18世紀ドイツ啓蒙主義と文学市場の誕生

<啓蒙主義の影響>

ヨーロッパの十八世紀を特徴づける精神運動であった啓蒙主義は、ドイツにおいても、大きな影響を及ぼした。啓蒙主義はもともと社会に影響を及ぼすことに、その本質があった。そしてその目的を言葉や文字を通じて達成することができたのである。

その際できるだけ多数の人間に自分の考えを伝達することに、啓蒙主義者は強い関心を抱いていた。大学での講義、学問的サークルでの講演から、さらに広い層を対象とした報告と並んで、啓蒙的な内容の出版物の刊行を、そのための手段として彼らは利用した。しかしそれには一定の前提条件が必要であった。その際十七世紀から十八世紀にかけて、ドイツにおいて特徴的であった二つの読書形態が問題となる。

一つは宗教的なものと関連し、他の一つは一般的・世俗的なものと関連していた。そしてこの二つは、全く異なった機能を持っていたのだ。宗教的な書物、つまり聖書、祈祷書、説教書などを通じて、人は宗教的な感情が豊かになる。そのためにも人はこれらの書物を、繰り返し読む。ここでは集中的な読書法がみられる。それに対して世俗的な読書法は、情報の取得や娯楽の享受に仕えると同時に、非宗教的な感情を豊かにする。

啓蒙主義運動は、まさにこの第二の世俗的な読書形態の担い手を必要としていたのだ。啓蒙主義の初期つまり1720年ころまでは。世俗的な書物を読むことができる人は、ドイツではまだ極めて限られれていた。同時の代表的な読書階層は、学者ないし教養的職業人であった牧師、弁護士、医者、高級官僚などであった。それから大商人、中級・下級の官吏、宮廷貴族、将校などが続いた。これらの人々は、ドイツ全土に散らばっていたのではなく、主として政治、経済、文化の中心地、つまり宮廷都市、商業都市、大学都市などにかたまって住んでいたのだ。

初期啓蒙主義の時代の教養ある読書人の書斎

具体的には、主に北部及び東部のハンブルク、ライプツィヒ、ハレ、ベルリン、フランクフルト、ゲッティンゲン、ケーニヒスベルクなどであった。そのためこれらの都市を中心にして、啓蒙主義が広まったのであるが, その数はなお限られていた。それ以外の広範な地域にわたる農村地帯や、地方の小都市あるいは南部・西部の都市の住民、つまり農民や手工業者、小商人、賃労働者、あるいはカトリックの聖職者などは、本を読まないか、読んだとしてもほとんどが宗教書に限られていた。

<道徳週刊誌の普及>

ドイツにおいて啓蒙主義的な読書形態は、まず「道徳週刊誌」という形で現れた。これはイギリスにおいて1710年ごろに相次いで出された「ザ・タトラー」、「ザ・スペクテイター」、「ガーディアン」といった雑誌の影響を受けて、その直後から1770年ごろまで、ドイツ各地の都市で発行されたものである。

主として道徳的、教訓的な内容が盛り込まれていたためか、これらは「道徳週刊誌」という一般的な名称で導入されている。イギリスに近い北ドイツのハンブルクで、1713年に創刊されたものが皮切りになって、1746-50年の時期に頂点に達したが、その後は減少して、1770年ごろに本来の影響力を失った。個々の道徳週刊誌は短命で、局地的な読書層を対象としていた。しかしその数は、累計すると実に182点も発行されたのであった。

なかでも創刊号が、北ドイツのハンブルクで1724年1月に発行された『パトリオット』が、道徳週刊誌の代表的存在であった。

ハンブルクで発行されていた道徳週刊誌『パトリオット』の創刊号
(1724年1月)

 

道徳週刊誌の主な読者層は、大商人及び同じ階層の婦人であった。大商人は重商主義時代に自信を強めてきた大市民(ブルジョアジー)であった。彼らの精神や道徳を根底から支えていたのは、プロテスタントの労働倫理であった。そこでは節約の精神、勤勉、勤労観念、誠実さなどが、模範的な徳目として賞賛されていた。そのために収支計算、倹約、やりくり、商売繁盛などに関する記事が、当然のことのように道徳週刊誌をにぎわせていた。そしてその背後には、ドイツの初期啓蒙主義者ヴォルフの幸福の哲学などが底流として流れていた。

<啓蒙主義の第一世代>

啓蒙主義者が彼らの理念を印刷物を通じて広げていく過程で、世俗的な読書への関心を極めて明瞭な形で示していた読書階層が現れてきた。それは大学教養人の枠を越えて、大商人や官吏階級の人々にも及んでいた。たとえば1700年ごろのフランクフルトの大商人階級の書棚には、世俗的な書物としては、商業上の実用書、地理書、歴史書などが並び、さらに彼らの夫人や娘などが読んでいたと思われる料理の本、編み物の本、手紙の書き方、暦などの家庭で日常的に利用されていた書物もあった。このころのドイツの大商人や官吏階級ないしその婦女子は、もっぱら職業上ないし実用上の目的から書物を利用していたわけである。

