ。日本海を越え、ユーラシア大陸北方のロシア連邦の上空をひたすら西へと進んでいった。その間イヤホーンを耳に入れて、座席の前に設置された画面で、2時間ほどの映画を3本見たり、音楽を聞いたり、あるいは新聞雑誌を読んだりして過ごした。その間に2回の食事と飲み物のサービスを受けた。

途中特に問題もなく、同じ日の午後4時過ぎ、ドイツのフランクフルト空港に到着。入国手続きをし、預けた荷物を受け取ってから、空港内のロビーで長男の出迎えを受けた。今回はケルン大学で宇宙物理の研究員をしている長男の休暇に合わせて、以後2週間、主としてドイツ各地を鉄道に乗って、3人で旅をしたわけである。汽車の切符や宿泊するホテルの予約などは、すべて長男が手配してくれた。

18:09フランクフルト空港駅出発のICE104号(ドイツの新幹線)に乗車。19:05ケルン中央駅到着。ただちにタクシーでケルン市の西郊にある長男の家へ直行。夏時間ということもあって、夏のドイツはまだまだ明るく、日没は午後10時ごろだ。長男の手作りの夕食をとって、その日は彼の家に泊まる。

7月17日(水) この日はそのまま彼の家に滞在して、これからの2週間弱の旅の支度を整える。特に外出もせず。テレビを見たり、3人で雑談したりして、のんびりと休息を取る。3度の食事は長男が作ってくれる。

ストラスブール市内見物

7月18日(木)晴れ

朝食後3人は迎えのタクシーに乗り、ケルン中央駅へ向かう。汽車に乗ってフランスのストラスブールへ行くのだ。8時55分、ケルン中央駅からICE103号に乗り込み、南下してカールスルーエ駅に10時58分着。そこで乗り換えて、11時32分発のICE9574号(パリ行)で、ライン川の西側にあるストラスブールへ向かう。この新幹線はパリ行きだ。ちなみにパリはストラスブールの真西500キロほどの距離だという。

列車はライン川の東側の平地を、しばらく南下した。やがてある地点で西へと曲がり、すぐにライン川を渡ると、そこはもうフランス領のストラスブール(Strasbourg)である。ドイツ語ではシュトラースブルク(Strassburg)というが、フランス東部のアルザス地方の中心都市だ。車中では切符の検札はあるが、国境を越えるからと言って、旅券の検査はない。

ご存知の方もいらっしゃることと思われるが、このアルザスと隣のロレーヌ地方は、近世に入って、ドイツ領とフランス領の間を何度も行き来してきたところだ。中世には神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)領であったが、17世紀の後半太陽王ルイ14世の時代に、フランス王国領に組み込まれた。その後19世紀に入り、1871年ビスマルクがドイツを統一したとき、フランスのナポレオン三世を倒して、アルザス・ロレーヌ地方をドイツ第二帝国領に併合した。その後第一次世界大戦でドイツは敗北し、この地方は戦後のヴェルサイユ条約に従って、再びフランス領になった。しかしこの条約に対するドイツ人の恨みの気持ちは強く、ヒトラーが第二次世界大戦を起こすと、またもやこの地方は(フランスの他の地方とともに)ドイツ占領下におかれた。そしてドイツの敗北とともに、フランス領となって、今日に至っている。

説明が長くなってしまったが、そうこうするうちに列車は12時13分、ストラスブール中央駅に到着した。トランクを引きずりながら、駅前広場に出ると、真夏の太陽がさんさんと降り注いでいた。幸い長男が予約したIbisホテルは駅前にあり、すぐに冷房の良く効いたホテルの中に逃げ込むことができた。日本を出発する前から、フランスの猛暑のことはニュースを通じて知っていたが、その暑さがまだ続いていたのだ。チェックインをし、荷物を部屋の中に移し、一休みした。

ストラスブール旧市街の地図

しかし昼時だったので、部屋には長居せずに、外に食べに行くことにした。中央駅のすぐ近くに、運河にぐるっと取り囲まれるようにして旧市街がある。その運河はライン川に通じていて、中世以来交易のルートになってきたのだ。その旧市街の西南地域に、”Petite France” (小フランス)と呼ばれている一角がある。

我々3人はその地域へ向かって歩いて行ったが、やがて運河を渡ると趣のある地区が現れた。そこには小さな運河が張り巡らされ、優雅な建物が軒を連ねていた。そのあたり一帯には緑も多く、家々は美しい草花で飾られている。また運河には小さな遊覧船の姿が見えた。

その中の一軒のレストラン”Lami Schutz”(ラミ・シュッツ)に入ることにした。建物の周囲は緑に囲まれ、屋外にもテーブルと椅子が並べられていた。そこは小さな運河に面していた。午後1時ごろであったが。幸いその店は込み合っていなかった。運河の反対側の店などは、大勢の人でごった返していたが。3人が座ったテーブルには大きなパラソルが立ててあって、ちょうどうまい具合に強い日差しを遮ってくれていた。幸先の良いスタートだなと感じた。

(屋外レストランの食卓と料理)

3人はまず飲み物として、それぞれ白ワイン(Verre Riesling),四分の一Lを注文した。次いで食べ物として、この店の特別ランチのコース料理を頼んだ。はじめに出てきた野菜と肉を混ぜたサラダは美味で、分量もたっぷり。メインディッシュはカスラー(肉)料理だが、添え物としてドイツ料理でよく出てくる[酢漬のキャベツ(Sauerkraut)]がついていた。人によって好き嫌いはあろうが、私などはドイツ料理で、この添え物には慣れていて、すんなり口に入ってくるのだ。こんなところにもドイツとフランスの中間にあるアルザス地方独特の味があるといえよう。周りを見渡すと、人々は真夏の昼下がりを、のんびりとたっぷり楽しんでいる様子だ。

(グーテンベルクの立像)

食後には旧市街の雑踏の中を散歩して、やがてグーテンベルクの銅像が立っている広場に出た。この銅像を見るのは二度目のことだ。私はドイツの印刷出版の歴史を研究しており、今から20数年前にも、この活版印刷術の父の足跡を訪ねて、一人でストラスブールへ来ているのだ。

グーテンベルクは、西暦1400年ごろ、ドイツのライン川の畔の町マインツで生まれたのだが、若き日に金属加工の技術を習得するために、ライン川をさかのぼって、このストラスブールにやって来たのだ。そこで習得した金属加工の技術を基にして、鉛などの活字を作ったわけである。そして活版印刷術を発明し、その後のヨーロッパの文化や社会の革新・発展に大きく貢献したことは、高校の世界史の教科書にも書かれているところである。19世紀以降、活版印刷術の父としてのグーテンベルクの評価と名声は定まり、それに伴ってフランスでもこの人物は顕彰されるようになったのだ。

そのあとこの町の観光の目玉となっている大聖堂に入り、その中にある有名な天文時計を見る。次いでトラムに乗って、旧市街からやや離れたところにあるヨーロッパ議会を訪れた。ご存知のようにEU(ヨーロッパ連合)の主要機関はベルギーのブリュッセルにあるが、立法機関であるヨ-ロッパ議会の建物は、ベルギーからかなり離れたストラスブールに置かれたのだ。19世紀以来、ヨーロッパの覇権をかけてフランスとドイツは戦ってきた。しかし第二次世界大戦後には、独仏融和を目指しヨーロッパ共同体が生まれ、今日のEUへと発展したわけである。

そして独仏融和のいわばシンボルとして、両国の間を行ったり来たりしてきたアルザス地方のストラスブールにヨーロッパ議会が設置された。去る5月このヨーロッパ議会の議員の選挙が行われたばかりで、日本でもかなり大きく報道されたので、皆様も、ご存じのことと思われる。ちなみにEUの執行機関であるヨーロッパ委員会の新しい委員長として、ドイツの国防大臣フォン・デア・ライエン女史が、このヨーロッパ議会によって承認されたのが、一昨日(16日)の夕方であった。就任は今年の11月であるが、そのニュースをドイツ到着後に、長男の家のテレビで知ったばかりで、その意味でもヨーロッパ議会の建物を見られたことは、私としてはひとしお感慨深いものがある。ドイツの放送では、メルケル首相に次いでドイツの女性が国際機関のトップに選ばれたことを大きく報じていた。

(ヨーロッパ議会の建物)

アルザス欧州日本学研究所訪問

7月19日(金)晴れ

午前7時、ホテル・イビスで朝食。8時半、ストラスブール中央駅へ。8時51分発のバ-ゼル行の列車に乗り込み、9時21分コルマール(Colmar)で下車。駅では、旧知のレギーネ・マティアス女史が出迎えてくれる。このドイツ人女性は、ボーフム大学を三年前に定年退職した日本学研究者だ。私が日本大学経済学部に在職していた1998年、彼女と協力して、両大学間に留学生交換制度を作り上げた。毎年一年間、日本人とドイツ人の学生2~3人が、相手の大学へ留学するというもので、21年経った現在もなお、この制度は続いている。

さて我が家の3人はマティアス女史の運転する車で、アルザスの平原を走り、やがてキーンツハイムという小さな村にある元修道院の建物に到着した。この中に
CEEJA(アルザス欧州日本学研究所)があるのだ。同じく日本学研究者のご主人エーリヒ・パウアーさんとともに、長年収集した日本学関連の蔵書をこの研究所に譲渡し、日本人の同僚や研究者から寄贈された文献資料を加えて、研究所の一角に『日本図書館』を作ったわけである。元修道院の広い建物には、数年前まで成城学園の小・中学校があったという。

(アルザス欧州日本学研究所の建物

建物前で車から降りた3人は、久しぶりにパウアーさんの出迎えを受けた。私はその昔、マティアスさんとパウアーさんの結婚式に参列したことがあるが、それ以来の旧知の間柄なのだ。敷地内にはいくつか建物があり、その中のかなり広い場所をパウアー、マティアス両氏が使用して、『日本図書館』を作っているわけだ。膨大な文献資料はまだ未整理のものも多く、今なお現在進行形であり、二人の生涯の仕事だという。また研究所の中には、ほかの人々も仕事をしていた。

私たちは広大な敷地内を順次案内してもらった。そして目玉の『日本図書館』にも入った。まだ未完成だが、すでに欧州の日本学研究者を中心に、日本からも、我々3人のように、関心を抱いた関係者が視察に訪れているという。

未整理資料を我々に見せてくれるパウアー氏

一通り施設を見せてもらった後、眺めの良い二階の部屋でお茶とケーキで一服し、さまざまな話題を巡って話し合い、旧交をあたためた。さらにパウアー、マティアス両氏が住んでいる居間にも案内された。二人はドイツのマールブルク近郊に家を持っていて、今のところは随時、車で往復している。将来はアルザスに移住する予定だという。居間の一角にある本棚には、マティアスさんも大のファンだというドイツの冒険作家カール・マイ関連の本が並べてあり、その中には私が彼女に贈呈した日本語訳の「カール・マイ冒険物語」全12巻も置かれていた。

(パウアー、マティアス両氏の居間で、私と家内も

12時半、近くのレストランへ移動し、5人でテーブルを囲む。そこでもアルザス料理とアルザスの白ワインを堪能しながら、さらに歓談を続けた。その際最近のドイツ事情を、さまざまな側面にわたって聞かせてもらう。二人は日本語が上手で、時にドイツ語を交えて、主として互いに日本語で会話した。

この昼食の後、パウアー氏と別れ、マティアスさんの運転する車で、近くのカイザースベルクにある『アルベルト・シュヴァイツァー博物館』へ案内された。アフリカの聖者として日本でも知られている人物の生家を改造したものだ。オルガン奏者としても名高く、館内には彼が弾いていたオルガンも展示されていた。シュヴァイツアーは医者として長年アフリカで人々の命を救う活動をしていたが、人類の平和を祈願して、幅広い啓蒙活動にも従事していたという。

そのあとマティアスさんは、ヴォージュ山脈の前に続いている小高い丘の上へ連れて行ってくれた。丘の上から東のほうを眺めると、ぼーっとかすむようにして、ライン川の向こうの[黒い森」(Schwarzwald)が見えた。そこはもうドイツ領で、南北に長く続く丘陵地帯だ。モミの木が群生していて、遠くから見ると黒く見えるので「黒い森」と呼ばれているのだ。また我々が上った丘の上の斜面には、たくさんの墓が立ち並んでいた。十字架の形をしたものが多かったが、中には形の違うユダヤ人の墓とイスラム教徒の墓が混じっていた。第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ人に占領されていたこの地方で反抗する戦いが起こり、多くの人が死んだ、ユダヤ人やイスラム教徒の人たちは、フランス解放のためにフランスの植民地から駆り出されたのだという。

そのあとコルマール市に移動し、マティアスさんと別れた。そして市内の「ウンターリンデン博物館」に入った。見るべきものはいろいろあったが、なかでも中世ドイツのグリューネワルトの祭壇画に、圧倒的な印象を受けた。この博物館を最後にして、コルマールと別れ、再び列車に乗りストラスブールへと戻った。

フルダ大聖堂見学

7月20日(土)晴れ

午前7時。ストラスブール駅前のホテル・イビサで朝食。8時半、ホテルをチェック・アウト。そしてすでに日の照りつけている駅前広場を通りぬけて、ストラスブール中央駅に入る。古典様式の格式ある駅舎は、すっぽりガラス製の構造物によって、おおわれている。駅舎の壁面や柱には見事な装飾が施されているのだが、人々の往来や雑踏に紛れて、ゆっくり鑑賞している余裕がなかった。

9時11分発の列車に乗りこみ、ドイツのフランクフルト中央駅で乗り換え、12時10分には、中部ドイツの小さな町フルダの駅に到着した。この町は冷戦時代には東西の境界線近くに位置していた。しかし統一後は、東のライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンなどへ向かう鉄道の幹線に組み込まれるようになり、私は何度もこのフルダ駅を通過したことがあった。

