文庫本の元祖『ドイツのレクラム百科文庫』(7)

第5章 第二次世界大戦後の歩み

3 百科文庫創刊百周年(1967年)以降

(1) 創刊百周年記念祭(1967年)

百周年記念祭の開催 

レクラム出版社は1967年11月10日、百科文庫創刊百周年にちなんで、大々的な記念祭を催した。西ドイツの代表的な報道週刊誌『デア・シュピーゲル』は、この時その特集記事の中で、「書籍産業の最も革命的な理念が百周年を迎える」と記した。戦後再建してほぼ20年経ったこの時点で、百科文庫は復刻版を含めて2100ナンバーに達した。このうちこのときまでに復刻されたものは約790ナンバー、新刊は1300ナンバーで、この時点での新刊の占める比率は62パーセントに達していた。

またこの記念すべき年には、1926年の例にならって、戦後発刊された2100ナンバーについて、<著者名・件名・見出し語総目録>が発行された。これは書籍販売者にとっても一般の読者にとっても、極めて便利な代物であったのだ。さらにこの年には年報「レクラム。百科文庫百周年」が発行されたが、ここには出版社の手になる百科文庫の歴史、数名の原稿審査員によるそれぞれの持ち分野のジャンルに関する業務報告、レクラム社の発展を示した年表などが収録されている。

そして同年11月10日には、シュトゥットガルト市内のヴュルテンベルク州立劇場で、百科文庫創刊百周年記念祭が大々的に開催されたのであった。記念公演としてレッシング作『ミンナ・フォン・バルンヘルム』が、初演二百年を祝ってハンス・バウアーの演出によって上演された。この祝賀会には数多くの作家や書籍業者そしてレクラム社の友人や協力者が集まり盛大に祝われた。レクラム社の当主ハインリヒ・レクラムは、そうした聴衆を前にして、同社の業務の輪郭について次のように語った。

「一つの記念祭は同時に回顧と展望を意味します。私たちは来るべき数年、数十年に取り組むことになりましたが、その際百科文庫のさらなる拡大に貢献すべき多くの計画を持っています。それらは19世紀的な教養理念の意味合いよりは、むしろ音楽や造形美術を含めた世界文学の広範なコレクションとなるべきものです。と同時に誰でも自由に利用でき、誰にでも入手できる古代から現代までを包含した巨大な閲覧式文庫という現代的な意味合いを持ったものとなるべきでありましょう。
今日では、人はもはや与えられた理想に従って人格形成をしようとはしませんし、してもらおうとも思っていません。人は出来事を知り、それを自ら検証しようとします。そして自分自身のイメージをつくろうとするのです。しかしそれには情報の源泉に自由に近づけることが必要です。
そこへの道を開くことこそが、わが百科文庫の任務なのです。私たちの仕事を規定しているのは、伝統主義ではなく、むしろ開かれた現代の意識です。しかしそれは伝統を否定するものではなく、伝統をアクチュアリティーの中に引き込み、それを未来のために活用しようとするものです。私は先ごろ、百年の重荷が私たちの肩にのしかかっているかと尋ねられましたが、私としてはありのままにこう答えます。否と!私たちは来るべき百年を楽しみにしているのです」

第二次大戦後のレクラム百科文庫刊行に関する理念としては、これ以上のものはないと思われるぐらい明確に語られたこの言葉に、筆者として付け加えるべきものはもはや何もない。

オフセット輪転機の導入と印刷能力の飛躍的向上

印刷技術部門では、従来の凸版印刷に比べ準備時間が短くて済み、印刷性能が良いオフセット印刷(平版印刷)の利用率が、一般的に高まっていた。レクラム社では最初1958年にオフセット全紙印刷機が設置され、その後もいくつか購入された。そして長い交渉の末に、マン社がレクラム社のためにオフセット輪転機を製作することになり、これが1969年に設置されることになった。その結果、印刷全紙に印刷し、折りたたみ、製本加工するまでの工程が一連の機械設備で連続して行えるようになり、文庫本の生産能力が著しく高まったのであった。こうした能率の良い生産体制のおかげで、レクラム社としてはその後数年間にわたるコスト上昇にもかかわらず、百科文庫の低価格をごくわずかな値上げで抑えることができた。