ライプツィッヒで出版された料理の本(1745年)

ところがその後、道徳週刊誌などを通じて啓蒙主義者は、これらの人々に対して、商業道徳的な方面から、その教えを広めていった。つまり節約の精神や勤労観念に基づいた教えだったのだが、これらは商人階級の人々にとっても、容易に受け入れることができた。この階層は啓蒙主義の第一世代と名付けることができるが、その人々は大商人、高級官僚、卸売業者、マニュファクチャー主そして彼らの妻や娘などから成っていた。

やがて1750年ごろになると、大商人の家庭の本棚には、日常的な家庭実用書や職業的な実用書の類いでは、とりわけ百科事典や商業上の文献が増えている。またそこに見られる歴史書は、個々の事件や編年史などへの興味が増大している。そして一連の歴史小説は新しいドイツ文学の前身として注目される。またあらゆる種類の地理関係の本や、旅行・冒険に関する著作が、このころのドイツの大商人の家庭で好んで読まれていたのである。つまりこのころになると、百科全書的な興味からさらに一歩進んで、哲学的・文学的内容の書物まで読むための地ならしが出来上がったわけである。

次に、そのことに触れる前に、どのようにして読書する婦女子が登場するようになったのか、見ることにしよう。

<読者としての婦女子の登場>

もともと経済合理主義の立場から発生した市民的な一般道徳観念は、同じ階層の婦女子に対しても、模範にすべきものとして推奨されていた。その際女性特有の関心領域に配慮して、幸福な結婚生活、子供に対する実際的で有意義な教育、召使との良好な関係、社交サークルでの交際の仕方、といったことも道徳週刊誌の記事になっていたのだ。

そこではたとえば、放らつで、わがままな妻、専制的で思慮の足りない母親、無分別で軽率な女性などは、その主人や子供たち、あるいは召使などに対して、ふさわしくないとして非難された。その反対に、つつましやかで、教養のある娘にこそ、良い結婚のチャンスがくる、などとされていた。

ところがそうした道徳的規範の背後には、心の内面や信心を重視するプロテスタントの一派である「敬虔主義」の流れも、重要な役割を果たしていた。そしてその影響によって、世俗的ないし娯楽的な読書というものが普及しにくい面もあった。

そのために道徳週刊誌では、市民的道徳観念を生の形で出さずに、オブラートに包んで間接的な形で伝えるという工夫がなされた。つまり婦女子向けには、私ないし私たちという形をとって、語り手が読者に語りかけるような形式が取られたのだ。信心に凝り固まったり、あるいは宗教的な硬い衣を身に着けている女性たちの心を和らげるためにも、道徳哲学的内容を、いわば文学化した形で提供するやり方が生まれたのである。

読書をする女性

その結果、教育を目的とした新しい文学が誕生することになったのである。すでに古代や中世にも、教育(教訓)的な内容の文学は、重要な役割を果たしていた。しかし啓蒙主義の時代にそれは頂点に達して、ここに寓話文学が発展する基盤が生まれたわけである。ドイツの初期啓蒙主義の代表者であったゴットシェートは、1730年に『批判的詩文学の試み』という文学理論を発表したが、その中で彼は、詩文学にきわめて明瞭な形で、社会的要請を託しているのである。

ドイツの初期啓蒙主義を代表する人物、ゴットシェートの肖像画(1744年)

<啓蒙主義の第二世代の登場と文学市場の誕生>

18世紀の後半に入ると、啓蒙主義の第一世代の後を受けて、第二世代の人々が登場してきた。彼らは職業から見ると、学生、行政機関の若い事務員そしてその友人の女性たちであった。これら第二世代の周囲には、すでにいくぶん開放的な文学的雰囲気が漂っていた。

当時、啓蒙思想は定期的に刊行される雑誌の中で、詩文学の衣に包まれて、伝達されていた。またこの人たちは、ある程度娯楽的な読み物にも興味を示していた。かくしてこれらの第二世代の人々は、その後の世代の人々とともに、18世紀後半を通じて、世俗的書物や娯楽的書物を受け入れる主要グループを形成したわけである。

とはいえ、こうした新しい読書層の形成は、活発な啓蒙主義的文学プロパガンダだけによって行われたわけではない。その担い手となったメディアである出版物の生産、販売の領域における変化もまた、それに貢献したのである。というよりもむしろ、逆に読者層の拡大が、書籍の出版及び販売の側面に影響を及ぼしたといえるのだ。つまりこれらの二つの側面の相互影響の中で、新しい文学的発展への基盤が生じたわけである。ことばを変えて言えば、読書層の拡大と文学市場の誕生という問題が生まれたのである。