今回はまだ訪れたことがないフルダ大聖堂を見たいと思って、この町に一泊することにしたのだ。時間を節約するために、駅構内のロッカーに大きな荷物を入れ、身軽になってフルダの町見物へと歩き出した。とはいえ今日も真夏の暑さで、強い日差しが照りつけている。駅前からゆるやかな下り坂になっているメインストリートを歩いて、人々の込み合う通りに面した一軒のレストランにまず入る。

”Schwarzer Hahn” (黒い雄鶏)と称する、この料理屋の店の奥まで入っていくと、外の雑踏や喧騒がまるで嘘のように、聞こえなくなった。広々とした店内にはちらほら客がいるのだが、快適そのものだ。肉料理を注文したのだが、出てきた料理の分量に多さに驚く。

腹ごしらえができたところで、いよいよお目当ての大聖堂へ向かう。西暦8世紀の初め、ライン川の東にはゲルマン民族が住んでいて、住民は古くからの自然崇拝の習慣を維持していた。そこへローマ法王の委託を受けた聖ボニファティウスがイングランドからキリスト教の布教にやって来た。そしてここフルダの近くで、神が宿っているとされ、住民の信仰の対象となっていた大きな樫(かし)の木を、聖ボニファティウスは斧で切り倒した。はじめ神の祟りがあるのではないかと住民は恐れおののいていたが、何事もなかったので、やがてキリスト教を信じるようになったという。そしてその地にドイツで最初のキリスト教の教会堂が建てられた。

十字架をかざす聖ボニファティウスの立像

我々は大聖堂に着くとまず隣接した所に立っている地味なミヒャエル教会を見て、この教会と大聖堂について詳しく説明してある小冊子を入手した。それから大聖堂に入ったのだが、現在立っている建物は、18世紀初めに建て直されたバロック様式の華麗な教会堂なのだ。地下には聖ボニファティウスをまつった堂々たる霊廟があった。黒大理石とアラバスター(雪花石膏)を用いたもので、その品格と威厳に圧倒された。ちなみにボニファティウスは、ここでの布教の後、北の北海岸のネーデルランドの地でも、布教活動を行っていた。しかし志半ばで、異教徒によって殺され、その遺骨はフルダの教会堂にほおむられた。そして以後、殉教者として崇拝されているわけである。

フルダ大聖堂の外観

これに関連してドイツ在住の日本人の友人で、敬虔なるカトリック教徒である吉田慎吾氏から、今回次のようなメールをいただいた。
「フルダにおいでになるなら、ドイツにキリスト教を布教して殺害された聖ボニファティウスの墓にお参りすることを、お勧めします。実はこの人の骨のほんの小さな一部(レリクエ)が東京・小岩のカトリック教会に安置されているのです。分骨の世話をしてくださったのは、当地(ケルン)の故マイスナー枢機卿で、私が帰国の時に持ち帰って、東京教区にお渡ししたものです」

この話を私は今回初めて知って、ドイツ旅行の最後にケルンで吉田さんに会った時、さらに詳しく聞くことができた。
フルダの町の別のところも見て回った後、午後の7時過ぎイビス・ホテルに入った。そして旅の疲れをいやした。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(03)

その03 冒険作家として成功の頂点に(1887-1898)

<絵入り少年雑誌『よき仲間』への作品掲載>

1887年、カール・マイの人生に大きな転機が訪れた。それまでの13年間は、彼に社会復帰と作家生活への基盤をもたらすものであった。ところがこの後の13年間は、彼をドイツで最も成功した作家のひとりにし、彼に富と社会的栄光を与えたのであった。前述した雑誌『ドイツ人の家宝』への「世界冒険物語」の掲載を通じて、マイはすでに人気作家になっていたが、絵入り少年雑誌『よき仲間』とのつながりによって、彼の文学的成功はより確かなものになったのである。

1886年10月、彼はシュトゥットガルトの出版社主ヴィルヘルム・シュペーマンと出会った。この人物は当時、雑誌『よき仲間』の発行を、翌1887年1月から始めるべく準備していたが、この時マイの作品をそこに掲載することを強く望んだ。シュペーマンは青少年のために、教育的であると同時に彼らの心をしっかりとつかみ、彼らに大きな夢とファンタジーを与えるような物語を書いてくれるよう、マイに依頼したという。

元教師であったこの作家は青少年のためにそうした作品を書くことは、いわば自分に課せられた使命ではないかと考え、喜んで引き受けた。そのため、それ以降、ミュンヒマイヤー社の分冊販売小説の執筆を断ったのである。こうしてアメリカ西部を舞台にした「熊狩人の息子」が、1887年1月から9月まで『よき仲間』に掲載されていったのである。この作品は大成功をおさめ、雑誌の名声をも一挙に高めた。そのためシュペーマンはマイと継続的な契約を結び、それ以降1897年まで10年間にわたり、さらに7編の作品が掲載されていった。この一連の作品は質的に非常に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられている。そしてこれらは1890年以降、魅力的な挿絵を付けて順次、書物の形でも発行されていった。

「熊狩人の息子」他2篇の表紙)

またこの間にも『ドイツ人の家宝』には「世界冒険物語」のジャンルの作品が、引き続き掲載されていった。それによって文学的名声は上がっていったが、1880年代の終わりごろにはまだ、マイの財政状況はあまり良くなかった。なぜなら雑誌『ドイツ人の家宝』も『よき仲間』も、その原稿料は分冊販売小説に比べて低かったからだ。また作品執筆のためには、言語や地理や地誌などの研究を十分しなければならず、その表現にも慎重さが必要であった。そしてそのための時間もかかったわけである。

<個人全集の発行へ>

しかし1891年、マイに文学的名声のみならず、経済的な豊かさと社会的な地位の上昇をもたらす、大きな転機が訪れたのであった。マイはこのころ50歳になろうとしていた。『ドイツ人の家宝』などに掲載されていた「世界冒険物語」の中の、とりわけオリエント・シリーズを読んでとても感激した、若き出版社主フリードリヒ・フェーゼンフェルトは、この年の夏、マイあてに手紙を書き、それらの作品を書物の形にまとめて出版したいと申し出た。

個人全集の出版社主 フェーゼンフェルト)

全く未知の人物からの手紙に最初は戸惑ったマイであったが、やがて返事を出してその来訪を促した。その結果、フェーゼンフェルトは南西ドイツのフライブルクから東北ドイツのドレスデン近郊に住んでいたマイの住まいを訪れたのであった。そして二人の会見は順調に進み、1891年11月に出版契約が結ばれた。その第一条には次のように書かれている。「両署名者は、これまで『ドイツ人の家宝』及びその他の雑誌に掲載されているカール・マイ氏の冒険物語を、書物の形で出版することに合意した」

オリエント・シリーズの第2巻と第3巻

つまりマイの、世界を舞台にした冒険物語が、個人全集の形で発行されることになったわけである。そしてその最初のものとして中近東(オリエント)シリーズの六巻が、1892年のうちに刊行されていった。

マイは経済的に困った状況にあったため、フェーゼンフェルトに前借を頼んだが、この申し出は認められた。その後この最初の六巻が大成功をおさめたため、1892年には5、000マルクの報酬が入り、1895年と1896年にはその額は60、000マルクにも達したのであった。そしてフェーゼンフェルト社から発行された作品によって、マイは平均して年収30、000マルクを得ることになった。その上雑誌『ドイツ人の家宝』と『よき仲間』からの原稿料、カトリックの『マリア・カレンダー』に発表した短編の作品群その他から得た印税が加わった。かくしてカール・マイは、ようやくにして富に恵まれることになったのである。

<社交生活の始まり>

それまでは執筆などによる超多忙が原因で家に引きこもっていたマイであったが、このころから社会的な結びつきにも目を向けるようになった。1890年代の初めからマイ夫妻は、ドレスデン近郊のラーデボイル在住の包帯製造工場主リヒアルト・プレーン及びその夫人クラーラと親しく付き合うようになっていた。このクラーラ・プレーンは後にマイの第二の妻となったのである。

この二組の夫妻の関係は、とりわけ妻同士の心霊術への興味によって促進されていった。1895年、マイのかつての学友で、アメリカに住んでいた医師のペッファーコルンがマイ夫妻を訪問し、心霊術について詳しく教えた。そのためマイも、この教えに対して理論・実践両面で深入りしていったのである。ただ彼は晩年になって、心霊術からはっきりと距離を取るようになった。それでも彼の蔵書の中には70冊以上もこの関連の文献があったし、そのうちいくつかは彼の作品に取り入れられたのである。

1893年の最初の数か月は、最初から書物の形で刊行するために、「世界冒険物語」のジャンルの中でも傑作として評価されることになった『ヴィネトゥーⅠ』を書くことに費やされた。そして同年夏にはマイ夫妻はフェーゼンフェルトの家族とともに、スイスへ休暇旅行をしている。フェーゼンフェルト夫人が残した文章によると、このころのマイ夫妻の仲はよかったようだ。しかしマイは「しばしば気まぐれで、いらだちやすかった。・・・機嫌のいい時には、彼は親切でよくしゃべり、機知にとんだ社交家であった。・・・」
また1893年のマイの誕生日には、マイの自宅で「歌と踊りの夕べ」が開かれた。

1894年の春、マイは胸膜炎を患い、同時に目の病気にも悩まされた。そのため彼はハルツ地方へ療養に出かけたが、その年の末には体調が回復し、再び仕事に取り掛かることができるようになった。そのころマイは金があると、気前よく人にあげたりしていたので、妻のエマから叱られていた。

<豪邸を取得。ヴィラ・シャターハンド>

しかし収入は増えるばかりだったので、1895年には初めて自分の邸宅を購入することができるようになった。そのことは妻を大変喜ばせた。1895年12月30日、ドレスデン近郊の高級住宅街ラーデボイルに、37、300マルクで一軒の邸宅を購入したわけである。そして自分が作り出したアメリカ西部の英雄で、自分自身の分身でもあったシャターハンドにちなんで、その屋敷を「ヴィラ・シャターハンド」と名付けた。そして夫妻は翌年1896年1月14日にそこへ入居した。

マイの邸宅「ヴィラ・シャターハンド」

エマは、後年その時のことを思い出して、次のように書いている。「私たち二人は、人形部屋をもらった子供たちのように大喜びをしました。・・・そのころはまさにこの上なく幸せな、黄金時代でした」 マイはその後、隣接する土地を買い足して、熱心に庭づくりにいそしんだ。この「ヴィラ・シャターハンド」に、マイはその後1912年に亡くなるまで住み続けた。そして晩年の傑作はその家で書かれたのである。後年東独時代の1985年以降。この家はマイを記念する品々を展示した博物館になっている。

その後1899年までの歳月は、作品面で実りある時代であったばかりでなく、私生活の面でも最も幸せな時期であった。彼が長いこと望んでやまなかった社会的認知を、この時ようやく十二分に手にしたのであった。「世界冒険物語」の評判は、まったく申し分のないものであった。そのうえ、出版社主のフェーゼンフェルトは、ドイツ人司教からの推薦の言葉を、その全集の宣伝に用いることができたのである。

ヴィラ・シャターハンド」は、数多くの読者や崇拝者の訪問を受け、マイとしてもその応接にいとまがないほどであった。そうした様子についてマイは1896年、『ドイツ人の家宝』に寄せた「売れっ子作家の喜びと悩み」という文章の中で、感激の気持ちと、距離を置いた冷めた観察の間を揺れ動きながら報告している。1896年から1899年の間の4年間で、その作品はそれぞれ年間あたり10万部が印刷された。そして書物の形での全発行部数は、1899年には72万2千部に達したのである。当時としては、大変な数字と言えよう。

<マイ、虚構の世界の主人公に!>

今やマイは、広い世界にも飛び出していった。しかもそれは常にきわめて奇抜なやり方を取ったのである。その際「オールド・シャターハンド伝説」なるものを作り出したわけである。それはアメリカ西部を舞台にした冒険物語の主人公であるオールド・シャターハンドは、自分自身であるとの主張であった。そしてそこで語られている冒険の数々は、自ら体験したものである、とも彼は付け加えた。

彼は1874年以降、完全に社会復帰することができたのであるが、その風変わりな性格のため、良識ある市民として日常生活を過ごしていくことは無理であった。そのため自分が書いた作品の中の虚構(夢)の世界で、自分を限りなく展開させる道を選んだのである。その際、彼の作品を特徴づける善悪のはっきりした区別は、自らを教育するのにも役に立った。

そして虚構と現実との境界線を消し去ろうとする傾向は、今や彼の実生活の中に織り込まれていった。すでに1892年以来、その物語の中で、オールド・シャターハンド及びカラ・ベン・ネムジ(オリエント・シリーズの主人公)は、作者カール・マイの変名なのであるということを、常に明らかにしていた。
1894年ごろから彼は読者宛の数えきれない手紙の中で、次のように書いている。「そう、私はすべてを体験してきたのです。私には今でも、そのころ受けた傷跡が残っています。」彼はそうしたことを、驚くほど詳細に飾り立てるすべを知っていた。たとえば1874年9月2日に、インディアンの若き酋長ヴィネトゥーが死ぬ間際に緊急洗礼を施したとか、すでにアメリカには20回以上行ったことがあるとか、自分は40もの外国語を知っている、といったたぐいのことである。

そして1896年には、オールド・シャターハンドとカラ・ベン・ネムジの衣装を身に着けて、写真を撮らせて全世界に向けて売り出したのである。さらにその書斎を、数多くの野獣の毛皮やはく製のライオン、鹿の角から様々な猟銃やライフル銃、アラビアの水煙管やペルシア製のジュータンなどで、いっぱいに飾り立てた。