いっぽうこうしたオフセット印刷への転換によって、従来からあった百科文庫の古典作品の組版を、あらたにオフセット印刷用に組み替えねばならなくなった。これ自体当分の間、大変な作業であったが、レクラム社ではこの機会に古典作品の文献学的な見直しと編集の質の見直しに、本格的に乗り出すことになった。そしてこれに伴って、新たな企画が次々に打ち出されていったのである。

(2)教育目的を持った文学研究シリーズの刊行開始

<解釈と記録>シリーズ

第二次大戦後レクラム社が学校や大学への傾斜を強めていったことについては、すでに述べたが、そうした流れの中で1969年から<解釈と記録>シリーズの刊行が開始された。これはギムナジウム生徒、大学の文学専攻学生、文学関連の教師そして文学研究に強い関心を抱いている一般の読者に向けて、いわば百科文庫の本文への補完物として発行されたものである。そして重要な作家の代表的な作品を取り上げて、そこに登場する人物や事項について説明し、作品成立に関連した記録資料を提示し、テキストのヴァリエーションを示し、作品が与えた影響について記し、さらに作品研究の文献を掲載したものである。

このシリーズは百科文庫の特別シリーズとして、8101から8200までのナンバーが付けられ、表題の冒頭に<解釈と記録>を意味するドイツ語の略語であるEDがかぶせられた。1969年にゲーテの『イフィゲーニエ』及びシラーの『ヴィルヘルム・テル』の刊行によって始まったこのシリーズは、以後順調に発行が続けられ、1992年現在当初の予測を超え195ナンバーに達している。ここで取り上げられた作品は、数のうえでは18世紀後半から19世紀にかけての広い意味でのドイツの古典的な作品が多いが、20世紀前半ないし第二次大戦後の作品や、数は少ないが外国文学作品も含まれていて、バランスの良い構成となっている。

20世紀前半に活躍し、日本でもその名が知られた作家を見ると、表現主義の作家ゲオルク・カイザーの『朝から夜まで』、カフカの『変身』、ツックマイヤーの『ケーペニック大尉』、トーマス・マンの『トリスタン』『マリオと魔術師』『トニオ・クレーガー』『ヴェネツィアに死す』、ヘルマン・ヘッセの『デーミアン』『荒野の狼』などである。
次に第二次大戦後に目を向けると、スイスの劇作家マックス・フリッシュの『ビーダーマン氏と放火犯たち』『アンドラ』『ホモ・ファベル』、同じく劇作家デュレンマットの『貴婦人故郷に帰る』『ロムルス大帝』『物理学者』、ドイツ人作家ギュンター・グラスの『猫と鼠』、ウーヴェ・ヨーンゾンの『ヤーコブについての推測』などが収められている。
なお西ドイツの代表的新聞『フランクフルター・アルゲマイネ』はその文芸欄で、「レクラムは良いアイデアをうみだした」と、このシリーズを称賛した。

<二か国語対訳>シリーズ及び<授業教材用テキスト>

今取り上げた<解釈と記録>シリーズと同様の趣旨で、外国の文学や哲学作品を対象としたものが、<二か国語対訳>シリーズである。これは外国の作品に対応する形で、ドイツ語の翻訳を載せ、登場人物や事項への注、成立時期と出典に関する記述、作品の分析、文献の指示、あとがきなどを付け加えたものである。1970年にこのシリーズが開始されたときは、英語とラテン語のテキストに重点が置かれた。英語・英文学の研究は戦後重要性を増してきたイギリスという存在に対応したものであった。またラテン語は、一般にはもはや無縁のものとなっていたが、人文的な教養をなお重視する西ドイツのエリート社会では、学問・芸術の世界だけではなく、政財界やジャーナリストの世界でも必要なものであったのだ。この<二か国語対訳>シリーズはやがてギリシア語、フランス語、ロシア語、スペイン語へと拡充されていった。ただここに載せられたドイツ語の翻訳は、あくまでも原語での作品の理解を助けるためのものなので、直訳に近い形をとっている。つまりこれはギムナジウムや大学での文学授業の際の補助教材な意味合いを持ったものなのである。