18世紀における読書傾向の世俗化を示す一つの手がかりとして、学者や宗教関係者の言葉であったラテン語の書物と、庶民の言葉であるドイツ語の書物の出版点数を比較する方法が考えられる。書籍見本市カタログに掲載された書籍によって、ラテン語の書物が占める割合の時代的変化をみてみよう。1650年にはまだ71パーセントを占めていたが、1740年には27パーセントに減少し、さらに1770年には14パーセントになり、1800年にはわずか4パーセントにまでなっているのだ。この数字は、書物が特権を持った少数者の道具から、母国語による大衆伝達手段に変わったことを如実に示しているのだ。

以上述べてきた読者層の著しい拡大と読書傾向の世俗化を指す言葉として、「読書革命」という事が、専門家の間で言われている。人々が広い階層にわたって読書するようになったことを示しているわけだが、この「読書革命」と並んで、「たくさん書くこと」も当時進行していた。つまり広い意味での「もの書き」(作家)の数が、このころドイツで著しく増大したのだ。1773-87年の15年間だけでも、その数は三千人から六千人にふえている。1790年にはドイツには平均して四千人に一人の割合で、著作者がいた計算になる。

ドイツにおける無名の読者大衆の成立については、当時の知識人からは一種の社会的事件として受け止められていたようだ。それは深く「集中的な」読書から、広く浅い「拡散的な」読書への移行を意味していた。

<読書クラブと貸出文庫>

次に世俗化され、量産されるようになった書物が、どのようにして読者のもとに届いていたのかを見てみることにしよう。書店で本を買う以外にも、行商人による個別販売など、古くから書籍の流通には、さまざまなやり方があった。ところが18世紀後半から19世紀にかけて目立つ存在になったのが、読書クラブと貸出文庫であった。

まず地方の名士や有力者に対する読書のための施設として、「読書クラブ」というものが18世紀後半になって現れた。これは元来フランスから来たもので、読書サロンといった高級な感じの施設であった。それでも同世紀の末にかけて、この読書クラブはドイツ全域で花開いた。そのうえこのクラブは単に書物を読むだけではなく、教養と財産がある人々が集まる一種の社交の場でもあった。人々はそこで新聞・雑誌や新刊書を読んでは、互いに意見を交換しあったりした。

そこでは啓蒙主義精神のもとに、新しい科学的知識や高級な純文学が話題になった。そしてさらにその場所は、「遊んだり、踊ったり、食事をしたりする所」としても利用されるようになった。こうした社交施設であったために、会費も見わめて高く、一般庶民にとっては高根の花であった。

これに対して広く国民各層が実際に本を読むのに利用したのが、貸出文庫であった。これは要するに、金をとって一定期間本を貸し出す貸本屋であった。18世紀前半にイギリスで生まれたものが、のちにフランスやドイツにも入ってきた制度である。あのルソーも子供のころにジュネーヴの悪名高い貸本屋から、よい本、悪い本取りまぜて、店にあった全ての本をクレジットで借り出して、一年足らずのうちにほとんどすベて読んでしまったという。

ドイツで貸出文庫が初めて話題になったのは、1768年ライプツィッヒのことであった。そして18世紀の末ころになると、この貸出文庫はドイツ全国に普及するようになった。このころになると、うまくいけば貸本業のほうが、書店で書物を売るよりもかえって儲かる、とも言われるようになった。ミュンヘン在住のリンダウアーの貸出文庫には、1801年には2500冊あったのが、5年後の1806年には4000冊にふえていた。また北ドイツのブレーメンの書籍商ハイゼが1800年に作った貸出文庫は、1824年には実に2万冊を越していたという。

この貸出文庫はそれ以後19世紀を通じてずっと存続することになるが、その形態は都市の規模や性格により、またその所在地によって、千差万別であったようだ。つまり様々な階層の人々がこの施設を利用したために、その対象によって、場末の薄汚い貸本屋から、立派な建物の貸出図書館まで、いろいろあったわけである。その意味では貸出文庫は、最も民主的な図書貸出施設であったといえる。

貸出文庫を訪れたのは、「読書する大衆」だけではなくて、上層の人々もいた。しかしそこに共通していたのは、貸し出されていた書物の中身が、主として小説か戯曲だったという点である。それも古典として後世に残るような高級な文学作品ではなくて、今日ではほとんど忘れられているドイツの大衆小説であった。さらにウォルター・スコットやJ ・F ・クーパーなど英米の人気作家の翻訳ものも混じっていた点が注目される。

ドイツの初期大衆小説の代表ともいわれるのが、ミラー作『ジークヴァルト』(1776年)であった。この作品は「お涙ちょうだい」的な感傷主義の小説であった。

ミラー作『ジークヴァルト』の表紙

ともあれ18世紀後半から末ごろにかけて盛んになってきたドイツの大衆文学は、その後19世紀を通じてますます隆盛を極め、20世紀に入ってからさらに読書層を広げていった。純文学の流れとは別に、ドイツにおいても大衆文学は、18世紀後半からずっと大きな文学市場を形成してきたのである。