珍奇な品々で飾り立てたマイの書斎

<読者やファンとの直接交流>

1897年マイは夫人とともに、5月10日から7月15日まで、ドイツ各地を訪ね回って、彼の読者や崇拝者と直接コンタクトをとった。まず北ドイツのハンブルクで、あるコーヒー店夫妻と会い、次いで南ドイツのダーデスハイムでブドウ園主家族の客となった。さらにシュトゥットガルトとティロルに立ち寄ってから、ミュンヘンにたどり着いた。
そこでは「ホテル・トレフラー」に泊まったが、三日間の滞在中に600人から800人の訪問者や新聞記者などと会い、彼らに信じられないような話を聞かせたのである。たとえば、今少し前にメッカから帰ってきたところで、その年の秋にはアパッチ族のもとで3万5千人の部隊を指揮する予定であり、翌年にはアラビア人の召使いハレフに再会することになっている、などとまことしやかに語って聞かせたという。まさに「講談師、見てきたような嘘を言い」を、地で行く見事な役者ぶりだといえよう。

翌年1898年には、マイは高貴な人々との交際を重ねることができた。2月22日、ウィーンでオーストリア皇帝陛下、大公夫人マリー・テレーゼをはじめとする皇室のお歴々などから手厚くもてなされた。そうした貴族たちの中にあって、マイは臆することなく振る舞い、彼の物語の人気者アパッチの若き酋長ヴィネトゥーの人生から、まだ一般に知られていないエピソードの数々を話して聞かせたのである。
その後マイは2月27日から病気になったが、やがて回復して、今度はリンツ経由でミュンヘンへ行き、バイエルン王室から心からのもてなしを受けた。そこのヴィルトルード王女とは以後、晩年にいたるまで手紙のやり取りが続いたという。そしてそれに続く3日間は、ミュンヘンのカール・マイ・クラブの会員との会合に出席した。そこでもヴィネトゥーの死について、涙ながらに話して、拍手喝さいを浴びた。

この1898年には、そのほかドイツ語圏の各地を行ったり来たりして、結構忙しく動き回っていた。しかしそうした旅の間にも、執筆活動を中止したわけではなかった。かつてのような大量生産はしていないが、1896年から1899年の間、いくつかの作品を執筆した。それらは質の点では以前のものを上回るようになっていた。心理的、宗教的にみて深さを追求していたし、物語の構成や言語表現の点でもずっと進化していたのだ。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(02)

その02 作家としての活動

第1節 職業人としての出発~雑誌編集者兼作家(1874-1878)~

<ミュンヒマイヤー社に就職>

1874年5月、カール・マイは両親の家に帰った。その後しばらくの間は定職がなかったが、1875年になって事情は大きく変わった。同年3月初め、すでに以前からの知り合いであったドレスデンの出版者ミュンヒマイヤーはマイのところにやってきて、同社の雑誌の編集者になってほしいという申し出を行った。もちろんマイはそれに同意したが、年収600ターラーということで、それまで無収入であった状態から見れば、願ってもないことだったわけである。

カール・マイは、ミュンヒマイヤー社で発行されていた4種類の雑誌つまり『エルベ河の監視人』、『ドイツ家庭雑誌』、『立坑と精錬所』および『鉱山労働者、精錬工、機械工のための教養娯楽雑誌』の編集の仕事に携わることになったのだ。そしてそれらの雑誌の予約購読を取り付けるために、ルール工業地帯のエッセン市にあった当時の大企業クルップ社やベルリン市のボルジッヒ社を訪ねて、営業の仕事もしていた。

雑誌編集者としてのカール・マイ。1875年

<作家としての活動も始める>

これらの雑誌の編集の仕事に携わる傍ら、マイは自らの作品も発表するようになった。それらの内容は、故郷の村や外国を舞台にしたものであった。その最初の小説「エルンストタールのバラ」は、ドレスデンで発行されていた雑誌『ドイツ短編小説の花』に掲載された(1875年4月)。

いっぽうマイは、雑誌にポピュラーサイエンスの記事も書いていた。1848年の革命が挫折した後、ドイツでは1850年代から、鉄道などの交通手段が発達し、出版物の輸送が楽になり、同時に法的な規制が以前に比べて緩やかになっていた。そうした状況の中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになっていた。革命前後の騒然とした政治の季節は、すでにすぎ去っていたのである。

それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。これらはおおむね週間発行で、あらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに掲載されていたポピュラー・サイエンスの記事は、誰にでも理解できる平易なものであった。19世紀のこの種の雑誌は、当時ヨーロッパにおいて急速に発達していた科学技術について、貪欲に知りたいという一般読者の要望を満たす、いわば教科書の役割をも果たそうとしていたのであった。

一方そこに掲載されていた連載小説は、宣伝価値がある有名な作家たちに、出版社が依頼して書いてもらっていたものである。これらの作家にとって、この種の家庭向けの雑誌にオリジナルな作品を発表することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。むしろ狭い範囲の同人雑誌に掲載するよりも、広くその名を知ってもらえたし、同時に経済的な恩恵も得られたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、F・ラーベなど、当時の一流作家が名を連ねていたのだが、そこへ新進のカール・マイも加わっていったのだ。明治末から大正期にかけて、夏目漱石が『朝日新聞』にその作品を掲載していったのと、事情は同じだといえよう。

<エマ・ポルマーと婚約>

カール・マイはミュンヒマイヤー社の仕事の傍ら、ほかの出版社の雑誌に短編作品を送って、掲載してもらったわけである。それでも社主のミュンヒマイヤーは、マイの編集者としての積極的な仕事ぶりに満足していた。ところが出版社の業務に大きな影響力を与えていたミュンヒマイヤー夫人は、マイを同社の仕事にいつまでも結び付けておくという魂胆のもとに、自分の妹をマイと結婚させようとした。

マイの婚約者エマ・ポルマー

しかし当時すでにマイはエマ・ポルマーという若い女性と親しく付き合っていて、結婚も考えていた。そのためマイはミュンヒマイヤー夫人の申し出を断り、同時に同社での編集者としての仕事を辞める決断をした。それは1877年2月のことであった。彼女は1856年生まれで、当時21歳、マイよりも14歳若かった。早くから両親のもとを離れ、隣町のホーエンシュタイン在住の祖父の手で育てられていた。二人は相愛の仲であったが、祖父の反対で、すぐには結婚できなかった。ポルマー氏はマイの文学的業績を評価し、その前科も気にしていなかったが、彼の経済的能力に不安を感じて、結婚に反対したという。マイは編集者の仕事を辞めたために、定収入がなくなり、結婚して彼女を養っていくことが難しくなっていたわけである。そのためマイとしてもその結婚は、しばらくの間引き伸ばさざるを得なかった。

<この時期の作家活動>

再びこの時期の作家活動に目を向けると、新たにいくつかの出版社に働きかけて、その作品を発表していた。その一つがブレスラウのトレーヴェント社で、同社が発行していた『トレーヴェンツ民衆カレンダー』という出版物に、彼の作品を掲載してもらったのだ。民衆カレンダーというのは、昔からドイツに暦の形で存在していたもので、いろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物であった。そしてこれはとりわけ地方の村や町に出回っていた。

18世紀には啓蒙主義者たちが、この伝統的な民衆カレンダーに内容を徐々に改善することに、成功していた。そして19世紀の後半になってもなお、勢いを保っていたのだ。そこには読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話そして冒険物語などが掲載されていた。同様にして、フレミング社の民衆カレンダーにも、マイはユーモア小説二編を掲載してもらっている。

<オリエントを舞台とした最初の物語>

このころマイは、オーストリアの詩人・作家で月刊誌『故郷の庭』を発行していたペーター・ローゼッカーのもとにも原稿を送っている。ローゼッガーは未知の作家から送られてきた原稿を採択する前に、知り合いの大学教授に次のように、問い合わせをしている。「先ほど私はドレスデンの編集者カール・マイ氏から、『カヒラのバラ、エジプトでの冒険物語』という作品を受け取りました。この話は大変才気に満ち、手に汗を握るものです。一方で私はこれを歓迎するものですが、他方はたしてこれがオリジナルなものか、疑念もあります。教授殿、もしかしてカール・マイという名前をお聞きになられたことがあるか、またどんな雑誌の編集をしているのか、ご存知でしょうか?
その書き方から見て、長いことオリエントで生活していた、経験豊かな人物のように思えるのですが」(ロ-ベルト・ハマーリングにあてた1877年7月12日付けの手紙)。こうした経緯はあったが、マイが書いたこの作品は結局採択され、雑誌に掲載されることになった。

<再び、雑誌編集者に>

このようにいろいろな雑誌にその作品を掲載してもらってはいたが、定収入がなくなったため、マイは経済的にかなり苦しい状況に陥っていた。まだこの段階では、フリーの作家として自立してはいけなかったのだ。そんな時、ドレスデンの出版者ブルーノ・ラデリーのもとで、彼は編集者のポストを得ることとなった。1878年のことであった。
同社が発行していた娯楽雑誌『楽しい日々』の編集に携わったわけであるが、この雑誌にもマイは12編の小説を掲載することができた。その中には外国を舞台にした短編8編と、最初の長編『海上で捕われて』が含まれていた。この長編小説は、アメリカの西部を舞台にしたインディアン物語であった。

雑誌『楽しい日々』掲載のマイの長編「海上で捕われて」

こうしてマイは才能豊かな新進作家として次々と新作を発表していったが、その名声も徐々にではあるが、上がっていった。とはいえ、この段階では、「生活の糧」を得るために、まずは稼がねばならなかったのである。

そして収入が増えたことによって、彼はドレスデン市内に家具付きの住まいを借りることになり、婚約者のエマ・ポルマーをそこに迎えることになった。この時マイは、エマを自分の妻として公表している。しかしやがてエマは一人で住んでいる祖父の面倒を見るために、ホーエンシュタインに戻ることになり、マイはその隣町であるエルンストタールの両親の家に再び、住むことになった。
しかしラデリー社での編集者としての仕事は長続きせず、1878年末には同社を辞め、その後はフリーの作家として、筆一本で生活していくことになったのである。

第2節 フリーの作家となる(1879年以降)

<マイ最初の単行本の刊行>

フリーの作家として自立していく覚悟を決めたカール・マイは、それまで以上に熱心に作品執筆に取り組んでいくことになる。新たな出発のきっかけは、シュトゥットガルトの出版者ゲルツ・リューリングとの結びつきの中で生まれた。同社で発行されていた絵入り家庭向け雑誌『世のすべての人に』に、マイが書いた二編の長編小説「王笏と槌」および「宝島」が、1879年8月から1882年4月にかけて連載されたのである。

さらに同社を買い取ったノイゲバウアー社からは、1879年11月に、マイ最初の単行本『遥かなる西部』が刊行されている。これはすでに1875年に『ドイツ家庭雑誌』に掲載されたものに手を加えたものであった。この作品の中には、のちに彼が好んで書いていった「インディアンもの」の若き主人公ヴィネトゥーが、すでに登場している。この名前はマイが生み出した作品の中で最も代表的なものとして、今なお作家マイの分身のように扱われている。

<人気週刊誌『ドイツ人の家宝』への連載の開始>

このころ人気作家としての前兆を示していたマイは、そのほかいくつかの出版社とも作品発表の契約を結んでいた。なかでも南独レーゲンスブルクのカトリック系の出版社プステット社が発行していた人気週刊誌『ドイツ人の家宝』に、その作品が掲載されることになったことが、注目される。この雑誌は、北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して1874年に創刊されたものであった。

人気週刊誌『ドイツ人の家宝』の表紙

1879年3月、彼はこの雑誌掲載の件で、プステット社と契約を結んだ。そこで彼はアメリカ西部を舞台とした冒険小説を提供していくことになった。それは彼がかねてから計画していた、遥かなる世界を舞台とした冒険物語の一つであった。そして第二作以降、マイが書いた原稿は同誌に継続的に掲載されることになった。こうしてマイ作品の最も代表的なジャンルである「世界冒険物語」に属する作品の数々が、雑誌『ドイツ人の家宝』に次々と発表されていったわけである。ただそれらの中の多くは習作というか初期作品の色合いが濃いものであって、のちに書き直されていった。

しかし1881年から1882年にかけて発表された、中近東一帯を舞台にした「オリエントもの」三部作は、大変優れたものであったし、マイが作り出した独特の叙事詩のジャンルともいうべき「世界冒険物語」の特徴をすでに持ったものでもあった。この雑誌とマイとの関係は、わずかな中断期間を除いて、1897年まで続き、さらに1907~8年に復活している。

<妻との関係のその後>

それはさておき、ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。彼は1879年以降、故郷の町で暮らしていた。エマ・ポルマーとの関係は続いていたが、二人の間に当時すでに緊張がなくはなかった。何しろマイは休みなく、馬車馬のように仕事を続けていたため、退屈したエマは社交生活で憂さ晴らしをしていたが、そのことでマイに不興や嫉妬心を起こさせていた。そのため1879年の4月には両者の間に衝突が起こったが、それは一時的なものにとどまった。

そして翌1880年5月にエマの祖父が亡くなった後、ようやく二人は同年8月17日に、エルンストタールの町役場に結婚届を提出した。次いで9月12日にホーエンシュタインの聖クリストフォリ教会で、アルヴィル牧師の立会いの下で、結婚式が執り行われた。そしてその後3年間、二人はホーエンシュタインの町で一緒に暮らした。