このシリーズが発刊され始めた1970年には、百科文庫の中のシリーズを、表紙の色分けで区別する方式がとられることになった。つまり一般の文庫は従来通り、「黄色」、<解釈と記録>は緑色、<二か国語対訳>はオレンジ色、そしてこのあと1973年から始まった<授業教材用テキストは「青色」といった具合であった。

学校版の新シリーズ<授業用テキスト>は、学校での言語及び文学、歴史、社会科の授業用の教材として用意されたものであった。とりわけギムナジウム(9年制の中・高等学校)の5年生から13年生用のカリキュラムに対応した形で作られた。
このシリーズには9501から9600までナンバーが付けられ、<授業教材用テキスト>を意味するドイツ語の略語ATが表題の冒頭にかぶせられた。

哲学部門における新しい動き

戦後の百科文庫再建に当たって文学に次いで、哲学も大きな役割を果たした。初めは戦前の例にならって、十八・十九世紀のドイツ古典哲学とギリシア・ローマの古典古代哲学の復刻が中心になっていた。ところがこれらが一段落した1969年から70年のころになると哲学部門においても、従来なかった新顔が登場するようになった。それはアングロサクソン哲学とりわけイギリスの「日常言語哲学」であったが、これは日常言語の特性に着目し、その分析を通じて哲学的問題の解決を図ろうとする現代イギリス哲学の一つの流れなのであった。

この流派に属するライル、ムーア、アイアー、オースティン、ストローソン、クィーンといった哲学者の英語で書かれた著作が、ドイツでは初版本として翻訳されて百科文庫に収録されたわけである。これらの作品は大学の哲学ゼミナールを中心に摂取され、その周辺の知的サークルへと普及していった。これに関連して、ジョフリー・ワーノックの『二十世紀のイギリス哲学』という概説書も収録された。

その後1970年代の後半に入って、今度は現代ドイツの哲学作品が次々と百科文庫に収められていったのである。これは第二次大戦後に西ドイツで活躍した哲学者の思想を紹介するために、これらの人たちがいろいろな機会に発表してきた論文や講演を集めたものであった。ここに登場している哲学者の名前を次に列挙することにしよう。ハンス・アルベルト、ハンス=ゲオルク・ガダマー、パウル・ローレンツェン、ユルゲン・ハーバーマス、ヘルマン・リュッベ、オド・マルカルト、ヴォルフガング・シュテークミュラー、ハンス・レンク、リューディガー・ブープナーそしてギュンター・パッツイヒといった面々である。

(3)戦後の百科文庫の読者層

戦後におけるレクラム百科文庫発行の理念と読者層の変質

これまで述べてきたことで、レクラム出版社が第二次大戦後、戦前収録されていた作品の復刻と並んで、どのようなものに重点を置いて新たな文庫を制作してきたかということは、おおむねおわかりいただけたことと思われる。それはもはや十九世紀のフンボルト的な「自己形成のため」とか「一般教養の理念」に即した出版計画ではなかった。そしてそれはまた一定の社会形態を求めての規範形成とか、一つの教条的な枠組みつくりに適応しようというものでもなかった。戦後西ヨーロッパ社会との交流が盛んになり、国際化し、民主化され、同時に大衆化のさらなる進行と知の専門分化に直面した西ドイツ社会にあって、百科文庫のありかたもその影響を強く受けることになったようだ。その際戦前の百科文庫の理念とされてきた「一人の人間が広く百科万般の知識・教養を習得するための手段提供」といった意味合いは薄れ、それぞれの領域の知的・専門的な関心に広範に応えていく、という方向に向かったのであった。

こうした基本的な理念については、先に紹介した創刊百周年にあたってのハインリヒ・レクラムの挨拶のなかでも語られているところである。こうした知的・専門的多元性に寄与するために、英語やラテン語授業用の二か国対訳版、文学専攻者向けの「解釈と記録」、文学・歴史・社会科などを対象とした「授業教材用テキスト」、さらに造形美術部門でのかなり高度な「作品研究」なども刊行してきたわけである。

学校や大学への強い傾斜についてはすでに述べたが、ギムナジウムの生徒数や実科学校のカリキュラムを一瞥するだけで、百科文庫の読者が増大していることが分かる。第二次大戦後、社会の民主化と教育の機会均等の促進によって、西独でも、アメリカや日本ほどではないにせよ、しだいに高学歴化が進み、中等教育や高等教育を受ける若者の率は増大した。その意味で戦後レクラム出版社が学生・生徒への比重を増したのは、経営的な観点からも正解だったわけである。二十世紀初頭の文献学の学生数に比べて、1970年代の人文科学部門専攻の学生数は著しくふえている。それに伴って、例えばドイツ、イギリス、フランスなどの諸文学専攻の学生が、いかに多くレクラム百科文庫を読んでいるか、分かろうというものである。こうしてそれぞれ目標の定まった、しかし相対的に数の多い百科文庫購読者の層が生まれたのだ。

そして現代文化の特徴として、文学や芸術を理解するにあたっての高度の学問化や知性化ということがあげられよう。そのため百科文庫でもこれに対応して、それぞれの内容の文献学的な厳密さが増してきたわけである。十九世紀にあっては、百科文庫の創始者はその目標の一つに「知の民主化」を掲げたが、その後この目標はある意味で達成された。
そして今や読み書きができることは当たり前となり、一般的な教育レベルも向上した。しかし同時に文字メディア以外にもさまざまな誘惑が増大し、余暇の利用や娯楽の充足という面では、読書に頼らない層も増えてきた。こうしてテレビやオーディオ・ヴィジュアルあるいは雑誌や娯楽本などの享受で満足する広範な大衆層と、知的・文化的な欲求を強く持ったエリート層との二極分化の中で、百科文庫は後者を主たる読者層に定めたのであった。

この層に属している人々は、今や機能的な性格を持つようになった現代の教養概念に基づいて、芸術、文学、哲学に関心を定めているわけである。そして現代社会を支配しているかに見える科学技術の力に対して、いわば心理療法的な立場から釣り合いをとるものとして芸術を受け入れ、また工業的大衆社会の内部で、個人的な特徴を示す必要から、精神的ないし美学的な要素を尊重するわけである。

これに対して現代を見つめことだけで満足しようという過激な反歴史主義的な挑発の声も、レクラムのもとに届いた。これに向かっては、レクラムは過去なしには現代なく、伝統なしにはいかなる精神生活も文学もあり得ない、という立場に固執した。そしてその例証として、その例証として、戦後の西ドイツの社会にあっても、その文化活動が伝統に基づいていることを、具体的な事例を挙げて説明している。

(4)東独のレクラム百科文庫

この項目については、筆者の手元にある資料がごく限られているため、伝えるべき事柄も極めてわずかである。
それはともかくとして、1950年に第3代当主エルンスト・レクラムが東独領となっていたライプツィッヒを離れた後、レクラム出版社は東独政府の信託下に置かれることになった。そしてこの当主が死亡した1953年にハンス・マルカールトという人物が主任原稿審査員として入社し、以後この人物が次第にライプツィッヒ・レクラム社を牛耳っていくようになった。そして1961年にはマルカールトは東独政府から、同社の指導を任されることになった。
彼は後に1967年に発表した『伝統と再生。1945年以降の百科文庫の歴史』の中で、「エルンスト・レクラムが死亡した1953年が本当の出版活動の開始の年であった」と述べている。そしてさらに「当文庫は社会主義的なポケットブックになっていくべきであり、党と政府の強力な支援がなかったならば、活動を始めることは出来なかったであろう」と付け加えている。そして文化省の内部に出版販売局が創設されたことを歓迎し、それによって「文学普及に責任を持ったすべての施設の緊密な協力と調整のための組織上の前提が生まれ、これによって百科文庫もドイツ民主共和国(東ドイツ)の文化政策にしっかりと組み込まれた」としている。