カール・マイとエマ夫人

この時期マイは人気作家になってはいたが、そのころの雑誌の原稿料だけでは二人の生活を十分に賄うのは、無理であったといわれる。1881年当時のマイの年収は1500マルクほどであったが、これはミュンヒマイヤー社での雑誌編集者としての年俸より少なかった。当時二人は田舎町で質素な暮らしを続けるよりも、大都会のドレスデンへ引っ越ししたいと思っていたようだ。そのためにはもっと多くの収入が必要だったわけである。

<分冊販売小説での経済的成功>

そのような時期の1882年の晩夏、マイは妻のエマとともに一週間の休暇を取って、ドレスデンへ出かけた。そしてその地のレストランで、以前マイが雑誌の編集者をしていた出版社の社長ミュンヒマイヤーに再会した。その後同社は「分冊販売小説」の発行元として、大いに発展していた。これは長編の大衆小説を、薄い小冊子の形に分冊して、ごく短い間隔でどんどん発行し、読者の手元に届けるというものであった。一冊の値段が安く、一回の分量が少ないため、資力のない人々にも、手軽に読めたのである。

ミュンヒマイヤー社はこの分野で有力な出版社ではあったのだが、同業者との競争が激しく、当時苦境に陥っていたのであった。そのためもあって、ミュンヒマイヤーは旧知のマイに、分冊販売の形で作品を書いてくれるよう懇願した。これは高収入をもたらす仕事であったので、妻のエマは大いに乗り気になり、夫に引き受けるよう促した。マイはいろいろ考えたが、結局その執筆依頼を承諾した。

その小冊子は毎週の発行で、一回当たり24ページ、およそ100回分を予定していた。一回の発行部数は2万部で、原稿料は一回当たり35マルクであった。そして全部発行された後には、一巻が2400ページという大長編小説になるが、作品の著作権はマイに帰属することと、特別賞与が支給されることも約束された。ただこれらは、出版契約書に記されず、口約束であったため、のちに問題を引き起こすことになる。

もう一点は、締め切りの時間が短いため、推敲する暇がなく、どうしても冗長でぞんざい、装飾過多な文章になりがちであった。そのため雑誌『ドイツ人の家宝』に掲載し始めた作品によって獲得するようになっていた文学的名声を傷つける恐れがあった。そこでマイとしては、本名ではなくて、ペンネームを用いることにしたのであった。

かくしてカール・マイは1882年11月から、『森のバラ、または地の果てまでの追跡」という小説を発表し始めた。これはメキシコで起きたある悲劇を基にした冒険活劇もので、1884年まで109回続き、大八つ折判で2612ページにも達する大長編になった。この作品は大成功をおさめ、数多くの海賊版や翻訳本も出回ったりしたという。

分冊販売小説『森のバラ』の表紙

ペンネームを用いたのだが、作品の内容面ではマイには、自分の思うとおりに書くという自由が与えられていた。そのためもあってか、この作品執筆にあたって、作話術の巧みさや職人芸のさえも存分に発揮していた。後年カール・マイはドイツの文学界において、偉大なるストーリー・テラーと呼ばれるようになったが、その兆候はすでにこのころから現れていたのだ。

この成功に気をよくした出版社側は、一回当たりの原稿料を50マルクに引き上げた。マイもそれに応じて、その後4年半の間に、さらに4編の大長編を次々に発表していった。

これらの仕事を通じて、マイは年収5000~6000マルクを得ることになったが、これはそれ以前の三倍に達した。これによって当時の大学卒の高級官僚の年俸に匹敵する年収をマイは手に入れることになったわけである。それによって派手な社交生活や贅沢な暮らしを求めていた妻のエマを満足させることができたのであった。

その反面マイ自身は、寝ても覚めても原稿執筆という生活を強いられ、この間、ほかの事をしたり、ほかの人々と交際したりすることは、ほとんど不可能だったようだ。その上ミュンヒマイヤーの度重なる訪問や、妻が暇つぶしに自宅に招いた客たちによって、仕事をしばしば妨害されたりした。エマは夫の文学作品には興味も理解も示していなかった。そのことに不満を感じながらも、マイとしては、ますま執筆にのめりこむほかなかったようだ。

<母の死によって受けた衝撃>

しかしこの時期にマイを襲った大きな出来事は、母親の死であった。1885年4月15日、母クリスティアーネ・ヴィルヘルム・マイは、68歳でこの世を去った。それによってマイは途方もない衝撃を受けたのであった。それまでほとんど母親のことをかえりみる暇もなく、自分の好きなことばかりをしてきた、という悔悟の念に、この時マイはさいなまれたようだ。

後にエマと離婚したあと迎えた第二の妻クラーラは、マイの死後次のような文章を明らかにした。
「彼の母親がその腕の中で死んだとき、彼は彼女の遺体を晩方から明け方まで、抱き続けていた。・・・母親の墓は通常より二倍の深さに掘られた。彼は母親の傍らに埋葬されたいと願っていたのであろう」

この時以来、マイの男性的な英雄の理想像の中に、母性原理が少しづつ入り込んで行って、やがて晩年になってその作品の中に、平和主義と神秘主義が見られるようになったといわれる。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(01)

その01 作家になるまで

第1節 幼年時代から少年時代まで(1842-1856)

<貧しい家庭>

カール・フリードリヒ・マイ(Karl Friedrich May)は、1842年2月25日、東部ドイツ・ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールにおいて誕生した。彼の父親ハインリヒ・アウグスト・マイは貧しい織物職人であったが、1836年5月にクリスチアーネ・ヴァイゼと結婚した。二人の間には全部で14人の子供(男6人、女8人)が生まれたが、そのうち9人は2歳までに死亡していた。幼児死亡の高さの原因は、一家の経済的貧しさに基づく不十分な栄養及び医療と衛生状態の劣悪さにあったという。息子たちのうちで生き延びたのは、5番目のカール・マイだけであった。

カール・マイ生誕の家

当時のドイツは王政復古期の、安定はしていたが、自由が抑圧されていた時代であった。一方ドイツの産業革命は、鉄道の建設を基軸として、1840年代以降急速に展開していた。そして機械制工業の誕生によって、工場労働者という新しい社会層を生み出していたが、彼らがおかれた状況は悲惨なものであった。マイが生まれた町エルンストタールは、まさにこうした貧窮にあえぐ機織りの町であり、マイの父親はその町の哀れな織物工だったのだ。

幼いカールは栄養失調などが原因で、4歳のころまで失明の状態にあったが、ドレスデンの医者のもとで目の手術が行われ、1846年3月にカールの視力は回復した。そして70歳で亡くなるまで、マイはその健康を維持することができた。

とはいえ当時のザクセン地方の織物職人の純収入は、生存の最低線を何とか支える程度だったという。こうしたその日の食事にも事欠くほどの経済的窮境は、幼いカールの心に、現実の背後にある「より良き世界」への切実な願望を植え付けたようだ。

<童話の祖母の影響を受ける>

そうしたファンタジーの世界へ彼を導いたのが、祖母のクレッチュマーであった。マイはその自伝の中で次のように述べている。「私は一日中、両親のもとではなくて、祖母のもとにいた。彼女は私の父親であり、母親であり、また教育者でもあった。私が視力を失っていた間は、私の太陽であり、光であったのだ。彼女は教育は受けていなかったが、天性の詩人でもあった」

この祖母は幼いカールに、童話や伝説、説話の類をいろいろ話して聞かせ、それが幼児の心の奥に、深く刻印されたのであろう。そして視力を回復したカールは、すでに5歳の時に、祖母から聞いていた童話を、近所の子供たちの前で話して聞かせていたという。そして皆から拍手喝采を浴びていた、と当時の学校友達が、のちに証言しているのだ。

母親についてはマイの筆は奇妙に沈黙を守っているが、子沢山の貧しい一家を切り盛りしていた母親は、一家の成員を飢えから守っていくだけで、せいいっぱいだったようだ。その代りを果たしていた祖母に9歳のとき連れて行かれた巡回の人形劇について、マイは自伝の中で感激の筆致で語っている。「入場料は二人で15ペニヒだった。外題は『ミュラーのばら、またはイエナの戦い』であった。私の目は輝いた。そして内心が燃えた。人形、人形、人形! 彼らは私の目には生きていた。そして彼らは話をしたのだ」

そのあとカールは祖母から人形劇の仕組みについて説明を受け、興味をさらに増した。そして親にせがんで、『ファウスト博士または神、人間、悪魔』と題された人形劇も見に行っている。これはゲーテの作品ではなくて、昔から伝わっていた民衆劇であった。そこで演じられた民衆の苦難からの救いの叫び声に、共感したことも自伝に書かれている。そしてさらに巡回の田舎芝居が演じたジプシーを主題にした『プレツィオーザ』という作品では、父親から頼まれて宣伝役として舞台の脇で、太鼓をたたいて人集めをしたことも、自慢げに書かれているのだ。

<父親から受けた早期教育>

国民学校ではカールは学業もよくでき、成績もよかった。そして自ら知的な職業に憧れていながら、その希望を果たせなかった父親は、その夢をただ一人幼児期を生き延びたカール少年に託したのであった。この少年が当時知的好奇心の萌芽を見せていたことを知って、父親は未来への希望を膨らませたわけである。

宗教上の立場では、マイの両親はルター派のプロテスタントだったため、カールもルター派の洗礼と、14歳の時には堅信礼を受けている。そして教会では早くから聖歌隊員になっている。そんな関係から、教会の音楽指揮者の下で、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンなどを次々に習わされていった。また子供には内容が理解できないような難しいテキストを、大量に書き取ることもやらされた。さらに語学の才能も見込まれて、教会音楽のテキストを読むために、ラテン語を学ばされたほか、英語とフランス語の習得も強制されたのであった。こうした早期教育を施されたため、学校時代のカールは、ほかの子供たちと一緒に遊んだり、付き合ったりする時間がほとんどなかったという。

その代りにのちに作家になるには良いことであったのだが、父親の指導によって、さまざまな種類の読み物を、次々と乱読していく習慣が身に着いたという。はじめは童話、薬草本、父祖伝来の注釈つきの絵入り聖書、次いで過去や現代の各種教科書や父親が集めてきたさまざまな種類の本であった。さらに完本の聖書を、はじめから終わりまで、繰り返し読んだことが自伝に書かれている。

<塾通いの費用をアルバイトで稼ぐ>

しかし家庭に経済的な余裕がなかったため、塾通いの費用は子供のカールがアルバイトをして稼ぎ出さねばならなかった。その仕事として選ばれたのが、近くの九柱戯場(ドイツに古くからあるボーリング場に似た遊技場)で、倒れたピンをもとのように並べる仕事だった。ただこの九柱戯場は、飲食の設備を備えた男の遊び場だった。つまり居酒屋が経営する庶民のための娯楽施設ないし社交場だったのだ。

ドイツの学校は、授業は午前中だけだったので、カール少年は午後から夜遅くまで、日曜日も午前の教会ミサが終わってから、そこで仕事をしていたという。とりわけ月曜日には近隣の地域から町に立つ市場に人々が集まってきたので、九柱戯場もにぎわった。しかし人々がプレーをしたり、飲食をしたりするときに交わされる会話は、学校や教会や家庭では聞くことがない、下卑た、汚濁に満ちたもので、少年の心には耐えられないような苦しみを与えたという。

もう一つマイが恥を忍んで告白していることは、そこに置かれていたいわゆる「俗悪本」のことである。これらは九柱戯場にやってくる一般の庶民からは愛好されていたが、当時のドイツの教育関係者や教会関係者あるいは教養人からは、低俗本として非難されていたものだった。それらの貸本を、カール少年は、仕事のないときにはその場で読んだり、あるいは家に持ち帰ったりすることができたのだ。そのため彼はそれらの本を夢中になって読みふけったばかりでなく、家族やよその人の前でも朗読していたというのだ。それらは盗賊騎士や幽霊屋敷の住人あるいは殺人犯や死刑執行人や義賊に関する物語であった。

<国民学校を卒業>

1856年、14歳の年、カール・マイは国民学校を卒業することになった。しかしその日が近づくにつれ、将来の進路を決めることが、彼自身にとっても、また父親やその他の家族にとっても、切実な問題となってきた。織物職人という父親の職業を受け継ぐ気持ちは、カール少年にはなかったし、またその能力もなかった。そして息子に早期教育をたたきこんできた父親としても、もっと社会的地位が高く、尊敬されるような職業へと息子が進むことを望んでいた。マイは自伝の中で、自分はギムナジウム(九年制の中・高等学校)から大学へと進学することを切望していた、と書いている。しかしそれを許すような経済的余裕はマイの一家にはなかったわけである。そこで一家としては、経済的な負担がより軽い師範学校へと進ませ、その後学校の教師になる道を選ばざるを得ないことになった。

第2節 師範学校生と教師の時代(1856-1862)

<抑圧的な師範学校>

当時のザクセン王国における師範学校の教育は、1848年の三月革命の挫折後に生まれた政治的反動の時代の主導理念を、まさに反映したものであった。悪名高い1854年のプロイセンの学校条例が、このザクセン王国でも取り入れられていたのだ。

カール・マイは1856年9月、ザクセン王国のヴァルデンブルク師範学校に入学した。この学校では革命の再発を防ぐために、自由や民主主義は上から抑圧され、教師や生徒に対して厳しい規律と詰め込み教育ばかりが強制されていた。元来、自由を求める性向を強く持っていたマイは、この学校のやり方に耐えられず、教師に反抗するようになった。そして余暇には作曲をしたり、文章を書いたりしていた。そして16歳の時、インディアン物語の原稿を、当時の有名な家庭向け雑誌「あずまや」に送ったが、雑誌の発行人から丁重な断りの手紙とともに送り返された。

そして1859年、17歳の時、クリスマスを前にして、貧しい家族を喜ばせようとして、寄宿舎にあったローソク六本を盗んだことが発覚して、マイはヴァルデンブルク師範学校から追放されることになった。ところが幸いにして、ザクセン王国の文部省のとりなしで、同王国内のプラウエン師範学校に移ることができた。この師範学校では、最初の学校に比べて、かなり自由が認められていた。そしてプラウエンの町にある感じの良い、評判のレストラン「トンネル・レストラン・アンデルス」に行くことが、生徒たちに許されていた。マイは自伝に次のように書いている。「プラウエンは私にとってとても大事な存在になっていた。アンデルスのガラス張りのサロンで、私は素晴らしいビールを飲み、最上のオムレツ付き豚肉料理を食べることができたのだ。それにフォークトランド風団子が添えられていて、何たる美味か!」それまであまり美味いものにありつけなかった貧しい青年にとって、その料理は最高の贅沢であったのだろう。

<教師の時代>    

1861年9月、マイは19歳で師範学校を卒業し、教師になるための試験に優秀な成績で合格した。そしてグラウヒャウの貧民学校の代用教員になった。そして64人の児童に対する授業を受け持つことになった。給料は年に175ターラーと定められていた。ところがその勤務はわずか12日間しか続かなかった。下宿先の主人から、その夫人(19歳)に対する不倫を訴えられて、解雇されてしまったのだ。
しかしその直後に、アルトケムニッツの紡績工場付属学校の教師として採用された。その工場では10歳から14歳の間の児童が働かされていて、その合間に付属学校の授業を受けていたのだ。

ところがこの学校でも、マイの勤務は長続きしなかった。今回は同じ年のクリスマスのころ、懐中時計窃盗の科で、6週間の禁固刑を受けることになったのだ。工場経営者は付属学校との契約に従って、マイに住まいを提供したのだが、経営者の部下の簿記係が使っていた部屋を、マイと共同で使用するように決めた。そのため簿記係はそのことに不満を感じ、マイとの間に感情のもつれが生じ、トラブルにまで発展したのだ。

ある時この簿記係は新しい懐中時計を買ったので、古いのをマイにも授業の際に使わせることにした。ただし授業が終わったら返すようにとの条件を付けた。クリスマスの日、マイは授業にその時計を持って行ったが、返却するのを忘れて、家に帰ってしまった。簿記係はその行為を窃盗とみなして、警察に届け出て、マイは警察に連行され、6週間の禁固刑を受けたというわけである。そしてこれ以後、学校の教師への道は絶たれ、父親は息子の前途を悲観して、嘆き悲しんだという。

第3節 フリーター、詐欺師そして服役者(1862-1874)

<フリーターとしての活動>

1862年10月下旬、カール・マイは釈放されたが、その前途には何の見通しもなかった。しかし当面の糊口をしのぐために、家庭教師として語学や音楽を教えたり、朗読の仕事や合唱団の一員としての仕事をしたり、あるいは作曲をしたり、物書きをしたりしていたという。
また1862年12月、20歳の時マイは徴兵検査を受けたが、近眼のために「不合格」になった。1863年1月25日、3月8日そして3月25日には、彼は故郷の町の「音楽と朗読の夕べ」という催しに、朗読者として出演している。また1863年4月及び7月には、故郷の教会が主催した夕食会に出席している。作曲の腕前はなかなかのものだったようで、個人的な楽譜は数枚残っているが、公表されてはいない。
物書きの仕事もすでに行っていたようだが、それらの原稿は残っていない。とはいえ、のちに作家として活動を始めた初期の時代(1875年)に書いた「ユーモア小説」や「エールツゲビルゲの村の物語」などの構想は、すでにそのころ練られていたらしい。

<精神分裂症にかかり、詐欺行為も>

このような活発な知的、精神的活動の傍ら、その気持ちのほうは暗く、沈んでいて、精神分裂症にかかった状態にあったようだ。師範学校生と教師の時代に、国家当局から受けた虐待が、依然として彼の心に重くのしかかっていたのだ。精神錯乱から、夜中に突然ベッドから飛び起きて、雨や雪の降りしきる路上を走り回ったという。
そして国家当局への復讐の気持ちが心の中で高まっていったようだ。その結果、虚言癖に強く彩られた自我は、どんどんその強度を強め、ついには刑法に触れるところにまで達してしまった。

1864年7月、22歳のマイは、医学博士の名前をかたって5着の服の仕立てを注文して、受け取ってから、後で支払うといったきり姿をくらましてしまった。
ついでマイは同年12月に、師範学校教師ローゼとしてケムニッツ市に現れた。そして勤め先の校長からの委託だと称して、毛皮の服と襟とを、宿泊先のホテルに届けさせた。その後、彼は隣室にいる病気の校長に見せるからと言って店員から品物を受け取り、そのまま姿をくらましたという。

しかし第三の試みではマイの悪運も尽きたようだ。1865年3月20日、ライプツィヒ市にヘルミンと称する楽譜彫刻師が現れ、宿泊用の部屋を借り、毛皮加工職人の店でビーバーの毛皮を買った。ちなみにヘルミンは、ギリシア神話の商人兼盗人の守護神ヘルメスのことなのだ。今回は毛皮を受け取った後、事情を知らない人間を通じてその毛皮を質屋に移させた。しかしこの不審な行動に気が付いた店員が、警察に通報して、質屋に現れたこの人物は、つかまってしまった。そして本名を告白して、以前に行った詐欺行為のことも自白したという。

<厚生施設での服役とその後>

そして1865年6月にライプツィヒ地方裁判所において、マイは三件の詐欺行為によって、4年1か月の更生施設行きを言い渡された。その結果ツヴィッカウの更生施設に収監されたのである。
そこは収監された人を社会復帰させる施設だったので、それぞれの個性に対応したやり方がとられていた。マイははじめ財布と煙草入れを作る仕事に従事させられた。しかしマイを観察していた監視人の推薦で、1867年からはトロンボーン奏者及び教会音楽歌手として施設内で活動することや、作曲をすることが許された。さらに1867年末には、更生施設所長の特別書記に任命された。つまりツヴィッカウ管内における刑執行に関する統計面と文書作成面での助手になったのだ。

ツヴィッカウの更生施設

そして施設内の図書館(四千冊を超す蔵書を備えていた)の仕事も任され、自らもそこの書物を自由に読むことができるようになった。こうした状況の中で、カール・マイは、将来作家としてやっていくための計画を、大いに促進させることができるようになった。
家族がたくさんいる自宅にいるよりは、この厚生施設のほうが、はるかによく勉強できたのである。彼がその頃書き記した文学上の執筆計画書が、その遺稿の中から発見されている。それによると、彼が書こうとしていたジャンルは、オリエントを舞台とした物語、アメリカ・インディアンに関連した物語そして故郷の村を舞台とした物語の三つであったことが分かる。

以上のべたように、マイにとってこの施設で過ごした歳月は、いわゆる「娑婆」で詐欺師として放浪していた時よりも、ずっと恵まれていたわけである。そして施設内での模範的な態度が認められて、元来の刑期より八か月早く、1868年11月2日に釈放されたのであった。

しかし久しぶりに家に帰って分かったことは、マイの服役中の1865年に、最愛の「童話の祖母」が亡くなっていたことであった。その文学計画を伝えて、夢を語り合いたいと思っていた、その肝心の相手の死は、彼にどれほど大きな衝撃を与えたことか!

またマイがその後再開した文学面での活動から得た収入は、家計を支えるにはあまりに僅かなものであった。そして前科者のマイに対して近隣の人々から、敵意に満ちた冷たい視線が向けられた。こうして再びマイは、精神錯乱状態に陥ることになった。あてどなく森や野原をさまよい、ある時は放火の罪を着せられたこともあった。更生施設でせっかく獲得した再生への道は、冷たい「世間」の風にあたって、再び崩壊してしまったのだ。

1869年4月までは彼は両親の家に住んでいたが、その間しばしば家を留守にしていた。文学関連の用事で何度もドレスデンに行っていたほか、当時の恋人であった女性に会うために、ラッシャウという所へ出掛けていた。

しかし間もなく再びマイは、悪の道へとさ迷いこんでいった。つまりその後一年あまりにわたって彼は、詐欺や窃盗、偽造などの軽犯罪を数回繰り返した。そのたびに言い逃れをしたりしてごまかしていたが、故郷を離れ遠くへ行きたいと思うようになっていた。そんな時、商売と観光を兼ねてザクセン地方に滞在していたアメリカ人バートン父子と知り合った。そしてその人物から息子の家庭教師としてアメリカに来てくれないかと頼まれた。

これに関連してマイは両親あてに1869年4月20日付けの手紙で、次のように書いている。「・・・私は旅に出ます。人々は私のことを忘れ、許してくれるでしょう。そして私は前途有望な新しい人間になって、再び帰ってきます・・・」
しかしこのアメリカ行きは、旅券関連の障害があって実現せず、4月末には再びザクセン地方に現れている。

<再び刑務所へ。そして再生して社会に出る>

そして結局1870年1月に警察に逮捕され、窃盗、詐欺、偽造その他及び前科が考慮されて、4年の刑が言い渡された。その結果彼は、1870年5月3日から1874年5月2日まで、ライプツィヒ管区のヴァルトハイム刑務所で服役することになった。刑務所内の生活及び労働条件は、極めて厳しかった。労働時間は一日最低13時間で、他人と話をしてはいけないという沈黙規定もあった。その上マイは最下等の懲戒クラスに入れられ、逃亡の危険性と乱暴狼藉、反抗気質のゆえに、最初の一年ほどは独房に隔離された。また労働として、葉巻つくりの作業に従事させられた。

ヴァルトハイム刑務所内の教会

いっぽうヴァルトハイム刑務所の中には、教会の施設があった。そして服役者の更生のために、教会専属の聖職者がいた。そうしたうちの一人でカトリックの教理教師であったヨハネス・コホタという人物がいたが、この聖職者によってマイは、初期のもろもろの困難を克服して、次第にその精神も平穏になっていった。この清廉で高潔な聖職者は、マイとの会話の中で十分な理解を示して、その心をつかんでいったのである。そして刑の軽減を図ってくれ、懲戒クラスからの引き上げもしてくれた。

この人物についてマイは自伝の中で、次のように書いている。「カトリックの教理教師の名をコホタといった。彼はアカデミックな背景を持たない、ただの教師だった。しかしいかなる点から見ても高潔な人物で、人間味あふれ、しかも教育者として、あるいは人の心理を見抜くことにかけては、豊富な経験を積んでいた。・・・彼は私をプロテスタント信者として扱い、私にオルガンを弾くことを許可してくれたのである」

やがて刑務所内での彼の評判は高まり、ここでも図書館の管理の仕事に従事することができた。そのおかげで彼は図書館の書物を自由に読むことができるようになったのである。この点についてマイは自伝の中で次のように書いている。
「何ものにも邪魔されない孤独と豊かな資料のおかげで、私ははるかに先に進むことができた。・・・そして以前から準備していた小説の執筆計画を完成させ、実行に移すことになった。私は原稿を書き、書きあがるとそれを家に送った。両親は私と出版社との間を仲介してくれた」
カール・マイという極めてユニークで、毛色の変わった人物は、刑務所を書斎代わりにして、その作家活動を始めたわけである。

そしてやがて4年の歳月が流れ、刑期を終えた32歳のマイは、1874年5月初め、ヴァルトハイム刑務所を出ることになった。その時、看守のミュラーは冗談交じりにマイに対して、次のように言ったという。「なあ君、いつまた私たちはここで会えるのかね?」それに対してマイは極めて真面目な顔つきで、その手を看守の肩にかけ、相手の目をじっと見つめて、ゆっくり一語、一語区切ってこう答えた。「看守殿、私にここで会うことは、二度とないでしょう」と。


ドイツの冒険作家 カール・マイ(05)

その05 冒険物語の足跡をたどって(3)

今回は「冒険物語の足跡をたどって」の3回目で、トルコのヨーロッパ側にある古都エディルネをとりあげる。この町は現在、ギリシアとブルガリアとの国境すぐ近くに位置している。しかしオスマン帝国の時代、1361年に征服してから1453年にイスタンブールに移るまでの約90年間、帝国の二番目の首都として栄えた所である。

トルコのエディルネ旅行(2018年5月)

カール・マイの冒険物語では、第7巻『ブルガリア南部にて』の中の第1章「エディルネにて」が、物語の舞台となっている。
マイは、第1章の冒頭で次のように書いている。

<物語の叙述>

「トルコ人がエディルネと称しているアドリアノープルは、イスタンブールに次いで重要なオスマン帝国の古都である。この町に、ムラト一世からメフメト二世に至るまでのスルタンが宮廷を置いていたが、このメフメト二世が一四五三年に、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、そこに首都を移したわけである。これがイスタンブールなのであるが、その後も多くのスルタン、とりわけメフメト四世などは、好んで古都エディルネに滞在したものである。

この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集する真っただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に二五Oの窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ。

我々はキルク・キサリからやって来たのだが、はるか遠くからセリミエ・ジャーミイの尖塔が見えていた。このエディルネの町は、遠くから見ていると華麗な姿を示しているが、トルコの他のどの都会と同様に、町に入った途端に、その美しさは失われるのだ。」

物語の主人公カラ・ベン・ネムジは、盗賊団の一味を追跡して、仲間とともにイスタンブールを離れ、このエディルネにたどり着いたわけである。そしてダマスカスの宝石商アファラー及びイスタンブールの若き商人イスラの案内で、アファラーの兄の大商人フラムの大邸宅に入る。その後、次のような叙述が続いている。(10ページ)

「我々が探し求めていたフラムは、ムラド二世のモスクであるユチュ・シェリフェリ・ジャーミイの近くに住んでいた。我々は美しい大理石を敷き詰めたテラス状の前庭を進んでいった。七十本の柱で支えられた二十四の小丸屋根は、スミルナ攻略の際に略奪されたヨハネ騎士団の宝物をもとにして建てられたものである。
我々は賑やかな街路を通って、三階建の家の前にたどり着いた。この家に、我々は世話になることになっていたのだ。」