この論文によれば、さらに1963年には「働く読者から社会主義的なポケットブックに向けられたより高度な要求に対して、伝統ある叢書をもって答えるために」百科文庫の改編が行われたという。それに伴ってこの年から新しい番号制度が導入され、その判型も従来のものよりやや大型のタテ16・5センチ、ヨコ10・4センチに変更され、グラフィック部門から発展した大印刷工場で印刷されることになった。
ちなみに筆者が1974年に東独のライプツィッヒの書店で入手したレクラム百科文庫(LessingのNathan der Weise: レッシング:賢者ナータン)が、このサイズのものであった。

18世紀のドイツ啓蒙主義作家レッシング作『賢者ナータン』の表紙

ライプツィッヒ版百科文庫は東独の党と政府の全面的な支援を受けて、東独の他の出版社から自由にライセンスが得られたほか、隔離されたその市場で自由に販売することもできるなど、支配的な地位を占めたのであった。そのうえ東独は名だたる読書国でもあったため、かなりの出版活動ができたことと思われる。その際当然のことながら、社会主義的な文庫であることを要請された百科文庫は、政権党であった社会主義統一党の大会によって規定された、その時々の文化政策の影響もうけたこととおもわれる。しかしそうした制約の中でも、編集者には一定の自主性も許されたかも知れない。ただこうしたことを実証するための資料が筆写の手元にないので、これ以上のことを述べることはできない。

(5)1978年から1992年まで

レクラム出版社創立百五十周年

1978年レクラム出版社は、創立百五十周年を迎えた。この時は特に大々的な記念祭はなかったようであるが、その代わりにアントン・フィリップ・レクラムによる創立(1828年)から1978年までの同社の発展について、豊富な資料と写真を交えた詳細な出版社の歴史が刊行された。『レクラム百五十年.資料、図版、記録に見る出版社の歴史』と題するこの書物は、上等なアート紙を用い、写真や図版をふんだんに使って、部外者にとっても、思わず手に取って読んでみたくなるような視覚的な工夫も凝らした本である。260ページに及ぶこの書物は、当時レクラム社の近代ドイツ文学担当の原稿審査員を務めていたディートリヒ・ボーデが編集したものである。編年体でレクラム出版社の活動と百科文庫その他の出版物の発展ぶりを叙述したものである。

これは普通の会社の社史によくみられるような、ただ分量ばかり多くて部外者にとっては退屈な内部事情や内部の人事についての記録といったものではない。その時々の社会や文化あるいは出版界の動きなどとの関連のもとに、同社の主要出版物である百科文庫の発展を中心に、いきいきとした叙述が展開されているのだ。その意味で筆者としても、おおいに利用させてもらったもののひとつである。

社屋の移転とハインリヒ・レクラムの死

第二次大戦後シュトゥットガルト市中心部の中央駅近くに社屋は、1961年に増築が行われた。しかしその後の業務の発展に応じて再び手狭になってきたため、1980年にはシュトゥットガルト市郊外の小都市ディツィンゲンにあらたに社屋が立てられ、移転したのである。

ここもシュトゥットガルトと同様に、編集、営業部門と並んで、数台の大がかりな輪転機を据え付けた印刷・製本工場と在庫品を整然と保管する巨大な倉庫が大きな部分を占めている。建物の印象としては、第二次大戦以前にライプツィッヒにあった宮殿のような豪壮な社屋とは違って、質素でやや見劣りするが、明るく機能的な近代的設計となっている。

第二次大戦後、シュトゥットガルト・レクラム社を35年にわたって率いてきた四代目当主のハインリヒ・レクラムは、1984に死亡した。子供がいなかったこともあって、遺言により原稿審査員であったディートリヒ・ボーデ氏が、レクラム出版社の社長に就任した。こうして同社の最高責任者に、はじめてレクラム一族ではない人物が就任したわけである。しかしこの時点までに戦後のレクラム出版社の歩みは、すでに一つの伝統を形成するぐらい確固たるものになっていた。そのためこの時の最高責任者の交代によって、特に経営方針や編集方針が変わったという事はなかった。