この後、フラムの大邸宅の内部の描写になる。(11ページ)

「イスラはヤクブ・アファラーとともに、主人の書斎へと向かった。・・・・我々は小さなホールほどもある部屋へ案内された。その前面は柱で支えられた広間になっており、三方の壁面には青地に金色でコーランの言葉が書かれていた。我々は、緑色のビロード製の長椅子に腰を下ろした。めいめいに水煙管(みずぎせる)と銀製の三脚つきカップに入れたコーヒーが出された。それだけでも、この家の豊かさが分かるというものである」

そしていよいよこの家の主人が現れた。

「祝福のしるしに両手を上げながら、主人はあいさつした。
『わが家にようこそお出でくださった。ここはまた、あなた方の家でもあります』
フラムは、我々一人ひとりにあいさつして回ってから、二人の親類とともに腰を下ろした。

『あなたのことは、私がよく知っていることを、おそらくあなたはご存じないでしょうな、先生?』と、主人は私に向かって言った。
『イスラが、あなたのことをよく話してくれましてな。あれは、あなたのことが好きなのじゃ。それで、まだ会わないうちから、あなたは私の心を占めていたのです。』

こうした挨拶の後、追跡している悪党が、名前と身分を偽って、フラム宅の居候になっていることが判明した。そしてその悪党バルード・エル・アマサトは、主人の厳しい尋問と追及の結果、正体を現し、つかまってしまう。その後、この町の顔役であるフラムは、この悪党を町の裁判所で裁判にかける手続きを取ることになった。
それに続く場面を、次に引用する。(22ページ)

「トルコの裁判所の判決は、あまり時間をかけずに出るのがふつうであった。そこで我々は判決が下されるまで、この地で待つことにした。そのため我々には、エディルネを見物する時間が生まれたのである。
翌朝、我々はセリムとムラドのモスクそしてトルコの神学校を見学した。それから有名なアリ・パシャのバザールも訪れた。そして最後に、町のそばを流れているトゥンジャ川の船くだりを楽しんだ。」

<私の旅行記の記述>

ブログの「04 冒険物語の足跡をたどって(2)」の中で、私は、2018年5月に参加した「山田寅次郎が愛したイスタンブルを訪ねる」と称する山田寅次郎研究会の記念ツアーについての旅行記(イスタンブール旅行)から、数か所引用した。
今回も同じ旅行記の中から、エディルネに関する部分を、次に引用することにする。

「5月18日(金)曇りのち晴れ
今日はトルコ滞在最後の日だ。午前6時前起床。6時半朝食。7時半、ホテルのロビーに全員集合。荷物をバスに乗せ、イスタンブールを離れ、北西部のブルガリアとギリシア国境近くの古都エディルネへ向かう。そこはイスタンブールに移る前、およそ90年間、オスマン帝国の二番目の首都だったところだ。
バスははじめマルマラ海に沿って、緑の多い田園地帯を走った。約3時間の道のりで、途中トイレ休憩などを取りながら、10時半ごろエディルネの町に到着。町のシンボルともいうべき世界遺産のセリミエ・モスクへ向かう。

壮麗なセリミエ・モスク

この町には私は特別強い関心を抱いていて、ぜひ訪れたいと思っていたので、今回のツアーの行程の中に組み込まれていたことは、何と言ってもありがたかった。私が翻訳してきた「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~」の第7巻『ブルガリア南部にて』の冒頭に、エディルネが登場するので、少し引用する。
(この引用部分は、今回のブログの<物語の叙述>の中でも引用しているが、この町の叙景部分だけを次に引用する)

「この町にある四十を超すモスクの中では、セリム二世が建てさせたセリミエ・ジャーミイが有名である。このモスクを建てたのは名高い建築家スィナンであるが、イスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院より大きいのだ。そして家々の密集するまっただ中にあるが、町の汚濁の中に浮かび上がっている華麗な色彩の外壁は、まさに砂漠の中のオアシスのようである。
その巨大な丸屋根は四本の堅固な柱によって支えられているが、外側には素晴らしく細い尖塔が聳えたち、そこには祈りの時を告げる環状のバルコンがついている。寺院の内部には、高価な大理石でできた二列の回廊があり、彩光用に250の窓がある。断食月(ラマダン)には、ここに一万二千本を超す蝋燭が灯されるのだ」

セリミエ・モスクの内部ホール

カール・マイがこの作品を書いたのは、19世紀後半のことであるが、それから百数十年の歳月を経た今日でも、モスクのたたずまいは全く変わりがないといえよう。ただこのモスクの周辺一帯は、観光客を乗せた車であふれかえっていて、我々を乗せたバスも駐車場を探すのに、一苦労であった。世界遺産に指定されているこの大建造物は、ミマール・スィナンが80歳の時に注文を受け、6年の歳月の後、1575年に完成した。
今朝イスタンブールを離れた時は曇天であったが、エディルネでは快晴になっていて、強い日差しの中を一行はバスを降りて、人ごみの中を抜けて建物の中に入った。そして靴を脱ぎ、女性はスカーフのようなものをかぶり、広々とした空間の中央で腰を下ろし、ガイドのフーリエさんの詳しい解説に、一同耳を傾けた。
スィナンはこの建物を自らの最高傑作と言い続けたそうだが、その言葉からは、老建築家が晩年になってその完成に心血を注いだ情熱のほどが、ひしひしと伝わってきた。スィナンは16世紀という時代において、実に98歳という長寿に恵まれたという。90歳の北斎をも凌駕しているのだ。モスクの外の広場の一角に、この建築家の黒色の銅像が目に入った。

ミマール・スィナンの銅像

次いで一行を乗せたバスは町の南へと移動し、物語の中にも描かれているトゥンジャ川の畔にあるトルコ料理店<ハネダン・エディルネ>へ向かい、そこで一同昼食をとった。川の向こうのかなり離れたところにセリミエ・モスクが見えている。この川にはゴミが浮かび、川自体狭く、汚れている。一般の民家や商店、道路などを含めた街並みは、観光用のモスクなどの壮麗な建造物と比べて、一段と見劣りしているといわざるを得ない。
カール・マイが物語の中でまさに指摘している通りだ。

トルコ料理店「ハネダン」

ドイツの冒険作家 カール・マイ(04)

その04 冒険物語の足跡をたどって(2)

冒険物語の足跡をたどって(1)では、第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』の第2章「死の騎馬行」に出てくる、北アフリカのチュニジア中部にある塩砂漠での冒険を、まず扱った。その後、同じく第1巻の第4章「アブラヒム・マムールの手中で」、第5章「素晴らしいめぐり合わせ」及び第6章「ハーレムからの誘拐」の舞台となっているナイル河流域での冒険について書いた。

その後、主人公カラ・ベン・ネムジと従者のハレフは、ティグリス・ユーフラテス両河一帯へと移動した。そして第2巻『ティグリス河の探検』、第3巻『悪魔崇拝者』、第4巻『クルディスタンの奥地にて』、第5巻『ペルシア辺境にそって』の各巻では、主として現在のイラクに相当するメソポタミア地方が、冒険の舞台となっている。

この地域へも、私は行ってみたいと思っているが、いまだ紛争地域となっていて、危険なので、行くことができないでいる。そこで今回はトルコのイスタンブールで演じられた冒険を取り上げることにする。

イスタンブール旅行(2018年5月)

<物語の叙述>

第6巻『バグダードからイスタンブールへ』の中の、第5章「イスタンブールの旋舞教団」、第6章「暗黒のイスタンブール」および第7章「ガラタ塔にて」が、今回の物語の舞台となっている。

まず第5章「イスタンブールの旋舞教団」の中から引用する。(174~178ページ)

「翌日は休日であった。それでイスラは、ペラ地区への散歩についてくるよう、私を促した。その帰り道、二人はロシア公使館の近くにあるイスラム寺院のような建物の前にやってきた。
その建物は四つ目垣によって、道路と隔てられていた。イスラは立ち止まって、私に尋ねた。
「先生、踊る修道僧を見たことがありますか?」
「ええ。でも、このイスタンブールとは別のところで」
「ここがイスタンブールの修道院です。今が、祈りの時間です。入ってみませんか?」

私はそれに同意した。二人は広く開け放ってある門扉を通って、大きな大理石板で敷き詰められた中庭へと、入っていった。その左側には、格子垣によって仕切られた墓地があった。・・・・・
中庭の奥のほうには、半球状の屋根が付いた丸い建物があり、右側には同じく丸屋根の付いた二階建ての修道院があった。・・・・・

修道院を意味するデルヴィシュはペルシア語で「貧しい人」という意味だが、アラビア語では”ファキル”という。デルヴィシュは、あるイスラム修道会員をさす言葉でもある。・・・デルヴィシュ修道会は、しばしば土地や財産、収入があって、豊かなのである。・・・
僧侶はたいてい結婚しており、共同の祈りは別として、食べたり、飲んだり、眠ったり、遊んだり、無為を楽しんだりしている。
かつてデルヴィシュたちは、宗教上、政治上、大きな意味を持っていた。しかし現在では、その評価はぐんと落ちて、下層民から何がしかの尊敬を受けているに過ぎない。そこで彼らは、神霊を感じたり、奇跡を行ったりすることができると見せかけるために、術策を考え出した。彼らは、あらゆる芸を編み出した、独特の踊りと歌によって、人心を引きつけようとしたのだ。・・・・・

その通路を通って、我々は丸い建物へと移動した。はじめ四角形の前室に入り、そこから八角形のメインホールに足を踏み入れた。頭上には、細長い列柱に支えられたドーム状の屋根があり、後方には一連の大きな窓が見えた。床は鏡のように、ピカピカに磨かれていた。
ホールの八角形の壁に沿って、桟敷席が二列~一列目は平土間に、二列目はやや高い位置に~作られていた。上の桟敷席のいくつかは、黄金色の棒で仕切ってあったが、そこは婦人席ということであった。上段の別の席は、楽隊の席になっていた。上の席はすでに満員だったので、我々は下の席に腰を下ろした。

礼拝の儀式の一種とみなされる踊りが、始まった。正面の扉から三十人ほどの修道僧が、入場してきた。一番先頭に、踊りのリーダーがいた。この人物は、灰色の髭をはやした老人で、長い黒色のマントを身に着けていた。その他の者は褐色のマントを羽織り、頭上には細長い円錐形のフェルト帽を、かぶっていた。
彼らは、ゆったりと荘重な足取りで、ホールを三度回ると床の上にあぐらを組んで、しゃがんだ。・・・・それから音楽が始まった。その不協和音は、私の耳をつんざくばかりであったし、歌のほうは「石をも感動させ、人間を狂わせる」響きを発した。
この音に合わせて、修道僧は身をかがめながら、あるいはお互いに、あるいはリーダーに向かってお辞儀を繰り返した。それから重ね合わせて脚を前後左右にゆすり、さらに上体をぐるぐる回し、頭を回転させ、腕を振り、手を揉み、次いで手をたたいた。それから身を床の上に投げ出すと、円錐形のフェルト帽で、床をぱたぱた打った。

以上が、独特な儀式の第一部で、およそ三十分かかった。それから音楽や歌が終わった。修道僧たちは、静かに床の上に、あぐらの姿勢で座った。トルコ人の観客は、この催し物を、信心深さと感動の面持ちで、眺めていたが、とても満足している様子であった。
その時、突然といっていいほど急激に、音楽が鳴り始めた。修道僧は、跳び上がるや、褐色のマントを脱ぎ棄てて、たちまち白装束に変身した。彼らは再びリーダーと隣の人にお辞儀をすると、踊り始めた。この動きから、「踊る修道僧」と呼ばれるようになったのである。・・・・・
音楽が急テンポになると、修道僧の旋回運動も速くなった。その動きは、目を開けて見ていると、目まいがしそうになるぐらい速くなったのだ。これが三十分続いた。そして一人一人が身を沈めて、公演は終わりとなった。私自身は、もうこれ以上はたくさんだという気分であったが、ほかの観客は、目に見えて満足げであった。

イスラは私のほうを見て、こう尋ねた。
「いかがでしたか、先生?」
「気持ちが悪くなりそうだったよ」と、私は正直に答えた。
「その通りですよ。預言者がああした訓練を要求したかどうか、知りませんが。それから預言者の教えそのものが、このオスマン人の国家や国民にとって、良いものかどうかも、分かりません」
「イスラム教徒の君が、そんなこと言っていいのかね?」
「先生」と、彼はささやいた。「私の妻は、キリスト教徒ですよ」
この言葉によって彼が何を言おうとしたのか、私は理解した。つまり健気な妻は、家の魂として、キリスト教の礼節を、持ち込んだわけである。

その後主人公は、金角湾近くの荒れ果てた地域にある盗賊団の巣窟で、悪党どもと派手な活劇を演じた。そしてその騒動が一段落した後、主人公は再び、先ほどの旋舞教団の修道院に赴き、そこに住んでいる悪党の一味である修道僧アリ・マナハを訪ねた。

そこでの場面を、以下に引用する。(第7章「ガラタ塔にて」237~240ページ)

私がそこに着いたとき、例の修道僧は、その独房にいて、お祈りをしていた。お祈りが終わった時、彼はこちらのほうに視線を向けたが、私の訪問を不快に思っていないように思われた。アリ・マナハは、私のあいさつに丁寧に答えると、こう尋ねた。
「また喜捨をしてくださるのですか?」
「まだ分かりません。あなたのことを何と呼んだらよいか、教えてください。アリ・マナハ・・・あるいはエン・ナスルですか?」
この言葉を聞いたとたんに、修道僧は長椅子から立ち上がるや、私のすぐ近くに飛んできた。そして心配そうに、ささやいた。
「しっ! ここではだめです。墓地へ出てください。すぐに私も行きますから」

私はこの勝負に勝ったと思った。修道院の建物を離れると、中庭を通ってから、格子戸をくぐって、墓地へと足を踏み入れた。
そこには、修道僧が百人近く休んでいた。彼らは踊りが終わったのだ。彼らの近くには、ターバン状の装飾が付いた墓石が立ち並んでいた。彼らの遊戯時間が終わったのだ。
そうした墓石の中に入りかけた時、例の修道僧がやってくるのが見えた。彼は敬虔な祈りを続けながら、人々がいない方向へ歩いて行った。私もそれに従った。やがて二人は落ち合った。」

そのあと主人公カラ・ベン・ネムジは、この修道僧とのやりとりの中で、追跡している悪党の親分アブラヒム・マムールが、彼の「師」であることを確認する。そして彼の父もアブラヒムの腹心であることも知った。さらにこの悪党の親分が略奪した大量の宝石類を、ガラタ塔の中の安全な場所に移したことを、修道僧の口から聞き知った。

このあと物語の舞台は、その修道院からあまり離れていない、イスタンブールの名所のひとつであるガラタ塔へと移る。つまり主人公は、馬にまたがって、そのガラタ塔へと急いだのである。

「私はあたりかまわず人ごみの中へ突進し、人垣を潜り抜けて、内部へと押し入った。すると目の前に、二人の人間の身体が、見るも無残な格好で横たわっていた。このガラタ塔の展望台の高さは、四十四・五メートルであった。そんな高さから落下したら、人間の身体がどうなるか、およそ想像できるであろう。・・・・
私は塔のほうに進んで、中に入った。チップをあげて、塔をあがる許可を得た。私はまず下の五つの階の石段を駆け上がった。それから木の階段を三つあがって、喫茶ルームにたどり着いた。そこにはサービス係りがいただけで、客は一人もいなかった。それまでに合計百四十段、上がったことになる。そこからは梯子を四十三段あがって、鐘楼に着いた。
そこはブリキで覆われていて、とても急傾斜だった。そしてそこから展望台へと跳び上がった。そして周囲五十歩ほどの回廊を、私は慎重に動いて行ったが、死者が横たわっていた側に、たくさんの血痕を見つけた。彼らが落ちる前に、争いが行われたことを、立証するものであった。
この高さで取っ組み合いが行われ、まっさかさまに地上へと落ちて行ったわけか」

この取っ組み合いの相手は、主人公と行動を共にしていたが、しばらく別行動をしていたオマールというアラビア人であった。彼は、父の仇敵アブラヒム・マムールを追跡してきたわけであるが、このガラタ塔でその仇敵を見つけて、激しい格闘をしたのちに、塔の上から相手を投げ落としたのだ。

<私の旅行記の記述>

私は2018年5月13日から19日まで、「山田寅次郎が愛したイスタンブルを訪ねる」と称する、山田寅次郎研究会の記念ツアーに参加した。この人物は明治中期に、当時のオスマン帝国に長期滞在し、商売を営む傍ら、まだ国交のなかった日本からの訪問客の世話をして、一種の「民間大使」の役割を果たしたのであった。

このツアーを主催したのは、山田寅次郎のお孫さんにあたる和多利月子さんとそのご主人の浩一さんであった。和多利夫妻は、神宮前にあるワタリウム美術館を経営していて、これまで数回、山田寅次郎研究会を開催し、私はそれに二回ほど参加したことがある。

私はこの時の旅の記録を、備忘録のつもりで、毎日の日記の形で残し、メールで親しい人々に伝えた。今回はその記録の中から、カール・マイ冒険物語に関連した部分だけを抜き出して、ここに記すことにする。

「次の予定まで2時間半ほど時間があったので、ガイドのフーリエさんに相談して、単独行動として比較的近くにある<ガラタ・メヴラーナ博物館>へタクシーで出かけた。道路の渋滞が心配されたが、幸いホテル前に駐車していたタクシーの運転手は良心的で、狭い抜け道を通って目的地のすぐそばまで連れて行ってくれた。

そこは博物館と称しているが、もともとは1491年に創立されたメヴレヴィー教団の修行場の一つなのだ。いわゆる踊る宗教で、白いマントに身を包んだ数十人の男たちが、マントの裾を翻しながら、くるくる旋回していくもので、私は30数年前にイスタンブールの広場で、その旋回舞踊を見たことがある。そしてまた一昨年には、東京の能楽堂の舞台でも、この踊りは見ている。

博物館前に立つ、旋回舞踊のショーに関する英語の掲示

今回訪れた所には、旋回舞踊のための八角形の舞台が設置されていて、週に1回ほどその公演があるという。また公演の際に用いる笛(ネイ)や太鼓(ラデュム)などの楽器や踊る人の衣装なども、展示されていた。この旋回舞踊の教団に強い関心を持っているのは、私が翻訳してきた「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」の第6巻『バグダードからイスタンブールへ』の中に、この教団に関連した話が、たくさん出てくるからだ。

旋回舞踊のための八角形の専用舞台

第6巻の174~178ページまでの叙述は、先に紹介したとおりであるが、それに関連して私は日記の中に、次のように記している。

「・・・この後、旋回舞踊が始まり、その様子がかなり詳しく叙述されている。その叙述の中身はとても詳しいが、私が先に見た二回の旋回舞踊とほぼおなじである。つまり舞踊そのものは、どこで踊ろうとだいたい同じものであろう。ただその踊りが行われる専用の舞台を今回見ることができ、私は満足したわけである。

博物館の本館前の中庭に接している墓地の内部

ついでに言えば、敷地の中に墓地があって、今回その中に入ることができたが、物語の主人公が、旋回舞踊を行った修道僧(実は悪党団の一員)と、この墓地で密会するわけだ。私が実際に見た、墓石が立ち並ぶ墓地のたたずまいは、マイの物語に描かれたものと、そっくりであることを、その時知って、一種の感慨を覚えた。

全体として、作者カール・マイの叙述が、19世紀後半の教団の建物を忠実に再現していることを、今回の探訪で確認することができた次第である。

<ガラタ塔に上る>

第6巻『バグダードからイスタンブールへ』の中の第7章「ガラタ塔にて」の242~243ページにかけて、主人公がガラタ塔を大急ぎで上っていく場面が
描写されている。

それに関連した私の日記の記述を次に記すことにする。

「やがてそのジュウタン店を辞し、ガラタ橋の近くの新市街へ移動。カラキョイ駅から丘の上まで通じているフニクラというレトロな登山電車に乗り、テュネル駅で下車。そこは私が昨日訪れた<ガラタ・メヴラーナ博物館>のすぐ近くにあり、イスティクラール通りの南端にあたっていたのだ。それはともかくガイドのフーリエさんに導かれて、狭く曲がりくねった石畳の坂道を降りて行ったが、やがてめざす<ガラタ塔>の前に着いた。

ライトアップされたガラタ塔

そのころには日もとっぷり暮れて、塔はライトアップされていた。ここも観光の名所で、日中は塔に上るのに長い行列ができるというので、わざわざ遅い時刻にここへやってきたわけだ。そのおかげで待ち時間も短くて済んだ。高さ67mであるが、丘の上に立っているので、かなり遠いところもよく見え、新市街のランドマークになっているのだ。エレベーターで最上階まで行き、さらに螺旋階段を上がって、地上53mのテラスに出た。狭いテラスは人々でいっぱいで、動きにくい。しかし360度のパノラマ風景は、やはり素晴らしい。眼下の金角湾とそこにかかるガラタ橋、アタテュルク橋から、対岸の旧市街の丘の上に広がっているトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルー・モスクそしてスレイマニエ・モスクなども、一望のもとに、光り輝いている。

夕暮れ時、ガラタ塔から見たガラタ橋など

ドイツの冒険作家 カール・マイ(03)

 冒険物語の足跡をたどって(1)

ドイツの冒険作家カール・マイは、その生涯に数多くの作品を残したが、主たる物語の舞台は、地中海周辺の中近東地域であった。それらの地域を舞台に展開される物語が、ドイツ語の原作では全6巻の、私が翻訳した日本語版では全12巻のシリーズを構成している。そしてそのシリーズのタイトルは『カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く~』である。

内容的には、ドイツ人の英雄カラ・ベン・ネムジがアラビア人の従者ハレフを伴って、その広大な地域を移動しながら、数々の冒険を繰り広げていくというものである。この作家は、今から百数十年前、書斎に集めた膨大な資料を基にして、物語を書いた。そうした物語に組み込まれた、それぞれの地域の地形や自然景観、そこに住んでいる人々の風俗習慣や宗教事情などに関する緻密な描写が、彼の作品全体の大きな特徴になっているのだ。

そこで私としては物語の舞台になっている場所を、実際に訪ねてみたいと思うようになった。しかし全12巻の物語の舞台はとにかく広大である。主人公と従者の旅は、北アフリカのチュニジアから始まって、エジプトのナイル河地方から、アラビア半島にあるイスラム教の聖地メッカを経て、ティグリス・ユーフラテス両河地域のバグダードへと移る。そしてさらにイラク北部にあるクルディスタンの山岳地帯での冒険を経て、シリアの古都ダマスクスに滞在する。

そのあと一行は、レバノンから船でオスマン帝国の首都イスタンブールへ移る。そしてオスマン帝国の二番目の首都であった古都エディルネに滞在するところから、物語は後半に入る。そこではバルカン半島南部の地域が舞台となっている。現在の地域でいえば、まずブルガリア南部であるが、そこから主人公一行は、うわさに聞くバルカン・マフィアの大親分を探し求めて西へとむかう。そして一行はマケドニアを経てアルバニアに到達し、そこでその大親分を打ち取ることに成功する。そのあと主人公は故郷ドイツへ戻るために、アドリア海に出たところで、この長い,長い物語は完結するのだ。

そんなわけで、一口に物語の舞台を訪ねるといっても、そのすべてはおろか、ごく一部の地域にしか行けないことは、最初から分かっていた。それでもそれらの場所が現在どうなっているのか、私としてはどうしても自分の目で確かめてみたいと思うようになった。そこで何度かの海外旅行を、そのために利用することにしたわけである。そして物語の叙述と現実の場所とを比較して、検証することにした。

チュニジア旅行(2009年12月)

<物語の叙述>

第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』の第2章「死の騎馬行」の舞台は、北アフリカのチュニジア中部にある大きな塩湖(塩砂漠)である。その南側はもう、広大無限ともいえるサハラ砂漠に接している。そのあたりの地形について、物語では、次のように描写されている。(37ページ)

「アウレ山脈の南面とこの山塊の東に続く支脈の麓には、あちこちに、ゆるやかに波打つ丘状の平野が広がっている。そしてその一番低いところに、昔は大きな湖であったが、歳月とともに干上がって、今では塩分が乾燥して固着し、残ってできた、いわゆる塩砂漠が横たわっている。この塩砂漠は、アルジェリアとチュニジアの両国にまたがっている。・・・・・

この窪地の大部分は、今日、大量の砂で埋まっており、わずかに中央の部分に、水が溜まっているにすぎない。表面を覆っている、堅く乾いた泥は、十センチから二十センチの厚みだ。そうした所を、生命の危険なしに、進むことは非常に難しい。
ひとたび風が吹けば、たちまち道は砂塵によって埋められてしまう。そして深淵は犠牲者を、ひとのみにする。・・・この、幾多の生命をのみこんできた、陰険で残酷な塩砂漠の表層は、青白く光る鉛色の海面のように見える。
さて、このような恐ろしい、しかし普段は穏やかに静まり返っている塩砂漠が、我々の左手に現れたのである。」

このあと主人公のカラ・ベン・ネムジと従者のハレフは、道案内のサデクに出会う。そして彼の案内で、一行は、塩砂漠の真ん中を通っている、一本の細い道を進んで行くのだ。

「今や我々は、横幅がわずか二十五センチという狭い道にさしかかったが、この糸のような道が、二十メートルにわたって続いているのであった。
『先生、気をつけて! わしらは今、死の真っただ中にいます!』と、道案内人が叫んだ。サデクは進みながら、顔を東方に向け、コーランの第一章を、大声で唱え始めた。・・・・
ハレフは、私の後ろで、この祈りに加わった。しかし突然、二人の声が同時にやんだ、突如として起こった銃声とともに、道案内人のサデクが両腕を大きく開いたかと思うと、大きな叫び声をあげた。と見る間に次の瞬間には、彼の身体はずるずると下のほうに沈んでいった。そして塩の地盤の下に消えたかと思うと、その地盤は再び頭上で閉じてしまった」

実はこの少し前に主人公と従者は、人殺しの悪党二人に会い、その悪事を追求していた。しかし確かな証拠が見つからなかったので、その悪党を見逃した。そして彼らは一歩先に、別の案内人とともに、その狭い道を進んでいて、振り返って主人公一行を狙って銃撃したのだ。その際、主人公と従者は、九死に一生を得たのであった。

<私の旅行記の記述>

私は2009年12月、あるパック旅行に参加して、チュニジアを旅行した。その旅は北部の地中海沿岸に面した首都のチュニスを起点にして、バスでこの国の北部から中部にかけて、移動しながら、歴史的遺跡見学を中心にして、狭いながら変化にとんだ地域を見て回るというものであった。この国の南部は、すでに広大なサハラ砂漠の一部になっているため、見学の対象外であった。