ドイツ再統一と東西レクラム出版社の合併

その後数年にして、周知のように1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、翌年東西ドイツの統一が行われた。ドイツは19世紀の1871年に初めて統一されたが、第二次大戦の敗戦によって、連合国によって東西に分断されていた。そのため1990年の統一は、歴史的には再統一というわけである。

さて社会主義的なポケットブックとして東独の党と政府によって手厚い保護を受けてきたライプツィッヒ・レクラム社は、この激動の中で後ろ盾を失って、経営面でも編集面でも、大きな苦境に陥った。こうした中でシュトゥットガルトとライプツィッヒの両レクラム社は、話し合いを行うようになった。ライプツィッヒ・レクラム社はもはや社会主義的なポケットブックという性格を維持することは出来なくなった。そのため出版計画の変更を余儀なくされた。そして数度にわたる両者の交渉の末に、その出版物はシュトゥットガルト・レクラム社から発売するとともに、営業面でその支援を受けることが決まった。

そして東独の国営企業の民営化という一般的な動きの中で、西の信託公社の仲介もあって、ライプツィッヒ・レクラム社は、シュトゥットガルト・レクラム社から資金面での援助を受けて、出版物の面で競合しない形で、しかも人員削減と出版点数の削減という厳しい条件の下で、続けていくことになった。つまり両社は合併したわけであるが、実質的には、国家の場合と同様に、西による東の吸収合併なのであった。

1994年現在、ディツィンゲンにあるシュトゥットガルト・レクラム社には、出版部門で約80名、印刷・技術部門で同じく80名の従業員が、そしてライプツィッヒには編集部門などで必要最小限の従業員が働いている。ライプツィッヒで編集された本は、外部の印刷所を経てディツィンゲンの倉庫へきて、そこから書店や学校などへ発送されている。

百科文庫創刊百二十五周年

東西両レクラム出版社が合併した翌年の1992年、「レクラム百科文庫」創刊百二十五年を記念して、専門の研究者21名の25編にのぼる論文を集めた立派な記念論文集が発行された。これは『レクラム。百科文庫125年(1867-1992)。出版社の歴史ならびに文化史にかかわる諸論文』と題されたもので、今回もレクラム社代表のディートリヒ・ボーデの編集になっている。

これらの論文は、その副題から明らかなとおり、レクラム出版社並びに百科文庫について、文化史的な背景のもとに、作品のジャンル別の分析から時代ごとに特徴、あるいは装丁その他書誌的な研究に至るまで、総体としてとらえたものである。500頁に及ぶ、現時点におけるレクラム百科文庫研究の最高にして最大の水準を示す書物といえよう。

ところでこのブログの内容は、1995年12月に刊行された『レクラム百科文庫。ドイツ近代文化史の一側面』(戸叶勝也著、朝文社)に基づいている。その資料収集のために筆者戸叶勝也は、1994年夏にシュトゥットガルト近郊ディツィンゲンにあるレクラム出版社を訪れ、その文書庫に収蔵されている創刊時からその時点まで125年に及ぶすべての文庫本のバックナンバーや各種宣伝広告資料その他を閲覧したり、そのコピーを取らせていただいた。と同時に上記の論文集や第二次大戦中の1942年に刊行されたアンネマリー・マイナー女史の古典的な研究書『レクラム。百科文庫の歴史』並びにボーデ氏編纂になる『レクラム百五十年』(1978年)なども入手することができた。

さてこの年1992年には、1967年に発行された<件名・見出し語総目録>の後を受けて、その後25年間に発刊された文庫を付け加えて新たな総目録が発行された。ちなみに戦後シュトゥットガルト・レクラム社から発刊された百科文庫の点数を見てみると、1947年から1992年までの45年間に、戦前の復刻版が
1241ナンバー、戦後新たに編集された新刊が2812ナンバー、合計で4053ナンバーとなっている。新刊の占める割合はおよそ70パーセントである。