チュニジアという国は、面積が日本の約5分の2という小国ながら、その自然は多様性に富んでいる。またその歴史も、紀元前800年ごろのカルタゴ時代に始まって、古代ローマ、ビザンツ、さらに紀元7世紀以降は長いイスラム時代が続いた。そして1881年以降のフランス保護領時代を経て、1956年に独立した。今では人口約一千万人で、95%がアラブ人で、イスラム教が国教となっている。

我々が旅行した2009年は、あの「アラブの春」という運動がおこる直前の時期で、観光に力を入れているこの国の治安はよかった。その後、日本人も巻きこまれたテロ事件が起きたりしているが。
さてチュジジア国内4泊5日の旅は、首都のチュニスを起点としたバス旅行であった。まず東部の地中海沿岸にあるスースというイスラム旧市街を見て、海岸あたりで多くの欧米人が訪れるビーチ地区で泊まった。次の日は西南方向に進み、延々と続くオリーブ畑を横目で見て、内陸部にあるスベイトラで、ビザンツ時代の遺跡を見学した。その後は、アルジェリアとの国境近くの山脈を右手に見ながら、バスは進んだ。この辺りになると、中東地域特有のナツメヤシの林が続いている。

そしていよいよ待望のジェリド塩湖が現れた。先に述べたカール・マイの物語の舞台である。物語では、「塩砂漠」と訳したが、湖が干上がって塩の層になった上に、砂漠から吹いてくる砂で表面が覆われているために、そのように訳したのである。周辺のいくつかの塩湖を含めて、現在、その面積は五千平方メートルである。そしてその南側は、広大無限ともいえるサハラ砂漠の入り口になっているのだ。

ジェリド塩湖内の一本道の途中にある土産物屋

マイの物語に登場し、先ほど紹介した冒険の舞台となっている危険な一本道は、現在では、全長96キロの、舗装された直線道路になっていた。我々一行も、バスでこの道を走った。途中には道路沿いに、数か所、土産物屋兼休憩所があった。一行はその中の一つで下車し、周りを見て回った。
夏には水が干上がって、塩の層と土がまじりあった姿を呈しているという。だが、我々が旅行した12月は雨期なので、水がかなりあるのだそうだ。この日は晴れていたが、休憩時間中、同行の観光客たちは、舗装された道路から湖辺に下りて行った。そして広漠たる塩湖の先を遠望したりしていた。

湖のほとりには、茶色や青色、緑色、バラ色などに変色して、キラキラ光っていた大きな塩の結晶が見えた。それらは一口に『砂漠のバラ』と呼ばれていて、土産物屋で売っていた。私は、記念にその結晶数個とナツメヤシの実を一緒に買った。
長らく知りたかったジェリド塩砂漠の現在の姿を、ともかくこの目で見届けることができて、私としては満足した。

ちなみにナツメヤシの実は、中東一帯では昔から隊商などが旅する時の携帯用の常備食になっているのだ。一日7個食べれば、カロリーの点では十分なのだそうだ。そういえば古代メソポタミアのことを記した文献や読み物の中にも、ナツメヤシはよく登場している。悠久の時の流れの中で、こうしたものは変わっていないのだ、との感慨しきりである。

この休憩の後、バスは東南の方向に走り、次の宿泊地へ向かった。途中、ナツメヤシの樹にたわわにぶら下がった実の塊が、ビニールの袋をかけられて保護されている景色が見られた。11月、12月が収穫の時期なのだそうだ。塩湖の東にあるドゥーズの町のホテルには、日がとっぷり暮れたころ到着した。
ここはもう、サハラ砂漠の入り口に近いそうで、ホテルの中は砂っぽく、洗面台やふろ場の蛇口から出てくる水は塩分が強いので、直接飲むことはできない。夏のシーズンには観光客で混雑するそうだが、12月の今は人が少なく、快適だ。ついでながら、ドゥーズ(Douz)という町の名称は、保護領時代のフランス軍第12(douze)連隊が駐屯していたことから、付けられたのだという。

エジプト~ナイルの船旅~(2018年2月)

<物語の叙述>

第1巻『サハラ砂漠からメッカへ』の第4章「アブラヒム・マムールの手中で」、第5章「素晴らしいめぐり合わせ」及び第6章「ハーレムからの誘拐」の舞台は、ナイル河流域である。その発端部分の記述は、以下のようになっている。(87ページ以下)

「それは、焼けつくような太陽の光がナイル流域の国々を照らし、その酷熱に耐えられなくなった人々が、憩いと冷気を求めて光をさえぎってくれる屋根の下へと逃れる時刻であった。・・・・我々は、トリポリタニアとクファラ・オアシスを通ってエジプトにやってきたのだ。・・・・我々はまず、エジプト人が単に都と呼んでいるカイロの町を訪ね、そこからナイルをさかのぼってケルタシにたどり着き、そこで一軒の家を借りたわけである。」

このエジプトで、ドイツ人の主人公カラ・ベン・ネムジは、医者として近隣の人々の病気を治療していた。その名声を聞きつけた地元の有力者アブラヒム・マムールは使いの者を派遣して、自分の妻の病気を治してほしいと要請した。その使者は主人公に対して、次のように言った。

『わしの主人のご一家あげて心を痛めることが起こりましただ。と申しますのは、主人が心の底から愛されているお方が、死の影に取りつかれているからでごぜえます。どんな名医も、どんなお坊様も、病の進行を抑えることはできませなんだ。その時、死神もその声を聞けば逃げていくといわれる、あなた様の評判が主人の耳元にも届きましただ。そこで私を使いに出して、わが麗しの花のかんばせから、死神を追い出してくれと申すのでごぜえます』・・・・

『お前の主人が住んでいる場所を知らないのだが、ここから遠いのか?』

『わしの主人は河べりに住んでます。ですから舟に乗っていけばいいのです。一時間ぐらいで、向こうに着きまさあ』

『それで、帰りは誰が私を送ってくれる?』

『わっしが』

『そうか。では行こう。外で待っていろ!』

ハミドは下がった。私は立ち上がって、上着をひっかけた。それから、アコニト、硫黄、その他いろいろな薬品や道具の詰まった救急医療箱をつかんだ。そして5分後にはもう、4人の漕ぎ手の漕ぐ小舟に乗っていた。私は小舟の中で考えに沈んだが、ハレフのほうはトルコの司令官パシャのように、ふんぞり返っていた。腰の帯には、カイロで贈り物としてもらった銀の留め金つきのピストルとキラキラ輝く短刀を差し、手にはカバ製の鞭を持っていた。この方はエジプト人に、怖れと尊敬の念を持たせるための不可欠の小道具であった。

むっとする周囲の熱気は愉快なものではなかったが、上流から吹く風がその熱気を和らげてくれた。
舟は、岸辺に茂るさまざまな灌木やヤシの樹、しゅろの樹などが見事に広がった一帯を過ぎていった。また昔の遺跡の数々が姿を見せては、視界から消えていった。そしてやがて川幅が狭くなり、両岸が互いに迫ってきた。両岸の岸壁は、花崗岩でできていることが分かった。流れも速まってきた。この辺りは数キロにわたって、バブ・エル・カラブシャと呼ばれる峡谷となっている。そしてその始まりのところに、四角い壁のような建造物が建っているのが目に入った。
その建造物に近づくと、実はそれが水門であることが分かった。そこから狭い運河が一本通じていたのだ。そしてその運河は一軒の家に通じていた。ハミドは我々を先導して、四角い壁に接近して、その入り口のところで、戸を開けるようサインを送った。」

以上の叙述から、主人公が借りていた住まいから地元の有力者の屋敷まで、途中のナイル河の様子がよくわかる。
そしてこの後、地元の有力者アブラヒム・マムールという男が、実は悪党の親分であることや、病気の妻と称する女が、この男にむりやり妾にされ、いやでいやでたまらずに、体のほうも痩せ衰えていることが判明する。そのため主人公はこの若い女性を、ナイルのほとりにある「ハーレム」から助け出す決心する。そして彼女の救出のために、いろいろな冒険をするのだ。

その間、主人公はこの女の婚約者であるイスタンブール出身の若き商人イスラと知り合い、自分の体験を話して聞かせる。その結果、この男は主人公についてアブラヒム・マムールの屋敷に忍び込んで、ついにその婚約者の女を、「ハーレム」から救出することに成功するのだ。その後の叙述は、次のようになっている。

「彼らは自分たちの舟が置いてある運河のほうへ、いっせいに走り出した。真っ先にそこに駆けつけたアブラヒム・マムールは、小舟が消えてしまっているのを見て、がく然とした。
その間、我々を乗せたボートは静かな水面を滑るように進み、広々としたナイルの流れに出て行った。ハレフとドイツ出身の床屋が舟をこいだ。私はアブラヒムの小舟から盗んでおいたオールをつかんだ。イスラも同様にした。こうして舟は前よりもスピードを上げて進むようになった。・・・・
この夜の冒険はとても時間がかかった。そのため空は次第に赤みを増し、霧のないナイルの川面は、ずっと遠くまで眺め渡すことができた。アブラヒムが召使いたちと一緒に、岸辺に立っているのが見えた。」

この後主人公一行は、知り合いのハッサン船長所有の帆船に乗せてもらって、下流へと移動した。そして次の描写となる。

「もうだいぶ以前から我々は、水面が激しい勢いで泡立ち始め、岸辺に向かって怒涛の勢いで押し寄せていくのに、気が付いた。我々は、ナイル河の船舶航行にとって大変障害となっている激流に近づいていたのである。・・・・ナイルを航行する船の上で指令を発するのは、ヨーロッパの舟の中のように静かにはいかないものである。
南国の人々の熱い血潮が乗組員の体内にもみなぎっているためか、人々は極端なまでに過大な希望を抱いた後に、突然深い破滅と絶望の淵に落ち込んだのである。船乗りたちは互いに争い、叫び、わめき、吠えるかと思うと、ただひたすら祈りをささげる者も中にはいた。」

<私の旅行記の記述>

私は2018年2月、やはりパックツアーに参加して、ナイルの船旅を行った。その旅は「エジプト・ナイル河クルーズ8日間」というものであった。東京からカイロまで14時間の長旅で、そこで乗り換えて、ナイル河中流域のルクソールまで、ローカル航空の飛行機で飛んだ。
カイロ空港に到着してから、はじめて参加者37人が一堂に会した。そしてルクソールに移動してから、バスによる観光ツアーが始まった。ルクソールはすでに気温が高く、2月中旬なのに初夏のような感じで、南国に来たという実感がわいてきた。12月から2月までが、エジプト観光のベストシーズンとのことだ。8月にエジプトの古代遺跡を見て歩いて、あまりの暑さに卒倒した人もいるそうだ。

このルクソール周辺には、世界遺産に指定されているような古代遺跡が数多く集まっている。それらの名前を数え上げていったら、それこそきりがない位である。
ただエジプトといえば誰もが思い描くピラミッドはここにはなく、もっと下流のカイロに近いところにあるのだ。その代り、少しでも古代遺跡に興味を抱いている人ならだれでも知っている、有名な<王家の谷>はこの界隈にある。

 

このツアーでは、数多くの神殿や王家の谷などを見物して回ったが、ここではそれらについてはいちいち説明しないでおく。観光1日目にカルナック神殿とルクソール神殿を見た後、一行は昼ごろ、ナイルの岸壁に停泊しているクルーズ船に乗り込んだ。その後、この船の上に4泊して、ナイル河を上流のアスワンまで、ゆっくり遡りながら、途中にある遺跡巡りをするわけだ。

ナイル河に浮かぶヨット。背後にアスワンの街並み

ナイルの川幅はかなり広く、水量もたっぷりしている。デッキは広々としていて、半分ぐらいに屋根がついている。夏の強い日差しを防ぐためのものであろう。そして寝椅子やデッキチェアーやテーブルなどが置かれ、人々が集まってお喋りをしたりしている。その中に知り合いの顔を認め、のんびりと午後のひと時を歓談して過ごす。
両岸の景色も刻々と変わり、背の高いナツメヤシの樹木や低い灌木の間に、牛や羊や馬の姿も見える。そして所々に民家やイスラム寺院やその尖塔(ミナレット)も散見する。ナイル河の川幅は、中流域でも広いが、場所によって中州や川中島がある。

マイの物語の中で、先に引用した「この辺りは数キロにわたって、バブ・エル・カラブシャと呼ばれる峡谷となっている」という叙述に出てくる場所は、現在の昭文社の地図には記載されていない。しかし物語の叙述から推測すると、第二次大戦後に建設されたアスワン・ハイダムによってナセル湖となった地域のようだ。この辺りはアブ・シンベル神殿のある地域で、かつては川幅の狭い峡谷があったといわれているのだ。この地域は、巨大ダム建設によって水没してしまったのであろう。

さらに物語の別の個所で描写されている激流については、アスワン・ハイダムが建設された第二次大戦後に先立つ古い時代のヨーロッパの地図に書かれているアスワン上流の瀑布のことだと思われる。その地図には、第一瀑布から第六瀑布(スーダン領にある)まで記されているが、今述べた激流は、たぶん第一瀑布(ダム建設後にはやはりナセル湖によって消滅)だと思われる。

アブ・シンベル神殿の外観

そういうわけで今回の私の旅では、マイの物語に出てくる場所は、残念ながら、見られなかったのだ。とはいえ我々が乗ったクルーズ船は、ナイル上流の大きな町アスワンにも停泊した。そしてそこからバスに乗りかえて、上流第一の観光名所アブ・シンベル神殿まで、片道3時間かけて見学に行った。この神殿は、アスワン・ハイダム建設の際に水没する運命にあったが、ユネスコの国際キャンペーンによって救済され、われわれ後世の人々はその恩恵を受けているわけである。

なお次回のブログ「ドイツの冒険作家カール・マイ(04)、冒険物語の足跡をたどって(2)」では、トルコのイスタンブールとエディルネを取り上げることにする。